2021-01-12 Tue 03:10
今月6日(現地時間。以下同)に発生した米連邦議会への暴徒乱入事件に関して、10日、俳優で米カリフォルニア州知事も務めたアーノルド・シュワルツェネッガー氏が、1938年にナチス・ドイツの扇動で起きた大規模なユダヤ人迫害事件“水晶の夜”になぞらえて批判する動画を公開し、話題になっています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1988年11月9日にイスラエルが発行した“水晶の夜50周年”の記念切手です。 1933年1月30日、反ユダヤ主義を掲げて政権を獲得したヒトラーとナチス(国家社会主義労働者党)は、当初から、ユダヤ系ドイツ人を迫害しており、1935年9月15日には、いわゆる“ニュルンベルク法(具体的には「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」と「帝国市民法」)を制定し、4人の祖父母のうち1人でもユダヤ人がいる者を“ユダヤ人”と規定。ユダヤ系の市民を、“完全ユダヤ人”から“第2級混血ドイツ人”までに3分類したうえで、“完全ユダヤ人(4人の祖父母のうち3人以上がユダヤ人、同2人以上がユダヤ人で、本人がユダヤ教徒、ユダヤ人と結婚している者、ドイツ人とユダヤ人の間に生まれた者)” の公民権を剥奪しました。 ただし、この規定は、あくまでもドイツ国籍を持つユダヤ系住民を対象としたもので、ドイツ国内に居住する外国籍のユダヤ人に対しては、さすがのナチス・ドイツも在住外国人としての権利が認めざるを得ません。こうした状況の下で、ドイツ在住のユダヤ系外国人のうち、大きな勢力となっていたのがポーランド国籍の保有者でした。 現在のポーランド国家は、国民の90%以上がポーランド人(カシュープ人やグラル人を含む)によって構成されており、事実上の単一民族国家となっていますが、これは、第二次世界大戦末期のポツダム会談の結果、領土全体が地理的に西側へ移動したことによるもので、第一次大戦後にポーランド第2共和国が発足した時点の民族構成では、ウクライナ人14.3%、ユダヤ人10.5%、ベラルーシ人3.9%、ドイツ人3.9%などと、少数民族が人口の約3割を占める多民族国家でした。こうした中で、(狭義の)ポーランド人の間には反ユダヤ主義の風潮が根強く、1936-37年にはポーランド各地で流血を伴う反ユダヤ暴動が発生しています。 このため、ポーランド政府は国内のユダヤ人口を減少させることが問題の解決になると考えるようになり、ユダヤ人の国外移住を“奨励”。その結果、隣国であるドイツ国内には、ポーランド国籍のユダヤ人が多数居住するという状況になっていましたが、ナチスによるユダヤ人迫害が激しさを増すにつれ、ユダヤ系ポーランド人の中にはポーランドに帰国する者も急増します。 これに対して、上述のような事情から、ユダヤ系国民の帰還を望んでいなかったポーランド政府は、1938年10月6日、ポーランド政府は、発行済みの全てのポーランド旅券に、あらためて検査済みの認印を押さなければならないとする新旅券法を布告。同法の施行により、ドイツをはじめ国外在住のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍を無効化しようとします。 一方、当時のナチス・ドイツは、みずからの支配地域からユダヤ人を追放することを政策として掲げていたため、ポーランドの新旅券法が施行される10月30日以前に彼らをポーランドに強制送還すべく、10月28日、警察組織を動員して、ユダヤ系ポーランド人1万7000人をポーランドとの国境地帯に移送します。ところが、ポーランド側は国境を閉鎖して、“ポーランド国民”であったはずのユダヤ人の受け入れを拒否します。 こうして、国境地帯でユダヤ系ポーランド人が事実上の難民生活を余儀なくされる中、彼らの一人であったセンデル・グリュンシュパンが、パリ在住の息子、ヘルシェルに惨状を訴えました。ヘルシェルはドイツに対する怒りから、ドイツ大使館員を暗殺することで世界にユダヤ人の惨状を訴えることを企図し、11月7日、駐仏ドイツ大使館の三等書記官エルンスト・フォム・ラートを射殺します。 この事件をきっかけに、11月9日から10日にかけて、ドイツ各地(併合後まもないオーストリア、ズデーテン地方を含む)で大規模な反ユダヤ暴動(官製暴動である疑いが極めて濃厚)が発生。フランスとの国境に近いドイツ西部を中心に、177のシナゴーグと7500のユダヤ人商店や企業が破壊され、91人のユダヤ人が殺害されました。 これが、いわゆる“水晶の夜”です。 ちなみに、“水晶の夜”という名称は、破壊されたガラスが月明かりに照らされて水晶のようにきらめいていたとしてゲッベルスが命名したものですが、その由来となったガラス被害だけで、ユダヤ人の損害額は600万ライヒスマルクに及んでいます。 一連の事件を通じて、被害者であるはずのユダヤ人3万人が警察に逮捕され、彼らを収容するためにダッハウ、ブーヘンヴァルト、ザクセンハウゼンの各収容所は拡張されたほか、各種の法令により、ユダヤ人の人権は次々に剥奪され、12月以降、ユダヤ人は公の場から事実上追放されてしまいました。この結果、多くのユダヤ人がドイツを脱出して国外へ亡命しようとしますが、実際には、彼らの多くは各地の港をたらいまわしにされたうえ、最終的にヨーロッパへと戻らざるを得ませんでした。そうした状況の下、1939年9月には第二次大戦が勃発し、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺が本格的にスタートすることになるのです。 さて、今回の暴徒乱入事件が米国の民主主義にとって大きな傷となったことは紛れもない事実であり、第二次大戦直後の1947年7月、戦争で荒廃したオーストリア・グラーツ近郊で生まれ、ナチスに加担した罪悪感を酒で紛らわそうとする大人に囲まれて育った体験から、シュワルツェネッガー氏が、“ナチスの嘘”に扇動された暴力の連鎖が第二次大戦の悲劇につながったことをふまえ、“トランプの嘘”に扇動された暴力よって米国の民主主義が破壊されてはならないと訴えるのは、心情的には十分に理解できます。 ただし、上述の通り、水晶の夜がユダヤ人という特定の民族を標的にした人種犯罪であり、官製暴動の疑いが濃厚であるだけでなく、事件後は、ドイツ警察が無辜のユダヤ人を大量に逮捕するなど、国家ぐるみの犯行であったのに対して、連邦議会への暴徒乱入は特定の民族を攻撃したわけではありませんし、ましてや、連邦政府が犯行を支援したり、暴力の被害者が処罰されることもありませんでしたから、ふたつの事件はその本質において全く次元の異なるのものとみるのが妥当でしょう。 誤解のないように言っておきますが、僕は、連邦議会への暴徒乱入事件に関与した容疑者に対しては厳正な処罰を下すべきだと考えています。ただし、現在の政府・政治家を批判する際に、ナチス・ドイツの先例を安易に持ち出してしまうと、かえって、ことの本質を分かりづらくし、批判対象に対する正確な理解を歪めてしまうのではないかとの懸念は、どうしてもぬぐえませんが…。 なお、“水晶の夜”については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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