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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 これが戦争だ!
2006-02-28 Tue 23:44
 以前からこのブログでもご案内しておりましたが、このたび、ちくま新書の一冊として『これが戦争だ! 切手で読み解く』という1冊を上梓することになりました。(下の表紙画像はクリックで拡大されます)

これが戦争だ!

 今回の本は、昨年9月まで、筑摩書房のウェブサイト<Webちくま>で不定期連載していた「たたかう切手たち」をベースに加筆・修正して1冊にまとめたものです。

 内容は、古今東西の戦争に共通のさまざまな局面を、「この土地はわれわれのものだ」「若者よ祖国のために戦え」といった形でテーマで分類し、切手や郵便物に示されたプロパガンダを通じて読み解いてみようというものです。ちなみに、昨日の記事は「この土地はわられわれのものだ」と題する章で取り上げた切手を、先週土曜日の記事は「憎むべき敵の所業 嗤うべき敵の姿」と題する章で取り上げた切手を、それぞれご紹介したものです。

 奥付上の刊行日は3月10日ですが、本日、見本が仕上がってきましたので、おそらく来週早々には、ちくま新書の棚のある書店の店頭でもご覧になれるのではないかと思います。お見掛けになりましたら、是非一度、現物をお手にとってご覧いただけると幸いです。

 *明日以降10日までの間、このブログでも何回かに分けて本書の内容の一部をご紹介して行こうかと思いますので、よろしくお付き合いください。

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 戦争の元になった切手
2006-02-27 Mon 23:27
 今日(2月27日)は、1844年に中米のドミニカ共和国が隣国のハイチから独立した記念日だそうです。というわけで、3月8日付で刊行予定の拙著『これが戦争だ! 切手で読み解く』で取り上げたもののなかから、こんなドミニカ切手をご紹介したいと思います。

ドミニカの地図切手

 この切手は、1900年に発行されたもので、イスパニョラ島の地図が描かれています。なお、現在、この島は東側の3分の2をドミニカが、西側3分の1をハイチが、それぞれ領有しています。

 さて、ハイチからドミニカが独立したという経緯もあって、両国の政府レベルでの関係はあまりよくありません。特に、ハイチのあまりにも過酷な生活を逃れて、ドミニカ側に流入する農民(ドミニカの生活1トンのサトウキビ刈り入れに対して2ドルの賃金というレベルですから、決して楽な生活ではないのですが)が後を絶たず、ハイチにしてみればドミニカは気に入らない存在です。

 さて、仲の悪い隣国同士といえば、領土問題を抱えているのが常なわけで、ドミニカとハイチも例外ではありません。で、ハイチ側がこの切手に対して「ドミニカの主張は認められない!」と騒ぎ出し、両国はこれをきっかけに本格的な戦争に突入してしまいました。

 まぁ、切手が戦争の引き金になった例というのはあまりないのですが、竹島切手の例を持ち出すまでもなく、領土問題を抱えている国が切手をもメディアとして活用し、自国の主張を内外に強くアピールしようとするのは、いまも昔も変わりません。

 3月8日に刊行予定の『これが戦争だ! 切手で読み解く』(まだ、この本単独のページはできてないみたいです)の1章では、「この土地はわれわれのものだ!」と題して、今回の切手を含め、領土問題に関するさまざまなプロパガンダ切手をご紹介しています。早ければ、週末には一部書店の店頭に並ぶかとも思われますので、見かけた方は、是非お手に取ってご覧いただけると幸いです。

 * 明日付の日記では、おそらく、表紙の画像をお見せできるかと思います。
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 2・26事件
2006-02-26 Sun 22:43
 あんまり話題になっていないみたいですが、今日は2・26事件から70周年の日です。というわけで、こんなカバー(封筒)をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

2・26事件検閲カバー

 このカバーは、2・26事件の発生から間もない1936年3月1日に浅草からドイツ宛に差し出されたもの(裏面の書き込みによる)ですが、事件の後に設置された戒厳司令部によって開封・検閲されています。消印の日付が3月3日となっているのは、検閲によって消印作業が遅れたからなのでしょうか。カバーの中央には、「戒嚴司令部 査閲濟」との紫色の印が押されており、事件直後の緊張した雰囲気が生々しく伝わってきます。

 東京という巨大都市での戒厳令であったため、当時、このカバーのように検閲された郵便物は相当な量であったと思われます。じっさい、検閲印には、このカバーのもの以外にもいろいろなタイプのもの(たとえば、文言が「戒嚴司令部ニ依リ開緘」となっているものもあります)が存在しており、印の色にも赤・青・紫などのバラエティがあります。ただし、実際にこの種の検閲印が押されたカバーの残存数は、現在では、決して多くはありません。

 信書の秘密は、現在の「日本国憲法」ではもちろん、戦前の「大日本帝国憲法」においても、国民の基本的な権利として認められており、2・26事件の以前には、一般市民の郵便物が軍部によって開封・検閲されるということはありませんでした。

 それだけに、2・26事件は、郵便という点からみても、日本社会が急速に軍国化していく重要な契機であったとみなすことができます。

 アメリカでは昨年、国家安全保障局(NSA)が数百人の(あるいはおそらく数千人の)市民が海外との間で交わした電話・電子メールを裁判所の令状なしに傍受したことが問題になりましたが、似たようなことは日本の政府だってその気になればやれるのでしょう。

 まぁ、現時点では日本政府がそこまでやることはないと信じたいところですが、通信傍受法なんてものができてしまうご時世ですからねぇ。これって杞憂でしょうか。

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 スターリンのパロディ
2006-02-25 Sat 23:44
 フルシチョフがスターリン批判を行った秘密演説から、今日(2月25日)で、ちょうど半世紀だそうです。

 で、さっき新聞を読んでいたら、スターリン批判で有名な『秘密報告』のパンフレットは西側の謀略で大量にばらまかれたモノ(ただし、内容はホンモノの『秘密報告』とほぼ同じ)だったという記事が出ていて、唸ってしまいました。

 さて、切手の世界でも、スターリンがらみの謀略というのはいくつかあるんですが、その代表的なものとして、こんな1枚をお見せしましょう。

 テヘラン会談のパロディ

 この“切手”(画像はクリックで拡大されます)は、1943年11月のテヘラン会談を受けて、ナチス・ドイツが作成したプロパガンダ・ラベル(“謀略切手”と呼ばれている)です。

 テヘラン会談とは、1943年11月28日、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの3名がテヘテンで初めて直接まみえて連合国としての戦争方針を話し合った会談です。日本に関しては、前日の11月27日にまとめられたカイロ宣言(ルーズベルト、チャーチル、蒋介石の連合国首脳が対日戦の戦後処理に関してカイロで会談してまとめたもの。その主たる内容は、日本の無条件降伏と満洲・台湾その他植民地の返還、朝鮮の独立などでした)について、ソ連が原則承認を与えている点が重要です。

 さて、この謀略切手は、テヘラン会談に対抗するための一手段として登場したのが、1937年にイギリスで発行されたジョージ6世戴冠式の記念切手(下の画像:クリックで拡大されます)をもとに作られています。

 パロディの元ネタ

 両者を比較してみると、王妃エリザベスの肖像がスターリンに代えられているほか、左右の上部にはダビデの星が描かれています。また、印面上部の“POSTAGE”は“SSSR RUSSIA”に、“REVENUE”は“BRITANIA”に、印面下部の日付はテヘラン会談の日付に、それぞれ取り替えられ、王冠には共産主義のシンボルである“槌と鎌”が付けられています。さらに、中央の飾り文字は“SSSR”になっており、右側には鳥に代わって星印(ソ連の国章の一部)が入れられています。

 この謀略切手で、ナチス・ドイツは、君主国のイギリスと共産主義国家ソ連との“野合”を痛烈に皮肉たっという訳です。

 さて、3月上旬にちくま新書の1冊として刊行予定の『これが戦争だ! 切手で読み解く』(まだ、この本単独のページはできてないみたいです)では、「憎むべき敵の所業、嗤うべき敵の姿』と題して、今回の切手を含め、さまざまなプロパガンダ切手をご紹介しています。早ければ、来週末には一部書店の店頭に並ぶかとも思われますので、見かけた方は、是非お手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 祝・金メダル!
2006-02-24 Fri 23:54
 トリノ五輪のフィギュア・スケートで荒川静香選手が日本人として初の金メダルを取りましたね。いやぁ、めでたいことです。

 というわけで、スケート関係の切手の中から何か1枚持ってこようとしたのですが、性格の悪い僕は、どうしても、こんなものしか思い浮かびませんでした。

第4回国体

 この切手は、1949年1月の冬季国体(長野でのスケート大会)にあわせて発行された記念切手で、当時としては珍しいフィギュア・スケートが取り上げられています。

 さて、この切手は、図案ミスの切手として、切手収集家の間では、発行当初から話題となっていたものです。具体的に、どこが問題なのか、見てみましょう。

 今回の切手では、スカートの開き方からバックアウト・スパイラルと呼ばれる後進フォームが取り上げられていると考えられます。しかし、後進であるにもかかわらず、選手の後方に2本のトレース(滑跡)がつけられており(つまり、まだ滑っていない場所にトレースがついている)、これは不自然です。

 これに対して、この切手は、トレースから見て、後進で円を描くバックアウト・サークルのフォームを描いたものとする意見もありました。たしかに、2本のトレースがあるので、3本目を滑っていたとの説明は、一見、もっともらしく思われます。

 しかし、バックアウト・サークルとすると、すでに2回円を描いて終わりに近づきつつあるフォームとなるはずなのですが、スカートの開き方からすると、この選手にはまだかなりなスピードがついています。また、チェンジ(蹴換)のトレースが全く見られないことや、後進で正しく円を描くためには、腰を水平に、上体を垂直にしたうえで、フリーレッグと上膞を身体につけていなければなりませんが、切手のフォームはそれとは著しく異なっています。

 このため、この切手の選手がバックアウト・サークルのフォームであるという説明には無理があります。

 これらのことを総合すると、おそらく、バックアウト・スパイラルの写真を元に切手図案を構成する際、デザイン上の見た目をよくするため、デザイナーの日置勝駿が想像でトレースを書き加えたものと考えるのが妥当なようです。

 また、こうした図案上のミスとは別に、額面数字の5円が女子選手に食いつきそうだとの投書がラジオに寄せられるなど、印刷の仕上がりが好評であったのに対して、デザイン面ではこの切手の評判は散々なものでした。

 この切手の原画を制作した日置勝駿は、日本の切手史に残る著名デザイナーの一人ですが、スポーツのデザインは不得手だったようで、前年の第3国体・夏季大会の水泳の切手でも各メディアで酷評されています。

 その実例については、以前刊行した拙著『(解説・戦後記念切手Ⅰ)濫造・濫発の時代 1946-1952』にも詳しく書きましたので、ご興味をお持ちの方はご覧いただけると幸いです。


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 チェコ vs 日本
2006-02-23 Thu 23:48
 今日は2・23の語呂合わせで“富士山の日”だそうです。というわけで、富士山を取り上げた切手の中から、こんな1枚をご紹介してみましょう。

      チェコの北斎

 この切手(画像はクリックで拡大されます)は、1970年の大阪万博に際して、チェコスロバキアが発行した切手で、葛飾北斎の『富嶽三十六景』のうちの「甲州三島越」が取り上げられています。

 大阪万博に際しては、経済大国となった日本のコレクターを当て込んで諸外国がさまざまな記念切手を発行していますが(この辺の話は、その昔、『外国切手に描かれた日本』という本の中で詳しく書いたので、ご興味がおありの方は、お読みいただけると幸いです。)、これもその類といえます。

 ただ、この切手が凡百の万博便乗切手と違うのは、チェコスロバキア政府が切手を通じて、自国の凹版印刷の技術を世界に見せつけようという姿勢を鮮明に示していた点にあります。

 実は、万博が開催される前年(1969年)の10月、日本の郵政は「国際文通週間」の切手として、やはり「甲州三島越」が取り上げられています。(下の画像:クリックで拡大されます)

      甲州三島越

 こうして、チェコと日本の切手を並べてみると、元ネタが一緒なだけに、チェコ側の技術水準の高さが際立っているのがよくわかります。まぁ、さすがに、「おんなじデザインでも、うちで作ればこんなにいいものが出来るんだよ」ということをアピールして喧嘩を売ってくるだけのことはありますね。

 もっとも、北斎の専門家に言わせると、「甲州三島越」は全体が青系統で統一されているところに味があるんだそうです。チェコのほうは原画として使った版画の色がそうなかったんで仕方ないのでしょうが、その辺に、外国人の作る浮世絵切手の限界のようなものがあるといえるのかもしれません。

 さて、2001年から刊行を続けている記念切手の“読む事典”、<解説・戦後記念切手>ですが、現在、シリーズ第4作の『一億総切手狂の時代 昭和元禄切手絵巻 1966-1971』を4月上旬に刊行すべく、鋭意準備を進めているところです。今回ご紹介した切手を含め、期間中の北斎の文通週間切手についてもさまざまなエピソードを盛り込んでいますので、刊行の暁には、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。


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 竹島と北朝鮮
2006-02-22 Wed 21:38
 今日は島根県が設定した“竹島の日”です。(世間じゃ、あんまり話題にならなかったけど)

 というわけで、竹島ネタということで、こんな1枚を持ってきました。

北朝鮮の竹島切手

 この切手(画像はクリックで拡大されます)は、2004年に北朝鮮で発行された“独島(竹島の朝鮮側での呼称)”切手です。

 2004年1月に韓国が「独島の自然」と題する切手を発行したことが日韓両国の間で政治問題化したことはよく知られていますが、一連の騒動の中で、2004年4月中旬、北朝鮮も“朝鮮の島 独島”と題して、竹島が朝鮮の領土であることを示したとする李朝時代の地図や竹島の風景などをデザインした切手を発行したことはあまり知られていないようです。

 北朝鮮の切手に関しては、外貨獲得の一環として海外のコレクターを意識して発行されたものが主であり、まともに取り合う必要はない、とする指摘がしばしばなされています。この指摘は、決して誤りではないのですが、話はそうそう単純ではありません。

 北朝鮮国家の名において発行される切手の場合、その題材の選択に際しては、たとえ本音では外貨を獲得することが主な目的であっても、同国の体制や主張と(少なくとも彼らの思考回路では)矛盾しないようなものだけが取り上げられている点を見逃すことはできません。すなわち、純粋に外貨を獲得するという目的に徹するのであれば、ハリウッドの芸能人もしくはディズニー・キャラクターの切手を発行するのが、商売としては手がたい手法なのですが、北朝鮮国家としては、“アメリカ帝国主義の文化侵略の権化”とみなしているキャラクターを、国家の名において発行する切手上に取り上げることは許容できないのが現実です。じっさい、現在にいたるまで、北朝鮮がハリウッド・スターやディズニー・キャラクターの切手を発行したことはありません。

 もちろん、北朝鮮が竹島切手を発行した背景には、2004年1月に韓国が発行した竹島切手が、日韓両国のメディアでさかんに取り上げられた結果、固定ファンとしての切手収集家のみならず、一般市民の間でも人気を呼び、高値で取引されるようになったという事情があったのは間違いないでしょう。

 実際、この竹島切手に関しては、香港在住の韓国・朝鮮系とみられるブローカーが(期間限定ですが)海外での独占販売権を持っていましたが、件のブローカーがそうした権利を得るためには、少なからぬ現金を北朝鮮側に支払っていることは確実です。逆に、ブローカーにしてみれば、北朝鮮の竹島切手は投資に見合う利益を期待できる商品ということであり、韓国の竹島切手の市場価格が高値で安定しているという現状がなければ、そうした判断は起こるはずがありません。

 しかし、そうではあっても、北朝鮮国家の名において“朝鮮の島 独島”と題する切手を発行するに際しては、彼らなりの政治的スクリーニングが行われているという状況を踏まえ、そのロジックを読み解く努力をすることはそれなりに有用なはずです。

 竹島問題に関する北朝鮮側の基本的な姿勢は、韓国を朝鮮半島の正統政府と認めるか否かはともかくとして、“独島”が朝鮮民族の領土であり、日本の領有権を認めるわけにはいかないという点では、韓国と共同歩調を取っています。したがって、北朝鮮としては、韓国に秋波を送りたいときには、“日帝三十六年間”の過去と同様、“独島”は重要なシンボルとなりうるものであり、そうした傾向は、以前の切手においても観察することができるわけです。

 2004年という時期を選んで北朝鮮が“朝鮮の島 独島”の切手を発行した背景には、まず、拉致問題以降、日本国内の世論がかつてないほど北朝鮮に対して厳しいものとなっているのに対して、逆に、韓国内では北朝鮮に対する警戒感が急速に薄らいでいるという事情があります。その上で、北朝鮮としては、日韓両国間の懸案となっている竹島問題を切手という国家のメディアにおいて取り上げることで、両国(民)の間に楔を打ち込もうとする政治宣伝を行おうとしたことは明白です。そして、実際に切手の現物が韓国内で流通するか否かはともかく、北朝鮮が竹島切手を発行したというニュースが報じられることによって、北朝鮮側のプロパガンダが一定の効果を挙げるだけの素地が、現在の韓国社会にはあるということもわすれてはなりません。

 いずれにせよ、国家というものが、本質的に、ありとあらゆる機会をとらえて自らの正統性や国家理念、政策などを内外に向けて主張しようとするものである以上、国家が切手を一種のメディアとしてとらえ、活用しようとすることは、(切手上において表現されている主義主張の是非善悪とは別の次元で)きわめて自然なことです。

 それゆえ、日本の国益に直結しそうな国の切手については、我々はもっと真剣に観察し、読み解いていく努力をしていく必要があると思います。すくなくとも、“たかが切手”という認識は、日本国内では通用しても、国際的には決して通用しないことに、いい加減、気がつくべきではないでしょうか。

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 台湾の旧日本兵
2006-02-21 Tue 23:16
 台湾北部の台北県烏来郷に今月、台湾先住民族の旧日本兵「高砂義勇隊」の戦没者慰霊碑が再建されたことをめぐって、碑に刻まれた文章や飾られた「日の丸」が軍国主義を想起させるとして台湾で論議を呼んでいるそうです。

 高砂義勇隊というのは、太平洋戦争の末期、台湾原住民によって組織されたが軍属等の非正規部隊で、フィリピンなど、南方での戦闘に参加し、多くの犠牲者を出しました。

 台湾の志願兵制度は1942年に実施され、制度の開始に当たっては、下の画像(クリックで拡大されます)のような記念の消印も使われました。

台湾志願兵

 高砂義勇隊にせよ、陸軍志願兵にせよ、当時、参加者のほとんどは“志願”であると宣伝され、現在でも、そのように主張する論者は日本国内のみならず台湾にも少なからずいます。

 しかし、常識的に考えれば、なにかあると“自粛”が強要される(これって、本来の言葉の意味からするとおかしな話ですよね)ことの多い日本社会の性格からして、当時の台湾の人たちは“志願”せざるを得ない状況に追い込まれたと考えるのが自然でしょう。じっさい、生存者や遺族の証言によれば、実際には、日本の支配下で反抗できない雰囲気の中で、自らの意思に反して参加させられたという事例が数多く報告されているのですから…。

 いずれにせよ、“日本人”として日本の戦争に動員されながら、戦後、“日本人”ではないとして忘れられてきた人たちに対して、我々がもう少し関心を払ったほうが良いように思うのは僕だけではないはずです。
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 ドライな助六
2006-02-20 Mon 23:32
 今日(2月20日)は、1607年のこの日に、出雲の阿国が江戸城で将軍・諸大名の前で初めて歌舞伎踊りを披露したことにちなんで、歌舞伎の日なのだそうです。

 というわけで、今日はこの1枚をご紹介しましょう。

助六

 この切手は、1970年に「古典芸能シリーズ」の1枚として発行されたもので、取り上げられているのは、いわずと知れた“助六”です。

 さて、この助六なのですが、日本の切手印刷の歴史のうえでは“ドライ・オフセット”とい印刷方法が用いられた最初の1枚というわけで、注目しないわけには行きません。

 切手に限らず、印刷物の版式は大きく分けて凸版(印刷する部分が反面から飛び出ている)・凹版(印刷する部分が凹んでいる)・平版(反面に凹凸はない)に大別されます。ちなみに、いわゆるグラビアは、単純化していうと、網目をかけて印刷効果を出した凹版の一種です。

 さて、このうちの平版は、基本的には油が水をはじく性質を利用して印刷する部分にだけインクがつくようにしたものなのですが、版を直接紙に押し付けていては、版そのものが長持ちしません。そこで、紙が版に直接触れないように、ゴムの円筒を版の上に転がして円筒にインクを付けた上で、円筒から紙に印刷するという方式が考えられるようになりました。これが、オフセットといわれているものです。

 オフセットの場合、元になる版は凸版でも凹版でも構わないのですが、このうち、凸版をもとの版に用いたものを日本語では“ドライ・オフセット”と呼んでいます。

 わざわざ“ドライ”という形容詞が付けられているのは、通常の平版オフセットの場合、油が水をはじく性質を利用するため、もとの版にはリン酸の水溶液をつけてから印刷インクを塗るので版面が濡れている(=ウェット)であるのに対して、元の版が凸版であれば、そのままゴムの円筒に転写できますので版面も“ドライ(=濡れていない)”ということになるわけです。

 グラビアが網目を使う関係上、細い線を再現しようとするとどうしてもかすれた感じになってしまうのに対して、ドライオフセットでは線をそのままシャープに再現できますので、切手の印刷などにとっては好都合というわけです。

 さて、2001年から刊行を続けている記念切手の“読む事典”、<解説・戦後記念切手>ですが、現在、シリーズ第4作の『一億総切手狂の時代 昭和元禄切手絵巻 1966-1971』を4月上旬に刊行すべく、鋭意準備を進めているところです。今回ご紹介した助六の切手についても、印刷技術の話だけでなく、さまざまなエピソードを盛り込んでいますので、刊行の暁には、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。

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 レイテ島のVICTORY加刷
2006-02-19 Sun 23:58
 フィリピンのレイテ島で発生した大規模な地滑りは、死者65名・行方不明者1400名以上という大変な被害をもたらし、各国が緊急支援に乗り出しています。

 レイテ島というと、僕などは太平洋戦争中の1944年10月に、マッカーサー“アイ・シャル・リターン”の公約を実現して再上陸した島というイメージが強いので、こんなカバー(封筒)を引っ張り出してきてしまいます。

VICTORY加刷のカバー

 このカバー(画像はクリックで拡大されます)は、1945年1月19日、米軍が再上陸を果たし、レイテ島を解放して郵便業務が再開されたのを記念して作られたもので、米軍の支配地域で暫定的に使われていた“VICTORY”加刷の切手が貼られています。カバーの中央より左上のところに押されている紫色の印は、そうした事情を説明するためのものです。

 このカバーはレイテ島最大の都市タクロバンからマニラ宛のものですが、戦火の中、よくもまぁこんな記念カバーを作るだけの根性があったものだと関心してしまいます。

 昭和の戦争についてのコレクションを作っている僕としては、いつかはレイテを訪れて、マッカーサーの上陸地点などの戦跡を訪ねてみたいと常々思っていました。それだけに、マッカーサーが上陸したパロは被害を免れたとはいえ、島全体に大きなダメージを与えた地滑りのニュースを聞くと、非常に心が痛むところです。

 一日も早い復興をお祈りしております。
 
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 福井和雄さんの個展
2006-02-18 Sat 10:28
 今日・明日(18・19日)の両日、東京・目白の切手の博物館で、(財)日本郵趣協会理事長の福井和雄さんの個展が開催されます。

 郵趣協会側の資料によると、その概要は以下の通りです。

【名 称】中島・水原賞授賞記念 第1回中国郵票展
【会 期】2月18日(土)~2月19日(日)10:30~17:00
【会 場】切手の博物館3階“スペース1、2”
【備 考】第25回中島・水原賞を授賞された、福井和雄氏の個展。
     展 示:①「中華民國の紀念・特殊郵票1912-1949」
         ②「中国占領地その1 華北5省(河北・河南・山東・山西・蘇北)」他。
     講演会:「中国郵票と私」18日14:00~。
     豊島局が臨時出張所開設・小型印使用(12時~13時昼休)
     【日本郵趣協会 TEL:03-5951-3311】

 福井さんには日頃いろいろとお世話になっているので、僕も、今日の午後(残念ながら、用事があって講演には間に合いそうにないのですが)、会場に顔を出してご挨拶しようかと思っています。

 さて、今日のブログでは、福井さんに敬意を表して、こんな1枚を持ってきて見ました。(画像はクリックで拡大されます)

 国幣コンビネーション

 これは、日中戦争の終結後間もない1946年3月、青島から天津宛に差し出された郵便物の一部です。

 1937年に日中全面戦争が始まると、日本軍は北京をはじめ、上記の青島や天津など、華北の主要都市を占領します。しかし、これらの占領地の郵政は、敵であるはずの重慶政府の郵政と連絡を取り合って従来どおり郵便物の交換を続け、当初は重慶政府の切手もそのまま使われていました。ただし、通貨に関しては、日本軍の支配地域では、中国国民政府の法定通貨である法幣ではなく、当初は、朝鮮銀行券が、1938年3月以降は、日本側が樹立した中国連合準備銀行の発行する紙幣(連銀券)が使われていました。

 法幣と連銀券の交換レートは、1941年までは比較的安定していたのですが、日米開戦に先立つ1941年3月、上海で金融テロ事件が発生したことから法幣の価値が大きく下落し始めます。この結果、両者の為替差が大きくなり、同じ切手をそのまま売ることに不都合が生じたため(法幣で買った切手を日本占領地に持ち込んで連銀券に換金することが横行すれば、日本側は損します)、1941年6月以降、華北の占領地では使用地域を限定する加刷を施した切手が発行されるようになりました。

 こうした加刷切手は、1945年の終戦まで使われ続けましたが、日本の敗戦により中国側が占領地を接収すると、当然のことながら、使用禁止になります。

 今回ご紹介している画像は、日本の敗戦後、日本占領時代の切手が使用禁止になるまでの移行期間に使われたもので、占領時代の切手(“華北”と加刷されている)と国民政府の切手(“国幣”と加刷されている)が混貼されています。

 福井さんの個展のうち、「中国占領地その1 華北5省(河北・河南・山東・山西・蘇北)」のパートでは、こうした日中戦争下の複雑な郵便事情を示す切手や郵便物がタップリ展示されています。今日の記事を予習代わりに読んでいただいたうえで、是非、会場にお運びいただき、実物に触れていただけると幸いです。

 *今日の画像のものは僕のコレクションの一部なので、会場に展示されていません。あしからずご了承ください。


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 外国切手の中の中国:北京のイタリア局
2006-02-17 Fri 17:23
 NHKラジオ中国語講座のテキスト3月号が出来上がりました。僕が担当している連載「外国切手の中の中国」、今回のお題は、トリノ・オリンピックの開催中ということで、“イタリア”です。

 最初は、1950年代のマルコポーロの切手を取り上げようかとも思ったんですが、いかんせん、あの1枚だけで6ページ分の原稿を埋めるのはちょっと辛いものがあります。というわけで、ちょっと今までとは毛色が違うんですが、今回はこんな類のものを取り上げてみました。

北京のイタリア局

 この切手は、北京に置かれていたイタリアの郵便局で使うために発行されたものです。

 リソルジメント(祖国統一運動)のゆえに、他の西欧諸国に比べて海外進出、特に、極東進出が遅れたイタリアでしたが、1900年の義和団事件に出兵し、ようやく、中国進出を開始。天津にイタリア租界を作りました。

 その後、イタリアは北京と天津に郵便局を開設し、本国の切手を持ち込んで郵便業務を開始します。ところが、1914年に始まった第一次世界大戦の余波で、中国で広く使われていた上海ドルの為替相場が暴落し、中国国内に郵便局を設置していた列強諸国は切手の販売に関して対策を講じなければならなくなりました。暴落した上海ドルで従来どおり外国の切手を買い、それを発行国の通貨で換金するという投機が横行すれば、切手の発行国は損失を被ることになるからです。

 このため、1917年早々、イギリスが植民地香港の切手に“CHINA”の文字を加刷(すでに発行された切手に文字などを上から印刷すること)した切手の発売・使用し始めたのにならい、イタリアも、北京を意味する“Pechino”、天津を意味する“Tientsin”と加刷した切手を各郵便局で発売。これらの加刷のある切手は、加刷された地名の郵便局以外では受け付けないこととしました。

 今回、ご紹介しているのは、その“Pechino”加刷切手の1枚です。NHKラジオ講座のテキストでは、この切手に加え、天津で使われた切手のことや、その背景となる天津のイタリア租界についても説明していますので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。
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 native place
2006-02-16 Thu 09:48
 今日は2月16日、“将軍様”こと金正日の誕生日です。かの国では、毎年この日に盛大なイベントが繰り広げられ、記念切手も発行されているのですが、その中からこんな1枚を取り上げたいと思います。

白頭山頂の金正日

 これは、1992年の“将軍様”の誕生日に発行された小型シートで「白頭山の吹雪」と題するプロパガンダ絵画が取り上げられています。

 1991年12月に彼が朝鮮人民軍最高司令官に就任して最初の誕生日に発行されたということもあって、雪深い白頭山の山頂に立つ“将軍様”(それにしても、この絵の“将軍様”カッコ良いですねぇ。別人みたい)と彼に続く人民軍将兵の隊列を描き、最高司令官の地位を象徴的に表現する画面構成となっています。まぁ、見ようによっちゃ、“将軍様”だけが元気で、残りの人民は吹雪にさらされながら行軍している、という現実を表現しているようにも見えなくないのですが…。

 北朝鮮のプロパガンダ絵画にはいくつかのスタイルがありますが、その一つに、ナポレオン時代のフランス古典主義の大家・ダヴィドのスタイルを真似るというパターンがあります。「白頭山の吹雪」は、明らかに「アルプス越えのナポレオン」を下敷きにしたものですが、その他のプロパガンダ絵画の元ネタ探しをやってみるのも面白いかもしれません。

 作品の部隊となった白頭山というのは中朝国境の山で、朝鮮民族にとっては彼らの建国神話にも関わる聖なる山とされています。歴史的事実としては、金正日はハバロフスク近郊で父親の金正日がソ連軍大尉として訓練を受けていたときに生まれたわけですが、北朝鮮当局は「“将軍様”は“首領様(=金日成)”の革命家の血脈を受け継いで聖なる白頭山で生まれた」ということを強調していますので、2月16日のお誕生日には、必ず、白頭山が登場してきます。この絵では、バックに天池(白頭山頂のカルデラ湖)の特徴的な景観が見えるので、人民はすぐに作品の舞台が白頭山であると了解できる仕組みになっているわけです。

 ところで、画面右上の「白頭山は私が生まれた場所だ」という趣旨の英語の記述が“Mt.Paekdu is my native place.”とあるのは、英語の表現としてどうなんでしょうねぇ。外国旅行の時に書かされる入国の書類では出生地の欄は“birth place”とか“place of birth”となっていた気がするんですが…。まさか、“万能の天才”ということになっている“将軍様”が間違えるなんてことはありえないでしょうから、世界各国の入国審査の書類のほうが間違っているということなんでしょうね。すくなくとも、かの国に問い合わせたら、そういう答えが返ってきそうな気がします。

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 メーン号事件
2006-02-15 Wed 22:41
 今日(2月15日)は1898年にメイン号事件が起こった日です。という訳で、ずばり、“Remember the Maine”のスローガンが入ったカバー(封筒)を取り上げてみましょう。(画像はクリックで拡大されます)

Remenber the Maine

 1895年4月、スペインの植民地支配下にあったキューバで、ホセ・マルティを指導者とする独立戦争(1868~78年の独立戦争と区別して第2次独立戦争ということもあります)が勃発します。マルティは開戦早々に戦死してしまいますが、その後もキューバ人による独立運動は粘り強く続けられ、マクシモ・ゴメス将軍ひきいる独立軍はスペイン軍をあと一歩のところまで追い詰めるところまでこぎつけました。

 一方、アメリカ国内では、キューバの独立戦争がはじまると、ハースト系およびピュリッツァー系の新聞社は、スペインの暴政をセンセーショナルに取り上げ、自由を求めて戦うキューバ人を救い、アメリカの権益(アメリカはキューバの砂糖農場に莫大な投資をしていた)を擁護するためにも、スペインを討つべしとの世論を形成していきました。

 こうした状況の中で、1898年2月15日、ハバナ港に停泊中のアメリカの戦艦メイン号が爆発し、将兵ら266名が亡くなります。ハースト系の新聞社は、事件をきっかけに、より強烈な反スペイン・キャンペーンを展開し、加熱するキャンペーン報道に煽られたアメリカの国内世論は「メーン号を忘れるな」のスローガンとともに沸騰。4月25日、アメリカは、ついに、スペインに対して宣戦を布告しました。米西戦争の勃発です。この間の経緯は、映画『市民ケーン』にも採用されていますから、ご存知の方もすくなくないでしょう。

 今回ご紹介しているカバーは、米西戦争開戦後の1898年9月、インディアナ州内の郵便に使われたものですが、星条旗に“メーン号を忘れるな”のスローガンという、なんとも分かりやすいプロパガンダのマテリアルです。

 米西戦争を始めるにあたって、アメリカは、キューバの独立闘争を支援することを大義名分としていましたが、1898年10月、彼らはキューバ独立軍の頭越しにスペインと講和条約(パリ条約)を結んでしまいます。その結果、キューバは米軍の軍政下に置かれ、独立は事実上、反故にされてしまいました。

 ちなみに、後になって、米西戦争のきっかけとなったメイン号の爆発事件は、スペインの仕業でもなんでもなく、エンジントラブルによるものであった可能性が高いことが明らかになっています。

 大量破壊兵器の存在を口実にフセイン政権を攻撃してみたものの、肝心の兵器はさっぱり出てきていない点や、民主的な選挙でイランと親和的なシーア派勢力が勝利を収めるととたんに不機嫌になるところなんか、どうもあの国って、100年前も現在も大して変わってないように見えてしまうんですよねぇ。

 まぁ、そのあたりの100年間のアメリカの歴史については、去年『反米の世界史』なんて本を作ってみましたので、よろしかったら、ご覧いただけると幸いです。

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 チョコレートの切手
2006-02-14 Tue 22:00
 今日はバレンタインデーです。というわけで、定番モノですが、こんな切手を持ってきてみました。

      スイスのチョコ

 この切手は、2001年、スイスが発行したチョコレートの切手です。チョコレートそのもののデザインといい、チョコレートの香りがつけられているところといい、発行当初はかなり話題になりました。レースの刺繍切手や木片切手など、その後のスイスの“変り種”切手の原型ともいうべきもので、スイスの切手史においても重要な1枚だろうと思います。

 最近のスイス切手には、いわゆる“変り種”が多く、それを見て、「スイスよ、お前もか」とお嘆きのオジサン収集家も多いようです。でも、冷静に考えてみると、スイス郵政の方針は、それほど邪道なこととは僕には思えません。

 切手は、もともと、郵便料金前納の証紙なわけですが、たいていの国では、メディアとしての機能も重視されています。メディアとしての切手なんていうと、政治的なプロパガンダ切手を連想する人が多いかもしれませんが、実は、自国の文化遺産や産業を広く世界に紹介するのだって、“小さな外交官”といわれる切手の重要な役割のはずです。

 いうまでもないことですが、メディアとは、本来、「(情報伝達などの)媒体」です。媒体である以上、それはあくまでも手段でしかなく、重要なのは、そうした手段を通じて発信される情報んはずです。したがって、切手をメディアとして活用するには、伝えるべき内容に最もふさわしいソフト(デザイン)を制作し、見る者にアピールするという発想は必要でしょう。

 チョコレートや刺繍、木材、さらにピングーのキャラクターは、どれもスイスにとっての重要な輸出商品ですから、他国の商品と差別化をはかる必要があります。それゆえ、スイスという国にとって、切手というチャンネルを使ってそれらを国際的にアピールしようとすることは、それじたい、しごくまっとうな行動です。また、意表をつく斬新なデザインは、その効果の点でも、アピール度満点で、成功を収めていると評価してよいでしょう。

 ただ何も考えずにアニメの切手を垂れ流しているだけにしか見えないような極東の島国の担当者には、すこしはメディアとしての切手の使い方について、スイス郵政の爪の垢でも煎じて飲んで、しっかりと考えていただきたいものです。

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 レバノンのスキー
2006-02-13 Mon 23:43
 アラブ世界というと、日本では“ひたすら砂漠が広がっている灼熱の地”というイメージが強いようです。でも、一口に、アラブ世界と言っても、東はイラクから西はモロッコまで非常に広い範囲にわたっているわけで、その全てを一緒くたにすることはできません。

 たとえば、この1枚(画像はクリックで拡大されます)をご覧ください。

レバノンのスキー

 この切手は、1955年にレバノンで発行された航空切手(エアメール用の切手)に、1959年、新たな額面を加刷したものですが、杉林の中を疾走するスキーヤーが描かれています。エアメール用の切手ですから、上空に小さく飛行機も描かれていますが、デザイナーとしては、スピードの表現としてスキーの滑走を取り上げたものと思われます。

 中東のレバノンでスキーなんかできるのか?とお思いになる方も多いかもしれませんが、できるんですねぇ。

 じつは、レバノンはアラブ諸国の中では非常に水資源が豊かで、国土の南北には標高2500~3000m級の2大山脈(レバノン山脈とアンチレバノン山脈)がそびえています。このため、山岳地帯では積雪が観測され、1975年の内戦以前はスキー目的の観光客も多数訪れていました。(現在では内戦も終わっていますが、どうなんでしょうねぇ)

 ちなみに、レバノンとシリアの国境地帯の山脈の自然条件は同じですから、シリアの山岳地帯でもスキーが可能なのは言うまでもありません。

 昨日の引き続き、トリノ・オリンピックの最中ということで手持ちのウィンタースポーツの切手のなかから探してきた1枚をご紹介しました。

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 70年前のジャンプ
2006-02-12 Sun 23:44
 オリンピックのジャンプで原田選手がまさかの失格というニュースには本当にビックリしました。まぁ、残りの選手は、これに動揺することなく、良い結果を出して欲しいものです。

 さて、ジャンプの話題ということで、今日はこんな1枚をご紹介しましょう。

第四回国体(ジャンプ)

 この切手は、1949年3月3~6日、札幌市郊外で行われた冬季国体スキーの部の開催にあわせて発行された記念切手です。当初、スキーの切手は、同年1月に開催されたスケート大会の記念切手と連刷で発行することも検討されましたが、大会の開催時期に1ヶ月以上のずれがあることやスケート切手を先行するスケート大会に間に合わせるには連刷切手は時間がかかりすぎるなどの理由から、両者は別個に発行されました。

 さて、この切手のデザインは、1948年中に作られたのですが、その元ネタになったのが1936年のベルリン・オリンピックの写真帳に掲載されていた写真です。デザイナーの渡辺三郎は、画面上の効果を挙げるため、元ネタの写真の向きを加工して、選手の上昇角度が50度以上もあるように演出したのですが、当時の収集家の中には、これを過剰な演出ではないかと批判する人もあったようです。

 なお、今回の切手に関しては、原画が年明け早々の1月21日には完成してしまい、同24日には早くも印刷局での作業が開始されました。このため、完成品の納入も通常より早く、2月中旬には東京をはじめ地方の各局に配給されたのですが、そのことが裏目に出て、現物を受け取った郵便局の現場では2月17日ごろから切手を発売するところが続出。局によっては、正規の発行日である3月3日にはすべての在庫を売り切ってしまったところもあるほどでした。まさに、名は体を表すといったところか、“フライング”切手と命名したくなります。

 それにしても、いまから70年前、1936年のオリンピックの時にはこんな格好で跳んでたんですねぇ。切手が“時代”を記録する一つの典型として、興味深いものがあります。

 なお、この切手を含めて、占領下の日本の記念切手については、ご興味がおありの方は、拙著『(解説戦後記念切手Ⅰ) 濫造・濫発の時代 1946-1952』をご覧いただけると幸いです。

 *現在、解説戦後記念切手のシリーズ第4作『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』(仮題)を4月に刊行すべく、鋭意制作中です。ご期待ください。


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 八咫鏡
2006-02-11 Sat 22:15
 今日は「建国記念日」。というわけで、建国神話にちなんだマテリアルのうち、ちょっと変わったモノをご紹介しましょう。

ボーイスカウト特印

 これは、1949年9月22日に発行された「全日本ボーイスカウト大会」の記念切手の初日カバー(切手を封筒に貼り、発行日の消印を押したもの)の一部分です。今回は、切手ではなく、切手に押されている特印(記念スタンプ・画像はクリックで拡大されます)にご注目ください。

 特印の中央には日本のスカウト記章が描かれています。この記章は戦後の1947年に制定されたもので、スカウトの3指のサインならびに3つの誓い(①神と国家に対する忠誠、②他者への奉仕、③心身の健全)を示す3枚の花弁のなかに、真実と知識を示す2つの星と、日本神話に由来する“八咫鏡(八稜鏡)”が配されています。

 八咫鏡は、皇位を示す三種の神器の一つで、記紀神話では、天の岩戸に隠れた天照大神が岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大神自身を映し、興味を持たせて外に引き出し、再び世は明るくなったと記されています。

 切手が発行された当時は敗戦後の占領下で、当初、GHQは八咫鏡をボーイスカウトの記章に用いることに強い難色を示していました。しかし、日本側は八咫鏡が正直・慈悲・知能を表す日本古来の誇るべきシンボルであることを強調してGHQを説得し、原案通り認めさせています。これは、当時の一般的な社会通念からすればきわめて異例のことで、GHQが日本のスカウト活動に対して非常に協力的であったことがわかります。

 おそらく、特印のデザインはこうした事情をなんら斟酌することなく、単純にボーイスカウト日本連盟の記章を取り上げただけなのでしょうが、この結果、この特印は戦後日本において建国神話の題材が取り上げられた最初の事例となりました。

 なお、この切手を含めて、占領下の日本の記念切手については、ご興味がおありの方は、拙著『(解説戦後記念切手Ⅰ) 濫造・濫発の時代 1946-1952』をご覧いただけると幸いです。

 *現在、解説戦後記念切手のシリーズ第4作『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』を4月に刊行すべく、鋭意制作中です。近々、内容についてはご案内できると思いますので、いましばらく、お待ちください。

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 トリノの鉄道郵便
2006-02-10 Fri 23:20
 あと数時間で、いよいよ、トリノ・オリンピックが開幕します。というわけで、なにかトリノに関わるもので面白そうなものはないかと手持ちのストックを探してみたら、こんなものが出てきました。

トリノ鉄郵カバー

 このカバー(封筒・クリックで画像は拡大されます)は、1859年12月、トリノからジェノヴァまで鉄道で運ばれたもので、この間の鉄道の車内で押された“POSTE AMBULANTE TRA TORINO E GENOVA”(トリノ=ジェノヴァ間の鉄道郵便)の印も押されています。

 このカバーが差し出された時期のイタリアは(イタリア統一運動)の只中にありました。トリノは、後に統一イタリアの盟主となるサヴォイア家のサルディーニャ王国の首都で、そのため、統一直後のイタリアの首都にもなりました。

 さて、どういう経緯でこのカバーが僕の手元にあるのか、記憶が定かではないのですが、こいつを見ていると、1998年にミラノから電車に乗ってトリノまで足を運んだときのことを思い出します。

 トリノというと、いわゆる聖骸布やフィアットが有名ですが、僕の個人的な好みで言えば、旧王宮を見た後、近くのリソルジメント博物館(Museo Nazionale del Risorgimento Italiano)に足を運ぶというコースがおすすめです。

 リソルジメント博物館というのは、リソルジメントが繰り広げられた19世紀から、20世紀のファシズムの時代までのイタリア史の資料が満載の博物館です。博物館の建物は、もともとは17世紀に建てられたカリニャーノ宮殿(サヴォイア家の分家、カリニャーノ家の宮殿)で、1861年にイタリア王国成立の宣言が行われた場所でもあります。宰相カヴールの書斎などが復元されているほか、写真、書類、記念品など満載で、トリノがイタリアの首都だった時期の最後にピエモンテ議会が開催された部屋も当時のまま保存されているなど、近代史が好きな人なら1日ゆっくり見ていても決して退屈することはないでしょう。

 イタリアの近代史についてはほとんど予備知識はなかった僕ですが、展示を見終わったときには、イタリア切手の時代背景について、タップリと勉強できた気になって大いに満足でした。

 観光客が足を運ぶことはあまりない場所のようで、観光ガイドにもあまり紹介されていませんが、機会があれば、切手や郵便史の背景に興味のある人は、是非一度、足を運ばれることを強くおすすめします。

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 原敬150年
2006-02-09 Thu 23:51
 “平民宰相”として教科書にも出てくる原敬(クリックで原敬事典というHPに飛びます)は、安政3年2月9日の生まれです。西暦に直すと1856年3月11日ということになりますが、まぁ、生誕150年のイベントなんかは今日行われるのでしょうから、このブログでもこんなマテリアルを取り上げてみましょう。

原敬のカバー

 このカバー(封筒・クリックで拡大されます)は、1920年の総選挙に際して原敬の名前で(差出人名は彼の署名を印刷したもの)差し出されたカバーで、中身は、政友会の候補者への投票を呼びかけた推薦状です。

 1920年の第42帝国議会で、憲政会や立憲国民党から男子普通選挙制度導入を求める選挙法改正案が提出されると、原はこれに反対して衆議院を解散。前年の選挙法改正で導入した小選挙区制を最大限に活用し、政友会が単独過半数を獲得する大勝利を収めました。

 この選挙の際に、彼は現職の総理でしたが、カバーの肩書きではそのことは触れておらず、“立憲政友会総裁”とだけなっています。

 戦前の総選挙に際しては、しばしば、この原のカバーのように、総理の名前で与党候補者の推薦文を送るということが行われています。大量にばらまかれているのでそれほど珍しいものではないのですが、印刷されている署名からは総理の筆跡も分かるので、僕は単純なお遊びとして集めて楽しんでいます。

 *業務連絡
 昨日、コメントをお送りいただいた“さより”様。お返事差し上げたいので、メール・アドレスをお教えください。

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 コウノトリ
2006-02-08 Wed 21:27
 秋篠宮妃殿下がご懐妊とのこと。まずは、おめでたいかぎりです。

 このニュースに関連して、先月の歌会始では、ご夫妻は、昨年9月、兵庫県豊岡市の県立コウノトリの郷公園で行われた、コウノトリの野生復帰を目指す放鳥式に出席した際、木箱からコウノトリを1羽ずつ放した時のお気持ちを揃って詠まれていたことが話題になりましたが、豊岡市でのコウノトリの野生復帰に関しては、昨年6月、切手も発行されています。

コウノトリ野生復帰

 これは、昨年6月6日、兵庫県のふるさと切手の1枚として発行されたもので、郵政公社は次のように説明しています。

***以下、郵政公社HPより***

 「 コウノトリ野生復帰」について

 かつて全国各地に生息していたコウノトリが、絶滅してから30年余りが経過しました。国内最後の生息地兵庫県豊岡市で、昭和30(1955)年からコウノトリ保護運動が始まり、同31(1956)年に特別天然記念物の指定となりましたが、昭和46(1971)年、日本国内最後の1羽が野外からその姿を消しました。

 保護と繁殖のため、豊岡市で昭和40(1965)年から始められた人工飼育は、平成元(1989)年に初めてヒナが誕生して軌道に乗り、同4(1993)年には「コウノトリ野生復帰」の構想が生まれました。以後、兵庫県、豊岡市および国土交通省等関係機関、そして地域住民が連携を図りながら、自然環境破壊等がもたらした絶滅の事象を再び繰り返さないように、コウノトリと共生できる環境が人にとっても安全で安心できる豊かな環境であるとの認識に立ち、人と自然が共生する地域づくりを目指すための「コウノトリ野生復帰推進計画」が展開されています。

 こうした取組みの結果、飼育されてきたコウノトリは、110羽を超え、地域の環境整備も進みつつあり、いよいよ平成17(2005)年秋には、再び大空へ飛び立つ運びとなっています。


・デザインについて

 豊かに流れる豊岡市の自然の象徴としての円山川。明日へのメッセージを伝えるかのような美しい夕映え。但馬地域の春の野山を彩るきんぽうげの花。そして、雄大に広がる大空を背景に、大らかに舞うコウノトリ。豊岡市の大きな魅力のひとつである自然が織りなす情景は、未来への確かな約束となって、そこに暮らす人々に大きな力を与えてくれるようです。

  コウノトリの背で微笑む妖精は、植物や生き物を見守り育む精霊です。「幸せを運び、家族を大切にする愛情深さ」の象徴であるコウノトリと一緒に、人と自然の共生に向けた未来への道案内をしてくれている‥‥、そんな想いを表現しています。

***引用終わり***

 コウノトリという題材、人気デザイナーの永田萌のデザインということもあって、この切手は人気があって増刷になったということですが、今回のことで、さらに人気が出てまたもや増刷、ということになるかもしれませんね。

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 溥儀100年
2006-02-07 Tue 18:16
 今日(2月7日)は、“ラスト・エンペラー”溥儀の生誕100年の日に当たります。というわけで、手持ちの溥儀がらみのマテリアルの中から、こんなものをご紹介します。

      溥儀宛カバー

 このカバー(封筒・画像はクリックで拡大されます)は、天津の日本租界にいた溥儀宛のものです。

 1912年2月、清朝最後の皇帝・宣統帝(溥儀)は退位し、清朝は滅亡しますが、その後も、清の宮廷(清室)と中華民国との間に結ばれた“清室優待条件”により、溥儀は紫禁城での生活を続けていました。しかし、1924年11月、クーデターで北京を征圧した馮玉祥は、紫禁城から旧皇族を追放。このため、溥儀たちは北京市内にあった父親(旧醇親王)の屋敷に逃れました。

 しかし、北京の世情は騒然としており、反満州感情の強い旧清朝の廃帝の身辺は決して安全とはいえなかったため、溥儀たちは租界内のドイツ人が経営する病院を経て日本公使館に逃げ込み、四ヶ月ほど日本公使館の賓客として過ごしたのち、天津の日本租界に移ります。

 それからしばらくの間、天津での溥儀の生活は平穏なもので、溥儀は完全に“過去の人”となっていました。日本政府も溥儀が日本国内や満州の日本租界などを訪問することは「甚だ困惑する」と表明し、諸外国から溥儀を政治的に利用していると見られることを極端に警戒していたくらいです。

 しかし、国民革命の進展は、そうした溥儀と日本の関係を根本から変えてしまいます。

 国民革命(北伐)とは、軍閥が割拠し四分五裂状態になっていた当時の中国で、軍閥を打倒し、国家の統一を実現するため、広東で成立した国民政府が発動した統一戦争のことで、蒋介石を総司令として1926年から1928年にかけて行われました。

 その過程で、1928年6月、国民革命軍の一部が、歴代の清朝皇帝の墳墓である東稜を盗掘。入口をダイナマイトで爆破し、埋葬されていた遺体を破壊した上、もちろん、副葬品の金銀財宝はことごとく持ち去る戸いう事件が起こりました。祖先の祭祀を重視する儒教的な世界観の中で生まれ育った溥儀にとって、これ以上の恥辱はなく、当然、彼は南京政府に抗議します。しかし、末端の実行犯が軽い処分を受けただけで、蒋介石からはひとことの謝罪もありませんでした。

 これを機に、溥儀は南京政府と袂をわかって父祖の地である満州での自立を真剣に考えるようになりました。しかし、彼には国民政府に対抗して自立するだけの軍事的な裏づけは何もなく、しばし悶々とした日を過ごすことになります。

 今回ご紹介しているのは、そうした溥儀宛に、1929年10月、アメリカから差し出されたカバーで、宛名が“Former Emperor of China”となっているところが印象的です。

 このカバーが差し出される3ヶ月ほど前の1929年7月、溥儀はそれまで生活していた張園という名の屋敷から静園という名の屋敷に転居しています。いずれも、所在地は天津の日本租界の中ですが、静園の名は「ここで静かに復辟(皇帝としての復位)の時期を待つ」という意味を込めて彼が自ら命名しました。そして、静園の溥儀の身辺には、のちに満州国国務総理となった鄭孝胥をはじめとして、旧清朝の遺臣が徐々に集まり始めるなど、静園の名前とは裏腹に、彼の周囲はにわかに騒がしくなっていくのでした。

 ちなみに、関東軍が満鉄の路線を爆破して満州事変を起こすのは、このカバーが差し出されてから約2年後の1931年9月のことで、両者は満州を国民政府の支配から切り離すという共通の目的の下に結託していくことになるのです。

 今日は、北方領土の日だとか秋篠宮妃殿下のご懐妊のニュースだとか、いろいろと話題の多い日でしたが、まぁ100年に1度ということで、溥儀の話題を取り上げました。ご了承ください。

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 金大中事件とICPO
2006-02-06 Mon 16:23
 1973年のいわゆる金大中事件について、韓国が外交資料を公開しました。それによると、田中角栄・金鍾泌の両国首相の会談では、事件を早急に幕引きして日韓関係を正常化させたいという両者の意図が一致し、金大中の再訪日という「原状回復」が白紙化されたことが生々しく綴られているようです。

 1973年8月8日午後、韓国の前国会議員、金大中が、東京・九段下のホテル・グランドパレスで正体不明の男達によって拉致されるという事件が起こりました。金大中は、一九七一年四月の大統領選挙に際して、野党・新民党の大統領候補として出馬し、朴正煕政権を激しく批判して、善戦。その後、病気治療のために来日したものの、1972年に“10月維新”が起こったことで帰国できなくなり、事件当時は、日本とアメリカを往復しながら、亡命に近い境遇の下で、反政府運動を展開していました。

 このため、金大中の活動に不安を抱いた朴正煕は、中央情報部(KCIA。現在・国家情報院)に拉致を示唆したといわれています。
 
 はたして、8月8日、金大中は、野党・民主統一党の実力者、梁一東(代表委員)と金敬仁のふたりとホテル内で昼食を取った後の午後1時19分、2212号室前を通り過ぎたところ、突然、何者かに襲われ、空室であった2210号室に引きずり込まれます。犯人グループは、この部屋で麻酔薬を染み込ませたタオルで彼の意識を朦朧させた後、彼をエレベータで地下駐車場まで運び、そこから車で大阪まで逃走しました。

 大阪に着いた一味は、用意していた船に乗り込んだが、このとき、金大中の足には重りがつけられたといわれています。このことは、途中で金大中を船から海へ投げ込むことを意味しており、拉致の目的が彼の抹殺を意図したものであったことがわかります。

 しかし、まもなく、事件は日本側に知られるところとなり、大阪埠頭を出て釜山に向かう途中の犯人グループの船を日本海沿岸で自衛隊機が追跡。さらに、アメリカ政府からも事件についての“憂慮”が韓国政府にも伝えられたことから、暗殺計画は中止され、金大中は釜山に連れて行かれた後、事件発生から129時間が経過した後の13日未明、ソウルの自宅近くで発見されました。

 当初、韓国政府は、事件への関与を全面的に否定していましたが、9月2日、警視庁特捜部が事件現場で在日韓国大使館の一等書記官・金東雲の指紋を発見したと発表。このため、韓国政府は、11月1日になって、事件は金東雲の単独犯行であり、金東雲は更迭したと発表します。

 一連の事件により、日韓関係は一挙に緊張しましたが、結局、日本側は11月1日のこの韓国側の発表を受けて、事件を“政治決着”というかたちで処理してしまい、真相は解明されないままに終りました。今回、公表された資料は、この間の両国政府の動きを生々しく記録したものです。

 ところで、こうした状況の中で、韓国郵政は1973年9月3日、“国際刑事警察機構(ICPO)50年”の記念切手を発行しています。

ICPO50年

 ICPOは、国際犯罪に関する情報の収集と交換、逃亡犯罪人の所在発見や国際手配書の発行を行うための国際機関で、もちろん、韓国も加盟しています。したがって、その設立50年の記念切手を発行することじたいは不思議でもなんでもないのですが、韓国の国家機関が外国で誘拐と殺人未遂という犯罪を行い、その隠蔽に躍起になっていた時期にこうした切手が出てしまうというのは、なんとも間の悪い出来事といえましょう。

 今朝の新聞を読みながら、なんとなく思い出した1枚なので、ご紹介してみました。


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 オリンピック選手村の消印
2006-02-05 Sun 23:29
 トリノ・オリンピックまでいよいよあと1週間になりましたが、5日は日本人選手団の選手村への入村式が行われたそうです。

 というわけで、今日はオリンピック選手村のマテリアルということで、こんなカバーをご紹介してみましょう。

 選手村カバー(全体)

 このカバーは、1964年10月11日、東京オリンピックの選手村から西ドイツ宛に差し出されたものです。

 東京オリンピックの時の選手村の開村は、9月15日のことで、同日から選手村正面入口の近くに“東京オリンピック選手村内郵便局”が開局。国内外宛の郵便物や外国郵便為替などを取り扱いました。また、選手村郵便局では、“東京オリンピック選手村内”ないしは“OLYMPIC VILLAGE /TOKYO”の表示の消印が使われました。上の画像は、クッリクすると拡大されるのですが、それでも、肝心の局名部分がいささか見づらいので、拡大した画像を↓に貼り付けておきます。

 オリンピック村消印


 今回、ご紹介しているカバーは、宛先不明で差出人戻しとなっているせいもあって状態はあまりよくないのですが、この消印の押されたカバーは人気があって意外と入手しづらいものですから、この程度が僕にとっては分相応というところかもしれません。

 なお、東京オリンピックの時の選手村郵便局の基本的なデータについては、拙著『切手バブルの時代』にもまとめてありますので、ご興味をお持ちの方はそちらをご参照いただけると幸いです。

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 丙戌
2006-02-04 Sat 15:04
 今日は立春。というわけで、干支の世界では、今日からが正式に丙戌の年ということになります。

 で、60年前の丙戌の年に発行された切手・葉書の中で、犬が登場する印象的なものということで、今日はこの1枚をご紹介します。

韓国の解放1周年の絵葉書

 この絵葉書は、1946年8月15日、米軍政下の南朝鮮(大韓民国はまだ発足していませんので、当時はこの呼び名が正式なものです)で“解放1周年”を記念して発行されたもので、太極旗を掲げて、日章旗を踏みつけながら行進していく朝鮮の人々の姿が描かれています。

 まぁ、分かりやすいといえば非常に分かりやすいデザインなのですが、画面の左側に↓な感じで犬が描かれているのは、案外、見落としている人も少なくないのかもしれません。

犬の部分

 デザイナーとしては、この犬は行進する人々のところに駆け寄ってきているつもりで描いたのでしょうが、見ようによっては、行進の人々と袂をわかって逃げていくようにも見えないこともありません。ひょっとして「“日帝の走狗”はとっとと出て行け」という寓意ではなのでしょうか。まさかねぇ。

 さて、現在、ちくま新書の1冊として3月上旬に『これが戦争だ!』を刊行すべく準備を進めているのですが、この葉書は、そのカラー口絵でご紹介する予定です。(もちろん、犬がらみの話題ではありません)

 また、刊行が間近になりましたらいろいろとご案内申し上げますが、なにとぞよろしくお願いします。
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 竹製のホーチミン
2006-02-03 Fri 23:02
 2月3日は香港でホーチミンらがベトナム共産党(まもなくインドシナ共産党と改称)を創設した日だそうです。というわけで、ベトナムで発行されたホーチミンのうち、今日はこの1枚をご紹介しましょう。

      竹のホーチミン

 この切手は、1949年頃、いわゆるベトミン(越南独立同盟)の支配地域で発行されたホーチミンの切手です。

 1945年3月、明号作戦を発動してインドシナ全域を軍事占領下に置きいた日本軍は、同年8月に降伏。その混乱の中で、ベトミンはベトナム独立を宣言してハノイで蜂起し、ホー・チ・ミンを国家主席とするベトナム民主共和国が樹立されました。しかし、九月に入ると、イギリスの支援を受けたフランス軍がインドシナ半島に再上陸。ベトミンと戦闘状態に突入し、第一次インドシナ戦争がはじまりました。
 
 第一次インドシナ戦争に際して、装備の面でフランスに劣るベトミン側は独立を求めて必死に抵抗したわけですが、そうした過酷な状況の中で作られ、発行されたのが今回ご紹介している切手です。

 用紙は、竹の繊維をすいてつくられたもので、素朴なデザインとあいまって、一種の“アジア雑貨”的な趣があって良い感じです。竹からできている紙というユニークな素材が用いられていることから、切手収集の入門書などではしばしば取り上げられているので、あるいは、ご存知の方も多いものと思われます。

 昨年12月10日の記事で取り上げた“老解”の切手もそうですが、僕は個人的に素朴な雰囲気の切手が好きなので、この切手もお気に入りの1枚です。

 ベトナムに関しては、去年(2005年)刊行した『反米の世界史』でもそれなりのスペースを割いて取り上げましたが、面白いマテリアルも沢山あって、なかなか、奥深い世界だと思います。その昔、『北朝鮮事典』という本を作ったことがあるので、その姉妹編として『ベトナム事典』を作ろうかと考えたこともあるんですが、今のところ実現の目途はたっていません。いつか、実現できればいいな、と思っているのですが…。

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 朝鮮総連のビル
2006-02-02 Thu 23:00
 在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の関連施設「熊本朝鮮会館」への課税を熊本市が一部減免したことの違法性をめぐる裁判で、福岡高裁は2日、会館を所有する有限会社への税減免措置を取り消す判決を下しました。

 判決文の中で、中山弘幸裁判長は、朝鮮総連について「北朝鮮の指導のもとに、北朝鮮と一体の関係で、在日朝鮮人の私的利益を擁護するために活動しており、わが国社会一般の利益のために活動していない」と指摘したうえで、「総連の会館使用は“公益のため”とは言えず、税減免には理由がない。熊本市の措置は違法」と述べました。朝鮮会館への税減免措置を裁判所が取り消したのは初めてのことです。

 周知のように、朝鮮総連は北朝鮮の在日本公民団体を名乗り、同国政府・指導部とは密接な関係にあります。このため、北朝鮮の切手には時として朝鮮総連のことが取り上げられますが、下の1枚もその一例です。

朝鮮総連

 この切手は、1965年、朝鮮総連の創立10周年を記念して北朝鮮が発行したもので、背後には東京千代田区の朝鮮総連本部ビルも描かれています。まさに、北朝鮮と総連が一体にあることを象徴するようなデザインです。

 朝鮮総連に関しては、1972年、当時の東京都知事・美濃部亮吉が“外交機関に準ずる機関”として認定したのをきっかけに、ながらく、多くの自治体が関連施設の固定資産税や不動産取得税の減免措置を行ってきました。しかし、近年、朝鮮総連の関連施設にはその所有者の大半が関連企業(朝鮮総連が法人ではないため)であったり、外交とは無関係なものも少なからずあることなどから、朝鮮総連の関連施設に対する固定資産税に課税することを決定する自治体が続出し、各地で裁判が行われています。

 今回の福岡高裁での判決は、今後、切手に描かれている総連本部ビルの運命にも大きな影響を与えることになるでしょう。場合によっては、「朝鮮総連は外交機関だ!」というようなプロパガンダの入った切手が発行されるなんてことも…まぁ、さすがにそこまではなさそうですね。

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 2・1ゼネスト計画
2006-02-01 Wed 23:38
 きょうから2月に突入してしまいました。2006年も早12分の1が過ぎてしまったのかと思うと…。

 さて、2月1日といえば、現在の日本人にとってはプロ野球のキャンプインか東京の私立中学の入試というのが風物詩になっていますが、歴史的には、頓挫した“2・1ゼネスト”計画というのを思い出す方も多いのではないかと思います。

 敗戦後、生産の停滞と生活物資の不足により、日本経済はハイパーインフレに見舞われていました。こうした状況の中で、占領軍の民主化政策が労働組合の結成を促したこともあって、生活権の確保や賃金引上げを求めて行動をおこす労働者が急増。1946年8月には産別会議(全日本産業別労働組合会議)と総同盟(日本労働組合総同盟)という全国組織も結成され、同年10月には、共産党系の産別会議の提起にもとづいて炭鉱・電力・電気機器・新聞などの産業部門でストライキを手段として大規模な労働争議がおこなわれました。
 
 労働争議は官公庁にも波及し、11月には、官公庁、郵便局、国鉄、教員などの労働組合によって全官公庁共同闘争委員会が結成されました。同委員会は、当初、政府(第1次吉田茂内閣)に賃上げを求める労働争議が展開していましたが、次第に、政府そのものの打倒を目標として掲げるようになり、産別会議や総同盟、その傘下の労働組合も巻き込んで、12月には全国労働組合共同闘争委員会が組織されます。

 これに対して、1947年1月1日、首相の吉田がラジオ放送で「かかる不逞の輩が我が国民中に多数ありとは信じませぬ」との発言したことから、労働側が激昂。全官公庁共同闘争委員会は1月18日、“2月1日のゼネスト決行”を決定し、全国労働組合共同闘争委員会もゼネスト参加を決定しました。

ゼネスト予告

 今回ご紹介しているのは、ゼネストに突入すると郵便もストップすることを説明した全逓(全逓信従業員組合)の付箋が貼られた葉書(画像はクリックで拡大されます)です。この種の付箋が貼られた郵便物はそれなりの数が残っていますので、こまめに探してれば、それほど入手困難というわけでもありません。

 さて、共産党の影響下で過激化する労働運動に対して、GHQはストライキ中止を警告しましたが、ゼネスト決行への動きはとまらず、一部で吉田内閣に代わる民主人民政府の閣僚名簿が作成されたというウワサも流れるようなありさまでした。このため、ゼネスト予定日前日の1月31日、マッカーサーはゼネスト禁止命令を発令。共産党もこれに抗うことはできず、全官公庁共同闘争委員会議長の伊井弥四郎議長が同日夜、ゼネスト中止指令をラジオ放送を通じて発し、ゼネスト計画は失敗に終わりました。

 ところで、ゼネストが中止されたということは、理論上、1947年(昭和22年)2月1日も郵便は通常通り行われており、この日の消印の押された郵便物もそれなりに存在するはずです。ところが、実際には、ゼネスト予定日だった2月1日の消印が押された郵便物というのは、非常に少ないように思います。“2・1ゼネストの中止”を切手で表現しようとするなら、予告の付箋とあわせて、その日に郵便が平常どおり行われていたことを示すマテリアルを並べると説得力が増すように思うのですが、こちらについては、来年の“ゼネスト中止”60周年のときにお目にかけることにしましょう。


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