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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 臺灣鐡路節
2017-06-09 Fri 22:24
 きょう(9日)は、1887年6月9日、台北・大稲埕(現台北市大同区)で台湾初となる鉄道の起工が宣言されたことを記念し、台湾では鉄路節(鉄道記念日)です。ことしは130周年の節目の年ということで、現地では各種の記念イベントも取り上げられているということなので、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      台湾龍馬票(鉄道:台北-錫口)

 これは、不発行に終わった台湾龍馬票に加刷して鉄道の乗車券として転用したものです。

 清朝政府が通商ならびに国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになったのは1870年代以降のことで、それまでは、台湾は福建省に属する辺境の地という程度にしか認識されていませんでした

 1884年、ヴェトナムの宗主権をめぐって清仏戦争が勃発するとフランス軍は台湾に進攻。清朝側は劉銘傳を督台湾軍務に任命して抗戦しましたが、台湾は一時的にフランス軍に占領されてしまいます。このため、清仏戦争終結後の1885年、清朝は、台湾の防備体制を改めて台湾を省に昇格させ、劉銘傳を主任台湾巡撫に任じてフランス軍と戦い、台湾島の実効支配を回復しました。

 巡撫に任じられた劉は台湾の経済開発に乗り出します。赴任後の1887年に上奏して台湾での鉄道敷設の必要性を訴え、勅許を得て同年6月9日、基隆から台北を経て新竹に至る区間で狭軌(1067mm)の鉄道建設工事が始まります。また、1886年には招商局(後の台湾商務局)を設立して近代海運制度を導入したほか、道路網の整備、電信事業の創業なども行いました。

 こうした近代化改革の一環として、従来の駅逓(政府の公文書を扱う機関)は、台湾郵政総局に改編され、1888年3月から切手を用いた近代郵便制度も実施されることになりました。

 当時、台湾には、淡水、台南、高雄の3ヵ所に海関の郵便部が置かれていましたが、海関の郵便部は主に在留外国人が中国本土ないしは外国宛に差し出す郵便物を扱うだけで、台湾島内の郵便には無関心でした。また、切手は使用されず、郵便物には料金を収納したことを示す印が押されるのみでした。

 これに対して、劉銘傳は、西洋諸国に倣って独自の切手を発行し、公用便と民間便を併せて扱う近代郵便制度の創業を目指し、台湾全島に站(郵便局に相当)を設け、郵便網の整備を企画します。もっとも、站は、記録によれば、43ヶ所存在したことになっていますが、その全てについて、実際に活動が行われていたことが確認されているわけではありません。

 さて、近代郵便の発足に伴い、劉は切手の発行を計画します。当初の切手は、現地製の用紙に木版・手刷でつくられたものでしたが、後に、ロンドンのブラッドバリー・ウィルキンソン社に本格的な切手の製造が発注されています。発注された切手は30.5×32ミリの凹版印刷で、中央上部には皇帝の象徴である龍が、その下には交通・通信を象徴する馬が、それぞれ描かれています。また、右側には「大清臺灣郵政局」の文字が、上下には欧文で“FROMOSA CHINA”と記されており、このことから、“大清台湾郵政局龍馬票”(以下、龍馬票)と呼ばれています。

 もっとも、龍馬票は、1888年6月から発行・使用される予定でしたが、台湾郵政局側が事前に清朝中央政府の許諾を取っていなかったため、発行直前になって「中央の龍が人間の顔に似ており、皇帝の権威の象徴としてのイメージを損なう」とのクレームがつけられ、実際には切手として発行されないままに終わってしまいました。

 一方、1887年6月9日に着工された鉄道は、1888年7月、台北駅(大稲埕) - 錫口(現松山)間が開通。同年秋には水返却(現汐止)まで路線が延伸されます。これに伴い、鉄道の乗車券を調達しなければならなくなったことから、不発行の龍馬票が乗車券の用紙として流用され、地名や料金表示など、乗車券としての必要な文字が加刷して使われました。今回ご紹介のモノでは、台北=錫口の区間名と、料金が加刷されています。

 なお、龍馬票が切手としてお蔵入りとなった後も、台湾に中国本土から清朝の切手が持ち込まれて使用されることはなく、日本に割譲されるまで、台湾では木版・手刷りの切手が使われていました。その後も、日本統治時代を経て現在に至るまで、台湾で中国本土と同一の切手が使われたことは一度もありません。こうした事実もまた、台湾は歴史的にも中国と不可分の領土であったと主張する“一つの中国”論が、いかに荒唐無稽な言説であるかを雄弁に物語っていることは、もっと注目されても良いように思います。

 
 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回 は15日! ★★★ 

 6月15日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第4回目が放送予定です。今回は、6月10日にカザフスタンでアスタナ万博が開幕するのにあわせて、カザフスタンにスポットを当ててお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。

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 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 台湾の独自性①
2008-02-08 Fri 12:23
 ご報告が遅くなりましたが、雑誌『東亜』の2008年2月号ができあがりました。今月号から、3ヶ月に1回のペースで、僕は「郵便切手の歴史に見る台湾のオリジナリティー」という連載を担当することになりました。で、初回の今回は、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 台湾龍馬票

 これは、1888年6月に発行が予定されていたものの、不発行に終わった切手で、“台湾龍馬票”と呼ばれています。

 清朝政府が通商ならびに国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになったのは1870年代以降のことで、それまでは、台湾は福建省に属する辺境の地という程度にしか認識されていませんでした。

 1884年、ベトナムの宗主権をめぐって清仏戦争が勃発するとフランス軍は台湾に進攻。清朝側は劉銘傳を督台湾軍務に任命して抗戦しましたが、台湾は一時的にフランス軍に占領されてしまいます。このため、清仏戦争終結後の1885年、清朝は、台湾の防備体制を改めて台湾を省に昇格させ、劉銘傳を主任台湾巡撫に任じてフランス軍と戦い、台湾島の実効支配を回復しました。

 巡撫に任じられた劉は台湾の経済開発に乗り出します。赴任後の1887年に上奏して台湾での鉄道敷設の必要性を訴え、勅許を得て同年夏に工事を開始。また、1886年には招商局(後の台湾商務局)を設立して近代海運制度を導入したほか、道路網の整備、電信事業の創業なども行いました。

 こうした近代化改革の一環として、従来の駅逓(政府の公文書を扱う機関)は、台湾郵政総局に改編され、1888年3月から切手を用いた近代郵便制度も実施されることになりました。

 当時、台湾には、淡水、台南、高雄の3ヵ所に海関の郵便部が置かれていましたが、海関の郵便部は主に在留外国人が中国本土ないしは外国宛に差し出す郵便物を扱うだけで、台湾島内の郵便には無関心でした。また、切手は使用されず、郵便物には料金を収納したことを示す印が押されるのみでした。

 これに対して、劉銘傳は、西洋諸国に倣って独自の切手を発行し、公用便と民間便を併せて扱う近代郵便制度の創業を目指し、台湾全島に站(郵便局に相当)を設け、郵便網の整備を企画します。もっとも、站は、記録によれば、43ヶ所存在したことになっていますが、その全てについて、実際に活動が行われていたことが確認されているわけではありません。

 さて、近代郵便の発足に伴い、劉は切手の発行を計画する。当初の切手は、現地製の用紙に木版・手刷でつくられたものでしたが、後に、ロンドンのブローバリー・ウィルキンソン社に本格的な切手の製造が発注されています。発注された切手は30.5×32ミリの凹版印刷で、中央上部には皇帝の象徴である龍が、その下には交通・通信を象徴する馬が、それぞれ描かれています。また、右側には「大清臺灣郵政局」の文字が、上下には欧文で“FROMOSA CHINA”と記されており、このことから、“大清台湾郵政局龍馬票”(以下、龍馬票)と呼ばれています。

 もっとも、龍馬票は、1888年6月から発行・使用される予定でしたが、台湾郵政局側が事前に清朝中央政府の許諾を取っていなかったため、発行直前になって「中央の龍が人間の顔に似ており、皇帝の権威の象徴としてのイメージを損なう」とのクレームがつけられ、実際には切手として発行されないままに終わってしまいました。

 こうして使い道のなくなった龍馬票は、おりしも、1888年11月から12月にかけて、台北=錫口(現在の松山)=水返却(現在の汐止)間を結ぶ鉄道が開通し、その乗車券の調達が問題となったことから、乗車券の用紙として流用され、地名や料金表示など、乗車券としての必要な文字が加刷して使われました。

 なお、龍馬票が切手としてお蔵入りとなった後も、台湾に中国本土から清朝の切手が持ち込まれて使用されることはなく、日本に割譲されるまで、台湾では木版・手刷りの切手が使われています。

 さて、現在の中国政府は、“ひとつの中国”論を掲げ、台湾は歴史的にも中国と不可分の領土であったと主張しています。しかし、国家支配のシンボルともいうべき切手ひとつとっても、中国本土と台湾ではこれまで同じ切手が使用されてきたことはありません。『東亜』での連載では、こうしたことを手がかりに、“ひとつの中国”論がいかに奇妙奇天烈な詭弁でしかないかということを少しでも明らかにしていければ、と考えています。
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