2020-06-30 Tue 00:22
きょう(30日)は、1960年6月30日、アフリカのコンゴ民主共和国(旧ザイール。以下、コンゴ)が“コンゴ共和国”としてベルギーから独立したことにちなみ、かの国では独立記念日です。というわけで、きょうは、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1960年6月30日、コンゴ独立に際して旧宗主国のベルギーが発行した記念切手で、地球儀上のコンゴの位置を指さす少年が取り上げられています。 1885年、現在コンゴ国家の領域にベルギー国王レオポルド2世の私領として創設された“コンゴ独立国”は、1908年、ベルギー政府の直轄植民地ベルギー領コンゴになります。 第二次大戦中、ナチス・ドイツに本国全土を占領されたベルギーは、戦後復興のため、コンゴの資源を重視し、1949年には“コンゴ社会経済10年計画”を発動して本格的な経済開発に乗り出しました。その結果、ベルギー領コンゴは、1953年までに世界の工業用ダイヤモンドの70%、、ウラニウムの半分を産出するようになり、国際空港を始めとするインフラの整備も進められました。 急速な経済発展に伴い、コンゴ住民の政治意識も高揚し、労働争議が頻発。このため、ベルギー植民地当局は、1957年に主要都市における民主的選挙を導入したほか、1958年のブリュッセル万博に多くのコンゴ人を招待するなど、不満のガス抜きをはかったものの、ベルギー本国に渡ったコンゴ人は、他のアフリカ植民地では独立運動が高揚していることや、ベルギー本国のリベラル派知識人は植民地の権利向上に前向きであることなどを知り、かえって民族主義を刺激されて帰国することになりました。 こうした状況の中で、ベルギー領コンゴにおける左派系民族主義の指導者として頭角を現してきたのが、パトリス・ルムンバは、1958年10月10日、独立運動組織としてコンゴ国民運動(MNC)を結成します。 当時のベルギー領コンゴでは、ジョゼフ・カサブブひきいるアバコ党が西部を拠点に独立運動組織としては主導的な立場にあり、1957年の選挙では首都レオポルドビルで多数の議席を獲得したほか、カサブブ自身もレオポルドビルのダンダル地区長に当選していました。一方、コンゴ南端のカタンガ州の諸部族は、アバコ党の西部偏重路線に反発し、ルンダ人のモイゼ・チョンベを指導者としてコナカ党を組織し、ベルギーとの友好関係を損なわない、穏健独立路線を主張していました。 アバコ党とコナカ党は、いずれも、地域間・部族間の対立を反映して、ベルギー領コンゴが統一国家として独立することには否定的で、統一国家を構成する場合にも、地域分権の自立性が強い連邦制を採用すべきと主張していました。 これに対して、ルムンバのMNCは独立後の中央集権国家樹立を主張し、都市部のホワイトカラー層の支持を集めていたが、党内では、カサイ州北部出身のルムンバに対して、同州南部出身のアルバート・カロンジとその支持者が強い反発を示すなど、ルムンバの基盤も盤石ではありませんでした。 ところで、当時のコンゴでは、教会による初等教育はそれなりに普及していたものの、中等以上の教育を受けた者はほとんど存在せず(1959年の時点で、小学生146万人に対して、中学生は3万人弱。しかも、小学生の半分は2年生で中退)、黒人の大学進学が認められたのは1955年のことでした。したがって、独立運動家の大衆に対するアジテーションも「独立すれば給料を倍増する」、「白人の女を買えるようにする」といった類の内容が多く、大衆の中にも、“独立”という名の神が汽車にのってやってくると信じ込んでいた者さえいたそうです。 事態が緊迫化する中で、1959年1月4日、首都レオポルドビルで植民地政府がアバコ党大会の開催を禁止すると大規模な暴動が発生。ベルギー政府は軍隊の投入を検討したが、本国の労働組合とベルギー社会党は独立運動を支持する立場から、「軍隊を植民地に投入する場合には、志願者に限る」との憲法の条文を理由に、兵士たちにコンゴ派兵に参加しないよう呼びかけます。その背景には、隣国のフランスがアルジェリア独立戦争の泥沼にはまり込んでいたことにくわえ、そもそも、一般のベルギー国民はコンゴに利害を持っておらず、独立運動にも同情的だったという事情がありました。 結局、暴動は公安軍によって鎮圧され、アバコ党幹部の多くが農村に追放されましたが、このことは、地方でのアバコ党の勢力を伸張させる結果となり、勢いに乗るアバコ党は税金の支払いボイコットを先導するなど、独立運動はさらに高揚します。 このため、1960年1月24日、ベルギー政府はコンゴの独立運動諸派を招集して“円卓会議”を開催。同年6月30日付でのコンゴ独立を約束しました。 ベルギー政府としては、“早期独立”を訴えてきた独立派の主張を逆手に取り、独立までの十分な準備期間を与えないことで主要三派が自ら政策調整を行うことを困難にしたうえで、彼らの対立を調整することで、独立後も旧宗主国としての影響力を維持しようとしたのです。 はたして、独立に先立ち5月15-20日に行われた総選挙では各派が激しい選挙戦を展開。一部の地域では流血事件も発生し、その遺恨は独立後の火種となります。 5月29日に発表された開票結果では、ルムンバのMNCが第一党をなったものの、少数党の分立状態となったため、調整は難航し、アバコ党、コナカ党を含む10党連立政権(閣僚数23)が発足したのは、独立1週間前の6月23日のことでした。 こうして、1960年6月30日、アフリカ諸国が相次いで独立する中で、ベルギー領コンゴもコンゴ共和国(旧仏領の隣国も正式な国名が“コンゴ共和国”だったため、区別するため、コンゴ・レオポルドビル、コンゴ・キンシャサなど呼ばれることもあります)として独立。新国家の首相にはルムンバが、大統領にはカサブブが就任しました。 6月30日に行われた独立記念式典では、ベルギー国王のボードゥアンが“コンゴ植民地の父”としてのレオポルド2世を讃え、ベルギーが開発した素晴らしいコンゴの国を黒人たちが立派に引き継いでくれることを願うと祝辞を述べたが、カサブブに続いて演壇に立ったルムンバは、国王を指さしながらベルギーの植民地支配を糾弾し、「我々は、自由の下で仕事をすることを許された場合、黒人にできる成果というものを、全世界に示すだろう。そして我々は、コンゴを全アフリカの輝かしい実例にするだろう」と叫び、聴衆を熱狂させています。(ただし、式典後、ルムンバはボードゥアンに非礼を詫びましたが…) しかし、コンゴ駐留のベルギー軍撤退問題をめぐり、対外強硬路線のルムンバとベルギー軍が衝突。さらに、混乱の中で、地下資源の豊かなカタンガ州を地盤とするモイーズ・チョンベは、7月11日、ベルギーの支援を受けて、カタンガの独立を宣言。親西側のカサブブと急進民族主義路線を掲げるルムンバの路線対立もあり、独立間もないコンゴは四分五裂の状態に陥り、いわゆるコンゴ動乱の時代に突入していくことになります。 なお、コンゴ動乱にはキューバ革命の英雄だったチェ・ゲバラも深くかかわっていくことになるのですが、そのあたりについては、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも1章を設けてご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-29 Mon 01:57
米検察当局は、27日(現地時間)、首都ワシントンのホワイトハウスに隣接する広場に設置されているアンドルー・ジャクソン第7代大統領の騎馬像を倒そうとしたとして、“連邦財産の破壊”容疑で男4人を訴追したと発表しました。というわけで、こんなモノを持ってきました。
これは、今回、危うく引き倒されそうになったジャクソン像を取り上げた絵葉書で、1922年11月18日、ワシントンDCからフランス・エピナル宛に差し出されたものです。切手は絵面に貼られていますが、裏面にはワシントンDCの印とエピナルの着印も押されています。また、像の背景にはホワイトハウスとワシントン記念塔も見えますので、この像がワシントンの中枢部にあることが改めてイメージできるかと思います。 さて、アンドリュー・ジャクソンは1767年、サウスカロライナの片田舎に北アイルランド移民の子として生まれました。貧困家庭の出身でほとんど教育を受けられませんでしたが、独学で法律を学び、20歳で弁護士になっています。その後、1788年にテネシー州憲法会議委員となったのを皮切りに、1796年に下院議員、1797年に上院議員となり、1798年には州の最高裁判事に任命されました。 1804年に政界から一時引退し、テネシー州ナッシュヴィルで綿花農場を経営していましたが、1812年に米英戦争が勃発すると義勇軍を率いて出陣。1814年には英国の支援を受けて米軍と戦っていたクリーク・インディアンを多数虐殺したうえで彼らの土地を奪い、彼らをアラバマ・ジョージア両州の辺境から追放しました。この功績によって、ニューオリンズで英軍と戦う部隊を指揮する権限が与えられます。 1814年12月13日、英軍がルイジアナ沿岸に到着すると、ジャクソン率いる米軍はニューオリンズ近郊のシャルメットに陣を構え、同23日、英軍キャンプを夜襲し、英軍を撤退させ、装備・補給品を奪ってニューオリンズへ帰還しました。 その翌日の12月24日、ベルギーでは米英間の講和条約として講和条約が結ばれて米英戦争は終結しましたが、当時の交通事情では、その情報が米国に到達するまでに数週間かかったことから、ジャクソンと英軍の戦闘は継続され、1815年1月26日まで続いた戦闘で、英軍に戦死者385名、負傷者1186名の損害を与えて勝利を収めました。ちなみに、米軍の戦死者は13名、負傷者は58名でした。 ニューオーリンズの戦いは、米軍が終始劣勢だった米英戦争で、米軍が挙げた最大の戦果だったことから、戦後、ジャクソンは一躍国民的な英雄として全米にその名をとどろかせ、1828年の大統領選挙で当選。1932年には再選を果たし、1837年まで大統領を務め、1845年にナッシュヴィルで亡くなりました。 ジャクソンの没後、1847年、彼の地元でジャクソン顕彰のための銅像建設委員会が発足。同委員会によるコンペの結果、愛馬デュークに跨り、ニューオーリンズの戦いを指揮するジャクソン像のプランを提出したチャールストンの彫刻家、クラーク・ミルズが銅像の制作を担当することになりました。 ミルズ自身は生前のジャクソンにあったことはなかったため、1848年、彼の奴隷で助手のフィリップ・リードとともにワシントンに居を構えて、銅像政策のための取材活動を開始。特許庁に保管されていたジャクソンの軍服を借り受けたりするなどして、ジャクソン像を6ヴァージョン、デューク像(ミルズの馬、オリンパスをモデルに作られました)を4ヴァージョンの像を作り、その中のベストの組み合わせを最終形として、1852年に像を完成させています。 さて、先月25日、米ミネソタ州ミネアポリスで詐欺容疑で拘束された黒人男性が、拘束時に警官に膝で首を押さえつけられたことが原因で死亡した事件を巡り、全米に抗議行動が拡大して暴動にエスカレートし、全米各地で、南北戦争時の南軍指導者や奴隷を所有していたことのある歴史上の人物を“差別主義者”などとして、その銅像等を損壊・汚損する事件が相次いでいます。 そうした中で、今月22日夜、デモ隊のグループが、アンドリュー・ジャクソンは奴隷所有者であり、先住民を大量虐殺した差別主義者であるとして、ホワイトハウス前の騎馬像にロープを巻き付けて引き倒そうとする事件が発生。公園の警備員とシークレット・サービスが、すぐさまデモ隊に催涙ガスを用いて事件現場から遠ざけたため、危うく銅像は難を逃れました。その後、当日のビデオ映像に基づき犯人の身元が特定され、今回、20~47歳の4人が訴追されたというわけです。 訴追前日の26日、トランプ大統領は、「個人や組織は、あらゆる記念碑についてその建立や撤去を平和的に訴える権利がある。しかし、あらゆる記念碑を暴力によって損壊、汚損、撤去する権利はない」として、公共物の損壊罪には最大10年の禁錮刑が科せられるとする既存の法律を引用し、抗議活動の一環として記念碑や像を“損壊、汚損、撤去”する行為を厳格に取り締まる大統領令に署名。さっそく、今回の訴追がその第1号となりました。これを機に、かつての文革の紅衛兵よろしく、“反差別”を標榜して乱暴狼藉を繰り返している連中は一網打尽にしてほしいものですな。 なお、7月4日発売予定の拙著『みんな大好き陰謀論』には、アンドリュー・ジャクソンも重要な役割で登場しますので、機会がありましたら、ぜひ、お手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-28 Sun 02:59
アルゼンチンのフェルナンデス大統領は、26日(現地時間)、新型コロナウイルス感染の急増を受け、当初はきょう(28日)までとされていた首都ブエノスアイレスのロックダウン(都市封鎖)を強化すると同時に期限を延長することを発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1963年の民政移管を記念してアルゼンチンが発行した切手で、ブエノスアイレス中心部の五月広場に面した“カサ・ロサダ(大統領官邸)が描かれています。映画『エビータ』で、エバ・ペロン役のマドンナがカサ・ロサダのバルコニーで『アルゼンチンよ、泣かないで』を歌った場所としても有名です。 1958年、アルゼンチンの大統領に当選したアルトゥーロ・フロンディシは独自の外交路線を模索していましたが、1961年8月19日、米国の了解を得たうえで、キューバ代表としてウルグアイのプンタ・デル・エステでの国際会議に出席していたチェ・ゲバラを極秘裏にブエノスアイレスに招待します。 大統領官邸での会見で、フロンディシはゲバラに「キューバがワルシャワ条約機構に加入すれば、米国との和解は絶望的になるが、その可能性はあるか」と質問。これに対して、ゲバラの回答は「我々にその気はない。キューバの側からそのようなことは求めていない」と応じます。これは、ソ連の側から手を差し伸べてくれば…という含みのあるものでした。 また、フロンディシは、「革命後のキューバは憲法と議会を停止したが、選挙を通じた議会制民主主義が復活するか」と訊きましたが、ゲバラは、当面、その可能性はないと即答。いわば、キューバ革命が社会主義化の道から引き返すことはないと宣言します。 会談後、ゲバラは大統領一家とステーキの昼食をとった後、伯母のマーリア・ルイサを訪ね、ウルグアイに戻りました。こうして、ゲバラにとって生涯最後となった故郷、アルゼンチン訪問はわずか4時間で終わります。 さて、ゲバラのブエノスアイレス訪問は、アルゼンチン国内の右派の反発を考え、極秘裏に進められました。しかし、会見後、その事実が発覚すると激しい賛否両論を巻き起こし、政権が不安定化。こうした中で、1962年3月18日の国会議員選挙では、与党UCRIが第一党になりましたが、選挙後の3月29日に軍事クーデターが発生し、フロンディシは失脚しました。その後、暫定政権を経て大統領選挙が行われ、アルトゥーロ・ウンベルト・イリアが民政復帰後最初の大統領に就任。今回ご紹介の切手は、これを記念して発行されたものです。 ちなみに、この辺りの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくまとまましたので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 さて、アルゼンチンは、3月20日、ラテンアメリカ諸国の中ではいちはやくロックダウンなどの厳しい感染拡大抑制策を実施し、当初は感染の制御に成功していました。しかし、南半球の気候が本格的な冬に向かう中で、最近、感染者が急増。25日の新規感染者数は2600人を超えて5月中旬の約5倍の水準となったため、アルゼンチン政府としてもロックダウンの延長を決断。フェルナンデス大統領は「経済は悪化しているが、いつかは回復する。不幸なことに、亡くなった人は戻って来ない」と述べて、理解を求めました。 なお、医療関係者の間では、感染拡大は7月半ばにピークを迎えるものの、9月までは収束せず、病院の対応能力が逼迫する可能性が高いとの見通しが示されています。ちなみに、これまでにアルゼンチンで確認された感染者数は約5万人、感染による死者は約1150人です。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-27 Sat 00:24
以前からご案内しておりました拙著『みんな大好き陰謀論』(ビジネス社 奥付上の刊行日は2020年7月15日)の現物ができあがりましたので、一言、ご挨拶申し上げます。(画像は表紙カバーのイメージ。クリックで拡大されます)
本書は、2015年4月から2017年1月まで、インターネット放送のチャンネルくららで配信した「きちんと学ぼう!ユダヤと世界史:ユダヤ陰謀論を叱る」の内容の一部を再構成しつつ、英国のEU離脱問題など、近年の内容も大幅に加えて書籍化したものです。 陰謀論好きな人は、例えばこの日本でも国政選挙で自民党が勝利を続ける裏には、投票用紙の交付機、読取分類機を提供する企業、ムサシが電通と結託して不正な手段で選挙を動かしている、と主張したりします。しかし、2009年の総選挙で自民党が下野した時も、ムサシの機械が使われていたことからも、ムサシ陰謀論は識者からは相手にされません。 また、陰謀論は特定の個人や集団を“悪”と決めつける傾向があるため、人種差別や人権侵害の印象になりがちです。たとえば、日本の政財界やメディアは“在日(韓国人・朝鮮人)”が牛耳っているから、国益のためにも“在日”は排除せよなどと主張する人が時々いますが、彼らが“在日”と認定している政治家の多くは、血統的には、朝鮮半島とは無関係です。実際、北朝鮮による日本人拉致事件に関して、社会民主党の党首、土井たか子は「在日朝鮮人で本名は李高順」だから北朝鮮寄りの姿勢を取っていたなどとする記事を掲載した雑誌は名誉棄損で訴えられて敗訴。一審判決は「明らかに虚偽」と断じています。もちろん、彼女の出自がどうあれ、拉致事件に関して、北朝鮮を擁護し続けていた土井の言動は決して免責されるものではありませんが…。 したがって、単なる思考実験や娯楽の物語として陰謀論を語ることは個人の自由かもしれませんが、その域を超え、陰謀論が社会的に影響力を及ぼすようになるのは非常に危険です。その最も悲惨な実例が、ユダヤ陰謀論とナチス・ドイツのホロコーストだったことは周知のとおりです。 そこで、本書では、元祖陰謀論ともいうべき“ユダヤ陰謀論”の代表的なものを上げて、実際はどうだったのかを検証していました。最近の、英国のブレクジットはロスチャイルドの陰謀である、米国のFRBはユダヤが握っている、共産主義はユダヤの思想である、ソ連はユダヤ人が作った、コミンテルンはユダヤによる世界支配の手段だった、などなど。全ては、まことしやかに語られ、現在でも、実際にそれを信じている人たちは世界中にかなりの数で存在していますが、いずれも、歴史的な事実とは異なりいます。 本書をお読みいただければ、いわゆるユダヤ陰謀論がいかに荒唐無稽なものであり、歴史的に社会を蝕んできたか、十分にお分かりいただけるはずです。そして、そこから、ユダヤ陰謀論以外のさまざまな陰謀論にも取り込まれないよう免疫をつけ、読者の皆さんのリテラシーを向上させることに些かなりともお役に立つことができるのではないかと自負しております。 つきましては、書店などで本書を見かけられましたら、ぜひ、お手に取ってご覧いただけると幸いです。また、この記事をお読みの方で、ご自身の関連するメディアなどで本書をご紹介いただける場合には、資料等をお送りいたしますので、本ブログ右側のメールフォームにて、お気軽にご連絡ください。 なにとぞ御贔屓のほど、よろしくお願い申し上げます。 * 昨日(25日)の文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」の僕の出番は、無事、終了いたしました。お聞きいただきました皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。なお、次回の出演は7月17日の予定(仮)ですので、引き続き、よろしくお願いします。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-26 Fri 01:38
きょう(26日)は、いまから60年前の1960年4月26日、アフリカ南東沖の島国、マダガスカルがフランスから独立したことにちなみ、かの国では独立記念日です。というわけで、マダガスカルに関連して、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、先の大戦中、マダガスカル島北部のディエゴ・スアレス湾内の英軍艦への日本の潜水艦による攻撃の場面を描いた軍事郵便絵葉書です。 1883年、マダガスカルに侵攻したフランスは、当時、マダガスカルを支配していたメリナ王国を破り、北部の港町ディエゴ・スアレス(アンツィラナナ)を獲得し、1885年には軍港を建設しました。1897年、マダガスカル全島を植民地化したフランスは、この軍港を強化し、インド洋における軍事拠点と位置付けます。 第二次大戦中の1940年、フランス本国はドイツに降伏し、親独ヴィシー政権とドゴールの自由フランスが対峙するようになると、マダガスカルはヴィシー政権支持の立場を取りました。 ところで、第二次大戦の勃発後、欧州から太平洋地域へ向かう連合国の船舶は、地中海からスエズ運河を抜けるルートではなく、喜望峰を回ってインド洋に出るルートを取っていました。このため、インド洋の重要拠点であるマダガスカルを拠点に、ドイツ軍が連合国の輸送路を妨害することが懸念されていましたが、実際には、ドイツ軍はインド洋方面に進出する余裕はなく、連合国側もマダガスカルを重視することもありませんでした。 ところが、1941年12月、日本が米英蘭に宣戦を布告し、第二次大戦に参戦。さらに、日本軍は1942年3月末までに、東南アジアのほぼ全域を制圧し、セイロン島も攻撃しました。このため、英海軍・東洋艦隊はモルディヴ諸島のアッドゥ環礁に退避しましたが、日本海軍の攻撃によって多くの艦船を失い、ケニアのキリンディニまで撤退を余儀なくされます。 こうした状況の中で、連合諸国、とくに英国は、日本がドイツとの同盟関係を背景に親独ヴィシー政権の支配下にあったマダガスカルのフランス海軍基地を使用すれば、欧州と太平洋地域の輸送路が途絶し、アフリカ大陸東岸やペルシャ湾が日本海軍の攻撃にさらされるのではないかとの懸念を抱きました。 このため、1942年5月5日、英国はディエゴ・スアレス攻略のための“アイアンクラッド作戦”を発動。ディエゴ・スアレス西のクーリエ湾およびアンバララタ湾へ奇襲上陸し、5月7日までにディエゴ・スアレスのヴィシー政権軍を降伏させました。 一方、ヴィシー政権は、英国による奇襲攻撃の前から、ドイツに増援を要請。こうしたこともあって、1942年4月、日本はインド洋・アフリカ東岸での潜水艦攻撃を計画。当初の計画では、攻撃目標として、南アフリカのダーバンやモンバサ(現ケニア)、ダルエスサラーム(現タンザニア)等も検討されましたが、5月21日、日本側は連合国の占領下にあったディエゴ・スアレスへの攻撃が決定されます。 5月30日、日本海軍の潜水艦・伊16搭載の特殊潜航艇と伊20搭載の特殊潜航艇はディエゴ・スアレス湾内に潜入して4発の魚雷を発射。ディエゴ・スアレス港に停泊していた英海軍の戦艦ラミリーズを大破し、油槽船ブリティッシュ・ロイヤルティを撃沈しました。 日本軍の攻撃を受けたディエゴス・アイレス湾内は大混乱に陥り、英軍は翌6月1日昼まで爆雷攻撃を繰りします。これに対して、日本側の2艇のうち1艇はこれを潜り抜けて湾外に脱出しましたが、ノシ・アレス島で座礁。このため、乗員の秋枝三郎と竹本正己の2人は艇を脱出してマダカスカル島のアンタラブイ近くに上陸して、母潜との会合地点に徒歩で向かいました。 しかし、6月2日、英軍は地元住民の通報によって2人を発見。2人は降伏勧告を拒否し、15人の英軍部隊を相手に軍刀と拳銃で戦い、英側に戦死1、負傷5の損害を与えて戦死しました。なお、2人の亡骸は現地で埋葬され、1976年にはアンツィラナナと改称されたディエゴ・スアレスに慰霊碑も建立されています。 その後、インド洋から英海軍がほぼ駆逐されたこともあり、日本海軍は主戦場から遠く離れたマダガスカルを攻撃せず、ヴィシー政権軍への支援も行われませんでした。 一方、ヴィシー・政権軍と英国を中心とした連合国軍との間では、数か月間、交戦が続きましたが、1942年9月、連合国軍は首府タナナリブおよびアンバラバウを占領。10月18日のアンドリアマニャリーナでの戦闘を経て、11月5日、マダガスカルのヴィシー政権は降伏。連合国によるマダガスカル全島の占領が完了します。 * 昨日(25日)、アクセスカウンターが220万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 6月26日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-25 Thu 00:15
今年もまた、朝鮮戦争の始まった“ユギオ(韓国語で625の意)”の日がやってきました。というわけで、毎年恒例の朝鮮戦争ネタです。今年は、現時点での僕の最新作『日韓基本条約』の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1965年6月25日に韓国が発行した“国連軍625動乱参戦15年”の記念切手のうち、太極旗と国連旗、星条旗を背景に国連軍司令官のマッカーサーを描いた1枚です。 英語で“Korean War”と呼ばれる戦争は、日本では、かつて“朝鮮動乱”と呼ばれていました。これは、国家間の正式な宣戦布告なしに始まった“内戦”(当時は、韓国・北朝鮮ともに相手を正式な“国家”と認めていませんでしたから)であるがゆえに、正規の“戦争”とは呼べないとの発想によるもので、いわゆる日中戦争の正式名称が“支那事変”であるのとパラレルな関係にあるといえましょう。ただし、実際には、朝鮮半島では本格的な戦闘が3年間も続いたこともあって、現在では、“朝鮮戦争”の名称が定着しています。 一方、韓国では、“Korea”の訳語として“朝鮮”よりも“韓国”を好むことにくわえ、自分たちこそが朝鮮半島の唯一の正統政府であるとの認識から、かつては“韓国動乱”との呼称が主流でした。また、朝鮮半島では、事件が起きた日付を事件名にすることもしばしば行われており(たとえば三一独立運動など)、それに倣うと、いわゆる朝鮮戦争を意味する表現として開戦日に由来する“六二五(ユギオ)”の語もしばしば用いられます。 今回ご紹介の切手では、切手発行3日前の6月22日に調印された日韓基本条約の第3条にもあるように、北朝鮮を正規の国家としては認めないという韓国政府の立場上、このユギオに“動乱”を組み合わせた表現になっています。 現在でも、韓国は正式には朝鮮民主主義人民共和国を国家承認していませんが、盧泰愚政権下の1992年に発効した南北基本合意書がその第1条で「南と北は互いに相手方の体制を認定し尊重する」と規定していることを受け、この頃から、北朝鮮国家の存在そのものを否定しないという立場から、動乱に変えて韓国戦争ないしは六二五戦争との呼称が使われるようになり、現在ではそれが一般化しました。 ちなみに、北朝鮮側の朝鮮戦争の呼称は、“祖国解放戦争”ないしは“偉大なる祖国解放戦争”です。 なお、いわゆる朝鮮戦争の呼称問題については、拙著『朝鮮戦争』でも論じておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 6月26日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-24 Wed 01:56
きょう(24日)は、キリスト教の聖人、洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)の誕生日にちなむキリスト教の聖名祝日、“聖ヨハネの日”です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2007年7月20日、マルタが発行した“カラヴァッジョのマルタ到来400年”の記念切手のうち、カラヴァッジョの代表作、『洗礼者聖ヨハネの斬首』を取り上げた1枚です。 初期バロック様式を創始したイタリア人画家、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョは、1571年、カラヴァッジョ侯爵家の邸宅管理人かつ室内装飾担当をしていた父フェルモの下、ミラノで生まれました。1576年、ペストで荒廃したミラノを離れ、一家でカラヴァッジョ村へと移住。翌1577年、フェルモは亡くなりましたが、カラヴァッジョは幼年期をこの村で過ごしたと考えられており、それが彼の通り名となりました。 13歳の時、画業で身を立てるため、ミラノの画家シモーネ・ペテルツァーノに弟子入りし、聖書画と細密画を学びました。さらに、ミラノで、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』はじめ多くの宗教画から技法を学び、1592年、21歳で独立してローマに出ます。 ローマではさまざまな工房を渡り歩く放浪生活の後、フランチェスコ・デル・モンテ枢機卿の支援を受け、枢機卿の自邸を拠点に、当初は静物画や風俗画を、次いで祭壇画も手掛け、その卓越した技術により人気画家となりました。しかし、激しい性格ゆえにもめごとが絶えず、枢機卿の家を出た20代の終わり頃からは暴行や名誉棄損などでたびたび逮捕されます。そして、1606年、34歳のときに決闘相手を殺したことから、死刑を宣告され、ローマから逃亡しました。 ローマから逃亡したカラヴァッジョは、ナポリを経て、1607年、マルタ島に到来。今回ご紹介の切手は、ここから起算して400周年になるのを記念して発行されたものです。 切手に取り上げられている『洗礼者聖ヨハネの斬首』は、1608年、マルタ島を統治していた聖ヨハネ騎士団のために制作された幅5メートルを超える大作です。 新約聖書によると、ヘロデ大王の孫娘、ヘロデアは、当初、ヘロデ・フィリッポス(大王と3番目の妻・大祭司シモンの娘マリアムネの子)と結婚し、娘のサロメを産みましたが、夫の異母兄のヘロデ・アンティパスと恋仲になり、夫と離婚してヘロデ・アンティパスと再婚しました。 一方、洗礼者ヨハネは、人々に神の国の到来と悔い改めを説くとともに、ヨルダン川でイエスを含む多くの人々に洗礼を授けていましたが、当時、この地域を治めていたヘロデ・アンティパスが弟の妻だったへロデアを自分の妻としたことを批判し、投獄されてしまいます。 その後、ヘロデ・アンティパスは、自らの誕生日の宴席で、ヘロディアの娘サロメが披露した踊りに感心し、褒美として望むものは何でも与えると公衆の面前で約束。これに対して、ヨハネを憎んでいたヘロディアは、娘のサロメをそそのかしてヨハネの首を望ませます。ヘロデは、ヨハネを投獄したものの、彼が人々の尊敬を集めていることを知っていたため、ヨハネの処刑には躊躇しましたが、最終的に、王として公の約束を破るわけにはいかず、ヨハネを斬首させました。 カラヴァッジョの『洗礼者聖ヨハネの斬首』はこの場面を描いたもので、画家本人の署名がされた唯一の作品。現在は、マルタ・ヴァレッタの聖ヨハネ准司教座聖堂の所蔵品で、実物はこんな感じで展示されています。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 6月26日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-23 Tue 00:06
きょう(23日)は、1945年6月25日に沖縄戦の組織的戦闘が終結したことにちなむ“沖縄慰霊の日”です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2001年6月22日に発行された“平和の礎”のふるさと切手(沖縄県)です。 1945年5月、米軍の攻撃により、日本の陸軍第32軍総司令部は首里城の地下壕から沖縄本島南端部(島尻)に撤退。その後、島尻では狭隘な地形に敵味方が入り乱れる激しい戦闘が展開されましたが、6月23日(ただし、異説もあります)、司令官・牛島満中将が摩文仁の司令部壕で自決したことにより日本軍による組織的な抵抗は終了しました。 米施政権下の琉球政府は、1965年、最後の激戦地となった摩文仁の丘一帯を“沖縄戦跡政府立公園”に指定。その後、1972年の沖縄の祖国復帰に伴い、同公園は“沖縄戦跡国定公園”に指定されました。現在、同公園は、摩文仁地区の沖縄平和祈念公園、糸満市米須霊域(平和祈念公園から2.5km 南西)、ひめゆりの塔(糸満市米須霊域の北)の3地域の計81.3平方キロ(陸域31.27平方キロ、海域50.03平方キロ)から構成されており、多くの慰霊施設・慰霊碑・慰霊塔が設置されています。 今回ご紹介の切手に取り上げられた“平和の礎”は、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年記念事業の一環として、「沖縄戦などで亡くなられた全ての戦没者を追悼し、恒久平和の希求と悲惨な戦争の教訓を正しく継承するとともに、平和学習の拠点とする」ことを目的として、1995年6月、平和祈念公園内に建立されました。なお、礎の読み方は、一般には“いしずえ”ですが、“平和の礎”に関しては、沖縄の方言での発音に従い“いしじ”となっています。 そのデザインは、“平和の波永遠なれ”とのコンセプトの下、刻銘碑を屏風状に並べることで、鉄の暴風の波濤が平和の波となって、わだつみに折り返し行く様を表現するものとして、んだ刻銘碑を世界に向けて平和の波が広がるようにとの願いをデザイン化したものです。 また、平和祈念公園から平和の広場に通ずるメイン通路は、その中心線が、慰霊の日の6月23日の日の出の方位に合わせて設置されており、平和の広場の中央には“平和の火”(切手では右側中ほどに描かれています)が設置されています。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 6月26日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-22 Mon 04:30
きょう(22日)は、1965年6月22日に日韓基本条約が調印されたことにちなむ“日韓条約調印記念日”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1965年8月15日に韓国が発行した“光復20年”の記念切手のうち、宙に浮かぶ太極旗の下、飛行機雲で描いた“20”の文字と工場街が描かれています。 さて、1965年6月22日に調印された「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」(通称・日韓基本条約)と付属の諸協定のおもな内容は以下の通りです。 ①両国間に外交・領事関係が開設され、大使級の外交使節が交換される(第1条)。 ②1910年8月22日(=日本による朝鮮統治の根拠となった「韓国併合ニ関スル条約」の調印日)以前に日本と大韓帝国の間で結ばれた条約等はすべて「もはや無効である」ことが確認される(第2条)。 ③韓国は国連総会決議195号IIIに明らかに示されているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府である(=北朝鮮は正規の国家ではなく、朝鮮の北半部は彼らによって不法占拠されている)ことが確認される(第3条)。 ④両国は相互の関係で国連憲章の原則を指針とする(第4条)。 ⑤貿易、海運、その他の通商関係に関する条約等の締結のため、速やかに交渉を開始する(第5-6条)。 日韓基本条約とともに、両国間では「漁業協定」、「財産および請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する協定」、「日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定(日韓法的地位協定)」、「文化財及び文化協力に関する協定」、「紛争解決に関する交換公文」など多くの合意が署名され、両国の関係は“正常化”されました。 このうち、「漁業協定」は、沿岸線から12海里までの水域を沿岸国が漁業に関して排他的管轄権を行使する水域と定め、これより以遠の水域は原則自由に操業することとされ、漁船の旗国(所属国)が当該漁船を取締まることができるという、いわゆる旗国主義が採用されていました。同協定により、1952年1月18日に韓国が一方的に宣言していた“平和線(李承晩ライン)”は消滅しましたが、竹島問題に関しては事実上の棚上げとなっています。 ついで、「財産および請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する協定」では、日本は韓国に対し、朝鮮統治時代に投資した資本及び日本人の個別財産の全てを放棄するとともに、約11億ドルの無償資金と借款を援助すること、韓国は対日請求権を放棄することで合意が成立しており、日本統治時代の建造物もすべて韓国側に無償で譲渡されました。また、 “請求権”の中には、いわゆる慰安婦や徴用工を含め民間人への補償も全て含まれています。じっさい、解放後に死亡した者の遺族、傷痍軍人、被爆者、在日コリアンや在サハリン等の在外コリアン、元慰安婦らを補償対象から除外したのは、ほかならぬ韓国政府でした。 なお、当時の韓国の国家予算は約3.5億ドルですから、“請求権”によって得られた資金が、韓国にとっていかに巨額のものであったか、お分かりいただけると思います。こうした日本からの資金と、ヴェトナム戦争に派兵した見返りに得られた米国からの経済援助をもとに、韓国政府は道路やダム・工場の建設などインフラや企業に集中的な投資を行い、“漢江の奇跡”と呼ばれる高度経済成長を実現しました。それゆえ、“漢江の奇跡”の象徴して、しばしば切手にも取り上げられている高速道路なども、もとをただせば、そのかなりの部分が日本からの資金によるものといえます。 その後、1965年の光復節前日の8月14日、韓国の国会は与党の民主共和党が単独で基本条約を批准。その翌日、光復節当日の15日に発行されたのが、今回ご紹介の切手です。従来の光復記念切手が、独立門や断ち切られた鎖、松明など、植民地支配からの解放のイメージをストレートに表現していたのに対して、今回ご紹介の切手では、光復節を祝いながらも、日本(の朝鮮統治)を否定するのではなく、むしろ、国交正常化によって日本から得られる経済支援が、韓国の経済成長に寄与することを想起させるような内容といるのも、上記のような時代背景を反映したものです。 一方、日韓基本条約に関しては、日本国内でも、条約の基本的な理解が日韓両国で異なっていることが国会でも問題視されていました。 すなわち、条約第2条の「もはや無効である」との文言に関して、日本側は、韓国併合条約は(それが締結された1910年の時点では合法であったが)日韓基本条約を結ぶことによって無効となったと解釈していたのに対して、韓国側は、併合条約そのものが(当初から)無効であったと解釈し、国民にもそのように説明していました。 また、第3条の“朝鮮にある唯一の合法的な政府”との文言に関しても、韓国側は「軍事境界線以北を含む全朝鮮における正統政府であることを日本が承認した」と解釈し、国内でもそのように説明していましたが、日本の外務省は「休戦ライン以北に事実上の政権があるということを念頭に置きながら今回の初版の取り決めを行っ」たと説明しており、「北鮮(ママ)に関する限りは全然触れていない」との立場をとっていました。 当然のことながら、こうした基本的な部分での解釈の相違には、将来的に深刻な問題を種々生じる恐れがあるのではないかとの懸念も強かったのですが、当時の椎名悦三郎外相は「われわれは韓国当局がどういう場合にどういう説明をしようと、あくまで条約の成分に従って解釈するものである」、「そういうことにあまり心を弄する必要はないものであるという基本的な立場」を取っていると応じ、日本国内の慎重論ないしは反対論を押し切ってしまいました。 もちろん、韓国併合条約は、常識的に考えれば、それが締結された1910年の時点では国際法上の瑕疵がない合法なものであり、同条約そのものが当初から無効だったという韓国側の認識には無理があります。そもそも、第二次大戦後の国際社会が韓国を“戦勝国”として扱われず、サンフランシスコ講和会議への参加も認めなかったことが、そのことを何よりも雄弁に物語っています。 しかし、「韓国併合条約そのものが当初から無効だった」という韓国側の認識を、日韓基本条約の時点で完全に否定しておかなかったことが、その後、韓国が植民地支配に対する謝罪と賠償を要求し続ける一因となったという面は否定できません。彼らがそうした認識に立つ限り、そもそも日本による朝鮮統治そのものが無効である以上、朝鮮総督府による全ての政策には根拠がなく、それゆえ、日本統治下で朝鮮人が強いられた負担は不法なものであったとのロジックが導き出されることになるからです。 もちろん、“歴史”をめぐる韓国側の無理な主張は明確に否定すべきものではあるのですが、日本側にも、彼らにそうした主張をさせる余地を残した詰めの甘さがあったことを見落としてはなりますまい。 なお、この辺りの事情については、拙著『日韓基本条約』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 6月26日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-21 Sun 01:17
インドネシア建国の父、スカルノが1970年6月21日に亡くなってから、ちょうど50周年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1966年にインドネシアで発行されたスカルノを描く1ルピーの普通切手です。 スカルノは、1901年6月6日、オランダ領東インド(以下、蘭印)時代のジャワ島東部のスラバヤで生まれました。1926年、オランダがバンドンに創設した高等工業学校(現バンドン工科大学)を卒業後、独立運動を開始。1927年7月4日には、オランダ留学から帰国した同志らとともにインドネシア国民党を結成しました。 1929年12月、蘭印当局に逮捕されて禁固刑を受けたが、1931年2月に恩赦をあたえられて出獄。しかし、1933年8月にはふたたび逮捕され、フローレス島のエンデに、続いて1938年2月スマトラ島のベンクールに流刑となりました。 1939年に第二次大戦が勃発すると、オランダは中立を宣言しましたが、1940年5月、ナチス・ドイツはこれを無視してオランダ領内に侵攻し、オランダ全土を占領してしまいます。これに伴い、ウィルヘルミナ女王はロンドンに亡命し、かの地に亡命政権を樹立しました。しかし、その後も蘭印におけるオランダの支配はそのまま継続し、スカルノも拘禁されたままでした。 1941年12月の日蘭開戦後、1942年3月20日までに蘭印全域を占領した日本軍は、政治犯としてオランダに捕らえられていたスカルノやハッタらインドネシア民族主義指導者を解放する一方、石油資源の安定確保のため(そもそも、これこそが戦争の目的でしたから)、蘭印を直轄の軍政地域としました。しかし、戦局が悪化してきた1945年3月、インドネシアを親日国家として独立させるよう方針を転換。独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させています。 こうして、終戦間際の8月7日、スカルノらは独立準備委員会を設立。その第1回会議は18日に開催される予定でしたが、8月15日、日本の降伏が発表されたことで、日本の軍政当局の主導による独立準備は中止されてしまいます。そこで、2日後の8月17日、スカルノらインドネシアの民族主義者たちは、オランダ軍が再上陸してくる前に、機先を制してインドネシア共和国の独立を宣言しました。場所はジャカルタのスカルノ私邸で、約1000名が立会ったそうです。 独立宣言を受けて、9月4日にはスカルノを首班とするインドネシア共和国が成立。この間、8月22日には人民治安団が政府布告によって結成され、政府は日本軍政下で結成された旧PETA(郷土防衛義勇軍)系の将兵、兵補らに参加を呼びかけます。さらに、10月になって日本軍の武装解除のため英連邦軍やオランダ軍が本格的に進駐してくると、スカルノらはこれに対抗すべく人民治安軍を組織し、インドネシア独立戦争が勃発しました。 1946年11月12日、オランダはジャワ島、スマトラ島、マドゥラ島をインドネシア共和国の勢力下にあると認め、双方は連邦国家樹立に向けて努力するという停戦協定(リンガジャティ協定)が成立。これを受けて、11月中に英軍はインドネシアから撤退すると、1947年1月、オランダ軍は停戦協定を破って攻撃を再開します。このため、国連が介入し、同年8月、国連安保理は、即時停戦と仲裁による和平解決をもとめる安保理決議27を採択し、1948年1月17日には、あらためて、ジャカルタ沖に停泊する米国軍艦レンヴィル上で停戦協定(レンヴィル協定)が締結されます。同協定では、インドネシア共和国の領土はジャワ島の中部と西端部、マドゥラ島のみに限られており、共和国にとっては屈辱的な内容でしたが、戦況が圧倒的にオランダ優位で進んでいたこともあって、ともかくも“独立”を確保するためには、共和国側もこれを飲まざるを得ないというのが実情でした。 しかし、当然のことながら、協定の内容に対するインドネシア内の不満も根強く、特に、インドネシア共産党(PKI)をはじめとする左派勢力は徹底抗戦を唱えて、1948年9月18日、ジャワ島東部のマディウンで政府機関を襲撃し、革命政府樹立を宣言します。この反乱は1ヶ月ほどで鎮圧されたものの、混乱に乗じて一挙に共和国を壊滅に追い込もうと考えたオランダは、同年12月11日、和平会談の決裂を宣言。12月19日、“(第二次)警察行動”と称して、共和国領内への全面攻勢を開始しました。 共和国臨時首都のジョグジャカルタでは、マグオ空港がオランダ空軍による空襲を受けて破壊され、12月23日には首都中枢部が陥落。スカルノ以下共和国政府要人が逮捕されます。このため、共和国側はスマトラに臨時政府を樹立し、各地でゲリラ戦を展開。1949年3月1日にはスハルト(後の大統領)指揮下の共和国軍がジョグジャカルタ奪還作戦を敢行しました。 この作戦は、結果的に成功しませんでしたが、この頃になると、オランダの“汚い戦争”に対する国際社会の批判と和平圧力が強まり、米国もオランダへの経済援助の停止を通告したため、1949年7月6日、スカルノらはジョグジャカルタに帰還。1949年12月のハーグ協定により、インドネシア連邦共和国の独立が正式に認められました。 連邦共和国は、16の国・自治政府から構成されていましたが、その後、順次、最大の構成国であるインドネシア共和国に合流し、1950年8月15日、単一国家としてのインドネシア共和国に統合されました。 これに伴い公布されたインドネシア共和国暫定憲法(1950年憲法)では、単一国家制への移行を受けて、全インドネシア国民の宥和を図るため、国民の権利を大幅に拡大し、議院内閣制を規定して大統領(=スカルノ)の権限を制限していました。 しかし、インドネシア国家の母体となった蘭印の枠組は、英蘭の事情で、現地の民族、言語、宗教などの分布とは全く無関係に設定されたため、独立後の“インドネシア”では国家としての統一的なアイデンティティを形成することが困難でした。 このため、1955年9月29日に行われた第1回インドネシア国民議会の総選挙では、インドネシア国民党(大統領スカルノの与党)、マシュミ(イスラム政党)、ナフダトゥル・ウラマー(マシュミから分裂した別のイスラム政党)、インドネシア共産党(中国からの支援で勢力を拡大していた)の4大政党が票を分け合う結果となり、各党の対立から議会は空転し、短命内閣が続いて政情は不安定化。議会制民主主義の機能不全と並行して、政党政治家たちの腐敗も目に余るものがありました。 また、中央での政治的混乱が続けば、当然、地方に対する統制も不十分にならざるを得ず、イスラム国家の樹立を主張するアチェをはじめ、西ジャワ、南スラウェシ、西スマトラなどでは反ジャカルタの叛乱が発生します。 こうした状況だったため、1955年のバンドン会議の主宰者として、国際舞台で華々しく脚光を浴びていたのとは裏腹に、憲法上の制約もあって、インドネシア国内政治におけるスカルノの権力基盤は盤石とはいいがたい状況にありました。 そこで、1959年7月5日、スカルノは大統領布告によって1950年憲法を停止し、大統領に大きな権限を与えた1945年憲法への復帰を宣言。また、国会もほぼ同時期に解散され、以後、議員は任命制となり、政党の活動も大きく制限されました。いわゆる“指導される民主主義”体制の発足です。 “指導される民主主義”の下で、スカルノは、民族主義 (Nasionalisme)、宗教 (Agama)、共産主義 (Komunisme) の各勢力の挙国一致で国難を乗り切ろうという“ナサコム(NASAKOM)”のスローガンを強調。国軍と共産党の対立を利用し、両者の調停役としてふるまうことによって、みずからのリーダーシップを維持しようとしました。 また、これと並行して、国内の求心力を維持するため、徐々に非同盟路線を強調するようになり、その一環として、1961年にはインドネシア共産党書記長のディパ・ヌサンタラ・アイディットを閣内に招き入れて中国との関係強化を強化。“反帝国主義”を強調して、米英や台湾など西側諸国との対立を深めていきます。 さらに、1963年、マラヤ連邦が英領ノース・ボルネオやサラワクを編入してマレーシアが建国されると、スカルノはこれを英国による新植民地主義として非難。インドネシアはボルネオ島全域の領有を主張して、マレーシア領へ侵入するなど、一触即発の事態となりました。 さらに、1965年1月7日、マレーシアが国連非常任理事国入りすると、スカルノはこれに抗議して国連脱退を宣言。共産中国と“北京=ジャカルタ枢軸”を形成して、同じく国連非加盟国の北朝鮮や北ヴェトナムなども加えた“第二国連”をつくるとして新興勢力会議(CONEFO)を結成します。 こうした状況の中で、1965年9月30日深夜、首都ジャカルタで大統領親衛隊第一大隊長のウントゥン・ビン・シャムスリ中佐がクーデターを起こし、アフマド・ヤニ陸軍司令官を含む陸軍の高級将校6名を殺害し、国営ラジオ局を占拠。“9月30日運動司令部”と名乗ってインドネシア革命評議会の設置を宣言しました。 これが、インドネシア現代史の転機として知られる“9月30日事件”の発端です。 さ革命評議会は、ヤニらはスカルノ政権転覆のクーデターを計画しており、それを未然に防ぐために蹶起したと説明しましたが、戦略予備軍司令官だったスハルト(当時の階級は少将)が直ちに部隊を展開して首都の要所を制圧。ウントゥンらのクーデターは失敗に終わります。 事件への関与を疑われたスカルノは、スハルトに対して、治安秩序の回復に必要なすべての権限をスハルトに委譲せざるを得なくなり、スハルトは事件に関与したとされる共産主義者や華人の大規模な虐殺(少なく見積もっても50万人、最大で300万人が犠牲になったといわれています)を行いました。そのうえで、1966年3月11日、政府の実権を掌握したスハルトはスカルノにも大統領権限を委譲する命令書に署名させ、さらに1年間の冷却期間の後、1967年3月12日に大統領に就任。以後1998年まで30年余に及ぶ長期独裁政権がスタートすることになります。 こうしてスカルノは事実上失脚し、全ての役職をはく奪され事実上の軟禁状態におかれ、失意のうちに、1970年6月21日にジャカルタで亡くなりました。ただし、“建国の父”への配慮から、彼の肖像切手は失脚後もすぐには廃止されず、1966年1月、今回ご紹介の切手のように “1966”の年号を入れたものがあらためて発行され、同年3月11日、スハルトに大統領権限が委譲された後も使用されています。 なお、スカルノを軸にしたインドネシア現代史については、拙著『蘭印戦跡紀行』でもいろいろ触れておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 * 2005年6月からスタートしたこのブログですが、毎日1回ずつ更新していたら、今日の記事でちょうど5500回目になりました。日頃、このブログを応援していただいている皆様には、あらためて、この場をお借りしてお礼申し上げます。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 6月26日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! 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2020-06-20 Sat 00:01
ご報告がすっかり遅くなりましたが、『東洋経済日報』2020年5月22日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、5月7日、インド南東部のアーンドラ・プラデーシュ州ヴィシャーカパトナムにある韓国LG科学の現地法人、LGポリマーズ・インディアの工場で有害物質のスチレンガスが流出する事故が発生し、近隣住民ら少なくとも13人が死亡したほか、約1000人が呼吸困難、嘔吐などの症状を訴えて入院した事故にちなみ、こんな切手をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2019年、韓国とインドでジョイントイッシューとして発行された“許黄玉”の切手の、韓国発行分です。 ガス流出事故が起きたヴィシャーカパトナムはベンガル湾に面した港湾都市で、コンテナターミナルのほか、インド海軍の拠点都市として、インドの潜水艦訓練施設としては最高峰のINSサータヴァーハナがあることでも知られています。 INSサータヴァーハナの名前は、紀元前3世紀から紀元後3世紀にかけてデカン高原を中心にベンガル湾とインド洋を結ぶ中央インドの広い範囲を支配し、ローマ帝国と盛んに海上交易を行った王朝、サータヴァーハナ朝に由来するもので、朝鮮半島とも因縁浅からぬものがあるのです。 韓国最大の氏族である金海金氏の祖は、駕洛国(金官伽倻)の王・首露王とされていますが、その妃として王との間に10人の息子をもうけたとされる許黄玉は、もともと、阿諭陀国と呼ばれていたサータヴァーハナ朝の王女だったと伝えられています。ちなみに、金海許氏は、許黄玉の産んだ10人の王子の内、許の姓を与えられた2人を起源と主張しています。なお、インド出身の彼女が許と呼ばれているのは、インドの神殿に仕える巫師の職名“フォ”を音訳したものと考えられています。 高麗時代末期の13世紀末にまとめられた『三国遺事』に抄録された『駕洛国記』(原本は散逸して存在していません)によると、首露王は、亀旨峰の6個の金の卵から生まれ、後漢・光武帝の時代の建武18年(西暦42年)から同・献帝の建安4年(199年)に崩御するまで、158年間にわたって国を治めました。この間の建武24年(西暦48年)、16歳の許黄玉が阿諭陀国から船で伽耶へ嫁ぎ、彼女は後漢の中平6年(西暦189年)に150歳を越える長寿で亡くなったと記されています。 『駕洛国記』は、金官加羅国の滅亡から約500年後の1076年、知金州事の金良鎰により編纂されたもので、王が卵から生まれたとの記述があるなど、史書としての信憑性にはかなり疑問があります。 このため、許黄玉の物語も、ながらく、伝説の域を出ないと考えられてきましたが、2004年、ソウル大学医学部のソ・ジョンソン教授と翰林大学医学部のキム・ジョンイル教授が、「許黄玉の子孫と推定される金海にある古墳の遺骨からミトコンドリアDNAを抽出して全体の塩基配列を分析した結果、4つの遺骨のうちの1つは、韓民族のルーツであるモンゴル北方系とは異なり、インド南方系だった」と報告したことで、少なくとも、金官加羅国の王族にインド系の血が混じっていることは確認されました。 今回ご紹介の切手は、こうしたことを踏まえて、2019年に韓国とインドで両国の友好をアピールするためのジョイントイッシューとして同時発行されたものです。切手は2枚1組で、韓国側が制作したデザインが、婆娑石塔を積んだ東洋風の船を背景に王妃としての正装をした彼女の姿を描いているのに対して、インド側が制作したデザインは、彼女がインドの民族衣装で婆娑石塔の前に立つ姿を描いています。服装や年齢の差もあって、とても同一人物には見えませんが、まぁ、お国柄の違いがこんなところにも表れたということなのでしょう。 両方の切手に共通で描かれている婆娑石塔は、彼女が航海の安全を祈願してインドから積んできたものとの伝承があり、慶尚南道文化財資料第227号として、彼女の陵墓とされる金海の首露王妃陵の前に保存されています。 5月のガス流出事故に関して、インド環境裁判所は韓国LG化学の現地法人に対して、損害賠償に備えて、5億ルピー(約7億600万円)の供託を命じていますが、許黄玉の伝説がなにがしかの歴史的事実を含むものであるなら、韓国とインドの“血縁”のよしみで、LGは現地の人々に手厚い補償をしていただきたいものです。 それにしても、韓国では、2018年10月にイランとの友好の切手を発行したら、翌11月に米国がイラン産原油の禁輸措置を再開し、2019年5月には韓国も“(米国によるイラン制裁の)例外国”から外されたほか、2019年12月に“ハンタウイルス対策”の切手を発行したら新型コロナウイルス問題が起きていますし、最近は間の悪い切手が目につきますね。まぁ、こういうことがあるから、韓国の切手からはなかなか目が離せないわけですが。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 7月4日付で、ビジネス社より、新作『みんな大好き陰謀論』が刊行の予定です。表紙デザインは現在制作中ですが、すでに、版元ドットコムのページもできているほか、アマゾンでの予約も始まりましたので、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-19 Fri 01:07
トランプ米大統領は、17日(現地時間)、中国・新疆ウイグル自治区のイスラム系少数民族ウイグル族らへの人権弾圧に関与した中国政府高官らに制裁を科す“ウイグル人権法案”に署名し、同法が成立しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1985年に中国が発行した“新疆ウイグル自治区成立30周年”の記念切手のうち、ウイグル女性と伝統的な水差し、瓜とモスクが描かれています。近年、ウイグルでは中共政府によりモスクの破壊が進められていますので、この切手の元になったような風景はもはやほとんど見られなくなっているかもしれません。 現在の新疆ウイグル自治区に相当する東トルキスタンの地域が中国中央の支配下に入ったのは18世紀のことです。19世紀には各地で反清反乱が相継ぎ、ヤクブ・ベクの乱によって清朝の支配は一時的に崩壊しましたが、その後、清朝はこの地を再征服し、1884年に新疆省が設置されました。 1912年の中華民国発足後、新疆省では、漢民族の省主席によって半独立的な領域支配が行われており、通貨も中国中央とは別個のモノが使われるなど、中国中央の統制はかならずしも十分に及んでいませんでした。 こうしたなかで、1944年、東トルキスタンの北部、イリ渓谷のグルジャ(伊寧市)で、ソ連軍の支援を受けたウイグル人の武装蜂起が発生。同年11月12日に中華民国からの独立と(第2次)東トルキスタン共和国の建国が宣言されます。 東トルキスタン共和国は12月までにイリ地区の全域を占拠し、翌1945年にはカザフ系の武装勢力がアルタイ地区、タルバガタイ地区を占領し、東トルキスタン政権に合流。いわゆる三区政権が誕生しました。 1945年9月、東トルキスタン軍がウルムチへの進軍を開始すると、新疆省政府はソ連に和平の仲介を要請。東トルキスタンの頭越しに行われた中ソ交渉を経て、ソ連は東トルキスタン主席のアリハーン・トラを拘束して、東トルキスタンに圧力をかけました。このため、1946年、東トルキスタンはソ連の意を汲んで新疆省政府に合流し、東トルキスタン・イリ専署(イリ専区参議会)と改称。 新疆省政府と東トルキスタン・イリ専署が合同して新疆省連合政府が成立しました。 しかし、連合政府は内部対立から1947年5月頃に崩壊。副主席アフメトジャンをはじめとする旧共和国派はイリ地方に退去し、旧東トルキスタン共和国の領域の支配を再開。さらに、翌6月には、ソ連の支援を受けたモンゴル人民軍と中華民国軍が新疆で武力衝突しています。 一方、1949年、国共内戦の帰趨がほぼ明らかになる中で、中国共産党は東トルキスタンに鄧力群を派遣し、イリ政府との交渉を開始。毛沢東はイリ政府首脳陣を北京の政治協商会議に招きましたが、8月27日、北京行きの飛行機に乗った3地域首脳11人は、そのままソ連領内アルマトイに連行・殺害され、東トルキスタン政府は事実上消滅。残されたイリ政府幹部のセイプディン・エズィズィは、陸路で北京へ赴き、政治協商会議に参加して共産党への服属を表明せざるをえなくなりました。また、9月26日にはブルハン・シャヒディら新疆省政府幹部も共産党政府への服属を表明しています。 これを受けて、1949年末までに中国人民解放軍が新疆全域に展開し、東トルキスタンは完全に中華人民共和国に統合され、1955年には現在の新疆ウイグル自治区が設置されました。今回ご紹介の切手は、ここから起算して30周年になるのを記念して発行されたものです。 さて、現在、東トルキスタンはチベットと並んで、中国にとって最も深刻な“民族問題”の一つとなっており、中国共産政府による人権侵害の象徴的な存在となっています。 特に、昨年(2019年)11月16日付のNYタイムズは、習近平のこれまで非公開だった演説の内容や、ウイグル人監視や支配について報告した文書(総計403頁)の存在を報道し、全世界に大きな衝撃を与えました。この記事は、政権指導部による“責任回避”を避けるために関係者がリークしたものです。 それによると、2014年 雲南省・昆明駅で、刃物を持った集団が通行人らを襲撃する無差別殺傷事件が発生し、31人が死亡、130人以上が負傷する事件が発生すると、中国公安当局は容疑者4人を射殺し、1人を拘束したうえで、“新疆分裂勢力による計画的かつ組織的な重大暴力テロ事件”と断定。その直後に、習近平が“独裁の仕組み”を活用して“テロリズム、侵入、分離独立”に対する“情け容赦は無用”の全面闘争を指示していたことが明らかになりました。 また、2016年、新疆ウイグル自治区の党書記長に就任した陳全国は、習の2014年演説を配布し、「拘束すべき者たちを一網打尽にせよ」と督励し、以後、収容施設の数が急増。今年(2019)年11月12日、米ワシントンを拠点とする“東トルキスタン国民覚醒運動(ETNAM)”は、グーグルアースにより、ウイグル人が自らの文化を捨てるよう圧力をかけられている“強制収容所” 182か所、刑務所とみられる施設209か所、労働収容所とみられる施設74か所を特定したと発表。収容者数は、これまで言われてきた約100万人よりもはるかに多い可能性があるとも指摘しています。 ちなみに、第二次大戦中、ナチス・ドイツの最大勢力範囲は最大面積は360万平方キロで、ここに、“強制収容所”と認定されている施設が約50ヵ所(ただし、戦時下のごく小規模なローカル施設を入れると数万に及ぶとの報告もあります)ありましたが、現在の新疆ウイグル自治区の面積はその半分以下の166万平方キロであるにもかかわらず、ウイグル人の収容施設数は450ヶ所以上でナチスの10倍近くにも及んでいます。 さらに、2019年2月9日、ウイグル人の著名な民謡歌手でドタール演奏家のアブドゥレヒム・ヘイット氏が“再教育キャンプ”で拘束中に死亡したことをきっかけに、在外ウイグル人の間で自分の身内に安否不明者がいることをSNS上で呼びかける“#Me Too運動”が拡大しましたが、中国側は、行方不明者家族からの問い合わせに対して、「“過激思想ウイルス”に感染したため、軽い病が深刻化しないうちに治療が必要だ」との説明する内容の想定問答集も作成しています。 当然のことながら、国際世論の大半は中国のウイグル政策と人権侵害をを激しく非難しており、米下院は、昨年12月3日、ウイグルでの人権侵害に関与した中国政府や共産党の関係者に制裁を科したり、同自治区の政府機関に向けた米国製品の輸出を禁止したりする措置を取るよう、米国政府に勧告する“ウイグル人権法”を圧倒的多数で可決しました。 さらに、習近平政権による香港への抑圧が続く中、ことし5月28日、全人代が国際世論の反対を押し切って、香港の一国二制度を骨抜きにする“国家安全法制”の導入方針を採択すると、同日(米国時間では27日)、米議会はウイグル人権法案を通過させ、中国との対決姿勢を明らかにしていました。 今回、トランプ大統領の署名によって成立したウイグル人権法では、米政府は、今後180日以内に、新疆ウイグル自治区内のウイグル人および他のイスラム系少数民族への拷問、訴追や裁判なしの拘束延長、拉致や非人道的な処遇などの行為に加わった中国政府当局者や全ての個人を特定し、議会に報告書を提出することになることになっており、その後、リストに挙げられた人物は、資産凍結、入国査証の取り消しや米入国への禁止などの制裁が科されることになっています。その対象を最も広くとると、習近平も制裁対象となる可能性が出てくるわけですが…。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 7月4日付で、ビジネス社より、新作『みんな大好き陰謀論』が刊行の予定です。表紙デザインは現在制作中ですが、すでに、版元ドットコムのページもできているほか、アマゾンでの予約も始まりましたので、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-18 Thu 00:07
ノルウェー政府当局は、きのう(17日)、同国産サーモンが中国・北京の市場で発生した新型コロナウイルスのクラスター(集団感染)の感染源でないとの認識で両国が一致したと明らかにしました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1987年にノルウェーが発行した“ノルウェー・サーモン”の切手シートで、卵の採取→タンク内での養殖→生簀での飼育→市場への出荷のプロセスが田型連刷で表現されています。 タイセイヨウサケ(アトランティック・サーモン)は、ノルウェーを含む北大西洋とその流入河川に広く分布するサケの一種で、体長は1.5m前後。紡錘形でやや側扁(左右に平たい)で、身体全体に斑文が散っています。一般に“サーモン”と呼ばれるのはこの種です。 なお、天然もののサケ科の魚の体内にはアニサキスをはじめとする寄生虫がいるため、生食には適しません。このため、ノルウェーでは、、1970年前後から、生食でも安全なサケの生産を目指して、特殊な環境で寄生虫を排除してサーモンを育てはじめ、エサの開発や近代的な養殖法を確立しました。 ちなみに、“ノルウェー・サーモン”は、アトランティック・サーモンのうち、エサや水などに関して一定の基準をクリアした環境で養殖された者に漬けられる、いわばブランド名です。 さて、北京市では約2ヵ月にわたり新規感染者が出ていませんでしたが、6月11日、市内の北京新発地卸売市場から感染が拡大。このため、12日夜、新発地市場の張玉璽理事長は地元紙『新京報』のインタビューで、関連機関がサンプリング調査をした際、輸入サーモンを切ったまな板から新型コロナが検出され、そのサーモンは(北京の)京深海鮮市場から仕入れられたものだったと発言。これを受けて、13日、北京ではスーパーや日本料理店がサーモンを売り場から急ぎ撤去していました。 ただし、今年4月、国連食糧農業機関、中国水産科学研究院など世界の16の機関が Asian Fisheries Science に発表した論文の中で、「魚類、甲殻類、軟体類と両生類を含む水産物が新型コロナに感染しうることを示す証拠はなく、したがってこれらの生物が新型コロナの感染源となることはない」と明確に述べているように、サーモンそのものが新型コロナウイルスの中間宿主になるのは考えにくいとみられています。また、新発地市場の汚染されたまな板についても、サーモンが流通過程で汚染されたのか、まな板の管理が不十分だったのかも現時点ではわかっていません。 ところが、14日にドイツの公営テレビ・アルテが、ノルウェーのサーモン養殖場の衛生管理状態が悪いと報じたことから、新型コロナウイルスはあくまでも外来のものと主張したい中国政府の意を汲んだのか、中国の各メディアはこれを引用し、輸入サーモンの問題点を大々的に報じたことから、ノルウェー・サーモンへのバッシングが起こり、ノルウェーを含む欧州産サーモンの輸入も停止されました。 今回のノルウェー政府の発表後、ノルウェーから中国へのサーモン輸出が一部再開されたものの、大半は停止したままだとか。ほんとうに、とんだ風評被害でお気の毒としか言いようがないですね。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 7月4日付で、ビジネス社より、新作『みんな大好き陰謀論』が刊行の予定です。表紙デザインは現在制作中ですが、すでに、版元ドットコムのページもできているほか、アマゾンでの予約も始まりましたので、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-17 Wed 01:33
インド軍は、きのう(16日)、北部ラダックの国境地帯で15日、中印両軍の部隊が衝突し、インド軍の将校と兵士計3人が死亡したと発表しました。中印国境地帯の衝突で死者が出たのは、45年ぶりのことです。というわけで、ラダックにちなんでこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2013年にインドが発行した“ラダックのキャン(チベットノロバ)”の切手です。切手の元になった写真の撮影場所は調べきれなかったのですが、背後にみえる湖らしきものは、あるいは、中印両国の実効支配線がある湖“パンゴン・ツォ”かもしれません。 キャンは、チベットの高地にすむアジアノロバの1亜種で、肩高1.5m、体重350-400kgで、アジアのロバの中では最大です。切手では草原の群れが取り上げられていますが、荒涼とした乾燥地帯でもわずかな食料で生息できるため、かつては、ネパールやシッキムなどにも分布していましたが、近年は個体数が著しく減少しており、国際自然保護連合は絶滅の恐れがある動物の一つに指定しています。 さて、ラダックは、インド亜大陸北部のヒマラヤ山脈北西部とラダック山脈とにはさまれた地域で、カシミールの東側半分以上を占めています。かつては独立した仏教国のラダック王国の支配下にあり、チベットや東トルキスタン(新疆)とは古くから交易が行われてきました。 19世紀にジャンムー・カシュミール藩王国に併合されたため、1947年のインド・パキスタンの分離独立時には、インドとパキスタンの係争地域となり、1949年の停戦ラインに従って、その大部分がインドのジャンム・カシミール州ラダック地区となり、2019年10月31日のジャンムー・カシミール州の分割に伴い、ラダック連邦直轄領となりました 北から東にかけては中国との国境に接しており、1962年の中印国境紛争以降、崑崙山脈とカラコルム山脈に挟まれた盆地のアクサイチンが中国により実効支配されていますが、インドは現在なおアクサイチンはラダックの一部として領有権を主張し続けています。 さて、ラダックでは、ことし5月5日以降、実効支配線のあるパンゴン・ツォ周辺で、インドの道路建設を巡り両軍兵士の小競り合いが発生。双方の100人以上が負傷する衝突が起きています。この時の衝突は、いったん、翌6日には収束したものの、その後も湖周辺も含め数カ所で中国は装甲車を配備し、部隊を増強。これに対して、インドもこの地域に追加的に4個大隊を派遣し、両者のにらみ合いが続けていました。 そこで、今月6日には両軍間での協議の結果、緊張緩和での合意が成立。一部で撤退に向けた動きが始まったとも報じられていたところへ、今回の衝突が発生したというわけです。 今回の件に関して、中国外務省の趙立堅報道官は、この衝突に関する情報は持ち合わせていないとしたうえで、15日にインド軍兵士2人が2度にわたって中国領域に違法に進入し、中国側を挑発・攻撃したのが原因と主張。これに対して、インドは、中国側はインド軍による通常の国境パトロールを妨害しているとして、真っ向から反論。両政府とも事態の悪化を避けたい考えとみられていますが、現場で緊張が高まり、偶発的衝突が続くことが懸念されています。 PS その後の報道で、両軍は本格的な軍事衝突に発展しないよう、銃火期は使わず、石を投げ合うなどして、インド軍の兵士20人が死亡したことがわかりました。なんか、あらゆる意味で凄いですね。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 7月4日付で、ビジネス社より、新作『みんな大好き陰謀論』が刊行の予定です。表紙デザインは現在制作中ですが、すでに、版元ドットコムのページもできているほか、アマゾンでの予約も始まりましたので、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-16 Tue 03:39
韓国の仁川弥鄒忽署は、おととい(14日)、「大切に育てる」と言ってもらい受けた珍島犬の親子を、すぐに食肉処理場を経営する別の男に依頼して殺し、犬焼酎(ケソジュ:犬の肉と栗やナツメなどの食材や漢方薬などを入れて煮込んで成分を抽出した韓国の薬用飲料)にして食べたとして、76歳の男を“詐欺”の疑いで、食肉処理場の経営者を動物保護法違反の疑いで、在宅のまま書類送検したことを明らかにしました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1962年、韓国で発行された珍島犬の20チョン切手(普通切手)です。 韓国原産の犬として知られる珍島犬の起源については諸説ありますが、一般には、高麗が元朝の属国だった13世紀、朝鮮の在来犬とモンゴルの軍用犬との交雑によって誕生し、それが珍島に定着したと考えられています。 日本統治時代の1937年、京城帝国大学の森為三は、珍島に朝鮮固有の犬が存在するとして、朝鮮宝物古蹟名勝天然記念物委員会に報告した際、この犬を“珍島犬”と命名。翌1938年、朝鮮総督府学務局が珍島犬を第53号天然記念物に指定しました。 1945年の解放後、米軍政下の南朝鮮および韓国政府には、当初、珍島犬に対する保護政策を行う余裕がありませんでしたが、朝鮮戦争中の1952年、李承晩大統領直々の指示により珍島犬保護法が制定されています。 その後、朴正煕政権下の1962年、それまでの朝鮮宝物古蹟名勝天然記念物委員会が廃止され、その代わりに「文化財保護法」(法律第961号)が新しく制定されると、珍島犬は、あらためて天然記念物第53号に指定されました。 ところで、米軍政下の1945年11月2日に米軍政長官名で公布された法令第21号は「総ベテノ法律及ビ朝鮮旧政府ガ発布シ法律的ノ効力ヲ有スル規則命令、告示其ノ他ノ文書ニテ一九四五年八月九日実行中ノモノ其ノ間スデニ廃止サレタルヲ除キ朝鮮軍政庁ガ特殊命令ニテ廃止スル迄全効力ヲ以テ存続ス」(第1条)としており、日本統治時代の旧法令は多くが“暫定的に”存続することになりました。野生動物および文化財保護行政の基本原則として1933年に制定され、朝鮮寶物古蹟 名勝天然記念物委員会の設置根拠となった「朝鮮寶物古蹟名勝天然記念物保存令」(総督府制令第6号。以下、保存令)もそのひとつです。 さらに、1948年に制定された“制憲憲法”第100条でも「現行法令はこの憲法に抵触しない限り効力を有する」と規定されたため、保存令も大韓民国発足後も存続。他の実務的な法令同様、保存令は文化財保護行政の仕組みとしては有用で、廃止しなければならない積極的な理由は特に見いだされなかったため、李承晩政権下ではそのまま温存されていました。 しかし、1961年の5・16革命で成立した朴正煕の国家再建会議は、体制の一新をはかるため、「旧法令に関する特別措置法」(1961年法第659号)を制定。当時なお効力を有していた“旧法令(日本統治時代および米軍政下の法令)”は1952年1月20日までに整理されることになります。 これを受けて、1933年以来の保存令も廃止され、期限ぎりぎりの1962年1月10日、文化財保護法(新保護法)が公布施行されました。もっとも、時間的な制約から、新保護法は、1950年に制定された日本の文化財保護法をほぼそのまま翻訳して対応せざるを得ませんでした。たとえば、日本の保護法第1条が「この法律は、文化財を保存し、且つ、その活用を図り、もって国民の文化的向上に資するとともに、世界文化の進歩に貢献することを目的とする」となっているのに対して、新保護法の第1条が「本法は、文化財を保存し、活用することとにより国民の文化的向上を図り、同時に人類文化の発展に寄与することを目的とする」となっています。 さらに、1962年の新保護法では、旧保存令に基づき寶物、古蹟、名勝、天然記念物として指定されたものは、新たに制定された韓国文化財保護法に基づく指定とみなし、同法施行後1年以内に指定を更新するとの経過規定を定めており、旧保存令で指定された文化財等の法的地位にはほとんど変更がありませんでした。 それでも、新たな文化財保護法の制定は、朴正煕政権が掲げていた“民族文化の暢達と国民教育の振興”を進めていくうえで重要な意味を持っていましたから、1962年以降、天然記念物に指定された動植物や、国宝に指定された文化財などが、日常的に国民が使用する普通切手に積極的に取り上げられていくことになります。今回ご紹介の切手もその一例だったわけです。 ただし、そうした天然記念物や文化財の保護行政が、日本統治時代の蓄積の上になっていることや、そもそも、韓国の文化財保護法が日本の文化財保護法をほとんどそのまま真似たものであることは、「植民地史観と外国文化に対する従属観念を払拭し、民族文化の再発見を通して国民的自覚と誇りを宣揚しよう」とすればするほど、韓国社会における“日本”の存在の大きさが浮かび上がってくるというジレンマを白日の下にさらすことになるのですが…。 さて、今回の事件は、今年(2020年)5月17日に、元の飼い主がA容疑者に犬を譲った後、犬が元気でいるかどうか確認したことで発覚。もとの飼い主が警察に通報し、警察は防犯カメラの分析などにより事実を確認し、Aと処理業者も事実を認めました。これに対して、元の飼い主は、5月25日、青瓦台の国民請願掲示板に「犬がもらわれていって2時間もたたずに殺された」と投稿し、容疑者の処罰を求めています。 韓国に犬食文化の伝統があることは広く知られていますが、最近では、犬は食べ物ではなくペットという見方が広まり、犬を食べたがらない人も急増しています。その一方で、伝統的な犬食文化を全面的に禁止すべきとまで考えている韓国人は少数派とみられており、韓国社会における犬食文化の位置づけも微妙なものとなりつつあるようです。 そうした中で、2017年、動物の権利保護団体“CARE”が、「適切な理由なしに動物を殺している」として富川市の養犬業者を提訴。2018年4月には、裁判所が食肉用に犬を処理するのは違法とする初めての判決が下されました。 この時の判決は食肉処理だけを違法としたもので、犬食じたいを禁じたわけではありませんが、養犬場や犬肉処理場の経営者たちは、この判決に強く抗議し、犬食を禁止するのではなく合法化し、犬肉処理場へ免許を発行するよう求めています。ちなみに、韓国の現行の法制度でが、犬は“家畜”として扱われていないため、犬肉の流通・販売は違法でも適法でもない中途半端な状態になっており、そのことが話を複雑にしている面も否定できません。 ちなみに、韓国における民族文化の“再発見”と日本との関係については、拙著『日韓基本条約』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 7月4日付で、ビジネス社より、新作『みんな大好き陰謀論』が刊行の予定です。表紙デザインは現在制作中ですが、すでに、版元ドットコムのページもできているほか、アマゾンでの予約も始まりましたので、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-15 Mon 00:54
きょう(15日)は、1950年6月15日に最初の“暑中見舞用郵便葉書”が発行されたことにちなむ“暑中見舞いの日”です。というわけで、暑中見舞い関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1986年の暑中見舞いはがき“かもめーる”の末等賞品として9月15日に発行された小型シートです。 1950年以来、毎年発行されてきた暑中見舞葉書は、1986年から“かもめーる”(海ないしは夏をイメージするカモメと郵便のメールの合成語)との愛称をつけることになり、同年の葉書は6月16日にくじ付きで発行されました。 1986年の“かもめーる”は、印面のデザインが①ひまわり、②錦鯉、③ほおずき、の3種類あり、発行枚数は、当初、2億4000万枚(3種各8000万枚)でしたが、後に500万枚(内訳は、ひまわり390万枚、錦鯉160万枚、ほおずき50万枚)が増刷され、最終的に合計2億4500万枚となりました。それぞれの葉書の原画作者は、ひまわりが内田悦代(裏面の“とんぼ”も内田が担当)、錦鯉が久野実(裏面の“あまちゃ”は木村勝が担当)、ほおずきが大塚均(裏面の“むぎつく”は江守若菜が担当)です。 “かもめーる”の発行についての郵政省の報道発表は5月16日のことで、9月15日に抽選を行い、20日から賞品の交換を開始することもあわせて発表されています。賞品の内訳は、A賞(100万本に2本:最終的な当選本数490本)が21型多機能カラーテレビ、B賞(1万本に5本:当選本数12万2500本)がステンレスポット、C賞(100本に2本:当選本数490万本)が“ふみの日切手小型シート”と発表されました。なお、この時点では、小型シートの詳細はもちろん、“ふみの日”切手の図案は発表されていませんが(“ふみの日“切手に関する報道発表は6月2日)、小型シートは40円切手と60円切手の2種組み合わせになる見込みと『郵趣ウィークリー』紙は報じています。 一方、1986年の“ふみの日”切手は、例年通り、7月23日に葉書用の40円と書状基本料金用の60円切手が1種ずつ発行されました。 図案は、40円切手が内田悦代の原画による「小鳥と手紙」で、60円切手が村上勉の原画による「少女と手紙」で、ともに、前年「ふみの日」切手 と同じです。なお、60円切手に関しては、1981年発行のものを除き“ふみの日”切手は横型が主流でしたが、今回からは、小型シートに収めた時のバランス上、縦型になっています。発行枚数は各7000万枚でした。 さて、暑中見舞いはがき“かもめーる”のくじの抽選会は9月15日に行われ、小型シートを賞品とするC賞に関しては、下二桁38ならびに49が当選番号として決まりました。 小型シートは1977年から1982年までの年賀小型シートと同じ構成で、2枚の切手の間にはガッターがあります。シートの大きさは93.5×72ミリ。シートの背景は切手と同じく村上勉が原画を作成し、それを森田基治がシートとして構成しました。なお、シート上の題字は“ふみの日”ではなく、“昭和61年 暑中”となっています。 賞品としての小型シートの交換は9月20日から開始されましたが、販売品ではないため、収集家・切手商ともに現物の入手には苦労したケースが多かったようです。じっさい、1986年11月28日付の『郵趣ウィークリー』紙によると、取材した30店の切手商のうち10店近くは最初から小型シートが入荷しておらず、多くの切手商が当初から額面100円に対して1000円前後で販売していたと報じられました。これに対して、同紙は、小型シートが「今の値段が2倍、3倍になることは考えられない」とコメントしていましたが、実際には2020年版のカタログ評価は6000円となっています。 なお、昭和末期のふみの日切手とかもめーるの関係については、拙著『昭和終焉の時代』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 7月4日付で、ビジネス社より、新作『みんな大好き陰謀論』が刊行の予定です。表紙デザインは現在制作中ですが、すでに、版元ドットコムのページもできているほか、アマゾンでの予約も始まりましたので、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-14 Sun 01:11
きょう(14日)は、1928年6月14日に生まれたチェ・ゲバラの誕生日です。というわけで、ゲバラ切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1971年にキューバが発行した国立博物館収蔵美術品シリーズの切手のうち、ラウル・マルティネスがゲバラをモチーフに制作した作品、「フェニックス」を取り上げた1枚です。 ラウル・マルティネスは、1927年11月1日、キューバ島の中央部に位置するシエゴ・デ・アビラで生まれました。ハバナのサン・アレハンドロ美術アカデミーで学んだ後、渡米してシカゴ美術館付属美術大学でデザインを学んで帰国し、革命以前は広告代理店のOTPLAで働きながら、主として抽象絵画を制作していました。 1959年の革命後は、『ルネ・デ・レボルシオン』誌のアート・ディレクターを務める傍ら、ハバナ大学でも教鞭をとっていました。本人によると、1965年頃までには抽象絵画に対する興味をほぼ失っていた一方で、芸術至上主義的な絵画制作にも違和感を覚えるようになっていたため、米国留学時代に接したポップ・アートの手法を取り入れた作品を制作するようになったとのことです。 革命後のキューバ芸術界は、一時期、ソ連の影響を受けた社会主義リアリズムが主流になりかけたものの、独自の作風でフィデル・カストロやゲバラ、カミーロ・シエンフエゴスらを描いたマルティネスの作品は大きな芸術家たちに大きなインパクトを与え、キューバ美術がソ連の亜流に堕するのを食い止めるうえで大きな役割を果たしたと評価されています。 切手に取り上げられた「フェニックス」は、ゲバラが亡くなった1968年の制作。画面を3×3の9分割にして、ゲバラの顔を並べた構図をとっていますが、これは、マランガによる“ウォーホル風”英雄的ゲリラを明確に意識したものです。しかし、マルティネスによるゲバラ像は、写実的ではなく、民画風に大胆にアレンジされており、顔の色も赤茶色になっています。 これは、ラテンアメリカ解放のための戦いに殉じたゲバラは、その精神において“白人”の枠を超越し(血統的には、ゲバラはアイルランド系の父親とバスク系の母親の間に生まれた“白人です)、ラテンアメリカの歴史と多種多様な人種を包摂した存在であることを表現しようとしたことによるものです。そして、念を押すように、“CHE A ME RI CA”の文字を三段に分けて配することで、ゲバラの死後も、彼の目指したラテンアメリカ解放の理想は不滅であることを表現し、それが画題の「フェニックス(不死鳥)」につながるという仕掛けになっています。 ちなみに、マルティネスは1969年には「英雄たち」と題して、カストロ、ゲバラ、カミーロの革命の三傑とさまざまな国民を組み合わせたポスターを制作していますが(下の画像)、こちらではゲバラは白人として描かれており、「フェニックス」が明確な意図をもってゲバラを“有色人種”風に描いたことが裏付けられます。 なお、現代アートとしての各種のゲバラ像については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも、その歴史的背景を含めて詳しく論じておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 7月4日付で、ビジネス社より、新作『みんな大好き陰謀論』が刊行の予定です。表紙デザインは現在制作中ですが、すでに、版元ドットコムのページもできているほか、アマゾンでの予約も始まりましたので、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-13 Sat 01:19
ブラジル・リオデジャネイロのコパカバーナ・ビーチの象徴、“コパカバーナ・パレス”の前に、11日(現地時間)、新型コロナウイルス感染症による多数の死者を追悼し、政府当局の無策に抗議するとして、100基の墓穴が掘られたそうです。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦中の1942年9月2日、コパカバーナ・パレスの宿泊客が米シカゴ宛に差し出した郵便物で、切手は貼られておらず、王冠の入ったホテルのマーク入りのメータースタンプが押されています。 ブラジルが連合国の一員として第二次大戦に参戦したのは、今回ご紹介の郵便物が差し出される10日ほど前の1942年8月22日。すでに、米国は前年の真珠湾攻撃を機に戦争に突入しており、この郵便物も途中で開封・検閲を受けています。 コパカバーナ・パレスは、ニースのネグレスコ・ホテルをデザインしたフランス人ジョセフ・ジルの設計で1923年に創業。リオのみならず、南米で最も格式が高いホテルとされており、英国のチャールズ皇太子とダイアナ妃(当時)、南アフリカのネルソン・マンデラ大統領をはじめ、多くのセレブが宿泊したことでも知られています。ホテルの外観はこんな感じです。 ホテルはアトランティカ大通りを挟んでビーチに面した位置にありますが、今回の墓穴はこんな感じで掘られたと報じられています。 さて、ブラジルの現在の人口は2億1000万人ですが、11日にも新たに1239人の死亡が確認され、累計死者数は4万人を超え、感染者数は累計80万2800人となっています。これに対して、ジャイル・ボウソナーロ(ボルソナーロとも)大統領は、新型コロナウイルスを“インフルエンザの一種”として、感染拡大の防止よりも経済活動の再開を重視する政策を取っているため、国民の間では批判が高まっています。 今回のコパカバーナ・パレス前の墓穴も政府批判のパフォーマンスとして行われたもので、墓穴の横には黒い十字架が並べられ、小さなブラジル国旗が飾られましたが、大統領の支持者らは十字架をなぎ倒したり、墓穴を掘ったNGO活動家らに罵声を浴びせたりしたそうです。 上の写真にも写っているホテル前のアトランティカ通りはリオを代表する繁華街の一つで、2013年にリオデジャネイロを訪れた際には、僕自身も何度か往来しましたが、とにかく、一日中大渋滞だったことを覚えています。それが、報道写真を見ると、車も少なく閑散としている様子で、こんなところにも、かの国のウイルス禍の深刻さを改めて感じだ次第です。 なお、コパカバーナ・ビーチとその歴史については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 7月4日付で、ビジネス社より、新作『みんな大好き陰謀論』が刊行の予定です。表紙デザインは現在制作中ですが、すでに、版元ドットコムのページもできているほか、アマゾンでの予約も始まりましたので、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-12 Fri 00:03
公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2020年6月号が発行されました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1969年2月10日に発行された第1次国宝シリーズ第5集(室町時代)の“慈照寺銀閣”の切手です。 なにかと気分の滅入る梅雨時ですが、この時期ならではの楽しみというのもいくつかあります。苔はそのひとつではないでしょうか。 日本には約1800種の苔が棲息しているそうです。雨に濡れるほどに青みが深くなる苔は、雨の降り続く梅雨時、体に水分を染み渡らせ、濃淡様々な緑が鮮やかになり、一年でも最も見栄えのする時期を迎えます。 苔の名所としては、“苔寺”で知られる京都の西芳寺を挙げる人が多いでしょうが、西芳寺に倣ったとされる銀閣寺こと慈照寺の庭園も捨てがたいものがあります。 慈照寺の観音殿を銀閣と呼ぶのは、江戸時代、金箔の貼られた鹿苑寺舎利殿を金閣と呼んだのと対にしてからのことで、開基となった室町幕府の八代将軍義政には、建物に銀箔を貼るつもりは毛頭ありませんでした。 応仁の乱最中の文明5(1473)年、子の義尚に将軍職を譲った義政は、乱後の文明14(1482)年、東山の月待山麓、戦乱で焼亡した浄土寺のあった場所に東山山荘(東山殿)の造営を始めました。当時、京の町は疲弊していましたが、義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な隠栖生活を送っていました。 義政は西芳寺の庭園を気に入っていましたが、当時の西芳寺は女人禁制で、将軍といえども、母親の日野重子にそれを見せることができません。そこで、西芳寺に倣いつつも、西芳寺に劣らぬ見事な庭園を母親に見せてやりたいとの思いで、東山山荘の造園には力を入れたのです。 西芳寺は、もともとは奈良時代に行基が“西方寺”として開いた法相宗の寺院でしたが、建武年間には荒廃していたところ、暦応2(1339)年、室町幕府の重臣である摂津親秀が再興し、作庭の名手でもあった夢窓疎石を招いて臨済宗(禅宗)に改宗され、枯山水と池泉回遊式庭園から構成される上下二段の庭が造成されました。有名な苔の庭はこのうちの下段ですが、疎石の時代には池の周囲の苔もそれほど多かったわけではなく、現在のように100種類以上もの苔が池の周囲を埋め尽くすようになったのは幕末のことでしたから、義政には、西芳寺が殊更に苔寺というイメージもなかったかもしれません。 義政の時代の慈照寺の庭は、当代一の庭師と謳われた善阿弥の一族が中心になって造営しましたが、その後の戦乱などもあり、江戸時代に入ってから大幅に改修され(おそらく、その過程で苔も大幅に増えたのでしょう)、中国・西湖の波打つ風景を白砂で描写したとされる銀沙灘と月に照らされる光の反射を意識して造営された円錐台形の向月台が加わりました。 慈照寺の庭園の構成が、錦鏡池の周囲に観音殿と東求堂を配した回遊式庭園と、裏山の枯山水庭園の上下二段になっているのは西芳寺と同じです。なお、園内にはいたるところにウマスギゴケを中心にした苔が植えられており、特に、裏山の斜面は苔の名所として知る人ぞ知る場所になっています。また、これとは別に、園内の苔を、“大切な苔”、“ちょっと邪魔な苔”、“とても邪魔な苔”と分類して展示している一角もあるのが面白いところです。 今回ご紹介の切手は、国宝シリーズの1枚切手なので、観音殿=銀閣が主役なのは当然ですが、よく見ると、建物の右に植えられた木の根元や、手前の錦鏡池の岩の隙間などにはしっかりと苔も見えています。 金閣も銀閣も四季を通じてそれぞれの良さがありますが、雪化粧の似合う金閣に対して、銀閣には夏の緑が似合う――そんなことをあらためて実感させてくれる1枚です。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 7月4日付で、ビジネス社より、新作『みんな大好き陰謀論』が刊行の予定です。表紙デザインは現在制作中ですが、すでに、版元ドットコムのページもできているほか、アマゾンでの予約も始まりましたので、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-11 Thu 02:58
スウェーデン検察は、きのう(10日)、1986年に起きたオロフ・パルメ首相(当時59)の暗殺事件に関し、パルメの左派政策に強く反対していた広告コンサルタントのスティグ・エングストロムが最重要容疑者であると公表したものの、同容疑者は既に2000年に死亡しているとして、捜査を打ち切ったことを発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1986年にソ連が発行したパルメの追悼切手です。 パルメは、1927年生まれ。スウェーデン全学連委員長として活動した後、1952年、スウェーデン社会民主労働党に入党。1957年に上院議員に初当選しました。運輸通信相、教育相を経て、1969年、42歳で社会民主労働党党首および首相に就任しました。 首相在任中の1973年、第一次オイルショックが発生すると、非産油国として大きな打撃を受けたスウェーデンは1973年に外国人労働者の受け入れを停止、さらに、パルメ政権は、大企業の国営化プログラムなどの左派的な政策を推進しようとしたことで国民の支持を失い、1976年の総選挙ではブルジョワ・ブロック(中央党、穏健党、自由党)に大敗。社会民主労働党としては44年ぶりに下野しました。 学生運動出身の左派政治家としてのパルメは、外交政策に関しては、急進リベラルの是々非々論者で、ヴェトナム戦争に対するアメリカの介入を強硬に批判し、大量の兵役忌避者や脱走兵を受け入れる一方、首相就任前年の1968年に起きたプラハの春に対するソ連の武力弾圧についても激しく批判。また、社会主義インターの副議長として、南アフリカのアパルトヘイト政策、スペインのフランコ独裁政権についても、批判の急先鋒となっていました。 野党時代の1980年9月には、国連の“軍縮と安全保障問題に関する独立委員会(パルメ委員会)”を主宰。同委員会は、1982年6月、『共通の安全保障-核軍縮への道標』という報告書を提出しています。ただし、パルメ本人の意志とは無関係に、当時の国際的な反核運動は、相当程度、ソ連を中心とする東側諸国の工作機関の影響を受けていたことも事実で、それゆえ、水面下では、反核運動に介入してくるソ連東欧諸国との軋轢もかなりあったのではないかと思われます。 その後、1982年の総選挙で社会民主労働党が勝利すると、首相として政権に復帰しましたが、首相在任中の1986年2月28日夜、ストックホルムの映画館から夫人と徒歩で帰宅する途中、何者かに背後から射殺され、亡くなりました。 パルメに関しては、良くも悪くも主義主張がハッキリしているために敵も多く、暗殺犯についてもさまざまな説が唱えられてきました。事件後、実行犯として、一緒にいた妻の目撃証言から、殺人の前科があるスウェーデン人のクリステル・ペターションが逮捕されました。その際、スウェーデンのメディアでは、ソ連国家保安委員会(KGB)が暗殺の情報を事前に掴んでいた可能性があると報道されましたが、KGBはこれを否定。ソ連が今回ご紹介のような追悼切手を発行したのも、“反核運動の闘士”としてのパルメを称揚し、自らのプロパガンダとして活用するとともに、KGBがパルメ殺害には関与していないことを宣言する意図があったものと推測されます。 なお、実行犯とされたペターションも一審では有罪として終身刑となったものの、控訴審では証拠不十分で無罪となりました。このため、事件の捜査は継続され、これまでに1万人以上が事情聴取を受け、134人が犯行を自白したものの、いずれも、真犯人の特定には至っていませんでした。このため、スウェーデン当局としては、とりあえず、今回の発表をもって、捜査を打ち切ったというわけです。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 7月4日付で、ビジネス社より、新作『みんな大好き陰謀論』が刊行の予定です。表紙デザインは現在制作中ですが、すでに、版元ドットコムのページもできているほか、アマゾンでの予約も始まりましたので、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-10 Wed 01:46
米国の白人警官による黒人暴行死を受けて世界各地に抗議デモが拡大する中、ベルギーのアントワープ市当局は、きのう(9日)、同市内でのデモ参加者から“人種差別の象徴”として赤い塗料をかけられた元国王レオポルド2世の像を撤去しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1986年にベルギーが発行した”コンゴ切手100年”の記念切手で、ベルギー領コンゴ(現コンゴ民主共和国)の地図を背景に、レオポルド2世を描く“コンゴ独立国(自由国)”最初の切手が描かれています。 1865年に即位したベルギー国王レオポルド2世は、即位当初から植民地獲得の必要性を訴えていましたが、1876年9月、コンゴ探検を支援する“国際アフリカ協会”(のちにコンゴ国際協会に改組)を創設し、1879-83年、英国の探検家ヘンリー・スタンリーにコンゴ川流域を探検させ、先住民部族の部族長たちと独占的な貿易協定を締結しました。 これに対して15世紀以来、在地のコンゴ王国と関係のあったポルトガルが反発し、コンゴ川河口周辺の主権を主張。これを英国が支持すると、独仏はベルギーを支持し、列強の対立が深まりました。 このため、1884-85年、列強14カ国によるベルリン会議が開催され、コンゴを中立化し、門戸を開放して自由貿易の地にすることを条件として、コンゴはレオポルド2世の“私有地”とされました。これを受けて、1885年、レオポルド2世の私領“コンゴ独立国”が創設されます。なお、同国は自由貿易の国という意味で“コンゴ自由国”と呼ばれることも多いのですが、これは俗称です。 さて、コンゴ独立国はあくまでもレオポルド2世の私領という扱いで、ベルギー国家とは無関係という建前でした。このため、国王は専制君主として君臨するとともに、巨額の私費を投じ、さらには、個人の信用で国内外の投資家の投資を募り、マタディ=レオポルドヴィル鉄道の建設など、近代化政策を推進しました。その一方で、莫大な開発コスト回収のため、1891年以降、象牙と天然ゴムが国王の独占事業とされ、先住民には過酷なノルマが課せられただけでなく、未達の場合は手足切断などの刑罰が科されています。 このため、1885年に3000万人と言われたコンゴ独立国の人口は、1901年までに900万人にまで減少しましたが、250トン以下だった天然ゴムの生産量は6000トンに増大しました。 こうした圧政に対しては国際世論の批判も強かったため、1906年、ベルギー議会はコンゴを国王の私領からベルギー国家の植民地へ転換させる決議を採択。国王はこれに抵抗しましたが、1908年10月、ベルギー政府は植民地憲章を制定。国王はベルギー政府からの補償金との引き換えにコンゴ自由国を手放し、同年11月、コンゴ自由国はベルギー政府の直轄植民地ベルギー領コンゴになりました。 なお、ベルギー独立国の圧政で悪名高いレオポルド2世ですが、その治世はベルギー史上空前の好景気の時代で、現存する多くの巨大建造物が作られ、積極的な都市計画によってブリュッセルの街並みも一変したことから、現在でも、ベルギー国民の間では一定の人気を保っています。ベルギーがコンゴを手放してから四半世紀以上が過ぎた1986年に、今回ご紹介の切手が発行されているのも、そうした背景があるためです。 ちなみに、ブリュッセル郊外、テルフューレンにある王立中央アフリカ博物館は、1897年のブリュッセル世界万博に際して、コンゴ独立国の展示に使用された“植民地宮殿”がルーツで、翌1898年、“コンゴ博物館”として常設博物館となり、1960年に現在の名称となりましたが、世界でも有数のアフリカ文明コレクションを誇り、長年にわたり、世界におけるアフリカ文明研究の中心となってきました。 その展示内容については、以前は、レオポルド2世の残虐行為を無視しているとしてしばしば批判の対象となっていましたが、2018年のリニューアルオープンに際しては、アフリカの人々によるビデオ証言やコンゴ人芸術家の作品展示を充実させるなど、アフリカそのものに焦点をあてる一方、植民地支配の歴史は1カ所のギャラリーに集められるなどの修正が行われています。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 7月4日付で、ビジネス社より、新作『みんな大好き陰謀論』が刊行の予定です。表紙デザインは現在制作中ですが、すでに、版元ドットコムのページもできているほか、アマゾンでの予約も始まりましたので、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-09 Tue 01:53
2019年6月9日に香港で発生した逃亡犯条例改正案反対の“100万人デモ”から、ちょうど1年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1983年3月、英領時代の香港が発行した“英連邦の日”の記念切手の1枚で、英領香港の旗が取り上げられています。 英連邦諸国ないしは英領植民地の旗の中には、左上にユニオンジャックを配し、右側にその国や地域の紋章などを配するパターンのものが少なからずありますが、今回ご紹介の英領香港旗もその一つでした。 英領香港の紋章(下の画像)はイングランド紋章院がデザインしたもので、1959年7月27日に採用されました。 紋章は、“HONG KONG”と表示されたリボンのある香港島にライオン(英国の象徴)と龍(チャイナの象徴)が立ち、左右から盾を支えている構図です。盾の上部には英海軍と英商船隊の象徴であるネイヴァルクラウンが、下部には帆船のジャンク2隻が描かれています。 また、盾の上には、“東洋の真珠”と呼ばれた香港にちなみ、真珠を持ったライオンが乗っていることについて、かつて、英国による植民地支配に批判的な人たちは、小さなライオン(総督)が龍(中国)から取り上げた珠(香港)を大きなライオン(英本国)に差し出していると揶揄していたそうです。 さて、1990年に制定された香港特別行政区基本法では、1997年の“返還”以降、50年間は、“一国二制度”の下、英国時代の制度を踏襲する“高度な自治”が維持される(=社会主義政策を実施しない)ことになっていました。 ところが、実際には香港に対する中国の統制は年々強化され、2014年には、2017年の香港特別行政区行政長官選挙(当初の予定では普通選挙が導入されることになっていました)に関して、民主派候補を事実上排除する制度が導入されます。これに対して学生団体を中心とする“雨傘革命”の抗議行動が展開されましたが、警察による強制排除を受けて失敗。 さらに、2019年3月以降、中国本土への容疑者引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」改正案の完全撤回を求めるデモが行え荒れるようになり、6月9日の“100万人デモ”を機に、中国および香港の両政府への抗議行動が一挙に拡大しました。香港市民の抗議行動はその後も収まらず、11月の区議会選挙は全452議席のうち、民主派が8割を超える385議席を獲得して圧勝しています。 一連の抗議行動の過程で、英領香港の旗は、一国二制度(の順守)の象徴として、また、中国の強圧的な統制に屈しないことを示すシンボルとして、しばしば民主派の一部が掲げてきました。 これに対して、昨年来の民主派の抗議行動に危機感を募らせた北京政府は、新型コロナウイルス問題で世界の関心が香港から離れている隙をついて、民主派の弾圧を本格化し、2020年4月18日には、 香港警察が民主派リーダーら15人を一斉逮捕。そして、5月28日には、ついに、中国の全国人民代表大会(全人代)は、香港で中国が“反体制的”とみなした言動を取り締まる“国家安全法制”の導入方針を採択しました。 国家安全法制は、中国が香港の治安維持に責任を有し、立法権限を持つ点を明確にしたうえで、国家安全法制の立法作業は全人代常務委が行い、香港政府は、法の制定後に公布・即日施行するとしてその手続きも定めらていますが、この間、香港立法会(議会)が審議を行う機会は与えられていません。 このため、全人代の決定は中国が香港の直接統治に乗り出し、一国二制度の原則を踏みにじるものとして、採決が行われる以前から国際社会が懸念を示していましたが、英国のボリス・ジョンソン首相は、旧宗主国として“一国二制度”の維持を求める立場から、中国が国家安全法制を施行した場合、英国は移民規則を変更し、香港人数百万人に対して「英市民権を獲得する道」を開く方針を明らかにしています。その場合、英領香港の紋章のデザインも、小さなライオン役のジョンソン首相が、龍(中国)から珠(香港人)を救い出して、大きなライオン(英本国)へと連れてくると解釈されることになるかもしれません。 なお、英領時代の香港とその歴史については、拙著『香港歴史漫郵記』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 7月4日付で、ビジネス社より、新作『みんな大好き陰謀論』が刊行の予定です。表紙デザインは現在制作中ですが、すでに、版元ドットコムのページもできているほか、アマゾンでの予約も始まりましたので、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-08 Mon 00:36
きょう(8日)は世界海洋デーです。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1957年11月7日に韓国が発行した“韓米友好通商航海条約”の記念切手で、両国の国旗と海上を進む貿易船、商業の神であるマーキュリーが描かれています。 1956年の李承晩3選前後の韓国経済は、物資不足が常態化する中でコメの凶作が発生したことで、GNP成長率が低下し、物価も急激に上昇するなど、危機的な状況にありました。そこで、大統領選挙後、李承晩は実務派経済官僚の金顕哲を復興部長官・経済調整官に任命し、抜本的な改革に着手します。 一方、米国は、長期独裁政権の主として、きわめて独善的な李承晩のことを苦々しく思っていましたが、韓国が東西冷戦の最前線に位置している以上、李承晩政権を支えていかざるを得ないのが現実でした。 このため、1956年6月、米国でも「毎年GNP3パーセントの成長を達成する支援計画は、そうしない場合に比べて総経費や期間が少なくて済む」との報告書が国家安全保障会議(NSC)に提出され、対韓支援政策の再検討が進められることになります。 報告書は、従来の対韓援助が十分な成果を上げなかった原因として、①投資部門の減少とインフレ抑制のための消費財の多量導入、②韓国政府の財政および信用政策の非合理性、の2点があると分析し、その解決のためには、韓国軍の縮小を前提に、投資計画だけでなく財政・金融,軍事援助などに関する総合計画を樹立することを建議していました。 これを踏まえ、1952年に設立されたものの、1956年7月まではほとんど休眠状態にあった韓米合同経済委員会(Combined Economic Board: CEB)が毎週開催されるようになり、その流れで、1956年11月28日には米韓友好通商条約が調印されます。 すでに、米国は1948年に台湾と、また、1953年には日本とも、それぞれ、相互に最恵国待遇の付与を定めた友好通商航海条約を締結していました。これに対して、李承晩に対する不信感を払拭しきれずにいた米国は、朝鮮戦争後の混乱もあり、韓国との友好通商航海条約を先延ばしにしていました。 一方、李承晩はこうした条約締結の遅れを逆手に取り、国民に対しては、韓国政府が多大な困難を克服して友好通商航海条約を締結したとさかんに強調します。 そもそも、ありとあらゆる権謀術数をつくしたとはいえ、李が韓国政界において独裁的な権力を保持しえた背景には、李でなければ米国からの支援が得られないとのイメージが国民の間に浸透していたという事情がありました。それだけに、李承晩としては、政権維持のためには、米国との関係強化を国民に印象づけ、米国からより多くの援助を引き出してくることが不可欠でした。韓米友好通商航海条約もまた、そのための一手段だったのです。 なお、条約は米韓両国の国内手続きを経て、1957年11月7日に発効。今回ご紹介の記念切手も、これに合わせて発行されました。 この間、CEBは、年間1億5000万ドル以上もの新規資金配分に加え、既定の資金配分および導入予定分についても変更を加え、火力発電所、ビル、橋梁、船舶、機関車ならびに貨車の導入を実現。その成果もあって、1956年に1.3パーセントだった韓国の経済成長率は、1957年には7.1パーセント、1958年には6.1パーセントと順調に推移することになります。 また、CEB財政委員会による韓国の財政安定化計画を受けて、1957年4月20日、韓国政府は税率の効率的適用と増税、競争入札による援助物資販売代金の回収を通じて歳入を増加させることを目指して、株式公売、社債発行などによる国有財産と帰属財産の払下げを断行。この方針は、1958年も維持され、1955年に80.9パーセントだったインフレ率は、急速に収束し、1958年には6.3パーセントになっています。 なお、この辺りの事情については、拙著『日韓基本条約』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 7月4日付で、ビジネス社より、新作『みんな大好き陰謀論』が刊行の予定です。表紙デザインは現在制作中ですが、すでに、版元ドットコムのページもできているほか、アマゾンでの予約も始まりましたので、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-07 Sun 03:58
台湾で、きのう(6日)、韓国瑜・高雄市長に対するリコール(解職請求)の賛否を問う住民投票が実施され、賛成票が90万票を超えてリコールが成立しました。台湾の市長がリコールで罷免されるのは韓氏が初めてです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1961年に台湾が発行した観光宣伝切手のうち、高雄のランドマークである左営区の蓮池潭を取り上げた1枚です。 蓮池潭はもともと“蓮花潭”と呼ばれていた湖で、72ヘクタールの広さがありましたが、清代の1686年に池の一部を埋め立てて湖畔に孔子廟を建立し、池を廟宇の泮水として蓮を植えたため、現在のように“蓮池潭”と呼ばれるようになりました。なお、その後も、環潭道路の建設のために埋め立てられため、現在の池の面積は42ヘクタールになっています。 切手の左側に見えるのは、1953年に建てられた4階建ての二つの楼閣、春秋閣(春閣と秋閣、それぞれ4階建て)で、“武聖關公(関羽)”が祀られています。また、画面中央には、半分は急な斜面、半分は緩やかな斜面という独特の形をした“半屏山”が描かれています。 なお、現在、蓮池潭には、高雄のランドマークとなっている龍虎塔(1974年建立)や、高さ72メートルの玄天上帝像(1995年建立)などがありますが、いずれも、今回ご紹介の切手が発行された時点では存在しておらず、切手にも描かれていません。参考までに、2008年に現地を訪れた際に撮影した龍虎塔と玄天上帝像の写真も下に貼っておきます。 さて、今回のリコールが成立した韓市長は、1957年、台北県(現新北市)中和区生まれ。台北農産運銷公司総経理(台北市青果市場社長)、台北県議員、立法委員(国会議員)などを歴任した後、2018年11月、民進党の牙城と目されていた南部・高雄市の市長選に出馬し初当選を果たしました。国民党の親中派として知られ、2019年3月18日には、中国製品の加工貿易を念頭に、国民党が立法院に提出した「自由貿易経済特区条例」草案を支持する声明を他の国民党系県市長と共同で発表しています。 ところで、韓市長は、就任当初、2020年の次期総統選には不出馬せず、市長としての任期を全うすると公約していましたが、熱心な支持者に押されるかたちで、当選からわずか半年後の2019年6月8日、国民党の公認候補を決める予備選挙への立候補を正式に表明。7月15日の予備選挙では“庶民総統”を掲げ、国民党の候補指名を獲得しました。 この間、6月9日には、高雄市内で端午節のイベントに出席後、香港で発生した反送中デモに対する見解を求められた際に「よく知らない」と答えたことで批判を浴びたほか、6月30日にデング熱発症者が市内で確認された際にも市政府の初動の遅れが批判を受けていました。 さらに、多発する市内の豪雨水害の発生直後に20時間ほど消息不明となったことで『神隠少女(日本のアニメ映画:千と千尋の神隠し)』と揶揄されるなど、市民からは、総統選不出馬の公約違反や失政の責任を問う声が上がるようになり、昨年6月末以降、一部では罷免のための署名運動が行われていました。 こうした状況の下、2019年9月24日、市議会で定時閉会が可決されます。高雄市以外にも議会の定時閉会を定めている自治体はありますが、その場合でも、質疑順序についての抽選は実施するものの、質疑の人数を制限することは行われていません。ところが、高雄市では、市議会の定時(18時)閉会を目指す一環として、定数66に対して質疑に参加できる議員を2割以下の12人に限定したため、議会が猛反発。翌25日には、議員の権益を侵害しているとして行政法院への提訴に踏み切っています。 このほかにも、国籍や性別をめぐる差別的な失言を繰り返していたこともあり、1月の総統選挙では再選を目指す蔡英文総統に惨敗。その後、市長に復職していましたが、香港問題やウイルス問題などの反中世論の高まりの中で、今回のリコール成立となりました。 今後、台湾の公職人員選挙罷免法に基づき、正式な結果は投票終了後7日以内に選挙委員会によって公表されることになっており、韓氏は遅くとも12日までには市長職を解かれる見通しです。また、市長の“補欠選挙”は9月12日までに実施され、市長が決まるまでは行政院(内閣)から派遣される人が市長代理を務めることになっています。 ちなみに、高雄の地名は、平埔族マカタオ族の言語で“竹林”を意味する集落“タアカウ社”がその起源で、もともと、漢字では“打狗(台湾語の発音はTáⁿ-káu, ターカウ)”と表記されていました。しかし、日本統治時代の1895年、“打狗”という文字が卑俗であるとして、台湾総督府が、内地の地名の中から、発音の近い“高雄”を選んで改称したという経緯があります。今回は、その原点に帰って、“中国の狗”とみなされた市長が打ちのめされたということになるんでしょうかね。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 7月4日付で、ビジネス社より、新作『みんな大好き陰謀論』が刊行の予定です。表紙デザインは現在制作中ですが、すでに、版元ドットコムのページもできているほか、アマゾンでの予約も始まりましたので、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-06 Sat 02:30
第一次大戦後、オーストリアからのハンガリーの独立を認める一方、旧ハンガリー領からスロヴァキア・クロアティア・トランシルヴァニアなどを分離したトリアノン条約の調印(1920年6月4日)から100周年を迎えたハンガリーで、全く無関係の日本の国会中継の映に「我々日本人同様に、ハンガリーの兄弟は勝者に強奪された」などとする虚偽の字幕を付けた動画が拡散され、問題になっています。(下の画像は、安倍首相の発言に「私たちは歴史の戦いで彼らを支持します」とのハンガリー語の字幕がつけられた箇所のスクリーンショットです)
というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます) これは、2001年にハンガリーが発行した新千年紀の切手シートで、中欧の地図を背景に、“聖イシュトヴァーンの王冠(もともとはハンガリー王の王権の象徴で、現在でもハンガリー国家の象徴)”が描かれています。背景の地図には、ビホル(ビハル)、アラド、ティミシュなど、現在はルーマニア領となっている地名も見られ、ハンガリー国家の本来あるべき領土が“聖イシュトヴァーンの王冠の地”であるかのような印象を見る者に与えるものとなっています。 聖イシュトバーンの王冠は、宝珠・笏・マントとともに、12世紀以降、歴代のハンガリー王が戴冠の際に引き継いできたもので、ハンガリー王の王権の象徴とされてきました。この王冠を戴く王の支配は、現在のハンガリー、スロヴァキア、カルパトウクライナ、バナト、ヴォイヴォディナ(現セルビア領)、ブルゲンラント(現オーストリア領)、トランシルヴァニア(現ルーマニア北西部)、中央クロアチア、スラヴォニア(現クロアチア領)およびフィウメ(現クロアチア領リエカ)等に及ぶとされ、これら“聖イシュトヴァーンの王冠の地”がいわゆる大ハンガリーとなります。 第一次大戦でのオーストリア=ハンガリー二重帝国の敗北が避けられなくなった1918年10月28日、チェコスロヴァキアが分離独立を宣言すると、10月31日にはブダペストでも暴動が発生し、11月16日にハンガリー第一共和国が樹立されました。 その後、1919年3月20日に共産主義者らがハンガリー・ソヴィエト共和国の成立を宣言し、第一共和国は崩壊しましたが、フランスの支援を受けたルーマニア軍の干渉や、ホルティ・ミクローシュひきいる国民軍の蜂起によって8月6日にはソヴィエト共和国も崩壊。国民軍は、旧帝国の皇族、オーストリア大公ヨーゼフ・アウグストを国王として擁立します。 しかし、ハプスブルク帝国の復活を怖れる戦勝国側は、1919年のサンジェルマン条約でハンガリーのオーストリアからの分離独立を承認する一方、大公を国王として擁立することに強硬に反対。10月23日、大公は暫定的な王位から退位。翌1920年6月4日、ハンガリーと戦勝国の講和条約としてトリアノン条約が締結されました。 同条約によりハンガリーは主権を回復しましたが、周辺諸国に領土の3分の2を割譲しました。これに対して、ハンガリー側は、同年3月1日、ハンガリー国民議会(共和国議会から改称)は、二重帝国時代の領土の正統性を主張するため、“聖イシュトヴァーンの王冠の地”を統治する権利を有する国として、“ハンガリー王国”の成立を宣言します。ただし、同国は国王が空位の“国王なき王国”でした。 当然のことながら、トリアノン条約による領土の喪失に対してハンガリー人の不満は強く、1930年代、世界恐慌の中で、ヴェルサイユ体制の打破を唱えるナチス・ドイツがいち早く経済危機を脱して国力を充実させると、ハンガリーは領土回復のための共闘をめざしてドイツに接近。1940年11月、日独伊三国同盟に加盟して枢軸国の一員となり、第二次世界大戦に参戦しましたが、結局、敗戦国となり、ハンガリー王国は崩壊して“聖イシュトヴァーンの王冠の地”回復の悲願は達せられませんでした。 第二次大戦後の共産党独裁体制の下では、“聖イシュトヴァーンの王冠の地”の回復を目指す大ハンガリー主義は封じ込められていましたが、その後も、大ハンガリー主義に共感する国民感情が完全に払拭されたわけではありませんでした。 こうした背景の下、2010年に発足した第二次オルバーン政権は、2011年に憲法改正を行い、新たに「ハンガリー政府は国境を越えてハンガリー系住民の運命に責任を持たなければならない」と規定。ウクライナ西部などに住むハンガリー系住民への援助と市民権・選挙権付与を行い、国内での民族主義を鼓舞して政権への支持を高めてきました。じっさい、今年に入ってからピューリサーチセンターが行った国際世論調査では、「本当は自分たちの領土なのに隣国の一部になっている」土地があるかとの質問にイエスと答えたハンガリー人は67%にも上っています。 もちろん、現在のハンガリー政府が、大ハンガリー主義実現のため、周辺諸国に武力侵攻を行う可能性は限りなくゼロに近いでしょうが、現在のオルバーン政権の民族主義的な傾向が隣国ウクライナなどとの軋轢を招いていることも事実です。 今回のフェイク動画がハンガリー国内で急速に拡散している背景にもこうした事情があるわけですが、日本政府としても、きちんと対応しておかないと、後々厄介なことになりはしないか、ちょっと心配です。 * 昨日(5日)の文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」の僕の出番は、無事、終了いたしました。お聞きいただきました皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。なお、次回の出演は6月26日の予定(仮)ですので、引き続き、よろしくお願いします。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 7月4日付で、ビジネス社より、新作『みんな大好き陰謀論』が刊行の予定です。表紙デザインは現在制作中ですが、すでに、版元ドットコムのページもできているほか、アマゾンでの予約も始まりましたので、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-05 Fri 01:10
内戦状態が続くリビアで、トルコの支援を受けたシラージュ暫定政権が、きのう(4日)、首都トリポリの奪還を宣言しました。というわけで、トリポリ関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、英国の“中東軍”を意味する“M.E.F(=Middle East Forces)”加刷切手のトリポリでの使用例です。 第二次大戦以前、現在のリビアの地域はイタリアの支配下にありました。 1940年6月10日、英仏に宣戦を布告し、第二次大戦に参戦したイタリアは、同年9月13日、エジプト侵攻を開始。いわゆる北アフリカ戦線が開かれます。 しかし、コンパス作戦を発動し、エジプト方面から迫る英軍に対しイタリア軍は敗北。その後、援軍として到着したエルヴィン・ロンメルが指揮するドイツアフリカ軍団によって、一時は連合軍を押し戻したものの、1942年7月1-31日および同年10月23日-11月3日の2次にわたるエル・アラメインの戦いで英連邦諸国軍に敗北し、アフリカにおける連合国の優位が確定。翌1943年5月13日に北アフリカの枢軸国軍は降伏し、リビアを含めた北アフリカは完全に連合国軍へ占領されました。 今回ご紹介のM.E.F加刷切手は、こうした状況の下で1942年に導入され、1948年まで、旧イタリア領のトリポリタニア(今回の使用例のトリポリが含まれるリビア北西部)のみならず、キレナイカやエリトリア、エチオピア、ソマリア、さらにはドデカネーゼ諸島などで共通して使用されました。 さて、リビアでは、2011年にカダフィ政権が崩壊した後、いったんは新政権が成立したものの、2014年に西(トリポリ)と東(トブルク)に分裂。このため、国連主導で2015年に国民統一政府が樹立され、シラージュ暫定首相が就任したものの、東部を拠点に武装組織のリビア国民軍を率いるハフタルが同政府を拒否し、分裂状態に陥っています。 なお、ハフタルはイスラム原理主義勢力と距離を置いていた旧カダフィ独裁政権の軍高官で、イスラム過激派の排除を掲げており、サウジやエジプト、アラブ首長国連邦(UAE)、ロシア等が支援していますが、国連が支援してきたシラージュ暫定政権はイスラム勢力と近く、サウジと対立するカタールやトルコなどが後ろ盾となってきました。 特に、トルコは、旧オスマン帝国時代にリビアを支配してきたという歴史的経緯に加え、欧州向けのガス・パイプラインに関して沿岸国の計画から排除されてきたこともあり、東地中海の対岸にあるリビアの排他的経済水域(EEZ)と自国のEEZを合わせて、このパイプラインの敷設予定ルートをふさぐためにも、シラージュ暫定政府との協力が不可欠という事情があります。さらに、リビアの石油利権をめぐっては、フランスが東部の油田地帯に権益を持つことからハフタルを支援。一方、旧宗主国のイタリアは、自国の油田の利権を確保すべく、暫定政権を支援しており、そのことが、さらに内戦を複雑化させてきました。 こうした状況の下、2019年春、ハフタルのリビア国民軍はトリポリに向けて進撃を開始したものの、トリポリのシラージュ暫定政権側の抵抗に遭い、戦局は膠着。そこで、プーチン露大統領の側近が率いる民間軍事会社“ワグナー・グループ”が、兵器や戦車、無人機などをリビアに搬入して現地で活動。リビア国民軍の無人機による攻撃も増加していました。 これに対して、暫定政府側は、2019年11月、トルコとの間で、トルコが暫定政府の部隊に訓練や武器を提供するほか、共同軍事計画に関して助言したり、人員を派遣したりすることなども定めた軍事協力の覚書に合意。翌12月、エルドアン大統領も、暫定政権側から正式な要請が来たとして、国会の承認をへて軍事支援を拡大するとの方針を明らかにしたため、今月(2020年1月)に入ってから、暫定政権側の要請を受けるというかたちで、トルコ議会はリビアへの派兵を決定。今回の首都奪還に至ったというわけです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 6月5日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-04 Thu 03:02
1970年6月4日にトンガが英連邦内の独立国となってから、ちょうど50年になりました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1886年8月27日に発行されたトンガ最初の切手のうちの1シリング切手です。 トンガにおける郵便は、1826年に来島したメソジストの宣教師たちがロンドンおよびシドニーとの間で通信のやり取りを行ったのが最初とされています。 当時、トンガは3つに分かれていましたが、タウファアフ・トゥポウ王は1831年に洗礼を受け、ジョージ・トゥポウと改名。1845年にジョージ・トゥポウ1世として即位し、メソジストを広げる“聖戦”を展開して、1852年に全トンガを平定しました。その際、カトリックを含む非メソジストの住民に改宗を強制したため、現在でも、トンガではメソジストが国民の多数派を占めています。 国王は、メソジストの牧師であるシャーリー・ベイカーを王国顧問として近代化政策を進め、1875年にはハワイ憲法とニュージーランド憲法を参考にした新憲法を導入します。これは、わが国の大日本帝国憲法よりも早く、現在でも、当時の憲法を改訂したものが使われています。 ところで、1857年以降、ドイツはサモアを拠点に南洋各地との貿易を行っていましたが、1876年、ドイツがトンガに艦隊を派遣し、友好条約の締結を要求。このため、トンガはドイツに石炭貯蔵設備の利用権を与えると、ドイツの進出を恐れた英国は、1879年、トンガと同様の条約を締結しました。 これに対して、王国顧問のベイカーはトンガの国益を理由に英国との条約に反対したため、英国はメソジスト教会に圧力をかけ、1880年、ベイカーをオーストラリアに召還させました。ところが、これを不服とするベイカーは、あろうことか、ドイツの軍艦でトンガに帰国。すると、トゥポウ1世はベイカーを首相、外相に任命し、トンガに有利な法律の改正を進め、英国を牽制しました。 このため、トンガへのドイツの進出を阻止するためにも、1885年、英国はトンガに西洋式の郵便局を開設し、フィジー切手を持ち込んで使用を開始しました。これに対して、翌1886年、トンガとして独自に発行されたのが今回ご紹介の切手です。なお、切手の製造は、ニュージーランド・ウェリントンの政府印刷局で行われました。 1893年2月18日にトゥポウ1世が崩御すると、後継のトゥポウ2世は、1900年に英国と友好条約を結び、外交権を放棄してトンガは保護領となります。ただし、その後も、内政の自治は保証されていたため、オセアニアとしては唯一植民地にならず、潜在主権、内政自治権を維持し続けたというのがトンガ人の理解です。 第二次大戦後の1958年、トンガは英国との条約によって自治を確立。さらに、1968年の条約により、保護領として留まりながら、さらに権利が拡大し、1970年6月4日に英連邦内で独立。現在に至っています。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 6月5日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-03 Wed 00:51
ご報告がすっかり遅くなりましたが、『本のメルマガ』第751号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、1961年のヴェネラ1号(1957年のスプートニク1号から通算するとスプートニク8号)について取り上げました。その記事の中から、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1961年4月26日にソ連がが発行したヴェネラ1号打ち上げの記念切手のうち、地球の周回軌道から金星へ向かう探査機を取り上げた1枚です。 1960年8月19日にスプートニク5号(コラブリ・スプートニク2号)が打ち上げられた後、同年12月1日に打ち上げられたスプートニク6号(コラブリ・スプートニク3号)には、プチョールカとムーシュカの2匹の宇宙犬と植物や昆虫が乗せられていましたが、誘導の失敗により、12月2日の大気圏再突入に失敗して衛星は分解。全ての生き物が死んでしまいました。 年が明けて1961年2月4日、金星探査を目指して、スプートニク7号がバイコヌール宇宙基地からモルニヤロケットにより打ち上げられます。 ガリレオ・ガリレイが金星の満ち欠けを発見して以来、多くの天文学者が金星を観測し、「地表に模様が見えた」、「大陸がある」などの報告が蓄積されていました。最終的に、金星の自転周期は約243日であることが明らかになりますが、天文学者たちは模様の変化を観測して自転周期は地球とほぼ同じ約24時間と推測する時間が長らく続いていました。 また、19世紀後半に発達したスペクトル分析法は、初期の段階では赤外線波長までカバーできなかったため、二酸化炭素の存在が見落とされ、金星の環境は地球の熱帯地方に近いのではないかと考える人も多数ありました。ちなみに、1932年には金星大気のスペクトルは赤外線域まで観測され、専門家の間では、金星の大気には二酸化炭素が多く含まれていることが認識されていましたが、金星と地球を“双子”とみなす俗説はなかなか解消されませんでした。 ソ連が金星探査を目指したのもこうした事情があったためで、他の惑星大気圏への探査機の投入、惑星表面への軟着陸、惑星表面からの映像転送、高解像度レーダーによる惑星表面の地図の作成などが可能と考えられたからです。 スプートニク7号は1960年に打ち上げに失敗したM1型火星探査機(マルスニク1号・2号)を流用した設計で、探査機本体は半球と円筒を組み合わせた形状となっており、質量は645kg。観測装置として磁力計、垂直速度計、荷電粒子モニターが搭載され、金星大気に突入しながら調査する計画でそした。 打ち上げ後のスプートニク7号は、ロケット第4段と結合した状態で地球を1周したところで金星遷移軌道に移動するためにエンジンを点火する予定でしたが、失敗。地球周回軌道にとどまった後、22日後の2月26日に大気圏に突入します。なお、スプートニク7号はロケットが結合したまま、質量6843kgの巨大な物体として地球を周回していたため、西側世界では、失敗した有人宇宙船だという憶測が広まりました。 次いで、2月12日、西側諸国でスプートニク8号と呼ばれた金星探査機、ヴェネラ1号が打ちあげられました。 ヴェネラ1号はスプートニク7号とほぼ同型で質量は643.5㎏。今回は、探査機と4段目ロケットを待機軌道に乗せたうえ、そこから4段目ロケットを点火して金星に向かうことに成功し、地球から190万km離れた地点において行われた3回のテレメトリー送信により、太陽風と宇宙線データを送信しています。これにより、ルナ2号で発見された太陽風によるプラズマが深宇宙にまで及んでいる事が確認されました。 人類で初めて他の惑星に探査機を飛ばすことに成功したことを受けて、1961年4月26日、ソ連は1961年2月12日の日付を入れた記念切手を2種セットで発行。そのうちの1枚が、今回ご紹介の切手です。 ただし、この間の4月12日、ソ連はガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行に成功し、そのインパクトがあまりにも強烈だったため、ヴェネラ1号の快挙もかすんでしまうことになります。 なお、金星に向かって宇宙空間を進んでいた探査機は、5月19‐20日、ヴェネラ1号が金星の10万km以内に接近し、太陽周回軌道に入りましたが、おそらく、太陽方向センサーが過熱したために故障し、送信は行われませんでした。 * 昨日(2日)、アクセスカウンターが219万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 6月5日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-02 Tue 03:32
先月25日(以下、日付などは現地時間)、米ミネソタ州ミネアポリスで詐欺容疑で拘束された黒人男性が、拘束時に警官に膝で首を押さえつけられたことが原因で死亡した事件を巡り、全米に抗議行動が拡大して暴動にエスカレートし、過激化している問題で、トランプ大統領は、31日、反ファシズムを標榜する極左過激派の“アンティファ(Antifa)”が平和的なデモを乗っ取り暴力化させているとして、アンティファを“テロ組織”に指定する意向を示しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、スペイン内戦中の1937年、共和国派の支配下にあったメノルカ島のヴィラカルロス(現エスカステル)で作られた“反ファシスト委員会”のラベル(義捐証紙)で、反ファシストを意味する“ANTIFASCISTA”の文字もしっかり入っています。 1936年7月に始まったスペイン内戦では、共和国側とフランコ側がそれぞれ独自の切手を発行し、支配地域で使用させていましたが、それとは別に、戦闘資金を集めるためのローカル切手(戦時税切手)やラベルが各地で独自に発行され、郵便物にも貼られることがありました。 共和国政府の郵政は、こうしたローカル・ラベルの発行を表向きには認めていませんでしたし、それを“戦時税切手”のようなかたちで強制的に郵便物に貼らせるということもなかったのですが、実際には、カタルーニャ地方を中心に、各地で戦意高揚と資金集めを兼ねたローカル・ラベルが盛んに発行されました。 今回ご紹介のラベルが発行されたヴィラカルロスは、西地中海のバレアス諸島北東部、メノルカ島の東部にあります。スペイン内戦時には、バレアス諸島の他の島は早い時期からフランコ側が制圧していましたが、メノルカ島は共和国側が内戦末期の1939年まで維持し続けていました。 さて、もともと、“アンティ・ファシスト(ファシズム)”は、イタリアのベニート・ムッソリーニ体制に対する反対運動を意味していましたが、第二次大戦の時代を通じて、イタリアのファシスト党やドイツのナチスなど、主として枢軸側の独裁国家への反政府活動を指す総称となりました。今回ご紹介のラベルを発行した反フランコ陣営もそのひとつです。 なお、ファシズムを「政府や議会よりも政権党の意思決定が優先される一党独裁体制」と定義するなら、旧ソ連をはじめとする共産主義諸国もファシスト国家に他ならず、反共の立場から彼らに抵抗した人々も“反ファシスト”となるはずなのですが、現実には、“反ファシスト”を名乗っているのは、労働組合の活動家、社会主義者、無政府主義者、共産主義者などの左派勢力にほぼ限定されています。 現在、“アンティファ”を称する諸組織の源流は、1970-80年代、欧米で人種差別的な白人至上主義に対するカウンターとして生じたものと見れています。特に、東西冷戦終結後、ドイツのネオナチなど極右の勃興に対するカウンターとして“アンティファ”も勢力を拡大。米国では左派系のパンクたちがその流れに追従し、人種差別との戦いを標榜する“反差別主義行動(ARA:Anti-Racism Action)”を構成するようになりました。 1990年代に入ると、ARAは「彼らが行くところに我々も行く」と称して、白人至上主義団体への妨害行動を主な活動とするようになり、次第に過激化。黒いマスクや服装などに身を包み、ポリティカル・コレクトネスの観点から“差別”との批判を受けると反論しづらい米国社会の風潮を悪用し、攻撃対象を恣意的に“人種差別”、“極右”、“ファシズム”と認定したうえで、敵に対する暴力は正当化されうるなどとして、国際会合の会場周辺などで警官隊を襲撃したり、車両や商店を焼き打ちしたりするなどをの乱暴狼藉をくりかえしてきました。 特に、2017年にはヴァージニア州シャーロッツビルで、南北戦争時の南軍指導者、ロバート・E・リー将軍の銅像の撤去問題を巡り、撤去反対派は白人至上主義者であると決めつけ(たしかに、KKKなども抗議行動を行っていましたが)、反対派を暴力的に襲撃し、死亡者が出たことで、一躍その存在が広く知られるようになります。そして、その結果、一般の米国市民の間では、アンティファは反社会的な“極左暴力集団”とのだという認識が広がっていました。 アンティファには統一的な組織があるわけではなく、複数のグループが緩やかに結合して暴力集団を構成しているうえ、明確なリーダーの存在も確認されていないため、テロ組織として根絶することは困難という事情もありましたが、現在、全米各地で起きている暴動でも、黒装束のアンティファが破壊と暴力を繰り返しているようすが多くの映像で確認されており、ホワイトハウス周辺にも彼らの攻撃が及んできて、大統領本人も地下壕への一時避難を余儀なくされたことから、ようやく、米政府もテロ集団の撲滅に向けて重い腰を上げた格好です。 反ファシズムや反差別を語る卑劣なテロリスト集団には、ぜひとも、断固たる措置を取っていただきたいものです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 6月5日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-01 Mon 00:26
おかげさまで、2005年6月1日にこのブログをスタートさせてから、ちょうど15周年になりました。日頃、このブログを応援していただいている皆様には、あらためて、お礼申し上げます。 というわけで、最新の拙著『日韓基本条約』にちなみ、朴正煕政権下で発行された“15周年”の切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1963年8月15日に韓国が発行した“政府樹立15周年”の記念切手で、木槿と太極をバックに、3色のリボンで作られた“15”の文字が描かれています。 日本の敗戦後、連合国軍最高司令官一般命令第1号により、朝鮮半島は北緯38度を境界として、南朝鮮を米国が、北朝鮮をソ連が分割占領しました。当初、これはあくまでも暫定的な措置とされていましたが、1945年12月に発表された「5年間を限度とする信託統治の後、南北統一の政府を樹立する」というモスクワ協定のプランは、南朝鮮での激しい反発や東西冷戦の進行により、実現が困難になっていきます。 米ソ間の調整が難航する中、米国は自力での問題解決をあきらめ、1947年9月17日、朝鮮問題を第2回国連総会に上程。国連臨時朝鮮委員会を設置し、1948年3月末までに、同委員会の監視下に総選挙を実施するとの決議を採択させます。 しかし、すでに北朝鮮のソヴィエト化をほぼ完成させていたソ連は、朝鮮半島からの米ソ両軍の同時撤兵を主張。選挙監視のために国連委員会が北緯38度線以北に立ち入ることを拒絶しました。このため、1948年2月、国連総会中間委員会は、“選挙の可能な地域”、すなわち南朝鮮での単独選挙を決議。こうして、同年5月10日、米軍政下の南朝鮮で第1回総選挙が実施されました。 この選挙結果を受けて、5月31日、憲法制定を最大の目的とする国会が開院(議長:李承晩)。6月10日には国会の組織・運営方法等を正式に定めた南朝鮮国会法を制定し、同25日には国連の臨時朝鮮委員会も正式に南朝鮮国会の成立を認定します。そして、7月17日の憲法制定を経て、24日には李承晩が大韓民国の初代大統領に就任。8月15日の解放3周年にあわせて、大韓民国政府が正式に樹立され、翌16日午前零時をもって米軍による南朝鮮の軍政は解消されました。 今回ご紹介の切手は、ここから起算して15周年になるのを記念して発行されたものですが、このあたりの事情については、拙著『朝鮮戦争』もあわせてご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 6月5日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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