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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 NATO最大演習に空自参加
2023-06-16 Fri 04:56
 航空自衛隊は、きのう(15日)、ドイツ空軍が主導し、北大西洋条約機構(NATO)加盟国などが参加する最大規模の空軍演習“エアディフェンダー23”に、内倉浩昭航空幕僚長と訓練運用担当の1佐など幹部自衛官3人が参加すると発表しました。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ドイツ・ヴンストルフ空軍基地50年

 これは、今回の演習“エアディフェンダー23”で使用されるヴンストルフ航空基地の開設50周年を記念して作られた記念カバーで、ヴンストルフ市の紋章と新旧の軍用機が描かれた1985年9月14日付のヴンストルフ局の記念印が押されています。

 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。


★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★

 6月23日(金) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。

 6月24日(土) ジョン・F・ケネディとその時代
 6月24日(土) 13:00~14:30 よみうりカルチャー北千住での事前体験講座です。今から60年前の1963年11月に暗殺をされたケネディ大統領とその時代について、様々な角度から解説をします。7月以降も毎月第4土曜日に開港予定

 よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00
 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。
 
 武蔵野大学のWeb講座 
 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」と「日本郵便150年の歴史」の2種類の講座をやっています。詳細はこちらをご覧ください。 

★ 『現代日中関係史 第2部 1972-2022』 好評発売中!★

      現代日中関係史2

 2022年11月に刊行された「第1部1945-1972」の続編で、日中国交”正常化”以降の1972年から2022年までの半世紀の、さまざまな思惑が絡まり合う日中関係の諸問題を、切手とともに紐解いていきます。

 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 ドイツ、2023年春まで原発運転継続へ
2022-11-12 Sat 11:59
 ドイツ連邦議会(下院)は、きのう(11日)、年内に停止予定だった国内の原子力発電所の原子炉全3基について、2023年4月15日まで稼働延長を認める法案を可決しました。3基は、州の代表で構成する連邦参議院(上院)の承認を経て来年1月以降も稼働を延長する見通しで、現時点では、期限となる4月15日をもって停止されることになっています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      西ドイツ・科学研究の促進(1955)

 これは、1955年6月24日に西ドイツが発行した"科学研究の促進”の切手で、地球と原子のイメージがデザインされています。

 第二次大戦後、敗戦国となったドイツでは原子炉とウラン濃縮の研究が禁止されていましたが、1954年10月のパリ協定によって、核兵器を製造しないことを条件に、原子炉研究が解禁され、翌1955年5月5日、同協定の批准・発効を受けて、原子力発電の開発が始まりました。今回ご紹介の切手は、これを記念して発行されたものです。
 
 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。

 * 昨日(11日)の文化放送「おはよう寺ちゃん」の僕の出番は、無事、終了いたしました。 リスナーの皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。次回は11月25日に登場の予定です。引き続きよろしくお付き合いください。

★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★

 11月25日(金) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。

 よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00
 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。

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 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」と「日本郵便150年の歴史」の2種類の講座をやっています。詳細はこちらをご覧ください。 


★ 『現代日中関係史 第1部 1945-1972』11月20日刊行! ★

      現代日中関係史表_第1部

 日本郵趣出版の新レーベル「郵便×歴史シリーズ」の第一弾の企画として、切手という切り口から第二次大戦後の日中関係を読み解く『現代日中関係史』。その第1巻となる本書は、第二次大戦後、わが国が中華人民共和国と国交を樹立(いわゆる国交正常化)する1972年9月以前を取り扱っています。なお、1972年の国交”正常化”以降については、2023年3月に刊行予定の第2巻でまとめる予定です。

 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページのリンクがあるほか、主要書店の店頭在庫も確認できます。また、販売元の郵趣サービス社のサイト、スタマガネットの特設サイトサイトでは、本書の内容見本をご覧いただけます。 

★ 『本当は恐ろしい! こわい切手』 好評発売中!★

      『本当は恐ろしい! こわい切手』

 怨霊、ゾンビ、鬼、そして人間の闇 … 古今東西の奇妙な切手を集めた一冊。
 それぞれの切手には、いずれも世に出るだけの理由が必ずある。
 その理由を求めて、描かれた題材の歴史的・文化的・社会的背景を探っていくと、そこからさまざまなドラマが浮かび上がってくる。

 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 昭和の日
2022-04-29 Fri 00:41
 きょう(29日)は“昭和の日”です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      昭和天皇訪欧カバー(西ドイツ)

 これは、1971年に訪欧された昭和天皇・香淳皇后の西ドイツ到着時に制作された記念カバーで、カシェにはご夫妻の写真が、記念印には菊花紋章と“KAISER UND KAISERIN VON JAPAN”の文言が入っています。

 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。

 また、昭和天皇の訪欧・訪米については、拙著『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.2 戦後編』でも取り上げておりますので、機会がありましたらお手に取ってご覧いただけると幸いです。


★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★

 4月29日(金・祝) 14:00~ ニコニコ超会議 2022
 ニコニコ超会議の立花孝志×スペシャルゲスト★トークショー2022内のプログラム「ロシア・ウクライナ戦争から学ぶ日本の国防」に内藤が登場します。詳細はこちらをご覧ください。

 5月4日(水・祝) 13:00~ よみうりカルチャー北千住 公開講座 
 よみうりカルチャー北千住にて、公開講座「アフガニスタン現代史」を行います。拙著『アフガニスタン現代史』の内容を90分にギュッと凝縮した内容をお届けいたします。お申込など詳細は、こちらをご覧ください。

 5月7日(土) 14:00~ 第4回 救国シンクタンクフォーラム
 東京・永田町の星稜会館で開催の第4回救国シンクタンクフォーラムのパネリストとして内藤が登場します。今回のお題は“ウクライナとレジ袋”です。詳細はこちらをご覧ください。

 5月13日(金) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。

 武蔵野大学のWeb講座
 4月6日-7月12日 鏑木清方と江戸の残り香
 詳細はこちらをご覧ください。
 
 4月13日-7月19日 日本の郵便150年の歴史2 占領時代(1945年の終戦から1952年)
 詳細はこちらをご覧ください。
 
 5月18日-8月23日 日本の歴史を学びなおす― 近現代編その2― 幕末
 詳細はこちらをご覧ください。 

★ 最新作 『アフガニスタン現代史』 好評発売中!★

      アフガニスタン現代史・表紙帯付き
 
 出版社からのコメント
 混迷のアフガニスタン情勢の理解に必須の通史!
 911同時多発テロ事件とその後のアフガニスタン空爆から20年。西側が支援した新共和国が崩壊し、再びタリバンが実効支配下に置いたアフガニスタン。英国、ソ連、米国…介入してきた大国の墓場と呼ばれてきたこの国の複雑極まりない現代史を、切手や郵便資料も駆使しながら鮮やかに読み解く。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 聖マキシミリアノ・コルベの祝日
2019-08-14 Wed 01:14
 きょう(14日)は、1941年にアウシュヴィッツ収容所で殉教したカトリックの聖人、聖マキシミリアノ・コルベ神父の祝日です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      西独・コルベ神父

 これは、1973年、当時の西ドイツが発行したコルベ神父の切手で、神父の肖像の右下には殉教の地、アウシュヴィッツの表示もあります。

 マキシミリアノ・マリア・コルベ神父(出生名ライムンド・コルベ)は、1894年1月8日、ロシア帝国の支配下にあったポーランドのズドゥニスカ・ヴォラ生まれ。1907年に、兄のフランシスコとともにコンベンツァル聖フランシスコ修道会への入会を決意し、同修道会の神学校に入学しました。1910年、修練院に入り、翌1911年、マキシミリアンの名前を与えられています。

 その後、ローマで哲学、神学、数学および物理学を学び、1915年にグレゴリアン大学で哲学の博士号を、1919年には神学の博士号を取得。この間、1917年10月16日に「汚れなき聖母の騎士会」を創立しています。

 ローマで司祭叙階を受けた後、クラクフにある大神学校の教会史の教授として3年間勤め、1927年にはワルシャワ近郊のテレシンでニエポカラノフ修道院(無原罪の聖母の騎士修道院)を創立し、『無原罪の聖母の騎士』という小冊子を発行してメディアによる宣教に力を入れました。

 1930年、コルベは数名のポーランド人修道士とともに、長崎での宣教を開始。同年5月、大浦天主堂下の木造西洋館に聖母の騎士修道院を開き、日本語版の『無原罪聖母の騎士』を出版するなどして、宣教活動に尽力しました。

 1936年、ニエポカラノフ修道院の院長に選ばれたために故国ポーランドに帰国。出版やラジオなどを通じての活発な布教活動を行っていましたが、1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発。同月19日、西ポーランドがドイツに占領されると、“反独分子”としてコルベは修道院に残った修道者らと逮捕され、アムティッツ強制収容所へと収容されました。その後、11月にポーランド領にあるオスチェロー強制収容所へ移送されました後、12月18日にいったん釈放されたものの、ユダヤ人にも人道的態度で接したことなどを理由に、1941年2月17日、再逮捕され、パヴィアック収容所を経て、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られます。

 1941年7月末、収容所内の彼の所属班から脱走者が出たことで、“連帯責任”として無作為10人が選ばれて餓死刑に処せられることになった際、自由ポーランド軍の軍曹、フランツェク・ガイオニチェクが「私には妻子がいる」と泣き叫びだしたの聞いたコルベは、彼の身代わりになることを申し出て、餓死刑を受けることを申し出て地下牢の餓死室に送られました。

 その後、牢内でコルベは2週間ほど生きていましたが、1941年8月14日、収容所当局はフェノールを注射により彼を殺害して殺害され、翌15日、荼毘に付されました。ちなみに、カトリックでは8月15日は“聖母被昇天の日”の祝日になっており、生前のコルベは聖母の祝日に死にたいと語っていたそうです。

 戦後、コルベの行為は称賛され、1971年10月、教皇パウロ6世は彼を列福。さらに、東西冷戦下で無神論国家のソ連に対抗すべく、祖国ポーランドのナショナリズムと信仰心を高揚させるべく、1979年6月にお国入りした教皇ヨハネパウロ2世は、ビルケナウのアウシュヴィッツ第2収容所跡を訪れ、約50万人とともにミサを行い、強制収容所を「私たちの時代のゴルゴダ」と呼び、コルベを称えるとともに、ビルケナウのガス室で殺害された修道女エーディト・シュタインについて列福のための調査を行う方針を明らかにします。

 はたして、ヨハネ・パウロ2世の企図した通り、教皇の訪問を契機として、ポーランド国内の反ソ感情は高揚。1980年7月、政府が発表した食糧品等の大幅値上げに反対し、グダニスク等のバルト海沿岸地方で労働者のストが発生し、これが全国に波及する勢いとなったため、政府とグダニスクの連合スト委員会の交渉が行われ、政府は、9月17日、ポーランドでは共産圏として初めて、共産党(ポーランドでは統一労働者党)の統制を受けない独立自主管理労働組合“連帯”の発足を認めざるを得なくまりました。

 当初、統一労働者党の目論見としては、党が政治、“連帯”が社会活動にそれぞれ専念するという分業を想定していましたが、“連帯”の組織は全国的に拡大し、レフ・ワレサ率いる指導部は政府との対立のなかでしだいに急進化。これに対して、ソ連がポーランドに軍事介入する姿勢を見せるようになったため、1981年12月、ポーランド政府は戒厳令を発令。“連帯”幹部の大半が拘禁され、翌1982年10月には、“連帯”は非合法化されました。

 これに対して、逮捕を免れた“連帯”幹部は、1982年4月、地下組織として暫定委員会を結成し、1989年の民主化実現まで、抵抗を訴え続けます。

 ポーランド情勢の変化を受けて、1982年10月10日、教皇ヨハネ・パウロ2世は、急遽、アウシュヴィッツで殉教したコルベをカトリックの信徒として最高の栄誉である聖人に列し、8月14日をコルベを記念する祝日としました。コルベの列聖に際しては、直接的に批判されているのは、彼を餓死刑で殺害したナチス・ドイツですが、暗に、“連帯”を非合法化したポーランド政府もナチス同様の存在であるとの批判が込められていたのは明らかでした。

 なお、コルベについては、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。

 * 昨日(13日)、アクセスカウンターが208万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。

★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★

      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

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 アウシュヴィッツの聖者
2015-11-01 Sun 17:39
 きょう(1日)は、カトリックの祝日“万聖節(全ての聖人と殉教者を記念する日)”です。というわけで、数多の聖人・殉教者の中を取り上げた切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      エーディト・シュタイン

 これは、1983年に西ドイツが発行した修道女・エーディト・シュタインの切手です。

 エーディト・シュタインは、1891年、ドイツ帝国支配下のブレスラウ(ポーランド名ブロツワフ)でユダヤ人商人の家庭に生まれました。
 
 1904年、13歳の時にユダヤ教を棄教して無神論者になり、1913年以降、エドムント・フッサールに師事。1916年に哲学博士号を取得し、フライブルク大学で教職を得ています。

 その後、1922年にカトリックの洗礼を受けましたが、1933年、“ユダヤ人”であることを理由にナチス政権下で教職を追われ、翌1934年、ケルンでカルメル会の修道女となりました。さらに、ナチスの迫害を逃れてオランダに亡命したものの、捕えられてアウシュヴィッツ収容所に移送され、1942年8月9日、ガス室で殺害されています。

 1979年6月、祖国ポーランドを訪問した教皇ヨハネ・パウロ2世はビルケナウのアウシュヴィッツ第2収容所跡を訪れ、約50万人とともにミサを行い、強制収容所を「私たちの時代のゴルゴダ」と呼び、アウシュヴィッツで亡くなったコルベ神父を称えるとともに、ビルケナウのガス室で殺害された修道女エーディト・シュタインについて列福のための調査を行う方針を明らかにします。

 ところで、エーディトのように、血統としてはユダヤ人だが、信仰上はカトリックの信徒であるという“ユダヤ系カトリック”の例は決して珍しくはないのですが、そうしたユダヤ系キリスト教徒を“ユダヤ人”として認定すべきか否かは、ユダヤ人国家の建前を掲げるイスラエルにおいて激しい論争となっていました。このため、エーディトを“ユダヤ系カトリック”として列福することにはユダヤ人団体から抗議が寄せられています。

 一方、カトリックの内部にも、(カトリックの信仰のゆえにではなく)単なる一ユダヤ人としてその他のユダヤ人と同じくガス室で殺害された彼女を“殉教者”と見なしうるかどうかという点で論争がりました。

 しかし、最終的に、彼女が“アウシュヴィッツの聖女”として広く知られるようになっていたこともあり、ヨハネ・パウロ2世は、まずは彼女を列福する方針を固め、それにより、1987年、彼女が列福され、さらに、1998年10月11日には列聖されました。

 なお、ヨハネ・パウロ2世のポーランド訪問は、彼の企図した通り、ポーランド国内のナショナリズムと反ソ感情させるという結果をもたらし、1980年7月には、政府が発表した食糧品等の大幅値上げに反対し、グダニスク等のバルト海沿岸地方で労働者のストが発生。これが全国に波及する勢いとなったため、政府とグダニスクの連合スト委員会の交渉が行われ、政府は、9月17日、ポーランドでは共産圏として初めて、共産党(ポーランドでは統一労働者党)の統制を受けない独立自主管理労働組合“連帯”が発足します。

 しかし、その後、“連帯”の組織が全国的に拡大して急進化したことで、ソ連がポーランドに軍事介入する姿勢を見せるようになったため、1981年12月、ポーランド政府は戒厳令を発令。“連帯”幹部の大半が拘禁され、翌1982年10月には、“連帯”は非合法化され、以後、地下組織として抵抗を続けることになります。

 今回ご紹介の切手は、こうした状況の下、1983年1月に東西冷戦の最前線にあった西ドイツが発行したもので、切手には、彼女が1942年にアウシュヴィッツで亡くなったことを示す文言も入っています。これにより、見る人が見れば、ポーランドでの一連の動きの原点なった教皇のポーランド訪問(特にアウシュヴィッツ訪問)のことが連想されるという仕掛けになっているわけです。

 なお、このあたりの事情については、拙著『アウシュビッツの手紙』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 *本日開催の拙著『英国郵便史 ペニー・ブラック物語』の刊行記念のトークイベントは、無事、盛況のうちに終了いたしました。お集まりいただいた皆様ならびにスタッフの方々には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。ありがとうございました。

 ★★★ イベントのご案内 ★★★ 

 ・11月7日(土) 09:30- 切手市場
 於 東京・日本橋富沢町8番地 綿商会館
 詳細は主催者HPをご覧ください。新作の『アウシュヴィッツの手紙』ならびに『ペニー・ブラック物語』を中心に、拙著を担いで行商に行きます。 会場ならではの特典もご用意しております。ぜひ遊びに来てください。

 ★★★ 内藤陽介の新刊  『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 

       ペニーブラック表紙 2350円+税

 【出版元より】
 若く美しい女王の横顔に恋しよう!
 世界最初の切手
 欲しくないですか/知りたくないですか

 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。

 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。

 ★★★ 内藤陽介の新刊  『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 

       アウシュヴィッツの手紙・表紙 2000円+税

 【出版元より】
 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。

 11月11日刊行予定ですが、現在、版元ドットコムamazonhontoネットストア新刊.netの各ネット書店で予約受付中ですので、よろしくお願いします。

 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★

 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。

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 ドイツ自民党、議席喪失
2013-09-24 Tue 20:06
 22日に投開票が行われたドイツの連邦議会(下院)選挙は、メルケル首相ひきいる中道右派のキリスト教民主・社会同盟が大勝したものの、連立を組んでいた自由民主党(自民党)は得票率4.8%の大敗を喫し、小党乱立を防ぐため定められた5%の必要得票率に達せず、1949年の第1回連邦議会以来、守り続けてきた議席を失いました。というわけで、ドイツ自民党といえば、やはりこの人でしょうか。(画像はクリックで拡大されます)

       ホイス大統領50ペニヒ

 これは、1954年に西ドイツで発行された50ペニヒの普通切手で、連邦初代大統領にしてドイツ自民党の初代代表だったテオドール・ホイスの肖像が取り上げられています。

 ホイスは、1884年、ブラッケンハイム生まれ。ミュンヘンとベルリンで経済学、政治学、歴史学、哲学、美術史を学び、1905年、ミュンヘン大学で博士号を取得しました。その後はジャーナリストとし、「ネッカー新聞」の編集長、雑誌「ドイツ国民」の発行人などを務めるとともに、1918年、ドイツ民主党の設立に参加。翌1919年にベルリン・シェーネベルク区の区議会議員に当選して政界入りします。

 ワイマール体制下ではドイツ国民議会の議員を務めましたが、ヒトラー政権下の全権委任法によって議席を失いました。議員失職後も、ホイスは左派リベラル系のジャーナリストならびに大学講師として活動していましたが、1942年、すべての言論活動を禁じられ、偽名での活動を余儀なくされています。

 第二次大戦後、米軍占領下で新聞発行許可を与えられるとともに、ヴュルテンベルク・バーデン州(現在のバーデン・ヴュルテンベルク州北部)の文化大臣に任命され、党友ラインホルト・マイアー率いる全党内閣に入閣。1948年にワイマール共和国時代の旧ドイツ人民党と旧ドイツ民主党のメンバーが合流する形でドイツ自民党が結成された際には、ドイツ民主党の全ドイツ地区の共同代表として参加。同年12月の結党大会で西ドイツとベルリンの代表に選出されました。

 1949年の第1回連邦議会選挙では議員として当選しましたが、9月12日に連邦会議による投票で連邦大統領に当選したため、議員を辞職。2期10年の任期を全うし、政党を越えた権威として、敗戦国ドイツの対外的信頼を回復することに尽力しました。ちなみに、切手の発行が開始された1954年は、彼が事実上対抗候補なしで再選された年にあたります。

 今回の選挙でのドイツ自民党の惨敗は、前回の総選挙後、付加価値税の減額の恩恵を受ける企業から多大な献金を受け取っていたことが発覚したことで批判を浴び、有権者の支持を失ったことによるものですが、それにしても獲得議席ゼロとは驚きました。日本でも国会議員の選挙にドイツ同様の5%条項が適用されれば、社民党(2012年総選挙での社民党の得票率は選挙区で0.7%、比例代表で2.3%。2009年総選挙でも選挙区で1.0%、比例代表で4.27%)なんかは雲散霧消していてもおかしくないんですけどねぇ…。連中の支持基盤と思しき左派系の人たちの中には、何かというと「ドイツを見習え」と口にする人が多いようですが、そういうことなら、5%条項もきちんと見習ってもらわないとね。


 ★★★ 内藤陽介の最新作 『蘭印戦跡紀行』 好評発売中! ★★★

 『蘭印戦跡紀行』広告

 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。
 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より)

 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。
 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。

 * 出版元特設ページはこちらをご覧ください。

 ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★   

 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は10月1日(原則第1火曜日)で、以後、11月5日、12月3日、1月7日、2月4日、3月4日に開催の予定です。時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


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 鼻の日
2011-08-07 Sun 23:21
 きょう(8月7日)は、語呂合わせで“鼻の日”です。今年は、1961年に日本耳鼻咽喉科学会が“鼻の日”を制定してから50周年でもありますし、きょうはストレートにこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        ドイツ・鼻

 これは、1986年に西ドイツが発行したヨーロッパ切手のうち、ミケランジェロのダビデ像の鼻の部分を大きく取り上げた切手です。

 ヨーロッパ切手というのは、毎年、ヨーロッパ各国が統一テーマの下、それぞれ趣向を凝らして発行している切手のことで、1986年のテーマは“環境”でした。このとき、西ドイツの切手は“鼻”を大胆に取り上げることで、大気汚染のない清浄な空気の大切さをアピールしたというわけです。

 ところで、ダビデ像の鼻といえば、こんなエピソードがあります。

 ダビデ像の制作中、ミケランジェロは作業現場に関係者以外が立ち入ることを固く禁じていましたが、フィレンツェ市長が視察に訪れた時は、これを拒むことはできませんでした。市長は制作中の像を見ると、「ダビデの鼻が高すぎるようだから少し削るように」とミケランジェロの要求。ミケランジェロはこの要求を無視しようとしたのですが、市長が執拗に迫ったため、槌音を響かせつつも鼻は削らず、隠し持っていた大理石の欠片を落として「このくらいでいかがでしょう?」と応じました。真相を知らない市長は、自分の要求が容れられたと思いこんで満足し、その場を立ち去って行ったそうです。

 まぁ、政治家の視察なんてのは、洋の東西を問わず、そんなものなんでしょう。ただ、フィレンツェ市長のエピソードは笑い話ですみますが、某総理のように、原発事故の直後に混乱する現場に乗り込んで、専門家たちの必死の作業の邪魔をしたというのは洒落になりません。そういう方は、素直に職を辞してお遍路を再開し、金輪際、視察なんてものを止めていただきたいものですな。


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 授賞式に出席できない受賞者
2010-12-10 Fri 14:31
 きょう(10日)、ノルウェーのオスロでノーベル平和賞の授賞式が行われます。受賞者の劉暁波は、本人は獄中にあり、家族の授賞式出席も不可能ということですが、これは、1935年の平和賞受賞者で、当時、ナチス政権下で強制収容所に拘束されていたカール・フォン・オシエツキー以来だそうです。というわけで、フォン・オシエツキーの切手です、(画像はクリックで拡大されます)

        オシエツキー

 これは、1975年に西ドイツが発行したフォン・オシエツキーの切手です。

 フォン・オシエツキーは、1889年、ドイツのハンブルクで生まれ。ドイツ平和協会に関わり、第一次世界大戦後は同協会の書記として反戦運動を展開し、1927年に雑誌『世界展望』を創刊しました。1931年、同誌で、ドイツ空軍がヴェルサイユ条約に違反して軍備を拡張する準備を進めていることを暴露。このため国家反逆罪に問われ、有罪判決を受けて服役しました。

 1933年、ナチス政権が発足すると、ゲシュタポはフォン・オシエツキーをベルリンの刑務所、ついで強制収容所に送ります。これに対して、ノルウェー・ノーベル賞委員会は彼にノーベル平和賞を授与し、ナチスの独裁体制を批判しました。

 1936年、ベルリン五輪を前にいったんは釈放されますが、その後、前年に受賞していたノーベル平和賞を受賞したため、ヒトラー政権は激怒。以後、ドイツ人がノーベル賞を受け取ることを禁止し、フォン・オシエツキーは投獄され、拘留中の1938年、結核で亡くなりました。

 一党独裁体制の下、国民の基本的な人権を守らず、マイノリティを抑圧し、軍事力を増強して周辺諸国に脅威を与え、政治的なプロパガンダとして大々的にオリンピックを開催するなど、ナチス・ドイツと中国共産政権には、その本質において相通じるところが少なからずあります。ナチス・ドイツは、フォン・オシエツキーの平和賞受賞から10年後の1945年に崩壊しましたが、現状のままだと、中国共産政権は10年後もしぶとく生き残っているんでしょうね。それだけに、拘留中の劉には、フォン・オシエツキーのように獄死することなく、無事に自由の身となって中国の民主化のために思う存分働いてもらいたいものですな。 


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 芥川賞は『乙女の密告』
2010-07-16 Fri 23:38
 第143回芥川賞は、赤染晶子さんの『乙女の密告』に決まりました。京都の外国語大学の女子学生たちが、外国人教授の指導の下、「アンネの日記」のドイツ語訳の暗唱に取り組み、アンネ・フランクに心情を通い合わせる姿を描いた作品とのことなので、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      アンネ・フランク

 これは、1979年、西ドイツで発行されたアンネ・フランク生誕50年の記念切手です。彼女の写真は有名なものがいくつかありますが、日記を広げた写真としては、切手に取り上げられているモノが一番有名なのではないかと思います。

 アンネ・フランクは、1929年6月、ドイツのフランクフルト・アム・マインに生まれました。1933年、ナチス政権が成立すると、一家はドイツを離れてオランダのアムステルダムへ亡命。しかし第二次世界大戦中、オランダがドイツ軍に占領されると、オランダでもユダヤ人狩りが行われ、1942年7月以降、一家は、アムステルダムでの潜行生活を余儀なくされます。隠れ家での生活は約2年間に及び、その間、アンネがつけていた日記が有名な『アンネの日記』です。

 1944年8月4日、一家の隠れ家はゲシュタポに発見され、全員が強制収容所へと移送。アンネは姉のマルゴット・フランクとともにベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送され、1945年3月頃、チフスにかかって亡くなりました。享年15歳。

 さて、今回の芥川賞を受賞した赤染さんは受賞後の記者会見で「日本人の私がこのテーマ(ユダヤ問題)に取り組むということは、十分に意義があると思います」と述べたとの記事がネットのニュースに出ていました。フィラテリーの世界では、ユダヤ関連マテリアルを集める“ジュダイカ”というジャンルがあって、世界的には人気が高いので、本腰を入れてチャレンジしてみると、赤染さんとはまた違った角度から、日本人ならではのユダヤ論を作れそうです。いずれ、チャレンジしてみたい題材ですな。


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 ビール造りの難しさ
2010-02-09 Tue 12:27
 世界最大級の酒類・飲料会社を目指して進められていたキリンとサントリーの経営統合交渉が、きのう(8日)、決裂しました。というわけで、きょうはビールがらみの切手ということで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ビール純粋令

 これは、1983年に西ドイツで発行された“ビール純粋令450年”の記念切手で、16世紀のビール業者を描く絵画が取り上げられています。

 ビール純粋令は、1516年に、バイエルン侯ヴィルヘルム4世が「ビールは大麦とホップと水の3つの原料以外を使用してはならない」と定めた法令で、現在でも有効な食品に関連する法律としては世界最古とされています。ビール史の本などでは、純粋令の公布は1516年と出てくるのですが、切手は1533年から起算して450年後の1983年の発行です。どうしてこのようなギャップが生じたのか、その理由については、調べきれませんでしたので、どなたかご存知の方があれば教えていただけると幸いです。

 さて、ビール純粋令の第一の目的は、パンを焼く小麦が不足がちだったため、ビール醸造に小麦を使わせないようにすることでしたが、バイエルンのビールの品質を北ドイツのアインベックビールに対抗できるものへと向上させるという狙いもありました。このため、純粋令に基づき、バイエルン領内では、偽物や不純な添加物の入ったビールを一掃すべく、厳しい品質検査が行われるようになりました。

 その後、1556年にビールの原料として“酵母”が加えられ、「大麦、ホップ、水、酵母」の4つがビールの主原料として定められ、現在にいたっています。

 ところで、わが国におけるビールの醸造・販売の歴史は、1869年、ローゼンフェルトとウィーガントが横浜山手46番に“ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー”を創設し、居留地の外国人向けにビールの醸造を開始したのが始まりとされています。翌1870年には、ノルウェー系アメリカ人のコープランドが横浜山手123番(天沼)に“スプリング・バレー・ブルワリー”を開設し、大衆向けビールとしては日本で初めて継続的な醸造・販売を開始しました。

 その後、“ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー”は何度かの統廃合を経て、その流れを汲むビール会社としては、1874-75年ごろ、“ババリア・ブルワリー”となります。1876年には、スプリング・バレー・ブルワリーがこのババリア・ブルワリーを吸収する形で、コープランドとウィーガントによる商事組合“コープランド・アンド・ヴィーガント商会”が結成されましたが、 コープランドとウィーガントの間で経営上の対立が浮上。結局、裁判の結果、商事組合は解散となり、工場は競売にかけられて、これを落札したコープランドが改めて醸造所を経営することになりました。

 こうした内紛は、当然のことながら、経営にも悪影響を及ぼし、1884年、コープランドの醸造所は倒産。このため、トーマス・ブレーク・グラバーやイギリスのビール会社バターフィールド社のジェームス・ドッズらに三菱財閥の岩崎弥之助らが発起人として加わり、1885年、外国資本による香港国籍の新会社“ジャパン・ブルワリー(2代目)”が設立され、1888年から、明治屋を通じて“麒麟ビール”の販売が開始されました。

 これが、現在のキリンビールのルーツで、麒麟のイラストは翌1889年から採用されています。なお、企業としての麒麟麦酒株式会社は、1907年、三菱財閥と明治屋の出資による純粋日本資本の新会社として設立されたもので、ジャパン・ブルワリー社から組織や事業をそのままの状態で買収・継承したものです。

 まぁ、キリンとサントリーの場合も、両者の企業風土はあまりにも違っていますからねぇ。仮に経営統合が実現したとしても、明治初年のコープランド・アンド・ヴィーガント商会の時と同じように、すぐに空中分解ということになっていたかもしれません。まぁ、切手に取り上げられた職人さんたちのように仲良くビールを作っていくというのは、現実にはなかなか難しいということなんでしょうかね。

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 ベルリンのネフェルティティ
2009-12-21 Mon 11:34
 きのう(20日)、エジプト考古最高評議会のザヒ・ハワス事務局長が声明を出し、ドイツ・ベルリンの新博物館に収蔵されている古代エジプト王妃ネフェルティティの胸像の返還を正式に要請すると明らかにしました。というわけで、きょうはこの1枚です。

      ベルリン・ネフェルティティ

 これは、1987年に当時の西ドイツが発行した20ペニヒの通常切手で、問題のネフェルティティ像が取り上げられています。

 ネフェルティティは紀元前14世紀半ば、エジプト新王国時代の第18王朝のファラオであったアクエンアテン(イクナートン、旧名アメンホテプ4世)の正妃で、トゥト・アンク・アメン(ツタンカ-メン)の義母にあたる人物で、古代エジプトの絶世の美女として有名です。

 問題の像は、1912年、ナイル川河畔での発掘に携わっていたドイツの考古学者ルートウィヒ・ボルハルトが発見したもので、当時のドイツ皇太子からも絶賛されました。第一次大戦後の1923年からベルリンのエジプト博物館の目玉として展示されていました。

 1990年に東西ドイツが統合され、ベルリンの再開発計画が進められることになると、巨大な“新博物館”の構想が持ち上がり、エジプト博物館は吸収合併のため閉鎖され、多くのコレクションはいったん倉庫入りを余儀なくされます。しかし、ベルリンが誇る至宝としてのネフェルティティ像(だからこそ、切手にも取り上げられたわけですが)だけは展示をストップするわけにはいかないとして、絵画館や旧博物館で臨時の展示を続行。今年(2009年)10月16日、新博物館がオープンすると、その目玉として展示されることになりました。おそらく、このことが今回の返還要求のきっかけとなったのでしょう。

 ところで、このネフェルティティ像に関しては、スイスの美術史家、アンリ・スティルランが“複製品”説を展開していることでも話題になりました。すなわち、スティルランによれば、この像は、“発見者”のボルハルトが、王妃が所有していたネックレスを実際に身につけさせ、さらに発掘現場で見つかった古代の顔料の着色試験も兼ねて彫刻家ゲラルト・マルクスに作らせたものだというのです。

 その根拠として、スティルランは、①左眼が彫られていない(像を本人と見なしていた古代エジプト人にとっては不敬にあたる)、②肩が19世紀以降の垂直方向にカットされている(古代エジプトの彫像は、一般に肩が水平方向にカッティングされている)、③発掘現場に居合わせたフランス人の考古学者らは、胸像について一切言及しておらず、発見に関する記録も残していない、④極めて重要な発見にもかかわらず、ボルハルトは詳しい報告をしていないばかりか、この胸像をスポンサーの自宅に10年間も放置していた、ことなどを挙げています。そして、“複製品”がドイツの皇太子に絶賛されてしまったことで、ボルハルトは真実を告げる勇気をなくしてしまったのだとスティルランは主張しています。

 もっとも、胸像は石の本体にしっくいが塗られているという構造のため、科学的に制作年代を推定することは不可能なのだとか。もし、この像が複製品だったとしたら、それでもエジプト側は返還を要求するんでしょうかねぇ。


 ★★★ 出版記念パーティーのご案内 ★★★

 『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』の刊行を記念して、ルーマニア民主革命20周年の記念日にあたる12月22日、下記のとおり出版記念パーティーを開催いたします。当日は、僕のトークのほか、日本におけるジプシー・バイオリンの第一人者、古館由佳子さん(当日は彼女のCDも販売します)による生演奏もお楽しみいただけますので、ぜひ、遊びに来てください。

      トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行      古館由佳子 古館由佳子さん

 ・日時 2009年12月22日 18:30~

 ・会場 レストラン・ルーマニア(本格的ルーマニア料理のレストランです。)
     *東京都中野区本町1-32-24(東京メトロおよび都営地下鉄中野坂上駅1分)
      tel: 03-5334-5341 地図などはこちらをご覧ください。
      料理は下の画像のようなイメージで、ブッフェ・スタイルです。
      ルーマニアのワイン(もちろん飲み放題)も出ます。

       ルーマニア料理

 ・会費 7000円(『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』1冊つき)
     *当日会場にてお支払いをお願いいたします。

 ・参加ご希望の方は、キュリオマガジン編集部まで、電子メール[email protected])にてお申し込みください。たくさんの方々のお越しを心よりお待ちしております。

 
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 ドイツ連邦議会60年
2009-09-07 Mon 17:13
 1949年9月7日にドイツの第1回連邦議会が開催されてから、きょうでちょうど60年です。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

 西ドイツ・第1回連邦議会

 これは、1949年9月7日にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が発行した第1回連邦議会開会の記念切手で、復興のための建設を象徴するデザインが描かれています。

 1945年5月、第二次大戦に敗れたドイツは、米ソ英仏の四カ国によって分割占領されました。その後、東西冷戦の進行とともに、米軍占領地区と英軍占領地区は占領円滑化のため合同してバイゾーンを形成。さらにこれにフランス軍占領地区が加わってトライゾーンを形成し、ソ連軍占領地区との亀裂が深まっていきます。

 ところで、占領下のドイツではハイパー・インフレが進行していたため、1948年6月20日、米英仏の3国は、英米仏各占領地区で独自に発行されていた通貨を統合してトライゾーンでの統一通貨(ドイツマルク)を発行。これに対して、ソ連側も6月24日に東ドイツマルクを発行するとともに、ドイツマルクを使用する西ベルリンを経済封鎖することで対抗しました。いわゆるベルリン封鎖です。

 しかし、アメリカを中心とする西側占領軍当局が、西ベルリン地区住民を救済するため、大規模な空輸作戦を展開したため、最終的にソ連も妥協を余儀なくされ、1949年5月、ベルリン封鎖は解除されました。

 一連のベルリン危機を通じて、ソ連と西側諸国との対立は決定的なものとなり、1949年5月8日、西ドイツの憲法制定会議がドイツ連邦共和国基本法を可決し、同月23日、米英仏の西側統治諸州にボンを首府とする連邦共和国臨時政府が発足します。そして、9月7日の連邦議会開会、9月13日のテオドール・ホイス大統領就任、9月15日のコンラート・アデナウアー首相就任を経て、ドイツ連邦共和国が正式に発足しました。これに対抗して、ソ連が占領地域でドイツ民主共和国を成立させたのは、同年10月7日のことです。

 こうして、1990年のドイツ統一にいたるまで東西ドイツが併存することになるのですが、現在のドイツは、旧東ドイツの各州がドイツ連邦共和国に加入するという形式で行なわれたため、建前としては、新国家ではなく、旧西ドイツが東側へも領域を拡大したものということになっています。

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 酒で棒に振る
2009-02-18 Wed 18:15
 7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)後の記者会見でろれつの回らない不明瞭な受け答えをした中川昭一財務相兼金融担当相が、きのう(17日)、責任を取って辞任しました。今回の失態に関して、ご本人は「風邪薬を多めに飲んだ」と釈明していますが、過去にも飲酒が原因とみられる失態を度々演じてきたとされる御仁だけに、真偽のほどはともかく、マスコミなどでは飲酒が原因とする論調が主流を占めているようです。

 というわけで、今日はこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

 飲酒運転防止(ドイツ)

 これは、1972年に西ドイツ(当時)が発行した25ペニヒの普通切手で、酒とグラスの下にひっくり返った車のデザインで、飲酒運転の禁止を訴えています。この時期の西ドイツの普通切手は、“事故防止”を統一テーマに、額面ごとに“火の用心”とか“飲酒運転禁止”などを表現したデザインとなっています。日常的に使われている切手を通じて、生活の安全に対する注意を促すというのは、なかなか、良いアイディアなんじゃないかと思います。切手をメディアとして使うというと、すぐに、特定のイデオロギーや国策を宣伝するどぎつい切手を連想しがちですが、こういう内容だったら、反対する人は少ないでしょう。

 国際政治の場において、わざと強い酒を飲ませて判断力を鈍らせるというケースは歴史的にもなかったことではありません。たとえば、第二次大戦後の東西冷戦の枠組みを確定したヤルタ会談では、すでに病身のルーズベルトに対して、スターリンは自らのグラスには水で薄めたウォッカを入れておいて、盛んにウォッカの乾杯構成をかけたことはよく知られています。ルーズベルトがスターリンに対して結果的に大幅に譲歩したと評されるヤルタ会談ですが、その背景には、アルコールが体に残っていたことによる判断力の低下というようなこともあったのかもしれません。

 また、古くはボルジア家から最近ではウクライナのユシチェンコ大統領まで、政治家の世界に置毒はつきものですから、今回のG7に関しても、中川氏の失脚を望む勢力が、彼のグラスに睡眠薬を混ぜるなどの工作をしたという可能性もゼロとは言い切れないでしょう。

 ただ、報じられている範囲では、前大臣が嵌められたという見方はほぼ皆無のようで、むしろ「さもありなん」という声が強いところを見ると、結局、最後の最後は日頃の言動がモノを言ったということなんでしょうね。

 いずれにせよ、国のハンドルを握っている立場の人たちは、くれぐれも、「酒は飲んでも飲まれるな」ということを肝に銘じておいていただきたいものです。


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 お菓子の家
2007-11-22 Thu 12:29
 東京・池袋のテーマパーク、ナムコ・ナンジャタウンで、明日23日から25日まで、高さ2メートル70センチの巨大な“お菓子の家”が展示されるというニュースを見ました。というわけで、今日はこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

お菓子の家

 これは、1961年に西ドイツ(当時)で発行された児童福祉切手の1枚で、グリム童話の『ヘンゼルとグレーテル』のうち、有名なお菓子の家を取り上げたものです。

 『ヘンゼルとグレーテル』のストーリーをおさらいしておくと、飢饉の最中、ヘンゼルとグレーテルの兄妹が口減らしのため母親に捨てられるところから物語は始まります。森の中を放浪するうち、兄妹は“お菓子の家”を発見し、空腹のあまりお菓子を食べてしまうのですが、そこは魔女の家で2人は捕らえられてしまいます。しかし、パンを焼くことを命じらたグレーテルは、パンの焼き方がわからないから教えてほしいと竈の火の具合を魔女に覗かせ、彼女を竈に押し込めて焼き殺すことに成功。宝石や真珠を持って家に帰る、というものです。

 これを現代風に読み替えると、ストリート・チルドレンが勝手に他人の家に上がりこんで、その家を破壊して勝手に食べた上、その家に住む老人を焼き殺して、金目のものを奪って逃走したということになります。立派な強盗殺人です。当然、家に帰った後で警察がやってきて2人は逮捕されるでしょう。幼い凶悪犯の話題はワイドショーの格好のネタになり、4~5年後、人々が事件のことを忘れかけた頃に、未成年だからという理由で2人が娑婆に出てきたら、電車の中吊り広告には「あの凶悪兄妹はもう出所!これでいいのか少年法」という類の見出しが躍るにちがいありません。

 さて、現在の絵本などでは、魔女の住む家はお菓子の家ということになっていますが、オリジナルでは、壁がパンで、屋根はクッキー、窓は透き通った砂糖でできていたと記述されているそうです。まぁ、マリー・アントワネットは「パンがなければケーキを食べれば良い」と言いましたが、いくら腹が減っていても、普通はケーキの類はそうそう食べられるもんじゃありませんからねぇ。飢饉の最中という物語の設定を考えると、パンの家の方がありがたみがあるような気がします。もっとも、甘いものは別腹という人も世の中に入るようなので、お菓子の家というのも、それはそれでいいんでしょうかね。

 【イベントのご案内】  
 12月1日(土)、東京大学駒場キャンパス・16号館119教室で開催のシンポジウム「戦争とメディア、そして生活」にて、日本占領時代の香港のことを中心に「切手というメディアが含蓄するもの」と題してお話しします。

 僕の出番は、13:20スタートの「収集されるメディア―絵はがき、切手、ポスター」と題するセッションの2番目。入場は無料でどなたでもご参加いただけますので、ぜひ、遊びに来てください。
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 ルール炭鉱と韓国
2007-09-05 Wed 12:03
 今日(9月5日)は、石炭の良さを見直そうという趣旨のクリーン・コール・デイ(Clean Coal Day)なのだそうです。というわけで、石炭がらみということで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ドイツ社会福祉(1957)

 これは、1957年10月1日に西ドイツ(当時)で4種セットで発行された社会福祉切手の1枚で、炭鉱内での採炭場面が取り上げられています。このときのセットは、いずれも、炭鉱労働者を題材に取り上げたもので、ほかの切手にはカンテラを持つ炭鉱夫や石炭をベルトコンベアで運ぶ場面などが取り上げられていますが、やはり、直接採掘している場面を取り上げたこの切手が、それらしくて僕は好きです。

 ルール炭田、ザール炭田、ザクセン炭田などを抱えるドイツは、ヨーロッパ最大の石炭生産国かつ消費国、また世界最大の褐炭生産国かつ消費国です。しかし、炭鉱での仕事はかなりの重労働ですから、ドイツのように経済的に豊かで社会保障も手厚い国では、炭鉱夫を確保するのは容易なことではありません。いまから50年前、この切手が発行された当時でさえ、すでに、切手に描かれているようなドイツ人の炭鉱夫は慢性的に不足していました。

 その対策として彼らが考えたのが、日本(ドイツと同じ敗戦国)や韓国(ドイツと同じ分断国家)などから外国人労働者(ガスト・アルイバイター)を募ることでした。当初は、日本人もかなりドイツに渡りましたが、1950年代後半に始まる高度経済成長の影響でドイツへの出稼ぎは減少。しだいに、当時は経済的に貧しかった韓国人労働者が“派独鉱夫”の中心を占めるようになっていきます。

 じっさい、1963年当時、公式統計に現れただけでも失業者は250万名にものぼっていた韓国で、月収600マルク(当時の米ドル換算で160ドル)の条件で、ルール炭鉱で働く労働者を募集すると、100倍を越える希望者が殺到。その後、1978年までに7800人余りの“派独鉱夫”がルール炭鉱に渡ることになりました。

 “派独鉱夫”の労働は非常に苛酷なもので、1966年12月、3年間の雇用期間を終えて帰国した第一陣(142人)のほとんど全員がドイツ滞在中に骨折を経験していたほか、失明者・死亡者も少なからずいたといわれています。

 “派独鉱夫”が西ドイツで受け入れられると、これにつづいて、月収440マルクの条件で、韓国人女性が看護婦として西ドイツに派遣されるようになります。彼女たちもまた、死体洗浄など、ドイツ人の嫌がる重労働を担い、激務をこなしていました。

 “派独鉱夫”および“派独看護士”による本国への送金は、まだまだ貧しかった当時の韓国に貴重な外貨をもたらし、その額は、一時GNPの2%台に達したこともあったといわれています。このため、1964年12月、ルール炭鉱を訪れた朴正煕は“派独鉱夫”のブラスバンドが演奏する愛国歌に感激し、涙ながらに彼らへの感謝の演説を行ったというエピソードもあります。

 朴正煕というと、政権末期の“維新体制”のイメージが強いせいか、現在でも強権的な独裁者というイメージで語る人も多いのですが、韓国に驚異の経済成長をもたらした功績は、そうしたマイナス面を補って余りあるものであると思います。盧武鉉をはじめとする左派の人たちは、とにかく、朴正煕=悪と決め付けてしまい、今回のような彼の美談を意図的に無視されることが多いようですが、そうした歴史の歪曲に腹を立てている良識派の韓国人も少なからずいるんじゃないかと期待したいところなんですが…。
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 建設の風景:子供の家(西ドイツ)
2007-05-16 Wed 00:43
 ご報告が遅くなりましたが、(財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の5月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手に描かれた建設の風景」では、こんなモノを取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ドイツ・児童福祉

 ドイツでは例年、児童の保護と福祉を呼びかけるキャンペーン切手を発行していますが、旧西ドイツ時代の1989年8月に発行されたのが、この1枚です。切手右側のドイツ語“KINDER GEHOREN DAZU”は、「子供のことを忘れないで」という程度の意味だと思いますが、ドイツ語に詳しい方にもっと良い訳を教えていただけたら幸いです。

 切手は、家を建てる子供たちの姿を絵本風のタッチで描いたもので、なんともかわいらしいデザインです。

 男の子がネコ車に石のブロックを載せて運び、それが女の子から別の男の子に受け渡されて、積み上げられています。積み上げる石を固定するためのセメントは、画面左手前の女の子が捏ねて塗るのでしょう。

 積み上げられたブロックの上では女の子が梁に釘を打ち、足元の男の子はサングラス姿で図面を引いています。背後の女の子は自分の身長よりも長い材木を抱えて重そうな感じです。

 8人の子供たちが力をあわせてできあがるのは、さてさて、どんな家なのでしょう。見ている僕たちも、なんだかワクワクしてきませんか?
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 指はさみ注意
2006-08-24 Thu 01:58
 紙を裁断する業務用シュレッダーに幼児が指を巻き込まれて切断する事故が、今年3月と7月に相次いで発生していたことが明らかになりました。近年、プライバシー保護の意識が高まってきていますが(明らかに過剰反応と思えるケースも少なくないように思うのですが)、それに伴い、一般家庭でもシュレッダーを使う機会が飛躍的に増えてきています。したがって、こうした事故も、ある意味では、起こるべくして起こったと言う側面は否定できないわけで、今後の対策と利用者への啓発活動が求められるのはいうまでもありません。

 で、そんなことを考えながら、引っ張り出してきたのがこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

指はさみ注意

 これは、1972年に西ドイツ(西ドイツ)が発行した20ペニヒの普通切手で、電動のこぎりに指を挟まれないように訴えるデザインが取り上げられています。画像はペアになっていますが、これは、たまたま手元の切手がペアになっていたためで、単片に切り離しても良かったのですが、なんとなく、そのままスキャンしてしまったというわけです。

 この時期の西ドイツの普通切手は、今回ご紹介の20ペニヒ切手を始め、“事故防止”を統一テーマに、額面ごとに“火の用心”とか“飲酒運転禁止”などを表現したデザインとなっています。日常的に使われている切手を通じて、生活の安全に対する注意を促すというのは、なかなか、良いアイディアなんじゃないかと思います。切手をメディアとして使うというと、すぐに、特定のイデオロギーや国策を宣伝するどぎつい切手を連想しがちですが、こういう内容だったら、反対する人は少ないでしょう。

 切手を使う郵便というものが、単純な通信ないしは物流の手段として、今後も従来のまま生き残っていけるかというと、なかなか厳しいものがあるのは否定できないとおもいます。だとすれば、切手のメディアとしての特質を最大限に活用して、公共広告機構とのタイアップで“チーム-6%”だとか、薬物乱用防止、飲酒運転撲滅などの題材を取り上げていくという方向に活路を見出していくと言う発想があっても良いはずです。

 少なくとも、毒にも薬にもならない野鳥の切手や、子供だましのアニメの切手(切手に取り上げられているアニメが“子供だまし”と言うことではありません。念のため)を垂れ流しているよりは、よっぽど気が利いているんじゃないかと、僕は考えています。

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 ジョン・レノン
2005-12-08 Thu 01:00
今日は12月8日。例年だったら、真珠湾がらみのブツを持ってくるところですが、今年は、ジョン・レノンの没後25周年ということで、この切手をアップします。

ジョンレノン

 切手は、1988年、西ドイツ(当時)が発行した青少年の切手収集家のための資金を集めるために発行した寄付金つきのもので、バディ・ホリー、エルビス・プレスリー、ジム・モリソン(ドアーズ)といった伝説的なロック・ミュージシャンとともに、ジョン・レノンの肖像が取り上げられています。

 この切手が出た当時、外貨目当てにいかがわしい切手を濫発する国ならともかく、まさか西ドイツのようなお堅い国から発行されるなどとは想像もできなかったので、日本の収集家は少なからずショックを受けたものでした。まぁ、この切手も収集家目当てといってしまえばそれまでですが、さすがはドイツ製。カリブ海で発行された怪しげな切手に比べると、格段に良いできです。

 ちなみに、ジョン・レノンが亡くなったとき、僕は中学生でした。当時、ビートルズの曲は「イエスタデイ」や「ヘイ・ジュード」等はさすがに知っていましたが、それほど詳しかったわけでもなかったので、自分の両親(当時40前後)の人たちが大騒ぎしているのを見ても、なんとなく実感が湧かなかったというのが正直なところでした。

 その僕も、年が明けるとすぐに39歳。娘は来年中学生になります。25年という年月とはそういうものなのか、ということがなんとなく実感できるような気がしました。


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