2019-08-31 Sat 04:07
中国本土への容疑者引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」改正案などへの抗議活動が続いている香港で、きのう(30日)、民主団体「デモシスト」の幹部で、“民主の女神”とも称される周庭(アグネス・チョウ)さんが、同じくデモシストの幹部、黄之鋒(ジョシュア・ウォン)さんとともに逮捕されました。その後、本日予定されていたデモの中止が発表されると、同日夜、2人は釈放されました。保釈後の周さんは「私たち香港人は諦めません。これらの白色テロと不正義を恐れることはありません」と語っています。というわけで、女神を逮捕するような罰当たりな連中に抗議すべく、香港の“女神”の切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2012年5月22日に香港で発行された“香港節日(香港の祭日)”の切手のうち、“天后誕”を取り上げた切手で、切手上部には中国大陸南部沿岸地域で広く信仰を集めている女神、天后(媽祖の異称)の像が取り上げられています。 媽祖は、もともと海の守り神で、そのモデルとなった黙娘の生年については、南唐(937-975)、五代(907-960)、唐の天宝元年(742)、後晋の天福8年(943)、宋の建隆元年(960)、太平興国元年(976)など諸説ありますが、西暦10世紀前後の人物だったと考えられています。 出身地は、興化軍莆田県湄州島(現在の福建省)で、都巡林愿の六女として生まれ、16歳の頃に神通力を得て、村人の病を治したり、漁民を海難事故から救ったりしたことから、“通賢霊女”と呼ばれて崇められていました。しかし28歳の時に父が海難に遭い行方知れずとなったことから、これに悲嘆して旅立ち、峨嵋山の山頂で仙人に誘われ、虹の光が輝き管弦の音が響く中、湄峰山から飛び立ち、女神としての媽祖になったとされています。 もともと、媽祖は海の守り神とされていましたが、次第に、この地域に広まっていた観音信仰と混交し、万物に利益がある女神として信仰を集めるようになります。 12世紀になると、宋に朝貢に来た船が、帰路、高麗に寄った際、途中で暴風雨に見舞われたものの媽祖の加護で守られたとされたことから、宮廷により、“順済”の号を贈られました。これが、宮廷が媽祖に与えた号の最初で、以後、媽祖への祈りによって海賊が平定されたり、飢饉から救われたりするたびに、宮廷は、“崇福”、“照応”、“霊恵”などの号を媽祖に与えました。 そして、元代の1281年、媽祖は護国明著天妃に封じられると、その後も順調に位階を上げ、清代の1684年には、ついに最高位の天后に封じられました。以後、媽祖を祀った廟が“天妃宮”、“天后宮”などとも呼ばれるようになり、媽祖=天后というイメージが定着しました。 今回ご紹介の題材となっている“天后誕”は、旧暦3月23日の媽祖の誕生日を祝う祭礼で、1年間の漁の安全と豊漁を祈願するため、船を華やかに飾り立て、神への供物をたくさん並べるほか、各地の天后廟では古来からの儀式が催されます。香港では、特に、壮麗な山車と獅子舞のパレードの元朗の祭礼が有名です。 ちなみに、香港に隣接するマカオで、媽祖を祀っている媽閣廟については、こんな伝説があります。 その昔、福建から廣東に旅立つ船団がありました。そこへ一人の娘が、お金がないので無料で船に乗せてもらえないかと頼んで回りましたが、これを聞き入れたのは1隻だけで、他はすべて乗船を断らりました。やがて、船団が出航すると、大嵐が襲来し、船はことごとく海の藻屑となりましたが、娘を乗せた船だけは無事にマカオの浜ににたどり着きました。到着後、船乗りがふと見ると、娘の姿はそこにはなく、やがて女神の姿となって陸に現れたとか。そこで、その場所に小さな祠が立てられ、それが、現在の媽閣廟のルーツとなりました。 この故事に倣い、どうか、民主化という“女神”の願いを無視し、彼女を逮捕した香港警察や、その背後で、彼女は自業自得だなどと嘯く北京政府の連中には、天后様の神罰が下りますように。 ★ 9月6日(金) 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 9月6日(金)05:00~ 文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★ イベントのご案内 ★★ ・インド太平洋研究会 第3回オフラインセミナー 9月28日(土) 15:30~ 於・イオンコンパス東京八重洲会議室 内藤は、17:00から2時間ほど、“インド太平洋”について、郵便学的手法で読み解くお話をする予定です。 参加費など詳細は、こちらをご覧ください。 ★★ 講座のご案内 ★★ 武蔵野大学生涯学習秋講座で、以下の講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) ・2019年10月13日(日) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) ・2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 切手と浮世絵 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-30 Fri 03:32
第二次世界大戦直後のガーンジー島を舞台にした映画『ガーンジー島の読書会の秘密』が、きょう(30日)から公開されます。というわけで、きょうはこんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦中、英本土とガーンジー島を赤十字経由で往来したレターシートです。 英仏海峡に浮かぶチャンネル諸島は、ジャージー島、ガーンジー島、オルダニー島、サーク島、ハーム島の5島と付属の島嶼で構成されており、933年、ノルマンディー公国の領地に編入されました。その後、1066年のノルマン・コンクエストにより、ノルマンディー公ウィリアムがイングランド王になるとイングランド王の所領となります。1204年、イングランド王兼ノルマンディー公ジョンはフランス王フィリップ2世にノルマンディー地方を奪われましたが、チャンネル諸島に関してはイングランド王の所領にとどまり、1254年にはイングランド王室の個人領地となっています。 現在でも、チャンネル諸島は英国王の私領地との扱いで、英国王をその君主とし、英国がその外交及び国防に関して責任を負うものの、内政に関して英議会の支配を受けず(=英国の法律や税制は適用されない)、独自の議会と政府を持ち、海外領土や植民地と異なり高度の自治権を有しています。また、欧州連合にも加盟していません。(したがって、今回の英国のEU離脱問題とも基本的には無関係です) さて、第二次大戦中の1940年6月22日、フランスがドイツに降伏すると、地理的にフランス本土に近いチャンネル諸島はドイツの軍事的脅威にさらされることになりました。しかし、英本国は早々にチャンネル諸島の放棄を決め、早くも6月16日、チャンネル諸島の行政機関は無防備都市を宣言。これに対して、同28日、ドイツはチャンネル諸島のガーンジー島とジャージー島の港湾への爆撃を開始し、7月1日にはチャンネル諸島全域を占領しました。 これに伴い、英本土とチャンネル諸島との間の通常の郵便は途絶し、赤十字の仲介による郵便交換が始まります。今回ご紹介のレターシートは、そうした赤十字の仲介による郵便交換のために用いられたもので、差出人が指定のレターシートに通信文を書いてそれをスイスのジュネーヴの赤十字本部経由で名宛人に送り、受け取った名宛人は自分が受け取ったシートを使って再びジュネーヴ経由で返信する方式になっています。 今回ご紹介のレターシートは、1942年4月30日、英本土ドンカスターの赤十字機関をリターンアドレスとしてジュネーヴの国際赤十字本部に送られ、そこでドイツ側に引き渡された後、ドイツ当局の検閲を受けて、5月20日、ガーンジーの名宛人に届けられています。その後、レターシートを受け取った名宛人は、1942年8月4日、返事を書いてジュネーヴ宛に送り、そこから、英国の赤十字を経て元の差出人に返信されています。 なお、ドイツ側は、1945年5月8日に本国国防軍が降伏するまでチャンネル諸島の占領を維持していましたが、翌9日に降伏を表明。これを受けて、英海軍の駆逐艦二隻がセント・ピーター・ポートに入港し、ようやく、占領は終了しました。 ★★ イベントのご案内 ★★ ・インド太平洋研究会 第3回オフラインセミナー 9月28日(土) 15:30~ 於・イオンコンパス東京八重洲会議室 内藤は、17:00から2時間ほど、“インド太平洋”について、郵便学的手法で読み解くお話をする予定です。 参加費など詳細は、こちらをご覧ください。 ★★ 講座のご案内 ★★ 武蔵野大学生涯学習秋講座で、以下の講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) ・2019年10月13日(日) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) ・2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 切手と浮世絵 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-29 Thu 03:46
米クリーブランド自然史博物館のヨハネス・ハイレセラシエ博士らのチームは、2016年にエチオピア北部、アファール地域で発掘した化石から、約380万年前の初期人類アウストラロピテクス・アナメンシスの顔を復元したと、28日付の英科学誌ネイチャー電子版に発表しました。というわけで、アウストラロピテクスの切手の中から、この1枚です。
これは、2000年に南アフリカ共和国(南ア)で発行された“世界遺産”の切手のうち、スタルクフォンテイン(世界遺産としての登録名称は“スタルクフォンテイン、スワルトクランス、クロムドライおよび周辺地域の人類化石遺跡群”)を取り上げた1枚で、アウストラロピテクス属の基準種となったアウストラロピテクス・アフリカヌスの化石が取り上げられています。 1924年、オーストラリア出身の解剖学者レイモンド・ダートは、キンバリー近郊のタウングの採石場で見つかったというヒヒの骨に興味を持ち、同僚のロバート・バーンズ・ヤングを通じて、その石灰石採掘場の所有会社と交渉し、化石を含む岩塊を取り寄せました。ダートはその中から人間とも猿ともつかない動物の頭蓋骨を発見。前かがみ気味に直立二足歩行していた人類の祖先のものであると考え、1925年、“南の(Australo-)猿(pithecus)”を意味する“アウストラロピテクス・アフリカヌス”として学術雑誌『ネイチャー』に発表します。ちなみに、この化石人骨は“タウング・チャイルド”または“タウング・ベビー”と呼ばれています。 しかし、当時は、類人猿から人類が進化したのなら、類人猿が生息するような熱帯雨林が見られない南アフリカに人類の祖先がいたはずがないとの考え方が主流で、研究者の多くはダートの発見には否定的でした。 その後、プレトリアのトランスヴァール博物館の古生物学者ロバート・ブルームが、1936年にスタルクフォンテインで発掘を開始し、アウストラロピテクス・アフリカヌスの化石を発見。1938年に発掘を始めたクロムドライではパラントロプス・ロブストゥス(アウストラロピテクス・アフリカヌスに次ぐ2番目の化石猿人)を発見し、ダート説の正しさが裏付けられました。 さらに、1947年4月17日、ブルームとジョン・ロビンソンは、南アフリカのスタールクフォンテイン石灰採集場を爆破した際に、中年女性のものと思われる頭蓋骨を発見。当時、ブルームはこの化石を“プレシアンスロプス・トランスヴァーレンシス”に分類したため、メディアはこの化石を“ミセス・プレス”と呼びました。これが、今回ご紹介の切手に取り上げられている頭蓋骨の化石です。 ただし、この化石には、かつてダートが報告したように、類人猿の特徴が見られず、むしろ人類と近い特徴が見られたため、後に、アウストラロピテクス・アフリカヌスへと分類が修正されました。なお、当初、中年女性のものとみられていた頭蓋骨ですが、現在では若い女性のものとみられています。 その後、アウストラロピテクス属のうち、アフリカヌスに先行するものとして、(古い順に)アナメンシス、バーレルガザリ、アファレンシスが発見されていますが、今回、復元されたのはそのうちのアナメンシスのもので、あごが前に突き出し、耳の穴が小さく、脳を収容する空間が細長くて小さいなど、アナメンシスよりも古い時代の初期の猿人に近いそうです。 ★★ イベントのご案内 ★★ ・インド太平洋研究会 第3回オフラインセミナー 9月28日(土) 15:30~ 於・イオンコンパス東京八重洲会議室 内藤は、17:00から2時間ほど、“インド太平洋”について、郵便学的手法で読み解くお話をする予定です。 参加費など詳細は、こちらをご覧ください。 ★★ 講座のご案内 ★★ 武蔵野大学生涯学習秋講座で、以下の講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) ・2019年10月13日(日) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) ・2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 切手と浮世絵 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-28 Wed 09:35
ご報告が遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2019年8月14日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はキューバの特集(6回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2013年に発行されたホセ・ラウル・カパブランカの切手です。 ラテンアメリカはチェスが盛んですが、なかでも、キューバは不世出の天才、ホセ・ラウル・カパブランカの出身地ということもあって、チェスは国民的な娯楽として定着しています。 カパブランカは、スペイン領時代の1888年11月19日、ハバナ生まれ。4歳のときに父親が友人とチェスをしているのを見て指し方を覚え、ルールを覚えてから3日後に父親を負かし、13歳の若さでキューバチャンピオンとなりました。 18歳の時、米コロンビア大学に留学し、化学を専攻したものの、チェスに没頭し過ぎて中退。1909年、当時、米国最強を謳われていたフランク・マーシャルに勝ったことで一躍有名となりました。その後、キューバ政府から外交官に任命されたものの、任地でもチェスばかりで、外交官としての仕事はほとんどしなかったそうです。 1914年、当時の世界チャンピオンでユダヤ系ドイツ人のエマーヌエール・ラスカーに挑戦状を送りましたが、第一次世界大戦が勃発したこともあって、対局が実現したのは7年後の1921年のことでした。この時、14番勝負のうち、14局を終了したところでラスカーが棄権し、4勝10分け無敗でカパブランカが世界チャンピオンとなりました。その後、1927年にロシア系フランス人のアレクサンドル・アレヒンに敗れて王座を失いましたが、その後も、1942年3月8日、ニューヨークで亡くなるまで、国際大会で活躍しました。 ちなみに、チェ・ゲバラもチェスの愛好家でしたが、この点については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧ください。 さて、『世界の切手コレクション』8月14日号の「世界の国々」では、1962年のミサイル危機後のキューバをめぐる国際関係についての長文コラムのほか、葉巻農家、ハバナのジョン・レノン公園、ヘスス・メネンデス、キューバワニ、ベネズエラとのボリバル同盟の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のキューバの次は、2019年8月21日発売の同28日号でのボリビア(と一部グレナダ)の特集です。こちらについては、近々、このブログでもご紹介する予定です。 ★★ イベントのご案内 ★★ ・インド太平洋研究会 第3回オフラインセミナー 9月28日(土) 15:30~ 於・イオンコンパス東京八重洲会議室 内藤は、17:00から2時間ほど、“インド太平洋”について、郵便学的手法で読み解くお話をする予定です。 参加費など詳細は、こちらをご覧ください。 ★★ 講座のご案内 ★★ 武蔵野大学生涯学習秋講座で、以下の講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) ・2019年10月13日(日) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) ・2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 切手と浮世絵 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-27 Tue 01:43
インドネシアのジョコ・ウィドド大統領は、きのう(26日)、ジャカルタから移転する新首都はカリマンタン島(以下、ボルネオ島)東端、東カリマンタン州のクタイカルタヌガラと北プナジャムパスルの両県の一部に設置することを決定したと発表しました。というわけで、きょうは同島関連のマテリアルの中から、こんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、先の大戦中、日本軍占領下の南ボルネオで発行されたバンジェルマシン暫定切手です。 1941年12月8日、オランダに対して宣戦を布告した日本軍は、1942年1月11日、ボルネオ島北部のタラカンとセレベス(スラウェシ)島北部のメナドに上陸。以後、島々の占領を進め、3月20日にオランダ領東インド(以下、蘭印)の全地域を占領下に置きました。 これを受けて、蘭印地域のうち、スマトラ島とジャワ島をのぞく地域(具体的には、ボルネオ島の旧オランダ領地域=南ボルネオ、セレベス、モルッカ諸島、小スンダ列島、西ニューギニアなど)は海軍が占領行政を担当することになり、セレベス島のマカッサルに南西方面海軍民政府本部が設置され、その下部組織としての海軍民政部がマカッサル(セレベス島)、バリックパパン(ボルネオ島。後に島内のバンジェルマシンに移転)、アンボン(後にバリ島のシンガラジャに移転)の3ヶ所に設けられ、現地の占領行政を担当しました。 こうした海軍の占領地区では、占領当初、接収した蘭印の切手に“大日本”の文字と海軍を示す錨を加刷した切手が使われていましたが、1943年8月以降(一部は7月から)、海軍民政府独自の切手が使われるようになりました。 しかし、一部では切手の不足が生じたためか、1945年1-2月、日本海軍の占領当局はボルネオ島バンジェルマシン近郊のクアラ・カプアスの境界にあった印刷工場から用紙と印刷機を接収し、バンジェルマシンのボルネオ新聞社で印刷した暫定切手を発行しました。 暫定切手は“大日本/郵便切手/金五仙(または金十仙)/海軍民政府”の文字と額面数字だけの簡単なもので、田型ごとに“バンジェルマシン郵便局長”の丸印が押されました。暫定切手は、170万枚ほど作られたと推定されていますが、その大半は終戦後、焼却処分になったといわれており、残存数は多くはありません。 切手の印刷を担当したボルネオ新聞社は、日本占領下で朝日新聞社が現地紙『カリマンタン・ラヤ』社を接収し、バンジェルマシンに設立した新聞社で、開戦1周年にあたる1942年12月8日から日本語紙の『ボルネオ新聞』を発行しました。 その後、翌1943年4月29日の天長節にはバリクパパンに支社を開設して『ボルネオ新聞 東部版』の発行を開始。これに伴い、バンジャルマシン本社が発行するものは,『 ボルネオ新聞 中部版』となりました。 さらに,ポンティアナックで華字紙を発行していた西部ボルネオ新聞社を接収してポンティアナック支社を設立し、1943年 8月1日には『ボルネオ新聞 西部版』を創刊。1944年 10月5日、カナ文字を主体とする週刊『ニッポン語新聞』を発行しています。 さて、今回提案された首都の移転先は、地理的にはインドネシアの島々の中心に位置しており、ジョコ大統領によると、政府はすでに18万ヘクタールの土地を確保しているそうです。新首都は2021年から建設工事を始め、2045年に完成予定だとか。予定通りに工事が進んだとしても25年以上も先のことですので、それまでには、日本占領下の南ボルネオの話なんかも加えて、拙著『蘭印戦跡紀行』の増補版を作りたいですね。 ★★ イベントのご案内 ★★ ・インド太平洋研究会 第3回オフラインセミナー 9月28日(土) 15:30~ 於・イオンコンパス東京八重洲会議室 内藤は、17:00から2時間ほど、“インド太平洋”について、郵便学的手法で読み解くお話をする予定です。 参加費など詳細は、こちらをご覧ください。 ★★ 講座のご案内 ★★ 武蔵野大学生涯学習秋講座で、以下の講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) ・2019年10月13日(日) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) ・2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 切手と浮世絵 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-26 Mon 02:34
中国本土への容疑者引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」改正案などへの抗議活動が続いている香港で、きのう(25日)、新界・荃湾の商店街で警察がデモ隊に発砲しました。一連の抗議行動が始まって以来、香港警察が(催涙弾ではなく)実弾を発砲したのは初めてです。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、今年(2019年)4月30日に香港で発行された“われらの警察”の切手のうち、“国際協力(國際合作)”の4ドル90セント切手で、銃を構える警察官と警察車両がデザインされています。 “われらの警察”は、1844年に英領香港で警察制度が発足してから175周年になるのを記念して発行されたもので、現在の香港警察の活動を紹介する6種セットの単片切手と小型シートで構成されています。今回ご紹介の“國際合作”の切手について、香港郵政は以下のように説明しています。 技術の急速な発展に伴い、国境を越えた犯罪活動が増えています。越境犯罪を探知するには国際協力が欠かせません。香港警察は、越境犯罪と最も効果的に戦うため、犯罪についての情報交換やテロ対策のための国際協力、調査研究、訓練などについて、長年にわたり、海外の多くの地域の法執行機関と連携しています。 この切手が発行された4月末の時点では、香港政府としても、問題の「逃亡犯条例」を原案通りに改正するつもりで、わざわざ越境犯罪に対する“國際合作”を切手の題材にも取り上げたものと思われます。しかし、「逃亡犯条例」の改正により、北京政府による香港への統制がきつくなり、特に、民主派とみなされた人々は法の恣意的な運用によって中国に引き渡されるのではないかという香港市民の不安は強く、そのことが、6月4日の天安門事件30周年を機に、一連の抗議活動へと発展していったことを考えると、今となっては何とも皮肉な切手になってしまいましたね。 ちなみに、先月21日の元朗駅でのテロ事件の際の警察の不手際(事前に情報を得ていながら、白シャツ隊のテロを事実上黙認)や白シャツ隊との癒着疑惑、今月12日、尖沙咀で女性が警察にビーンバッグ弾を撃たれ、右目が失明した事件などで、香港市民の警察不信が非常に高まっており、きょうのデモでも、「還警於民(警察を市民のもとに取り戻そう)」とのスローガンが掲げられました。 また、きょうも、デモ隊への発砲だけでなく、現地時間の21時頃には、荃湾で五星紅旗を揚げ、鉄パイプを持った白シャツ隊が出没し、デモ隊を追いかけて殴りかかっていたにもかかわらず、警察はこれを制止せず、見て見ぬフリをしている動画がSNS上には上がっています。 切手の題目のように、香港市民が“われらの警察”を取り戻す日が来ることを切に願ってやみません。 ★★ イベントのご案内 ★★ ・インド太平洋研究会 第3回オフラインセミナー 9月28日(土) 15:30~ 於・イオンコンパス東京八重洲会議室 内藤は、17:00から2時間ほど、“インド太平洋”について、郵便学的手法で読み解くお話をする予定です。 参加費など詳細は、こちらをご覧ください。 ★★ 講座のご案内 ★★ 武蔵野大学生涯学習秋講座で、以下の講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) ・2019年10月13日(日) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) ・2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 切手と浮世絵 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-25 Sun 09:13
G7サミット=主要7か国の首脳会議“ビアリッツ・サミット”が、日本時間の本日(25日)未明、フランス南西部ビアリッツで開幕しました。フランスでのサミット開催は、2011年のドーヴィル・サミット以来7年ぶり。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1976年にフランスが発行した観光宣伝の切手で、今回のサミット開催地、ビアリッツの海岸が描かれています。 ビアリッツはスペインとの国境にも近いバスク地方の主要都市のひとつで、フランス地図を六角形に見立てた場合、左下角の部分に当たります。 ビアリッツは、もともと、捕鯨を中心とする漁村でしたが、18世紀以降、海に面した療養地として脚光を浴びるようになりました。特に、1855年、皇帝ナポレオン3世が皇后ウジェニー・ド・モンティジョのために別荘(今回、首脳たちが宿泊しているオテル・デュ・パレの前身)を建てたのを皮切りに欧州貴族が贅沢な館を競い合うようになり、カジノも作られました。英国のヴィクトリア女王、エドワード7世、スペイン国王のアルフォンソ13世らもこの地を頻繁に訪れています。 また、ヴィクトル・ユゴーが「私はビアリッツより魅力的でより素晴らしい場所をおよそ知らない」と絶賛したほか、ピカソは1918年に妻オルガとの新婚旅行でこの地に滞在し、『水浴』を描くなど、芸術家たちにも愛された土地です。ちなみに、日本の文化人切手に取り上げられた筝曲家の宮城道雄も1953年にビアトリッツに滞在しており、彼が宿泊していた家には、そのことを示すプレートがつけられています。 ★★ イベントのご案内 ★★ ・インド太平洋研究会 第3回オフラインセミナー 9月28日(土) 15:30~ 於・イオンコンパス東京八重洲会議室 内藤は、17:00から2時間ほど、“インド太平洋”について、郵便学的手法で読み解くお話をする予定です。 参加費など詳細は、こちらをご覧ください。 ★★ 講座のご案内 ★★ 武蔵野大学生涯学習秋講座で、以下の講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) ・2019年10月13日(日) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) ・2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 切手と浮世絵 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-24 Sat 10:11
中国本土への容疑者引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」改正案をめぐる抗議活動が続いている香港で、きのう(23日)、市民らが手をつないで“人間の鎖”をつくる抗議活動が行われました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2006年5月27日、米国・ワシントンで開催された世界切手展<Washington 2006>に際して香港が発行した切手シートで、虹の下で手をつなぐ世界の子供たちが描かれています。このデザインは切手を通じた世界の友好を表現したものですが、多くの人々が手をつなくさまは、外見上、人間の鎖と同じですので、取り上げてみました。 さて、“人間の鎖”は、ナチス・ドイツとソ連が東欧の分割を密約した独ソ不可侵条約の調印50周年にあわせて、1989年8月23日、バルト三国の市民約200万人が手をつないで675キロの“バルトの道”を作り、ソ連の支配に抗議したのが始まりで、香港の“人間の鎖”はその30周年を記念して企画されました。 昨日の“人間の鎖”は、MTR港島線、観塘線、荃湾線の主要路線の計39駅に人々が集合して行われ、“香港の道”の全長は40キロ以上にも及びました。また、抗議行動は“和理優(平和的、理性的、優雅さ)”の基本方針に従い、参加者たちは「自由のために闘おう!」、「香港人頑張れ!」などのスローガンを叫び、自由と民主主義を実現する活動への支援を国際社会に訴えていました。 こうした活動には、今回ご紹介の切手のように、全世界の人々が連帯の意を示さないといけませんね。 ★★ イベントのご案内 ★★ ・インド太平洋研究会 第3回オフラインセミナー 9月28日(土) 15:30~ 於・イオンコンパス東京八重洲会議室 内藤は、17:00から2時間ほど、“インド太平洋”について、郵便学的手法で読み解くお話をする予定です。 参加費など詳細は、こちらをご覧ください。 ★★ 講座のご案内 ★★ 武蔵野大学生涯学習秋講座で、以下の講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) ・2019年10月13日(日) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) ・2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 切手と浮世絵 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-23 Fri 08:25
きょう(23日)は、1939年8月23日に独ソ不可侵条約(に付随する東欧分割の密約)が調印されたことにちなみ、2009年に欧州議会が制定した“スターリニズムとナチズムの犠牲者追悼の日”です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1939年9月17日、独ソ不可侵条約の密約に基づき、ソ連が“ウクライナ系・ベラルーシ系市民の保護”を口実にポーランド東部国境から侵攻を開始し、ポーランド東部を占領したことを記念して、1940年4月に発行した“(ポーランドの)西ウクライナおよび西ベラルーシ人民の解放”の切手です。 1935年にヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄して再軍備を宣言したドイツは、1936年3月にはヴェルサイユ条約で軍隊の駐留が禁止されていたラインラント地方に軍隊を進駐させたのを皮切りに、1938年3月にはオーストリアを併合。 同年9月にはミュンヘン会談でチェコスロヴァキアのズデーテンラントの獲得を英仏に呑ませ、翌1939年3月にはプラハを占領してチェコを保護国とし、リトアニアからメーメル地方を割譲させました。 一方、ソ連はドイツの東方侵出を警戒し、英仏との提携を模索していましたが、ミュンヘン会談の結果、英仏がドイツに妥協したことで英仏への不信感を強めます。さらに、1939年5月、極東でノモンハン事件が発生したことで、ソ連にはドイツとの衝突は避ける必要が生じました。 これに対して、次のターゲットとしてポーランドを狙っていたドイツも、英仏との戦争を想定し、ソ連との戦争を回避する必要があったため、結果的に両者の思惑が一致。こうして、極秘交渉の末に、1939年8月23日、独ソ不可侵条約が調印されます。 独ソ不可侵条約には、東欧をドイツとソ連の勢力圏に分割するという秘密議定書がついており、ナレフ川=ヴィスワ川=サン川を境界として両国でポーランドを分割すること、バルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)およびルーマニア領ベッサラビアはソ連が併合し、フィンランドをソ連の勢力圏とすることが謳われていました。 これに従い、1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻すると、同17日、ソ連軍は“ウクライナ系・ベラルーシ系市民の保護”を口実にポーランド東部国境から侵攻を開始。独ソ両軍は衝突することもなく、秘密議定書の分割線に従って占領域を確定させ、9月28日には独ソ不可侵条約を前進させたドイツ・ソビエト境界友好条約が締結されます。ちなみに、ドイツ軍のポーランド侵攻に対してドイツに宣戦布告した英仏ですが、同じくポーランドに侵攻したソ連に対しては宣戦布告をしませんでした。 ★★ イベントのご案内 ★★ ・インド太平洋研究会 第3回オフラインセミナー 9月28日(土) 15:30~ 於・イオンコンパス東京八重洲会議室 内藤は、17:00から2時間ほど、“インド太平洋”について、郵便学的手法で読み解くお話をする予定です。 参加費など詳細は、こちらをご覧ください。 ★★ 講座のご案内 ★★ 武蔵野大学生涯学習秋講座で、以下の講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) ・2019年10月13日(日) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) ・2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 切手と浮世絵 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-22 Thu 03:49
香港の英国総領事館員、サイモン・チェン氏が8日に深圳市で開かれた会合後、行方不明になっていた問題で、中国外務省は昨日(21日)、同氏を拘束していることを明らかにしました。というわけで、きょうはこんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、昨年(2018年)9月17日、香港で発行された“廣深港高速鐵路香港段”の切手シートです。チェン氏は、この高速鉄路に乗って深圳から香港に戻る途中で中国側に 廣深港高速鐵路は、中国の廣州南駅から深圳北駅を経由して香港の西九龍駅に至る高速鉄道で、2005年12月18日に起工し、まず、2011年12月26日に広州=深圳北間が開通。ついで、2015年12月30日に大陸側の終点となる福田駅まで延伸しました。一方、香港側では2010年1月27日に起工し、2018年9月23日、西九龍から落馬洲で本土側とつながり、福田駅までが開通しています。今回ご紹介の切手は、香港側の開通に合わせて発行されたものです。 高速鉄路の開通以前から運行していた在来線の広九直通列車(香港・九龍=中国・廣州東/肇慶)では、香港と大陸側のそれぞれの駅で出入境審査が行われていますが、高速鉄路では、香港側の西九龍駅で香港・中国の出入境審査が同時に行われるため、駅構内の一部や車内では中国の法律が適用されています。このため、開業前から、一国二制度が蔑ろにされていることへの批判がありましたが、今回のチェン氏の 西九龍=深圳間の所要時間は最短で14分ですが、香港から乗車する場合は入出国審査があるため、西九龍駅には45分以上前に着いている必要があります。それでも、まぁ、1時間半も見ておけば十分でしょう。 今回、中国側に拘束されたチェン氏は、8日、深圳市で開かれた会合に領事館の職務として参加。帰りの高速鉄道に乗って交際相手の女性に「もうすぐ境界を通過する」と伝えたのを最後に連絡が取れなくなり、その日のうちに帰宅しなかったため、家族らが香港警察に通報。香港警察は、チェン氏を“行方不明者”として捜索に着手し、中国当局とも“緊密に連絡”を取り合っていると発表する一方、家族に対しては、チェン氏が中国当局に拘束された可能性を口頭で伝えていました。 一方、中国外務省は、チェン氏が“公共の安全を管理する規則”に違反したため また、報道官は、香港の抗議行動が始まって以来、英国が旧宗主国として憂慮を示していることについても、「(英政府には)無責任な発言をやめ、香港に干渉するのをやめ、中国の内政を邪魔することをやめるよう要請する」と強調していますが、このことは、結果的に、中国側は英国の批判を封じ込めるため、チェン氏を人質として拘束したことを匂わせるものとなっています。 まぁ、こういうことをやるから、香港市民は中国に反発して抗議活動をしているんですが…。 一刻も早いチェン氏の解放をお祈りしております。 ★★ イベントのご案内 ★★ ・インド太平洋研究会 第3回オフラインセミナー 9月28日(土) 15:30~ 於・イオンコンパス東京八重洲会議室 内藤は、17:00から2時間ほど、“インド太平洋”について、郵便学的手法で読み解くお話をする予定です。 参加費など詳細は、こちらをご覧ください。 ★★ 講座のご案内 ★★ 武蔵野大学生涯学習秋講座で、以下の講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) ・2019年10月13日(日) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) ・2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 切手と浮世絵 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-21 Wed 02:08
ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2019年7月17日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はオーストラリアの特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2005年に発行された“オーストラリアのファッション・レジェンド”の切手のうち、日本人デザイナー、五十川明を取り上げた1枚です。 五十川明は、1964年、京都市生。佛教大学卒業後、1986年にワーキング・ホリデーでオーストラリアに渡り、イースト・シドニーTAFEで服飾を学びました。1999年からパリ・コレに出展。また、同年、オーストラリアン・ファッション・ウィークでデザイナー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、オーストラリアを代表するファッションデザイナーとしての地位を確立し、2005年には今回ご紹介の切手にも取り上げられました。 その後、 2007年には、第1回オーストラリア・ファッション大賞を受賞。また、2012年には、国際社会で顕著な活動を行い世界で“日本”の発信に貢献したとして、内閣府から「世界で活躍し『日本』を発信する日本人」の一人に選ばれています。 さて、 『世界の切手コレクション』7月17日号の「世界の国々」では、第二次大戦後、日本に進駐したオーストラリア軍についての長文コラムのほか、元首相のビリー・ヒューズ、ブラック・スワン、アンザック・ビスケット、ワイン・ガードナー、テニスの全豪オープン、ブルー・マウンテンズ、ロックバンドのAC/DC、ピンクダイヤモンドの切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のオーストラリアの次は、8月7日発売の同14日号でのキューバ、21日発売の8月28日号でのボリビア(と一部グレナダ)の特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。 ★★ イベントのご案内 ★★ ・インド太平洋研究会 第3回オフラインセミナー 9月28日(土) 15:30~ 於・イオンコンパス東京八重洲会議室 内藤は、17:00から2時間ほど、“インド太平洋”について、郵便学的手法で読み解くお話をする予定です。 参加費など詳細は、こちらをご覧ください。 ★★ 講座のご案内 ★★ 武蔵野大学生涯学習秋講座で、以下の講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) ・2019年10月13日(日) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) ・2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 切手と浮世絵 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-20 Tue 02:13
秋篠宮ご夫妻と悠仁親王殿下は、きのう(19日)、同国の首都・ティンプーで、ジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王(以下、ワンチュク現国王)ご夫妻を表敬訪問されました。というわけで、両国の友好関係を示すものとして、こんな切手シートをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2004年にブータンで発行された“食糧増産援助(2KR)20周年記念”の切手シートです。 日本とブータンの正式な外交関係の樹立は1986年のことですが、事実上の鎖国体制にあったブータンと日本との交流は、1957年には大阪府立大学助教授(当時)の中尾佐助が、お忍びで京都を訪れていた当時の王妃に直談判し、翌1958年、日本人として初めて入国を許されたことから始まります。 ブータンの基幹産業は農業で、現在でも労働人口の約6割が地域自給自足型の農業に従事し、低地部ではコメ、国土の50%を超える山岳部では果樹などを栽培していますが、日本との交流が始まった1950-60年代は、鎖国政策の影響もあり、伝統的な農業がそのまま維持されており、収穫が非常に少ないものでした。 そこで、1964年、海外技術協力事業団(現・国際協力機構)は農業技術者として西岡京治を派遣。西岡は日本の農業技術をブータンに導入し、翌1965年には飛躍的な増産に成功。その後もブータン農業の改善に尽くし、1980年には当時のジグミ・シンゲ・ワンチュク国王から“ダショー(最高の人)”の称号を授与されました。 1984年には、日本による“食糧増産援助(2KR)”が開始され、農業の機械化も飛躍的に進みました。今回ご紹介の切手シートは、ここから20周年になるのを祈念して発行されたもので、農作業の機械化前後を比較するサンクミ種の切手を連刷形式で収めています。 こうした前史を経て、1986年、両国の正式な外交関係が樹立され、友好関係が続いていますが、特に、ブータン王室は親日の気風が強く、1989年の昭和天皇崩御に際しては、ジグミ・シンゲ・ワンチュク国王が自ら大喪の礼に参列されただけでなく、自国も1ヶ月間の喪に服しています。 また、2011年3月12日には、ワンチュク現国王が前日に発生した東日本大震災の“供養祭”を執り行われ、18日には義援金100万ドルが日本に贈られました。その後、同年11月15日、ワンチュク現国王が結婚したばかりのジェツン・ペマ王妃とともに震災後初の国賓として来日された際、体調不良だった上皇陛下に代わり、当時皇太子だった今上陛下が、ブータンからの義援金と国王自ら被災者のための法要を営まれたことへの謝意を国王に示されました。 ★★ イベントのご案内 ★★ ・インド太平洋研究会 第3回オフラインセミナー 9月28日(土) 15:30~ 於・イオンコンパス東京八重洲会議室 内藤は、17:00から2時間ほど、“インド太平洋”について、郵便学的手法で読み解くお話をする予定です。 参加費など詳細は、こちらをご覧ください。 ★★ 講座のご案内 ★★ 武蔵野大学生涯学習秋講座で、以下の講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) ・2019年10月13日(日) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) ・2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 切手と浮世絵 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-19 Mon 03:26
英国の保護国だったアフガニスタンが1919年8月19日に独立を果たしてから100周年となりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1964年にアフガニスタンで発行された“独立記念日”の記念切手で、当時のアフガニスタン国旗が描かれています。 1837年、ヘラートの領有権をめぐり、ロシアの支援を受けたカージャール朝ペルシアがアフガニスタンを攻撃。このため、ロシアの南下を恐れる英国はアフガニスタンを支援することで対抗しようとしました。これに対して、カブール王として、現在のアフガニスタン国家の領域にほぼ相当する地域を支配していたドースト・ムハンマドは、ペシャワールをシーク教徒から奪回する聖戦への協力を英国に要求したものの、シーク教徒との結びつきを強めていた英国はこれを拒否しました。 このため、シーク教徒に対抗する必要からドースト・ムハンマドがロシアに接近すると、危機感を抱いた英国はアフガニスタンへの武力侵攻を決定し、1838年、いわゆるアングロ=アフガン戦争(第一次)が勃発します。 開戦当初、英軍は大勝を収め、カンダハル、ガズニを相次いで占領。首都のカブールも攻略して、ドースト・ムハンマドを追放し、サドーザイ氏族のシャー・シュジャーを擁立して傀儡政権を樹立しました。しかし、アフガニスタンの諸部族は、“異教徒との聖戦”を掲げて英国に激しく抵抗したため、1842年1月、英国はカブールからインドへ撤退。その途中、アフガン兵は雪で覆われた山道を撤退する英軍を追撃し、4500人の英印軍と1万2000人の民間人のうち、成人男女1人ずつと1人の子供を残して皆殺しにしました。さらに、同年4月には、シャー・シュジャーも暗殺され、ドースト・ムハンマドが君主の座に返り咲きます。 1863年にドースト・ムハンマドの後を継いだシェール・アリーの時代、ロシアが再び南下政策を進ねたため、シェール・アリーは英国に支援を要請しましたが、色好い返答が得られなかったため、1878年、ロシアと外交交渉を開始。すると、危機感を抱いた英国はアフガニスタンに侵攻し、1878年11月、第2次アングロ=アフガン戦争が勃発します。 その結果、シェール・アリーは失脚し、1879年1月に調印されたガンダマク条約により、アフガニスタンは英国の保護国となりました。しかし、英国に保護国化された後もアフガン人の抵抗は頑強で、1881年までに英軍はアフガニスタンからの完全撤退を余儀なくされました。 こうして、武力によるアフガニスタン支配が困難であることを悟った英国は、新たにアフガニスタンの君主となったアブドゥル・ラフマーン(ドースト・ムハンマドの孫)を支援してアフガニスタンの中央集権化を推進し、アフガニスタンをロシアに対する緩衝国として育成すべく方針を転換。英国の支援を受けたアブドゥル・ラフマーンは、1884年、念願の国内統一を達成し、1891年にはアフガニスタン王国の成立を宣言しました。 1914年に第一次大戦が勃発すると、国王ハビーブッラー(1901年に即位)は中立を宣言。これは、英露両国との戦争は不可能という現実的な判断と、同じムスリム国家としてオスマン帝国への攻撃は忍びないという妥協の産物でしたが、こうした現実的な外交姿勢は、国内反英民族主義者の反感を買うことになりました。その結果、大戦終結後の1919年、ハビーブッラーはジャララバード近郊で謎の死を遂げ、息子のアマーヌッラーが即位します。 そして、1919年5月、アマーヌッラーは、大戦後の英国の衰退とインドの混乱(インドでは、大戦への協力の代償として約束されていた戦後の独立が反故にされたことから、ガンディーによる反英運動が昂揚していました)に乗じてインドに侵攻。第三次アングロ=アフガン戦争(アフガニスタン独立戦争)が勃発します。 すでに大戦で疲弊していた英国はアフガニスタン支配の意欲を喪失していたこともあって、戦争は早期に終結。講和条約として1919年8月19日に結ばれたラーワルピンディー条約により、アフガニスタンの独立が国際的に承認されました。 今回ご紹介の切手は、ここから起算して45周年、1919年を初回とすると46回目の独立記念日に際して発行されたものですが、左上のパシュトー語の記念銘が、なぜか“独立33年”となっていたため、急遽、その部分を金色の加刷で塗りつぶしてから発行されています。 さて、アフガニスタン政府は、きょうの独立100周年に際して、再建されたダルラマン宮殿で記念式典を行う予定でしたが、おととい(17日)夜、式典会場近くで行われていた結婚式で、過激派組織イスラム国ことダーイシュ系の地元組織が自爆テロを行い、この記事を書いている時点で、63人が死亡、182人が負傷したため、式典は延期となりました。 亡くなられた方のご冥福と負傷者の方の一日も早い御快癒をお祈りしております。 ★★ 講座のご案内 ★★ 武蔵野大学生涯学習の秋講座で、以下の講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) ・2019年10月13日(日) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) ・2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 切手と浮世絵 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-18 Sun 01:31
キューバ第一次独立戦争(十年戦争)の指導者で、キューバでは“国父”とも称されるルロス・マヌエル・デ・セスペデスが、1819年8月18日に誕生してから200年周年となりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1954年にキューバで発行されたセスペデスの肖像切手です。 セスペデスは、1819年8月18日、スペイン植民地時代のキューバ・オリエンテ州(現グランマ州)のバヤモで生まれました。 バルセロナ大学を卒業後、弁護士資格を取得しましたが、1843年、スペインで行われた革命運動に関与したため投獄され、釈放後、キューバに帰国し、バヤモ近郊のヤラに砂糖のプランテーションを購入し、弁護士の傍ら、製糖工場を経営していました。 当時、キューバ島内の地主たちの中には、権威主義的で旧態依然たるスペインの植民地政府とその腐敗・無能に不満を持つ者も多く、1867年、彼らはキューバ使節団の本国国会への派遣を求めましたが、スペイン側はこれを拒否。このため、セスペデスらはスペインからの独立に向けた秘密結社、ブエナ・フェを結成します。 そして、1868年10月10日、セスペデスは、自らの工場の奴隷を解放して147人の叛乱軍を組織し、スペインからの独立と奴隷の解放を宣言しました。これが、“ヤラの叫び”と呼ばれる事件で、1878年まで続く“十年戦争”の開幕を告げる狼煙となります。 ヤラでの蜂起は数日間でほぼ鎮圧されましたが、叛乱軍は州内のバヤモに移動して要塞を構築。オリエンテ州を拠点にキューバ東部全体に勢力を拡大します。バヤモは1869年1月12日に陥落しましたが、1月に入ると叛乱は中部カマグエイ州にも波及し、カマグエイ州で開催された議会は、4月10日に共和国憲法を発布し、12日にセスペデスをキューバ共和国の初代大統領に選出しました。 その後、セスペデスは独裁を批判されて1873年10月27日に解任され、1874年2月27日、山中に潜伏していたところをスペイン軍に殺害されます。しかし、独立派の抵抗は続き、1878年2月10日に締結された停戦協定では、キューバ植民地の財務状況を改善するための諸改革が約束されたほか、スペイン国会へのキューバ代表権も認められました。 ちなみに、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、1959年のキューバ革命の前史として、セスペデス以来のキューバ独立運動史についてもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひ、お手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 講座のご案内 ★★ 武蔵野大学生涯学習の秋講座で、以下の講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) ・2019年10月13日(日) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) ・2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 切手と浮世絵 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-17 Sat 00:28
きょう(17日)は、インドネシアの独立記念日です。というわけで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、インドネシア独立戦争中、インドネシア共和国側が日本占領時代の切手を接収し、“インドネシア共和国(Repoeblik Indonesia)”と加刷した切手です。戦前のオランダ領東インド(蘭印)切手に、日本占領下のパレンバンで、中央郵便局のI・P・レンコン局長のイニシャル“IPL”を加刷した切手に、さらに、インドネシア共和国の文字と新額面を加刷したもので、第二次大戦をはさんでの蘭印/インドネシアの激動の歴史が凝縮されたような1枚となっています。 第二次大戦中、蘭印を占領した日本軍は、政治犯としてオランダに捕らえられていたスカルノやハッタらインドネシア民族主義指導者を解放する一方、石油資源の安定確保のため(そもそも、これこそが戦争の目的でしたから)、蘭印を直轄の軍政地域としました。しかし、戦局が悪化してきた1945年3月、インドネシアを親日国家として独立させるよう方針を転換。独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させています。 こうして、終戦間際の8月7日、スカルノらは独立準備委員会を設立。その第1回会議は18日に開催される予定でしたが、8月15日、日本の降伏が発表されたことで、日本の軍政当局の主導による独立準備は中止されてしまいます。そこで、2日後の8月17日、スカルノらインドネシアの民族主義者たちは、オランダ軍が再上陸してくる前に、機先を制してインドネシア共和国の独立を宣言しました。場所はジャカルタのスカルノ私邸で、約1000名が立会ったそうです。 ちなみに、1945年8月17日に発せられたインドネシア共和国独立宣言の書面上の日付が皇紀を採用した“05年8月17日”となっているのは有名な話です。この点については、「ムスリムであるスカルノが日本への感謝の意を示すとともに、(オランダの宗教である)キリスト教に由来する西暦を嫌ったため」という類の説明が散見されますが、これは事実と異なります。 日本占領時代のジャワ島では公文書に皇紀が採用されていました。このため、日本の占領が続いている限り、公文書の日付も皇紀で記すのが正式なスタイルとなります。 上述のように、スカルノらは、1945年8月17日に独立宣言を行いましたが、この時点では、対日降伏文書は調印されておらず、したがって、連合国による日本軍の武装解除と占領行政の接収も行われていませんから、スカルノらが“インドネシア共和国”の領土とした地域では、日本の占領状態が続いているというのが建前です。このため、公文書としての書式を整えようとすれば、日本占領時代の書式に従い、皇紀を使うというのが自然なスタイルです。これは、彼らの対日感情とは全く別の次元の話で、純粋に事務的な形式上の問題です。 じっさい、連合国軍の上陸により日本軍の武装解除が行われると、スカルノのインドネシア共和国はすぐに西暦の使用を再開しており、郵便物に押される消印の年号表示も西暦に戻っています。また、現在のインドネシアでは、独立宣言というと1955年にスカルノが録音した音源が広く知られていますが、ここでの年号は皇紀の“(26)05年”ではなく、西暦の“1945年”となっていることも見逃してはなりません。 さて、独立宣言を受けて、9月4日にはスカルノを首班とするインドネシア共和国が成立。この間、8月22日には人民治安団が政府布告によって結成され、政府は日本軍政下で結成された旧PETA(郷土防衛義勇軍)系の将兵、兵補らに参加を呼びかけます。さらに、10月になって日本軍の武装解除のため英連邦軍やオランダ軍が本格的に進駐してくると、スカルノらはこれに対抗すべく人民治安軍を組織し、インドネシア独立戦争に投入していきました。 一方、戦争に敗れた日本軍は、連合軍の命令により、東南アジアの各占領地域を現状維持のまま、上陸する連合軍部隊に引き渡すことになり、インドネシア独立派への武器引渡しは禁止されていました。しかし、一部の地域では、独立派の要請に対して武器庫を開放することもあったほか、旧日本軍の将兵の中には、“東亜解放”の理念を奉じて独立派に身を投じた人が約1000人いたそうです。そのうち、半数が戦死・行方不明となり、生き残った後も、日本に帰らず、インドネシアで生涯を終えた人も少なくありません。 現在、インドネシア政府は、独立戦争を生き抜いた旧日本軍の将兵にはゲリラ勲章を授与しているほか、独立戦争中の戦死者・陣没者や独立戦争に参加した戦績のある元将兵については、没後、本人や遺族が希望しない場合を除き、ジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめ国内各地の英雄墓地に埋葬されることになっています。独立の英雄として英雄墓地に埋葬されることはインドネシアでは最高の栄誉とされており、その葬儀にはインドネシアの国防省代表、インドネシア国軍の葬儀委員、儀仗兵、軍楽隊が参加して、厳粛に執り行われます。 なお、これまでも散々書いてきたことの繰り返しになりますが、1949年末にインドネシア共和国が最終的に独立を達成したのは、当然のことながら、第一義的には、インドネシア国民(になった人々)がみずから血を流し、熾烈な独立戦争を戦った結果です。そのことは大前提として絶対に忘れてはなりません。 その意味において、僕は、彼らの尊い犠牲を無視して「日本がインドネシアを独立させてやった」という類の議論をする人たちには絶対に与しません。ちなみに、インドネシア独立戦争に参加した旧日本軍の将兵は、制度上は“脱走兵”の扱いとされており、インドネシア独立戦争中の戦死者に対しては遺族年金が支給されていないばかりでなく、彼らが“英霊”として靖国神社に祀られることもありません。「大東亜戦争が東亜解放の聖戦だった」と主張するのなら、その大義に殉じてインドネシア独立戦争で亡くなった旧日本兵こそ、(カリバタ英雄墓地と同様、ご本人や遺族が希望しない場合を除いて)靖国神社にお祀りするのが筋というものでしょうし、そうしたことを実現すべく運動を起こすべきでしょう。 一方、“脱走兵”以外の旧日本軍は、正規の手続きに則って、オランダ軍とともに独立派と戦い、多くの戦死者を出しましたが、彼らは靖国に祀られています。 この厳然たる事実をしっかりと受け止めていれば、それだけで、「日本がインドネシアを独立させてやった」などという発言が、いかに、インドネシア国民のみならず、彼らの独立のために戦った旧日本軍将兵を愚弄するものであるのか、お分かりいただけるでしょう。 ただ、その一方で、日本による占領の体験が彼らの糧となったこと、あるいは、独立戦争での旧日本軍将兵の活動が、結果的にインドネシアの独立を導くことになったということを、インドネシアの人たちが自らポジティヴに語ってくれるのであれば、その気持ちは素直に、ありがたく受け入れるべきだと思います。 そうした彼らの友情を無視して、自分は「一般の日本人とは違う」という醜悪な思い込みから、ひたすら日本と日本人を貶めるために“日本軍によるアジア侵略”を嬉々として糾弾する日本人が少なからずいますが、そうした連中に対しては、心の底から軽蔑するという以外の感情しか沸いてきません。 拙著『蘭印戦跡紀行』では、そんな思いから、僕がインドネシア各地で実際に見聞した“日本”の痕跡について、切手や郵便物、絵葉書などを交えながらまとめてみたものです。機会がありましたら、ぜひ、お手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-16 Fri 02:13
ミャンマー中部マンダレー周辺や北東部シャン州で、きのう(15日)、国軍技術学校や軍の検問所など5ヵ所が一斉に少数民族武装集団の襲撃を受け、国軍によると、兵士や警官ら計15人が殺害されたそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1943年10月1日に発行されたシャン地方切手の1枚で、現地の荷馬車が描かれています。 シャン地方はタイ・ラオス・中国に隣接する高原地帯で、第二次大戦中、旧英領ビルマの一部として日本の占領下に置かれていました。この地域に住むシャン人は、インドシナ半島に広がっているタイ系諸族の1つで、シャンはタイの旧称シャムの転訛です。 シャン地方のうち、モンパンとケントンの2州に関しては、英国によって奪われたタイの失地として、1943年8月に調印された「『マライ』及『シャン』地方ニ於ケル『タイ』国領土ニ関スル日本国『タイ』国間条約」により、タイに返還されましたが、残りのシャン地方の所属は未定のままでした。 これに先立ち、同年8月1日、ビルマでは軍政が廃止され、バーモを首班とするビルマ国が独立しましたが、シャン地方に関しては、タイならびに中国と接する戦略上の要衝であるとの理由から、日本軍が引き続き軍政を継続。このため、シャン地方では、独立ビルマとは別の郵政機関を組織する必要が生じ、今回ご紹介しているような独自の切手が発行されたというわけです。 なお、シャン地方切手は10月1日に発行されましたが、その直前の9月25日、「『シャン』地方等ニ於ケル『ビルマ』国領土ニ関スル日本国『ビルマ』国間条約」が調印され、モンパン、ケントンの2州を除くシャン州(現在の南北シャン、ワーに加え、カヤ州がその範囲に相当する)は条約調印から90日以内に独立ビルマの領土に編入されるものとされ、1944年11月1日、すでに発行されたシャン地方切手にビルマ文字を加刷したものが、ビルマ全土で使用されることになりました。 さて、1945年、日本軍の撤退とともに、英国はビルマを再占領して軍政を施行。さらに同年10月には、インドのシムラに避難していた英ビルマ政庁が復帰し、英国による植民地支配が復活しましたが、アウンサンを総裁とするパサパラ(反ファシスト人民自由連盟、AFPFL)は、英国との交渉を通じて、1947年1月、ビルマ独立を認めさせました。 ところで、英領ビルマは、大きく分けて、“辺境地区(高原・山岳地帯を中心とした地域で、英領ビルマ政庁による間接統治がなされていた行政区域)”と“管区ビルマ(平野部を中心とした地域で、英領ビルマ政庁が直接的に統治責任を負った行政区域)”の2つの部分から成り立っていましたが、このうち辺境地区のカレン族(上記のカヤー族の一民族)などは、アウンサンのビルマ行政参事会代表団とは別にロンドンに代表団を派遣し、カレン族の独立国家樹立を目指していました。その背景には、長年の民族的対立に加え、ビルマ族が、植民地支配下で比較的優遇されていたカレン族を潜在的なスパイと見なして、彼らを弾圧したという事情があります。 このため、ロンドンから帰国したアウン・サンは、1947年2月12日、シャン州の州都タウンジーの東方にあるパンロン(ピンロンとも)で、辺境地域(管区ビルマ外)の少数民族の代表らと会談。独立後、少数民族に自治権を与えることを約束し、辺境地域と管区ビルマを合わせた“英領ビルマ”の全域を、連邦制国家として独立させるとのパンロン協定の調印に成功します。 しかし、この協定に調印した少数民族の代表は、シャン、カチン、チンの3民族に限られており、カヤー、カレン、モン、アラカンからは、カヤーとカレンから数名のオブザーバーしか認められていませんでした。このため、“連邦制”に反対するカレンは、1947年4月の制憲議会選挙をボイコットします。これに対して、連邦政府は、独立後、パンロン協定で保障された諸民族の自治権を事実上剥奪するとともに、シャンやカレンに認められていた独立後10年目以降の連邦からの離脱権を剥奪。このため、少数民族による独立闘争が展開されていました。 政府と少数民族武装勢力(16組織)との対立は、2015年に「全土停戦」協定が成立したことで鎮静化するかに思われましたが、その後も、カチン独立軍(KIA)、トーアン人のタアン/パラウン民族解放軍(TNLA)、中国系コーカン人のミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA,コーカン軍)、ミャンマー西部ラカイン州の少数民族武装勢力のアラカン軍(AA)などで構成される“北部同盟”が政府軍との戦闘を継続。ことし7月、シャン州で大量の薬物が押収されたことへの報復として、今回、北部同盟に属するTNLAなど3組織がロケット弾を使った攻撃を仕掛けたというわけです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-15 Thu 03:29
1519年8月15日、パナマ共和国の首都、パナマシティ(シウダ・デ・パナマ)が建設されてから、ちょうど400年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2002年6月19日にパナマが発行した“パナマシティ国立劇場の巨大壁画”の連刷切手です。 パナマシティは、太平洋に面したパナマ運河の入口に位置しており、地名の“パナマ”は、「魚が豊富」を意味する先住民クエバ人の言葉です。 都市としての歴史は、1519年8月15日、総督として派遣されたペドロ・アリアス・デ・アビラが、ペルーへの探検ならびに植民地の黄金や銀をスペインに運ぶための拠点として、太平洋岸に最初の植民都市を建設したのが起源となります。 アメリカ大陸に広大な植民地を有していたスペインは、アルト・ペルー(現ボリビア)のポトシ銀山の銀を海路でパナマシティまで輸送した後、陸路でカリブ海側のポルトベロまで運び、そこから再び海路で本国に輸送していたため、パナマシティは海上交通の重要な拠点として発展します。 しかし、当初の市街地は、1671年1月28日、英国人海賊のヘンリー・モーガンの襲撃と略奪、放火により破壊されたため、パナマシティの中心的な機能は、西南11kmの地点にあるカスコ・ビエホ(カスコ・アンティグオ)に移転。ここが現在の“旧市街”となります。 ところで、1898年の米西戦争を通じて、米国は太平洋と大西洋を結ぶ運河建設が急務であると認識。このため、1902年、米連邦議会は、レセップスが設立したものの休眠状態となっていた新パナマ運河会社から運河建設等の権利を買い取る決議を採択しました。 当時、パナマ地峡はコロンビアの自治領でしたが、運河の地政学的重要性に注目した米国は、運河を自らの管轄下におくため、1903年1月22日、コロンビアとの間に、①コロンビアがレセップスの設立した新パナマ運河会社の運河建設権を米国に売却することを認めること、②運河地域の排他的管理権等を米国に付与すること、③米国は一時金1000万ドル及び運河地域の年間使用料として25万ドルをコロンビアに支払うこと等を規定したヘイ・エルラン条約を結び、運河の管轄権を握ろうとします。 しかし、コロンビア議会が条約を批准しなかったため、同年11月3日、米国はコロンビアの支配に不満を持っていたパナマ住民を扇動して独立を宣言させました。その10日後の11月13日、米国はパナマの独立を承認。さらに5日後の11月18日にはパナマ運河条約を締結し、運河の建設権と関連地区(いわゆるカナル・ゾーン)の永久租借権等を取得し、工事に着手します。 こうした経緯から、国際社会はパナマ共和国を米国の傀儡とみなしていました。そこで、独立国家としての威信を示す必要に迫られたパナマ政府は、1903年の独立以降、かつてのパナマシティがあった場所に新首都を造営。その一環として、1907年に国立劇場を完成させます。この国立劇場を飾るべく、当時、パリを拠点に活躍していたパナマ出身の画家、ロベルト・ルイスがパナマ政府の依頼を受けて、パナマ独立までの歩みを表現した壁画を制作しました。 今回ご紹介の切手には、そのうち、(左から)スペイン人のパナマ上陸、スペイン人との戦闘で殺傷される先住民、パナマを象徴する女神と男たち、伝統的な服装のポジェラを着た女性と果物を収穫する先住民の女性、の各場面が取り上げられました。ただし、1903年以降、米国がパナマの実質的な支配者となったことを連想させるような場面は描かれていません。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-14 Wed 01:14
きょう(14日)は、1941年にアウシュヴィッツ収容所で殉教したカトリックの聖人、聖マキシミリアノ・コルベ神父の祝日です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1973年、当時の西ドイツが発行したコルベ神父の切手で、神父の肖像の右下には殉教の地、アウシュヴィッツの表示もあります。 マキシミリアノ・マリア・コルベ神父(出生名ライムンド・コルベ)は、1894年1月8日、ロシア帝国の支配下にあったポーランドのズドゥニスカ・ヴォラ生まれ。1907年に、兄のフランシスコとともにコンベンツァル聖フランシスコ修道会への入会を決意し、同修道会の神学校に入学しました。1910年、修練院に入り、翌1911年、マキシミリアンの名前を与えられています。 その後、ローマで哲学、神学、数学および物理学を学び、1915年にグレゴリアン大学で哲学の博士号を、1919年には神学の博士号を取得。この間、1917年10月16日に「汚れなき聖母の騎士会」を創立しています。 ローマで司祭叙階を受けた後、クラクフにある大神学校の教会史の教授として3年間勤め、1927年にはワルシャワ近郊のテレシンでニエポカラノフ修道院(無原罪の聖母の騎士修道院)を創立し、『無原罪の聖母の騎士』という小冊子を発行してメディアによる宣教に力を入れました。 1930年、コルベは数名のポーランド人修道士とともに、長崎での宣教を開始。同年5月、大浦天主堂下の木造西洋館に聖母の騎士修道院を開き、日本語版の『無原罪聖母の騎士』を出版するなどして、宣教活動に尽力しました。 1936年、ニエポカラノフ修道院の院長に選ばれたために故国ポーランドに帰国。出版やラジオなどを通じての活発な布教活動を行っていましたが、1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発。同月19日、西ポーランドがドイツに占領されると、“反独分子”としてコルベは修道院に残った修道者らと逮捕され、アムティッツ強制収容所へと収容されました。その後、11月にポーランド領にあるオスチェロー強制収容所へ移送されました後、12月18日にいったん釈放されたものの、ユダヤ人にも人道的態度で接したことなどを理由に、1941年2月17日、再逮捕され、パヴィアック収容所を経て、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られます。 1941年7月末、収容所内の彼の所属班から脱走者が出たことで、“連帯責任”として無作為10人が選ばれて餓死刑に処せられることになった際、自由ポーランド軍の軍曹、フランツェク・ガイオニチェクが「私には妻子がいる」と泣き叫びだしたの聞いたコルベは、彼の身代わりになることを申し出て、餓死刑を受けることを申し出て地下牢の餓死室に送られました。 その後、牢内でコルベは2週間ほど生きていましたが、1941年8月14日、収容所当局はフェノールを注射により彼を殺害して殺害され、翌15日、荼毘に付されました。ちなみに、カトリックでは8月15日は“聖母被昇天の日”の祝日になっており、生前のコルベは聖母の祝日に死にたいと語っていたそうです。 戦後、コルベの行為は称賛され、1971年10月、教皇パウロ6世は彼を列福。さらに、東西冷戦下で無神論国家のソ連に対抗すべく、祖国ポーランドのナショナリズムと信仰心を高揚させるべく、1979年6月にお国入りした教皇ヨハネパウロ2世は、ビルケナウのアウシュヴィッツ第2収容所跡を訪れ、約50万人とともにミサを行い、強制収容所を「私たちの時代のゴルゴダ」と呼び、コルベを称えるとともに、ビルケナウのガス室で殺害された修道女エーディト・シュタインについて列福のための調査を行う方針を明らかにします。 はたして、ヨハネ・パウロ2世の企図した通り、教皇の訪問を契機として、ポーランド国内の反ソ感情は高揚。1980年7月、政府が発表した食糧品等の大幅値上げに反対し、グダニスク等のバルト海沿岸地方で労働者のストが発生し、これが全国に波及する勢いとなったため、政府とグダニスクの連合スト委員会の交渉が行われ、政府は、9月17日、ポーランドでは共産圏として初めて、共産党(ポーランドでは統一労働者党)の統制を受けない独立自主管理労働組合“連帯”の発足を認めざるを得なくまりました。 当初、統一労働者党の目論見としては、党が政治、“連帯”が社会活動にそれぞれ専念するという分業を想定していましたが、“連帯”の組織は全国的に拡大し、レフ・ワレサ率いる指導部は政府との対立のなかでしだいに急進化。これに対して、ソ連がポーランドに軍事介入する姿勢を見せるようになったため、1981年12月、ポーランド政府は戒厳令を発令。“連帯”幹部の大半が拘禁され、翌1982年10月には、“連帯”は非合法化されました。 これに対して、逮捕を免れた“連帯”幹部は、1982年4月、地下組織として暫定委員会を結成し、1989年の民主化実現まで、抵抗を訴え続けます。 ポーランド情勢の変化を受けて、1982年10月10日、教皇ヨハネ・パウロ2世は、急遽、アウシュヴィッツで殉教したコルベをカトリックの信徒として最高の栄誉である聖人に列し、8月14日をコルベを記念する祝日としました。コルベの列聖に際しては、直接的に批判されているのは、彼を餓死刑で殺害したナチス・ドイツですが、暗に、“連帯”を非合法化したポーランド政府もナチス同様の存在であるとの批判が込められていたのは明らかでした。 なお、コルベについては、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 * 昨日(13日)、アクセスカウンターが208万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-13 Tue 02:27
香港の航空当局は、きのう(12日)午後、中国本土への容疑者引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」改正案をめぐる大規模な抗議活動が香港国際空港で行われた影響により、同空港を発着する便の全便運航を取り消しました。というわけで、きょうは“サービス停止”にちなんでこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1942年1月、英国コーンウォールから香港・九龍宛に差し出されたものの、日英開戦により香港宛の郵便サービスが停止されたため差出人に返戻されたカバーで、“NO SERVICE/ RETURN TO SENDER”との事情説明の印が押されています。 第二次大戦における香港での戦闘は、1941年12月8日午前3時51分、日本の第23軍(総兵力3万9700名)が深圳河を渡り、新界の丘陵地帯を九龍に向けて進軍を開始したことで始まりました。 その後、夜明けとともに36機の日本軍の爆撃機が啓徳空港を空襲。英軍機と義勇軍使用の民間機の計12機が炎上、2機が大破し、英軍側は香港の制空権を喪失しました。 こうして、12月13日までに九龍半島での掃討戦を完了した日本軍は、翌14日、香港島への砲爆撃を開始。18日には日本軍は香港島北岸に上陸を開始します。英守備隊との激しい戦闘の末、19日未明までに渡海作戦を完了して香港島北東部を確保した後、日本軍は香港島南部、赤柱の海軍基地へ向かう部隊と、島の中央部、大平山に立てこもる英軍主力部隊を攻撃する部隊の二手に分かれて進撃。12月23日に黄泥涌の高射砲陣地を陥落させると、翌24日、この地の貯水池を征圧して香港島内の給水を停止させました。 この結果、香港市街は全面断水に陥り、英側の抗戦継続はきわめて困難となったため、12月25日17時50分、香港島西部の陣地にあったヤング総督とマルトビイ少将がついに白旗を掲げ、19時30分、日本陸海軍司令官は停戦を命じ、ここに香港の戦いは終了。日本軍は英領香港の全域を占領下に置きました。なお、18日間の戦闘で、日本軍が戦死683名、戦傷1413名を出したのに対して、英軍の遺棄死体は1555、捕虜は戦闘間1452名、戦闘後は9495名です。 ちなみに、今回ご紹介のカバーは、香港陥落後まもない1942年1月18日に香港宛に差し出されたものですが、日本軍が香港上海匯豐銀行(HSBC)の本店に総督部を設置し、香港の占領行政を本格的に開始するのは、その翌日、1月19日でした。 なお、先の大戦中の香港の状況については、拙著『香港歴史漫郵記』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧ただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-12 Mon 03:29
内戦が続くイエメンで、10日、南部の分離独立を主張する“南部暫定評議会”がアデンのアブド・ラッボ・マンスール・ハーディー暫定大統領の宮殿を占拠。これに対して、暫定政権を支援して軍事介入しているサウジアラビアは、きのう(11日)、同評議会の拠点を攻撃しました。というわけで、きょうはこんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1889年10月29日、アデンで使用されたインド切手です。 アラビア半島の南岸、現在のイエメン共和国南部は、かつては群小首長国が割拠する地域でしたが、19世紀、首長国同士の争いに調停者として介入した英国は、インドとのシーレーン上の重要拠点であるアデン港を直轄植民地としたほか、周囲の首長国を保護領としました。これに伴い、アデンには英国の郵便局が設置され、1854年から1937年まで、ここに示すように、英領インド切手が持ち込まれて使用されました。ちなみに、アデンでは、1937年から独自の切手が発行されています。 ただし、英国は、アラビア半島南部に関しては、アデン港を確保しさえすればよいとの方針であったため、周辺の首長国に対しては年金を支給して懐柔し、アデンを攻撃しない限りにおいては放任するとの姿勢をとっていました。 1956年、エジプトのナセル政権がスエズ運河を国有化し、英仏の干渉を退けて第二次中東戦争に勝利すると、ナセルの掲げるアラブ民族主義の権威はアラブ世界で絶大なものとなり、1958年にはイエメン王国(現在のイエメン共和国北部)が“占領されたアデン”の奪還を主張してアデン保護領に駐留の英軍を攻撃し始めます。 このため、1959年、英国はアデン保護領の首長たちを徐々に組織化し、南アラブ首長国連邦を結成。さらに、1960年の国連総会で「植民地独立付与宣言」が決議されたことを受けて、1962年には南アラブ首長国連邦を南アラビア連邦に発展させました。 さらに、1962年9月、北イエメンで、イマーム・アフマドの死に伴う政権交代の隙をつくかたちでクーデターが発生し、伝統的なザイド派(シーア派の一派)イスラムに基づく王朝が倒れ、“イエメン・アラブ共和国”の革命政権が樹立されます。 このため、王党派がサウジアラビアとの国境を越えた山岳地帯に逃れて抵抗を続けると、革命政権はエジプトに支援を要請。これに対して、サウジアラビアは、エジプトに始まるアラブ民族主義の共和革命がついにアラビア半島へと上陸したことで深刻な脅威を感じて王党派を支援し、イエメン内戦は、エジプトとサウジアラビアの代理戦争として展開することになります。 このため、内戦が南アラビア連邦に波及することを恐れた英国は、1963年、直轄植民地のアデン港も同連邦に加盟させ、外交と防衛を除く自治権を与えたうえで、1968年までの独立を約束しました。 ところが、ある程度近代化されたアデンとそれ以外の首長国との間の文化的・経済的格差が大きかったことから、アデン住民は南アラビア連邦に組み込まれたことに強く反発。一部は、占領下南イエメン解放戦線(FLOSY)や、南イエメン民族解放戦線(NLF)などの武装組織を結成し、英国人の立法評議会議長や親英派アラブへのテロを展開します。 その後、より急進的な社会主義路線を掲げるNLFが勢力を拡大し、1967年10月、アデン港を占領。11月には英国は南イエメンから撤退して南アラビア連邦は解体され、代わってハドラマウト保護領やカラマン島などを加えた英領アデ ン全域は、NLFの下で社会主義政権の“南イエメン人民共和国”として独立。以後、1990年の南北イエメン統一まで存続しました。 以後、統一イエメンの初代大統領となったアリー・アブドゥッラー・サーリフの独裁政権が長らく続いていましたが、2011年、いわゆる“アラブの春”で、サーリフの退陣を求める反政府デモが頻発。以後、イエメンは再び内戦の時代に突入していくことになります。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-11 Sun 02:45
中国本土への容疑者引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」改正案をめぐる抗議活動が続いている香港ですが、きのう(10日)は、新界地区・大埔で大規模なデモが行われました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2015年に香港で発行された“基本法頒布25周年”の記念切手のうち、大埔海濱公園内の香港回歸紀念塔を取り上げた5ドル切手です。 新界地区の東北に位置する大埔は、古くは猛獣の住む土地として、ここを通る人々が大股で走り抜けたことから“大歩”と呼ばれていました。 後漢から清代までは付近で真珠が採取されていましたが清代の1672年、鄧氏が港湾施設を建設したことから、アヘン戦争で香港島が英国に割譲されるまで、この地域の海上交通の拠点となり、潮州や汕頭からの船が往来していました。 1899年に新界地区を租借した英国は、1907年、新九龍と新界、周辺の小島を管轄する行政機関として大埔に理民府を設けます。理民府は、土地の測量や住民間の紛争調停、地方の治安維持などを主に担当し、1910年に大埔、沙田、上粉沙打(上水、粉嶺、沙頭角、打鼓嶺をあわせた地域。北區)、西貢、元朗、青山(屯門)を管轄する北約理民府と、新九龍、荃灣ならびに周辺の小島を管轄する南約理民府に分割されました。 さらに、国共内戦下での難民の流入など、中国との国境が緊張してきたことを踏まえ、1947年、英当局は北約理民府を元朗理民府(元朗と青山を管轄)と大埔理民府(大埔、沙田、上粉沙打、西貢を管轄)に分割し、情報収集や香港駐留軍との連携などの業務を拡充したうえで、1948年、これらの各理民府を統括する行政機構として、新界民政署を設けました。 このように、大埔が香港と中国との境界地帯の重要拠点であったことを踏まえ、1997年、“返還”記念事業として大埔の海岸沿いに大埔海濱公園が建設された際、記念建造物として建立されたのが、今回ご紹介の切手に描かれている香港回歸紀念塔です。塔は螺旋状で高さ32.4メートル、その形状は、激動の香港近現代史(こちらについては、拙著『香港歴史漫郵記』をご覧いただけると幸いです)を象徴したものだそうです。 ちなみに、記念切手の発行の名目となった“基本法”は香港特別行政区基本法のことで、1997年の“返還”後、50年間(2047年6月30日まで)、英領時代の社会・経済制度が維持される(一国両制)こと等が定められています。 もっとも、基本法は中国の全国人民代表大会によって採択されたもので、香港域内において民主的な手続きを経て定められたものではありません。また、その解釈権は、香港の司法機関である香港終審法院(最高裁判所)にではなく、中国中央の立法機関である全人代常務委員会に与えられているため、香港政府が全人代常務委員会に解釈を要請し、香港終審法院の判決を覆させた事例もあるなど、一国両制は有名無実化されており、そうした現状への不満が、一連のデモにつながっていることは言うまでもありません。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-10 Sat 02:51
アフリカ中北部チャドのイドリース・デビ大統領は、今月11日の同国独立記念日を前に、きのう(9日)、記者会見し、スーダンと国境を接する東部で、今週、牧畜民と農耕民の大規模な衝突が起こり、3日間で少なくとも37人が死亡したことを明らかにしました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1976年、フランソワ・トンバルバイ独裁政権崩壊後の“国民和解”を訴えるべくチャドが発行した切手です。 1960年にフランスから独立したチャドでは、南部出身のキリスト教徒、フランソワ・トンバルバイが初代大統領に就任した。トンバルバイはチャド進歩党の一党独裁体制を敷き、強権支配を行ったため、1965年、南部ゲラ州で大規模な反乱が発生。1969年にはグクーニ・ウェディひきいる北部のムスリムがチャド民族解放戦線(FROLINAT)を組織して武装蜂起し、さらに、1971年以降、リビアが北部国境地帯、アオゾウのウラン鉱脈をめぐって、FROLINATを支援し内戦に干渉します。 その後、1973年にチャド国軍はリビア軍に敗れ、アオゾウを失陥。リビアの圧力に屈し、領土奪還を事実上断念したトンバルバイは、国内の不満を抑え込むため、反対派の粛清やヴォドン(ヴードゥー)への改宗強制など、従来以上に強圧的な独裁政治を行いましたが、1975年4月13日、軍事クーデターにより失脚し、殺害されました。 クーデター後、フェリックス・マルーム元参謀総長を議長とする最高軍事評議会が政権を掌握。一方、FROLINAT内部はグクーニ派とハブレ派に分裂し、内戦は3派の争いとなります。 今回ご紹介の切手は、こうした状況の下、国民の和解を訴えるために発行されたもので、チャドの地図の中で南北の民族服と洋装のチャド国民が手をつなぐさまを描き、その周囲に主要産業や動物などが描かれています。 現在、チャドの輸出の8割は南部のドバ油田から産出される原油が占めていますが、2003年にカメルーン・クリビ港とつながるパイプラインが開通するまでは、輸出の7割を綿花が占めていました。 チャドは国土全体の3分の2、北部が砂漠地域であり、農業は西部のチャド湖に流れ込むシャリ川およびロゴンヌ川の流域にあたる中部および南部に限られています。なかでも、南隣の中央アフリカ共和国と接するモイエン・シャリ州の州都サールはチャド随一の綿花の集散地となっており、綿花を利用した繊維工業も行われています。切手では、最南部に綿花の収穫と畑の耕作風景が描かれていますが、これは、そうした地理的条件を踏まえたものです。 しかし、長年にわたって連続した綿花栽培がおこなわれてきたことで、南部の土地は疲弊。さらに、種子の配布や綿花の買入・加工を独占的に行っている国策会社、チャド綿花会社は放漫経営により経営危機に陥り、農民への販売代金支払いが滞ったため、1997年に11万3000tだった生産量は2010年には2万t以下に落ち込んでしまいました。このため、2012年、チャド政府はチャド綿花会社に800億CFAフランを投資し、新チャド綿花会社を設立させ、綿花産業の再建に本格的に取り汲んでいますが、現在までのところ、目立った成果は上がっていません。 一方、南部から東部にかけては、ウシやラクダによる牧畜も行われており(切手にも北部にラクダ、西部に牛が描かれています)、食肉や皮革も輸出商品となっていますが、牧畜が砂漠化の進行に拍車をかけている側面もあり、農業生産が落ち込む中で、牧畜民に対して不満を募らせている農民も少なくないと報告されています。 ただし、1990年以来、30年近くにわたって独裁政権を維持しているイドリース・デビは、こうした国民相互の対立を自らの権力基盤の強化に利用しようとしているとも指摘されており、今年7月には、騒乱を抑え込むためとの口実で、東部地域での軍事法廷を導入する考えを示唆したものの、国民の強い反発に遭い、撤回に追い込まれたという一幕もありました。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-09 Fri 11:37
きょう(9日)は、第二次大戦末期の1945年8月9日、日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告したソ連が満洲に侵攻したことにちなむ“反ロシアデー(旧反ソ連デー)”です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、強制労働に従事させられていた日本人抑留者の通信用に作られた専用の往復葉書のうち、タイプⅠA2と呼ばれるものです。 シベリア抑留日本人用の往復葉書は、大きく4つのタイプに分けられますが、このうち、赤十字・赤新月が入ってたタイプⅠと呼ばれるものは、字体がローマン体のAとゴシック体のBの2タイプに分けられ、さらに、表題2行目の“Й”の文字の位置により細分されます。表題2行目の“Й”が1行目の“О”の下にあるタイプⅠA2と呼ばれるもので、今回ご紹介のモノは、表面が濃い緑色・裏面が白色の用紙に印刷されています。 葉書が差し出された時期は特定できませんが、ウラジオストクの中継印は1949年6月23日になっており、日本に到着した際の占領当局による検閲の金魚鉢印の上には8月18日の書き込みがあります。 1945年8月9日、ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲、北朝鮮、千島、樺太に侵攻。ソ連側は捕虜となった旧日本兵に「トウキョウ、ダモイ」すなわち東京へ帰還(ダモイ)させると甘言を弄して彼らをシベリア鉄道の貨物列車に詰め込み、東はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクから西はウクライナのクタイス、北は北極圏のノリリスクから南は中央アジア・ウズベキスタンのタシュケントやフェルガナまで、およそ2000ヵ所にも及ぶ収容所へと移送しました。 ソ連があらゆる国際法規を無視して(たとえば、対日参戦に際してソ連が署名していたポツダム宣言には、連合国の捕虜となった日本兵を本国へ早期帰還させることがはっきりと規定されています)日本人を抑留し、強制労働を課したのは、ドイツとの戦争で荒廃しきった自国の経済復興のため、奴隷同然の安価な労働力が必要だったためです。 収容所では、十分な食糧も与えられないまま重労働を課せられ、過重なノルマを達成できなければ容赦なく食事を減らされました。また、医療・衛生環境もきわめて不十分でしたから、過酷な自然環境とあわせて、多くの犠牲者が出るのも当然でした。厚生労働省が把握しているだけでも約56万1000人の日本人が抑留され、6万人が亡くなったといわれています。 また、ソ連当局による洗脳工作と恣意的な反ソ分子の摘発と拷問、密告の奨励など、抑留者たちは、肉体だけでなく、精神的にもきわめて過酷な環境に置かれ続けました。 日本人捕虜に対する思想・洗脳工作の一環として、ソ連当局は、満洲から略奪してきた奉天(現・瀋陽)の満洲日日新聞社の活字と用紙を用いて(ただし、最初期は略奪資材が使えなかったため、印刷物としての品質はきわめて粗悪でした)、1945年9月15日から1949年12月30日まで、週3回、タブロイド判の『日本新聞』を全629号刊行しました。 敗戦によって武装解除されたにもかかわらず、旧軍の秩序とそれに付随するさまざまな特権を維持しようとしていた将校・下士官への不満を募らせていた下級兵士の中には、“日本軍国主義”批判を展開する『日本新聞』の内容に対して一定の理解を示す者もあり、ソ連側は、そうした日本人捕虜を横断的に組織するためのメディアとして『日本新聞』を活用。1946年5月25日、同紙を使っての輪読・勉強会としての“日本新聞友の会”の結成を呼び掛けました。“友の会”では、ソ連側との交渉のやり方や編集部との連絡方法などが具体的に示され、“友の会”やこれを母体とする“民主グループ”は必然的に収容所内での主導権を握ることになります。 さらに、1947年3月から4月にかけて、ハバロフスク地区の各収容所の民主グループの幹部57人を集めて約1ヵ月にわたりハバロフスク地区代表者会議が開催されます。徹底的な“学習”によって洗脳・思想改造された参加者は、活動分子(アクティブ)として各地の収容所に戻り、所内につくられた反ファシスト委員会のメンバーとして“民主化”の名の下に、ソ連当局の意に沿わない“反動分子”や“ファシスト”の摘発に狂奔しました。摘発され、吊るし上げの対象となれば、食事の量を減らされたり、より過酷な重労働を課せられたりするため、多くの捕虜たちは面従腹背で“民主化運動”をやり過ごし、ときには、密告によってわが身を守るしかなかったことは、多くの抑留体験者の手記などによって広く知られています。 今回ご紹介の葉書は、まさに、そうした収容所内の環境を反映したもので、以下のような文面がつづられています。(原文はカタカナ書きですが、読みやすさを考えて、句読点を補い、漢字かな交じりに直しました) お母さん、お元気ですか。お義父さんや兄弟たちはいかがでしょうか。お尋ねします。 僕は相変わらず元気で、ソ同盟の暖かな配慮により何不自由なく暮らしているのみか、文化的にも恵まれた明るい生活を送っておりますから、どうか僕のことはご心配なく。 当地にもいよいよ春が訪れました。この春より日本海を渡って祖国に帰る希望に燃えて張り切って勉強しています。今年こそはお母さんにもお目にかかり、僕がどんなにたくましくなったかを、そして、今後どんなに戦うかをお目にかけられるかを楽しみにしています。 では、皆によろしく。さようなら。 この葉書の差出人が、心底、ここに書かれているように思っていたのか、それとも、生き延びるために洗脳されたふりをしていたのかは定かではありませんが、ソ連当局としては、収容所で洗脳した捕虜たちが、帰国後、日本に共産主義勢力を扶植するための尖兵となることを期待していました。 シベリアからの葉書は、日本到着後、検閲の対象となりましたが、今回ご紹介の葉書などは、ソ連による洗脳工作がどの程度(元)捕虜の間に定着しているのか、さらに、元捕虜のうち日本における反米親ソ勢力の活動家(となる可能性が高い者)は誰かといった点で、東西冷戦が進行していく中で、重要な情報をもたらすものとなりました。 この葉書が日本に到着する直前の1949年8月11日、日本では、「引揚者の秩序保持に関する政令」が公布され、引揚者は船長や引揚援護局長の指示に従う義務があるとされ、違反者には1年以下の懲役もしくは1万円以下の罰金が科されることいなりました。これは、ソ連からの引揚船が入港した舞鶴や各地の引揚特別列車の停車駅などで“赤い帰還者”による騒擾事件が頻発したためですが、彼らの多くは、抑留体験を通じて、ソ連の意に背いた行動をとると帰国を取り消されて再びシベリア送りになると信じ込まされていた偽装共産主義者(表面だけ赤いという意味で“赤カブ”とも呼ばれました)だったともいわれています。しかし、そうした実情を知らない日本国民は当惑するばかりで、占領当局と日本政府は共産主義者が全国に拡散していくことへの警戒を強めていきました。 また、1949年1月23日に行われた第24回衆議院総選挙では、吉田茂ひきいる保守系の民主自由党が264議席を獲得して大勝した一方で、日本共産党がそれまでの4議席から35議席へと劇的に躍進。ドッジラインの強行による深刻な経済不況の到来により労働運動は激化し、こうした中で発生した下山・松川・三鷹の三大事件には共産党の関与が疑われていました。このため、占領当局と日本政府は、「真の指導者(アクティブ)は港において早期に見付けられる事を防ぐために、蔭に潜み郷里において世論を基礎として潜かに活動する事を(ソ連に)許可された」 との認識の下、帰還した元捕虜を監視対象としていました。 その際、ソ連を賛美し、日本の状況を否定的に述べていたり、アクティブであると推測されるような内容の葉書を書いたりした人物(今回ご紹介の葉書の差出人もその1人でしょう)は、当局の要注意人物のリストに加えられ、帰国後も苦難の日々を歩むことになったことは想像に難くありません。 なお、シベリア抑留者の郵便については、拙著『ハバロフスク』でもその概要をまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-08 Thu 13:27
パプアニューギニアのジェイムズ・マラペ首相が、おととい(6日)、同国駐在の薛冰中国大使と会談し、国の債務約8400億円全額を、中国政府からの借り入れに切り替えられないか打診したことを明らかにしました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これが、1976年にパプアニューギニアが発行した中国との国交樹立25周年の記念切手で、両国の国旗が描かれています。 1975年9月にオーストラリアの信託統治から独立したパプアニューギニアは、1976年10月12日、中国と正式な外交関係を樹立。その後、ビル・スケイト政権末期の1999年に中国と断交して台湾と国交を樹立したこともありましたが、同年7月、スケイト政権が退陣すると、後継の メケレ・モラウタ政権は台湾と断交して中国との国交を回復し、以後、現在に至るまで中国との国交を維持しています。 ところで、旧宗主国のオーストラリアは、独立後もパプアニューギニアの最大の支援国となっており、2004年にスタートしたオーストラリアによる“協力強化プログラム(ECP)”では、国内の治安安定化のため、オーストラリアから警察関係者が派遣されていました。ところが、2005年5月、パプアニューギニア最高裁はECPに基づくオーストラリア人警察官の活動を違憲とする判決を出し、オーストラリア警察の活動は停止されます。 一方、隣国のソロモン諸島では、2006年5月、反豪姿勢の鮮明なマナセ・ダムカナ・ソガヴァレ政権が発足。同政権は、9月12日、“内政干渉”を理由にオーストラリアのパトリック・コール高等弁務官を国外退去処分にしたほか、ソガヴァレの個人的な友人で、オーストラリア国籍を持つインド系フィジー人のジュリアス・モティを法務長官に指名しました。 このモティが、1998年(1997年説もあり)にヴァヌアツで少女強姦事件(ただし、当時の裁判では証拠不十分で無罪)を起こしていたことから、オーストラリアはモティを指名手配。モティが休暇先のインドからパプアニューギニア経由でソロモン初頭に帰国しようとしたところ、経由地のパプアニューギニアの空港で、同国警察に要請して身柄を拘束させました。 ところが、モティはすぐに保釈され、ソロモン諸島に移動。その際、パプアニューギニア軍機が使用されたことから、これに激怒したオーストラリアはパプアニューギニアに対して経済制裁を発動し、両国関係は冷却化。その隙を突く形で、中国はパプアニューギニアへの接近を図り、インフラ投資を中心にした経済進出を加速させていきます。 その結果、2017年には、パプアニューギニア政府が、ニューギニア島北部沖合いのマヌス島の港湾整備に中国が資金援助する可能性があることを示唆。同島はグアム島にも近く、先の大戦中には大規模な米海軍基地があった戦略上の要衝で、現在はオーストラリアが移民の一時収容施設を置いていることもあって、米豪両国に大きな衝撃を与えました。 さらに、2018年11月には、首都ポートモレスビーでのAPEC開催にあわせて、中国が13億円を支援して作られた4車線の幹線道路が開通。開通式典には習近平も参加し、あらためて、パプアニューギニアにおける中国の影響力が拡大していることが明確になりました。ちなみに、現在、パプアニューギニアの全債務のうち中国からの借り入れは7%ですが、対外債務に限ると、対中債務は全体の約4分の1に約5億9000万ドルとなっており、南太平洋諸国の中でも最大となります。 今回、パプアニューギニアの政府が中国に借り換えを申しれたのも、上記のような背景があるためですが、中国といえば、借金を返せなくなった国の港や基地などの使用権を認めさせる“債務の罠”外交が国際的な非難を浴びているだけに、自ら罠にはまり行くような愚行は避けてほしいと願わずにはいられません。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-07 Wed 02:39
インド下院は、昨日(6日)、パキスタンと領有権を争っているカシミール地方のインド側、ジャンムー・カシミール州の自治権を定めた憲法の規定を削除する改正案を可決しました。すでに上院でも5日に改正案が可決されているため、これにより、ジャンムー・カシミール州は自治権を失い、連邦直轄領となります。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1883年に当時のジャンムー・カシミール藩王国が発行した2分の1アンナ切手です。 1846年、英国は、現在のカシミール地方を含む広大なギルギットやラダック地方を含む広範な領土を治めていたシーク教徒の藩王(マハラジャ)と戦い、これを撃破しました。戦後、英国は、このときの戦いで自分たちに協力したジャンムー地方の藩王に土地を売却。これが、藩王国としてのジャムー・カシミールのルーツとなります。 それから1世紀後の1947年8月、英領インド帝国は解体され、インドとパキスタン(当時は、現在のパキスタンに相当する西パキスタンと、現在のバングラデッシュに相当する東パキスタンから構成)が分離・独立すると、英領インド帝国の下、各地で自治を認められていた地方君主の藩王はインドとパキスタンのどちらに帰属するかの決断を迫られます。 ジャンムー・カシミールでは、藩王個人はヒンドゥーでしたが、住民の70%がムスリムだったこともあり、藩王としては、印パ両国とは別に独立することを企図していました。これに対して、西パキスタンとも隣接しているうえ、住民の多数がムスリムという事情もあって、パキスタンはカシミールが自国に帰属するのは当然と考えており、藩王に決断を迫ります。しかし、色よい返事が得られなかったため、1947年10月、ムスリムの山岳部族をカシミールに侵入させます。このため、藩王はインド帰属の文書調印と引き換えに、インド軍の支援を仰ぎ、カシミールの帰属をめぐる第1次印パ戦争が勃発しました。 戦争は1949年1月、国連の仲介で停戦となり、カシミールは、インド寄りの3分の2をインド領“ジャンムー・カシミール州”、パキスタン寄りの3分の1をパキスタン領“アーザード・カシミール州”(北部地区)として分割され(1962年の中印国境紛争の結果、ラダックが中国により実効支配されるようになりました)、現在に至るまで、カシミールの帰属をめぐる両国の対立が続いています。 ただし、インド・パキスタンの両国とも、本音ではカシミールの現状維持を望んで(=現状変更を望まない)いました。というのも、カシミール問題の存在が、巨額の軍事支出を正当化する最大の根拠となっていることに加え、国民の不満が高まった場合にガス抜きの手段として有効な材料となっていたためです。 こうした経緯もあって、インド憲法第370条では、外交や防衛、通信分野についてはインド全州で中央政府の管轄とする一方、ジャンムー・カシミール州に、独自の立法・行政・司法制度を認め、法案作成の自由に行なえるようにしたほか、市民権や財産所有権、基本的権利に関しても同州独自の規定を認め、州外からのインド人が、州内で物件を購入したり、定住することも禁止するなど、州の自治を尊重していました。 これに対して、モディ政権の与党であるインド人民党(BJP)は、ヒンドゥー・ナショナリズム政党としての立場から、長年、ジャンムー・カシミール州の自治権をはく奪し、他のインド地域と対等の立場で統合することを主張していました。特に、同州ではBJPとジャンムー・カシミール人民民主党(JKPDP)が連立政権を組織していましたが、2018年6月、JKPDPのメボーバ・マフティがBJPとの連立を解消。これによって州政府が機能不全に陥ったため、インド中央政府は同州に連邦規則を課しました。 さらに、こうした流れに沿って、2019年5月の総選挙では、BJPはパキスタンやアフガニスタンからの越境テロを防ぐためには、連邦政府によるジャンムー・カシミールの支配強化が必要として、憲法第370条の廃止を公約として戦い、圧勝。選挙後、モディ政権は、公約の実現に向けて動き出し、将来的には、ジャンムー・カシミール州を、ムスリムが多数派を占めるカシミールとヒンドゥーの多いジャンムーに分割する意向を表明していました。 一方、カシミール全域の領有権を主張してきたパキスタンは、ジャンムー・カシミールでの“印度化”推進の動きに強く反発。7月22日、イムラーン・カーン首相が渡米してホワイトハウスでトランプべ大統領と会談した際には、アフガニスタンの反政府勢力、タリバンに対して、パキスタンが一定の影響力を行使し、和平協議の進捗に貢献したことを踏まえて、カーン首相が「カシミール問題の仲介は米国にしかできない」と述べると、トランプ大統領が「インドのモディ首相から2週間前に仲介を依頼された」と明かしたうえで、「手助けできるなら、仲介役を務めたい」と表明しています。 これに対して、インド外務省の報道担当官は「首相が(トランプ大統領に)そのような依頼をしたことはない」と否定しましたが、トランプ大統領は、今月(8月)1日、「もし彼らが望むなら、私は確実に調停するだろう」と発言。インドのジャイシャンカル外相が翌2日、訪問先のバンコクでポンペオ米国務長官と会談し「協議はパキスタンとの2国間でのみ行われる」と抗議したとツイッターするという一幕もありました。 今回のジャンムー・カシミール州の自治権廃止は、こうした一連の流れの中で、今月5日、インドのコビンド大統領が自治権を剥奪する大統領令に署名し、それを上下両院が昨日までに相次いで憲法改正案を可決して行われたものです。 一方、パキスタン側は、ジャンムー・カシミール州を含む全カシミール地方を領有しているという建前から、インドによる同州の自治権剥奪に強く反発し、6日には、カーン首相が議会演説で「(ジャム・カシミール州の問題を)国連安保理や国際法廷に持ち込むことも考えている」と述べています。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-06 Tue 03:02
中国本土への容疑者引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」改正案をめぐる抗議活動が続いている香港で、きのう(5日)、航空や金融、物流など幅広い業種で35万人が参加してのストライキが行われ、香港国際空港では、福岡や大阪など日本への路線を含む220便以上が欠航となりました。というわけで、きょうは、香港の航空関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、英領時代の1963年に発行された航空書簡の赤色印刷漏れエラーです。ちなみに、赤色も印刷された正規の航空書簡はこんな感じです。 1963年の航空書簡は、淡青色の用紙に、深紅(切手部分)・赤・青の3色刷となっていますが、品質管理が甘く、一色漏れや印刷ずれなどのエラーが数多く存在しており、収集対象としてはなかなか楽しめます。今回は、反中国の抗議行動への連帯の意を表して、その中から“赤抜き”のモノをご紹介しました。 切手の部分は、ピエトロ・アンニゴーニによるエリザベス女王の肖像で、香港では、1962年から、このデザインの普通切手が使われていました。 アンニゴーニは、1910年、ミラノ生まれ。フィレンツェの芸術アカデミーで学び、1930年に展覧会デビューを果たしました。その作風はイタリア・ルネサンス期の肖像画家を強く意識したもので、1949年に英国ロイヤル・アカデミーの展覧会に出品した作品が高い評価を受け、1950年代半ばに制作した女王の肖像により、肖像画家としての地位を確立しました。なお、香港切手・航空書簡に用いられたのと同じ肖像画は、1956年に発行されたフィジーの切手のほか、1959年にはカナダ切手にも取り上げられています。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-05 Mon 02:15
ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2019年7月3日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はキューバの特集(5回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2015年にキューバで発行された“ニコ・ロペス高等学校55周年”の記念切手で、学校の校舎と校名の由来となったキューバ革命の志士、ニコ・ロペスの肖像が描かれています。 ロペスは、1932年10月2日、ハバナで生まれました。 1934年、米国の支援を受けて政権を獲得したキューバ陸軍の実力者、フルヘンシオ・バティスタとその一派は、第二次大戦前後の約20年間にわたって政権をほぼ独占していました。 こうした状況の下、1952年、バティスタ(当時は上院議員)は大統領選挙に立候補したものの、野党オルトドクソ党のロベルト・アグラモンテ候補に対して苦戦していたため、同年3月10日、軍事クーデターを決行し、力ずくで大統領に就任します。 この選挙に立候補していた青年弁護士のフィデル・カストロ(以下、フィデル)はこれに憤慨し、バティスタを憲法裁判所に告発しましたが、裁判所はこれを握り潰しました。また、既存の二大政党、アウテンティコならびにオルトドクソのいずれも、結果的にバティスタのクーデターを容認しており、キューバの一般国民の生活は一向に改善される気配はありませんでした。 そこで、フィデルは、アベル・サンタマリーア、ニコ・ロペス、ヘスス・モンタネら同志とともに、バティスタ打倒のためには、既成政党とのしがらみのない若者を動員することが重要と考え、地下放送を通じて同志を募り、クレー射撃の練習を装い、ハバナ大学の施設を利用して、約1200名の反バティスタの活動家を訓練。彼らは、1953年7月26日、反バティスタの武装蜂起を起こします。 このとき、フィデルら90人の本隊はサンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営を襲撃しましたが、ロペス率いる22人の別動隊は、サンティアゴ・デ・クーバサンチャゴから80キロ離れたバヤモのカルロス・マヌエル・デ・セスペデス要塞を襲撃して通信網を破壊し、政府軍とモンカダとの連絡を途絶させることを試みました。 しかし、叛乱はすぐに鎮圧され、フィデルを含む叛乱側の若者の多くが逮捕されます。しかし、ロペスは、アルベンス政権下でリベラル改革が進められていたグアテマラに辛くも脱出。そこで、アルゼンチン出身の青年医師、エルネスト・ゲバラと知り合いました。 アルベンス政権は1954年6月、CIAの介入により崩壊し、ゲバラはメキシコに亡命。この時点では、ゲバラはキューバでのカストロの活動にはそれほどの関心を持っておらず、メキシコに逃れていたキューバ人の亡命者の多くは大言壮語するばかりで、彼らの語る“革命”には何ら現実味を感じられずにいたようです。なお、ゲバラは、アルゼンチンとウルグアイで話されるリオプラテンセ・スペイン語の間投詞で、特に意味はない“チェ”の語を会話の際に連発していましたが、ロペスを含め、亡命キューバ人たちは“チェ”の意味が分からなかったため、いつしかゲバラを“チェ”のあだ名で呼ぶようになり、“チェ・ゲバラ”の由来となりました。 さて、ゲバラはメキシコでロペスと再会したことに加え、当時の妻で、ゲバラにとっては共産主義理論の師でもあったイルダがキューバの情勢について熱く語るのを聞いて、次第にキューバ情勢にも関心を持つようになり、1955年5月、ロペスから、フィデルの弟、ラウル・カストロを紹介されます。 そして、同年7月8日、フィデルがメキシコシティに到着すると、7月第2週の“メキシコのあの寒い夜”、亡命キューバ人の溜まり場になっていた、エンバラン街49番地にあるマリーア・アントニア・ゴンザレスの家で、ついにゲバラとフィデルは運命の出会いを果たし、すっかり意気投合。以後、キューバ革命に邁進していくことになります。 ゲバラとカストロ兄弟を結び付けたロペスは、その後も彼らとともに革命活動を続け、1956年12月2日にはグランマ号でキューバ島への再上陸を果たしました。しかし、その直後の12月8日、バティスタ政府軍との戦闘により、戦死しました。 さて、『世界の切手コレクション』7月3日号の「世界の国々」では、キューバの革命戦争(その詳細については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』も併せてご覧いただけると幸いです)についての長文コラムのほか、エドゥアルド・アベラの絵画「農民たち」、砂糖1000万トン計画、グランマ号上陸記念国立公園、カストロの白鳩の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のキューバの次は、7月10日発売の同17日号でのオーストラリアの特集となっています。その内容の一部は、近々、このブログでもご紹介する予定です。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-04 Sun 10:27
7月31日からシンガポールで開催中のアジア国際切手展<SINGPEX 2019>で、きのう(3日)、授賞式が行われ、井上和幸さんのJapan Definitives 1883-1892が、見事、開催国・シンガポール関連以外のコレクションの中で最も優秀な作品に与えられるグランプリ・インターナショナルを獲得しました。国際切手展のグランプリ受賞は、6月に中国・武漢で開催された世界切手展<CHINA 2019>での永井正保さんのPrivate Printing Period in Victoria 1850-1859に続いての快挙で、井上さん自身は、2010年にタイ・バンコクで開催のアジア国際切手展<Bangkok 2010>での朝鮮郵便史のコレクションでの受賞以来、2度目のことです。というわけで、きょうは、井上さんに敬意を表してこの1点です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1883年1月1日に発行されたU小判2銭切手(通称・赤2)です。 1875年、大蔵省印刷局のお雇い外国人として来日したエドアルド・キヨッソーネは、日本の切手・紙幣の近代化に着手しますが、切手に関しては、1872年に造幣局のお雇い外国人トマス・キンダーが天皇の肖像を貨幣に刻したいと建議して却下されたことを知っていたため、当初から、日本の紙幣・切手には天皇の肖像を入れずにデザインを組み立てることを考えていました。 この結果、1876年5月17日から発行が開始されたのが、いわゆる小判切手です。なお、“小判”というネーミングですが、これは、当時の駅逓寮(郵便を担当していた官庁)なり大蔵省なりが命名したものではなく、のちに、収集家が名づけた名称です。西洋のデザインの伝統では“メダリオン”と呼ばれる楕円形の枠の中に肖像や文様を描くことがあり、キヨッソーネのデザインも基本的にはこれを継承したものですが、日本人の感覚で、これを小判に見たてたのが名前の由来となりました。 1882年、万国郵便連合(UPU)により、加盟国間での料金の確認を容易にするため、外国郵便に用いられる額面の切手は刷色を統一することとなり、外信印刷物用の切は緑色、外信葉書用の切手は赤色、外信書状の基本料金用の切手は青色とすることが提起されました。いわゆるUPUカラーです。 これを受けて、1883年1月1日、わが国の普通切手も刷色の変更が行われ、外信印刷物用として緑色の1銭切手が、外信葉書用として紅色の2銭切手(今回ご紹介の画像の切手です)が、外信書状基本料金用として青色の5銭切手が発行されました。これらの切手は、UPUカラーに対応した小判切手ということで、一般にU小判(UPU小判)と呼ばれています。 ところで、1885年7月1日、電信条例が改正され、同一市内と壱岐・対馬を除き、電報料金は全国均一となりましたが、これに先立ち、同年5月7日付で“電信切手”が発行されました。 電信切手が発行された当時、電信事業は工部省の所管(ちなみに、郵便事業を管轄する駅逓局は農商務省の所管)でしたが、電信切手発行から半年後の1885年12月22日、「太政官達第69号」が発せられ、それまでの太政官制を廃止して内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められ、ここに内閣制度がスタートします。これに伴い、工部省は廃止され、農商務省から駅逓局と管船局を、工部省から電信局と燈台局を承継して、逓信省が発足しました。 逓信省の発足後も、電信切手の使用は続いていましたが、1888年4月1日の法改正により、電信料金は郵便切手(小判切手)で納入することとなり、前日の3月31日限りで売り捌きが停止されました。 これと前後して、1888年3月10日以降、U小判切手として発行された1銭・2銭・5銭以外の額面について、従来の小判切手の刷色などを変更し、電信切手のみにあった額面25銭と1円の切手を加えた新シリーズの普通切手の発行が開始されます。これが、新小判切手です。 今回の井上さんのコレクションは、上記のU小判および新小判切手の専門コレクションとしては最高水準のものとして知られていましたが、今回のグランプリ受賞で、あらためて、その世界的評価が確立されたといえましょう。 今回のシンガポール展は、スケジュールの都合上、僕自身は現地に行くことができませんでしたが、親しい同胞の作品がグランプリとなったことは、本当に嬉しく、また誇りに思います。井上さん、あらためて、おめでとうございます。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-03 Sat 17:07
中国本土への容疑者引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」改正案をめぐる抗議活動が続いている香港で、きのう(2日)、主催者発表で4万人超の公務員らが香港中心部で集会を開き、香港政府に対し、改正案撤回などを求める市民の声に応えるよう訴えました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1996年12月4日、英領時代の香港で発行された“公務員週間”の切手シートで、シートの余白には、香港内での様々な公務員の活動が描かれています。 切手は、1989年9月6日に発行された“香港人の生活スケッチ(港人生活剪影)”の切手の1種で、華人のみならず、白人(英国人?)やインド人などが共存する“香港の多様性”が表現されています。港人生活剪影の切手は、3ヶ月前の天安門事件の記憶が生々しい中で、英領香港の体制が多様な文化・価値観の共存を認めていることをアピールする意図を込めて発行されました。その切手を収めた切手シートが、1997年7月1日の“返還”を目前に控えた時期にあらためて発行された背景には、“返還”後、香港の主権者となる中国が、社会の多様性を認めたがらない共産党の一党独裁体制であることへの疑問や批判が暗に示されていると見て良いでしょう。 ちなみに、香港の公務員規則は、“一国二制度”の原則により、原則として、英領時代の1917年に制定された「殖民地規例」の規定を継承しており、“政治的中立”が原則となっています。このため、香港政府は、1日、政府内の分裂を招き、施政に重大な影響を及ぼすとして「政治的中立を損なう行為は絶対に受け入れられない」とする声明を発表。公務員規則に違反した者については、責任を追及する方針を示していましたが、昨日のデモは、これを無視する形で行われました。 なお、香港の公務員が政治集会を開催するのは珍しいことではあるのですが、英領時代の1989年5月、中国大陸で、五四運動70周年にあわせて民主化運動が始まると、香港でも多くの市民がこれに連帯の意を示し、5月20日には台風による暴風雨警報・外出抑制勧告にもかかわらず、4万人の大集会が開かれ、中国系の新華社、華潤公司(経済貿易省の下部機関)、招商局(交通部の出先機関、海運業を中心とする企業集団)の職員など、実質的に“準公務員”いうべき人たちまでもがデモに参加し中国政府を公然と批判した例があります。また、同21日・28日の日曜日には、主催者発表で100万人を超える市民がデモ行進を行い、ヴィクトリア公園では大規模な集会が開かれ、6月7日には4日の天安門事件に抗議してゼネストも計画されました。 このあたりの事情については、拙著『香港歴史漫郵記』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 * 昨日(2日)の文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」の僕の出番は、無事、終了いたしました。お聞きいただきました皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。なお、次回の出演は9月6日の予定(仮)です。放送日が近づきましたら、また、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-02 Fri 02:50
インドネシア・アチェ州で、昨日(1日)、州内で施行されているイスラム法で“犯罪とみなされる愛情表現”を行ったとして、仏教徒1人を含む男女計11人(男性6人、女性5人)に対し、公開むち打ち刑が執行されました。というわけで、きょうはこんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、いわゆるアチェ戦争の時代に、66の番号が入った現地のオランダ軍野戦局の消印が押された蘭印(オランダ領東インド=現インドネシア)切手です。 1471年、現在のヴェトナム中部を拠点としていたチャンパ王国の首都ヴィジャヤが陥落した際、チャンパ王の息子、シャー・パウ・リンはスマトラ北端に独自の王国を興しました。これは、いわゆるアチェ王国です。 アチェ王国は胡椒と錫の貿易で富を蓄えて16-17世紀に最盛期を迎え、王都のクタ・ラジャ(マレー語で文字通り“王の街”の意。現在のバンダ・アチェ)はイスラム文化の一大中心地となりました。 1819年、英国東インド会社のトマス・ラッフルズがシンガポールを拠点として確保すると、オランダはこれに猛反発。このため、1824年、いわゆる英蘭協定が成立し、マラッカの利権と北アチェでの平等な交易権を英国に保証するのと引き換えに、スマトラ島におけるオランダの支配権が認められることになります。ただし、この段階でも、アチェ王国の独立は一応保障されていました。 ところが、オランダの支配がスマトラ島を北上していくとともに、スエズ運河が開通してアチェ沖が国際航路として重要性を増すようになると、1871年、英国はフランスやドイツの介入を防ぐための次善の策としてオランダに対してアチェにおける“行動の自由”を承認。これを受けて、1873年3月、オランダはアチェ王国に対する侵攻を開始します。 いわゆるアチェ戦争の勃発です。 当初、在地のウレーバラン(地方領主)はスルターンのマフムード・シャーの下に団結し、1873年4月にはいったんオランダ軍を撃退します。ところが、同年12月にオランダが再侵攻し、激戦の末に首都クタ・ラジャが陥落。このため、マフムード・シャーはクタ・ラジャを脱して山間部に撤退したましが、翌1874年1月、コレラに罹って亡くなりました。 その後も、アチェ側は新スルターンとしてムハンマド・ダウト・シャーを擁立して抵抗を続けますが、戦況は次第に不利になっていき、1878年までに、オランダはアチェの主要都市をほぼ制圧します。 これに対して、1880年代以降もチック・ディ・ティロら徹底抗戦を主張するウラマー(もともとは“知識ある者たち”を意味するアラビア語で、イスラム諸学に通じた学者・知識人ないしはその集団を指す。実態としては、いわゆるイスラム法学者とほぼ同義)は農民を動員してゲリラ戦を展開。これにテウク・ウマルら新興領主も加わってことで、クタ・ラジャ周辺の防御線の外側には、なかなかオランダの統制が及ばない状況が続きました。 1890年代に入ると、オランダはウレーバランを懐柔してウラマーの封じ込めに乗り出し、1903年にスルターンと抵抗派の領主を降伏させ、アチェ王国は事実上滅亡します。ただし、その後もスルターンは退位せず(1907年に没)、ウラマーの一部はゲリラ戦による抵抗活動を継続。1913年、オランダはようやくアチェの組織的抵抗を鎮圧したものの、アチェのスルターンの主権そのものは認めざるをえませんでした。 こうした経緯もあって、日本の占領時代や独立戦争の時代を経て、蘭印の主権がオランダから新生インドネシアに委譲された際も、アチェの人々はアチェの主権がインドネシアに譲渡されたわけではないと主張。スハルト政権下の1976年には、自由アチェ運動を中心とする分離独立派がインドネシア政府との武装闘争を展開。アチェはインドネシアにおける内戦の地として世界のメディアに取り上げられるようになります。 その後、2004年12月26日、いわゆるスマトラ島沖大地震が発生し、アチェは壊滅的な打撃を受けたため、インドネシア政府と分離独立派の間で復興を最優先することで合意が成立。2005年8月15日に和平協定が結ばれ、2009年までにアチェ州が成立しましたが、インドネシアで唯一イスラム法に基づく州条例を制定する自治権が認められるなど、ある種の特殊な地位が認められています。 なお、アチェについては、拙著『蘭印戦跡紀行』でも、1章を設けてまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひ、お手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 8月2日(金) 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 8月2日(金)05:00~ 文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-01 Thu 01:36
中国・大連市に住む人物が“香川小豆島”という商標の登録を中国商標局に申請していることが、きのう(31日)までに明らかになりました。申請が認められると、“香川小豆島”の名が付いた日本の商品を中国で販売できなくなることから、香川県や業界団体などは8月中に異議申し立てを行う方針です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1993年5月21日に発行されたふるさと切手(香川県)の「二十四の瞳」で、小豆島・土庄港の入口にある“平和の群像”が取り上げられています。小豆島が香川県に属する島であることを示すものとして、持ってきました。 さて、壺井栄の小説『二十四の瞳』は、“瀬戸内海べりの一寒村”の岬の分教場を舞台に、1928年春に赴任してきた若い女性教師(おなご先生)と12人の教え子のふれあいと戦争の悲劇を描いた小説で、1952年に発表された原作には、小豆島の具体的な地名は登場しません。しかし、壷井の生まれ故郷が小豆島であることから、1954年、木下恵介監督・高峰秀子主演により映画化された際には、物語の舞台を小豆島に設定し、撮影も小豆島で行われました。そして、この映画が大ヒットしたことから、小豆島は『二十四の瞳』の舞台というイメージが定着しました。 切手に取り上げられた“平和の群像”は、『二十四の瞳』の原作と映画をモデルに、映画公開から2年後の1956年、地元のバス事業者だった小豆島バスが資金を提供し、香川県丸亀市出身の彫塑家、矢野秀徳が制作し、同年11月10日に除幕式が行われました。 作品名は、戦争での教訓から、平和を願う気持ちを込めて命名されたもので、分教場へ通う12名の生徒たちが、おなご先生を取り囲むもの構図となっています。また、像の正面には、「平和の群像 内閣総理大臣 鳩山一郎」との題字が揮毫されています。今回ご紹介の切手では、切り絵作家として知られる大西良介が原画を担当しています。 さて、今回の“香川小豆島”の商標登録申請は、香川県によるインターネットの定期チェックで判明したもので、申請者は、麺類、しょうゆ、調味料などの商品に"香川小豆島”の商標を付けようとしているのだとか。 日本の地名に関する商標登録をめぐっては、これまでにも、2002年に中国・廣州の企業が“青森”を申請して却下されたことがあるものの、2016年に江蘇省の個人が行った“弘前”の登録申請は受理されてしまい、2018年には弘前市側の異議申し立てが却下されたことがあります。ちなみに、中国商標法は「一般に知られた外国地名は商標登録できない」と定めていますが、“弘前”は一般に知られていない、というのがその理由だそうで…。 また、2004年には福建省の業者が“有田焼”を商標登録してしまったため、2010年に上海市で開かれた佐賀県の物産展では“有田焼”の名称が使えなくなるということがありました。ちなみに、中国の登録者は、自らは全く陶器を製造しておらず、日本からライセンス料をせしめることが目的でした。このため、佐賀県陶磁器工業協同組合は中国では“ARITA JAPAN”などの表記で対応し、登録者が“(商標を)長期間使用しなかった”状態を作り出すことで、中国の商標法に基づいて登録の抹消を申請。2013年にはこれが認められ、あらためて、同組合として“有田焼”の商標登録を行うという経緯をたどっています。 中国以外でも、2015年には、北海道や十勝地方とは全く無関係の韓国人が北海道十勝地方のローマ字表記“TOKACHI”を商標登録出願し、韓国特許庁がこれを却下するという事件が起きています。 いやはや、まったく油断も隙もないものですな。 ★ 8月2日(金) 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 8月2日(金)05:00~ 文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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