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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 パプアニューギニアの地滑り 生き埋め2000人超に
2024-05-28 Tue 09:48
 今月24日にパプアニューギニア中部エンガ州で大規模な地滑りが発生。現地当局は、きのう(27日)、最新の被害状況として「2000人以上が生き埋めとなった」と明らかにしました。というわけで、お亡くなりになった方のご冥福をお祈りするとともに、可能な限りの生存者の救出と被災地の一日も早い復旧・復興をお祈りしつつ、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      パプア・警官(1932)

 これは、1932年にオーストラリア海外領土時代のパプアで発行された先住民の警察官を描いた5シリング切手です。

 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。
 
 なお、この切手については、拙著『切手もの知り図鑑 一番切手50のエピソード』でも“警察官を描く最初の切手”として取り上げております。同書を含め、日本郵趣出版から刊行の拙著につきましては、内藤総研の会員の皆様(無料登録会員を含む)を対象に、こちらでサイン本の販売を行っておりますので、ぜひご登録の上、ご利用いただけると幸いです。


★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★

 5月31日(金) 10:00~ ニッポンジャーナル
 インターネット番組「ニッポンジャーナル」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。皆様、よろしくお願いします。

 6月14日(金) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。

 よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00
 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。

 謀略の世界史 原則毎月第1土曜日 13:00~14:30
 MI6、CIA、モサドなど各国の情報機関のあらましや、現代史の中で彼らが実際に関与した事件などを幅広くご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。

 武蔵野大学のWeb講座 
 大河企画の「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」、引き続き開講中です。詳細はこちらをご覧ください。 

 「龍の文化史」、絶賛配信中です。龍/ドラゴンにまつわる神話や伝説は世界各地でみられますが、想像上の動物であるがゆえに、それぞれの物語には地域や時代の特性が色濃く反映されています。世界の龍について興味深いエピソードなどを切手の画像とともにご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。

 ★ 『切手もの知り図鑑 一番切手50のエピソード』 好評発売中!★

      切手もの知り図鑑 一番切手50のエピソード

 「動物と植物」「科学技術」「社会と文化」「神話/伝説と宗教」の4章立てで、犬、猫、宇宙開発、飛行機、クリスマスといったテーマで、初めて描かれた切手図案にまつわる秘話、思いがけない発行に至る背景に加え、シーラカンスやテレビ、警察官、タトゥー、髑髏といった、あっと驚く意外なテーマの一番切手も登場します!

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 パプアニューギニア独立記念日
2020-09-16 Wed 03:07
 きょう(16日)は、1975年9月16日にパプアニューギニア独立国がオーストラリアから独立したことにちなみ、パプアニューギニアの独立記念日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      パプアニューギニア・1952年1ポンド

 これは、1952年10月30日、豪委任統治領パプアニューギニアとして発行された最初の切手のうち、弓矢で魚を取ろうとする現地住民を描く1ポンド切手です。

 ニューギニア島は、1511年にポルトガルの航海士ダブロが“発見”し、1526年にはスペインの探検家メネゼスが最初に上陸。1546年にはスペインが島の領有権を主張したのをはじめ、1793年には英国東インド会社が島全体の領有を主張し、さらに、1828年には英国に対抗してオランダ東インド会社が島の西半分を領有するなど、列強の勢力角逐の場となっていました。

 ただし、各国による領有権の主張とは裏腹に、気候が厳しく天然資源にも恵まれない島の開発はなかなか進まず、19世紀までは“領有”は名目的なままに放置されたままでした。

 こうした状況の下で、1873年、ハンブルクの民間会社ゴーデフロイ商会が島に上陸し、マトゥピを拠点に交易を開始。1875年には、ドイツの軍艦“ガゼル”が近海の島々を探検し、1878年には軍艦“アリアネ”がビスマルク諸島ニューブリテン島の一部を原住民から購入しています。その後、ゴーデフロイ商会は経営難に陥ったため、1880年にベルリンの銀行家アドルフ・フォン・ハンゼマンが設立した“南洋商事会社”がゴーデフロイ商会の経営権を継承。1884年11月には軍艦“エリザベート”がマトゥピに寄港し、同地のほか、ビスマルク諸島やアドミラルティ諸島の各地にドイツ国旗を掲揚しました。

 これに対抗して、同年、英国もニューギニア本島南東部のポートモレスビーにユニオンジャックを掲揚。かくして、ニューギニア島は、オランダが西部を、東部ではドイツがほぼ北半分を、英国がほぼ南半分を領有することになります。

 このうち、英領部分に関しては。1901年のオーストラリア連邦の結成を経て、1902年にはオーストラリア連邦の支配下に置かれます。そして、1905年のパプア法成立により、英領ニューギニアはパプアと改称され、1906年以降、正式にオーストラリアの統治が始まりました。

 一方、独領部分は、1914年8月、対一次大戦が勃発すると、オーストラリア軍によって占領され、大戦後は国際連盟によりオーストラリア委任統治領のニューギニアとなります。

 こうしてニューギニア島東部はオーストラリアの管理下に置かれましたが、パプアとニューギニアでは別々の行政が行われ、切手もそれぞれ別のものが使用されていました。

 太平洋戦争の勃発後、1942年に日本軍がニューギニア島に侵攻すると、パプア、ニューギニアの双方でオーストラリアによる民政は途絶。その後、ポートモレスビーに司令部を置いた連合国は軍政を施行し、パプアとニューギニアではオーストラリア切手が共通に使われるようになります。

 そして、大戦後、オーストラリアはニューギニアの南東部と北東部を“パプアニューギニア”として単一の行政単位として統合。これを受けて、1952年に発行されたのが今回ご紹介の切手です。なお1953年3月1日までは引き続きオーストラリア切手も有効とされていました。

 その後、1964年の住民議会設置を経て、1973年に内政自治に移行。1975年9月16日、英連邦の一国として現在のパプアニューギニア独立国が成立し、現在にいたっています。


★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 9月18日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。


★★ Web講座のご案内 ★★

 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。


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 ラバウルで戦没者追悼式典
2020-08-16 Sun 02:36
 終戦の日の昨日(15日)、先の大戦中の激戦地、ラバウルで戦没者追悼式典が開かれました。ラバウルで日本の終戦の日に式典が開かれるのは、戦後75年を経て、今回が初めてだそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      パプアニューギニア・ラバウル(1963)

 これは、1963年2月13日、オーストラリア委任統治領時代のパプアニューギニア自治政府が発行したラバウルの風景の切手です。
 
 ラバウルは、パプアニューギニア・ニューブリテン島のガゼル半島東側、シンプソン湾に面した港湾都市で、1884年から1914年までの間、ドイツ領ニューギニアの一部として、シンプソン湾にちなんでシンプソンハーフェンと呼ばれていました。

 第一次大戦勃発後まもない1914年9月12日、ラバウルはオーストラリア軍に占領され、戦後はオーストラリアの委任統治領となり、近郊のブナカナウには飛行場が設けられました。

 1939年9月に第二次欧州大戦が勃発すると、1941年3月、オーストラリアは対日戦争をにらんでブナカナウ飛行場を防衛するため、ジョン・スカンラン中佐の指揮下に1400名のオーストラリア陸軍守備隊“雲雀部隊”を配置します。ラバウルは、日本海軍の基地があったトラック(テューク)諸島にも近く、オーストラリアは同飛行場を日本軍の行動を監視拠点としていたからです。もっとも、雲雀部隊の装備は決して十分なものではなく、現地のオーストラリア空軍兵力は、わずか10機の訓練用軽飛行機と4機のハドソン爆撃機しかなく、日本軍の本格的な攻撃が開始されれば持ちこたえるのは難しいのが実情でした。

 一方、日本側は、日米開戦となれば、トラックに近いラバウルが連合軍の反撃拠点となることを予想するとともに、ニューブリテン島の港湾施設(水深が深く、大型船の停泊が可能であった)と飛行場を確保すれば、米豪の連絡を遮断できると考えていました。ただし、この方面の作戦を担当する日本海軍の南洋部隊は、ラバウルだけを占領しても役にたたず、同地確保のためさらに前方の要地(パプアニューギニア、ソロモン諸島)を攻略すべきと考えていました。

 はたして、1941年12月の日英開戦を経て、1942年1月4日、日本海軍の南洋部隊がラバウル空襲を開始。1月20日には南雲機動部隊の空母4隻(赤城、加賀、瑞鶴、翔鶴)から発進した航空隊計109機がラバウルを空襲してオーストラリア軍基地を破壊し、1月22日には第144連隊を中心とした5000人の部隊がニューブリテン島に上陸してラクナイ飛行場を攻略しました。このため、オーストラリア軍の兵士と民間人は中隊規模の小集団に分かれてジャングルの中に撤退し、ラバウル攻略戦はほぼ終了し、1月24日、大本営はラバウルとカビエンの占領を発表。日本軍は、ただちにラバウル航空基地の設営作業が開始しました。

 これに対して、オーストラリアはニューギニア島のポートモレスビーを拠点にラバウルへの空襲を開始したものの、日本側は陸海軍合わせて9万余の大軍を配置し、1945年8月の終戦までラバウルを維持し続けました。

 1975年のパプアニューギニア独立後、ラバウルは東ニューブリテン州の州都となりましたが、1994年、近郊のタブルブル火山とブルカン火山の同時噴火によって、切手に描かれた旧市街地は大きな降灰被害を受けたため、南東のココポの町に空港と州政府の機関は移転を余儀なくされました。

 昨日の式典は、新型コロナウイルスの影響で戦没者の遺骨収集事業などが延期される中、慰霊の取り組みを続けようと現地在住の日本人らが呼びかけて実現したもので、ラバウル市長ら約50人が出席し、1980年に日本政府が建立した“南太平洋戦没者の碑”の前での黙祷と献花が行われました。今後は、5年ごとの式典開催が計画されているそうです。

 さて、現在、第二次大戦中の激戦地として知られる“ガダルカナル”にフォーカスを当てた本を作っています。内容は、戦史よりも、戦後のガダルカナルが中心で、すでに、本文の原稿は書き終え、現在、書籍としてまとめる作業を進めているところです。正式な書名や発売日などが決まりましたら、このブログでもあらためてご案内いたしますので、よろしくお願いします。 


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 ブーゲンビル自治州で独立賛成が98%
2019-12-12 Thu 01:24
 パプアニューギニアのブーゲンビル自治州で、11月23日から今月7日まで、独立か自治権の拡大かを問う住民投票が行われ、独立賛成が約18万票で98%を占めたことが発表されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      パプアニューギニア・ブーゲンビルの民芸品

 これは、1976年にパプアニューギニアが発行した“ブーゲンビルの民芸品”の切手のうち、先住民の彫刻を取り上げた1枚です。

 ブーゲンビル自治州の中心となるブーゲンビル島は、1768年、世界周航の探検の一環として同島の沿岸を航海したフランスの探検家、ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィルにちなんで命名されました。地理的概念としてのソロモン諸島の中では面積最大の島です。

 1885年、ドイツ領ニューギニアの一部となりましたが、第一次世界大戦の勃発に伴い、オーストラリアが占領。大戦後はオーストラリアの委任統治領となりました。

 先の大戦中は日本と米豪との激戦地となり、1943年4月には、連合艦隊司令長官の山本五十六が同島上空で米軍機に撃墜され戦死したことでも知られています。

 第二次大戦後は再びオーストラリアの支配下に置かれ、1975年、パプアニューギニアの独立に伴い、同国に編入されました。ところが、ブーゲンビル島のパングナ鉱山がブーゲンビル銅鉱会社を通じてオーストラリアの実質的な支配下にあったことから、ブーゲンビル島の住民は独立に際して補償を求めて抗議運動を起こし、そこから、“北ソロモン共和国(ブーゲンビル共和国)”の分離独立運動が発生しました。

 さらに、1988年にはフランシス・オナらが、ブーゲンビル州は民族的にはソロモン諸島の一部であると主張して、ブーゲンビルの分離・独立を求めてブーゲンビル革命軍(BRA)を結成。さらに、パングナ銅山は地元に利益をもたらしていないとして銅山の閉鎖も要求し、1989年にはブーゲンビル暫定政府を樹立し、オーストラリアの支援を受けたパプアニューギニア政府軍との間で内戦に突入しました。

 1991年1月には、パプアニューギニア政府とBRAの間で停戦合意としてのホニアラ宣言が結ばれましたが、停戦は長くは続かず、内戦は泥沼化します。また、BRAはソロモン諸島国家の支持も受けていたことから、1992年、パプアニューギニア政府軍はソロモン諸島のショートランド諸島を攻撃しています。

 1997年にはパプアニューギニア政府が英国の民間軍事会社サンドライン・インターナショナルと傭兵派遣契約を結んだことが露見したことから、国防軍司令官ジェリー・シンギロックがジュリアス・チャン首相の退陣を求めてクーデターを起こしました。この結果、チャン政権は退陣し、ブーゲンビル紛争の平和的解決を最優先の課題とすることを公約として掲げた国民会議党のビル・スケートが新首相に選出されます。これを契機に、1998年、オーストラリアとニュージーランドの仲介により、パプアニューギニア政府とBRAの間で停戦合意が成立。 2001年8月30日には、BRAの武装解除、紛争中の戦争犯罪に対する恩赦、ブーゲンビル自治政府の容認、将来のパプアニューギニアからの独立に関しては住民投票で決定する、などの条項を盛り込んだ「ブーゲンビル平和協定」がアラワで調印されました。

 こうした経緯を経て、2005年6月15日にブーゲンビル自治政府が設立され、初の大統領選挙が行われ、元BRAのジョセフ・カブイが初代大統領に就任。それから14年以上を経て、2019年11月23日から12月7日まで、和平協定に従い、ブーゲンビルの将来的な政治的立場を問う住民投票が実施され、独立賛成が98%という結果になりました。今回の住民投票jには法的拘束力はありませんが、今後、自治州政府と中央政府との交渉が開始される予定です。


★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 12月13日(金)05:00~  文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


★★ 講座のご案内 ★★

 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。

東アジア歴史文化研究会
 12月12日(木) 18:30~ 於常圓寺祖師堂ホール
 朝鮮半島現代史の“原点”についてお話しします。
 参加費 2000円
 詳細は、主催者(東アジア歴史文化研究会)まで、メール(アドレスは、e-asia★topaz.ocn.ne.jp スパム防止のため、ここでは、★を@に変えています)にてお問い合わせください。

日本史検定講座(全8講)
 12月13日(金)スタート!
 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。

・武蔵野大学生涯学習秋講座 
 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年―
 2019年12月15日(日) 
 (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 )

・よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治
 毎月第1火曜日 15:30~17:00
 1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可)


★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★

       (増補改訂版)アウシュヴィッツの手紙・表紙  本体2500円+税(予定)
 
 出版社からのコメント
初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。

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 パプアニューギニア、“債務の罠”に陥るか
2019-08-08 Thu 13:27
 パプアニューギニアのジェイムズ・マラペ首相が、おととい(6日)、同国駐在の薛冰中国大使と会談し、国の債務約8400億円全額を、中国政府からの借り入れに切り替えられないか打診したことを明らかにしました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      パプアニューギニア・中国国交25年

 これが、1976年にパプアニューギニアが発行した中国との国交樹立25周年の記念切手で、両国の国旗が描かれています。

 1975年9月にオーストラリアの信託統治から独立したパプアニューギニアは、1976年10月12日、中国と正式な外交関係を樹立。その後、ビル・スケイト政権末期の1999年に中国と断交して台湾と国交を樹立したこともありましたが、同年7月、スケイト政権が退陣すると、後継の メケレ・モラウタ政権は台湾と断交して中国との国交を回復し、以後、現在に至るまで中国との国交を維持しています。

 ところで、旧宗主国のオーストラリアは、独立後もパプアニューギニアの最大の支援国となっており、2004年にスタートしたオーストラリアによる“協力強化プログラム(ECP)”では、国内の治安安定化のため、オーストラリアから警察関係者が派遣されていました。ところが、2005年5月、パプアニューギニア最高裁はECPに基づくオーストラリア人警察官の活動を違憲とする判決を出し、オーストラリア警察の活動は停止されます。

 一方、隣国のソロモン諸島では、2006年5月、反豪姿勢の鮮明なマナセ・ダムカナ・ソガヴァレ政権が発足。同政権は、9月12日、“内政干渉”を理由にオーストラリアのパトリック・コール高等弁務官を国外退去処分にしたほか、ソガヴァレの個人的な友人で、オーストラリア国籍を持つインド系フィジー人のジュリアス・モティを法務長官に指名しました。

 このモティが、1998年(1997年説もあり)にヴァヌアツで少女強姦事件(ただし、当時の裁判では証拠不十分で無罪)を起こしていたことから、オーストラリアはモティを指名手配。モティが休暇先のインドからパプアニューギニア経由でソロモン初頭に帰国しようとしたところ、経由地のパプアニューギニアの空港で、同国警察に要請して身柄を拘束させました。

 ところが、モティはすぐに保釈され、ソロモン諸島に移動。その際、パプアニューギニア軍機が使用されたことから、これに激怒したオーストラリアはパプアニューギニアに対して経済制裁を発動し、両国関係は冷却化。その隙を突く形で、中国はパプアニューギニアへの接近を図り、インフラ投資を中心にした経済進出を加速させていきます。

 その結果、2017年には、パプアニューギニア政府が、ニューギニア島北部沖合いのマヌス島の港湾整備に中国が資金援助する可能性があることを示唆。同島はグアム島にも近く、先の大戦中には大規模な米海軍基地があった戦略上の要衝で、現在はオーストラリアが移民の一時収容施設を置いていることもあって、米豪両国に大きな衝撃を与えました。

 さらに、2018年11月には、首都ポートモレスビーでのAPEC開催にあわせて、中国が13億円を支援して作られた4車線の幹線道路が開通。開通式典には習近平も参加し、あらためて、パプアニューギニアにおける中国の影響力が拡大していることが明確になりました。ちなみに、現在、パプアニューギニアの全債務のうち中国からの借り入れは7%ですが、対外債務に限ると、対中債務は全体の約4分の1に約5億9000万ドルとなっており、南太平洋諸国の中でも最大となります。

 今回、パプアニューギニアの政府が中国に借り換えを申しれたのも、上記のような背景があるためですが、中国といえば、借金を返せなくなった国の港や基地などの使用権を認めさせる“債務の罠”外交が国際的な非難を浴びているだけに、自ら罠にはまり行くような愚行は避けてほしいと願わずにはいられません。


★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★

      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

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 パプア地震で緊急事態宣言
2018-03-02 Fri 16:46
 パプアニューギニア政府は、きょう(2日)までに、2月26日に起きたマグニチュード7.5の地震で大きな被害の出た南部山岳州やヘラ州などに非常事態を宣言しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      英領ニューギニア(1901)

 これは、1901年に英領ニューギニアとして発行された最初の切手で、現地の先住民の伝統的な船の“ラカトイ”が描かれています。ちなみに、今回の地震で被害が大きかったのは、ニューギニア島のうち、旧英領の地域です。

 ニューギニア島は、1511年にポルトガルの航海士ダブロが“発見”し、1526年にはスペインの探検家メネゼスが最初に上陸。1546年になるとスペインが島の領有を主張したのをはじめ、1793年には英国東インド会社が島全体の領有を主張し、さらに、1828年には英国に対抗してオランダ東インド会社が島の西半分を領有するなど、列強の勢力角逐の場となっていました。ただし、各国による領有権の主張とは裏腹に、気候が厳しく天然資源にも恵まれない島の開発はなかなか進まず、19世紀までは“領有”は名目的なままに放置されていました。

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 これに対抗して、同年、英国もニューギニア本島南東部のポートモレスビーにユニオンジャックを掲揚。かくして、ニューギニア島は、西部がオランダ、東部ではドイツがほぼ北半分を、英国がほぼ南半分を領有することになりました。その後、1901年のオーストラリア連邦の結成を経て、1906年、英領部分は1975年の独立までオーストラリアの管轄下に置かれました。

 郵便に関しては、1884年、英国が島の東南部を領有したことを受けて、翌1885年、クイーンズランド切手が持ち込まれ、英領ニューギニアを意味する“BNG”の抹消印が使用されました。

 今回ご紹介の切手は、1901年7月1日、英領ニューギニアの正刷切手としては最初に発行されたモノの1枚で、ロンドンのデラルー社製です。切手の図案は、バートン大尉の撮影した写真を基に制作され、モートモレスビー近くのハヌアババ村の沖に停泊中のラカトイが描かれています。

 さて、今回の地震では、旧英領ニューギニアの地域を中心に、現在まで少なくとも31人の死亡が報告されています。地滑りで陸路が寸断、空港も閉鎖され、救助隊の到着が難航しているそうです。

 あらためて、亡くなられた方の御冥福と、被災地の一日も早い復旧・復興をお祈りしております。


★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回は8日!★★

 3月8日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第17回(最終回)が放送予定です。今回は、平昌パラリンピックの開幕前日の放送ということで、パラリンピックの切手についてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。

  
★★★ 世界切手展< THAILAND 2018>作品募集中! ★★★

 本年(2018年)11月28日から12月3日まで、タイ・バンコクのサイアム・パラゴンで世界切手展<THAILAND 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不肖・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を3月12日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、お待ちしております。


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

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 オスプレイ
2012-07-23 Mon 10:12
 沖縄に配備予定の米新型輸送機MV22オスプレイ12機が、けさ(23日)、山口県岩国市の米軍岩国基地に陸揚げされました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       オスプレイ

 これは、2008年にパプア・ニューギニアで発行されたミサゴの切手です。オスプレイというのは、このミサゴの英語名です。

 ミサゴは猛禽類のタカの一種で、ほぼ全世界に分布しています。主に海岸に生息しており、水面をゆっくりと低空飛行し獲物を探し、獲物を見つけると素早く翼を羽ばたかせて空中に静止するホバリング飛行を行った後、急降下し、水面近くで脚を伸ばし両足で獲物を捕らえます。

 さて、現在話題となっている米軍の輸送機オスプレイは、回転翼の角度が変更できる垂直離着陸機です。

 ヘリコプターは空中でのホバリングが可能で、離着陸場所を比較的自由に選べるなどの利点がある反面、構造上、固定翼機(通常の飛行機ですな)のような高速飛行は不可能です。一方、固定翼機は高速ではありますが、十分な距離を持つ滑走路が必要とおなります。そこで、固定翼機の高速性とヘリコプターの場所を選ばない離着陸性を兼ね備えたモノとして開発されたのが、オスプレイなどの垂直離着陸機というわけです。なお、オスプレイという名前はミサゴに由来するものですが、たしかに、ニュース映像などを見ると、今回ご紹介の切手のホバリングするミサゴの姿とオスプレイの飛んでいる姿は、似ていますな。

 オスプレイは、プロペラ機に近い高速で目的地に急行し、しかも滑走路のない場所へ着陸が可能ですから、まさに、離島防衛に最適な機種で、尖閣のみならず南シナ海での侵略の意図を隠そうとしない中国共産政府に対抗すべく、沖縄に配備しようという米軍の意図は至極もっともなことと言えます。ちなみに、オスプレイの陸揚げに反対する市民団体の連中は、オスプレイは墜落事故が多く危険だという論調を展開していますが、統計的に見ると、事故の確率は10万時間飛んで1.93回事故が起きる程度となっています。この数値が、海兵隊全体の飛行事故率、10万時間あたり2.45回より低いことは、なぜか、ほとんど語られていません。

 もちろん、日本の防衛は日本人自身がきちんと行うべきで、そのためには憲法を改正し、核武装をして米軍にもお引き取りいただくというのが最終的な目標だという観点から、米軍基地へのオスプレイ配備に反対する(そのかわり、自衛隊がオスプレイを導入する)というのであれば、それはそれで筋が通っていると思いますが、代替案もなしにただ単に「オスプレイ出て行け」と連呼するのは、結果的に、わが国のみならずアジアの平和と安定に脅威を与える侵略国家を利するだけではないんでしょうかねぇ。

 そういえば、反原発派の活動家の中には、日本の原発には反対して首相官邸前に押しかけても、中国の原発(わが国の原発よりも、はるかに事故を起こす可能性は高く、事故が起こった場合にはわが国にも甚大な影響があると予想されているわけですが)には口をつぐみ、中国大使館前はおとなしく通り過ぎる人が多いように見受けられます。反原発にせよ、反オスプレイにせよ、結果的に、日本国内のそうした“市民”の活動によって誰が得をするのかということを考えると、やはり、何とも言えぬ胡散臭さがぬぐえませんな。 

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 パプア沖でフェリー沈没
2012-02-02 Thu 22:51
 けさ(2日早朝)、パプアニューギニア東部ニューブリテン島のキンベからニューギニア島のラエへ航行中だったフェリー「MVラバウル・クイーン」が沈没。少なくとも300人以上とされる乗客のうち、これまでに238人が救助されたものの、現在なお行方不明者の捜索・救出作業が続いているそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        ドイツ領ニューギニア加刷

 これは、1897年に発行されたドイツ領ニューギニア加刷の切手です。

 ニューギニア島は、1511年にポルトガルの航海士ダブロが“発見”し、1526年にはスペインの探検家メネゼスが最初に上陸。1546年になるとスペインが島の領有を主張したのをはじめ、1793年にはイギリス東インド会社が島全体の領有を主張し、さらに、イギリスに対抗してオランダ東インド会社が、1828年に島の西半分を領有するなど、列強の勢力角逐の場となっていました。ただし、各国による領有権の主張とは裏腹に、気候が厳しく天然資源にも恵まれないニューギニアの開発はなかなか進まず、19世紀までは“領有”は名目的なままに放置されていました。

 こうした状況の下で、1873年、ハンブルクの民間会社ゴーデフロイ商会が島に上陸し、マトゥピを拠点に交易を開始。1875年には、ドイツの軍艦“ガゼル”が近海の島々を探検し、1878年には軍艦“アリアネ”がビスマルク諸島ニューブリテン島の一部を原住民から購入しています。その後、ゴーデフロイ商会は経営難に陥ったため、1880年にベルリンの銀行家アドルフ・フォン・ハンゼマンが設立した“南洋商事会社”がゴーデフロイ商会の経営権を継承。1884年11月には軍艦“エリザベート”がマトゥピに寄港し、同地のほか、ビスマルク諸島やアドミラルティ諸島の各地にドイツ国旗を掲揚しました。

 これに対抗して、同年、イギリスもニューギニア本島南東部のポートモレスビーにユニオンジャックを掲揚。かくして、ニューギニア島は、西部がオランダ、東部は英独両国が南北を分け合う格好となり、1901年のオーストラリア連邦の結成を経て、1906年、英領部分はオーストラリアの管轄下に置かれていました。

 この間、ドイツは1888年2月、フィンシュハーフェンに最初の郵便局を開設したのを皮切りに、ビスマルク諸島と北ソロモン諸島に次々と郵便局を開設。本国切手を用いて郵便活動を展開しました。今回ご紹介の加刷切手が発行されるようになったのは1897年のことで、その後、1901年からは、ドイツ植民地共通図案の“カイザーヨット”切手がこの地でも使われました。こうした状況は、第一次大戦でドイツがニューギニアを喪失するまで続きます。

 今回遭難したフェリーが出発したニューブリテン島の最大都市は、いわゆる太平洋戦争の激戦地として知られるラバウルは、同島最大の都市です。そう考えると、僕たち日本人にとっても決して無縁の土地ではないわけで、一人でも多くの方が迅速に救助されるよう、お祈りしております。

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 ★ TBSラジオ・ニュース番組森本毅郎・スタンバイ(2011年11月17日放送)、11月27日付『東京新聞』読書欄、『週刊文春』12月1日号、12月1日付『全国書店新聞』『週刊東洋経済』12月3日号、12月6日付『愛媛新聞』地軸、同『秋田魁新報』北斗星、TBSラジオ鈴木おさむ 考えるラジオ(12月10日放送)、12月11日付『京都新聞』読書欄、同『山梨日日新聞』みるじゃん、12月14日付『日本経済新聞』夕刊読書欄、同サイゾー、12月15日付『徳島新聞』鳴潮、エフエム京都・α-Morning Kyoto(12月15日放送)、12月16日付『岐阜新聞』分水嶺、同『京都新聞』凡語、12月18日付『宮崎日日新聞』読書欄、同『信濃毎日新聞』読書欄、12月19日付『山陽新聞』滴一滴、同『日本農業新聞』あぜ道書店、[書評]のメルマガ12月20日号、『サンデー毎日』12月25日号、12月29日付エキレピ!、『郵趣』2012年1月号、『全日本郵趣』1月号、CBCラジオ「朝PON」(1月26日放送)、『スタンプマガジン』2月号、『歴史読本』2月号、『本の雑誌』2月号で紹介されました。

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 日豪戦争③
2010-10-08 Fri 12:35
 本のメルマガ407号が配信となりました。ご報告が遅くなりましたが、406号に掲載の僕の連載「日豪戦争」では、今回は、歴史的背景の説明の続きとして、第1次大戦期の日豪関係についてまとめてみました。そのなかから、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

         北西太平洋加刷

 これは、第一次大戦中、オーストラリア軍が占領した旧ドイツ領ニューギニアで使用するために発行した加刷切手です。

 1914年8月5日、英本国はドイツと戦争状態に突入し、大英帝国にとっての第一次世界大戦が始まります。

 大戦の勃発とともにオーストラリア海軍は英本国の指揮下に置かれ、オーストラリア連邦政府は、連邦領土に隣接するドイツ領ニューギニアを占領するための部隊を編成するとともに、海外派兵を目的とするオーストラリア軍団の設立を正式に決定しました。

 ニューギニア島は、1511年にポルトガルの航海士ダブロが“発見”し、1526年にはスペインの探検家メネゼスが最初に上陸。1546年になるとスペインが島の領有を主張したのをはじめ、1793年にはイギリス東インド会社が島全体の領有を主張し、さらに、イギリスに対抗してオランダ東インド会社が、1828年に島の西半分を領有するなど、列強の勢力角逐の場となっていました。ただし、各国による領有権の主張とは裏腹に、気候が厳しく天然資源にも恵まれないニューギニアの開発はなかなか進まず、19世紀までは“領有”は名目的なままに放置されていました。

 こうした状況の下で、1873年、ハンブルクの民間会社ゴーデフロイ商会が島に上陸し、マトゥピを拠点に交易を開始。1875年には、ドイツの軍艦“ガゼル”が近海の島々を探検し、1878年には軍艦“アリアネ”がビスマルク諸島ニューブリテン島の一部を原住民から購入しています。その後、ゴーデフロイ商会は経営難に陥ったため、1880年にベルリンの銀行家アドルフ・フォン・ハンゼマンが設立した“南洋商事会社”がゴーデフロイ商会の経営権を継承。1884年11月には軍艦“エリザベート”がマトゥピに寄港し、同地のほか、ビスマルク諸島やアドミラルティ諸島の各地にドイツ国旗を掲揚しました。

 これに対抗して、同年、イギリスもニューギニア本島南東部のポートモレスビーにユニオンジャックを掲揚。かくして、ニューギニア島は、西部がオランダ、東部は英独両国が南北を分け合う格好となり、1901年のオーストラリア連邦の結成を経て、1906年、英領部分はオーストラリアの管轄下に置かれていました。

 1914年8月5日の英独開戦と同時に、オーストラリア軍はドイツ領ニューギニアのラバウルに対する攻撃を開始し、9月11日にはヘルベルトヘーエを、翌12日にはラバウルを占領し、ニューギニア島東部を支配下に収めます。当初、オーストラリア軍は占領地に無加刷切手を持ち込んで使用していましたが、その後、ドイツ時代の切手を接収して“GRI”の文字を加刷した切手やオーストラリア切手に“N.W. PACIFIC ISLANDS.”の文字を加刷した切手が使われています。こうした状況は、第1次大戦が終結し、旧ドイツ領ニューギニアが正式にオーストラリアの委任統治領となったことを受けて、1920年に“ニューギニア”名義の切手が発行されるようになるまで続きました。

 一方、オーストラリアが旧ドイツ領を獲得して版図を北側に拡大したのと同様に、日英同盟に基づいてドイツと戦った日本もまた、旧ドイツ領南洋群島を獲得します。

 すなわち、大戦が勃発すると、日本軍は10月7日にヤップとポナペを、同8日にパラオを、11日にトラックを、12日にアンガウルを、17日にサイパンを占領し、ドイツ領南洋群島を完全に制圧。これに先立ち、オーストラリア軍は9月26日にアンガウルを攻撃していますが、英本国の意向により、それ以上の南洋群島への攻撃は中止しています。

 英本国としては、オーストラリア海軍は1911年に発足したばかりで弱小であり、南洋群島を含む広大な“ニューギニア保護領”を領有するドイツと戦い、オーストラリアの通商航路を確保するためには、西太平洋最大の海軍力を持つ日本の協力が不可欠であると考えていました。実際、この時期、オーストラリア海軍が太平洋を自由に航行しえたのは、日英同盟による日本の海軍力が彼らの安全を保証していたからにほかなりません。ANZAC兵や物資・食料を運ぶオーストラリア船の護衛を日本海軍が担当することさえあったという事実は、その何よりの証拠といえますし、こうした日本の協力に報いるため、英本国は赤道以北の旧ドイツ領南洋群島を日本が支配することを認めざるを得なかったのも当然といえましょう。

 かくして、グアムを除くカロリン諸島とマリアナ諸島を含む旧ドイツ領ニューギニアは日本とオーストラリアによって分割されることになります。

 しかし、そもそも(ドイツではなく)日本を最大の仮想敵国として海軍を創設したオーストラリアからすれば、ドイツ領ニューギニアという緩衝地帯が消滅したうえ、大日本帝国の南端が自国に接近し、実質的な隣国となることなど、とうてい承服しがたいことでした。日英同盟の傘の下、日本海軍のプレゼンスによって彼らのシーレーンが確保されてきたという現実は、白豪主義を掲げる国家にとっては“不都合な真実”以外の何物でもなかったのです。

 しかし、大戦の勝利という大義の前に、英本国は日本との同盟関係を優先し、オーストラリアの反対論を抑え込むことを選択。英本国は、オーストラリアの連邦政府に対して、閣僚は“好ましくないニュース”に対する“心の準備”をしておくこと、戦争中にオーストラリア国内で反日デモなどが起こることを阻止すること、などを厳命し、オーストラリア側も不承不承ながら本国の命令を受け入れざるを得ませんでした。

 こうしたオーストラリア側の“忍耐”は、1918年にドイツの降伏というかたちで大戦が終わるとその根拠を失います。そして、1919年のヴェルサイユ講和会議では、オーストラリア首相のウィリアム・ヒューズが、オーストラリア国内で鬱積し続けてきた(身勝手な)不満を、英本国ではなく日本を標的にしてぶちまけることになるのです。

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 珊瑚海のスケッチ
2006-05-29 Mon 21:59
 インドネシアで大きな地震があったばかりなのに、トンガとパプアニューギニアでも別の大きな地震が起こったとか。それなら、ということで、ワシントンで開催中の世界切手展<Washington 2006>に出品中の作品の中から、こんなものをお見せしましょう。(画像はクリックで拡大されます)

珊瑚海スケッチ

 これは、1967年にパプア・ニューギニアが発行した“太平洋戦争25周年”の記念切手のうち、珊瑚海海戦を取り上げた50セント切手のオリジナル・スケッチです。ちなみに、実際に発行された切手はこんな感じ(↓)です。

珊瑚海・切手

 世界切手展の出品作品はさまざまな部門に分かれていますが、僕の作品 Japan and the 15 Years' War 1931-1945 はテーマティク(切手や郵便物であるストーリーを再現・再構成する部門)という部門になります。

 テーマティクの作品では、展示しているマテリアルの多様性が審査の上で重要なポイントになってくるので、切手や郵便物だけではなく、消印や試刷、見本やエラーなど、ありとあらゆるモノを集めてくる必要があります。このため、僕の作品でもできるだけ展示に使うマテリアルにバラエティを持たせるようにしているのですが、この手のスケッチ類なんかが入ると、作品全体のインパクトが強まるんじゃないかと思います。

 1年ぐらい前、オーストラリアの某オークションにデザイナーのスケッチブックが1冊丸ごと売りに出されて、今日ご紹介しているスケッチもその中に含まれていた1点です。いままでなかなかお披露目の機会がありませんでしたが、今回の展覧会でようやくデビューさせてやることができました。

 それにしても、珊瑚海って綺麗なんでしょうねぇ。一度行って見たいものです。

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