2011-09-18 Sun 22:18
いわゆる満洲事変の発端となった柳条湖事件が1931年9月18日に起きてから、きょうでちょうど80年です。というわけで、きょうは、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、満州事変勃発直後の1931年10月、撫順の満鉄付属地から日本宛に差し出された葉書です。 第一次大戦後の9ヵ国条約により、列強諸国は、1922年末限りで、中国各地に設けていた郵便局を閉鎖することが決められ、わが国は65の郵便局、93の切手類売捌所、148の郵便ポストを中国から撤廃しました。ただし、その後も、同条約では列強諸国の租借地については、従来どおり、列強の実質的な支配下に置かれるものとされていたため、関東州の租借地とそれに準じる満鉄付属地は、日露戦争で日本が獲得した正当な権益であるとして、日本の郵便局は活動を続けていました。 ところで、もともと、満鉄付属地内の日本の郵便局は、満鉄付属地間相互の郵便物に関しては(日本円の1円と中国円の1円を等価として)中国側の料金よりも低くすることができませんでした。ただし、日本と清朝ならびに中華民国の郵便料金は長らく同額の時代が続いていたため、そのことが問題となることは実際にはなかったのですが、1925年11月1日、中国側が国内宛封書の基本料金を3分から4分に、葉書料金を1分5厘から2分に値上げすると、日本側も満鉄付属地間の郵便料金を値上げせざるを得なくなりました。 このため、関東庁は新料金に対応した新たな額面の葉書(印面のデザインは従来のものと同じだが、下方に“関東庁発行”の文字が入っています)を発行しました。今回ご紹介のものも、そうした関東庁が発行した葉書の使用例のひとつです。 なお、1925年11月以降、満鉄付属地相互の郵便料金は値上げされたものの、付属地から日本国内宛の郵便物は、中国との約定による制約を受けないため、旧料金のままで郵便を差し出すことができたのですが、現実には、この葉書の差出人のように、日本国内宛の郵便物にも関東庁が発行した“割高”な葉書を使用するケースが少なからずありました。 さて、この葉書は、1931年9月18日の事変から日も浅い同年10月、満鉄附属地の撫順から差し立てられた葉書です。文面から察するに、心配して手紙をくれた知人に現状を報告したもののようで、「撫順は在郷軍人と防備隊の働きニより何事も無く・・・」、「(九月)一九日夜わ家族わ永安台之守備隊ニ行(く)準備(を)致し(ました。)御蔭様で守備隊にも行(か)ず早ク済デ只今安心(して)居ます」など、当時の状況を生々しく伝える文面が記載されています。 なお、この葉書を含め、満洲ないしは満洲国の切手と郵便については、拙著『満洲切手』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 5月29日付『讀賣新聞』に書評掲載 『週刊文春』 6月30日号「文春図書館」で 酒井順子さんにご紹介いただきました ! 切手百撰 昭和戦後 平凡社(本体2000円+税) 視て読んで楽しむ切手図鑑! “あの頃の切手少年たち”には懐かしの、 平成生まれの若者には昭和レトロがカッコいい、 そんな切手100点のモノ語りを関連写真などとともに、オールカラーでご紹介 全国書店・インターネット書店(amazon、boox store、coneco.net、JBOOK、livedoor BOOKS、Yahoo!ブックス、エキサイトブックス、丸善&ジュンク堂、楽天など)で好評発売中! |
2008-11-01 Sat 00:05
きょうからいよいよ<JAPEX>が始まります。今回の目玉は、なんといっても、、リニューアルされた旧水原コレクションをはじめ、日本国内はもとより、台湾・香港から満洲・東北地域に関する超一流のコレクションが一堂に会する満洲・東北切手展です。僕も、「満洲国の歴史」という作品でその末席を汚していますが、そのなかから、“前史”として展示したこんなカバーをご紹介しましょう。
これは、1928年3月17日、ハルビンから差し出されたカバーで、張作霖の陸海軍大元帥就任記念の切手が合計2角(20分)相当貼られています。 袁世凱亡き後の中国は、各地に軍閥が割拠し四分五裂状態になっていました。このため、広東で成立した国民政府は、軍閥を打倒し、国家の統一を実現するため、国民革命と称して統一戦争を発動。北上していきます。 これに対して、国民革命軍という共通の敵を前に、軍閥諸派は大同団結し、1927年6月、奉天派の張作霖を大元帥に推戴して対抗します。今回ご紹介したカバーの切手は、張作霖が大元帥に就任したことを記念して、翌年の張の誕生日である1928年3月1日に発行されたものです。 しばしば誤解されることですが、当時、中国の正統政権として国際的に認知されていたのは、軍閥支配下の北京政府であり、孫文系の南方政権ではありません。この切手には、国民革命を呼号する蒋介石ではなく、北京政府を率いる張作霖こそが、中華民国の国家元首であることを、あらためて内外にアピールする意図が込められているのは言うまでもありません。 なお、当時の中国では統一された通貨が使われておらず、地域によっては、大きな為替差が存在したため、切手にも使用地域を限定する加刷が施されたものがありますが、この切手の“吉黒貼用”とは、この切手の使用地域が吉黒(直接には吉林省と黒竜江省の意味だが、東北部全般を指す)に限定されていたことを示すものです。 こうして、軍閥の北京政府は国民革命を迎え撃つ姿勢を明らかにしましたが、勢いに勝る国民革命軍の前に各地の軍閥は相次いで敗北。済南が陥落するにいたって、ついに張も敗北を覚悟し、北京を退去して本拠地の奉天への撤退を決意します。しかし、まさにその途上にあった6月4日、張は関東軍大佐の河本大作によって移動途中の列車ごと爆殺されてしまうのです。 当時、日本政府は張作霖を満洲に撤退させ、蒋介石による中国本土の支配を認める代わりに、日露戦争以来の特殊権益が集中する満州については張が日本の権益を保護するのが良いと考えていたのですが、現実に国民革命軍が迫りくる中で、張が“寝返る”ことを恐れた関東軍は張を抹殺したのです。 結局、張の爆殺後、国民革命軍は北京に入城し、(名目的なものであるにせよ)中華民国の統一が達せられました。その結果、国民革命軍から見れば敵将である張の肖像を描いた切手は、1928年6月末で使用禁止になります。 一方、満州では、張作霖の死後、息子の張学良が東三省保安総司令官となり、実権を掌握。1928年12月、関東州と満鉄付属地を除く満洲全域に、それまで用いてきた満州五色旗を下げ、国民党の青天白日旗を一斉に掲げさせ、東三省の主席と連名で国民党に服従することを発表しました。いわゆる“満洲易幟”です。 父親を日本人に殺された張学良としては、排日と満蒙の権益回収を目指す蒋介石の南京政府に合流するのは当然の選択でしたが、日露戦争の多大な犠牲の上に満蒙の“特殊権益”を獲得した日本にしてみれば、張学良の行動は従来の経緯を無視した暴挙としか映りませんでした。そうした危機感が、権益を維持するためには満蒙を中国から切り離さなくてはならないという焦慮をうみ、彼らを満州事変へと駆り立てていくことになります。 なお、2006年に刊行の拙著『満洲切手』では、今回ご紹介の内容も含め、切手や郵便物から見た満洲・東北の歴史をまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。 イベントのご案内 11月1日(土)-3日(月・祝) 全国切手展<JAPEX> ことしも、東京・池袋のサンシャインシティ文化会館と目白の切手の博物館の2ヶ所で開催します。今年の目玉は、何といっても“満洲・東北切手展”ですが、トーク関係での僕の出番は、以下のとおりです。 11月1日(土) 13:00 “満洲・東北切手展”特別シンポジウム(池袋会場) 16:00 特別対談「満洲における写真、絵葉書、郵趣」(池袋会場) 11月2日(日) 13:00 “戦後日本切手展”ギャラリー・トーク(目白会場) 15:00 中公新書ラクレ presents 『大統領になりそこなった男たち』刊行記念トーク(池袋会場) 11月3日(月・祝) 11:00 “戦後日本切手展”ギャラリー・トーク(目白会場) トークそのものの参加費は無料ですが、<JAPEX>への入場料として、両会場共通・3日間有効のチケット(500円)が必要となります。あしからずご了承ください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ アメリカ史に燦然と輝く偉大な「敗者たち」の物語 『大統領になりそこなった男たち』 中公新書ラクレ(本体定価760円+税) 出馬しなかった「合衆国生みの親」、リンカーンに敗れた男、第二次世界大戦の英雄、兄と同じく銃弾に倒れた男……。ひとりのアメリカ大統領が誕生するまでには、落選者の累々たる屍が築かれる。そのなかから、切手に描かれて、アメリカ史の教科書に載るほどの功績をあげた8人を選び、彼らの生涯を追った「偉大な敗者たち」の物語。本書は、敗者の側からみることで、もう一つのアメリカの姿を明らかにした、異色の歴史ノンフィクション。好評発売中! もう一度切手を集めてみたくなったら 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。 |
2007-09-18 Tue 14:32
今日(9月18日)は1931年に満洲事変の発端となった柳条湖事件が起こった日です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1932年9月19日に奉天からドイツ・ポツダム宛に差し出された書留便で、満洲事変1周年の特印が押されています。先日刊行された(財)日本郵趣協会の『日本郵便印ハンドブック』では、スペースの関係からこの印影は省略されていましたので、その補足としてご覧いただければよろしいかと思います。なお、本来の事変1周年は9月18日ですが、このカバーは翌19日の使用例です。 日露戦争後のポーツマス条約により、東清鉄道の一部をロシアから継承した日本は、当然のことながら、鉄道付属地の権益も継承。満鉄(南満洲鉄道株式会社)は、撫順の炭鉱や鞍山の鉄鉱の経営、付属地の土木・教育・衛星などを担当し、条約に明文規定はなかったものの、実質的に付属地内の治外法権が設定されていました。その一環として、満鉄付属地には日本の郵便局が設けられ、日本切手が発売され、使用されています。 こうした満鉄付属地は1932年3月の満州国建国後も維持され、満鉄付属地は実質的な治外法権区域として、日本の満洲経営の拠点として機能し続けていました。今回ご紹介のカバーも、そうした満鉄付属地内の奉天に置かれていた日本の郵便局から差し出されたものです。なお、当然のことながら、奉天には満州国の郵便局もあり、そちらでは今回ご紹介のものとは別に、このような特印(こちらの画像は奉天ではなく、安東ですが、まぁ勘弁してください)が使用されました。 満洲国の建国後、満鉄付属地の問題は、満洲国の権限を一元的に掌握しようとしていた関東軍にとって微妙な存在となっていきます。 そもそも、関東軍のレゾンデートルは、満鉄付属地を周囲の外敵から防衛することにあったわけですが、満洲国の建国により、満鉄付属地がその領内に包摂されるようになると、“周囲の外敵”の存在は考慮する必要がなくなりました。また、付属地内で従来同様の治外法権が維持されたことが、今度は、満洲国政府の権限がそこに及ばないという状況を生み出すことになり、それは、満洲国の実質的な支配者となった関東軍にとって不都合ということになります。 このため、1935年8月、日本政府は、満鉄付属地の行政権を満洲国に移譲することを閣議で決定。1937年11月5日に締結された「滿洲國ニ於ケル治外法權ノ撤廢及南滿洲鐵道株式會社附属地行政權ノ委譲ニ關スル日本國滿洲國間条約」により、同年12月1日をもって満鉄附属地は撤廃されるまで、日満両国間でさまざまなやり取りがなされていくことになります。 この辺の事情については、昨年刊行の拙著『満洲切手』でもいろいろと書いてみましたので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。 *今日の昼過ぎ、アクセスカウンターが23万ヒットを超えました。沢山の方々の御訪問、心よりお礼申し上げます。 |
2006-09-12 Tue 02:49
帰宅したら、中国切手研究会(CPS)の会報が家に届いていました。会報をめくっていたら、このブログのことも紹介されていたので、ちょっと嬉しくなりました。
というわけで、今日はこんなものをご紹介したいと思います。(画像はクリックで拡大されます) これは、満洲国建国後の1932年4月18日、豊楽鎮(現在の行政区分だと、黒龍江省大慶地級市の肇州県内にあります)から差し出され、甜草崗(肇州県の東辺にあり、現在は黒龍江省綏化地級市に属する肇東市となっています)を経由してオーストリアのウィーン宛に差し出されたカバー(封筒)の一部です。 画像は、カバー裏面の切手と消印の部分のみですが、表の画像はこんな感じです。孫文の肖像と彼の遺訓である「革命、いまだ尚成功せず」のスローガンが入っているのが、満洲国の建国に抵抗の意志を示そうとしている差出人の心情を表現しているようで、なかなか、興味深いといえます。 1932年3月1日、満洲国の建国が宣言されましたが、満洲国が独自の切手を発行できたのは7月26日のことでした。この間、満洲国内の郵便は、従来どおり、中華郵政が担っており、中国切手が使用されていました。 今回ご紹介しているカバー(1932年4月18日の差出)には、中華郵政が東三省で使用するために「限吉黒貼用」の文字を加刷した2角5分相当の切手が貼られていますが、これは中華郵政の料金体系で万国郵便連合加盟国宛の書状料金に相当しています。なお、消印の年号表示も満洲国の大同年号ではなく、中華民国暦21年(=1932年)と表示されています。 このカバーも、8月25日のカバー同様、9月26日刊行の『満洲切手』を制作するにあたって、あるCPS会員の方から譲っていただき、滑り込みで間に合わせたものです。 さて、拙著『満洲切手』の刊行まで、いよいよあと2週間となりました。今回の拙著では、今回のカバーも使いながら、満洲国の建国から最初の切手が発行されるまでのドタバタぶりについてもまとめてみました。その間の経緯は、切手や郵便史を離れて、歴史の物語としても結構おもしろいと思いますので、2週間後の刊行の暁には、是非、お読みいただけると幸いです。 |
2006-08-25 Fri 00:47
以前からこのブログでもご案内しておりますが、9月25日の『満洲切手』(角川選書)刊行まで、あとちょうど1月となりました。というわけで、その予告を兼ねて、今日はこんなモノをご紹介してみましょう。(画像はクリックで拡大されます)
第一次大戦後の1922年、中国の主権尊重・領土保全と門戸開放を原則とする9ヵ国条約が締結されました。この条約は、日本が第一次大戦中に獲得した山東省の権益を放棄させられたことで有名ですが、郵便に関しても重要な取り決めが行われています。すなわち、中国国内におかれた外国郵便局の撤退です。 アヘン戦争以来の列強の中国進出の過程で、列強諸国は治外法権を援用するかたちで、中国の主要都市に郵便局を設け、自国の切手を発売して郵便サービスを提供していました。 切手を発売して郵便サービスを提供するということは、その地域における国家主権の行使を可視化するための一手段ですから、本来、他国の領土において勝手に郵便局を開設するのは国家主権の侵害行為にあたります。ところが、清末の中国では、統一的な近代郵便制度がなかなか整備されなかったこともあって、当初、列強諸国は自国との通信の必要から領事館内に郵便局を設け、便宜的に中国と諸外国との通信を取り扱わざるを得ませんでした。こうして設置された列強の郵便局は次第に業務を拡大され、列強による中国進出の尖兵としての役割を果たしていました。 これに対して、ワシントン会議で中国の主権尊重を大原則として掲げていた9ヵ国条約が調印されると、それに先立って「支那国ニ於ケル外国郵便局ニ関スル決議」が採択され、締約国は1922年末限りで中国各地に設けていた郵便局を閉鎖することを決定します。もちろん、日本も例外ではなく、1922年末までに、65の郵便局、93の切手類売捌所、184の郵便ポストを中国から撤廃しました。 しかし、9ヵ国条約では、列強諸国の租借地については、従来どおり、列強の実質的な支配下に置かれるものとされていました。イギリスが香港の新界地区を中国に返還しなかったのは、その一番わかりやすい例といえましょう。 ここで、日中間の懸案材料として、日露戦争の結果、日本が獲得した満鉄付属地の問題が浮上してきます。 当然のことながら、中国側は、満鉄付属地はあくまでも鉄道の付属地という特殊な形態の地域であり、租借地と同等のものとみなすことはできないとして、付属地内の郵便局をすべて撤退させるよう要求しましたが、日本側は、満鉄付属地は関東州の租借地と同じく、日露戦争で日本が獲得した正当な権益であると主張し、両者の話し合いは平行線をたどっていました。 結局、郵便局の撤退期限目前の1922年12月8日に調印された「日本帝國及ビ支那共和國ニ於ケル郵便物ノ交換ニ關スル約定」では、満鉄付属に関しては継続審議の懸案事項として問題の解決は先送りにされ、付属地の同じ町内に日中双方の郵便局が並存することになり、満鉄付属地における日本の郵便活動は、特殊な状況の下でさまざまな制約を受けています。 もともと、日本の郵便局は、満鉄付属地間相互の郵便物に関しては、(日本円の1円と中国円の1円を等価として)中国側の料金よりも低くすることができませんでした。ただし、日本と清朝ならびに中華民国の郵便料金は長らく同額の時代が続いていたため、そのことが問題となることは実際にはなかったのですが、1925年11月1日、中国側が国内宛封書の基本料金を3分から4分に、葉書料金を1分5厘から2分に値上げすると、日本側も満鉄付属地間の郵便料金を値上げせざるを得なくなりました。 この場合、満鉄付属地から中国宛の郵便物に関しては、所定の交換局を経て差し出すことになっており、その郵便物の料金は日本切手ではなく中国切手で支払うことになります。すなわち、郵便物を付属地内の日本局に差し出したり、日本局の設置したポストに入れたりする場合、差出人はその郵便物に日本切手を貼るわけですが、それを引き受けた日本側の郵便局は中国の切手を貼って(すなわち、別途、中国国内の郵便料金を納めて)中国側へ引き渡さねばなりませんでした。 この結果、満鉄付属地内の日本局から差し立てられた中国国内宛の郵便物には、日本切手と中国切手が貼られることになりました。こうした郵便物は“貼り替え”と呼ばれています。“貼り替え”は、制度的には1910年の日清郵便約定以来のものですが、実際にその実例が大量に出てくるのは、この時代からです。もちろん、郵便物の取り扱い方法としては非常に面倒ですが、それでも、日本側にとっては、満鉄付属地の権益を維持するためには、まさに大事の前の小事で許容限度の範囲内と考えられていたようです。 さて、今回ご紹介しているカバーは、その“貼り替え”の実例で、1927年8月21日に満鉄付属地の鞍山の日本局から天津宛に差し立てられたものです。当初、この郵便物が受け付けられた時は4銭分の日本切手で料金が納付されましたが、後に、日本側で4分の中国切手を郵便物に貼り、中継地の遼陽で中国側に引き渡されました。郵便物を受け取った中国側は遼陽で切手に消印を押して料金を収納し、そこから先は、牛荘を経て宛先地の天津まで郵便物を運んだというわけです。 “貼り替え”のカバーは、日本と中国の2ヶ国の切手が貼られていて、単純に見ていて面白いので、収集家の間では結構人気があります。オークションにも年に何回かは確実に出品されていますので、そのうち手に入るだろうと暢気に構えていたのですが、いままではなかなかご縁がありませんでした。 ところが、今回の『満洲切手』をつくるにあたって、“貼り替え”の話題を避けて通ることはできません。そこで、急遽、ある収集家の方にお願いして所蔵品を譲っていただき、なんとか図版として滑り込ませることができたというわけです。 現在、いよいよ最終段階に突入した『満洲切手』の制作作業ですが、毎日バタバタしながらも、9月25日の刊行予定日には何とか皆様にご覧いただける状態に持っていけそうですので、いましばらくお待ちいただけると幸いです。 |
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