2021-01-14 Thu 01:50
きょう(14日)は、1895年1月14日、日本政府が尖閣諸島の日本領への編入を閣議決定したことにちなむ“尖閣諸島開拓の日(尖閣の日)”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
![]() これは、1992年7月27日、那覇から尖閣諸島の魚釣島宛に差し出された葉書で、尖閣諸島は無人島のため、8月1日から10月18日まで、最寄りの八重山局で保管されていたものの、受取人が保管期間内に現れなかったため、差出人に返戻されています。 1885年以降、わが国は沖縄県当局等を通じて尖閣諸島の現地調査を幾度も行い、無人島であるだけでなく、清国を含むいずれの国にも属していない土地(無主地)であることを慎重に確認したうえで、1895年1月14日の閣議決定で、尖閣諸島を沖縄県に編入しました。 翌1896年、魚釣島と久場島はまもなく八重山郡に編入され、北小島、南小島と共に国有地に指定され地番が設定。同年9月、魚釣島、久場島、北小島及び南小島は実業家の古賀辰四郎に対して30年間無償で貸与されることになり(無償貸与期間終了後は1年契約の有償貸与)ました。その後、尖閣諸島は1903年に行政上は登野城村の一部となりましたが、1908年に島嶼町村制が施行されると、登野城は八重山郡八重山村(八重山列島全域)の字となり、さらに、1914年八重山村より分村した石垣村に編入されました。石垣村は1926年に石垣町に、さらに米施政権下の1947年に石垣市となり、1964年に当時の大浜町との合併により、現在の市域になっています。 尖閣諸島に関しては、1932年、魚釣島、久場島、北小島及び南小島4島が古賀辰四郎の嗣子である古賀善次に払い下げられ私有地となり、アホウドリの羽毛の採取、グアノ(海鳥糞)の採掘、鰹漁業、鰹節の製造等が行われていましたが、1940年頃、古賀善次は尖閣諸島での事業を撤退し、再び無人島となります。 第二次大戦後の1946年1月29日、GHQは「外郭地域分離覚書」を発し、北緯30度以南の南西諸島の行政権は日本から分離されました。これに伴い、尖閣諸島は沖縄の一部として米国の施政権下に置かれ、米軍の射爆演習場として利用されていました。 ところが、1969年、国連アジア極東経済委員会の海洋調査で、尖閣周辺にイラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告されると、1971年4月、台湾の国民政府が尖閣諸島の領有権を主張しはじめます。さらに、同年12月には、中国も尖閣諸島の領有権を主張し始めました。 しかし、そうした主張は国際的には全く相手にされず、1971年6月に沖縄返還協定が調印され、1972年5月に沖縄が祖国に復帰すると、尖閣諸島もそれに伴い、日本国沖縄県石垣市に編入されて現在にいたっています。 近年、中国は尖閣諸島への領土的野心を隠そうとせず、2008年以降、尖閣諸島沖の日本領海内での侵略行為を頻繁に繰り返し、はなはだしくは、彼らの息のかかった反日団体を魚釣島西側の岩礁に不法上陸させるなど、まさにやりたい放題の状態です。 もちろん、一義的には、侵略行為を繰り返す中国が悪いことはいうまでもないのですが、その一方で、多くの日本国民が尖閣諸島については無関心であったことが今日の事態を招いてしまったのだという現実を受け止め、真剣に反省するとともに、尖閣の防衛には何が必要なのか、まずは我々自身は真剣に考えることが必要ではないかと思います。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ ![]() 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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