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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 コロナ感染、アフリカの全ての国で確認
2020-05-15 Fri 01:07
 新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るう中、これまで、アフリカで唯一感染者が出ていなかった南部のレソトで13日(現地時間)に感染が確認され、2月14日にエジプトでアフリカ大陸初の感染者が出てから3ヶ月で、アフリカの全54カ国で感染が確認されることになりました。というわけで、最後の感染国となったレソトにちなんで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      レソト・レツィエ3世即位1年

 これは、1998年、現国王のレツィエ3世の即位1周年に際してレソトが発行した記念切手で、前年の戴冠式の際の国王の姿が取り上げられています。

 現在の南アフリカ共和国北部は先住民のソト人の居住地域で、1822年、その族長として、セーイソ家のモショエショエ1世が即位し、タバ・ボシウ丘陵を拠点に、周辺のングワネ人やンデベレ人の侵攻をしのいで地盤を固めていました。

 その後、オランダ系のアフリカーナーが内陸に侵入してくると、モショエショエ1世はこれに対抗して英国の保護を受けることを決断。1868年、その居住地域は英国の保護領として英領バストランドとなりました。これが、現在のレソト国家の原型となります。

 1966年10月4日、英領バストランドはレソト王国として独立しますが、その際、新国家の政府を率いたのは、バソト国民党(BNP)のレアブア・ジョナサン内閣でした。

 現在もそうですが、レソト経済は周囲を取り囲んでいる南アフリカ共和国(南ア)に完全に依存しているため、当初、BNPは南アのアパルトヘイトにも宥和的な姿勢を取っていました。その一方で、ジョナサン政権は、1967年1月以降、国民の尊敬を集めていた国王モショエショエ2世を事実上の自宅軟禁下に置くなど、独裁傾向が強く、少なからぬ国民がBNPに対して不満を持っていました。

 そうしたなかで、1970年の総選挙でBNPが敗北。ジョナサンは選挙結果を無効として独裁を強化し、圧力に耐えかねた国王は、一時、オランダへ亡命。その後、BNPは国王の政治的な実権を完全に剥奪しましたが、立憲君主として尊重することを条件に、両者の妥協が成立し、国王も帰国します。

 一連の混乱がレソト国民の反発を招くと、ジョナサン政権は、国民の不満をそらす必要から、突如、アパルトヘイトを激しく非難し、南アの反政府組織だったアフリカ民族会議(ANC)と友好関係を結びました。ところが、ジョナサンの“変心”に激怒した南ア政府は、レソト国内のANCの拠点に対する越境攻撃を開始。反政府組織の“レソト解放軍”を背後から操ってレソト政府軍と戦わせただけでなく、経済制裁も行うなど、ありとあらゆる手段でレソトに圧力をかけました。

 このため、レソト経済は停滞し、国民生活は大きな打撃を受けましたが、ジョナサンは自己の権力保持にばかり熱心で、有効な対策を打つことができず、1986年1月20日、南アの支援を受けたジャスティン・レハンヤの軍事クーデターによって失脚します。

 クーデター後の軍事評議会の議長に就任したレハンヤは、正統性を確保するためモショエショエ2世に接近し、制度上、国王は政治の実権を回復。しかし、情勢が安定し始めると、レハンヤは国王を軽んじるようになったため、両者の関係は悪化し、1990年、モショエショエ2世は再び海外亡命を余儀なくされ、皇太子が国王レツィエ3世として擁立されました。

 ところが、1991年2月、南アでアパルトヘイトの廃止が宣言されると、アパルトヘイト体制に宥和的だったレハンヤ政権の立場も微妙なものとなります。また、王室を軽視するレハンヤの姿勢には、レソト国内保守派の反発も強かったため、同年5月、軍事評議会のエリアス・ラマエマによるクーデターが発生し、レハンヤは追放されました。

 レハンヤの追放後、レツィエ3世は父のモショエショエ2世への王位の返還を表明しましたが、ラマエマ政権はモショエショエ2世の複位に反対し、レツィエ3世と対立。このため、1994年8月、レツィエ3世は、モショエショエ2世への王位の返還などを求めて、憲法を停止し、議会・内閣の解散を一方的に宣言するクーデターを起こします。

 国王によるクーデターへに対しては国民の反発も強く、翌9月にはゼネラル・ストライキや抗議デモが発生して国内は混乱したため、南アを中心とする周辺諸国の調停により、レツィエ3世が退位し、モショエショエ2世が王位に復帰するとともに、王権は制限されるということで最終的な決着が図られました。

 こうして、1995年1月、モショエショエ2世が複位しましたが、翌1996年1月、国王は交通事故により崩御。このため、1年間の服喪期間を経て、1997年にレツィエ3世が王位に復しました。その後、レツィエ3世は現在まで王位を保っており、昨年10月には今上陛下の即位礼正殿の儀に参列するため来日しています。

 
★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 5月15日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。
 

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 出版社からのコメント
 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す!
 丁寧に読むといろいろ々発見があります。

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 世界の国々:レソト
2016-04-27 Wed 09:08
 ご報告が遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2016年4月27日号が先週発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はレソトの特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      レソト・ケープ切手使用

 これは、1911年、英領バストランド時代のモリジャで使用された英領ケープ植民地切手のオンピースです。

 18世紀末、金やダイヤモンドの鉱脈を狙ってアフリカ南部に到来した英国人は、すでにこの地に住んでいたオランダ系のアフリカーナー(ボーア人)と戦い、ナポレオン戦争中の1795年、ケープタウンを占領。1806年には、ケープ植民地全体を接収します。
 
 ナポレオン戦争後の1815年、ケープ植民地は正式にオランダから英国へ譲渡されました。これに伴い、英国人の移民が大量に流入したため、アフリカーナーは英国の圧迫を逃れて北東部の奥地へ大移動を開始し、先住アフリカ人諸民族と戦いながらトランスヴァール共和国やオレンジ自由国、ナタール共和国を建国しました。

 これに対して、現在の南アフリカ共和国北部に居住していた先住民のソト族は、アフリカーナーの進入に対抗するため、英国の保護を受けるようになり、1868年、その居住地域は英国の保護領として英領バストランドとなります。1871年、バストランドは英保護領から植民地となり、翌1872年、現在のレソトの首都であるマセル等に英国郵便局が設けられました。英領ケープ植民地の切手が持ち込まれて使用されるようになったのは、1876年頃のことです。

 その後、バストランドは 1884年には植民地から保護領にもどり、南アフリカ連邦が発足した1910年からは南ア連邦の切手が使用されることになりましたが、今回ご紹介のオンピースに見られるように、その後はしばらく英領ケープ植民地の使用も認められていました。

 なお、今回ご紹介のオンピースの消印にあるモリジャは、レソト西部、首都マセルの南約35kmの位置にある年で、1830年代に現在のレソト領内で最初にキリスト教の伝道が行われた地として知られています。

 さて、『世界の切手コレクション』4月27日号の「世界の国々」では、1966年の独立以降のレソト現代史についてまとめたコラムのほか、マロチ山脈南部の壁画洞窟、マロチ山脈のスキー場、恐竜のレソトサウルスの切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、僕が担当する「世界の国々」は、次回は本日(27日)発売の5月4号での国際連合の特集になります。こちらについては、5月4日以降、このブログでもご紹介する予定です。


 
 ★★★ アジア国際切手展<CHINA 2016>作品募集中! ★★★

 本年(2016年)12月2-6日、中華人民共和国広西チワン族自治区南寧市の南寧国際会展中心において、アジア国際切手展<CHINA 2016>(以下、南寧展)が開催されます。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を6月12日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。

 ★★★ 内藤陽介の新刊  『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 

       ペニーブラック表紙 2350円+税

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 若く美しい女王の横顔に恋しよう!
 世界最初の切手
 欲しくないですか/知りたくないですか

 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。

 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。


 ★★★ 内藤陽介の新刊  『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 

       アウシュヴィッツの手紙・表紙 2000円+税

 【出版元より】
 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。

 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。

 インターネット放送「チャンネルくらら」にて、本書の内容をご紹介しております。よろしかったら、こちらをクリックしたご覧ください。


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 レソトでクーデター
2014-08-31 Sun 17:10
 アフリカ南部のレソトで、昨日(30日)、クーデターが発生し、軍が首都マセルにある主要施設を占拠。トーマス・タバネ首相は隣国・南アフリカに逃亡しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      レソト独立記念

 これは、1966年10月4日、レソトの独立当日に発行された独立記念切手で、左側にレソト王室の祖であうモショエショエ1世の肖像が、右側に独立当時の国王モショエショエ2世の肖像が並べて描かれています。

 18世紀末、金やダイヤモンドの鉱脈を狙ってアフリカ南部に到来したイギリス人は、すでにこの地に住んでいたオランダ系のアフリカーナー(ボーア人)と戦い、ナポレオン戦争中の1795年、ケープタウンを占領。1806年には、ケープ植民地全体を接収します。
 
 ナポレオン戦争後の1815年、ケープ植民地は正式にオランダからイギリスへ譲渡されました。これに伴い、イギリス人の移民が大量に流入したため、アフリカーナーはイギリスの圧迫を逃れて北東部の奥地へ大移動を開始し、先住アフリカ人諸民族と戦いながらトランスヴァール共和国やオレンジ自由国、ナタール共和国を建国しました。

 これに対して、現在の南アフリカ共和国北部に居住していた先住民のソト族は、アフリカーナーの進入に対抗するため、イギリスの保護を受けるようになり、1868年、その居住地域はイギリスの保護領として英領バストランドとなります。1871年、バストランドはイギリスの保護領から植民地となり、翌1872年、現在のレソトの首都であるマセル等にイギリスの郵便局が設けられました。英領ケープ植民地の切手が持ち込まれて使用されるようになったのは、1876年ごろのことです。

 1884年、バストランドは植民地から保護領にもどり、南アフリカ連邦が発足した1910年からは南ア連邦の切手が使用されていましたが、1933年以降、バストランドとして独自の正刷切手が発行されるようになります。

 その後、1959年、イギリスから自治が認められますが、これに伴い、通貨単位もそれまでのポンドからランドに変更。さらに、1965年の自治政府時代を経て、翌1966年10月4日、レソト王国として独立し、今回ご紹介の切手が発行されたというわけです。

 ところで、独立以来、レソトでは何度かクーデターが発生していますが、今回ご紹介の切手に取り上げられたモショエショエ2世もまた、クーデターに翻弄された人物です。

 1966年の独立に際してレソトの政府を率いたのは、バソト国民党のレアブア・ジョナサン内閣でしたが、国王モショエショエ2世はジョナサンの独裁傾向に批判的で、それゆえ、1967年1月以降、事実上の自宅軟禁下に置かれていました。1970年、総選挙バソト国民党が敗北すると、ジョナサンは選挙結果を無効として独裁を強化し、圧力に耐えかねたモショエショエ2世は、壱次、オランダへの亡命を余儀なくされました。その後、国王は政治的な実権のない立憲君主とすることで妥協が成立し、レソトに帰国します。

 ところで、レソトは周囲を南アフリカ共和国(以下、南ア)に囲まれており、経済的にも南アへの依存度が高かったため、独立後のジョナサン政権は、アパルトヘイトに対して強硬姿勢を示していませんでしたが(というよりも、強硬姿勢を示すことができなかったというべきでしょうが)、1970年の総選挙と国王追放後、政権に対する国民の反発が高まり、その不満をそらす必要から、突如、アパルトヘイトを激しく非難し始め、反政府組織だったアフリカ民族会議(ANC)と友好関係を結びます。

 まぁ、このこと自体は国際社会と歩調を合わせたものとして批判の対象にはならないかもしれませんが、結果的に、ジョナサンの“変心”は南アを激怒させ、南ア政府はレソト国内のAMCの拠点に対する越境攻撃を行ったほか、反政府組織の“レソト解放軍”を背後から操ってレソト政府軍と戦わせただけでなく、経済制裁も行うなど、ありとあらゆる手段でレソトに圧力をかけ続けました。

 この結果、レソト経済は停滞し、国民生活は大きな打撃を被りましたが、みずからの権力を維持することに汲々としていたジョナサンは有効な対策を打つことができず、最終的に、1986年1月20日、南アの支援を受けたジャスティン・レハンヤの軍事クーデターによって失脚します。

 クーデターによって樹立された軍事評議会の議長に就任したレハンヤは、正統性を確保するためモショエショエ2世に接近し、制度上、国王は政治の実権を回復します。しかし、情勢が安定し始めると、1987年1月17日には王家の象徴であるバソト・ハット(レソト帽)を中央にあしらった従来の国旗を廃して新国旗を制定するなど、レハンヤは国王を軽んじるようになったため、両者の関係は悪化。このため、1990年、モショエショエ2世は再び海外亡命を余儀なくされ、レハンヤによって皇太子が国王レツィエ3世として擁立されます。

 ただし、モショエショエ2世とレツィエ3世父子の個人的な人間関係は悪くなく、1991年、軍事評議会のエリアス・ラマエマによるクーデターでレハンヤが追放されると、レツィエ3世は父モショエショエ2世への王位の返還を表明します。しかし、ラマエマ政権はこれに反対し、レツィエ3世と対立。このため、1994年8月、レツィエ3世は、モショエショエ2世への王位の返還などを求めて、憲法を停止し、議会・内閣の解散を一方的に宣言するクーデターを起こします。しかし、国王によるクーデターには国民の反発も強く、翌9月にはゼネラル・ストライキや抗議デモが発生して国内が混乱したこともあり、周辺諸国の調停もあって、レツィエ3世が退位し、モショエショエ2世が王位に復帰するとともに、王権は制限されるということで決着が図られました。

 こうして、1995年1月、レソト国王の座に返り咲いたモショエショエ2世でしたが、翌1996年1月、交通事故により崩御したため、レツィエ3世が王位に復帰し、現在に至るまでその地位を保っています。


 ★★★ イベントのご案内 ★★★

 ・9月6日(土) 09:30- 切手市場
 於 東京・日本橋富沢町8番地 綿商会館

 詳細は主催者HPをご覧ください。新作の『朝鮮戦争』を中心に、拙著を担いで行商に行きます。 会場ならではの特典もご用意しております。ぜひ遊びに来てください。


 ★★★ 講演会のご案内 ★★★ 

 ~韓国文化院 講演会シリーズ2014 『韓日交流史』~
 第9回は内藤陽介「韓国の切手でひも解く韓国近現代史」 です!

 ◇日時:2014年9月5日(金) 開場 18:30 開演 19:00
 ◇会場:韓国文化院 ハンマダンホール
 ◇募集人員:300名様(お申し込みはお一人様2名まで)
 ◇入場無料(事前のお申込みが必要です)
 ◇主催・お問い合わせ先:駐日韓国大使館韓国文化院 03-3357-5970

 ■ 韓国文化院のホームページ・トップの 「イベント応募コーナー」欄(こちらをクリックしてください)からお申し込みいただけます。たくさんの皆様のお申し込みを心よりお待ち申しております。

 * 表向き、応募の〆切は過ぎていますが、直接内藤宛にご連絡いただければ、お席は確保できます。どうぞ遠慮なく、ご連絡ください。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『朝鮮戦争』好評発売中! ★★★ 

 お待たせしました。約1年ぶりの新作です!

        朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

 *8月24日付『讀賣新聞』読書欄、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました!


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 南アでワニ1万5000匹脱走
2013-01-25 Fri 14:02
 南アフリカ(南ア)北東部リンポポ州で、20日夜から続いた大雨による洪水でワニ養殖場からワニ1万5000匹が脱走し、養殖場や周辺の人々は避難を余儀なくされるなど、騒ぎになっているそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        バストランド(1933年)

 これは、1933年に発行されたバストランド最初の切手のうちの5シリング切手で、英国王ジョージ5世の下にワニが描かれています。

 18世紀末、金やダイヤモンドの鉱脈を狙ってアフリカ南部に到来したイギリス人は、すでにこの地に住んでいたオランダ系のアフリカーナー(ボーア人)と戦い、ナポレオン戦争中の1795年、ケープタウンを占領。1806年には、ケープ植民地全体を接収します。
 
 ナポレオン戦争後の1815年、ケープ植民地は正式にオランダからイギリスへ譲渡されました。これに伴い、イギリス人の移民が大量に流入したため、アフリカーナーはイギリスの圧迫を逃れて北東部の奥地へ大移動を開始し、先住アフリカ人諸民族と戦いながらトランスヴァール共和国やオレンジ自由国、ナタール共和国を建国しました。

 これに対して、現在の南アフリカ共和国北部に居住していた先住民のソト族は、アフリカーナーの進入に対抗するため、イギリスの保護を受けるようになり、1868年、その居住地域はイギリスの保護領として英領バストランドとなります。

 1871年、バストランドはイギリスの保護領から植民地となり、翌1872年、現在のレソトの首都であるマセル等にイギリスの郵便局が設けられました。英領ケープ植民地の切手が持ち込まれて使用されるようになったのは、1876年ごろのことです。

 その後、1884年には植民地から保護領にもどり、南アフリカ連邦が発足した1910年からは南ア連邦の切手が使用されていましたが、1933年、今回ご紹介しているようなバストランドとしての最初の正刷切手が発行されました。

 その後、1959年、イギリスから自治が認められますが、これに伴い、通貨単位もそれまでのポンドからランドに変更。さらに、1965年の自治政府時代を経て、翌1966年10月4日、レソト王国として独立し、英連邦に加盟しました。

 なお、南アを中心とした南部アフリカでは、ナイルワニ(別名ニトティカス。全長4-6m、体重300-1000キロ)を中心にワニの養殖が盛んに行われており、食肉用や高級革製品の材料として輸出されています。鳥獣料理としては、鶏肉に味の近いワニ肉は、塩焼や唐揚にすると美味で、南アでは、インパラ、ダチョウと並び、人々に好まれています。拙著『喜望峰』では、残念ながら、ワニ肉のことは触れられませんでしたが、日本でも食べられる店はありますので、機会がありましたら、ぜひお試しください。


 【世界切手展BRASILIANA 2013のご案内】

 僕が日本コミッショナーを仰せつかっている世界切手展 <BRASILIANA 2013> の作品募集要項が発表になりました。国内での応募受付は2月1―14日(必着)です。詳細はこちらをご覧ください。


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 レソトの馬
2010-11-27 Sat 11:27
 きのう(26日)、陛下への信任状奉呈式へ向かうため、レソト王国の男性大使が乗っていた馬車を護衛していた警視庁騎馬隊の馬が暴れだし、乗っていた第3方面交通機動隊の男性巡査部長が落馬して、約30メートル引きずられました。巡査部長は首の骨を折るなどの重傷ですが、さいわい命に別条はないということです。巡査部長にはお気の毒ですが、こういう機会でもないと、レソトが日本のメディアに取り上げられることもないので、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        レソト・1966年加刷

 これは、レソト独立直後の1966年11月1日に発行された2セント切手で、英領バストランド時代の切手にレソトの国名が加刷されています。

 レソトは周囲を南アフリカ共和国に囲まれた内陸国で、国名は“ソト語を話す人々”という意味です。

 18世紀末、金やダイヤモンドの鉱脈を狙ってアフリカ南部に到来したイギリス人は、すでにこの地に住んでいたオランダ系のボーア人と戦い、ナポレオン戦争中の1795年、ケープタウンを占領。1806年には、ケープ植民地全体を接収します。
 
 ナポレオン戦争後の1815年、ケープ植民地は正式にオランダからイギリスへ譲渡されました。これに伴い、イギリス人の移民が大量に流入。ボーア人は自らを“アフリカーナー”と称して、イギリスの圧迫を逃れて北東部の奥地へ大移動を開始し、先住アフリカ人諸民族と戦いながらトランスヴァール共和国やオレンジ自由国、ナタール共和国を建国しました。

 これに対して、現在の南アフリカ共和国北部に居住していたソト族は、ボーア人の進入に対抗するため、イギリスの保護を受けるようになり、1868年、その居住地域はイギリスの保護領として英領バストランドとなりました。

 1871年、バストランドはイギリスの保護領から植民地となり、翌1872年、現在のレソトの首都であるマセル等にイギリスの郵便局が設けられました。英領ケープ植民地の切手が持ち込まれて使用されるようになったのは、1876年ごろのことです。

 その後、1884年には植民地から保護領にもどり、南アフリカ連邦が発足した1910年からは南ア連邦の切手が使用されました。バストランドとしての独自の正刷切手が発行されるようになったのは、1933年のことでした。

 1959年、イギリスから自治が認められますが、これに伴い、通貨単位もそれまでのポンドからランドに変更されます。今回ご紹介の切手の台切手は、1954年に発行された2ペンス切手の額面を2セントに変更して1961年2月14日に発行したもので、現地住民の乗馬風景が描かれています。レソトの領域は全土の標高が1400mを超えており、“アフリカのスイス”とも呼ばれていますが、切手に描かれた民族衣装はいかにも高地の住民といった風情ですな。

 バストランドは、1965年の自治政府時代を経て、翌1966年10月4日、レソト王国として独立。英連邦に加盟します。今回ご紹介の切手はそれにあわせて発行された通常切手ですが、独立レソトの切手としては、独立当日に発行された記念切手の方が先になります。

 2000年以降、レソトではアメリカ市場向けの繊維産業誘致に成功し、年率3%を超える経済成長を果たしているのだとか。アメリカに旅行してお土産にTシャツを買ってみたら、メイド・イン・レソトだったということもあるかもしれませんね。


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