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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ノリエガ元将軍、亡くなる
2017-05-31 Wed 09:01
 中米パナマの事実上の独裁者として君臨していたマヌエル・ノリエガ元将軍(以下、敬称略)が、29日、パナマ市で亡くなっていたことがきのう(30日)明らかになりました。享年83歳。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ノリエガ・サイン  ノリエガ差出の封筒

 これは、米マイアミの刑務所に収監中のノリエガが支援者の求めに応じて、メッセージとサインを記した彼の肖像写真と、それを送った封筒です。

 マヌエル・アントニオ・ノリエガ・モレノは、1934年2月、パナマ市の貧民街でメスティーソの家庭に生まれました。国立パナマ大学を卒業後、ペルーのチョリヨス軍官学校に留学。さらに、パナマに帰国後は米租借地の運河地帯、フォート・グリック内にあった米陸軍米州学校(SOA:School Of the Americas)で諜報および防諜を学びました。

 SOA修了後、米ノース・カロライナ州のフォート・ブラッグで心理戦を学んだノリエガは、1967年、パナマ国家警備隊(国軍)に入り、翌1968年、中尉に任官します。
 
 任官後まもない1968年、パナマではオマル・トリホスが軍事クーデターを起こして権力を掌握すると、ノリエガは、SOAの先輩であるトリホスを支援して反トリホス派を制圧し、その論功で1969年には一挙に中佐にまで昇進。彼が責任者を務めていた諜報機関G2はCIAの下で訓練を受けていました。ちなみに、当時、CIA長官としてパナマに関わっていたのが、後に大統領になるジョージ・ブッシュ(父)で、ノリエガはCIAから年間11万ドルを受け取り、各地のパナマ大使館から得た情報をCIAに流していました。

 一方、トリホスは1972年に新憲法を制定して独裁体制を構築。以後、ペルーのベラスコに影響を受けた左派民族主義の色彩が強い政策を打ち出し、パナマ運河地帯の主権を回復すべく、キューバのカストロ政権にも接近するなどして米国に揺さぶりをかけるとともに、1973年の国連安全保障理事会では、パナマ運河の主権はパナマにあることを確認させ、パナマの主権を尊重した新条約の成立を勧告する決議案を提案させました。この決議案は米国の拒否権で否決されていますが、1977年、パナマは米国と運河返還を約束する条約の締結に成功しています。

 反米自主路線を採るトリホスに対して米国が強く反発する中で、1981年7月31日、トリホスを乗せた飛行機が離陸後10分で墜落事故を起こし、トリホスは死亡。事故原因は現在なお不明ですが、パナマ国民の多くは、この事故は、米国の意を受けて、ノリエガが仕組んだものとみています。

 トリホスの死後、国家警備隊のフロレンシオ・フローレス・アギラール大佐が後継者となりましたが、1982年3月3日、ルベン・ダリオ・パレーデス大佐がクーデターを起こして実権を掌握。ノリエガは、パレーデスの下で国家防衛軍(国家警備隊から改組)の参謀総長に就任しましたが、1983年8月、パレーデスを追い落として軍内を掌握。最高権力者にのし上がり、独裁体制を構築します。

 1984年には16年ぶりに直接選挙による大統領選挙が行われ、トリホスのクーデターで失脚した元大統領、アルヌルフォ・アリアスが実際には最多の得票を得たが、ノリエガは選挙結果を操作し、親米派エコノミストのニコラス・アルディト・バルレッタが当選。さらに、1985年9月には、ノリエガ批判の急先鋒だったウーゴ・スパダフォラ元厚生次官が誘拐され、コスタリカとの国境地帯で虐殺されました。さすがにスパダフォラ殺害事件を許容できなかったバルレッタは大統領を辞任しましたが、反共を優先した米国はノリエガの専横を黙認していました。

 ところが、1986年、ノリエガが米国への麻薬の輸出とマネーロンダリングに関与しているとの疑惑が浮上。さらに、1987年6月には元国家防衛軍参謀総長のトリホス・エレーラが、1984年の大統領選挙における不正工作、スパダフォラ殺害、麻薬密売への関与でノリエガを告発したのを機に、ノリエガ退陣・民主化運動が発生します。これに対して、ノリエガの影響下にあるパナマ政府は、非常事態を宣言し、反政府系メディアを閉鎖するなど民主化運動を抑圧しました。

 1988年に入ると、米国はパナマの在米資産凍結とパナマ運河使用料支払い停止を発表。ノリエガは、これに対抗して在パナマ外国資産凍結を発表したが、パナマ経済は大混乱に陥ります。さらに、1989年5月に行われた大統領選挙では、反ノリエガ派のギジェルモ・エンダラが当選したものの、ノリエガは米国の干渉を理由に選挙の無効を宣言し、会計院長のフランシスコ・ロドリゲスを大統領とするなど、パナマ情勢は混乱が続きました。

 こうした中で、1989年12月20日、米国はパナマ在住米国民の保護、パナマ運河条約の保全、ノリエガの拘束を主目的とする“ジャスト・コーズ作戦”を発動。5万7384人の米軍を侵攻させてパナマ市を占領。1990年1月3日、ノリエガを拘束し、独裁政権は崩壊しました。

 その後、ノリエガは米国で麻薬密売容疑等により禁錮40年の判決を受け、彼の独裁体制を支えたパナマ国防軍も解体され、非軍事的性格の国家保安隊に再編されます。今回ご紹介のマテリアルは、マイアミの刑務所に収監中のノリエガが獄中から差し出したもので、差出人の欄にはノリエガの名はなく、囚人番号38699079が記されています。(下にその部分の画像を貼っておきます)

      ノリエガ封筒・部分拡大

 その後、ノリエガは模範囚であることを理由に刑期が短縮され、2007年9月9日に釈放されましたが、その直前の8月28日、フロリダ州連邦地裁は、フランス国内の銀行口座を使って麻薬資金のマネーロンダリングを行っていたとして、欠席裁判でノリエガに禁固10年の有罪判決を下していたフランスに対して、ノリエガの身柄を引き渡すことを決定。これを受けて、2010年4月26日、ノリエガはフランスへ移送され、同年7月7日、パリの裁判所で禁固7年の有罪判決を下されました。

 さらに、フランスでの収監を経て、2011年12月11日、ノリエガはフランスからパナマへ送還され、やはり、欠席裁判で下されていたウーゴ・スパダフォラ殺害容疑での禁固20年の判決に従い、収監されました。その後、ノリエガは高血圧症のためパナマ市内の病院に搬送されましたが、20173月7日に脳腫瘍の手術を受けた直後に重体となり、5月29日、83歳で亡くなりました。


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 6月1日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第3回目が放送予定です。今回は、5月26-27日にG7サミットが行われたシチリアにスポットを当ててお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。

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 切手に見るソウルと韓国:巨済島
2017-05-30 Tue 12:14
 ご報告が遅くなりましたが、『東洋経済日報』5月19日号が発行されました。月一で同紙に僕が連載している「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、文在寅新大統領の就任にあわせて、こんなモノをご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・巨済島風景印

 これは、文在寅大統領の出身地、巨済島の “巨済島捕虜収容所遺跡公園”の園内郵便局の風景印で、ヘルメットと兵士をかたどった園内のモニュメントが描かれています。

 巨済島は韓国南東部、南海中の島で、2010年に開通した巨加大橋を使えば、釜山中心部からは1時間ほどで往来できます。

 日本と朝鮮半島を結ぶ海上交通の要衝であることから、1275年の弘安の役では、日本に侵攻する高麗軍の基地として用いられたほか、16世紀末の文禄・慶長の役(壬辰倭乱)では日本軍の拠点となり、周辺海域は玉浦海戦、漆川梁海戦・閑山島海戦などの舞台となりました。

 1950年に朝鮮戦争が勃発すると、巨済島は後方基地となり、兵士の訓練所とあわせて捕虜収容所も置かれます。

 同年9月15日、マッカーサー率いる国連軍が仁川上陸作戦を成功させると、釜山付近まで侵攻していた北朝鮮の朝鮮人民軍は潰走。国連軍は9月28日にはソウルを奪還し、さらに余勢をかって38度線を越え、10月末には中朝国境の鴨緑江まで到達しました。

 これに対して、中国は「唇滅べば歯寒し」として北朝鮮を支えるための“人民志願軍”を派遣。ゲリラ戦に秀でていた中国側は人海戦術を展開し、波状攻撃を繰り返して国連軍を包囲分断。中国の参戦を予期していなかった国連軍は総崩れとなり、2週間ほどの間に、38度線以南まで後退を余儀なくされます。

 国連軍が撤退を始めると、その後を追って南へ逃れようとする北朝鮮の住民が続出。彼らは興南埠頭に集まり、南に向かう船を待ち続けました。

 韓国・国連軍は、彼ら自身が急遽撤収を迫られたこともあって、当初は避難民を輸送することを想定していませんでしたが、同胞を救出したいとの韓国側の強い要請により、12月15日から韓国・国連軍の輸送船と戦車揚陸艦が動員して避難民を輸送するための作戦が開始されます。

 なかでも、12月20日に興南に入港した米貨物船、メロディス・ヴィクトリー号は、定員1000人あまりのところ、搭載していた武器等の荷物をすべて下して1万4000人もの避難民を乗せたことで、“奇跡の船”として有名になりました。

 12月24日まで行なわれた興南撤収作戦では、韓国・国連軍の軍人10万5000人、避難民9万8000人が無事に脱出。メロディス・ヴィクトリー号も、25日、巨済島・長承浦の港に到着。当時の巨済島の人口は10万人弱で、軍関係者と捕虜収容所の捕虜を加えても17万3000人ほどでしたが、年末にかけて軍人・避難民あわせて15万人が一挙に押し寄せたことになります。なお、撤退作戦の一連の経緯は、2014年の韓国映画『国際市場であいましょう』の冒頭でも取り上げられていますので、ご存じの方も多いかもしれません。

 さて、15万人の避難民の中には、北朝鮮で公務員をしていたムン・ヨンヒョン、カン・ハンオク夫妻も含まれていました。

 巨済島に逃れてきたムン・ヨンヒョンは島内にあった捕虜収容所の労働者として働き、妻のカン・ハンオクは鶏卵の行商をして、ようやく最低限の糊口をしのいでいましたが、1953年1月24日、そうした2人の間に、2番目の子として生まれたのが、今回、新大統領に当選した文在寅でした。

 文在寅が生まれてから約半年後の7月27日、朝鮮戦争は休戦が成立しましたが、これに伴い、捕虜収容所は閉鎖され、ムン・ヨンヒョンは職を失いました。もともとギリギリだった一家の生活はさらに苦しくなりましたが、さらに、1955年と1957年には女の子が、1959年には男の子が生まれ、家族は7人に増えています。

 そこで、1959年、一家は生活の糧を求めて、巨済島に近い大都市の釜山(影島区瀛仙洞)に転居。以後、文在寅は釜山の南港小学校、慶南中学校、慶南高校に通うことになります。

 なお、巨済島の旧捕虜収容所跡は、休戦後、一部の建物を除いて取り壊されましたが、1983年に残存遺跡文化財の指定を受け、1999年に当時の収容所内を再現した遺跡館が開館、2002年には敷地面積1万坪の “巨済島捕虜収容所遺跡公園”が開園しました。また、公園の入口には、“奇跡の船”メロディス・ヴィクトリー号を再現した興南撤収作戦の記念碑も設置されていますが、将来的には、“文在寅大統領生誕の地”の記念碑が建てられるんでしょうかねぇ。

 なお、朝鮮戦争と関連の切手・郵便物については、拙著『朝鮮戦争』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 佐藤琢磨、インディ500で優勝
2017-05-29 Mon 10:36
 モナコグランプリ、ル・マン24時間レースとともに世界三大レースの一つとされる米国の第101回インディアナポリス500マイル(以下、インディ500)の決勝が、現地時間28日午後(日本時間29日未明)、米インディアナポリスのインディアナポリス・モータースピードウエーで行われ、元F1ドライバーの佐藤琢磨が日本人として初優勝を果たしました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      米・インディ500

 これは、2011年5月20日に米国で発行された“インディ500・100周年”の記念切手で、1911年の第1回の優勝者、レイ・ハルーンが、黄色と黒のマーモン“ワスプ”(優勝マシン)で疾走する場面が描かれています。

 インディ500の決勝レースは、毎年、米国のメモリアル・デイ(5月の最終月曜日)の前日の日曜日、インディアナ州のインディアナポリス・モーター・スピードウェイ(IMS)のオーバルトラック(500マイル:804.672km)で行われます。IMSは世界で初めて“スピードウェイ”の名を冠したサーキットで、当初のコースはアスファルト舗装ではなく、レンガが敷かれていたため“ブリック・ヤード”と呼ばれていました。その名残は現在でも残されており、スタートラインには1ヤード(0.9144m)だけ、特殊加工されたレンガが敷かれています。

 また、第1回のインディ500が行われた1911年当時は、ドライバーに加えて、メカニックがマシンに同乗し、走行中の故障やパンクの修理、後方や側方のマシンの動向を監視等を行っていましたが、ルイ・ハルーンはメカニックを乗せずに一人で運転していました。このため、他のドライバーから周囲が確認できないのは危険であると指摘され、バックミラーをつけて対応。これが、レーシングカーにバックミラーが付けられた最初の事例で、フィル・ジョーダンのデザインした切手にもそうした特徴がしっかりと描かれています。

 ちなみに、日本人ドライバーがインディ500で優勝したのは今回の佐藤琢磨が最初ですが、エンジンサプライヤー(エンジン製造者)としては、トヨタ(2003年)とホンダ(2004年-2012年、2014年、2016年-2017年)が、それぞれ優勝を記録しています。


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 本家フライドポテトはどっちだ?
2017-05-28 Sun 12:02
 米ファストフード大手のバーガーキングが、同社とベルギーのフィリップ国王と対比し「どっちがキングかな?」と問う広告をインターネット上に掲載(下の画像。以下、画像はクリックで拡大されます)。広告では、どちらか選ぶよう促したうえで、“フィリップ国王”を選ぶと「いいのか?  この男はフライドポテトを作れない」と問い掛けてくるようになっていました。

      バーガーキング

 これに対して、昨日(27日)、ベルギー王室は「国王のイメージを利用するには許可が必要だ。この特殊な件に関し、王室は何も聞いていないし、商業目的なのは明白で、許可することもない」と強い不快感を表明しました。というわけで、今日はこんな切手を持ってきました。

      ベルギー・フライドポテト

 これは、2015年にベルギーが発行した外信用無額面永久保証切手で、同国発祥の料理としてフライドポテトが取り上げられています。

 現在のフライドポテトは、1600年頃、(ワロン地域)のナミュールで、農民たちが作り始めたフリッツ(Frietjes)が起源とされています。当時、ナミュールを含む南ネーデルランドはスペインの支配下に置かれていましたが、その後、ハプスブルク(1713-94年)、フランス(1794-1815年)、ネーデルランド連合王国(1815-30年)の支配を経て、1830年、ベルギー王国として独立しました。このため、ナミュールが属する国ということで、現在、ベルギーはフライドポテト発祥の地とされているわけです。

 もともと、ナミュールにはムーズ川で釣った魚をフライにして食べる習慣がありましたが、冬の間は川が凍結して魚が獲れないため、魚の代わりに細く切ったジャガイモをヘット(牛脂)で揚げて食べていました。これがフライドポテトの原型です。ただし、当時のヨーロッパではジャガイモは主として家畜の飼料にされ、人間の食用とされることは稀でしたので、ナミュールのフリッツが広く普及することはありませんでした。

 その後、フランス革命の混乱でパンおよび原料の小麦が不足すると、革命政府はその代用としてジャガイモを配給。これを機に、ジャガイモ食がヨーロッパで広まり、フリッツも普及します。

 一方、米国では、1802年、トマス・ジェファーソンがパリからフリッツのレシピを持ち込みましたが、民間の家庭料理としてはあまり普及しませんでした。しかし、第一次大戦中、多数の米兵が欧州戦線に派遣されると、彼らを通じてベルギーの国民食となっていたフリッツが米国でも普及するようになります。なお、現地でフリッツに出会った米兵たちは、地元の住民がフランス語を話していたため、これを“フランスのポテト”と誤解。それがし“フレンチ・ポテト”の由来となったといわれています。

 第一次大戦後、“フレンチ・ポテト”の可能性に目を付けたクラレンス・バーズアイは、1920年代に急速冷凍の特許を取得し、冷凍ポテトの販売を始めましたが、当時は冷凍庫の普及率が低く、商品としてはほとんど売れませんでした。その後、1950年代に冷凍庫が家庭にも普及するようになると、第二次大戦中に乾燥野菜を米軍に納入して巨額の利益を上げたジョン・リチャード・シンプロットがバーズアイの技術に着目。1950年代にアイダホ州でジャガイモの大農場と巨大な加工工場を使り、大々的にフライドポテトを販売。さらに、1965年にはマクドナルドがシンプロットの冷凍ポテトを導入したことで、フライドポテトは全世界的に普及していくことになりました。

 ちなみに、今回、問題となった広告を出したバーガーキングがフロリダ州マイアミのハンバーガーレストランとして創業したのは1954年のことですから、当初から現在と同じようなフライドポテトを作っていたとしても、ベルギーのフリッツからは300年以上も後発ということになります。したがって、僕だったら、今回の同社の広告への対抗措置としては、「どっちが本家かな?」のタイトルで同じデザインのサイトを作り、バーガーキングを選ぶと「いいのか? こちらのフライドポテトは“元祖”の味じゃない」と国王陛下の声で流れるような仕掛けにしてやりたいですな。


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 南スーダンPKO、陸自撤退完了
2017-05-27 Sat 12:02
 南スーダン国連平和維持活動(PKO)に参加していた陸上自衛隊部隊のうち、最後まで現地に残っていた田中仁朗隊長を含む11次隊の約40人が、けさ(27日)、帰国しました。2012年に始まった南スーダンPKOでは、延べ3854人の自衛隊員が派遣されて道路や公共施設などのインフラの整備にあたり、整備した道路の距離は250kmに及ぶなど国づくりに貢献しました。関係者の皆様、長い間、お疲れさまでした。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      南スーダン・独立1周年

 これは、2012年7月9日に発行された“南スーダン独立1周年”の記念切手です。

 1881-99年にエジプトの南に存在していたマフディー王国は、現在のスーダンと南スーダンをあわせた地域にほぼ相当していました。1899年、マフディー王国は滅亡し、その領域は“スーダン”としてエジプトと英国の両国による共同統治下に置かれます。英埃領スーダン内部では、イスラム・アラブ系・アラビア語を中心とする北部と、アニミズム・キリスト教・アフリカ系・英語を中心とする南部の相違が大きかったこともあり、1924年以降は南北分割統治が行われます。その際、マラリアなどの予防の名目で北緯8度以北の者が南へ、同10度以南の者が北に行くことはどちらも違法とされたことなども、南北の分裂を加速することになりました。

 第二次大戦後、植民地再編の過程で、スーダン南部を支配していた英国は南部スーダンとウガンダの統合を望みましたが、1947年のジュバ会議で南北スーダンの統合が決められ、1954年の自治政府発足を経て、1956年1月1日、旧スーダン国家が独立します。しかし、1955年以降、南北の内戦が勃発。以後、石油利権や民族問題をめぐって2度の内戦がおこり、計約200万人が死亡。2005年にようやく和平協定が結ばれました。

 和平協定では、6年間の北部と南部の合体による暫定統一政権の下、南部に自治政府を設置したうえで、5年後の暫定統一政権の首長(大統領)選挙、6年後に南部の独立の是非を問う住民投票を行うこととされていたため、これに従って、2011年1月、南スーダンの独立の是非を問う住民投票が国際監視下で実施され、独立賛成派が98.83%もの圧倒的多数を獲得。同年7月9日、南部が“南スーダン共和国”として独立しました。

 これに先立ち、独立前日の7月8日、国連安保理決議1996が採択され、南スーダンの平和維持活動を担う国際連合南スーダン派遣団(国連南スーダン共和国ミッション、UNMISS)が現地で活動を開始。同年11月に日本はUNMISSに司令部要員を派遣し、翌2012年1月からは自衛隊施設部隊も派遣されました。

 南スーダンの独立により、旧スーダンでの南北対立は収束したものの、こんどは南スーダン内での抗争が勃発。特に、2013年7月、初代大統領のサルバ・キール・マヤルディが、副大統領のリエック・マチャルを含む与党スーダン人民解放運動(SPLM)の主要幹部を一斉に解任する内閣改造を行ったことで、キール派とマチャル派の亀裂は決定的となりました。そして、同年12月14日、首都ジュバでスーダン人民解放軍の一部と大統領警護隊が衝突。これに部族対立が絡んで、500人余の死者が出る流血事件となりました。

 首都の騒乱は間もなく鎮圧され、キールは首都ジュバを掌握することに成功したものの、逆に、地方ではマチャルを担いだ反乱が頻発する状況が続きます。その後、2015年8月、国際社会の調停の下で「南スーダンにおける衝突の解決に関する合意文書」が両関係当事者によって署名されたことを受け、翌2016年4月には、キールがマチャルを第一副大統領に就任させるなど、南スーダンの内戦は終結に向かうかと思われました。

 しかし、キール派とマチャル派の相互不信の根は深く、2016年7月、キール派の正規軍とマチャル派の武装勢力との間で銃撃戦が発生。これを機に再燃した内戦は、現在も続いています。


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 G7サミット、きょう開幕
2017-05-26 Fri 12:29
 G7サミット=主要7か国の首脳会議“シチリア・サミット”が、きょう・あす(26・27日)、イタリア・シチリア島のタオルミーナで開催されます。というわけで、きょうはシチリア島関連のマテリアルの中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      シチリア革命(1848)カバー

 これは、1849年3月21日、シチリア自由政府支配下のシチリア島メッシーナ県カストロレアーレから差し出された郵便物で、シチリアの紋章である“トリナクリア”の入った印が押されています。トリナクリアは、ギリシャ語の“3つの岬”に由来する語で、シチリア島のパレルモ、メッシーナ、シラクサの岬を意味するところから、シチリアの古称としても用いられます。紋章としては、ギリシャ神話のメデューサの顔を中心に、3つの岬を意味する3本の素足を組み合わせたデザインになっています。

 11世紀半ば、イタリア半島南部(現在のカンパニア州、カラブリア州、プッリャ州、アブルッツォ州、モリーゼ州、バジリカータ州とラツィオ州の一部)とシチリア島を征服したノルマン人は、1130年、シチリア王国(オートヴィル朝)を創建。オートヴィル朝は1194年に滅亡し、シチリア王国は神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン家の支配下に置かれましたが(ホーエンシュタウフェン朝)、1281-1302年のシチリア晩祷戦争の結果、シチリア王国の版図はバルセロナ家の支配するシチリア島のトリナクリア王国 と、アンジュー家の支配する半島部のナポリ王国に分離されました。

 両王国は、いずれも、“シチリア王国”を自称していましたが、次第にシチリア王国と言えばシチリア島側のみを指すようになり、半島側は“ナポリ王国”の名が定着します。

 18世紀初頭のスペイン継承戦争を経て、ナポリ王国の版図はハプスブルク家の、シチリア島はサヴォイア家の支配下に置かれましたが、1720年、両者はシチリア島とサルデーニャ島を交換し、ナポリとシチリアはハプスブルク家の支配下に入ります。その後、1733-34年のポーランド継承戦争を経て、ナポリ王国とシチリア王国はスペイン・ブルボン家(ボルボン家)によって統治されることになりました。

 ナポレオン戦争の時代、ナポリ王国はフランスに占領され、ナポリ王(にしてシチリア王)のフェルディナンドはシチリア島に退避しましたが、ナポレオンの失脚後、1815年6月にナポリに帰還。翌1816年12月、フェルディナンドはナポリとシチリアを“両シチリア王国”の名の下に合併します。これに伴い、フェルディナンドは、“ナポリ王フェルディナンド4世”と“シチリア王フェルディナンド3世”のふたつの称号をまとめて“両シチリア王フェルディナンド1世”と称することになりました。

 1830年、20歳で即位したフェルディナンド2世は、当初、自由主義に理解のある開明的な君主として知られていましたが、1837年、シチリアで大規模な立憲君主制移行を求めるデモが発生すると態度を硬化させ、これを武力で鎮圧。その後も、憲法の制定と立憲君主制への移行を求める自由主義者と対立し、国王親政を主張し続けました。

 こうした状況の下、1847年9月、カラブリアとメッシーナでの反国王の大暴動が発生。さらに、1848年1月12日、シチリア全土で農民反乱が発生し。騒乱はイタリア本土にも波及したため、国王は1848年憲法の制定を認め、両シチリア王国では立憲君主制が実施されることになりました。ところが、国王は議会に対する監督権を手放さなかったため、再び暴動が発生。これに対して、国王は軍を動員して徹底的に弾圧し、1849年3月13日、国民議会を解散します。

 この間、1848年4月13日にはシチリア島で自由政府の樹立と独立宣言が行われましたが、国王は2万の兵を動員してこれを徹底的に弾圧。海沿いの町は軍艦からの砲撃により焦土と化し、1849年5月15日までに、シチリア島の自由主義革命は鎮圧されました。
 
 その後、1860年、イタリア統一戦争の過程で、両シチリア王国はジュゼッペ・ガリバルディひきいる千人隊が占領して、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上。翌1861年に成立したイタリア王国に統合されることになります。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回 は1日! ★★★ 

 6月1日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第3回目が放送予定です。今回は、5月26-27日にG7サミットが行われるシチリアにスポットを当ててお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。

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 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 毎日新聞:謎の「虎の切手」
2017-05-25 Thu 18:19
 きのう(24日)付の毎日新聞夕刊2面で、今年3月1日に北朝鮮で発行された「槿域江山猛虎気像図(以下、猛虎気象図)」についての特集記事が掲載され、内藤もコメントを寄せました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      毎日新聞夕刊(20170524)

 記事では、「猛虎気像図」の目打小型シートからトリミングされた切手が取り上げられていましたので、このブログでは、切手と同時に発行された絵入りはがきの画像をご紹介しつつ、「猛虎気象図」の切手・葉書について、新聞のコメントでは言い尽くせなかったことも含めて、僕なりに細かく解説してみようと思います。なお、葉書の印面部分は切手と同じデザインで目打状の印刷があり、絵面は「猛虎気像図」を大きく取り上げています。

      北朝鮮・虎地図葉書(2017・裏面)  北朝鮮・虎地図葉書(2017)

 さて、今回の切手・葉書に際しての北朝鮮の国営メディアである朝鮮中央通信は、以下のように説明しています。

 「槿域江山猛虎気像図」は朝鮮を占領して朝鮮人の姓名、言葉や文字までなくそうと狂奔する日帝に抵抗し、1920年代に朝鮮の地形学的特徴を勇猛なチョウセントラで象徴化して創作された。日帝は朝鮮地図をウサギに比喩して朝鮮民族をウサギのように軟弱、従順で飲み込むことのできる対象と解釈し、朝鮮人民の反日意識をくじこうと悪らつに企てた。しかし朝鮮人民は、地図の形を一つの地脈でつながった一つの国土、どんな猛獣が襲いかかっても戦って勝利する勇猛なトラで表現した。

 朝鮮中央通信の記事にある“朝鮮を占領して朝鮮人の姓名、言葉や文字までなくそうと狂奔する日帝”という一文は、明らかに歴史的事実と異なるのですが、そこのところは媒体が媒体なので、まぁご愛嬌ということで…。ちなみに、「猛虎気像図」は、1920年代に金台熙が制作した作品です。

 朝鮮半島をトラになぞらえるのは、崔南善が、大韓帝国時代の1908年に創刊した雑誌『少年』に、朝鮮半島を虎に見立てた絵を掲載したのが最初のこととされています。崔南善は、朝鮮の歴史家・詩人で、三一独立運動の際に独立宣言文を起草した人物ですので、トラの姿をした朝鮮半島という図には、朝鮮半島をウサギになぞらえる日本への反発が込められているという説明は、それなりに説得力のあるものではあります。
 
 ただし、朝鮮の伝統文化においてはトラは常に重要視されており、民画の題材にも盛んに取り上げられていますので、「猛虎気象図」も単純にそうした民画の伝統に従っただけという可能性も十分にあり、そこに明確な反日の意図が込められていたかどうかは、かなり微妙だと思います。

 なお、「猛虎気象図」では、虎の背骨を白塔大幹(白頭大山脈)に、胴体の縞を枝山脈になぞらえており、トラの姿全体で“統一朝鮮”のイメージにもなっていますから、三一運動の記念日に発行する題材としては、違和感はありません。

 一方、2017年は三一独立運動からは98周年という半端な年回りですので、切手発行のタイミングとしては、三一運動の周年記念という文脈で考えるよりも、かつて“長白山(朝鮮名:白頭山)の虎”と恐れられていた金日成の生誕105周年(4月15日)および金正日生誕75周年(2月16日)の文脈で考えた方がすっきりするのではないかと思います。

 すなわち、朝鮮儒学の文脈では、虎は孝と恩を知る動物として、父親の墓参に行く孝行息子を背に載せて運んだり、待墓(父母の喪中に墓の傍らに小屋を建て、そこで質素な生活をする風習)を行う者を守ったりするとされています。したがって、父祖に対する孝養のシンボルとしてのトラは、金日成・金正日への尊崇を忘れぬ最高指導者、金正恩というイメージ戦略の一環として、切手に取り上げられたという面もあるかもしれません。

 さらに、朝鮮王朝時代以来、虎は軍旗にも描かれてきたほか、韓国には猛虎部隊、白虎部隊等の部隊もありますので、金正恩政権がこうしたデザインの切手を発行することは、ミサイル実験を繰り返すのと同様、軍事強国を演出する意図を込めてのことであるのは間違いないでしょう。

 なお、少し気になったのですが、朝鮮の諺?には、「虎に噛まれても気をしっかり持ってさえいれば生きられる」というのがあり、「虎穴に入らずんば虎児を得ず」とセットで用いられるそうです。このあたりは、国際社会の懸念をよそに、核武装を進める北朝鮮の精神状態を、虎に仮託して表現したものといえるのかもしれません。


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 世界の国々:モザンビーク
2017-05-24 Wed 09:41
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年5月17日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はモザンビークの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      モザンビーク・マランガタナ

 これは、1980年に発行されたモザンビーク現代絵画の切手のうち、マランガタナ・ングウェニアの初期の代表作「頭部群」を取り上げた1枚です。

 モザンビークのみならず、アフリカ現代絵画の巨匠、マランガタナ・ングウェニアは、1936年、ポルトガル支配下のマラクエネ県マタラナで生まれました。首府ロレンソ・マルケスで美術を学び、1961年には初の個展を開催しましたが、1964年以降、モザンビーク解放戦線の独立闘争に参加したため、18ヵ月間、投獄されました。釈放後の1971年以降、リスボンとロレンソ・マルケス(現マプート)を拠点に創作活動を続け、欧米の美術界で高く評価されました。

 1975年のモザンビーク独立後は美術界の重鎮として、1980年代の内戦時には和平調停のために奔走。1997年にはユネスコ平和芸術家に任命されています。2011年、ポルトガルのマトジニョシュで没。

 さて、『世界の切手コレクション』5月17日号の「世界の国々」では、モザンビーク会社領についての長文コラムのほか、世界最初のキリンの切手、茶の栽培風景、ソファラの要塞、リンポポ川の切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のモザンビークの次は、本日(24日)発売の5月31日号でのタジキスタンの特集(2回目)になります。こちらについては、発行日の5月31日以降、このブログでもご紹介する予定です。


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 米大統領“嘆きの壁”初訪問
2017-05-23 Tue 11:20
 中東歴訪中のトランプ米大統領は、きのう(22日)、現職の米大統領としては初めて、エルサレムの“嘆きの壁”を訪問しました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・エルサレム3000年

 これは、1995年9月4日にイスラエルで発行された“エルサレム3000年”の記念切手のうち、嘆きの壁を含む“神殿の丘”の絵図が取り上げた1枚で、切手の左側には壁越しの岩のドームが、切手の下についているタブには嘆きの壁で祈るユダヤ教徒が取り上げられています。ちなみに、エルサレムの歴史的な起源は、紀元前30世紀頃、古代セム系民族がカナンの地の“オフェルの丘”に築いた集落とされていますが、今回ご紹介の切手の“エルサレム3000年”は、紀元前1000年頃にヘブライ王国が成立し、ダヴィデ王がここを首都と定めたことから起算した年回りです。

 さて、切手の絵地図に取り上げられた“神殿の丘(ハラム・シャリーフ”は、もともとは自然の高台で、紀元前10世紀頃、ダヴィデ王の子、ソロモン王がここにエルサレム神殿(第一神殿)を建造しました。第一神殿は、紀元前587年、バビロニアにより破壊されましたが、紀元前515年に再建されます。これが第二神殿で、紀元前19年頃、神殿はヘロデ王によって大幅に拡張され、周囲は壁に覆われました。この時の神殿の範囲が現在の“神殿の丘”になります。

 その後、紀元後70年、第二神殿はローマ帝国によるエルサレム攻囲戦によって破壊され、ヘロデ王時代の西壁の幅490m、高さ32m(うち、地上に現れている部分は幅57m、高さ19m)が残るのみとなります。これが、今回ご紹介の切手のタブにも取り上げられた“嘆きの壁”です。なお、この壁に対して各国語で“嘆き”の形容詞が付けられているのは、神殿の破壊を嘆き悲しむため、残された城壁に集まるユダヤ人の習慣を表現したもので、ヘブライ語では“西の壁”と呼ばれています。

 132-135年のバル・コクバの乱(ユダヤ属州でのローマ帝国に対する反乱)の後、ユダヤ教徒は原則としてエルサレムへの立ち入りを禁止され、4世紀以降は1年に1日、例外的に立ち入りを認められるという状況が続いていました。これに対して、638年、いわゆるアラブの大征服の一環として、ムスリムがエルサレムを占領すると、ムスリムの支配下で、ローマ時代以来禁止されていたユダヤ教徒のエルサレムへの立入が認められるようになります。この結果、生活上の権利に一定の制約は設けられたものの、ユダヤ教徒はキリスト教徒とともに、アブラハム以来の一神教の系譜に属する「啓典の民」として、この地でムスリムとともに共存していくことになりました。

 ところで、イスラムでは、エルサレムはメッカメディナに次ぐ第3の聖地とされています。エルサレムの中でも、ムスリムが(特にピンポイントで)聖地としている場所は、691年、アラブ系のウマイヤ朝によって、ムハンマドの天界飛翔伝説にちなむ聖なる石を包むように、“神殿の丘”の敷地内に建造された岩のドームですが、当時、メッカはウマイヤ朝の支配に異を唱えるイブン・ズバイルの一派により占領されており、ウマイヤ朝はメッカを回復できないという最悪の可能性も考慮して、ドームの建設を計画したといわれています。

 当然のことながら、“神殿の丘”はユダヤ教にとっても聖地だったのですが、正統派のユダヤ教においては、世界の終末に救世主が現れて神殿を再建するまで、ユダヤ教徒は神殿跡に入ってはならないとの教義もあります。したがって、“神殿の丘”の敷地内にイスラムの聖地としてモスク等が建造されても、少なくとも世界の終末までは、ユダヤ教徒にとって実質的なダメージはないというロジックが導き出されることになり、岩のドームを聖地とするムスリムと、嘆きの壁を聖地とするユダヤ教徒住み分けが可能となりました。

 その後、十字軍による侵略はあったものの、ラテン王国(キリスト教徒の占領軍が建国)の消滅後は、キリスト教側も聖地の奪還を断念。聖地への自由な通行権の確保と、現地キリスト教徒の保護を主要な関心とするようになり、エルサレムは三宗教共通の聖地(ただし、その具体的な場所は重ならない)として、ムスリムの支配者の下で、各宗教の信徒が共存する状況が20世紀に入るまで続くことになります。

 神殿の丘を含むエルサレム旧市街は、英国によるパレスチナ委任統治の終了後、1948-67年にはヨルダンの支配下に置かれ、イスラエル国籍の保有者の立ち入りは禁止されていました。

 1967年6月の第三次中東戦争でイスラエルは東エルサレムを含むヨルダン川西岸を占領しましたが、同年11月22日の国連安保理はイスラエルの占領を無効とする安保理決議242を全会一致(中華民国、フランス、イギリス、アメリカ、ソビエト連邦、アルゼンチン、ブラジル、ブルガリア、カナダ、デンマーク、エチオピア、インド、日本、マリ、ナイジェリア)で可決。ただし、同決議では撤退期限は定められず、経済制裁などの具体的なイスラエルへの対抗措置も行われなかったため、イスラエルは決議を無視し、占領地の支配を継続しました。

 1979年のイスラエル=エジプト平和条約が調印されると、1980年、イスラエル議会は、あらためて、東西エルサレムを統合した“統一エルサレム”はイスラエルの永遠の首都であると宣言しました。エジプトとの平和条約により国境が画定し、東エルサレムの支配も追認されたというのがイスラエル側の主張です。

 このため、同年の国連総会は、安保理決議242が有効であることを改めて確認したうえで、イスラエルによる東エルサレムの占領を非難し、エルサレムを首都としたイスラエルの決定の無効を143対1(反対はイスラエルのみ、棄権は米国など4)で決議。この決議も現在なお有効で、国際社会はイスラエルによる東エルサレム支配の正当性を認めていません。
 
 こうした事情を踏まえて、今回のトランプ大統領の嘆きの壁訪問に際しては、この場所の主権がイスラエルにあることを(国連決議を無視して)認めたとの批判を避けるため、イスラエル側の関係者は同行しないという措置が取られたほか、米当局者も壁の帰属がイスラエルにあるのか否かについてはコメントを拒否しています。

 さて、ことし(2017年)は、英国がパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”を作ることを支持するとしたバルフォア宣言(1917年)から100年、イスラエル国家建国の根拠とされる国連のパレスチナ分割決議(1947年)から70年、中東現代史の原点ともいうべき第三次中東戦争(1967年)から50年という年回りになっています。これにあわせて、懸案となっている「ユダヤと世界史」の書籍化と併行して、本のメルマガで連載中の「岩のドームの郵便学」に加筆修正して書籍化する企画も現在進行中です。具体的な内容や発売日などが決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。


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 ガールスカウトの日
2017-05-22 Mon 11:37
 きょう(22日)は、1947年5月22日、第二次世界大戦で中断されていた日本の“ガールスカウト”を再興するためにガールスカウト中央準備委員会が発足したことにちなみ、“ガールスカウトの日”だそうです。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ガールスカウトアジア大会(1963)

 これは、1963年8月1日に発行された“ガール・スカウトアジア大会”の記念切手です。ガールスカウト関連の切手は各国から発行されていますが、日本では、今回ご紹介の切手が最初の1枚となります。

 英国のロバート・ベーデン・パウエルによってボーイスカウト運動が正式に始められたのは1908年のことでしたが、翌1909年、ロンドンのクリスタル・パレスでボーイスカウトの大会が行われたとき、参加者の中には少女の一団も含まれていました。

 この一団に注目したパウエルは、翌1910年、少女のためのスカウト活動を組織化すべく、妹アグネスに協力を依頼。さらに、パウエルは1912年に結婚した妻オレイブ・ソームズとともに、少女を対象としたスカウト活動の組織化に力を注ぎました。

 なお、当初、英国では、この運動は“ガールガイド”と呼ばれていましたが、1912年に米国に紹介された際、ガールスカウトという名称が用いられ、以後、英国系ではガールガイド、米国系ではガールスカウトという呼称が用いられるようになります。

 さて、ガールガイド運動は、1919年、東京の香蘭女学校に教師として赴任した英国の宣教師、ミュリエル・グリーンストリートによって日本にも伝えられました。グリーンストリートは、英連盟の一支部として香蘭女学校に日本女子補導団東京第一組を設立。英本国のガールガイドにならい、“やくそく”と“おきて”を唱え、同連盟のハンドブックと、会員ピンを使用しました。

 その後、日本のガイド運動は、1923年に英連盟の支部から独立し、日本女子補導団が結成されました。当初、女学校におかれたガイド部門は、小学校にも広がり、少女団(ブラウニー団)も設立されています。また、南満州鉄道の附属地であった大連、長春にも、日本女子補導団の支部が作られています。

 その後、1928年に、ガールガイド/ガールスカウト世界連盟の創設が決まると、日本は26ヶ国の創立会員の一国として、1939年まで世界連盟に加盟していました。しかし、戦況の悪化に伴い、連盟からの脱退を余儀なくされ、太平洋戦争開戦後の1942年には、日本女子補導団そのものが解散の憂き目にあってしまいます。

 戦後、連合国の占領下で、ボーイスカウト運動が再開されると、これにあわせてガールスカウト運動の再建も進められ、1947年5月22日、GHQ民間情報局(CIE)少年教育顧問のラッセル・ダーギンの援助によってガールスカウト中央準備委員会が発足。さらに、翌1948年には、世界連盟からの資金援助が開始され、米連盟からマルグリート・テュウイが世界連盟のトレイナーとして来日しました。そして、彼女の滞日中の1949年4月4日、ガールスカウト日本連盟が成立し、日本国内のガールスカウト運動の組織は完全に復活しました。

 このように、戦後の運動はGHQの下で再興されたため、名称はガールスカウトとなり、プログラムの内容も米国の影響が強いものとなりました。その後、1952年8月、ノルウェーで開催された第14回世界会議で日本のガールスカウト連盟は準加盟を承認され、1960年5月、ギリシャでの第17回世界会議で、世界連盟への正式加盟を果たしています。
 
 1963年は、上記のような日本のガールスカウト活動の再出発(テュウイの来日から起算した場合)から15周年にあたっており、また、ガールガイド・ガールスカウト世界連盟への正式加盟から3周年にあたっていました。

 そこで、これを記念して7月31日(ただし、開会式は8月1日)から8月7日までの会期で、長野県の戸隠高原で、ガールスカウトの国際キャンプ大会(アジア大会)が行われ、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ、カナダを含むアジア・太平洋地域の21ヶ国から4000名(うち日本から3500名)が参加しました。

 このアジア大会に際して切手を発行することについては、著名な収集家でボーイスカウト東京連盟理事長でもあった村山有が文部省に働きかけ、1962年8月、郵政省から次年度の記念切手にふさわしい題材についての照会があったときに、ガールスカウトアジア大会を申請するよう、根回しをしています。はたして、文部省側は、村山の働きかけに応じて切手発行の申請を行い、それを受けて、1963年1月28日に開かれた郵政審議会の専門委員会では、記念切手の発行が正式に決定されています。

 切手発行の決定を受けて、1963年2月から3月にかけて原画の制作が行われ、3月27日、三指の敬礼をするガールスカウトとガールスカウト連盟期を描いた大塚均の作品が切手の原画として採用されました。原画は、翌28日に印刷局へ渡され、6月11日の試刷完成を経て、開会式当日の8月1日、切手発行の運びとなっています。


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 イラン、現職大統領再選
2017-05-21 Sun 21:58
 19日に実施されたイランの大統領選挙は、対外融和路線を進める現職のロウハーニー(ロウハニ)大統領が57%以上の票を獲得して再選を果たしました。というわけで、今日は大統領の旧名、フェリドゥーンにちなんで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      イラン・国際フェルドゥーシー学会(ザッハーク封じ)

 これは、1990年にイランが発行した“国際フェルドゥーシー学会”の記念切手のうち、フェルドゥーシーの代表作『シャー・ナーメ』の写本のうち、フェリドゥーンが暴君ザッハークを封じ込めた場面の細密画を取り上げた1枚です。

 今回、再選を果たしたイランの大統領の現在のラストネームは“ロウハーニー”ですが、1948年11月12日に彼が生まれた時のラストネームはフェリドゥーンでした。フェリドゥーンは、近世ペルシャ語文学の最高傑作とされる叙事詩『シャー・ナーメ(王書)』に登場する英雄にちなむ名です。彼が、“精神性の高い”という意味のロウハーニーという名をいつから使い始めたのかは定かではありませんが、イラン・イスラム革命後の1981年、国会議員時代の彼の名前は“ハサン・フェリドゥーン・ロウハーニー”となっていました。その後、前回の2013年の大統領選挙期間中には、フェリドゥーンを名乗ることはなくなり、現在では、ロウハーニーというラストネームが定着しています。

 さて、フェリドゥーンの登場する『シャーナーメ』は、ササン朝時代の史書『フワダーイ・ナーマグ』を元に、詩聖フェルドゥーシーが980年頃から30年余の年月をかけて1010年に完成させました。当初、フェルドゥーシーは、自らの作品をサーマーン朝に献じる予定でしたが、999年、サーマーン朝は滅んでしまったためため、後継のガズナ朝の君主、マフムードに捧げています。

 『シャーナーメ』に登場するフェリドゥーンの父親は、両肩に蛇を生やした暴君、ザッハークの蛇の生贄として殺されました。その後、復讐を恐れたザッハークはフェリドゥーンを殺そうと追っ手を差し向けますが、フェリドゥーンはこれを逃れ、エルブルス山に隠れます。それから16年の後、フェリドゥーンは山を下り、ザッハークの圧政に苦しめられていた人々を集めて挙兵。天使の助けを得て、ザッハークの魔法を解く方法を学び、バグダードからチグリス川を渡り、ザッハークの城があるエルサレムを攻め落としました。

 エルサレム陥落時、インドにいたザッハークは、ただちに、悪魔と人間の混成軍を率いて戻り、フェリドゥーンの軍と戦い、宮殿内の一騎打ちで、フェリドゥーンはザッハークの頭を牛頭の矛で打ち砕きます。しかし、この時点ではザッハークには死期が来ていないことを天使ソルーシュから聞かされたため、フェリドゥーンはソルーシュの助言に従い、ザッハークの手足をライオンの皮で作った縄で縛り、ダマーヴァンド山の洞窟に幽閉して、さらに鉄の杭と鎖で動きを封じました。切手に取り上げられているのはこの場面で、中央には手足を縛られて封じ込められるザッハーク(両肩にはしっかりヘビが描かれています)が、その右側には赤い装束のフェリドゥーンが描かれています。

 その後、フェリドゥーンは王位に就き、ザッハークに王位を奪われて殺されたイラン王ジャムシードの娘で、ザッハークに囚われていた2人の姫・シャフルナーズとアルナワーズを王妃に迎えています。

 ちなみに、『シャー・ナーメ』によれば、フェリドゥーンの王位はその後500年間続いたことになっていますが、今回再選を果たした(元)フェリドゥーン、ロウハーニー大統領の任期は2021年までの4年間です。

 * 本日未明、アクセスカウンターが179万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。


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 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 栄螺は“新種”だった
2017-05-20 Sat 12:23
 岡山大学は、きのう(19日)、同大の福田宏准教授が、日本で広く知られている貝類の栄螺は学名のない“新種”であったことを突き止め、新たに“Turbo sazae(トゥルボ・サザエ)”と命名したことを発表しました。というわけで、きょうは栄螺の切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      さざえ

 これは、1967年7月25日、魚介シリーズの最後の1枚として発行された“さざえ”の切手です。

 この切手に関しては、発行を前にした1967年7月3日付『朝日新聞』朝刊社会面の「青鉛筆」と題するコラム欄には、次のような記事が掲載されています。

  ▽…「動物学的に明らかな誤り」「いや芸術として立派な作品」――この二十五日発売予定の郵政省の記念切手魚介シリーズ最終回の「サザエ」(十五円)をめぐって、動物学者と郵政省の間でひともんちゃく、▽…誤りを指摘したのは国立科学博物館動物第二研究室長の波部忠重さん(五二)。実物と比べるとサザエの二列のトゲがくっついている、トゲの裂け目が反対向き、フジツボの形がおかしい――と、同省に修正を求めた。▽…日本画の山口蓬春氏に生きた動物の姿を描いてもらった“芸術作品”だ。多少のデフォルメは覚悟のうえ。サザエに見えないわけではなし…」と同省。すでに二千四百万枚印刷して各郵便局へ発送ずみで、あくまで“芸術”でつっぱるそうだ。

 1966年から発行が開始された魚介シリーズ(切手発行当時の名称は“お魚シリーズ”)は、それまでにも世界各国で発行された魚介関連の切手とは一線を画し、日本独自の切手を作りたいという意気込みから、当代一流の日本画家に原画の制作が委嘱されました。ただし、画家の芸術作品は、必ずしも、生物学的に魚介類の生態を正しく表現するものではありませんでしたので、その点で、いくつかの切手に関しては“不正確”という批判が浴びせられましたが、今回ご紹介の“さざえ”もその1枚だったわけです。

 ちなみに、今回ご紹介の切手の原画を担当した山口蓬春は、1893年、北海道松前町生まれ。東京美術学校を卒業後、1924年、「秋二題」で帝展に初入選を果たし、以後、日展を中心に活動しました。伝統的日本画を探求する一方、西洋画の技法を取り入れるなどの新しい試みを実践し、独自の新日本画の世界を築き、1965年には文化勲章を受賞しました。また、皇居新宮殿の壁画「楓」を担当したほか、代表作の一つ「榻上の花」は1992年の趣味週間切手にも取り上げられています。1971年没。

 栄螺は日本、韓国沿岸の種と、中国南部沿岸の種(ナンカイサザエ)に大別され、とげの長さや並び方など外見で区別できます。ところが、1995年までは、両者は学問的には同一のものとして区別されておらず、日本の栄螺は、ながらく1786年に英国の博物学者が命名した“Turbo cornutus(トゥルボ・コーヌトス)”とされていました。

 そこで、福田宏准教授は、1786年から1995年までの欧州の文献を精査し、これまで“Turbo cornutus”と呼ばれていた貝のすべてが中国産のナンカイサザエであったことを明らかにしたうえで、日本沿岸の栄螺には正式な学名がないことを論証。日本沿岸の栄螺を“トゥルボ・サザエ”と命名し、これが16日発行の国際学術誌に掲載されて正式名になったわけです。

 これまで、約230年もの間、日本産の栄螺に学名がなかった理由としては、(1)英国人が中国から持ち帰った標本を中心に研究が進められた、(2)18世紀当時の日本はいわゆる“鎖国”の時代で、欧州人には日本産の栄螺は入手困難だった、(3)ネットが普及するまでは古い文献を網羅的に渉猟することが非常に難しかった、ことなどが挙げられています。

 今回の“発見”について、福田准教授は「すべてを疑い、うのみにせず一度検証することだと改めて感じた」と話しているそうですが、そのお言葉、あらためて肝に銘じておかねば…と思った次第です。


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 “魔女狩り”の切手
2017-05-19 Fri 15:33
 昨年(2016年)の米大統領選挙をめぐるトランプ陣営とロシアの関係を解明するため特別検察官が任命されたことについて、きのう(18日)、トランプ大統領は「米史上、最大の魔女狩りだ」などとコメントしたそうです。というわけで、“魔女狩り”の切手はないかと探してみたら、こんなモノがありました。(画像はクリックで拡大されます)

      オーランド・魔女狩り(2016)

 これは、昨年(2016年)、オーランド諸島が発行した“オーランド諸島の魔女狩り350周年”の切手です。

 バルト海、ボスニア湾の入り口に位置するオーランド諸島では、スウェーデン支配下の1666年4月5日、“賢い娼婦”ことカリン・ペルスドッターが“魔女”として裁判にかけられ、死刑判決を受けました。彼女は拷問を受けた後、斧で首を切断され(切手にはその直前のようすが描かれています)、杭を打たれて埋葬されました。処刑に先立ち、カリンは監獄で13人の女性を魔女として告白したため、カリンの他にも6名の女性が拷問の末に処刑されています。ちなみに、オーランドでの魔女狩りは1691年まで行われましたが、これに刺激を受けて、スウェーデンでは1668年に、フィンランドでは1669年にも魔女狩りが行われました。今回ご紹介の切手は、カリンの魔女裁判と処刑から350年になるのを記念?して発行されたものです。

 さて、ながらくスウェーデンの支配下にあったオーランド諸島は、1809年、スウェーデン・ロシア戦争の結果、フィンランドがロシア帝国に割譲されたため、フィンランド大公国の一部としてロシア領となりました。

 第一次大戦を経てフィンランド本土でロシアからの独立の気運が高まると、オーランド諸島では、フィンランドからの分離とスウェーデンへの再帰属を求める運動が起こり、島の代表がスウェーデンへの統合を求める嘆願をスウェーデン王に提出。これに対して、1917年に独立したフィンランドは、1920年、オーランド分離を阻止すべくオーランド自治法を成立させ、オーランドに対して広範な自治権を与えました。それでも、フィンランドへの帰属を嫌ったオーランド住民は、スウェーデンに対して、島の帰属を決定する住民投票を実施するよう要請します。

 このため、スウェーデンは国際連盟にオーランド問題の裁定を託し、フィンランドもこれに同意。1921年、国際連盟は、事務次長の新渡戸稲造を中心に、オーランドにさらなる自治権を与えることを条件に、オーランドはフィンランドに帰属するとした“新渡戸裁定”を提示。両国はこれを認め、1922年、オーランド自治政府が成立しました。その後、オーランド諸島ではフィンランド切手が使われていましたが、1984年以降、オーランド諸島として独自の切手が発行されています。


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 空飛ぶ国王
2017-05-18 Thu 19:36
 オランダのウィレム・アレクサンダー国王が、きょう(18日)付の地元紙『テレグラフ』で、即位後も含め、これまで21年間、KLMシティーホッパー航空(KLMオランダ航空の子会社)のパートタイム副操縦士を秘密裏に務めていたことを明らかにしました。同航空では現在、国王が操縦してきたフォッカー70を段階的に廃止しているため、国王は、近々、後継機のボーイング737の訓練を始め、今後も副操縦士としての搭乗勤務を続ける意向だそうです。というわけで、パイロット姿の国王を描いた切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ルーマニア・カロル2世即位10年

 これは、1940年6月8日、ルーマニアで発行された国王カロル2世即位10周年の記念切手のうち、パイロット姿の国王を描く32レウ切手です。

 カロル2世は、1893年、ルーマニア国王フェルディナンドと王妃マリア(ザクセン=コーブルク=ゴータ公アルフレートの長女)の長男として、ペレシュ城で生まれました。
 
 若い頃から派手な女性関係で有名で、1918年には、当時のルーマニアの王室法に反して平民女性のジョアンナ・マリー・ヴァレンティナ・ランブリノ(ジジ・ランブリノ)という平民女性と結婚。このため、2人の間にはカロルという子が生まれたものの、翌1919年には結婚を無効とするイルフォヴ裁定が下されます。

 その後、1921年には、ギリシャ王女エレーニ(エレナ・ア・ロムニエイ)と結婚したものの、カロルがユダヤ系ルーマニア人でカトリック教徒のマグダ・ルペスクと不倫関係になったことから、エレーニとの結婚生活はすぐに破綻。このため、カロルは王位継承権を放棄してマグダとパリに亡命し、1927年7月、エレナ王妃との子、ミハイが国王として即位しました。その後、1928年、カロルの離婚が正式に成立しますが、この間、カロルは高校生の愛人、マリア・マルティーニとの間に一男一女をもうけていました。

 ところが、1930年6月、カロルは突如帰国し、息子のミハイを退位させ、自分が国王であると宣言。以後、政治にも自ら関与して独裁体制を強化していきますが、1939年に第二次大戦が勃発すると、独ソ不可侵条約の密約に基き、ハンガリーがトランシルヴァニアに進駐。さらに、ソ連がルーマニア領ベッサラビア北ブコヴィナを併合するなど、ルーマニアは多くの領土を失いました。このため、今回ご紹介の切手が発行されてから3カ月後の1940年9月6日、カロルは退位を余儀なくされ、ミハイが父親のしりぬぐいをするかたちで復位しました。

 廃位されたカロルは、中立国のポルトガルに亡命。亡命先では、持ち出した財宝を売って贅沢三昧の生活を送っていましたが、1947年、マグダとリオデジャネイロで結婚。1953年、ポルトガルのエストリルで亡くなりました。その遺体は、民主化後の2003年、ルーマニアに返還され、クルテア・デ・アルジェシュ修道院に再埋葬されています。

 なお、カロル2世時代のルーマニアについては、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 コンゴ民主共和国20年
2017-05-17 Wed 10:59
 1997年5月17日、ザイールのモブツ独裁政権が倒れ、(第2次)コンゴ民主共和国の樹立が宣言されてから、きょうで20年です。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      コンゴ民主共和国・モブツ(1966)

 これは、(第1次)コンゴ民主共和国時代の1966年に発行されたモブツ大統領の肖像切手です。

 現在のコンゴ民主共和国の領域はかつてはベルギーの植民地でしたが、1960年にコンゴ共和国として独立。しかし、同年、隣接する旧仏領の国もまったく同名の“コンゴ共和国”として独立したため、両者はそれぞれの首都の名を冠して、旧ベルギー領の国をコンゴ・レオポルドヴィル、旧仏領の国をコンゴ・ブラザヴィルと呼ぶなどして区別されていました。

 旧ベルギー領のコンゴ・レオポルドヴィルでは、1960年の独立当初から(第1次)コンゴ動乱が始まり、各派入り乱れての内戦状態に突入しますが、そうした中で、1964年8月1日、隣国のコンゴ・ブラザヴィルと区別するため、コンゴ・レオポルドヴィルの国名は(第1次)コンゴ民主共和国に変更されました。

 翌1965年11月、第1次共和国では、国軍参謀総長のモブツが軍事クーデターを起こして大統領に就任します。今回ご紹介の切手は、これを受けて発行されたもので、切手に描かれたモブツの肩書は“コンゴ民主共和国大統領”です。

 政権を掌握したモブツは独裁体制を確立し、植民地遺制を排除する“ザイール化政策”を展開。自らの名前をジョセフ・デジレ・モブツからモブツ・セセ・セコに改名したほか、首都レオポルドヴィルをキンシャサと改称し、1971年には国号をコンゴ民主共和国からザイールに変更しました。

 モブツ政権は、東西冷戦という国際環境を利用し、アフリカにおける“反共の砦”として西側諸国から巨額の支援を引き出していましたが、海外からの経済支援や国内の鉱山資源などの利益は、モブツとその一族が大半を着服。ザイール国家はモブツ一派の私物化され、経済は衰退します。1965年からモブツが退陣する1997年までの間に、同国のGDPは65%も減少。国民は貧困にあえぎ、中央政府の地方統制も緩んで、反政府勢力は首都キンシャサから離れた東部を拠点に活動を展開するようになりました。
 
 一方、ザイールの隣国ルワンダでは、1994年4月、フツ人過激派によるツチ族大虐殺が始まります。大虐殺は、同年7月に収束しましたが、この間、150万人もの難民が国境を越え、ザイール東部に流入。“難民”の中には、大虐殺の加害者であるフツ人過激派の残党もかなり含まれていましたが、モブツは彼らのルワンダ侵攻計画を支援。このため、ルワンダ政府は対抗上、ザイール東部の難民キャンプの解体、さらには、不安定要因の根源であるモブツ政権の打倒を目指すようになります。

 こうした中、1996年8月、モブツは前立腺癌治療のためスイスの病院に入院しましたが、そのタイミングを狙って、ルワンダの支援を受けたバニャムレンゲ(1960年以前からザイールに居住していたツチ人とその子孫)の大規模反乱が発生。モブツの長期独裁政権への不満から、ザイール国民が反乱勢力を支持する中、同年10月、人民革命党のローラン・カビラひきいるコンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) がツチ人の軍事力を背景にキンシャサに向かって進撃を開始します。周辺のルワンダ、ウガンダ、アンゴラ、ブルンジもそれぞれの思惑からAFDLを支援し内戦に介入しました。これが、いわゆる第1次コンゴ戦争です。

 混乱の中、モブツは南フランスでの静養を理由に帰国せず、AFDLはザイール全土の約4分の3を制圧。これを受けて、米英仏や国連は調停工作に乗り出し、1997年5月7-8日、ザイール情勢を協議するための“中部アフリカ仏語諸国7ヶ国首脳会議”がガボンで開催されます。ここで、モブツは“健康上の理由”で次期大統領選挙には出馬しないことを約束。同月16日、キンシャサに戻ったモブツは引退を発表し、翌17日、AFDL軍がキンシャサに入城してカビラは“(第2次)コンゴ民主共和国”の樹立を宣言し、モブツのザイール共和国は崩壊しました。ただし、現在でも、旧仏領のコンゴ共和国との区別が容易という理由から、コンゴ民主共和国に関しては“旧ザイール”と併記するケースがしばしば見られます。


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 世界の国々:エクアドル
2017-05-16 Tue 10:59
 
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年5月10日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はエクアドルの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      エクアドル・パナマ帽

 これは2011年に発行された“エクアドルの輸出品”の切手のうち、パナマ帽を取り上げた1枚です。

 パナマ帽は、パナマソウとも呼ばれる植物、パハ・トキージャの葉の内側を細かく裂いた紐を編んで作られた帽子です。その和名からしばしば誤解されていますが、パハ・トキージャは、地名のパナマとは無関係で、エクアドルでしか育ちません。

 パナマ帽の原型は、エクアドル西部、太平洋に面したマナビ県の先住民がパハ・トキージャを編んでかぶっていた帽子で、これが、16世紀以降、スペインの植民地支配下で西洋風にアレンジされ、現在のようなパナマ帽ができあがりました。その後、赤道直下の日差しを避ける帽子として時代と共に現地での需要が増加し、1900年のパリ万博で紹介されたのを機に、広く全世界に広まります。特に、1914年のパナマ運河完成時に、記念式典に出席したセオドア・ルーズベルト元大統領がこの帽子を着用し、以後、“パナマ・ハット”の名称が広まりました。

 さて、『世界の切手コレクション』5月10日号の「世界の国々」では、ガラパゴス島についての長文コラムのほか、特産品のカカオ、インカ皇帝アタワルパ、“エクアドルのピカソ”とも称されるオスワルド・グアヤサミンの人間教会切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のエクアドルの次は、5月10日に発売された5月17日号でのモザンビークの特集(2回目)になります。こちらについては、発行日の5月17日以降、このブログでもご紹介する予定です。
       

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 神社を描いた沖縄切手
2017-05-15 Mon 11:32
 きょう(15日)は、1972年5月15日に沖縄が日本に復帰した記念日です。というわけで、日本本土と沖縄との歴史的な結びつきを示すものとして、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      沖縄・甘藷伝来三五〇年

 これは、1955年11月26日、米施政権下の沖縄で発行された“甘藷伝来三百五十年”の記念切手です。

 米施政権下の沖縄で正刷切手の発行が始まったのは1948年7月1日のことでしたが、切手の国名表記は“琉球”とされました。これは、“沖縄”の語が狭義には沖縄本島のみを指す言葉であったことにくわえ、琉球王国を大日本帝国に編入する際に琉球から沖縄に改称することでこの地域が日本領であることを示すために用いられていたこと、さらに、琉球という名称が戦勝国の一角を占めていた中国による命名であったことなどが総合的に考慮された結果と考えられています。

 また、当初の切手の題材は、たとえば、日中両属の時代、中国皇帝から琉球へと派遣された冊封使が乗ってくる船の御冠船をとりあげて“琉球”と中国の関係を強調したり、沖縄戦で破壊された建造物(実際に破壊したのは米軍ですが、沖縄戦は日本軍に責任があるというのが米側の主張です)や米国統治による“恩恵”として首里城址に建てられた琉球大学を取り上げるなど、“日本”に対してネガティヴな内容のものが主流を占めていました。

 ところが、1952年に対日講和条約が発効して日本が再独立を果たすと、その前後から、中国は「日本が米国の掣肘を脱して、再軍備を止め、平和産業を発展させ、米国の強めている禁輸を打破して、中国貿易を拡大するのが、日本人民のためである」と呼びかける“平和攻勢”を展開。これに対抗すべく、米国は、自らが直接統治している沖縄において分割統治のプロパガンダを展開して日本本土との離間を図るよりも、米国=沖縄=日本は一つのラインとして緊密に結びついていることを強調するようになります。

 このため、1953年にはペルリ来流100年祭が沖縄で行われ、沖縄を経由して日本を開国させたマシュー・ペリーの存在は、米国=沖縄=日本という構造が、日米関係の当初から機能していたことを象徴的に示している歴史的な先例として、大いに賞揚されることになりました。

 今回ご紹介の“甘藷伝来三百五十年”の切手も、そうした文脈に沿って発行されたものです。

 サツマイモがフィリピンから中国大陸に伝来したのは1594年とされているが、沖縄本島へは、それから約10年後の1605年、野國總管によって伝えられたとの記録があります。

 野國總管は、“野國村(現嘉手納町)出身の總管(琉球から明に朝貢する「進貢船」使節の事務長)”という意味で、1605年の時点でこの職にあった人物の本名などはわかっていません。17世紀末に書かれた『麻姓家譜』によると、「總管野國、唐土より鉢に藩薯を植えて帯来」し、その噂を聞きつけた儀間真常が總管に栽培法を教わったことで、数年後の飢饉の際に穀物の代わりにサツマイモが普及することになった旨が記されています。

 その後、1611年、琉球王・尚寧が薩摩兵の送別の宴席で甘藷を振る舞いって喜ばれたため、帰国の際に生の甘藷を贈呈したとの記録があるほか、1698年、琉球王・尚貞から甘藷を送られた種子島の島主・種子島久基が家老の西村時乗に栽培を命じ、日本本土での甘藷栽培が始まったとされています。

 さて、今回ご紹介の切手は總管を祀った野國總管神社の社殿とサツマイモを描くことによって、琉球伝来のサツマイモが日本本土に広まっていったのと同時に、日本の神道が沖縄においても大きな影響力を持っていた(いる)ことを表現しており、日本本土と沖縄の交流関係の深さを改めて示すものです。

 ちなみに、戦後日本の郵政当局は、『日本国憲法』第20条の信教の自由と政教分離原則 の関係上、特に神道関連の施設を切手に取り上げることに神経質となっており(じっさい、切手に鳥居が描かれていることに抗議して、行政監察局に切手の発売禁止勧告を求める申し立てを行った人もいました) 、今回ご紹介の切手が発行された1955年の時点では日光東照宮の陽明門を描く45円切手(1952年発行)を除くと、鳥居や社殿を描く切手などは一切発行されていません。

 米軍施政権下の沖縄では、日章旗の掲揚は原則として禁止されていましたが、そうした沖縄の切手で、日本本土ではタブー視されていた“神社”が堂々と発行されているという逆転現象は、非常に興味深いものと思われます。


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 母の日
2017-05-14 Sun 12:00
 きょうは“母の日”です。というわけで、毎年恒例、母と子を題材とした切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      パレスチナ・ナクバ(2014)

 これは、2014年5月15日にパレスチナ・ガザ政府が発行した“ナクバ66周年”の記念切手で、子供を抱き、哺乳瓶代わりに鍵を咥えさせている母親が描かれています。

 “ナクバ”は、もともとはアラビア語で大災厄ないしはカタストロフを意味する語ですが、中東近現代史の文脈では、1948年5月のイスラエル建国とそれに伴う第一次中東戦争の結果、70-80万人のアラブが“パレスチナ難民”となったことを意味しています。

 第二次大戦後の1947年2月、パレスチナを委任統治領としていた英国はアラブとシオニストの対立を解決する責任を放棄し、国際連合に問題の解決を一任すると一方的に宣言。これを受けて、同年5月、国連にパレスチナ問題特別委員会が設立され、同委員会によるパレスチナ分割案(パレスチナにアラブ、ユダヤの二独立国を創設し、エルサレムとその周辺は国連信託統治下に置くという内容)が11月29日に国連決議第181号として採択されます。

 国連決議をめぐってパレスチナがアラブ対シオニストの内戦に突入する中、1948年3月、シオニストたちは、パレスチナ分割の国連決議を受けて、テルアビブにパレスチナのユダヤ人居住区を統治する臨時政府「ユダヤ国民評議会」を樹立し、新国家樹立に向けて動き出しました。同時に、シオニストたちは、英国の撤退後の軍事的空白を利用して、軍事的にパレスチナを制圧するダレット計画(パレスチナのアラブ社会を破壊してアラブ住民を追放し、パレスチナ全土を制圧してユダヤ人国家創設を既成事実とすることをめざす計画)を発動します。

 これにより、1948年4月の時点で、生命の危険を感じたアラブ系住民約10万人がパレスチナから脱出。こうした中で、シオニスト側は着々と建国準備を進め、パレスチナにおけるイギリスの委任統治が終了する1948年5月14日午後4時すぎ(現地時間)、テルアビブの博物館でユダヤ国民評議会が開催され、イスラエル初代首相となったベングリオンが、“ユダヤ民族の天与の歴史的権利に基づき、国際連合の決議による”ユダヤ人国家イスラエルの独立を宣言。これを認めない周辺アラブ諸国はイスラエルに宣戦を布告。イスラエルの独立戦争ともいうべき第一次中東戦争が勃発しました。

 一連の経緯を経て大量のパレスチナ難民が発生することになりましたが、その大半は、ユダヤ側軍事組織による大量虐殺や攻撃、銃器による脅迫等が原因で、パレスチナ域外に逃れた難民たちが故郷に残した資産の多くは没収されました。

 着の身着のままで難民となった人々は、いつか故郷の自分が元住んでいた家に帰還するという意思を込めて、鍵を“ナクバ”のシンボルとしており、今回の切手でも、祖国を知らぬままに生まれた子供の口に哺乳瓶ではなく鍵を咥えさせることで、そうした“民族の悲劇”を子々孫々に語り継いで一行という意図が示されています。

 さて、ことし(2017年)は、英国がパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”を作ることを支持するとしたバルフォア宣言(1917年)から100年、イスラエル国家建国の根拠とされる国連のパレスチナ分割決議(1947年)から70年、中東現代史の原点ともいうべき第三次中東戦争(1967年)から50年という年回りになっています。これにあわせて、懸案となっている「ユダヤと世界史」の書籍化と併行して、本のメルマガで連載中の「岩のドームの郵便学」に加筆修正して書籍化する企画も現在進行中です。具体的な内容や発売日などが決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。


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 ファティマの聖母出現の記念日
2017-05-13 Sat 10:22
 きょう(13日)は、“ファティマの聖母出現の記念日”です。今年(2017年)は、1917年の聖母出現から100周年という節目の年ですから、今日はストレートにこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ポルトガル・ファティマの聖母出現100年

 これは、ことし3月13日にポルトガルで発行された“ファティマの聖母出現100周年”の記念切手で、ロザリオの聖母像が取り上げられています。

 1917年5月13日、ポルトガル中央部、サンタレン県オウレン市の農村、ファティマで、10歳のルシアと従弟で9歳のフランシスコ、8歳のジャシンタの3人の純朴で信心深い子供が、羊たちの面倒を見ていた遊牧地で、昼食を終え、ロザリオ(聖母マリアに霊的なバラの冠を捧げるために繰り返される祈りの言葉)を唱えていました。ちなみに、ロザリオというと、日本では十字架のついた首飾りというイメージが強いのですが、もともとは、聖母マリアに霊的なバラの冠を捧げるために繰り返される祈りの言葉のことです。そして、そこから転じて、祈りの回数を数えるための数珠のこともロザリオと呼ぶようになりました。それゆえ、手にかけて祈りながら数を数えるのがロザリオ本来の使い方となります。

 さて、3人の子供たちがロザリオを唱えていると、そこへ、突如聖母マリアが現れ、みずからを“ロザリオの聖母”と名乗り、 罪人の改心と世界の平和のために毎日ロザリオを祈ること、すべての困難と苦しみを犠牲として神に捧げることを子供たちに願うとともに、毎月13日に同じ場所へ会いに来るように命じました。ルシアは急いで両親にその出来事を報告。両親も最初は信じなかったのですが、噂が広がり、ファティマには大勢の参拝客が訪れるようになります。

 聖母は3度目の出現となる7月13日、最後の出現となる10月13日に奇跡を起こすことを約束。はたして、10月13日には 7万人もの人々が見守る中、太陽が色や大きさを変えて激しく回転するような動きを見せ、人々はファティマの奇跡を信じるようになったそうです。

 聖母は5月13日から10月13日までの6回の出現に際して、さまざまな予言を残しました。その内容には、第一次世界大戦の終結ロシア帝国の崩壊と共産主義の台頭、核兵器の使用やローマ教皇の暗殺事件などが含まれていたといわれています。

 その後、カトリック教会は聖母出現から50周年の1967年に聖母の出現を公認し、5月13日は“ファティマの聖母出現の記念日”とされるようになりました。ちなみに、3人の子供のうちのジャシンタとフランシスコは1919年から1920年にかけて流行の病で相次いで亡くなりましたが、その後、調査のために墓が開かれた際、ジャシンタの遺体の顔の部分は腐敗していなかったといわれています。一方、残されたルシアは修道女となり、2005年2月13日に97歳で亡くなりました。

 なお、このエピソードにちなみ、毎年、マカオでは“ファティマ聖母の行列(花地瑪聖母像巡禮)”として、聖職者が祈祷をあげるなか、白い装束に身を包んだ女性達によって聖母の像が掲げられ、ロザリオの聖母を祀った聖ドミニコ教会から、南灣大馬路へ出て、ペンニャ教会(西望洋聖堂)までパレードするというイベントが行われます。

 なお、マカオのお祭りとしての“ファティマ聖母の行列”については、拙著『マカオ紀行』でもパレードを撮影した写真を交えてご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 民生委員100年
2017-05-12 Fri 10:16
  民生委員制度のルーツとなる済世顧問制度が、1917年5月12日に設立されてから、今日でちょうど100年です。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      民生委員制度50年

 これは、1967年5月12日に発行された“民生委員制度50年”の記念切手です。

 民生委員とは、民生委員法に基づき市町村の区域に配置されている民間のボランティア委員で、その職務は、①住民の生活状態を必要に応じて適切に把握しておくこと、②援助を必要とする者がその有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるように生活に関する相談に応じ、助言その他の援助を行うこと、③援助を必要とする者が福祉サービスを適切に利用するために必要な情報の提供その他の援助を行うこと、④社会福祉を目的とする事業を経営する者又は社会福祉に関する活動を行う者と密接に連携し、その事業又は活動を支援すること、⑤福祉事務所その他の関係行政機関の業務に協力すること、などとされています。

 民生委員制度のルーツは、1917年5月12日に設立された済世顧問制度です。

 1916年5月、大正天皇ご臨席の下で行われた全国地方長官会議の際、天皇から岡山県知事笠井信一に対して、県下の生活困窮者の状況についてのご下問がありました。これを受けて、笠井が調査したところ、県民の約一割が極貧層である事実が判明。驚愕した笠井は、恒久的な防貧対策として、翌1917年5月、済世顧問制度を実施しました。

 翌1918年には、これにならい、東京府が慈善協会救済委員措置を施行するとともに、悲惨な夕刊売りの母子の姿に同情した大阪府知事の林市蔵が方面委員制度を設け、これが各府県に普及。1928年には方面委員制度は日本全国をカバーするようになりました。

 方面委員は、現在の生活保護法の前身にあたる救護法の制定に尽力したほか、戦時中は母子保護法、医療保護法、軍事扶助法などに協力。戦後の1946年には民生委員として改組されました。

 1947年に児童福祉法が制定されると、民生委員は児童福祉法による児童委員(地域の児童および妊産婦の健康状態、生活状態を把握して、必要な援助を受けられるようにしたり、福祉サービスを行なう者との連絡調整を行なったりする民間ボランティア委員)を兼ねるようになり、地域の社会福祉事業の最前線の担い手となっています。
 
 今回ご紹介の記念切手は、済世顧問制度の発足から50周年になるのを記念して発行されたもので、切手発行日の1967年5月12日には、制度発祥の地の岡山市民会館で記念式典が行われました。

 切手に描かれているのは民生委員の記章です。このデザインは、1960年の公募作品のうちの優秀作品をもとにつくられたもので、幸福をあらわす四葉のクローバーの中に図案化されたハト(児童委員としての双葉=児童と、民生委員の“み”の意味も兼ねています)が描かれています。


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 切手歳時記:いずれあやめか かきつばた
2017-05-11 Thu 18:33
 ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2017年5月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      あやめの衣

 これは、1982年8月5日、近代美術シリーズ第13集の1枚で、岡田三郎助の「あやめの衣」が取り上げられています。

 『太平記』には、鵺を退治した源頼政が近衛院に謁見する場面があります。

 近衛院は、褒美として、宮中随一の美女として誉れの高かった“菖蒲前”を頼政に賜るとのこと。ただし、日が落ちかけて少し暗くなってきた中で、菖蒲前と別の美人12人に同じ格好をさせて頼政の前に並べ、頼政がみごと菖蒲前を当てることができれば…という条件を付けました。

 美女たちを目の前にした頼政は、誰が菖蒲前かわからなかったので、次のような1首を詠みました。

 五月雨に沢べのまこも水たえていづれあやめと引きぞわづらふ(大意:五月雨が降り続いて沼の石垣から水があふれ出し、草もすっかり埋もれてしまって、どこに菖蒲があるのか、それを引くのさえ思い悩む)
 
 当意即妙な歌に感心した近衛院は、そのまま、頼政に菖蒲前を妻とすることを許しました。これが「いずれあやめ」の語源ですが、後に、あやめとよく似た燕子花と組み合わせて、甲乙つけがたい美女たちを「いずれあやめかかきつばた」という表現が広く使われるようになったのといわれています。

 美女のシンボルとしての菖蒲の花といえば、今回ご紹介の切手に取り上げられた「あやめの衣」を思い出す人も多いのではないでしょうか。

 「あやめの衣」は、1927年、第12回本郷絵画展に出品された作品。池水に見立てた明るい藍地に浮き上がる花模様と、帯状に朱赤を配した衣が、きめ細やかで柔らかな女性の背中から滑り落ちてきそうな光景が切り取られています。

 モデルの女性は、後に北村美術モデル紹介所を設立した北村久だったともいわれていますが、1915年生まれの彼女は、この絵が描かれた当時、わずか12歳。この年齢で、これほどまでに色香が匂い立つというのは尋常ではありません。そこには、彼女の素質ももちろんあったのでしょううが、やはり、岡田の画力によるところが大きいのでしょう。

 現在、この絵はポーラ美術館の所蔵品になっていますが、ながらく、キャバレー・ハリウッドなどの飲食店を手広く経営し、“キャバレー太郎”として知られた福富太郎が所有していました。

 商売柄、文字通り、“いずれあやめかかきつばた”の美女たちに囲まれて生活していた福富は、某銀行の役員室に飾られたこの絵を気に入り、拝み倒してこの絵を5000万円で入手。その後、「あやめの衣」は美人画を中心とする福富コレクションの白眉となっていましたが、ある年、本業で約2億1000万円の赤字を出してしまい、ポーラ化粧品の鈴木常司に売却しました。ちなみに、その金額は2億5000万円。中間決算では会社の赤字を埋めてお釣りが来たそうです。

 ところで、菖蒲と燕子花に花菖蒲を加え、よく似た三種の花の見分け方を紹介する書物等は多いのですが、それによると、菖蒲が乾燥地に生えるのに対して、燕子花は水湿地に、花菖蒲はその中間くらいの場所に生えるとのこと。また、菖蒲の葉が細く葉脈が目立たないのに対して、花菖蒲は葉脈がハッキリしており、燕子花の葉は幅広で葉脈が目立たないのが特徴です。

 そのことを頭において、もういちど「あやめの衣」を見てみると、着物の図柄は、菖蒲を謳っていながら、藍地の水湿地の中で、葉脈もしっかりと見えるから、着物を作った職人は花菖蒲のつもりだったのではないかと考えられます。

 もっとも、画壇の巨匠、岡田三郎助でさえ、菖蒲と花菖蒲を見誤ったというのであれば、それこそまさに“いずれあやめかかきつばた”を地で行くエピソードといえるのかもしれません。
 

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 肖像切手なき新大統領就任
2017-05-10 Wed 10:45
 朴槿恵前大統領の失職を受けて、昨日(9日)、投開票が行われた韓国の大統領選挙は、“共に民主党”の文在寅候補が当選しました。通常、韓国では新大統領は当選後2ヶ月ほどの移行期間を経て正式に就任しますが、今回は、大統領不在のため、けさ(10日朝)の選管の当選者決定案の議決と同時に大統領となり、きょう正午ごろ、国会本会議場前のホールで略式の就任式を開き、就任宣誓を行うことが検討されているそうです。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・新政府樹立(1960)

 これは、1960年10月1日、いわゆる4・19学生革命で李承晩政権が退陣した後、第2共和政が発足したことを受けて発行された“新政府樹立”の記念切手です。

 1960年3月15日の大統領選挙では現職の李承晩が4選を果たしましたが、李承晩陣営は、選挙当日の未明、投票箱に前もって記名済みの票を入れておいたり、有権者を小人数のグループに分け、組長が組員の記入内容を確認した後、投票箱に入れるようにしたり、さらには、投票箱と投票用紙をすり替えたりするなど、露骨な不正を行いました。

 このため、選挙後、不正選挙を糾弾するデモが相次ぎ発生。特に馬山で行われたデモは激しく、警察の発砲により、8人が死亡し、200人余が負傷しました。さらに、デモに参加した後、行方不明となっていた中学生・金朱烈(当時17歳)が、4月11日になって、馬山の沖合で、目に催涙弾が突き刺さった惨殺体で発見されると、これを機に、李政権に対する国民の不満が爆発。4月19日には、ソウルで大規模な学生デモが発生しました。このときのデモでは、学生と警官隊との衝突で183人が死亡し、6200人が負傷しました。さらなる騒擾状態が続く中で、米国も李承晩不支持を明らかにし、万策尽きた李承晩は退陣を表明してハワイに亡命。また、副大統領に当選したばかりの李起鵬は28日にピストルで自殺しました。

 4月27日の李承晩退陣を受けて、大統領権限代行に就任した許政は、5月1日、学生革命の発端となった3月15日の大統領選挙の選挙が無効であることを確認し、李承晩時代を清算すべく、新たな憲法を制定して議会の選挙を行うため、早速、議会内に憲法改正委員会を組織し、改憲作業に着手します。

 当時の韓国の憲法は、1954年11月の“四捨五入改憲”によって大統領の3選禁止規定が外されるなど、李承晩の長期独裁体制を支える法的な基盤となっていたため、改憲作業は、この点に重点を置き、多様な民意を政治に反映させるため、権力を分散させることに主眼をおいて進められました。

 その結果、1960年6月15日、韓国議会で新憲法案が可決され、即日公布されます。そのポイントとしては、①大統領は元首として儀礼的・形式的な存在、②大統領は国民による直接選挙ではなく、国会議員による間接選挙、③国務委員(閣僚)は総理が任命し、大統領には拒否権なし(内閣責任制)、④民議院と参議院(新設)の2院制導入と議会の立法権限の強化、⑤憲法裁判所の新設、⑥地方自治体首長の選挙制、⑦基本権の保障、などが挙げられます。

 新憲法下での民議院・参議院両院の最初の総選挙は7月29日に実施され、民主党が333議席の7割強を独占して圧勝。李承晩時代の与党・自由党は2議席しかとれず事実上消滅し、左派の社会大衆党が4議席を獲得しました。

 ところで、選挙結果を受けて、民主党内では主導権争いが表面化します。

 もともと、当時の民主党は李承晩3選を阻止するため、民主国民党を中心に野党勢力が大同団結して結成されたものでした。このうち、もともと民主国民党にいたグループの旧派と、そこに後から合流したグループの新派は、李承晩打倒という共通の目標の下に団結していただけなので、李承晩退陣後は、協力関係を維持する理由もなくなっていました。

 こうした中で、8月12日から開催された韓国国会では、旧派の代表であった尹潽善が大統領(第2共和国の憲法では形式的な国家元首)に選出され、第2共和国が正式に発足。これに対して、1週間後の8月19日に議会で行われた首相選挙では、尹大統領の指名した旧派の金度演は3票差で否決され、代わって、新派の張勉(李承晩時代は、野党出身の副大統領として、反李承晩派の総帥のような立場にありました)代表最高委員が国務総理となりました。

 しかし、この結果を不服とする旧派は、張勉内閣への協力を拒否。このため、張勉政権は、当初、新派のみで組閣せざるを得ず、はやくも9月には内閣改造を行って旧派から5名を入閣させて尹らとの妥協を模索するなど、政局は安定しませんでした。

 このように波乱含みで政権をスタートさせた張勉は、9月30日、施政方針演説を行います。その内容は、李承晩時代末期の失政により破綻の危機に瀕していた経済の再建を最優先課題として掲げ、軍隊の10万人削減、国連外交の強化、国連監視下の南北統一選挙、日本との国交正常化促進などを訴えるものでした。また、演説の中には「旧秩序と新秩序が交錯する過程では、ある程度の混乱は免れない」との表現がありましたが、ここには、党内野党のような存在となっていた旧派への牽制の意図が込められていました。

 こうして、第2共和国が波乱含みで動き出したのにあわせて、翌10月1日、今回ご紹介の“新政府樹立”の記念切手が発行されました。

 李承晩政権下では、1948年の初代大統領就任以来、大統領の再選・3選時には、就任式にあわせて李の肖像を描く記念切手が発行されてきました。これに対して、第2共和政の大統領になった尹は「そうした習慣は民主主義国家にそぐわない」として、自らの肖像を入れた新大統領就任の記念切手を発行しないように指示。その結果、第2共和政発足を記念するものとしては、“新政府樹立”の名目の下、こうしたデザインの記念切手が発行されることになりました。

 その後、1961年の“516革命”で権力を掌握した朴正煕は、1963年の大統領就任時に自らの肖像を描く記念切手を発行。以後、韓国では、大統領の再任および新大統領の就任時には、前大統領の朴槿惠まで、肖像切手が発行されるのが慣例となってきました。

 今回、前大統領の失職を言う事態を受けて、当選後ただちに新大統領に就任した文在寅の場合、きょうの大統領就任専制に記念切手が間に合わないのは仕方ないとして、今後、何らかのタイミングを待って肖像切手が発行されるのか、それとも、これを機に、新大統領就任の肖像切手の発行が取りやめになるのか、現時点では明らかにされていません。新大統領の文が、尹潽善以来、自らの肖像切手を発行しなかった2人目の大統領になるのかどうか、今後の状況に注目したいところです。

 なお、歴代の韓国大統領と切手の関係については、拙著『韓国現代史』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 


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 世界の国々:ヴェネズエラ
2017-05-09 Tue 10:53
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年5月3日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はヴェネズエラの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ヴェネズエラ・絵入りはがき(印面カカオ)

 これは、1939年1月27日、ヴェネズエラ中北部の港湾都市、ラ・グアイラからドイツ宛の葉書で、印面部分には収穫したカカオを運ぶ女性が描かれています。

 1567年、スペインによって建設されたサンティアゴ・デ・レオン・デ・カラカス(現カラカス)とその周辺では、スペイン植民地時代の1670年から本国向けのカカオの出荷が始まりました。以後、植民地時代のヴェネズエラ経済はカカオのプランテーション栽培で大いに潤いましたが、農場を経営するクリオーリョ(スペイン人を親として現地で生まれた人々)の支配層は輸出の増大を求めてスペインに対して自由貿易を要求。そのことが独立運動の要因ともなりました。

 現在、ヴェネズエラのカカオ生産量は年間1万5000トン程度ですが、高級品として知られるクリオーロ種に関していえば全世界の3分の1程度を占めており、高品質カカオの産地として国際的に高く評価されています。特に、ミランダ州東部のカリブ海に面したバルロヴェント地域で栽培されるクリオーロ種のカカオ、“カレネロスペリオール”は、フルーツやスパイスを思わせる芳醇なアロマとキレのある味が特徴で、ヴェネズエラのカカオ豆生産量の40%を占めています。また、同じくカリブ海に面したアラグア州のチュアオ村で採れる“チュアオ”は、クリオーロ種の中で最も原種に近いものとされ、 “チョコレートのロマネ・コンティ”とも称されているほどです。

 さて、『世界の切手コレクション』5月3日号の「世界の国々」では、ヴェネズエラのカカオとチョコレートについての長文コラムのほか、先住民ヤノマミ人、ユネスコの無形文化遺産に登録された“悪魔の踊り”、ウーゴ・チャヴェスの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のヴェネズエラの次は、5月1日に発売された5月10日号でのエクアドルの特集(2回目)になります。こちらについては、発行日の5月10日以降、このブログでもご紹介する予定です。


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 フランス大統領と“EN MARCHE”
2017-05-08 Mon 19:09
 きのう(7日)行われたフランス大統領選挙の決選投票は、政治運動団体“前進(En Marche)”を率いるエマニュエル・マクロン前経済相が、マリーヌ・ル・ペン候補を破って当選しました。というわけで、フランス大統領と“前進(En Marche)”の文言が同居している1枚ということで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ギニア・ジルカールデスタンとトゥーレ

 これは、1979年、当時のフランス大統領ジスカールデスタンのギニア訪問を記念してギニアが発行した切手で、ジスカールデスタンとギニア大統領のセク・トゥーレの会談風景が取り上げられています。切手の上部には、この時の会談を通じて、ギニアの発展につながるとの期待を込めて、“AFRIQUE EN MARCHE(前進するアフリカ)”の文言が入っています。

 第二次大戦後、アフリカのフランス植民地では民族運動が活発になり、仏領ギニアでも、かつてサモリ帝国を率いてフランスに抵抗したサモリ・トゥーレの曾孫で郵政職員出身のセク・トゥーレが、1947年にアフリカ民主連合の支部ギニア民主党(PDG)を結成し、激しい独立運動を展開していました。

 一方、フランス本国は、1958年に第五共和政憲法を公布し、本国と植民地の関係を、共和国(本国・海外県・海外領土)と共同体構成国からなるフランス共同体に改編し、共同体構成国には、外交・国防・通貨・経済などの権限を除き、大幅な自治を認めることとしました。

 同憲法の可否をめぐり、1958年9月25日、仏領西アフリカ全域で国民投票が実施され、ほとんどの仏領植民地はこれを受け入れ、その大半がフランス共同体内の自治共和国となります。しかし、唯一ギニアのみは、賛成5万6981、反対13万6324で新憲法にノンを突き付け、10月2日に完全独立しました。

 この結果に激怒したフランスは、ギニアの独立は認める一方、ギニアとの国交を断絶(1975年に回復)し一切の援助を停止。そればかりか、植民地時代に建設した道路などの公共インフラを破壊し、官公庁の書類はもちろん、机や椅子、さらには便器にいたるまですべて破壊ないしは持ち去っていきました。

 独立に際して、初代大統領となったトゥーレは「隷属の下での豊かさよりも自由のもとでの貧困を選ぶ」と高らかに宣言しましたが、新生ギニアの国家機能は麻痺状態から出発。豊富な水と地下資源に恵まれていたはずのギニアはあっという間に世界最貧国に転落してしまいます。

 このため、トゥーレはソ連の支援を受けて難局を乗り切ろうと考え、社会主義路線を採択するとともに、PDG一党独裁下で反対派を徹底的に弾圧するなどの恐怖政治を展開。500万人と言われた人口のうち、200万人がセネガルなど隣国に難民として脱出しました。

 こうして、トゥーレの社会主義路線は惨憺たる失敗に終わり、背に腹は代えられなくなったギニアは一党独裁体制を維持したまま次第に西側諸国にも接近。1975年にはフランスとの国交を回復し、1979年には当時のフランス大統領ジスカールデスタンの訪問を受け入れて和解しました。今回ご紹介の切手は、これに合わせて発行されたものです。

 結局、1984年にトゥーレが現職大統領のまま亡くなると、無血クーデターによりランサナ・コンテ大佐が政権を掌握。コンテは社会主義路線を放棄し、自由主義経済への転換を目指しましたが、政治の腐敗や経済難は解消されず、現在なおギニア国家の苦境は続いています。

 さて、今回、“前進”を率いてフランス大統領に当選したマクロンですが、(少なくとも)経済政策に関する限り、かなり前途多難が予想されています。

 すなわち、現在のフランス経済の低迷を打開する手段として、ル・ペンはユーロからの脱退と独自通貨フランの復活させるとともに、大規模な財政出動で景気を浮揚させると主張していましたが、これは、現状でフランスが取りうる経済政策としては至極真っ当な発想です。

 これに対して、既成政党への不満を煽る必要もあって、選挙期間中、失業率が10%を超える高止まりの状況の下での公務員を削減を主張していましたが、冷静に考えれば、到底まともな発想とは思えません。また、彼は、EUとは連携を強化(当然、ユーロには残留)したまま、その一方で法人税の引き下げや失業者対策などに総額6兆円を支出するとしていますが、EUとの連携を強化する限りにおいて、EUの経済収斂基準(ユーロ加盟の条件として達成しなければならないインフレ率、政府財政赤字等の基準)の制約を受けますから、大胆な財政出動はほぼ不可能というのが実情で、結局のところ、彼の経済政策は中途半端なままにおわり、オランド政権同様、経済状況の改善は絶望的と見られています。

 まぁ、フランス国民が自ら選んだ結果ですので、日本人である僕がとやかく言うべき筋合いはないのですが、マクロンの“EN MARCHE”が、今回ご紹介の切手を発行したギニアのセク・トゥーレの“EN MARCHE”のように失速しないよう、精々頑張っていただきたいものです。


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 きょう、フランス大統領選決選投票
2017-05-07 Sun 23:49
 フランスでは、きょう(7日)、保守派のマリーヌ・ル・ペン候補とリベラルのエマニュエル・マクロン候補の間で、大統領選挙の決選投票が行われます。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       フランス・マリアンヌ(2013)

 これは、2013年に発行されたフランスの現行普通切手で、フランスを象徴する女性“マリアンヌ”がデザインされています。

 フランスでは、政権交代のたびに“マリアンヌ”を題材にした新デザインの普通切手が発行されていますが、オランド政権下で発行されたこの切手に関しては、モデル(の1人)をめぐって、切手発行当時、かなりの物議を醸したことは記憶に新しいところです。

 事の発端は、今回ご紹介の切手の報道発表にあわせて、デザイナーのオリビエ・シアパが「マリアンヌのモデルのひとりはインナ・シェフチェンコだ」との趣旨のツイートを投稿したことにあります。

 シェフチェンコはウクライナからフランスに政治亡命したフェミニスト過激派“FEMEN”フランス支部の活動家で、(彼女たちの理解による)女性の性的搾取や性差別、宗教団体に対するトップレス姿での抗議活動を行い、しばしばメディアを賑わせている人物です。まぁ、言論の自由が認められている以上、抗議活動そのものは、他人に危害を及ぼしたり、明らかに法令に反したりしない限り、それなりに認められるべきだとは思いますが、トップレス姿になることが、なぜ、抗議の意を示すことになるのか、僕にはさっぱりわかりませんがね。いずれにしても、彼女の主義主張の是非は別として、フランスでは“お騒がせ”の常習犯であることは間違いなさそうです。

 シアパのツイートを受けて、保守系の団体の間に新たな切手のボイコットを呼びかける動きが広まったため、シアパも報道機関のインタビューに対して「新しい切手のモデルは複数の人物を組み合わせたもので、そのなかには、シェフチェンコのほか、女優のマリオン・コティヤールや法相のクリスティアーヌ・トビラも含まれる」と説明し、事態の鎮静化に躍起となりました。

 ところが、当のシェフチェンコは、そうした関係者の苦労をよそに、「これからホモフォビア(同性愛嫌悪)や過激派、ファシストは、手紙を送るときに私の尻をなめなくちゃならないわね」と挑発。さらなるに炎上を煽り、騒動はしばらく続きました。

 さて、一般的なイメージでは、同性愛に寛容なリベラルと否定的な保守派と語られがちですが、少なくともフランスに関しては事態はそう簡単ではありません。たとえば、中東・北アフリカからの移民2世・3世でフランス国籍を持つ人たちの間には、ムスリムが少なからず含まれていますが、彼らは自らの信仰ゆえに同性愛には否定的です。このため、保守派の中には、ムスリムが同性愛を否定していることを理由(の一つ)として、移民の制限を主張している人も少なくありません。たとえば、今回の大統領選挙に出馬しているル・ペン候補もその一人です。

 また、フランス国民の7割はカトリックの信徒ですが、それゆえ、(あからさまに差別的な言動こそとらないものの)同性愛に対して否定的な傾向の人も少なくありません。じっさい、2013年にフランスで同性婚が合法化された際には、カトリックなどの宗教勢力を中心に、数十万人が同性婚反対のデモを展開しました。ちなみに、ル・ペン本人はカトリックの信徒ですが、離婚歴があり、同性愛と妊娠中絶は容認するという立場ですから、宗教保守派などから見ると(この問題に関しては)“リベラル”に近いとみられかねません。このため、彼女は苦肉の策として、大統領に当選すれば、同性婚の合法化を取り消すことを公約としています。

 このように、同性婚の是非という問題は、“保守”の分裂要因になりかねない一方で、社会の多様性を主張し、移民(特にイスラム系の移民)の権利擁護を訴えるリベラルに対して、当の移民たち(の多く)は決して賛同しないというねじれを生み出すもとになっており、なかなか一筋縄では行かないのが実情です。

 いずれにせよ、新大統領が決まれば、フランスの普通切手のデザインも一新されることになるでしょうが、今度こそは、妙な炎上騒ぎを起こさないでほしいというのが担当者の本音でしょうな。


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 切手に見るソウルと韓国:朝鮮戦争参戦の豪州
2017-05-06 Sat 11:24
 ご報告が遅くなりましたが、『東洋経済日報』4月14日号が発行されました。今回は、私事ながら、メルボルン滞在中に見聞したことも含めて、こんな切手をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)

      オーストラリア・朝鮮戦争50年

 これは、2000年にオーストラリアが発行した朝鮮戦争50周年の記念切手で、北緯38度線近辺の戦場風景と、国連軍参加のオーストラリア兵に授与された従軍記章が取り上げられています。

 さて、メルボルン滞在中、僕は、市内の戦争慰霊館も見学してきました。(下の画像は慰霊館前の“永遠の炎”から慰霊館の外観を撮影したものです)

      メルボルン・戦争慰霊館外観
      
 戦争慰霊館はメルボルンの街並みが一望できる小高い丘の上にあり、周囲は広大な公園になっています。もともと、第一次大戦でのオーストラリアの戦没者を祀る慰霊施設でしたが、後に第二次大戦の戦没者や、さらに、朝鮮戦争ヴェトナム戦争の戦没者も祀られるようになりました。

 内部には、オーストラリアが歴史的に体験してきた戦争に関する資料が展示されており(その中心は、なんといっても両大戦ですが)、朝鮮戦争についても小さいながら、きちんとコーナーも設けられていました。

 第二次大戦後、オーストラリアは対日戦勝国として、広島県・山口県など中国地方を中心に占領軍を派遣していましたが、1950年6月25日の朝鮮戦争勃発を受け、同29日、オーストラリア政府は、日本に駐留していたリバー級フリゲート艦「ショールヘイブン」ならびに香港に駐留していたトライバル級駆逐艦「バタアン」の派遣を決定します。

 朝鮮近海に到着した両艦は、韓国から避難する米英の民間人を収容するとともに、米軍の上陸を支援するための艦砲射撃を行いました。ちなみに、朝鮮戦争における豪海軍の中核となった空母「シドニー」がオーストラリアを出港したのは、8月31日のことです。

 一方、空軍に関しては、1950年6月25日の開戦時、岩国に駐留していた第77飛行中隊は帰国の準備を進めていましたが、開戦により、米第5空軍の指揮下に入り、共産軍と戦っています。

 ところで、オーストラリア政府は、日本に駐留していた地上部隊、第3連隊を朝鮮の戦場に派遣することに、当初、難色を示していました。当時の第3連隊は、兵員の訓練・装備ともに、直ちに実戦に投入するには、きわめて不十分な状態にあったからです。このため、まずは第3連隊の中から志願者2000名が日本占領軍から分離され、朝鮮半島に派遣されるとともに、オーストラリア本国でも志願兵の募集が行われました。オーストラリア本国から集められた兵士たちは、広(広島県呉市)および原村(広島県安佐郡:現広島市安佐南区)で訓練を受けた後、朝鮮半島へと派遣されています。

 オーストラリア軍の戦績としては、まず、1950年9月15日の仁川上陸作戦以後、水原周辺で敗走する朝鮮人民軍と戦い約2000名を捕虜としたことが挙げられる。さらに、10月22-23日には開城の包囲戦で朝鮮人民軍に大きな打撃を与えました。

 また、中国人民志願軍参戦後のオーストラリア軍と共産軍との戦闘としては、1951年4月22-25日の加平の戦いと同年10月3-8日の馬良山の戦いが知られています。

 結局、1953年7月の休戦まで、オーストラリア軍はのべ2万8000名の兵力を朝鮮戦争に投入。334名が戦死しています。

 なお、戦争慰霊館では、展示の最後に、各戦争の従軍記章(とそのレプリカ)がずらりと並べられており、その中には、今回ご紹介の切手に取り上げられた記章もしっかり含まれていました。(下の画像)

      メルボルン・戦争慰霊館(従軍記章) 

 なお、オーストラリアと朝鮮戦争とのかかわりについては、拙著『朝鮮戦争』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 
 
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 こどもの日
2017-05-05 Fri 16:47
 きょう(5日)は“こどもの日”です。というわけで、“こども”が描かれた切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      モルディヴ・パレスチナとの連帯

 これは、1983年にモルディヴが発行した“パレスチナ人民との連帯”と題する切手の1枚で、左側に老人に抱きかかえられる子供(パレスチナ難民のイメージと思われます)を、右側には岩のドームをバックにVサインをする子供が描かれています。

 モルディヴは国民のほぼ100%がムスリムですが、1965年の独立当初、イスラム諸国の中では例外的にイスラエルと良好な関係を築いていました。実際、イスラエルは英国、セイロンについでモルディヴを3番目に国家承認した国であり、共和制への移行後は、モルディヴ大統領に対して大使の信任状を奉呈した最初の国となりました。

 “ムスリム国家”モルディヴの親イスラエルの姿勢に対して、当然のことながら、アラブ諸国は不快感を抱いていましたが、モルディヴがインド洋上に孤立した最貧国であることから、その存在は事実上、無視されていたのが実情でした。

 ところが、1973年、第4次中東戦争が勃発し、アラブの産油国が石油戦略を発動すると、“親イスラエル”と認定されて石油の輸入が途絶することを恐れたモルディヴは、突如、イスラエルと断交し、ムスリム国家として、パレスチナ人民の抵抗を支持すると主張し始めます。

 さらに、1968年以来、開発独裁政策を展開していた初代大統領のイブラヒム・ナシールが、1978年7月の大統領選挙で敗れ、スンナ派イスラム世界の最高権威とされるカイロのアズハル大学を卒業し、同大で助手経験のあるマウムーン・アブドル・ガユームが新大統領に就任。ガユームは、1980年に前大統領のナシールによるクーデター計画を未然に防ぐと、ナシール時代に勝るとも劣らぬ強権政治を展開します。その一方で、経済開発のために中東産油国との関係を強化し、経済援助を獲得することを目指し、1980年にはバハレーンと、1981年にはサウジアラビアとの正式の外交関係が樹立されました。

 今回ご紹介の切手は、こうした文脈に沿って1983年に発行されたもので、パレスチナ問題を通じてのアラブ諸国との連帯(とその余得による産油国からの支援の要求)をアピールする意図が込められていたと考えられます。

 ただし、この切手が発行された後も、モルディヴが世界最貧国のひとつであるという状況に長らく変化はなく、同国の経済成長が軌道に乗り始めるのは、2001年7月、20年間で工業化促進を目指す「2020ビジョン」がスタートしてからのことでした。

 さて、ことし(2017年)は、英国がパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”を作ることを支持するとしたバルフォア宣言(1917年)から100年、イスラエル国家建国の根拠とされる国連のパレスチナ分割決議(1947年)から70年、中東現代史の原点ともいうべき第三次中東戦争(1967年)から50年という年回りになっていますので、現在、「本のメルマガ」で連載中の「岩のドームの郵便学」を書籍化すべくの作業を進めています。具体的な書名・発行日などが明らかになりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。

 
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 プエルト・リコが破産申請
2017-05-04 Thu 11:38
 巨額債務問題を抱えていた米自治領プエルト・リコは、きのう(3日)、連邦地裁に破産申請を行いました。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      英・プエルトリコ消

 これは、プエルト・リコの首府、サン・フアンの英国局で使用された切手です。

 現在のプエルト・リコ島は、ヨーロッパ人の到来以前は先住民のタイノ族の言葉でボリケン またはボリンケンと呼ばれていました。1493年11月19日、サン・フアンに入港したコロンブスは、その美しさに感銘を受けて、この島をスペイン語で“豊かな、または美しい港”という意味の“プエルト・リコ”と」命名したとされています。

 切手や郵便に関しては、1856年以降、“スペイン領アンティル諸島”の切手(スペイン領キューバと同プエルトリコの共通切手)が用いられていましたが、1873年以降、プエルト・リコとして独自の切手が使用されるようになりました。

 一方、宗主国スペインの郵便と並行して、サン・フアンをはじめとする主要港には外国郵便を取り扱うため、英仏の郵便取扱所が設けられていました。このうち、英国は1844年にサン・フアンの取扱所をオープンしたのを皮切りに、アグアディヤ、アロヨ、マヤグエス、ナグアボ、ポンセの計6ヵ所に取扱所を設け、1865年以降、英本国の切手を持ち込んで使用しました。さらに、1874年からはアルファベットと数字を組み合わせた抹消印を使用するようになり、サン・フアンでは今回ご紹介の切手に見られるように“C 61”の印が使用されています。ちなみに、フランスがサン・フアンに郵便取扱所を開設したのは1865年のことでした。

 英国の郵便取扱所は、1877年にプエルト・リコが万国郵便連合に加盟した後も撤退せずに活動を続けていましたが、1898年に勃発した米西戦争を経てプエルト・リコが米領となり、1900年7月、プエルトリコ民政府が設立されたことを受け、1902年には完全撤退しました。

 さて、プエルト・リコでは、2008年のリーマン・ショック以降、経済が急速に悪化。対外債務を返済するためにさらに借金を重ねるという悪循環が続く中、求職難から米本土への移住が絶えずに人口が急減したことで財政も急速に悪化していました。このため、2015年にはデフォルト(債務不履行)が宣言されました。

 この時点では、プエルト・リコは州ではなく自治領であることから、自治体の破綻手続きを定めた連邦破産法9条の適用外でしたが、翌2016年6月、オバマ政権はプエルト・リコを債券保有者の訴訟から守る支援法案を成立させたことで、破産申請が可能となりました。これを受け、プエルト・リコ側は債権者のヘッジファンドとの協議が続けていましたが、結局、不調に終わり、今回の破産にいたりました。なお、債務は700億ドルで、2013年に財政破綻したミシガン州デトロイト市の185億ドルの約4倍で、米国の自治体としては最大の破産手続きとなるそうです。

 
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 ホノルル空港がイノウエ空港に
2017-05-03 Wed 09:21
 ハワイ・ホノルル国際空港の正式名称が、第二次大戦で米陸軍日系人部隊の一員として戦い、右腕を失いなかがらも1963年から連続9期上院議員を務めた日系2世のダニエル・イノウエ米上院議員にちなみ、ことし4月27日付で “ダニエル・K・イノウエ国際空港(以下、イノウエ空港)”に改称されたことが、きのう(2日)、明らかになりました。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ホノルル国際空港(1962)

 これは、1962年8月22日にホノルル国際空港(当時)内の郵便局からニューヨーク宛に差し出された葉書で、“ジョン・ロジャーズ・ターミナル”完成の記念のカシェが押されています。

 イノウエ空港のルーツは、1927年3月、ハワイ初の本格的な空港として開港したジョン・ロジャーズ空港です。空港名となったロジャーズは、米海軍航空隊における初期のパイロットの1人で、1925年に米海軍航空局次官に就任しましたが、ワシントンDCからフィラデルフィアに空路移動中、1926年8月、機体トラブルで殉職しました。

 1941年12月の真珠湾攻撃の後、空港はロジャーズ海軍航空基地となり、海軍管理の下で新たな管制塔とターミナルが建設されるなど拡張が進められ、戦後の1946年にハワイ準州(ハワイが米国の50番目の州に昇格するのは1959年)に返還されたときには、16.26平方キロの敷地に地上滑走路4本、飛行艇用滑走路3本を有する米国内最大の空港となっていました。

 これを受けて、1946年、パンナムはホノルル経由で米西海岸とオセアニア地域(フィジーニューカレドニア、ニュージーランド)を結ぶ路線の運行を開始し、翌1947年にはミッドウェイ、ウェイク島経由で東アジアまで航空路を延伸します。

 こうした状況を踏まえて、1947年、空港名はジョン・ロジャーズ空港からホノルル空港に改称され、さらに、1951年にはホノルル国際空港へと改称されます。その後も乗り入れる航空会社の増加にあわせて空港の拡大は続き、1950年までには年間の離着陸数で米国内第3位に、1953年には当時世界最長の3992メートルの滑走路を備える巨大空港に成長しました。

 1962年8月22日には新ターミナルとして“ジョン・ロジャーズ・ターミナル”が完成し(今回ご紹介の葉書は、その当日、記念カシェを押して差し出したものです)、同年10月4日から運用が開始されます。さらに、1970年から1978年にかけて、ウラディミール・オシポフの設計による大規模な増改築が行われ、ダイアモンド・コンコース(1970年)、エワ・コンコース(1972年)、中央コンコース(1980年)などが相次いで作られました。

 2006年3月には、総額23億ドルを投じ、12年かけて空港および関連施設を大々的に刷新する計画が発表され、2009年にはその第1期工事が、2010年には第2期工事が完了。現在は、新コンコースの建設などが進められています。1963年から2012年に亡くなるまでハワイ選出の議席を維持していたイノウエ上院議員は、こうした大規模リニューアルの予算確保に大いに貢献。そのことが、今回の空港名の改称の理由となりました。

 
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      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 八十八夜
2017-05-02 Tue 10:08
 きょう(2日)は八十八夜です。というわけで、例年どおり、茶摘みの切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      スリランカ・茶のセリ100年

 これは、1984年にスリランカが発行した“コロンボ茶市場100周年”の記念切手で、セイロン島での茶摘み風景が取り上げられています。

 1815年に英領となったセイロン島では、1825年にコーヒーの栽培が開始され、主としてスコットランドから多くの開拓者が移住し、1857年までには3万2000ヘクタール以上のコーヒー農園が開拓されていました。この間、1839年には、カルカッタ(現コルカタ)植物園長のウォリックがアッサム種の茶の苗をキャンディに送りましたが、当時はコーヒー栽培のほうが利益が大きかったため、茶の栽培は普及しませんでした。

 1866年、セイロンのコーヒー農園で働いていたジェームズ・テーラーは、雇用主の命を受けてインドに渡って茶の栽培を学び、翌1867年、ルレコンデラ茶園での栽培を開始します。インドでは中国から茶が導入されてから栽培に成功するまで15年かかりましたが、テーラーは2年ほどでセイロン島での茶栽培に成功しています。

 時あたかも1869年、キャンディでサビ病(サビ菌がコーヒーの葉の裏側に付着して葉肉を浸食し、樹木本体を枯らしてしまう病害)が蔓延し、島内のコーヒー農園が壊滅的な打撃を受けたため、テーラーの成功もあって、急速に茶の栽培への転換が進みました。

 1872年、テーラーは本格的な製茶工場を創業。彼は、揉念機を導入するとともに、交配による品種改良も行い、茶葉の品質向上に力を注ぎます。また、1875年には、満を持して製品をロンドンの茶市場に送り、高い評価を得るなど、セイロンにおける茶産業の基礎を築きました。その結果、1883年には、コロンボでも最初の茶の取引市場がオープンするまでになります。今回ご紹介の切手は、ここから100周年になるのを記念したものですが、実際の切手発行は100周年の1983年には間に合わず、1984年1月31日にずれ込んでいます。

 こうした経緯を経て、セイロンの茶葉の品質に目をつけたスコットランドの商人、トーマス・リプトンは、1890年、セイロンの茶葉の欧米向けの輸出を開始。さらに、1892年にテーラーが亡くなると、みずから、ウバのハプタレー地域に広大な紅茶農園を開業し、インドのアッサム種の本格的な生産に乗り出しました。リプトンは、ブレンディングの技術を導入することで、紅茶の風味を向上させます。彼の農園の紅茶は「茶園から直接ティーポットへ」との宣伝文句とともに、英国を始め各国で人気を博し、“紅茶王”リプトンとセイロン・ティーは世界中にその名をとどろかせました。

 現在、スリランカはインド、ケニアに次いで世界第3位の茶の生産地で、旧称の“セイロン”は現在なお紅茶の代名詞となっています。セイロン島での茶葉の主な産地は、中央の山岳地帯を挟んで南東側のウバ地区と西側のディンブラ、ヌワラエリア地区で、それぞれ、ハイグロウンティー(標高1300m以上)、ミディアムグロウンティー(670-1300m)、ローグロウンティー(670m以下)のランク(より高地で生産されたものが高品質です)に分れています。

 
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 ボーパールのトラ対策
2017-05-01 Mon 23:09
 インド中部のボーパール(マディヤプラデシュ州)で29日に開かれた集団結婚式で、州政府が花嫁への贈り物として長さ約30センチの木製のへらを配り、夫の酒癖が悪くなったり暴力を振るうようになったりしたら武器として使うよう助言したそうです。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ボーパール・虎(1940)

 これは、1940年にボーパール藩王国で発行された“トラ”の切手です。 20世紀初頭のインド亜大陸では、野生のベンガルトラが約10万頭が棲息していました。当時のインドの山間地域では、ベンガルトラに襲われて怪我をしたり、命を落としたりする人も少なからずあり、トラの脅威からいかにして身を守るかということが重要な課題となっていましたが、その後、開発に伴う棲息地の自然環境の破壊に加え、毛皮や骨(漢方薬で用いられるため、高値で取引されます)を目的とした乱獲によりトラの個体数は激減し、現在ではワシントン条約の規制対象となっています。

 その一方で、飲酒によって“大トラ”となるインド人男性は増加傾向にあり、酒に酔った夫が暴力をふるうなどの虐待を妻に対して行ったり、妻の貯金を無断で引き下ろして酒を買ったりするなどの事例が後を絶たないそうです。しかしながら、多くの場合、妻たちの訴えに対して警察が動くことはほとんどなく、大半は泣き寝入りせざるを得ないのが実情で、そのことが、今回の新婦への木ヘラの配布につながりました。ちなみに、木ヘラには「飲んだくれのお仕置き用」、「警察は仲裁してはくれない」と印字されているそうです。

 さて、1947年のインド独立以前、ボーパールの地は1707年に創立されたボーパール藩王国の支配下に置かれていました。

 1868年に即位した女性君主のスルターン・シャー・ジャハーン・ベグムは藩王国の近代化に努め、その治世下で最初の切手も発行されました。その発行年代は、スタンリー・ギボンズのカタログでは1872年とされていますが、1876年説もあります。当初の切手石版印刷で、八角形の枠の中に“シャー・ジャハーン”の印章をエンボスしたものでした。

 今回ご紹介の切手は、1928年に即位した最後の藩王、ナワーブ・ムハンマド・ハミードゥッラーの治世下で1940年に発行された4分の1アンナ切手で、右側には、藩王国の紋章が入っています。

 なお、1947年8月15日のインド独立後、ボーパール藩王国は、一時期、インド・パキスタンのどちらにも属さない独立国家としての存続を模索しましたが、最終的に断念。1949年6月1日、ナワーブは正式にインドとの統合条約に調印します。これに伴い、ボーパールでも1950年4月1日からインド切手が発売されるようになり、5月1日付で、旧藩王国時代の切手は無効となりました。

 
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