2007-09-29 Sat 11:36
1972年の日中国交樹立(国交正常化)から、今日(9月29日)でちょうど35年になります。というわけで、現在発売中の『SAPIO』10月10日号で僕が担当している連載「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」では、今回は、当時の中国の首相、周恩来を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)
周恩来は、1898年、江蘇省淮安で生まれました。 天津の南開中学に学んだ後、アメリカ留学のための清華学校の受験に失敗。代わりに、1917年に来日して東京・神田の東亜高等予備学校などで2年近く聴講生をやり、日本語を学んで官費留学生になろうとしますが、失敗して帰国します。周の人物情報ではこれを“留学”と呼ぶことも多いのですが、その本質は、ペパーダイン大学に“留学”したという元国会議員となんら変わりません。もっとも、彼は日本の国会議員ではないので“学歴詐称”で非難されることはないようですが…。 1919年に帰国後、南開大学の学生となった彼は中国全土を吹き荒れていた反帝国主義ナショナリズムの五・四運動に参加し、逮捕・投獄されてしまいます。この時期、彼はコミンテルンが派遣したロシア人工作員のポレヴォーイと知り合い、そのことが、後に共産主義に傾倒していくきっかけとなりました。ちなみに、五・四運動を通じて、周は、後に彼の妻となる穎超とも出会っています。周が逮捕されるほどに運動にのめりこんだのは、案外、自分の彼女にいいところを見せたかったという単純な動機からだったんじゃないかと僕のような俗物は想像してしまいます。 さて、前科者になってしまった周恩来は、大学を辞めて、翌1920年に当時流行の勤工倹学運動でフランスへ留学します。勤工倹学というのは、第一次大戦後の労働者不足で困っていたフランスが、中国人留学生を無償で受け入れる代わりに彼らに工場などで労働させるというもので、小平などもこれに参加して渡仏しています。ただ、苦学生の新聞少年の生活が肉体的にかなりしんどいのと同様、勤工倹学の学生たちも労働がきつくて勉学どころではないというのが実情でした。コミンテルンはそこに目をつけ、学生たちに共産主義運動に専念すれば資金を援助すると申し出て、彼らを取り込んでいくのです。(ちなみに、小平もその一人でした。) そのなかで周恩来は次第に頭角を現し、コミンテルンの肝いりで作られた“中国共産党欧州総部”の幹部に抜擢されます。そして、1924年には、モスクワの命令によって帰国し、第一次国共下の広州に成立した革命軍将官の養成機関“黄埔軍官学校”(校長は蒋介石)の政治部(思想工作を担当する部署)副主任に就任。国共合作を通じて国民党内に共産主義勢力を拡大させることに力を注ぎました。 周らの工作は一定の成果を上げ、1925年から翌年にかけて中国共産党(以下、中共)は急速に勢力を拡大します。しかし、これに危機を抱いた蒋介石との対立は深刻なものとなり、1927年4月、蒋は上海で反共クーデターを敢行して共産党員の大量逮捕と虐殺に踏み切りました。 これに対して、テロにはテロをと巻き返しを狙う中共は、同年7月、江西省南昌の江西大旅社という旅館を拠点として、周恩来をリーダーとする前敵委員会を組織し、8月1日を期して、大掛かりな対抗テロを起こして市街地を占拠しました。いわゆる南昌起義(南昌蜂起)です。しかし、中共側は早くも8月3日には国民党軍の反撃で南昌から撤退。広州を目指して南下したものの、壊滅的な打撃を被ってしまいました。 なお、現在の中国人民解放軍は、南昌起義の起こった8月1日を、国民党に対して最初の銃声を放った記念日と位置づけ、建軍の記念日としています。そして、そのリーダーであった周は建軍の父の一人として中共内で絶大な権威を持つようになり、毛沢東が権力を掌握した後もしぶとく生き残って、1949年の中華人民共和国の建国から1976年に亡くなるまで、同国の首相を務めることになりました。 今回ご紹介の切手は、1957年8月1日に中国が発行した“中国人民解放軍建軍30周年”の記念切手のうち、南昌起義の場面を取り上げた4分切手です。周恩来は、蜂起の中心人物として、反乱軍(=テロリスト集団)の輪の中央、ワイシャツで描かれています。アジ演説をぶって、メンバーを煽りに煽っている感じですな。(下の拡大図参照) なお、この切手では、周の隣で椅子に腰掛けている朱徳など、教科書の写真では老人として写っている“革命の元勲”たちの若き日の姿が描かれているのも興味深いところです。 |
2007-09-27 Thu 12:08
(財)日本郵趣協会発行の『郵趣』2007年10月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げ、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1845年に連邦成立以前のスイス・バーゼルで発行された切手で、“バーゼルのハト”と呼ばれている1点です。 スイス・ドイツ・フランス三国の国境地域に位置するライン河畔の都市、バーゼルは、古代ローマ時代に起源を持つ古い都市で、中欧の商業・交通の中心地として栄えていました。 1648年、ウェストファリア条約(ヨーロッパのほぼ全域を巻き込んだ宗教戦争、30年戦争の講和条約)により、神聖ローマ帝国からの独立を認められた当初のスイスは、統一国家というよりも、独立性の高いカントン(州)の連合体という性質の強いものでした。ちなみに、現在の連邦国家体制が確立するのは、1874年の連邦憲法が採択されてから後のことです。 そうしたスイス連邦を構成するカントンの一つであったバーゼルでは、1842年、独自の近代郵便制度の導入が検討されはじめました。そして、その料金徴収のシステムとして、イギリスのペニーブラックにならった“支払票(etiquettes-franco)”を発行することとなり、1844年1月までに、重さ1ロット(=15.5グラム)以下の郵便物に対して1クロイツェル(=21/2ラッペン)を、それ以上の郵便物に対しては2クロイツェルを、それぞれ徴収するために切手を発行するという方針が決まります。 切手のデザインは建築家のメルキオール・ベリが担当しました。ベリは、デザインの中心に、手紙をくわえた白いハトを据え、その周囲を深紅の盾形で囲みました。“バーゼルのハト”の名の由来です。よく誤解されるのですが、このハトはバーゼルの紋章ではなく、通信の象徴として取り上げられたものです。ちなみに、バーゼルの紋章は、盾の中央上部、窪みの部分に描かれています。 バーゼル市内郵便(STADT POST BASEL)の表示は、盾の下部を囲むように黒色で記され、4隅は薄青で彩色されています。額面の21/2Rp.は、その薄青をバックに切手の下部に入れられました。 切手の周囲は、横18.5ミリ、縦20ミリの枠で囲まれています。この枠は、黒色の細い線が深紅の太い線を挟むスタイルになっていますが、一番外側の黒色の線まで完璧に残っているものはなかなかありません。切手の印刷は銅版を用いた凹版印刷で行われ、エンボス部分はフランクフルトのベンジャミン・クレブスが担当し、1845年に522シートが、1847年に515シートが作られました。1シートは日本の手彫切手と同じく横8x縦5の40面ですから、4万1480枚が製造された勘定になります。 切手の発行は、1845年7月1日のことで、これは、スイスのカントンの中では、チューリッヒ、ジュネーヴについで3番目、ペニーブラックから数えると5番目(1843年にブラジルが“牛の目”を発行している)のことでした。 その後、1850年にスイス連邦統一の切手が発行されると、バーゼルでもこの切手が用いられるようになり、1852年には“バーゼルのハト”の印刷用の原版は破棄されました。そして、1854年9月末日で、“バーゼルのハト”を含むスイスのカントン切手はすべて使用禁止となりました。ちなみに、ベルンにあるスイス郵政博物館には、この切手の現存する最大のマルティプルである3x5の15枚ブロックが収蔵されています。 さて、今月号の『郵趣』では、<JAPEX>の事前予告として特別出品の“マーチン切手40周年”を巻頭特集で取り上げました。このほかにも、同じく<JAPEX>の事前予告として、英国王ジョージ5世の即位25周年を記念して全世界の英領で発行された1935年のジュビリー・イッシュー(たとえばこれもその1枚です)やボーイスカウト100周年の特集や戦後記念切手の試作品がテンコ盛りのサマーペックス・特別展示“なつかしの昭和”CD-ROMのご紹介など、カラー特集は盛りだくさんの内容となっていますので、機会がありましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。 |
2007-09-25 Tue 11:02
今日は旧暦8月15日の中秋節です。というわけで、ストレートに十五夜の切手ということで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1974年7月29日に「昔話シリーズ」の第4集“かぐや姫”の1枚として発行されたもので、かぐや姫が“八月十五夜”に月へ帰る場面が描かれています。切手の原画を作成したのは日本画家の森田曠平です。 竹取物語のラストでは、かぐや姫はもともと、罪を償うために地上に下った月の都の住人で、別れの時、御門に不死の薬を贈ったことになっています。その後、御門はそれを駿河の日本で一番高い山で焼くように命じ、それが“不死の山”(後の富士山)の由来になったと説明しています。 また、かぐや姫に求婚してきた5人の男、石作皇子、車持皇子、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂のうち、阿部御主人、大伴御行、石上麻呂は平安期に編纂された貴族の名簿に同じ名前の人物の記録があるほか、車持皇子は“車持”の姓を持つ母親から生まれた藤原不比等、石作皇子は宣化天皇の4世の子孫で“石作”氏と同族の多治比嶋がモデルであったと考えられているようです。いずれも天武天皇・持統天皇の時代の人物ですから、物語の時代設定は奈良時代初期ということになるのでしょう。そうなると、僕たちがイメージしている十二単を着ているかぐや姫というのは、ちょっとおかしなことになるのですが(十二単が登場するのは平安時代の10世紀以降のこととされています)、まぁ、そのあたりをうるさくいうのは野暮でしょう。 ちなみに、月の満ち欠けの周期は平均29.5日で、新月から満月までの日数が15日になるとはかぎらないため、“十五夜”が必ずしも満月になるわけではありません。ちなみに、今年は十五夜から2日後の27日が満月だとか。まぁ、そうはいっても、気分的にはやはり月見酒は今日の方がしっくり来るような気がしますが…。 なお、この切手を含む「昔話シリーズ」についての詳細は、拙著『沖縄・高松塚の時代』でまとめていますので、よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。 |
2007-09-24 Mon 11:56
福田康夫元官房長官が自民党の新総裁に選ばれました。明日、国会で首班指名だそうです。群馬県出身の総理は4人目ということで、群馬県がらみの切手のなかから、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1980年10月27日、近代美術シリーズの第8集として発行された竹久夢二の『黒船屋』です。この作品は表具屋・彩文堂の飯島勝次郎氏の依頼によって描かれたもので、夢二の最高傑作といわれています。作品名の由来は女性の座っている木箱の文字で、制作を依頼した彩文堂は、この作品にちなんで、1918年4月11日、屋号を黒船屋に改めています。 描かれている女性は、東京美術学校で藤島武二、伊藤晴雨らのモデルをつとめたお葉こと永井カ子ヨとされていますが、1918年10月に別れた内妻・笠井彦乃(夢二の最愛の女性とされる人物)の姿が色濃く投影されているようです。なお、お葉は夢二のモデルとして東京・本郷の菊富士ホテルに逗留していた夢二のもとに通ううちに同棲するようになり、その後、渋谷ならびに世田谷で1925年まで夢二と生活を共にしています。 現在、『黒船屋』は群馬県の竹久夢二伊香保記念館の収蔵品となっており、毎年、夢二の誕生日にあたる9月16日の前後1週間のみ、予約制での公開となっています。ということは、昨日(=23日)までなら、実物を拝みに行くことができたんですねぇ。群馬県からの総理誕生ということで、特別に年内一杯まで公開期間を延長するという粋な計らいをしてくれないかなぁ。 ところで、福田新総裁はその昔、早稲田大学(そういえば、新総裁の出身校ですな)のサークル、スーパーフリーの集団レイプ事件に関して「男は黒豹なんだから。情状酌量ってこともあるんじゃないの?」と発言していたことが、総裁選の直前に報じられていました。マスコミに散々たたかれた「産む機械」発言や「原爆投下はしょうがない」発言は、前後の文脈を読めば、まだ弁護の余地もありますが、“黒豹”発言ってのは流石にちょっとねぇ。普段だったら、フェミニスト団体や左派系の論調を展開する新聞が政治家の資質という点で大騒ぎするはずなのですが、なぜか、今回はあまり騒がれないのが不思議です。 まぁ、話が横道にそれましたが、「黒船屋」の美女は黒猫だから安心して抱いていられるのであって、たしかに、これが黒豹だったらとんでもないことになるよなぁ、と切手を見ながら、ふと思ってしまった内藤でした。 |
2007-09-23 Sun 12:44
今日は彼岸の中日。日本ではお墓参りの日です。(僕は今年も行きそびれてしまいましたが…)というわけで、11月2~4日の<JAPEX>に併催のタイ切手展に合わせて刊行予定の拙著、『タイ三都周郵記』で使う予定の切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1973年の“国連の日”の切手で、チェンマイの名刹、ワット・スワンドークの大仏塔が取り上げられています。 ワット・スワンドークは、1383年、マンラーイ王朝第6代の王、クーナーが王宮の敷地内に建てた寺で、“スワンドーク”というのは“花の庭”という意味です。かつては敷地の周りには塀と堀がめぐらされており、巨大な本堂の中にはタイ全土でも一、二を争う大きさの青銅の仏像が安置されていることでも知られています。また、敷地内には、歴代の王族の遺骨を納めた小さな仏塔があります。 クーナーがスコータイから招いた高僧、スモンテラが持ち込んだ仏舎利は、今回の切手に取り上げられた仏塔と、以前、このブログでもご紹介したワット・ドイステープの仏塔の2ヵ所に分けて収められており、それゆえ、チェンマイにとっては重要な寺となっています。 実は、タイには日本のようなスタイルのお墓というのはなく、タイ人は遺骨を川に流すのが一般的です。ただ、王族等の遺灰や遺骨に関しては、例外的に寺院を建立してそこに収めることが行われています。その意味では、今回ご紹介のワット・スワンドークの境内の仏塔群などは、日本のお墓に近いものといっていいのかもしれません。 さて、8月にチェンマイを訪れた際、僕はワット・スワンドークの実物を見に行きましたが、大仏塔はこんな感じで金ぴかに改修されていました。 地元の人にしてみれば、寺が綺麗になったことは喜ぶべきことなのかもしれませんが、それまで蓄積されてきた“時代”を全部塗りつぶしてしまうというのもねぇ…。まぁ、諸行無常が仏教の教えである以上、大仏塔の姿も昔と同じではないということになるのでしょうが、切手のような、白くすっきりとした塔を見られるものと期待していた僕にとっては、かなりショッキングな風景でした。 |
2007-09-22 Sat 09:12
今日は(財)日本郵趣協会の会員大会ということで、横浜に出かけてきます。そこで、横浜がらみのマテリアルということで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1876年、横浜に置かれていたイギリスの郵便局から差し出された郵便物で、香港切手が貼られ、Y1の文字の入った消印が押されています。 1842年の南京条約の結果、中国大陸では広州・厦門・福州・寧波・上海の5ヵ所が開港地となり、各地に設けられた領事館内には郵便取扱所が置かれて、極東とヨーロッパを結ぶ本格的な郵便業務が行われるようになりました。 その後、この5ヵ所に加えて、1858年には日本の開港に伴い、箱館(函館)、兵庫(神戸)、長崎、新潟、横浜が、1860年にはアロー戦争の結果として、牛荘、芝罘、漢口、九江、鎮江、台湾府、淡水、汕頭、瓊州、南京、天津が開港され、これらの地域にもイギリスの郵便局が置かれ、各種条約に基づく開港地は21ヵ所にまで膨らみます。 このうち、1862年に開局したとされる横浜局でも、1864年10月15日以降、香港切手が用いられるようになりました。その後、1866年2月17日には、厦門、広州、福州、寧波、上海、汕頭、横浜、長崎の各局に対しても、香港同様の抹消印が支給されることとなり、横浜にはY1というコード番号の入った印が支給されました。その後、1871年には日本政府による郵便が創業されますが、横浜のイギリス局は1879年末まで活動を続けています。今回のカバーの場合、裏面に押されている日付印からすると、横浜のイギリス局がこのカバーを受け付けたのは1876年7月25日で、8月3日に香港を経由し、さらに、マルセイユを経て9月14日にロンドンに到着しています。 なお、東アジア各地で使われた初期の香港切手については、拙著『香港歴史漫郵記』でも説明していますので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。 |
2007-09-20 Thu 09:05
工事で出たコンクリート片などを蔵王国定公園にある自分の別荘に不法投棄したとして、仙台のリフォーム会社社長らが逮捕されたそうです。社長らは自分の別荘なら構わないと考えたのかもしれませんが、なんといっても国定公園のエリアですからねぇ…。困った人たちです。
さて、蔵王といえば、やはりこの切手でしょうか。(画像はクリックで拡大されます) これは、1951年2月15日に「観光地百選」の第1集として発行された“蔵王”の8円切手です。 観光地百選はもともと、毎日新聞社の企画で、10部門の観光地のベスト10を全国からの投票によって決めようというもので、各部門の1位となった10点が切手として取り上げられました。このうち、“山岳”の部で、233万676票(全部門を通じて200万票以上を獲得したのは蔵王のみ)を獲得し、第一位となったのが蔵王山です。 蔵王は、宮城・山形の両県にまたがる連峰で、中央火口丘の五色岳(1674メートル)、外輪山の熊野岳(主峰:1841メートル)、刈田岳(1759メートル)などから構成されています。蔵王の名は、修験道の開祖・役の行者小角が、690年に金剛蔵王大権現をまつったことに由来するといわれ、冬のスキーと樹氷観光を中心に、火口湖の五色沼(通称・お釜。一日に何度も色を変えることからこの名がついた)や高山植物、温泉など、年間を通じて楽しめる観光資源にあふれています。 特に、シベリアからの湿った風が朝日連峰に突きあたって上空にのぼり、氷点下になっても水滴のままで飛んできたものが、アオモリトドマツに触れた瞬間に凍りつくという繰りかえしによってできる真冬の華・樹氷は、1936年にドイツのファンク映画製作所が撮影・紹介したことで、世界的にも知られるようになりました。 さて、観光地百選切手の第一陣としての蔵王切手は、8円と24円の2種類が発行されていますが、今回ご紹介の8切手には堀修一が1947年に撮影したザンゲ坂下の風景写真が取り上げられています。堀は山形県観光係の職員で、当時、蔵王山写真の第一人者といわれていました。 切手の発行にあわせて、地元では贈呈式が行われ、初日に印刷されたシートが関係者に贈呈されました。贈呈されたシートは、パラフィンの小窓がついた封筒(表面余白には、「贈呈 日本観光地百選観光郵便切手」などの文字が印刷されている)に封入され、封筒の裏面には「印刷廳封緘章」が捺されています。この贈呈用のシートは、単片にしてしまうと窓口発売の切手特別できませんが、耳紙に綴穴の痕跡がないため、シートの状態では一般のものと区別することは可能です。 なお、切手発行にあわせて、山形県蔵王温泉・同笠井・宮城県青根・同刈田の各局では風景印の使用が開始されました。このうち、山形県の両局で使用された風景印のデザインは、蔵王山頂から北西部を望む風景に高山植物の「むしとりすみれ」を描くものと報道発表されましたが、これに対して、描かれているのは「むしとりすみれ」ではなく「こまくさ」の誤りではないかと収集家からの指摘がありました。一方、宮城県の各局で使用された風景印には、蔵王山頂の火口湖の大景が取り上げられています。 なお、この切手を含む「観光地百選」の切手については、発行にいたるまでの経緯を含めて、拙著『濫造・濫発の時代』で詳しく解説していますので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。 |
2007-09-18 Tue 14:32
今日(9月18日)は1931年に満洲事変の発端となった柳条湖事件が起こった日です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1932年9月19日に奉天からドイツ・ポツダム宛に差し出された書留便で、満洲事変1周年の特印が押されています。先日刊行された(財)日本郵趣協会の『日本郵便印ハンドブック』では、スペースの関係からこの印影は省略されていましたので、その補足としてご覧いただければよろしいかと思います。なお、本来の事変1周年は9月18日ですが、このカバーは翌19日の使用例です。 日露戦争後のポーツマス条約により、東清鉄道の一部をロシアから継承した日本は、当然のことながら、鉄道付属地の権益も継承。満鉄(南満洲鉄道株式会社)は、撫順の炭鉱や鞍山の鉄鉱の経営、付属地の土木・教育・衛星などを担当し、条約に明文規定はなかったものの、実質的に付属地内の治外法権が設定されていました。その一環として、満鉄付属地には日本の郵便局が設けられ、日本切手が発売され、使用されています。 こうした満鉄付属地は1932年3月の満州国建国後も維持され、満鉄付属地は実質的な治外法権区域として、日本の満洲経営の拠点として機能し続けていました。今回ご紹介のカバーも、そうした満鉄付属地内の奉天に置かれていた日本の郵便局から差し出されたものです。なお、当然のことながら、奉天には満州国の郵便局もあり、そちらでは今回ご紹介のものとは別に、このような特印(こちらの画像は奉天ではなく、安東ですが、まぁ勘弁してください)が使用されました。 満洲国の建国後、満鉄付属地の問題は、満洲国の権限を一元的に掌握しようとしていた関東軍にとって微妙な存在となっていきます。 そもそも、関東軍のレゾンデートルは、満鉄付属地を周囲の外敵から防衛することにあったわけですが、満洲国の建国により、満鉄付属地がその領内に包摂されるようになると、“周囲の外敵”の存在は考慮する必要がなくなりました。また、付属地内で従来同様の治外法権が維持されたことが、今度は、満洲国政府の権限がそこに及ばないという状況を生み出すことになり、それは、満洲国の実質的な支配者となった関東軍にとって不都合ということになります。 このため、1935年8月、日本政府は、満鉄付属地の行政権を満洲国に移譲することを閣議で決定。1937年11月5日に締結された「滿洲國ニ於ケル治外法權ノ撤廢及南滿洲鐵道株式會社附属地行政權ノ委譲ニ關スル日本國滿洲國間条約」により、同年12月1日をもって満鉄附属地は撤廃されるまで、日満両国間でさまざまなやり取りがなされていくことになります。 この辺の事情については、昨年刊行の拙著『満洲切手』でもいろいろと書いてみましたので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。 *今日の昼過ぎ、アクセスカウンターが23万ヒットを超えました。沢山の方々の御訪問、心よりお礼申し上げます。 |
2007-09-17 Mon 11:12
今日は敬老の日です。というわけで、なにかお年寄りが描かれている切手がないかと探してみたところ、こんな1枚が出てきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、英領時代の1989年に香港で発行された「港人生活剪影(Hong Kong People)」の切手の1枚で、香港の代表的なスポーツとして、太極拳の老人と競馬が組み合わされています。 2006年の統計によると、香港には65歳以上のお年寄りが85万2100名、率にして総人口の12.4%住んでいます。このうちの3割が老後は大陸で過ごしたがっているとのアンケート結果がありますが、これはお年寄りの多くが、香港で生まれ育ったのではなく、若い頃に大陸から香港に渡ってきたという事情も関係しているのでしょう。 香港のお年寄りの多くは毎月2400香港ドル〜4000香港ドルの年金を受けていますが、そのお金で、広東省にある設備の比較的整って、コストの安い(入居費用は月額1000元程度)老人ホームで老後を過ごす香港人が増えてきているのだそうです。ただ、香港では年金を受けている高齢者の医療費は無料ですが、広東省の場合は高額の医療費が請求されるというデメリットがあります。 香港では、返還後の2000年12月より、日本の国民年金制度にならって、強制年金制度(MPF(Mandatory Provident fund:MPF)が実施されています。この制度は、会社と従業員の双方が積み立てを行う強制拠出型の年金制度で、18歳〜64歳の労働者(現地雇用の外国人を含む。ただし、現地雇用ではない駐在員などは除く)が対象です。会社と従業員はそれぞれ、従業員の毎月の現金収入の5%(上限1,000香港ドル)を、登録されたMPFプログラムに預託。従業員が退職する際に、会社はMPF積み立て金を解雇保証金、長期服務金(日本の退職金に相当)として使うことができることになっています。 年金の支給は60才以降で、60才になった時点で働いている人の場合は65才からの支給となります。また、一定金額以下の低所得者には免除制度がありますが、この免除制度も日本の制度に倣ったもののようです。 中国香港政府による年金資金の運用は順調とのことですが、やはり、幼少時から投資の精神を徹底的に叩き込まれているかの地の役人は、日本のようにお金が余ったら無駄な箱物を作って使い切ろうとは考えないんでしょうねぇ。ただ、私物化とか使い込みというのは、どんな社会でもありうる現象ですから、香港の年金役人がすべて信用できるということにもならないでしょうけど。 なお、現在香港在住のお年寄りの多くは、1949年に大陸で共産政権が成立した後、香港に渡ってきたものと考えられていますが、彼らが過ごしてきた香港現代社会の歩みについては、拙著『香港歴史漫郵記』で詳しくご説明していますので、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。 |
2007-09-15 Sat 12:06
日本画家の高山辰雄さん(以下、敬称略)が、昨日(14日)、肺炎のため95歳で亡くなったそうです。心よりご冥福をお祈りいたします。というわけで、今日は追悼の意味を込めて、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、魚介シリーズの第11集として、1967年6月30日に発行された“するめいか”の切手です。 1966年から発行が開始された魚介シリーズは、それまでにも世界各国で発行された魚介関連の切手とは一線を画し、日本独自の切手を作りたいという意気込みから、当代一流の日本画家に原画の制作が委嘱されました。ただし、画家の芸術作品は、必ずしも、生物学的に魚介類の生態を正しく表現するものではありませんでしたので、その点で、いくつかの切手に関しては“不正確”という批判が浴びせられています。 デザインを委嘱する画家の選定は、郵政省と図案審議委員で日本画家の山田申吾によって決められ、日展の加藤栄三、森日甫、山口蓬春、福田平八郎、杉山寧、橋本明治、山口華楊、青龍社の川端龍子、院展の前田青邨、岩橋英遠、堅山南風、新制作派の上村松篁、吉岡堅二らが最初の候補となりましたが、この時点では日展を舞台に活動していた高山辰雄の名前は入っていません。高山といえば人物画のイメージが強かったからかもしれません。ただ、実際に発行された切手では、日展の森、福田、山口華楊の作品はありませんから、高山は彼らの代役として白羽の矢が立てられたのでしょう。なお、画料は、一枚十万円として予算が計上されました。 画題となったスルメイカは、北はサハリンから南は台湾まで広く分布しており、日本近海のほぼ全域で獲れますが、三陸や北海道では、特に晩秋から冬にかけての漁獲量が多くなっています。胴の長さは約30センチで、足の長さは胴の3分の1程度です。赤茶色の小さい斑点が多数あり、それらが収縮して体色を変えます。イワシとともに、最もポピュラーな大衆魚として、日本の食文化に欠かせない存在です。 全国に分布するだけに、初日押印の指定局を絞りこむのは難しかったようですが、最終的には、北海道の森局が指定されました。同局の担当する北海道茅部郡森町は全国でも有数のイカの産地で、名物の“いかめし”もあることが決め手となったといわれています。 なお、この切手を含む「魚介シリーズ」全体については、拙著『切手バブルの時代』で詳しく解説していますので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。 |
2007-09-13 Thu 12:18
昨日(13日)の安倍総理の辞意表明にはビックリしました。安倍政権の業績を(とりあえず、評価については判断を保留して)探してみると、とりあえず、防衛庁の防衛省昇格、教育基本法の改正、国民投票法の制定などがあげられると思いますが、どれも直接の切手にはなっていません。ただ、目先を変えてみると、安倍政権がらみといえないこともないモノが切手がありましたので持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、今年(2007年)5月23日に発行された“日印交流年”の記念切手で、郵政公社の報道発表では次のように各切手のデザインを説明しています。 【タージ・マハル】((1)タージ・マハル/(2)ラクダとタージ・マハル) インド北部アグラにあるムガール帝国王妃の白亜の霊廟。1983年に世界文化遺産に登録された大理石に宝石等が散りばめられている美しい建物で、イスラム建築の至宝とも言われています。 【ベンガルトラ】((3)ベンガルトラ) インドを中心としてアジア各国に生息しており、トラの中ではシベリアトラに次いで2番目に大きい種類です。密猟や森林伐採など人間の活動により生存が脅かされており、1992年現在、インドに約3,000頭、バングラデシュに約300頭、ネパールに約100頭と言われています。 【インドクジャク】((4)インドクジャク) 主に中国から東南アジアに分布しているキジ科の鳥で、インドの国鳥。毒虫や毒蛇類を好んで食べるため益鳥として尊ばれ、このことが転じて、邪気を払う象徴として孔雀明王の名で仏教の信仰対象にも取り入れられました。 【サーンチーの仏教建造物群】((5)サーンチー仏教遺跡/(6)サーンチー仏教遺跡の女神像) 1989年に世界文化遺産に登録された、インドに残る最古の仏塔です。紀元前3世紀頃から仏教信仰の場となりました。 【インド細密画】((7)インド細密画) 18世紀、ラージャスタン州で発達した細密画です。 【インド更紗】((8)インド更紗) 粗密のある木綿の生地に、媒染模様染というインド更紗特有の技法で模様が染め表されたものです。 【民族舞踊】((9)民族舞踊バーラット・ナティアム) 南インドの舞踊で、インドの代表的な舞踊のひとつです。 【古典舞踊劇】((10)古典舞踊劇カタカリ) インドの四大古典舞踊のひとつで、世界三大化粧劇のひとつとも言われています。世界最古の演劇クリヤッタムや武術の要素が加わって1500年頃に成立しました。「カタ」は物語、「カリ」は舞踊を表します。 日印交流年の企画そのものは、2005年4月に小泉総理(当時)がインドを訪問した際、マンモハン・シン首相との間で“日印文化協定締結50周年”を記念して、2007年を“日印交流年”とするとしたことによるものでした。 アジアにおける中国の影響力が急速に拡大し、それがあらゆる面でわが国の脅威になっている現実を考えるなら、中国を牽制するため、中国と隣接するアジアの大国、インドとの結びつきを強めるのは、わが国として当然の選択です。安倍総理が8月にインドを訪問して、極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯全員の無罪を主張した故パール判事のご長男と会談したり、第二次大戦中に日本と連携して戦った独立の英雄、チャンドラ・ボースの記念館を訪れたりしたのは、いずれも、中国を牽制するための日印連携という文脈に沿ったものでした。その意味では、今年の“交流年”のイベントは、国民にインドとの友好をアピールするうえで悪くない企画だったように思います。 こうしたことを踏まえて、昨年末から今年初めにかけては、秋の全国切手展<JAPEX>と併催の外国切手展の企画に関しては、「今年は日印交流年の切手も出ることだし、“インド”を取り上げたらどうか」という話が出たことがあります。ただ、検討を進めていく過程で、「日印交流年は“政治銘柄”の色彩が強いため、安倍政権が11月まで安泰なら問題はないが、こけてしまったら…」という懸念(幸か不幸か的中してしまったわけですが)にくわえ、今年修好120年を迎える“タイ”のほうが日本人にとっては親しみやすい(たとえば、旅行者の数を比べると、その差は一目瞭然です)と思われましたので、最終的には、タイ切手展をやることになり、現在、準備を進めているところです。 まぁ、日印交流年そのものは誰が首相になろうと今年の末までずっと続いているわけですが、中国の意向を必要以上に忖度するような人物が後継総理に就任してしまって、日印の連携を強めるという路線が有耶無耶になってしまうのは困りものです。この切手を見ながら、ふとそんなことを考えてしまいました。 |
2007-09-11 Tue 11:04
国際柔道連盟(IJF)の総会で、任期満了に伴う理事の改選の結果、再選を目指していたロサンゼルス五輪金メダリストの山下泰裕候補(現職の理事)が落選し、日本は1952年のIJF加盟以来、初めて執行部から姿を消すことになりました。というわけで、こんな切手をもってきて見ました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1964年の東京オリンピックに際してモナコが発行した記念切手で、judo(柔道)が取り上げられています。東京オリンピックに際しては、“日本”をイメージするスポーツとして、judoは世界各国の切手に取り上げられましたが、モナコの切手には赤と青の柔道着で組み合う選手が描かれており、柔道着は白が当然という当時の常識から見れば“トンでもデザイン”とみなされていました。 しかし、1986年にマーストリヒトで開催されたIJFの理事会で初めて、東京オリンピックの金メダリスト、ヘーシンク氏がカラー柔道着(一方を白、他方を青とするもので、切手のように完全に色を自由化しようということではありません)を提案。以後、1989年と1993年の2回にわたり、IJFの総会で欧州柔道連盟(EJF)が提案したカラー柔道着の提案は否決されたものの、1997年にパリで開催されたIJFの総会では、カラー柔道着の導入は圧倒的多数で可決されました。 ヨーロッパのカラー柔道着推進派が一貫して主張してきたのは、①観客に分かりやすい、② 誤審が少なくなる、③テレビ映えするので、放映権料など連盟の収入増につながる、④これらのことが、結果的に国際競技としてのjudoの存続・発展につながる、というものでした。これに対して、柔道発祥の地である日本側は常に反対の立場をとり、さまざまな反論を展開しましたが、最終的には、①白い柔道着に黒帯は柔道の伝統的ユニフォームである、②カラー柔道着の導入によって用意する柔道着の数が増えることは選手の負担増につながる、というのがその論拠となっていたようです。 僕のような柔道の門外漢からすると、両者の主張を比べてみた場合、どう考えてもヨーロッパ側の主張のほうに理があったように思えます。少なくとも、柔道着の色を変えたら柔道の本質が変わるということはありえないわけですし(このことは、ほかならぬ山下泰裕氏ご本人がご自身のHPでそう言っています)、微妙な判定が問題になるケースも少なくないわけですから、連盟側として誤審を防ぐ最大限の努力をするのはあたりまえのことで、そこに伝統云々というだけの精神論・感情論を持ち出しても説得力はないでしょう。ただし、これらはあくまでも国際大会などのルールとして理があるかということであって、個人や同好のサークルで趣味として柔道を楽しむ場合には、必ずしもそうした制約にとらわれる必要がないのは当然です。 今回の山下候補の落選でIFJに日本人の理事がいなくなったことについては、一日本人としては残念に思いますが、日本の柔道が国際競技のjudoとして浸透していく中では、いずれは避けられないことだったのではないかと思います。世界的に見たら日本ローカルのままで終わっても伝統を固守するのが良いのか、伝統をある程度犠牲にしても世界スポーツとして普遍性を追求していくのが良いのか、そのあたりについては議論が分かれるのでしょうが、今回の一件は、あらためて柔道がjudoとなっている現実を我々に見せ付けてくれたといえそうです。 なお、今回のモナコの切手を含め、柔道がjudoになりつつあった時代に各国で発行された柔道切手については、拙著『外国切手の中の日本』でもいろいろと取り上げていますので、よろしかったらご一読いただけると幸いです。 |
2007-09-10 Mon 11:49
今日(9月10日)は、いまから80年前の1927年、兵庫県の草間貫吉に無線電信電話実験局第一号(コールサインJXAX)の免許が交付された日で、アマチュア無線の記念日とされています。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1977年に発行されたアマチュア無線50年の記念切手で、図案は、昭和初期のホーン型スピーカーと電鍵を描き、電波の波形が配されています。 1895年にイタリアのマルコーニが無線電信を発明した際、無線にはプロもアマチュアもなく、興味を持った人が自由に交信していました。しかし、1904年に勃発した日露戦争や1912年のタイタニック号事件などを通じて無線の有用性が広く認識されるようになると、国際的な電波管理の枠組みが構築され、電波の国家管理が本格的に始まります。 すなわち、1912年にはアメリカで電波法が施行され、個人の楽しむアマチュア無線が営業用ないしは公共の無線を妨害しないよう、周波数の制限が始められました。わが国でも、1915年に施行された無線電信法により、無線は原則として軍、官公庁、船舶、飛行機にしか使えないことになり、民間には無線の研究をすることを建前として団体に「実験局」の設立が許可されるだけになりました。 しかし、無線の発達に伴い、世界各国で個人にも「実験局」開局を許可するよう求める声が高まり、1924年にはアメリカ政府が世界で初めてアマチュア無線用の周波数を公認。わが国でも、1926年5月、アマチュア無線家が日本アマチュア無線連盟(JARL)を結成して運動を展開。翌1927年9月、兵庫県の草間貫吉がJXAXのコールサインを得て個人として初めて実験局の開局を許可されました。これが、わが国におけるアマチュア無線の始まりとされています。 当初、JARLでは、連盟創立50周年に当る1976年の記念切手発行を目指して郵政省に申請を行っていました。しかし、JARLが公的機関ではないということからこの申請は却下され、代わりに、草間に免許が公布されたことから起算して五十周年にあたる1977年9月に、「アマチュア無線50年」の記念切手を発行することが決定されます。ただし、草間への免許交付は、一般には9月10日とされていますが、記念切手の発行は9月24日で2週間ほどのズレがあります。 なお、この切手については、拙著『沖縄・高松塚の時代』でも解説していますので、よろしかったら、ぜひご一読いただけると幸いです。 |
2007-09-09 Sun 11:38
今日(9月9日)は重陽の節句。旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれ、邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりする日です。
というわけで、今日はストレートにこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1899年10月1日に発行された15銭切手です。1899年1月1日から発行が始まった通常切手のシリーズは、菊花紋章を中央に大きく描いていることから“菊切手”と呼ばれていますが、これもその1枚です。 日清戦争後の1897年、逓信省は通常切手のデザイン一新を計画します。その理由は、公式には次のように説明されています。いわく、従来の切手(いわゆる小判切手のことです)は、1876年以来、断続的に額面を追加して発行してきたため、デザインが不統一で、現場の郵便局員の間では額面を見誤る例が少なからずあった。また、急激な技術水準の向上に比べて、低いレベルの技術のままで作られた切手では、偽造のおそれも出てた… もっとも、こうした技術的な面に加え、日清戦争後の三国干渉を経て、日本社会全体に国粋主義的な傾向が急速に広がっていく中で、明治10年代の欧化主義を象徴するかのような切手のデザインに対する不満が広がっていたという背景を見逃すことはできないでしょう。ちなみに、当時の逓信大臣・末松謙澄も、小判切手のデザインに不満を述べています。ちなみに、通常切手のデザインを一新するに当たって、印刷局と逓信省との協議の結果、「切手に欧文を入れるのは独立国の体面上妥当ではない」「大日本帝国の切手であることを示すには菊花紋章のみで十分」「(小判切手に見られる)“IMPERIAL JAPANESE POST”の表示は絶対に外す」ことなどが基本方針として決定されています。 この方針の下、印刷局の斉藤知三が原図を作成し、原版を彫刻して完成したのが、今回ご紹介している菊切手です。 菊切手のデザインは、額面の表示以外、文字は全て漢字で、小判切手に見られる英文の国名表示はありません。また、欧化主義の時代に発行が開始された小判切手では、西洋の交通・通信のシンボルである車輪、スクリュー、気球などが入れられていましたが、菊切手では、それらは駅鈴に置き換えられています。駅鈴とは、律令制下で公用の駅馬を利用する際の一種の身分証として携行される鈴のことで、使者はこれを鳴らしながら往来したといわれており、日本古来の伝統的な通信のシンボルとして、現在でも、図案化されて使われることがあります。 いずれにせよ、小判切手と比べると、きわめて国粋主義的な色彩の強い切手であり、日露戦争に向かいつつある、当時の日本社会全体の空気が切手上にも影を落としているといってよいでしょう。 なお、日清戦争から日露戦争へと向かう時代の中で、明治政府が切手のメディアとしての側面をどのように認識し、活用していたかという点については、拙著『皇室切手』でもいろいろと分析していますので、よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。 |
2007-09-08 Sat 01:29
6日に亡くなった世界的テノール歌手、ルチアーノ・パヴァロッティの葬儀が、今日(8日)、生まれ故郷モデナの世界遺産に指定されている大聖堂で営まれるのだそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、イタリア統一以前の1859年、モデナで発行された切手です。 イタリア北部の都市で、中世の学問の府であったノナントラの修道院や、特産品バルサミコ酢で有名で知られるモデナは、フェラーラやレッジョとともに、イタリアの有力貴族であったエステ家の支配下に置かれていました。このうち、フェラーラは1597年に教皇領に併合されますが(教皇領としてのフェラーラから差し出されたカバーはこちら)、その後も、エステ家は以後もモデナおよびレッジョ公国(モデナ公国)を支配し続けました。 ナポレオン戦争の時代、モデナ公国はナポレオン・ボナパルトの創設したチザルピーナ共和国に併合されますが、戦後の1814年に復活します。しかし、いわゆるリソルジメントのイタリア統一運動の過程で、1859年6月にサルデーニャ王国に併合され、1861年3月17日に発足したイタリア王国の一部になりました。 モデナ公国としての最初の切手は1852年に発行されました。デザインは王冠と鷲を組み合わせたエステ家の紋章です。1859年にサルディーニャに併合されると、この切手に代わり、十字の楯と王冠のサヴォイ家(サルディーニャの王家)の紋章が入った切手が発行されました。今回ご紹介している切手は、サルディーニャ併合後に発行された5センティシミ切手です。 ところで、パヴァロッティの葬儀がモデナの大聖堂で行われるのは現地時間の今日午後1時からだそうで、日本時間では午後8時(サマータイム期間中のため、現在の時差は7時間)になります。ちょうど晩飯時でもありますし、今夜は、モデナ特産のバルサミコをきかせた料理を肴に、イタリア・ワインで献杯といきますか。 |
2007-09-02 Sun 09:16
日本では“終戦の日”というと玉音放送のあった8月15日ですが、世界的には、ミズーリ号で太平洋戦争の降伏文書が調印された9月2日が対日戦争終結の日(V-J DAY)とされていることが多いようです。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1945年9月2日、“対日戦争勝利”の記念印を押されてマニラから差し出されたカバーです。ちょっとかすれていますが、“日本の無条件降伏(UNCONDITIONAL SURRENDER OF JAPAN)”ならびに“V-J DAY”の文字が入っており、非常にわかりやすい内容です。 貼られている切手は、いわゆるVICTORY加刷切手。第二次大戦末期、フィリピンに再上陸した米軍が再占領した地域で発行・使用した切手で、早い地域では1945年1月には使われています。 米軍の再占領によって、戦時中、日本軍占領下で独立を宣言した親日派政権(第2共和国)は解体され、アメリカ支配が復活します。とはいえ、アメリカは戦前の1934年、タイディングス・マクダフィー法で10年後のフィリピン独立を承認しており、翌1935年には独立準備政府として自治領政府(フィリピン・コモンウェルス)発足していたという経緯もあって、1946年7月4日、フィリピン第3共和国(現在のフィリピン)として独立を果たしました。 なお、アメリカ側はフィリピンを支配していた“恩恵”を強調する意味でフィリピンの独立記念日を7月4日に設定したわけですが、現在のフィリピン政府は1898年にアギナルド政府がアメリカによるフィリピン併合の動きに対抗して独立宣言を行った6月12日としています。 このあたりのフィリピンとアメリカの微妙な関係については、拙著『反米の世界史』でもまとめてみましたので、よろしかったらご一読いただけると幸いです。 |
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