2006-02-28 Tue 23:44
以前からこのブログでもご案内しておりましたが、このたび、ちくま新書の一冊として『これが戦争だ! 切手で読み解く』という1冊を上梓することになりました。(下の表紙画像はクリックで拡大されます)
今回の本は、昨年9月まで、筑摩書房のウェブサイト<Webちくま>で不定期連載していた「たたかう切手たち」をベースに加筆・修正して1冊にまとめたものです。 内容は、古今東西の戦争に共通のさまざまな局面を、「この土地はわれわれのものだ」「若者よ祖国のために戦え」といった形でテーマで分類し、切手や郵便物に示されたプロパガンダを通じて読み解いてみようというものです。ちなみに、昨日の記事は「この土地はわられわれのものだ」と題する章で取り上げた切手を、先週土曜日の記事は「憎むべき敵の所業 嗤うべき敵の姿」と題する章で取り上げた切手を、それぞれご紹介したものです。 奥付上の刊行日は3月10日ですが、本日、見本が仕上がってきましたので、おそらく来週早々には、ちくま新書の棚のある書店の店頭でもご覧になれるのではないかと思います。お見掛けになりましたら、是非一度、現物をお手にとってご覧いただけると幸いです。 *明日以降10日までの間、このブログでも何回かに分けて本書の内容の一部をご紹介して行こうかと思いますので、よろしくお付き合いください。 |
2006-02-27 Mon 23:27
今日(2月27日)は、1844年に中米のドミニカ共和国が隣国のハイチから独立した記念日だそうです。というわけで、3月8日付で刊行予定の拙著『これが戦争だ! 切手で読み解く』で取り上げたもののなかから、こんなドミニカ切手をご紹介したいと思います。
この切手は、1900年に発行されたもので、イスパニョラ島の地図が描かれています。なお、現在、この島は東側の3分の2をドミニカが、西側3分の1をハイチが、それぞれ領有しています。 さて、ハイチからドミニカが独立したという経緯もあって、両国の政府レベルでの関係はあまりよくありません。特に、ハイチのあまりにも過酷な生活を逃れて、ドミニカ側に流入する農民(ドミニカの生活1トンのサトウキビ刈り入れに対して2ドルの賃金というレベルですから、決して楽な生活ではないのですが)が後を絶たず、ハイチにしてみればドミニカは気に入らない存在です。 さて、仲の悪い隣国同士といえば、領土問題を抱えているのが常なわけで、ドミニカとハイチも例外ではありません。で、ハイチ側がこの切手に対して「ドミニカの主張は認められない!」と騒ぎ出し、両国はこれをきっかけに本格的な戦争に突入してしまいました。 まぁ、切手が戦争の引き金になった例というのはあまりないのですが、竹島切手の例を持ち出すまでもなく、領土問題を抱えている国が切手をもメディアとして活用し、自国の主張を内外に強くアピールしようとするのは、いまも昔も変わりません。 3月8日に刊行予定の『これが戦争だ! 切手で読み解く』(まだ、この本単独のページはできてないみたいです)の1章では、「この土地はわれわれのものだ!」と題して、今回の切手を含め、領土問題に関するさまざまなプロパガンダ切手をご紹介しています。早ければ、週末には一部書店の店頭に並ぶかとも思われますので、見かけた方は、是非お手に取ってご覧いただけると幸いです。 * 明日付の日記では、おそらく、表紙の画像をお見せできるかと思います。 |
2006-02-25 Sat 23:44
フルシチョフがスターリン批判を行った秘密演説から、今日(2月25日)で、ちょうど半世紀だそうです。
で、さっき新聞を読んでいたら、スターリン批判で有名な『秘密報告』のパンフレットは西側の謀略で大量にばらまかれたモノ(ただし、内容はホンモノの『秘密報告』とほぼ同じ)だったという記事が出ていて、唸ってしまいました。 さて、切手の世界でも、スターリンがらみの謀略というのはいくつかあるんですが、その代表的なものとして、こんな1枚をお見せしましょう。 この“切手”(画像はクリックで拡大されます)は、1943年11月のテヘラン会談を受けて、ナチス・ドイツが作成したプロパガンダ・ラベル(“謀略切手”と呼ばれている)です。 テヘラン会談とは、1943年11月28日、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの3名がテヘテンで初めて直接まみえて連合国としての戦争方針を話し合った会談です。日本に関しては、前日の11月27日にまとめられたカイロ宣言(ルーズベルト、チャーチル、蒋介石の連合国首脳が対日戦の戦後処理に関してカイロで会談してまとめたもの。その主たる内容は、日本の無条件降伏と満洲・台湾その他植民地の返還、朝鮮の独立などでした)について、ソ連が原則承認を与えている点が重要です。 さて、この謀略切手は、テヘラン会談に対抗するための一手段として登場したのが、1937年にイギリスで発行されたジョージ6世戴冠式の記念切手(下の画像:クリックで拡大されます)をもとに作られています。 両者を比較してみると、王妃エリザベスの肖像がスターリンに代えられているほか、左右の上部にはダビデの星が描かれています。また、印面上部の“POSTAGE”は“SSSR RUSSIA”に、“REVENUE”は“BRITANIA”に、印面下部の日付はテヘラン会談の日付に、それぞれ取り替えられ、王冠には共産主義のシンボルである“槌と鎌”が付けられています。さらに、中央の飾り文字は“SSSR”になっており、右側には鳥に代わって星印(ソ連の国章の一部)が入れられています。 この謀略切手で、ナチス・ドイツは、君主国のイギリスと共産主義国家ソ連との“野合”を痛烈に皮肉たっという訳です。 さて、3月上旬にちくま新書の1冊として刊行予定の『これが戦争だ! 切手で読み解く』(まだ、この本単独のページはできてないみたいです)では、「憎むべき敵の所業、嗤うべき敵の姿』と題して、今回の切手を含め、さまざまなプロパガンダ切手をご紹介しています。早ければ、来週末には一部書店の店頭に並ぶかとも思われますので、見かけた方は、是非お手に取ってご覧いただけると幸いです。 |
2006-02-24 Fri 23:54
トリノ五輪のフィギュア・スケートで荒川静香選手が日本人として初の金メダルを取りましたね。いやぁ、めでたいことです。
というわけで、スケート関係の切手の中から何か1枚持ってこようとしたのですが、性格の悪い僕は、どうしても、こんなものしか思い浮かびませんでした。 この切手は、1949年1月の冬季国体(長野でのスケート大会)にあわせて発行された記念切手で、当時としては珍しいフィギュア・スケートが取り上げられています。 さて、この切手は、図案ミスの切手として、切手収集家の間では、発行当初から話題となっていたものです。具体的に、どこが問題なのか、見てみましょう。 今回の切手では、スカートの開き方からバックアウト・スパイラルと呼ばれる後進フォームが取り上げられていると考えられます。しかし、後進であるにもかかわらず、選手の後方に2本のトレース(滑跡)がつけられており(つまり、まだ滑っていない場所にトレースがついている)、これは不自然です。 これに対して、この切手は、トレースから見て、後進で円を描くバックアウト・サークルのフォームを描いたものとする意見もありました。たしかに、2本のトレースがあるので、3本目を滑っていたとの説明は、一見、もっともらしく思われます。 しかし、バックアウト・サークルとすると、すでに2回円を描いて終わりに近づきつつあるフォームとなるはずなのですが、スカートの開き方からすると、この選手にはまだかなりなスピードがついています。また、チェンジ(蹴換)のトレースが全く見られないことや、後進で正しく円を描くためには、腰を水平に、上体を垂直にしたうえで、フリーレッグと上膞を身体につけていなければなりませんが、切手のフォームはそれとは著しく異なっています。 このため、この切手の選手がバックアウト・サークルのフォームであるという説明には無理があります。 これらのことを総合すると、おそらく、バックアウト・スパイラルの写真を元に切手図案を構成する際、デザイン上の見た目をよくするため、デザイナーの日置勝駿が想像でトレースを書き加えたものと考えるのが妥当なようです。 また、こうした図案上のミスとは別に、額面数字の5円が女子選手に食いつきそうだとの投書がラジオに寄せられるなど、印刷の仕上がりが好評であったのに対して、デザイン面ではこの切手の評判は散々なものでした。 この切手の原画を制作した日置勝駿は、日本の切手史に残る著名デザイナーの一人ですが、スポーツのデザインは不得手だったようで、前年の第3国体・夏季大会の水泳の切手でも各メディアで酷評されています。 その実例については、以前刊行した拙著『(解説・戦後記念切手Ⅰ)濫造・濫発の時代 1946-1952』にも詳しく書きましたので、ご興味をお持ちの方はご覧いただけると幸いです。 |
2006-02-23 Thu 23:48
今日は2・23の語呂合わせで“富士山の日”だそうです。というわけで、富士山を取り上げた切手の中から、こんな1枚をご紹介してみましょう。
この切手(画像はクリックで拡大されます)は、1970年の大阪万博に際して、チェコスロバキアが発行した切手で、葛飾北斎の『富嶽三十六景』のうちの「甲州三島越」が取り上げられています。 大阪万博に際しては、経済大国となった日本のコレクターを当て込んで諸外国がさまざまな記念切手を発行していますが(この辺の話は、その昔、『外国切手に描かれた日本』という本の中で詳しく書いたので、ご興味がおありの方は、お読みいただけると幸いです。)、これもその類といえます。 ただ、この切手が凡百の万博便乗切手と違うのは、チェコスロバキア政府が切手を通じて、自国の凹版印刷の技術を世界に見せつけようという姿勢を鮮明に示していた点にあります。 実は、万博が開催される前年(1969年)の10月、日本の郵政は「国際文通週間」の切手として、やはり「甲州三島越」が取り上げられています。(下の画像:クリックで拡大されます) こうして、チェコと日本の切手を並べてみると、元ネタが一緒なだけに、チェコ側の技術水準の高さが際立っているのがよくわかります。まぁ、さすがに、「おんなじデザインでも、うちで作ればこんなにいいものが出来るんだよ」ということをアピールして喧嘩を売ってくるだけのことはありますね。 もっとも、北斎の専門家に言わせると、「甲州三島越」は全体が青系統で統一されているところに味があるんだそうです。チェコのほうは原画として使った版画の色がそうなかったんで仕方ないのでしょうが、その辺に、外国人の作る浮世絵切手の限界のようなものがあるといえるのかもしれません。 さて、2001年から刊行を続けている記念切手の“読む事典”、<解説・戦後記念切手>ですが、現在、シリーズ第4作の『一億総切手狂の時代 昭和元禄切手絵巻 1966-1971』を4月上旬に刊行すべく、鋭意準備を進めているところです。今回ご紹介した切手を含め、期間中の北斎の文通週間切手についてもさまざまなエピソードを盛り込んでいますので、刊行の暁には、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。 |
2006-02-18 Sat 10:28
今日・明日(18・19日)の両日、東京・目白の切手の博物館で、(財)日本郵趣協会理事長の福井和雄さんの個展が開催されます。
郵趣協会側の資料によると、その概要は以下の通りです。 【名 称】中島・水原賞授賞記念 第1回中国郵票展 【会 期】2月18日(土)~2月19日(日)10:30~17:00 【会 場】切手の博物館3階“スペース1、2” 【備 考】第25回中島・水原賞を授賞された、福井和雄氏の個展。 展 示:①「中華民國の紀念・特殊郵票1912-1949」 ②「中国占領地その1 華北5省(河北・河南・山東・山西・蘇北)」他。 講演会:「中国郵票と私」18日14:00~。 豊島局が臨時出張所開設・小型印使用(12時~13時昼休) 【日本郵趣協会 TEL:03-5951-3311】 福井さんには日頃いろいろとお世話になっているので、僕も、今日の午後(残念ながら、用事があって講演には間に合いそうにないのですが)、会場に顔を出してご挨拶しようかと思っています。 さて、今日のブログでは、福井さんに敬意を表して、こんな1枚を持ってきて見ました。(画像はクリックで拡大されます) これは、日中戦争の終結後間もない1946年3月、青島から天津宛に差し出された郵便物の一部です。 1937年に日中全面戦争が始まると、日本軍は北京をはじめ、上記の青島や天津など、華北の主要都市を占領します。しかし、これらの占領地の郵政は、敵であるはずの重慶政府の郵政と連絡を取り合って従来どおり郵便物の交換を続け、当初は重慶政府の切手もそのまま使われていました。ただし、通貨に関しては、日本軍の支配地域では、中国国民政府の法定通貨である法幣ではなく、当初は、朝鮮銀行券が、1938年3月以降は、日本側が樹立した中国連合準備銀行の発行する紙幣(連銀券)が使われていました。 法幣と連銀券の交換レートは、1941年までは比較的安定していたのですが、日米開戦に先立つ1941年3月、上海で金融テロ事件が発生したことから法幣の価値が大きく下落し始めます。この結果、両者の為替差が大きくなり、同じ切手をそのまま売ることに不都合が生じたため(法幣で買った切手を日本占領地に持ち込んで連銀券に換金することが横行すれば、日本側は損します)、1941年6月以降、華北の占領地では使用地域を限定する加刷を施した切手が発行されるようになりました。 こうした加刷切手は、1945年の終戦まで使われ続けましたが、日本の敗戦により中国側が占領地を接収すると、当然のことながら、使用禁止になります。 今回ご紹介している画像は、日本の敗戦後、日本占領時代の切手が使用禁止になるまでの移行期間に使われたもので、占領時代の切手(“華北”と加刷されている)と国民政府の切手(“国幣”と加刷されている)が混貼されています。 福井さんの個展のうち、「中国占領地その1 華北5省(河北・河南・山東・山西・蘇北)」のパートでは、こうした日中戦争下の複雑な郵便事情を示す切手や郵便物がタップリ展示されています。今日の記事を予習代わりに読んでいただいたうえで、是非、会場にお運びいただき、実物に触れていただけると幸いです。 *今日の画像のものは僕のコレクションの一部なので、会場に展示されていません。あしからずご了承ください。 |
2006-02-15 Wed 22:41
今日(2月15日)は1898年にメイン号事件が起こった日です。という訳で、ずばり、“Remember the Maine”のスローガンが入ったカバー(封筒)を取り上げてみましょう。(画像はクリックで拡大されます)
1895年4月、スペインの植民地支配下にあったキューバで、ホセ・マルティを指導者とする独立戦争(1868~78年の独立戦争と区別して第2次独立戦争ということもあります)が勃発します。マルティは開戦早々に戦死してしまいますが、その後もキューバ人による独立運動は粘り強く続けられ、マクシモ・ゴメス将軍ひきいる独立軍はスペイン軍をあと一歩のところまで追い詰めるところまでこぎつけました。 一方、アメリカ国内では、キューバの独立戦争がはじまると、ハースト系およびピュリッツァー系の新聞社は、スペインの暴政をセンセーショナルに取り上げ、自由を求めて戦うキューバ人を救い、アメリカの権益(アメリカはキューバの砂糖農場に莫大な投資をしていた)を擁護するためにも、スペインを討つべしとの世論を形成していきました。 こうした状況の中で、1898年2月15日、ハバナ港に停泊中のアメリカの戦艦メイン号が爆発し、将兵ら266名が亡くなります。ハースト系の新聞社は、事件をきっかけに、より強烈な反スペイン・キャンペーンを展開し、加熱するキャンペーン報道に煽られたアメリカの国内世論は「メーン号を忘れるな」のスローガンとともに沸騰。4月25日、アメリカは、ついに、スペインに対して宣戦を布告しました。米西戦争の勃発です。この間の経緯は、映画『市民ケーン』にも採用されていますから、ご存知の方もすくなくないでしょう。 今回ご紹介しているカバーは、米西戦争開戦後の1898年9月、インディアナ州内の郵便に使われたものですが、星条旗に“メーン号を忘れるな”のスローガンという、なんとも分かりやすいプロパガンダのマテリアルです。 米西戦争を始めるにあたって、アメリカは、キューバの独立闘争を支援することを大義名分としていましたが、1898年10月、彼らはキューバ独立軍の頭越しにスペインと講和条約(パリ条約)を結んでしまいます。その結果、キューバは米軍の軍政下に置かれ、独立は事実上、反故にされてしまいました。 ちなみに、後になって、米西戦争のきっかけとなったメイン号の爆発事件は、スペインの仕業でもなんでもなく、エンジントラブルによるものであった可能性が高いことが明らかになっています。 大量破壊兵器の存在を口実にフセイン政権を攻撃してみたものの、肝心の兵器はさっぱり出てきていない点や、民主的な選挙でイランと親和的なシーア派勢力が勝利を収めるととたんに不機嫌になるところなんか、どうもあの国って、100年前も現在も大して変わってないように見えてしまうんですよねぇ。 まぁ、そのあたりの100年間のアメリカの歴史については、去年『反米の世界史』なんて本を作ってみましたので、よろしかったら、ご覧いただけると幸いです。 |
2006-02-12 Sun 23:44
オリンピックのジャンプで原田選手がまさかの失格というニュースには本当にビックリしました。まぁ、残りの選手は、これに動揺することなく、良い結果を出して欲しいものです。
さて、ジャンプの話題ということで、今日はこんな1枚をご紹介しましょう。 この切手は、1949年3月3~6日、札幌市郊外で行われた冬季国体スキーの部の開催にあわせて発行された記念切手です。当初、スキーの切手は、同年1月に開催されたスケート大会の記念切手と連刷で発行することも検討されましたが、大会の開催時期に1ヶ月以上のずれがあることやスケート切手を先行するスケート大会に間に合わせるには連刷切手は時間がかかりすぎるなどの理由から、両者は別個に発行されました。 さて、この切手のデザインは、1948年中に作られたのですが、その元ネタになったのが1936年のベルリン・オリンピックの写真帳に掲載されていた写真です。デザイナーの渡辺三郎は、画面上の効果を挙げるため、元ネタの写真の向きを加工して、選手の上昇角度が50度以上もあるように演出したのですが、当時の収集家の中には、これを過剰な演出ではないかと批判する人もあったようです。 なお、今回の切手に関しては、原画が年明け早々の1月21日には完成してしまい、同24日には早くも印刷局での作業が開始されました。このため、完成品の納入も通常より早く、2月中旬には東京をはじめ地方の各局に配給されたのですが、そのことが裏目に出て、現物を受け取った郵便局の現場では2月17日ごろから切手を発売するところが続出。局によっては、正規の発行日である3月3日にはすべての在庫を売り切ってしまったところもあるほどでした。まさに、名は体を表すといったところか、“フライング”切手と命名したくなります。 それにしても、いまから70年前、1936年のオリンピックの時にはこんな格好で跳んでたんですねぇ。切手が“時代”を記録する一つの典型として、興味深いものがあります。 なお、この切手を含めて、占領下の日本の記念切手については、ご興味がおありの方は、拙著『(解説戦後記念切手Ⅰ) 濫造・濫発の時代 1946-1952』をご覧いただけると幸いです。 *現在、解説戦後記念切手のシリーズ第4作『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』(仮題)を4月に刊行すべく、鋭意制作中です。ご期待ください。 |
2006-02-11 Sat 22:15
今日は「建国記念日」。というわけで、建国神話にちなんだマテリアルのうち、ちょっと変わったモノをご紹介しましょう。
これは、1949年9月22日に発行された「全日本ボーイスカウト大会」の記念切手の初日カバー(切手を封筒に貼り、発行日の消印を押したもの)の一部分です。今回は、切手ではなく、切手に押されている特印(記念スタンプ・画像はクリックで拡大されます)にご注目ください。 特印の中央には日本のスカウト記章が描かれています。この記章は戦後の1947年に制定されたもので、スカウトの3指のサインならびに3つの誓い(①神と国家に対する忠誠、②他者への奉仕、③心身の健全)を示す3枚の花弁のなかに、真実と知識を示す2つの星と、日本神話に由来する“八咫鏡(八稜鏡)”が配されています。 八咫鏡は、皇位を示す三種の神器の一つで、記紀神話では、天の岩戸に隠れた天照大神が岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大神自身を映し、興味を持たせて外に引き出し、再び世は明るくなったと記されています。 切手が発行された当時は敗戦後の占領下で、当初、GHQは八咫鏡をボーイスカウトの記章に用いることに強い難色を示していました。しかし、日本側は八咫鏡が正直・慈悲・知能を表す日本古来の誇るべきシンボルであることを強調してGHQを説得し、原案通り認めさせています。これは、当時の一般的な社会通念からすればきわめて異例のことで、GHQが日本のスカウト活動に対して非常に協力的であったことがわかります。 おそらく、特印のデザインはこうした事情をなんら斟酌することなく、単純にボーイスカウト日本連盟の記章を取り上げただけなのでしょうが、この結果、この特印は戦後日本において建国神話の題材が取り上げられた最初の事例となりました。 なお、この切手を含めて、占領下の日本の記念切手については、ご興味がおありの方は、拙著『(解説戦後記念切手Ⅰ) 濫造・濫発の時代 1946-1952』をご覧いただけると幸いです。 *現在、解説戦後記念切手のシリーズ第4作『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』を4月に刊行すべく、鋭意制作中です。近々、内容についてはご案内できると思いますので、いましばらく、お待ちください。 |
2006-02-09 Thu 23:51
“平民宰相”として教科書にも出てくる原敬(クリックで原敬事典というHPに飛びます)は、安政3年2月9日の生まれです。西暦に直すと1856年3月11日ということになりますが、まぁ、生誕150年のイベントなんかは今日行われるのでしょうから、このブログでもこんなマテリアルを取り上げてみましょう。
このカバー(封筒・クリックで拡大されます)は、1920年の総選挙に際して原敬の名前で(差出人名は彼の署名を印刷したもの)差し出されたカバーで、中身は、政友会の候補者への投票を呼びかけた推薦状です。 1920年の第42帝国議会で、憲政会や立憲国民党から男子普通選挙制度導入を求める選挙法改正案が提出されると、原はこれに反対して衆議院を解散。前年の選挙法改正で導入した小選挙区制を最大限に活用し、政友会が単独過半数を獲得する大勝利を収めました。 この選挙の際に、彼は現職の総理でしたが、カバーの肩書きではそのことは触れておらず、“立憲政友会総裁”とだけなっています。 戦前の総選挙に際しては、しばしば、この原のカバーのように、総理の名前で与党候補者の推薦文を送るということが行われています。大量にばらまかれているのでそれほど珍しいものではないのですが、印刷されている署名からは総理の筆跡も分かるので、僕は単純なお遊びとして集めて楽しんでいます。 *業務連絡 昨日、コメントをお送りいただいた“さより”様。お返事差し上げたいので、メール・アドレスをお教えください。 |
2006-02-05 Sun 23:29
トリノ・オリンピックまでいよいよあと1週間になりましたが、5日は日本人選手団の選手村への入村式が行われたそうです。
というわけで、今日はオリンピック選手村のマテリアルということで、こんなカバーをご紹介してみましょう。 このカバーは、1964年10月11日、東京オリンピックの選手村から西ドイツ宛に差し出されたものです。 東京オリンピックの時の選手村の開村は、9月15日のことで、同日から選手村正面入口の近くに“東京オリンピック選手村内郵便局”が開局。国内外宛の郵便物や外国郵便為替などを取り扱いました。また、選手村郵便局では、“東京オリンピック選手村内”ないしは“OLYMPIC VILLAGE /TOKYO”の表示の消印が使われました。上の画像は、クッリクすると拡大されるのですが、それでも、肝心の局名部分がいささか見づらいので、拡大した画像を↓に貼り付けておきます。 今回、ご紹介しているカバーは、宛先不明で差出人戻しとなっているせいもあって状態はあまりよくないのですが、この消印の押されたカバーは人気があって意外と入手しづらいものですから、この程度が僕にとっては分相応というところかもしれません。 なお、東京オリンピックの時の選手村郵便局の基本的なデータについては、拙著『切手バブルの時代』にもまとめてありますので、ご興味をお持ちの方はそちらをご参照いただけると幸いです。 |
2006-02-03 Fri 23:02
2月3日は香港でホーチミンらがベトナム共産党(まもなくインドシナ共産党と改称)を創設した日だそうです。というわけで、ベトナムで発行されたホーチミンのうち、今日はこの1枚をご紹介しましょう。
この切手は、1949年頃、いわゆるベトミン(越南独立同盟)の支配地域で発行されたホーチミンの切手です。 1945年3月、明号作戦を発動してインドシナ全域を軍事占領下に置きいた日本軍は、同年8月に降伏。その混乱の中で、ベトミンはベトナム独立を宣言してハノイで蜂起し、ホー・チ・ミンを国家主席とするベトナム民主共和国が樹立されました。しかし、九月に入ると、イギリスの支援を受けたフランス軍がインドシナ半島に再上陸。ベトミンと戦闘状態に突入し、第一次インドシナ戦争がはじまりました。 第一次インドシナ戦争に際して、装備の面でフランスに劣るベトミン側は独立を求めて必死に抵抗したわけですが、そうした過酷な状況の中で作られ、発行されたのが今回ご紹介している切手です。 用紙は、竹の繊維をすいてつくられたもので、素朴なデザインとあいまって、一種の“アジア雑貨”的な趣があって良い感じです。竹からできている紙というユニークな素材が用いられていることから、切手収集の入門書などではしばしば取り上げられているので、あるいは、ご存知の方も多いものと思われます。 昨年12月10日の記事で取り上げた“老解”の切手もそうですが、僕は個人的に素朴な雰囲気の切手が好きなので、この切手もお気に入りの1枚です。 ベトナムに関しては、去年(2005年)刊行した『反米の世界史』でもそれなりのスペースを割いて取り上げましたが、面白いマテリアルも沢山あって、なかなか、奥深い世界だと思います。その昔、『北朝鮮事典』という本を作ったことがあるので、その姉妹編として『ベトナム事典』を作ろうかと考えたこともあるんですが、今のところ実現の目途はたっていません。いつか、実現できればいいな、と思っているのですが…。 |
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