2023-11-22 Wed 06:08
1963年11月22日(現地時間)にジョン・F・ケネディ大統領(以下、JFK)が暗殺されてから、ちょうど60年になりました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1976年7月4日、英領時代のソロモン諸島が発行した“米国独立200年”の記念切手のうち、海軍中尉時代のJFKの肖像とPT-109の沈没事件を取り上げた1枚です。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 また、雑誌『カレント』11月号の僕の連載、「切手から見る世界と歴史」では、この切手をご紹介しつつ、ケネディの戦争体験についてご説明しております。さらに、ソロモン諸島の切手・郵便については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもまとめておりますので、機会がありましたら、併せてご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 11月22日(水) 10:00~ ニッポンジャーナル インターネット番組「ニッポンジャーナル」に内藤がゲスト出演の予定です。皆様、よろしくお願いします。 11月24日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 謀略の世界史 12/9、1/6、2/3、3/2 13:00~14:30 MI6、CIA、モサドなど各国の情報機関のあらましや、現代史の中で彼らが実際に関与した事件などを幅広くご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 大河企画の「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」、引き続き開講中です。詳細はこちらをご覧ください。 「龍の文化史」、絶賛配信中です。龍/ドラゴンにまつわる神話や伝説は世界各地でみられますが、想像上の動物であるがゆえに、それぞれの物語には地域や時代の特性が色濃く反映されています。世界の龍について興味深いエピソードなどを切手の画像とともにご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『今日も世界は迷走中』 好評発売中!★ ウクライナ侵攻の裏で起きた、日本の運命を変える世界の出来事とは!内藤節炸裂。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2023-05-30 Tue 07:22
2021年11月にソロモン諸島で大規模な反政府暴動が発生したことを受け、周辺諸国から派遣されている多国籍治安部隊の期限が今月末に切れるのを前に、きのう(29日)、ニュージーランド(NZ)のリトル国防相はNZ軍要員15人の参加を12月末まで延長すると発表しました。というわけで、きょうはこんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、先の大戦中の1944年10月11日、ガダルカナル島に駐留していたニュージーランド空軍の兵士が差し出した軍事郵便で、郵便印には“NZAPO(ニュージーランド野戦郵便局)”の文字が入っています。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 なお、ガダルカナル島を含むソロモン諸島とニュージーランドとの関係については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもいろいろ触れていますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 6月9日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」と「日本郵便150年の歴史」の2種類の講座をやっています。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『現代日中関係史 第2部 1972-2022』 好評発売中!★ 2022年11月に刊行された「第1部1945-1972」の続編で、日中国交”正常化”以降の1972年から2022年までの半世紀の、さまざまな思惑が絡まり合う日中関係の諸問題を、切手とともに紐解いていきます。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-01-26 Tue 03:40
きょう(26日)は、1788年1月26日、最初の移民として、囚人を乗せた英艦隊11隻がシドニー・コーブに到着したことにちなむ“オーストラリア・デー”です。というわけで、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』の中から、オーストラリア切手が貼られた郵便物を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦中の1944年12月23日、ソロモン諸島西部、ニュージョージア島のムンダ飛行場(現ムンダ空港)に置かれていたオーストラリア軍の第39軍事郵便所(UNIT POSTAL STATION AC 39)からメルボルン宛に差し出された郵便物です。 ムンダはニュージョージア島南西端に位置する同島最大の居住地で、英国人のノーマン・ホイートリーがココナツ農場として開拓し、第二次大戦の勃発時にはオーストラリア人のレスリー・ギルが所有していました。 1942年11月24日、日本軍はガダルカナル島攻略のための拠点として、ムンダでの滑走路建設工事を開始。工事は、上空から発見されないよう、ケーブルで浮かせたヤシ林で偽装しつつ進められましたが、米軍は12月3日に滑走路を発見。同9日にはB-17爆撃機による爆撃を開始します。しかし、日本側は12月13日には飛行場を完成させ、同月23日に海軍航空隊252空の零戦24機が進出しました。 その後、ムンダ飛行場は連合軍の激しい攻撃を受け、日本側は大きな損害を受けたこともあり、12月29日、残存3機がラバウルにむけて発進したのを最後に航空隊は撤退します。しかし、日本軍がガダルカナルから撤退した後も、ムンダには、中部ソロモン諸島日本軍防備隊の陸軍南東支隊の司令部と海軍陸戦隊の指揮所が置かれていました。 そして、1943年6月30日には米軍がムンダ南西にあるレンドバ島に上陸。さらに7月5日にはニュージョージア島のムンダ東方に上陸し、日本陸軍の南東支隊との間で約1ヶ月にわたる激戦が展開されます。結局、8月4日までに日本軍はムンダ飛行場を放棄し、8日には司令部はコロンバンガラ島に後退。同6日、マッカーサー司令部はムンダの占領を発表しました。 今回ご紹介のカバーは、連合軍によるムンダ占領後、この地に進駐したオーストラリア軍の第23歩兵旅団第7大隊の兵士が差し出したもので、オーストラリアYMCAから提供された封筒を使用し、軍事郵便としての料金は無料ですが、航空料金として3ペンス切手が貼られています。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-25 Fri 01:19
きょうはクリスマスです。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦中、ガダルカナルに置かれていた米軍の第709野戦郵便局(APO709)から差し出されたクリスマスのVメールです。 第一次大戦と比べて、第二次世界大戦では、海外で従軍している人々と本国の家族等の間での郵便物の往来が激増し、その輸送は当局にとって大きな負担になっていました。このため、1941年、英国では、イーストマン・コダック社の協力を得て、戦地の将兵に専用の用紙に手紙の文面を書かせ、それをマイクロフィルムで撮影して本国へ運び、到着後にプリントして宛先に届けるエアグラフの制度が導入されました。 1941年12月に大戦に参戦した米国でも、1942年6月、これに倣ったVメールのサービスを開始しました。今回ご紹介しているのは、ガダルカナルからマイクロフィルムの状態でサンフランシスコまで運ばれた文章をプリントした状態のものです。 なお、このVメールを引き受けたAPO709はガダルカナル攻防戦最中の1942年12月13日にガダルカナルで開局。1943年2月7日の日本軍撤退後も、連合軍の航空基地としてヘンダーソン飛行場の拡充業務や戦闘によって破壊された村落の復旧、ホニアラのインフラの整備などのために来島した米軍スタッフの郵便物を取り扱いました。米軍兵士の多くは1945年末で引き揚げたものの、1950年までは少数のスタッフがガダルカナルで活動していたため、APOも終戦後の1949年10月30日まで活動を続けていました。 ガダルカナルでVメールの取扱が始まったのは1944年2月22日でしたから、今回ご紹介のマテリアルは、おそらく、終戦前の1944年のクリスマス時のものと考えてよいでしょう。ちなみに、事務室・郵便室・備品室・研究室を十字型に配したVメール・ステーションはエアコン完備で、24時間で10万通のVメール原稿を受け付け、マイクロフィルム化して発送する処理能力を備えていたそうです。 ちなみに、ガダルカナルにおける米軍の活動については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもいろいろとまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-01 Tue 00:02
きょう(1日)は“映画の日”です。というわけで、映画関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1943年9月3日、ガダルカナル島に駐留していた米兵が差し出した本国宛の軍事郵便で、封筒の余白には、戦場での映画会の様子を伝える差出人自筆のイラストが描き込まれているのがミソです。 先の大戦中、米軍がソロモン諸島で将兵向けに上映した慰問映画に関しては、こんなエピソードがあります。 ガダルカナル島をめぐる激戦が展開されていた1942年の秋、日本の船隊に壊滅的な打撃を与えたものの、自らも大きな損害を被った米海兵隊の部隊が、、ニューヘブリディーズ諸島のエスピリトゥサント島(現ヴァヌアツ)にたどり着きました。彼らは自分たちの戦果が大々的に報じられるものと思っていましたが、発表された戦況公報では、南西太平洋方面連合軍司令官(太平洋戦線における連合軍の最高指揮官)のダグラス・マッカーサーは海兵隊のことには何も触れず、自分の指揮下にある航空隊(実際には、このときの戦闘からかなり離れた場所にいました)が日本の船隊を撃退したと事実を曲げて発表していました。 手柄を横取りされた海兵隊の怒りは収まらず、マッカーサーへの不満が鬱積。公報が発表された晩、将兵慰問のニュース映画で、たまたま、マッカーサーが登場する場面が映し出されるや、彼らの不満が爆発し、スクリーンには雨あられの如くヤシの実が投げつけられ、映画小屋もめちゃくちゃに破壊されてしまいました。この一件以降、海兵隊では“マッカーサー”は完全にタブーとなり、ニュース映画を映す場合には、必ず前もって点検し、マッカーサーの登場場面をことごとく切り取るようにしたのだそうです。 さて、1943年2月、日本軍が撤退した後のガダルカナルでは、ヘンダーソン飛行場の拡充とあわせて、戦闘によって破壊された村落の復旧やインフラの整備などが進められ、来島する連合軍のスタッフも増加します。今回ご紹介の郵便物も、そうした状況の中で差し出されたものです。 飛行場を中心に、島の北岸では、ジャングルからソロモン人労働者が材木を切り出し、米兵たちが地面に柱を打ち込み、別のソロモン人たちが伝統的な工法で屋根に椰子の葉を葺くという分業が行われ、島の東部のイル地区では、ジャングルを開削して野菜などを育てるための農場もつくられました。 米軍は、ソロモン人労働者にも、仕事の内容に応じて、米兵と同じ給料を支払いました。その多くは米軍の最低賃金相当でしたが、それでも、戦前、英国人が彼らの労働に対して払ってきたよりもはるかに高額でした。 さらに、1943年以降、ガダルカナルに上陸する米兵の中にアフリカ系の黒人が交じるようになると、その姿はソロモン人に大きな衝撃を与えます。黒人兵たちは白人と同じ軍服を着て、靴を履き、白人と同じ食べ物を食べ、同じ銃を使い、同じように歩き回り、同じ階級であれば賃金も同じだったからです。 また、米兵たちは米軍が持ち込んだ食糧をソロモン人と分け合っただけでなく、ソロモン人労働者に自分たちのグラスや食器を渡して飲食をさせる者もありました。これは、ソロモン人を人間扱いしていなかった英国人との関係ではありえないことでした。もともと、ソロモン諸島では、食事をともにすることは互いの信頼関係を築くうえで非常に重要とされていたこともあって、このことは、米軍がソロモン人の信頼を獲得するうえで大いに効果がありました。 また、一日の作業が終わると、米軍は慰問のための映画会をしばしば開きましたが、ソロモン人も招かれて参加することも珍しくなく、米軍を通じて映画というモノの存在を知るソロモン人も大勢いました。 もちろん、実際には米軍においても黒人に対する差別は厳然と存在していましたが、それでも戦前の英国やオーストラリア(の白人)がソロモン人に対してとっていた態度に比べれば、はるかにましでした。このため、たとえば、黒人兵と白人兵のテントが別れていたことに対しても、黒人は白人とは別に米国南部に自分たちの国を持っているので、両者のテントが分かれているのも、英国人とオーストラリア人が別のテントで寝起きするのと同じことだと考えるソロモン人も多かったそうです。 米兵とソロモン人の信頼関係が醸成されてくると、米兵たちは、ソロモン人たちに服やライフル、その他さまざまなものを与え、ソロモン人たちはそれらを大事に家の中に保管するようになります。 しかし、米兵たちがソロモン人を“甘やかしている”ことを苦々しく思っていた英国人は、ソロモン人が労働に出かけている間に留守宅に入り込んで、彼らが米軍からもらったものを没収。それらを一カ所に集めたうえで、ソロモン人たちの目の前でガソリンをかけて燃やして見せることがしばしばでした。 こうした英国人の理不尽な仕打ちに対しては、ソロモン人だけでなく、米兵たちも激怒しましたが、英国人は米軍の抗議を完全に無視。ソロモン人は、米軍から受け取ったものを英国人に見つからないように必死に隠したものの、英国人はそれを探し出し、容赦なく没収し続けました。 英国人はなぜソロモン人に対してこのような仕打ちをするのか、米兵たちが理由を尋ねると、ソロモン人たちは、英国人が常々、「ソロモン人は英国人のために働くことしかできない」と言い放ち、過酷な統治を行ってきたことを説明。これに対して、米兵の一人は次のようにソロモン人を諭しています。 おまえたち、やらなきゃいけないことがある。イギリス政府を追い出すんだ。奴らを追い払うんだ。もしおまえたちがライフルの作り方を知っていたら、奴らを殺せるんだがなぁ。奴らを撃てるんだがなぁ。でも、お前たちはライフルの作り方を知らないから、他のことをしなきゃだめだ。奴らを追い払うんだ。でもそうしたとしても、災難が降りかかるだろうな。お前たちは逮捕されて、刑務所にぶち込まれるだろう。ひどい目にあわされるだろう。でも、それがなんだ?おまえたちは、強い人間じゃないか。どっちみち長い間、今日まで、ひどい目にあわされてきたんだから。 (訳文は小柏葉子監訳『ビッグ・デス』より) 一方、米軍の側でも、英国の“略奪”からソロモン人を守るため、一つの策を練ります。 すなわち、1944年に新任の特務曹長が配属された際、特務曹長と部下の伍長の住宅は監視を兼ねてソロモン人の村の中央に配置されることになりました。これに対して、英国人は、村を離れて将校用の住宅に住むよう特務曹長らを説得しましたが、彼らはこれを拒否して、村の中央に住み続けたため、さすがの英国人も手出しができませんでした。 特務曹長は、「自分はこれ以上のことはできないが」としたうえで、ソロモン人に「お前たちは強いんだから、怖がっちゃいけない。どんどんどんどん進んで、立ち上がって、白人の目をまっすぐ見すえれば、強くなって、白人から自由になれる。俺たちが言っているのはこういうことさ」と説いています。 かくして、ソロモン人の中には、ガダルカナルでの米軍との交流を通じて、権利意識や政治意識に目覚めるものが現れ、その中から、ソロモン人の自治権回復運動としての“マアシナ・ルール”運動が出てくることになります。 この辺りの事情については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取手tご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-03 Tue 02:00
きょう(3日)は、米国の大統領選挙の投票日です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1944年6月15日、ガダルカナル島駐留の二等軍曹(S/Sgt.)が同年秋の大統領選挙への郵便投票の用紙を請求するため、本国での住所が登録されているニューヨーク州の州務長官宛に差し出した葉書です。 今回の大統領選挙では、新型コロナウイルス禍の中での投票方法の一つとして郵便投票が注目を集めていますが、もともと、郵便投票の制度は、南北戦争中の1864年の大統領選挙に際して、従軍していて選挙区の投票所に行くことができない将兵のために始められ、その後、対象者が拡大されていったという経緯があります。 1941年12月に米国が第二次大戦に参戦してから1945年9月の日本降伏まで、米軍の戦争動員数は1635万3659名(内訳は、陸軍1126万名、海軍418万3466名、海兵隊66万9100名、沿岸警備隊 24万1093名)にも上りました。このうちのすべてが1944年11月の大統領選挙投票日に海外勤務だったわけではありませんが、それでも、数百万人規模の有権者が海外で軍務に就いていました。そこで、彼らは、専用の葉書を選挙区のある州の州務長官に送って郵便投票の用紙を請求し、送られてきた投票用紙に必要事項を書き込んで返送することで投票権を行使したわけです。 なお、いわゆるガダルカナル島の戦いは、1942年8月7日、米海兵隊第1海兵師団(師団長アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将)を主力とする連合軍が同島テナル川東岸付近に上陸を開始したことから始まり、1943年2月7日に日本軍の撤退が完了したことで終了します。 大規模な戦闘がなくなったガダルカナルでは、連合軍の航空基地としてヘンダーソン飛行場が拡充されただけでなく、戦闘によって破壊された村落の復旧や、新たに英領ソロモン諸島の中心地となったホニアラのインフラの整備などが進められたことで、むしろ、来島する米軍スタッフの数は増加しました。米軍の大半は、1945年末でガダルカナル島から撤退しましたが、その後も、1950年までは少数の調査スタッフが活動を続けています。 今回ご紹介の葉書を扱った第717軍事郵便局は、そうしたガダルカナル駐留の米軍スタッフのために設けられたもので、1943年9月28日付でニューカレドニアのヌメアで編成され、同年11月1日、人員がガダルカナル島に到着。1943年11月17日から1945年4月4日までガダルカナルで米軍ならびに関係者の郵便物を問い扱いました。その後は、ミンダナオ島(フィリピン)のザンボアガに移動し、同地で終戦を迎えています。 なお、ガダルカナル島の戦いとその後の同島における米軍の活動については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 11月6日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2006-09-13 Wed 08:54
まずは、このカバー(封筒)を見ていただきましょう。(画像はクリックで拡大されます)
これは、太平洋戦争中の1944年4月9日、ガダルカナル島のヘンダーソン基地から差し立てられたアメリカの軍事公用便のカバーです。ガダルカナル島での日米の激戦については、過去の記事をお読みいただくとして、今回は、封筒の右上に印刷されている注意書きにご注目いただきたいと思います。 注意書きには、「郵便料金を払うのが嫌で(この封筒を)私用で使った場合の罰金は300ドル」と書かれています。当時のアメリカの郵便料金は書状1通(基本料金)3セントですから、罰金はその1万倍ということになります。現在、日本の郵便料金は80円ですから、罰金の金額は、感覚的に80万円ということになるのかもしれません。いずれにせよ、非常に高額です。 今回ご紹介しているカバーは、別に珍しいものでもなんでもなく、至極ありふれたものですが、日常的にこうした表示のある封筒を目にしている人たちは、見つかれば莫大な金額の罰金を払わされるリスクを犯してまで、3セントの郵便料金をケチろうとは、普通、考えないでしょう。 飲酒運転による事故が後を絶たないことから、事故の加害者に対する刑罰を引き上げることが検討されています。そのことじたいは賛成なのですが、厳罰を課すことによる抑止効果を期待するのであれば、そのことを周知徹底しなければ効果は半減してしまうように感じるのは僕だけでしょうか。 10代の頃、カービン銃ギャング事件の主犯で元死刑囚(2審で無期懲役に減刑)の大津健一の回想録を読んだことがありますが、その中で印象に残っているのが「強盗・強姦バカがする」といった発言です。大津によると、強盗なり強姦なりをして逮捕されて刑務所に入ってくる連中の大半は、自分たちの犯した罪に対する刑の重さを知らず、判決を聞いてビックリするのだそうです。そこから、大津は小学校の頃から、殺人を犯せば懲役X年、強盗はX年、放火はX年などと繰り返して教えていれば、自然と抑止効果があがるのではないかと提案しています。 日本の刑罰は、理論上は、懲罰ではなく犯罪者を教育し更生させるためのものということは僕とて理解しています。ただ、現実の問題としては、起こってしまった犯罪を裁くことよりも、そもそも、犯罪が起きないようにすることのほうが大事なわけで、その意味では、犯罪に対する刑罰の“レート”を理解させ、割に合わないことをしないように思いとどまらせることは重要じゃないかと思います。 飲酒運転に関しても、厳罰化を進めるのであれば、一体どれほどの刑が待ち受けているのか、“ひき逃げ”や証拠隠滅をすれば、正直に自首した場合と比べてどれほどの刑が加算されるのか、といったことを、具体的な数字を挙げて、もっと周知徹底すべきでしょう。法律に関しては“知らなかったほうが悪い”というのが建前ですが、現実には、六法全書を家庭に備えて常に参照している人なんて滅多にいないのですから、法律が改正されたときにだけその内容が報じられておしまい、というのでは、いかにも不十分なように思われてなりません。 |
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