fc2ブログ
内藤陽介 Yosuke NAITO
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/
World Wide Weblog
<!-【↓2カラムテーブルここから↓】-->
 直木賞に『地図と拳』
2023-01-20 Fri 05:32
 きのう(19日)、第168回芥川龍之介賞・直木三十五賞の選考会が行われ、直木賞には小川哲氏の『地図と拳』と千早茜氏の『しろがねの葉』が、芥川賞は佐藤厚志氏の『荒地の家族』と井戸川射子の『この世の喜びよ』が、それぞれ選ばれました。このうち『地図と拳』は、幻に終わった満洲の都市計画”大同都邑計画”から着想を得て、架空の都市“李家鎮”を主な舞台に、複数の人間の数十年を描く作品です。というわけで、満洲の都市計画に関するものということで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      満洲国・国都建設記念絵葉書(地図)

 これは、1937年9月16日、満洲国郵政総局が発行した“国都建設紀念”の絵葉書のうち、国都新京の建設計画図を取り上げた1枚です。絵葉書には、同日発行の国都建設の記念切手のうち、瑞雲と太陽と鳩を描いた2分切手が貼られ、発行当日の特印が押されています。

 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。


★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★

 2023年1月27日(金) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。

 1月28日(土)開講! よみうりカルチャー 北千住
 エリザベス女王の現代史 毎月第4土曜日 13:00~14:30
 エリザベス女王の描かれた切手を手掛かりに、現代史を読み解く講座です。詳細はこちらをご覧ください。 

 よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00
 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。

 武蔵野大学のWeb講座 
 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」と「日本郵便150年の歴史」の2種類の講座をやっています。詳細はこちらをご覧ください。 


★ 『現代日中関係史 第1部 1945-1972』 好評発売中! ★

      現代日中関係史表_第1部

 日本郵趣出版の新レーベル「郵便×歴史シリーズ」の第一弾の企画として、切手という切り口から第二次大戦後の日中関係を読み解く『現代日中関係史』。その第1巻となる本書は、第二次大戦後、わが国が中華人民共和国と国交を樹立(いわゆる国交正常化)する1972年9月以前を取り扱っています。なお、1972年の国交”正常化”以降については、2023年3月に刊行予定の第2巻でまとめる予定です。

 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページのリンクがあるほか、主要書店の店頭在庫も確認できます。また、販売元の郵趣サービス社のサイト、スタマガネットの特設サイトサイトでは、本書の内容見本をご覧いただけます。 

別窓 | 満洲国 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 大豆の日
2021-02-03 Wed 02:28
 きょう(3日)は“大豆の日”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      満洲国・荷馬車2分

 これは、1937年4月1日、満洲国が発行した2分の普通切手で、大豆を運ぶ荷馬車が描かれています。

 もともと、満洲の地では植物油の原料としては麻の実が中心でしたが、1860年代以降、小規模な工場で人力もしくは牛を用いた大豆の搾油が本格的に始まり、1864年には443トンの大豆油、5万900トンの大豆粕、4万9300トンの大豆が営口港から輸出されました。その後、満洲における大豆生産は急速に拡大し、1867年の輸出量は、大豆油1390トン、大豆粕7万300トン、大豆6万300トンになっています。さらに、1896年には、蒸気機関を動力とする鉄製の搾油装置(香港製)が導入され、1899年の輸出量は、大豆油8627トン、大豆粕23万6543トン、大豆25万4348トンとなり、推計250万英ポンドを獲得するほどのドル箱商品となりました。

 1905年、日露戦争で勝利を収めた日本は旅順と大連を中心とした遼島半島先端部を“関東州”として租借し、東清鉄道のうち、寛城子(長春)=大連間の鉄道経営とそれに付随する諸権利、ならびに安東(丹東)=奉天間の鉄道(安奉線)の経営権を獲得。これが、いわゆる南満洲鉄道(満鉄)のルーツとなります。

 満鉄の沿線となった営口は満洲最大の大豆産品の輸出港となり、多くの大豆搾油工場が開業。1909年の輸出高は、大豆油3万4430トン、大豆粕32万4000トン、大豆21万5400トンにまで拡大します。さらに、第一次世界大戦が勃発すると、欧州では搾油工場の操業が困難となったため、欧米諸国、とくに米国が満洲産大豆油を大量に輸入するようになって、満洲には大豆ブームが到来。大戦後の1926年には満洲の大豆生産量は387万トンにも達しました。

 こうして、満洲は世界最大の大豆生産地域となり、1932-45年の満洲国の時代には、満洲国産の大豆商品が全世界の3分の2を占めるほどになります。なお、満洲国で生産された大豆の大半は油脂原料となり、そのまま、もしくは搾油されて諸外国に輸出され、国内での消費は15パーセント程度でした。

 今回ご紹介の切手は、その大豆を荷馬車に積んで運んでいる様子を描くものですが、当時の満洲国では、都市と農村とを問わず、馬車や人力車が重要な交通輸送手段となっていました。このため、たとえば、首都・新京の都市計画においても、幅員26メートル以上の幹線道路の車道部分は、植栽された分離帯によって、中央部が自動車・バスなどの高速車専用部分、その両側が馬車・人力車・自転車などの緩速車用部分、に分けられていました。また、舗装に関しても、荷馬車専用道路は重い荷重に耐えられるように硬質煉瓦を用いるなどの配慮が取られています。

 なお、満洲国とその切手については、拙著『満洲切手』でもいろいろと分析しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 2月5日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。


★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★

      日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史カバー 本体1600円+税

 出版社からのコメント
 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】
 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は
 いかなる歴史をたどり、
 中国はどのように浸透していったのか

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | 満洲国 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 満洲帝国ビジュアル大全
2017-04-16 Sun 14:28
 ご報告が遅くなりましたが、洋泉社から『満洲帝国ビジュアル大全』(辻田真佐憲監修)が刊行されました。僕も、同書には「切手に見る『五族協和』の理想」と題する文章を寄稿していますので、きょうは、その中から、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      満洲国・建国10周年(五族協和)

 これは、1942年9月15日、新京郊外の南嶺総合競技場での建国十周年記念式典に合わせて、満洲国が発行した“慶祝建国十周年”の記念切手のうち、“五族の少女”を題材とした一枚です。

 今回ご紹介の切手は、満洲国が建国の理念として知られる“五族協和”を視覚化したものとして有名な岡田三郎助の「民族協和図」が元になっています。

 「民族協和図」は、1936年11月、満洲国の国務院庁舎の完成にあわせて作成されたもので、大きさ200号の大作。新京の国務院庁舎の正面玄関を入って正面の二階に向かう階段の踊り場の壁面に嵌め込まれていました。「慶祝建国十周年」の記念切手では、壁画の右側の部分が「農夫と漁夫」として三分切手に、中央からやや左側にかけての部分が「五族の少女」として今回ご紹介の切手に取り上げられています。ただし、どちらもオリジナルの作品をそのまま忠実に再現したわけではなく、3分切手は李平和が模写したうえで農夫と漁夫の服装の一部を修正しており、6分切手も山下武夫が模写したうえで蒙古女性の服装部分にも若干の修正を施しています。

 満洲国の建国の理念とされる“五族協和”は、1912年に中華民国が建国を宣言した際に、中国国内の主要五民族である漢族・満州族・蒙古族・回族(西域のイスラム系民族)・チベット族が協同して新国家の建設に当たるという意味で用いた“五族共和”に倣い、そこから回族とチベット族を外して、代わりに日本民族と朝鮮族を入れ、新国家建設の理念として掲げたものです。

 もっとも、満洲国内の五族が実際に平等の待遇に置かれていたわけではなく、明らかに、日本人が優先されていました。

 たとえば、満洲国の国語は中国語(北京語)・モンゴル語・日本語の3言語でしたが、このうち第一国語の地位を占めたのは、人口の圧倒的多数を占めていた漢族の中国語ではなく、人口の5%未満に過ぎない日本人の言語、日本語でした。こうした状況を反映して、たとえば、1941年5月2日、葉書の下部に各種の標語を入れた葉書が発行された際にも、その標語の言語構成は、中文16種類、和文12種類の計28種類となっており、国語の一角を占めていたはずのモンゴル語のものは発行されていません。

 ちなみに、満洲国が発行した全159種の切手のうち、モンゴル語の表示がある切手は、1940年9月10日に「臨時国勢調査」の周知宣伝のために発行された4分切手のみで、“五族”を構成する満州族の満洲語や、朝鮮人の朝鮮語に至っては、満洲国の切手に表示されることは一度もありませんでした。

 なお、満洲国とその切手については、拙著『満洲切手』でもいろいろと分析しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

別窓 | 満洲国 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 満洲帝国:満鉄・満映・関東軍の謎と真実
2014-11-07 Fri 23:16
 ご報告が遅くなりましたが、洋泉社MOOKの「(歴史REAL)満洲帝国 満鉄・満映・関東軍の謎と真実』が刊行されました。僕も、同書には「植物画家の第一人者と満洲切手」と題する一文を寄稿していますので、きょうは、その記事の中から、こんな切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      溥儀訪日(1940・4分)

 これは、1940年6月から7月にかけて、“紀元2600年”の祝賀のために皇帝溥儀が日本を訪問したことを記念して、満洲国が発行した4分切手で、太田洋愛が原画を手がけた最初の1枚です。

 太田は、1910年、愛知県田原町生まれ。1929年、愛知県立成章中学校(旧制)を卒業後、満洲に渡り、奉天教育専門学校で大賀一郎(後に大賀ハスで有名になる植物学者です)に植物画の指導を受けるとともに、牧野富太郎とも親交を結びました。

 翌1930年、中学時代の恩師・石森延男の紹介により、理科教科書の挿絵画家として南満州教育会教科書編集部に入部。満洲国建国後の1933年、満洲国文教部嘱託となり、国定教科書の挿絵主任となります。なお、この頃の太田は、40号の大作『バルガの女』が安井曾太郎から高い評価を得るなど、人物画を得意とする油絵画家として知られていました。

 太田と満洲国の郵政との関係は、1940年の溥儀訪日の記念切手の原画を手がけたことから始まります。

 記念切手を準備する際、郵政総局郵政処企画科は、宮内府、総務庁弘報処、満洲帝国国立中央博物館、協和会中央本部弘報科、満洲事情案内所(観光業務を担当)、日満文化協会、日本海軍武官府などの協力を得て、デザイン制作のための資料を収集しましたが、おそらく、その過程で文教畑の太田との接点が生まれたのでしょう。

 太田の手がけた原画は、1935年の溥儀の最初の訪日時に、つがいの鶴がお召艦“比叡”上空に飛来したことをとらえ、溥儀が「禽獣にいたるまで日満両国の親善を喜ぶものにして、天地の気と人と物と自ずから相通ずるものあり」と発言したというエピソードにちなむもの。切手では、鶴とともに、満洲国の軍艦旗と日本の海軍旗章の一つである長旗を配することで、鶴が“比叡”の上空に飛来したことが表現されています。

 この切手が好評だったこともあり、以後、太田は「臨時国勢調査紀念」、「日本紀元二六〇〇年」(以上、1940年)、「建国10周年」(1942年)など、次々と満洲国の切手の原画を手がけることになりました。

 これと並行して、太田は大陸科学院による満洲植物図鑑編集事業のため、満洲全域を旅して七百数十種類の植物画を制作したほか、関東軍報道隊員として森繁久弥らと各地を回っていましたが、1945年8月1日、35歳で陸軍衛生一等兵として応召。すぐに終戦を迎えてソ連軍の捕虜となり、アングレン(現ウズベク共和国)に抑留されました。

 1948年9月に帰国すると、翌1949年、東京大学教授・前川文夫の依頼により日本樹木図鑑の原画を作成。以後は植物画家としての活動が中心となり、1970年、人事院総裁・佐藤達夫らとともに日本ボタニカルアート協会を創立するなど、植物画の第一人者として知られるようになります。

 太田が満洲時代に切手の原画を手がけたことについては、本人が余技ないしは生活のための副業と考えていたせいなのか、それとも、“侵略”に加担した過去を咎められたくないという心理が働いたせいなのか、そのあたりは定かではないのですが、あまり語られていません。

 しかし、実際には、太田は1958年に郵政省の委嘱を受けて、郵政審議会・切手図案審査専門委員に就任しており、戦後とも切手との縁が切れたわけではありませんでした。ちなみに、この1955年以降、郵政省の部内では、四季折々の花を切手に登場させようという“花切手”の企画が何度か持ち上がり、最終的に、この企画は、1961年に実現されます。残念ながら、資料的な裏付けは取れないのですが、太田と“花切手”の間には、なんらかのかたちで関連があったと考えるのが自然ではないかと思います。

 なお、満洲国とその切手については、拙著『満洲切手』でもいろいろと分析しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 


 ★★★ インターネット放送出演のご案内 ★★★

      チャンネルくらら写真

 毎週水曜日、インターネット放送・チャンネルくららにて、内藤がレギュラー出演する番組「切手で辿る韓国現代史」が配信されています。青字をクリックし、番組を選択していただくとYoutube にて無料でご覧になれますので、よろしかったら、ぜひ、ご覧ください。(画像は収録風景で、右側に座っているのが主宰者の倉山満さんです)

 
 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★

 毎月1回(原則第1火曜日:1月6日、2月3日、3月3日、3月31日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。

 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。

 次回開催は1月6日(都合により、12月はお休みをいただきます)で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『朝鮮戦争』好評発売中! ★★★ 

        朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』、『郵趣』10月号、『サンデー毎日』10月5日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました!


 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★

 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。
別窓 | 満洲国 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 シンガポールで深刻な煙害
2013-06-22 Sat 10:50
 シンガポールで、インドネシア・スマトラ島での野焼きや森林火災の煙による大気汚染が深刻化し、きのう(21日)、汚染度を表す数値が観測史上初めて4段階で最悪の“極めて危険”な水準に達しました。というわけで、きょうは、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      パレンバン・藤田嗣治     
      パレンバン・藤田(裏面)

 これは、大東亜戦争中に満洲・東満総省から岐阜県宛に差し出された軍事郵便用の絵葉書で、絵面には藤田嗣治の戦争画「大空に花と咲く挺身落下傘部隊の活躍(パレンバン)」が取り上げられています。差出日を示すものは何もありませんが、差出地の東満総省は、1943年10月1日、満州国が牡丹江省、東安省、間島省を統合して設置(省会は牡丹江市)し、1945年5月28日に廃止され、間島省と東満省(旧牡丹江省+旧東安省)に分割されていることに加え、「満洲も愈々春が訪れて参りました」との文面があることから、1944年もしくは1945年の4月前後に差し出されたのではないかと思います。

 一方、絵面に取り上げられている戦争画は、1942年2月14-15日にかけて、日本軍の落下傘部隊がスマトラ島・パレンバンの油田・製油所と飛行場に降下して制圧し、パレンバン市全域を占領したというエピソードを表現したものです。落下傘部隊の降下した時期は、ちょうど、シンガポール陥落(2月15日)の直前というタイミングで、激戦地のシンガポールからたなびく黒煙でパレンバン上空も視界不良だったそうです。スマトラの煙がシンガポールに影響を与えている今回のニュースとは逆の構図ですが、どちらにせよ、スマトラ島とシンガポールとの地理的な近さを感じさせる話ですな。

 ちなみに、シンガポールでは、毎年5月から10月にかけて、スマトラ島での野焼きや森林火災による煙が季節風に乗って流れ込む煙害が発生しますが、今年は事態が深刻でシンガポールの中心街は白くかすみ、焦げた臭いが立ち込め、シンガポール政府は屋外活動を控えるよう呼びかけています。きのうは両国の環境相がジャカルタで対応を協議したそうですが、シンガポールは東南アジアの金融・物流の中心地であるだけに、ちょっと心配です。

 さて、現在、夏の終戦商戦に合わせて『蘭印戦跡紀行(仮)』と題する書籍を彩流社の切手紀行シリーズ⑥として刊行すべく準備を進めております。正式なタイトルや発売日、定価などの詳細が決まりましたら、逐次、このブログでもご案内してまいりますので、よろしくお願いします。


 ★★★ ラジオ出演のご案内 ★★★

 6月25日 24:00-24:45(正確には、26日00:00-00:45)
 
 TBSラジオ/AM 954kHz  荻上チキ・Session-22

 上記番組に生放送出演して、切手から見る国際関係や歴史といった類の話をすることになりました。番組そのものは25日22:00スタートですが、僕自身は日付変更線をまたいでからの登場予定です。

 聴取可能な地域の方は、ぜひ、お聞きください。

 
 ★★★ 内藤陽介の最新作 ★★★

       マリ近現代史
         『マリ近現代史』

 北アフリカ・マリ共和国の知られざる歴史から混迷の現在まで、
 切手・絵葉書等で色鮮やかに再現したオールカラーの本格的通史!
 
 amazone-honhontoネットストアHonya ClubJBOOK7ネット・ショッピング紀伊國屋書店版元ドットコムブックサービス文教堂丸善&ジュンク堂書店楽天ブックスなどで好評発売中!


 ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★   

 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。開催日は7月2日、7月30日、9月3日(原則第一火曜日)で、時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★

 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。

別窓 | 満洲国 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 満鉄会、最後の大会
2012-10-19 Fri 22:16
 旧満州国を実質的に支えた戦前の国策会社、南満州鉄道株式会社(満鉄)の元社員や家族でつくる団体「満鉄会」が、高齢化による会員数減少で事実上の解散を決め、きょう(19日)、最後の大会を東京ステーションホテルで開催したそうです。というわけで、きょうは満鉄ネタの中からこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      葉峯線

 これは、1935年12月1日、満洲国の赤峯で使用された“葉峯鉄路通車紀念”の特印です。

 満鉄国線(満州国国有鉄道委託経営線)の葉峯鉄路は、葉柏寿駅から寧城県、元宝山区を経由して赤峰駅へ至る全長146.9kmの路線で、開通当時は、満洲国の熱河省内を南北に走る路線でしたが、現在の行政上は、葉柏寿は遼寧省、赤峯は内モンゴル自治区となっており、鉄道の路線としては葉赤線と呼ばれています。

 工事のための測量が開始されたのは1933年11月5日のことで、翌1934年3月28日から路盤工事が開始されました。工事の完成は1935年7月25日のことでしたが、この間、石脳トンネルの掘削や大凌河橋梁の架設などは難工事として知られ、トンネル工事では、作業員を督励するため、3000円の懸賞金がかけられました。

 今回ご紹介の特印の日附となっている1935年12月1日は葉峯鉄路としての本営業開始の日ですが、特印の使用局が僻地であったことに加え、使用日数も短かったため、満洲国の特印としては珍印として知られています。

 なお、満洲国の切手や郵便については、拙著『満洲切手』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★  T-moneyで歩くソウル歴史散歩 ★★★
   
・よみうりカルチャー荻窪
 10月30日、12月4日、1月29日、2月5日、3月5日 13:00-14:30

 8月の韓国取材で仕入れたネタを交えながら、ソウルの歴史散歩を楽しんでみようという一般向けの教養講座です。詳細につきましては、青色太字をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。

 ★★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★★

 毎秋恒例、切手紀行シリーズの第5巻は、10月25日に発売です!

         『喜望峰』表紙画像
 
  『喜望峰:ケープタウンから見る南アフリカ』

  いままでなかった喜望峰とケープタウンの物語
  美しい風景とウンチク満載の歴史紀行!!     

 ただいま、アマゾンhmvhontoなどでご予約受付中!
 
 なお、本書をご自身の関係するメディアで取り上げたい、または、取り上げることを検討したい、という方は、是非、ご連絡ください。資料を急送いたします。

 
 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★

 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。

別窓 | 満洲国 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 紅い高梁
2012-10-11 Thu 22:49
 日本人作家・村上春樹の授賞が期待された今年のノーベル文学賞は、中国人作家で中国作家協会副主席の莫言が受賞しました。莫といえば、やはり「紅いコーリャン」でしょうから、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      国都建設4分

 これは、1937年9月16日、満洲国で発行された「国都建設記念」の4分切手です。満洲国の切手には、1932年に発行された最初の普通切手以来、しばしば、満洲を象徴する植物として高粱が取り上げられています。そのうち、紅色で最も大きく高粱が描かれているモノということで、持ってきました。

 1932年3月1日に満洲国の建国が宣言された時、新国家の首都は奉天になるであろうというのが大方の予想でした。当時の奉天は人口50万クラスの大都市であり、満洲在住の日本人経済の中心地であるだけでなく、満洲事変後には関東軍司令部も置かれて政治工作の中心地にもなっていたからです。

 したがって、3月10日、新国家の首都が、奉天に次ぐ第2の都市である哈爾浜でもなければ、“満洲の京都”とも称された吉林でもなく、長春に定められた時、奉天の人々は強い衝撃を受けたといわれています。ちなみに、長春が満洲国の新たな首都として“新京”と改称されたのは3月14日のことでした。

 都市としての長春の歴史は、日本の満鉄支配とほぼ軌を一にしているといえます。

 すなわち、1898年、東清鉄道の南部支線として哈爾浜=旅順間の鉄道敷設権を獲得した帝政ロシアは、この地の行政機関として置かれていた長春城の北西に寛城子駅を設けました。1905年、日露戦争のポーツマス条約でロシアから大連=寛城子間の鉄道(これが南満洲鉄道株式会社、すなわち満鉄のルーツです)を譲り受けた日本は、この寛城子駅と長春城の間に鉄道付属地を設定して長春駅を建設します。以後、長春は東清鉄道と満鉄の接続地として、市街地の建設が本格的に進められることになりました。

 とはいえ、満洲国建国の時点での長春は、人口たかだか13万人のローカル都市に過ぎません。それにもかかわらず、関東軍がこの地を“新京”と改名して満洲国の首都としたのには、それなりの理由がありました。

 まず、奉天や哈爾浜は大都市であるがゆえに、旧東三省政府やロシアないしはソ連などの影響力が抜きがたくしみついていました。さらに、満洲全体のバランスを考えた時、奉天はあまりに南に位置しており、哈爾浜はあまりに北に位置しています。

 さらに、奉天や哈爾浜と比べると長春は地価も安く、用地買収が容易であり、新国家の首都としての都市計画を実施するうえでフリーハンドを確保しやすかったという事情もありました。そうした土地を“新京”と名づけ、新たな都市の建設を通じて、満洲国という新国家の存在を内外にアピールすることは統治の技術論からすればきわめて重要なことですが、既存の大都市である奉天や哈爾浜を舞台としては、そうしたイメージ戦略を発動することは困難です。

 こうして、4月11日、国務院の中に国都建設局を設置して本格的な都市計画に乗り出した満洲国政府は、5年後の1937年中の完成を目指して、国都建設第一期事業としておよそ20平方キロの地域の整備に着手。その総予算は3000万円でした。ちなみに、1932年度の満洲国の国家予算は1億1300万円です。

 新たに建設される都市の軸線になったのは、市街地の南北を貫く大同大街と大同大街の西側を併行に走る順天大街の二本の幹線道路でした。

 このうち、大同大街は満洲国建国当初の年号である“大同”にちなんで名づけられたもので、幅54メートル。満鉄の新京駅から南へまっすぐ伸びており、その途中に設けられた外周約1キロの円形広場(大同広場)から四本の道路が放射状に延びています。満洲国の実質的な支配者である関東軍の司令部は、この大同大街と東西方向の幹線道路であった興仁大街の交差点にありました。

 一方、順天大街は皇帝溥儀のために建てられた新宮殿から南に伸びており、幅は60メートル。その両側は官庁街となっています。順天の名は、満洲国の建国宣言にある「新国家建設の旨は、一に以て順天安民を主と為す」から取られました。

 この区画に、まず1933年5月、満洲国政府の第一庁舎が建てられ、翌6月、第二庁舎が建てられます。その後、官衙建設は1934年から本格的に開始され、1936年には満洲国政府の象徴ともいうべき国務院庁舎が完成しました。

 こうして、国都建設第一期事業は、1937年9月16日、完了が宣言されます。この日取りは、建設事業の主役であった国都建設局が1932年に発足した記念日にちなんだもので、それゆえ、当日、溥儀の臨席の下、大同広場で行われた記念式典は、正式には「国都建設五周年記念式典」と呼ばれました。

 今回ご紹介の切手は、これに合わせて発行された4種セットのうちの1枚で、切手の発行に際して、交通部は国都建設事業の成果を広く内外に誇示する意図も込めて、「國都建設の威容及び國民慶祝の状を表現せるものにして、高尚平易なるもの」とする切手図案の懸賞公募を行いました。公募は1937年6月15日に締め切られ、その最高賞を得た石川酵佑の作品が若干の修正を経て切手のデザインとして採用されています。

 このうち、今回ご紹介の切手の主題は、国務院庁舎と満洲国国旗です。切手の構図は、1936年のベルリン・オリンピックのポスターをもとにして作られたもので、切手の両脇には、満洲国の象徴としての高粱と勝利と栄誉のシンボルである月桂樹が描かれました。

 なお、この切手を含む満洲国の切手とその背景については、拙著『満洲切手』でも解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★  T-moneyで歩くソウル歴史散歩 ★★★
   
・よみうりカルチャー荻窪
 10月30日、12月4日、1月29日、2月5日、3月5日 13:00-14:30

 8月の韓国取材で仕入れたネタを交えながら、ソウルの歴史散歩を楽しんでみようという一般向けの教養講座です。詳細につきましては、青色太字をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。

 * よみうりカルチャー北千住の講座受付は終了いたしました。

 ★★★★ 電子書籍で復活! ★★★★

 歴史の舞台裏で飛び交った切手たち
 そこから浮かび上がる、もうひとつの昭和戦史

         切手と戦争

   『切手と戦争:もうひとつの昭和戦史』
    新潮社・税込630円より好評配信中!
    出版元特設HPはこちらをクリック

 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★

 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。

別窓 | 満洲国 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 満洲国建国80年
2012-03-01 Thu 10:49
 1932年3月1日に満洲国が建国を宣言して、きょうでちょうど80年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      満洲国建国5周年(3分)

 これは、1937年3月1日に満洲国が発行した建国5周年の記念切手のうち、3分切手です。

 1932年3月1日に満洲国の建国が宣言された時、新国家の首都は奉天になるであろうというのが大方の予想でした。当時の奉天は人口50万クラスの大都市であり、満洲在住の日本人経済の中心地であるだけでなく、満洲事変後には関東軍司令部も置かれて政治工作の中心地にもなっていたからです。

 このため、3月10日、新国家の首都が、奉天に次ぐ第2の都市である哈爾浜でもなければ、“満洲の京都”とも称された古都・吉林でもなく、長春に定められた時、奉天の人々は強い衝撃を受けたといわれています。ちなみに、長春が満洲国の新たな首都として“新京”と改称されたのは3月14日のことでした。

 都市としての長春の歴史は、日本の満鉄支配とほぼ軌を一にしています。

 1898年、東清鉄道の南部支線として哈爾浜=旅順間の鉄道敷設権を獲得した帝政ロシアは、この地の行政機関として置かれていた長春城の北西に寛城子駅を設けます。1905年、ポーツマス条約でロシアから大連=寛城子間の鉄道(これが南満洲鉄道株式会社、すなわち満鉄のルーツです)を譲り受けた日本は、この寛城子駅と長春城の間に鉄道付属地を設定して長春駅を建設しました。以後、長春は東清鉄道と満鉄の接続地として、市街地の建設が本格的に進められることになりました。

 とはいえ、満洲国建国の時点での長春は、人口たかだか13万人のローカル都市に過ぎません。それにもかかわらず、関東軍がこの地を“新京”と改名して満洲国の首都としたのには、それなりの理由がありました。

 まず、奉天や哈爾浜は大都市であるがゆえに、旧東三省政府やロシアないしはソ連などの影響力が抜きがたくしみついていました。さらに、満洲全体のバランスを考えた時、奉天はあまりに南に位置しており、哈爾浜はあまりに北に位置しています。

 また、奉天や哈爾浜と比べると長春は地価も安く、用地買収が容易であり、新国家の首都としての都市計画を実施するうえでフリーハンドを確保しやすいという面もありました。そうした土地を“新京”と名づけ、新たな都市の建設を通じて、満洲国という新国家の存在を内外にアピールすることは統治の技術論からすればきわめて重要なことですが、既存の大都市である奉天や哈爾浜を舞台としては、そうしたイメージ戦略を発動することはできません。ちなみに、満鉄や中東鉄道の路線からはずれた吉林は、そのアクセスの悪さから、早々に首都候補から脱落しています。

 こうして、4月11日、国務院の中に国都建設局を設置して本格的な都市計画に乗り出した満洲国政府は、5年後の1937年中の完成を目指して、国都建設第1期事業としておよそ20平方キロの地域の整備に着手しました。その総予算は3000万円。ちなみに、1932年度の満洲国の国家予算は1億1300万円です。

 新たに建設される都市の軸線になったのは、市街地の南北を貫く大同大街と大同大街の西側を併行に走る順天大街の2本の幹線道路でした。

 このうち、大同大街は満洲国建国当初の年号である“大同”にちなんで名づけられたもので、幅54メートル。満鉄の新京駅から南へまっすぐ伸びており、その途中に設けられた外周約1キロの円形広場(大同広場)から4本の道路が放射状に延びています。満洲国の実質的な支配者である関東軍の司令部は、この大同大街と東西方向の幹線道路であった興仁大街の交差点にありました。

 一方、順天大街は皇帝溥儀のために建てられた新宮殿から南に伸びており、幅は60メートル。その両側は官庁街となっている。順天の名は、満洲国の建国宣言にある「新国家建設の旨は、一に以て順天安民を主と為す」から取られました。

 ここに、まず1933年5月、満洲国政府の第一庁舎が建てられ、翌6月、第二庁舎が建てられました。その後、官衙建設は1934年から本格的に開始され、1936年には満洲国政府の象徴ともいうべき国務院庁舎が完成しています。

 今回ご紹介の切手は、そうした国都建設第一期事業も完了間近となった1937年3月1日に発行されたものですが、建設が進む国都・新京の様子を象徴するものとして、「大廈高楼に車馬輻輳の影絵を配し」たデザインとなっています。

 “大廈高楼”とは、現代の日本語で言うと“巨大高層建築”くらいの意味になりましょうか。ちなみに、1933年に満洲帝国国務院国都建設局が発行した『国都建設の全貌』では、新たに建設されるべき官庁街を指して次のように説明しています。

 満洲国の官庁の中、文教部、司法部、外交部、国都建設局、財政部、交通部、国道局の洋風建物はすでに荒蕪の一廓に聳立している。その他官衙の造営も間近に迫っている。古代的優雅な殿堂と近代的明朗な大廈高楼が色とりどりの趣向を凝らし、緑樹に埋まる大市街の出現する日も遠くはない。
 
 一方、“車馬輻輳”とは、自動車や馬(車)などが集中して混雑する様子を意味する言葉ですが、切手では画面の下のほうに小さく描かれているだけなので、ややわかりづらいですな。それだけ、新たに造営された“大廈高楼”が巨大であることを示したかったということなのでしょう。昨日完成した東京スカイツリーの巨大さを示すために、下方に豆粒のような人や車を描くのと同じということなのかもしれません。

 なお、満洲国の切手や郵便については、拙著『満洲切手』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 * けさ、カウンターが99万PVを越えました。いつも、遊びに来ていただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。

  ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★
   
 3月下旬から、下記の通り、首都圏各地のよみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。(掲載は開催日順)

よみうりカルチャー柏
 3月23日(金)13:00-15:00(公開講座)
 「ご成婚切手の誕生秘話――切手でたどる昭和史」
 *柏センター移転、新装オープン記念講座です。

 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日
 (毎月第4火曜日)13:30~15:30

 切手でたどる昭和史


・よみうりカルチャー荻窪
 3月27日(火) 13:30~15:30(公開講座)
 「ご成婚切手の誕生秘話——切手でたどる昭和史」

 4月10日、5月8日、6月12日、7月10日、8月7日、9月11日
 (毎月第2火曜日)13:30~15:30

 切手でたどる昭和史


・よみうりカルチャー錦糸町 
 3月31日(土) 12:30-14:30(公開講座)
 皇室切手のモノ語り

 4月7日、6月2日、7月7日、8月4日、9月1日
 (毎月第1土曜日) 12:30~14:30

 郵便学者・切手博士と学ぶ切手のお話 

別窓 | 満洲国 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 切手を作った人々:加曾利鼎造 ②
2009-03-21 Sat 11:54
 ご報告が遅くなりましたが、東京郵便切手類取引所(TOPHEX)による『スター☆オークション』(3月28日実施)のカタログ第3号ができあがりました。同誌のオマケの読み物として、僕が担当している連載「切手を作った人々」は加曾利鼎造の2回目。今回はこんな切手を取り上げています。(画像はクリックで拡大されます)

      満洲・白塔

 これは、1932年7月26日に発行された満洲国の第一次通常切手のうち、遼陽の白塔を取り上げた1分切手です。

 1932年3月1日、満洲国の建国が宣言されると、さっそく新国家の新しい切手の制作作業が開始されます。原画の制作作業は関東庁逓信局の集めた資料を基に東京の逓信博物館の吉田豊を中心に進められ、最終的に遼陽の白塔を取り上げたものと溥儀の肖像を描いたものが関東軍司令官・本庄繁らの承認を得て採用されたのは広く知られています。

 このうち、溥儀の切手は吉田単独の作品でしたが、白塔の切手は、塔の部分を吉田が担当し、周囲の輪郭を加曾利が担当しています。

 切手の原画作者としての加曾利を評する際、文字や輪郭など、いわばデザイン上の脇役の部分にその才能がいかんなく発揮されていたことが指摘されていますが、それは、彼が画家としてではなく純然たる図案家として出発したことと無関係ではないのかもしれません。

 すなわち、加曾利は1923年に東京美術学校の図案科を卒業し、教師などを経て1925年に逓信博物館図案部員として逓信省に入省しています。美術学校時代の卒業制作は「客室及喫煙室附属装飾図案」で、いわゆる絵画作品ではありません。

 画家の作品がそれ自体独立して完結したものであるのに対して、図案家の作品は、彼の“図面”を元に別の人間が製品化することで初めて現実のものとなります。それはちょうど、建築家の作品(設計図)が職人の手を経ない限り、現実の建物としては存在しえないのと全く同じことです。図案家には単なる画力だけではない、別の能力が必要とされるということは、たとえば、著名画家の作品が切手の原画としてそのまま優れているわけではないというケースがままあることからもお分かりいただけるものと思います。

 さて、今回の切手の輪郭に描かれた高粱は、写実的なものではなく(例えば、写実的な高粱をフレームに描く切手としては、満洲の航空切手があります)、多分にデザイン化・簡略化されたものですが、そこにこそ、図案家としての加曾利の個性を感じ取ることができるのではないかと思います。

 なお、満洲国とその切手については、拙著『満洲切手』でもいろいろとご説明しておりますので、そちらもあわせてご覧いただけると幸いです。

 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★  
   
 誰もが知ってる“お年玉”切手の誰も知らない人間ドラマ 好評発売中!
  
 年賀切手   夕刊フジ(イメージ)  『年賀切手』   日本郵趣出版 本体定価 2500円(税込)
 
 年賀状の末等賞品、年賀お年玉小型シートは、誰もが一度は手に取ったことがある切手。郷土玩具でおなじみの図案を見れば、切手が発行された年の出来事が懐かしく思い出される。今年は戦後の年賀切手発行60年。還暦を迎えた国民的切手をめぐる波乱万丈のモノ語り。戦後記念切手の“読む事典”<解説・戦後記念切手>シリーズの別冊として好評発売中!
 1月15日付『夕刊フジ』の「ぴいぷる」欄に『年賀切手』の著者インタビュー(右上の画像:山内和彦さん撮影)が掲載されました。記事はこちらでお読みいただけます。
 
 もう一度切手を集めてみたくなったら 
 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。 
別窓 | 満洲国 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 『郵趣』今月の表紙:満洲国建国1周年
2008-10-29 Wed 14:57
 (財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』2008年11月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、原則として僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

      満洲国建国1周年(10分)

 これは、1933年3月1日に満洲国で発行された“建国1周年”の記念切手のうちの10分(1角)切手です。“建国1周年”の記念切手は4種セット(デザインは2種)で発行され、『郵趣』の表紙にもセットで載せているのですが、地図と国旗のデザインのモノは以前の記事でもご紹介しましたので、今回は旧国務院庁舎を取り上げたモノをご紹介することにします。

 満洲国の国務院庁舎は、後に新国家の首都である新京の都市計画の一環として新築されますが、建国当初は、旧長春市公署の建物が接収され、使用されていました。この建物は、もともとは、清代にこの地域を管轄していた地方役所、道台衙門の建物で1908年の竣工です。満洲国の建国後は国務院のほか、参議府(執政・溥儀の諮問機関。日本の枢密院に相当)、外交部(日本の外務省に相当)、法制局などにも用いられ、国務院の新庁舎完成後は、一般に“旧国務院庁舎”と呼ばれていました。

 切手に取り上げられているのは庁舎の玄関部分で、その両脇には、高粱と並ぶ満洲国の主要農産物である大豆が配されています。

 ところで、今回ご紹介の切手では“建国一周年記念”と“記念”の表示が使われている点も見逃せません。

 実は、“記念”という表記は日本式のものであって、中国語で同様の意味内容を伝える場合には“紀念”と表記するのが一般的です。これは、切手のデザインを担当したのが、日本人の吉田豊であったがゆえの結果なのでしょうが、そうしたところからも、満洲国の支配下で生活している人々は、彼らを統治している政府が日本人によって作られたものであることを結果的に見せつけられていたと解釈することは可能でしょう。

 さて、今回の『郵趣』では、いよいよ今週末から開催の<JAPEX>を前に、満洲・東北切手展とブラジル切手展の2大特別展示の誌上予告特集となっています。このうち、満洲・東北切手展は、リニューアルされた旧水原コレクションをはじめ、日本国内はもとより、台湾・香港から満洲・東北地域に関する超一流のコレクションが一堂に会する滅多にない機会です。また、ブラジル切手展では、世界的な名品として名高い“牛の目”のコレクションをはじめ、こちらも見逃せない内容となっています。みなさまのお越しを心よりお待ちしております。
  

 イベントのご案内

 11月1日(土)-3日(月・祝) 全国切手展<JAPEX>

 ことしも、東京・池袋のサンシャインシティ文化会館と目白の切手の博物館の2ヶ所で開催します。今年の目玉は、何といっても“満洲・東北切手展”ですが、トーク関係での僕の出番は、以下のとおりです。

 11月1日(土)
  13:00 “満洲・東北切手展”特別シンポジウム(池袋会場)
  16:00 特別対談「満洲における写真、絵葉書、郵趣」(池袋会場)
 11月2日(日)
  13:00 “戦後日本切手展”ギャラリー・トーク(目白会場)
  15:00 中公新書ラクレ presents 『大統領になりそこなった男たち』刊行記念トーク(池袋会場)
 11月3日(月・祝)
  11:00 “戦後日本切手展”ギャラリー・トーク(目白会場)

 トークそのものの参加費は無料ですが、<JAPEX>への入場料として、両会場共通・3日間有効のチケット(500円)が必要となります。あしからずご了承ください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★     

 アメリカ史に燦然と輝く偉大な「敗者たち」の物語    
 『大統領になりそこなった男たち』 中公新書ラクレ(本体定価760円+税)
 
 出馬しなかった「合衆国生みの親」、リンカーンに敗れた男、第二次世界大戦の英雄、兄と同じく銃弾に倒れた男……。ひとりのアメリカ大統領が誕生するまでには、落選者の累々たる屍が築かれる。そのなかから、切手に描かれて、アメリカ史の教科書に載るほどの功績をあげた8人を選び、彼らの生涯を追った「偉大な敗者たち」の物語。本書は、敗者の側からみることで、もう一つのアメリカの姿を明らかにした、異色の歴史ノンフィクション。好評発売中!

 もう一度切手を集めてみたくなったら 
 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。
別窓 | 満洲国 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 チチハルからの葉書
2008-06-08 Sun 11:41
 中国黒竜江省斉斉哈爾(チチハル)市で5日に有毒ガスが漏れ、3人が死亡する事故がありました。当初、一部のメディアは旧日本軍の遺棄化学兵器であるかのように報じていましたが、結局、問題のガスは旧日本軍とは何の関係もなかったことが明らかになりました。まぁ、なんだかなぁ…というお騒がせニュースですが、斉斉哈爾がらみということで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      チチハルの葉書

 これは、満洲国時代の1943年7月3日、斉斉哈爾から福岡県宛の葉書です。消印には、斉斉哈爾の属する“龍北(省)”の文字も小さく入っています。使われている葉書は、満洲国の建国10周年にあたる1942年9月15日に発行された“一徳一心葉書”と呼ばれるもので、下部には“死生存亡斷弗分攜”の標語が入れられています。

 満洲国では、1942年3月1日、郵便料金が改正され、葉書料金は2分から3分に値上げされましたが、あらたに新料金用の葉書である一徳一心葉書は、料金改正から半年以上も過ぎてから、ようやく、発行されました。

 葉書の印面は、日本の象徴である菊と満洲国の象徴である蘭をならべて“一徳一心”のスローガンを入れたもの。ここでいう“一徳一心”とは、1935年に最初の訪日から帰国した溥儀が発した“囘鑾訓民詔書”の一節、「朕、日本天皇陛下ト精神一体ノ如シ爾衆庶等更ニ當ニ仰イテ此ノ意ヲ休シ友邦ト一徳一心以テ両国永久ノ基礎ヲ奠定シ東方道徳ノ真義ヲ発揚スヘシ」からとったスローガンで、ここでは、日本と満洲国が一体であり、日本の戦争に満洲国が協力するのは義務であるという主旨で使われています。

 一方、下部に入っている“死生存亡斷弗分攜”の標語は太平洋戦争の開戦時に溥儀が発した詔書の一節「死生存亡斷シテ分攜セス」を引用したもので、やはり、日満両国は生きるも死ぬも一体であることを訴えたものといえます。その意味では、日満の一徳一心を表現した印面のデザインを補強するようなものといってよいでしょう。

 なお、一徳一心葉書の下部に入っている標語には、中文4種・和文4種のバリエーションがありますが、その内容や歴史的背景などについては、拙著『満洲切手』でご説明しておりますので、機会がありましたら、ご覧いただけると幸いです。

 もう一度切手を集めてみたくなったら 
 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。
別窓 | 満洲国 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 満洲切手とTの印
2008-03-17 Mon 23:50
 今年は曜日の関係で、例年だと3月15日締め切りの所得税の確定申告が2日後の17日締め切りで助かりました。手回し良く2月中に済ましたという方も多いのでしょうが、僕なんかは今年もまた〆切ギリギリの提出で、ようやくホッと一息ついたというところです。

 というわけで、今日は“taxe(=tax)”がらみのネタを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      満洲・不足料カバー

 これは、1933年8月、満洲国の支配下にあった延吉から北平(現・北京)宛に差し出されたカバーで30分(=3角)の切手が1枚貼られています。当時、満州国から中国本土宛の封書の基本料金は4分でしたが、延吉のYMCAの封筒を用いているところを見ると、差出人は外国人で(宣教師か?)、手元にあった切手をそのまま使ったのでしょう。30分という金額は、当時の中国人にとっては無駄にするには惜しい金額だったでしょうが、欧米人の感覚からするとたいしたことはなかったのかもしれません。

 さて、1932年3月1日に満州国は建国を宣言しますが、当初は中華郵政の時代の切手がそのまま使われており、満州国独自の切手が発行されたのは1932年7月26日のことでした。ところが、満洲国の存在じたいを認めなかった中国側は、満洲国の発行した切手についても、郵便には無効なラベルとして扱い、満洲国の切手が貼られた中国宛の郵便物については、受取人から不足料金を徴収するという対応をとっています。

 すなわち、1932年7月、東三省からの郵政撤退に際して中国側が発した声明には「(満洲国の支配下にある地域の郵便)業務停止期間中、欧米各地宛の郵便物はシベリアを経由せず、スエズ運河あるいは太平洋経由で逓送するよう改め、万国郵便連合加盟国の郵便局は中国と各国との往来郵便物に対しても、これに準じて扱ってほしい。東三省(=満洲国の支配地域)において発行される切手は、中国郵政総局の許可を得ていないもので、これは絶対に承認せず、この種の切手を貼った各種書状や小包は、すべて料金不足として処理する」との内容が記されています。

 この声明にしたがって、このカバーの場合、郵便物を受け取った中国側は、満洲切手を無効のものとして、カバーの表面に料金の未納・不足を示すTの印を押し、受取人から徴収すべき金額として10(分。ペナルティ込み)と青鉛筆で記しました。なお、Tの文字は、万国郵便連合の公用語・フランス語で郵便料金(=郵税)を意味する“taxe”の略で、郵便物の上にTの表示がある場合には、不足料を徴収すべきであることを意味しています。

 このカバーの場合は、到着地の北平で10分相当の不足料切手(未納・不足分の料金を徴収するために用いられる切手)が貼られており、その金額が受取人から徴収されていることがわかります。このように、中国側としては、満洲国の切手の有効性を否定することによって、切手を発行した満洲国の正統性も否定しようとしていたわけです。 

 なお、このあたりの事情については、拙著『満洲切手』でもいろいろとまとめてみましたので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。
別窓 | 満洲国 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 松花江鉄橋とハルピン
2008-03-01 Sat 07:55
 かねてご案内のとおり、本日10:10から、東京・下高井戸の日本大学文理学部図書館3階オーバルホールにて開催のシンポジウムデジタルアーカイブ活用による東アジア史研究の新たな可能性のセッション1「ハルビン絵葉書アーカイブ」にコメンテーターとして登場します。というわけで、かつてのハルピンの風景をしのばせるものは何かないかと思って、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      松花江

 これは、1937年4月1日に満洲国が発行したエアメール用の39分切手で、松花江鉄橋上空を飛ぶ飛行機が描かれています。前年の1936年12月5日には、これと同じデザインの38分切手が発行されていますが、1937年4月1日の郵便料金改正で今回ご紹介の切手が発行されたため、こちらは短命に終わりました。

 黒龍江省の中南部、北流してアムール川に注ぐ松花江の河畔に位置するハルピンは、19世紀末まではひなびた田舎町でした。しかし、1898年、帝政ロシアが清朝と旅順大連租借条約を結び、ハルビンから大連に至る南満州支線の敷設権を獲得したことで、ハルピンは帝政ロシアによる満洲支配の拠点として急速に発展することになります。今回ご紹介の松花江鉄橋は、ロシアの鉄道がハルピンに入るために架けられたもので、ハルピンのランドマークのひとつでした。

 1905年、日露戦争で勝利を収めた日本は旅順と大連を中心とした遼島半島先端部を“関東州”として租借し、東清鉄道のうち、寛城子(長春)=大連間の鉄道経営とそれに付随する諸権利、ならびに安東(丹東)=奉天間の鉄道(安奉線)の経営権を獲得します。これらの鉄道を経営し、それに付随するさまざまな業務(付属地経営など)を担当する国策会社として1906年に設立されたのが、南満洲鉄道株式会社、いわゆる満鉄です。

 しかし、長春以北の1732.8キロの区間に関しては、日露戦争後も、帝政ロシアが営業権のみならず沿線の鉱山権や林業権も含めて保持。さらに、ロシア革命後の1919年、ボリシェビキ政権はカラハン宣言を発して中国にあった帝政ロシアの権益一切の放棄を表明したものの、中東鉄道(中華民国の成立後、こう呼ばれるようになった)については、一方的にその権益を放棄するのではなく、条約を締結して処理しようとしています。これに対して、中国側は中東鉄道の利権回収を強く主張し、1920年、中東鉄道は中国と露亜銀行(Russo-Asiatic Bank)の共同管理下に置かれ、1924年には民営化されましたが、それでも、長春以北の鉄道経営はソ連が実質的に掌握していました。そして、ハルピンは、そうしたロシアないしはソ連の満洲支配の拠点として重きをなしています。

 こうしたことから、1931年に満洲事変が勃発した際にも、長春以北への関東軍の進軍は容易ではなく、満洲域内の鉄道網は、長春を境界として、ソ連と日本が勢力を二分する状況が続いていました。

 このため、満洲国は建国直後の1932年からソ連との交渉を開始し、1935年3月、ようやく中東鉄道の買収に成功。かくして、中東鉄道は国線(満洲国の国有鉄道)の北満鉄道として満洲国内の他の鉄道と同じく満鉄が経営することになり、満洲の鉄道の一元化がようやく実現。同年9月には、満鉄が世界に誇る豪華特急列車“あじあ号”の運転区間もそれまでの大連=新京間からハルピンまで延長され、ハルピンへの日本人の進出も加速されていくことになります。

 今回ご紹介の切手が発行されたのは、まさに、中東鉄道が満洲国の支配下に入って間もない時期のことで、飛行機とあわせて、ハルピン以北へ満洲国の交通網が拡充されていくことの象徴として、松花江鉄橋が取り上げられたものと考えられます。

 なお、満鉄と切手や郵便については、拙著『満洲切手』でもいろいろとご説明していますので、きかいがありましたら、ぜひ、こちらも合わせてご覧いただけると幸いです。

 ご案内 
 3月5日18:30より、東京・日本橋の香港上海銀行10階の大会議室にて、日本香港協会の春節パーティーが行われますが、その余興(?)として、拙著『香港歴史漫郵記』の内容を元に、切手や絵葉書、郵便物などから古きよき香港をたどるトークを行います。パーティーの会費はお1人6000円ですが、皆様お誘い合わせの上、ぜひご参加いただけると幸いです。(パーティーの詳細やお申し込みはこちらからお願いします)

別窓 | 満洲国 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 禁煙と無煙
2007-03-13 Tue 09:34
 2008年の北京五輪が“無煙(ノースモーキング)五輪”となる方向で進んでいるそうです。で、ひねくれ者の僕としては、“禁煙”ではなくて“無煙”という表現が使われていることに反応してしまって、こんな葉書を引っ張り出してみました。(画像はクリックで拡大されます)

      禁煙拒毒

 この葉書は、1941年5月に満洲国で発行されたもので、表面下部に“アヘンを禁じることが民族の復興につながる”という趣旨の「禁煙拒毒 復興民族」という標語が入っています。

 ここでいう“禁煙”とは、われわれが日常的に使う意味での禁煙ではなくて、アヘンの吸引をやめるということです。

 満州におけるアヘン栽培の歴史は古く、日露戦争後には地元の農民によって大規模なアヘン栽培が行われていたことが関東州民政署の記録にも記されています。

 1932年11月、建国間もない満州国政府はアヘン専売公署を設置するとともにアヘン法を公布し、大豆(満州国最大の輸出商品)の3倍の利益をもたらすともいわれたアヘンの専売に乗り出します。その一方で、満州国政府はアヘン中毒者の根絶を目指してアヘン禁止政策を打ち出したものの、1941年に太平洋戦争が勃発すると対外支払いにはアヘンが使われるようになり、かえってケシの栽培は拡大していきました。

 こうした状況では、アヘン中毒者の根絶は現実の問題として非常に困難で(ほかならぬ皇帝溥儀の皇后婉容が重度のアヘン中毒であったことは広く知られています)、満州国政府としても、はがきという国民に身近な媒体を用いてアヘン吸引の禁止を呼びかけざるを得なかったわけです。

 ちなみに、このとき発行された葉書の標語には、日本語のものと中国語のものがありますが、“禁煙”に関しては中文の標語だけで、和文の標語がありません。これは、アヘン中毒者の多くが中国系の住民(“満人”と呼ばれていた)であったという事情によるものでしょう。

 なお、この葉書を含め、満洲国で発行された標語入りのはがきについては、拙著『満洲切手』でいろいろと論じてみましたので、ご興味をお持ちの方は是非ご一読いただけると幸いです。
別窓 | 満洲国 | コメント:0 | トラックバック:1 | top↑
 満洲国建国75周年
2007-03-01 Thu 00:25
 今日は、1932年3月1日に満洲国が建国されてから75周年にあたります。というわけで、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      満洲国建国1周年(地図4分)

 これは、1933年3月1日に満洲国が発行した建国1周年の記念切手の1枚で、月桂樹に囲まれた満洲国の地図と国旗が描かれています。

 満洲国の国旗は、1928年以前の北京政府の五色旗をベースに作られたもので、黄色の地に他の4色を左上に配したものでした。それぞれの色は、青が東方、赤が南方、白が西方、黒が北方、黄色が中央をあらわしています。しかし、いつの間にか、黄色が満州民族と統一、赤が日本民族および情熱、青が漢民族および青春、白がモンゴル民族および純真、黒が朝鮮民族と決心を表し、国旗全体で“五族協和(日・朝・満・蒙・漢の五民族が協力して平和国家を建設すること)”という建国の理念が表現されたものという俗説が広まり、本来の意味合いはあまり顧みられなくなっていきました。

 なお、今回の記念切手では、“建国一周年記念”と“記念”の表示が使われていますが、実は、“記念”という表記は日本式のもので、中国語で同様の意味内容を伝える場合には“紀念”と表記するのが一般的です。これは、切手のデザインを担当したのが、日本人の吉田豊であったことによるものなのですが、そうしたところからも、満洲国の支配下で生活している人々は、彼らを統治している政府が日本人によって作られたものであることを見せつけられていたといってもよいでしょう。

 さて、満洲国とその切手をめぐるさまざまなドラマについては、昨年刊行の拙著『満洲切手』でさまざまな角度から分析してみました。今年は建国75周年という節目の年ですし、上戸彩主演のドラマ、李香蘭が話題になったということでもありますので、ぜひとも、この機会にご一読いただけると幸いです。
別窓 | 満洲国 | コメント:0 | トラックバック:1 | top↑
 新春愉快 万事如意
2007-02-19 Mon 00:48
 18日は春節でした。というわけで、遅ればせながら、タイトルどおり“皆様、ハッピーな春節を!”というわけで、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      満洲年賀

 これは、1937年12月15日、満洲国が1938年用の年賀切手として発行したもので、縁起物の双喜の文字がデザインされています。

 中国世界では、西暦の1月1日よりも春節の方が重要視されているわけですが、日本の強い影響下に置かれていた満洲国では、年賀切手も日本式に西暦の元日を想定されて発行されたようです。もっとも、元日を想定して切手を発行しておけば、その後の春節にも切手は使えるわけですから、問題ないといえばそれまでなのですが…。

 なお、満洲国では春節のお休み中に発行された切手というのがあります。それは、1942年2月16日発行のシンガポール陥落の記念切手で、この日は前日の15日が春節にあたっていました。このため、たまたま、切手を売り出した各地の郵便局には二重の祝賀気分で記念切手を買い求める長蛇の列ができ、用意された切手のほとんどは発行初日の16日のうちに完売となっています。

 この辺りの詳しい事情については、ぜひとも、昨年刊行の拙著『満洲切手』をご覧いただけると幸いです。
別窓 | 満洲国 | コメント:2 | トラックバック:0 | top↑
 15万アクセス
2007-02-07 Wed 00:43
 おかげさまで、昨日(6日)の午後、カウンターが15万アクセスを越えました。いつも遊びに来ていただいている皆様には、この場を借りて、あらためてお礼申し上げます。

 さて、今日は15万アクセスにちなんで、こんな“15”がらみのモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      2次普通15分

 これは、満洲国が1934年1月に発行した15分(1角5分)切手の使用済で、奉天の大同二年(1933年)2月12日の消印が押されています。

 満洲国最初の通常切手は1932年7月に発行されました。デザインは、低額面は遼陽の白塔、高額面は溥儀の肖像です。このときの切手は突貫作業でつくられたため、制作時間のかからない平版印刷のものでしたが、1934年1月からは、デザインはそのままで凹版印刷の切手が発行されます。

 当時の満洲国交通部(郵政を管轄していた機関)は、デザインの変更がなかったことから、1934年の凹版切手に関しては発行の告示を出していませんが、フィラテリーの世界では、平版の切手を第1次普通切手、凹版の切手を第2次普通切手と分類しています。今回ご紹介しているのは、その第2次普通切手のうちの15分切手です。

 ところで、この切手の国名表示は“滿洲國郵政”となっていますが、この切手が発行されてから3ヶ月と経たない1934年3月1日、満洲国の“執政”であった溥儀は皇帝として即位し、満洲国の国号も満洲帝国と改められました。このため、1934年11月1日には国名表示を“滿洲帝國郵政”と改めた切手が新たに発行されています。

 その結果、“滿洲國郵政”と表示された第2次普通切手のなかには、発売期間が短く、極端に発行枚数の少ないものがあるのですが、その筆頭が今回、ご紹介した15分切手というわけです。

 この切手に押されている消印の日付は、1934年3月1日に溥儀が皇帝として即位する前の時期のものなので、“滿洲國郵政”の表示の切手にはピッタリです。また、この切手のキレイな使用済というのは、なかなか入手に苦労させられるので、その点でもお気に入りの一枚ということで、昨年9月に刊行した拙著『満洲切手』では、今回ご紹介の1枚は表紙を飾るマテリアルとして使いました。同じく表紙に並んでいる第1次普通切手と比べると、紙や印刷の違いがよくわかるのではないかと思います。是非、実際に拙著『満洲切手』をお手に取っていただき、その辺をご覧いただけると幸いです。
別窓 | 満洲国 | コメント:2 | トラックバック:0 | top↑
 白頭山と長白山
2007-02-05 Mon 00:58
 昨日(4日)閉幕した長春の冬季アジア大会では、1月31日のスピードスケート・ショートトラック女子3000メートルリレーで2位に入った韓国チームが「白頭山はわたしたちのもの」といった内容のメッセージを掲げて問題になったのだとか。というわけで、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      長白山

 これは、1935年1月1日、満洲国の建国以来停止されていた満洲国と中国側との間の郵便交換の再開に先立ち、“滿洲帝國郵政”の表示のない切手を発行するという交換再開の条件を満たすために発行された“満華通郵切手”といわれるものの1枚で、満洲と朝鮮との国共に位置する長白山(白頭山)の天池が描かれています。(なお、満洲国と中国との郵便交換の再開をめぐる経緯等については、拙著『満洲切手』をご一読いただけると幸いです)

 長白山は、韓国・北朝鮮では白頭山と呼ばれており、建国神話で朝鮮族の祖とされる檀君が降臨した場所とされています。実際、朝鮮全土を指す表現として“白頭から漢弩(韓国最南の済州島・漢弩山のこと)まで”という表現が使われるくらいで、朝鮮民族にとっては非常に思い入れの強い山です。また、そのことに仮託して、現在の北朝鮮国家が、金正日は白頭山中で生まれたがゆえ(実際の金正日の生誕の地はハバロフスク近郊ですが)、彼は朝鮮民族を支配する特別な能力を有していると主張していることは広く知られています。

 一方、満州族にとっても、長白山は聖地とされており、『清太宗実録』には「先帝発祥于長白山」との記述が見られます。清朝の康熙帝は、華北の人々の信仰の対象であった泰山(人々の霊魂は死後、必ずこの山に帰ると考えられていた)は長白山の支脈であると主張し、少数派の満州族が多数派の漢族を支配する上での重要なシンボルとしてこの山を政治的に活用していました。

 今回ご紹介の切手は、その長白山頂のカルデラ湖・天池から流れ出る黒龍江というモチーフ(“白山黒水”とも言われる)を取り上げており、それによって満洲国の国土を象徴的に表現しているものといえます。

 長白山(白頭山)は、このように、中国・朝鮮の双方にとって重要な意味を持つ山であったため、古くから領有権問題が起こっています。特に、1712年、清が白頭山の南麓に「定界碑」(国境線標識)を立てたことがきっかけとなり、白頭山の北麓こそ中朝の国境と主張する朝鮮側との対立が表面化。以後、国境線問題は解決を見ないまま、中国は清朝から中華民国、中華人民共和国と変転し、朝鮮半島では日本統治時代を経て南北両政府が成立します。

 1950年6月に北朝鮮は武力南侵により朝鮮戦争を引き起こしましたが、同年9月、国連軍の仁川上陸作戦以降、中朝国境地帯にまで追い詰められ、国家滅亡の危機に瀕します。このとき、中国は人民志願軍を派遣して北朝鮮の苦境を救うわけですが、その見返りとして、1962年、秘密裡に朝中辺界条約が結ばれ(もちろん、韓国には相談なしです)、白頭山の半分が中華人民共和国の領土に編入されます。その結果、白頭山頂上の天池もその中間に国境が引かれ、現在では、このラインが北朝鮮発行の地図にも引かれているというわけです。

 こうした経緯もあって、韓国内には朝中辺界条約を無効として白頭山歯全て朝鮮のものだと主張する人たちもいるわけですが、今回の冬季アジア大会に際して、開催国の中国は開会式でも「長白山は中国が誇る自然の宝庫」と紹介するなど、韓国側の主張を一蹴しています。

 まぁ、今回の一件については、韓国側が詫びを入れるかたちでひとまず収まったようですが、韓国社会がそれで納得するかどうか、その辺はなかなか微妙でしょう。まぁ、僕としては、この問題をめぐる議論があらぬ方向にそれてしまって、またもや「中朝国境問題の責任は日本の植民地支配にある」などというわけのわからない日本バッシングが出てきやしないかという一抹の不安がどうしても拭えないのですが…。
別窓 | 満洲国 | コメント:2 | トラックバック:0 | top↑
 興亜はこの日より
2006-12-08 Fri 00:57
 今日(12月8日)は、1941年にいわゆる太平洋戦争の始まった日。というわけで、拙著『満洲切手』の中から、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      満洲国・開戦1周年

 これは、満洲国が1942年12月8日に発行した“大東亜戦争1周年”の記念切手です。“シンガポール陥落”の記念切手と同様に、当時の通常切手に“興亜自斯日(興亜はこの日より)”のスローガンと、開戦日にあたる“康徳八年(1941年に相当)12月8日”の日付を刷り込むスタイルとなっています。

 1942年12月8日、太平洋戦争の開戦一周年にあわせて、満洲国国務院布告第十七号として、『國民訓』が制定されました。その内容は、まず、惟神ノ道や天照大神などの神道のタームを強調した上で、その次に、忠義仁義、節義、廉恥、礼譲などの儒教的な理念を述べ、国家の最終目標として大東亜共栄の達成ということを掲げるものでした。

 満洲国は五族協和に基づく王道楽土の建設を国家目標として発足した国家であり、満洲国政府が掲げるスローガンは、当初、住民の圧倒的多数を占める漢人の世界観を形成している儒教道徳を色濃く反映したものでした。そもそも“王道楽土”という概念そのものが儒教的な理想国家のイメージを表現するものでしたし、建国当初の元号が儒教の理想社会を意味する“大同”と定められたことはその典型的な事例といえます。

 ところが、建国から十年の歴史の中で、日本側の愛顧を取り付けるために汲々としていた溥儀のキャラクターもあって、次第に国家の統治理念に神道の要素が混入されていくことになります。

 太平洋戦争の勃発によって、こうした満洲国の統治理念には、さらに“大東亜共栄圏”の理念が持ち込まれていきます。『國民訓』においては、もはや王道楽土の建設という当初の国家目標が掲げられることはなくなり(強いて言うなら“建国の理想”の中にそれは含まれるということなのかもしれませんが)、大東亜共栄圏の建設を達成することこそが国家の最終目標として掲げられているのは、まさに、上述のような満洲国の思想遍歴を再現したものといってよいでしょう。

 この切手もそうした文脈に沿って発行されたというわけですが、はあつぃて、そうしたプロパガンダの効果のほどやいかに、ということになると、かなり疑問です。

 じっさい、儒教・神道・大東亜共栄圏論が混在する満洲国の国家理念は、それじたい、異質のイデオロギーを寄せ集めた折衷的なものでしたから、通常の人間の頭脳ではほとんど理解不能のものでしかありませんでした。そもそも、国家神道が強調していた“惟神之道”の理念などは、日本人でさえも真に理解していた者はごく僅かしかいなかったのですから…。

 したがって、国家の側が大東亜戦争はアジア解放の聖戦であり、親邦・日本の聖戦に協力することは満洲国の義務であることを強調しても、日本人以外の満洲住民には実感が湧かなかったというのが実態だったと思います。その意味では、“興亜はこの日より”のスローガンが刷り込まれた切手は、そもそも、政府の主張する“興亜”の意味さえ理解されぬままに終ってしまったと見るのが自然なことのように思われます。

 さて、今年9月に刊行した拙著『満洲切手』では、いわゆる太平洋戦争と満洲国の関係についても、切手や郵便物を通じてさまざまな角度から眺めてみました。是非、ご一読いただけると幸いです。
別窓 | 満洲国 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 勤労奉公
2006-11-23 Thu 00:51
 今日は勤労感謝の日。というわけで、“勤労”がらみのモノの中から、こんな1枚を引っ張り出してきました。(画像はクリックで拡大されます)

      勤労奉公法

 これは、1943年5月1日に満洲国で発行された「国民勤労奉公法」の記念切手です。

 1941年12月に始まった“大東亜戦争”は、開戦当初こそ日本軍が先制攻撃の利を活かして破竹の勢いで東南アジア各地を席捲したものの、早くも半年後の1942年6月にはミッドウェイの海戦で手痛い敗北を喫し、連合軍の反撃の前に次第に追い詰められていくことになります。

 満洲国は、正式には“大東亜戦争”に参戦しなかったものの、実際には日本の戦争に動員されており、1942年11月には「国民勤労奉公法」が公布されます。

 国民勤労奉公法は、ナチス・ドイツの全国民勤労奉公制度をモデルとして、兵役に服さない21~23歳の男子に対して、3年間に計12ヵ月間、勤労奉公隊員として国家に対する勤労奉仕を義務づけるというもので、形式的には満洲在住の全民族が対象となっていましたが、実際には、日本人以外の青年を対象としたものでした。

 同法は1943年1月1日をもって施行され、同年4月から実際に国民の動員が始まります。これにあわせて、同年5月1日、制度の周知宣伝をはかるため、“勤労奉公法実施記念”の名目で発行されたのが、今日ご紹介の切手というわけです。

 切手は前年に発行された“シンガポール陥落”ならびに“大東亜戦争一周年”の記念切手同様、当時の通常切手をベースに、“勤労奉公”の文字と奉公隊員の識別章を刷り込むスタイルがとられました。

 勤労奉公制度は、徴兵を定めた国兵法と並んで、満洲国内の漢人や満洲人、モンゴル人などに国家への忠誠心を植え付け、日本の戦争に動員することを目指したものと説明されていますが、その背景には、そうした建前だけでなく、満洲国内で労働力の不足が深刻な問題となっていたという事情も見逃せません。

 もともと、満洲の地は人口が希薄で、この地の開発は主として華北からの漢人移民がその主力を担っていました。満洲国の建国当初、関東軍は“敵性国民”としての漢人の移入を警戒して移民の流入を制限したものの、労働力の不足はいかんともしがたく、1937年に「産業開発5ヵ年計画」が実行に移されると、満洲国政府は計画推進のために積極的に日中戦争下の華北からの漢人労働者を積極的に受け入れるよう方針を転換せざるを得なくなります。

 こうして、満洲国内には華北からの移民が急増するのですが、それに伴い、移民から華北への送金も増加したため、満洲国の華北に対する収支はかえって悪化。そこで、満洲国政府は華北への送金を制限しようとしますが、そうなると、漢人労働者たちにとって満洲国内で働く意味はなくなり、満洲を離れる労働者が急増。結局、1941年になると、満洲国政府は漢人労働者による華北への送金を実質的に無制限として、漢人労働者を引き止めようとしました。

 ところが、1941年になると、華北の日本軍占領地域では戦時インフレが急速に進行し、華北の物価は満洲国よりも割高になります。この結果、出稼ぎに行くメリットをなくした漢人労働者の満洲国への流入には急ブレーキがかかってしまうのです。

 さらに、日本が米英と戦争を始めたことで、従来以上に日本への協力を迫られた満洲国は、1942年になると、いやおうなしに国内の労働力を徹底的に動員せざるをえない状況に追い込まれてしまいました。

 しかし、もともと、満洲国内では日本人・朝鮮人以外の人々の生活は概して苦しく、勤労奉仕に応じる余裕などなかったというのが実情でした。このため、法令に違反して勤労奉仕をサボタージュし、または逃亡する者が続出。労働者の人数を確保できなくなった体制側は、動員した労働者の健康や福利を犠牲にしていたずらに管理を強化し、そのことが更なる逃亡者を生み出すという悪循環に陥っていくことになるのです。

 今年9月に刊行の拙著『満洲切手』では、そうした“大東亜戦争”の時代の満洲国の人々の生活についても、切手や郵便物を通じて、さまざまな角度から考えてみました。是非、ご一読いただけると幸いです。

別窓 | 満洲国 | コメント:3 | トラックバック:0 | top↑
| 郵便学者・内藤陽介のブログ | NEXT
<!-【↑2カラムテーブルここまで↑】-->
copyright © 2006 郵便学者・内藤陽介のブログ all rights reserved. template by [ALT-DESIGN@clip].
/