2024-05-18 Sat 09:52
アフリカの内陸国チャドで今月6日に行われた大統領選で、同国の憲法評議会は、16日、2021年に発足した軍事政権で暫定大統領を務めていたマハマト・デビが6割強の得票で勝利したと発表しました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1930年、仏領時代のチャドで発行された1フランの不足料切手で、チャドの国名の由来となったチャド湖(“チャド”じたいが現地語で”湖”の意)が描かれています。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 * 昨日(17日)のニッポンジャーナルの内藤出演回は無事に終了しました。次回は5月21日(火)に登場の予定です。引き続きよろしくお願いします。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 5月21日(火) 10:00~ ニッポンジャーナル インターネット番組「ニッポンジャーナル」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。皆様、よろしくお願いします。 5月24日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 謀略の世界史 原則毎月第1土曜日 13:00~14:30 MI6、CIA、モサドなど各国の情報機関のあらましや、現代史の中で彼らが実際に関与した事件などを幅広くご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 大河企画の「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」、引き続き開講中です。詳細はこちらをご覧ください。 「龍の文化史」、絶賛配信中です。龍/ドラゴンにまつわる神話や伝説は世界各地でみられますが、想像上の動物であるがゆえに、それぞれの物語には地域や時代の特性が色濃く反映されています。世界の龍について興味深いエピソードなどを切手の画像とともにご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『切手もの知り図鑑 一番切手50のエピソード』 好評発売中!★ 「動物と植物」「科学技術」「社会と文化」「神話/伝説と宗教」の4章立てで、犬、猫、宇宙開発、飛行機、クリスマスといったテーマで、初めて描かれた切手図案にまつわる秘話、思いがけない発行に至る背景に加え、シーラカンスやテレビ、警察官、タトゥー、髑髏といった、あっと驚く意外なテーマの一番切手も登場します! * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-04-21 Wed 02:21
おととい(19日)、チャドの大統領選挙で7選が発表されたばかりのイドリス・デビ大統領が、きのう(20日)、同国北部における反政府勢力との前線で負傷し、亡くなりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1991年にチャドが発行した“自由と民主主義の日”の記念切手です。 1960年にフランスから独立したチャドでは、南部出身のキリスト教徒、フランソワ・トンバルバイが初代大統領に就任しましたが、トンバルバイはチャド進歩党の一党独裁体制を敷き、強権支配を行ったため、1965年、南部ゲラ州で大規模な反乱が発生。1969年にはグクーニ・ウェディひきいる北部のムスリムがチャド民族解放戦線(FROLINAT)を組織して武装蜂起しました。さらに、1971年以降、隣国のリビアが北部国境地帯、アオゾウのウラン鉱脈をめぐって、FROLINATを支援し内戦に干渉します。 1973年、チャド国軍はリビア軍に敗れ、アオゾウを失陥。リビアの圧力に屈し、領土奪還を事実上断念したトンバルバイは、国内の不満を抑え込むため、反対派の粛清やヴォドン(ヴードゥー)への改宗強制など、従来以上に強圧的な独裁政治を行いましたが、1975年4月13日、軍事クーデターにより失脚し、殺害されました。 クーデター後、フェリックス・マルーム元参謀総長を議長とする最高軍事評議会が政権を掌握。一方、FROLINAT内部はグクーニ・ウェディ派とイッサン・ハブレ派に分裂し、内戦は3派の争いとなります。 1978年1月、リビアの支援を受けたハブレ派がチャド北部を制圧すると、同年8月、マルーム政権は、ハブレを首相として政権内に取り込みましたが、翌1979年、マルーム派とハブレ派が衝突。このため、周辺諸国の調停により、マルームは辞任。シャワ暫定政権を経て、グクーニが大統領に就任し、ハブレは陸軍相として政権に加わるという妥協が成立しました。 しかし、1980年3月、新政権内の主導権争いからハブレ派とグクーニ派の内戦が再燃。ここに、リビアが介入し、同年12月、リビアの支援を受けたグクーニ派が首都ンジャメナを制圧します。ところが、ウラン鉱脈を持つチャドにリビアが勢力を拡大することを懸念した米国のレーガン政権は、親リビア派のグクーニ政権を転覆させるべく、ハブレ派を水面下で支援。この結果、事態収拾のため、1981年11月、アフリカ統一機構の平和維持軍がチャドに派遣され、リビア軍が撤退すると、1982年6月にはハブレが大統領に就任しました。 これに対して、リビアはハブレ政権を承認せず、1983年6月、グクーニ派を支援してチャド領内に再侵入したため、米仏とザイールは政府軍を支援して応戦。1984年9月にはフランスとリビアの間で休戦合意が成立し、北緯16度線以北はリビア軍の占領下に置かれます。 ところが、この結果に不満のグクーニ派が、1986年、リビア軍を攻撃すると、同年12月、政府軍は16度線を越えて進軍し北部チャドを奪回。1987年9月に休戦が成立し、1994年、紛争地アオゾウの帰属は国際司法裁判所の裁定で最終的にチャド領とされました。 この間、ハブレ政権は反政府勢力に対して、民族浄化など、広範な残虐行為を行い、ヒューマン・ライツ・ウォッチが2001年に発見した政治警察“文書管理・保安局”の文書によれば、1208人が殺されたり拘禁中に死亡したほか、1万1208人が人権侵害の被害を受けたとの記録が残されています。 1987年の停戦後、ハブレ政権の圧政に対するチャド国民の不満は次第に鬱積していきましたが、1989年4月、ついに、大統領側近によるクーデター未遂事件が発生。この事件で、いったんスーダンに亡命を強いられた政権軍事顧問のイドリス・デビは、リビアの支援を受けて、反ハブレ派を糾合して愛国救済運動(MPS)を結成。1990年9月、MPSは首都ンジャメナに侵攻してハブレを追放し、デビみずから暫定大統領に就任します。そして、12月1日の選挙を経て、同4日、デビは正式に大統領に就任しました。今回ご紹介の切手は、この大統領選挙の実施から1周年を記念して発行されたものです。 さて、大統領に就任したデビは、1996年、2001年の大統領選で再選するのですが、1996年3月末に施行のチャド憲法では、大統領の3選は禁止されていましたので、普通に考えれば、2001年の選挙にデビは出馬できないはずです。ところが、デビは、1990年12月の大統領就任は憲法施行以前なので、3選禁止の対象には含まれないと強弁。そのうえで、“2期目”の任期中の2004年5月には憲法を改正して大統領の再選規定を撤廃。これにより、2006年、2011年、2016年の選挙では政権側が露骨な選挙不正を行い、デビは当選を重ねます。さらに、2018年4月には再び憲法を改正して、3選禁止規定を復活させる一方、大統領の任期を1期6年としていました。 2004年の再選規定撤廃後、デビとMPSによる腐敗や圧政が目立つようになると、クーデター未遂や軍幹部・国軍兵士の離反等が相次ぎ、2005年頃より反政府武装勢力の活動も活発化。2008年2月には、反政府勢力が一時的に首都のンジャメナを制圧しました。また、欧米諸国はデビをベラルーシのルカシェンコと同等の独裁者と見なしています。 こうした中、今年(2021年)4月11日には、野党勢力がボイコットする中で大統領選挙が行われましたが、これに合わせて、リビアに逃れて活動していた反政府武装勢力の“チャド変革・調和戦線”が国境を越えてチャド領内に侵入。17日には変革・調和戦線の2つの部隊が首都ンジャメナを目指して南進している様子が確認されたため、英国政府がチャド在留の英国民に速やかな国外への退避を呼びかけ、ンジャメナの米国も職員に出国を命じていました。 これに対して、チャドの国営メディアは、4月19日、デビの7選を発表するとともに、国軍が変革・調和路線の戦闘員少なくとも300人を殺害し、150人を拘束知ったことを発表。これを受けて、デビは前線を視察中(一部、前線で戦闘部隊を直接指揮している時に、との報道もあります)、反政府勢力の攻撃を受けて負傷。そのまま戦場で亡くなったとのことです。 なお、今回のデビの陣没を受けて、チャド議会は解散され、今後、デビの息子のマハマト・デビ率いる軍事評議会が18ヵ月間、統治を行うことが発表されており、このままいくと、今後も、デビ一族による国政の私物化はそのまま維持されることになります。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 4月23日(金) 15:00~ 東京・浅草の東京都立産業貿易センター台東館で開催のスタンプショウ会場にて、拙著『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.1 戦前編』の刊行記念トークを行います。入場無料・事前予約不要ですので、お気軽にご参加ください。なお、スタンプショウの詳細はこちらをご覧ください 4月24日(土) 倉山塾東京支部特別講演 靖国神社参拝と講演がセットになった有料イベント(参加費は3000円、高校生以下1000円)で、スケジュールは以下の通りです。 14:15 集合 靖国神社 大村益次郎像前 → 参拝(昇殿参拝ではありません)後、講演会場へ移動 15:00 講演会の受付開始 15:30-17:00 内藤の講演(拙著『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.1 戦前編』の内容が中心ですが、前日のスタンプショウとは内容が異なるので、両方ご参加いただいても問題ありません) * 終了後、懇親会の予定あり(別途予約が必要です) お申し込みなどの詳細はこちらへ。一人でも多くの方のご参加をお待ちしております。 4月26日(月) 05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 5月15日(土)~ 武蔵野大学の生涯学習講座 5月15日、22日、6月5日、19日、7月3日、17日の6回、下記のふたつの講座でお話しします。 13:00~14:30 「日本の郵便150年の歴史 その1 ―“大日本帝国”時代の郵便事情―」 15:15~16:45 「東京五輪と切手ブームの時代 ―戦後昭和社会史の一断面―」 対面授業、オンラインのライブ配信、タイム・フリーのウェブ配信の3通りの形式での受講が可能です。詳細については、武蔵野大学地域交流推進室宛にメール(lifelong★musashino-u.ac.jp スパム防止のため、アドレスの@は★に変えています)にてお問い合わせください。 ★ 『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.1 戦前編』 好評発売中! ★ 2530円(本体2300円+税) 明治4年3月1日(1871年4月20日)にわが国の近代郵便が創業され、日本最初の切手が発行されて以来、150年間の歴史を豊富な図版とともにたどる3巻シリーズの第1巻。まずは、1945年の第二次大戦終戦までの時代を扱いました。今後、2021年11月刊行予定の第2巻では昭和時代(戦後)を、2022年3月刊行予定の第3巻では平成以降の時代を取り扱う予定です。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-10 Sat 02:51
アフリカ中北部チャドのイドリース・デビ大統領は、今月11日の同国独立記念日を前に、きのう(9日)、記者会見し、スーダンと国境を接する東部で、今週、牧畜民と農耕民の大規模な衝突が起こり、3日間で少なくとも37人が死亡したことを明らかにしました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1976年、フランソワ・トンバルバイ独裁政権崩壊後の“国民和解”を訴えるべくチャドが発行した切手です。 1960年にフランスから独立したチャドでは、南部出身のキリスト教徒、フランソワ・トンバルバイが初代大統領に就任した。トンバルバイはチャド進歩党の一党独裁体制を敷き、強権支配を行ったため、1965年、南部ゲラ州で大規模な反乱が発生。1969年にはグクーニ・ウェディひきいる北部のムスリムがチャド民族解放戦線(FROLINAT)を組織して武装蜂起し、さらに、1971年以降、リビアが北部国境地帯、アオゾウのウラン鉱脈をめぐって、FROLINATを支援し内戦に干渉します。 その後、1973年にチャド国軍はリビア軍に敗れ、アオゾウを失陥。リビアの圧力に屈し、領土奪還を事実上断念したトンバルバイは、国内の不満を抑え込むため、反対派の粛清やヴォドン(ヴードゥー)への改宗強制など、従来以上に強圧的な独裁政治を行いましたが、1975年4月13日、軍事クーデターにより失脚し、殺害されました。 クーデター後、フェリックス・マルーム元参謀総長を議長とする最高軍事評議会が政権を掌握。一方、FROLINAT内部はグクーニ派とハブレ派に分裂し、内戦は3派の争いとなります。 今回ご紹介の切手は、こうした状況の下、国民の和解を訴えるために発行されたもので、チャドの地図の中で南北の民族服と洋装のチャド国民が手をつなぐさまを描き、その周囲に主要産業や動物などが描かれています。 現在、チャドの輸出の8割は南部のドバ油田から産出される原油が占めていますが、2003年にカメルーン・クリビ港とつながるパイプラインが開通するまでは、輸出の7割を綿花が占めていました。 チャドは国土全体の3分の2、北部が砂漠地域であり、農業は西部のチャド湖に流れ込むシャリ川およびロゴンヌ川の流域にあたる中部および南部に限られています。なかでも、南隣の中央アフリカ共和国と接するモイエン・シャリ州の州都サールはチャド随一の綿花の集散地となっており、綿花を利用した繊維工業も行われています。切手では、最南部に綿花の収穫と畑の耕作風景が描かれていますが、これは、そうした地理的条件を踏まえたものです。 しかし、長年にわたって連続した綿花栽培がおこなわれてきたことで、南部の土地は疲弊。さらに、種子の配布や綿花の買入・加工を独占的に行っている国策会社、チャド綿花会社は放漫経営により経営危機に陥り、農民への販売代金支払いが滞ったため、1997年に11万3000tだった生産量は2010年には2万t以下に落ち込んでしまいました。このため、2012年、チャド政府はチャド綿花会社に800億CFAフランを投資し、新チャド綿花会社を設立させ、綿花産業の再建に本格的に取り汲んでいますが、現在までのところ、目立った成果は上がっていません。 一方、南部から東部にかけては、ウシやラクダによる牧畜も行われており(切手にも北部にラクダ、西部に牛が描かれています)、食肉や皮革も輸出商品となっていますが、牧畜が砂漠化の進行に拍車をかけている側面もあり、農業生産が落ち込む中で、牧畜民に対して不満を募らせている農民も少なくないと報告されています。 ただし、1990年以来、30年近くにわたって独裁政権を維持しているイドリース・デビは、こうした国民相互の対立を自らの権力基盤の強化に利用しようとしているとも指摘されており、今年7月には、騒乱を抑え込むためとの口実で、東部地域での軍事法廷を導入する考えを示唆したものの、国民の強い反発に遭い、撤回に追い込まれたという一幕もありました。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-01-11 Wed 09:51
ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年1月4日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はチャドの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、世界最古の人類化石、サヘラントロプス・チャデンシスの頭骨を描く2005年のチャド切手です。 2001年、フランスのポワティエ大学のM.ブルネは、チャド北部のジュラブ砂漠の砂岩層から頭骨とあご2個、歯3本の化石を発見。化石は、出土したゾウやカバなど動物化石の分析や、年代が特定されている東アフリカの地層との比較などから約700万年前のものと推定され、脊柱が頭骨を下から支えている構造になっており、直立二足歩行をしていたことを示していることから、世界最古の人類化石と認定されました。 化石は、サハラ砂漠南縁を指す“サヘル”と、チャドの国名にちなみ、“サヘラントロプス・チャデンシス”と名付けられましたが、同時に、“希望”を意味する現地語で、乾季直前に生まれた子に付けられることの多い“トゥーマイ”が愛称とされました。今回ご紹介の切手にも、右下に“トゥーマイ”の表示が見えます。 さて、『世界の切手コレクション』1月4日号の「世界の国々」では、アフリカ連合(AU)によるダカール特別法廷で裁かれた元大統領、イッサン・ハブレとその時代についての長文コラムに加え、16世紀までに消滅したチャド文化、探検家ハインリヒ・バルトのの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。 なお、 「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のチャドの次は、18日に発売予定の1月25日号でのナミビアの特集(2回目)になります。こちらについては、発行日の25日以降、このブログでもご紹介する予定です。 ★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』 ★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2016-07-30 Sat 10:20
チャドのイッサン・ハブレ独裁政権(1982-90年)下での人道被害を裁くため、アフリカ連合(AU)がダカールに設置した特別法廷は、きのう(29日)、元大統領に対して、被害者1人当たり最高2000万CFAフラン(約340万円)の支払いを命じる判決を下しました。元大統領に対しては、すでに今年(2016年)5月30日、戦争犯罪や人道に対する罪で終身刑判決が下されています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1984年にチャドで発行されたハブレの肖像切手です。 1960年の独立後、チャドでは、南部出身のキリスト教徒、フランソワ・トンバルバイが初代大統領に就任しましたが、少数派の出身ゆえ国内の政権基盤は脆弱でした。このため、トンバルバイは与党チャド進歩党(PPT)以外の政党を禁止し、一党独裁制を施行するなど、強権的な支配で反対派を抑え込もうとしましたが、これに対して、1965年、南部ゲラ州で大規模な反乱が発生。さらに、1969年にはグクーニ・ウェディひきいる北部のイスラム教徒がチャド民族解放戦線(FROLINAT)を組織して武装蜂起し、チャド国内は内戦に突入します。 FROLINATが拠点としていたチャド北部のうち、リビアとの国境地帯のアオゾウには豊富なウラン鉱脈があるため、1971年以降、リビアのカダフィ政権はFROLINATを支援して内戦に干渉。1973年にはリビア軍を動員してアオゾウを占拠します。 一方、1942年生まれのハブレは、幼少の頃から学業優秀であったため、宗主国のフランス植民地省に就職し、軍司令官の推薦を受けてパリの大学に留学していましたが、政治学の学位を取得した後、1971年に帰国し、FROLINATに参加。次第に、FROLINAT内で頭角を現していきました。 さて、リビアの圧力に屈したトンバルバイは、領土奪還を事実上断念。そして、これに対する国内の不満を抑え込むため、反対派の粛清やヴードゥーへの改宗強制など、従来以上に強圧的な独裁政治を行いましたが、1975年4月13日、軍事クーデターにより失脚。殺害されました。 クーデター後、フェリックス・マルーム元参謀総長を議長とする最高軍事評議会が政権を掌握。一方、FROLINAT内部はグクーニ派とハブレ派に分裂し、内戦は3派の争いとなります。 1978年1月、リビアの支援を受けたハブレ派がチャド北部を制圧すると、同年8月、マルーム政権は、ハブレを首相として政権内に取り込みましたが、翌1979年、マルーム派とハブレ派が衝突。このため、周辺諸国の調停により、マルームは辞任。シャワ暫定政権を経て、グクーニが大統領に就任し、ハブレは陸軍相として政権に加わるという妥協が成立しました。 一般には、これをもって(第1次)チャド内戦はいったん終結したとされています。 しかし、1980年3月、新政権内の主導権争いからハブレ派とグクーニ派の内戦が再燃。ここに、リビアが介入し、同年12月、リビアの支援を受けたグクーニ派が首都ンジャメナを制圧しました。ところが、ウラン鉱脈を持つチャドにリビアが勢力を拡大することを懸念した米国のレーガン政権は、親リビア派のグクーニ政権を転覆させるべく、ハブレ派を水面下で支援。この結果、事態収拾のため、1981年11月、アフリカ統一機構の平和維持軍がチャドに派遣され、リビア軍が撤退すると、1982年6月にはハブレが大統領に就任します。 これに対して、リビアはハブレ政権を承認せず、1983年6月、グクーニ派を支援してチャド領内に再侵入したため、米仏とザイールは政府軍を支援して応戦。1984年9月にはフランスとリビアの間で休戦合意が成立し、北緯16度線以北はリビア軍の占領下に置かれました。 ところが、この結果に不満のグクーニ派が、1986年、リビア軍を攻撃すると、同年12月、政府軍は16度線を越えて進軍し北部チャドを奪回。1987年9月に休戦が成立し、1994年、紛争地アオゾウの帰属は国際司法裁判所の裁定で最終的にチャド領とされました。 この間、ハブレ政権は反政府勢力に対して、民族浄化など、広範な残虐行為を行い、ヒューマン・ライツ・ウォッチが2001年に発見した政治警察“文書管理・保安局”の文書によれば、1208人が殺されたり拘禁中に死亡したほか、1万1208人が人権侵害の被害を受けたとの記録が残されています。 1987年の停戦後、ハブレ政権の圧政に対するチャド国民の不満は次第に鬱積していきましたが、1989年4月、ついに、大統領側近によるクーデター未遂事件。この事件で、いったんスーダンに亡命を強いられた政権軍事顧問のイドリス・デビは、リビアの支援を受けて、反ハブレ派を糾合して愛国救済運動(MPS)を結成。1990年12月、首都ンジャメナに侵攻し、ハブレを追放し、デビみずから大統領に就任します。 その後、デビは現在まで大統領の地位にとどまっていますが、政権が長期化し、その腐敗や圧政が目立つようになると、2004年以降、クーデター未遂や軍幹部・国軍兵士の離反等が相次ぎ、2005年頃より反政府武装勢力の活動も活発化。内政の混乱は解消されていません。 一方、1990年にセネガルに亡命したハブレに対しては、EUやヒューマン・ライツ・ウォッチにより国際法廷への引渡しが要請され、2006年に引渡しが決まります。これに対して、ハブレの亡命先であるセネガル政府は引渡しを拒否していましたが(このため、2008年にはチャド国内での欠席裁判で、ハブレに対して「国民に対する犯罪」の容疑で死刑判決が下されています)、、2011年、突然、チャドへの身柄送還を発表。これに対して、ハブレの帰国がチャド情勢を不安定化させることを恐れた国連は、ハブレのチャド移送の中止を要請したため、2012年、セネガル政府とAUにより、ダカールに特別法廷が設置されました。 その後、2016年5月30日に、特別法廷はハブレに有罪を宣告し、人道に対する罪(レイプ、性的奴隷、1982-90年のハブレ政権下での4万人の反体制派への虐殺指示、20万人の反体制派への残虐な弾圧)により無期懲役の判決が下され、これを受けての今回の賠償命令の判決となったというわけです。 なお、AUは、今回のハブレ裁判に関して、アフリカ大陸で他国の元指導者が有罪を宣告された初のケースとしてその意義を強調していますが、現在のAU議長はハブレの宿敵で現チャド大統領のデビですからねぇ。ハブレ時代の人権抑圧を擁護するつもりは全くありませんが、さりとて、その“意義”を額面通りに受け取るというのも、少なからず抵抗感を覚えますな。 ★★★ 新作 『リオデジャネイロ歴史紀行』 初売りのご案内 ★★★ ・8月6日(土) 09:00- 切手市場 於 東京・日本橋富沢町8番地 綿商会館 詳細は主催者HPをご覧ください。 新作『リオデジャネイロ歴史紀行』の奥付上の刊行日は8月9日ですが、8月3日頃には現物ができあがってくるとの連絡がありました。そこで、さっそく、同書を中心に拙著を担いで行商に行きます。実物の販売は、この日が初売りとなる予定です。ぜひ遊びに来てください。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『リオデジャネイロ歴史紀行』 8月9日発売! ★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2015-06-16 Tue 22:13
アフリカ中部チャドの首都ンジャメナで、きのう(15日)、警察施設2カ所で、隣国ナイジェリア北東部を拠点とするイスラム過激派ボコ・ハラムの犯行と見られる自爆テロとみられる爆発が相次いで発生し、23人が死亡し、100人以上が負傷しました。というわけで、ンジャメナに関連して、今日はこの切手です。
これは、2000年にチャドが発行した首都ンジャメナ建設100年の記念切手です。 アフリカ内陸部、チャド湖とその周辺は、ながらくカネム・ボルヌ帝国の支配下に置かれていましたが、19世紀に入ると、列強諸国の進出にさらされることになります。すなわち、1822年、英国人のディクスン・デンハムとヒュー・クラッパートンが1822年にチャドに到達。ついで、トリポリ(リビア)から南下したドイツ人のハインリッヒ・バルトが1853年に周囲を含めて探査、1870年と1871年にはやはりトリポリからドイツ人のギュスタフ・ナハティガルがチャドに入っています。その後、1884年から1885年にかけてのベルリン会議では、フランスがリビア以西のアフリカの大半を勢力圏内とすることが決められましたが、ドイツもチャド湖南岸からカメルーンにいたるエリア(現在のチャドの一部)を植民地としました。 一方、19世紀後半、カネム・ボルヌ帝国は東隣のスーダンから進入したラビー・ズバイルの攻撃を受け、苦戦していたため、1891年、フランスはカネム・ボルヌ王国の保護を口実にチャドに侵入。1900年、クッスリの戦いでラビー・ズバイル軍を破ると、周辺諸民族の制圧を進め、1910年、現在のチャド国家に相当する領域をフランス領に併合しました。 この間、1900年にフランスはシャリ川とロゴーヌ川の河港に城砦を築き、クッスリの戦いで戦死したアメデ=フランソワ・ラミにちなんで、ここをフォール・ラミ(ラミ砦)と命名。これが、現在のンジャナメのルーツとなりました。今回ご紹介の切手も、ここから起算して100周年になるのを記念して発行されたものです。 その後、チャドは1960年に独立しますが、独立後も首都の名はフォール・ラメのままでした。ところが、1973年4月、ザイールのモブツ政権が進めていたアフリカ化政策に感化されたトンバルバイ政権によって、現在のンジャメナに改称され、現在にいたっています。 ちなみに、今月11日には、ナイジェリア、チャド、ニジェール、カメルーン、ベナンの5カ国によるボコ・ハラム掃討のための合同部隊が発足し、その本部がンジャメナに設置されたばかりです。これまで、ボコ・ハラム側は他国の首都での大規模なテロを行ってきませんでしたが、今回の事件は、状況証拠などから、チャド当局の見立て通り、ボコ・ハラムによる犯行の可能性がきわめて高いと思われます。いきなり出鼻をくじかれた格好の5ヵ国合同部隊ですが、これに屈せず、今後の掃討作戦で成果を上げていただきたいものです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『日の本切手 美女かるた』 好評発売中! ★★★ 税込2160円 4月8日付の『夕刊フジ』に書評が掲載されました! 【出版元より】 “日の本”の切手は美女揃い! ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え! <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾン、boox store、e-hon、honto、YASASIA、紀伊國屋書店、セブンネット、ブックサービス、丸善&ジュンク堂、ヨドバシcom.、楽天ブックスをご利用ください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2015-01-28 Wed 12:16
アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2015年1月28日号が、先週刊行されました。僕が担当しているメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はアフリカのチャドを取り上げました。その記事の中から、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、対リビア戦争の英霊慰霊碑を取り上げた1984年のチャド切手です。 1960年の独立後、チャドでは、南部出身のキリスト教徒、トンバルバイが初代大統領に就任しましたが、少数派の出身ゆえ国内の政権基盤は脆弱でした。このため、トンバルバイは与党チャド進歩党(PPT)以外の政党を禁止し、一党独裁制を施行するなど、強権的な支配で反対派を抑え込もうとしましたが、これに対して、1965年、南部ゲラ州で大規模な反乱が発生。さらに、1969年には北部のイスラム教徒がチャド民族解放戦線(FROLINAT)を組織して武装蜂起し、チャド国内は内戦に突入します。 FROLINATが拠点としていたチャド北部のうち、リビアとの国境地帯のアオゾウには豊富なウラン鉱脈があるため、1971年以降、リビアのカダフィ政権はFROLINATを支援して内戦に干渉。1973年にはリビア軍を動員してアオゾウを占拠します。 リビアの圧力に屈したトンバルバイは、領土奪還を事実上断念。そして、これに対する国内の不満を抑え込むため、反対派の粛清やヴードゥー教への改宗強制など、従来以上に強圧的な独裁政治を行いましたが、1975年4月13日、軍事クーデターにより失脚。殺害されました。 クーデター後、マルーム元参謀総長を議長とする最高軍事評議会が政権を掌握。一方、FROLINAT内部はグクーニ派とハブレ派に分裂し、内戦は3派の争いとなります。 1978年1月、リビアの支援を受けたハブレ派がチャド北部を制圧すると、同年8月、マルーム政権は、ハブレを首相として政権内に取り込みましたが、翌1979年、マルーム派とハブレ派が衝突。このため、周辺諸国の調停により、マルームは辞任。シャワ暫定政権を経て、グクーニが大統領に就任し、ハブレは陸軍相として政権に加わるという妥協が成立しました。一般には、これをもって(第1次)チャド内戦はいったん終結したとされています。 しかし、1980年3月、新政権内の主導権争いからハブレ派とグクーニ派の内戦が勃発。ここに、リビアが介入し、同年12月、リビアの支援を受けたグクーニ派が首都ンジャメナを制圧しました。事態収拾のため、1981年11月、アフリカ統一機構の平和維持軍がチャドに派遣され、リビア軍の撤退後、1982年6月にはハブレが大統領に就任します。 これに対して、リビアはハブレ政権を承認せず、1983年6月、グクーニ派を支援してチャド領内に再侵入したため、フランスとザイールは政府軍を支援して応戦。1984年9月にはフランスとリビアの間で休戦合意が成立し、北緯16度線以北はリビア軍占領下に置かれました。 ところが、この結果に不満のグクーニ派が、1986年、リビア軍を攻撃すると、同年12月、政府軍は16度線を越えて進軍し北部チャドを奪回。1987年9月に休戦が成立し、1994年、紛争地アオゾウの帰属は国際司法裁判所の裁定で最終的にチャド領とされています。 停戦後の1989年4月、政権軍事顧問のデビがハブレと対立しスーダンに亡命。デビは、1990年12月、反ハブレ派を糾合してンジャメナに侵攻し、ハブレ追放後、自ら大統領に就任します。その後、デビは現在まで大統領の地位にとどまっていますが、政権が長期化し、その腐敗や圧政が目立つようになると、2004年以降、クーデター未遂や軍幹部・国軍兵士の離反等が相次ぎ、2005年頃より反政府武装勢力の活動も活発化。内政の混乱は解消されていません。 さて、『世界の切手コレクション』1月28日号の「世界の国々」では、チャド現代史の概要をまとめた長文コラムのほか、国名の由来となったチャド湖や先史時代の洞窟壁画、エネディ山中にあるアルシェイのゲルダ(砂漠の水溜り)の景観の切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。 なお、本日発売の2月4日号では、「世界の国々」はヴェトナムを特集していますが、こちらについては、来週水曜日に、このブログでもご紹介する予定です。 ★★★ イベント「みんなで絵手紙」(2月8日)のご案内 ★★★ 2月8日(日) 10:00-17:00に東京・狛江のエコルマホールにて開催のイベント「みんなで絵手紙 見て、知って、書いて、楽しもう」のトークイベントに内藤陽介が登場します。内藤の出番は13:30-14:15。「切手と絵・手紙」と題してお話しする予定です。是非、遊びに来てください。主宰者サイトはこちら。画像をクリックしていただくと、チラシの拡大画像がごらんになれます。 ★★★ 講座「切手と郵便物に刻まれた“終戦”」(2月20日)のご案内 ★★★ 2月20日13:00~14:30、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、「切手と郵便物に刻まれた“終戦”」と題する講座を行います。 2015年は第二次世界大戦の終戦から70周年にあたります。終戦の年の1945年はあらゆる意味で社会が激変した年ですが、その影響は切手や郵便物にもさまざまな痕跡を残しています。今回の講座では、当時の切手や郵便物を読み解いていくことで、一般の歴史書では見落とされがちな終戦の諸相を、具体的なモノの手触りとともに明らかにしてみたいと思っています。 詳細は、こちらをご覧ください。(画像は、日本の降伏文書調印が行われた米軍艦ミズーリ号から降伏文書調印日に差し出された郵便物の一部分です) ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★ 毎月1回(原則第1火曜日:2月3日、3月3日、3月31日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。 次回開催は2月3日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『朝鮮戦争』好評発売中! ★★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』、『郵趣』10月号、『サンデー毎日』10月5日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました! ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2013-03-02 Sat 22:37
アフリカ中部チャドのイドリース・デビ大統領によると、マリでイスラム過激派の掃討作戦を行っているチャド軍が、国際テロ組織アルカイダの分派“イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ(AQIM)”の最高幹部の一人、アブデルハミド・アブゼイド司令官を殺害したそうです。というわけで、きょうはこの切手です。
これは、1964年にチャドで発行された同国陸軍兵士の切手です。 チャドの国軍は、1960年の独立から1979年にフェリックス・マルーム政権が崩壊するまでは、“チャド軍(FAT:Forces Armées Tchadiennes)”という名称で、仏領時代からの伝統を継承し、将兵の主力は南部の出身者で占められていました。今回ご紹介の切手の兵士もFATの兵士です。 その後、1978年に隣国リビアが関与しての内戦が勃発。1982年、内戦に勝利を収めたイッセン・ハブレが大統領に就任すると、ハブレの軍事力であった“北部軍(FAN:Forces Armées du Nord)”が新体制の国軍の主力となります。FANは1983年に正式な国軍となり、名称も“チャド北部軍(FANT:Forces Armées du Nord Tchad)と改称されました。なお、これに伴い、FATは国軍の下の地方組織化され、その規模も大幅に縮小されました。 マリへの部隊派遣は、アフリカ主導の国際マリ支援団(AEISMA)の一員として行われているもので、司令官はオマル・ビコモです。マリの首都バマコにある統合軍司令部の指揮の下、ガオ州とキダル州に1800人の将兵を展開しており、2013年2月5日には武装勢力の最後の拠点都市キダルを制圧しましたが、アルジェリアとの国境に近い北部山岳地帯に逃れた武装勢力との掃討戦では、2月22日のイフォガスの戦いで武装勢力の93人を殺害したものの、チャド軍側も23人の死者を出しています。 今回発表されたAQIM幹部の殺害に関して、チャド軍と共に掃討作戦を行っているフランスは、現時点ではノーコメントという立場で、殺害の日時や場所などの詳細も明らかにはされていませんが、チャド軍の展開地域からして、北部山岳地帯での出来事であるのは間違いなさそうです。 なお、現在、4月下旬の刊行を目指して制作作業をしている拙著『マリ近現代史』(仮題)ですが、できる限り、最新の出来事までカバーしようと考えております。正式なタイトルや価格などが決まりましたら、随時、このブログでもご案内していきますので、よろしくお願いいたします。 【世界切手展BRASILIANA 2013・出品募集期間延長!】 今年11月、ブラジル・リオデジャネイロで世界切手展 <BRASILIANA 2013> が開催される予定です。当初、現地事務局への出品申し込みは2月28日〆切(必着)でしたが、〆切日が3月31日まで延長されました。つきましては、2月14日に締め切った国内での出品申し込みを再開します。出品ご希望の方は、3月20日(必着)で、日本コミッショナー(内藤)まで、書類をお送りください。なお、同展の詳細はこちらをご覧ください。 ★★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★★ 『喜望峰:ケープタウンから見る南アフリカ』 いままでなかった喜望峰とケープタウンの物語 美しい風景とウンチク満載の歴史紀行!! アマゾン、セブンネット、版元ドットコム、楽天ブックス、e-hon、hmv、honto、JBOOK、livedoor BOOKSなどで好評発売中! なお、本書をご自身の関係するメディアで取り上げたい、または、取り上げることを検討したい、という方は、是非、ご連絡ください。資料を急送いたします。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2010-08-11 Wed 14:26
アフリカ中央部のチャドが1960年8月11日に独立してから、きょうでちょうど50年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1960年12月にチャドが発行したローマ五輪の記念切手で、仏領赤道アフリカ時代の航空切手に、新国名と新額面、記念銘を加刷したものです。 さて、アフリカ内陸部、チャド湖とその周辺は、ながらくカネム・ボルヌ帝国の支配下に置かれていましたが、19世紀に入ると、列強諸国の進出にさらされることになります。すなわち、1822年、イギリス人のディクスン・デンハムとヒュー・クラッパートンが1822年にチャドに到達。ついで、トリポリから南下したドイツ人のハインリッヒ・バルトが1853年に周囲を含めて探査、1870年と1871年にはやはりトリポリからドイツ人のギュスタフ・ナハティガルがチャドを調べています。その後、1884年から1885年にかけてのベルリン会議では、フランスがリビア以西のアフリカの大半を勢力圏内とすることが決められましたが、ドイツもチャド湖南岸からカメルーンにいたるエリア(現在のチャドの一部)を植民地としています。 一方、カネム・ボルヌ帝国は1883年から1890年にかけて、スーダンから進入したラビー・ズバイルの攻撃を受け、苦戦していました。この状況を見たフランスは、1891年、カネム・ボルヌ王国の保護を口実にチャドに侵入。1900年、ラビー・ズバイル軍を破ると、周辺諸民族の制圧を進め、1910年、チャドのフランス領併合を断行します。そして、1913年頃までにはチャド全域の支配を確立し、1920年、チャドの地域は正式に仏領赤道アフリカへ編入され、ブラザヴィル(現在のコンゴ共和国の首都)に置かれた総督の支配下に置かれました。 チャドとしての最初の切手は、1922年に仏領中央コンゴ切手に“TCHAD”と加刷して発行されています。この時点では、チャド、ガボン、中央コンゴ、ウバンギシャリの仏領赤道アフリカの4連邦はそれぞれ別の切手を発行していましたが、1934年以降は連邦共通の切手が使われるようになり、チャド単独の切手は発行されていません。 第2次大戦中、シャルル・ド・ゴールの呼びかけに応じ自由フランス政府を支持したことから、1957年、チャドは自治が認められ、1958年、自治共和国が発足。1960年8月11日、完全独立を果たしました。 今回ご紹介の切手は12月の発行ですが、発行の名目となっているローマ五輪の会期は8月25日から9月11日でしたから、会期終了後、かなり後れての切手発行ということになります。ちなみに、チャドの五輪参加は、ローマ五輪の次、1964年の東京五輪からになりますので、フツーなら、無理に切手を発行しなくてもよかったのでは…と思ってしまいます。まぁ、海外の五輪(切手)コレクターの懐を狙って、急遽、発行を決めたということなのでしょう。 なお、8月27日に刊行予定の拙著『事情のある国の切手ほど面白い』(メディアファクトリー新書007)では、いわゆる切手で外貨を稼ぐというシステムについても、その歴史的な展開を概観する1章も設けています。今回ご紹介のチャドについての直接的な記述はないのですが、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ お待たせしました。8ヶ月ぶりの新作です! 事情のある国の切手ほど面白い カッコよすぎる独裁者や存在しないはずの領土。いずれも実在する切手だが、なぜそんな“奇妙な”切手が生まれたのだろう?諸外国の切手からはその国の抱える「厄介な事情」が見えてくる。切手を通して世界が読み解ける驚きの1冊! 8月27日にメディアファクトリー新書007(税込777円)としていよいよ刊行! 全国書店・インターネット書店(bk1、Yahoo!ブックス、7&Yなど)で御予約受付中! |
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