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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 泰国郵便学(63)
2020-08-31 Mon 01:13
 ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第54巻第4号ができあがりました。というわけで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ→デンマーク国際児童年航空便

 これは、タイのパッタヤー孤児院支援のため、デンマークでの国際児童年の記念切手発行に合わせて制作された記念カバーです。

 すなわち、1979年5月20日、デンマークでは国際児童年の記念切手が発行されましたが、これに合わせて、ロンド(ユトランド半島東岸に位置するデンマーク第2の都市、オースフ近郊)のロータリークラブとライオンズクラブは、前日の19日、国際児童年のロゴとパッタヤー孤児院の文言が入った封筒をパッタヤーからエアメールでデンマーク宛に送り、そのカバーがオースフ空港経由でロンドに到着すると、翌日、デンマークで発行されたばかりの記念切手を貼り足して、今回ご紹介のFDCを作成。これを収集家等に販売し、その収益をパッタヤー孤児院に寄付しています。

 さて、1970年代初頭、ヴェトナム戦争に従軍するためタイに駐留した米軍の軍人とタイ人女性の間に生まれた“アメラジアン”の混血児はタイで深刻な社会問題となっていました。

 1972年、カトリックのレデンプトール修道会(1732年、イタリアで創設。日本名は至聖贖罪主修道会)のレイモンド・ブレナン神父はパッタヤー(パタヤ)の聖ニコラウス教会で短期の補助業務を行っていましたが、ある朝、教会の入口に新生児が置き去りにされているのを発見。育児の経験が全くなかった神父ですが、授乳の仕方やおむつの替え方などを周囲の人々に手当たり次第に尋ね、なんとか子供を育てようと奮闘します。そして、このことが噂として広まると、サッタヒープ基地の米兵を父親とする多数の孤児たちが教会に連れてこられるようになりました。

 サッタヒープ基地内でも、米兵とタイ人女性との間に生まれた私生児の問題には頭を悩ませていたため、レイモンド神父は米軍の従軍牧師ととともに、チャンタブリー教区のティエンチャイ・サマンチット司教に相談します。

 チャンタブリー教区は、チャンタブリー県、チョンブリー県、プラーチーンブリー県、ラヨーン県、サケーオ県、トラート県、チャチューンサオ県(バーンパコン川東側)、ナコーンナーヨック県(バーンナー郡を除く)の3万4000平方キロ、信徒数4万弱を管轄するカトリック司教区で、司教座聖堂のチャンタブリー処女降誕聖堂はタイ国内で最も大きい聖堂として知られています。最初の聖堂は1711年に建立されましたが、19世紀、ヴェトナム系キリスト教徒が宗教弾圧を逃れて移民してきたことを受けて拡張され、1909年、現在のゴシック様式の聖堂が建設されました。

 レイモンド神父の相談を受けたティエンチャイ司教は、ちょうど、米軍の退役軍人が資金を拠出してパッタヤーに孤児院を建設し、チャンタブリー教区に寄贈する計画があることを告げ、神父がその責任者を引き受けることになります。なお、当初、タイ国内にはアメラジアンの孤児を対象とした孤児院を作れば、かえってそうした孤児が増えるのではないかとの反論もあったそうです。

 1974年に開設された孤児院は、聖堂が所有する3万756平米の土地のうち、8093平米を用地とし、シャルトル聖パウロ修道女会(イタリアを拠点とするカトリックの女子修道会で、日本では白百合学園の設立母体として知られる)の修道女が孤児の世話をするという体制でスタートしました。

 当初、孤児院は無認可の施設として国や自治体などからの支援はありませんでしたが、1978年10月24日、チョンブリー県知事の認可が下り、福祉施設としての社会的地位を確立します。

 また、1979年3月以降は、LHC(Lovers of the Holy Cross。本来のフランス語名はAmantes de la Croix de Jésus-Christ)女子修道会の修道女がヴェトナムからやってきて孤児たちの世話をするようになりました。

 LHC女子修道会は、1670年、パリ外国宣教会の宣教師、ピエール・ランベール・ド・ラ・モットによって、ヴェトナムのトンキンとコーチシナで創設されました。

 ヴェトナムではフランス植民地時代にカトリックが普及し、ヴェトナム戦争が終結した1975年の時点で、北部には約100万人、南部には約190万人のカトリック信徒がいたと推定されています。

 旧サイゴン政権は、カトリックを“反共の砦”として優遇していたため、統一後の社会主義政権は、1976年12月のヴェトナム労働党第4回全国大会(同大会で現在のヴァとナム共産党に改称)では、「宗教を利用するすべての帝国主義的陰謀に断固として反対」し、「宗教の背後に隠れる帝国主義者や反動主義者のすべての歪んだ宣伝を粉砕する」として、宗教(特にカトリック)への警戒心をあらわにしていました。

 じっさい、社会主義政権は国民の個人としての信仰の自由は(それが“反体制”につながらない限りという前提で)一応是認したものの、1975年にはサイゴンのカトリック大司教は教会の学校を国家に引き渡し、教会経営の病院、孤児院も接収され、1976年8月頃までにカトリック教会の活動の自由は制限され、外国人宣教師も追放されています。LHCも例外ではなく、ヴェトナム政府からさまざまな圧迫を受けつつも。現在に至るまで、ヴェトナム国内の他、米国、タイ、ラオスで活動を継続していました。

 パッタヤー孤児院でのLHC女子修道会の修道女が働くようになったのも、社会主義政権下で抑圧されている彼女たちへの救済措置という面もありました。

 こうしたこともあって、クリスチャンの多い欧米ではパッタヤー孤児院の活動への関心も高く、さまざまな支援が行われました。今回ご紹介のカバーもその一例だったというわけです。

 * 昨日(30日)の拉致被害者全員奪還ツイキャスの内藤の出演回は無事終了しました。ご参加いただきました皆様ならびにスタッフの方々にはこの場をお借りしてお礼申し上げます。


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 国際失踪者デー
2020-08-30 Sun 11:28
 きょう(30日)は、国家機関や国の許可を得た個人または集団が逮捕・拘禁・拉致などで個人の自由を剥奪する“強制失踪”の被害者への関心を高めるために制定された“国際失踪者デー”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ボスニア・失踪者の日

 これは、2010年9月15日、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを構成するスルプスカ共和国(セルビア人共和国)が発行した“スルプスカ共和国内での強制失踪者の日”の切手です。集団の中で一人だけシルエットを白抜きにして?をつけることで、突如いなくなった同胞について、社会がもっと関心を持つべきだというメッセージが表現されています。

 さて、1989年の東欧革命の余波で旧ユーゴスラヴィアでも共産党の一党独裁体制が崩壊し、1990年には自由選挙が実施されました。その結果、連邦を構成していた各共和国にはいずれも民族色の強い政権が誕生。 1991年6月にはスロヴェニアクロアチアが連邦からの独立を宣言。セルビアが主導する連邦軍とスロヴェニアとの間に10日間戦争、クロアチアとの間にクロアチア紛争が勃発し、ユーゴスラヴィア紛争が始まりました。

 さらに、1992年3月、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言すると、独立に反対のセルビア人はセルビア人共和国(スルプスカ共和国)の樹立とボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を主張し、独立賛成派のクロアチア人・ボシュニャク人(ムスリム人)の対立が軍事衝突に発展。さらに、同年4月27日、クロアチア民主同盟(当時のクロアチアの政権与党)ボスニア・ヘルツェゴヴィナ支部の過激派がボスニア・ヘルツェゴヴィナからの分離独立を唱えて“ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア共和国”の独立を宣言。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(以下、ボスニア紛争)は、セルビア、クロアチア両国の介入もあって泥沼化していきます。

 その後、1995年11月21日、米オハイオ州デイトン市近郊のライト・パターソン空軍基地において、セルビア大統領スロボダン・ミロシェヴィッチ(ボスニア・セルビア人代表として、ラドヴァン・カラジッチは欠席)、クロアチア大統領フラニョ・トゥジマン、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ大統領アリヤ・イゼトベゴヴィッチと同国外相ムハメド・サツィルベイの間で和平合意(デイトン合意)が成立。同合意は、12月14日にパリで署名されて発効してボスニア紛争は終結しました。

 この和平合意により、ボスニア・ヘルツェゴヴィナはボシュニャク人(ムスリム人)とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人主体のスルプスカ共和国からなる連合国家となり、民生面を上級代表事務所(OHR)、軍事面をNATO中心の多国籍部隊(平和安定化部隊、SFOR)が担当し、停戦の監視と和平の履行が進められます。切手に関しては、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦とスルプスカ共和国が別個のものを発行しているだけでなく、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦に“県”として併合された旧ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国も“ヘルツェグ=ボスナ”として独自の切手を発行し続けています。今回ご紹介の切手は、そのうちのスルプスカ共和国が発行したものです

 さて、和平後、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、紛争中の戦争犯罪者の逮捕と起訴、民族浄化によって移住を強いられた人々の帰還支援や民族間の和解に向けた取り組みが続けられているものの、依然として民族間の不信感が今も根深く残っています。今回ご紹介の切手も、こうした状況の中で、和平から15年を機に、紛争中に敵対勢力によって“強制失踪者”となった人々のことを忘れぬよう、国民を啓発する目的で発行されました。

 強制失踪者といえば、わが国でも北朝鮮による拉致問題があることを忘れてはなりません。2006年12月20日には、国連総会で強制失踪防止条約が署名され(批准国が20国に達した1か月後の2010年12月23日から発効)、組織的で広範な強制的失踪は“人道に対する罪”に相当することが規定され、同条約の第24条では被害者の権利、解放や、損害賠償、リハビリテーション、再発防止の保障も含めた被害回復についても規定されました。

 北朝鮮による日本人拉致は、まさに同条約の“強制失踪”の定義に当てはまるのですが、同条約では遡及適用が認められていないことに加え、北朝鮮が条約を批准していないことなどもあって、同条約による拉致問題の解決は難しいのが現状です。ただし、日本も拉致問題への国際的な関心を高めるため、同条約には2007年に署名、2009年に批准しているのですから、きょうの“国際失踪者デー”にあわせて、あらためて大規模な啓発キャンペーンなどを展開すべきではないかと思います。


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 安倍首相、辞意を表明
2020-08-29 Sat 02:06
 安倍晋三首相が、きのう(28日)、持病の潰瘍性大腸炎が再発し、総理大臣としての職務を継続することが困難になったとの理由から、辞意を表明しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      リヒテンシュタイン・聖エラスムス(2003)

 これは、2003年9月1日、リヒテンシュタインが発行した“救難聖人”のうち、腸の病の聖人、聖エラスムスを取り上げた1枚です。安倍首相は腸の病を抱えておられるとのことなので、選んでみました。

 救難聖人とは、緊急時に信者がその名を呼ぶことで難を救ってくれるとされる聖人で、カトリックでは、今回ご紹介の聖エラスムスや聖ゲオルギウスらの“14救難聖人”が有名です。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた聖エラスムスは、シリア・アンティオキアの司教でしたが、キリスト教を迫害したローマのディオクレティアヌス帝(在位284-305)に捕らえられ、法廷の前で激しく殴打されただけでなく、汚物をかけたうえ血管がぶち切れるまで斧で打ちすえられ、蛇やミミズのいる穴に投げ込まれたり、煮えたぎる油のなかに投げ込まれ、全身に煮えたぎる硫黄を注がれたりするなどの激しい拷問を受けましたが、無傷のままでした。そこで、エラスムスが神に感謝の祈りをささげると、彼に拷問を加えていた役人たちに雷が落ちて死亡。雷撃を免れた者たちがエラスムスを蛇やミミズのいる穴に叩き込むと、今度は天使が現れて穴の中の蛇を抹殺したという伝説が残されています。このことから、船頭たちは、雷から守ってくれるよう、エラスムスに取りなしを願ったことから、彼は船乗りの守護聖人となります。

 その後も、エラスムスは布教を続けたため、 今度は、ディオクレティアヌスとの共同皇帝であったマクシミアヌス帝(在位286-305、306、310)に捕らえられ、鋭い針が突き出した樽に入れて転がす、やっとこで歯を抜く、指に鉄の爪を打ちつける、松脂や硫黄、鉛等を熱して口に流し込みむなどの激しい拷問を受けましたが、生きのびます。

 しかし、303年頃、バルカン半島西部のイリュリアで捕らえられ、今度は、片腹を裂かれ、そこから拷問吏が手を入れて腸をつまみ出し、巻き上げ機の竿に結んでずるずると腸を巻き上げていったことで、ついに殉教しました。彼が、腸の病の救難聖人とされるのはこの故事によるもので、切手でも、聖人は腸が巻き付けられた巻き上げ機を持つ姿で描かれています。
 
 7年半におよぶ安倍政権の功罪についてはさまざまな評価があると思いますが、まずは、長きにわたる激務の日々、お疲れさまでしたと申し上げねばなりますまい。そのうえで、ゆっくり静養のうえ、聖エラスムスのご加護で、一日も早く健康を回復されんことをお祈りしております。

 * きのう(28日)の文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」の僕の出番は、無事、終了いたしました。お聞きいただきました皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。なお、次回の出演は9月18日(金)の予定ですので、引き続き、よろしくお願いします。


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 アレクサンドル・デュマを称えて
2020-08-28 Fri 02:38
 検索サイト・グーグルのトップのロゴ(ドゥードゥル)が、きょう(28日)は「アレクサンドル・デュマを称えて」として、『モンテクリスト伯』や『三銃士』などで知られる作家、アレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ)を取り込んだデザインになっていました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      グーグル・デュマ

 というわけで、こんなモノを持ってきました。

      キューバ・葉巻絵葉書(1998)

 これは、1998年、キューバが自国の葉巻を宣伝するために発行した官製絵葉書で、“モンテクリスト”を中央に、コヒーバやボリバルなど、キューバを代表する銘柄の葉巻が並べられています。
 
 葉巻大国のキューバではさまざまな銘柄の葉巻が生産されていますが、なかでも、モンテクリストはチェ・ゲバラが好んだ葉巻として知られています。

 モンテクリストは、デュマの小説『モンテクリスト伯』にちなんで命名されたブランドで、1935年にH・アップマン工場で製造が開始されました。

 H・アップマンは、1844年、ドイツ人のヘルマンおよびアウグストのアップマン兄弟が創業したブランドで、キューバ産葉巻の中では最古参のひとつです。比較的軽めのミディアム・ライトの味わいが英国市場で人気を博し、世界的なブランドとしての地位を確保しました。
 
 かのジョン・F・ケネディは、1962年、キューバ製品の禁輸措置法案が議会を通過し、大統領として署名する前夜、報道官を内々に呼びつけ、「どんな手段を使ってでもいい。少なくともH・アップマンを1000本確保するように」と厳命。はたして、翌朝、ホワイトハウスに1500本のアップマンが集められたのを確認してから法案に署名したといわれています。まぁ、明らかな職権濫用なのですが、逆に言えば、それほど、H・アップマンは魅力的な葉巻だったといえましょう。

 もっとも、ブランドとしてのH・アップマンの経営は必ずしも順調ではなく、1922年以降、業績の悪化により、何度か経営母体が変わっており、1935年に同社を買収したアロンソ・メネンデスが経営再建の切り札として売り出したのが、モンテクリストでした。

 なお、当時の葉巻工場では、単調な作業でスタッフの集中力が途切れるのを防ぐため、作業中にさまざまな物語を朗読するのが習慣で、1935年に売り出された新ブランドの葉巻の場合、製造過程で人気のあった読み聞かせの物語が『モンテクリスト伯』だったため、それが命名の由来となりました。なお、モンテクリストのブランドのロゴは、『モンテクリスト伯』の著者、デュマの別の代表作『三銃士』をイメージしたデザインとなっています。

 メネンデスは、新ブランドの投入とあわせて、工場を近代化することで、経営を立て直し、モンテクリストをキューバ3大シガーのひとつといわれるまでに成長させました。現在、モンテクリストは、“ゲバラが愛好した葉巻”というイメージ戦略も当たってキューバ産葉巻輸出の約25パーセントを占めています。

 今回ご紹介の絵葉書には、No4の箱が取り上げられていますが、銘柄としてはNo1から5までのほか、キューバ産葉巻としては最大サイズの“A”から、小さめのペティコロナサイズ、ミニシガリロまでさまざまな種類があります。その味は、いずれも、やや濃厚で深みがあり、樹木やナッツを思わせる香ばしい香りが感じられるのが特徴です。

 なお、キューバ産の葉巻については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 8月28日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。


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 ガザ地区でロックダウン導入
2020-08-27 Thu 02:42
 パレスチナ自治区のガザ地区で、25日までに新型コロナウイルスの市中感染が初めて確認されたことを受けて、ロックダウン(封鎖措置)が導入されました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      パレスチナ(ガザ)・マガジキャンプ

 これは、1995年7月1日、ガザ中部のマガージー(ディール・バラフ県)局から、同南部のバニー・スヘイラ(ハーン・ユーニス県)宛のカバーです。なお、マガージーには第一次中東戦争中の1949年に設置された大規模な難民キャンプがあり、現在、約2万5000人弱が生活しています。

 パレスチナ自治政府の発表によると、ガザの女性がヨルダン川西岸を訪れた際に新型コロナ検査で陽性反応を示し、その後、彼女の家族4人の感染がガザで確認。ガザでは、隔離施設以外の市内で感染が確認されたのはこれが最初の事例となりました。さらに、この家族はガザ地区の中部にあるマガージー難民キャンプで多くの人と接触しており、25日夜にはガザ市内の病院で、最初の4人とは無関係の患者2人の感染が確認されたことから、当局はロックダウンに踏み切ったというわけです。

 さて、1993年のオスロ合意を受けて、1994年5月にはカイロでパレスチナ先行自治協定(PLOによる自治を開始するための具体的協定)が調印され、イェリコとガザで暫定自治が開始されました。これに伴い、5月4日にはガザ地区で、5月9日にはイェリコで、イスラエルの郵政機関が閉鎖され、パレスチナ自治政府の郵政機関が発足します。ただし、当初はパレスチナ自治政府独自の切手・消印は間に合わず、ガザ地区とイェリコでもイスラエルの切手がそのまま使用されていました。

 このため、パレスチナ自治政府としての独自の切手を発行すべく、PLO駐独代表のアブドゥッラー・フランギーが、ドイツ社会民主党の国会議員でアラブ諸国との関係が深く、かつ切手収集家でもあったハンス・ユルゲン・ヴィシュネウスキーと接触。その結果、ドイツの老舗切手エージェント、ゲオルグ・ロール・ナシュフ社のコーディネートの下、国有ドイツ連邦印刷会社が切手を製造することで話がまとまり、1994年夏、ベルリンで切手の製造が行われました。

 パレスチナ自治政府がドイツから切手を受け取ったのは1994年10月以降のことで、各地の郵便局では、いつからこれらの切手が実際に販売されたのか、現在となっては正確なデータは残されていません。ちなみに、この切手の収集家向けの販売代理店となったゲオルグ・ロール・ナシュフ社は、1994年8月15日付の“初日カバー”を制作・販売していますが、この日付の時点では切手は実際にはパレスチナに到着していませんから、初日カバーに押されている消印の日付が“後押し”となっている点は注意が必要です。

 こうした経緯を経て、1995年1月1日、パレスチナ自治政府が独自の切手を用いて本格的に郵便サービスを開始。今回ご紹介のマガージーでも、同年7月1日、郵便局が開局しています。
 
 なお、オスロ合意後のパレスチナ自治政府の切手と郵便については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 WHO、アフリカでポリオ根絶を宣言
2020-08-26 Wed 01:54
 世界保健機関(WHO)は、きのう(25日)、アフリカでは2016年のナイジェリアを最後に新規感染が確認されていないことから、アフリカで野生株のポリオ(急性灰白髄炎)が根絶されたと宣言しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ナイジェリア・ポリオ(1984)

 これは、1984年、ナイジェリアで発行されたポリオ根絶キャンペーンの切手です。ポリオ根絶キャンペーンの切手は世界各国から発行されていますが、アフリカではナイジェリアでの確認例が最後になったということで、今回はナイジェリアの切手を持ってきました。

 さて、ポリオ(急性灰白髄炎)は脊髄性小児麻痺とも呼ばれ、ポリオウイルスによって発生する疾病です。名前のとおり子ども(特に5歳以下)がかかることが多く、麻痺などを起こすことのある病気ですが、米国のフランクリン・ローズヴェルト元大統領が39歳の時にカナダの冷たい海で泳いだことがきっかけでポリオに罹り、下肢が不自由に なったことに見られるように、成人でも罹患することがあり、特に成人では亡くなる確率も高いものとなっています。

 ポリオ流行の記載は18世紀頃からみられ、1950年代まではしばしば世界各地で流行していました。わが国では、1940年代頃から全国各地で流行がみられ、1960年には北海道を中心に5000名以上の患者が発生する大流行となりましたが、1961年、生ポリオワクチン(OPV)の緊急輸入と一斉投与が行われ、流行は急速に終息しました。1963年以降は、国産OPV の2回投与による定期接種が行われるようになり、1980年の1型ポリオの症例を最後に、わが国では、野生型ポリオウイルスによるポリオ麻痺症例は確認されていません。

 日本を含む西太平洋地域全体では、1997年のカンボジアでの症例が最後とされており(1999年の中国での症例については、他国から の輸入株によるもので土着のものではありませんでした)、2000年10月の京都会議において、ポリオ根絶宣言がだされていました。ちなみに、アメリカ地域での根絶宣言は1994年、ヨーロッパ地域では2002年で、2012年にはポリオ感染国からインドが外されたことで、その後は、風土病としてポリオが流行している国は、ナイジェリア、パキスタン、アフガニスタンの3国のみとなっていました。

 今回、感染国から外れたナイジェリアに関しては、イスラム過激派組織のボコ・ハラームが跋扈している北東部の治安が悪く、予防接種が進まなかったことが問題視されていました。日本政府は、2000年以降、国際協力機構(JICA)を通じて予防接種の普及を支援するため、約81億円の無償資金協力と約83億円の融資(円借款)を行っており、今回のWHOの宣言を受けて、ナイジェリア・プライマリーヘルスケア開発庁のシュアイブ長官は「JICAは、ワクチン調達と機材供与を通じて、(根絶に)大きく貢献した」とコメントしています。


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 リンドウは花びらでも光合成
2020-08-25 Tue 00:53
 岩手生物工学研究センターの西原昌宏園芸資源研究部長らの研究グループは、きのう(24日)、リンドウの花の緑色斑点が光合成を行っていることを明らかにしたと発表しました。一般に植物の花は光合成をしないとされており、研究チームの発表は新発見だそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      花切手・りんどう

 これは、1961年10月2日に発行された花切手の「りんどう」です。

 四季折々の花を切手に登場させようという花切手の企画が最初に持ち上がったのは、1955年のことで、郵政省の事務方と郵政審議会・切手図案審査専門委員の一人で植物学者(東京大学名誉教授)の小倉謙は、昭和31(1956)年度に花切手を発行すべく、審議会に提案しています。しかし、このときは、時期尚早との理由からこの企画は採択されませんでした。

 いったんお蔵入りしていた花切手の企画ですが、1961年が郵便創業90年にあたっており、その記念行事の一環として発行されることが決まり、1960年10月以降、シリーズ発行に向けての具体的なプランが決定されます。その結果、1961年1月の“すいせん”を皮切りに、毎月1種ずつ、季節の花を題材として発行する花切手のシリーズがスタートしました。

 10月の花に選ばれた“りんどう”の原画は、印刷局の島田武夫がかつて技術研究のために描いていたものを、シリーズの規格に合わせて描きなおしたものです。

 原画は1961年4月3日に完成し、ただちに小倉謙の考証を受けましたが、植物学上の問題点が多かったためか、小倉は島田に対して全面的に描きなおすように指示しています。このため、4月19日、島田は改めて原画を提出し、こちらが採用となりました。ちなみに、切手では花びらの斑点もしっかりと確認できますが、技術上の制約があったためか、緑色ではなく、紫色を薄くすることで表現されています。

 さて、岩手県はリンドウの生産で全国シェアの約6割を占めていますが、これまで、市場では斑点の目立たない花が好まれることもあって、斑点に関する詳しい研究はありませんでした。西原部長らの研究グループは、花びらの斑点を電子顕微鏡などで観察したほか、植物が吸収しながら光合成に使わなかった光を計測する手法を用いるなどして、リンドウの斑点は葉緑体をたくさん持つ表皮細胞が、つぼみの成長に伴って増えることで発生することを明らかにし、斑点が葉と同レベルの光合成をしていることを確認。今回の新発見となったそうです。


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 台湾・金門砲戦慰霊祭に米駐台代表参列
2020-08-24 Mon 01:15
 台湾の金門島で、昨日(23日)、1958年の“金門砲戦”の戦没者慰霊祭が行われ、蔡英文総統のほか、米国の対台湾窓口機関、米国在台協会(AIT)台北事務所のクリステンセン所長(駐台大使に相当)が参加しました。AIT所長の式典参加は初めてです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      台湾・莒光楼(1959)

 これは、金門砲戦の翌年にあたる1959年に台湾が発行した“莒光楼”の普通切手です。

 金門島は、中国大陸・福建省の対岸に位置する台湾の離島で、1895年に台湾が日本に割譲された後も清朝の領土に留まり、辛亥革命後の1914年は中華民国の思明県に編入されましたが、翌1915年には、大金門島、小金門島および大胆島(別称・大担島)や二胆島など12の島で構成される“金門県”が新設されます。

 1937年の支那事変(日中戦争)勃発後は日本軍の占領下に置かれましたが、1945年の終戦に伴い中華民国が回収しました。

 国共内戦末期の1949年10月17日、厦門を占領した人民解放軍は、同25日、対岸の金門島にも攻撃を仕掛けましたが、国府側は同27日までにこれを撃退。福建省沿岸の金門島・馬祖島ならびに浙江省沿岸の大陳列島を確保することによって、かろうじて台湾省に限定されない“中国政府”としての体面を保ち、台湾を拠点に“大陸反攻”を呼号していくことになります。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた莒光楼は、これを記念して1952年に大金門島の金城莒光湖近くに建立された中華風の建造物で、「毋忘在莒 光復大陸」との蒋介石の言葉が命名の由来です。

 朝鮮戦争休戦後の1955年、台湾派は米国と米華相互防衛条約を結び、台湾には在華米軍が駐留し、核弾頭を搭載可能なマタドール巡航ミサイルが配備されます。

 一方、1956年2月、ソ連共産党書記長のニキータ・フルシチョフは、スターリン批判を展開し、西側との平和共存に向けて一歩を踏み出しました。これに対して、3年前まで朝鮮で米国と戦っていた中国の認識では、隣国の北朝鮮や北ヴェトナムが米軍と対峙している中での対米宥和は弱腰外交以外のなにものでもなく、1957年11月18日、モスクワで行われた共産党・労働者党代表者会議に参加した毛沢東は、「東風は西風を圧す」「米帝国主義は張子の虎」と演説。米国との核戦争を恐れるべきではないと主張し、フルシチョフの平和共存路線に異議を唱えます。

 こうした状況の中で、1958年に大躍進政策を発動した毛沢東は、対外的な緊張をつくりだすことで国内の統制を強化するとともに、米華相互防衛条約の範囲が、中国沿岸の金門島に及ぶか否かを確認するため、同年8月23日、金門島への大規模な砲撃を開始。これに対して、米国のジョン・フォスター・ダレス国務長官は、「金馬地区を奪取することは平和に対する脅威である」と警告を発し、米国の支援を受けた台湾軍は反撃し、厦門の大嶝、二嶝の中国人民解放軍砲兵陣地に大きなダメージを与えます。

 このため、10月5日、中国の国防部長・彭徳懐が「人道的な見地より金門への砲撃を7日間停止し中華民国軍船舶による補給を許可する」、「ただし米国がその護衛を行わないことが条件である。これは中国の国内問題であり米国が関与することは内政干渉である」と一方的に宣言。その後も、中国側は形式的に金門島への砲撃を継続しましたが、金門砲戦は実質的に台湾の勝利で終わりました。今回ご紹介の切手は、これを受けて1959年に発行されたものです。

 さて、今回の慰霊祭へのAIT所長の参列は、中国軍が台湾海峡付近で軍事演習を繰り返すなかで、米国のトランプ政権があらためて台湾支持の姿勢を示すもので、式典後、蔡総統はフェイスブックに「主権、民主主義と自由を守る台湾の決意を世界に見せることは私の責任だ」とのコメントを書き込んでいます。


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 スターリニズムとナチズムの犠牲者追悼の日
2020-08-23 Sun 00:53
 きょう(23日)は、1939年8月23日に独ソ不可侵条約(に付随する東欧分割の密約)が調印されたことにちなみ、2009年に欧州議会が制定した“スターリニズムとナチズムの犠牲者追悼の日”です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連占領下東ポーランド・収容所はがき

 これは、第二次大戦中の1940年10月、枢軸国ハンガリーの収容所に送られたポーランド兵が、旧ポーランド領で当時はソ連占領下に置かれていたスタニスワヴフ県トゥウ宛に差し出された捕虜郵便の葉書です。

 1935年にヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄して再軍備を宣言したドイツは、1936年3月にはヴェルサイユ条約で軍隊の駐留が禁止されていたラインラント地方に軍隊を進駐させたのを皮切りに、1938年3月にはオーストリアを併合。 同年9月にはミュンヘン会談でチェコスロヴァキアのズデーテンラントの割譲を英仏に呑ませました。

 一方、ソ連はドイツの東方侵出を警戒し、ドイツのズデーテン領有について一応は抗議の声を上げましたが、あくまでも形式的なもので、実際にはドイツに対して敵対的な行動はほとんどとらず、むしろ、英独の対立を煽り続けます。スターリンとしては、仮想敵国のドイツとは自らは戦わず、英仏と戦わせて国力を削ぐことを企図していたからです。

 結局、「領土的な割譲の要求はこれで最後だ」としたヒトラーの約束は守られず、、翌1939年3月、ドイツはプラハを占領してチェコを保護国とし、リトアニアからメーメル地方を割譲させました。ここまでは強引ではありますが、いちおう武力によらず“平和的に”解決しています。

 こうした状況の下、1939年5月、スターリンはマクシム・リトヴィノフ外相を解任しました。リトヴィノフはユダヤ系ロシア人で、ソ連の対独強硬派の象徴とされていただけでなく、夫人が英国人で、米英仏からの信頼が篤い人物でした。そして、リトヴィノフに代わって対独融和派のモロトフが外相となり、以後、独ソ連携が加速化していきました。

 8月23日の独ソ不可侵条約(と付属の秘密議定書)はこうした状況の下で結ばれたもので、ドイツの矛先をそらしたいソ連と、次のターゲットとしてポーランドを狙うなかで、英仏との戦争を想定し、ソ連との戦争を回避する必要があったドイツの思惑が一致したことがその背景にありました。
 
 さて、独ソ不可侵条約には、東欧をドイツとソ連の勢力圏に分割するという秘密議定書がついており、ナレフ川=ヴィスワ川=サン川を境界として両国でポーランドを分割すること、バルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)およびルーマニア領ベッサラビアはソ連が併合し、フィンランドをソ連の勢力圏とすることが謳われていました。

 これに従い、1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻すると、同17日、ソ連軍は“ウクライナ系・ベラルーシ系市民の保護”を口実にポーランド東部国境から侵攻を開始。独ソ両軍は衝突することもなく、秘密議定書の分割線に従って占領域を確定させ、9月28日には独ソ不可侵条約を前進させたドイツ・ソビエト境界友好条約が締結されます。ちなみに、ドイツ軍のポーランド侵攻に対してドイツに宣戦布告した英仏ですが、同じくポーランドに侵攻したソ連に対しては宣戦布告をしませんでした。 

 ちなみに、今回ご紹介の葉書の宛先になっているスタニスワヴフ県は、第二次大戦以前はポーランド領でしたが、1939年にソ連に併合された後は、第二次大戦後もポーランドには返還されず、現在はウクライナ領イヴァーノ=フランキーウシクとなっています。
 
 なお、独ソ不可侵条約とその背景については、拙著『みんな大好き陰謀論』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 ニューサウスウェールズ250年
2020-08-22 Sat 02:41
 1770年8月22日(現地時間)、ジェームズ・クックがオーストラリア東部のポゼッション島に上陸し、オーストラリア東岸の英国領有を宣言し、“ニューサウスウェールズ”と命名してから、ちょうど250年になりました。というわけで、ニューサウスウェールズ関連で、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島・NSW切手使用例
      ソロモン諸島・NSW切手使用例(裏面)

 これは、 1905年12月、英領ソロモン諸島からシドニー経由でニューサウスウェールズのメリーランド宛に差し出された絵葉書です。

 1893年、英国は、ガダルカナル島を含むソロモン諸島中部および東部の島々や西部のニュージョージア島の保護領化を宣言し、英領ソロモン諸島が成立します。

 これを受けて、1895年、ガダルカナルの対岸、フロリダ諸島の小島、ツラギに植民地政庁が設置され、翌1896年、植民地行政の責任者である弁務官としてチャールズ・モリス・ウッドフォードが任命されました。また、これとあわせて、ガダルカナル東端のマラウ・サウンド(この場合の“サウンド”は入江の意)の中洲、タヴァニププに船着き場が設けられています。

 ウッドフォードが英領ソロモン諸島の弁務官に駐在した1896年の時点でソロモン諸島在住の西洋人は47人でしたが、彼らと外部世界(特にオーストラリア)との通信は、当初は、島を往来する不定期の船に託され、オーストラリアに持ち込まれた後、持ち込んだ人が差出人から預かったお金(英本国のスターリング・ポンド。当時は、ソロモン諸島独自の通貨が発行されていなかっただけでなく、オーストラリアの各植民地でもスターリング・ポンドが法定通貨でした)で切手を購入して投函する形式が採られていました。

 弁務官のウッドフォードは、これを少しでも組織化することを考え、1897年以降、ツラギなど外国人の居留地にニューサウスウェールズ切手を持ち込んで欧米系の住民に販売。ニューサウスウェールズ切手を貼った郵便物はツラギの植民地政庁に集められた後、一括してシドニー郵便局長宛に送られ、シドニーで消印されてから、宛先地に届けるという方式が採用されていました。

 今回ご紹介の絵葉書は、ソロモン諸島の風景を取り上げた「サンゴ礁とヤシの木」シリーズ(シドニーのケリー社が制作)の1枚で、おそらくツラギでニューサウスウェールズ切手を貼って差し出された後、シドニーに持ち込まれ、そこから宛先に配達されたものです。

 その後、1906年4月12日、ツラギに常設の郵便局が設置され、ニューサウスウェールズ切手の販売を停止するとともに、郵便物の切手を貼るべき場所に“BRITISH SOLOMON ISLANDS PAID”と表示された長方形の印が使用されるようになります。この印が押された郵便物は、シドニー以遠の料金相当の小切手とともに一括してシドニーに送られ、シドニーでニューサウスウェールズ切手を貼り、宛先地へ届けられました。

 これと並行して、ウッドフォードは、シドニーのW.E.スミス社に独自の切手製造を委託。翌1907年2月14日、ソロモン諸島最初の切手が発行されます。

 さて、現在、第二次大戦中の激戦地として知られる“ガダルカナル”にフォーカスを当てた本を作っています。内容は、戦史よりも、戦後のガダルカナルが中心で、すでに本文の原稿は書き終え、現在は、書籍としてまとめる最終段階にの作業を進めているところです。正式な書名や発売日などが決まりましたら、このブログでもあらためてご案内いたしますので、よろしくお願いします。


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 沖縄切手モノ語り①
2020-08-21 Fri 02:07
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』第760号(7月25日号)から、「沖縄切手モノ語り」と題する新連載を始めました。今回は初回ということで、まずは“ニミッツ布告”について取り上げました。その記事の名から、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます。

      米・ニミッツ

 第二次世界大戦末期の沖縄戦は1945年3月26日、米第77歩兵師団が慶良間諸島の座間味島など数島に上陸したことから始まりました。

 慶良間諸島に上陸した米軍は、即日、“太平洋艦隊司令長官・太平洋区域司令官兼米国軍占領下の南西諸島及びその近海の軍政府総長 チェスター・ニミッツ米海軍元帥”の名で米国海軍軍政府布告第1号を公布します。つづいて沖縄本島に上陸した1945年4月1日にも同名の布告を公布、4月5日には読谷村比謝に軍政府(琉球列島軍政府。長官はニミッツ)を開設しました。

 この米国海軍軍政府布告第1号は、米軍占領地おいて日本政府の全ての行使権を停止し、南西諸島及び近海並びにその居住民に関するすべての政治及び管轄権並びに最高行政責任が、占領軍司令官兼軍政府総長、米国海軍元帥であるニミッツの権能に帰属すると宣言するもので、同布告の第10号までは“ニミッツ布告”と総称されています。

 ニミッツは、1885年2月24日、テキサス州フレデリックスバーグ生まれ。1905年に114人中7番の成績で海軍兵学校を卒業後、少尉候補生として東アジア航海に参加した際、日本海海戦の勝利で一躍時の人となっていた東郷平八郎と会話して大いに感銘を受けたそうです。

 その後、第一次世界大戦中に大西洋潜水艦隊参謀長。1939年に海軍省航海局長を歴任し、日米開戦直後の1941年 12月、太平洋艦隊司令長官に任命され、陸軍のダグラス・マッカーサーが担当した太平洋南西部を除く太平洋における最高指揮官となりました。

 1942年6月にはミッドウェイ海戦で勝利を収め、以後、ソロモン海戦、ギルバート諸島の戦い、マリアナ沖海戦、フィリピン進攻で軍功を挙げ、マッカーサーと並ぶ米軍の象徴的存在として、1944年12月、海軍元帥に昇進。日本の戦時歌謡「比島決戦の歌」では「いざ来いニミッツマッカーサー 出て来りゃ地獄へ逆落とし」と歌われています。

 日本側に「来い」と言われるまでもなく、ニミッツはフィリピンを経て沖縄戦を指揮して米軍に勝利をもたらし、7月31日付で軍政長官は陸軍大将のジョゼフ・スティルウェルに交替して沖縄を去りました。しかし、彼の名前で出された“ニミッツ布告”は、1972年5月の沖縄の本土復帰まで効力を保ち、現在に至るまで沖縄の米軍基地問題の原点となっています。

 なお、沖縄を去ったニミッツは、1945年9月2日、戦艦『ミズーリ』での降伏調印式に参加し、1945年12月から1947年12月まで海軍作戦部長を務めて引退。1966年2月20日、80歳で亡くなりました。ちなみに、今回ご紹介の切手は1985年、ニミッツの生誕100年に合わせて、米国で普通切手として発行されたものです。

 * 昨日(19日)、アクセスカウンターが223万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。

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 マリでクーデター
2020-08-20 Thu 01:51
 西アフリカのマリ共和国で、首都バマコ近郊のカティ駐屯地のマリク・ディアウ大佐とサディオ・カマラ将軍によるクーデターが発生し、きのう(19日)までに、イブラヒム・ブバカール・ケイタ大統領とブブ・シセ首相が辞職、議会が解散されました。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      仏領スーダン・カティ駐屯地

 これは、第一次大戦中のカティ駐屯地でのフランス軍によるアフリカ兵の訓練風景を取り上げた絵葉書です。

 1960年の独立以前、現在のマリ共和国に相当する地域は、フランスの植民地支配下で“仏領スーダン”と呼ばれていましたが、現在のマリの首都、バマコから北東に15キロの地点にあるカティは、1880年にバマコを占領したフランス軍のジョゼフ・シモン・ガリエニによって第2セネガル狙撃隊の駐屯地とされました。第2セネガル狙撃隊は1946年に解散しますが、その後もカティは軍事都市としての地位を維持し、1960年のマリ独立を経て、1961年6月8日にフランス軍が撤退すると、マリ軍の軍官学校が置かれました。

 ところで、マリでは、アマドゥ・トゥマニ・トゥーレ政権下の2009年、北部のトゥアレグ人反乱の停戦合意が成立しましたが、一部のトゥアレグ人はこれを潔しとせず、リビアに逃れて傭兵部隊に加わっていました。

 ところが、2011年10月、リビアでカダフィ政権が崩壊すると、マリ出身のトゥアレグ人傭兵の大半はリビアを逃れて、マリ北部、トンブクトゥガオ、キダル3州をあわせたアザワド地域に帰還。翌11月には“アザワド解放民族運動(MNLA:Mouvement National pour la Libération de l'Azawad)を結成し、2012年1月以降、マリ北部トゥアレグ人居住地区の独立を目標とした武装闘争を再開。1月16日から17日にかけて、MNLAはガオから東に250キロ、マリ領内の東端に位置するメナカを攻撃したほか、翌17日には、MNLAはアゲルホクとテッサリトを攻撃し、これを政府軍が奪還するという一進一退の状況が続きました。

 これに対して、2月1日、マリ政府軍が“戦略的撤退”を実行すると、MNLAはメナカを制圧。アゲルホクの戦闘では政府軍兵士数十人が亡くなり、2月6日には北部の拠点都市であったキダルがMNLAによって占領されます。さらに、3月11日、MNLAはテッサリトとその空港を制圧。マリ政府軍はアルジェリアとの国境地帯まで撤退を余儀なくされたのに対して、勢いを増すMNLAはディレならびにグンダムに進攻。北部の要衝、トンブクトゥまでわずか125キロの地点にまで到達します。

 一方、北部での紛争が激化する中で、政府軍の内部では、叛乱を鎮圧するための武器や資材が不足していることや、多くの兵士が戦死し、あるいはMNLAの捕虜となっていることについて、トゥーレ政権に対する不満が鬱積。こうした中で、2012年3月21日、前年末に国防大臣に就任したばかりのサディオ・ガサマ准将がカティ駐屯地を視察した際、兵士たちは彼を取り囲んで武器弾薬の補給を求めましたが、ガサマはそれに色よい返事をせず、カティ管区司令官の意を受けたSPが威嚇のために空に向かって発砲ししました。

 これにより、いったんは騒乱が静まったものの、ガサマがカティ管区司令官の判断に謝意を示したことで兵士たちの不満が爆発。自然発生的に反乱が発生し、アマドゥ・ハヤ・サノゴ大尉に率いられた反乱軍はバマコに向けて進軍を開始しました。

 バマコに到着した兵士たちは21日午後4時30分頃、国営放送を占拠。さらに、大統領府を攻撃し、警備隊との間で銃撃戦が展開され、スメイル・ブベイエ・マイガ外務大臣や内務大臣など複数人の閣僚が拘束されます。なお、大統領のトゥーレは、銃撃戦の開始後に大統領府を脱出して無事でしたが、翌22日未明、反乱軍は“民主主義と国家の再建のための国民委員会(CNRDR:Le Comité National pour le Redressement de la Démocratie et la Restauration de l'Etat)”を組織し、サノゴが議長に就任。サノゴは自らテレビ演説を行い、CNRDRによる権力の掌握と憲法停止、国家機関の解体を宣言し、4月8日、トゥーレは大統領を辞任しました。

 その後、マリ北部は反政府勢力の支配下に置かれ、世俗主義のMNLAと各種のイスラム勢力は北部支配の主導権をめぐる対立から事実上の内戦状態に突入。MNLAはイスラム勢力に敗退し、マリ北部はイスラム武装勢力が実効支配する状況となりましたが、マリ暫定大統領ディオンクンダ・トラオレの要請を受けた旧宗主国のフランスが2013年1月に軍事介入してとりあえず事態を収拾。同年7月から8月にかけて行われた大統領選挙で、イブラヒム・ブバカール・ケイタが当選します。

 ところが、2018年に行われた大統領選挙で、現職のケイタは再選を果たしたものの、政権1期目で明らかになった汚職の蔓延や経済失政に加え、イスラム過激派に対する掃討作戦が延々と続けられていく中で兵士の待遇が一向に改善されないことへの国軍内の不満も鬱積しており、国民の間にはケイタの再選は不正選挙によるものではないかとの疑惑が蔓延していました。

 また、2019年3月には、アザワド地域のフラニ人がアルカイダと結託して国軍兵士23人の殺害に関与したとして、ドゴン人の集団がフラニ人の村を襲撃して住民160人を殺害する事件が発生。事件の責任を追及されたスメイロ・ブベイエ・メイガ首相が退陣に追い込まれたことで、ケイタの政権基盤は大きく揺らぐことになりました。

 こうした状況の下で、2020年3月29日の議会総選挙では、投票日の3日前に野党の有力指導者ソウマイラ・シセの拉致事件(政権の関与が疑われています)が発生。さらに、投票の開始直前には、マリ国内で新型コロナウイルスによる初の死者が発生しながら、何の対策も講じられないまま、投票が予定通りに行われます。しかも、いったん発表された第2回投票(4月19日実施)の選挙結果に対して、4月30日、憲法裁判所が147議席中31議席について結果を覆し、与党“マリのための団結”が10議席増える結果となったことから、国民の不満が爆発。以後、主要都市での抗議デモが発生し、6月5日、同19日、7月10日には、イスラム指導者のマハムード・ディコが大統領の退陣を求める大規模デモを組織し、7月には治安部隊との衝突で少なくとも14人が亡くなる事態となっていました。

 このため、西アフリカ諸国経済共同体がケイタ政権と野党勢力の調停に乗り出したものの、野党側はあくまでもケイタの辞任を求めて協議は難航。8月11日には反政府デモが再開されるなど、混乱が続いていました。

 こうした状況の中で、2012年の時と同様、国軍兵士の待遇が一向に改善されないことに業を煮やしたマリク・ディアウ大佐とサディオ・カマラ将軍は、8月18日、配下の兵力を率いてカティ駐屯地で蹶起。同日午後、バマコへ進軍して大統領公邸を襲撃し、大統領以下、首相、国会議長、外務大臣、経済大臣ら政府高官を拘束し、カティに連行しました。19日早朝、大統領は辞任を表明し、議会の解散を発表。反乱側によるテレビ放送では、空軍のイスマエル・ワゲ参謀副長が「国民と歴史を前にして、責任を引き受けることを決意した」と語っていましたが、19日午後になって、陸軍のアシミ・ゴイタ大佐が、自らがクーデターの中心人物であり、暫定政権“国民救済委員会(National Committee for the Salvation of the People)”の委員長として暫定的に政権を運営することを明らかにしています。

 今回のクーデターに対しては、国連のグテレス事務総長や米国のポンペオ国務長官らがあいついで非難声明を発表していますが、バマコでは、大統領の辞任を求め集まった群衆が反乱軍を歓呼した迎えており、現実の問題として、ケイタ大統領の政権復帰はほぼ不可能な情勢です。

 いずれにせよ、前回の2012年のクーデターは、その後のマリ北部紛争拡大のきっかけとなっただけに、ただでさえ脆弱だった政権の空白が、またしてもイスラム原理主義勢力の跋扈につながるような事態にならないことを祈るばかりです。

 なお、マリとその歴史については、拙著『マリ近現代史』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 レバノン元首相暗殺、国際法廷が判決
2020-08-19 Wed 03:42
 レバノンで2005年に起きたラフィーク・ハーリーリ元首相(以下、敬称略)の暗殺事件を裁いていた国際法廷“レバノン特別法廷”(ハーグ近郊ライツシェンダム)は、きのう(18日)、身柄を確保できていない4人の被告のうち、暗殺実行チームを率いたとされる1人に故意の殺人やテロ行為共謀などの罪で有罪、残る3人に証拠不十分で無罪とする判決を下しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました、(画像はクリックで拡大されます)

      レバノン・ハリーリー首相没後1周年

 これは、2006年にレバノンが発行したハリーリー元首相没後1周年の切手シート(無目打)です。

 ラフィーク・ハリーリーは、1944年11月1日、サイダ(シドン)生まれのスンナ派ムスリムで、首都ベイルートの大学で学んだ後、サウジアラビアで教職に就いたのち、土木建設会社で働き、1971年、自らの建築会社“シコネスト”を創業。同社は、第一次オイルショックによる原油価格上昇の追い風を受けて急成長し、ハリーリーはサウジアラビア建築業界の有力者となります。1978年に設立したサウジ・オジェ社はアラブ世界有数の国際的建設会社となり、ハリーリー本人も『フォーブス』の富豪ランキング100位以内にランキングするほどの富を築きました。

 レバノン内戦下の1979年にはハリーリー基金を設立し、レバノン出身の学生に対しする奨学支援を開始したほか、1982年にはオジェ・レバノン社を設立し、ベイルート、サイダなどの都市の復興事業や病院建設、自らの名を冠した学校の設立などを行いました。

 内戦終結後の1990年にはレバノンへ帰国し、1992年、スンナ派ムスリムに割り当てられた首相職に就任しました。

 各宗教・宗派が複雑に入り組んでいるレバノンでは、宗派ごとに政治権力を分散する“宗派体制”が採られており、国会議員の定数も宗派に応じて割り当てられています。この定数は、1932年の国民議会創設当初は、キリスト教徒が54(内訳はマロン派カトリック30、東方正教会11、メルキト・カトリック6、アルメニア正教会4、アルメニア・カトリック1、プロテスタント1、その他キリスト教諸派1)、ドゥルーズを含むムスリムが45(内訳はスンナ派20、シーア派19、アラウィー派0、ドゥルーズ派6)でしたが、1975-90年のレバノン内戦の停戦合意としてまとめられたターイフ合意により、現在はキリスト教徒が64(内訳はマロン派カトリック34、東方正教会14、メルキト・カトリック8、アルメニア正教会5、アルメニア・カトリック1、プロテスタント1、その他キリスト教諸派1)、ドゥルーズを含むムスリムが64(内訳はスンナ派27、シーア派27、アラウィー派2、ドゥルーズ派8)となり、キリスト教徒とムスリムが同数となりました。

 1992年の時点で、ハリーリーは国会議員ではありませんでしたが、実業家としての経験と人脈から、海外からの復興支援資金の獲得を期待しての抜擢で、首相在任中の1996年にはベイルート選挙区から初出馬して当選。以後、2005年2月14日に暗殺されるまで議席を維持しました。

 首相としてのハリーリーは内戦後の復興に成果を上げる一方、彼が経営する建設会社が復興事業で莫大な利益を上げたことから職権乱用が批判されたほか、彼がサウジ国籍を有し、サウジ王室との関係も深いことから、“サウジの回し者”という批判も根強くありました。

 1998-2000年には首相の座をサリーム・フッスに譲ったものの、2000年に政権に復帰します。しかし、2004年、内戦終結後もレバノンに駐留を続けるシリア軍の圧力により、親シリア派のエミール・ラフード大統領の任期を3年延長する憲法改正案が議会で可決されると、シリア軍即時撤退派の中心人物であったハリーリーはこれに抗議して辞職しましたが、翌2005年2月14日、ベイルート市内を自動車で通行中に爆破テロ攻撃を受け、ハリーリーを含む22人が殺害され、226人が負傷するという大惨事となりました。

 すでに、2004年9月には国連安保理で、シリア軍のレバノンからの撤退勧告とヒズボラなど民兵組織の解体を促す内容の決議が採択されていたこともあって、ハリーリー暗殺事件にはシリアの関与が疑われます。国際社会はシリアに対する反発を強め、米国の圧力もあって、2005年4月までにシリア軍はレバノンからの完全撤退を余儀なくされました。

 さて、シリア軍撤退後の2006年、国連はレバノン政府の要請を受けてレバノン特別法廷を設立し、ヒズボラのメンバーとみられる4人を実行犯として、身柄を拘束できないまま起訴。今回の判決も被告人不在の欠席裁判で下されています。なお、同法廷の判決文は、ヒズボラや同組織を支援していたシリア政府に「被告らは元首相を排除する動機があったかもしれない」としてはいるものの、“ヒズボラの指導部が殺人に関与した証拠”やシリアが関与した“直接的な証拠”もないとしています。

 これに対して、ラフィークの子で元首相のサアド・ハリーリーは「判決を受け入れる。正義が実現することを望む」との声明を出していますが、一部レバノン国民の反発を招くことは必至で、今月4日のベイルート大爆発後の政治的空白が続く中、レバノン情勢の混迷はますます深まりそうです。


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 チャンドラ・ボース没後75年
2020-08-18 Tue 01:12
 インドの独立運動家、スバース・チャンドラ・ボースが1945年8月18日に飛行機事故で亡くなってから、ちょうど75周年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      インド・ボース(2018)

 これは、2018年12月30日、インドが発行した“ポート・ブレアでの国旗の初掲揚75周年”の記念切手のうち、インド国旗を背景に敬礼するボースを描いた1枚です。

 スバース・チャンドラボースは、1897年1月23日、ベンガル州カタク(現オリッサ州)の弁護士の家庭に生まれました。カルカッタ大学在学中、英国人教師の人種差別的な態度に抗議して学生ストライキが発生すると、ボースは首謀者とみなされて停学処分となりましたが、ともかくも同大を卒業。1919年、英国に留学しました。

 1920年、インド高等文官試験に合格したものの、英国の植民地支配に奉仕することを潔しとせずに資格を返上します。翌1921年、マハトマ・ガンディーの“不服従運動”に参加しましたが、ガンディーの非暴力主義には強く反対。1924年にカルカッタ市執行部に選出されるも、逮捕・投獄されマンダレー(ビルマ)に流刑となり、釈放後の1930年にはカルカッタ市長に選出されたものの、植民地政府の手により免職されました。

 1938年、ガンディーの推薦を受けて国民会議派議長に選出され、インド独自の社会主義“サーミヤワダ”を提唱し、若年層・農民・貧困層の支持を獲得。これに自信を得たボースは、議長はガンディーの指名によって決められるという慣例を破って、議長選挙に立候補し、ガンディーの推薦するボガラージュ・パタビ・シタラマヤに大差をつけて勝利しました。しかし、この結果、ガンディーを支持する国民会議派の多数派の支持を失い、ほどなくして、議長辞任を余儀なくされます。

 議長辞任後の1939年9月、英独開戦を知ると、これを独立運動の好機ととらえたボースは武装闘争の準備を開始。さらに、翌1940年6月、フランスが降伏し、7月にはドイツによる英本土上陸作戦の前哨戦としてバトル・オブ・ブリテンが始まると、ボースはガンディーに対して、反英レジスタンス蜂起のためのキャンペーンを行うよう要求。ガンディーはこれを時期尚早として退けましたが、ボースは大衆デモの煽動と治安妨害の容疑で逮捕されました。

 獄中でのボースは、ハンガーストライキを行い、衰弱のため仮釈放されていた12月にインドを脱出。アフガニスタン経由で、ソ連に亡命しようとしましたが、アフガニスタン駐在のソ連大使がボースの入国を認めなかったため、1941年4月2日、ベルリンに逃れます。

 ベルリンに到着したボースは、4月9日、ドイツ外務省に対して、インドでの独立派の武装蜂起と枢軸国軍によるインド攻撃を提案。ドイツ外務省は情報局内に特別インド班を設置し、1941年11月には“自由インドセンター”を創設。同センターはインドに対する宣伝工作を行うとともに、北アフリカ戦線で捕虜となったインド兵から志願者を募り自由インド軍団(兵力3個大隊、約2000人)を結成しましたが、対英和平の可能性を探っていたヒトラーは、インド独立への支持を明らかにすることは和平交渉の生涯になると考え経ていたため、おおむね、ボースらの独立運動には冷淡でした。

 一方、日英開戦が現実のものとして迫りつつあった1941年9月、日本の陸軍参謀本部はアジア各地のインド人の反英闘争を組織化するため、バンコクで“藤原機関”を結成。同年12月、いわゆる太平洋戦争(大東亜戦争)がはじまり、日本軍がマレー半島に進攻すると、藤原機関は英軍の中核を占めるインド人兵士への降工作を行い、捕虜となった英印軍将兵の中から志願者を募って、インド国民軍を編制し、マレー半島西岸の街アロースターで投降してきたモーハン・シン大尉がその司令官に就任していました。

 インド国民軍はインド独立を最終目標として掲げ、1942年8月には4万2000の兵力を擁するまでに成長しましたが、司令官に就任したシンにはその地位に見合った能力がなく、軍内は混乱。このため、インド独立運動の指導者として声望の高かったスバース・チャンドラ・ボースが招聘されることになります。

 こうして、1943年5月、ボースはドイツから日本に渡り、当時の首相・東条英機からインド独立のための支援の約束をとりつけ、シンガポールに乗り込み、同年7月2日、インド国民軍の総司令官に就任。10月21日にはシンガポールで結成された“自由インド仮政府”の首班に就任しました。

 日本政府は、はやくも同月23日、自由インド仮政府を承認。同政府首班としてのボースは、11月5-6日、日本の戦争目的である“アジア解放”を宣伝するために東京で開催された“大東亜会議”にオブザーバーとして招聘され、日本軍の占領下に置かれていたアンダマン・ニコバル諸島を同政府の統治下に置くことが決定されています。今回ご紹介の切手は、この決定を受けて、ポートブレアにインド国旗が掲揚されてから75周年になるのを記念して発行されました。

 ところで、日本占領下のビルマから国境を越えてインドへ進攻しようというプランは、日英開戦後の早い時期から検討されていましたが、1943年11月の大東亜会議でボースがその実行を要請し、日本の首相、東条英機がこれを強く支持したこともあって、1944年3月8日、ビルマとの国境に近いインドの都市インパールの攻略作戦が発動されます。

 日本軍は、インド国民軍とともに、4月29日の天長節までにインパールを攻略することを目標としていましたが、その作戦計画は補給面を軽視するなど杜撰なものでした。このため、日本軍はいったん、インパール近郊のコヒマを占領したものの、ジャングル地帯での作戦は困難を極め、空陸からの英軍の反攻が始まると前線は補給路を断たれて餓死者が大量に発生。最終的に、インパール作戦での日本側の損害は、戦死3万、戦傷4万2000を数え、ガダルカナルの4倍以上の被害を蒙り、惨憺たる失敗に終わりました。

 インド国民軍は、その後もイラワジ会戦などで日本軍とともに英軍と戦ったものの敗走を重ねます。さらに、ビルマでは、敗色濃厚となった日本軍の能力を見限ったアウン・サン率いるビルマ国軍が反ファシスト人民解放連盟を組織し、日本軍から離反したため、仮政府とインド国民軍は、日本軍とともにビルマからタイに撤退し、そこで終戦を迎えました。

 日本が降伏すると、ボースは戦後の東西冷戦を見越して、イギリスの“敵の敵”であるソ連に渡って独立闘争への支援を得ようとしましたが、1945年8月18日、移動中の台湾で飛行機事故により死亡。彼の死により、仮政府は自然消滅状態となり、インド国民軍も英軍に降伏しました。

 戦後、英領インド政府はインド国民軍幹部を英国王に対する反逆罪で裁こうとしましたが、ガンディー率いるインド国民会議派と一般のインド国民の激しい抗議活動にあい、被告は釈放。現在でも、チャンドラ・ボースをはじめとする仮政府幹部はインド独立の志士として、インド国民の尊敬を集めています。


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 インドネシア独立記念日
2020-08-17 Mon 00:31
 きょう(17日)は、インドネシアの独立記念日です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      インドネシア・独立10周年

 これは、1955年にインドネシアが発行した独立10周年の記念切手で、左上から時計回りに、独立宣言を読み上げるスカルノとハッタ、独立宣言が読み上げられたスカルノ邸の外観、独立宣言の手稿、インドネシア国旗の掲揚風景、を組み合わせた図案となっています。

 第二次大戦中、現在のインドネシアに相当するオランダ領東インド(以下、蘭印)を占領した日本軍は、政治犯として捕らえられていたスカルノやハッタらインドネシア民族主義指導者を解放する一方、石油資源の安定確保のため(そもそも、これこそが戦争の目的でしたから)、蘭印を直轄の軍政地域としました。しかし、戦局が悪化してきた1945年3月、インドネシアを親日国家として独立させるよう方針を転換。独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させています。

 こうして、終戦間際の8月7日、スカルノらは独立準備委員会を設立。その第1回会議は18日に開催される予定でしたが、8月15日、日本の降伏が発表されたことで、日本の軍政当局の主導による独立準備は中止されてしまいます。そこで、2日後の8月17日、スカルノらインドネシアの民族主義者たちは、オランダ軍が再上陸してくる前に、機先を制してインドネシア共和国の独立を宣言しました。場所は、今回ご紹介の切手にも描かれているジャカルタのスカルノ邸で、約1000名が立会ったそうです。

 ちなみに、1945年8月17日に発せられたインドネシア共和国独立宣言の書面上の日付が皇紀を採用した“05年8月17日”となっているのは有名な話です。この点については、「ムスリムであるスカルノが日本への感謝の意を示すとともに、(オランダの宗教である)キリスト教に由来する西暦を嫌ったため」という類の説明が散見されますが、これは事実と異なります。

 日本占領時代のジャワ島では公文書に皇紀が採用されていました。このため、日本の占領行政が続いている限り、公文書の日付も皇紀で記すのが正式なスタイルとなります。

 上述のように、スカルノらは、1945年8月17日に独立宣言を行いましたが、これは、同年9月2日の対日降伏文書調印以前のことであり、したがって、連合国による日本軍の武装解除と占領行政の接収も行われていませんから、スカルノらが“インドネシア共和国”の領土とした地域では、日本の占領状態が続いているというのが建前です。このため、公文書としての書式を整えようとすれば、今回ご紹介の切手に取り上げられている手稿のように、日本占領時代の書式に従い、皇紀を使うのが自然です。これは、彼らの対日感情とは全く別の次元の話で、純粋に事務的な形式上の問題です。

 じっさい、連合国軍の上陸により日本軍の武装解除が行われると、スカルノのインドネシア共和国はすぐに西暦の使用を再開しており、郵便物に押される消印の年号表示も西暦に戻っています。また、現在のインドネシアでは、独立宣言というと1955年にスカルノが録音した音源が広く知られていますが、ここでの年号は皇紀の“(26)05年”ではなく、西暦の“1945年”となっていることも見逃してはなりません。

 さて、8月17日の独立宣言を受けて、9月4日にはスカルノを首班とするインドネシア共和国が成立。この間、8月22日には人民治安団が政府布告によって結成され、政府は日本軍政下で結成された旧PETA(郷土防衛義勇軍)系の将兵、兵補らに参加を呼びかけます。さらに、10月になって日本軍の武装解除のため英連邦軍オランダ軍が本格的に進駐してくると、スカルノらはこれに対抗すべく人民治安軍を組織し、インドネシア独立戦争に投入していきました。

 一方、戦争に敗れた日本軍は、連合軍の命令により、東南アジアの各占領地域を現状維持のまま、上陸する連合軍部隊に引き渡すことになり、インドネシア独立派への武器引渡しは禁止されていました。しかし、一部の地域では、独立派の要請に対して武器庫を開放することもあったほか、旧日本軍の将兵の中には、“東亜解放”の理念を奉じて独立派に身を投じた人が約1000人いたそうです。そのうち、半数が戦死・行方不明となり、生き残った後も、日本に帰らず、インドネシアで生涯を終えた人も少なくありません

 現在、インドネシア政府は、独立戦争を生き抜いた旧日本軍の将兵にはゲリラ勲章を授与しているほか、独立戦争中の戦死者・陣没者や独立戦争に参加した戦績のある元将兵については、没後、本人や遺族が希望しない場合を除き、ジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめ国内各地の英雄墓地に埋葬されることになっています。独立の英雄として英雄墓地に埋葬されることはインドネシアでは最高の栄誉とされており、その葬儀にはインドネシアの国防省代表、インドネシア国軍の葬儀委員、儀仗兵、軍楽隊が参加して、厳粛に執り行われます。

 なお、これまでも散々書いてきたことの繰り返しになりますが、1949年末にインドネシア共和国が最終的に独立を達成したのは、当然のことながら、第一義的には、インドネシア国民(になった人々)がみずから血を流し、熾烈な独立戦争を戦った結果です。そのことは大前提として絶対に忘れてはなりません。

 その意味において、僕は、彼らの尊い犠牲を無視して「日本がインドネシアを独立させてやった」という類の議論をする人たちには絶対に与しません。ちなみに、インドネシア独立戦争に参加した旧日本軍の将兵は、制度上は“脱走兵”の扱いとされており、インドネシア独立戦争中の戦死者に対しては遺族年金が支給されていないばかりでなく、彼らが“英霊”として靖国神社に祀られることもありません。「大東亜戦争が東亜解放の聖戦だった」と主張するのなら、その大義に殉じてインドネシア独立戦争で亡くなった旧日本兵こそ、(カリバタ英雄墓地と同様、ご本人や遺族が希望しない場合を除いて)靖国神社にお祀りするのが筋というものでしょうし、そうしたことを実現すべく運動を起こすべきでしょう。

 一方、“脱走兵”以外の旧日本軍は、正規の手続きに則って、オランダ軍とともに独立派と戦い、多くの戦死者を出しましたが、彼らは靖国に祀られています。

 この厳然たる事実をしっかりと受け止めていれば、それだけで、「日本がインドネシアを独立させてやった」などという発言が、いかに、インドネシア国民のみならず、彼らの独立のために戦った旧日本軍将兵を愚弄するものであるのか、お分かりいただけるでしょう。

 ただ、その一方で、日本による占領の体験が彼らの糧となったこと、あるいは、独立戦争での旧日本軍将兵の活動が、結果的にインドネシアの独立を導くことになったということを、インドネシアの人たちが自らポジティヴに語ってくれるのであれば、その気持ちは素直に、ありがたく受け入れるべきだと思います。

 そうした彼らの友情を無視して、自分は「一般の日本人とは違う」という醜悪な思い込みから、ひたすら日本と日本人を貶めるために“日本軍によるアジア侵略”を嬉々として糾弾する日本人も少なからずいますが、そうした連中に対しては、心の底から軽蔑する以外の感情は沸いてきません。

 たとえて言うなら、オリンピックのメダリストが「私が今日あるのは、中学時代の恩師、XX先生のおかげです」と発言した場合、XX先生は「いやいや、なんといっても、メダル獲得はあなたの努力の賜物です。ただ、私の指導がわずかでも役に立ったというのであれば、それは光栄なことでとても嬉しい」と応じるのが常識的な対応であって、選手自身が言及してもいないのに「あの選手は自分の教え子で、自分の指導でメダルをとれたのだ」となど吹聴してまわる教員はみっともないだけです。一方、恩師に謝辞を述べた選手に対して、「XX先生は自分の私利私欲で部活の顧問を引き受けただけで、生徒のことなどみじんも考えていなかった。だからXX先生に感謝するのはおかしい」などとする誹謗中傷する人があれば、その人は軽蔑されるだけです。

 2013年に上梓した拙著『蘭印戦跡紀行』では、そんな思いから、僕がインドネシア各地で実際に見聞した“日本”の痕跡について、切手や郵便物、絵葉書などを交えながらまとめてみたものです。機会がありましたら、ぜひ、お手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 ラバウルで戦没者追悼式典
2020-08-16 Sun 02:36
 終戦の日の昨日(15日)、先の大戦中の激戦地、ラバウルで戦没者追悼式典が開かれました。ラバウルで日本の終戦の日に式典が開かれるのは、戦後75年を経て、今回が初めてだそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      パプアニューギニア・ラバウル(1963)

 これは、1963年2月13日、オーストラリア委任統治領時代のパプアニューギニア自治政府が発行したラバウルの風景の切手です。
 
 ラバウルは、パプアニューギニア・ニューブリテン島のガゼル半島東側、シンプソン湾に面した港湾都市で、1884年から1914年までの間、ドイツ領ニューギニアの一部として、シンプソン湾にちなんでシンプソンハーフェンと呼ばれていました。

 第一次大戦勃発後まもない1914年9月12日、ラバウルはオーストラリア軍に占領され、戦後はオーストラリアの委任統治領となり、近郊のブナカナウには飛行場が設けられました。

 1939年9月に第二次欧州大戦が勃発すると、1941年3月、オーストラリアは対日戦争をにらんでブナカナウ飛行場を防衛するため、ジョン・スカンラン中佐の指揮下に1400名のオーストラリア陸軍守備隊“雲雀部隊”を配置します。ラバウルは、日本海軍の基地があったトラック(テューク)諸島にも近く、オーストラリアは同飛行場を日本軍の行動を監視拠点としていたからです。もっとも、雲雀部隊の装備は決して十分なものではなく、現地のオーストラリア空軍兵力は、わずか10機の訓練用軽飛行機と4機のハドソン爆撃機しかなく、日本軍の本格的な攻撃が開始されれば持ちこたえるのは難しいのが実情でした。

 一方、日本側は、日米開戦となれば、トラックに近いラバウルが連合軍の反撃拠点となることを予想するとともに、ニューブリテン島の港湾施設(水深が深く、大型船の停泊が可能であった)と飛行場を確保すれば、米豪の連絡を遮断できると考えていました。ただし、この方面の作戦を担当する日本海軍の南洋部隊は、ラバウルだけを占領しても役にたたず、同地確保のためさらに前方の要地(パプアニューギニア、ソロモン諸島)を攻略すべきと考えていました。

 はたして、1941年12月の日英開戦を経て、1942年1月4日、日本海軍の南洋部隊がラバウル空襲を開始。1月20日には南雲機動部隊の空母4隻(赤城、加賀、瑞鶴、翔鶴)から発進した航空隊計109機がラバウルを空襲してオーストラリア軍基地を破壊し、1月22日には第144連隊を中心とした5000人の部隊がニューブリテン島に上陸してラクナイ飛行場を攻略しました。このため、オーストラリア軍の兵士と民間人は中隊規模の小集団に分かれてジャングルの中に撤退し、ラバウル攻略戦はほぼ終了し、1月24日、大本営はラバウルとカビエンの占領を発表。日本軍は、ただちにラバウル航空基地の設営作業が開始しました。

 これに対して、オーストラリアはニューギニア島のポートモレスビーを拠点にラバウルへの空襲を開始したものの、日本側は陸海軍合わせて9万余の大軍を配置し、1945年8月の終戦までラバウルを維持し続けました。

 1975年のパプアニューギニア独立後、ラバウルは東ニューブリテン州の州都となりましたが、1994年、近郊のタブルブル火山とブルカン火山の同時噴火によって、切手に描かれた旧市街地は大きな降灰被害を受けたため、南東のココポの町に空港と州政府の機関は移転を余儀なくされました。

 昨日の式典は、新型コロナウイルスの影響で戦没者の遺骨収集事業などが延期される中、慰霊の取り組みを続けようと現地在住の日本人らが呼びかけて実現したもので、ラバウル市長ら約50人が出席し、1980年に日本政府が建立した“南太平洋戦没者の碑”の前での黙祷と献花が行われました。今後は、5年ごとの式典開催が計画されているそうです。

 さて、現在、第二次大戦中の激戦地として知られる“ガダルカナル”にフォーカスを当てた本を作っています。内容は、戦史よりも、戦後のガダルカナルが中心で、すでに、本文の原稿は書き終え、現在、書籍としてまとめる作業を進めているところです。正式な書名や発売日などが決まりましたら、このブログでもあらためてご案内いたしますので、よろしくお願いします。 


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 8月15日の慰霊碑除幕式
2020-08-15 Sat 01:02
 きょう(15日)は終戦の日です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ガダルカナル・慰霊碑除幕式案内状

 これは、1982年8月15日、ソロモン諸島・ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場(現ホニアラ国際空港)脇の旧米軍司令部跡地で米海兵隊戦没者の慰霊碑除幕式が行われた際に、関係者に送られた招待状で、招待状の下部余白には、自治領時代の1976年に発行された“米国独立200年”の記念切手のうち、米国とソロモン諸島が最も濃密な関係となったガダルカナル島での戦闘を象徴するものとして、ヘンダーソン飛行場を描く35セント切手とガダルカナル島への米軍の上陸地図を描く45セント切手が貼りこまれています。

 ちなみに、この時除幕式が行われた慰霊碑とその周辺の風景は、1986年にソロモン諸島が発行した切手にも取り上げられています。

      ソロモン諸島・海兵隊慰霊碑

 第二次大戦中の1942年5月3日、日本軍は英領ソロモン諸島の首府があったツラギ島に進出。その後、この地域の制空権を確保するため、7月から隣接するガダルカナル島のルンガ地区に建設工事を開始して、8月5日には滑走路の第1期工事が完了し、飛行場はルンガ飛行場と命名されました。

 これに対して、8月7日午前4時、米軍の第1海兵師団1万900名が、オーストラリア軍の支援の下、ガダルカナル島テナル川東岸付近の通称“レッド・ビーチ”に上陸を開始します。同時にツラギ島方面にも4個大隊1500名が上陸。連合軍の奇襲攻撃は成功し、同12日、米軍は飛行場を占領し、これをヘンダーソン飛行場と改称しました。この名前は、2ヶ月前のミッドウェー海戦で戦死した海兵隊の航空指揮官、ロフトン・R・ヘンダーソン少佐にちなんだものでした。

 その後、約2週間で1100mの滑走路1本が完成し、ヘンダーソン飛行場は米軍の一大反攻基地となりますが、日本軍も飛行場奪回を目指して猛攻を加え、この飛行場をめぐって激戦が展開されます。最終的に、1943年2月、日本軍は“転進(=撤退)”を余儀なくされましたが、ガダルカナルに上陸した日本軍の総兵力3万1404名のうち、撤退できた者は1万652名、それ以前に負傷・後送された者740名、死者・行方不明者は1万9200名でした。なお、死者のうち、直接の戦闘での戦死者が約5000名だったのに対して、約1万5000名は餓死ないしは戦病死で、このことから、ガダルカナル島、略してガ島は“餓島”とさえいわれました。これに対して、連合軍の損害は、戦死者7100名、戦傷者が7789名以上です。

 なお、米海兵隊の慰霊碑は、建立当初は1986年の切手にみられるように、周囲には木々はなく、刈りそろえられた芝生が植えられていましたが、現在は、下の画像(2017年に現地を訪問した際に撮影しました)のように、周囲は鬱蒼たる木々に覆われています。

      ホニアラ空港近く・米海兵隊慰霊碑

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 イスラエルとUAE、関係正常化
2020-08-14 Fri 02:36
 トランプ米大統領は、きのう(13日)、いままで国交がなかったイスラエルとアラブ首長国連邦(UAE)が関係正常化に合意したことを発表しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アブダビ→ニコシア宛

 これは、UAE発足(1971年12月)以前の1969年12月、アブダビのアル・アインから“キプロス郵便局長”宛に差し出された郵便物です。

 アブダビやドバイなど、現在UAEを構成している首長国とパレスチナとの関係は、1960年代以降、アブダビおよびドバイでの油田開発が盛んとなり、出稼ぎ労働者として大量のパレスチナ人を受け入れたことから本格的に始まりました。当時、必ずしも関係が良好とはいいがたかったアブダビとドバイも、アラブの同胞としてパレスチナ人を可能な範囲で受け入れるという点では一致しており、イスラエルとは一切の交渉を持たないというアラブ連盟の基本方針を遵守していました。

 ところで、1967年の第三次中東戦争の結果、イスラエルはヨルダン川西岸とガザ地区、シナイ半島を占領し、その支配地域は大幅に拡大しましたが、その結果、パレスチナ出身の出稼ぎ労働者の中には、家族の居住地がイスラエルの占領下にあるケースや、イスラエルの支配地域を経由しなくてはたどり着けない場所にあるケースも増加しました。当然のことながら、そうした地域であっても、出稼ぎ先の湾岸諸国との郵便の往来は必要となるのですが、イスラエル国家の存在そのものを認めず、イスラエルとは一切の接触を拒否するというアラブ連盟の建前からすると、表向き、ドバイやアブダビからイスラエルの占領地域に郵便を送ることはできません。

 そこで、一つの便法として、パレスチナ人の出稼ぎ労働者は、出稼ぎ先から、出身地宛の手紙などを入れた封筒を、アラブ=イスラエル紛争とは無関係のキプロスの首都、ニコシアの郵便局長宛に送り、そこから宛先地まで郵便物を転送するという方策がとられることがしばしばあった。今回ご紹介の郵便物は、そうしたアブダビから“ニコシア郵便局長宛”の封筒の実例で、この中に、差出人が本当に届けたかった郵便物がこの中に入っていたものと推測されます。

 さて、1971年12月、アブダビとドバイを中心に結成されたUAEは、その後も、イスラエル否認政策を維持していましたが、2009年に米国でイランに宥和的とみられるオバマ政権が発足すると、イランの脅威に備えるという共通の目的から、米国駐在の両国大使の接触が始まり、2010年1月16日にはイスラエルの閣僚がアブダビで開催されたエネルギー関連の国際会議に出席して注目されました。

 しかし、同月19日、イスラエルの諜報機関によるものと思われるハマスのマフムード・マブフーフ司令官の殺害事件が発生したことから、両国関係は冷却化。同年のドバイ・テニス世界選手権にはイスラエルのシャハー・ピアーへの入国ヴィザが発給されず、2012年になっても、UAEは、公式にイスラエルとの関係正常化には否定的な態度を表明していました。

 しかし、その一方で、対イラン政策の観点から、水面下での両国の接触は続けられ、2016年1月にはイスラエルのエネルギー相がアブダビを訪問。2017年10月にはアブダビで開催された柔道グランドスラムにイスラエル選手の参加が認められています。ただし、この時の大会では、66㎏級でタル・フリッカーが優勝したものの、イスラエル国旗の掲揚とイスラエル国歌の演奏は行われていません。

 しかし、2017年に発足した米国のトランプ政権は、第三次中東戦争から50年以上が過ぎたことを受け、2017年末にはエルサレムをイスラエルの首都と認定し、2018年5月には大使館をエルサレムに移転したことに対して、アラブ諸国の大半は形式的には反発したものの、実質的に現状追認の姿勢をとりました。この流れに沿って、UAEも、2018年9月にはアブダビでのイスラエルとトルコの秘密会談をセッティングしたほか、同年10月にアブダビで開催の柔道グランドスラムで、イスラエルのサギ・ムキが88キロ級で優勝した際には、イスラエル国旗の掲揚と同国歌の演奏を認めるなど、イスラエル否認政策を実質的に放棄。そして、2019年には、イスラエル側がドバイ万博(2020年に予定されていましたが、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて延期)に招待されていることを明らかにしていました。

 今回の関係正常化は、こうした経緯を踏まえてのもので、アラブ主要国の中でイスラエルと正規の外交関係を樹立したのは、エジプト、ヨルダンに続く3ヵ国目となりました。また、今回のUAEとの関係正常化を受け、イスラエルは、アラブ側への配慮から、ヨルダン川西岸のユダヤ人入植地などの併合計画の一時停止に合意しています。

 なお、いわゆるパレスチナ問題をめぐってアラブ各国の思惑がどのように変化してきたかについては、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。
 

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 ナミビア、ドイツの補償提案を拒否
2020-08-13 Thu 05:07
 アフリカ南部、ナミビアのハーゲ・ガインゴブ大統領は、11日(現地時間)、20世紀初頭のドイツ植民地時代の“ヘレロ戦争”時の大量虐殺について、ドイツ側が提案した補償の内容が「受け入れられるものではない」として“見直し”が必要だとの見解を示しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ナミビア・ヘレロ戦争100年

 これは、2004年にナミビアが発行した“反植民地抵抗戦争(ヘレロ戦争のナミビアでの呼称)100周年”の記念切手です。

 現在のナミビア国家の領域には、1486年にポルトガル人が最初に来航しましたが、広大なナミブ砂漠が広がる過酷な環境ゆえ植民地の形成は遅れ、1793年になって、ようやく、当時、ケープ植民地を領有していたオランダがウォルビス湾の領有を宣言しました。その後、1795年、ウォルビス湾は英国が占領しましたが、内陸の開発はほとんど進みませんでした。

 このため、19世紀初頭、コイコイ系民族のナマ人(複数形ナマクア人)が南アフリカからナミビアの地に流入しましたが、この時点では、ヘレロ人(バントゥー系)、ナマ人などアフリカ系諸民族と西洋人の間にはほとんど摩擦は生じませんでした。

 一方、ナミビア内陸部に西洋人が本格的に訪れるようになったのは、1842年、ドイツ・ライン州のプロテスタント伝道会が布教活動を始めてからのことです。

 1858年、伝道会はナミビア各地の首長との間で“ワハナス平和条約”を締結し、ナミビアでの布教活動を展開しましたが、先住民の反感と抵抗も根強かったため、1868年、プロイセン議会に保護を求めます。当初、この要請は相手にされませんでしたが、1870年代に入り、英国の南アフリカへの進出が本格的に始まるなかで、1883年、ブレーメンの商人、アドルフ・リューデリッツが、大西洋沿岸のアングラ・ペクアナ(後のリューデリッツ・ブッフト)を支配していたベタニア族の首長ヨーゼフ・フレデリクスから入江の周囲5マイルの土地を購入。その契約書にある“5マイル”は、英マイル換算の1600mではなく、独マイル換算の7500mでしたが、リューデリッツの使者はフレデリクスにこれを英マイル換算と誤解させ、ベタニア族の土地の大半を無理やり購入しました。

 これを受けて、翌1884年4月24日、ドイツ帝国議会はリューデリッツの購入した土地を帝国の保護領とすることを決定。これが“ドイツ領南西アフリカ”の起源となります。

 ドイツ領南西アフリカが成立すると、ドイツ本国からはドイツ植民地の中でも最大規模の1万3000人が大挙して入植。一方、ドイツ人の急激な流入に危機感を抱いたナマ族の首長ヘンドリック・ウィットブーイは英国に接近しましたが、英国の反応は冷淡で、ドイツ人の侵入を食い止めることはできなませんでした。

 ドイツ人は金やダイヤモンド、銅などの鉱山と農地の開発に重点を置き、武力を背景に、鉄道用地や入植者の農園用地を半ば強制的に買い集めます。この結果、土地を失った先住民はドイツ人の下、劣悪な条件で酷使される労働者へと転落。さらに、1894年以降、ドイツ人は内陸の牧畜民であるヘレロ人の族の家畜に目をつけ、略奪を繰り返すようになりました。

 こうした状況の中で、1904年1月、ヘレロ人首長のサミュエル・マハレロは、配下の7000人を率いて武装蜂起し、ドイツ人入植者の農場と教会を襲撃し、ドイツ人の男女合わせて126名を殺害します。

 “反乱”鎮圧のため、ドイツ政府はフォン・トロータ将軍率いる1万5000のドイツ軍を派遣。8月のヴァーテルベルクの戦いでヘレロ軍主力を大破すると、その後も、攻撃を緩めることなく、1904年10月には全ヘレロ人の抹殺を宣言。砂漠地帯に追い込まれたヘレロ人の多くが餓死または井戸水による中毒死で命を落とし、1907年の反乱鎮圧までに、最終的なヘレロ人の死者は総人口の80%に相当する6万人にものぼりました。

 また、1905年10月にはナマ人がヘレロ人と同盟を結んで蜂起しましたが、こちらも鎮圧され、全人口の半数に相当する1万人が犠牲となっています。

 一連の“ヘレロ戦争”の先住民側の死者は膨大なもので、それゆえ、後に20世紀最初のジェノサイドとして歴史に記録されることになりました。

 さて、第一次大戦後、ドイツ領南西アフリカは南アフリカの委任統治領となり、第二次大戦後は南アの不法占拠状態が続いていましたが、1990年に独立します。

 独立後の2004年、ナミビア政府は、ヘレロ人の大虐殺が行われたヴァーテルベルクの戦いの記念日から100周年にあたる8月11日、首都ウィントフックで記念式典を開催。これに合わせて、今回ご紹介の記念切手も発行されました。

 ドイツ政府は、経済協力・開発大臣ハイデマリー・ヴィーチョレック=ツォイルを式典に派遣し、全ドイツ人を代表して“追悼と謝罪”の意を表明。これに対して、ヘレロ人は財政的賠償を要求し、ヘレロ・ジェノサイド財団議長のエスター・ムインジャンゲはヘレロ虐殺はホロコーストの源流として、ドイツ連邦議会での決議のような“公式な謝罪”を求めました。

 これを受けて、2015年、ナミビア政府はドイツからの正式な謝罪と開発援助を結び付けた合意への交渉を開始。今回の大統領発言は、その最終段階を控えて、ゼデキア・ヌガビルエ特使からの状況報告を受けてのもので、大統領は、ドイツが“補償”という語句を認めず、“傷を癒すもの”と表現していることを問題視し、「補償に関するドイツによる現状の提案は、決着がついていない問題のままであり、ナミビア政府にとって受け入れられない内容だ」として、ヌガビルエ氏特使に「提案の見直しに向けて交渉を続ける」よう指示しました。

 一方、ドイツ側は、植民地政府の下で残虐行為が起きたことについては認めており、ジェノサイドだったとの認識を示す当局者もいるものの、すでに、巨額の開発援助金をナミビア政府に支払ってきたとして、直接補償の支払いを繰り返し拒否しています。
 
 なんか、アジアでも似たような話があったような気が…。

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 クレオパトラ忌
2020-08-12 Wed 02:25
 きょう(12日)は、西暦の紀元前30年8月12日、プトレマイオス王朝最後の女王、クレオパトラ7世(以下、クレオパトラ)が自害してから2050年の忌日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      西ベルリン・クレオパトラ(1984)

 これは、1984年、ドイツ・西ベルリン地区で発行された“ベルリンの博物館”の切手のうち、旧博物館所蔵のクレオパトラ像を取り上げた1枚です。

 切手に取り上げられたクレオパトラ像は、彼女の存命中の紀元前40年から30年までの間に制作された大理石の像で、イタリア・アッピア街道のアリッチャ=ジェンツァーノ間で発見されました。もともとは、柱頭を飾る像として作られたものと考えられています。

 ベルリンの旧博物館は、1830年、ベルリン王宮の前の道路を挟んだ向かい側に、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の蒐集したギリシャ・ローマの芸術品を展示・公開するために開館した“王立博物館”がその起源です。設計は建築家カール・フリードリッヒ・シンケルが担当しました。

 その後、1855年にはシンケルの弟子で建築家のフリードリヒ・アウグスト・シュテューラーの設計による新博物館が完成したことで“旧博物館”と呼ばれるようになります。さらに、1876年には近隣に旧国立美術館が 、1904年にはカイザー=フリードリヒ博物館(現ボーデ博物館)、1930年にはペルガモン博物館が完成したことで、ベルリンの博物館地区として知られるムゼウムスインゼル(シュプレー川の中州北半分の“博物館島”)が形成されました。

 第二次大戦後、ドイツの敗戦に伴い、ベルリンが東西に分割されると、博物館島は東ベルリンに編入され、ドイツ民主共和国(東ドイツ)建国に伴い東ドイツの国立博物館となり、旧博物館に関しては、1955-66年に再建・修復工事が行われました。

 なお、博物館島の収蔵品は、戦時中、戦災を避けるため各地に疎開していたため、西ドイツ側にあった蒐集品はシャルロッテンブルク地区の美術館などに収蔵され、今回ご紹介の切手のクレオパトラ像も“考古学博物館”に収蔵されました。その後、1990年の東西ドイツ再統一に伴い、ベルリン地区の博物館は再編されて美術品の再配置も進められ、今回ご紹介のクレオパトラ像も旧博物館に戻されました。


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 香港からリンゴが消えた日
2020-08-11 Tue 02:09
 香港警察は、きのう(10日)、著名な民主活動家の周庭(英語名アグネス・チョウ)氏、民主派の香港紙「蘋果日報」などを発行するメディアグループの創業者、黎智英氏や同紙幹部らを香港国家安全維持法(国安法)違反容疑で逮捕しました。というわけで、抗議の意味を込めて、蘋果(リンゴ)が描かれた香港切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      香港・油麻地フルーツマーケット(2017)

 これは、2017年9月19日、香港で発行された“香港の繁華街”の切手のうち、油麻地果欄(油麻地フルーツマーケット)を取り上げた1枚で、男性が抱えている木箱にはリンゴもしっかり見えます。今年4月に発行された“兒童郵票 棋樂無窮”の切手では、当初案では黒い服の子供が描かれていたのに、黒シャツは民主派のデモ隊を連想させるとして、突如、別の色に変更されたことなどを考えると、今後、香港の切手ではリンゴを描くことも、「蘋果日報」を連想するとして、不可能になるかもしれません。

 さて、今回逮捕された黎氏の「蘋果日報」は、英領時代末期、1995年の創刊で、黎氏は「もしアダムとイヴがリンゴを口にしなかったら、世界に善悪はなくニュースも存在しなかっただろう」と紙名の由来を説明しています。

 香港では最初の全ページカラー印刷の新聞で、政治的には、1997年の“返還”以前から中国政府に対し激しい批判を加えてきただけでなく、“返還”後も西側メディアや香港民主派に近い論調を取ってきました。このため、中国大陸では「蘋果日報」は発行が禁止されているだけでなく、同紙のウェブサイトは中国国内からのアクセスが遮断され、中国国営メディアは黎氏を「香港を混乱させる反中分子の頭目」と名指しで批判してきました。また、2014年の雨傘運動の際には、明確に民主派を支持する姿勢をとったため、親中派による嫌がらせが相次ぎ、同社の本社ビルや黎氏宅へ火炎瓶が投げ込まれています。

 報道によると、黎氏の逮捕容疑は、外国勢力と結託して国家の安全に危害を及ぼすことを禁じる国安法29条の違反ということです。じっさい、2019年7月、黎氏は米国でペンス副大統領、ポンペオ国務長官らと面会し、香港民主派への支援を要請していますが、さすがに、昨年の黎氏の行動を今年7月に施行された国安法で摘発するのは無理がありますので、おそらく、表向きは別の理由が挙げられたのではないかと思います。

 一方、香港の民主派の女神とも称される周氏は、2019年8月、違法集会扇動罪などで逮捕され(のち釈放)、今月5日、有罪判決を言い渡されたばかりで、その量刑の宣告を12月に控えている中での逮捕となりましたが、この記事を書いている時点では、逮捕容疑の詳細は不明です。

 香港での国安法施行をめぐっては、今月7日、米国のトランプ政権が声明を出し、林鄭月娥行政長官をはじめ、香港政府や中国政府の高官など11人に対し、アメリカ国内の資産を凍結する制裁を科しましたが、これに対して、中国側も10日付で、米共和党議員のテッド・クルーズ、マルコ・ルビオ両氏を含む米国人11人を制裁を科すと発表。今回の周氏、黎氏らの逮捕がその延長線上にあることは明らかです。


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 山の日
2020-08-10 Mon 01:09
 きょう(10日)は“山の日”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島・ティナクラ

 これは、1939年2月1日に英領ソロモン諸島で発行された“ティナクラ”の切手です。

 ティナクラはソロモン諸島の南東の成層火山島で幅3.5キロ、海面からの高さは851メートルです。

 1557年、ペルーに渡ったコンキスタドールの1人、ペドロ・サルミエント・デ・ガンボアは、「船乗り“パウジ・トゥパク・ユバンギ”が9ヶ月におよぶ南方航海の末、”テラ・アゥストラリス”の地から莫大な富を持ち帰った」とする先住民の伝承を耳にし、その真偽を確認すべく、1567年、当時のペルー副王、ローベ・ガルシア・デ・カストロの甥で、当時25歳の若者だったアルバロ・ド・メンダーニャ・ド・ネイラを誘って探検隊を組織します。

 司令官メンダーニャの下、総勢150名の探検隊は、1567年11月19日、2隻の艦隊でリマ近郷のカヤオ港を出帆。太平洋を西に進み、1568年2月1日、ソロモン諸島北部のオントン・ジャワ環礁に停泊。さらに南下して、同7日、サンタ・イサベル島に到達したのを皮切りに、島伝いに、ラモス島(現マライタ島)、サン・ホルヘ島(現アル・シュ・デ・イザベル島)、フィレンツェ諸島、ガレラ島、ブエナビスタ島、サン・ディマスおよびグアダルーペ島(現・フロリダ諸島)と進み、先住民から“サブ”と呼ばれていた火山島の隣にある大きな島に上陸しました。この島は、隊員のペドロ・デ・オルテガの故郷で、アンダルシアのグァダルカナルにちなんで、ガダルカナルと命名されます。

 ガダルカナルを探索した一行は砂金を発見。ここが目的のテラ・アゥストラリスかと色めき立ったものの、いかんせん、あまりの過酷な自然条件と先住民の攻撃の前に長期間の滞在はかなわず、周辺の塩間島を探検した後、5月11日に帰途に就き、翌1569年7月22日、カヤオ港に帰着しました。

 この間、彼らが探査した島々は、「ガダルカナルの砂金は“ソロモン王の財宝(の一部)”である」との思い込みから、“ソロモン諸島”と命名されます。

 ペルーに帰国後もソロモン王の財宝に未練があったメンダーニャは、再遠征を行い、ソロモン諸島を植民地化したいと考えていましたが、1570年以降、英国のフランシス・ドレークの私掠船が西インド諸島のスペイン船や町を襲う海賊活動を展開し、スペインはその対策に追われたことに加え、1585年には英国とスペインの戦争が始まったこともあり、ソロモン諸島への第二次航海が実現したのは1595年のことでした。

 第2次航海は、1595年4月9日、4隻の艦隊でカヤオを出港。ソロモン諸島南東部のサンタ・クルス諸島にはたどり着いたものの、原住民の反発や乗組員の離反などに加え、10月半ば、メンダーニャが現地で亡くなったこともあり、スペインによるソロモン諸島探検は中断されました。この第2次航海の過程で、1595年9月7日、メンダーニャの探検隊が“発見”したのが、今回ご紹介の切手に描かれているティナクラです。

 火山島のティナクラには19世紀の時点で少数の人々が生活していたものの、1840年11月10日の噴火で全島民が避難して無人島となりました。また、1868年には福州からメルボルンへ向かっていた茶の運搬船がティナクラが噴煙を上げていたことを報告しています。

 第二次大戦後の1951年には英領ソロモン諸島内のヌカプ島およびヌパニ島から130人のポリネシア人がティナクラに入植したものの、1971年の噴火で島民は避難。1980年代後半にはヌパニ島から2家族が移住したとの記録があります。また、近年では、2017年10月と2020年1月に大規模な噴火が記録されています。

  さて、現在、第二次大戦中の激戦地として知られる“ガダルカナル”にフォーカスを当てた本を作っています。内容は、戦史よりも、戦後のガダルカナルが中心で、すでに、本文の原稿は書き終え、現在、書籍としてまとめる作業を進めているところです。正式な書名や発売日などが決まりましたら、またこのブログでもご案内していきたいと思っておりますので、よろしくお願いします。
 

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 反ロシアデー(旧反ソ連デー)
2020-08-09 Sun 00:59
 きょう(9日)は、第二次大戦末期の1945年8月9日、ソ連が、日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告し、満洲に侵攻したことにちなむ“反ロシアデー(旧反ソ連デー)”です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      シベリア抑留・復片つき19480729

 これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、強制労働に従事させられていた日本人抑留者の通信用に作られた専用の往復葉書のうち、(右下に“No87”の表示があるタイプIIIと呼ばれるもの使用例です。

 葉書が差し出された時期は特定できませんが、ウラジオストクの中継印は1948年6月19日のように見え、日本に到着した際の占領当局による検閲の金魚鉢印の上には7月29日の書き込みがあります。

 1945年8月9日、ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲北朝鮮、千島、樺太に侵攻。ソ連側は捕虜となった旧日本兵に「トウキョウ、ダモイ」すなわち東京へ帰還(ダモイ)させると甘言を弄して彼らをシベリア鉄道の貨物列車に詰め込み、東はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクから西はウクライナのクタイス、北は北極圏のノリリスクから南は中央アジア・ウズベキスタンのタシュケントやフェルガナまで、およそ2000ヵ所にも及ぶ収容所へと移送しました。

 ソ連があらゆる国際法規を無視して(たとえば、対日参戦に際してソ連が署名していたポツダム宣言には、連合国の捕虜となった日本兵を本国へ早期帰還させることがはっきりと規定されています)日本人を抑留し、強制労働を課したのは、ドイツとの戦争で荒廃しきった自国の経済復興のため、奴隷同然の安価な労働力が必要だったためです。

 収容所では、十分な食糧も与えられないまま重労働を課せられ、過重なノルマを達成できなければ容赦なく食事を減らされました。また、医療・衛生環境もきわめて不十分でしたから、過酷な自然環境とあわせて、多くの犠牲者が出るのも当然でした。厚生労働省が把握しているだけでも約56万1000人の日本人が抑留され、6万人が亡くなったといわれています。

 また、ソ連当局による洗脳工作と恣意的な反ソ分子の摘発と拷問、密告の奨励など、抑留者たちは、肉体だけでなく、精神的にもきわめて過酷な環境に置かれ続けました。

 日本人捕虜に対する思想・洗脳工作の一環として、ソ連当局は、満洲から略奪してきた奉天(現・瀋陽)の満洲日日新聞社の活字と用紙を用いて(ただし、最初期は略奪資材が使えなかったため、印刷物としての品質はきわめて粗悪でした)、1945年9月15日から1949年12月30日まで、週3回、タブロイド判の『日本新聞』を全629号刊行しました。

 敗戦によって武装解除されたにもかかわらず、旧軍の秩序とそれに付随するさまざまな特権を維持しようとしていた将校・下士官への不満を募らせていた下級兵士の中には、“日本軍国主義”批判を展開する『日本新聞』の内容に対して一定の理解を示す者もあり、ソ連側は、そうした日本人捕虜を横断的に組織するためのメディアとして『日本新聞』を活用。1946年5月25日、同紙を使っての輪読・勉強会としての“日本新聞友の会”の結成を呼び掛けました。“友の会”では、ソ連側との交渉のやり方や編集部との連絡方法などが具体的に示され、“友の会”やこれを母体とする“民主グループ”は必然的に収容所内での主導権を握ることになります。

 さらに、1947年3月から4月にかけて、ハバロフスク地区の各収容所の民主グループの幹部57人を集めて約1ヵ月にわたりハバロフスク地区代表者会議が開催されます。徹底的な“学習”によって洗脳・思想改造された参加者は、活動分子(アクティブ)として各地の収容所に戻り、所内につくられた反ファシスト委員会のメンバーとして“民主化”の名の下に、ソ連当局の意に沿わない“反動分子”や“ファシスト”の摘発に狂奔しました。摘発され、吊るし上げの対象となれば、食事の量を減らされたり、より過酷な重労働を課せられたりするため、多くの捕虜たちは面従腹背で“民主化運動”をやり過ごし、ときには、密告によってわが身を守るしかなかったことは、多くの抑留体験者の手記などによって広く知られています。

 今回ご紹介の葉書は、まさに、そうした収容所内の環境を反映したもので、以下のような文面がつづられています。(原文は旧字体の漢字カナ交じり書きですが、読みやすさを考えて、句読点を補い、新字体・現代仮名遣いの漢字かな交じりに直しました)

 停戦になってからアッと思う間にもう二年半も経ちました。
 故国も随分変わった事ばかりと思います。当方、相変らず元気で、す越し(=過ごし)にくいと心配して居たシベリヤの冬も、モーこれで三回。今年こそ帰国の実現が濃厚になって居ります。父上様、母上様皆々様にまもなく(秋頃までには)帰ると申して下さい。保江も十日で四回目の誕生日を迎えますね。故国よりこちらに来て居る手紙を見ますと、インフレ、失業、国民大衆の為の生活が非常に恵まれないとか。早々明るい政治で日本を再建せねばなりませんね。こちらに居る人はみんな熱心に日本の再建、明朗日本の建設のため頑張ローと申し合わせて居ります。
 もう一つ書く事は、ソ連邦の人々の人種的偏見なく非常に気持ち良いです。日本人は大いに学ぶべきです。
 健康で何も変わりなければ返事不要。私のことは心配なく。
 (下に、文面の記された葉書裏面の画像を貼っておきます。一部、判読不能だった箇所について、小村啓さんにご教示いただきました。ありがとうございます!)

      シベリア抑留・復片つき19480729裏

 シベリア抑留者用の往復葉書のうち、現存するモノの大半は、収容所から日本宛てに送られた往片の使用済みで、今回ご紹介のもののように、復片のついた状態のモノは少なく、復片の使用例はさらに少なくなっています。これは、ソ連側が捕虜の帰還に際して、受け取った郵便物を持ち帰ることを原則として禁じていたことによるものです。今回の葉書に関しては、文面に「返事不要」とありますが、実際に家族がそのまま言葉を真に受けて返事を出さなかったとは考えにくいので、「まもなく(秋頃までには)帰る」との文面通り、葉書が到着する前に差出人が帰国して、返事を出す必要がなかったのではないかと推測されます。

 また、葉書の文面を読むと、収容者には、米国の事実上の単独占領下で日本は悲惨な状況にあると思わされており、それゆえ、帰国後は再建のために団結しようと収容者たちが話していること、ソ連は立派な国であり、日本は大いに学ぶべき国であることなどが書かれています。この葉書の差出人が、心底、そのように思っていたのか、それとも、生き延びるために洗脳されたふりをしていたのかは定かではありませんが、ソ連当局としては、収容所で洗脳した捕虜たちが、帰国後、日本に共産主義勢力を扶植するための尖兵となることを期待していたことは事実です。

 シベリアからの葉書は、日本到着後、検閲の対象となりましたが、今回ご紹介の葉書などは、東西冷戦が進行していく中で、ソ連による洗脳工作がどの程度(元)捕虜の間に定着しているのか、さらに、元捕虜のうち日本における反米親ソ勢力の活動家(となる可能性が高い者)は誰かといったことを探るうえで重要な情報を米国と日本政府にもたらすものとなりました。

 この葉書が日本に到着してからほぼ1年後の1949年8月11日、日本国内では、「引揚者の秩序保持に関する政令」が公布され、引揚者は船長や引揚援護局長の指示に従う義務があるとされ、違反者には1年以下の懲役もしくは1万円以下の罰金が科されることいなりました。これは、ソ連からの引揚船が入港した舞鶴や各地の引揚特別列車の停車駅などで“赤い帰還者”による騒擾事件が頻発したためですが、彼らの多くは、抑留体験を通じて、ソ連の意に背いた行動をとると帰国を取り消されて再びシベリア送りになると信じ込まされていた偽装共産主義者(表面だけ赤いという意味で“赤カブ”とも呼ばれました)だったともいわれています。しかし、そうした実情を知らない日本国民は当惑するばかりで、占領当局と日本政府は共産主義者が全国に拡散していくことへの警戒を強めていきました。

 また、1949年1月23日に行われた第24回衆議院総選挙では、吉田茂ひきいる保守系の民主自由党が264議席を獲得して大勝した一方で、日本共産党がそれまでの4議席から35議席へと劇的に躍進。ドッジラインの強行による深刻な経済不況の到来により労働運動は激化し、こうした中で発生した下山・松川・三鷹の三大事件には共産党の関与が疑われていました。このため、占領当局と日本政府は、「真の指導者(アクティブ)は港において早期に見付けられる事を防ぐために、蔭に潜み郷里において世論を基礎として潜かに活動する事を(ソ連に)許可された」 との認識の下、帰還した元捕虜を監視対象としていました。

 その際、ソ連を賛美し、日本の状況を否定的に述べていたり、帰国後、アクティブになりうると推測されるような内容の葉書を書いたりした人物(今回ご紹介の葉書の差出人もその1人でしょう)は、当局の要注意人物のリストに加えられ、帰国後も苦難の日々を歩むことになったことは想像に難くありません。

 なお、シベリア抑留者の郵便については、拙著『ハバロフスク』でもその概要をまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 
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 インド旅客機が着陸失敗
2020-08-08 Sat 03:12
 インド南部ケーララ州のカリカット空港で、きのう(7日)、乗客乗員190人余りを乗せたドバイ発のエア・インディア・エクスプレス旅客機が着陸に失敗。この記事を書いている時点で、少なくとも14人が死亡、少なくとも89人が病院に搬送され、その多くは重傷者だそうです。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      英領インド・カリカット発カバー

 これは、第二次大戦中の1942年3月12日、カリカットからコーチン宛に差し出され、その後、スイス宛に転送されたカバーで、途中、英領インド当局による開封・検閲を受けています。

 さて、ポルトガルの探検家、ヴァスコ・ダ・ガマ来航の地として知られるカリカット(厳密には、ガマは近郊のカッパドに上陸し、そこからカリカットの王宮に向かっています)について、現在、現地語地名の日本語カナ表記としては、コーリコード、コージコード、コジコーデ、コジコデなどが用いられています。今回の事故に関しては、このうち、時事通信の表記に従い、コジコーデと報じているメディアが多いようです。

 インド連邦政府の公的共通語は英語とヒンディー語ですが、インド憲法ではこのほかに州の公用語などとして使用しうる22の言語を指定しています。このうち、カリカットを含むケーララ州で使われているマラヤーラム語もその一つで、丸みを帯びた文字は、ヒンディー語で使われるデーヴァナーガリー文字とは全く違います。

 そのマラヤーラム文字では、英名でカリカットと呼ばれている都市の名はകോഴിക്കോട്と書くのですが、これを対照表を見ながらラテン文字のアルファベットに転記するとkōḻikōṭ となるようです。細かい発音はわからないのですが、おそらく、“コーリコート”と発音するのでしょう。これだと、僕たちが馴染んでいるカリカットとも似たような発音です。

 ところが、この地名をヒンディー語で表記するとकोझिकोडとなり、これをラテン文字に転写するとKozhikodeとなります。これをそのまま読むと、時事通信の“コジコーデ”や“コージコード”などとになるのですが、実際には、これでコーリコードと読ませるのだそうです。おそらく、デーヴァナーガリー文字でマラヤーラム語を転記したときの、スペルのズレが理由なのでしょうが…。

 ちなみに、現地の郵便局の現行の消印は、ヒンディー語と英語のバイリンガルで、下に示すように、英文表記は“CALICUT”で、今回事故のあった空港の英文名も“Calicut International Airport”です。したがって、時事通信配信の報道では地名の表記は“コジコーデ”だけでしたが、外国人としては“カリカット”の英名を忌避する必要はなさそうですし、すくなくとも、報道などでは“コジコーデ(英名カリカット)”などと併記する方が親切なのではないかと思います。

      カリカット・現行消印(マザーテレサ)

 個人的な話で恐縮ですが、2011年にインドを旅行した際、デリーからカリカットへの移動には飛行機を使いましたので、今回事故のあったカリカット空港も利用したことがあります。やはり、実際に足を運んだことのある場所でこうした事故が起きると、ほかの地域での事故に比べて心が痛みますね。あらためて、亡くなられた方のご冥福と負傷された方の御快癒を心よりお祈りいたします。

 * 昨日(7日)の文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」の僕の出番は、無事、終了いたしました。お聞きいただきました皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。なお、次回の出演は8月28日(金)の予定ですので、引き続き、よろしくお願いします。
 
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 唐津くんち、曳山巡行中止
2020-08-07 Fri 02:28
 佐賀県の唐津神社の秋季例大祭で、長崎くんち、博多おくんちと並ぶ日本三大くんちのひとつ、“唐津くんち”を統括する唐津曳山取締会は、きのう(6日)、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、ことし11月2-4日に予定されていた曳山巡行を中止し、3日に神社で祭典のみ実施することを決定しました。200年に及ぶ唐津くんちの歴史の中で曳山巡行が中止になるのは初めてのことです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      唐津くんち

 これは、1995年10月2日、ふるさと切手(佐賀県)として発行された“唐津くんち”の切手です。

 唐津神社は、三韓征伐から帰国した神功皇后が、出征の際に航海の安全を祈願した住吉三神に感謝して松浦の海浜に宝鏡を縣けて祀ったのが起源とされています。

 例大祭での神輿の御神幸が始まったのは寛文年間(1661-73年)のことですが、現在のように曳山が祭りに登場するのは、1819年、一番曳山の“赤獅子”が奉納されたのが最初で、以後、1876年までに、獅子、兜、鯛などを模した15台の漆の一閑張りという技法が用いた曳山が製作されました。ただし、このうち、紺屋町が製作した“黒獅子”は現存していないため、現在の曳山は14台です。なお、今回ご紹介の切手に取り上げられているのは、1845年に作られた魚屋町の“鯛ヤマ”で、厳木町出身の画家・中島潔が原画を制作しました。

 もともと、唐津神社のくんち旧暦9月29日の本祭を中心として営まれていましたが、1913年、本祭が新暦10月29日に、町廻りが翌30日に変更されます。先の大戦中は、徴兵により男性の曳き手が足りなくなったため、残された女性が曳山を曳いて祭りは維持されました。

 戦後の1962年には10月28日の“前夜祭(現・宵曳山)”が加わり、1968年以降は本祭のうち本殿祭のみを10月29日に残して、神幸祭(御旅所神幸)は祝日の11月3日に変更され、これにあわせて、宵曳山は同2日に、町廻りは同4日に変更されました。

 1980年、“唐津くんちの曳山行事”として国の重要無形民俗文化財に指定された後、昭和天皇が病床に伏していた1988年には、自粛ムードの中で祭りの中止を迫られることもありましたが、逆に、天皇の病気平癒祈念という点で開催を継続。2015年にはユネスコの無形文化遺産にも登録されています。

 今回の中止の決定について、取締会の山内啓慈総取締は「希望を持って協議を続けてきたが再び感染が拡大しており、参加者の命を危険にさらすわけにはいかない。断腸の思いだ」と述べたそうですが、一日も早くコロナウイルスの状況が落ち着き、来年は無事に開催されることをお祈りしております。


★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 8月7日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。

 
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 ベイルートで大爆発
2020-08-06 Thu 01:11
 レバノンの首都ベイルートの港で、現地時間の4日午後6時ごろ、複数回にわたって大規模な爆発があり、市内の広い範囲で建物や車が壊れるなどの大きな被害が発生。被害の全容はまだ分かっていませんが、レバノン赤十字社は、これまでに少なくとも100人が死亡し、けが人は4000人にのぼっており、現在も現場のがれきの下に取り残されている人がいるとして、被害者がさらに増えるとの見方を示しています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      レバノン・マルセイユ=ベイルート航空10年

 これは、1938年にレバノンが発行した“マルセイユ=ベイルート間の飛行10周年”の記念切手で、ベイルート湾上空を飛ぶ飛行機と、初飛行を行ったパイロットのモーリス・ノゲスの肖像が描かれています。今回の爆発事故で被害の大きかった、ベイルート湾を望む市街地の地形がよくわかる1枚として、取り上げてみました。

 さて、ベイルートのルーツは、古代地中海の交易で栄えたフェニキア人の都市、ベリトスです。この都市は、ローマ時代には東地中海における交易の中心地であると同時に、文化的にも重要な都市となりました。現在のようにベイルート(アラビア語の発音としてはバイルートが近い)と呼ばれるようになったのは、西暦7世紀、イスラム世界に編入されてからのことです。

 第一次大戦後のオスマン帝国分割の過程で、フランスはサイクス・ピコ協定によって獲得した“歴史的シリア(の北部)”を、カトリック傘下のマロン派キリスト教徒が人口の過半数を占めるよう“レバノン”を創出し、その他の地域から分離することで、現在のシリアとレバノンの枠組を作りました。これにより、ベイルートはフランスの東地中海支配の拠点となり、1928年には、今回ご紹介の切手の題材となったマルセイユとの航空路が開かれます。

 ちなみに、今回ご紹介の切手に描かれているノゲスは、1889年、フランス西部のレンヌ生まれ。独学で飛行技術を学び、第一次大戦でのパイロットとしての従軍経験を経て、1922年、フランス=ルーマニア航空輸送社(CFRNA)に参加し、1924年、ブカレスト=イスタンブル=アンカラ間の航空路を開拓。さらに、1926年にはエア・オリエントに参加し、シリア、レバノン、サイゴンなどフランス本土と海外領土との航空路の開拓に尽力しましたが、1934年1月、フランス中央部を飛行中に吹雪に巻き込まれ、コルビニー付近で墜落死しました。

 その後、レバノンは1943年に独立。1948年にイスラエルが建国を宣言して第一次中東戦争が勃発すると、内陸アラブ諸国への中継貿易港であったハイファがイスラエル領となり、その地位を失ったことで、ベイルートは東地中海地域における物流の最大の拠点となります。また、パレスチナ資本や英語を理解する熟練労働者が流入したことで、フランス語を話すレバノン人と英語を話すパレスチナ人から成る労働市場が形成され、ベイルートは外国企業の進出にとって魅力的な地域になり、貿易とマスメディア、観光や各種産業が発達し、1975年にレバノン内戦が勃発するまで、“中東のパリ”とも呼ばれる繁栄を謳歌していました。

 1990年の内戦終結後、ベイルートは再建が進んだものの、すでに金融、交通の中心はドバイにその地位が移っており、また、2006年にはイスラエル軍とヒズボラの戦闘により街市街地南部が空爆されたこともあり、依然として東地中海有数の都市ではあるものの、往時の繁栄には及ばない状況が続いていました。

 さて、今回の爆発事故については、爆心地の倉庫には、爆薬の原料にもなる硝酸アンモニウムがおよそ2750トン保管されており、その管理が極めてずさんだったことが指摘されています。

 また、100人以上の死者と4000人以上の負傷者のほか、爆破による被害は市街地の半分に及んでいるため、25-30万人が家を失い、推定被害総額は30億-50億米ドルに上るとみられます。もともと、デフォルト状態にあるレバノンにとってはこれだけでも大変なことですが、さらに爆心地の横には、レバノンの穀物備蓄の85%を保管していたサイロがあったことに加え、最大の港であるベイルート港が爆発で壊滅状態にあるため、食料を含む生活物資の9割を輸入に頼っているレバノン経済が極めて深刻な事態に陥ることは必至です。

 あらためて、亡くなられた方のご冥福と負傷者の方々の御快癒、そして、被災者の方々の食糧と住居が確保され、そのうえで、一日も早い復興が成し遂げられることを切にお祈りしております。


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 8月7日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。

 
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 スペイン前国王が国外逃亡
2020-08-05 Wed 01:42
 スペインのサンチェス首相は、昨日(4日)、裏金疑惑の渦中にあったフアン・カルロス前国王がスペインを出国したことを明らかにしました。国王の出国先については公式の発表はありませんが、複数のスペイン・メディアによると、前国王はポルトガル経由でカリブ海のドミニカ共和国旧英領のドミニカ国とは別の国)に渡航し、当面滞在する見込みだそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ドミニカ共和国・スペイン国王来訪

 これは、1976年、フアン・カルロス1世のドミニカ共和国訪問に際してドミニカ共和国が発行した記念切手で、当時の国王夫妻の肖像が取り上げられています。この切手が発行された当時は、まさか、フアン・カルロスもこんなかたちでドミニカ共和国を再訪することになるとは全く想像していなかったでしょうねぇ。

 フアン・カルロス1世は、1938年、スペイン・ブルボン朝元国王のアルフォンソ13世(1931年の革命でローマに亡命)の4男、バルセロナ伯爵フアン・デ・ボルボーン・イ・バッテンベルグの長男として、ローマで生まれました。
 
 第二次大戦後、イタリアで国民投票により王制が廃止されて国王ウンベルト2世が退位し、共和制に移行したことを受けて、1948年、スペインに帰国。当時のフランコ独裁体制の下、フランコの後継者たるべく帝王教育を受けます。

 1975年11月20日、フランコが亡くなると、フアン・カルロスはフランコの遺言により11月22日、スペイン国王フアン・カルロスとして即位。即位後は、フランコの権威主義体制を受け継がず、他の立憲君主国を模範とした政治の民主化を推し進め、1981年には、国王親政の復活を求めるクーデターに対して断固拒否の姿勢を貫き、以後、国民の絶大な支持を得ていました。

 しかし、2012年にはスペインの経済危機の最中にアフリカのボツワナでゾウ狩りに興じていた際に負傷したことで国民の失望を招いたほか、2013年はクリスティーナ王女と彼女の夫に公金横領疑惑が浮上して、王女自身捜査当局から事情聴取を受けるなどのスキャンダルもあり、その威信は大きく傷つきました。

 そこで、2014年6月、健康上の問題もあって、フアン・カルロスは国民の人気が高いフェリペ皇太子に譲位し、表舞台からは退きます。

 ところが、譲位後、フアン・カルロス本人に関しても、2011年のサウジアラビア高速鉄道建設の入札時に、スペイン企業連合の受注に関与し、サウジの故アブドラ前国王から1億ドル(約105億円)を受け取り、外国口座に隠していた疑惑が浮上。新型コロナウイルスで2万8000人以上のスペイン国民が死亡し、政府の対応も後手に回る中、前国王をめぐる一連のスキャンダルは国民の強い反発を浴びており、今年6月には、検察は前国王に対する捜査開始を発表していました。

 なお、おととい(3日)、スペイン王室が発表した前国王の書簡によると、前国王は「過去の私生活の出来事で、良くない影響が広がった」ことから、息子で現国王のフェリペ6世が「責務を全う」するのを助けるために、スペインを離れる決断を下したとのこと。ただし、前国王の弁護士は3日、前国王は亡命して司法の裁きを逃れようとしているのではなく、検察当局の取り調べには応じ続けるとのコメントを発表しています。


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 お菓子の切手:アンも驚嘆したプリンスエドワード島のアイスクリーム
2020-08-04 Tue 01:42
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、大手製菓メーカー(株)ロッテのウェブマガジン『Shall we Lotte(シャル ウィ ロッテ)』での僕の連載記事、「お菓子の切手」の最新版がアップされました。今回は、こんな切手を取り上げています。(画像はクリックで拡大されます)

      カナダ・アイスクリーム(ペーン)

 これは、2019年9月23日、“子どもを助けよう”と題してカナダが発行した寄附金つき切手です。

 数年前、ある旅行会社が世界で一番おいしいアイスクリームの店はどこにあるかとアンケートを取ったところ、パリやローマの並みいる名店を制してカナダのプリンスエドワード島に本店がある“カウズ(COWS)”が選ばれて話題になったことがあります。

 プリンスエドワード島は、カナダの東海岸、セントローレンス湾に浮かぶ島で、小説『赤毛のアン』の舞台として有名です。物語には、孤児院から引き取られてプリンスエドワード島にやってきたアンが、養家のピクニックで生まれて初めてアイスクリームを味わい、「アイスクリームって、言語を絶したものだわ、マリラ。まったく崇高なものね」と驚きの声を上る場面があります。

 『赤毛のアン』が発表された1908年は、まだ冷凍施設が一般的ではなく、アイスクリームは高級品でしたから、不遇な幼少期を過ごしたアンにとっては高嶺の花だったはずで、この言葉もあくまでも比喩的なものかと思っていたのですが、カウズはカナダ全土に10店舗(うち6店舗がプリンスエドワード島内にあります)ということなので、どうやら、カナダでは本当に“言語を絶した”アイスクリームが食べられるようです。

 さて、そんなカナダでは、昨年(2019年)9月23日、“子供を助けよう”と題して、半球型のアイスクリームを乗せたワッフルコーンと、スティックタイプの2連キャンディーが仲良く手をつないだ切手(色違いの2種×5のシール式)が発行されました。デザインを制作したのは、チャド・ロバーツ・デザイン社のジョアンナ・トッドさんです。

 切手の右下には、カナダのシンボルであるメイプルリーフにPの文字が入ったマークがありますが、このPの文字は“永久の”を意味する“Permanent”の頭文字で、将来的に郵便料金が値上げされても、この切手がずっと国内宛郵便の基本料金(30グラムまで)の切手として有効であることを示しており、“永久保証切手”と呼ばれています。なお、この切手が発行された2019年9月の時点の料金は90セントでした。

 このメイプルリーフのマークの後ろに“+10”の表示がありますが、10セントの寄附金を上乗せして販売するという意味ですので、実際には、アイスクリームの切手は1枚1ドルで販売されたということになります。

 カナダ・ポストとしては、切手の販売によって800万ドル以上の寄附金を集めることを目標とし、集まった寄附金は、社会福祉団体、カナダ・ポスト・コミュニティ基金を通じて、図書館、スポーツクラブ、朝食支援プロジェクト、いじめ対策の啓発活動、児童電話相談などの支援のために使われます。

 アイスクリームの切手を買って子供たちを支援する――子供の頃、夏の暑い日でアイスクリームの冷たさにニッコリした記憶のある大人たちの、ちょっと粋な社会への恩返しですね。


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 元大関・照ノ富士、5年ぶりの復活優勝
2020-08-03 Mon 04:36
 大相撲7月場所は、千秋楽の昨日(2日)、元大関で、ひざのけがや糖尿病などのため一時は序二段にまで番付を下げ、今場所幕内に復帰した照ノ富士(モンゴル出身)が13勝2敗で、平成27(2015)年夏場所以来、およそ5年ぶりにの復活優勝を果たしました。というわけで、きょうはモンゴル切手の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      モンゴル・ジャムスラン(1984)

 これは、1984年にモンゴルが発行した“ツァム(チャムとも)”の切手のうち、武神・ジャムスランを取り上げた切手シートです。

 ツァムは、チベット仏教の僧侶を通じてモンゴルにもたらされた宗教儀式(修会)で、伝法灌頂を受けたラマ僧が各種の仮面をかぶって演舞し、現世利益、家内安全、延命長寿、豊穣、戦争での勝利などを祈願するもので、1930年代前半の最盛時には、モンゴル全土700以上の寺院で500種以上のツァムが行われていました。特に、1811年以降、フレー (ウランバートルの旧称)のズーン・フレー寺院で行われていたフレー・ツァムは、その規模・内容においてモンゴル最大・最高水準のツァムとして知られていました。

 ところが、1921年の革命を経て、1924年、コミンテルンの指導を受けたモンゴル人民革命党による一党独裁の社会主義国家、モンゴル人民共和国が誕生すると、人民革命党政権はモンゴルのソヴィエト化を開始。1930年にモンゴルの劇場に着任したロシア人指導員のエフレーモフは、モンゴル社会に定着しているツァムの伝統を断ち切り、その代わりにソヴィエト演劇を移入することを主張。さらに、1937年9月から1939年4月までの間に、1万4201名の僧侶が銃殺され、700以上存在していた寺院や廟のほぼすべてが破壊されたことで、伝統的な宗教儀礼としてのツァムは途絶してしまいます。

 その後、フレー・ツァムの仮面・衣装のみは例外的に破却を免れ、ツァムは宗教色を排した舞台芸術として細々と存続を許されるだけになっていました。今回ご紹介の切手もこの時期のもので、当時のツァムはあくまでも、ソ連の指導の下、宗教色を排した民族舞踏として説明されていました。

 しかし、社会主義政権末期の1980年代後半になると、モンゴルでも、ソ連のペレストロイカの影響を受けた“新経済政策”が始まり、ツァムに対する規制も徐々に緩和され、1989年にはモンゴル国立映画撮影所がドキュメンタリー映画『ツァム』を制作。1990年の民主化後は、モンゴルの民族歌舞団がフレー・ツァムを模した『ツァム・ブチグ(ツァム・ダンス)』の上演を開始し、ツァム・ダンスは主として外国人観光客を対象に、“モンゴルの伝統文化”と紹介されるようになりました。

 さらに、民主化後の仏教の復興が進む中で、1993年には宗教儀礼としてのツァムも完全に復活し、現在では、夏の間に行われるオボ祭等に合わせてモンゴル各地でツァムが行われています。

 今回ご紹介の切手シートに取り上げられたジャムスランはツァムの登場人物のうち、仏法を守る武神で、頭には旗をつけ、手には剣と弓を持ち、首には50人の敵の首級で作った首飾りを架けています。すべての敵を倒し、人々に幸運をもたらす存在とされ、演者は敵を切り倒し、その心臓をえぐるように舞うのが特徴です。


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 二の丑
2020-08-02 Sun 02:18
 きょう(2日)は、土用の丑の日(二の丑)。というわけで、一の丑の時同様、ウナギに関する切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      チェコ・ウナギ(1966)

 これは、1966年にチェコスロヴァキア(当時)が発行したヨーロッパウナギの切手です。

 チェコとスロヴァキアはいずれも内陸国ですが淡水魚は盛んに食べられており、ウナギもその一つです。かの地でのウナギ漁のピークは5月頃で、この時季、川を上った大量のウナギが白い腹を陽光に輝かせる光景は“黄金のウナギ”と呼ばれ、オタ・パヴェルの小説のタイトルにもなりました。なお、小説『黄金のウナギ』は1979年にテレビ映画化され、国際的に権威のあるイタリア賞を受賞しています。

 『黄金のウナギ』は、パヴェルと思しき主人公が、ボヘミア地方の田舎に祖母が遺した家に家族と移り住もうと車で移動するところから始まります。

 第二次大戦以前、主人公の一家はその家に住んでおり、釣り好きの少年だった主人公に対して、父親は「自分は“黄金のウナギ”のことを見たことはないが、きっとおまえは見るだろう」と幾度となく聞かされて育ちました。ところが、穏やかだった田舎の村にも、ある日、ドイツ軍が進駐し、やがてユダヤ系だった父親と、年長の兄(主人公は3男という設定)は収容所送りが命じられます。なお、母親は非ユダヤ系で、幼かった主人公と共に、当面は収容所送りを免れました。

 ちなみに、原作者のパヴェルの父、レオ・ポッパーはプラハのユダヤ系の商人で、実際、第二次世界大戦中にはパヴェルの兄とともにナチスの強制収容所行に送られたものの、戦後は無事に帰還しました。また、パヴェルと非ユダヤ系の母親は家庭に残っています。

 最後の晩餐の日、主人公は父のためにウナギをつり、そのウナギは燻製にされて食卓に上ったものの、塩がきつくて食べられず、兄弟はこれを手厚く葬ります。占領軍は住民に対して川での魚釣りを全面禁止しましたが、主人公は、父親から聞いた“黄金のウナギ”の話を思いながら、ひそかに母のために魚を釣り続けました。

 しかし、占領が長引く中で、やがて主人公の母親も連行され、さらに、彼が秘かに憧れていた酒場の美人女将も、彼女の夫がレジスタンスに加わっていたことから逮捕されてしまいます。このため、主人公は、彼が釣りの師匠と仰いでいた渡し守りのプロシェックおじさんに預けられました。物語の最後、主人公は師匠のプロシェックと一緒に釣ったウナギを川に放ちます。そのウナギが、いつかきっと黄金色に輝いて戻ってくるのを祈りながら。

 原作者のパヴェルは1930年生まれで、戦後の共産主義体制下でチェコスロヴァキア放送のスポーツ記者となり、選手たちの内面の葛藤や焦燥までをも描き出す記事を発表し、チェコスロヴァキアにおけるスポーツ文学の先駆者となりました。また、1963年に発表した自叙伝(短篇集)の『美しい鹿の死』が大いに評判となり、作家としての地位を確立しましたが、1964年のインスブルック五輪を取材中、重度の双極性障害を発症して精神錯乱となり、以後、入院生活を余儀なくされます。そして、1973年、42歳の若さで亡くなりましたが、没後の1974年、回想記の第二作として発表された『ボヘミアの森と川 そして魚とぼく』は現代チェコ文学を代表する傑作のひとつとされています。

 なお、『黄金のウナギ』の舞台となったナチス・ドイツ占領下のチェコと強制収容所については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 ヴェトナムで初の新型コロナ死者
2020-08-01 Sat 03:02
 ヴェトナム政府は、きのう(31日)、新型コロナウイルスによる初めての死者が出たことを明らかにしました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ヴェトナム・コロナ(2020B)

 これは、ことし3月31日にヴェトナムが発行した“手を携えて新型コロナウイルスを予防し、戦おう”の切手のうち、医療チームの活動を取り上げた1枚です。緑色の五角形は“隔離地域”を意味しており、背後には世界各国の国旗と拳を描き、全世界一丸となってのウイルスとの戦いが表現されています。ちなみに、緑の五角形の下辺の右側には日章旗も見えています。

 ヴェトナムにおける新型コロナウイルスの感染例は、ウイルスの発生源とされる中国・武漢市からハノイに帰国した男性の感染が確認されたのが最初です。

 感染者の確認を受けて、ヴェトナム政府は早くも1月24日にはヴェトナムと武漢の間の全フライトを禁止。その後も各地で感染者の報告が相次いだことから、グエン・スアンフック首相は、ウイルスのヴェトナムへの蔓延を防止およびその措置を命じ、ヴェトナム国民にクラスターが発生している地域への立ち入りを避けるよう警告し、徹底した感染拡大の防止策を採ります。

 たとえば、あるマンションで感染者が発見されると、そのマンションが全棟封鎖されるだけでなく、感染者と接触した人が住んでいるマンションも封鎖の対象となり、最低2週間、住民はマンションからの外出が禁じられました。この間、住民の食事はすべてデリバリーで手配され、隔離期間中のPCR検査により、建物の住民全員が陰性でないと、外出禁止は解除されません。こうして、中国人労働者5000人以上を含め、感染者の出た地域の住民の大規模な隔離を行い、軍や大学の寮を隔離施設として使い、8万人に及ぶ住民が収容されたといわれています。

 また、2月に入ると、教育訓練省は、ウイルスの拡散に対する検疫措置の一環として3月末まで全国のすべての学校活動を一時停止し、その後、4月中旬までこれを延長しています。一方、新型コロナウイルスの最初の症例が報告された後、他の国同様、ヴェトナムでもマスクと消毒剤がすぐに売り切れたことから、保健大臣は国民に対して不要不急の買いだめを避けるよう要請する一方、ウイルス禍に乗じたマスクなどの転売で利益を上げる者を逮捕しました。

 今回ご紹介の切手は、こうした状況の下で、新型コロナウイルスとの戦いにおいて、医療従事者を讃え、国民の団結を訴える趣旨の切手が発行されたものです。
 
 こうした対応の結果、ヴェトナムのウイルスの封じ込めは効果を上げ、6月末の時点でヴェトナムの感染者は累計300名超に留まり、これまで、死者はゼロを維持し続けてきました。
 
 ところが、7月25日に中部ダナンでクラスター(感染者集団)の発生が判明。同31日には新たに45人の感染が確認され、国内で428番目の患者だった70歳の男性が亡くなりました。これが、ヴェトナムにおける新型コロナウイルスによる最初の死者で、米ジョンズ・ホプキンズ大の集計によると、7月末の時点でヴェトナムの感染者は545人となりました。


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