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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 パウエル米元国務長官、亡くなる
2021-10-19 Tue 09:42
 米軍制服組トップとして湾岸戦争を指揮した英雄で、ブッシュJr.政権では黒人(ジャマイカ系)初の国務長官を務めたコリン・パウエル氏(以下、敬称略)が、きのう(18日)、新型コロナウイルスの合併症のため亡くなりました。享年84歳。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      米国・砂漠の嵐作戦(1991)

 これは、1991年7月2日、米国が発行した“砂漠の盾”および“砂漠の嵐”作戦勝利の記念切手で、両作戦の従軍記章が取り上げられています。

 1990年8月2日、イラク軍がクウェートに侵攻し、いわゆる湾岸危機が発生すると、国連安保理はイラクの即時撤退を求める国連決議第660号を採択。これを受けて、米国は非常事態宣言を発し、米中央軍のサウジアラビア防衛計画を立案します。

 その後、国連決議第665号(イラクに対する禁輸措置のため、陸海空の軍事的支援を執行する内容)が採択されると、米国は有志各国を募り、バーレーン国内に軍司令部を置いて、延べ50万人の多国籍軍がサウジアラビアのイラク・クウェート国境付近に進駐し、イラクのクウェート侵攻に対する本格的な軍事的対抗を開始しました。これが“砂漠の盾”作戦です。

 その後、11月29日に国連安保理は翌1991年1月15日を撤退期限とした国連決議第678号(いわゆる「対イラク武力行使容認決議」)を採択。その期日までにイラク軍のクウェートからの撤退が完了しなかったため、1月17日、米英をはじめ、サウジアラビア、エジプト、シリアなどのアラブ諸国を含む28ヶ国からなる多国籍軍がクウェイトならびにイラクの軍事・通信施設に対していっせいに空爆を開始しました。これが、いわゆる「砂漠の嵐」作戦です。

 多国籍軍の攻撃に対してイラクは、リンケージ論(「イスラエルのパレスチナ侵略を容認しながら今回のクウェート併合を非難するのは矛盾している」との主張)を根拠として、イスラエルにもスカッド・ミサイルを打ち込み、イスラエルを強引に戦争に引きずり込もうとしましたが、イスラエルが報復を自重したことで、湾岸戦争を対イスラエル戦争とリンクさせようとするイラク側の意図は完全に空振りに終わrました。

 結局、多国籍軍の圧倒的な攻撃の前にイラク側はほとんど抵抗らしい抵抗もできぬまま惨敗。空爆開始から約1ヵ月後の1991年2月24日、多国籍軍が地上攻撃を開始すると、3日後の27日、クウェイトは奪回され、イラク政府指導部はクウェイト併合無効の国連決議を受け入れました。

 こうして湾岸戦争は終結し、3月2日、ブッシュ(父)米大統領は「ヴェトナムの亡霊はアラビア半島の砂漠に埋もれ去った」とラジオで演説。ヴェトナム敗戦後の米国民の屈辱感は湾岸戦争での勝利により拭い去ることができたと高らかに宣言しました。

 1989年10月1日、統合参謀本部議長に就任したパウエルは、同年12月20日から翌1990年1月3日まで、パナマ在住米国民の保護、パナマ運河条約の保全、ノリエガの拘束を主目的とした“ジャスト・コーズ作戦”を指揮し、ノリエガ独裁政権は崩壊させたのに続き、湾岸危機・湾岸戦争(“砂漠の盾”作戦+“砂漠の嵐”作戦)を成功に導き、1993年9月30日に退役。その実績から、1996年の米国大統領選挙前には幅広い層からの圧倒的な支持を得たものの、「黒人が大統領になったら暗殺される」とする妻の反対もあり出馬を見送りました。

 その後、2000年の大統領選挙ではブッシュJr.陣営の外交問題アドバイザーを務め、ブッシュJr.の当選後、黒人初の国務長官に任命され、副長官のリチャード・アーミテージとともに穏健外交路線を志向しましたが、対外強硬派が主導する政権内で徐々に孤立し、2005年に辞職。政界引退後も、“リベラルに理解のある共和党員”として社会的な家協力を維持しました。

 謹んでご冥福をお祈りいたします。

 * 昨日(18日)の文化放送「おはよう寺ちゃん」の僕の出番は、無事、終了いたしました。リスナーの皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。次回は来週月曜日・25日に登場の予定です。引き続きよろしくお付き合いください。


★ 放送出演・講演・講座などのご案内★

 10月25日(月) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。


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 プエルトリコ、死者数46倍の大幅修正
2018-08-29 Wed 12:26
 プエルト・リコ米自治連邦区政府(以下、プエルト・リコ政府)は、28日(現地時間)、昨年9月に襲った大型ハリケーン“マリア”による死者数について、昨年12月の公式発表で64人とされていた数字を、約46倍の2975人に大幅修正。リカルド・ロセージョ知事はマリアへの自身の対応に「間違いがあったことを認める」と謝罪しました。というわけで、プエルト・リコに関連して、この1枚です。(画像はクリックd拡大されます)

      米国・ムニョス・プエルトリコ知事

 これは、1990年に米国が発行した額面5セントの普通切手で、プエルト・リコ最初の民選知事、ルイス・ムニョス・マリンの肖像が取り上げられています。

 1898年4月、米西戦争が勃発すると、同年8月、プエルト・リコは米軍に占領され、戦後は米国に割譲されます。以後、プエルト・リコは米国大統領が知事を任命する米直轄領となりましたが、これを受けて、プエルト・リコ政界は、完全独立派、米国の州への昇格を求める州昇格派、現状のまま自治権の拡大を求める自治権拡大派の三潮流が生まれます。

 世界恐慌下の1930年代、プエルト・リコでは自治権拡大派が勢力を拡大し、1938年には自治権拡大派のルイス・ムニョス・マリン(今回ご紹介の切手の人物です)がプエルト・リコ人民民主党を結成。ところが、ムニョスは、1946年、人民民主党の綱領から完全独立の目標を削除したため、これを不満とする独立派がプエルト・リコ独立党を結成します。

 1948年に初めて実施されたプエルト・リコ知事の直接選挙では、ムニョスが当選したものの、これを機に、独立運動が激化。1950年10月30日には、急進独立派のペドロ・アルビス・カンポス率いるプエルト・リコ国民党の叛乱が発生し、ハユヤでは“プエルト・リコ自由共和国”の独立が宣言されました。自由共和国は米軍の派兵により鎮圧されたが、首府サンフアンではムニョスの暗殺未遂事件も発生。一連の反乱によって、28名が死亡し、49名が負傷したほか、1950年11月1日には、ワシントンD.C.で国民党員2名によるトルーマン暗殺未遂事件が発生しています。

 一方、この時期は朝鮮戦争の時期にあたっていましたが、朝鮮戦争に動員された米軍の兵力48万のうち、プエルトリコ出身者(その多くは志願兵)は6万1000名を占めていました。この数字には、プエルトリコから米本土に渡った移民の2世・3世は含まれていませんから、“プエルトリコ人”とのアイデンティティを有する者を含めると、その数はさらに増えるはずです。

 プエルトリコ出身の志願兵の多くは第65歩兵連隊に所属。1950年8月27日、プエルトリコを出発しました。9月23日に釜山に到着後、兵士の全員がヒスパニックであるにもかかわらず、指揮官は白人であったため、上下の意思疎通が必ずしもスムースではないという困難を抱えながらも、共産側と勇敢に戦い、中国人民志願軍の参戦によって韓国・国連軍が北緯38度線以南に撤退を余儀なくされた後、1951年1月のキラー作戦で、最初に漢江渡河に成功した部隊となりました。

 こうしたこともあって、1952年、、米国はプエルト・リコを“コモンウェルス”として内政自治権を付与。ムニョスも米国資本を誘致し、工業化を進めたほか、1953年には、トルーマン暗殺事件に関与したとして懲役80年の有罪判決を受け、収監されていたアルビスを恩赦で釈放するなど、宥和政策を展開します。

 しかし、国民党強硬派はあくまでも完全独立を主張し、1954年3月1日、ロリータ・レブロン以下4名がワシントンの米下院を襲撃し、プエルトリコの旗を掲げる事件が発生しました。

 事件後、米国とプエルトリコ政府は国民党の活動家が根こそぎ逮捕したため、治安状況は落ち着きを取り戻します。ただし、1965年にムニョスが知事を退任するまでに、プエルト・リコ内では十分な雇用が創出されなかったため、多くの農村人口がニューヨークなどの、アメリカ合衆国の大都市に移住していくことになります。

 なお、プエルトリコの独立派としては、国民党以外にも、1946年にヒルベルト・コンセプシオン・デ・ガルシアが結成したプエルトリコ独立党があります。同党は暴力を否定し、選挙で多数を獲得することで独立を目指す姿勢を取っていますが、ビエケス島からの米軍の撤退と米軍施設の返還、キューバにある米軍のグアンタナモ基地の返還要求、米軍の施設の撤退運動を行い投獄されたプエルトリコ人や、“米国に対する反逆の罪”により投獄された政治犯の釈放運動への支援も行っており、キューバ政府とは協調関係にあります。

 ちなみに、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、キューバの革命政権ならびにチェ・ゲバラとプエルト・リコとの関係についても、いろいろな角度からまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 

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 ホイットニーのアメリカ国歌
2012-02-12 Sun 23:45
 グラミー賞など数々の賞を受賞したアメリカの人気歌手で女優のホイットニー・ヒューストンさんが亡くなりました。享年48。謹んで、ご冥福をお祈りします。というわけで、きょうは彼女を偲んで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        1991年スーパーボール

 これは、1991年1月27日、フロリダのタンパ・スタジアムで行われた第25回スーパーボールに際して、地元タンパ局で使われた記念印です。記念印が押されている切手つき封筒(部分)は、前年の1990年9月に発行されたホログラム式の印面のもので、アメリカの国技としてのアメリカン・フットボール(以下、アメフト)がデザインされています。

 スーパーボールは、アメフト最大のプロリーグであるNFLの前年のレギュラーシーズンおよびプレーオフを勝ち上がった2チームが戦って、アメフトの世界一を決めるもので、その第25回決勝戦は、ニューヨーク・ジャイアンツが20-19の1点差でバッファロー・ビルズを下し、4年ぶり2度目の優勝を果たしました。

 この時の大会では、開会に先立ち、ホイットニー・ヒューストンがアメリカ国歌を披露しましたが、この時の彼女の歌唱は歴史に残る名演として語り継がれ、2001年のアメリカ同時多発テロ事件の直後にはチャリティとして再リリースされたほどです。

 歴史に残るアメリカ国歌の名演といえば、1969年のウッドストックでのジミ・ヘンドリックスのギター演奏が有名です。ただし、彼の演奏は、当時のベトナム反戦の世相を反映し、泥沼化したベトナム戦争への批判を込めたものとなっており(空襲や人々が逃げ惑うようすもギターで表現されています)、1991年1月の湾岸戦争でアメリカ国民の愛国心が高揚していた中でのホイットニーの歌唱とは対極にあるといってよいでしょう。もっとも、純粋に音楽として聞いている分には、どちらも鳥肌が立つほどの素晴らしいものであることには変わりないのですがね。

 わが国でも、国際的なスポーツ・イベントに際しては有名なアーティストが『君が代』を歌っていますが、1991年のホイットニーのアメリカ国歌に匹敵するほどの名演というのがあれば、ぜひ、聞いてみたいですな。
  
 まお、ホイットニー・ヒューストンは、グレナダやギニア―ビサウなどの、いわゆる“いかがわしい国”の切手に何回か取り上げられていますが、そうした切手が世に出てくる背景については、拙著『事情のある国の切手ほど面白い』でも解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 ★ TBSラジオ・ニュース番組森本毅郎・スタンバイ(2011年11月17日放送)、11月27日付『東京新聞』読書欄、『週刊文春』12月1日号、12月1日付『全国書店新聞』『週刊東洋経済』12月3日号、12月6日付『愛媛新聞』地軸、同『秋田魁新報』北斗星、TBSラジオ鈴木おさむ 考えるラジオ(12月10日放送)、12月11日付『京都新聞』読書欄、同『山梨日日新聞』みるじゃん、12月14日付『日本経済新聞』夕刊読書欄、同サイゾー、12月15日付『徳島新聞』鳴潮、エフエム京都・α-Morning Kyoto(12月15日放送)、12月16日付『岐阜新聞』分水嶺、同『京都新聞』凡語、12月18日付『宮崎日日新聞』読書欄、同『信濃毎日新聞』読書欄、12月19日付『山陽新聞』滴一滴、同『日本農業新聞』あぜ道書店、[書評]のメルマガ12月20日号、『サンデー毎日』12月25日号、12月29日付エキレピ!、『郵趣』2012年1月号、『全日本郵趣』1月号、CBCラジオ「朝PON」(1月26日放送)、『スタンプマガジン』2月号、『歴史読本』2月号、『本の雑誌』2月号で紹介されました。

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 大統領になりそこなった男たち:ウェンデル・ウィルキー
2008-09-10 Wed 17:20
 雑誌『中央公論』10月号が発売になりました。僕の連載「大統領になりそこなった男たち」では、今回は、この人物を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

      ウェンデル・ウィルキー

 これは、1992年に発行されたアメリカの75セント切手で、1940年の共和党大統領候補、ウェンデル・ウィルキーが取り上げられています。

 ウィルキーは1892年2月18日、イリノイ州エルウッドの出身。インディアナ大学を卒業して弁護士となり、ニューヨークを拠点に、おもに大企業の顧問弁護士として活動していました。

 当初、彼は民主党員で、1932年の大統領選挙の際には、地元ニューヨーク出身のルーズベルトの選挙運動にも積極的にかかわっています。ところが、1933年に発足したルーズベルト政権が発動したニューディール政策は、彼の目には、国家が市場経済に介入しすぎて国家の役割が肥大化するものと映りました。また、なにより、企業間の自由な競争を制限しようとする政策が次々に導入されていたのも耐えがたいことでした。このため、国家の将来に強い危機感を持ったウィルキーは、ルーズベルト政権を打倒するため、1939年に民主党から共和党に鞍替えして自ら大統領を目指すことを決断します。

 それまで政治的なキャリアが全くない、無名の一弁護士がいきなり大統領を目指すなど、常識的に考えればかなり無謀な挑戦なのですが、ウィルキーは地道な運動を展開し、次第に支持を拡大していきます。

 当時の共和党で大統領選挙の有力候補と目されていたのは、ロバート・タフト(上院議員)やトマス・デューイ(ニューヨーク州知事)でした。

 ときあたかも、1939年9月に第二次欧州大戦がはじまり、ナチス・ドイツの電撃作戦に蹂躙されたヨーロッパ諸国に対する国民の同情が集まる中、タフトやデューイらプロの政治家たちが欧州への不関与を唱えて孤立主義の立場をとったのに対して、ウィルキーはイギリスを支援してドイツに対して強硬姿勢を取るとともに、徴兵制を実施して軍備のさらなる拡充を図るよう主張します。こうした対独強硬路線は、結果的に1940年5月以降、ナチス・ドイツの電撃作戦に蹂躙されたヨーロッパ諸国に同情する国民の支持を集めることになり、当初は単なる泡沫候補にすぎなかったウィルキーは共和党大会が開かれる一週間前のギャラップ社の世論調査では、デューイに次いで共和党の大統領候補にふさわしい人物の第2位に急浮上しました。

 6月24日から28日まで、フィラデルフィアで開かれた共和党の全国大会では、基調講演を行ったミネソタ州知事のハロルド・スタッセンがウィルキー支持を表明。大統領候補を決めるための第1回目の投票では、ウィルキーは4位でしたが、投票回数を重ねるごとに当初1位だったデューイが失速し、候補指名は次第にウィルキーとタフトの争いになります。そして、最後はミシガンやペンシルバニア、ニューヨークなど大票田の代議員たちは、世論の動きとウィルキーの勢いに期待して、デューイ支持からウィルキー支持へと乗り換えたため、ウィルキーがタフトを圧倒して共和党の大統領候補に指名されました。

 これに対して、現職として異例の3選を目指していたルーズベルトは、ウィルキーの主張をいれるかたちで国防予算の増額と徴兵制の導入を提案。すると、驚くべきことに、ウィルキーは国益第一の立場から大統領を支持してしまいます。これでは選挙に勝てるはずもなく、結局、秋の選挙ではルーズベルトが3選を達成するのですが、党利党略からネガティブ・キャンペーンばかりが目立つ昨今の大統領選挙を思うと、国士ウィルキーの私心なき態度はなんとも清々しい感じがします。

 さて、中公新書ラクレの1冊として本日付で刊行の拙著『大統領になりそこなった男たち』でも、“ミスター・リパブリカン(共和党)”と呼ばれたロバート・タフトとの関連で、ウィルキーのことを取り上げていますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

 なお、新書は刊行となりましたが、雑誌連載の残り2回では、紙幅の関係から、新書ではまとまった記述ができなかった人物を取り上げる予定です。

 * お知らせ 
 NHKテレビの「美の壺」の切手特集にちょこっとだけですが、出演しました。うっかりして5日の本放送のお知らせを忘れてしまいましたが、NHK教育で今月11日(木)の24:45~25:10、NHK総合で13日(土)の 05:15~05:40 の時間帯に再放送があるとのことですので、よろしかったら見てやってください。

 もう一度切手を集めてみたくなったら 
 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。 
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 ビルマロード
2007-09-28 Fri 09:04
 先月から反政府デモが続いていたビルマ(軍事政権の自称はミャンマーですが、この呼称を認めていない人も多い)で、軍事政権がデモ隊への武力弾圧を一段と強め、僧侶1500人以上を拘束するとともに、集まった市民らを自動小銃などで強制排除。日本人ジャーナリストも亡くなりました。

 一連のニュースを見ていて、ふと、こんな切手を思い出して持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      ビルマロード

 これは、1991年にアメリカが発行した“第2次世界大戦50年シリーズ”の1枚で、中国支援のためのビルマロードが取り上げられています。これは、アメリカ側が、「自分たちにとっての第2次大戦は日本の侵略を受けた中国を支援することから始まった」という歴史認識を持っていることを示すものと考えてよいでしょう。

 ところで、一口にビルマルートといっても、新旧2つの陸路と1つの空路があります。古来の交易路に沿って作られた最初のビルマルートは、英領ビルマのラングーンに陸揚げした物資を、ラシオ(シャン州北部の町)まで鉄道で運び、そこからトラックで雲南省昆明まで運ぶ輸送路でした。しかし、このルートは太平洋戦争の開戦後、日本軍が全ビルマを平定したことで、1942年に遮断されます。

 その後、米英はインド東部からヒマラヤ山脈を越えての空輸に切り替え、中国への支援を続けていましたが、1945年1月、北ビルマの日本軍を駆逐して、英領インドのアッサム州レドからビルマを経て昆明まで至る新自動車道路(レド公路)が開通しました。

 さて、かつては中国にとっての命綱だったビルマですが、現在では、中国こそがビルマにとっての命綱になっています。

 すなわち、アウンサン・スーチーの軟禁から今回のデモ隊の武力鎮圧にいたるまで、国内の批判勢力と民主化要求を徹底して抑えこもうとしていることで、ビルマの軍事政権は欧米諸国から強く非難されており、国際的にも孤立しています。ところが、そうしたビルマにつけこむかたちで、中国は軍事政権に肩入れし、天然ガスを初めとするビルマの資源を確保することに躍起になっています。また、みずからも共産党の一党独裁体制を取っている中国にとって、周辺諸国で“民主化”が進み、それが自国に波及することはなんとしても避けたいという思惑もあり、そのことが、ますます、ビルマの軍事政権に親和的な姿勢をとる要因にもなっているわけです。

 なお、今日のラストは当初「まぁ、60年前の日中戦争のときのビルマロードの恩義を忘れずにいるというわけではないのでしょうが…」といった感じでしめようかと思っていたのですが、よくよく考えると、あの国は現在なお“抗日戦争”の話を要所要所で持ち出してくるんですよねぇ。結局、今も昔も、我々日本人にとっては、中国とビルマがくっつくとロクなことにならないのだけは、確かなようです。
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 19万アクセス
2007-06-02 Sat 01:48
 昨日(1日)の夜、カウンターが19万アクセスを越えました。いつも遊びに来ていただいている皆様には、この場を借りて、あらためてお礼申し上げます。

 というわけで、今日は19万アクセスにちなんで、こんな“19”がらみのモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      つり舟・コイル切手

 これは、1991年にアメリカで発行された19セントのコイル切手(主として自販機で販売するため、ロール状になっている切手)で係留されている釣り船が描かれています。

 この切手については、1991年に発行されたタイプ1と1993年に登場したタイプ2があります。タイプ1はタイプ2に比べてドットが粗く、額面数字の1の縦の部分が、タイプ1ではギザギザが目立つのに対して、タイプ2では直線に近くなっているので、区別は可能です。

 アメリカの釣というと、僕なんかはヘミングウェイと彼が愛したキーウェストの海釣りを思い出してしまうのですが、切手のデザインを見ていると、水草なんかもあってボートが係留されているのは川岸ないしは湖畔のようです。ということは、このボートに乗っていく釣り人たちの獲物はマスなのかもしれません。

 まぁ、僕自身は釣りそのものにはあまり関心はないのですが(それよりも、食べるほうが好きです)、本格的な暑さがやってくる前に、一日のんびり、こんな感じのボートの上で横になって過すのも悪くないなぁ、とふと思ってしまいました。
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 グレイスランド
2006-06-30 Fri 19:13
 訪米中の小泉首相は、今日、メイン・イベントとしてブッシュ夫妻とともにメンフィスにあるエルヴィス・プレスリーの旧宅、グレイスランドを訪れたのだそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      エルビス切手

 これは、1993年1月8日にアメリカ郵政が発行したエルビス・プレスリーの切手です。切手には、発行初日のメンフィス郵便局で使われた記念印が押されていますが、そのデザインにはグレイスランドの門扉が取り上げられています。

 この切手が発行された1993年、僕は9月にアメリカ各地を仕事半分・遊び半分といった感じでふらふらしていました。そのとき、飛行機の乗り継ぎで立ち寄ったダラスの空港の土産物屋で、おびただしい数と種類のエルビス切手グッズが売られていたのが非常に印象に残っています。そのとき買ったマグカップは、つい最近、割れてしまうまで毎日のように使っていました。

 エルビス・プレスリーといえば、1962年に発表された“Return to Sender”という曲がありましたね。切手のエルビスは1957年の肖像だそうですから、それから5年後のヒット曲ということになります。発売当時のは「心の届かぬラブレター」という邦題が付けられていましたので、そちらの題名でご記憶の方も多いかもしれません。

 さて、郵便学者の看板を掲げている僕としては、この曲のよしあしということとは別に、曲の中で主人公が出したことになっている郵便物がどのように扱われたのか、ということに興味があります。

 まず、この曲の1番の歌詞を見てみましょう。

 I gave a letter to the postman.  
 He put it his sack
 Bright and early next morning
 He brought my letter back
 She wrote upon it
 Return to sender, address unknown
 No such number, no such zone
 (以下略)

 ここでは、主人公は(おそらく通りがかりの)ポストマンに手紙を渡し、彼がそれを局に持ち帰って処理したということのようです。この場合のpostmanは、いわゆる郵便配達夫ではなく、郵便を回収していた係員でしょう。配達員が主人公から手紙を預かったとすると、彼はそのとき持っていた郵便物を配り終わってから局に戻るわけで、その場合、渡された手紙が処理されるのは夕方以降になる可能性が高いと思います。そうなってくると、手紙が宛先地に届くのは翌日以降になるわけで、翌朝手紙が戻って来たという設定は成り立たなくなるからです。

 さて、翌朝、手紙が戻ってきた時には、宛名の女性の文字で「差出人戻し 宛先不明」と書き込まれていたということですが、本当に宛先不明で差出人戻しになる場合には、アメリカでは規定のスタンプが押されるのが普通です。その場合、配達員は転居先等をいろいろと調べますから、翌日すぐに戻ってくるということはまずありえません。単純に、手紙が配達されたとき、彼女が受け取りを拒絶したと考えるのが妥当でしょう。

 続いて、2番は次のような歌詞で始まります。

 So When I dropped it in the mailbox
 I sent it special D
 (以下略)

 今度は、主人公は手紙を別配達(非常に単純化して言うと、日本の速達みたいなものです)にしてポストに投函します。もっとも、特別配達では宛先地に早く届くことは届きますが、確実に相手に届いたということを確認したいのであれば、むしろ郵便局に持ち込んで書留にでもしたほうが良いと僕などは思ってしまいます。で、結局、この手紙も1番同様に受け取りを拒絶されてしまいます。

 で、最後は、

 This time I'm gonna take it myself
 And put it right in her hand

 ということで、主人公は彼女に直接手紙を渡しにいこうということになるのですが、現在では、下手をするとこうした行動はストーカー規正法に引っかかってしまうかもしれません。

 それはともかく、Return to Senderに限らず、音楽や物語などで手紙が重要な役割を果たしているケースは少なからずありますが、そうした架空の手紙をリアルに再現してみるというのもそれなりに面白そうです。どこかの雑誌の編集部にでも、そういう企画を持ち込んでみたら、意外と連載モノとして実現できるかも…なんて“取らぬ狸”ですかね。

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