2023-04-08 Sat 01:58
潮流社の雑誌『カレント』の2023年4月号が発行されました。僕の連載「切手から見る世界と歴史」は、今回は、1973年4月8日に画家のパブロ・ピカソがなくなってから、今日(8日)でちょうど50年になることにちなんで、こんな切手をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1950年8月1日、中国が発行した「世界平和を守れ(保衛世界和平)」の切手のうち、東北部(満洲)で使用するための東北幣額面の2500円切手で、ピカソの”平和の鳩”が取り上げられています。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 また、ピカソの鳩を用いた政治プロパガンダについては、拙著『朝鮮戦争』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 4月8日スタート! 平成日本の歴史 4月8・15・22日 13:30-15:00 文京学院大学での3週連続の講座です。1989年に始まる平成30年間の日本現代史をさまざまな角度から語ります。一般的な通史に加え、その時々の時代・社会の変化を切手や郵便物を通じて読み解くことで、モノから読み解く歴史の面白さを感じていただきます。詳細はこちらをご覧ください。 4月14日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 4月22日(土) スタンプショウ 2023 於・都立産業貿易センター台東館 毎年恒例、東京・浅草で開催の世界切手祭り・スタンプショウで、22日(土) 11:00から拙著『現代日中関係史 第2部 1972-2022』の出版記念イベントやります。事前予約不要・参加費無料です。親イベントとなる切手展、スタンプショウの詳細は主催者サイトをご覧ください。 4月30日(日) 英秘密情報部(MI6)入門 4月30日(日) 13:00~14:30 よみうりカルチャー荻窪での公開講座です。 映画「007シリーズ」などにも名前が出てくる英秘密情報部(MI6)について、実際の歴史的事件とのかかわりなどを中心にお話します。詳細はこちらをご覧ください。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 よみうりカルチャー 北千住 エリザベス女王の現代史 原則毎月第4土曜日 13:00~14:30 エリザベス女王の描かれた切手を手掛かりに、現代史を読み解く講座です。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」と「日本郵便150年の歴史」の2種類の講座をやっています。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『現代日中関係史 第2部 1972-2022』 好評発売中!★ 2022年11月に刊行された「第1部1945-1972」の続編で、日中国交”正常化”以降の1972年から2022年までの半世紀の、さまざまな思惑が絡まり合う日中関係の諸問題を、切手とともに紐解いていきます。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-09-18 Sat 01:47
いわゆる満洲事変の発端となった柳条湖事件が1931年9月18日に起きてから、ちょうど90年です。というわけで、きょうは、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1947年9月18日、中国東北部(旧満洲)の共産党支配地域の郵政を管轄していた東北郵電管理総局が発行した“九一八紀念”の50円切手の“東北郵電管理總發行”の文字が入った耳紙つきの田型です。 切手にある“九一八”とは、満洲事変の発端となった柳条湖事件の中国側の呼称で、切手の図案は満洲(国)の地図が中心ですが、その両脇には「反對蒋美反動派 製造二次満洲國」との文言が入っています。 1945年8月9日、満洲への侵攻を開始したソ連は、8月14日、蒋介石の中国国民政府(以下、国府)との間に①対日戦遂行に関する相互援助(9月2日には対日降伏文書の調印によって戦闘が正式に停止)、②単独不休戦・不講和、③日本の再侵略を防止するためのあらゆる措置の共同での行使、④相互の主権と領土保全の尊重などを規定した中ソ友好同盟条約を調印(同24日発効)しました。さらに、条約本文とあわせて、ソ連が中華民国に対する援助を(すべて国府に)与える代償として、ソ連は国府抜きで決められたヤルタ協定の密約を国府に認めさせることに成功します。 ところで、中ソ友好同盟条約の締結交渉の際、ソ連は日本降伏後3週間以内に東三省から撤兵を開始し、3ヵ月以内に撤退を完了するとのスターリン声明を出していました。具体的には、1945年11月14日までに南部満洲、同20日までに中部満洲、そして、12月3日までには全満洲から撤退するというスケジュールです。 しかし、実際にはソ連軍はさまざまな口実を設けて、1946年4月まで満洲に居座り続け、あらゆる物資を略奪したうえ、多くの日本人男性をシベリアや中央アジアに強制連行し、過酷な労働に従事させたことは周知のとおりです。 一方、1945年4月、中国共産党第七次全国代表大会で中央委員会主席に就任した毛沢東は「もし、我々が全ての根拠地を失っても、東北さえ確保できれば、それで中国革命の基礎を築くことができる」と発言。ソ連軍の満洲侵攻翌日の8月10日には、すぐさま東北の占領を各地の中共軍に指令しています。 じっさい、日本降伏時、長江上流の内陸の地、重慶を拠点としていた国府に対して、華北の地にも抗日根拠地という名の“解放区”を設けていた中共には、東北の接収という点に関して圧倒的に地の利がありました。また、ソ連占領軍も、中共軍の東北進駐に対しては(中ソ友好同盟条約の規定を無視して)非常に“寛容”でした。 このため、1945年11月3日、東北接収のために国府軍第52軍の輸送船団が営口沖に到着したとき、中共側はすでに営口を占領していただけでなく、遼寧省を中心とする地域に約30万人、吉林省及び黒龍江省を中心とする地域に約15万人の部隊を集結させていました。このため、国府軍は11月16日に山海関を占領。そこから、葫蘆島、錦州、古北口、朝陽へと前進しましたが、中共側も営口、安東、洮南、吉林をはじめ南満洲一帯に進駐するなど、東北接収をめぐる国境両軍のつばぜり合いは激しさを増していきました。 これに対して、東西冷戦が進行していく中で、中共の東北進駐が米英との摩擦を増大させ、軍事衝突の危機さえ招きかねないことを危惧したソ連は、しだいに中共と距離を置き、国府と妥協して東北の経済権益を国府と共同経営することを模索。また、1945年11月以降、米国も国府に対する軍事支援を強めつつも、国府と中共との調停工作に乗り出します。 この結果、1946年1月10日、国共両軍は一時的に停戦しましたが、2月上旬には早くも両軍の戦闘が再開。そして、3月10日にソ連軍が瀋陽を撤退し、4月14日に旅大地区を除く全東北から撤退すると、東北では国交内戦が本格化していくことになりました。 こうして、本格的な内戦に突入した東北部は、以後、国府の支配地域と中共の支配地域(いわゆる“解放区”)に分裂し、それに伴い、両者の支配地域ではそれぞれ異なった切手が使用されました。 このうち、中共支配下の解放区では、地域ごとに独自の切手が発行・使用されていましたが、1946年10月1日、解放区全体の郵政を統括する機関として哈爾浜に東北郵電管理総局が成立し、東北解放区共通の切手の発行が開始されました。 今回ご紹介の切手もその一例で、満洲事変から16周年の記念切手というのが建前です。しかし、より重要なのは、切手の両脇にある「反對蒋美反動派 製造二次満洲國」との文言で、「蒋介石と米国の反動派が第二の満洲国を建設することに反対する」といった意味になりましょうか。中共にいわせれば(米国の傀儡の)蒋介石の満洲接収は、日本の傀儡政権だった満洲国の焼き直しにすぎない、というわけです。 中国の政治文化では、しばしば、“指桑罵槐”ということが行われます。これは、直訳すると「桑の木を指して槐の木を罵る」ということですが、本当に批判したい相手を直接名指しするのではなく、別の相手を批判することで、間接的に人の心をコントロールしようというものです。この切手の場合も、「満洲国(の屈辱)忘れまじ」という形式を取って、その真の攻撃対象である蒋介石と国府(軍)、さらにその支援者である米国を非難するというスタイルになっており、“指桑罵槐”の応用例といって良いでしょう。 なお、この辺りの事情については、拙著『満洲切手』でもいろいろと分析しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 9月19日(日) 21:55~ 拉致被害者全員奪還ツイキャス 9月19日(日)、拉致被害者全員奪還ツイキャスのゲストで内藤が出演しますので、よろしかったら、ぜひ、こちらをクリックしてお聴きください。 9月20日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です! 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-01 Thu 04:13
きょう(1日)は、ことし(2021年)、創建100周年を迎える中国共産党の“創建記念日”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1949年7月1日、中国東北部(旧満洲)の共産党支配地域の郵政を管轄していた東北郵電管理総局が発行した“中国共産党28周年”の記念切手の1枚で、鎌と槌の共産党旗と“共産建設”の文字の入った赤旗を掲げて行進する労働者と農民が描かれています。切手の右側には“在中國共產黨領導下前進(中国共産党の領導の下、前進あり)”との文言があり、その下には、歯車型の枠の中に“中國共產黨二十八周年 7.1.誕生紀念 1949”の文字が入っています。なお、切手は瀋陽東北画報社の印刷所で製造されました。 さて、中国共産党の創建記念日は7月1日とされていますが、歴史的事実からすると、同党は1921年7月1日に創建されたわけではありません。 中国共産党の設立会議とされる中国共産党第1次全国代表大会(第1回党大会)は、1921年7月23日、創立党員で上海代表の李漢俊の自宅で開催されました。具体的な地番としては、上海フランス租界内の望志路106号(現在の興業路76号)になります。 しかし、7月30日夜、密告によりフランス租界警察が会議の行われていた李漢俊宅を捜索。このため、参加者は上海を脱出し、翌31日、浙江省嘉興市の南湖に浮かぶ船上に場所を移して最終日の会議が行われました。 したがって、本来であれば、中国共産党創建の日は、会議初日の7月23日ないしは党綱領と役員が確定した最終日の7月31日とすべきなのでしょうが、上述のように会議は秘密裏に開催され、その記録も公開されなかったため、次第に会議の行われた日付などについての記憶も曖昧なものとなっていきました。 1937年、支那事変の勃発後、第二次国共合作が成立すると、蒋介石の国民政府はそれまで非合法としていた中国共産党を合法化します。これを受けて、翌1938年、中国共産党は創建17周年の記念日を公式に祝うことになりましたが、この時には共産党側に第1回党大会の記録は残されておらず、毛沢東を含め、第1回党大会の参加者のうち正確な開催日を記憶していた者はいませんでした。そこで、彼らの曖昧な記憶を元に、とりあえず、7月頃の開催だったことだけは間違いないということで、暫定的に、7月1日を“創建記念日”として祝賀行事が行われました。 その後も、中国共産党は(正確な第1回党大会の日付が不明なまま)7月1日を創建記念日としていましたが(今回ご紹介の切手も7月1日に中国共産党が“誕生”したと説明しています)、1949年の中華人民共和国成立を経て、1950年末、大会当時のロシア語の報告資料が発見され、そこに「上海フランス租界の党員の居宅で、7月23日に会が開かれた」との趣旨の記述が見つかります。 しかし、この時は既に約20年にわたり、中国共産党は7月1日を“創建記念日”として祝賀行事を行っており、その日付が定着していたため、歴史的事実としては第1回党大会は7月23日としたうえで、7月1日は祝賀行事などを行う“記念日”とすることで決着が図られ、現在に至っているというわけです。まぁ、歴史的事実よりも、政治的なプロパガンダが優先するかの国らしいといえば、それまでですが…。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月3日(土)~ 武蔵野大学の生涯学習講座 7月3日・10日・17日・24日・31日、8月7日の6回、下記のふたつの講座でお話しします。 13:00~14:30 「日本の郵便150年の歴史 その1 ―“大日本帝国”時代の郵便事情―」 15:15~16:45 「東京五輪と切手ブームの時代 ―戦後昭和社会史の一断面―」 対面授業、オンラインのライブ配信、タイム・フリーのウェブ配信の3通りの形式での受講が可能です。お申し込みを含め、詳細については、こちらをクリックしてご覧ください。 7月5日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) 出版社からのコメント なぜQアノンにみんなハマったのか? ネットならではの引き寄せ構造と、現代格差社会の生んだ分かりやすい解釈。 これは米国だけじゃない! 人はみんなQを求めている!? (笑) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-07-07 Fri 11:02
いわゆる日中戦争(支那事変)の発端となった1937年7月7日の盧溝橋事件(中国語の呼称は日附に由来する七七事変)から、きょうで80周年です。ということで、ストレートにこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1946年7月7日、ソ連占領下の旅大地区(旧関東州)で発行された“七七抗戦紀念”の切手3種のうちの1枚です。 第2次大戦末期のヤルタ会談では、米英ソ三国の間で、①外蒙古の現状維持=モンゴルの独立承認、②大連港の国際化とソ連の海軍基地としての旅順口の租借権回復、③中ソ合同会社の設立による東支鉄道と南満洲鉄道の共同運営、④満洲における国府の完全な主権の保持とソ連の優先的利益の擁護、が秘密協定として決められていました。 1945年8月9日、日本に対して宣戦布告し、満洲への侵攻を開始したソ連は、8月14日、中国国民政府との間に、①対日戦遂行に関する相互援助(降伏文書の調印によって戦闘が正式に停止となるのは9月2日のことで、この時点では戦争は継続中です)、②単独不休戦・不講和、③日本の再侵略を防止するためのあらゆる措置の共同での行使、④相互の主権と領土保全の尊重などを規定した中ソ友好同盟条約を調印(同24日から発効)。さらに、条約本文とあわせて、ソヴィエト政府が中華民国に対する援助を(すべて中華民国の中央政府たる国民政府にたいして)与えることを誓約した交換公文、長春鉄道に関する協定、旅順口に関する協定、東三省に関する協定などが中ソ両国の間で調印されました。この結果、ソ連はヤルタの密約を国府に認めさせることに成功します。 これを受けて、ソ連の占領下に置かれた旅大地区には、ソ連軍が旧満洲で接収した切手が持ち込まれ、現地で接収された日本切手とともに、さまざまな加刷を施して使用されています。 今日ご紹介している切手もその一例で、盧溝橋事件9周年にあたる1946年7月7日に“七七”の日付と“抗戦紀念”の文字が加刷されています。占領当局としては、日本支配の痕跡を払拭し、旅大地区が日本の支配から“解放”されたことをアピールするため、“抗日戦争”の意義を強調するような加刷を行ったものと考えて良いでしょう。 なお、こうした旅大地区の終戦直後の郵便事情については、拙著『満洲切手』でも簡単にではありますが、まとめてみたことがあります。ご興味をお持ちの方は、是非、ご覧いただけると幸いです。 ★★★ 全日本切手展のご案内 ★★★ 7月15-17日(土ー月・祝) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにオーストラリア切手展が開催されます。詳細は、主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。 *画像は全日展実行委員会が制作したチラシです。クリックで拡大してご覧ください。 ことしは、香港“返還”20周年ということで、内藤も昨年(2016年)、ニューヨークの世界切手展<NEW YORK 2016>で金賞を受賞した“A History of Hong Kong(香港の歴史)”をチャンピオンクラスに出品します。よろしかったら、ぜひ会場にてご覧ください。 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2015-08-15 Sat 14:24
きょう(15日)は終戦の日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1946年8月15日、中国共産党(中共)支配下の東北・西満区で発行された切手で、中国地図と独立・和平・民主の文字を描く切手に、“紀念 八一五”の文字が加刷されています。 大戦末期の1945年4月、中共七全大会(中国共産党第七次全国代表大会)で中央委員会主席に就任した毛沢東は「もし、我々が全ての根拠地を失っても、東北(満洲)さえ確保できれば、それで中国革命の基礎を築くことができる」と発言。ソ連軍の満洲侵攻翌日の8月10日には、すぐさま東北の占領を各地の中共軍に指令しています。 じっさい、日本が降伏した時点で、長江上流の内陸の地・重慶を拠点としていた国民政府(国府)に対して、華北の地にも抗日根拠地という名の“解放区”を設けていた中共には、東北の接収という点に関して圧倒的に地の利がありました。また、東北に進駐していたソ連占領軍も、国府と結んだ中ソ友好同盟条約では「満洲における国府の完全な主権の保持とソ連の優先的利益の擁護」を謳っていましたが、中共軍の東北進駐を黙認します。 このため、1945年11月3日、東北接収のために国府軍第52軍の輸送船団が営口沖に到着したとき、中共側はすでに営口を占領していたばかりでなく、遼寧省を中心とする地域に約30万人、吉林省及び黒龍江省を中心とする地域に約15万人の部隊を集結させていました。このため、国府軍は11月16日に山海関を占領。そこから、葫蘆島、錦州、古北口、朝陽へと前進します。これに対して、中共側も営口、安東、洮南、吉林をはじめ南満洲一帯に進駐するなど、東北接収をめぐる国境両軍のつばぜり合いは激しさを増していきました。 これに対して、東西冷戦が進行していく中で、中共の東北進駐が米英との摩擦を増大させ、軍事衝突の危機さえ招きかねないことを危惧したソ連は、しだいに中共と距離を置き、国府と妥協して東北の経済権益を国府との共同経営にゆだねることを模索するようになります。1945年11月19日、ソ連軍が中共軍の林彪らに通知して、長春(満洲国の崩壊に伴い、新京から旧称に復す)の鉄道沿線と長春市内を国府軍に譲り、一時鉄道沿線から地方へと撤退。さらに、ほぼ時を同じくして、米国も国府に対する軍事支援を強めつつも、国府と中共との調停工作に乗り出しました。 この結果、1946年1月10日、国共両軍は一時的に停戦にこぎつけるのですが、2月上旬には早くも両軍の戦闘が再開。そして、3月10日にソ連軍が瀋陽を撤退し、4月14日に旅大地区を除く全東北から撤退すると、東北を舞台に国交内戦が本格化していくことになります。 この間、国府と中共のそれぞれの支配地域では別々の切手が使われていました。このうち、中共支配下の各地では、1946年10月1日、東北解放区全体の郵政を統括する機関として哈爾浜に東北郵電管理総局が成立するまで、各地で暫定的な切手が発行・使用されていました。 今回ご紹介の切手もそのうちの1枚で、斉斉哈爾の印刷所で製造されたモノです。今回ご紹介の加刷切手と無加刷の台切手はいずれも、“八一五”1周年にあわせて、1946年8月15日に発行されました。当時の中国の正統政権である国府にとっての対日戦勝記念日は降伏文書が調印された9月2日ですが、終戦まで満洲国の支配下に置かれていた東北では、日本同様、昭和天皇の玉音放送の日である8月15日が"終戦の日”という感覚が一般的だったのかもしれません。 ところで、日本語では一般に“記念”と書くところを、中国では“紀念”と表記するのが一般的で、この切手でも加刷の文字は“紀念 八一五”となっています。 “記念”の語は、唐代初期の張文成の作とされる『遊仙窟』にも「下官瞿然破愁成笑、遂喚奴曲琴取相思枕、留與十娘以為記念」との用例がありますが、“紀念”の用例は古典には見られません。ちなみに、『遊仙窟』などにみられる“記念”の語は「後の思い出にする、かたみ」の意味ですが、Commemorative Stamps の訳語としては“かたみ”というのは不自然ということで、わが国でも、昭和初期までの切手や消印では“紀念”の表記が使われていました。ところが、古典のテキストに用例がないことを理由に、『大漢和辞典』が“紀念”は“記念”の誤りとしたことから、その後の国語辞典では“記念”の表記に統一され、1928年の昭和大礼の切手以降、“記念(切手)”の表示が定着しました。 これに対して、中国では、おそらく、和製漢語の一種として“紀念”がもたらされた後、それがそのまま定着して現在にいたっています。この点については、記と紀の使い分けについて、“記”が単発的な出来事の単純な記録等に用いるのに対して、“紀”は糸偏の意味が付されて、連続的で途切れ目がない物・事を(現在の視点から)伝承する場合に使うというニュアンスがあるのだそうです。(出典はこちら) この説明によると、日本でいう“記念館”が歴史的資料などを、純粋な資料としてそのまま展示する施設であるのに対して、中国の“紀念館”が(時として政治的な)ある種の意図をもって資料を展示する施設という違いになるのですが、なるほど、そう考えると、かの地に数多ある“抗日紀念館”というのも、その性質をよく表しているわけですな。 なお、この切手を含む、満洲・東北の近現代史と切手・郵便とのつながりについては、拙著『満洲切手』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『日の本切手 美女かるた』 好評発売中! ★★★ 税込2160円 4月8日付の『夕刊フジ』に書評が掲載されました! 【出版元より】 “日の本”の切手は美女揃い! ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え! <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾン、boox store、e-hon、honto、YASASIA、紀伊國屋書店、セブンネット、ブックサービス、丸善&ジュンク堂、ヨドバシcom.、楽天ブックスをご利用ください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-01-22 Sun 11:15
私事ながら、本日(22日)をもって45歳になりました。「だからどうした」といわれればそれまでなのですが、せっかくの機会ですから、昨年刊行の拙著の中から“誕生日”にまつわる切手はないかと思って探してみたら、こんなモノがありました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1949年12月21日、中国共産党支配下の旅大(=旅順・大連)解放区で発行されたスターリン70歳誕生日の記念切手です。スターリンの誕生日は、現在、歴史的な事実として1878年12月18日(ユリウス暦:12月6日)であることが確認されていますが、1922年にソ連共産党の書記長に就任した彼は、自らの誕生日を1879年12月21日(ユリウス暦:12月9日)に変更。後に、この日が、彼の誕生日としてソ連の祝日となりました。 第二次大戦直後、社会主義世界の“首領”としてのスターリンの権威は絶大で(余談ですが、1950年代までは社会主義者たちの間で“偉大なる首領”といえば、金日成のことではなくスターリンのことでした)、1949年の彼の70歳の誕生日(とされた日)には、社会主義諸国がこぞって記念切手を発行しています。今回ご紹介の切手もそのうちの1枚で、同図案で色違いの20円切手の2種セットで発行されたものの1枚です。 さて、今回ご紹介の切手では、スターリンに対して「偉大的世界革命導師 中国人民最親摯的朋友」との賛辞がつけられていますが、これは、シベリアに抑留された日本人捕虜が1949年に作成した“感謝決議”の賛辞ともよく似ています。 日本人抑留者による“感謝決議”は、1949年5月14日から8日間にわたってハバロフスクで開催された第2回ハバロフスク地方反ファシスト大会で、抑留4年目にして日本人の帰国が進んだことを受けてスターリンに贈ることが結滞されたもので、幅1メートル、長さ20メートルの絹布にシベリア民主化運動の経緯を描き、あわせて、“モスクワ・クレムリン ソヴェート諸民族の偉大なる指導者、全世界労働者の師父にして日本人民最良の友 スターリン大元帥”宛の感謝文が金糸で刺繍されています。 その文言の一部を引用してみると、「無権利の旧日本軍将兵たりし私たちは、社会主義の国、ソヴェートの国で解放され、初めて自由を得、民主主義を学び知ったのであります」「厳粛に、私たちは宣誓します。私たちはアメリカ帝国主義、日本軍国主義のやからどもが、私たちを再び犯罪的奴隷兵士と化すことをもはや断じて許さぬであろうことを」「帝国主義者どもが歴史の教訓にこりることなく、諸民族の意志に抗し、再び犯罪的冒険をあえて犯すならば、そしてわが日本を世界労働者の祖国ソヴェート同盟にたいする犯罪的戦争の舞台に、植民地奴隷化の兵站基地に化さんとするならば、私たちは必ずや死をもおそれず決然とけつ起し、憎むべき帝国主義者どもの醜悪なる頭がいを打ち砕くべく起ちあがるであろうことを」といった具合です。 自分たちを不法に抑留し、強制労働に従事させた最高責任者・スターリンに対して感謝し、あろうことか、彼の国のため、場合によっては祖国に対して刃を向けることさえ誓うという“感謝文”に署名した日本人は6万6434人います。その中には、完全に洗脳されてスターリン信者になった者もいたでしょうが、署名をしなければ“反動”“ファシスト”のレッテルを貼られて帰国できないと信じ込まされていた人の方が多かったと思われます。恐ろしい話です。 ただし、もっとも、この感謝文が最終的にスターリンの元へと届けられることはなかったそうです。 他人を蹴落としてまで独裁者に対する忠誠心を競い合わなければならない社会にあって、“人権”の埒外に置かれていた日本人抑留者がスターリンに対して感謝と忠誠を誓うということにでもなれば、ソ連の一般国民に対しては従来以上の忠誠心が要求されるはずです。そんなことは勘弁してくれ…というのが、この感謝文を受け取ったソ連側の当局者の本音だったのかもしれません。 なお、シベリア抑留と関連の郵便物については、拙著『ハバロフスク』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 年賀状の戦後史 角川oneテーマ21(税込760円) 日本人は「年賀状」に何を託してきたのか? 「年賀状」から見える新しい戦後史! ★ TBSラジオ・ニュース番組森本毅郎・スタンバイ(2011年11月17日放送)、11月27日付『東京新聞』読書欄、『週刊文春』12月1日号、12月1日付『全国書店新聞』、『週刊東洋経済』12月3日号、12月6日付『愛媛新聞』地軸、同『秋田魁新報』北斗星、TBSラジオ鈴木おさむ 考えるラジオ(12月10日放送)、12月11日付『京都新聞』読書欄、同『山梨日日新聞』みるじゃん、12月14日付『日本経済新聞』夕刊読書欄、同サイゾー、12月15日付『徳島新聞』鳴潮、エフエム京都・α-Morning Kyoto(12月15日放送)、12月16日付『岐阜新聞』分水嶺、同『京都新聞』凡語、12月18日付『宮崎日日新聞』読書欄、同『信濃毎日新聞』読書欄、12月19日付『山陽新聞』滴一滴、同『日本農業新聞』あぜ道書店、[書評]のメルマガ12月20日号、『サンデー毎日』12月25日号、12月29日付エキレピ!、『郵趣』2012年1月号、『全日本郵趣』1月号、『歴史読本』2月号、『本の雑誌』2月号で紹介されました。 amazon、bk1、e-hon、HMV、livedoor BOOKS、紀伊國屋書店BookWeb、 セブンネットショッピング、楽天ブックスなどで好評発売中! |
2011-08-14 Sun 00:57
中国・大連市で、きょう(14日)、化学工場の撤退を求めて市民1万人以上が抗議デモを行い、大連市政府も問題の工場に対して即時操業停止を命じ、工場の移転を確約せざるをえなくなるという事件がありました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1949年5月1日、中国共産党支配下の旅大(=旅順・大連)解放区で発行されたメーデーの記念切手で、気勢を上げる工場労働者が描かれています。ちなみに、印刷は大連日報社です。 さて、大連では、先週8日の台風の影響により、問題となった化学工場の海側にある長さ600mほどの防波堤が決壊。工場から50mの地点にまで水が流れ込み、有毒物質が漏れ出す恐れがあったため周辺住民が避難を余儀なくされていました。 今回のデモはこうした事態に対して抗議するためのもので、大連市庁舎前で午前中に始まり、午後になると参加者は若者を中心に1万人以上に膨れ上がったそうです。参加者たちは「工場はすぐに出て行け」などと叫び、工場を認可した当時の大連市トップの責任を追及し、動員された警官隊数百人とにらみ合いが続き、騒然となりました。 おりしも、きょうは、中国が改修している旧ソ連製空母「ワリャーグ」が初めての試験航行を終え、母港・大連港に戻った日でもあり、市政府としては、市民らの抗議が地元政府を公然と批判するまでに発展した現実を踏まえ、秩序回復のため早期の事態収拾を図る必要に迫られ、異例の即時操業停止命令となったということのようです。 いずれにせよ、中国国内では、急激な経済発展の陰で、共産党の一党独裁体制に対する潜在的な不満も高まってきていることは事実ですから、今回のデモが、今後、ほかの都市に波及することも十分に考えられます。それが、中国の民主化につながっていくのかどうかという点も含め、今後の動きに注目したいですな。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 5月29日付『讀賣新聞』に書評掲載 『週刊文春』 6月30日号「文春図書館」で 酒井順子さんにご紹介いただきました ! 切手百撰 昭和戦後 平凡社(本体2000円+税) 視て読んで楽しむ切手図鑑! “あの頃の切手少年たち”には懐かしの、 平成生まれの若者には昭和レトロがカッコいい、 そんな切手100点のモノ語りを関連写真などとともに、オールカラーでご紹介 全国書店・インターネット書店(amazon、boox store、coneco.net、JBOOK、livedoor BOOKS、Yahoo!ブックス、エキサイトブックス、丸善&ジュンク堂、楽天など)で好評発売中! |
2010-10-17 Sun 18:43
きのう(16日)、中国四川省成都など3都市で沖縄県・尖閣諸島付近での中国漁船衝突事件に抗議する大規模な反日デモが発生しました。中国での大規模な反日デモは2005年春以来のことです。というわけで、きょうは中国のデモを描く切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1947年に中国東北部の共産党支配地域の郵政を管轄していた東北郵電管理総局が発行した“5・30事件22周年”の記念切手の1枚で、デモに参加する学生と労働者が描かれています。 1925年5月14日、上海の日系企業・内外綿で、従業員の解雇問題をめぐる騒動から発砲事件が起こり、1人がなくなりました。さらに同月28日、青島で、日本の要請で出動した軍閥系の兵士が数名を射殺する事件が起こりました。 このため、5月30日、上海でこれらの事件に抗議する学生デモが発生。租界の警察はデモ隊に対して一斉射撃を行い、死者13名、負傷者数十名、逮捕者53名を出すという事件になりました。これが、いわゆる5・30事件のあらましです。 翌31日、中国の全国的な労働組織である中華全国総工会の地域組織として上海総工会が成立。総工会の呼びかけに呼応して、上海全市はゼネストに突入し、労働側は列強諸国や北京政府に対して17ヵ条の要求を突きつけました。その後、事件は南京、北京、天津、さらには広州と香港にも飛び火しました。 さて、きのうの反日デモに関して、中国政府は「一部の大衆が日本側の誤った言動に義憤を表明した」(外務省スポークスマン)なとと説明しています。しかし、中国においては、政府の許可なしデモを行うことが不可能ですから(無申請のデモを行えば、即逮捕されます)、当然のことながら、今回のデモも官製デモであることはほぼ間違いありません。すでに、香港のメディアでは、今回のデモが各大学の学生会によって周到に準備されたものであるとのデモ参加者の証言が報じられています。中国の大学学生会はすべて政府や共産党の指導下にあり、自主的な政治活動は一切認められていませんから、まさに、馬脚を現したということになりましょう。 なお、中国側が16日という日を選んだのは、東京の中国大使館前で、文字通り、“中国側の誤った言動に義憤を表明”するための大規模デモが行われることを察知し、同日の対抗デモを組織したためという見方が有力なようです。で、その日本側のデモについての報道が、日本の新聞・テレビでは極端に少ないように感じられるのですが、気のせいでしょうかねぇ。大手マスコミの多くが、左翼系の団体が天皇誕生日などに抗議行動を行うと参加者が数十人規模でも喜んで取り上げるのに、反中デモに2800人が集まってもあまり注目しないというのは、いったい、どういう理由なのでしょうか。取捨選択の基準があるというのなら、ぜひ、ご教示いただきたいものです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 事情のある国の切手ほど面白い メディアファクトリー新書007(税込777円) カッコよすぎる独裁者や存在しないはずの領土。いずれも実在する切手だが、なぜそんな“奇妙な”切手が生まれたのだろう?諸外国の切手からはその国の抱える「厄介な事情」が見えてくる。切手を通して世界が読み解ける驚きの1冊! 全国書店・インターネット書店(amazon、bk1、DMM.com、JBOOK、livedoor BOOKS、TSUTAYA、Yahoo!ブックス、7&Y、紀伊国屋書店BookWeb、ジュンク堂書店、楽天ブックスなど)で好評発売中! |
2010-06-17 Thu 22:04
きのう(16日)閉会となった国会で、第2次大戦後、旧満州から旧ソ連に連行され、シベリアやモンゴルで強制労働に従事させられた日本人の元抑留者に特別給付金を支給する特別措置法(シベリア特措法)が成立しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1946年4月1日、ソ連軍占領下の旅大地区(旧関東州)で、ソ連側が正式に旅大地区の日本郵政を接収したことと5月1日のメーデーを一括して記念するために発行された切手を台紙に貼って、大連郵政局の記念印を押したものです。 1945年8月9日、日本に対して宣戦布告を行ったソ連は、8月14日、中国国民政府(国府)との間に、①対日戦遂行に関する相互援助(降伏文書の調印によって戦闘が正式に停止となるのは9月2日のことです)、②単独不休戦・不講和、③日本の再侵略を防止するためのあらゆる措置の共同での行使、④相互の主権と領土保全の尊重、などを規定した中ソ友好同盟条約を調印(同24日から発効)。条約本文とあわせて、中ソ両国は、ソヴィエト政府が中華民国に対する援助を(すべて中華民国の中央政府たる国民政府に対して)与えることを誓約した交換公文、長春鉄道に関する協定、旅順口に関する協定、東三省に関する協定を調印。その結果、ソ連はいわゆるヤルタ協定の密約を国府に認めさせることに成功します。ちなみに、国府の代表が参加していなかったヤルタ協定では、米英ソ三国の間で、中ソ関係に関しては、①外蒙古の現状維持=モンゴルの独立承認、②大連港の国際化とソ連の海軍基地としての旅順口の租借権回復、③中ソ合同会社の設立による東支鉄道と南満洲鉄道の共同運営、④満洲における国府の完全な主権の保持とソ連の優先的利益の擁護、が決められていました。 中ソ友好同盟条約の締結交渉の際、ソ連は日本降伏後3週間以内に東三省から撤兵を開始し、3ヵ月以内に撤退を完了するとのスターリン声明を出していました。具体的には、1945年11月14日までに南部満洲、同20日までに中部満洲、そして、12月3日までには全満洲から撤退するというスケジュールです。 しかし、実際にはソ連軍はさまざまな口実を設けて、1946年4月まで満洲に居座り続けました。この間、多くの日本人男性が名目をつけて連行され、シベリアでの強制労働に従事させられたことは周知のとおりです。 こうした“人狩り”と併行して、ソ連軍は各地で略奪を働きました。 まず、新京の満洲中央銀行の金庫から、旧満洲国の紙幣である満銀券約7億円(1945年8月の時点での通貨発行高は81億5750万円)、有価証券75億円、金塊36キロ、白金31キロ、銀塊66キロ、ダイヤモンド計3705カラットが持ち出されたのをはじめ、各地の金融機関では、現金・有価証券・貴金属類が根こそぎ“没収”されたほか、日本人の民家に押し入り金品を強奪する事件(時計と万年筆は例外なく没収されたといわれています)が横行しました。 郵便に関しては、占領ソ連軍は郵便局から旧満洲国の切手類を接収し、その一部は、1946年4月にソ連軍が旧満洲国の領域から撤退した後もソ連側が管理し続けていた旅大地区(旧関東州)に持ち込まれ、現地で接収された日本切手とともに、さまざまな加刷を施して使用されています。今回ご紹介している切手と記念印も、そうした事情によるものです。 記念印は、記念銘を周囲にめぐらした中に、旅大区の地図と国府の旗である晴天白日旗を配したデザインとなっており、ソ連側は国府の主権を尊重するという建前が守られています。また、地図の部分を良く見ると、耕作する農民の姿が小さく描かれているが、これは共産主義政権下で行われる土地改革(地主・富農の土地を没収して貧農・小作人に分配すること)が旅大地区でも進行していることを表現しようとしたものでしょう。 もっとも、本国へと持ち去ることのできない土地に関しては貧農・小作人に分配することもあったソ連占領当局でしたが、略奪の可能な鉱工業の機械設備類に関しては、彼らは、旧満洲国ならびに関東州の各都市の工場施設からは、膨大な“戦利品”を持ち去っていきました。 1946年6月に派遣されたアメリカのポーレー委員会によると、全満洲でのソ連軍の撤去または破壊による工業別の被害は、電力:71%、炭鉱:90%、鉄鋼:50%以上、鉄道:80%、機械:75%、液体燃料:50%、化学:50%、洋炭:50%、非鉄金属:75%、繊維:75%、パルプ:30%、電信電話:20%以上、であり、被害総額は1ドル=4円20銭のレートで計算して8億9350万ドルにも達したといわれています。 今回、シベリア特措法が成立したことによって、酷寒の地で理不尽な苦難を強いられた元抑留者の方々に対する事実上の補償の道が開かれたことは、それなりに評価すべきことだと思います。ただし、“史上最大規模の拉致事件”ともいうべきシベリア抑留の加害者は、日本政府ではなく、ソ連であったことは忘れてはなりません。したがって、恒例となった元抑留者に支援の手を差し伸べ、彼らの労苦に報いるのと同時に、シベリア抑留の全容と真相の解明をロシア側に求め、彼らの責任を明らかにする努力を怠ってはなりません。特に、故国の地を踏めずに命を落とした方々や遺族の無念に報いるためにも、誰が、いつ、どこに埋葬されたか、消息不明者を含めての調査は急務といえましょう。 なお、旧満洲国崩壊後の切手や郵便については、拙著『満洲切手』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 欧米人も実は捕鯨が大好き ★★★ 鯨を追い、七つの海へと旅立った男たちの歴史と文化 キュリオマガジン6月号・巻頭特集 捕鯨浪漫主義 捕鯨は日本だけの特殊な文化・伝統なのか。否、そんなことは断じてない。むしろ、歴史的に見れば、欧米社会こそ、捕鯨を題材とした文学・演劇・音楽・絵画などさまざまな文化を残してきたではないか。 陸の西部劇と海の捕鯨は、カッコいい荒くれ男たちの物語の双璧である。知力・体力の限りを尽くし、命の危険を顧みずに大自然の中で奮闘する男たちの姿を見て、単純素朴に美しいと感じる人も多いはずだ。 そんな捕鯨のカッコよさを物語る欧米のコレクターズ・アイテム満載の『キュリオマガジン』2010年6月号、好評発売中!(なお、同誌についてのお問い合わせや入手方法などにつきましては、出版元のHPをご覧いただけると幸いです) ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 総項目数552 総ページ数2256 戦後記念切手の“読む事典”(全7巻) ついに完結! 『昭和終焉の時代』 日本郵趣出版 2700円(税込) 2001年のシリーズ第1巻『濫造濫発の時代』から9年。<解説・戦後記念切手>の最終巻となる第7巻は、1985年の「放送大学開学」から1988年の「世界人権宣言40周年」まで、NTT発足や国鉄の分割民営化、青函トンネルならびに瀬戸大橋の開通など、昭和末期の重大な出来事にまつわる記念切手を含め、昭和最後の4年間の全記念・特殊切手を詳細に解説。さらに、巻末には、シリーズ全7巻で掲載の全記念特殊切手の発行データも採録。 全国書店・インターネット書店(amazon、bk1、JBOOK、livedoor BOOKS、7&Y、紀伊国屋書店BookWeb、ゲオEショップ、楽天ブックスなど)で好評発売中! |
2009-10-01 Thu 09:16
1949年10月1日に中華人民共和国が建国を宣言してから、きょうでちょうど60年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1949年11月1日、中国共産党支配下の旅大(=旅順・大連)解放区で発行された“中華人民共和国成立”の記念切手で、毛沢東と新中国の成立を歓迎する人民が描かれています。 第2次大戦後の国共内戦の結果、中共が国府(国民政府)を打倒して中国大陸を制圧し、中華人民共和国が建国されたわけですが、1949年10月1日に北京で毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言したときには、北京政府が現在の中華人民共和国の領域をすべて掌握していたわけではありません。 すなわち、建国宣言の時点では、国府はまだ大陸に残って中共との戦いを続けており、国府も重慶に残っていました。ちなみに、中共が重慶を占領したのは11月30日のことで、国府が台北を臨時首都とすることを決議したのは12月4日(正式な移転は7日)のことでした。 また、中共側がすでに“解放”していた地域でも、1949年10月以降も北京政府の発行する人民幣ではなく、現地のローカル通貨がしばらく使われていたケースがあり、そうした地域では、当然のことながら北京の中国人民郵政が発行するものとは別の切手が使用されていました。 今回ご紹介の旅大地区では、1949年10月の時点では関東幣と呼ばれるローカル通貨が使用されていましたが、1950年7月以降、関東幣は東北地域全体に共通の東北幣に吸収されることになります。この東北幣が、中華人民共和国の成立後もしばらくは流通していたことは、初期の新中国切手に“東北貼用”の切手が存在することからも実感としてご理解いただけるものと思われます。 さて、切手では、人民が共産中国の成立を歓呼して迎える図が描かれています。たしかに、国共内戦末期、国府の支配下ではハイパーインフレが進行し、政府関係者の腐敗も深刻な状況でしたから、ともかくも国府はやめてほしいという空気が中国大陸に蔓延していたことは事実でしょう。ただし、国府に代わって大陸を支配した毛沢東の中共の下で、人民の生活が国府の時代に比べて改善されたかというと、そのあたりは判断に悩むところです。まぁ、国府が遷移した台湾に関しても、1980年代までは戒厳令が敷かれており、国民党の一党独裁体制下で言論の自由などはかなり制限されていましたが、それでも大躍進の失敗による飢餓の蔓延や、社会的な大混乱を巻き起こした文化大革命などはありませんでしたから、民主化以降はいうに及ばず、戒厳令下であっても、大陸にくらべればかなりましだったといえるでしょう。 なお、現在の中国共産政府は、抗日戦争に主導的な役割を果たした中共が、その余勢をかって国府を破り、中華人民共和国を建国したという歴史観に立っており、この文脈に沿って“日本軍国主義”ないしは“日本帝国主義”を非難し続けているわけですが、かつて、毛沢東は次のように述べています。 私は日本の友人に話したことがあります。彼らは言いました。誠に申訳ありませんでした、日本皇軍は中国を侵略しましたと。(1964年7月に日本社会党左派グループの代表団が訪中し、後に同党委員長となる代表の佐々木更三が、日本の過去の中国侵略について「非常に申し訳なく思っております」と頭を下げたことを指す)わたしはいったのです。 いいや!あなたがた皇軍が中国の大半を侵略しなかったら、中国人民は団結して、あなたがたに対抗することはできなかったし、中国共産党は政権を奪取することができなかった。したがって、日本皇軍はわれわれにとって、ひじょうに優れた教員であったし、あなたがたの教員でもあったと」 毛沢東の発言は逆説的な表現ではありますが、それでも、旧満洲国の遺産が、1949年以降の新中国建設にとって重要な役割を果たしたことなどを考えると、単なる皮肉と切り捨てるわけにはいかないでしょう。この点については、拙著『満洲切手』でもいろいろと論じてみたことがありますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 異色の仏像ガイド決定版 全国書店・インターネット書店(アマゾン、bk1、7&Yなど)・切手商・ミュージアムショップ(切手の博物館・ていぱーく)などで好評発売中! 『切手が伝える仏像:意匠と歴史』 彩流社(2000円+税) 300点以上の切手を使って仏像をオールカラー・ビジュアル解説 仏像を観る愉しみを広げ、仏教の流れもよくわかる! |
2009-05-04 Mon 21:49
1919年に中国でいわゆる“五四運動”が起こってから、きょうでちょうど90年です。というわけで、五四運動がらみのモノということでこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、“五四運動”28周年にあたる1947年5月4日、中国東北部(満洲)における“解放区”(共産党支配地域)の郵政を管轄していた東北郵電管理総局が発行した記念切手です。このとき発行された切手は10円・30円・50円の3種で、デザインはすべて抑圧の象徴である鎖を断ち切る斧を描くモノで、両脇に「打破専制枷鎖 争取民主自由」(専制の鎖と枷を打破して民主と自由を奪い取ろう)とのスローガンが入っています。まぁ、きょうは“みどりの日”でもありますし、そのうちの10円の切手のタテ目打もれのペアを持ってきました。 いわゆる“五四運動”は、第一次大戦中、ドイツに宣戦布告した中華民国は“戦勝国”であるにもかかわらず、パリ講和会議において旧山東省の旧ドイツ権益が中国側に返還されず、大戦中の既成事実をもとに日本に譲渡することが認められたことに対して、北京の学生数千人が1919年5月4日、天安門広場からヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求してデモ行進をしたり、曹汝霖宅を焼き討ちにしたりした事件です。 現在の中国共産政府は、中国共産党の創立には五四運動も大きな影響を与えているとの建前もあって、この事件をナショナリズムが真に大衆化した転機として高く評価しています。しかし、実際に五四運動のときのように、学生たちの矛先が体制批判に向かうことに対しては容赦のない弾圧が繰り返されています。 たとえば、いまから20年前の1989年5月4日は五四運動の70周年にあたっていましたが、その直前の4月の胡耀邦(元総書記)の死を悼むかたちで、政府・党幹部の腐敗と汚職、小平による人治(超法規的な君臨)への不満から、民主化を求める学生運動が北京を中心に発生しています。これに対して、中国政府は5月19日に北京に戒厳令を布告。6月3日深夜から4日未明にかけて、北京の天安門広場前に集まっていた学生・市民に対して人民解放軍が無差別に発砲し、民主化運動を力ずくで鎮圧したことはご記憶の方も多いことでしょう。 いわゆる1989年の天安門事件に限らず、共産党政権の下で自由や民主を求めてきた人々がたどってきた運命を思い起こしてみると、今回ご紹介の切手に印刷されている「打破専制枷鎖 争取民主自由」というスローガが、なんとも強烈なブラック・ジョークにしか思えないのは、決して僕だけではないだろうと思います。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 異色の仏像ガイド決定版 全国書店・インターネット書店(アマゾン、bk1、7&Yなど)・切手商・ミュージアムショップ(切手の博物館・ていぱーく)などで好評発売中! 『切手が伝える仏像:意匠と歴史』 彩流社(2000円+税) 300点以上の切手を使って仏像をオールカラー・ビジュアル解説 仏像を観る愉しみを広げ、仏教の流れもよくわかる! * おかげさまで出足が好調で、4日夕方の時点でアマゾンおよび7&Yでは品切れとなっているようで、ご迷惑をおかけしております。ざっと検索をかけたところ、bk1、本やタウン、ジュンク堂などには在庫があるようですので、お求めの際には、そちらをご利用いただけると幸いです。 |
2007-07-07 Sat 01:26
今日は07年7月7日のスリー・セブンの日。おまけに、日中戦争の発端となった1937年7月7日の盧溝橋事件から70周年ということで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1946年7月7日、ソ連占領下の旅大地区(旧関東州)で発行された“七七抗戦紀念”の切手3種のうちの1枚です。 第2次大戦末期のヤルタ会談では、米英ソ三国の間で、①外蒙古の現状維持=モンゴルの独立承認、②大連港の国際化とソ連の海軍基地としての旅順口の租借権回復、③中ソ合同会社の設立による東支鉄道と南満洲鉄道の共同運営、④満洲における国府の完全な主権の保持とソ連の優先的利益の擁護、が秘密協定として決められていました。 1945年8月9日、日本に対して宣戦布告し、満洲への侵攻を開始したソ連は、8月14日、中国国民政府との間に、①対日戦遂行に関する相互援助(降伏文書の調印によって戦闘が正式に停止となるのは9月2日のことで、この時点では戦争は継続している)、②単独不休戦・不講和、③日本の再侵略を防止するためのあらゆる措置の共同での行使、④相互の主権と領土保全の尊重などを規定した中ソ友好同盟条約を調印(同24日から発効)。さらに、条約本文とあわせて、ソヴィエト政府が中華民国に対する援助を(すべて中華民国の中央政府たる国民政府にたいして)与えることを誓約した交換公文、長春鉄道に関する協定、旅順口に関する協定、東三省に関する協定などが中ソ両国の間で調印されました。この結果、ソ連はヤルタの密約を国府に認めさせることに成功します。 これを受けて、ソ連の占領下に置かれた旅大地区には、ソ連軍が旧満洲で接収した切手が持ち込まれ、現地で接収された日本切手とともに、さまざまな加刷を施して使用されています。 今日ご紹介している切手もその一例で、盧溝橋事件9周年にあたる1946年7月7日に“七七”の日付と“抗戦紀念”の文字が加刷されています。占領当局としては、日本支配の痕跡を払拭し、旅大地区が日本の支配から“解放”されたことをアピールするため、“抗日戦争”の意義を強調するような加刷を行ったものと考えて良いでしょう。 こうした旅大地区の終戦直後の郵便事情については、拙著『満洲切手』でも簡単にではありますが、まとめてみたことがあります。ご興味をお持ちの方は、是非、ご覧いただけると幸いです。 |
2006-12-12 Tue 00:51
今日(12月12日)は、1936年に張学良が、抗日よりも反共を優先していた蒋介石を幽閉して説得し、共産党との内線の停止を約束させた西安事件から70周年の記念日にあたります。というわけで、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1946年12月、中国東北部(旧満洲に相当)の中国共産党(中共)支配地域の郵政を管轄していた東北郵電管理総局が発行した“双十二節(いわゆる西安事件の中国側の呼称)10周年”の記念切手です。 西安事件のあらましについては以前の記事でもご説明しましたが、この事件は、蒋介石にとっては屈辱的な事件であった半面、国府軍の攻撃で崩壊寸前の危機にあった中共にとっては、抗日戦争という文脈においてみずからの基盤を確立させるうえでの起死回生の出来事となったものです。 それゆえ、中共側が事件から10周年の節目にあたり、自らの支配地域で西安事件の記念切手を発行するのも当然といえるのですが、実際に発行された切手のデザインは、非常に興味深いものです。 すなわち、切手には、満洲を拠点とする狼になぞらえられた日本軍と、獅子になぞらえられた共産党(と同党を支援する人民)の双方から責められて右往左往する蒋介石が描かれています。このデザインは、蒋の採っていた“安内攘外(先に共産党を打倒してから、日本軍と戦う)”政策を皮肉ったものだが、抗日戦争の終結後、蒋介石が共産党攻撃(内戦)を再開したことを非難する意図も込められているのは一目瞭然です。 したがって、見方によっては、この切手は中共にとっての目下の最大の敵である蒋介石を前に、“敵の敵”である中共と日本軍(ないしは満洲国)が手を結んでいる構図に見えないこともありません。実際、逆説的な意味ではあるのですが、毛沢東は次のように述べて、“日本軍のおかげ”論を展開しています。 私は日本の友人に話したことがあります。彼らは言いました。誠に申訳ありませんでした、日本皇軍は中国を侵略しましたと。(引用者註:一九六四年七月に日本社会党左派グループの代表団が訪中し、後に同党委員長となる代表の佐々木更三が、日本の過去の中国侵略について「非常に申し訳なく思っております」と頭を下げたことを指す)わたしはいったのです。 いいや!あなたがた皇軍が中国の大半を侵略しなかったら、中国人民は団結して、あなたがたに対抗することはできなかったし、中国共産党は政権を奪取することができなかった。したがって、日本皇軍はわれわれにとって、ひじょうに優れた教員であったし、あなたがたの教員でもあったと」 (毛沢東「日本社会党人士と会見したときの談話」一九六四年七月十日 『毛沢東 外交路線を語る』より) こうしたことを考えると、満洲国を作って中国を侵略した日本軍が一方的に悪で、これに抵抗した中国の人民は純粋に善であるといえるほど、歴史の実相は単純なものではないのだということをあらためて思い知らされます。 さて、今年9月に刊行の拙著『満洲切手』では、そうした満洲国をめぐる複雑な歴史の諸相を切手や郵便物を使って読み解いてみました。ぜひ、ご一読いただけると幸いです。 |
2006-11-02 Thu 01:02
明日からいよいよ全国切手展<JAPEX>が開幕します。 今年は、①国際切手展凱旋展示(2005~6年の国際切手展で金賞を受賞した作品の招待展示)、②ローマ字入り切手40年、③小判切手130年、④オーストラリア切手展(日豪交流年記念事業)といった盛り沢山の特別展示をご用意しているほか、全国の収集家の方々による競争出品も多数集まり、例年にない見応えのある内容となりました。会期中は作品解説や講演会のプログラムも多数ご用意しておりますので、一人でも多くの皆様のお越しをスタッフ一同、心よりお待ち申し上げております。 トップの画像は、会場にお越しいただいた皆様にお配りするブルテン(パンフレット)の表紙画像(クリックで拡大されます)で、「ローマ字入り切手40年」の企画出品の中から、郵便自動化の実験用に作られた模擬切手を拡大して掲載しています。 ところで、今回の<JAPEX>では、僕は実行委員長を仰せつかっているのですが、今年の6月にワシントンで開かれた国際切手展<WASHINGTON 06>で金賞を受賞したコレクション「昭和の戦争と日本」も招待出品の対象となっていますので(勧進元の親分が自分の作品を“招待する”というのも、なんだか変な気分です)、その作品を展示するほか、9月末に刊行した『満洲切手』にからんだトーク・イベントを、明日3日の16:00より、会場内の特設コーナーで行います。 というわけで、今日は、その予告編として、展示とトークの両方に登場するマテリアルで、なおかつ、過去の記事に取り上げていないものとして、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1946年3月25日、満洲国崩壊後の中国東北部、哈爾浜道裡郵便局から差し出された書留便で、満洲国時代の切手に“中華民国”と加刷した切手が貼られています。 満洲国の崩壊後、東北各地の“解放”をめぐっては国民政府(国府)と中国共産党(中共)が激しくしのぎを削っており、それぞれの支配地域では別々の切手が使われていました。このうち、国府支配下の各地では、中華郵政が配給する切手と併行して、満洲国時代の切手を接収し、郵便局ごとに“中華民国”の文字などを加刷して暫定的に使用するということも行われています。 今回ご紹介しているのはその一例で、差出人の住所氏名を表すスタンプがロシア語表示となっているのは、白系ロシア人が多く住んでいた哈爾浜ならではの雰囲気を感じさせます。 押されている消印は、日付の表示こそ、年号を満洲国時代の康徳年号から中華民国表示の35年として、満洲国時代の“年.月.日.”の順から“日.月.年”の順に変更されているものの、それ以外の形式に関しては、満洲国が日本に倣って採用したものがそのまま使われています。 このように、当時の切手や郵便物を見てみると、満洲国が崩壊しても、かつて満洲国があった地域の切手や郵便は、満洲国を引きずる形で再出発せざるをえなかったことがわかります。 今回のトークでは、今回ご紹介してような、満洲国崩壊後の中国東北で用いられた切手や郵便物を通じて、満洲国の“遺産”が、いわゆる新中国にどのように受け継がれていったのか、お話してみたいと考えていますので、是非、遊びに来ていただけると幸いです。 |
2006-09-29 Fri 06:32
昨日(28日)は、著名な韓国切手のコレクターである飯塚悟郎さんのご紹介で、飯塚さんが会長を務めておられる東京江北ロータリークラブで「満洲国の遺産」と題するテーブル・トークをしてきました。トークでは、刊行されたばかりの拙著『満洲切手』の中から、こんなカバー(封筒)を取り上げて、のなかから、僕なりに考えていることをお話してきました。(画像はクリックで拡大されます)
1945年8月に日本が降伏すると、蒋介石は「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず)と演説して中国人に日本人への復讐をしないよう戒め、毛沢東も「日本軍国主義に罪があり、日本人民には罪はない」と繰り返し強調していますが、これらは、いずれも、戦後復興に向けて日本人の能力を活用したいという思惑から発せられた発言で、彼らが寛大な人格者であったからなされた発言というわけではありません。 じっさい、国共内戦の過程で、国共両陣営に動員された日本人は三万人をくだらないといわれていますが、特に、終戦時に旧満州にいた日本人の医師や看護婦をはじめ、技術者たちの中には、さまざまな口実を設けて帰国することをなかなか許されず、数年にわたって中国人同士の内戦に駆り出される者が多かったことは広く知られています。 そうした中で、1948年2月、東北最大の工業施設であった鞍山製鉄所を支配下に収めた中共は、同年11月以降、安東に破格の待遇で“幽閉”していた日本人技術者約100人(家族をあわせると約280人)を鞍山に送り、中国人労働者に対する本格的な技術指導を行わせました。 1949年10月に中華人民共和国の建国が宣言されると、その歴史的な興奮が中国全土を覆う中、鞍山の街には、長年の戦乱で荒廃した製鉄所を復興しようとする熱意があふれ、中国各地から優秀な人材がこの地に送り込まれていきます。 その際、指南役を担った日本人技術者は、製鉄所の技術指導のみならず、中国人技術者に技術の伝承を図り、積極的に新たな技術革新を提言するなど、大きな成果を挙げました。同時に、一般の中国人労働者が、各種の訓練組織で高度な製鉄技術と専門知識を学ぶことを許され、昇進と昇格の機会を与えられたのも、おそらく、このときが最初のことです。 その後、1950年6月には朝鮮戦争が始まり、同年10月には中国も派兵しますが、鞍山では製鉄所を復興し、生産を軌道に乗せるための努力が営々と続けられました。この間、中国政府は、日本人ならびに旧国民党系の中国人技術者といった“仇敵”の過去を実質的に不問に付したばかりか、彼らに対して、当時の中国の生活水準からすると破格の待遇を与え、技術面での指導と協力を仰いでいます。 今回ご紹介しているカバーは、そうした状況の下で、1951年3月、鞍山にいた日本人が日本宛に差し出したカバーです。“鞍山市鞍鋼外籍職工科”という書き込みからすると、差出人は、製鋼所で働いていた日本人労働者ないしはその家族と見て間違いないでしょう。 ところで、カバーに貼られている切手は、1950年2月に調印された「中ソ友好同盟相互援助条約」の調印を記念して、同年12月に発行されたものです。この条約は、両国が“日本または日本と連携するその他の国(具体的にはアメリカを指す)”による再侵略や平和の破壊を阻止するためにはあらゆる措置を取ることを謳っており、中ソ両国のどちらかが“日本または日本と連携するその他の国”から攻撃を受けて戦争状態に陥った場合には、もう1ヵ国は「直ちに全力をつくして軍事上その他の援助を与える」として、“日本または日本と連携するその他の国”への警戒感を露わにしていました。 しかし、そうした建前としての日本脅威論が、国家建設の実利の前には容易に骨抜きにされるという現実は、ほかならぬ中ソ友好同盟相互援助条約の記念切手を貼ったカバーを、鞍山在住の日本人労働者が差し出していることにも象徴的にあらわれているように思えます。 鞍山に残った日本人の技術者・労働者の活動は、1949年から1952年にかけてのいわゆる“三年恢復期”が終わり、1952年後半に第1次5カ年計画が始まるまで続きます。第1次5ヵ年計画がスタートすると、日本人に代わり、ソ連人の技術者が中国人の指導にあたることになり、日本人技術者はようやく“お役御免”ということで帰国が許されたからです。満洲国の崩壊から8年が過ぎた1953年のことでした。 旧満洲国が、基本的には、日本によって日本のために樹立された国家であり、現在の中国人の視点から見れば、“偽国”とのレッテルを免れ得ない面が多々あったことは、否定できない事実でしょう。しかし、その後の中国が、(その是非善悪は別にして)かつて現実に存在していた旧満洲国の“遺産”から完全に無縁な状態で存在しえなかったこともまた事実です。現在の“中国人民”が好むと好まざるとにかかわらず、1949年以降の国家建設に際して、中国政府が旧満洲国時代の“遺産”が活用し、当時の中国の指導層もそのことを充分に認識していたという歴史の現実を見落としてはならないでしょう。 さて、先日刊行した拙著『満洲切手』では、こうした満洲国と現代中国との連続性についても、切手や郵便物の背景をたどりながら読み解いてみようと試みました。機会がありましたら、是非、ご一読いただけると幸いです。 |
2006-08-19 Sat 00:18
昨日(18日)は、急にフジテレビから呼び出しがあって、夕方のニュースにビデオでコメントを寄せることになりました。なんでも、相模原の郵便局で、機械印の日付を“8月16日”としなければならないところ、誤って“8月91日”として押印してしまったとのこと。で、「こういうものは値打ちがあるのか」とか「お前も何か、この手のエラー印を持っていないのか」ということで話を聞きたいといわれて出かけていったわけです。(放送は無事に終わりました。ご覧いただいた方には、この場をお借りしてお礼申し上げます)
まぁ、いわゆるエラー印の類は、好きな人は非常に好きなのでしょうが、あいにく僕はほとんど興味がありません。手持ちのストックをゆっくりと探せば、いろいろと面白いものも出てくるのでしょうが、なにせお昼頃に最初の電話をもらって、14:30には撮影開始、17:20ごろ放送というスケジュールでしたから、とりあえず、すぐに出てきたものということで、こんなモノを持っていきました。(画像はクリックで拡大されます) これは、中国での国共内戦末期の1949年6月15日、共産党支配下の東北(かつて“満洲”と呼ばれていた地域です)の安東から北平(現・北京)宛に差し出されたカバー(封筒)で、“東北郵電管理総局”の国名表示が入った毛沢東の切手が貼られています。 東北郵電管理総局は、1946年10月1日、東北解放区全体の郵政を統括する機関として哈爾浜(ハルピン)に設けられた機関で、東北郵電管理総局が成立。東北解放区共通のデザインの切手として、同年11月22日、毛沢東の肖像を描く管理総局として最初の切手を発行しました。以後1949年まで、管理総局は、国共内戦下のインフレに対応した新たな額面を加えながら、毛沢東の切手を発行し続けていくのですが、今回のカバーには1948年8月発行の第4版1000円切手1枚と1949年3月発行の第5版1500円切手2枚が貼られています。 宛先の北平には、既に1949年1月に中国人民解放軍が入城しており、同年10月には、中華人民共和国の成立とともに北平は北京の旧称にもどります。それでも、東北では満洲国時代の櫛型印が使われているのがちょっと面白いところです。 もっとも、そうした話は撮影とは全く関係がなくって、今回は、消印の日付部分が、年月日すべて完全に上下逆になっているというのが肝です。時刻表示の部分ははっきりと読めますから、比べてみていただくと、よくわかると思います。まぁ、僕個人としては、このカバーを買ったのは、押されている消印が“エラー印”だからというわけではないのですが…。 さて、以前のブログでもお話しましたが、現在、9月25日に角川選書の一冊として刊行予定の『満洲切手』の制作作業が大詰めを迎えています。今回のカバーも同書の中で使っている関係で、最近は机の周りのすぐ手の届くところにあって、そのことが、撮影に連れて行く決め手となりました。 ちなみに、『満洲切手』の元の原稿では、消印の日付部分が上下逆になっているということは特に触れなかったのですが、今回はそのことで公共の電波に乗せてしまいましたからねぇ。週明けに版元に戻すことになっている校正ゲラには、消印の日付のことを書き加えるべきか否か、ちょっと迷っています。 |
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