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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ボースのトラ
2005-09-30 Fri 12:10
 プロ野球のセリーグはタイガースが優勝しましたね。僕は別段、ひいきのチームというのはないのですが(いつだったか、むさい男たちを見ているよりは綺麗なお姉さんたちを見てるほうが良いと冗談で言ったら、周りの連中はすっかり本気にしてしまい、以来、誰も野球やサッカーの話を僕には振ってくれなくなりました)、まぁせっかくの話題ですから、トラの切手の中からこんな1枚をご紹介しましょう。

自由インド仮政府

 この1枚は、1943年にチャンドラ・ボースの自由インド仮政府が発行しようとして、果たせなかった“切手”です。

 イギリスの植民地支配下で、反英独立運動の闘士として戦っていたボースは、第二次大戦が始まると、“敵の敵は味方”というロジックでナチス・ドイツの協力を得てイギリスと戦おうとします。さらに、太平洋戦争が始まると、1943年、東南アジアを占領してインド侵攻を計画していた日本の要請を受け、ボースはドイツから潜水艦に乗って日本にわたり、同年10月21日、シンガポールで日本の支援を得て自由インド仮政府を組織しました。また、ボースは、日本軍の捕虜となったインド兵を中心に結成されたインド国民軍の最高司令官にも就任。インド国民軍が、日本軍とともにインパール作戦で戦ったことは広く知られています。

 さて、自由インド仮政府は、その発足とともに、自らの存在をアピールするための手段として切手を発行することを計画。上に掲げたものを含めて切手の製造をドイツに発注しました。しかし、戦況の悪化で、完成品がドイツから仮政府の拠点があったラングーンまで届けらることが困難となり、この切手も発行されないまま終わってしまいました。

 切手には、インド国民軍の旗が大きく取り上げられていますが、その中央にトラが描かれているので、今日の切手としてご紹介してみたというわけです。

 トラを取り上げた切手というと、8月24日の日記 でご紹介した台湾民主国の切手をはじめ、まだまだ、面白いものがいくつかあるので、日本シリーズで阪神が優勝してもネタに困るということはなさそうです。次は、パリーグの優勝チームにちなんだネタで何か探すことになりそうですが、さてさて、こちらはどうなるでしょう。
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 ガブリエル
2005-09-29 Thu 12:08
 今日(9月29日)はキリスト教では大天使ガブリエルの祝日だそうなので、こんな切手を持ってきました。

ガブリエル

 この切手は、2000年にパレスチナ自治政府が発行したクリスマス切手の1枚で、大天使ガブリエルによる聖母マリアへの受胎告知の場面(ジオットの絵画)が取り上げられています。

 パレスチナ自治政府は、自らの管轄する区域で1995年から切手を発行していますが、キリスト教を題材とした切手も少なからずあります。パレスチナ=アラブ系というイメージがこびりついていると、一見、奇異に見えますが、アラブというのは非常に単純化して言えば“アラビア語を母語とする人々”のことですから、アラブのキリスト教徒がいてもなんら不思議はありません。じっさい、レバノンはキリスト教徒が多数を占めるように作られたアラブ国家ですし、エジプトには相当数のコプト教徒(土着化したキリスト教徒)がいます。パレスチナの場合は、域内にマイノリティとしてのキリスト教系住民が生活していることにくわえ、イエスの故地ということで多くのキリスト教徒が巡礼の訪れるという事情もありますから、こうした切手を発行するのも充分な理由があるのです。

 ちなみに、キリスト教でガブリエルといえば受胎告知がすぐに連想されますが、イスラムでは、ガブリエル(アラビア語ではジブリール)は預言者ムハンマド(マホメット)に神の啓示を伝えた存在として知られています。その場面をイメージとして表現したのが、イランで発行された↓の切手です。

イランのガブリエル

 切手では、ジブリールを示す翼の真中に“誦め(=声に出して読め)!”というアラビア語がデザインされています。この“誦め!”というのが、神からムハンマドに対して最初に下された言葉といわれているもので、下のほうに描かれた書物とあわせて、神がジブリールを通じてムハンマドにコーランを下したという内容が、イスラム教徒ならすぐに連想できる仕掛けになっています。

 それにしても、アイディア不足に悩まされながら、日々原稿の〆切に追われている僕としては、ほんの僅かでもいいから、ガブリエルなりジブリールなりが、なにか耳元でささやいてくれないかと、ついつい思ってしまいます。
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 共同通信のインタビューほか
2005-09-28 Wed 12:07
 昨日は共同通信社のインタビューを受けてきました。先方によると、特に何があったというわけではないのだが、人物紹介のコーナーで僕のことを紹介してくれるとのお話でしたので、喜んで出かけてきたというわけです。近日中に、皆様のごらんになっている新聞にも登場することになるかもしれません。

 せっかくの機会でしたから、昨日のインタビューでは、10月19日に刊行予定の『皇室切手 』にまつわる話をいろいろとしてきました。取材された記者の方は、戦後の皇室切手をめぐる宮内庁と郵政省の暗闘についてのエピソードなどに興味をもってくれたみたいです。まぁ、この辺の話題については、おいおい、このブログでも予告編というかたちで一部ご紹介していくことになると思います。

 なお、表紙のイメージは、結局、こんな感じ(↓)になりました。

皇室切手表紙

 ちょっとおとなしすぎるような気もしないではありませんが、まぁ、下手に刺激の強い内容にして無用のトラブルを起こすよりはいいと割り切るしかないでしょう。奥付上の刊行日は10月19日ですが、早ければ、10月15日頃には一部大規模書店の店頭に並んでいるかもしれません。見かけたら、手にとってやってください。

 さて、10月28日から始まる全国切手展<JAPEX >まで残り一月となりました。また、<JAPEX >がおわると、続いて11月1日からは白金の明治学院大学で”反米の世界史展”を開催する予定です。こちらについても、このブログで事前にご案内いたしますので、よろしくお願いします。(そういえば、今日発売の雑誌『SAPIO 』で、『反米の世界史 』が紹介されていました。ありがたいことです)

 斯様な状況ですから、これから一月はいろいろとばたばたして皆様にご迷惑をおかけすることも多々あるかもしれませんが、なにとぞ、大目にみてやってください。

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 大嘗宮と稲穂
2005-09-27 Tue 12:05
 昨日、天皇陛下が皇居内の水田で恒例の稲刈りをなさっている映像をテレビでみました。稲の苗は今年の春に陛下ご自身がお手植えになったもので、収穫した稲は新嘗祭など皇室の神事に用いられるとのことですが、こういうニュースを聞くと、すっかり秋になったなぁとあらためて実感します。

 さて、神道や皇室の儀礼が、さまざまなかたちでコメと関わってきたことはあらためていうまでもありませんが、そのことを一番ストレートに表現した切手が、昭和天皇の即位の大礼を記念して発行された↓の切手です。

 昭和大礼

 この切手は、カタログなどを見ると単に“大嘗宮”(大嘗祭の行われる場所)とのみ記されていますが、切手の下部には、しっかりと稲穂が描かれています。

 大嘗祭とは、天皇が即位後初めて行う新嘗祭(新穀を祀る儀式)のことで、以下のような手順で行われます。

 1)聖水沐浴 
 新たに即位した天皇が天羽衣(一種の湯帷子)を羽織って湯殿に入り、中の湯槽でこれを脱ぎます。そして、湯殿を出て新たな天羽衣に着替え、神饌(神に供える新穀)が用意された寝所に進みます。これは、新たに現人神となった天皇が地上に降臨した際に産湯を使ったことを意味するといわれています。

 2)神人共食
 新生した天皇は天照大神に神饌をそなえ、これを神とともに食べます。その際、天皇はまず大嘗宮東方の悠基殿(切手では右側の建物)で神饌を供した後、西方の主基殿(切手では左側の建物)でも神饌を供します。こうして、天皇には天照大神と同じ霊力が注入されます。

 3)御衾秘儀
 次いで天皇は、産着に包まれた赤子のような姿で皇祖神と神聖な共寝を行います。このときの天皇の姿は、穂に包まれた稲の姿を意味し、儀式としては稲魂の誕生が含意されているといわれています。

 以上のように、稲は大嘗祭において重要な題材であり、切手もそのことをふまえてデザインが作られたというわけです。

 なお、今上天皇の即位の礼に際しては、大嘗祭をめぐって“政教分離”の視点からの批判があるため、大嘗祭は天皇の国事行為ではなく、“皇室の公的行事”という位置づけで、宮廷費から費用を支出し、宮内庁の所管の下で皇居内で行う(昭和天皇以前は京都で行われていた)、ということで決着がはかられています。

 10月中旬に平凡社から刊行予定の拙著『皇室切手』では、大正・昭和・平成の3人の天皇の大礼ないしは即位の礼が郵便というメディアにおいて、どのように取り上げられてきたのか、比較しながら分析しています。是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。
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 テロリスト図鑑:ゲオルギ・ディミトロフ
2005-09-26 Mon 12:01
 かつての社会主義時代、ブルガリア建国の父として崇め奉られていたゲオルギ・ディミトロフは、1862年6月、貧しい労働者階級の子として生まれました。少年時代に植字工となった彼は、10代だった1901年に印刷工労働組合の書記に選任されたのを皮切りに労働運動の活動家として頭角を現し、1902年にはブルガリア労働者社会民主党に入党します。同党の分裂後は、同党左派(のち共産党)に加わり、中央委員二就任。第一次大戦末期の1918年には政府の戦争政策に対する反対運動を行い、投獄されました。

 第一次大戦後は、1921年にコミンテルンに参加。1923年には革命を目指して武装蜂起を企てますが、失敗して国外に逃亡。欠席裁判として死刑判決を受けています。

 ブルガリアのローカルな革命家であった彼の名を一躍世界的に有名にしたのは、1933年のドイツでの国会議事堂放火事件でした。事件はナチスによるでっち上げでしたが、このとき、たまたまドイツに滞在していたディミトロフは、ナチスによる共産主義者弾圧の網に引っかかって、事件に関与したかどで逮捕されます。結局、裁判では無罪判決を勝ち取り、釈放されるのですが、この“勲章”を手に、1935年、彼はコミンテルンの書記長に就任。以後、1943年にコミンテルンが解散した後もモスクワにとどまり、スターリンの側近として“活躍”します。現在、ロシアのウリヤノフスク州には彼の名にちなんだ“ディミトロフグラード(旧メレケス)”という土地がありますが、このことは、彼がかつてのソ連において大きな力を持っていたことを髣髴させます。

 第二次大戦後、彼は祖国ブルガリアに帰国。ナチスと組んで枢軸側に立った旧政権が打倒されたのを受けて、ソ連の衛星国の首相に就任。早々に、反政府運動を抑えるキャンペーンを開始して、師匠のスターリンに倣った恐怖政治を行い、多くの国民を強制収容所(収容所はBelene、Lovech、Skravena等にあったというのですが、さて、これらの地名はカナ書きではどう表示したらよいのでしょう)送りにしましたが、1949年、病を得て倒れ、療養先のモスクワ近郊の病院で亡くなりました。

ディミトロフ

 かつて、共産主義諸国が多数存在していた時期には、ディミトロフは身体を張ってファシズムと戦った共産主義の英雄として(もちろん、多くの国民を粛清した恐怖政治家としてではなく)、各国の切手にも取り上げられました。ここでご紹介しているのは、そのうちの1枚で、1982年の生誕百周年を記念して北朝鮮が、友好国のブルガリアとの友好関係を謳いあげる意味も込めて発行したものです。

 昨日終わった相撲の秋場所では、ブルガリア出身の琴欧州の活躍が話題となりましたが、さて、ブルガリア出身の有名人って他に誰がいるだろうと考えてみたところ、ふとディミトロフの切手が目に留まったので取り上げてみたという次第です。
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 博覧会場の皇太子
2005-09-25 Sun 11:59
 愛・地球博(愛知万博)は今日が最終日だそうで、さきほど、皇太子殿下・小泉首相らが出席しての閉会式が行われたとのことです。

 皇太子という立場の人物が国内各地を積極的に行啓するようになったのは、皇太子時代の嘉仁親王(後の大正天皇)が最初のことで、戦前期には、行啓記念の記念スタンプがしばしば使われたほか、折からの絵葉書ブームともあいまって、行啓記念のプライベートな絵葉書が盛んに作られるようになりました。これに対して、行啓そのものを記念したわけではないものの、行啓があったという事実を別の機会に取り上げた絵葉書としては、↓のようなものがあります。

台湾博覧会

 この絵葉書は、1922年に当時の台湾総督府が発行した絵葉書で、中央のシルクハット姿の人物が皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)です。写真は、同年6月17日、第一次大戦後の平和を祝福する目的で東京・上野公園で開かれた“平和記念東京博覧会”の台湾館を行啓した際の裕仁親王の姿を遠景でとらえたものです。

 1921年に外遊から帰国した裕仁親王は病身の大正天皇の摂政として、実質的に天皇の職務を代行していました。帰国後の皇太子は、国民の前に積極的に姿を見せるようになります。じっさい、帰国後まもなく、皇太子は外遊報道に貢献した新聞記者を接見した際、犬養毅は「皇室と申せばあたかも神様を仰ぐがごとく尊敬していた」ものの「親愛を欠く嫌いがあった」が、「ご帰朝とともに国民の皇室に対する感情は一変して尊敬より親愛になることと思ふ」と感想を述べています。この時代の人々の皇室に対するとらえかたが、現代の我々が“戦前”という言葉から連想するイメージよりも、はるかにリベラルなものであったことを物語る貴重な証言といってよいでしょう。

 東京博覧会・台湾館行啓の翌年にあたる1923年4月、裕仁親王は摂政宮として台湾そのものを行啓することになります。これは、当時の文官総督・田健次郎の下で進められていた宥和政策の一環として企画されたもので、本国政府の側にとっても、実質的な国家元首となった裕仁親王の存在を植民地の住民に認識させる上で重要な意味を持っていたいました。その意味では、今回ご紹介している絵葉書は、郵便というメディアを通じての、その“予告編”という役割を担っていたということも可能かもしれません。

 10月中旬に平凡社から刊行予定の拙著『皇室切手』では、この葉書を含めて、大正時代、皇太子(裕仁親王)の肖像が郵便というメディアにおいて、どのように取り上げられてきたのか、さまざまな角度から分析しています。ご興味をお持ちの方は、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。
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 錦帯橋
2005-09-24 Sat 11:58
 テレビを見ていたら、先日の台風14号での錦川(山口県岩国市)の増水により、橋杭が流されて一部不通になっていた錦帯橋が、昨日(23日)仮復旧し、5連の橋全体が通行できるようになったというニュースをやっていました。本格的な復旧工事は冬の渇水期に行い、来年2~3月に終わる見込みだそうです。

 台風の被害を受けた錦帯橋の復旧というと、切手収集家であれば、この切手を思い出す人が多いのではないでしょうか。

錦帯橋

 この切手は、1951年から発行が開始された「観光地百選」切手のうちの“建造物”部門に取り上げられた錦帯橋の切手です。

 「観光地百選」というのは、観光地を10部門に分けて人気投票を行い、各部門のベスト10を集めて、計100の観光地を選ぼうという毎日新聞社の企画(1950年に実施)です。この企画は、投票が葉書によって行われたため、観光地の中には地元の郵便局を巻き込んで組織的に大量の葉書を毎日新聞社に送るところが続出。郵政省にとっては、おもわぬ“特需”の到来となりました。このため、郵政省も、これだけ国民の関心が高いのなら、切手を出しても人気が出るだろうと考え、各部門の1位となった観光地を題材に観光地百選切手を発行することになったというわけです。

 錦帯橋は、そのうちの建造物部門の第一位となったわけですが、実は、投票〆切直前の1950年9月14日、キジア台風で流失してしまいました。

 このため、投票で1位を獲得した後、現物が流失してしまったことを理由に、錦帯橋を切手にすべきではないという意見も根強く、郵政省内にも錦帯橋を失格として第2位の耕三寺(広島県)を繰り上げ当選にすべきという意見も強かったようです。

 結局、1950年末になって、当初の予定通り、錦帯橋が切手に取り上げられることが決定。このときは、橋の再建費用を捻出するためにも、錦帯橋の切手をシリーズ第一弾として発行することも検討されました。しかし、現物の橋が存在していないのに切手を発行するのはいかがなものか、とのクレームがついたことから、この案は撤回され、切手は橋の再建を待って発行されるということで決着がつきました。他の観光地百選切手が、すべて1951年中の発行なのに対して、錦帯橋のみが1953年の発行となっているのはこのためです。

 さて、橋の再建工事は、1952年末にほぼ完了し、1953年1月、渡初式が行われました。当初、郵政省としては、渡初式にあわせて切手を発行する予定だったようですが、同年5月初の完工式にあわせての切手発行となりました。ここでご紹介しているのは、2種類発行された切手のうちの1枚で、外信書状用の24円切手ですが、このデザインは、渡初式当日に撮影された写真をもとに、郵政省のデザイナー吉田豊が橋を支える框組がはっきり分かるよう補正したものです。

 なお、この切手以外にも、観光地百選の切手にはいろいろと面白いエピソードがあるのですが、その辺の話にご興味をお持ちの方は、以前、僕が書いた『解説・戦後記念切手  濫造・濫発の時代 1946‐1952 』もお読みいただけると幸いです。
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 孫文のお墓
2005-09-23 Fri 11:55
 今日はお彼岸の中日。お墓参りの日です。(僕は、今年も仕事に追われていて行きませんでしたが…)

 というわけで、何かお墓がらみの面白いブツはないかと思って引っ張り出してきたのが、↓の絵葉書です。

汪政権

 これは、日中戦争下の1942年、日本軍占領下の南京にあった親日政権、汪兆銘政府が発行したもので、紫金山の国父陵(孫文のお墓)が取り上げられています。

 9月14日の日記 でも簡単に触れましたが、汪兆銘の南京政府は、自分たちこそが中国の正統政府であると主張していました。このため、南京政府としては、(彼らの主張によれば)日本との提携を訴えた国父・孫文の遺志に忠実なのは、日本と戦争をしている蒋介石の重慶政府ではなく、自分たちの方なのだ、ということをしめすために、こうした葉書を発行したというわけです。

 なお、葉書の右側には、汪兆銘の揮毫で「勵行新國民運動 完成中國革命 實現東亞解放」の文字が入っています。ここでいう“新國民運動”とは、一言で言ってしまえば、“日本と協力して東亜解放の戦争を戦うため”のプロパガンダとまとめてしまうことができましょう。“完成中國革命”のフレーズは、孫文が「革命いまだならず」と言い残して亡くなったことを踏まえ、国父陵の写真とともに、自分たちこそが孫文の遺志を継いでいるのだということを示すためのものと理解できます。

 昭和の戦争を題材とした作品を作るとき、汪政権の話は避けて通ることができないものですが、案外、気の利いたマテリアルというのは少ないものです。その意味では、こういう分かりやすいマテリアルは使い勝手がよく、作品構成の上で重宝しています。
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 イラン・イラク戦争勃発25周年
2005-09-22 Thu 11:55
 今日(9月22日)は、いまからちょうど25年前の1980年、イラン・イラク戦争が勃発した日です。

 イラン・イラク戦争の本質は、1979年のイスラム革命でイラン国内が混乱している隙に乗じて、国境問題を有利に解決しようとしたイラクのサダム・フセイン政権が起こした侵略戦争ですが、当時の国際社会は、革命の波及を恐れて、とにかくイランを勝たせないように、イラクを支援していました。そのことが、後にイラクの軍事大国化を招いたことは周知の通りです。

 さて、イラン・イラク戦争に際しては、両国がさまざまなプロパガンダ切手を発行しているのですが、今回は、前回の拙著『反米の世界史』(講談社) に収録しそこなったこんな絵葉書をご紹介します。

      イランイラク戦争

 絵葉書は、イランの革命戦士(右側の黄色の人物。帽子にはイランの国章が入っている)が、銃を片手に侵略者をぶっ飛ばしているというデザインです。革命戦士の背後には、ホメイニとおぼしき人物の肖像やイスラム共和国の国旗もかかげられており、なんとも分かり安い構図です。なお、侵略者は、恐らく、イラク兵のつもりなのでしょうが、見ようによっては米兵のようにも見えます。まぁ、どっちにしても、当時の革命イランから見れば不倶戴天の敵であることに変わりはないのですが…。

 この絵葉書には、「イランイスラム共和国」の銘が絵面の下に白地でも入っていますからおそらく、オフィシャルなモノであることは間違いないのですが、詳細については分かりません。ただ、裏面には切手が貼られ、1981年7月の消印が押されていますから、戦争の勃発後、比較的早い時期に作られたものであることだけは間違いなさそうです。

 先ほど、イラン・イラク戦争に関してはプロパガンダ切手が数多く発行されていると書きましたが、『イラン・イラク戦争』というタイトルで展覧会の作品を構成する場合、切手だけでは、どうしても単調なものになってしまいます。やはり、こういう官製の絵葉書の類や軍事郵便や捕虜郵便の封筒・葉書などを入れると、作品として仕上げた時にパンチが効いてくるので、大事にしたいマテリアルです。(なにより、絵のインパクトが強いので、お気に入りです)

 なお、全くの余談ですが、イラン・イラク戦争が勃発した当時、僕は中学生で、お彼岸のお墓参り(そういえば、もう何年も行けないでいます)から帰ってきて、夕飯を食べながらテレビを見ていたら、ニュースで戦争が始まったことを伝えていたのを鮮明に覚えています。1979年のイスラム革命の直前(1978年中だったと思いますが)、テヘランから引き揚げていた商社マンの子供がクラスに転入してきたこともあって、なんとなく、イランのニュースに関心を持っていたことも影響していたのかもしれません。あれから、25年も経ったのか、と思うと、ちょっと感慨深いものがあります。
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 アウシュビッツからの手紙
2005-09-21 Wed 11:51
 今朝の新聞に、サイモン・ウィーゼンタールが亡くなったという記事が載っていました。ウィーゼンタールは、ナチス戦犯追及の世界的な活動家で、オーストリアにユダヤ人資料センターを設立。元ナチス親衛隊幹部のアドルフ・アイヒマンや、「アンネの日記」のアンネ・フランクを逮捕した元ゲシュタポ(秘密国家警察)メンバーなど3000人以上のナチス戦犯の追跡にかかわったことで知られています。

 というわけで、今日はこんなカバー(封筒)をご紹介したいと思います。

アウシュビッツ

 画像は、1943年8月、アウシュビッツ(現ポーランド領・オシフィエンチム)のユダヤ人収容所から差し出されたもので、封筒の左側には、しっかりと“Konzentrationslager Auschwitz(アウシュビッツ強制収容所)” の文字も印刷されています。

 アウシュビッツの収容所は、欧州大戦勃発後の1940年6月のことで、当初は、ポーランド人政治犯が収容されていましたが、後にユダヤ人の大量虐殺の拠点となりました。収容所の入口には“Arbeit Macht Frei(働けば自由になる)”とのスローガンが掲げられていましたが、実際には収容された150万人の9割がガス室などで殺害されて生きて帰ることができなかったといわれています。

 ナチス・ドイツによるユダヤ人収容所は、アウシュビッツ以外にも、ダッハウやトレブリンカなど多数ありますが、なんといっても一番知られているのがこのアウシュビッツで、広島の原爆ド-ムと並び、“負の世界遺産”として世界の人々に戦争の惨禍を伝える存在といってよいでしょう。

 今回ご紹介しているカバーには、検閲を受けるという制約もあって、収容所での悲惨な生活の様子がかかれているわけではありませんが、そのことがかえって、収容者の悲惨な境遇を我々に推測させます。まさに、歴史を刻んだ郵便物の一つといってよいでしょう。
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 ヒジャーズの切手
2005-09-20 Tue 11:49
 ここ数日、コーランに関する本の翻訳にからんだ仕事を集中的にしています。で、そろそろ、表紙カバーのデザインをどうしようかという話になってきたので、僕としては、何らかのかたちでカリグラフィ(書道)の切手を使いたい、ということを版元に伝えています。その候補のひとつが下の1枚です。

ヒジャーズ・サーリフ・タライ・モスク

 この切手は、1916年10月、ヒジャーズで発行されたもので、カイロのサーリフ・タライ・モスクの扉の装飾から取った“聖メッカ”のカリグラフィが中央に大きく書かれています。

 第一次大戦中、ドイツ側に立って参戦したオスマン帝国を内側から切り崩すため、イギリスはメッカの太守であったハーシム家(預言者ムハンマドの子孫)のシャリーフ・フサインとの間で、アラブがイギリス側に立ってオスマン帝国に対する叛乱を起こせば、イギリスは、戦後、アラブ国家の独立を支援するとの密約を結びます。この密約に従って、1916年、いわゆるアラブ叛乱が起こり、シャリーフ・フサインはオスマン帝国からの独立を宣言。いわゆるヒジャーズ政権が誕生します。ちなみに、ヒジャーズというのは、アラビア半島の紅海沿岸、メッカとメディナを含む地域のことで、現在ではサウジアラビアの領内に含まれています。

 さて、ヒジャーズ政府の存在を内外に誇示するため、同政府の庇護者であったイギリスは、シャリーフ・フサインとも協議の上、ヒジャーズ独自の切手発行を計画。中央に“聖メッカ”の文字を大きく取り上げた切手を発行しました。今回ご紹介しているのも、その1枚です。

 このとき発行された切手は、イギリスが主導して作った関係上、“聖メッカ”の文字の元になったカリグラフィは、イギリスの実質的な植民地であったエジプト国内から題材が集められ、カイロで印刷されています。こうしたところにも、イギリスとヒジャーズ政府との関係が透けて見えていて、興味深いといえます。

 コーランから題材をとったカリグラフィの切手は“イスラム共和国”のイランが発行したものが多いのですが、やはり、コーランがらみの本の表紙には、アラブ圏(イランはペルシャ語圏)で発行された切手の中から題材を選びたいと思ってしまいます。ただ、そうなると、なかなか適当なものが見つからないのが頭の痛いところで、現実には、この切手とイランの切手を何枚か渡して、後はデザイナーさんにお任せ、ということになりそうです。
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 ホメイニ
2005-09-19 Mon 11:45
 どんな人間でも子供の頃はあったし、若い頃もあったはずなのですが、歴史上の人物の中には、年を取ってからのイメージが強烈すぎて、若い頃の顔を想像できない人というのが少なからずいます。

 たとえば、伊藤博文にしろ板垣退助にしろ、我々がすぐに思い浮かべる顔は立派なヒゲをたくわえたお札の肖像であって、幕末維新期の青年時代の顔ではありません。世界史に目を転じてみれば、イランのホメイニなんかが、若い頃の顔を想像しにくい人物の典型ではないかと思います。

 6月13日の日記 でもご紹介したように、1979年のイスラム革命後、1980年代、イランは自らの政治的主張を内外にアピールするために積極的に切手を活用してきました。しかし、そうしたプロパガンダ切手の洪水の中でも、ホメイニの肖像を正面から取り上げた切手は、いっさい、発行されませんでした。

 これは、シーア派最高位のイスラム法学者であるホメイニが、自分の肖像の入った切手を発行することは、偶像崇拝を禁止しているイスラムの教えに抵触するとして、現にこれを戒めていたためといわれています。実際、彼の肖像を描く切手は、彼が生きている間は発行されず(反国王デモの風景として、一部の参加者が彼の肖像を掲げている場面の切手はありますが・・・)、1989年7月に発行された追悼切手(↓)が彼の肖像を描いた最初の1枚となりました。

      ホメイニ

 ホメイニが亡くなる前年の1988年、長きに渡ったイラン・イラク戦争がようやく停戦となり、イランの外交戦略は大きく変わることになります。それに伴い、それまで、国際社会に対して自らの正当性を訴えるためのプロパガンダの媒体として活用されてきた切手は、一転して、国内の戦後復興や戦争によって頓挫した革命後の国家建設を国民に訴えるためのメディアとなりました。そして、ほぼ同時期に革命のカリスマであったホメイニが亡くなったことで、イラン政府は、ホメイニの理想を継承するという立場をアピールするため、ホメイニ切手を大量に発行していくことになるのです。

 それにしても、イランが発行するホメイニの切手は、年をとってからの肖像ばかりで、青年時代あるいは40代の脂が乗り切った頃の肖像というのは、ついぞお目にかかれません。敬老の日におばあちゃんの家に遊びに行った孫が、彼女の若かりし頃の写真を見てびっくりし、おばあちゃんから「私だって最初から年寄りだったわけじゃないのよ」といわれるというのは、まぁ、ありがちな光景なのでしょうが、ことホメイニに関する限り、最初から老人の顔をしていたと思いたくなるのは、僕だけではないように思います。
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 月に雁
2005-09-18 Sun 11:45
 今日は十五夜なので、単純素朴に、“月”を描いた日本切手の名品として、こいつを紹介します。

月に雁

 切手にほとんど興味のなくても、ある年代以上(そうですねぇ、30代半ば以上でしょうか)なら、写真などで見たことがあるでしょう。いわゆる“月に雁”です。

 この切手は、1949年11月1日からはじまった“郵便週間”の記念切手として発行されたものです。郵便週間というのは、前年までの“切手趣味週間(切手収集の普及〔郵政サイドの本音では、記念切手を買ってくれるコレクターを増やすためのプロモーション活動〕として1947年からスタート)”を吸収したもので、各種のイベントが行われました。

 郵便週間の期間中、郵政省は、この切手のほかに、1日には万国郵便連合75年の低額2種を収めた小型シートを発行、さらに3日には、「文化切手(文化人切手のことを、当時はこう呼んだ)」の第一陣として野口英世の切手を発行しています。

 切手に取り上げられた「月に雁」は歌川(安藤)広重の1832年ごろの作品で、旧松方コレクションの一品です。オリジナルの絵画は、39×12cmと小ぶりなもので、左上に「こむな夜が 又も有うか 月に雁」の句が書き込まれています。

 さて、現在でこそ、戦後の記念切手の王様になった「月に雁」ですが、発行当初は必ずしも人気があったわけではなく、一部の郵便局では年内に売り切れず、年明けになっても売られていました。この切手の人気に火がつくのは、1950年代後半の切手ブームの時代のことです。

 ちょっと専門的な話をすると(このパラグラフは、興味のない人はすっ飛ばしてください)、この切手は前年発行された同型の「見返り美人」と同様、上下二面・左右三面のシート六面がけの実用版で印刷され、目打の穿孔作業が行われました。また30枚の切手には、細かな定常変種もあるため、その気になりさえすれば、プレーティング(それぞれの切手が、どのシートのどの位置のものか、特定すること)を行うことも可能です。ただ、1枚でも1万円以上はする切手を最低でも30枚以上集めてきて、しこしこ、ルーペを見ながらポジションを特定していくという作業は、お金と根性のない僕には到底できそうにもありません。どなたか、チャレンジされる方があったら、遠くから喝采を送りたいと思います。

 なお、「月に雁」と1949年の「郵便週間」に関しては、以前、『解説・戦後記念切手  濫造・濫発の時代 1946‐1952 』の中で詳しく書いたので、ご興味をお持ちの方はご一読いただけると幸いです。

 今日、9月18日は満州事変の発端となった柳条湖事件の日なので、普段の僕なら、迷わず、その関連の切手やカバーを取り上げたところですが、ことしは戦後60年ということもあって、昭和史ネタ・中国ネタで満州がらみの話題を何度か取り上げてしまいましたので、ちょっと目先を変えた話を書いてみました。
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 カンガンスルレ
2005-09-17 Sat 11:41
 明日(18日)は、旧暦の8月15日、中秋の名月、十五夜の日です。

 中秋を祝う習慣は、日本のみならず中国・朝鮮半島にもありますが、韓国の場合は秋夕(チュソク)というかたちで旧暦の8月14~16日が連休になります。日本でいう“お盆休み”に相当するものと考えてよいでしょう。ということは、今日から、日本同様、かの国も3連休というわけです。

 秋夕は、もともと、収穫の季節を迎えて豊作を喜び、祖先の徳を追慕して祭祀を行い、自分の生まれた根本を忘れずに恩を返すためのものとされています。人々はこぞって帰郷し、帰郷後、伐草(ポルチョ:秋夕の前に祖先のお墓に行き、お墓の周囲を草むしりして清掃する)→茶礼(チャレ:秋夕当日の朝、祠堂を祀ってある宗家に集まり4代の祭祀を行う)→省墓(ソンミョ:茶礼を行い、朝食を済ませた後、伐草した祖先の墓に参る)というプログラムをこなすのだとか。

 なお、夜の月見もあるのだそうですが、月見に関しては、旧暦1月15日に新年最初の満月を見ながら1年の無事と健康を祈るデボルムもあるので、彼らが日本のように月見=秋と条件反射で考えるのかどうか、僕には良く分かりません。

 さて、日本で盆と正月が重要であったのと同様、朝鮮でも秋夕は正月と並ぶ重要な日で、この日にあわせて、各地でさまざまな伝統行事が行われます。なかでも、韓国南部の全羅南道の沿岸地域ではカンガンスルレと呼ばれる女性による集団での円舞が行われています。

 カンガンスルレは、もともと、古代の種まきと収穫のときに集団で歌を歌い踊った遊びがルーツと考えられますが、秀吉の朝鮮出兵(朝鮮側の呼称は壬辰倭乱)のとき、朝鮮水軍を率いた李舜臣の戦術が、この遊びから着想を得たといわれ、広く朝鮮全土にその名を知られるようになったともいわれています。ちなみに、現在、カンガンスルレは韓国の重要無形文化財に指定されていますから、おそらく、観光客が見物することも可能なのだろうと思います。

カンカンスオレー

 韓国では、1967年の9月15日(おそらく、この年の秋夕の日でしょう)に民俗シリーズの1枚としてカンガンスルレの切手を発行しています。ただ、惜しむらくは、縦型の切手なので、デザイン的に大勢の女性たちが輪になって踊っている広がりが、デザイン的に上手く表現されていないように思います。女性のチマ(スカートにあたる部分)を少しカットしてもいいから、横型の切手でデザインすれば、もっと集団の円舞の迫力が強調できたように思うのですが…。

 あいにく、僕はカンガンスルレの実物を見たことがないのですが、実物はこの切手よりもずっと見ごたえがあるのではないかと思います。すくなくとも、9月12日の日記 で書いたように、切手の絵柄に親しんでいたために、実物を見てがっかりするということはなさそうなので、是非一度、この時期に韓国に行って本物のカンガンスルレを見てみたいものだと思っています。
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 アンデルセン切手の背景
2005-09-16 Fri 11:38
 昨日の「視点論点」につきましては、予想以上に多くの方から反応をいただき、ありがとうございました。

 で、番組の枠が10分間しかなかったものですから、あまり突っ込んだ説明ができなかった点を、今日の日記で少し補足しておきたいと思います。

 “アンデルセン生誕200年”にあわせて、今年、いろいろな国が記念切手を発行しているのはご存知の通りです。その多くは、世界的な“アンデルセン”マーケットをターゲットにした輸出商品という色彩が濃いのですが、昨日の番組でもご紹介した中国のアンデルセン切手(↓)の場合は、そう簡単に切って捨てられないように思います。

      中国のアンデルセン

 この切手は、絵本画家として活躍する熊亮(代表作として、カフカの『変身』があります)がデザインしたものですが、全体のトーンは非常にアニメチックです。まぁ、日本でも、1971年の「カルピス劇場」でアンデルセンのアニメをシリーズ化して放送していたことがありますので、アンデルセンの物語の一場面をアニメ風に描くというのは、それじたいは、突飛な発想とはいえません。しかし、僕としては、この切手が6月1日に発行されたということに、一つの意味があるのではないかと考えています。

 実は、中国では、6月1日から5日まで、浙江省・杭州市で“第1回中国国際アニメ・マンガフィスティバル”が開催されました。このイベントは、中国としては初の国家レベルのアニメ・マンガのイベントで、イメージとしては東京国際アニメフェアの中国版と考えていただけば良いと思います。ただ、主催は中国国家広播電影電視総局(ひとことでいうと、中国の放送メディアの元締めです)、スポンサーには中国国内の大手メディアが名を連ねており、“国家”としてこのイベントを開催しているという空気が非常に濃厚です。(もっとも、現在の中国で、全国レベルの巨大イベントを“国家”を無視して開催できるはずはないのですが…)

 日本では、このイベントは日本製アニメを巨大市場である中国に売り込むための営業の機会としてとらえる報道が多かったのですが、中国側からすれば、自国のアニメ産業を海外市場に売り込むためのチャンスであったことはいうまでもありません。

 近年、中国のアニメは、量的には急激な拡大を続け、国際市場でも一定のプレゼンスを獲得していますが、質の面では先行する日米とはまだまだ大きな隔たりがあるというのが、専門家の一致した見方です。もっとも、アニメに限らず、文化的作品の質的な向上には“表現の自由”が不可欠で、この点で、共産党の一党独裁体制は決定的に不利な状況にあります。それでも、ともかくも産業としてのアニメを育成し、国際的に競争力をつけていこうとするのであれば、中国アニメが目指す方向は、当面、子供向けの“健全”路線に特化すると以外に選択肢はないように思います。

 その場合、アンデルセンの童話は中国アニメにとって非常に魅力的であることは疑いがなく、そのことが、アニメ・フェスティバルの開会初日にあたる6月1日という日付をねらってアンデルセンの切手を発行したことにつながったのではないか、と思います。すなわち、中国の発行したアンデルセンの切手は、中国アニメ、あるいは中国産のアニメ(風)キャラクターの商品見本を国際市場にばらまくための、プレゼンテーションの一形態であったのではないか、ということです。

 自国の商品を売り込むためのメディアとして切手を活用するという事例は、たとえば、かつて韓国が現代自動車のポニーを切手に取り上げたのをはじめ、近年では、フランスのイブサンローランやイタリアのプラダの切手など、それこそ山のようにあります。そういう視点からすれば、中国が自国アニメのサンプルとして、今回の切手を発行しても、なんら不思議はありません。

 もちろん、この切手を世界中の切手コレクターやアンデルセンファンに売れば、それじたいが商売になりますから、その意味では中国にとって二重に“おいしい切手”といえるでしょう。

 それにしても、ここ数年、日本でもアニメを題材とした切手が大量に発行されていますが、あの手の切手は、日本の重要な産業であるアニメを世界市場で後押しする役割を果たしているのでしょうか。あのレベルの出来栄えでは、かえって、日本のアニメ産業の足をひっぱているだけではないかと、僕個人的としては、非常に心配しています。
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 視点論点
2005-09-15 Thu 11:34
 ここ数日の日記でも書いているように、今日はNHK教育テレビの「視点論点」の収録に出かけてきました。

 「視点論点」への登場は、一昨年、『外国切手に描かれた日本 』を出したときに、外国切手に取り上げられた日本人の話をして以来、2年半ぶりです。今回のお題は、(何故?という感じがしますが)生誕200年を迎えたアンデルセンです。

アンデルセン

 今回のお話は、彼の祖国であるデンマークのアンデルセン切手(今年発行された“生誕200年”の記念切手 と1935年に発行された“童話集100年”の記念切手)を紹介した上で、外国では、アンデルセンという題材がどのように取り上げられているか、簡単に説明するという内容で、今日(!)22:50から放送の予定です。ちなみに、画像では、1935年の切手6種のうち、アンデルセンの肖像の15オーレ切手をご紹介しています。

 今回取り上げた各国の切手のうち、中国が発行したアンデルセン切手については、僕なりにちょっと面白い解釈ができたと思いますので、詳しいことは放送終了後の明日16日付の日記(午後4時ごろ更新の予定です)で、いろいろと情報を付け加えて書いてみるつもりです。まぁ、今日のところは、まず放送をご覧いただいた上で、のんびりお待ちいただけると幸いです。

★ 放送は無事、終了いたしました。ご視聴いただきました皆様、ありがとうございました。
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 汪政権の晴天白日旗
2005-09-14 Wed 11:32
 9月10日の日記 で、中国共産党の“解放区”に描かれた晴天白日旗(国民政府の国旗)の話を書いてみたところ、nagoya-jpさんから、日本軍占領地域の汪兆銘政権もこの旗を使っていたのではないか、という書き込みを頂戴しましたので、この点について、若干の補足をしておきたいと思います。

 日中戦争下の南京に樹立された汪兆銘政権は、建前としては、孫文の遺訓を踏み外した蒋介石の重慶政府と袂を分かった国民党の(自称)正統派が作ったものということになっていました。自分たちは、新政府を樹立したのではなく、南京に戻ってきただけなのだ、という意味で“還都”という表現を使ったのもこのためです。当然、国旗と国家も、彼らは、以前の国民政府のものを使う事を主張しました。

 ところが、現実には、重慶政府と南京政府は戦闘を行っているわけで、両者が同じ国旗を掲げてどんぱちやっていると、実際の問題として、敵・見方の区別がつきにくくなります。そこで、南京政府側は、従来の晴天白日旗の上に、「反共・和平・救国(だったと思いますが、間違っていたらごめんなさい)」の文字を書いた三角形の布(着脱可能)をくくりつけて使っていました。実際のイメージは、こんな感じです。

広東の記念印

 この記念スタンプは、1940年10月21日、日本軍の広東占領2周年を記念して使われたもので(正規の郵便印かどうかは、ちょっと怪しいですが…)、当然、ここで掲げられている晴天白日旗は、同年3月に成立した汪政権のもの。上部には三角形の布もしっかり翻ってます。ただし、デザイン上の都合で、三角形の布は実物よりかなり大きな比率で描かれていますし、スローガンも“和平”しか入っていません。ちなみに、広東占領を“広東更生”と言い替えているあたりも、占領政策の一端がうかがえて興味深いものです。

 汪政権にしてみれば、晴天白日旗の上につけられていた三角形の布は、あくまでも、戦闘などの際に重慶側と区別するための便宜的なものでしたので、重慶側と接触する可能性のない儀式などの場合には、三角形の布が取り外されて、晴天白日旗のみが掲げられることもありました。 

 ちなみに、この三角形の布、中国の人々からは“豚の尻尾”との隠語で呼ばれていたそうです。汪政権に対する、一般的な中国人の感情が垣間見えるようなニックネームといってよいでしょう。


 ***テレビ出演の予定***

 明日15日(木)22:50~ NHK教育テレビの「視点論点」に登場の予定です。お題は、今年生誕200年を迎えたアンデルセン。収録は明日の午後に行いますので、現在、最終的に内容を詰めているところです。ご期待ください。
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 司法保護記念日
2005-09-13 Tue 11:30
 今日(9月13日)は司法保護記念日です。司法保護記念日というのは、犯罪の予防と犯罪者の更正を見守る司法保護司や保護機関の働きを広く知ってもらう目的で、1933年、司法保護事業団が「司法保護デー」として制定したもので、1952年以降は、「少年保護デー」とともに11月27日の「更生保護記念日」に統合されています。

 地味なイベントで社会的な認知度も高くはないでしょうが、1947年に記念切手が発行されているため(下の画像は、その記念切手が2枚貼られたアメリカ宛のカバーです)、何の日だかはよく分からないまま、その存在は知っているという切手収集家は少なくないと思われます。

司法保護記念日

 さて、司法保護記念日の切手は、切手に取り上げあられている手の小指が異常に大きく描かれているため、“おばけ小指”が収集家の間で話題になったことがあります。このため、収集家の中には、逓信省を訪れて、この原画のモデルになった女性職員をつかまえて彼女の手を確認するといった、現在ならセクハラまがいのことを行う者まで現れる始末でした。

 それはさておき、この司法保護記念日の切手は、戦後日本の記念切手史を考える上で非常に重要な存在です。

 戦前期の日本では、記念切手の発行件数はせいぜい年に1~2回、場合によっては発行のない年もあるのが普通でした。ところが、戦後のインフレの中で、新たな“増収策”を採用する必要に迫られた逓信省は、従来の消極的な切手発行政策を改め、記念切手を積極的に発行するよう、切手発行政策を根本的に転換します。(切手の売り上げを単純に“収入”とすることは、実は、会計上の処理として問題があるのですが、その辺については、とりあえず、ここではスルーして説明を続けます。)

 もっとも、新規に多くの記念切手を発行する方針を立てたとはいえ、実際に当時の逓信省関係者に十分な企画・立案能力があったわけではありません。このため、1947年6月10日、各省次官宛に逓信次官通牒が発せられ、逓信省は各省および関係諸機関から記念切手の題材としてふさわしいものを公募するということがはじめられます。そして、そうした逓信省からの呼びかけに応じて、司法省が司法保護記念日の切手発行を提案。これが最終的に受け入れられて、以後、日本の記念切手政策は、“国家のメディア”としての記念切手をどのように活用していくのかという枠組の議論がなされないまま、またほかならぬ郵政じしんが切手発行の主務責任者としての自覚を欠いたまま、各機関から出された申請を調整することで発行計画が決められ、記念切手を垂れ流すというモデルができあがっていくのです。

 この辺の事情については、以前、『解説・戦後記念切手  濫造・濫発の時代 1946‐1952 』の中で詳しく書いたので、ご興味をお持ちの方はご一読いただけると嬉しいのですが、日本の郵政に切手をメディアとして活用しようという意識が希薄なことの制度的なルーツは、この司法保護の記念切手が発行された時点にまでさかのぼることができるという点は、(記念切手の歴史に語興味がおありなら)頭の片隅に入れておいても損はないように思います。
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 勅額の実物
2005-09-12 Mon 11:25
 昨日・一昨日(10・11日)、日本郵趣協会の全国会員大会があって博多に出かけてきました。せっかく博多に行ったということで、7月29日の日記 でもご紹介した“勅額切手”の実物を筥崎宮で拝んできました。


勅額切手

旧勅額

現勅額

 僕は、一番上の画像の切手の元になったオリジナルの額(真中)が拝めるものと期待していたのですが、こちらは痛みが激しいこともあって非公開の宝物殿に収められてしまい、金ぴかのレプリカ(一番下)しか拝むことはできませんでした。勅額の切手には灰色と水色があるのですが、実物はすすけて灰色か緑青がでて青緑なのか、どっちなんだろうとワクワクしながら足を運んだ僕にとって、現在のレプリカの色は意表をつかれるもので、非常にショックでした。切手が茶色系統の色であったなら、こういう思いをしないで済んだのかもしれませんがね。

 僕の脳内世界では、子供の頃からカタログなどで見慣れた切手のイメージというのはなかなか抜きがたいものです。数年前、初めて宮島に行って厳島神社の大鳥居を見た時には、青緑の切手のイメージを根本から覆す朱塗りの現物を見て、やはり、今回同様のものすごいショックを受けた経験があります。まぁ、鳥居が朱塗りなのは当たり前なわけで、それを青緑と勝手に思い込んでいた僕のほうが悪いのですが…。

 いずれにせよ、現実を知らない“書斎の学者”の、バツの悪い気分を十分に味わった一日でした。


 ***テレビ出演の予定***

 15日(木)22:50~ NHK教育テレビの「視点論点」に登場の予定です。お題は、今年生誕200年を迎えたアンデルセン。収録は15日に行いますので、現在、どんな内容にしようか、最終的に詰めているところです。ご期待ください。
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 選挙の切手
2005-09-11 Sun 11:23
 今日は総選挙の投票日ですから、選挙がらみのネタでいきましょう。選挙がらみの切手といえば、1949年1月の総選挙の際に用いられた“選挙切手”でしょう。

 選挙切手というのは、当時の2円切手に“選挙事務”と加刷した証紙のことで、候補者1人につき1000枚ずつ配布されました。候補者はこれを郵便局に持ち込んで同数の官製はがきと交換するか、そのまま開封の郵便物に貼って差し出すことができました。その証紙を貼った郵便物が↓です。

選挙切手カバー

 『日本切手専門カタログ』によれば、「この(証紙を使う)システムは面倒な手順を必要としたため、この選挙1回限りで廃止された」とありますが、この前後の選挙の時と比べてどう面倒だったのか、説明はありません。僕の友人に何年か前の衆院選に出た男がいますので(ちなみに、彼は今回の選挙には立候補しませんでした)、その辺のことを聞けば何か教えてくれるかもしれません。ただ、選挙費用が1円でも惜しいはずの候補者たちがこの証紙を大量に横流ししている(その結果、未使用は現在でもたくさん残っている)わけですから、よっぽど、この証紙を使うのがよっぽど面倒だったであろうことは容易に想像できます。

 ちなみに、このときの選挙では、昭電事件 の影響で民主党(当然のことながら、現在の民主党とは無関係です)が惨敗しています。さてさて、今回は?
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 解放区の晴天白日旗
2005-09-10 Sat 11:22
 昨日の日記にも書きましたが、今日・明日(10・11日)の2日間、東京・目白の切手の博物館で中国切手研究会(CPS)の切手展が開かれています。僕も、秋の<JAPEX>に展示予定の作品の一部試作プレヴューとして、「中国:抗日戦争から国共内戦へ」と題する小品を展示していますが、今日はその中から、1点だけご紹介しましょう。

 解放区の抗戦勝利

 このカバー(封筒)は、“解放区”(中国共産党の実効支配地域)の晋察冀辺区で発行された抗日戦争勝利の記念切手が貼られたものです。

 当時の中国正統政府は、いうまでもなく、蒋介石の国民政府でしたが、これとは別に、中国共産党(中共)は“解放区”と称して、各地を実効支配していました。特に、日本との戦争に際して、国民政府が内陸の重慶に引っ込んでしまったため、中共の解放区は抗日ゲリラの拠点として重要な意味を持つようになります。なお、この切手を発行した晋察冀辺区は、山西・チヤハル・河北にまたがるもので、1938年1月、八路軍(中共の軍隊)第115師団などによって樹立されたものです。

 この切手に関しては、馬上から日本兵を攻撃している八路軍の兵士が、国民政府が国旗としている晴天白日旗を掲げている点にご注目いただきたいところです。日中戦争下の1937年9月、国民政府はそれまで非合法としていた中共を正式に合法的存在とし、抗日のための国共合作が達せられます。その後、戦争の推移とともに、国共合作の内実は相当怪しくなってくるのですが、それでも、日中戦争が終わるまでは、なんとか、国共合作の建前は維持されていました。共産党支配下の解放区の切手に、国民政府の定めた国旗である晴天白日旗が堂々と掲げられているのも、その名残といえます。

 ちなみに、現在の中国政府は、彼らのいう“一つの中国”論の建前から、晴天白日旗がポジティブなかたちで取り上げられることに対して相当なーバスになっており(まぁ、彼らの立場からすると、当然といえば当然ですが)、昨年は国連の切手原画コンクールに入選した台湾の中学生の作品に晴天白日旗が描かれていることに猛烈に抗議し、この切手の発行を撤回させたという事件も起こしています。
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 上海の米軍
2005-09-09 Fri 11:20
 明日・明後日(10・11日)の2日間、東京・目白の切手の博物館で中国切手研究会(CPS)の展覧会があり、僕も「中国:抗日戦争から国共内戦へ」と題する小品を展示しています。

 10月末に東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の全国切手展<JAPEX>で、戦後60年にちなみ、“1945年”という企画展示をやるのですが、今回の展示はその一部の試作プレビューです。というわけで、中心的な内容は、第二次大戦の終結後、大日本帝国が退場した後の台湾や香港を含む中国地域がどうなったか、という点に主眼をおいています。国共内戦から中華人民共和国の成立までの過程は、掘り下げてみるといろいろと面白いものも出てきて、それだけで大規模な作品ができるのでしょうが、そちらに深入りしすぎると、“1945年”のコンセプトからちょっと逸れてしまいそうなので、今回はさらっと触れるだけにしています。(まぁ、国共内戦がらみのブツはあまり持っていないという事情もあるのですが…)

 さて、今日はくしくも、日本軍の岡村寧次大将が南京で中国への降伏文書に調印してから60周年にあたる日なので、こんなものをご紹介してみます。

上海無料郵便

 降伏文書が調印されると、当然のことながら、旧日本軍は中国側によって武装解除されます。しかし、日本との戦争が終わった時、国民政府の拠点は内陸の重慶にあったため、各地の日本軍を武装解除するための十分な人員を速やかに派遣することは、かなり難しかったのが実情です。このため、上海に関しては、国民政府に代わって、アメリカが日本軍部隊の降伏を受け入れ、旧日本軍の武装解除や収容所の解放を行うということが行われました。

 その際、収容所を解放した米軍は、元捕虜・抑留者(当然、現金なんかほとんど持ってるはずがありません)のために、無料の郵便サービスを提供しています。ここでご紹介しているのは、その無料郵便のカバーで料金無料を示す“free”の文字の入った印が押されています。

 ところで、この無料郵便に用いられた印には紫色と赤色があるのですが、現存するものの大半は紫色です。これは、紫色が一般の戦勝国民用の郵便物に使われたのに対して、赤色のものは無国籍避難民(実質的にユダヤ系)用の郵便物に使われたため、利用者数が大きく異なっていることによるといわれています。

 第二次対戦中、ナチスの迫害を逃れたユダヤ系難民の一定数は、ソ連・日本経由で上海に逃れていましたが、その中で抑留されていた人たちが、このカバー差し出したということになるのでしょう。なお、迫害を逃れてドイツの勢力圏内から亡命したユダヤ人に関するカバーについては、以前の日記 でも少しご紹介しましたので、ご興味がおありの方は、そちらもご覧いただけると幸いです。
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 ドバイの椰子の木
2005-09-08 Thu 11:18
 現在、アラブ首長国連邦(UAE)を構成している首長国は、連邦の結成以前は、休戦協定諸国(Trucial States)と呼ばれていました。これは、イギリスと休戦協定を結んで、イギリスの保護国化されていたことによる名称です。

 さて、その休戦協定諸国には、当初、ドバイにしか郵便局がありませんでしたが、第二次大戦後の石油開発に伴い、イギリスはこの地に郵便網を設けることを計画します。そして、休戦協定諸国で共通に使うための切手として、1961年1月、下の画像のような切手を発行しました。

ドバイの椰子の木

 切手は、7つの首長国にちなみ、7本のナツメヤシを取り上げたもので、ドバイの郵便局で使われた後、順次、他の首長国で解説される郵便局でも使われる予定となっていました。

 ところが、長年にわたってドバイとライバル関係にあったアブダビが、「7本のナツメヤシの大きさに大小があるのは、休戦協定諸国間の平等という原則に反している」として切手のデザインにクレームをつけてきました。アブダビにしてみれば、切手のデザインでは一番大きな木がドバイで、自分たちは格下に描かれていると理解したのでしょう。そして、1960年末に解説された油田地帯のダス島の郵便局でこの切手を使うことを拒絶しました。(ちなみに、ダス島の郵便局はアブダビ内に設けられた最初の郵便局です)

 結局、こうした事情から、この切手はドバイでしか使われることがありませんでした。また、切手にクレームをつけたアブダビは、1964年3月、自分たち独自の切手を発行し始め、後にその他の首長国もこれに続いたことから、いわゆるアラブ土侯国の切手濫発が始まることになりました。

 今日は午前中、先日亡くなった佐々成美さんのお葬式に参列してきました。植物切手のコレクターとして知られていた佐々さんを偲び、何か植物切手にまつわる話題はないかと考えて、とっさに思い浮かんだことを書いてみたという次第です。
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 スマトラの民家
2005-09-07 Wed 11:17
 太平洋戦争中、日本軍はスマトラ島(現インドネシア領)を占領し、こんな切手を使っていました。

スマトラの民家

 切手は1943年5月1日に発行されたもので、描かれているのは“パタグ族の民家”だそうです。1943年5月といえば、大東亜政略指導要綱が決定され、スマトラは日本の領土として重要資源(スマトラの場合は石油)の供給地とすることが決定されています。現地語表示がなく、“大日本帝国郵便”とか“スマトラ”といった日本語表示の切手が発行されたのも、そうした占領政策に沿ったものであることはいうまでもありません。

 切手の製造は、日本の印刷局ではなく、バタビア(現ジャカルタ)にあったコルフ印刷会社で行われました。コルフは、当時、東アジア最大の印刷会社で、他にも、日本占領地域の切手をいくつか製造していますので、切手に関心のある人間にとってはなじみのある名前です。

 一昨日(5日)、インドネシアのスマトラ島で飛行機が民家に墜落して多数の犠牲者が出たというニュースを聞いた時、僕はこんな家が立ち並ぶ景色を勝手に想像していましたが、案外、普通の町並みだったので、ちょっと拍子抜けしてしまいました。まぁ、日本だって都市部で藁葺屋根の民家を見かけることはまずないわけですから、当然といえば当然なのですが…。(ちょっと不謹慎でしたかね。お気を悪くされた方があったら、すみませんでした)
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 佐々成美さんを偲ぶ
2005-09-06 Tue 11:15
 植物切手のコレクターとして著名な佐々成美さんが4日、亡くなりました。佐々さんは、公益法人協会会長、公害等調整委員会事務局長など社会的な要職を歴任された方ですが、僕とは、切手を通じて親しくお付き合いをしていただきました。

 僕の記憶に間違いがなければ、ことし春の連休にあわせて浅草で開催されたスタンプショウにはお見えになっていたはずで、先日、肺がんで入院されたとうかがったときは非常に驚きました。先週(31日)、切手関係の友人2人と3人で病院にお見舞いにうかがったとき、付き添いのご家族のお話では、連休明けから体調を崩されたそうです。

 病院では15分か20分ぐらいお話しましたが、途中、「6月に刊行した『反米の世界史』は、新聞の広告で知って面白そうな本だと思った」といってくださいました。帰り際に、「10月には『皇室切手』という本を出します。見本が出来上がったら、1冊お持ちしますので、図版だけでもぱらぱらとご覧ください」と申し上げたところ、「病院まで来てもらうのは大変だから、家に送ってください」と言っておられたのが、僕とは最後の会話になりました。

 佐々さんは、現役時代に賞勲局でも仕事をなさっていた関係で皇室についても造詣の深い方でしたので、『皇室切手』刊行のあかつきには、いろいろとご意見をうかがいたかったのですが、あと少しのところで、それもかなわぬことになってしまいました。大変残念なことですが、供養のためにも、立派な本に仕上げるよう、これから最善を尽くすつもりです。

 謹んで、ご冥福をお祈りいたします。
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 日露戦争
2005-09-05 Mon 11:15
 今日はポーツマス条約の調印から100周年にあたるということで、こんなものをアップしてみました。

日露戦争

 これは、日露戦争の宣戦の詔勅が印刷された紙に、“明治三七八年戦役凱旋観兵式”の記念切手を貼り、特印(記念スタンプ)を押したものです。明治三七八年戦役というのは当時の日露戦争の呼称で、観兵式というのは、国家の元首など(この場合は、もちろん、明治天皇)が軍隊の威容を観閲する儀式のこと。画像では、切手と特印、それに詔勅の冒頭部分のみを示しています。

 戦争の勝利は国家にとって大いに慶賀すべきことですから、当然、記念切手が発行されます。しかし、実際に戦争がいつ終わるのか、ということはなかなか確定しにくく、数ヶ月前から準備を進めて、戦争の勝利と同時に切手を発行するということは現実には困難です。

 また、日露戦争の場合は、講和条約が調印された当初は、賠償金が得られなかったこともあって、“臥薪嘗胆”の生活を強いられてきた国民は政府の弱腰を非難し、日比谷では焼討事件が起こって戒厳令が施行されるといった有様でしたから、なかなか、戦勝記念の切手を発行するという雰囲気ではなかったものと思われます。

 実際、国民が日露戦争の勝利を実感できるようになるのは兵士たちの凱旋帰国が始まってからのことで、以後、次第に戦勝ムードが盛り上がるようになります。そして、講和条約の翌年(1906年)の4月30日に行われた凱旋記念の観兵式が、戦争の勝利を祝う最大の祝祭として、記念切手発行の対象となったわけです。もちろん、観兵式の記念切手というのは建前で、この切手が実質的な戦勝記念の切手であることはいうまでもありません。

 このマテリアルは、宣戦の詔勅(戦争の開始)と凱旋観兵式(戦争の終わり)のふたつを1枚に収めたものなので、“切手でたどる日露戦争”と行った類の作品を作るときには冒頭に持ってくるといいのでしょうが、いかんせん、大きすぎて(広げるとA3以上の大きさになる)ちょっと持て余してしまいます。

 日露戦争の開戦の詔勅は(そこに書かれている主義主張への評価は人によって違うでしょうが)名文として知られており、当時、いろんなところで引用されていましたから、小ぶりの紙なり絵葉書なりに詔勅を印刷し、記念切手を貼って特印を押したものも少なからずあると思います。できれば、展示作品には、そういうものを探してきて使うのが良さそうです。
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 マスウード
2005-09-04 Sun 11:12
 アフガニスタン現代史の最大の英雄といえば、大統領のカルザイではなく、なんといってもアフマドシャー・マスウードでしょう。

 マスウードは1953年生まれで、1979年のソ連軍のアフガニスタン侵攻後、ムジャーヒディーン(ソ連と戦うイスラム戦士) のゲリラ戦を指揮し、“パンシェールの虎”の異名で国民の尊敬を集めました。

 1992年、ソ連の後ろ盾を失った共産政権が崩壊すると、マスウードはムジャーヒディーン政権の初代国防長官に就任しますが、ムジャーヒディーン政権は権力抗争から空中分解し、アフガニスタンは内戦に突入。こうした中で、1994年に登場したタリバンは、パキスタンとサウジアラビアの支援を背景に急速に支配地域を拡大していきます。これに対して、反タリバン諸派はいわゆる北部同盟を結成し、イランとロシア、中央アジア諸国がこれを支援するという構図が生まれます。

 マスウードは、北部同盟の指導者としてタリバンとの戦闘を指揮するとともに、欧州議会で北部同盟への支援を訴えるなど、精力的な活動を展開していましたが、2001年の米国同時テロ事件の直前に暗殺されてしまいました。

 さて、そのマスウードは、2003年にフランスで発行された切手に登場しています。

マスウード

 フランスがマスウードの切手を発行した真意は公式には明らかにされていませんが、おそらく、アメリカの中東政策に対する批判の意図が込められていたことは間違いないでしょう。

 タリバンと北部同盟の内戦が始まった当初、アメリカは、タリバンに対して同情的でした。これは、アメリカの“友好国”と認定しているパキスタンとサウジアラビアがタリバンを支援し、“敵国”のイランが北部同盟を支援していたためです。その後、タリバンがビン・ラーディンとの関係を深めていっても、アメリカはイラン封じ込め政策の一環として、北部同盟を積極的に支援することはしませんでした。

 同時多発テロ事件の後、アメリカは首謀者とされるビン・ラーディンを匿っているという理由でアフガニスタンを空爆。それに伴い、ようやく北部同盟を支援するようになり、アフガニスタンを実効支配していたタリバン政権を崩壊させました。 

 こうした経緯を見ていると、マスウードはまさにアメリカによって見殺しにされた英雄ともいえるわけで、イラク戦争に反対し続けたフランスとしては(そういえば、イラク戦争が起こったのは、この切手が発行された2003年のことです)、アメリカの拙劣な中東政策を批判する意図を込めてこの切手を発行したと考えるのが自然なように思われます。

 久しぶりにニュース でカンダハルなんて地名を聞いたんで、今日は、この切手を引っ張り出してみました。
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 ルイジアナ
2005-09-03 Sat 11:11
 大型のハリケーン「カトリーナ」が米国ルイジアナ州に上陸し、州都ニューオーリンズに壊滅的な被害をもたらしたことは、ここ数日、ニュースでも盛んに報じられいます。

 歴史用語としての“ルイジアナ”は、現在のルイジアナ州の地域のみならず、ミシシッピ川流域の広大な地域を占めていました。この地に最初に入植した白人はフランス人で、地名はフランス国王ルイ14世にちなむものです。また、フランス領ルイジアナの首府とされたのが、ヌーベル・オルレアン、すなわち、現在のニューオーリンズ(フランス語の“ヌーベル・オルレアン”を英語読みするとこうなる)です。 

 その後、ニューオーリンズを除くミシシッピ川以東がイギリスに割譲され、ニューオーリンズとミシシッピ川以西も、一時、スペイン領となるものの、1800年、ナポレオンがスペイン本国を支配したことでスペイン領とされた部分はフランス領に復するという歴史をたどります。そして、1803年、フランス政府が財政上の理由から、ルイジアナの仏領部分を米国に売却したことで、この地域は米国領となりました。行政区域としてのルイジアナ州の発足は1812年のことで、当初の州都はバトンルージュでした。ちなみに、州都がニューオーリンズに戻るのは南北戦争中の1862年のことです。

      ルイジアナ

 こうしたルイジアナの歴史を思い起こさせてくれるのが、1904年に米国で発行された「ルイジアナ博覧会」(ルイジアナ購入100年を記念して行われた)の記念切手です。切手に描かれている地図のうち、色の濃くなっている部分がフランスから購入した地域です。その東側、ルイジアナ購入以前の米国の領土とくらべると、米国にとってルイジアナ購入がいかに大きな(物理的にも)買い物だったか、よく分かります。

 今日は、フランス植民地時代の流れを汲むケイジャン文化の中心地であり、ジャズの聖地としても知られるニューオーリンズが一日も早く復興されることをお祈りしつつ、“ルイジアナ”の歴史を簡単に振り返ってみました。
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 VJ-DAY
2005-09-02 Fri 11:08
 日本人の間では、いわゆる太平洋戦争の終戦の日は玉音放送のあった8月15日という認識が一般的ですが、世界的には、東京湾に停泊中のミズーリ号上で降伏文書が調印された9月2日を対日戦争の終結の日と考えている国がほとんどです。

 さて、その降伏文書調印の当日に、ミズーリ号の中に設けられていた郵便局で押された消印をご紹介しましょう。

      ミズーリの消印

 消印には、ミズーリの文字と東京湾停泊中を示す“TOKYO BAY”の文字、さらに、“JAPANESE FORMAL SURRENDER(日本の正式な降伏)”の文字が入っています。貼られているアメリカの切手は、戦時中に発行された戦意高揚宣伝の切手で、翼をV字型にした鷲(アメリカの国鳥)と“WIN THE WAR(戦争に勝とう)”のスローガンが入っています。戦争の勝利を記念するためのスタンプを押すには、うってつけの切手といってよいでしょう。

 8月26日の記事 では、ミズーリ号上での風景を描いた中国の切手(降伏文書の調印に参加していない中国共産党がこうした切手を発行するのはいかがなものか、と僕は思いますが)を取り上げましたが、あそこに描かれている鈴なりの兵士たちの中には、当日、ミズーリの中に設けられた郵便局に行って、記念スタンプを押した人たちが少なからずいたわけです。もしかすると、今日ご紹介しているマテリアルを差し出した人の姿が写っているのかもしれないのですが…まぁ、確認するのはまず無理でしょうね。
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 不発行の絵葉書
2005-09-01 Thu 11:07
 皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)の結婚式は、当初、1923年11月に予定されていました。しかし、この年の9月1日に関東大震災がおこったため、結婚式は翌1924年の1月まで延期されてしまいました。

 皇太子のご成婚にあわせて、当時の逓信省は、当然、記念切手・絵葉書を発行する計画を立てていましたが、準備されていた切手は、震災に伴う火災で焼失。わずかに、当時は日本の領土だった南洋群島に送られていたものが難を逃れたものの、結婚式当日までに本来必要な数の切手を作り直すことはできなかったため、記念切手・絵葉書の発行は中止となりました。

 これが、いわゆる“不発行切手・絵葉書”で、切手をかじったことのある人には広く知られたエピソードです。

不発行の絵葉書

 不発行切手は4種類(デザイン的には2種類)、同絵葉書2種類が発行の予定でしたが、ここでは、そのうち、ご夫妻の肖像を取り上げた一枚をご紹介します。画像では分かりにくいかもしれませんが、写真の部分は絹地に印刷されており、金地の部分の菊は型押しという豪華なつくりです。また、左下には結婚式当日の日付の入った記念スタンプが押されています。

 不発行切手・絵葉書は、残存数の極端に少ない8銭切手を除けば、高価ではあるものの、お金さえ払えば切手商やオークションでの入手はさほど困難ではありません。このため、僕もこれまでは「いつでも買えるから」といって手を出しませんでした。

 しかし、今年の秋に平凡社から『皇室切手』という本を刊行することになって、図版として使う必要があるために、ついに“年貢の納め時”と思ってここにご紹介した葉書を買ってしまいました。(支払いはもう済ませてあるので大手をふるって公開できます)

 予想される印税の額からすると、さすがに印税額を越えるということはないものの、利益率という点でちょっとヘビーな買い物だったのですが、まぁ、話題性のあるマテリアルなので、これからも使う機会はちょくちょくあるでしょう。というよりも、頑張って営業をかけて、この葉書を使えるような仕事をとってこれるようにしないといけませんね。
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