2017-01-24 Tue 16:12
昨年(2016年)12月の大統領選挙で落選しながらその後も大統領職に居座り続け、今月21日に赤道ギニアに亡命した、ガンビアのヤヒヤ・アブドゥル=アズィーズ・ジェムス・ジュンクング・ジャメ前大統領が、国庫からおよそ5億ダラシ(12億5000万円相当)の資金を持ち出したため、現在、ガンビア政府の国庫にはほとんど資金が残っていないことが、きのう(23日)までに明らかになりました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1997年にガンビアが発行した“経済発展”の切手のうち、首都バンジュールのバンジュール国際空港を取り上げた1枚で、左上には、今回亡命したジャメ大統領の肖像も入っています。 英領植民地だったガンビアは、1965年2月、英国女王を元首とする英連邦王国として独立。1970年には共和制に移行し、自治政府時代からの首相だったダウダ・ジャワラが大統領に就任しました。 ガンビアが独立した1965年、カニライに生まれたジャメは、1984年、ガンビア軍に入隊し、1992年に憲兵隊指揮官に任命(階級は注意)され、1994年7月22日、クーデターにより、大統領のジャワラから政権を奪います。クーデター後、ジャメを議長とする軍事暫定統治評議会は憲法を停止し、国境を封鎖すると同時に戒厳令を布告。1996年の“民主選挙”で、ジャメは与党・愛国再建同盟を設立して大統領選挙に出馬して当選し、以後、昨年12月まで、22年間に及ぶ長期独裁政権を維持しました。 ジャメは保守的で厳格なムスリムということなのですが、2000年代後半以降、その政策にはエキセントリックなものも目立っています。 すなわち、2007年1月、ジャメはハーブとバナナを煮出して“エイズの治療薬”を作ったと発表し、エイズ患者に対して、抗ウイルス薬治療を止めて、この“薬”を服用するように命じています。当然のことながら、この薬はエイズ治療には全く役に立たず、専門家は「“(ジャメの)治療薬”は非科学的であり、患者を危険にさらすだけでなく、他の人への感染の危険性もある」と批判しましたが、ジャメはこれを無視し、薬の危険性を訴えた国際連合開発計画ガンビア代表のファザイ・ガラジンバを国外退去処分にしています。 また、2008年5月15日には同性愛を禁止する法律を制定し、国内の同性愛者に対し「国外退去か、頭を切り落とされるか」を選ぶように通告。さらに、2009年には、親族の死に魔女が関与していると疑い、ギニアから呪術師を呼び寄せ魔女狩りを開始。これにより、1000人以上の女性が拉致され、幻覚剤の投与や呪術師からの強姦を受け、少なくとも8人が死亡しましたが、野党の指導者がこれを批判するとスパイ容疑で逮捕しています。 こうした圧制に加え、独自の資源に乏しいガンビアは経済的にも苦境が続いたことから、次第に、ジャメ政権に対する国民の不満は鬱積。2016年12月1日の大統領選挙では、野党候補のアダマ・バロウに敗れます。 選挙結果を受けて、ジャメは、いったん敗北宣言を行ったものの、その後「不正があったので受け入れられない」と態度を一転させ大統領職に居座り続けます。2017年1月19日にジャメの任期が切れても、ジャメは一向に職を辞する気配を見せなかったため、バロウは隣国セネガルのガンビア大使館で大統領就任式を行わざるを得ませんでした。 この時点で、ジャメはなおも大統領職に居座り続けたため、国連安保理事でバロウ支持の決議が採択されたことを受けて、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)加盟の周辺諸国が軍事介入を決定。1月20日、ギニア大統領のアルファ・コンデとモーリタニア大統領のムハンマド・ウルド・アブデルアズィーズがバンジュールに赴いて直接ジャメを説得。これを受けて、翌21日、ジャメは国営テレビを通じて「アフリカ、そして世界各地で紛争が続いているが、ガンビアは平和だ。この平和を守らなければいけない」、「1人のムスリムとして、そして愛国者として、流血の事態は避けなければならない。良心に従い、この偉大な国の権力を手放すことにした」と退陣を表明し、今回ご紹介の切手に取り上げられた空港からガンビアを出国し、ギニア経由で赤道ギニアに亡命しました。ちなみに、ジャメが出国する直前の空港では、高級車が貨物機に積み込まれるのが目撃されています。 ジャメの亡命に先立ち、ECOWASとアフリカ連合(AU)、国連は、①ジャメとその家族の尊厳と身の安全、人権を侵害しかねない「法的措置」を一切取らない、②ジャメにガンビアへの帰国の自由を認め、ジャメが“合法的に”所有する財産を没収することもないとの共同宣言を出していますが、国庫からの資金の持ち出しは明白な犯罪ですから、当然、没収の対象となります。ただし、ジャメの亡命先である赤道ギニアは、国際刑事裁判設立条約である“ローマ規程”に署名していないため、赤道ギニア当局がジャメの身柄をガンビア側に引き渡す可能性は低いとみられており、バロウ新政権にとっては、財政難に頭を抱えながらの苦難の船出となりました。 ★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』 ★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2010-03-10 Wed 11:50
いわゆる日米密約問題を検証してきた外務省の有識者委員会はきのう(9日)、岡田克也外相に報告書を提出。報告書は、最大の焦点だった“核持ち込み”に関しては、日米両国の間に解釈のずれがあり明確な合意は確認できなかったものの、後に核搭載艦船の日本寄港を事実上黙認する“暗黙の合意”が形成されたと判断し、広義の密約に該当すると結論づけました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、アフリカの小国・ガンビアが発行した“ノーベル賞受賞者”の切手の1枚で、1974年の平和賞受賞者として佐藤栄作が取り上げられています。ただし、名前のローマ字表記は“Eisaku”のEがBの誤植になっており、結果として佐藤B作の切手となってしまったという間抜けな1枚です。 さて、佐藤栄作は、1901年、山口県に生まれました。同じく戦後に首相を務めた岸信介は次兄(養子縁組で岸姓を名乗る)です。 1924年に東大法学部を卒業後、鉄道省に入省。1947年に運輸次官なり、翌1948年に退官して民主自由党に入党し、第2次吉田茂内閣の官房長官となりました。翌1949年の衆院選で初当選し、党の政務調査会長、幹事長のほか、吉田政権下で郵政相、建設相を歴任しました。1954年に発覚した造船疑獄事件では、与党幹事長時代の汚職で逮捕必至の状右京に追い込まれましたが、法相・犬養健の指揮権の発動により免れたことは有名です。 1955年の保守合同で自由民主党が発足した際には、吉田茂に殉じて入党を拒否しましたが、吉田の政敵であった鳩山一郎(初代自民党総裁)が引退した後の1957年に自民党に入党し、第2次岸内閣で蔵相、第2次池田勇人内閣で通産相を歴任しています。 1964年7月の自民党総裁選では池田と争い敗れましたが、同年11月、池田の病気による引退のあとを受けて首相に就任。1972年7月まで3期・7年8ヶ月にわたる長期政権を担当しました。総理としての業績としては、アメリカとの沖縄返還交渉をはじめ日韓基本条約締結、大学紛争や公害への対策などが挙げられます。 1972年の沖縄返還を花道に政界を引退した後、1974年、首相在任中に非核三原則を提唱するなど太平洋地域の平和に貢献したとして、ノーベル平和賞を受賞しましたが、翌1975年6月、脳卒中で亡くなりました。 今回の報告書は、佐藤のノーベル平和賞の受賞理由の大きなポイントとなった非核三原則のうち、“持ち込ませず”の部分が早い段階から空文化していたことを明らかにしたわけですが、それでは、当時の時代状況の中で、本当にアメリカに核を持ち込ませずに同盟関係を破棄する(もちろん、沖縄は帰ってきません)という選択や、現在とは比べ物にならないほど国民の核アレルギーが強い中で米軍による核の持ち込みを容認するという選択肢を取りえたかというと、そのどちらも現実的ではなかったと思います。 したがって、今回問題となっている“密約”は政治的にやむを得ない措置であったと評価すべきで、その結果として、佐藤のノーベル平和賞の権威が失われても、佐藤の政治的業績にまで傷がつくということにはならないでしょう。このあたりは、金正日との“頂上会談”を金で買ったと非難された金大中のノーベル平和賞と同列に扱うのは気の毒というものです。もっとも、ノーベル賞を受賞しても、名前の間違った切手しか発行されないという点では、佐藤のノーベル賞の権威など、外国人の目から見れば、そもそも、あってなきが如しということだったのかもしれませんがね。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 総項目数552 総ページ数2256 戦後記念切手の“読む事典”(全7巻) ついに完結! 『昭和終焉の時代』 日本郵趣出版 2700円(税込) 2001年のシリーズ第1巻『濫造濫発の時代』から9年。<解説・戦後記念切手>の最終巻となる第7巻は、1985年の「放送大学開学」から1988年の「世界人権宣言40周年年」まで、NTT発足や国鉄の分割民営化、青函トンネルならびに瀬戸大橋の開通など、昭和末期の重大な出来事にまつわる記念切手を含め、昭和最後の4年間の全記念・特殊切手を詳細に解説。さらに、巻末には、シリーズ全7巻で掲載の全記念特殊切手の発行データも採録。 全国書店・インターネット書店(amazon、bk1、JBOOK、livedoor BOOKS、7&Y、紀伊国屋書店BookWeb、ゲオEショップ、楽天ブックスなど)で好評発売中! |
2008-06-30 Mon 13:33
(財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』の2008年7月号は、おそらくできあがっているものと思います。現在、ルーマニアをふらふらしている僕としては現物を確認するすべはないのですが、とりあえず、月が変わってしまう前に7月号の表紙のことを書いておいた方が良いでしょう。
雑誌『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1869年3月にアフリカのガンビアで発行された1番切手です。 16世紀以降、イギリスはアフリカ大陸西岸のガンビア川の周辺に進出しましたが、気がつくと周囲は次第に仏領に取り囲まれるようになったため、1783年、同川流域の細長い地域を英領ガンビアとして確保することになりました。現在、セネガルの領内にガンビア川の周囲だけ、くさびを打ち込むようにガンビア国家が存在しているのはこうした事情によるものです。 さて、1866年、ガンビアの行政官だったパティはロンドンの植民地省に切手の使用許可を求めました。植民地側の予算はわずか100ポンドでしたが、この金額では版を作るだけで吹っ飛んでしまいます。当然、偽造防止対策を施した精巧な切手なんてできっこありません。 ところが、ガンビアに先立ち切手発行が決まっていたヘリゴランドでは、ベルリンの帝国印刷会社が30ポンド弱で切手製造を受注していました。このため、植民地省はロンドンのデラルー社に相談を持ちかけましたが、デラルー社は、ヘリゴランドの切手は偽造対策がなにも施されていないことを指摘。同様のスタイルで作られた旧サルディニア切手を示して、「この切手はその後、多くの偽造が横行し困ったことになりましたよ(だから、こんな切手はおやめなさい)」という趣旨の返答を送っています。そのうえで、「その値段ならこの程度のものしかできませんよ」ということで、シルエットをエンボス(型押し)をしただけの切手制作の見積もりを提出しました。デラルー社としては、植民地省側が相場というものを理解し、まともなビジネスの話を持ってくることを期待していたと思われます。 ところが、デラルー社の案に相違し、植民地省はヘリゴランドと同様の切手製造を同社に発注。このため、同社はやむなく、茶色に女王の肖像などを型押ししただけの切手を製造することになりました。 こうして1869年3月18日に発行されたガンビア最初の切手は、刷色とエンボスの組み合わせがカメオのブローチのように見えることから、現在では、“カメオ・エンボス”ないしは“ガンビア・カメオ”の名で収集家に親しまれています。まぁ、切手のことを“紙の宝石”と称することもありますから、ガンビアのカメオというのもそれなりに魅力的なネーミングではありますな。 お知らせ 7月1日付で福村出版から刊行予定の『韓国現代史:切手でたどる60年』は、すでに本として出来上がったとの連絡が出版元からメールで入りました。が、いかんせん、ルーマニア滞在中で実物を確認できませんので、詳細は、あさって7月2日に帰国した後で、ご紹介します。 もう一度切手を集めてみたくなったら 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。 |
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