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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 バンコクに来ています
2016-11-30 Wed 12:05
 以前の記事でも書きましたが、12月2日から中国・南寧で開催のアジア国際切手展<CHINA 2016>にコミッショナー兼審査員として参加するため、本日未明に出国し、現在、バンコクのスワンナプーム国際空港にいます。というわけで、景気づけに、今年に入ってから入手したバンコク関連のマテリアルの中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      香港QV切手・バンコク消

 これは、1884年2月5日、バンコクの英国局で使用された香港切手のオンピースです。

 タイと欧米諸国との本格的な外交関係は、1855年にラーマ4世(モンクット王)が英国との間にボーリング条約を結んだことに始まります。ちなみに、映画やミュージカルで有名な『王様と私』は、ラーマ4世をモデルにした“シャム王”の宮廷を舞台に、国王と英国人女性家庭教師との交流を描いたものですが、作品中の王室の扱いが不敬であるとして、タイでは上映・上演が禁じられています。

 ボーリング条約により英国は首都バンコクに領事館を開設しましたが、当時、タイには近代郵便制度はなく、国内はともかく、バンコクから海外へ郵便を送ることにタイ側が責任を持つ体制にはなっていませんでした。このため、英国領事館は、タイ駐在の外国人商人や宣教師の要請に応えて領事館内に“郵便局”を開設し、1858年からタイと英本国やインド、シンガポールなどとの通信の取り扱いを開始しました。これが、タイにおける近代郵便制度の最初で、当時の郵便物は蒸気船でシンガポールまで運ばれ、そこから宛先へ送られていました。

 英国がバンコクに開設した郵便局では、当初は英領インドの切手が、1867年からは主にイギリス海峡植民地(現・マレーシア、シンガポール)の切手が無加刷で使われていましたが、1882年からは海峡植民地の切手にバンコクを意味するBの文字を加刷した切手が使用されるようになりました。こうした海峡植民地切手と並行して、香港切手もバンコクの英国局で使用されています。なお、バンコクでの香港切手は、香港、中国、日本宛の郵便物に限って例外的に使われたものと考えられています。

 一方、ラーマ5世(チュラーロンコーン王、『王様と私』のラストで、国王の崩御に伴い即位する少年皇太子のモデル)による近代化政策の一環として、タイが自前の郵便制度導入を計画するようになったのは、1881年のことでした。ただし、当時のタイには切手を製造するための設備がなかったため、タイ最初の切手の製造はロンドンのウォータールー・アンド・サン社に委託されました。

 その後、ロンドンから切手が到着するのを待って、1883年8月4日、バンコクのプラナコーン地区とチャオプラヤー川を挟んで対岸のトンブリー地区との間で、書状と書籍(印刷物)の配達に限定してタイの近代郵便が創業されます。なお、バンコクという地名は主として外国人による呼称で、タイ語では“クルンテープ”というのが一般的です。

 ちなみに、バンコクに置かれていた英国の郵便局は、1885年7月1日にタイが万国郵便連合に加盟し、タイ政府発行の切手が国際的にも有効とされたため、その前日の6月30日で閉鎖されました。

 さて、南寧へは東京からの直行便はないので経由便を使うしかないのですが、今回は、日本からの出品作品をお預かりして会場に搬入するため、中国の他の都市での出入国は避け、南寧で直接、出入国および通関手続きは行うことにしました。そのため、当初はマカオ航空を使い、マカオ経由で南寧入りするつもりでチケットも手配していたのですが、突如、マカオ航空側の事情で僕がチケットを買ったマカオ=南寧間の便が運休となってしまったため、遠回りではありますが、南寧行きの国際線の便が比較的多いバンコク経由というルートを取ることになりました。今日は午後の便でバンコクを発って南寧入りする予定で、現在、空港のラウンジでこの記事を書いている次第です。なお、展覧会の会期は12月6日までですので、翌7日に南寧を発ってバンコクに飛び、8日の朝に帰国の予定です。

 旅行中もノートパソコンは持参していますが、南寧では、中国当局によるインターネット規制があり、fc2、ameblo、geocitiesで作成したサイトには、内容のいかんにかかわらず、ドメイン自体が規制対象となっているために現地からは接続できないそうです。そこで、中国でもインターネットが使用できるというルーターを成田で手配してきたのですが、いままで試したことがないので、うまくいくかどうかはわかりません。そこで、現地でも記事がアップできればそのように致しますが、それが無理だった場合のことを考えて、とりあえず、南寧到着後、来月7日に中国を出国するまでの間は予約投稿しておいた内容を、順次、公開する体制を取っています。このため、受賞結果を含め現地でのレポートは、帰国後のアップになる可能性があります。また、かようなお国事情ゆえ、メールでのお問い合わせにも対応できないことがあるかもしれませんが、その場合には、あしからず、ご容赦ください。


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 世界の国々:ベナン
2016-11-29 Tue 11:54
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2016年11月23日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はベナンの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ベナン・エグン

 これは、ヴォドゥンの大祭の日に死神“エグン”の扮装をする人を描いた1983年の切手です。

 西アフリカおよびカリブ海地域のアフリカ系黒人の間で広く信仰されているヴォドゥンは、もともと、ベナンの最大民族であるフォン人の言葉で“精霊”を意味する言葉です。

 もともと、ヴォドゥン信仰は、西アフリカにおける太鼓を使った歌舞音曲や動物の生贄、シャーマンによる降霊などの儀式を伴う精霊信仰がその原型だったと考えられており、ベナンのフォン人のみならず、ナイジェリアのヨルバ人、トーゴのミナ人・カブイェ人、トーゴおよびガーナのエウェ人などの間で広く信仰を集めていました。

 現在のベナン国家のルーツにあたる旧ダホメ王国は奴隷貿易を行っていましたが、その支配下からカリブ海地域へ送られたフォン人伝来の精霊信仰がカトリックと習合する過程で、ヴォドゥンは“ヴードゥー”に転訛し、この名称が世界的に定着することになりました。

 なお、カリブのヴードゥーは、ハイチのマルーン(プランテーションからの逃亡奴隷)の指導者であったフランソワ・マッカンダルが発展させたもので、奴隷の信仰として、白人による弾圧を逃れる必要から、伝統的な精霊信仰に聖母マリアなどのキリスト教の聖人崇敬を組み込んでいるのが一つの特色です。このため、西アフリカの伝統的な精霊信仰とはやや趣を異にしていますが、一般には、両者は一括して “ヴードゥー”と呼ばれることも少なくありません。

 ヴォドゥンの信仰や文化は、西アフリカの自然や生活の中から生まれたもので、統一的な教義や教典はなく、組織化された教団もないため、民族・地域により大きな差があります。また、いわゆる布教活動も行われていません。このため、日本の宗教法人法によればヴォドゥンは“宗教”に該当しないことになります。

 しかし、ヴォドゥンを国教に指定しているベナン以外にも、2003年にはハイチのカトリック大司教もヴードゥーを“宗教”として認知していますし、ヴォドゥンを宗教もしくはそれに準じる民間信仰と認定している国も数多くあります。なお、ヴォドゥンおよび類似の信仰を有している人口は全世界で5000万人以上と推定されており、その規模は約3000万人といわれるチベット仏教をはるかに凌駕していることは見逃してはならないでしょう。

 さて、ヴォドゥンにはおよそ800もの神がいるとされているが、その中でも至高の存在とされているのが“マウ=リサ”です。

 マウ=リサは“ナナ=ブルク”と呼ばれる原初の神から生まれた女性神マウと男性神リサの双子の神で、創造の神として男女両性の特徴を備えており、今回ご紹介の切手に描かれたエグンを含め、ヴードゥーの神々はマウ=リサの子供、孫、子孫と考えられています。ただし、人々の信仰の対象は日常の事柄にかかわる個々の神々に集中しており、マウ=リサ自身が祭祀の対象になることはあまりありません。

 ヴードゥーの多神崇拝は、欧米のキリスト教社会的な価値観では“邪教”であり、その独特の儀式や呪術は、ながらく、黒魔術と同一視されてきました。また、1960年にフランスから独立したダホメ共和国が西洋式の近代国家建設を目指して伝統文化を軽視したことに加え、1972-90年の社会主義政権時代(この間、1975年にベナン人民共和国に改称)には、ヴォドゥンの信仰と儀礼は“因習”として社会的に大きな圧迫を受けました。

 しかし、民主化後の1992年、伝統文化の再評価が進められると、ベナン国民の間に深く浸透しているヴォドンは国教に指定され、ヴォドゥンの大祭が行われる毎年1月10日は国民の祝日に指定され、現在に至っています。

 なお、ベナンでは、統計上は人口の42.8%がキリスト教徒、24.4%がムスリム、17.3%がヴォドゥンとなっていますが、キリスト教徒やムスリムの中にも、ヴードゥーの信仰を(部分的に)維持し、ヴードゥーの儀式に参加する場合も多いため、実際には、ヴードゥーの“信徒”の実数は統計よりもはるかに多いと推定されています。

 さて、『世界の切手コレクション』11月23日号の「世界の国々」では、ベナンのヴォドゥンについてまとめた長文コラムのほか、旧ダホメ王国の事実上の最後の王・ベハンジン、世界遺産のアボメイの王宮群、国際汚職事件の舞台となった海底油田の切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、ベナンの次は、22日に発売された11月30日号でのセントルシアの特集(2回目)になります。こちらについては、近々、このブログでもご紹介する予定です。


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 高橋みなみのこれから何する?
2016-11-28 Mon 13:37
 本日(28日)13:15すぎから、TOKYO FMのラジオ番組「高橋みなみのこれから何する?」に内藤が電話生出演いたしました。テーマは「年賀状1月2日配達取りやめ」について。というわけで、きょうは“1月2日”の消印が押された切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      1月2日・伏見局機械印

 これは、1970年1月2日の機械印が押された7円切手です。

 1月2日の年賀状の配達は、1974年から2004年まで休止されていましたが、2005年から“民営化”を前にしたサービス向上のために復活していました。しかし、年賀状の数がピークから大幅に減少したうえ、昨今、人件費も上昇していることから、コスト削減のため、2017年から、1月2日の年賀状の配達は再び休止されることになりました。なお、郵便物の集荷や書留便などの配達、郵便局内の処理作業などは、従来通り、1月2日も行われます。

 ちなみに、1974年から1月2日の年賀状配達が休止されたのは、1973年に全逓信従業員組合(全逓)が展開した“73年末闘争”の結果です。すなわち、この時の闘争で、全逓側は、インフレ手当0.5ヶ月、週休2日制、1月2日・3日休配を中心的な要求として掲げ、突如、意図的に郵便物を滞留させる“電撃的物ダメ”戦術を展開。この結果、インフレ手当0.5ヶ月、1979年9月から4週間に1回の非番日を実施、1月2日の休配が労働者の権利として認められ、2004年まで、1月2日には年賀状の配達が行われないという慣行が続いていたわけです。

 かつて、春闘が盛んだったころには、毎春のように、国鉄をはじめとする鉄道・バスのストライキがありましたが、全逓は、郵便事業の一番の書き入れ時である年賀状の時期を闘争の重要な時期と位置付けており、戦後の年賀状の歴史にもさまざまな影響を及ぼしています。

 たとえば、戦時中および終戦直後の年賀郵便の特別取扱が中断されていた時期を除き、1935年末から、指定の期間内に差し出された年賀状には絵入り年賀印が押されていました。ところが、1956-57年の年末年始、全逓は年末手当2ヵ月分の獲得と特定郵便局長の官制化、特別職法案に対する反対などを主張し、要求が入れられない場合には「年賀はがきを超勤拒否によりストップする」として賜暇戦術をとったため、1957年の年賀状には絵入りの年賀印は使用できませんでした。この結果、翌1958年の年賀状からは、櫛形印・機械印ともに毎年使用できるよう、時刻欄に“年賀”の文字が入ったものが使われるようになりました。その後、1962年の年賀状からは、年賀郵便特別取扱期間(当時は12月15-28日)に引き受けた官製年賀はがきへの消印そのものも省略されるようになります。

 また、全逓の年末闘争が特に激しかったのは、1959年と1978年の年末で、1960年と1979年には元日に配達されなかった年賀状がかなりの数に上りました。特に、1979年は年賀状の遅配が相当数に上ったため、お年玉くじの抽選会も当初予定の1月15日から同31日に延期され、小型シートの交換開始も、1月20日から2月5日に変更されたほどでした。

 なお、このあたりの事情については、拙著『年賀状の戦後史』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 * 番組が無事に終了しましたので、記事内容を告知から、放送内容を補足するものに変更して再アップしました。お聞きいただきました皆様には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。


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 切手で訪ねるふるさとの旅:北海道
2016-11-27 Sun 15:08
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、『(郵便局を旅する地域活性マガジン)散歩人』第33号(不定期刊)ができあがりました。同誌に掲載の僕の連載「切手で訪ねるふるさとの旅」では、今回は“異文化との出会いを感じる港町・函館”というメインの特集に合わせて、道南を中心とした北海道を取り上げました。そのなかから、きょうはこの切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      大沼国定公園

 これは、1961年9月15日に発行された大沼国定公園の切手です。

 渡島半島南部、函館市の北方16kmの地点にある大沼国定公園は、駒ヶ岳とその火山活動によってできた大沼、小沼、蓴菜沼からなる国定公園です。この一帯は、江戸時代から、箱館(現函館)と小樽を結ぶ交通の要衝でしたが、明治維新後の1872年に札幌本道が開通すると宮崎重兵衛が旅館を開業し、外国人を含む観光客が訪れるようになりました。今回ご紹介の切手では、大沼から見た駒ケ岳が描かれています。

 さて、 今回の記事では、今回の記事でご紹介の大沼国定公園のほか、五稜郭、ハリストス教会、函館本線森町のするめいか、函館の八幡坂、北海道100年記念塔の切手を取り上げました。掲載誌の『散歩人』は各地の郵便局などで入手が可能ですので、御近所でお見かけになりましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 フィデル・カストロ、亡くなる
2016-11-26 Sat 19:13
 キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長が、25日夜、亡くなりました。享年90歳。謹んで、ご冥福をお祈りいたします。というわけで、彼の肖像切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・CDR65周年

 これは、2013年にキューバで発行された「革命防衛委員会53周年」の記念切手で、演説をする若きフィデルと、老境に入り穏やかな表情となったフィデルを対比させた図案になっています。

 フィデル・カストロは1926年8月13日、キューバ島ビランの裕福な地主の子として生まれました。1950年にハバナ大学法学部を卒業し、弁護士として貧困問題に取り組んでいましたが、1953年7月26日、腐敗が蔓延するフルヘンシオ・バティスタ政権を打倒すべく、同志165名とともにモンカダの兵営を襲撃しました。

 この蜂起は失敗し、フィデルも逮捕・投獄されましたが、裁判に際して、弁護士であったフィデルは、被告人でありながら自らの弁護を担当し、最終弁論を「歴史は私に無罪を宣告するであろう」との有名な台詞で締めくくったものの、禁錮15年の判決を受け、ピノス島のモデーロ監獄に収監されました。しかし、彼が獄中で執筆した手記『歴史は私に無罪を宣告するであろう』が密かに出版されると、フィデルらに対する恩赦を求める運動が市民たちの間に広がり、1955年5月、バティスタも渋々ながらフィデルの釈放を認めざるを得なくなります。

 こうして釈放されたフィデルは、再起を期していったんメキシコに亡命。そこで、たまたま、“アメリカ帝国主義からラテンアメリカを解放する”との理想を抱いてメキシコシティに来ていたアルゼンチン出身の青年医師、エルネスト・ゲバラと知り合い、意気投合。こうして、フィデルとチェ(“仲間”を意味するゲバラの愛称)・ゲバラという黄金コンビが誕生し、彼らは、反政府組織“7月26運動(M-26-7)”を軸に、革命運動を展開することになりました。

 彼らは1956年12月、ヨットグランマ号でキューバに再上陸。バティスタ政権の攻撃により同志は一時17名にまで減少しましたが、国内のさまざまな反独裁勢力に支えられて徐々に勢力を盛り返し、1959年1月、バティスタ政権を打倒し、革命を成就しました。

 当初、革命政権の首相は弁護士のミロ・カルドナが就任しましたが、わずか2週間あまりで辞任。2月にはフィデルが首相に就任し、以後、2008年の引退にいたるまで、約半世紀に及ぶフィデルの政権がスタートします。

 革命当初、フィデルは必ずしもソ連型の社会主義国家の建設を志向していたわけではなく、あまりにも極端な富の偏在を是正する“改良主義”の立場に立っていました。
 
 ところが、その“改良主義”の実現に際してフィデルが行った農地改革は、外国人の農場経営の禁止等を法律に盛り込んでおり、米国系資本は大きな打撃を受けることになりました。このため、米国はキューバ政府に抗議し、フィデルがこれを拒絶すると、マイアミから飛行機が飛来し、爆弾を落としていくようになったほか、8月以降、融資停止などの経済制裁を開始します。

 米国との対立を深めていく中で、革命政府は、必然的に“敵の敵”であるソ連との関係を強化せざるを得なくなりました。

 1959年にキューバで革命が起こるまでは、米国の“裏庭”であるラテンアメリカ諸国では、ソ連と外交関係を結ぶことはおろか、経済的な関係を持つことさえタブー視されていました。したがって、キューバがソ連の期待しているような社会主義国家となるかどうかということはさておき、アメリカの“裏庭”に楔を打ち込むためにも、キューバを援助し、恩を売っておくことはソ連の冷戦戦略にとって有益なことでした。

 こうした事態を目の当たりにした米国は、キューバがついに“赤化”したと判断し、革命政権打倒のための経済封鎖に着手。1960年2月、キューバからの果実輸入を禁止するとともに、同年7月には、キューバ最大の輸出品であった砂糖の輸入を停止します。

 もっとも、米国によるキューバの砂糖輸入停止に対しては、米国が買い付けを拒否したのと同量の砂糖をソ連が国際価格で買い取ることを申し入れたため、米国が期待していたような効果を挙げることなく終わりました。これを受けてキューバ政府は、米国を挑発するかのように、「我が国が侵略されるようなことがあれば、ソ連の好意を受け取る以外の道はなくなるだろう」との声明を発表。この声明に激怒した米国は、ついに、実力で革命政権を転覆させることを決意し、8月16日、CIAによるフィデル暗殺計画(毒入の葉巻がフィデルのもとに届けられました)を実行に移します。しかし、この秘密工作は失敗に終わり、同月19日、米国はキューバに対する経済封鎖を発動しました。これに対して、フィデルは米資本の工場や農園を次々に接収するとともに、共産中国との国交樹立とソ連との経済関係の強化を決定。両者の対立はエスカレートしていきます。
 
 こうした状況の下で、9月18日から10日間にわたり、フィデルは国連総会へ出席するためにニューヨークを訪問。この間、米国務省はフィデルの在米中の行動範囲をマンハッタン島内に限ると通告すると、キューバも国連総会の期間中、駐ハバナ米大使の行動範囲を大使館周辺に限定すると通告するなど、両国の激しいせめぎあいが行われました。

 そして、9月28日、帰国したフィデルが革命広場で帰国報告の演説を行っている途中、4発(2発との説もあります)の爆弾が爆発するという暗殺未遂事件が発生。辛くも難を逃れたフィデルは、とっさに事件を逆手に取って、「集団的警備の充実のため」として、“革命防衛委員会”の設立を提案し、これを満場の拍手で承認させています。

 今回ご紹介の切手は、この事件から起算して65周年になるのを記念して発行されたもので、フィデルの写真は件の演説の際に撮影されたものではないかと思います。

 さらに、1961年4月、革命政権転覆を目指すCIAはキューバ侵攻作戦(ピッグス湾侵攻作戦)を発動。作戦は失敗に終わりましたたが、事態を重く見たキューバはひそかにソ連の核ミサイルを誘致しようと考えます。このことが明るみに出て、キューバを舞台とした米ソ核戦争の危機が懸念されたのが、いわゆるキューバ危機でした。

 キューバ危機は、結局、ソ連がキューバの核ミサイルを撤去することで終結したが、その後も、アメリカによる包囲網と対峙し続けるなかで、キューバではフィデルを頂点とする一党独裁体制が構築されていくことになりました。

 ところで、キューバの場合、他の独裁国家で見られるような指導者に対する個人崇拝が見られない点が最大の特色とされています。

 実際、キューバではバティスタ政権時代への反省から、存命中の人物のモニュメントを公式の場に飾ることを禁じる法律も存在しており、フィデル本人も、自身の肖像がTシャツにプリントされたり、絵画に取り上げられたりするのを極点に嫌っていました。現役時代のフィデルの肖像が切手に取り上げられたケースは皆無ではありませんが、毛沢東やホーチミン、金日成・正日父子、サダム・フサインなど、同時代の他の独裁者とくらべると、驚くほど少ないのが特徴でした。

 しかし、イデオロギーを前面に掲げる国家であればあるほど、抽象的な理念に人々を動員するためのイコンが必要となります。そこで、キューバにおいては、フィデルに代わって、ゲバラがその役割を担うことになりました。

 端正なマスクのゲバラは、長髪にベレー帽、ヒゲに戦闘服というスタイルで、革命政府の国立銀行総裁、工業相を歴任し、新生キューバの経済発展のために寝食を忘れて働きましたが、現実の前に革命の理想を曲げることを潔しとせず、キューバの支援者であったソ連に対しても「帝国主義的搾取の共犯者」と名指しで非難するなど容赦ありませんでした。そして、1965年には元勲の地位を捨ててキューバを後にし、家族とも別れ、再び一ゲリラ兵士となってボリビアのジャングルに赴き、捕らえられて銃殺されます。享年39。

 かくして、ハイスクール時代のジョン・レノンに“世界で一番カッコいい”といわしめたゲバラの神話が、英雄の悲劇的な死によって完成。キューバ人写真家アルベルト・コルダが撮影した「英雄的ゲリラ」のポートレイトは、1967年にゲバラが亡くなると追悼写真として紹介され、翌年のフランス5月革命のシンボルとして用いられたことで、いちやく、世界でもっとも有名なポートレイトのひとつとなりました。原写真の撮影者コルダと写真を加工してイラスト化したジム・フィッツパトリックが、ともに、著作権を主張しなかったため、“英雄的ゲリラ”は1970年代に入って西側諸国の学生運動が退潮期に入ってからも盛んに複製され、やがて、ゲバラの思想とは無関係にファッション・アイテムとして定着します。

 こうした流れと呼応するかのように、キューバ政府はゲバラの肖像を革命の理想を体現したイコンとして国中にあふれさせてきました。国家のメディアとしての切手においても事情は同様で、ゲバラの肖像切手はかなりの数が発行されています。特に、ソ連崩壊によって経済的支援者を失った1990年代以降、キューバ政府は世界的に人気のあるゲバラをさかんに切手に取り上げて、外貨獲得の一手段として活用してきました。

 ところが、そうしたキューバの革命神話の構造は、2000年以降、いささか様変わりし、フィデルの神格化が徐々に進行していくことになります。

 すなわち、2000年代以降、さすがのフィデルも年齢からくる体力の衰えは隠せなくなり、演説時に倒れこむ場面も見られるようになりました。このため、後継者問題が急速に現実のものとして浮上しましたが、半世紀にわたってフィデル築き上げてきた国内の権威を簡単に継承できる人物は存在しません。そこで、フィデルの負担が軽減され、彼の権限が少しずつ委譲されるようになると、キューバの国家体制は、フィデルの意思とは無関係に、フィデルを神格化し、行政実務の現場は神官の立場として神の意志を実行するという建前の下でまわしていかざるを得なくなったのでしょう。

 じっさい、フィデルが腸の病で外科手術を受けたのは2006年のことでしたが、その前年の2005年にはフィデルの肖像切手が2種類発行されています。以後、フィデルの肖像切手の発行は事実上解禁され、2008年2月、フィデルが国家元首に相当する国家評議会議長と軍の最高司令官を退任し、1959年の革命以来の同志で実弟のラウルがその後継者となると、フィデルの肖像切手が発行されることも珍しくなくなり、革命50年にあたる2009年にはフィデルの生家とその一帯が歴史博物館として国の文化財に指定されています。

 かつて、「歴史は私に無罪を宣告するであろう」と高らかに宣言したフィデルでしたが、晩年、みずからが急速に歴史上の人物として祭り上げられていくのを目の当たりにしながら、現在、半世紀に及ぶ革命の“成果”(社会主義政策の失敗により、キューバが経済的に困窮していることは万人の認めるところである)を棺の中でどのように総括しているのでしょうか。


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 マカオ航空にやられた!
2016-11-25 Fri 16:39
 今日は個人的な事情から、マカオ航空のことを書きたいと思いますので、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

     マカオ・マカオ航空10年

 これは、2004年にマカオで発行されたマカオ航空10周年の小型シートです。

 マカオでは、宗主国のポルトガルが第二次大戦中は中立国だったため、大戦中にも極めて小規模な滑走路が存在していたほか、戦後の一時期は、キャセイパシフィック航空の飛行艇によるマカオ=香港線が就航していました。

 しかしマカオの経済発展に伴い、近代的なジェット旅客機の離着陸可能な空港が必要となったことから、ポルトガル統治時代末期の1995年11月に、マカオ唯一の国際空港としてタイパ島の東側埋立地にマカオ国際空港が開港します。これに先立ち、1994年9月13日、中航興業とTAP ポルトガル航空、マカオ総督府が出資して設立されたのがマカオ航空で、今回ご紹介の切手はここから起算して10周年になるのを記念して発行されたものです。なお、実際のマカオ航空の就航開始は、マカオ国際空港開港にあわせて、1995年11月9日のことでした。 

 さて、ここからが今日の本題なのですが、僕は、12月2日から、中華人民共和国広西チワン族自治区南寧市で開催のアジア国際切手展<CHINA 2016>に、日本コミッショナー兼審査員として参加することになっています。

 コミッショナーの仕事としては、日本からの出品作品をお預かりして11月30日に会場に搬入し、6日の会期終了後、それを日本に持ち帰るということがあるのですが、そのためには、現地の税関でしかるべき手続きをしなければなりません。このため、中国の他の都市での出入国は避け、南寧で直接、出入国および通関手続きは行うことにして、30日に現地入りできるフライトを探したところ、29日にマカオ航空で成田を出発し、マカオで1泊後、マカオから南寧に入るというルートをとることにして、チケットも手配していました。

 ところが、きょう(25日)の昼前になって、突如、チケット会社からこんなメールが送られてきました。

 (以下コピペ)
 ご予約いただきました海外航空券につきまして、航空会社より一部運休の連絡がございましたので、お知らせいたします。

 -----------------------------------------------------------------------
 【運休内容】
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 ■往路 : マカオ航空 NX196
 発 2016年11月30日(水) 17:20 MFM:マカオ国際空港
 着 2016年11月30日(水) 18:50 NNG:南寧(ナンネイ)/南寧呉墟国際空港

 ※マカオ-南寧区間が月・金・日曜日のみの運航となりました。
 -----------------------------------------------------------------------

 上記運休区間につきましては、航空会社より下記代替便の提示がございますので、ご確認いただきますようお願いいたします。 (コピペ終わり)

 しかし、マカオ航空側が提示した代替便は会期初日の2日夜に到着ということで、使い物になりません。そこで、南寧発着の国際線をしらべたところ、バンコクとの便は比較的頻繁にあるので、かなりの大回りですが、バンコク=南寧便のチケットと、東京=バンコクの往復チケットを急遽予約したうえで、マカオ航空ならびにマカオでの宿泊をキャンセルしたのですが、そのやりとりで、ほとほと疲れ果ててしまいました。

 それにしても、僕の他にも、30日に南寧入りするマカオ航空を予約していた人はいたでしょうに、こんな直前になって、路線そのものが運休になるとは…。いやはや、本当にびっくりしました。ともかくも、無事に南寧に行って帰ってこられることを、神仏にお祈りしたい気分です。


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 都心で初雪 11月は54年ぶり
2016-11-24 Thu 12:45
 きょう(24日)は東京都心や横浜市などで初雪が降り、11時頃には都心で積雪も観測されました。都心での11月の初雪は、1962年以来54年ぶり、積雪は初のことだそうです。というわけで、今日は雪景色の切手の中からこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      与謝蕪村・鳶烏図

 これは、1976年の国際文通週間の切手で、与謝蕪村の「鳶烏図」が取り上げられています。

 与謝蕪村は、1716年、摂津国東成郡毛馬村(現・大阪市都島区毛馬町)に生まれました。20歳の頃、江戸に出て早野巴人に俳諧を学び、1742年に師が没した後は松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊。1744年から蕪村と号し、丹後、讃岐などの歴遊を経て、京都に定住し、1784年、68歳で亡くなりました。

 松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人で、江戸俳諧中興の祖として独創性を失った当時の俳諧を憂い『蕉風回帰』を唱え、絵画用語である『離俗論』を句に適用した天明調の俳諧を確立させた中心的な人物として評価されています。また、宋・元・明の画を学んで独自の画境を築き、俳句と絵画を融合させた俳画をといわれる新たなジャンルを確立し、文学史・美術史に大きな足跡を残しました。なお、第一次国宝シリーズに取り上げられた池大雅の「釣便図」 は、清の李漁(李笠とも)の「十便十宜詩」に基づき、山荘での隠遁生活の便宜を表現した画帖『十便十宜画冊』の中の一点ですが、この画帖は大雅と蕪村の合作です。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた「鳶烏図」は蕪村の晩年の水墨画で重要文化財(北村美術館蔵)。雪中樹木にとまる二羽の烏を描いたものと、風雨の中で樹にとまる鳶を描いたものの対幅で、両者で動と静の対称が表現されていますが、切手にはそのうちの雪中の烏の幅が取り上げられています。


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 二の酉
2016-11-23 Wed 11:25
 きょう(23日)は二の酉です。というわけで、一の酉の時と同様、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』の増刷を祈念して、同書で取り上げた“鳥”の切手の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・第3回国際フォークソング・フェスティヴァル

 これは、1968年にブラジルが発行した“第3回国際フォークソング・フェスティヴァル”の記念切手で、リオデジャネイロ・アトランティカ通りのカルサーダス(ポルトガル風の石畳の装飾)とポン・ヂ・アスーカルに、鶏の顔をつけたト音記号の楽譜を組み合わせたデザインとなっています。

 リオデジャネイロのコパカバーナ海岸に面したアトランティカ通りは、南端のコパカバーナ要塞から海岸を弧に沿って北東に約3キロ先のプリンセサ・イザベル通りまでの大通りです。

 アトランティカ通りのカルサーダスはホベウト・ブーレ・マウクス(英語風にロバート・ブール・マルクスとも)のデザインによるもので、1970年に完成しました。

 カルサーダスをデザインしたブーレ・マウクスは、1908年、サンパウロ生まれ。父親のヴィルヘルム・マルクスはドイツ・シュトゥットガルト出身のユダヤ系ドイツ人、母親のセシリア・ブーレはブラジル北東部ペルナンブーコ州出身の富裕なフランス系カトリック家庭の出身です。

 ブーレ・マウクスは、当初、画家を目指して父親の祖国であるドイツ・ベルリンに渡り、絵画を学ぶ一方、ベルリンのダーレム植物園に足繁く通って植物についての造形も深めました。1930年、ドイツから帰国した彼は、リオの国立美術学校に入学し、1932年には学内審査会で金賞を受賞。同年、故郷のサンパウロに戻り、自宅周辺の植物を収集し、熱帯原産の植物に合うよう土壌を改良して、欧州スタイルの緑豊かな庭園に仕上げて、最初の作品“マウクス自邸”を発表します。

 この作品が高く評価されたことで、造園家、環境デザイナーとしての地位を確立。ブラジル文部省庁舎屋上庭園(1937年)、ブラジル再保険協会庁舎屋上庭園(1939年)など、公的機関の庭園を手がけるようになりました。1954年にはブラジル大学建築学科風致計画学担当教授に就任するとともに、翌1955年、環境デザインのスタジオを設立し、1960年の新首都ブラジリア建設に際しては、オスカー・ニーマイヤーが設計した公共施設の景観設計ならびに庭園設計に協力したほか、1965年にはリオのフラメンゴ公園の造成も手掛けています。

 1970年のアトランティカ通りのプロムナード景観設計は、そんな彼の代表作のひとつで、曲線のパターンを取り込んだスタイルは、ブラジル先住民の伝統的な文様が取り込まれています。

 なお、コパカバーナ海岸とその一帯については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でも詳しく解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 


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 すみだ北斎美術館オープン
2016-11-22 Tue 14:35
 葛飾北斎の作品を集めた“すみだ北斎美術館”が、きょう(22日)、東京・両国で開館しました。というわけで、今日は“北斎”にちなんで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      北斎百年祭  北斎美術館

 これは、1948年4月18日に発行された“北斎百年祭”の記念小型シートです。ついでですので、隣には、きょうオープンの美術館の建物写真もアップしておきました。

 浮世絵の巨匠・葛飾北斎(以下、北斎)は、宝暦10年9月23日(1760年10月31日)、江戸本所に生まれました。20代から嘉永2年4月18日(1849年5月10日)に90歳で亡くなるまで、春朗、宗理、北斎、戴斗、為一、卍などの画号を用いて風景画のみならずさまざまなジャンルで膨大な数の作品を残しています。

 北斎とは日蓮宗の妙見(北斗七星)信仰に基づく号で、当初、北斎は北斗七星を意味する北辰にちなみ、「北斎辰政」と名乗っていました。また、実際に北斎の号を用いたのは文化2(1805)年から5年ほどの期間だけでしたが、後々まで「北斎改め戴斗」「北斎改め為一」などとこの号を部分的に使用していたため、この名が一般に定着したといわれています。

 文政6(1823)年に制作が始まり、天保2(1831年)年に初版が開版、同4(1833年)年に完結した『富嶽三十六景』は、70歳代前半に出版された作品で、版元は永寿堂西村屋与八。当初は表題の通り、主版の36枚で終結する予定でしたが、作品が人気を集めたため追加で10枚(“裏富士”と呼ばれる)が発表され、計46枚になりました。このうち、「神奈川沖浪裏」は、ゴッホが激賞し、印象派の画家たちに絶大な影響を与えたほか、そこから発想を得たドビュッシーが交響詩『海』を作曲するなど、その後の西欧の芸術家に大きなインパクトを与えたことでも知られています。

 1948年は、この北斎の100年祭(没後100年目)にあたっており、4月18日の祭典を中心に、上野(東京)の国立博物館をはじめ、日本橋(東京)の三越・高島屋両百貨店、鎌倉など、全国8ヶ所で記念展覧会が開催されました。

 “北斎百年祭”の記念展覧会開催にあわせて、上野の国立博物館長は逓信省に記念切手の発行を申請。申請を受けた逓信省は、前年(1947年)発行の「切手趣味の週間(以下、趣味週間)」小型シートが北斎の「山下白雨」を図案とする1円切手5枚を組み合わせたものであることに目をつけ、三島展の例にならい、売れ残り小型シートに記念文字を加刷したものを百年祭当日の4月18日に発行することにしました。

 その背景には、当時の逓信省にとって、趣味週間小型シートの在庫問題はきわめて憂慮すべき事態となってたという事情がありました。すなわち、今回ご紹介の小型シート発行前日(1948年4月17日)の時点で、昭和22年度発行の記念・特殊切手のうち、売捌率が6割を切っているのは趣味週間の小型シートのみで、切手(小型シート)の売れ残り在庫の実数で見ても、100万枚以上の売れ残りがあるのは、趣味週間の小型シート以外には、1000万枚発行された日本国憲法施行の記念切手共同募金の慈善切手のみでした。

 このように、このため、国立博物館からの北斎記念展への記念切手発行の申請は、大量の不良在庫を抱えていた逓信省にとって、趣味週間の小型シートを処理する上で格好の機会ととらえられたのでした。

 ちなみに、逓信省は、「北斎百年祭」の小型シートは“時間上の制約”ゆえにオリジナル・デザインを製作する余裕がなく、趣味週間小型シートへの加刷に終わったと説明しています。また、季節をあらわす花の部分は、11月に発行された趣味週間小型シートの菊がそのまま活用され、加刷は行われませんでしたが、この点に関して、逓信省は、「北斎は菊の花を描くのを得意としていた」と苦しい説明をしています。なお、今回の小型シートの加刷文字は逓信省の加曾利鼎造がデザインし、印刷は東京の共同印刷で行われました。

 切手の発行数は12万3600枚で、記念展の会場(下谷局の臨時出張所)、下谷局、日本橋局(三越および高島屋で展覧会開催のため)、鎌倉局(展覧会開催地)の各局で発売されました。

 このうち、記念展の会場となった東京・上野の国立博物館には、2階ホールに下谷郵便局の臨時出張所が設置されましたが、初日のオープン前には大行列ができて一般の参観者の交通に支障が出るほどでした。この行列は、10時過ぎには100人以上に増え、館外にはみ出すほどになったため、当初は1人30枚まで、途中から1人10枚までの制限発売が行われています。

 もっとも、彼らの多くは小型シートを求めて記念押印を済ませると、肝心の展覧会にはほとんど目もくれずにそそくさと帰っていったようで、博物館の守衛が「この位熱心に浮世絵みてくれゝればよいのですがね」と嘆いていたとの報告があります。

 また、三越と高島屋で記念展が開かれる関係で小型シートを引き受けた日本橋局では、初日の18日が三越の定休日にあたっていたため、同日のシート発売を見合わせていましたが、集まった収集家から非難を浴びたため売り出したところ、即日完売になるなど、切手そのもの人気は高かったようです。

 *オマケ

      北斎美術館ちらし(1)  北斎美術館ちらし(2)

 我が家の郵便ポストに、すみだ北斎美術館の開館記念のチラシが入っていましたので、ついでにアップしておきます。左側が、開館そのものの周知、右側は開館記念イベントを周知するためのものです。


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 インドで大規模な脱線事故
2016-11-21 Mon 12:41
 きのう(20日)、インド北部インド北部のウッタル・プラデーシュ州カンプール近郊で20日未明、急行列車が脱線し、この記事を書いている時点で、少なくとも120人が死亡、220人以上が負傷する大惨事となりました。在インド日本大使館によれば、日本人を含め外国人が死傷したとの情報はないそうです。というわけで、亡くなられた方々のご冥福と負傷者の方の一日も早い回復をお祈りしつつ、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      インド・鉄道100年

 これは、1953年4月16日にインドで発行された鉄道100年の記念切手で、1853年の創業時の蒸気機関車と、1953年の機関車が並べて描かれています。

 インドはアジア最古の鉄道国で、1853年、ボンベイ(現ムンバイ)=ターネー間の約40km で開業しました。鉄道建設の主目的は、綿花・石炭・紅茶の輸送で、建設に際して英植民地当局は在地のインド人を酷使したため、民族運動などで破壊の対象にされたこともありました。

 独立後の1951年以降、インドの全鉄道は国有化され、現在はインド政府の鉄道省の監督下に置かれています。その総延長は6万3327キロ(米に次いで世界5位)、駅の数は6909にも及び、1日あたりの乗客は約1800万人、貨物は200万トンというのも相当な規模で、160万人が働いています。

 その一方で、インフラの不備や老朽化などから鉄道事故が頻発。ムンバイでは1日に平均10人が鉄道の事故で亡くなっており、2013年のインド全体での鉄道事故での死者数は3506人を記録しましたが、その後も状況はほとんど改善されていません。インドの鉄道事故の大半は人為的ミスによるものが大半で、今回の事故についても、詳細は不明ながら、線路が損壊していたとの情報もあり、そうだとすると、またしても杜撰な管理が大事故を招いたということになります。

 昨年(2015年)12月、インド政府はムンバイとアーメダバードを結ぶ高速鉄道の建設に日本の新幹線システムを導入することで日本政府と合意。今月11日の安倍=モディ会談で、2016年中に設計を完成させ、2018年着工、2023年に開業というスケジュールが決められたことは記憶に新しいところです。この合意を機に、日本側は、インド国鉄の他の路線にも日本の鉄道技術の採用を働きかけていくそうですが、その際には、ぜひ、日本が誇る鉄道の安全性についても、そのノウハウがインド側に伝わると良いですね。


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 ペルーでAPEC首脳会議
2016-11-20 Sun 14:37
 きょう・あす(20・21日)の2日間、21の国・地域の首脳らが出席するAPEC(アジア太平洋経済協力会議)の首脳会議が、ペルーの首都リマで開催されます。というわけで、ペルーと太平洋ということで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ペルー・PSNC切手

 これは、1857年12月1日、太平洋蒸気船会社(PSNC: Pacific Steam Navigation Company)の切手を流用して発行されたペルー最初の切手です。

 PSNCは、1838年、ウィリアム・ホィールライトがロンドンで設立した蒸気船会社で、1840年、チリ政府から沿岸の6437キロ(4000マイル)での営業権を獲得し、ペルー号、チリ号の2隻の蒸気船を用いて、ペルーのカヤオ(首都リマの外港)とチリのヴァルパライソ(首都サンティアゴの外港)間の運行を開始しました。その後、PSNCはチリ、ペルーのみならず、マゼラン海峡を越えて大西洋を横断し、欧州まで路線を拡大していきました。

 ところで、PSNCの創業者、ホィールライトはペニー・ブラックの印刷を請け負ったパーキンス・ベーコン社のジョシュア・バタース・ベーコンと親戚関係にあったこともあって、1847年、PSNC社はペルー号とチリ号で輸送する郵便物の料金を徴収するための独自の切手発行を計画し、パーキンス・ベーコン社に発注。2分の1オンスまでの料金に相当する1レアルの切手(青色で西側方面に向かうペルー号を描く。今回ご紹介の切手です)と、1オンスまでの2レアル切手(赤色で東側方向に向かうチリ号を描く)が製造されました。なお、切手の四隅には、いずれも会社の頭文字、P、S、N、Cが1文字ずつ配されており、同図案で色違いのモノも作られました。パーキンス・ベーコン社は、これらの完成品を、1847年末にはパナマにあったPSNCの代理店に5万枚、1848年初にはカヤオにも5万枚を送ります。しかし、実際にはこれらの切手が同社の運ぶ郵便物に貼られることはありませんでした。

 ところが、1857年になって、ペルー政府は国家郵政を正式に発足させ、リマ、カヤオ、チョリヨスで切手を発行することを決定。PSNCの関係者を責任者に任じて、1857年12月1日から1858年2月28日までの3ヶ月間、PSNC社の用意していた切手を用いて試験的に郵便サービスを実施させました。この結果、1848年にPSNC社の製造した切手が、ペルー最初の切手となりました。

 3ヶ月間の試験期間の後、ペルー政府は国章を描くオリジナルデザインの切手を発行。ペルー最初の切手としてのPSNC社切手はごく短命に終わり、残りの在庫も、1860年、ペルー政府によって焼却処分されてしまいました。このため、PSNC社切手の現存数は少なく、収集家の間では名品として知られています。


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 世界の国々:トーゴ
2016-11-19 Sat 14:47
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2016年11月9日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はトーゴの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      独領トーゴ絵葉書(クラインポポ)  独領トーゴ加刷葉書

 これは、19世紀末の独領トーゴ時代のクライン・ポポ(現アネホ)ならびにロメ市内の風景を描いた絵ハガキと、その裏面(ドイツ本国の葉書にTogoの地名が加刷されています) です。
 
 ギニア湾岸のアネホには、早くからポルトガル人が寄港し、貿易と布教を行っていました。

 その後、フランスもこの地域に進出し、1626年と1767年、1865-83年には拠点を築き、ここを“プティ・ポポ”と命名(ただし、その後も現地語名のアネホの地名も併用されました)したが、定着はしませんでした。

 一方、英仏に遅れてアフリカに進出したドイツは、1847年、北ドイツ伝道会がプティ・ポポ/アネホでの布教活動を開始したのを皮切りに、1878年には、ブレーメン出身のフィーエトールがこの地で交易を開始します。彼らは地名をドイツ語の“クライン・ポポ”と改称。フランスが完全撤退する1883年までに、商館5軒を設け、英仏(両国合わせて商館は3件)を圧倒するプレゼンスを確保したうえで、1884年2月、ドイツ軍はアネホの首長に保護条約の調印を強要しました。

 また、1884年、ドイツ帝国の宰相ビスマルクは、医師で探検家のグスタフ・ナハティガルをギニア湾沿岸に派遣。ナハティガルは7月6日、ロメ(現在のトーゴの首都)に上陸してドイツ国旗を掲げ、周辺の海岸地帯の保護領化を宣言します。

 この宣言をめぐって、翌1885年12月、独仏間で協議が行われた結果、ロメとあわせてクライン・ポポを含む地域もドイツの保護領とすることが認められ、以後、ドイツは内陸部にも進出。1885年までに、現在のトーゴ国家とガーナ東部ヴォルタ川以東の地域を独領トーゴランドとしました。

 ドイツ領トーゴランドの成立に伴い、クライン・ポポはその首府となり、現在首都であるロメまでの鉄道が敷設されたほか、英領ゴールド・コースト(現ガーナ)のアクラから同ナイジェリアのラゴスを結ぶ、ギニア湾岸の主要都市をつなぐ幹線道路の経由地として、交通の要衝となりました。あわせて、独領トーゴランドの首府として、プロテスタント教会(1895年建設)や、カトリックの聖ペトロ聖パウロ教会(1898年建設)等も建設され、欧風の町並みが整備されていきます。

 しかし、海岸の浸食により港湾の状況が悪化したため、1897年、独当局は首府をクライン・ポポからロメに移転。これに伴い、倉オン・ポポは次第に衰退していきました。

 クライン・ポポ(アネホ)とロメはいずれも、ギニア湾岸に建設された都市でしたが、1897年のロメ遷都以降、ドイツは内陸部の開発を進め、1898年4月21日には、現在、トーゴ第2の都市となっているソコデが建設されます。

 また、交通インフラの整備も進み、1905年、ロメ=アネホ間にトーゴ最初の鉄道が開通。1907年にはロメから内陸・高原州のパリメまで鉄道が開通し、1911年にはさらに北方のアタクパメまで延伸します。さらに、1910年までに1000本の道路が建設され、独領トーゴランドのインフラは、一挙に、アフリカ大陸で最高水準となりました。

 経済発展に伴い、1895年にドイツ人31名、アフリカ系2084名だったロメの人口は、第一次大戦直前の1913年にはドイツ人194名(うち女性33名、子供14名)、アフリカ系7042名にまで急増。もちろん、ドイツによる開発事業に動員された現地住民には大きな負担が課せられましたが、列強の植民地支配下でアフリカ系の人口がこれほど急増した例はほかにはなく、英仏によるアフリカの植民地統治に比べると、ドイツのトーゴ統治が民生にもかなり配慮していたことがうかがえます。

 第一次大戦勃発直後の1914年8月、独領トーゴランドには西側からイギリスが、東側からフランスが侵入。防衛体制が未整備で、警察官が約670名しかいなかった独領トーゴランドは抵抗するすべもなく、首府ロメはすぐに陥落。8月26日、独領トーゴランドは英仏に降伏しました。

 1916年12月27日、独領トーゴランドは英仏によって分割占領され、大戦後のヴェルサイユ条約を経て、1922年7月10日、旧独領トーゴランドは正式に東西に分割されて消滅し、東トーゴランドをフランスが、西トーゴランドを英国が支配するようになります。

 その後、英仏、特に西トーゴランドを支配したフランスは、ドイツと違って、トーゴへのインフラ投資をほとんど行わなかったため、トーゴ経済は停滞し、人々の中には独領時代を懐かしむ者も少なからずいたそうです。ちなみに、1960年に西トーゴランドがフランスから独立し、現在のトーゴ共和国が発足した際、新政権は、独領時代最後のトーゴ総督であったメクレンブルク公アドルフ・フリードリヒを独立記念式典に招き、新生トーゴとドイツの友好をうたいあげています。

 さて、『世界の切手コレクション』11月9日号の「世界の国々」では、独領時代のトーゴについてまとめた長文コラムのほか、主要輸出品のカカオ、2006年のサッカーW杯、アネホのヴードゥー、ナドバ教会のフレスコ画の切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、トーゴの次は、16日に発売された11月23日号でのベナンの特集(2回目)になります。こちらについては、発行日の23日以降、このブログでもご紹介する予定です。


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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

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 現存最古の「十戒」、85万$に
2016-11-18 Fri 21:12
 現存最古とみられるモーセの「十戒」を刻んだ石板が、きのう(17日)、米国のオークションに出品され、85万ドル(約9400万円)で落札されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・石板を受け取るモーセ(1981)

 これは、1981年にイスラエルが発行した『出エジプト記』の切手のうち、シナイ山に登ったモーセが、「十戒」(の刻まれた石板)を授けられ下山する場面が描かれています。タブの部分には、そのことを示す『出エジプト記』第34章29節の文言「(モーセが山を降りて来たとき)その手に二枚のあかしの石の板を持っていた」が記されています。

 さて、現在の一般的なイメージでは、今回ご紹介の切手に描かれているように、「十戒」の石板は、上部がかまぼこ型で、その下に長方形がついている形となっていますが、ユダヤ教やキリスト教の古い時代の古い石板は、今回落札された石板(下の画像)のように、丸みのない長方形でした。上部がかまぼこ型になったのは、中世以降のことで、レプリカとオリジナルの区別を容易にするためとの配慮によるものだそうです。

      最古の十戒の石板(実物)

 今回、落札された石板は大理石製で、縦横61センチ程度の四角形で、重さは52キロ。1913年、オスマン帝国支配下のパレスチナでの鉄道駅建設の際、ヤブネ近郊で発見されました。「十戒」の文言はサマリア語で刻まれていますが、その文字の形状からローマ帝国時代後期またはビザンツ帝国時代の紀元300-500年前後と推測され、それゆえ、現存最古の「十戒」と認定されています。

 石板の落札者は明かされていませんが、石板を出品したリビング・トーラー博物館(ニューヨーク)は、落札者が石板を公共の場に展示することを売却の条件としているため、遠からず、この石板はどこかで展示されることになるはずです。それが、どこになるのか、そちらもちょっと気になりますね。
       

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 南大河州のワイン
2016-11-17 Thu 10:39
 きょう(17日)は11月の第3木曜日。いわずと知れたボジョレー・ヌーボーの解禁日です。というわけで、毎年恒例、ワインがらみの切手の中から、この1枚です。

      ブラジル・リオグランデドスルへのイタリア移民75年

 これは、1950年3月15日にブラジルで発行された“リオグランデ・ド・スル州(南大河州)へのイタリア移民75周年”の記念切手で、同州のワイン産業の象徴としてブドウが描かれています。

 ブラジルは国土の大半が高温多湿の地域にあるため、ブドウ畑の大半では食用ブドウの生産が行われていますが、赤道から外れた最南端のリオグランデ・ド・スル州、特に、アルゼンチンとの国境にも近い高地のセラ・ガウチャ地域は国内のワイン生産の中心地となっています。

 リオグランデ・ド・スル州におけるブドウの栽培は、1626年、イエズス会がスペインのブドウ木を持ち込んだのが最初と言われています。18世紀には、アゾレス諸島出身の入植者が、マデイラ諸島とアゾレス諸島からブドウの切穂を持ちこんでいます。

 こうした経緯を経て、1875年、イタリア有数のワインの生産地であるヴェネト州からの移民がリオグランデ・ド・スル州に入植。今回ご紹介の切手は、ここから起算して75周年になるのを記念して発行されたものです。

 リオグランデ・ド・スル州のイタリア移民は、20世紀に入ると、セラ・ガウチャ地域で相次いでワイナリーを開業しました。その代表的な例としては、モナコ(1908年開業)、サルトン(1910年開業)、ドレヘル(1910年開業)、アルマンド・ペテロンゴ(1915年開業)などがあります。ただし、1970年代までのブラジル・ワイン生産は質より量を重視しており、ブレンド用に使われることが多かったため、世界的にはほとんど無視されていました。

 これに対して、1973年、隣国ウルグアイの名門ワイン農家、カルラウ家がセラ・ガウチャで生産した「シャトー・ラカヴェ」を発売したことで、ブラジル・ワインの評価が見直されるようになり、翌1974年には、米仏伊加の4ヵ国のワイン企業(その中には、かのモエ・エ・シャンドンも含まれています)がリオグランデ・ド・スル州にワイナリーを開設し、ヨーロッパ種のブドウを本格的に移植。以後、ブラジル・ワインは輸出に耐えうる品質へと成長していくことになります。

 僕の個人的なブラジルとワインの体験といえば、リオデジャネイロの中心部、プリメイロ・デ・マルソ(3月1日)通りの旧中央郵便局の向かい側にあった1924年創業という酒屋、リダドールの店頭の一番目立つ場所にはワインが並べられていたことを思い出します。(下の画像)

      リダドール

 リダドールの前からプリメイロ・デ・マルソ(3月1日)通りを南に少し行ったところには、リオデジャネイロ州の立法議会議事堂がありますが、この場所は、もともと、ブラジル独立の志士、チラデンチスが囚われていた牢獄がありました。議事堂が、現在でも、チラデンチス宮殿と呼ばれているのはこのためです。

 チラデンチスは、1789年の蜂起の前に「独立の乾杯はポルトガル・ワインでなく、我々のカシャッサだ」と誓い合ったというエピソードがあり、それ以来、カシャッサはブラジル(の独立)を象徴する酒として、ブラジル人の誇りとなっています。酒屋のリダドールがオープンした1924年には、まだ、現在のチラデンチス宮殿とチラデンチス像はプリメイロ・デ・マルソ通りにはなかったと言えばそれまでなのですが、この地で息絶えたチラデンチスにしてみれば、やはり、店先にはワインではなく、カシャッサを置いてほしかったんじゃないだろうかと、ついつい、思ってしまいました。

 まぁ、僕の場合は、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』が重版になって、その祝杯を挙げる日が来たら、ワインでもカシャッサでも、どちらでも喜んでいただきますが…(笑。


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 切手に見るソウルと韓国:スケトウダラ
2016-11-16 Wed 10:21
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、『東洋経済日報』10月21日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、毎年恒例の“統一高城スケトウダラ祭り”(10月20-23日に開催)の会期中の号でしたので、この切手をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・スケトウダラ(シート)

 これは、1966年に発行された動物シリーズの切手のうち、スケトウダラの切手(の小型シート)です。

 さて、ことし10月11日、韓国の海洋水産部は、世界で初めてスケトウダラの完全養殖技術の開発に成功したと発表しました。

 スケトウダラは韓国の伝統料理には欠かすことのできない食材で、プゴ(北魚)、ソンテ(鮮太)、マンテ(網太)、カンテ(江手、杆太)などとも呼ばれますが、一般にはミョンテ(明太)の名で知られています。ちなみに、今回ご紹介の切手でも、しっかりと“명태(ミョンテ)”の文字が入っています。

 ミョンテという名前の由来には諸説がありますが、朝鮮王朝時代に、咸鏡北道南部、明川の太という漁師が獲った魚ということで、明太の字を当ててミョンテと呼ばれるようになったと説明されることが多いようです。この明太が、中国に入って“ミンタイユー(ユーは魚)”と呼ばれ、日本語のメンタイとなったと考えられています。ちなみに、わが国の中国地方から九州にかけての地域ではスケトウダラをメンタイと呼び、明太子は一般的なタラコのことですが、全国的には、明太子といえば辛子明太子を指すのが一般的です。ただし、日本の辛子明太子に近いものとされる韓国の“明卵漬(ミョンナンジョ)”は、タラコをトウガラシとニンニクに漬け込んだもので、日本の辛子明太子とはかなり味わいが違います。

 韓国では、年間25万トンのスケトウダラが消費されていますが、これは、海産物の中ではトップで、韓国料理でのスケトウダラの利用法も、焼き物、煮込み、チゲ、チムなど多岐にわたっています。日本でも、一時期、美肌によいとしてプゴク(干しスケトウダラのスープ)が注目されたことは記憶に新しいところです。

 このように、韓国の国民魚ともいうべきスケトウダラですが、近年、韓国近海で獲れるものはほとんどなく、大半はロシアなどからの輸入に頼るという状況が続いていました。

 これは、1970年代、急激な経済成長と人口の増加に対応して、ノガリ(スケトウダラの幼魚)漁が解禁されたため乱獲が進んだことが大きいと考えられています。具体的な数字で見てみると、1980年代には7万4000トンあった韓国近海でのスケトウダラの漁獲高は、2000年代中盤には100トン未満にまで落ち込み、2007年以降は1-2トンと急落しています。

 こうした状況に危機感を抱いた海洋水産部は、2014年、スケトウダラ復活のためのプロジェクトを開始。国立水産科学院東海水産研究所などが、天然スケトウダラの母魚1尾から受精卵53万個を確保して幼魚を育て、昨年12月、20センチ程度に成長したスケトウダラのうち200尾余を選別して、35センチの母魚に育てました。

 そのうち7尾が今年(2016年)の9月18日に産卵に成功。受精卵10万個余のうち、3万尾余が0.7センチに成長したところで、「スケトウダラの完全養殖に成功」と発表したわけです。その過程で、スケトウダラの生育に適した水温が10度であることが明らかになり、この温度にあわせて餌となる動物性プランクトンが開発されるなど、養殖のための環境が整えられ、その結果として、自然界では3年かかるスケトウダラの成熟期間も1年8ヶ月に短縮できたそうです。

 また、海洋水産部は養殖とは別に20センチに育ったスケトウダラ1万5000尾を江原道高城近海に放流し、天然スケトウダラの生態系を回復することも計画しているとか。

 高城といえば、毎年10月には“統一高城スケトウダラ祭り”が開催される場所としても知られています。

 スケトウダラ祭りは1999年から始まり、今年で18回目となりますが、祭りの始まった時期は韓国近海でのスケトウダラの漁獲高が急減していった時期と重なっており、これまで、祭りで供されるスケトウダラはロシア産でした。

 海洋水産部の計画では、2017年にスケトウダラの稚魚を大量生産するための施設を作り、早ければ、2018年以降、スケトウダラの本格的な養殖生産に乗り出すということなので、数年後のスケトウダラ祭りには韓国産のスケトウダラが登場することになると期待されています。

 *毎日文化センターの講座の申し込み受付は終了いたしました。


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 国連緊急軍60年
2016-11-15 Tue 11:11
 1956年11月15日、(第一次)国際連合緊急軍(UNEF I :UNITED NATIONS EMERGENCY FORCES I)の展開が開始されてから、今日でちょうど60年です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      国連緊急軍(スエズ・ブラジル)

 これは、1964年3月28日、スエズ地域に展開していたUNEF I のブラジル部隊からブラジル本国宛に差し出された軍事郵便で、国連マークとUNEF表示の機械印が押されています。

 1956年7月26日、エジプト大統領のガマール・アブドゥンナーセル(ナセル)は、年間1億ドルのスエズ運河の収益をアスワン・ハイダム建設の資金に充てるべく、運河の国有化を宣言し、管理会社である国際スエズ運河株式会社を接収して全資産を凍結しました。いわゆるスエズ運河国有化です。

 これに対して、スエズ運河株式会社の株主であった英仏は激怒し、エジプトの宿敵、イスラエルと同調して、運河国有化の阻止を計画。10月29日、イスラエル軍がシナイ半島侵攻作戦を開始し、第2次中東戦争(スエズ動乱)が勃発しました。

 英仏はエジプト・イスラエルがともにスエズ運河地帯から撤退することを要求し、エジプトがこれを拒否すると、英落下傘部隊がポートサイド(スエズ運河の地中海川の出口)を急襲したものの、米ソを含む国際社会の厳しい非難を浴び、11月2日、関係国への停戦とスエズ運河通航の再開を求める国連総会決議997が採択されました。その後、11月4日から7日にかけて採択された総会決議998、1000、1001により、停戦の監視と英仏イスラエルのエジプト領内からの撤退確認のためにUNEF I が設立されます。そして、11月8日の停戦を経て、11月14日にはエジプトの合意が得られたことから、11月15日からUNEF I の展開が開始されました。

 UNEF I の人員の一部は、国際連合休戦監視機構(UNTSO)から引き抜かれたほか、中東地域に直接の利害を有しなかったブラジル・カナダなどから提供された人員で構成されていました。UNEFの最大人員規模は約6,000名で、1956年12月に英仏が、1957年3月にはイスラエルが1949年の休戦ラインまで撤退した後も、エジプト=イスラエル国境のエジプト側に展開。1967年にエジプトの要求で撤兵するまで、停戦監視を続けました。

 ちなみに、リオデジャネイロのフラメンゴ公園内にある戦没者慰霊塔の地下には、下の画像のように、UNEF I に参加したブラジル軍部隊を称えるプレートも置かれています。

      フラメンゴ公園・UNEFブラジル部隊を称えるプレート

 なお、このプレートがあるフラメンゴ公園内の戦没者慰霊施設については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でも詳しくご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


★★★ 講座のご案内 ★★★

 11月17日(木) 10:30-12:00 
 毎日文化センターにて、1日講座、ユダヤとアメリカをやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) 
  

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 NZ南島でM7.8の地震
2016-11-14 Mon 09:14
 ニュージーランドで、現地時間の141日未明(日本時間13日夜)、南島のクライストチャーチ北東約90キロの地点を震源とするマグニチュード(M)7.8の大規模な地震が発生。この記事を書いている時点で、少なくとも2人が亡くなったほか、大きな被害が生じているそうです。亡くなられた方のご冥福をお祈りし、被災者の方には心よりお見舞い申し上げるとともに、被災地の復旧・復興が一日も早く進むことをお祈りしつつ、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      NZ・クライストチャーチ博覧会(マオリ)

  これは、ニュージーランドが発行した1906年のクライストチャーチ国際展覧会の記念切手のうち、先住民マオリの文化を取り上げた1ペニー切手です。

 展覧会は、ニュージーランドを広く内外に紹介するため、ニュージーランド首相のリチャード・セドンが企画したもので(ただし、セドン本人は、展覧会開会前の1906年6月10日に亡くなっています。)、1906年11月1日から1907年4月15日まで開催されました。クライストチャーチのハグレイ公園内の2万7900平方メートルが会場となり、展示に使われた建物は当時のニュージーランド最大の大きさでした。

 会期中の総入場者数は200万人弱ですが、これは、当時のニュージーランドの総人口が100万人に満たなかったことを考えると驚異的な数字です。このため、展覧会は、巨額の赤字を出したものの、ニュージーランドの周知宣伝という点では大きな成功を収めたと評価されています。

 さて、今回の地震では、多数の負傷者や建物の倒壊、土砂崩れによる道路の寸断などの被害が報告されているほか、多くの地域で停電が発生して電話も不通となっており、政府の緊急対応チームがヘリコプターを投入して対応に当たっているそうです。また、首都ウェリントンやクライストチャーチでは津波が観測され、一時、数千人が避難(その後、津波への警戒態勢は引き下げられています)。キー首相は記者会見で「記憶している限りウェリントンで最も大きな衝撃だ。道路やインフラなどの復旧費用はかなり大きなものになる」と述べました。

 クライストチャーチといえば、東日本大震災直前の2011年2月、M6.3の地震があり、日本人留学生を含む182人が死亡したことは記憶に新しいところです。今回の地震は、その時よりも規模が大きく、現地ではM5を超える余震も続いており、多くの被災地で住民が避難しているとのこと。これ以上、被害が拡大することないよう、祈るばかりです。


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 11月17日(木) 10:30-12:00 
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 切手歳時記:炬燵開き
2016-11-13 Sun 10:02
 ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2016年11月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      第52回国際図書関連名東京大会

 これは、1986年8月23日に発行された“第52回国際図書関連名東京大会”の記念切手で、勝川春章の「風俗十二月図(婦女風俗十二月図とも)」の中から、「十一月 白雪」の一部分がトリミングして取り上げられています。

 第52回国際図書館連盟東京大会は、1986年8月24日から29日まで、東京の国立劇場、青山学院大学および日本青年館を会場として開催されました。

 切手に取り上げられた「風俗十二月図」の作者、春章は葛飾北斎の師匠で、明和(1764-71)から寛政(1789-1801)の初めにかけて活躍しました。細密な美人画を得意とし、1775年の洒落本『後編風俗通』には「春章一幅価千金」との一文も見られたほど、当時から人気が高かった画家です。

 「風俗十二月図」は、春章が一番脂の乗っていた天明期(1781-89)の作で、もともとは12幅で一揃いの軸物としてつくられました。縦長の画面に、数人の婦女子と楼舎、調度、花卉などを描き、その背景には月ごとの季節感や行事を取り込んでいます。

 ただし、オリジナルの軸のうち、1月と3月の2幅は失われたため、後に、これも名手の歌川国芳(1897-1861)によって補充されました。しかし、1月の軸は再び失われてしまったため、国芳の作品として現存しているのは「三月 潮干狩図」のみです。

 さて、第52国際図書館連盟東京大会の記念切手の題材として、「風俗十二月図」の「十一月 白雪」を選んだ理由として、当時の郵政省は、「大会の日本での開催にちなみ日本の伝統文化である浮世絵を取り上げた」が、「家族的な雰囲気で読書を描いた浮世絵は極めて少ない」と説明しています。

 たしかに、切手に取り上げられた部分を見ると、子供を膝の上に載せて本を読む(読ませる?)母親が描かれていますが、春章の絵の趣旨としては、この部分の肝は本の下の炬燵です。「十一月 白雪」のオリジナルでは、上方に小雪ちらつく窓外を眺める2人の女性を描き、その下に、寒さの中で母が子を炬燵に入れて本を読む場面を配する構図になっているからです。

 江戸時代、炬燵を出す“炬燵開き”の日は、武家は亥の月の初亥の日(最初の亥の日)、町屋の一般庶民は二の亥の日と決まっていました。

 亥の月は旧暦の10月(現在の暦だとほぼ11月)。したがって、春章の絵に描かれた町人の家では母子が炬燵に入っているのは、早くても10月の後半以降だから、実質的に炬燵を頻繁に使うようになるのは、画題の通り、11月(現在のほぼ12月)に入ってからということになるのでしょう。

 十二支はもともと中国の陰陽五行説に基づく習慣で、本来は動物とは無関係。“亥”は草木の生命力が種の中に閉じ込められた状態を表していますが、後に、庶民にも覚え易いように動物と結び付けられ、亥には“猪”が割り当てられました。ちなみに、猪の字の意味は、日本語では“イノシシ”ですが、中国語では“ブタ”です。

 また、日本古来の言い伝えでもイノシシは火を逃れて走ると考えられてきました。

 こうしたことから、亥の日に炬燵を出すと火事にならないとの俗信が生まれ、亥の子の日は炬燵開きの日になったわけです。

 ちなみに、今年(2016年)の亥の月の初亥は11月1日、二の亥は13日(まさに今日です)で、25日には三の亥もめぐってきます。ただし、悲しいかな、わが家にはエアコンのみで炬燵そのものがないので、“炬燵開き”のやりようがないのは、ちと残念ですが…。


★★★ 講座のご案内 ★★★

 11月17日(木) 10:30-12:00 
 毎日文化センターにて、1日講座、ユダヤとアメリカをやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) 
  

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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

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 孫文生誕150年
2016-11-12 Sat 11:01
 1866年11月12日に孫文が生まれてから、今日でちょうど150年です。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      香港・孫文生誕140年小型シート

 これは、いまから10年前の2006年に香港で発行された孫文生誕140周年の小型シートで、シート・マージンには、香港内の孫文ゆかりの地の地図が印刷されているのがミソです。

 孫文は、1866年11月12日、マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨で生まれました。幼名は孫帝象。後に、孫文、孫中山、孫逸仙などの名で、中国の国父として崇められることになりますが、革命家の常として、彼も生涯にさまざまな名前を名乗っています。一般に、日本では孫文、華人世界では孫中山、欧米ではSun Yat-sen(漢字表記だと孫逸仙)と呼ばれていますが、話の混乱を避けるため、ここでは、“孫文”の名で統一したいと思います。

 辛亥革命の指導者とされている孫文ですが、1911年に実際の革命が起こったとき、彼は中国大陸のどこにもおらず(というよりも、いられず)米国にいました。じっさい、彼が計画した武装蜂起の類はことごとく失敗し、広州から香港へ、さらには東京や横浜へと逃げ回るというのが、彼の基本的なライフ・スタイルでした。

 また、“三民主義”(その内容は決してリベラルなものではなく、一般の国民を“愚民”として、中国国民党による一党独裁を主張するものであることは意外と知られていないようです)を掲げるイデオローグではありますが、現実の革命家としては決して合格点を与えられる存在ではありません。

 しかし、それでもなお、人をひきつける強烈なカリスマ性があったのでしょう。現在なお、華人世界では、“孫中山先生”は中国の国父として絶大な尊敬を集めており、彼らの学校では、その生涯は繰り返し教えられているのは周知のところです。

 さて、孫文にとっても、香港は革命活動の重要な拠点で、「どこで革命を習ったか、私は香港で、と答える」という言葉を残していますが、実際、香港には孫文にまつわる“史蹟”が少なからず残されており、その一部は観光スポット化されている。今回ご紹介の小型シートは、それらを網羅した“孫文観光”の案内図のような形になっています。以下、地図に振られている番号順に各スポットと孫文の関連をみてみましょう。

 ① 香港大學
 孫文は革命家として功成り名を遂げた後の1923年2月、香港に立ち寄り、香港大學で講演を行い、人々は孫文を凱旋将軍のように迎えて歓迎しました。

 ② 拔萃書室の跡地
 孫文より15歳年長の兄、孫眉は、孫文が5歳のときにハワイに渡り、菜園での年季の労働者を振り出しに、マウイ島での開墾事業で成功。“マウイ王”と呼ばれるほどの資産家となり、1878年、当時12歳の弟をハワイへ呼び寄せました。

 ハワイでの孫文少年は、英国系のミッションスクールと米国系のオアフ学校に学び、西洋の文化と思想に傾倒。しかし、弟の“西洋かぶれ”が度を越しており、伝統的な祖霊崇拝を捨てて、キリスト教に改宗する気配さえみせるようになると、心配した兄は孫文を故郷に送り返しましたが、ハワイを後にした孫文は、一歳下の同郷の友人、陸皓東とともに香港で宣教師のハーガーから洗礼を受けて、両親に無断でキリスト教に改宗してしまいます。

 さて、故郷の翠亨村の生活は、ハワイでの青春を謳歌していた孫文にとって、あまりにも退屈きわまりないもので、ありあまる若さのエネルギーをもてあました彼はいたるところで衝突。そして、陸皓東と2人で、村人の信仰の対象であった北帝廟(悪魔の王を倒して神の称号を与えられたとされる北帝を祀った廟)の神様を単なる“土人形”と罵り、公衆の面前でその腕をもぎ取りってしまうという事件を起こします。

 ただでさえ、キリスト教徒というだけで保守的な村では西洋かぶれの鼻つまみ者の2人でしたが、この一件で完全に村にはいられなくなり、孫文は香港へ、陸皓東は上海へ、それぞれ、学校へ行くという名目で逃れました。このとき、香港へ渡った孫文が、英語を学ぶためという名目で入学したのが、②の抜萃書室です。

 ③ 同盟會招待所の跡地
 同盟會、すなわち中国同盟會は、義和団事件の混乱の中で孫文らが起こした1900年の恵州蜂起が失敗した後、革命派が陣容建て直しのため、1905年に大同団結して東京で結成した組織です。同盟會の結成に伴い、それまで香港にあった孫文の革命組織、興中會は同盟會分会として改組されて、ひきつづき、革命派の拠点となります。

 ④ 美國公理會(アメリカン・コングリゲーショナル・ミッション)福音堂の跡地
 1883年に孫文と陸皓東がキリスト教の洗礼を受けたという教会の跡地です。

 ⑤ 中央書院の跡地
 中央書院は1862年創立の官立学校で、1883年に孫文が②の拔萃書室から転入した当時はこの場所にありました。逃げるように香港での学生生活を始めた孫文の身を案じた兄は、弟を休学させてハワイに呼び寄せ、“まっとうな人間”になるよう必死に説得したものの、クリスチャンからの転向はかなわず、1885年、彼は中央書院に復学します。

 ⑥ “四大寇”聚所
 中央書院を卒業した孫文は、翌1886年、米国長老会派のジョン・ケルが経営する広州の広済医学校に進学しましたが、翌年、香港に新設されたばかりの西医書院(後述)に入学します。

 西医書院時代の孫文は、学業成績は優秀でしたが、おとなしく勉学のみをしているはずもなく、広州で知り合った三合会(反清復明を唱える秘密結社)の首領で侠客の鄭士良らと付き合い、清朝政府を公然と批判して“四大寇”(四人の悪党)の一人に数えられるほどの有名人となりました。当時の彼の仇名は孫大砲。すなわち、大法螺吹きの孫という意味です。この四人が出会った場所が、現在は印刷所となっている⑥の場所となります。

 ⑦ 楊衢雲暗殺の地
 ⑧ 輔仁文社の跡地
 楊衢雲は福建省出身の革命家で、1892年に香港で謝纉泰らと⑧の場所に輔仁文社を設立。1895年に香港興中会が結成されると、孫文よりも年長であった彼は初代会長に就任し、1900年の武装蜂起にも参加しましたが、翌1901年、⑦の場所で暗殺されました。

 ⑨ 皇仁書院(クイーンズ・カレッジ)の跡地
 皇仁書院は歌賦街にあった⑤の中央書院が改組されたもので、1889年から1894年までは維多利亞書院(ヴィクトリア・カレッジ)と称していましたが、1894年に皇仁書院となりました。この土地には1950年まで校舎がありましたが、現在では銅鑼灣(コーズウェイベイ)に移転しています。

 ⑩ 西医書院の跡地
 西医書院は香港の大富豪・何啓が、1884年に病没した妻アリスを記念して1887年に建てたアリス記念病院の付設施設として設立されたもので、香港初の本格的な西洋医学の教育機関です。

 アリス記念病院と西医書院の創立者となった何啓は、185年、香港のロンドン伝道教会の華人牧師の子として生まれ、英国で医学と法律を学び、1881年に妻のアリスと結婚して香港に戻りました。当初は医師として活動するつもりだったものの、華人が西洋人の医師の診察・治療を受けようとしなかったため、1882年からは弁護士として活動し、議政局議員も務めています。

 西医書院は、英文名称が“Hong Kong College of Medicine for Chinese”となっていることからもわかるように華人に対して西洋医学を教授するための機関で、1887年10月1日に開校。第一期入学者は孫文を含め11名いましたが、授業は厳しく、卒業試験を受けることができたのは孫文を含めて4名しかいませんでした。

 ⑪ 道濟會堂の跡地
 道濟會堂は1888年にロンドン伝道協会が建立した教会で、西医書院時代の孫文は、学校の近くのこの教会に足繁く通っていたといわれています。

 ⑫ 香港興中會本部の跡地
 興中會は、孫文が結成した清朝打倒の秘密結社です。

 1892年に西医書院を卒業した孫文は医師としての資格を取得し、その後しばらくは香港を離れ、マカオ、廣州で医師として開業するかたわら、同志とともに時事を論じる日々を過していました。

 1894年1月、孫文は、天津を訪れ、清朝の実力者で西医書院の名誉賛助人でもあった李鴻章に対して、国家改革の私案をまとめた進言書を一方的に送りつけます。当時は日清戦争が迫り情勢が緊迫していた時期で、李鴻章からすれば、無名の青年が書いた八千字もの長文を読む時間的余裕などあるはずはないのですが、孫文はそうした事情をまったく考慮せず、自分の建策を受け入れないのは清朝が悪いとして、その打倒を決意。同年11月、革命の秘密結社としてハワイで興中會を結成しました。

 さらに、翌1895年、孫文は香港に帰り、鄭士良や陸皓東らの年来の同志とともに、香港興中會本部を立ち上げました。その拠点が士丹頓街13号、すなわち、⑫の場所に置かれていたというわけです。

 もっとも、反政府活動の秘密結社ですから、“興中會”の看板を堂々と掲げるわけには行かず、表向きは商店を装って“乾亨行”の看板が掲げられていました。その由来は、『易経』の一節「乾元、天命を奉行すれば、その道乃ち亨る」です。また、興中會への入会の宣誓には「韃慮(満洲族)を駆除し、中華を回復し、合衆政府を創立する」との文言があったといわれています。

 ⑬ 杏讌樓西菜館の跡地
 香港興中會本部は、“会党”と呼ばれる秘密結社や“緑林”と呼ばれる無法者集団を動員するとともに、何啓やイギリスの新聞記者の支持をも取り付け、武器弾薬を準備して、着々と武装蜂起の準備を進めていましたが、彼らが謀議の場としてしばしば利用していたのが、⑬の西洋料理店、杏讌樓西菜館です。

 杏讌樓で食事をしながら、孫文たちは、廣州では旧暦9月9日の重陽節に墓参りの習慣があることに目を付け、メンバーに墓参りを儀装させて香港から広州に送り込み、武装蜂起を起こし、独立政府を樹立しようと計画します。

 しかし、この計画は事前に清朝側に察知されて失敗。陸皓東以下、40名以上が逮捕され、孫文も命からがら香港を経て日本に亡命しました。以後、孫文は清朝政府から体制転覆を狙うテロリスト集団の頭目として懸賞首となり、1912年に中華民国の成立が宣言されるまでの間、海外で亡命生活を送ることになります。

 亡命生活を始めて間もない1896年10月、孫文はロンドンで同郷の廣東人と称して近づいてきた清朝の公使館員に騙されて館内に拉致・幽閉されてしまい、後は本国に送還されて処刑を待つのみという窮地に陥りました。しかし、熱心なクリスチャンであったことが幸いし、英国人使用人の説得に成功。彼を介して西医書院時代の恩師で、ロンドンに帰国していたジェイムズ・カントリーと連絡し、そこから事件はロンドンの新聞社によって取り上げられ、国際的な批判を受けた清朝は孫文を解放せざるを得なくなりました。

 解放された孫文はこのときの経験を Kidnapped in London (中国語題名は『倫敦被難記』)として出版。それがちょっとしたベストセラーとなったことで、それまで単なる国外逃亡の指名手配犯だった孫文は、ようやく、革命家としての肩書を手に入れるのです。

 ⑭ 『中国日報』事務所の跡地
 1900年の恵州蜂起に先立ち、陳少白が革命宣伝のために発行した『中国日報』の事務所です。

 ⑮ 和記棧鮮果店三樓
 孫文たちが1903年の武装蜂起(失敗)の謀議をめぐらした場所です。

 なお、孫文と香港の関係については、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろと説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 一の酉
2016-11-11 Fri 11:30
 きょう(11日)は、一の酉です。というわけで、例年同様、最新の拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』の増刷を祈念して、同書で取り上げた“鳥”の切手の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・サンバ(2005)

 これは、2005年に発行されたブラジル=キューバ友好の切手のうち、ブラジルの象徴として、ニョオウインコと“サンバ・ヂ・ガフィエイラ”を取り上げた1枚です。

 ニョオウインコはブラジルの固有種で、マットグロッソ州北部、パラー州北部、マラニョン州北部、ロンドニア州の丘陵にある熱帯雨林に生息しています。全長34cmで、全身は黄色い羽毛で被われており、翼の羽先だけが深い緑色という配色は国旗と同じ組み合わせのため、オニオオハシとならんでブラジルの国鳥とされることもあります。また、現在はワシントン条約付属書I で絶滅の恐れが高い種として保護されていますが、一定の手続きを踏めば、ペットとして飼育することも不可能ではありません。

 一方、わが国では、“サンバカーニバル”という名称にみられるように、サンバとカーニヴァルは一体のものとみられることが多いのですが、リオデジャネイロでサンバとカーニヴァルが結びつくのは1930年代以降のことです。

 音楽としてのサンバは、公式には、1916年12月16日に楽曲として登録された「電話で(Pelo Telephone)」が最初の1曲とされていますが、サンバの原型となった舞踏と音楽は、すでに19世紀初めにアフリカのアンゴラ出身の黒人奴隷たちによって、奴隷貿易の集積地であった北東部のバイーア州に持ち込まれていたと考えられています。ちなみに、サンバという語の由来についても諸説あり、アンゴラで用いられていたバントゥ系諸語で“ダンスに誘う”を意味する“Zamba”、“Zambo”、“Zambra”、“Semba”などではないかと推測されています。

 その後、1871年の新生児解放令(同法の施行以降に生まれた者は、両親が奴隷であっても自由人となる)、1888年の奴隷制を完全に廃止する黄金法の施行を経て、“解放”された奴隷たちが職を求めてリオとその周辺に集まるようになると、しぜんと、アフリカ系の音楽とダンスもリオに持ち込まれました。

 リオに流入した黒人たちが主に演奏していたのは、バトゥカーダ(打楽器のみの構成による2拍子の音楽)、ショーロ(管楽器と弦楽器のバンドリン+、カヴァキーニョ、ギター、打楽器のパンデイロを基本構成とし、即興演奏を重視した三部形式の音楽)、ルンドゥー(アフリカ系の軽快な舞踏音楽)などで、ここに、ヨーロッパの舞曲であるポルカやマズルカ要素が入り込み、舞踏音楽としてのサンバが生まれます。

 前述の「電話で」はその1曲で、1917年、バイアーノとバンダ・ヂ・オデオンの2ヴァージョンのレコードが発売されてヒットしました。この結果、「電話で」は当時の舞踏音楽の最高の名誉として、翌1918年のカーニヴァルのテーマ曲の一つとなり、さらなる大ヒットを記録。これが、サンバとカーニヴァルの最初の接点となりました。

 これに対して、1920年代以降、レコード産業が発展すると、サンバのリズムやスタイルは多様化し、音楽として聴かせることに重きを置く歌謡サンバの“サンバ・カンサォン”等も誕生します。また、サンバが広く浸透することで、カーニヴァルとは無関係に、サロンやダンスホールで行われるペアダンスとしての“サンバ・ヂ・ガフィエイラ”が白人たちの間で流行し、定着していきました。

 現在でも、ブラジルでは、ただ単に“サンバ”というと、カーニヴァルのサンバではなく、サンバ・ヂ・ガフィエイラを指すことも多く、そうした事情を反映して、今回ご紹介の切手にも、ブラジルの象徴としてサンバ・ヂ・ガフィエイラが取り上げられています。

 なお、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』では、今年100周年を迎えたサンバの歴史についても、1章を設けてまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 

 * けさ、アクセスカウンターが172万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。


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 米新大統領にトランプ氏
2016-11-10 Thu 18:35
 米国の大統領選挙は、共和党のドナルド・トランプ候補が民主党のヒラリー・クリントン候補を破って当選を果たしました。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      米・トランプ当選記念カバー

 これは、きのう(9日)のトランプ勝利を受けて、クリントンをノックアウトするトランプのイラストが描かれた封筒に、切手を貼って消印を押した記念品です。消印は11月9日付のモンタナ州ドラのモノですが、モンタナ州でのトランプの勝利が確定したのが現地時間の8日20時、主要メディアがトランプ当確を報じたのが同9日0時頃ですから、朝一番で郵便局に行って消印を押して作って、販売サイトに出品したのでしょう。仕事が早いですな。 

 さて、今回のトランプの勝利については、さまざまな要因が挙げられますが、米国の言論空間ではあまりにもリベラルが強く、そのあまりにも極端な主張(たとえば、議長を“チェアマン”と呼ぶのは男女差別なので“チェアパーソン”と呼ばねばならない、“メリー・クリスマス”は非キリスト教徒に配慮して“ハッピー・ホリデー”と言い換えなければならない、など)に対して、善男善女が彼らの“常識”に照らして疑義を呈することさえ、“差別”として糾弾されかねないという現状に対する不満があったことは間違いないでしょう。

 たとえば、今回の選挙戦を通じて、トランプに対しては、移民排斥の差別論者という非難がしきりに浴びせられましたが、トランプの移民政策の主張を冷静に検証してみると、彼が「すべての移民を排斥しろ」と主張したことはなく、あくまでも、「不法移民がいけない」としか主張していません。

 そもそも、移民を受け入れるには、犯罪者やテロリストが紛れ込まないように、きちんとチェックする体制がなければならないし、仮に真面目な働き者であっても、不法な手段で入国するのは、法律に則って移民しようとする人々に対してアンフェアである。不法移民をコントロールできないということは国境を守れないということであり、自国の国境を守れないということは国家としての最低限の要件を満たしていない。また、不法移民を黙認し続けてきた結果、(不当・不法で)安価な労働力が流入し、一般の米国市民の賃金を低下させ、失業率を上昇させた。したがって、米国民のために、きちんと機能する移民制度が必要なのだ・・・

 移民問題についてのトランプの主張を要約すると、上記のようになります。

 じっさい、メキシコを中心としたラテン・アメリカからの不法移民・不法滞在者は、現在、米国内に3000万人以上いると推定されており、それに伴い、犯罪者やテロリストの数も急増して刑務所は常に満杯状態です。さらに、不法滞在者であっても、人道上の理由から、病院で無償の診療を受けることができるほか、その子供は教育を受ける権利が与えられ、自治体によっては自動車の運転免許を取得することができます。そして、彼らの社会保障に対して莫大な額の税金が投入され、そのことが、フツーに働いてフツーに税金を納めている善男善女の不満となっていますが、米国内でそうした不満を口にすると“差別主義者”とのレッテルを貼られるのが実情です。また、経済界も、安価な労働力としての不法移民・不法滞在者を重宝しているので、実際には、不法移民の問題については見て見ぬふりをし続けており、既存の政治家の多くも票田を失うことを恐れて、この問題をタブー視してきました。

 じっさい、そうした既存の体制に乗っかった“エスタブリッシュメント”の象徴ともいうべきクリントンは、選挙期間中、シリアからの難民の受け入れを550%増やすと主張していましたが、ここの難民の入国の適格性を審査する方法については一言も触れていません。

 こうした背景があるがゆえに、リベラル色の強い大手メディアや“知識人”がトランプの移民政策を“人種差別”と糾弾すればするほど、現実の社会の中で生活している善男善女の反発が鬱積し、そのことがトランプの勝利につながったという構図がつくられることになりました。

 いずれにせよ、今回のトランプの勝利は、英国のEU離脱に続き、第二次大戦後の西側世界の言論空間を覆っていた“(エリートの)リベラル”に対して、善男善女の“常識”がNOを突きつけたという面は確実にあるわけで、世界史的な文脈では、来年のフランス大統領選挙とセットで考える必要があるかもしれません。

 なお、今回の記事の制作にあたっては、江崎道朗先生の『マスコミが報じないトランプ台頭の秘密』を参考にしましたが、同書については、チャンネルくららの番組で僕もゲストで読んでいただき、じっくりご紹介したことがありますので、よろしかったら、こちらをクリックして動画をご覧いただけると幸いです。


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 世界の国々:キルギス
2016-11-09 Wed 11:05
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2016年11月2日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はキルギスの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      キルギス・ジャミーリャ

 これは、2009年に発行されたチンギス・アイトマートフ(2008年没)の追悼切手のうち、彼の代表作『ジャミーリャ』を取り上げた1枚です。

 現代キルギス最高の作家とされるアイトマートフは、1928年12月12日、ソビエト連邦キルギス共和国のタラス州シェケルに生まれました。名前はモンゴル帝国のチンギス・ハーンに由来します。幼年時代は遊牧生活を送っており、1937年には父親が“民族主義者”として粛清されるなど苦難を味わいましたが、共産主義体制下で勉学の機会を与えられ、1946年、フルンゼ(現ビシュケク)のキルギス農業大学畜産学部に入学。1953年に同大学を卒業し、畜産技師となりました。

 その後、畜産技師として働く傍ら、1956年から1958年にかけてゴーリキー文学大学で文学を学び、1958年、ソ連共産党機関紙「プラウダ」編集局に入局。この間、1957年に発表した『セイデの嘆き』(原題『面と向かって』)で本格的な文壇デビューを果たし、1958年、今回ご紹介の切手の題材ともなった『ジャミーリャ』で高い評価を得、続く1961年の『いとしのタパリョーク』(原題『赤いスカーフをした、私のタパリョーク』)をあわせた初期3部作によって、作家としての地位を確立しました。

 また、1990年にキルギスに大統領制が導入された際には、初代大統領の候補として立候補も要請されましたが、高齢を理由にこれを辞退し、彼の推薦したアスカル・アカエフが大統領となりました。独立後は、キルギスのヨーロッパ連合(EU)、北大西洋条約機構(NATO)、ユネスコ、ベネルクス駐在の各大使を歴任し、2008年に亡くなっています。

 今回ご紹介の切手取り上げられた『ジャミーリャ』のあらすじは以下の通りです。

 主人公の少年には2人の兄がいましたが、そのうちの1人は新婚4ヶ月の新妻、ジャミーリャを残して出征していました。ジャミーリアは美しく快活で生気に溢れていましたが、夫からの家族に当てた手紙には、末尾に妻によろしく、とあるだけで、2人の絆は希薄でした。少年はそんなジャミーリャに淡い恋心を抱きますが、ジャミーリャは負傷して村に戻ってきた詩人のダニヤールと不倫の恋に落ち、駆け落ちしてしまいます。ジャミーリャが去った後、少年は自分が彼女に抱いていた感情が“初恋”であったことに気付く…というものです。切手には、主人公ジャミーリャと物語の舞台となった農村のイメージが表現されています。

 『ジャミーリャ』は当時のソ連国内のみならず、各国語にも翻訳され、作品を仏訳した作家ルイ・アラゴンは「この世で最も美しい愛の物語である」と絶賛。日本でも、浅見昇吾ならびに小笠原豊樹による2種類の邦訳が出版されています。

 さて、『世界の切手コレクション』11月2日号の「世界の国々」では、キルギスの民族叙事詩『マナス』について、その過去と現在をまとめた長文コラムのほか、民営郵便のキルギス・エクスプレス・ポスト、民族衣装の帽子エレチェークの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、キルギスの次は、2日に発売された11月9日号でのトーゴの特集(2回目)になります。こちらについては、近々、このブログでもご紹介する予定です。


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 マルコス、英雄墓地に埋葬へ
2016-11-08 Tue 21:34
 1986年のピープル・パワー革命で亡命し、ハワイで客死したフィリピンの独裁者、フェルディナンド・エドラリン・マルコス元大統領の遺体について、フィリピン最高裁は、きょう(8日)、マニラ首都圏の“ボニファシオ・シティー”にあるリビンガン・ナン・マガ・バヤニ(通称・国立英雄墓地)への埋葬を認める決定を出しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      在比米軍・フォートマッキンリー・カバー(1946)

 これは、第二次大戦直後の1946年3月19日、マニラ近郊のフォート・ウィリアム・マッキンリー米軍基地内の第925野戦局から差し出された軍事郵便のカバーです。今回、マルコスの遺体が埋葬されることになった国立英雄墓地は、もともとは、同基地の敷地の一部でしたので、関連のマテリアルということで持ってきた次第です。

 フォート・ウィリアム・マッキンリー米軍基地は、米比戦争中の1901年、マニラ首都圏を流れるパシッグ川の南岸に開設されました。日米開戦を前に、軍事的緊張が高まるなかで、1941年7月26日、アメリカ極東陸軍が創設されると、その司令部が設置された基地でもあります。

 第二次大戦後の1946年7月4日、フィリピンが独立したことを受けて、1949年5月14日、フォート・ウィリアム・マッキンリー米軍基地はフィリピン政府に返還され、フィリピン陸軍の本部が置かれることになります。また、それにあわせて、基地の名前も、フォート・ウィリアム・マッキンリーから、19世紀末の独立革命の英雄、アンドレス・ボニファシオにちなんで、フォート・ボニファシオをと改称されました。

 英雄墓地は、フィリピン独立直線の1947年5月に設置され、独立後の1948年6月、フィリピン政府の管轄となりました。敷地面積は142ヘクタールで、もともとは、第二次大戦のフィリピン戦線での戦没者を埋葬するための施設で、各地で収集された無名兵士の遺骨が全体の8割を占め、それらは、バターンやタルラック、マニラ市内のフォート・サンチャゴなど地域ごとに整理され、埋葬されています。また、朝鮮戦争やヴェトナム戦争で亡くなったフィリピン人将兵の遺骨や、国内の共産ゲリラ(NPA)や分離独立を求めるイスラム勢力との戦闘で亡くなった将兵たちの遺骨も埋葬されています。

 さて、マルコスは、日本軍のフィリピン侵攻時、米比軍第21歩兵師団の戦闘情報局員として中尉の階級で従軍し、「18歳だった3人の新兵と共に、後方の日本軍前線を突破し敵兵の50人を殺害、同師団を釘付けにしていた日本軍の迫撃砲を破壊し、さらに日本軍の捕虜となった際、拷問をかけられながらもこれに反撃し脱出した」と主張し、その結果、大尉に昇進しています。しかし、実際には、マルコス本人は“バターン死の行進”から脱出することに成功はしたことまでは確認されているものの、その後の“軍功”を裏付ける資料や客観的な証言はなく、米公文書館の記録によれば、彼の戦時中の“抗日活動”の実績はほとんどなかったことが明らかになっています。

 それでも、マルコスは捏造した軍功により、自らを“抗日戦争の英雄”として人々に印象づけることに成功。そのことが、彼のその後の政治的な成功の出発点となったことは言うまでもありません。

 現在でも、マルコスの“抗日神話”はフィリピン国内では根強く信じられており、1998年に発足したエストラーダ政権は、遺族の希望もあって、マルコスの遺体を“抗日の英雄”として英雄墓地に埋葬する意向を表明。以後、マルコスの政治的評価をめぐり、彼の遺体を“英雄”の名を冠した墓地に埋葬することの是非をめぐって、長年にわたり、論争が続いていました。

 ことし5月に就任したドゥテルテ大統領は、もともとマルコス一族と親しかったこともあって、9月、北イロコス州に安置されていたマルコスの遺体を英雄墓地に埋葬する方針を表明。これに対して、“独裁政治の美化”と反発する声も強く、マルコス時代に人権侵害を受けた被害者らが差し止めを求め、最高裁に提訴していました。

 今回の裁定で、マルコスの遺体は英雄墓地に埋葬されることになったわけですが、本当に日本軍と戦ったフィリピンの英霊たちが、新入りのマルコスを見て「あれ、見たことのない奴だな。どうしてここにいるんだ?」と不審に思い、安らかな眠りを妨げられたりはしないか、僕などはそちらの方が心配ですな。


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 ニューデリーの青空
2016-11-07 Mon 11:24
 インドの首都ニューデリーでは、スモッグで視界不良になり、健康被害が懸念されるほどに大気汚染が深刻化したため、デリー首都圏政府のケジリワル首相は、きのう(6日)、ニューデリー市内の学校全校の3日間の休校、建設・解体工事の5日間の禁止等の緊急措置を発表しました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      インド・独立25年

 これは、1972年にインドで発行された独立25周年の記念切手で、晴天の下、ニューデリーの国会議事堂の前を国旗を掲げて行進する人々が描かれています。来年の独立70周年に同じ構図の記念切手を発行するとしたら、背景の空をグレーにして、人々はマスクをした姿で描くことになるのかもしれません。(本当にそうなったら嫌だけど)

 ムガール帝国の時代、帝国の首都はデリーに置かれていましたが、1858年に大反乱(いわゆるセポイの乱)を鎮圧してインドを制圧した英国はカルカッタ(コルカタ)に行政府を置きました。しかし、カルカッタはインド全体からみると東に偏っていることもあって、旧ムガール帝国の帝都であったデリーこそ英領インド帝国の首都にふさわしいとの声は根強く、ジョージ5世は1911年12月にデリーへの遷都を宣言しました。

 ジョージ5世の宣言を受けて、ムガール帝国時代の首都中心部(現在、オールドデリーと呼ばれている地域)の南側、シャー・ジャハンが建設した地域にあった副王の宮殿に新首都の礎石が置かれ、エドウィン・ラッチェンスとハーバード・ベイカーにより新都の都市計画が立案されました。

 ラッチェンスの立案した都市計画は、第一次世界大戦で戦死した兵士を追悼するためのインド門から総督府(現大統領官邸)まで東西に伸びるラージパト通りを中心に、そこから放射状に街路を伸ばす構造となっており、ラージパト通りと平行にベイカーの設計した国会議事堂など行政機関が配されています。また、放射状の街路のもう一つの焦点であるコンノートプレイスは、商業地区として建設されました。

 今回ご紹介の切手に描かれている国会議事堂は、1921年に着工し、1927年1月18日に完成記念式典が行われました。建物は、アショーカの法輪にちなむ円形で、 議事堂中央のドームは直径29.87m。建物の周囲は、広大な庭園とサーンチーのストゥーパの柵をモデルとした柵で囲われています。

 さて、デリーの大気汚染は、急激な経済発展に環境対策が追い付いていなかったことに加え、この1週間は、ディーワリーを祝う爆竹や花火、パンジャブ、ハリヤナ、ウッタルプラデシュの各州の農家による作物の焼却などの影響が加わって深刻な状況になり、今回の緊急措置となりました。

 今後、事態が改善されなければ、車のナンバープレートの番号が偶数か奇数かで交互に使える日を割り当てる制度を導入するなど、さらなる対策が講じられる可能性があるそうです。いずれにせよ、一日も早く、切手に描かれたような青空が回復してほしいものですね。


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 アイルランド、111年目の金星
2016-11-06 Sun 14:45
 ラグビーのテストマッチがきのう(5日)、米シカゴで行われ、2015年のW杯イングランド大会王者ニュージーランド代表(オールブラックス)が29-40でアイルランド代表に史上初の敗戦を喫し、先月達成した世界最長の連勝記録は18で途切れました。オールブラックスの敗戦は2015年8月のオーストラリア戦以来で、アイルランドは、1905年の初対戦から111年、通算29回目の対戦で初めてオールブラックスに勝利しました。といわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      アイルランド・ラグビー協会100年

 これは、1974年にアイルランドで発行されたアイルランドラグビー協会(IRFU)100年の記念切手です。

 アイルランドラグビー協会は、アイルランド島(アイルランド共和国および北アイルランド)のラグビー(ラグビーユニオン)を統括する競技運営団体で、1874年に設立されました。アイルランド代表としての初のテストマッチは1875年2月15日のイングランド戦です。

 ラグビーのアイルランド代表は、現在でも、アイルランド全島の代表となっているため、チーム内には英領北アイルランド(アルスター)の選手とアイルランド共和国(エール)の選手が混在しています。このため、かつては、試合前の“国歌斉唱”に際してアイルランド共和国の国歌「兵士の歌」が演奏されていましたが、1972年にアイルランド紛争が激化すると、無用の対立を避けるためとして国歌斉唱そのものが中止され、以後、試合前には対戦相手の国家のみが流れるという異常な事態が続いていました。ちなみに、1985年の日本遠征の際には、日本国内にも国歌斉唱に否定的な人たちがいたためか、「兵士の歌」だけでなく「君が代」の演奏も行われませんでした。

 1995年、W杯南アフリカ大会を前に、試験的に試合前に「兵士の歌」の吹奏が行われましたが、このときも、代表選手たちはその出身地によってはっきりと動作が分かれてしまったため、ラグビーナショナルチーム用のチーム歌として「アイルランズ・コール」が作られ、以後、共和国内で開催するホームゲームでは国歌の「兵士の歌」と「アイルランズ・コール」の両方を、アウェイゲームでは「アイルランズ・コール」のみを使用するということで決着が図られています。


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 世界漫郵記:リオデジャネイロ⑨
2016-11-05 Sat 09:59
 ご報告が遅くなりましたが、『キュリオマガジン』2016年11月号が発行されました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記」は前回に続き、リオデジャネイロ篇の第9回目。今回は、国立歴史博物館とカテドラル・メトロポリターナにフォーカスをあてました。その記事の中から、この1点をご紹介します。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      カテドラル・メトロポリターナ

 これは、2010年に発行されたカテドラル・メトロポリターナの切手です。

 リオには有名無名の教会が数多くありますが、中でもインパクトがあるのは、リオデジャネイロ大司教座がおかれているカンデラリア・メトロポリターナでしょう。

 もともと、リオの大司教座は、カンデラリア教会からもほど近いプリメイロ・デ・マルソに面したノッサ・セニョーラ・ド・モンテ・ド・カルモ教会(旧大聖堂)に置かれていました。

 同教会は、もともと、1590年にブラジルにやってきたカルメル修道会が建立した小さな礼拝堂でしたが、その後、礼拝堂は拡張され、1770年、“カルメル山の聖母教会”を意味するノッサ・セニョーラ・ド・モンテ・ド・カルモ教会として聖化されます。

 1808年、ポルトガル王室がリオに遷移すると、国王マリア1世がカルモ修道院を御座所としたことから、近接するノッサ・セニョーラ・ド・モンテ・ド・カルモ教会は王室礼拝堂となり、あわせて、リオの大司教座がおかれました。

 以後、1889年の帝政廃止までの間、ノッサ・セニョーラ・ド・モンテ・ド・カルモ教会は王室/皇室の教会として、ジョアン6世の戴冠式(1816年3月20日)、王太子時代のドン・ペドロ1世の結婚式(1817年11月6日)、ドン・ペドロ1世の戴冠式(1822年10月12日)、ドン・ペドロ2世の戴冠式(1841年7月18日)、皇女イザベルの結婚式(1864年10月15日)など、王室/皇室の慶事の舞台として使われています。

 共和制の発足に伴い、ノッサ・セニョーラ・ド・モンテ・ド・カルモ教会は皇室礼拝堂ではなくなりましたが、その後も、リオデジャネイロ大聖堂としての地位は維持しつづけていました。しかし、リオからブラジリアへの遷都後、リオ市内の再開発の一環として、1964年、レプブリカ・ド・パラグアイ通りとレプブリカ・ド・チリ通りに面した土地に、新たな大聖堂の建設が始まり、1976年、現在の大聖堂としてのカテドラル・メトロポリターナが完成。リオデジャネイロ大司教座もそこに移されました。

 さて、カテドラル・メトロポリターナは、教会建築としては珍しい円錐形で、直径106m、高さ96mで収容人員は2万人。円錐形の形は、人々と神との等しい関係、近さを表しているのだとそうです。天井には十字型の天窓があり、そこから床へ64mのステンドグラスが東西南北4方向に伸びており(下左の画像)、主祭壇の上空には、現代美術風にアレンジされた磔刑のキリスト像が中空に吊り下げられています。また、教会には東西南北に入口があり、東の入口にはキリスト像が、西の入口には、カトリックで人気の高い聖人、“アッシジのフランチェスコ”の像が置かれています。(下右の画像)

      カテドラル・メトロポリターナ内部  カテドラル・メトロポリターナ(フランチェスコ像)

 ちなみに、カテドラル・メトロポリターナとは通りのを挟んで反対側のビルの外壁は鏡面加工となっており、そこにカテドラルの外観が映っていますが、“近未来”風のカテドラルが、ガラスの窓枠でいくつにも細分され、ところどころで微妙に歪んでいるのは、それこそ、SF映画に出てくる時空の歪みが目の前に表現されているようで、ちょっとした奇観だったのが、印象に残っています。(下の画像)

      カテドラル・メトロポリターナ(鏡面)

 なお、カテドラル・メトロポリターナについては、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。なお、雑誌『キュリオマガジン』の「郵便学者の世界漫郵記:リオデジャネイロ篇」も、同書に収録しきれなかった内容を加えて、年内いっぱい連載を続けていく予定ですので、よろしくお願いいたします。
 

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 カブスが108年ぶり世界一
2016-11-04 Fri 11:39
 野球の米メジャーリーグは、きのう(日本時間3日。現地時間2日)、ワールドシリーズの最終第7戦がクリーブランドで行われ、延長戦の末、シカゴ・カブスが8―7でクリーブランド・インディアンスを下し、1908年以来108年ぶり3度目の世界一となりました。というわけで、カブスの地元、シカゴにちなんでこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      シカゴ・ローカル切手

 これは、1860年、シカゴの民間郵便会社、フロイズ・ペニー・ポストが発行した切手で、ジョン・フロイドの肖像が描かれています。

 南北戦争以前の米国郵政の郵便は遅配・誤配が多かったため、各地で民間のローカル郵便が運営されていました。今回ご紹介の切手を発行したフロイズ・ペニー・ポストもそうした民間会社の一つです。

 創業者のフロイドの経歴について、詳しいことはわかっていませんが、1849年、両親とともにシカゴに移住し、1857年まで金物商を営んでいたことが確認されています。また、1856年3月からしばらくの間、イリノイ州の州兵に関する事務を担当していました。彼の名前に“キャプテン”の称号が付けられることがあるのは、そうした事情によるものと思われます。

 1860年7月、フロイドはシカゴ市内のランドルフ通り124番地にオフィスを構えてフロイズ・ペニー・ポストを創業。同社は、かつての英国の1ペニー郵便になぞらえて、市内一律1セント(当時の米国郵政の書状基本料金は3セント)で郵便物を取り扱い、順調に業績を伸ばします。半年間で配達スタッフは8名から16名に倍増し、1861年2月14日付の『トリビューン』紙にはフロイズ・ペニー・ポストは1日あたり1万5000通の郵便物を取り扱っていたとの記事が掲載されています。

 しかし、南北戦争が勃発し、州兵時代の上官であったエルマー・エルスワーズが戦死すると、フロイズは北軍に参加して南軍と戦うことを決断。1861年6月、ペニー・ポスト社を地元の不動産業者、チャールズ・マッパに売却しました。会社の売却後、フロイドはスプリングフィールド近くのキャンプ・バトラーで軍事教練を担当するかたわら、ペニー・ポストの経営にもアドヴァイザー的な立場で関わっていました。その後、フロイドは、1862年1月、前線に赴くべくシカゴを離れたため、同年5月、マッパはペニー・ポスト社をキンボール・アンド・ウォーターマン社に売却。さらに、郵便事業の官営独占を厳格化する法令が施行されたことで、1862年11月、フロイドの創業したローカル郵便はわずか2年で営業を終えることになりました。

 ちなみに、フロイド本人はシカゴを離れた後、北軍の作戦中に南軍の捕虜になりましたが、1864年9月には解放されてシカゴに戻り、その後は1890年までアメリカン・エクスプレスの会計係として勤務しています。

 フロイズ・ペニー・ポストの廃業後も同社の切手はかなりの数が残されていましたが、1871年のシカゴ大火でその大半が焼失。現在では、今回ご紹介の青色のものは比較的残されているのに対して、同図案の茶色の切手や廃業直前の1862年10月に発行された緑色の切手はかなりの珍品になっています。 


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 明治神宮の切手
2016-11-03 Thu 11:17
 きょう(3日)は旧明治節(明治天皇の誕生日で1947年までの祝日)です。というわけで、ストレートにこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      明治神宮・1次昭和8銭

 これは、1939年8月11日に発行された明治神宮を描く8銭の普通切手です。切手は、1936年3月27日に撮影された写真をもとに木村勝が原画を作成したもので、神宮正面中央内側から拝殿が描かれています。当初、8銭切手の題材としては、日光東照宮陽明門が予定されていましたが、最終的に、陽明門は10銭切手の題材となり、8銭切手には明治神宮が取り上げられることになりました。

 明治天皇の遺徳を偲ぶため、天皇と皇后(昭憲皇太后)を祭神として祀る明治神宮の造営工事は1916年から始まり、全国から延べ10万人もの青年団が奉仕して1920年に完成となりました。

 社殿の建築様式は流造とよばれるもので、神明造の屋根に反りを付し、その前流れを長くしたもの。平安時代に発展した様式で、京都の下鴨神社がその典型です。なお、神社といえばつきものの狛犬ですが、明治神宮は古い形式の神社を踏襲しているため、狛犬は参道にではなく、内陣(本殿の最も奥、御神体あるいは御霊代を奉安する場所)に置かれています。

 神宮の造営以前、周囲は現在の御苑一帯を除いては畑がほとんどで、荒れ地のような景観が続いていたそうです。造成工事が始まると、日本全国はもとより、植民地の樺太(現サハリン)や台湾、満洲(中国東北部)、朝鮮などからも境内に植えるための樹木が奉納されました。その数は、実に365種類10万本。こうして、もともとは人工林として出発した“神宮の森”でしたが、その後、東京の気候にあわない樹木が枯れるなどして、ほぼ自然林に近い状態となり、現在は247種類17万本の緑が生い茂っています。


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 世界の国々:ベルギー
2016-11-02 Wed 11:20
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2016年10月26日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はベルギーの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ベルギー・ポールデルヴォー

 これは、1997年に発行されたポール・デルヴォー生誕100周年の記念切手です。

 ベルギー現代美術の巨匠、ポール・デルヴォーは、1897年、リエージュ州生まれ。1920-24年ブリュッセルの美術アカデミーに学び、初期は新印象派と表現派の様式で描いていましたが、その後、デ・キリコやマグリットに影響を受けシュルレアリスム運動に接近。1935年以降は、運動には直接参加しないままシュルレアリスム展にしばしば出品するようになりました。

 理想化された美しい裸婦が遠近法の建物や庭園、人工的な夜の中にたたずむ作品や、骸骨をモチーフとした作品など、幻想的な世界を描き続けたことから、“幻想画家”と称されています。今回ご紹介の切手に取り上げられているのは、1948年に制作された裸婦像です。

 さて、『世界の切手コレクション』10月26日号の「世界の国々」では、ベルギー・チョコレートの歴史をたどった長文コラムのほか、小便小僧、ダミアン神父、ワーテルローの戦いフライトアテンダントのナターシャ、ムール貝の切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、ベルギーの次は、26日に発売され11月2日号でのキルギスの特集(2回目)になります。こちらについては、近々、このブログでもご紹介する予定です。


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 ジャヤワルダナ没後20年
2016-11-01 Tue 11:52
 スリランカの第2代大統領で、1951年のサンフランシスコ講和会議にはセイロン代表として出席し、対日賠償請求を放棄する旨の演説を行ったジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナが、1996年11月1日に亡くなってから、きょうでちょうど20年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      スリランカ・ジャヤワルダナ

 これは、2004年にスリランカで発行されたジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナの肖像切手です。

 ジャヤワルダナは、1906年9月17日、英領セイロンの最高裁判所判事の息子として生まれました。ロイヤル・カレッジ・コロンボ在学中には、セント・トーマス・カレッジ マウント・ラビニア校とのクリケットのロイヤル=トミアン(1879年開始の世界で2番目に古い対抗試合)、に選手として出場したこともあります。

 コロンボ法科大学を卒業後、法曹界を経て、1938年、独立運動組織、セイロン国家機構 (CNC) の活動家となり、1948年のセイロン独立とともに初代蔵相として入閣しました。1951年のサンフランシスコ講和会議にセイロン代表として出席した際、「日本の掲げた理想に独立を望むアジアの人々が共感を覚えたことを忘れないで欲しい」と述べ、また、「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む」という法句経の一節を引用して、対日賠償請求を放棄する旨の演説を行い、日本が国際社会への復帰を後押ししました。

 1972年、仏教を準国教扱いにする新憲法が発布され、セイロンはスリランカ共和国となりますが、1977年の選挙でジャヤワルダナ率いる統一国民党が勝利を収め、首相に就任して、資本主義の導入、経済の自由化を開始します。その後、1978年に議院内閣制から大統領が執行権を行使する大統領制に移行し、国名がスリランカ民主社会主義共和国となると、首相を辞して大統領に就任しました。ただし、大統領制への移行当初は、スリランカ共和国時代の儀礼的な国家元首であったウィリアム・ゴパッラワが大統領職にあったため、ジャヤワルダナは、形式的には、第2代の大統領ということになります。なお、大統領の任期は1989年1月2日でしたが、任期中の1983年にはスリランカ内戦が勃発しています。

 ジャヤワルダナは訪日経験が豊富で、1989年の昭和天皇の大喪の礼にも前大統領の肩書で、プレマダーサ大統領(当時)に代わって参列ました。また、1991年には日本の仏教関係者の招待で広島市を訪れ、広島平和記念資料館を見学したほか、1996年に亡くなった際には、「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」との遺言により、角膜が日本に贈られました。

 ちなみに、今回ご紹介の切手にもあるように、ジャヤワルダナのファースト・ネームとミドル・ネームの“ジュニアス・リチャード”の略号はJRですが、スリランカではジャヤワルダナのサンフランシスコ講和会議でのスピーチが広く知られているため、日本を訪れて電車に乗ったスリランカ人の中には、「日本人は講和会議での恩義を忘れないために、すべての電車にジャヤワルダナのイニシャル“JR”を打ち込んでいる」と勘違いする人もいるというジョークもあるのだとか。それだけ、スリランカの人にとって、ジャヤワルダナは日本との友好のシンボルということなのでしょうが、その反面、日本では必ずしも彼の知名度が高いと言えないのはちょっと残念ですな。


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