fc2ブログ
内藤陽介 Yosuke NAITO
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/
World Wide Weblog
<!-【↓2カラムテーブルここから↓】-->
 戦時下・占領下のクリスマス:バルカン-1917年
2005-11-30 Wed 15:58
 第一次大戦の発端となったサライェボ事件は、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻が、セルビア人青年に暗殺されたものでした。このため、大戦の勃発間もない1914年8月~12月、オーストリアはセルビアへの侵攻作戦を行います。

 これに対して、セルビアは抵抗し、オーストリア軍を撃退しますが、最終的に、ドイツ、オーストリア、ブルガリアの同盟軍に降伏。以後、セルビア兵はアルバニアとギリシアで抵抗を続け、英仏軍がそれを支援するという構図ができあがります。

 こうした状況の下で、1917年のクリスマスにイギリス兵が差し出した葉書が↓の1枚です。

バルカンのクリスマス

 詳しいことが調べきれなかったのですが、結構、よく見かける葉書なので、そこそこポピュラーな葉書なのではないかと思われます。兵士がまたがっているのは、馬ではなくロバでしょうか。「バルカンからハッピー・クリスマス」の挨拶文も印刷されています。全体にヨーロッパの田舎を思わせるのどかなデザインですが、その背後では激戦が繰り広げられていたものと思われます。

 1914年の夏に第一次大戦が始まった当初、多くの人々は、その年のクリスマスまでには戦争は終わるものと楽観的に考えていました。しかし、実際には、戦争は1915年にはいると激しさを増し、結局、1918年まで延々4年も続いてしまいます。で、この葉書が差し出された1917年は、大戦中最後のクリスマスカードということになるのですが、差出人の兵士は、無事、翌年のクリスマスを故郷で過ごすことができたのでしょうか。ちょっと、気になるところです。
別窓 | 英国:KGV 時代 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 パレスチナはアラブのものだ!
2005-11-29 Tue 15:56
 今日(11月29日)は、1947年に国連でパレスチナ分割決議案が採択された日です。

 第一次大戦以来、パレスチナではアラブ系住民とユダヤ系移民の対立が続いていましたが、第2次大戦で疲弊し、完全に当事者能力を失ったイギリスは、自らの責任を放棄して問題の解決を一方的に国連に委ねてしまいます。その国連が出した解決案が、パレスチナをアラブ国家とユダヤ国家に分割し、エルサレムは国連の管理下に置くというものでした。

 当時、パレスチナ地域の人口の大半はアラブ系でしたが、国連の決議案では、“ユダヤ国家”に割り当てられる地域は全体の約2分の1に設定されていました。しかも、その中には、沿岸部の豊かな地域も含まれています。当然、アラブ側はこの決定に不服でした。

 この結果、国連決議をたてにユダヤ国家樹立を既成事実化したいユダヤ系、それを阻止したいアラブ系の対立は激化し、1947年末には、パレスチナは事実上の内戦に突入。1948年5月のイギリスの撤退にあわせて、イスラエル国家の建国が宣言され、それを阻止しようとするアラブ諸国の介入で第一次中東戦争が勃発することになります。

 この間の複雑な事情は郵便の上にもさまざまな影を落としており、いろいろと面白いモノが残されているのですが、その中から、今日はこんなものを引っ張り出して見ました。

パレスチナはアラブのものだ

 このカバー(封筒)は、上述のような混乱の最中にあった1948年2月、パレスチナのベツレヘムからアンマン宛に差し出されたものです。当時は、まだ、パレスチナの主権者はイギリスでしたから、イギリス当局の発行したパレスチナ切手が貼られています。

 で、ご注目いただきたいのは、カバーの左側に貼られているラベルで、パレスチナの地図を背景にエルサレムの風景を描き、「パレスチナはアラブのものだ!」のスローガンが入っています。もともと、このラベルは1930年代に作られたものですが、国連による分割決議に抗議して、差出人が郵便物に貼ったのでしょう。

 分割決議からイスラエル建国までの過渡的な時期に関しては、ユダヤ側のマテリアルは豊富に残っているのですが、アラブ側のマテリアルで気の利いたものはあまり見かけません。それだけに、このカバーは、バランスの取れたコレクションを作るうえで、ちょっとしたアクセントになるので気に入っています。

 年明け早々、東京・目白の<切手の博物館 >で中東切手展というのをやる予定です。現在、何を展示しようかと思案しているところですが、もしかすると、このカバーも展示することになるかもしれませんが、さてさて、どうなりますやら。
別窓 | 英委任統治領パレスチナ | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 戦時下・占領下のクリスマス:泰緬鉄道-1943年
2005-11-28 Mon 15:53
 一昨日のブログ では、第二次大戦中のドイツのクリスマスカードをご紹介しましたので、今日は、アジアの戦場から差し出されたこんな1枚を引っ張り出してみます。

泰緬鉄道クリスマス

泰緬鉄道クリスマス裏

 この葉書は、第二次大戦中、泰緬鉄道の建設に動員されたオランダ人俘虜が差し出したものです。裏面(右側の画像)には、With best wishes for a cheerful Christmas!の一文が印刷されており、1943年のクリスマスを前に、俘虜たちに配給され、使用されたことが分かります。

 葉書表面には泰俘虜収容所第三分所の担当者が検閲済の印を押すスペースがありますが、この第三分所というのは、泰緬鉄道の建設中はビルマ地域におかれていましたが、1943年10月に工事が終了するとタイのニーケに移転しています。したがって、この葉書も、ニーケから差し出されたものということになります。

 検閲を受けた日付は、昭和19年1月13日。ナチス占領下のオランダに届けられた時には(ナチス・ドイツの検閲を受けたことを示す赤い印が押されています)、クリスマス・シーズンは終わっていたはずですが、葉書を受け取った家族にとっては、ともかく差出人が無事に生きていることが確認できただけでも何よりのプレゼントだったのではないでしょうか。

 まさに、「戦場のメリークリスマス」を地で行くような1枚です。
別窓 | タイ:ラーマ8世時代 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 本家のチンギスハン切手
2005-11-27 Sun 15:51
 お相撲は、結局、千秋楽を待たずに朝青龍の優勝が決まりました。やっぱり強いですねぇ。

 で、朝青龍の祖国モンゴルといえばチンギスハンということで、以前 、日本占領下の中国・内蒙古地区で準備されたものの、発行されずにおわった“幻の切手”のことをご紹介しましたが、今日はこんなものを取り上げてみます。

チンギスハン

 これは、1962年、チンギスハン生誕800年を記念して、社会主義時代のモンゴルで発行された4種セットの切手の1枚で、チンギスハンの肖像が大きく取り上げられています。

 社会主義政権時代の歴史は、ひとことでいえば、チンギスハン以来の自国の栄光を否定する歴史でした。

 1921年の革命を経て、1923年に誕生したモンゴル人民共和国は、世界で二番目の社会主義国=ソ連の衛星国として、国民に単一のイデオロギーを強制します。これに伴い、伝統的な宗教や文化は迫害され、モンゴル語は、伝統的なモンゴル文字ではなく、キリル文字(ロシア文字)で記述されるようになりました。

 こうした状況の中で、民族の英雄チンギスハンは、“民族主義”の象徴であると同時に、ロシアや中国を征服した“侵略者”として、社会主義政権にとって最大のタブーになってしまいます。このため、チンギスハンへの愛着を拭い去れない多くの国民は、面従腹背の生活を強いられていました。

 さて、1956年、フルシチョフがスターリン批判を行い、ソ連が柔軟路線をとるようになると、モンゴル国内では、“民族主義”に対するソ連の圧力が緩むのではないかとの期待が高まります。そして、1962年、モンゴル国内では、ソ連を刺激しないよう、純粋に学術的・文化的な分野に限定して、チンギスハン生誕800年の各種記念行事が企画されます。今回ご紹介している切手も、その一環として発行されたものです。

 しかし、純然たる学術研究の目的に限定して行われたチンギスハン生誕800年の記念シンポジウムの席上、ソ連からは祝電ではなく、“不快感”をあらわにした電報が届けられます。“宗主国”の不興を買ったことに慌てたモンゴル政府は、さっそく、各種行事の責任者であった政治局員、トゥムルオチルを解任。さらに、行事に関与した学者や文化人が多数、粛清されました。

 当然のことながら、記念切手の販売もただちに中止され、手持ちの切手を郵便に使用することも禁じられました。特に、4種セットのうち、チンギスハンの肖像を描いた切手は、モンゴル国内の切手収集家や切手商の間からも完全に姿を消し(所持していることが分かると、処罰の対象とされたという)、“幻の切手”といわれるようになりました。

 ただし、これらの切手は廃棄されてしまったわけではなく、モンゴル郵政の関係者は、チンギスハンが復権する日を夢見て、ひそかに切手を保管し続けました。そして、それは1989年に劇的な復権を果たすのですが、その辺の事情については、次に朝青龍が優勝した時にでもご説明することにしましょう。
別窓 | 南北モンゴル | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 戦時下・占領下のクリスマス:ドイツ-1941年
2005-11-26 Sat 15:48
 いよいよ、クリスマスまであと一月を切りました。

 昨日(25日)は、僕が週1コマ、非常勤で授業を担当している明治学院でもクリスマス・ツリーの点灯式がありましたし(僕はあいにく、参加しそびれましたが)、今日、拙宅に届いた雑誌『郵趣 』にはクリスマス切手の特集も組まれていました。ここ2~3日で、街中のクリスマス色も一挙に濃厚になったようです。

 というわけで、クリスマス・ツリー関係の何か気の利いたブツがないかと思って引っ張り出してきたのが、この1枚です。

ドイツ1941年

 この葉書は、第二次大戦中の1940年のクリスマスに際して、インゴルシュタット駐留のドイツ軍兵士が差し出したものです。ドイツ兵の守るモミの木の後ろには母子の姿が描かれており、国民の安全を守る軍のイメージをクリスマス・バージョンで表現したといった雰囲気があります。

 葉書が差し出されたインゴルシュタットはドイツのバイエルン州にあり、フランクフルトの東南およそ250km、ミュンヘンからはほぼ真北に120km、シュトゥットガルトからは東におよそ170kmの地点に位置しています。道路交通 の便が良く、長年にわたり、軍の駐屯基地として機能してきました。この葉書を差し出した兵士も、駐屯地で軍務についていた一人だったのでしょう。なお、第二次大戦後は、アウディの本拠地として、メルセデスやポルシェの本拠地となったシュトゥットガルトとともに、ドイツの自動車産業の重要な拠点となりました。

 1940年という年は、ドイツ軍が電撃作戦を展開して欧州を席捲した年でしたから、葉書の差出人にとっても、この年のクリスマスはさぞかし気分の良いものだったでしょう。しかし、1941年6月、ドイツはソ連に進攻し、独ソ戦が始まります。最初のうちは破竹の進撃を続けていたドイツ軍でしたが、冬の訪れとともにソ連軍の反抗が本格化し、次第に追い詰められていきました。ちなみに、日本が真珠湾攻撃を行い太平洋戦争が勃発した1941年12月8日は、それまで無敵を誇ったドイツ軍がモスクワ攻略をあきらめて撤退を開始した日でもあります。

 さて、今日のブログを書くためにいろいろと手持ちのストックを探していたら、ちょっと面白そうなクリスマス関連のブツがいくつか出てきました。まぁ、せっかくの時季モノですし、今日から何回かに分けて(不定期で)、ご紹介してみるのも悪くないかもしれません。しばらく、似たようなネタが続くかもしれませんが、よろしくお付き合いください。
別窓 | ドイツ:ナチス時代 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 顔を汚さない工夫
2005-11-25 Fri 15:46
 “皇室典範に関する有識者会議”が皇室典範改正問題に関して「女性・女系天皇は不可欠」との結論を出しました。この報告書どおりに皇室典範が改正されると、おそらく現在38歳の僕が生きている間に、日本にも女性天皇が誕生する可能性が大いに出てきました。

 まぁ、そのときになって、切手や郵便が現在のようなかたちで生き残っているかどうか(生き残っていて欲しいのですが)、ちょっと不透明なところもありますが、仮に、女性天皇が誕生した場合、僕としてはやはり“女王”の肖像を描いた切手を発行して欲しいものだと思います。

 そもそも、1840年にイギリスで発行された世界最初の切手はヴィクトリア女王の肖像だったわけですし、“女王様”の切手は各国からさまざまなものが発行されています。現在、東京・目白の<切手の博物館 >で開催中の企画展示「世界の女王様」が実現できたのも、“女王”を戴いたことのある国が少なからずあり、そうした国がいろいろな切手を発行しているからにほかなりません。

 さて、そうした“女王様”切手の中から、今日は、こんな1枚を取り上げてみました。

スペインカバー

 このカバー(封筒)は、1850年にスペインで使われたもので、当時の国王イザベル2世の肖像を描く切手が貼られています。今回は、切手そのものよりも、切手に押されている消印にご注目ください。中央が空白になっており、女王の肖像を(できるだけ)汚さない工夫がされているのがお分かりかと思います。

 郵便物の料が現在ほど多くはなかった19世紀には、郵便に使われた切手の再使用を防ぐための“抹消印”と、郵便物を引き受けた場所や日時を示す“証示印”を別個に押す(このカバーの場合、不鮮明ではありますが、切手の右側に赤い証示印が押されています)ということがしばしば行われていました。今回のケースでは、そうした二つの消印の特性を生かして、抹消印のほうを工夫して、切手の肖像をできるだけ汚さないようにしたわけで、同様の事例は、イタリア統一以前のシチリア王国の切手・消印にも見られます。

 ときどき、切手には消印が押されるから皇族の肖像を入れるのはけしからんという主張を声高に叫ぶ人がいますが、それなら、肖像を汚さないような消印を工夫して考案すればよいのであって、そうした努力を何もしないまま、消印云々といっているのは、本末転倒でしかないように思うのですが…。

 なお、皇室と切手をめぐって、いままで、日本ではいかに不思議な議論が展開されてきたかという点については、拙著『皇室切手 』もあわせてご参照いただけると幸いです。
別窓 | スペイン | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 感謝祭の絵葉書
2005-11-24 Thu 15:45
 今日は米国の感謝祭(Thanks-giving Day)の日です。というわけで、単純素朴にこんな絵葉書をご紹介しましょう。

      感謝祭絵葉書

 感謝祭恒例のご馳走である七面鳥に追いかけられる子供の姿がなんともかわいらしい1枚です。第一次大戦中につくられたものですが(裏面には1917年の消印が押されています)、戦時下ということを全く感じさせない出来栄えです。アメリカという国の底力を感じさせる1枚といってよいでしょう。

 間抜けな話なのですが、あるオークション誌で「Turkey, PPC, used in 1917」という記述が目に飛び込んできて、第一次大戦中のオスマン帝国に関する絵葉書のつもりで入札したところ、落札してきたのがこの葉書でした。まぁ、落札してきたのはこの1点だけではなかったし(本命のマテリアルはきちんと手に入りました)、この葉書じたいもせいぜい5ドル位の安いものでしたので、あまりトサカに来ませんでしたが・・・。それよりも、“怪我の功名”ですが、ぱっと見た瞬間、この絵が妙に気に入ってしまい、いつかはどこかで使ってやろうとずっと思っていたものですから、今日は感謝祭にちなんでブログに画像を貼り付けてみたというわけです。

 そういえば、その昔、クリスマスに七面鳥を1羽丸々買ってきてオーブンで焼いてみたことがあります。オマケにつけられていたレシピに忠実に作ったので、味のほうはそこそこ上手くできたのですが、何せ量が多くて一度には食べきれませんでした。そこで、残った身をわさび醤油で食べてみたり、サラダのトッピングにしたり、サンドイッチに入れたり、チャーハンの具にしたり・・・といった感じで、都合、年内一杯いろいろといじって楽しんでいたのですが、さすがに、紅白歌合戦を見ることになると、いい加減、普通の鶏が無性に恋しくなったことを思い出します。

 以来、七面鳥の丸焼きを自宅で作るのは自粛しているのですが、今日のような葉書を見ていると、またぞろ、七面鳥が食べたくなってきました。まぁ、今日のところは、七面鳥の肉は止めておいて、野生の七面鳥のラベルがついたウイスキー(=ワイルド・ターキー)でお茶を濁すことにしますか。

 さて、昨日のブログで予告した今朝のラジオ放送は、無事、終了しました。なにぶんにも、収録は約1月前の10月27日でしたので、自分でも話した内容を忘れていましたが、まずは無難にこなしていたように思います。お聴きいただきました皆様には、この場をお借りしてお礼申し上げます。
別窓 | 米国:ウィルソン時代 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 産業図案切手と傾斜生産方式
2005-11-23 Wed 15:43
 ★★★ 緊急告知! ★★★

 明日(11月24日)、文化放送(AM放送、周波数は1134kHz。放送は関東地区のみ)の番組「蟹瀬誠一・ネクスト 」の“ネクスト・朝イチライブラリー”のコーナーで、『皇室切手』の著者インタビューが放送されます。放送時間は、午前8時20分~30分ごろの予定です。

 よろしかったら、是非、聞いてやってください。

 ★★★★★★★★★★★★★


 さて、今日は勤労感謝の日です。

 日本の切手の中で、“はたらく人々”を取り上げた切手といえば、終戦後まもない1948年から発行された通常切手である“産業図案”切手を思い浮かべる人が多いのではないかと思います。

 産業図案切手は、戦後復興にむけての国民の意欲をかきたてるため、重要産業で働く人々の姿を取り上げたもので、戦後の日本切手の中では、珍しくメッセージ色の強いシリーズといってよいでしょう。なかでも、炭坑夫ならびに製鉄の切手は、非常に重要な意味を持つものとして注目に値する存在です。

炭坑夫

溶鉱炉

 1946年末、第一次吉田茂内閣が設置した石炭委員会は“傾斜生産方式”を提唱。1947年以降、これが戦後復興のための基本方式となります。

 傾斜生産方式の基本的な考え方は、限られた資金と資材を基礎素材の生産に集中的に傾斜させ、これを原動力として経済全体の復興をめざすというもので、具体的には、輸入重油を鉄鋼生産に投入して鋼材を増産→その鋼材を炭鉱に投入→増産された石炭を鉄鋼業に投入→増産された鋼材を炭鉱に投入・・・というプロセスを繰り返すことで、石炭と鉄鋼の生産回復を図ろうというものでした。(のちに食糧や肥料も増産の対象とされています)

 そして、そのための手段として、石炭を原価より安く鉄鋼業に引き渡し、鋼材を原価より安く炭鉱に引き渡すための価格差補給金の制度が設けられ、石炭・鉄鋼・電力・海運を中心に重要産業に重点的に傾斜金融を行うための復興金融金庫(復金)が設立されます。こうして、1947年以降、傾斜生産方式が本格的に開始され、戦後の復興がようやく本格的に開始されることになりました。

 産業図案切手は、こうした社会的背景の下に発行が開始されたもので、最も需要の多かった書状基本料金の切手(当初は5円、のち8円)に炭坑夫が取り上げられていたのは、あきらかに、石炭の増産が国策として重要な課題とされていたことの反映とみなすことができます。一方、石炭と並んで重要な産業であった製鉄は、高額の100円切手に取り上げられています。個人的には、この100円切手は、デザインや凹版彫刻の美しさなど、切手としての出来栄えという点で、機関車製造を描いた500円切手(産業図案切手の最高額面)をはるかにしのいでいるように思えます。やはり、題材としての国家にとっての重要度の差が、切手としての完成度にも影響を与えていると考えたいのですが、いかがなものでしょう。

 その後、戦後復興から高度経済成長へと時代の位相が変化していくと、どういうわけか、日本の切手には“労働者”があまり取り上げられなくなっていきます。その背景には、もしかすると、“労働者”という言葉に、ある種左翼的な政治臭が感じられるということもあったのかもしれません。

 とはいえ、現在の日本の労働者の相当部分を占めているはずのサラリーマンに関して、その働く姿が切手という国家のメディアにはほとんど取り上げらてこなかったという状況は、なんだか、非常にバランスを失しているような気がしてなりません。なんだか、日本の政府が、サラリーマンという存在をどのように考えているのか、その一端が垣間見えるようで、薄ら寒い思いがするのは僕だけではないでしょう。
別窓 | 日本:昭和・1945-52 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 鳩山一郎の葉書
2005-11-22 Tue 15:41
 昼食をとりながらTVを見ていたら、自由民主党(自民党)が結党50周年を迎えて記念式典をやったというニュースが流れていました。それを見て、こんなものが手元のストックにあったことを思い出しました。

鳩山一郎の葉書

 この葉書は、自民党の初代総裁となった鳩山一郎が差し出したものです。

 葉書が差し出されたのは、1953年9月のことで、この時点ではまだ自民党は影もかたちもありません。というよりも、この時期の鳩山は、吉田一郎の自由党と袂をわかって“鳩山自由党(分党派自由党)”を結成しており、同年4月の選挙(有名なバカやロー解散に伴う選挙です)では吉田の自由党と戦っています。

 鳩山と吉田の確執のルーツは、1946年の戦後最初の総選挙で日本自由党総裁の鳩山が組閣目前で公職追放になった際、追放解除となった暁には鳩山が総裁に復帰するという約束をしたうえで、吉田が自由党総裁に就任し、首相になったことにあります。その後、1951年に鳩山の追放は解除されますが、彼はその直前に脳梗塞で倒れ(葉書の文字が震えているのは、その後遺症のためかもしれません)、吉田がそのまま総裁・首相の座にとどまったことから、鳩山周辺のグループの反吉田感情が沸騰。両者の対立は、講和条約の発効に伴い、戦前からの大物政治家が続々と政界に復帰を果たしていく中で、憲法改正問題や外交路線、政治的背景の対立なども絡んで、泥沼の抗争へとつながっていきました。


 その後、鳩山は一時的に吉田の自由党に復党したものの、再び離党。1954年に日本民主党を作って、ついに、宿敵・吉田を退陣に追い込みました。しかし、少数与党政権で政権基盤が安定しなかったことに加え、社会党の勢力伸張に対抗する必要もあり、1955年、自由党と民主党が合併(保守合同)し、現在の自民党が誕生しました。初代総裁は鳩山です。

 その昔、この葉書を含めて、歴代の総理大臣経験者の名前で差し出された手紙類を集めて1冊の本が出来ないものかと考えたこともあるのですが、現在までのところ、実現にはいたっていません。まぁ、その手の手紙類のうち、残されているものの大半は、印刷された選挙関係のものですから、並べてみたところでカバーとしての面白さはあまりないのですが、読み物としては、それなりに面白いものができるやもしれません。このブログをお読みの出版関係者の方の中で、そういう企画にご興味をお持ちの方がいらっしゃったら、一度、ご連絡いただけると幸いです。
別窓 | 日本:昭和・1952-60 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 東京→大阪
2005-11-21 Mon 15:39
 昨日は、(財)日本郵趣協会の大阪南、布施、八尾、堺、河内長野、平野の各支部を中心に開催された“大阪南部地区合同郵趣例会”(平野郵便局で開催)にお邪魔して、先月刊行の拙著『皇室切手 』を題材とした簡単なトークを行い、あわせて本の割引販売とサイン会をさせていただきました。

 おかげさまで、84名ものお客様にお集まりいただき、講演は盛況のうちに無事終了となりました。また、用意した『皇室切手 』20冊はおかげさまをもちまして完売となり、うれしい限りです。いろいろと面倒を見ていただいた関係者の方々、なかでも、平野支部の中尾謹三さんには、この場をお借りしてあらためてお礼申し上げます。

 どういうわけか、僕はこれまで大阪に行くチャンスがほとんどなく、道頓堀も実際には見たことがないという始末なのですが、これを機会に、大阪の方々ともお付き合いが広がっていけばなぁ、と思っています。

 というわけで、今日は単純素朴に、東京から大阪宛の郵便物として、こんな画像をアップしてみました。

龍文カバー

 このカバーは、明治4年に発行された日本最初の切手である“龍文切手”の200文を2枚貼って、明治5年2月に大阪宛に差し出されたものです。元の所有者が展示のためにカバーを開いているため、切手に押されている、テン書体で“検査済”の文字が入った東京の消印が欠けているのが残念ですが、“壬申二月十三日・東京郵便役所”の朱印はバッチリ押されています。

 世界最初の切手であるペニーブラックと日本最初の切手である龍文切手に関しては、いつかは、見栄えのいいカバーを手に入れなければ…と思っていたのですが、ペニーブラックのほうはともかく、龍文切手のカバーはそれなりの値段がするので、なかなか買えずに、長い間、二の足を踏んでいました。それが、2~3年前、東京の歴史を題材とした企画展示を作ることになり、清水の舞台から飛び降りる覚悟で買ったのがこのカバーです。(なじみの切手商さんに、大分おまけしてもらったのですが、それでも、僕にとっては結構な金額でした)

 その後、なんだかんだいって、日本最初の切手のカバーということでマスコミから問い合わせや原稿の図版などで活躍する機会も少なからずありましたから、そういう意味では、十分に元をとったといえるかもしれません。

 じつは、昨日の講演のときに、日本最初の切手が天皇の肖像ではなく龍になったいきさつを説明するための題材としてこのカバーをもって行こうかとも思っていたのですが(東京→大阪、ということもありますしね)、朝寝坊して自宅の机の上に置き忘れたまま、出かけるという失態をやらかしてしまいました。そこで、昨日のお礼をこめて、遅ればせながら、今日のブログに画像をアップしてみたという次第です。
別窓 | 日本:明治 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 敗戦国ハンガリー
2005-11-20 Sun 15:37
 第二次世界大戦の敗戦国というと、日独伊の三国を思い浮かべる人が多いと思いますが、実は、“敗戦国”はそれだけではありません。1940年11月20日に日独伊三国軍事同盟に加わったハンガリーも“敗戦国”の一つとに数えられています。

 第一次大戦以前、現在のハンガリー地域はオーストリア・ハンガリー二重帝国の領域に含まれていましたが、オーストリア敗戦の結果、帝国はオーストリアとハンガリーに分割されたうえ、領土は大幅に縮小されました。このため、失地回復の機会を狙っていたハンガリーは、1939年に第二次大戦が始まると、快進撃を続けるドイツに期待を寄せ、ドイツと組むことで第一次大戦によって失われた失地の回復を目指したのです。

 しかし、戦争の結果、ハンガリーは敗戦国となり、その領土はソ連軍によって占領れ、次第に共産化されていきます。この間、ハイパーインフレが発生したこともあって、郵便史的にはいろいろと興味深いマテリアルが多数残されることになりました。

 その一例として、こんな葉書を引っ張り出してみました。

ハンガリー混貼

 この葉書は、第二次大戦の終結後間もない1945年7月に使用されたものです。貼られている切手は、ソ連の占領下で加刷されたものですが、葉書は枢軸時代の1944年に発行されたものです。ソ連の占領が始まって間もない時期であったため、移行期間として枢軸時代の葉書の使用が認められていた時期のものなのでしょうが、おかげで、二つの時期の切手・葉書が混ざって貼られている、風変わりな葉書が出来上がったというわけです。

 その後、ハンガリーの郵便はハイパー・インフレの影響で料金が日々刻々と値上げされていくのですが、その間の郵便事情は、たとえば、j_deafさんのHP でご覧いただくことができます。

 とはいえ、同じように、ハイパー・インフレに覆われていた1920年代初頭のドイツに比べると、やはり、日本人でこの分野にチャレンジしておられる方は相当少ないようで、なかなか、<JAPEX>などの競争展示ではお目にかかる機会がありません。

 まぁ、僕自身はやりかけの仕事で手一杯なので、とてもハンガリーにまで手が回らないというのが正直なところなのですが、それでも、この時期のハンガリーで発行された世界最高額面の切手が実際に郵便に使われたサンプルなんてのは、ぜひとも、話の種に手に入れたいものだと前々から思っているのですが…。
別窓 | ハンガリー | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 アラブの都市の物語:マラケシュ
2005-11-19 Sat 15:36
 昨日のブログでは、NHKラジオ中国語のテキスト(僕は「外国切手の中の中国」という読物を連載しています)の最新号が発売になったことを書きましたが、NHKの語学テキストは毎月18日に一斉発売となります。したがって、隔月刊で今月が刊行の月に当たっているアラビア語のテキストも、同時に発売となり、掲載誌が自宅に送られてきました。以前の記事にも書きましたが、アラビア語のテキストでは、僕は「切手に見るアラブの都市の物語」という連載を持っています。で、その最新号はマラケシュ(モロッコ)。たとえば、こんな切手を使って、マラケシュの歴史をご紹介しています。

      マラケシュ

 この切手は独立後まだ日も浅い1960年にモロッコが発行したマラケシュ創建900年の記念切手です。

 通常の歴史書などでは、ムラービト朝の君主ユースフ・イブン・ターシュフィーンがマラケシュの建設を始めたのは西暦1071年のことと記されていますが、この切手の場合は、本格的な都市建設の前にユースフがこの地にたどり着いたことから起算して、1060年を基準に900年としたのでしょう。ちなみに、ヒジュラ暦(イスラム暦)の年号では454~1379年となっており、年号のカウントは900年を超えています。

 現在のモロッコの地名はマラケシュのなまえが訛ったものですが、このマラケシュという言葉は、ベルベル語の“マロウクシュ(早く歩け)”に由来するといわれています。これは、マラケシュの本格的な都市建設が始まる以前は、この地で略奪行為が横行していたため、早く通り過ぎたほうが良い土地と人々が読んでいたためだそうです。

 その後、ムラービト朝をはじめ、モロッコ諸王朝の首都となったマラケシュは都市のインフラが整備され、サハラ交易の拠点として繁栄。往時をしのばせる建造物が数多く残る古都として、1985年には世界遺産にも登録され、世界的な観光地として、連日、観光客でにぎわっています。

 切手の中央の尖塔はマラケシュのランドマーク、クトゥビーヤ・モスクのミナレットで、周囲の椰子の木と山脈がなんともいえないエキゾチックな雰囲気をかもし出しています。この時期の切手は、まだ旧宗主国のフランスで作られていたため、いかにもフランス風の瀟洒な凹版印刷とデザインがよくマッチしており、とても綺麗な切手に仕上がっていて、僕の個人的な好みとしては、結構お気に入りの1枚です。

 NHKのアラビア語テキストでは、どうしても図版がモノクロなので、この切手の美しさが上手く伝わりませんので、ブログで取り上げてみました。なお、マラケシュの歴史やそれにまつわる切手について、より詳しいことがお知りになりたい方は、是非、『NHKアラビア語会話』の12・1月号の僕のコラム「切手に見るアラブの都市の物語」をご一読いただけると幸いです。
別窓 | モロッコ | コメント:2 | トラックバック:0 | top↑
 外国切手の中の中国:パンダとコアラ
2005-11-18 Fri 15:34
 NHKのラジオ中国語のテキストの最新号が発売になりました。以前にも書きましたが、このテキストの読物ページで、僕は「外国切手のかなの中国」と題する連載を持っています。で、今回は↓の切手を題材に最近の豪中関係について説明しています。

      パンダとコアラ

 この切手は、今から10年前の1995年に豪中両国がおなじ図案で共同発行したもので、両国の友好親善を深める意図が込められているのは誰の目にも明らかです。

 経済成長著しい中国と資源大国オーストラリアとの関係は、近年、急速に緊密になっています。経済成長のために必要な資源を確保したい中国側と、新たな“お得意さん”を大事にしたいオーストラリア側の思惑が一致しているためです。

 それだけなら、取り立てて言うことはないのですが、そうした経済的な関係をてこに、中国がオーストラリアを政治的にも取り込もうとしている点は見逃せません。

 中国の対豪政策の究極の目標は、アメリカに対抗するため、ヨーロッパにおけるフランスのように、オーストラリアをアジア・太平洋地域においてアメリカに対してNOといえる国に育てることにあります。また、国際的な非難を浴びている中国国内の人権抑圧に関して、中国側の主張を擁護してくれる“味方”としてオーストラリアを取り込むことができれば、これまた大きな得点になります。

 現時点では、中国の期待するように、オーストラリアがアメリカに対してNOといえる国になっているわけではありませんが、それでも、現在のオーストラリア政府は中国の国内事情に相当の“配慮”を示し、2003年に胡錦涛がオーストラリアを訪問して議会で演説した際、中国の人権抑圧に批判的な議員が議場に入ることを許可しないという、かなり乱暴なことをしています。

 こうした対応について、当然、中国側は「わが国の考えがオーストラリアに浸透する良い兆候だ」と歓迎していますが、オーストラリア国内では批判も少なくありません。ただ、現実には、経済的な実利の前に、オーストラリア政府の対中姿勢を批判する声は、同国内では必ずしも目立ったものとはなっていないようですが…。

 今回ご紹介している切手は、そうした現在の豪中関係の出発点に当たる時期に発行されたもので、『ラジオ中国語』の連載「外国切手の中の中国」では、その辺の事情を詳しく説明しています。よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。
別窓 | 豪州:1945-2000 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 奇跡の出来栄え
2005-11-17 Thu 15:32
 今日はボジョレー・ヌーボーの解禁日です。というわけで、“収穫”に関するフランス関連のマテリアルということで、こんな1枚を引っ張り出して見ました。

スペラッティのセレス

 フランス最初の切手は1849年に発行されました。デザインは豊穣の女神セレスです。セレスを描いた最初のシリーズは1849年から翌1850年にかけて発行されましたが、このうち、黄緑色の15サンチーム(100サンチーム=1フラン)は1850年の発行で、手元の古いスコット・カタログによると未使用で8500ドル、使用済みで875ドルという評価がついています。

 こういう風に書くと、上の画像がそのセレスの15サンチーム切手のように見えてしまうんですが、実は、これはホンモノの切手ではありません。とはいっても、凡百のニセモノではなく、稀代の天才“切手模造家”として名をはせたジャン・ド・スペラッティの“作品”です。

 スペラッティは、1884年、中部イタリアのピストイアに生まれました。もともと、模写の際にすぐれていたことに加え、化学や写真の知識が深かった彼は、切手商でもあった兄の影響から切手収集にも関心を持ち、切手の模造に手を染めるようになったといわれています。

 彼の模造は、1942年、彼の“作品”がフランス税関によって摘発されたことで明るみに出ました。すなわち、スペラッティの精巧な“作品”を高価な切手の真正品と誤解した税関側が、それらに課税しようとしたところ、彼は自分が“作品”をつくったことを主張。裁判の過程で、彼の“作品”は何度か真正品との鑑定が下されますが、彼は摘発を受けたものと同じ模造品を再度作成して裁判所に提出。結局、1948年になって、彼の“作品”は精巧な模造品であることが認められました。

 彼の“作品”は、たとえば、模造のターゲットとなった切手と同時代の安価な切手の印面を拭い去るなどの方法で同時代の用紙を調達した上で、デザインや刷色を精巧に模写し、さらに、必要があれば、ホンモノそっくりの消印まで押すという代物でした。結局、350点以上にも及ぶスペラッティの“作品”は、1954年、今後新たな“作品”を作らないという条件で、英国郵趣協会が引き取っていますが、その精巧な出来栄えゆえに、名のあるニセモノとして収集家のマーケットでは決して安くはない値段で取引されています。

 今回、ご紹介している切手も、そうしたスペラッティの“作品”の一つで(裏面には彼のサインが入っています)、真正品に比べてマージンが広いことを除けば、見事な出来栄えです。

 今年のワインはできの良さから“奇跡のヌーボー”とされているそうですが、さてさて、スペラッティの“作品”同様、ほんとうに奇跡の出来栄えを味わうことが出来るのかどうか、仕事が終わった後の夕食の時間が待ち遠しくてなりません。
別窓 | フランス:第2共和政 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 上空からの視線
2005-11-16 Wed 15:31
 昨日の内親王殿下(もはや“黒田清子さん”とおよびすべきなのでしょうか)のご結婚に際して、NHKが宮内庁の自粛要請を無視してヘリコプター取材を行い、結婚会見から締め出されていたことが問題となっています。

 この件に関して、NHK側は「警視庁が設定した飛行自粛要請区域の外側からの取材は可能と判断していましたが、宮内庁の自粛要請に沿わない形になり、関係者の方々にご迷惑をおかけしました」とのコメントを発表していますが、NHKの言っている通り、取材が飛行自粛要請区域の外側から行われたのであれば、理屈の上では何も問題ないはずで、自粛要請区域の設定が甘かった警視庁の責任の方が大きいように思います。また、宮内庁側も、自粛要請を出すのであれば、ただ「上空からの撮影を自粛して欲しい」というだけではなく、たとえば、「警視庁の指定区域の外であっても、ヘリコプターのプロペラ音が関係者の耳に入る距離には入らないで欲しい」などの具体的な指示を出すべきだったのではないでしょうか。

 「どんなに離れていようと皇族を上空から撮影すべきではないのは常識だ」という主張は、そうしたことを“常識”として共有できる人間の間でだけ通用する理屈でしかありません。NHKにそうした“常識”があるのか否かは別として、規制の範囲外のことは、何をされても文句は言えないというのが法治国家の大原則なのですから、充分な対策を講じなかった側が一方的に“被害者”を装うことには、僕は、なんとなく割り切れない思いを感じます。ただし、殿下の車列を上空から撮影することが、今回のご結婚の報道にとってそれほど意味のあるものとは、僕には到底思えませんが…。

 もっとも、皇族や皇室関連の施設を上空から見下ろすことが非常識であるという主張は、戦前期の日本では、案外、やかましくいわれていたわけではないようです。たとえば、この切手を見ていただきましょう。

大正大礼

 この切手は、1915年に行われた大正天皇の即位の大礼にあわせて発行された記念切手ですが、儀式の模様(予想図ですが)はしっかりと上空から見下ろす視点で描かれています。昭和以降の皇室切手では、原則として、皇室関係の題材は、正面から、もしくは見上げる視点で描かれていますから、あきらかに、切手制作の発想が異なっています。なによりも、国家が公式に発行する切手において、予想図とはいえ、即位の大礼を見下ろす画面構成が採用されているわけですから、当時の日本政府の感覚は、我々が考えるよりもずっと“リベラル”だったことがうかがえます。おそらく、現在ではこのようなデザインの切手を発行することは、まず不可能でしょうが・・・。

 いずれにせよ、我々は“戦前”というと、どうしても昭和10年代のヒステリックな時代のイメージでひとくくりにしてしまいがちですが、実際には、もっとおおらかな時代もあったということは覚えておく必要がありそうです。

 なお、10月に刊行した拙著『皇室切手 』では、現在よりも、明治・大正期のほうが、ある意味ではるかに“皇室”の扱い方がおおらかだったことを明らかにしていますので、ご興味をお持ちの方は、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。
別窓 | 日本:大正 | コメント:2 | トラックバック:0 | top↑
 ご結婚おめでとうございます!
2005-11-15 Tue 15:29
 今日はいよいよ、紀宮内親王殿下のご結婚の日です。一人の日本人として、純粋に殿下のご結婚を寿ぎ、お2人のお幸せをお祈りしたいと思います。

 というわけで、今日は難しい理屈は抜きにして、この切手をご紹介しましょう。

ホンジュラス

 この切手は、今年(2005年)の8月、ホンジュラスが日本との外交関係樹立70年を記念して発行したセットの1枚で、同時に発行されたものの中には、小泉首相の所信表明演説ですっかり有名になった「米百俵」の演劇も取り上げられています。

 ホンジュラスがこの切手を発行したとき、一部のマスコミでは、ジャパン・マネーを狙った外貨稼ぎの“いかがわしい切手”の類であるかのような報道がなされました。たしかに、ホンジュラス側に、この切手を内親王殿下のご結婚にあわせて日本人に買ってもらおうという意図が全くなかったといえば嘘になるでしょう。

 しかし、殿下は2003年にホンジュラスをご訪問されており、両国の友好親善に功績を残された方です。純粋に両国の友好親善のシンボルとして、ホンジュラス側が殿下の肖像を切手に取り上げたいと考えても、それは自然な発想のように思われます。ちなみに、「米百俵」は、現地の日本大使からこの物語のことを聞いたホンジュラスの大統領がいたく感激し、大統領の肝いりで同国でスペイン語版の劇が上演され、ホンジュラスをご訪問になった殿下ご本人も現地でこの芝居を鑑賞されており、やはり、両国の友好親善の象徴として切手に取り上げられたというわけです。

 なお、2003年、殿下はホンジュラスとあわせてウルグアイも訪問されていますが、この辺の事情については、8月25日の記事 をご参照いただけると幸いです。

 10月に刊行した拙著『皇室切手 』では、制作期間中には、今日のブログでご紹介しているホンジュラスの切手は実物の手配が間に合わず、泣く泣く、報道資料のカラーコピーを図版として利用しましたが、今日は、実物からの画像をお見せします。拙著を補うものとしてご覧いただけると幸いです。
別窓 | ホンジュラス | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 和製チンギスハン
2005-11-14 Mon 15:27
 大相撲の九州場所が始まりましたが、今場所もまた朝青龍の優位は揺るがなさそうです。

 で、朝青龍の出身国・モンゴルといえば、なんといってもチンギスハンが最大の英雄ですが、そのチンギスハンにまつわるものの中で、ちょっと毛色の変わった“切手”をご紹介しましょう。

蒙疆エッセ

 これは、日中戦争の時代、日本軍の占領下の内蒙古で作られた蒙古連合自治政府(蒙疆政権)が発行しようとした切手の試作品で、実際には切手として発行されることはありませんでした。

 1930年代の内蒙古では、モンゴル族の王族である徳王を中心に中国からの分離・独立を求める動きがありました。彼らは、“敵の敵は味方”のロジックに基づいて日本に接近しますが、日中戦争が始まると、日本軍の占領下で親日政権を樹立します。当初、親日政府は、察南・晋北・蒙古連盟の3自治政府に分かれていましたが、1939年9月、蒙古連合自治政府として統合されます。そして、この統一政権の自立性を内外にアピールする目的で、今回ご紹介しているチンギスハンの像をはじめ、さまざまなデザインの“切手”の製造が、日本の民間印刷会社であった日本精版に発注されました。

 こうして、日本精版は試刷品をつくるのですが、1941年に太平洋戦争が始まり情勢が悪化したことや、同じく日本占領下の親日政権であった南京の汪兆銘政府の抗議(汪兆銘政府のみならず、蒋介石の国民党も毛沢東の共産党も、内蒙古は中国の不可分の領土であることを主張していた)、蒙疆政権側の担当者の交代などにより、この試刷品は陽の目を見ずに終わっています。

 そういえば、戦前、日本が“満蒙”の権益を主張していた時代には、平泉で討ち死にしたとされる源義経が大陸に渡ってチンギスハンになったという伝説(この伝説そのものは、江戸時代の歴史書にも登場する)が盛んに喧伝されていたことを思い出しました。僕は見ていないのですが、イマイチ、人気が盛り上がらないとされる大河ドラマの「義経」も、いっそ、朝青龍の勢いにあやかって、最後はチンギスハンになるというオチをつけて見たら面白いかもしれません。フィクションと割り切ってしまえば、目くじらを立てる人もいないでしょうし、それなりに見ごたえのあるものができるようにも思うのですが…まぁ、そういうことはやらないんでしょうけどねぇ。
別窓 | 南北モンゴル | コメント:1 | トラックバック:0 | top↑
 カリグラフィ
2005-11-13 Sun 15:25
 昨日は『コーランの新しい読み方』(晶文社)のカバーを取り上げ、そこに取り上げた切手にはコーラン第48章第29節(ムハンマドはアッラーの使徒である。彼と共にいる者は不信心の者に対しては強く、挫けず、お互いの間では優しく親切である)が記されていることをご説明しました。

 イランは、コーランのこの章句を、翌1987年の切手にも取り上げているので、両者を並べてみましょう。

      Q48-29

      Q48-29a.jpg

 1986年の切手がこの章句の主要な部分を3行に分けて書いているのに対して、1987年の切手では円形にレイアウトしているという違いはありますが、どちらも、アッラー(神)の文字を頂点に置き、神から啓示が下っているという基本的な構造は共通しています。

 ムスリム(イスラム教徒)にとって、コーランの章句は神の言葉ですから、それを書き記す文字も神の言葉にふさわしく美しいものでなければならないとの考えから、書道が発達しました。(なお、偶像崇拝が厳格に禁止されたため、絵画・彫刻が敬遠されたという背景事情も否定はできませんが…)

 こうしたことから、イスラム諸国の切手には、さまざまなカリグラフィ(書道)が取り上げられることが少なくありません。もっとも、現在の切手に取り上げられるカリグラフィの中には、コーランとは無関係な書道芸術の作品も少なくないのですが、さすがに、“イスラム共和国”を名乗っているイランで発行されるカリグラフィの切手は、コーランの章句を題材としたものが主流を占めています。

 今回ご紹介している2点もその一部で、コーランの内容をストレートに表現したものとして、1986年の切手を『コーランの新しい読み方』の表紙に使いました。

 欲をいうと、『コーランの新しい読み方』では、コーランがアラビア語であることをふまえて、できれば、アラブ諸国で発行された切手を使いたかったのですが、かの国々にはあまり良いものがなかったのでしかたありません。まぁ、この点を他人様から突っ込まれることがあったら、「中世のイスラム全盛期に活躍した文化人の相当部分は、アラビア語を外国語として学んだイラン系の人たちだったから、イランの切手でも問題はないのだ」と開き直ってみることにしましょう。
別窓 | イラン:ホメイニ時代 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 コーランの新しい読み方
2005-11-12 Sat 15:23
 11月15日(来週火曜日)に、内藤あいさ(偶然同姓ですが、血縁・姻戚関係はありません)さんとの共訳で『コーランの新しい読み方』と題する翻訳書を刊行します。すでに見本は出来上がっていますから、一部の書店などでは、この週末に実物をご覧いただけることがあるかもしれません。

 原著は、コレージュ・ド・フランスの元教授でコーランのフランス語全訳者としても知られるジャック・ベルク(1995年没)が、一般向けの市民講座で語った“イスラム入門”といった趣の連続講演を1冊にまとめたものです。フランスでは、現在、北アフリカ系の移民の暴動が続いていますが、かの国でイスラムと真摯に向き合おうとしてきた知識人が、どのようにイスラムのことを理解し、人々に説明してきたかを理解する上で、格好の1冊と思いますので、今こそぜひともお手に取っていただきたいと思います。

 さて、当初、今回の翻訳書には「切手の中のコーラン」とでも題したコラムを適宜挿入しようかとも考えていたのですが、時間的な余裕がなくて断念しました。その代わりといっては何ですが、表紙カバーには、1986年にイランが発行した切手を、↓な感じでレイアウトしてもらいました。

コーランの新しい読み方

 切手のデザインは、モスクの屋根を背景にコーラン第48章第29節(ムハンマドはアッラーの使徒である。彼と共にいる者は不信心の者に対しては強く、挫けず、お互いの間では優しく親切である)がカリグラフィで配されています。

 もっとも、本書の内容は“切手”とは全く無関係なので、カバーに切手を持ってきたところで、なんとか“郵便学者・内藤陽介”の看板にこじつけることができたというわけです。まぁ、内藤も、たまには切手以外の仕事をすることがあるのだ、と思って温かく見守っていただけると幸いです。

 ちなみに、みすず書房から出版されたサイードの『パレスチナ問題』も、中身は切手と関係ありませんが、カバーには切手がいくつかアレンジされています。いつか“中東切手展”などというイベントをやる機会があったら、今回のベルクの本と並べて会場で売ってみようかな、とぼんやり考えています。
別窓 | 内藤陽介の本 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 ありがとうございました
2005-11-11 Fri 15:21
反米展

 11月1日から東京・白金の明治学院インブリー館にて開催しておりました個展「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」は、昨日(10日)をもって無事終了いたしました。会場にお運びいただきました皆様、本当にありがとうございました。

 10日間の会期中、当初の予想(700~800名)を大きく上回る1032名ものお客様をお迎えすることができたことに加え、多くのお客様から、「切手がこんなに面白いものとは知らなかった」「切手が歴史の証人であることがよく分かった」などの好意的なご感想を多数いただき、非常に喜んでいます。

 上の写真画像では若干分かりづらいかもしれませんが、今回の展示はインブリー館という重要文化財の洋館の一室を会場に、市販のA1版アルミ・フレームにグレーのラシャ紙を敷いてその上にマテリアルを配置したものを、イーゼルに立てかけて展示するという方式を採っています。

 いわゆる切手展の展示というと、どうしても、切手収集家の世界では、ほぼA4の大きさのリーフにマテリアルを貼ったものを、専用のフレームに複数入れた“作品”を展示するものと考えてしまいがちです。しかし、40年くらいまでは全日本切手展(全日展)でもパネル形式の展示で行われていたわけですし、そもそも、「リーフとはなんぞや」という感覚をお持ちの非収集家の方々向けの展示はこのスタイルでも支障はないものと思います。

 また、今回利用したアルミ・フレームはごく一般的に市販されているもので、定価で1枚3000円程度。量販店で買えばもっと割安に入手することができます。取扱は簡単ですし、見栄えという点でも、ポケット式のビニールパネルよりもはるかに良いと思うのですが、いかがでしょうか。

 これまで、収集家や収集家の団体が開催する地域の小規模な切手展というと、郵便局を借りてビニールフレームにリーフを並べるというスタイルが多かったように思います。そういう展示が悪いとは言いませんが、会場が郵便局に限定されてしまうと、どうしてもお客様の層も限定されてしまうように思います。切手の面白さ・奥深さをより多くの人に理解してもらうためには、新たな層に切手を見てもらわなければならないわけですから、郵便局以外の会場、たとえば、学校の空き教室や喫茶店などを切手展の会場として視野に入れて検討する必要があるように思います。

 その意味で、今回の個展は、郵便局以外の場所で個人が切手展を開催する時の一つのテストケースを収集家の皆様にご提案したという面があります。重要文化財の一室を利用するということはなかなか難しいのですが、①郵便局以外の場所を使う、②従来型のリーフ・フレーム展示スタイルをやめて、普通の人が普通に利用できるハードを使って展示する、③会場内にテーブルと椅子を設けてお客様とゆっくり話をしたり、お客様が切手関係の本を落ち着いて読むことができるようにする、といった点は、何らかの参考にしていただけるのではないかと思います。

 今回の僕の個展が一つのきっかけとなって、今後、たとえば地域の中学・高校(まぁ、さすがに小学校では無理でしょうね)の文化祭にあわせて空き教室で一般の人にも理解してもらえるような切手の展示パネルが並べられたり、あるいは、喫茶店の壁を利用して切手を並べた額がいくつか掲げられたりするなど、新しいスタイルの“切手展”が広がっていけば、僕としては、これほど嬉しいことはありません。

 なお、最後になりましたが、今回の個展開催にあたり多大なご尽力をいただきました明治学院大学関係者の皆様、特に、図書館の松岡良樹様には、この場を借りてあらためてお礼申し上げ、「反米の世界史」展が無事に終了したことのお礼とご挨拶に代えさせていただきます。

 ありがとうございました。
別窓 | 身辺雑記・活動報告 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 再軍備反対
2005-11-10 Thu 15:19
 1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると、日本に駐留していた米軍の兵力は朝鮮半島に派遣されます。この軍事的空白を埋めるために作られたのが警察予備隊で、それが現在の自衛隊のルーツとなっていることは皆さんもご承知の通りです。

 警察予備隊の発足は日本の戦後史にとって非常に重要な出来事なのですが、いざ、それを切手やカバー(封筒)等で表現しようとすると、ピタリとはまるマブツを日本関連のマテリアルの中から探してくるのはなかなか容易ではありません。で、ちょっと視点を広げてみると、中国にこんなものがありました。

最軍備反対

 このカバーは、1951年6月、汕頭から差し出されたものですが、下のほうに紫色で日本の再軍備に反対するスローガンの印が押されています。その趣旨を要約すると「8年間(に及ぶ日中戦争)の犠牲と深い恨みを忘れるな。我々はアメリカ帝国主義による日本の再軍備に断固反対する」といったことになりましょうか。「美帝重新武装日本」の文字が、非常にストレートです。なお、同じ文面のスローガン印には、ここでご紹介しているもののほかにも、いくつかのタイプがあります。

 当時の中国は、朝鮮戦争に人民志願軍を派遣しており、直接米軍と戦火を交えていましたから、日本の再軍備によって朝鮮に派遣される米軍兵力が増強されるのは望ましからぬシナリオでした。同時に、再び軍事力を持つようになった日本がアメリカの指揮の下、朝鮮戦争に参加してくるのではないかとの懸念もぬぐえなかったものと思われます。今回のスローガン印は、そうした事情から、中国各地の郵便局で郵便物に押され、共産党政府のプロパガンダの一翼を担うことになったわけです。

 さて、今月1日にスタートした「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展(東京・白金の明治学院大学 キャンパス内のインブリー館にて開催中 10:00~16:30 入場無料)も、いよいよ、本日(10日)をもって最終日となりました。今回ご紹介しているカバーのように、今年6月に上梓した拙著『反米の世界史 』には採録されていない図版も含め、アメリカと戦ってきた過去を持つ国々のマテリアルを横断的に見比べていただけるように展示を構成しています。ご関心の向きは、ぜひとも、会場までお運びいただけると幸いです。(今日は僕も会場に終日詰めていますので、お気軽にお声をおかけください)
別窓 | 中国:毛沢東時代 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 お酉さま
2005-11-09 Wed 15:18
 今日(11月9日)は“お酉様”の日です。酉年のお酉様というのは12年に1回(いや2~3回というべきか)しかないレアな機会なので、何かネタはないかと探してみて、こんなものを引っ張り出してきました。


      ベトナムの鶏

 この切手は、ベトナム戦争さなかの1968年に北ベトナムで発行されたもので、北ベトナム支援の一環としてハンガリーで印刷されたものです。

 現在、東京・白金の明治学院大学 キャンパス内のインブリー館にて開催中(いよいよ、明日10日まで!)の「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展(10:00~16:30 入場無料)では、この切手は展示していないのですが、キューバやベトナムなどの反米ネタをソ連やハンガリー、中国、北朝鮮などがどのように取り上げているか、横断的に見比べていただけるように展示を構成しています。それらを見ていると、同じ題材を取り上げていても、それぞれのお国柄うかがえて、興味深いものです。ご関心の向きは、ぜひとも、会場までお運びいただけると幸いです。(今日・明日は僕も会場に終日詰めていますので、お気軽にお声をおかけください)

 ところで、今年の年賀状に僕はこの切手の画像を使いました。郵便学者という看板を掲げている以上、なんらかのかたちで年賀状では切手や郵便で干支を表現しているのですが、それだけではおもしろくありません。そこで、ここ数年は、新年の抱負ということで、その年の内にしあげたい本の内容に関連する国や地域の切手を選ぶことにしています。で、今年の場合は、7年ごしの仕事であった『反米の世界史 』(この辺の事情については郵便学者の舞台裏(講談社) をご覧ください)になんとしても決着をつけたいと考えて、北ベトナムの切手の中から、この切手を選んだというわけです。

 おかげさまで、本のほうは、無事6月に刊行となりましたし、そのプロモーションを兼ねた個展も無事に開催することができました。

 そろそろ、来年の年賀状の題材を考えないといけない時期になりましたが、さてさて、何にしましょうか。片付けなければならない仕事は山のように溜まっていますので、選ぶべき題材がなくって困るということはないのですが…。
別窓 | 北ヴェトナム | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 悪魔の手
2005-11-08 Tue 15:15
 1980年に始まるイラン・イラク戦争の本質は、前年(1979年)のイスラム革命でイラン国内が混乱している隙に乗じて、国境問題を有利に解決しようとしたイラクのサダム・フセイン政権が起こした侵略戦争ですが、当時の国際社会は、革命の波及を恐れて、とにかくイランを勝たせないように、イラクを支援していました。

 こうした国際社会に対して強い不信感を抱いていたイランが、1983年の国連の日に発行した切手が↓の1枚です。

      イランの国連批判

 切手の中央には、大きく、悪魔の腕が描かれています。

 この腕はニューヨークの国連ビル(国連のマークもついている)から伸びており、“(安保理常任理事国の持っている)拒否権”を意味するVETOの文字が大書されています。また、5本の指のそれぞれにはUS、UKなど5大国の国号が入っています。悪魔の手は地球の上にのびており、5大国による世界支配の野望というイメージが表現されています。

 そして、そうした悪魔の腕を、柄の部分に緑色でイランの国章を記した正義の剣が断ち切る、というのがこの切手のデザインのポイントです。

 イスラム革命をつぶすために侵略者イラクを一致して支援している国際社会に対する強い不満がストレートに表現された1枚ですが、これほどまでに直截な国連批判の切手というのは、他に例がないのではないかと思います。

 さて、今週木曜日・10日まで東京・白金の明治学院大学 キャンパス内のインブリー館にて開催中の「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展(10:00~16:30 入場無料)では、今日ご紹介した切手をはじめ、今年6月に上梓した拙著『反米の世界史 』で使った図版の実物を中心に展示しています。

 会期も残り少なくなりました。ぜひ、遊びに来ていただけると幸いです。
別窓 | イラン:ホメイニ時代 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 恐慌のない世界
2005-11-07 Mon 15:12
 今日(11月7日:ロシア暦10月25日)は1917年にロシアで10月革命が起こって、社会主義政権が誕生した日です。

 というわけで、戦前のソ連(1922年成立)で、資本主義に対する社会主義の優越を示す意図を持って作られた絵葉書をご紹介してみましょう。

恐慌

 この絵葉書は、大恐慌の起こった1929年と1931年を比較して、主要各国の鉄鋼生産量がどれほど落ち込んでいるのか、グラフで示したものです。フランス・イギリス・ドイツ・アメリカと並んで、ポーランドが取り上げられているところが、我々日本人の感覚ではちょっと違和感があるかもしれません。

 当時、ソ連は第1次5ヶ年計画が順調に進んでいたこともあって、恐慌が周期的に発生する資本主義社会に対して、“恐慌のない社会主義”の優越性を盛んにアピールしていました。この葉書も、その一環として作られたものです。

 1930年代にドイツのヒトラー政権が直接的な脅威になるまで、ソ連(前身のボルシェビキ政権時代を含む)は、資本主義に対する社会主義の優越を示すためにさまざまなプロパガンダ絵葉書を作っていました。その際、“資本主義世界のチャンピオン”であるアメリカは、資本主義の矛盾が凝縮された存在として、揶揄的に取り上げられることがしばしばでした。

 今回の絵葉書でも、アメリカの落ち込みが一番大きいことが示されており、資本主義が発達すればするほど、その反動も大きいのだ、という彼らの主張が表現されています。

 さて、10日まで東京・白金の明治学院大学 キャンパス内のインブリー館にて開催中の「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展(10:00~16:30 入場無料)では、今日ご紹介した絵葉書をはじめ、今年6月に上梓した拙著『反米の世界史 』で使った図版の実物を中心に展示しています。ぜひ、遊びに来ていただけると幸いです。
別窓 | ソ連:スターリン時代 | コメント:1 | トラックバック:0 | top↑
 ベトナムの女性兵士
2005-11-06 Sun 15:10
 現在、東京・白金の明治学院大学 キャンパス内のインブリー館にて「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展 (10:00~16:30 10日まで。本日・6日は13:30から展示解説あり。入場無料)を開催していますが、会場にお越しいただいた方から、今まで自分では気づかなかった興味深いご指摘をいただきました。ちょっとご紹介してみたいと思います。

 まずは、この切手をご覧ください。

      ベトナムの女性兵士

 この切手は、ベトナム戦争中の1967年にベトナム民主共和国(北ベトナム)が発行した米軍機撃墜2000機記念の切手です。

 以前の記事 でもご紹介しましたが、当時の北ベトナムでは、米軍機の撃墜数が節目に達すると、そのたびに、強烈なデザインの記念切手を発行してきました。その最初のものが、1965年8月の500機撃墜記念の切手で、1973年11月に4181機撃墜記念の切手が発行されて“打ち止め”になるまで、1966年4月には1000機撃墜、同10月には1500機撃墜、1967年6月には2000機撃墜、同11月には2500機撃墜、1968年6月には3000機撃墜、1972年6月には3500機撃墜、同10月には4000機撃墜、といったペースで記念切手が発行されています。

 今回ご紹介している切手は、有名な報道写真をもとにデザインが作られたものですが、ある参観者の方から、女性兵士が自分の身体よりもはるかに大きな米兵を連行しているという点に注目すると面白いよ、というお話をいただきました。

 その方によると、ベトナム戦争では女性兵士が非常に重要な役割を果たしていましたが、そのことは、今回の反米展に展示されている切手を見てもよくわかる、というのです。たしかに、そういわれてみると、この切手を含め、切手に描かれている戦闘場面では女性兵士の姿が非常に目立ちます。

 日本人のイメージでは、戦争と女性というと、軍需工場で働く姿か、あるいは、一昨日の記事 (厳密に言うと、この切手は満州国が発行しようとしたものですが)に見られるように、子供を抱えて出征兵士を見送るもの、というイメージが非常に強いのですが、ベトナム人のイメージはこれとは全く違っているわけです。

 このように、戦時に発行されている切手において、女性がどのように描かれているかを国ごとに眺めてみると、その国の“女性”のあり方がみえてくるのではないか・・・というのが、会場で僕に話しかけてくれた方のご指摘でした。以前、アメリカ切手に描かれた女性のイメージについて短い文章を書いたことがありましたので、そうした仕事と組み合わせて、このアイディアを膨らませていけば、それこそ、新書1冊分くらいのネタには困らなさそうです。

 このように、参観者の方々とお話して新たな刺激を受けると、展覧会、特に、自分の個展をやってみてよかったとつくづく思います。

 さて、くどいようですが、10日まで東京・白金の明治学院大学 キャンパス内のインブリー館にて開催中の「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展(10:00~16:30 入場無料)では、今日ご紹介した切手をはじめ、今年6月に上梓した拙著『反米の世界史 』で使った図版の実物を中心に展示しています。本日(6日)は13:30より展示解説も行いますので、みなさん、遊びに来ていただけると幸いです。

 ◆東京・目白の<切手の博物館 >で開催中の「皇室切手展」は、いよいよ、本日(6日)が最終日です。会場では、戦前の皇室のご婚儀に関連する切手の名品を多数、展示しています。めったに見られない名品が目白押しですので、ぜひ、お見逃しなきよう!
別窓 | 北ヴェトナム | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 歴史的考証?
2005-11-05 Sat 14:48
 東京・目白の<切手の博物館 >3階で開催中の「皇室切手展」も、いよいよ、明日(6日)までとなりました。今日(5日)は、夕方17:15から拙著『皇室切手 』刊行記念のトークも行いますので、ぜひとも、遊びに来てください。

 さて、今回の皇室切手展は、明治神宮と逓信総合博物館、それに多くの収集家の方々のご協力で実現したもので、ぜひともご覧いただきたい名品が目白押し(別に駄洒落ではありません。念のため)ですが、いわゆる“新高額切手”関連の資料は、10月30日の記事 でご紹介した“松喰鶴”の未裁断シートと並んで、今回の展示の両横綱といえます。

 新高額切手というのは、関東大震災後の1924年に発行された神功皇后を描く5円と10円の切手(↓はその5円切手)のことです。

神功皇后

 神功皇后を描く5円・10円の切手は1908年にキヨッソーネの原画を元にしたデザインの切手(旧高額切手)が発行されていましたが、この切手の原版が関東大震災に寄って焼失したため、日本人デザイナーの吉田豊によって新たな原図がつくられ、それを元に森本茂雄が原版を彫刻しました。

 その際、顔つきが日本風(キヨッソーネの肖像は、なんとなく、西洋人の雰囲気が漂っていた)に改められたほか、髪型も変更されました。さらに、肖像の周囲には、古墳の壁画などに見られる直弧紋と呼ばれる文様も配されています。

 こうした一連の変更を、当時の逓信省は「考古学上の交渉を加えた」と説明していますが、そもそも、神功皇后の物語そのものが(仮に何がしかのモデルがあったにせよ)基本的には神話・伝説の域を出ないものですから、こうした苦しい説明をする必要があったのかどうか、現代の我々の感覚では大いに疑問です。

 さて、東京・目白の<切手の博物館 >3階で開催中の「皇室切手展」では、その新高額切手の試作品(担当者がチェックしたことを示す印がベタベタ押されています)のほか、プラハで開催された国際切手展に際して贈呈用として作られた小型シート2点(5円・10円各1点)が展示されています。いずれも、現物が揃って展示されるのは、今回が初めてのことです。

 会期は明日(6日)までですので、ぜひとも皆様、お見逃しなきよう。

 ◆ 10日まで東京・白金の明治学院大学 キャンパス内のインブリー館にて「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展 (10:00~16:30 5・6の両日には13:30から展示解説あり。入場無料)を開催中です。会場では、今年6月に上梓した拙著『反米の世界史 』で使った図版の実物を中心に展示しています。本日(5日)は13:30より展示解説も行いますので、こちらにもお運びいただけると幸いです。
別窓 | 日本:大正 | コメント:2 | トラックバック:0 | top↑
 焼け石に水
2005-11-04 Fri 14:45
 昨日は文化の日の祝日であったことに加え、会場の明治学院が学園祭であったこともあり、開催中の「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展 (10:00~16:30 3・5・6の各日には13:30から展示解説あり。入場無料)にも大勢のお客様をお迎えすることができました。この場を借りて、お礼申し上げます。

 さて、今回の反米展では“鬼畜米英”を叫んでいた時期の日本関連のマテリアルもいくつか展示していますが、その中には、こんなものも含まれています。

      満州不発行2

      満州不発行1

  終戦直前、満洲国は寄付金つき切手を発行して戦闘機を購入することを計画。このため、額面3分に対して47分、6分に対して44分というべらぼうな寄付金(300円の切手に4700円の寄付金をつけるようなものです)をつけた上のような切手を準備しています。

 このうち、赤い6分の切手には“撃滅宿敵”の記述も見られますが、ここでいう宿敵が“鬼畜米英”を指していたことはいうまでもありません。

 しかし、1945年8月9日、日本と満洲国にとっては寝耳に水でソ連軍が攻め込んできたため、満洲国はあっけなく崩壊。それに伴い、この切手も発行されないままに終わりました。

 もっとも、仮にこの切手が発行されて、寄付金を集めて戦闘機を買えたとしても、その台数はたったの3台。これじゃぁ、どっちにしても“焼け石に水”という感じがしないでもありません。

 さて、10日まで東京・白金の明治学院大学 キャンパス内のインブリー館にて開催中の「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展(10:00~16:30 3・5・6の各日には13:30から展示解説あり。入場無料)では、この切手をはじめ、今年6月に上梓した拙著『反米の世界史 』で使った図版の実物を中心に展示しています。週末ももちろんやっていますので、みなさん、遊びに来ていただけると幸いです。

 ◆東京・目白の<切手の博物館 >では、6日(日)まで「皇室切手展」を開催中です。会場では、戦前の皇室のご婚儀に関連する切手の名品を多数、展示しているほか、11月5日の17:15からは『皇室切手 』刊行記念のトークを行いますこちらにも、是非、お運びください。
別窓 | 満洲国 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 裕仁親王の立太子礼
2005-11-03 Thu 14:40
 今日(11月3日)は、旧明治節(明治天皇の誕生日)です。

 謹厳実直で“現人神”を演じきった明治天皇が“理想の君主”の一人とされていたのに対して、病弱でリベラルな考え方の持ち主であった大正天皇(なにせ、「天長節のセレモニーを8月末の暑い時期に行うのは国民に気の毒だから、2ヶ月後らせて10月末に行うようにしよう」なんていいだすお方ですから…)の評判は、国家指導層の一部では芳しいものではありませんでした。このため、息子の裕仁親王(後の昭和天皇)に、「父親のようになってもらっては困る、お祖父さんのように立派な人に育って欲しい」という期待をかける元老・高官が少なからずいたことは広く知られています。

 裕仁親王が皇太子であることを正式に内外に宣明する立太子礼が、明治天皇の誕生日である11月3日という日付を選んで行われたのも、そうした空気とは無関係ではないように思われます。

 さて、裕仁親王の立太子礼というと、下の切手が有名です。

立太子

 切手の題材は、空頂黒幘とよばれる冠。儀式の際、皇太子がかぶるもので、柳葉という台の上に載せられています。スッキリしたデザインとブルーの凹版印刷がよくマッチしていて、印刷物としての出来栄えはなかなかのものです。なお、額面の“拾銭”の両脇に、蝶の紋様が描かれていることから、昆虫切手の間でも人気のある1枚です。

 なお、この切手の発行枚数は8万6000枚しかなかったため、発行当初から、収集家の間ではプレミアつきで取引されており、日本の記念切手の中では、特に高価なものの一つとなっています。カタログの評価では、標準的な状態のもので1枚18万円ですが、実際にはもっと安く買えるはずです。また、残存数は決して少なくないので、お金さえあれば、入手はそれほど難しくありません。

 さて、この切手を含め、裕仁親王の立太子礼と切手については、拙著 『皇室切手 』でもいろいろと説明していますので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。

 また、東京・目白の<切手の博物館 >では、6日(日)まで「皇室切手展」を開催中です。会場では、戦前の皇室のご婚儀に関連する切手の名品を多数、展示しています。11月5日の17:15からは『皇室切手 』刊行記念のトークを行う予定ですので、是非、遊びに来てください。

 ◆ 10日まで東京・白金の明治学院大学 キャンパス内のインブリー館にて「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展 (10:00~16:30 3・5・6の各日には13:30から展示解説あり。入場無料)を開催中です。会場では、今年6月に上梓した拙著『反米の世界史 』で使った図版の実物を中心に展示しています。本日(3日)は13:30より展示解説も行いますので、こちらにもお運びいただけると幸いです。
別窓 | 日本:大正 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 リビアの反米切手
2005-11-02 Wed 14:38
 昨日からはじまった「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展 (10日まで東京・白金の明治学院大学 キャンパス内のインブリー館にて、10:00~16:30 3・5・6の各日には13:30から展示解説あり)は、今年6月に上梓した拙著『反米の世界史 』でつかった図版の実物を中心に展示を構成していますが、本では取り上げられなかったテーマや切手も一部、追加的に展示しています。

 その一例が、たとえば、こんな切手です。

リビアの反米

 これは、1988年、リビアがアメリカによるトリポリ空爆2周年を期して発行した小型シートです。

 1969年にリビアを掌握したカダフィ大佐は、反米・反西側の姿勢を鮮明に掲げて、欧米諸国に対抗するテロ組織を支援してきました。そうしたなかで、1986年、西ベルリン(当時)で、米軍関係者が多数出入りしているディスコでの爆破事件が起きると、リビア政府が事件の黒幕であると断定したアメリカは、報復として、カダフィの暗殺を目的に、首都トリポリへの大規模な空爆を行いました。空爆の結果、トリポリ市内は破壊され、多数の民間人が犠牲になりましたが、カダフィ本人は逃げ延びます。これに対して、1988年、リビアは空爆への報復として米パンナム航空機爆破事件を起こし、270人もの死者を出しています。

 切手は空爆から2年が過ぎ、パンナム機事件が発生した1988年に発行されたもので、瓦礫の山となったトリポリ市内のようす(上段左)や空爆の瞬間(上段右)、負傷した少女を見舞うカダフィ(中段右)等が取上げられているほか、シートの余白には“AMERICAN AGRESSION”の文字もはっきりと読み取れます。

 もっとも、僕なんかの目からすると、切手のデザインには、なんとなく出来損ないのアメコミの雰囲気が濃厚に漂っているような気がしてしまうのですが…。

 さて、この切手の実物は、10日(来週木曜日)まで開催中の「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展 の会場でごらんいただくことができます。この他にも、会場では拙著『反米の世界史 』でつかった図版の実物を多数展示していますので、是非、遊びに来ていただけると幸いです。
別窓 | リビア | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 米軍出て行け(日本語版)
2005-11-01 Tue 14:36
 今日(11月1日)から、いよいよ、「反米の世界史」展がスタートします。一人でも多くの皆様に会場にお運びいただけると幸いです。今日から3日間は、会場のある明治学院大学 は大学祭だそうで、そのことが吉と出てくれることを僕としては、ひたすら祈るばかりです。

 さて、お祭といえば、夕方からは東京・新宿のロフト+1で恒例の「北朝鮮祭り:朝流ナイト」が開催されます。僕の個展と日程が重なったのは全くの偶然ですが、今回もお呼ばれしているので、よほどのことがない限り、ゲストとして顔を出してくるつもりです。

 というわけで、今日は「反米の世界史展」に並べているものの中から、北朝鮮がらみでこんなものをご紹介してみましょう。

米軍出て行け

 この切手は、1978年に朝鮮労働党の30周年を記念して発行された切手の1枚で、統一朝鮮の地図をバックに祖国統一を訴える人民という、まぁ、かの国にとっては良くある題材が取り上げられています。これだけなら、良くある北朝鮮の反米切手なんですが、よくよく見てみると、なんと、左側から中央にかけて上の列のプラカードに「南朝鮮から」「米軍出て行け」という日本語のスローガンも書かれているではありませんか。

 1978年といえば、韓国(この切手の表現では“南朝鮮”)は朴正煕時代の末期です。すでにこの時期、北朝鮮経済は危機的な状況に陥っており、その強権的な体制のありようは外国でもそれなりに知られるようになっていましたが、日本国内では、進歩的な北朝鮮と独裁国家・韓国という構図を信じる人がまだまだ相当いた時期です。それだけに、北朝鮮としては、自分たちの主張が日本でも一定の支持を集めていることをアピールしようとして、こういうデザインの切手を発行したのではないかと考えられます。

 さて、くどいようですが、11月1~10日(10:00~16:30)、東京・白金の明治学院大学 キャンパス内のインブリー館を会場に、「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展を開催します。この展覧会は、その名の通り、拙著『反米の世界史 』でつかった図版の実物を中心に展示するもので、今日ご紹介の切手の実物は、「反米の世界史」展の会場でもご覧いただけます。入場は無料ですから、是非、遊びに来ていただけると幸いです。
別窓 | 北朝鮮:金日成時代 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
| 郵便学者・内藤陽介のブログ |
<!-【↑2カラムテーブルここまで↑】-->
copyright © 2006 郵便学者・内藤陽介のブログ all rights reserved. template by [ALT-DESIGN@clip].
/