2021-03-31 Wed 02:20
1921年3月31日にオーストラリア空軍が設置されて、ちょうど100年になりました。というわけで、オーストラリア空軍に関する切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1976年に英領ソロモン諸島が発行した“ソロモン諸島への初飛行50周年”の記念切手のうち、オーストラリア空軍のウィリアム大佐の操縦により、ソロモン諸島に初めて飛来した飛行艇デ・ハヴィランドDH50Aが描かれています。 オーストラリア空軍のルーツは、第一次大戦直前の1914年3月、オーストラリア陸軍の航空部門として設立された“オーストラリア飛行軍団(AFC)”に求められます。 第一次大戦が勃発すると、AFCも大英帝国の一員として参戦し、ドイツ領ニューギニアの攻略戦や中東戦線、西部戦線にも投入されました。 大戦が終結すると、AFCはいったん解散し、飛行学校のみが残されましたが、1920年にはオーストラリア航空軍団として再編。そして、これが1921年3月31日にオーストラリア空軍として独立します。なお、現在の正式名称である“王立オーストラリア空軍(英語: Royal Australian Air Force、 RAAF)”となったのは、同年6月21日、英国王ジョージ5世から王立(Royal)の称号が下賜され、8月31日付で正式に改称が行われてからのことです。 さて、1926年10月、創立まもないオーストラリア空軍のウィリアム大佐は、今回ご紹介の切手に描かれたデ・ハヴィランドDH50A飛行艇を操縦して、オーストラリアからニューギニア、ソロモン諸島、ニューヘブリデス(現ヴァヌアツ)、ニューカレドニア、フィジー、サモアをめぐる周遊飛行に出発。同31日には英領ソロモン諸島北西端のショートランド島に寄港しました。これが、現在のソロモン諸島国家の領域に飛行機が飛来した最初の事例で、今回ご紹介の切手は、ここから50周年になるのを記念して発行されたものです。その後、ウィリアム大佐は、ギゾ、ツラギに停泊。ツラギでは部品交換を行い、11月23日、次の目的地であるニューヘブリデスに向かっています。 なお、南太平洋の交通の要衝としてのソロモン諸島とオーストラリアとの関わりについては、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん」 出演します!★ 4月5日(月)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-03-30 Tue 09:55
今月23日に大型コンテナ船“エバーギブン”の座礁で航行不能になっていたスエズ運河で、きのう(29日)、エバーギブンの離礁が成功し、現地時間の同日夕方(日本時間30日未明)、運河の通航が再開しました。ただし、再開時点で運河内や両端で足止めされた船は422隻にのぼっており、それらが通過し終えて通行が正常化されるまでには、3日から3日半かかるそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1975年にエジプトが発行した“スエズ運河再開”の記念切手で、スエズ運河地帯の地図と運河を航行する大型船(船体には“平和”の文字)、サダト大統領が描かれています。 第三次中東戦争(1967年)の敗戦により、シナイ半島がイスラエルに占領されると、エジプトにとってはその奪還が国家としての最重要課題となりました。 1970年にナセルの死を受けて政権を継承したサダトは、それぞれの思惑から中東に関与しているだけの米ソ両国に任せていてもシナイ半島の奪還は無理であると喝破し、武力による自力奪還以外に、エジプトの採るべき現実的な選択はないという結論に到達。こうした判断にもとづき、シリア大統領ハフィズ・アサドとも連携をとりながら、対イスラエル戦争のプランを練り始めます。 戦争計画の策定にあたっては、戦争の長期化は絶対に避けるとの前提の下、イスラエルに軍事的な大打撃を与えることで、大国による和平の仲介を引き出すという基本方針が確認されました。このため、戦争計画は、緒戦の電撃的な侵攻作戦に重点が置かれ、スエズ運河の潮流や月齢などを考慮した結果、ユダヤ教の贖罪日(ヨム・キップール)でイスラエル軍の態勢が手薄になる1973年10月6日が開戦予定日として設定されます。 かくして、1973年10月6日、エジプト・シリア連合軍が奇襲攻撃を開始し、第四次中東戦争が勃発します。 開戦当初の3日間、エジプト軍はイスラエルに対する大規模攻撃を展開し、スエズ運河を渡河して、イスラエルの航空機50機と戦車550両を撃破するという華々しい戦果を挙げました。このうち、スエズ運河渡河作戦の成功は、イスラエルに対するアラブ最初の勝利として大々的に喧伝され、サダトは「渡河作戦の最高指揮官=イスラエル軍不敗神話を破ったアラブの英雄」として、その権威は絶大なものとなります。 もっとも、エジプト軍の優勢は長続きせず、10月16日にはイスラエル軍がスエズ運河の逆渡河に成功してエジプト領内に進攻し、形勢は逆転。ここで、米ソが調停に乗り出し、10月22日の国連安保理において関係諸国に対する停戦決議(決議第338号)が採択され、第4次中東戦争は終結しました。 ところで、第四次中東戦争の過程で、エジプトはイスラエルのスエズ逆渡河を防ぐため、スエズ運河に機雷を撒いていました。このため、停戦後も一般の船舶は運河を航行できない状態が続いていましたが、1974年5月から12月にかけて、米国の強襲揚陸艦“イオー・ジマ”が掃海作業および不発弾撤去作戦を実行。これにより、湖沼部を含む運河にあった機雷の99%が除去され、1975年6月、運河の通行が再開されました。今回ご紹介の切手は、これに合わせて発行されたものです。 なお、第四次中東戦争とエジプトについては、拙著『パレスチナ近現代史 岩のドームの郵便学』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 * 昨日(29日)の文化放送「おはよう寺ちゃん」の僕の出番は、無事、終了いたしました。リスナーの皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。次回は来週月曜日・5日に登場の予定です。引き続きよろしくお付き合いください。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん」 出演します!★ 4月5日(月)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-03-29 Mon 00:47
ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2021年3月号が発行されました。僕の連載「切手歳時記」は、今回は、春の話題ということで、こんな切手を取り上げています。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1972年9月20日に発行された古典芸能シリーズ第4集(能)のうち、旧暦3月、駿河の三保浦を舞台にした「羽衣」を取り上げた1枚です。 海に漕ぎ出していた漁師の白龍たちが三保の松原に戻ってくると、空から花が降り、芳香とともに妙なる調べが聞こえてきます。白龍たちがいったい何事かと周囲を見まわすと、松の枝に美しい羽衣がかかっていました。 白龍がその衣を持ち帰ろうとすると、天女が現れて声をかけ、その羽衣は自分のものだから返して欲しいと頼んできます。白龍は、天界のものなら、なおさら地上に留めて国の宝にすべきと主張し、立ち去ろうとしましたが、「それがないと、天に帰れない」と悲しむ天女の姿に同情し、舞を見せてもらえば衣を返すと約束します。 その過程で、白龍は、羽衣を返してしまったら、天女は舞を舞わずに天に帰るのではないかと疑いましたが、「いえ、他者を疑うのは人間界のみのことで、天上界では嘘をつくということはありません」と天女が応じたため、根は正直者の白龍は深く恥じ入り、衣を返しました。 その後、天女は駿河舞(東国の風俗舞)の元になった舞を舞いながら、三保の松原の美しさを讃えて「君が代は天の羽衣まれに来て撫づとも尽きぬ巌ならなむ」と歌い、国の繁栄を祈念し、天空の霞の中に姿を消していきました。 天女が口にした「君が代は天の羽衣まれに来て撫づとも尽きぬ巌ならなむ」は、もとは『拾遺和歌集』に収められていた詠み人しらずの歌で、大意は天人が稀に地上に降りてきて、その軽い羽衣で大岩を撫でるとしても、大岩はつきることがない。 そのように、あなたの寿命も長く久しくあってほしい」というくらいになりましょうか。仏教では、世界の中心に位置する須弥山には四十里四方の大きな岩があって、その上に百年に一度天人が舞い降りて来て、羽衣でひと撫でして天に昇っていくとされています。その繰り返しで岩がすり減ってなくなるまでの時間が劫で、この歌もそれを踏まえたものです。 いわゆる羽衣伝説は洋の東西を問わず、各国に類似の話が伝わっており、わが国でも古くは各地の風土記に記述がみられます。能の「羽衣」は、その中の『駿河国風土記逸文』の内容に最も近いとされていますが、各風土記の羽衣伝説では、天女は漁師と夫婦になったり、老夫婦の子どもになったり、しばらく地上に留まっていたりして、天女がすぐに羽衣を取り返して舞を舞うという記述はありません。 能の「羽衣」で天女役のシテが着ける增女の面は、世阿弥と同時代、足利義満・義持の時代の田楽能の名手、增阿弥が妻をモデルに作ったのが最初とされています。 增女の面は節のある檜を使って作られたが、その結果、鼻の左側のつけねから脂がにじみ出てうす青いシミができた。通常なら、シミの部分は塗りなおすのだが、增阿弥はあえてそのままにし、“節木增”の面として用いました。その結果、增女は、若い女の面でありながら、小面(可憐で優しい純真な美女)や若女(小面よりやや年上の端麗な美女)のような明るさや愛らしさとは無縁で、よく言えばクールビューティー、悪く言えば、淡麗ではあるが、近寄りがたい相貌となりました。 いかな美女であろうとも、不愛想な增女と暮らすのは、ちょっと気づまりでしょうね。白龍が素直に羽衣を天女に返したのも、案外、羽衣を返さずに彼女を妻として生活を共にした時のことを想像したら、腰が引けてしまったというのが正直な本音だったのかもしれません。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん」 出演します!★ 3月29日(月)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。今回から、番組は大幅にリニューアルされ、早朝5時から9時までの長時間放送となりますが、僕の出番は07:45からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-03-28 Sun 03:13
2月1日に軍事クーデターが発生したミャンマーで、きのう(27日)の“国軍の日”にあわせて、各地でクーデターに抗議するデモが相次ぎ、この記事を書いている時点で、治安部隊の発砲などで114人の死亡が報告される惨事となりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1995年にミャンマーで発行された”国軍の日”の記念切手で、当時の首都、ラングーン(現ヤンゴン)市内の風景と国軍の徽章が描かれています。 1941年12月8日、日本が英国に宣戦を布告すると、同16日、ビルマ独立を目指すアウンサンと同志たちは日本軍の南機関の支援を得て、バンコクにビルマ独立義勇軍を創設。日本軍と共に英国と戦い、1942年3月にラングーンを陥落させ、7月にはビルマから英国勢力を駆逐することに成功しました。これに伴い、ビルマ独立義勇軍はビルマ防衛軍に改組され、バー・モウを中央行政府長官とする日本軍政時代がスタートします。さらに、1943年8月1日、バー・モウを首相とするビルマ国が誕生するとアウンサンは国防相となり、ビルマ防衛軍はビルマ国民軍に改組されました。 しかし、アウンサンは次第に、日本の強い影響下に置かれていたビルマ国の独立国としての地位に疑問を持つようになり、さらに、インパール作戦の失敗などで日本の敗色が濃厚と判断したことから、日本からの離反を決意。1944年8月1日、独立1周年の演説でビルマの“独立”はまやかしだと発言した後、8月後半にはビルマ共産党、人民革命党と提携して“反ファシスト組織”を結成します。 1945年3月、北部でビルマ国軍の一部が日本軍に対し決起すると、アウンサンは、反乱軍に対抗するためとの名目でビルマ国民軍をラングーンに集め、同27日、日本軍に対する戦闘を開始しました。これが、現在のミャンマーの“国軍の日”の由来で、今回ご紹介の切手は、その50周年を記念して発行されたものです。 ちなみに、アウンサンらの蜂起を受けて、“反ファシスト組織”に属する他の勢力も各地で一斉に蜂起。連合国とも呼応した抗日運動が開始され、5月にはラングーンを制圧。6月15日には対日勝利が宣言され、第二次大戦後の独立につながっていくことになります。 さて、昨日の“国軍の日”にあわせて、首都ネピドー郊外では中露印などの代表を招いての記念式典が開かれ、国軍の軍事パレードも行われました。クーデターを主導したミン・アウン・フライン総司令官は、アウンサンスーチー率いるNLDが与党として圧勝した昨年11月の総選挙では不正があり、国軍が全権を掌握するしかなかったと述べ、クーデター後、各地で起きている抗議デモを「不適切な暴力行為」と呼び、徹底排除する姿勢を鮮明にする一方、“自由で公正な総選挙”を実施し、権限を引き渡す方針を改めて表明しました。 一方、抗議デモは、最大都市ヤンゴンや第2の都市マンダレーなどをミャンマー各地で行われ、北西部のサガイン地域では10万人超がデモに参加したと報告されています。デモ隊の一部は、国軍を“テロリスト”として非難し、国軍への抵抗を(1945年の武装蜂起に重ね合わせて)“反ファシスト革命”と言い表す動きも広がりつつあるようです。なお、治安部隊の発砲などで、昨日のヤンゴンでは27人が死亡し、1歳の幼児がゴム弾で目を撃たれて負傷。また、“アメリカンセンター”の施設も銃撃されました。国軍の弾圧による死者は、26日の時点で累計328人に達していましたので、累計で400人を超えたことになります。 あらためて、これまでに亡くなられた方々の御冥福を心よりお祈りいたします。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん」 出演します!★ 3月29日(月)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。今回から、番組は大幅にリニューアルされ、早朝5時から9時までの長時間放送となりますが、僕の出番は07:45からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-03-27 Sat 03:58
インド洋の戦略的要衝で、ネタージ・スバース・チャンドラ・ボース(以下、ボース)ゆかりのインド領アンダマン・ニコバル諸島に、外国の開発援助として初めて日本が参画することが決まったそうです。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1964年にインドが“ボース生誕67周年”の記念切手を発行した際に制作した公式のリーフレットのうち、アンダマン諸島からインド大陸を望むボースの写真が大きく取り上げられた1ページです。 ちなみに、リーフレットの表紙(下の画像)には、ボースとインド国民軍が描かれていますが、これは、2種類セットで発行された記念切手のうち、55パイサ切手の図案と同じものです。 また、表紙をめくった見返し(下の画像)には、切手の説明とともに、2種類の記念切手の実物が貼られ、初日印が押されています。そのインクが乾かないうちに、リーフレットを閉じてしまったため、冒頭の写真には消印のインクが写ってしまっています。なお、記念切手の額面合計は70パイサですが、裏表紙に記載されたリーフレットの売価は25パイサとなっており、インド郵政としては、損得を抜きにして、この切手とボースの業績を広く海外に紹介しようという意図を持っていたことが伺えます。 アンダマン・ニコバル諸島は、ベンガル湾南部に位置するインドの連邦直轄領で、北緯10度線の北側がアンダマン諸島、南側がニコバル諸島となっています。 1858年、英国はアンダマン・ニコバル諸島を占領。アンダマン諸島最大の島である南アンダマン島の南東岸のポートブレアを首府都市、独房監獄を設けて政治犯などの流刑地としていました。 1941年12月の日英開戦後、日本軍はビルマとスマトラを結ぶ南北の線上にあったアンダマン・ニコバル諸島に着目し、1942年3月23日、ポートブレア付近に上陸。すでに、英軍の主力部隊は撤退していたため、日本軍はほとんど抵抗を受けることなく、30日までにアンダマン諸島を攻略。さらに、同年6月13-14日、ニコバル諸島を無血占領しました。 一方、日本軍占領下のマレー半島では、白人支配からアジアを解放するとの大義名分の下、捕虜となったインド人兵士から志願者を募って、日本軍によってシンガポールでインド国民軍(INA)が創設されます。 当初、INAの指揮官はモハン・シン大尉でしたが、1943年、インド国民会議派元議長で、ドイツで反英活動を行っていたボースがドイツからドイツ潜水艦U180と伊号第二九潜水艦を乗り継いで来日。ボースは、当時の首相・東条英機からインド独立のための支援の約束をとりつけると、シンガポールに乗り込んで、同年7月2日、みずからインド国民軍の総司令官に就任。10月21日、シンガポールで“自由インド仮政府”が樹立されると、その首班に就任しました。 これを受けて、同月23日、日本は自由インド仮政府を承認。同政府首班としてのボースは、11月5-6日、日本の戦争目的である“アジア解放”を宣伝するために東京で開催された“大東亜会議”にオブザーバーとして招聘され、日本軍占領下のアンダマン・ニコバル諸島を同政府の統治下に置くことが決定され、ポートブレアには初めて独立インドの“国旗”が掲揚されました。こうしたことから、アンダマン・ニコバル諸島は、インドの独立運動史においても重要な場所となっています。 さて、1947年のインド独立後、アンダマン・ニコバル諸島を領有したインドは、この地が戦略上のマラッカ海峡からインド洋に至る玄関口となる要衝であることに加え、先住民保護の観点から、外国人の同諸島への入域を一部地域に制限してきました。 しかし、近年、中国が“一帯一路”構想を掲げてインド洋地域でも勢力を拡大してきたことから、これに危機感を抱いたインド政府は、それまで受け入れてこなかったアンダマン・ニコバル諸島への外国の援助受け入れを決断したというわけです。 今回の援助では、インド政府がアンダマン・ニコバル諸島で太陽光発電など再生可能エネルギーによる発電比率を100%にすることをめざしていることから、月内から2年間の予定で、総事業費約40億円(国際協力機構が無償資金協力)を投じ、発電所の蓄電池や関連設備を整備し、非常時のバックアップ電源として電力供給の安定化を支えることになっています。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん」 出演します!★ 3月29日(月)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。今回から、番組は大幅にリニューアルされ、早朝5時から9時までの長時間放送となりますが、僕の出番は07:45からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-03-26 Fri 01:21
きょう(26日)は、1971年3月26日、バングラデシュ独立戦争が開始されたことにちなみ、同国では“独立記念日”になっています。ことしは、50周年という節目の年でもありますので、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1997年にバングラデシュが発行した“独立25周年”の記念切手のうち、独立戦争の導火線となったムジブル・ラーマン(後のバングラデシュ初代大統領)による1971年3月7日の演説の場面を描いた1枚です。 1947年に英領インド帝国が解体された際、現在のバングラデシュに相当する地域は東パキスタンとして、現在のパキスタンに相当する西パキスタンとともにパキスタン・イスラム共和国を構成することになりました。しかし、パキスタン国家の政治的な実権を握っていたのは西パキスタンで、東パキスタンで生産されるジュートによってもたらされる外貨は、西パキスタンに優先的に支出される状況が続きます。 また、東パキスタンの住民の大半がベンガル語を母語としていたのに対して、パキスタン国家としての公用語は西パキスタンの主要言語であったウルドゥ語であり、そのことに対する東パキスタン側の不満も根強いものがありました。 さらに、1970年の集中豪雨、ボーラ・サイクロンによって東パキスタン国土のほとんどが水没、17万人に上る死者が出たにもかかわらず、パキスタン政府の西パキスタン偏重政策は変わらず、東西の亀裂は決定的になります。 こうした状況の下で行われた1970年の総選挙では、東パキスタンを地盤とするアワミ連盟が“バングラ民族主義”を掲げ、東パキスタンの選挙区で162議席中160議席を獲得。すると、アワミ連盟の躍進が東パキスタンの分離・独立につながることを恐れたパキスタン政府は、選挙後、なかなか議会を開催しようとしませんでした。 そこで、1971年3月7日、アワミ連盟は10万人の大集会を開催。党首のムジブル・ラーマンは、パキスタン中央政府への非協力政策を宣言し、「今回の闘いは解放のための闘いであり、独立のための闘いである」、「すべての家を要塞にし、諸君の持つ力のすべてで敵に抵抗しよう。犠牲の教訓に打ち勝ち、もっと多くの血を捧げよう。神は喜び、我々はこの地を人々に解放する」と訴えて独立派を鼓舞しました、今回ご紹介の切手は、この演説の場面を描いたものです。 一方、独立運動の高揚を警戒した中央政府は、3月25日、ムジブル・ラーマンらアワミ連盟の指導者を逮捕。さらに、パキスタン軍による東パキスタン住民の虐殺事件が発生します。これに対して、翌26日、陸軍のジアウル・ラーマン少佐が「我々旧東パキスタンは旧西パキスタンに対し自由解放のための戦いを開始する」と宣言し、パキスタン独立運動の火ぶたが切って落とされました。なお、ムジブル・ラーマンによる3月7日演説は、26日に始まる独立運動を導いたとして、2017年、ユネスコの世界記憶遺産に登録されています。 その後、4月10日に独立派が“バングラデシュ人民共和国”の独立が宣言すると、パキスタン政府は軍を空輸して武力鎮圧を試み、さらに、反独立派のイスラム過激派組織がベンガル人の大量殺戮を行ったため、9ヶ月で300万人もの死者が発生しました。 この動きに目をつけたインドは、パキスタンを弱体化させるために、東パキスタンからインドへの難民流入を“人口学的侵略”として、1971年12月3日、パキスタンに侵攻し、第3次印パ戦争が勃発。すると、圧倒的な兵力を誇るインド軍の前にパキスタン軍はわずか10日余りで降伏。12月16日、パキスタンはバングラデシュの独立を承認し、ラーマンは解放されました。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん」 出演します!★ 3月29日(月)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。今回から、番組は大幅にリニューアルされ、早朝5時から9時までの長時間放送となりますが、僕の出番は07:45からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-03-25 Thu 04:13
エジプトのスエズ運河で、23日(現地時間)、愛媛県今治市の正栄汽船所有のコンテナ船「エバーギブン」(全長400メートル、幅59メートル)が運河をふさぐ形で座礁。運河の往来が遮断されたため、周辺では大規模な渋滞が発生し、タグボートによる復旧作業が続けられています。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1957年にエジプトが発行した“スエズ戦争(第2次中東戦争)勝利”の記念切手で、画面の右側には、スエズ運河の航行を妨害するため、エジプトが運河に沈めたコンテナ船が描かれています。 1952年のエジプト革命で発足したナセルの民族主義政権は、王制時代に事実上の宗主国であった英国の影響力を排除するため、1954年10月、スエズ運河地帯から英軍を撤退させる協定を成立させ、1956年6月20日までに全英軍を撤兵させました。 当時のナセル政権は自立した近代国家を建設するという意味で英国の影響力を排除しようとしていたものの、エジプトの経済的自立のための国家プロジェクト、アスワン・ハイ・ダムの建設計画(ナイル川上流に巨大なダムと発電所を建設し、それを利用した灌漑により大規模な農地を開拓する計画)を遂行していくためには、米英両国と世界銀行の資金援助が不可欠だったこともあり、西側諸国との対立は望んでいませんでした。 このため、英軍の運河地帯からの撤退に際しては、運河の所有権は英仏両国を大株主とする国際スエズ運河株式会社が保有することとされ、運河の自由な航行を保障する国際協定(1888年10月締結)も引き続き有効であることも確認されていました。 しかし、英軍の運河地帯から撤兵すれば、エジプト軍がシナイ半島を北上するのではないかと恐れたイスラエルは、英軍の撤兵を妨害すべくさまざまな破壊工作を展開。1955年2月には、イスラエル軍の攻撃によりエジプト軍兵士38名が犠牲になるという事件も発生します。そこで、イスラエルの脅威に対抗する必要から、エジプトは米国をはじめとする西側諸国から最新兵器を購入しようとしたのですが、米英仏の3ヶ国は、中東への武器供与を制限する三国宣言を理由にこれを拒絶。このため、ナセルはソ連に接近し、1955年10月、チェコスロバキア経由での通商協定という名目で、綿花(エジプトの主力輸出品)とのバーター取引を成功させ、大量のソ連製兵器の獲得しました。 これに対して、エジプトのソ連への接近を阻止しようと考えた米国は、1956年7月19日、突如、アスワン・ハイ・ダム建設資金の援助の約束を撤回してナセルに圧力をかけます。さらに、英国と世界銀行も同様の声明を発すると、資金不足からダム建設中止の瀬戸際に追い込まれたナセルは、同年7月26日、年間1億ドルのスエズ運河の収益をアスワン・ハイダム建設の資金に充てるべく、運河の国有化を宣言。国際スエズ運河株式会社を接収して全資産を凍結しました。 これに激怒した英仏両国は、イスラエルと同調し、武力による運河国有化の阻止を計画。1956年10月29日、イスラエルがスエズ運河地帯のエジプト軍駐留地域への進撃を開始し、第二次中東戦争(スエズ戦争)が勃発します。 翌30日、英仏両国は、イスラエルとの打ち合わせ通り、「スエズ運河の両岸16キロの距離から兵力を撤退させなければ、我々は武力に訴えても運河の安全を確保するだろう」との最後通牒をエジプトとイスラエルに発します。英仏の予想通り、ナセルがこれを拒否すると、31日、英仏両国はエジプトへの空爆を開始し、落下傘部隊がポートサイド(スエズ運河の地中海川の出口)を急襲しました。これに対して、ナセルは運河の閉鎖を命じ、約50隻の船舶を運河内に沈めてタンカーを航行不能にすることで対抗したものの、軍事的な劣勢は誰の目にも明らかでした。 ところが、英仏両国のあまりにも露骨な侵略行為は米ソを含む国際社会の厳しい非難を浴び、11月2日、関係国への停戦とスエズ運河通航の再開を求める国連総会決議997が採択されまします。その後、11月4日から7日にかけて採択された総会決議998、1000、1001により、停戦の監視と英仏イスラエルのエジプト領内からの撤退確認のためにUNEF I が設立されます。そして、11月8日の停戦を経て、11月14日にはエジプトの合意が得られたことから、11月15日からUNEF I の展開が開始されました。 こうして、英仏両国は国際世論に屈するかたちでスエズ侵攻作戦を中止し、12月2日にエジプトからの撤兵を宣言。同月22日までに全兵力を引き揚げました。 ちなみに、第二次中東戦争が勃発すると、エジプト郵政は、ただちに戦意高揚のための切手(無加刷)を発行する準備をはじめましたが、実際に切手が発行されたのは、英仏がエジプトからの撤兵を公表した後の12月20日のことでした。このため、エジプト郵政は、翌1957年1月、無加刷切手に英仏の完全撤兵を記念する文字を加刷し、あらためて戦勝記念切手として発行しました。それが、今回ご紹介の切手です。 なお、ナセルとその時代については、拙著『パレスチナ近現代史 岩のドームの郵便学』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん」 出演します!★ 3月29日(月)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。今回から、番組は大幅にリニューアルされ、早朝5時から9時までの長時間放送となりますが、僕の出番は07:45からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-03-24 Wed 07:38
今月21日、ニジェール西部、タウア州のティリアほか3つの村にオートバイに乗った武装集団が侵入して、住民を次々に銃撃し、少なくとも137人が殺害される無差別テロが発生。これを受けて、翌22日、ニジェール政府は25日まで国として喪に服することを発表しました。というわけで、犠牲となられた方の御冥福をお祈りしつつ、きょうはこの切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2006年11月6日、ニジェールが発行した“タウア州のラクダ騎手”の切手です。 今回のテロ事件があったタウア州は、ニジェール西部の南北をナイジェリアとマリに挟まれた位置にあります。州都のタウアはサハラ南縁の乾燥地域、サヘルの商業都市で、古くから北方の砂漠地域からやってくるトゥアレグ人(この切手に取り上げられているのは、その伝統的なスタイルです)と南方の平野部からやってくるハウサ人の交易地として繁栄してきました。現在は、ニジェール国内のニアメ、アガデス、アーリット等を結ぶ幹線道路が通っており、周辺でとれる綿花や落花生の集散地となっています。 今回ご紹介の切手に取り上げられたトゥアレグ人は、ベルベル系の遊牧民で、アルジェリア、マリ、ニジェールを中心に100万から350万人が生活しているといわれています。 これらの地域がフランスの支配下にあった時代、彼らは砂漠地帯を比較的自由に往来し、昔ながらのラクダの隊商で生計を立てていましたが、フランス植民地当局による西洋式の教育を拒んだため、いわゆる黒人のアフリカ系とは違って、官僚機構を担いうる知的エリート層が形成されませんでした。 1960年代以降、旧仏領諸国の独立が相次ぎ、トゥアレグ人の居住地域も、ニジェール、マリ、アルジェリア、リビア、ブルキナファソの各国に分割されましたが、このうち、特に多くのトゥアレグ人口を抱えるようになったのが、マリとニジェールです。 しかし、この両国ではフランス語のみが公用語とされ、トゥアレグ人の言語であるトゥアレグ語(タマシェク語)は排除されたため、植民地時代にフランス語教育を拒否してきたトゥアレグ人が、独立後の新国家で社会的な地位を得るのは困難でした。一方、トゥアレグ人の側も、新政府による“近代化”政策を重大な文化侵略と受け止めていました。さらに、新たに誕生した“国境”により、かつてのような自由な往来が(少なくとも建前上は)制限されるようになったこととも、彼らにとっては不満でした。 こうしたことから、マリとニジェールでは、独立以来、トゥアレグ人の反乱が繰り返され、反政府系のトゥアレグ人の一部はリビアに逃れて、カダフィ政権の傭兵部隊に加わっていました。しかし、2011年10月、カダフィ政権が崩壊すると、トゥアレグ人傭兵の大半は、混乱に乗じて持ち出した高性能の武器とともに、サヘルに帰還。特に、マリ北部に帰還したグループは2011年11月に“アザワド解放全国運動(MNLA)”を結成し、マリ北部のアザワド地域の独立を目標とした武装闘争を展開したことで、2012年にはマリ北部紛争に発展します。 そして、その混乱に乗じて、マリを中心に、サヘル一帯にイスラム過激派が勢力を拡大していったため、2014年以降、フランスは旧仏領のサヘル5ヵ国(ブルキナファソ、マリ、モーリタニア、ニジェール、チャド)とともに、対テロ共同作戦“バルカン”を続けていますが、状況はなかなか沈静化していません。 今回テロ事件のあったタウア州とその周辺は、州とのタウアが交通の要衝ということもあって、“大サハラのイスラム国”を含むイスラム過激派勢力の活動拠点となっています。 ニジェールでは、昨年(2020年)末、マハマドゥ・イスフ大統領の任期満了に伴う大統領選挙が行われ、イスフ政権下の内相だったモハメド・バズムが当選し、独立以来初めて、民主的な政権交代が行われる予定となっていますが、新大統領の就任を控えた政権移行期間を狙ってのテロも頻発しており、今月15日には、北部のティラベリ州バニ・バング(ニアメから北へ約 250キロ)で市場から村へ戻る買い物客を乗せたバスが襲撃され、66人が犠牲となったばかりでした。 なお、ニジェールを含むサヘル地域の歴史については、拙著『マリ近現代史』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん」 出演します!★ 3月29日(月)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。今回から、番組は大幅にリニューアルされ、早朝5時から9時までの長時間放送となりますが、僕の出番は07:45からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-03-23 Tue 04:27
EUは、きのう(22日)、中国政府によるウイグル人への人権侵害に関して、新疆ウイグル自治区・前政法委員会書記の朱海侖ら4人を「大規模な監視、拘束、思想教育を担う地位にあり、深刻な人権侵害の責任者」として、準軍事組織の新疆生産建設兵団公安局をウイグル人の強制収容所の運営に関与したとして、EUへの渡航禁止やEU域内の資産の凍結を科す制裁を発動しました。中国政府や当局者の責任を問う制裁は、1989年の天安門事件以来、32年ぶりのことです。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2002年に中国が発行した“新疆ウイグル自治区”の官製絵葉書(印面付き)のうち、ウイグル人の伝統的な民俗行事の“メシュレプ”を取り上げた1枚です。 メシュレプは、村の人々が一堂に集まって、踊り、歌うイベントで、地域の祝祭や歓送迎会などの際に多くの人々が集まって行われます。以前は盛んに行われていましたが、中国政府がウイグルの伝統文化を容赦なく弾圧していくなかで、1994年以降、本来の民俗行事としては、事実上禁止され、外国人向けのパフォーマンスなどとして細々と継続されているだけになっています。 さて、現在の新疆ウイグル自治区に相当する東トルキスタンの地域が中国中央の支配下に入ったのは18世紀のことです。19世紀には各地で反清反乱が相継ぎ、ヤクブ・ベクの乱によって清朝の支配は一時的に崩壊しましたが、その後、清朝はこの地を再征服し、1884年に新疆省が設置されました。 1912年の中華民国発足後、新疆省では、漢民族の省主席によって半独立的な領域支配が行われており、通貨も中国中央とは別個のモノが使われるなど、中国中央の統制はかならずしも十分に及んでいませんでした。 こうしたなかで、1944年以降、東トルキスタンでは短期間ながら独立政権が誕生しましたが、1949年10月の中華人民共和国成立と前後して、中国共産党はこの地域を制圧。1949年末までに中国人民解放軍が新疆全域に展開し、東トルキスタンは完全に中華人民共和国に併合され、1955年には現在の新疆ウイグル自治区が設置されます。 1960年代後半から1970年代にかけての文化大革命で新疆ウイグル自治区は壊滅的な打撃を受けますが、1979年のイラン・イスラム革命やソ連軍のアフガニスタン侵攻など、中央アジア方面が緊張すると、中国は辺境防衛を重視する必要から、1980年代以降、東トルキスタンに対する支配を強化し、経済的な利権はほぼ漢人が独占するようになりました。 このため、1990年にはウイグル人住民のデモに対して武装警察が発砲し、すくなくとも15名が射殺されるバリン郷事件が発生。これを機に、ウイグルでは反政府暴動が頻発するようになり、1996年には中国人民政治協商会議全国委員を務める実業家のラビア・カーディルが政治協商会議で漢族によるウイグル人抑圧を非難する演説を行うと、中国当局はラビアを公職から追放してしまいました。 さらに、1997年2月のラマダーンの期間中、自治区内の新疆イリ・カザフ自治州グルジャ市で、ムスリムの若者数百人が自宅での礼拝中に逮捕・監禁されたことから、彼らの釈放を求める大規模なデモが発生。これに対して、人民解放軍はデモ隊に向かって発砲して強引にデモを鎮圧。その後の“掃討作戦”と合わせて、200名以上が殺害され、約4000名が逮捕されました。いわゆる“グルジャ事件#です。 事件後、中国政府は4万人の武装警察を現地に配置するとともに、徹底した情報管制を敷き、この騒乱事件をテロ事件と断じています。ちなみに、事件後、ウイグル人の一部は国境を越えてアフガニスタンやパキスタンに逃げたものの、2001年、米軍によるアフガニスタン攻撃が始まると、米軍による拘束やパキスタン政府による身柄引き渡しなどにより、キューバのグアンタナモ湾収容キャンプに収監されてしまいました。 また、2001年には、中国は上海協力機構を設立し、チェチェン問題を抱えるロシアやさまざまなマイノリティ問題を抱える中央アジア諸国と共に、“分離主義、イスラム過激主義に対する国際協力の枠組”を構築するとともに、米国のブッシュ政権が発動した“テロとの戦争”を支持するとして、ウイグル人を潜在的なテロリストとみなして、人権弾圧を強化してきました。 今回ご紹介の葉書は、そうした状況を踏まえて、2002年に中国が発行したもので、“テロ対策”の名目で善良な市民に対する人権弾圧が行われているのではないかとの西側の人権団体などからの疑念に対して、「ウイグル族の宗教や文化、伝統的な習慣は中国共産党の支配下で十分に尊重されており、彼らは幸せに生活している」とのプロパガンダを発信する目的で発行されたものです。上述のように、葉書の題材となっているメシュレプは、葉書が発行された2002年の時点では、本来の民俗行事としては事実上禁止されていたわけですが、葉書を注意深く見てみると、ほとんどすべての参加者が伝統的な民族服を着て集まっている中で、画面の右端に、人民帽をかぶった数人の男たちが写り込んでいるのがわかります。(下にその部分をトリミングして貼っておきます) 明らかに他とは異質な服装で参加している彼らが、控えめに言っても、他の人々よりも中国共産党に対して強い“忠誠心”を持っているであろうことは容易に想像がつきます。あるいは、当時の状況などを考えると、彼らは一般のウイグル人に対する監視役である可能性もあるのではないかと思います。ちなみに、この葉書が発行された翌年の2003年には、従来は少数民族の固有言語の使用が公認されてきた高等教育でも、漢語の使用が義務付けられました。 2012年に習近平政権が発足すると、東トルキスタンに対する人権弾圧はいっそう強化され、2014年には、習近平みずから“独裁の仕組み”を活用して“テロリズム、侵入、分離独立”に対する“情け容赦は無用”の全面闘争を行うよう指示。この結果、ウイグル人を対象とした収容施設の数も急増し、2019年11月12日、米ワシントンを拠点とする“東トルキスタン国民覚醒運動(ETNAM)”は、グーグルアースなどを用いて、ウイグル人が自らの文化を捨てるよう圧力をかけられている“強制収容所” 182か所、刑務所とみられる施設209か所、労働収容所とみられる施設74か所を特定したと発表。収容者数は100万人よりもはるかに多い可能性があるとも指摘しています。 ちなみに、第二次大戦中、ナチス・ドイツの最大勢力範囲は最大面積は360万平方キロで、ここに、“強制収容所”と認定されている施設が約50ヵ所(ただし、戦時下のごく小規模なローカル施設を入れると数万に及ぶとの報告もあります)ありましたが、現在の新疆ウイグル自治区の面積はその半分以下の166万平方キロであるにもかかわらず、ウイグル人の収容施設数は450ヶ所以上でナチスの10倍近くにも及んでいます。 さらに、2019年2月9日、ウイグル人の著名な民謡歌手でドタール演奏家のアブドゥレヒム・ヘイット氏が“再教育キャンプ”で拘束中に死亡したことをきっかけに、在外ウイグル人の間で自分の身内に安否不明者がいることをSNS上で呼びかける“#Me Too運動”が拡大しましたが、中国側は、行方不明者家族からの問い合わせに対して、「“過激思想ウイルス”に感染したため、軽い病が深刻化しないうちに治療が必要だ」との説明する内容の想定問答集も作成していました。 当然のことながら、国際世論の大半は中国のウイグル政策と人権侵害を激しく非難しており、今回のEUの措置も延長線上にあります。なお、ウイグル問題に関しては、トランプ政権時代の米国の対応を中心に、拙著『世界はいつでも不安定』でもページを割いておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん」 出演します!★ 3月29日(月)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。今回から、番組は大幅にリニューアルされ、早朝5時から9時までの長時間放送となりますが、僕の出番は07:45からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-03-22 Mon 03:58
きょう(22日)は、、1925年3月22日にNHKラジオ第1放送が東京都港区芝浦の仮送信所でラジオの仮放送を開始したことにちなむ“放送記念日”です。というわけで、放送関連の切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1964年にNHKの呼びかけで設立された“アジア太平洋放送連合”の創立20年を記念して、1984年7月2日にソロモン諸島が発行した記念切手のうち、先の大戦中、米軍がガダルカナル島に設置した放送局、”ラジオ・シティ・ガダルカナル”を取り上げた1枚です。 第二次大戦中の1942年5月、アラスカのコディアックで米軍直営のラジオ局、AFRS (the Armed Forces Radio Service) が開局すると、これに続いて、米軍の進駐した各地で兵士や兵士の家族向けに放送をするラジオ局が開局します。 1943年2月、日本軍がガダルカナルから撤退すると、米軍はガダルカナルから短波のラジオ放送を発信することを決め、ソロモン諸島でココヤシのプランテーションを経営していたリーヴァーズ社が倉庫として利用していた小屋を接収し、ルンガ海岸から約800メートル、ヘンダーソン飛行場から約1600メートルの地点に、今回ご紹介の切手に描かれているような放送局を設置。“ラジオ・シティ”と命名しました。 ラジオ局の設営作業は、主任技師のウィルフォード・ケネディ大尉の下、5人の米兵が担当。作業は10日ほどで完了し、1944年3月2日夕方、最初の試験放送が行われます。ちなみに、これは、英領ソロモン諸島地域での最初のラジオ放送でした。 試験放送は、ルンガ川近くの中継地点から40-96キロ離れた場所でも無事に受信が確認されたため、3月13日05:30から、スペンサー・アレン大尉を責任者としてレギュラー放送がスタートしました。当初の放送時間帯は、05:30-08:05、11:00-13:00、17:00-22:00です。 その後、ガダルカナルを皮切りに、米軍はヌメア(ニューカレドニア)、エスピリトゥサント(ニューヘブリデス、現ヴァヌアツ)、ナンディ(フィジー)、セブ(フィリピン)、マニラ(フィリピン)、パゴパゴ(米領サモア)、トゥトゥイラ島(米領サモア)にも短波放送局を開設。それらは“モスキート・ネットワーク”と総称されました。 第二次大戦後、米軍が撤退するとラジオ・シティもいったん閉鎖されましたが、1956年、英植民地当局は短波放送を再開。1978年の独立を前に、1976年にはソロモン諸島放送会社(SIBC:Solomon Islands Broadcasting Corporation)が創設されました。当初、同社の放送はラジオのみでしたが、1992年にはテレビ放送が開始されて現在にいたっています。 ちなみに、第二次大戦期の米軍の進駐はガダルカナルを含むソロモン諸島に大きなインパクトを与えていますが、そのあたりについては、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-03-21 Sun 03:35
きのう(20日)、今夏の東京五輪・パラリンピックに関係する日本政府、東京都、大会組織委員会と国際オリンピック委員会(IOC)、国際パラリンピック委員会(IPC)の5者協議が開催され、海外からの観客の受け入れを断念することが正式に決定されました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、昨年(2020年)6月18日、汎イベリア・オリンピック・アカデミー協会(APAO:Asociación Panibérica de Academias Olímpicas)のオンラインセミナーの記念印が押されたリスボンからサント・アンドレ宛の実逓カバーで、記念印には、セミナーのテーマである「新型コロナウイルス時代のスポーツ」の文言と、参加国・地域を示す地図、五輪マーク、図案化された新型コロナウイルスなどが描かれています。 APAOは、1968年11月25日にスペイン語圏最初のオリンピック・アカデミーとしてスペイン・オリンピック・アカデミーが創設されてから20周年になるのを機に、1988年、スペイン語およびポルトガル語圏の国・地域のオリンピック・アカデミーによる国際組織として誕生しました。 2020年6月のAPAOのオンライン・セミナーは、「新型コロナウイルス時代のスポーツ:汎イベリア・オリンピズムの視点から」のテーマの下、3つのセッションから構成されており、新型コロナウイルス禍の中で、スポーツの競技、教育、コミュニケーション、経済など、多角的な面からの報告と討議が行われました。 このうち、6月4日に行われた第1セッションでは、「東京2020-21に向けてのオリンピック・スポーツの挑戦」をテーマに、スポーツの競技、教育、コミュニケーション、経済などさまざまな観点から、新型コロナウイルス禍で、国や企業のスポーツ担当部門が直面するであろうシナリオ、特に、東京五輪が2020年から2021年に延期されることに伴う影響についての報告と討議が行われました。 ついで、6月11日の第2セッションでは「ソーシャル・スポーツと全ての人々のスポーツ」をテーマに、オリンピック運動についてのアカデミックな報告と討議(これがAPAOの本来の活動です)が行われました。 そして、今回ご紹介の記念印の押された6月18日には、「スポーツと教育、コミュニケーション」と題してスペイン時間の17時から第3セッションが行われ、スペイン語およびポルトガル語圏から250名がオンラインで参加して活発な討議が行われています。 さて、今夏に予定されている東京五輪をめぐっては、現在なお、新型コロナウイルスの世界的な流行が続き、世界各国の人々の生活が制限されている中で、今月3日、関係5者協議の第1回会合が開かれ、3月中に海外からの観客受け入れ可否に関する判断を行い、4月には国内の観客の上限を決める方針が決定されていました。 これを受けて、日本側としては、3月25日には日本国内での聖火リレーがスタートするため、それまでに海外からの観客受け入れの見送りを正式に決める方向で調整を進めていましたが、おととい(19日)、世界陸連の会長でIOC委員も務めるセバスチャン・コー氏が「ワクチンが普及して世界が変化している中、無理に決定を下す必要はない。決断が早すぎないことを願う」と決定の先延ばしを要求。 このため、五輪組織委員会の橋本聖子会長は都内での定例会見で、25日の聖火リレースタート前に判断するという従来の考えを強調したうえで、「国内外の感染状況を見ながら判断を遅らせるのはできることならそうしたい」とコー氏に理解を示しつつ、「あらゆる業界、職種の方、移動手段、宿泊、準備している方々のことを考えると早い判断が求められる」と、早期決定の意義を訴え、昨日の会合での決定となりました。 これを受けて、100万人規模の一般客の受け入れはなくなり、海外在住者が組織委から購入した五輪・パラリンピックのチケットは払い戻しされることになりますが、今後、五輪・パラ合わせた約1万5000人の選手を含め、メディア、スポンサー関係者など数万人が入国できるよう調整が進められるそうです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-03-20 Sat 01:32
きょう(20日)は春分の日。日本ではお墓参りの日ですが、イランを中心にその文化的影響が及んでいる国や地域では、新年のお祭り・ノウルーズの日です。というわけで、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1991年にソ連が発行した民俗行事シリーズの切手のうち、アゼルバイジャン(当時はソ連を構成する共和国の一つ)のノウルーズを取り上げた1枚で、春の象徴として、新年の食卓に飾る小麦の新芽のトレイを運ぶ女性が描かれています。 イスラム世界では預言者ムハンマドと信徒たちがメッカからメディナに移住し、イスラムの共同体を作った“ヒジュラ”のあった年を紀元とするヒジュラ暦が使われていますが、このヒジュラ暦は完全太陰暦で、かつての日本の旧暦のように閏月を入れて調整するということは行われていませんから、毎年、11日ずつ、太陽暦の日付とズレが生じます。 このため、イスラム世界の各地では、ヒジュラ暦とは別に、太陽暦に連動した農事暦が用いられることも多く、イランの場合は、イスラム以前から使われていたイラン暦として春分を元日とした太陽暦も用いられています。 この元日が、いわゆる“ノウルーズ”(直訳すると“新しい日”の意味)と呼ばれるもので、イランのほか、今回ご紹介のアゼルバイジャンを含む旧ソ連の中央アジア5共和国でも祝日になっています。また、クルド人がノウル-ズを祝う習慣があることから、トルコでは1500万人ともいわれるクルド人に対する宥和政策の一環としてノウルーズが祝日に指定されているほか、イラク国内のクルド人自治区(クルディスタン)でも、ノウルーズは祝日に指定されています。ただし、ノウルーズはイスラム圏全体に共通の行事ではなく、アラブ世界ではほとんど無視されているのが実情です。 ノウルーズのアラビア文字表記はنوروز ですが、これをペルシャ語とみた場合、そのラテン文字への転写は、nowruz とするのが一般的です。ただし、アゼルバイジャンの公用語であるアゼルバイジャン語では、novruz とするのがスタンダードです。さらに、アゼルバイジャン語では“祝日”を意味する“Bayram”と加えた“Novruz Bayram”が正式の祝日名になっており、切手状のキリル文字表記もそのようになっていますので、記事のタイトルもそれに従いました。 アゼルバイジャンでは、今年(2021年)はきょう(20日)から24日までがノウルーズの休暇期間に設定されていますが、昨年のナゴルノ・カラバフ紛争でアルメニアに勝利して最初の新年だけに、現地では例年以上に祝賀ムードが盛り上がっているのではないかと思います。 なお、ナゴルノ・カラバフ紛争とその意義については、拙著『世界はいつでも不安定』でも1章を設けてご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 * 昨日(19日)の文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」の僕の出番は、無事、終了いたしました。リスナーの皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。なお、番組改変に伴い、3月29日からは毎週月曜日の07:45~、レギュラーでの登場となります。引き続きよろしくお付き合いください。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-03-19 Fri 03:22
ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』第781号が配信されました。僕の連載、「沖縄切手モノ語り」は、今回はこの切手について取り上げました。(画像はクリックで拡大されます。)
これは、1952年4月1日、米施政権下の沖縄で発行された“琉球政府創立”の記念切手で、奄美を含む当時の“琉球”地図にハトと若芽が描かれています。 1945年4月1日、沖縄本島に上陸した米軍はいわゆるニミッツ布告を公布して日本政府の行政権を停止し、4月5日には読谷村比謝に軍政府(琉球列島軍政府。長官はニミッツ)を開設しました。 その後、沖縄戦の過程で戦前の沖縄県庁が消滅したことから、同年8月15日には米軍政下の行政機構を作るための準備機関として沖縄本島で沖縄諮詢委員会が発足するとともに、存続していた宮古支庁(宮古列島管轄)や八重山支庁(八重山諸島管轄)は県庁から独立して独自の行政を開始します。 翌1946年1月29日、東京の総司令部により「若干の外郭地域の日本からの統治上及び行政上の分離に関する総司令部覚書(外郭地域分離覚書)」が発せられ、「北緯30度以南の琉球(南西)諸島(口之島を含む)、伊豆諸島、南方諸島、小笠原諸島及び硫黄列島並びに他のすべての外郭太平洋諸島(大東諸島、沖ノ鳥島、南鳥島、中ノ鳥島を含む)」は正式に日本の行政権から分離され、同年4月22日、諮詢委員会は琉球列島米民政府(奄美・沖縄・宮古・八重山の4地区に設置。以下、民政府)へと改組されます。 その後、数度の組織改編を経て、1950年8月4日、民政府の下部組織として、沖縄群島政府、宮古群島政府、八重山群島政府、奄美群島政府が成立しましたが、群島政府の知事は民選であったため、祖国復帰運動の先導役になるなど、米国の意向と対立することもしばしばでした。このため、1951年4月1日、沖縄、宮古、八重山、奄美すべて統括する琉球臨時中央政府が創設されるとともに、各群島政府は形式的に残しつつも、各知事の権限は大きく制限されます。 1951年9月にサンフランシスコ講和条約が調印されると、翌1952年4月28日付で同条約が発効するのを前に、1952年2月4日、米国は吐噶喇列島の下七島を日本に返還したうえ、臨時中央政府を発展的に解消させるというかたちをとって、4月1日付で琉球政府を創設。沖縄住民の中から適任者を米国が“行政主席”に指名するという態勢が整えられました。 これを受けて、以下のような布告が発せられます。 米国民政府布告第13号 改正 米国民政府布告第17号(1952・4・21) 琉球政府の設立 琉球住民に告げる。 琉球住民の経済的、政治的及び社会的福祉を増進するため、琉球政府を設立することが望ましいので、本官琉球列島民政副長官陸軍少将ロバート・ビートラーはここに次の通り布告する。 第一条 立法機関、行政機関及び司法機関を備える琉球政府をここに設立する。 第二条 琉球政府は、琉球における政治の全権を行うことができる。但し、琉球列島米国民政府の布告、布告及び指令に従う。 第三条 琉球政府の立法権は琉球住民の選挙した立法院に属する。立法院は、琉球政府の行政機関及び司法機関から独立して、その立法権を行う。立法院は、一般租税、関税、分担金、消費税の賦課徴収及び琉球内の他の行政団体に対する補助金の交付を含む琉球政府の権能を実施するに必要適切なすべての立法を行うことができる。 立法院の第一会期は、1952年4月1日沖縄の那覇において開会し、爾後法規に従い定例会を開くものとする。 第四条 琉球政府の行政権は、行政主席に属するものとし、行政主席はこれが選挙制になるまで民政副長官が、これを任命する。行政主席は時宜により立法院に対し、政府の状況につき報告し、自ら必要適切と認める方策についてその審議を勧告する。行政主席は、立法院の臨時会を招集する権限を有する。行政首席は、立法院の立法により設置する行政各局の管理運営につき責任を負い、民政副長官の認可により各局に必要な職員を任命する。但し、暴力による政府の破壊を主張する者は、琉球政府の職員となることができない。行政副主席は、これが選挙制になるか又は別に定められるまで民政副長官がこれを任命する。行政主席が不在のとき、事故があるとき又は欠けたとき行政副主席がその職務を行う。(布告17) 第五条 琉球政府の司法機関は、さきに設置された琉球上訴裁判所巡回裁判所、治安裁判所及び時宜により設置されるその他の裁判所とする。 裁判所は、行政機関及び立法機関から独立して、その司法権を行う。上訴裁判所の判事は、民政長官がこれを任命する。巡回裁判所及び治安裁判所の判事は、民政副長官の事前の認可により行政主席がこれを任命する。民政副長官は、裁判所の決定または判決について任意にこれを再審し認可し、延期し、停止し、減刑し、移送する等の処置を講ずることができる。 第六条 信教、言論、集会、請願及び出版の自由及び正当な法手続きによらない不当な操作、逮捕及び生命、自由又は財産の剥奪等に対する安全の保障を含む民主国家の基本的自由は、公共の福祉に反しない限りこれを保障する。 第七条 民政副長官は、必要な場合には、琉球政府をその他行政団体またはその代行機関により制定された法令規則の施行を拒否し、禁止し、又は停止し自ら適当と認める法令規則の交付を命じ及び琉球における全権限の一部又は全部を自ら行使する権利を留保する。 第八条 さきに任命組織された臨時中央政府は、本布告施行の日に解消する。但し、臨時中央政府の立法、行政及び司法の合法行為は、本布告により設立される琉球政府のそれぞれの機関の行為により改廃されるまでは有効とする。但し、臨時中央政府の行政機関及び司法機関の官職に対して行われた任命は、琉球政府の当該官職に対して効力を持続するものとする。 第九条 前条の規定を条件として1951年4月1日附民政府布告第三号「臨時中央政府の設立」及び本布告と抵触するその他の布告、布令及び指令の規定はここにこれを廃止する。 第十条 本布告は、1952年4月1日から施行する。 民政長官の命により 琉球列島民政副長官 米国陸軍少将 ロバート・エス・ビートラー 附 則 (米国民政府布告第17号) 第二条 この布告は1952年5月1日からこれを施行する。 1952年4月21日 琉球列島民政副長官 米国陸軍少将 ロバート・エス・ビートラー この布告に見られるように、琉球政府は、裁判所、立法院、行政府の三権分立の体裁を取っていましたが、米国は琉球政府の決定を破棄できる権限を維持していました。ただし、立法院の議員は民選であったため、米国の意向に反する決議が採択されることも珍しくありませんでした。そこで、米国は選挙区のゲリマンダリングや選挙干渉で“反米”的な候補の当選を阻止しようとするのですが、第1回議会から会期ごとに日本復帰決議が行われるなど、琉球政府と立法院は本土復帰運動の原動力となっていきます。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 3月19日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-03-18 Thu 05:05
地球滅亡の事態に備えて月面に“ノアの箱舟”を建設し、地球上の生命670万種の種子や胞子、精子、卵子のサンプルを凍結保存して月の地下トンネルや洞窟網に隠しておこうという計画を、米アリゾナ大学の研究チームが提案したそうです。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1993年にアルメニアが発行した“イヴァン・コンスタンチノヴィチ・アイヴァゾフスキー生誕175周年”の切手シートで、アイヴァゾフスキーの代表作「アララト山からのノアの下山」が取り上げられています。 イヴァン・コンスタンチノヴィチ・アイヴァゾフスキーは、1817年7月29日、ロシア帝国支配下のクリミア半島フェオドシヤの貧しいアルメニア人家庭に生まれました。したがって、彼の生誕175周年は1992年ですから、この切手シートも1992年に発行すべく準備が進められ、切手にも1992年の表示がありますが、当時はアルメニア再独立直後の混乱期だったこともあり、実際の発行は1993年にずれ込みました。 アイヴァゾフスキーは幼少期から絵画の才能にすぐれていたため、奨学金を受けてシンフェロポリのギムナジウムに入学。その後はサンクト・ペテルブルクの美術アカデミーに進みました。 1836年、バルチック艦隊付きの画家となり、その作品が評判を呼んだことから、1845年には皇帝ニコライ1世から“海軍総司令部の画家”に任命され、海洋画の第一人者としての地位を確立しました。代表作『第九の怒涛』はロシア絵画史上の傑作とされており、高い波がうねりを上げる嵐の海で遭難しかけた人々がマストの破片につかまっているという構図はドラクロワにも影響を与えたといわれています。 また、オスマン帝国の歴代のスルタン(アブデュルメジト1世、アブデュルアズィズ、アブデュルハミト2世)の招聘を受けて、1890年までに計8回、イスタンブールに長期滞在し、かの地でも多くの作品を残しました。1900年に亡くなるまでに残した作品数は6000点を超えています。 切手に取り上げられた「アララト山からのノアの下山」は1889年の作品です。 旧約聖書の「創世記」によれば、神は地上に増えた人々の堕落を見て、これを洪水で滅ぼすことを決断。その例外として、当時500-600歳の高齢で、だたしい信仰の持ち主であったノアにそのことを告げ、方舟の建設を命じました。 ノアは方舟を完成させると、妻と、3人の息子とそれぞれの妻、そしてすべての動物のつがいを方舟に乗せます。やがて、神が起こした洪水は40日40夜続き、方舟の外にいた人間と動物のすべてを滅ぼしました。洪水は150日の間、地上で勢いを失わず、方舟はアララト山頂に漂着します。 その後、ノアは方舟から出て良いとの神のお告げを受け、家族や動物たちを率いて方舟の外に出て山頂から下山します。今回ご紹介の切手シートに描かれているのは、この場面です。そして、祭壇を築いて神に献げ物を主に捧げると、神はノアとその息子たちを祝福し、ノアとその息子たちと後の子孫たち、そして地上の全ての肉なるものに対し、全ての生物を絶滅させてしまうような大洪水は、決して起こさない事を契約し、その証として、空に虹をかけたとされています。 さて、「ノアの方舟」の物語は、それがそのまま歴史的事実ということではないのでしょうが、ノアたちは現在のトルコ共和国東端にある火山に漂着したとして、それが現在のアララト山になりました。 ところで、アララト山は、かつてのアルメニア人の居住地域(大アルメニア)の中心に位置しており、キリスト教徒(アルメニア正教徒)としてのアルメニア人の心のよりどころとなっていました。その後、アルメニア人の居住地域はオスマン帝国の支配下に入りますが、第一次大戦中、オスマン帝国による強制移住政策により、アルメニア人はこの地域から追放され、その過程で多くの死者が発生しました。いわゆる“アルメニア人大虐殺”です。 さらに、第一次大戦後、1920年のセーヴル条約に基づき、旧ロシア帝国領側に住むアルメニア人はアララト山の麓まで領土に含めたアルメニア国家の独立運動を展開しましたが、トルコ革命軍とロシア赤軍はこれを粉砕。アララト山はトルコ領の東端として組み込まれました。この結果、アルメニア人の認識では、自民族の聖地が外国に占領され続けている状況が1世紀にわたって続いていることになり、第一次大戦中の“大虐殺”とあわせて、彼らの反トルコ感情の要因になっています。 こうしたアルメニアとトルコの因縁の関係は、昨年(2020年)のナゴルノ・カラバフ紛争にも大きな影を落としているのですが、そのあたりの事情については、拙著『世界はいつでも不安定』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 3月19日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-03-17 Wed 02:16
イスラエル古代遺跡管理局は、きのう(16日)までに、約2000年前に書かれた聖書の原型ともいえる“死海文書”について、65年ぶりに新たな断片が発見されたと発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1965年にヨルダンが発行した死海文書の切手です。 死海文書は、1947年以降、ヨルダン川西岸の死海北西にあるクムラン洞窟などで発見された写本群の総称で、ヘブライ語聖書(旧約聖書)と聖書関連の文書がその中心です。 1947年初(1946年末という説もあります)、ベドウィンのターミレ族の羊飼いだったムハンマドとその従兄弟は、ヒベルト・クムラン遺跡近くの洞窟(以下、クムラン洞窟。当時は英委任統治領パレスチナの領域内)の中で、古代の巻物の入った壷を発見。彼らは、最初に見つけた4点の写本をベツレヘムの靴職人で古物も扱っていたハリール・イスカンダル・シャヒーンの元に持ち込みます。自らもシリア正教徒だったハリールは、持ち込まれた写本を古代シリア語の文書と思い、当時、シリア正教会聖マルコ修道院の院長だったマー・サムエルに見せたところ、サムエルは、4点の写本を24パレスチナポンドで買い取りました。 その後、ベドウィンたちは洞窟で見つけた3点の写本をハリールに売りましたが、ヘブライ大学の考古学教授だったエレアザル・スケーニクとベンヤミン・マザールはそのうわさを聞きつけ、1947年11月29日、ベツレヘムでハリールから写本の断片3点を買い取るとともに、残りの4点の写本をサムエルが所有していることを知ります。ちなみに、スケーニクらが写本を買ったまさにその日、国連でパレスチナ分割決議が採択され、パレスチナは本格的な内戦に突入していくことになります。 1948年1月、スケーニクとマザールはサムエルと接触し、写本4点購入の交渉を行いましたが、話はまとまらなかったため、2月21日、トレヴァーはサムエルの写本を撮影。この間、サムエルから写本についての意見を求められたアメリカ・オリエント学研究所の研究者、ジョン・トレヴァーは、写本の書体や語法が、ナッシュ・パピルス(紀元前1世紀のモーセ五書の抜書きの断片)と酷似していることを指摘していました。 こうした経緯で、同年4月、トレヴァーとスケーニクは「死海周辺で古代の写本発見」を発表します。当時、旧約聖書の最古の写本とされていた“レニングラード写本”は1008年に作成されたものだったてめ、死海文書はそれを約1000年さかのぼるものとして、注目を集めます。 1948年5月15日、第一次中東戦争が勃発すると、サムエルはベイルート経由で米国に写本を持ち込み、米国各地の大学や博物館などに写本を売り込もうとしました。しかし、真贋が定かではないことに加え、仮に本物だった場合には、複数の国がその所有権を主張してトラブルになることが予想されたため、購入の意思を示す期間はありませんでした。 そこで、サムエルは1954年6月1日付のウォール・ストリート・ジャーナル紙に写本売り出しの広告を出し、イスラエル政府の依頼を受けたマザールとスケーニクの息子イガエル・ヤディンが“匿名の購入者”として、25万米ドルで写本を購入。こうして、イスラエルは、最初の7点の写本を確保しました。 これら7点の写本は、東エルサレム(当時はヨルダンの支配下)で米英仏の三国が共同で運営していたパレスティナ考古学博物館(現ロックフェラー博物館)に寄託されましたが、1961年、ヨルダンは、突如、死海文書はヨルダンの財産であると宣言。今回ご紹介の切手はこうした背景の下で発行されたもので、切手発行翌年の1966年には、ヨルダン政府は考古学博物館ごと接収し、国有化してしまいます。 これに対して、イスラエルは1967年の第三次中東戦争で東エルサレムを占領し、死海文書を回収。死海文書は、エルサレムのイスラエル博物館内に建設された“聖書館”で保管されることになりました。 今回、65年ぶりの新発見となった死海文書の写本は、エルサレム東方から死海へと下っていく途中のユダヤ砂漠にある“恐怖の洞窟”で発見されたもので、約2000年前に書かれた巻物の断片が約20点。その中には、旧約聖書「ゼカリヤ書」(部分)のギリシャ語写本も含まれています。 ちなみに、死海文書が見つかった“ヨルダン川西岸”とその歴史については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 3月19日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-03-16 Tue 01:04
きょう(16日)は、1934年3月16日に内務省が、瀬戸内海・雲仙(現在の雲仙天草)・霧島(現在の霧島屋久)の3カ所を日本最初の国立公園に指定したことにちなむ“国立公園指定記念日”です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1936年7月10日に発行された“富士箱根国立公園”の切手(4種セット)のうち、「暁の富士」を取り上げた1銭5厘切手です。 1931年、「国立公園法」が制定されると、これに従って、1934年3月16日に最初の国立公園3カ所が指定され、その後、1936年2月までに、国内12ヶ所の国立公園が相次いで指定されました。 今回ご紹介の”富士箱根国立公園”の切手(以下、富士箱根切手)は、こうして国立公園制度が本格的にスタートしたことを受け、その周知宣伝のために発行されたもので、当時の逓信省令第22号(昭和11年7月1日付『官報』に公示)では、「現ニ發行スル一銭五厘、三銭、六銭及十銭ノ郵便切手ノ外ニ左ノ一銭五厘、三銭、六銭及十銭ノ郵便切手ヲ發行シ・・・」と記されており、当初は、富士箱根切手はシリーズ切手というよりも、観光地で発売する準通常切手という意味合いが込められていたことがわかります。 実際、富士箱根切手については、窓口発売は国立公園地域内の郵便局に限られ、一般の購入希望者は東京中央郵便局へ通信で申し込むことになっていましたが、申し込みの締切日や購入枚数の制限は設けられていません。 切手の版式としてはわが国初のグラビア印刷が用いられ、当時の通常切手の2倍という印面寸法が採用されていますが、当時の印刷局にはグラビア印刷機がなかったため、製版のみを印刷局で行い、印刷作業は大日本印刷株式会社の市ヶ谷工場に委託するという変則的な方式で製造されています。 今回ご紹介の切手の原画写真は、写真家・岡田紅葉の作品です。岡田は、1895年、新潟県中魚沼郡中条村(現・十日町市)生まれ。早稲田大学入学後、写真に興味を持ち、1916年、忍野村からの富士に出会い、生涯を富士撮影にささげる決意をしたそうです。1923年の関東大震災の被害状況を撮影した『関東大震災記念写真帖』で写真家としての地位を確立し、富士山を中心とした山岳写真、風景写真の第一人者として活躍し、1972年に亡くなりました、 今回ご紹介の切手の原画写真は、1930年12月に忍野村から撮影されたもので、「暁の富士」との題名が付けられています。 なお、1936年7月に発行された富士箱根切手が予想外の好評を収めたことから、逓信省は国立公園切手のシリーズ化を決定。景勝地を紹介する切手を発行することによって、国民に対して国土への愛着を抱かせるとともに、外国人観光客の増加を図るとの方針が正式に確定され、1938年12月25日、シリーズ化決定後の最初の国立公園切手として、「日光国立公園」の切手が発行されました。 さて、今年(2021年)は、1871年に日本の近代郵便が創業されてから150周年の節目の年に当たっており、それにちなむ企画として、日本切手の歴史を概観する書籍として『切手でたどる郵便創業150年の歴史』(全3巻)を刊行する予定です。そのうち、1945年までを扱った第1巻はことし4月に刊行を予定しており、すでに本文の執筆は終えて、現在、校正作業を進めています。正式な発売日や定価などが決まりましたら、このブログでもご案内していきたいと思っておりますので、なにとぞよろしくお願いします。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 3月19日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-03-15 Mon 01:55
東京管区気象台は、きのう(14日午後)、靖国神社にある桜の標本木(ソメイヨシノ)で、桜が開花したと発表しました。東京としては、平年より12日早く、これまで最も早かった昨年に続き、統計開始以来、最も早い観測となりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1872年8月23日に発行された和紙桜切手(松田印刷)の1錢切手です。 1871年4月20日(明治4年3月1日)に発行されたわが国最初の切手、龍文切手は、突貫作業で調製されたため、印刷物としての出来栄えやデザインの巧拙とは別の次元で、近代国家の切手としての体裁を整えていませんでした。 すなわち、翌1872年に発行された龍錢切手には、目打が入れられ、さらに、一部の切手には裏糊も付けられるようになったものの、それでも、龍切手には国名の表示もなければ、切手本来の役割である、郵便料金の前納の証紙であることを示す表示もありません。また、額面の数字が漢数字のみで表示されていることから、横浜などに居留していた外国人の利用者からは不便であるとの苦情が絶えませんでした。 このため、1872年6月、“郵便切手”の表示と算用数字の額面を表示した新たなデザインの切手の発行が決定され、その最初の切手が同年8月23日から発行されます。以後、1875年までに発行された切手は、デザイン上のバリエーションはあるものの、いずれも四隅に桜の花が描かれているため“桜切手”と総称されています。ちなみに、切手の中央に描かれている植物は、桐の枝を描いたもので、桜ではありません。 桜切手は、中央に“郵便切手”の文字が入り、それが郵便料金前納の証紙であることを明示したうえで、十六葉の花弁のついた菊花紋章(皇族の中でも、特に天皇家を示す)が入れられています。以後、第二次大戦後の1947年にいたるまで、日本の切手には菊花紋章が必ず入れられることになりました。ただし、龍切手同様、桜切手にも“日本”ないしは“大日本帝国”といった国号の表示はありません。 さて、今年(2021年)は、1871年に日本の近代郵便が創業されてから150周年の節目の年に当たっており、それにちなむ企画として、日本切手の歴史を概観する3巻本の書籍を刊行の予定です。そのうち、1945年までを扱った第1巻は、ことし4月に刊行の予定で、すでに本文の執筆は終えて、現在、校正作業を進めているところです。正式な書名や発売日、定価などが決まりましたら、このブログでもご案内していきたいと思っておりますので、なにとぞよろしくお願いします。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 3月19日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-03-14 Sun 04:03
今年1月、ブラジルのボタフォゴを退団したサッカー元日本代表MFの本田圭佑がアゼルバイジャン1部のネフチ・バクー(Neftçi Bakı)と15日付で契約することになったそうです。というわけで、きょうはこんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1997年にアゼルバイジャンが発行した“石油掘削125周年記念”の切手シートで、切手部分には新旧の油井が取り上げられています。 今回、本田が移籍することになった“ネフチ・バクー”のチーム名は、直訳すると、“バクー・オイルマン”といった意味です。今回ご紹介の切手シートでも、アゼルバイジャン語の記念銘は“ilk neft quyusunun 125-ci ildönümü”となっており、オイル(石油)を意味する“neft”の語もしっかり入っています。なお、英語の記念銘は“oildrilling(石油掘削)”の125周年となっていますが、アゼルバイジャン語の直訳は“最初の油井125周年”で、微妙に異なっています。 さて、カスピ海西岸の都市、バクーでは紀元前から地表に滲出した石油の採取が行われていました。 1813年、ロシア帝国はペルシャとの争奪戦の末にバクーを帝国領土に編入し、1847年、石油産業に乗り出します。1859年、米国のペンシルヴァニアでE.ドレイクが機械掘りによって石油を掘り当てると、1871年にはバクーの油田にも機械掘りが導入され、1872年から本格的な掘削が始まりました。今回ご紹介の切手シートは、ここから起算して125周年になるのを記念して発行されたものです。 1873年、クルミ材の買付でバクーを訪れたスウェーデン人のロバート・ノーベル(アルフレッド・ノーベルの兄)はこの地の石油産業に注目し、資金を投じてクルミの木ではなく、ビビ=エイバート油田の採掘権を取得。さらに、1875年にはバハラニー油田を取得して石油業者としての地歩を固めます。 一方、ロバートの弟、ルートヴィヒは石油の輸送問題に取り組み、バラハニー油田からバクー市東部の製油所まで約15キロのパイプラインを建設したほか、海上輸送手段として、船倉にタンクを作り直接石油を搭載できるタンカーを考案。1878年には、その第1号としてゾロアスター号の運行を始め、翌1879年5月、世界最初の国際石油会社である“ノーベル兄弟石油開発会社”を設立します。同社は、1885年には年間10万トンにまで石油生産を伸ばし、ロシアにおける灯油生産のシェアの半分を占めるほどになりました。 ところで、ノーベル兄弟石油会社の石油は、カスピ海からボルガ川を北上してバルト海経由で欧州市場に運ばれましたが、このルートでは冬季は結氷して輸送が不可能でした。 そこで、バクーの非ノーベル系の石油業者、ブンゲとバラシュコフスキーは、コーカサス(カフカース)山脈の南麓に沿って西に進み、黒海沿岸のバトゥミ港(1877年の露土戦争の結果、ロシア領に編入。現グルジア領)を目指す“トランス・コーカサス鉄道”を計画します。その資金を融資したのが、パリ・ロスチャイルド家のアルフォンソでした。 1883年、トランス・コーカサス鉄道が完成すると、アルフォンソは鉄道建設の公債を引き受けた功績で、バクー近郊のバニト油田を獲得。翌1884年には“カスピ海・黒海石油会社(ロシア名:ブニト)”を設立して本格的な油田開発に参入し、1880年代後半には、ノーベルに次ぐバクー第2の石油会社に育て上げました。 しかし、欧州市場では、米国ロックフェラー系のスタンダード・オイル(現エクソン・モービル)やノーベルなどの先行企業との競争が激しかったため、後発のロスチャイルドはアジア方面での販路の拡大を求めて、ロンドン出身のユダヤ人、マーカス・サミュエルと提携します。 1853年生まれのサミュエルは、1871年、高校の卒業祝いに父親からもらった片道切符で来日。三浦海岸で拾った貝の美しさに魅せられ、これを加工して父親の元に送り、それを父親がロンドンで宝飾品として販売するというビジネスで大きな利益を上げ、1873年、横浜にマーカス・サミュエル商会を設立します。 同商会は、日本の雑貨類を英国に販売するだけでなく、日本の石炭をマレー半島へ輸出したりするなど、アジア各地に事業を拡大。その一環として、サミュエルはカスピ海などからの貝殻の輸入のために貨物船を運航していましたが、カスピ海からはバクーの石油をスエズ運河経由でバルク輸送して東洋で販売することを思いつき、8隻のタンカーを発注。1882年、その最初の船であるミューレックス号がスエズ運河を無事に通過したのを確認すると、サミュエル商会は極東の主要港に石油のバルク貯蔵所を設置し、1888年にはバクー産原油を日本市場にも届けました。 ロスチャイルドから、アジアへの販路開拓の協力者を紹介するよう求められていた海運仲買人のフレッド・レーンは、こうしたサミュエルの活動に目をつけ、彼をロスチャイルドに紹介。1891年、サミュエルはロスチヤイルド系のブニトとの間で1900年を期限とするロシア灯油の独占販売契約を締結しました。こうした経緯を経て、1897年、サミュエルはシェル運輸交易会社を創設。これが、現在のロイヤル・ダッチ・シェルの起源(のひとつ)になります。 なお、現在にいたるまで、バクーは世界有数の石油産出地となっていますが、この地の石油・天然ガスは、昨年(2020年)のナゴルノ・カラバフ紛争とも密接にかかわっています。この辺りの事情については、拙著『世界はいつでも不安定』でも解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 3月19日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-03-13 Sat 01:49
ご報告がすっかり遅くなりましたが、公益財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第55巻第1号ができあがりました。というわけで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1979年11月20日に発行された“タイ王国海軍”の切手のうち、哨戒艇T91を取り上げた6バーツ切手です。 1960年、国王ラーマ9世は西ドイツ訪問中に哨戒艇の造船所を見学し、帰国後、タイ海軍でも哨戒艇を建造すべきだと発言。これを受けて、タイ海軍は国産哨戒艇の建造プロジェクトを開始し、外国人スタッフの協力も得て建造作業が進められます。 T91の起工式は、1967年7月12日、国王隣席の下、バンコクの王立海軍造船廠で行われ、1968年5月9日、シリキット王妃の隣席の下、進水式が行われました。そして、1968年8月12日、王妃の誕生日に合わせて就役しました。完成したT91は、基準排水量88トン、満載排水量100トン、全長31.8メートル、幅5.36メートルで、速力は25ノットです。 なお、T91に続いて、タイ海軍は1971年に同型の哨戒艇2隻を王立海軍造船廠に発注。1976年12月12日にはT92が、1979年8月10日にはT93が就役しました。さらに、1980年には、やはりT91と同型のT94、T 95、T 96、T 97、T 98が建造されています。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 3月19日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-03-12 Fri 03:25
国が東西に分裂していたリビアの代表議会は、10日(現地時間)、アブドゥルハミド・ダバイバ(ドベイバとも)暫定首相が率いる新内閣を賛成多数で信任し、東西の2勢力に代わる統一政府が発足しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2012年1月25日、カダフィ政権崩壊後最初の切手としてリビアで発行された“2月17日革命”の記念切手で、国土の形をしたリビア国旗が描かれています。 2010年末のテュニジアのジャスミン革命に端を発した“アラブの春”は、2011年に入るとリビアにも波及し、インターネット上では2月17日を“怒りの日”としてリビア各地で反政府デモを行うよう、呼びかけが行われていました。 こうした状況の下、2月15日、ベンガジで拘留中の人権活動家の弁護士の釈放を求める大規模デモが発生し、警察官を含む38人が負傷します。政府のデモ弾圧に対する抗議として、16日と17日にはリビア各地で反政府デモが行われると、カダフィ政権支持派もカウンターのデモを行い、17日以降、リビアは内戦状態に突入しました。これが、今回ご紹介の切手の題材となっている“2月17日革命”の始まりとなります。 2月27日、カダフィ政権に反旗を翻して辞任したアブドルジャリル前司法書記が、ベンガジにて暫定政権として“リビア国民評議会”設立を宣言。評議会側はNATO(北大西洋条約機構)などから軍事的な支援を受け、同年8月23日に首都トリポリを制圧しました。10月20日にはカダフィがスルトで殺害され、42年間続いたカダフィ政権は崩壊。これを受けて、10月23日、評議会はリビア全土の解放を宣言しました。今回ご紹介の切手は、こうした状況を受けて、革命の成就を記念して国民評議会が発行したものです。 ところで、リビア国家はもともと、東部のキレナイカを母体に、西北沿岸部のトリポリタニアと西南内陸部のフェザーンが連合して成立した経緯があり、潜在的に地域間対立を抱えていました。カダフィ政権時代には地域間の対立は強権で封じられていましたが、カダフィ政権崩壊後の2012年3月6日、リビア東部の有力部族や民兵組織の指導者らがベンガジで会議を行い、“キレナイカ暫定評議会”の樹立を宣言。トリポリを拠点とする国民評議会とは別に、旧キレナイカ地域での自治を行うことを決定します。これに対して、国民評議会は彼らの行為を国家を分断するものとして非難し、対立が深まりました。 一方、トリポリでは、2012年7月7日、60年ぶりに国民全体会議(定数200。以下、国民会議)の選挙が行われ、国民勢力連合が39議席、ムスリム同胞団系の公正建設党が17議席、残りの議席は各中小政党が獲得。国民評議会は同年8月8日に権限を国民会議に移譲して解散し、1年以内の新憲法制定と正式政府発足を目指して、暫定政府が樹立されます。 しかし、トリポリの暫定政府では、9月12日にムスタファー・アブーシャーグールが首相に指名されたものの、組閣できずに退陣。その後も首相が目まぐるしく後退するなどの混乱が続く中、旧カダフィ政権を支持する“緑のレジスタンス”が活動を開始。さらに、2014年に入ると、各地でイスラム系武装勢力の攻勢が活発化。彼らは、2014年6月25日に行われたリビア国民議会選挙で世俗派が圧勝したことを不服として武装闘争を展開。こうして、リビアは再び内戦状態に陥り、西(トリポリ)と東(トブルク)に事実上分裂しました。 このため、国連主導で2015年に国民統一政府が樹立され、シラージュ暫定首相が就任しましたが、東部を拠点に武装組織のリビア国民軍を率いるハフタルが同政府をこれを拒否します。 ちなみに、ハフタルはイスラム原理主義勢力と距離を置いていた旧カダフィ独裁政権の軍高官で、イスラム過激派の排除を掲げて、サウジやエジプト、アラブ首長国連邦(UAE)、ロシア等の支援を受けていましたが、国連が支援してきたシラージュ暫定政権はイスラム勢力と近く、サウジと対立するカタールやトルコなどが後ろ盾となっていました。 特に、トルコは、旧オスマン帝国時代にリビアを支配してきたという歴史的経緯に加え、欧州向けのガス・パイプラインに関して沿岸国の計画から排除されてきたこともあり、東地中海の対岸にあるリビアの排他的経済水域(EEZ)と自国のEEZを合わせて、このパイプラインの敷設予定ルートをふさぐためにも、シラージュ暫定政府との協力が不可欠という事情がありました。さらに、リビアの石油利権をめぐっては、フランスが東部の油田地帯に権益を持つことからハフタルを支援。一方、旧宗主国のイタリアは、自国の油田の利権を確保すべく、暫定政権を支援しており、そのことが、さらに内戦を複雑化させます。 こうした状況の下、2019年春、ハフタルのリビア国民軍はトリポリに向けて進撃を開始したものの、トリポリのシラージュ暫定政権側の抵抗に遭い、戦局は膠着。そこで、ロシアのプーチン大統領の側近が率いる民間軍事会社“ワグネル・グループ”が、兵器や戦車、無人機などをリビアに搬入して現地で活動。リビア国民軍の無人機による攻撃も増加しました。 これに対して、暫定政府側は、2019年11月、トルコとの間で、トルコが暫定政府の部隊に訓練や武器を提供するほか、共同軍事計画に関して助言したり、人員を派遣したりすることなども定めた軍事協力の覚書に合意。翌2020年1月、暫定政権側の要請を受けるというかたちでトルコがリビアに派兵し、同年6月、暫定政権がトリポリを奪還します。 これを受けて、2020年10月にはシラージュ暫定政権とリビア国民軍の間で停戦合意が成立。2021年2月には、リビアの各政治勢力の協議により、実業家出身のアブドゥルハミド・ダバイバを暫定首相に選出したうえで、彼が提出した組閣名簿案をリビア東部に疎開していた代表議会が審議していましたが、このたび賛成多数で承認され、暫定統一政府が発足したというわけです。 今後、暫定統一政府は、ことし12月24日に予定されている大統領選と議会選までの統治を担当することになっていますが、昨年の停戦合意に盛り込まれていた外国人雇兵の退去は実現しておらず、先行きは楽観できないのが実情です。 なお、拙著『世界はいつでも不安定』では、リビアの内戦について、シリア内戦やナゴルノ・カラバフ紛争と連動して、ロシアとトルコがどのように動いたかという観点からまとめています。機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-03-11 Thu 04:29
“タンゴの革命児”と呼ばれたアストル・ピアソラが1921年3月11日に生まれてから、ちょうど100年になりました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2018年にアルゼンチンが発行したピアソラ顕彰の切手シートです。 ピアソラは、1921年3月11日、ブエノスアイレスから南に400キロの位置にあるマル・デル・プラタでイタリア系移民の家庭に生まれましたが、4歳の時、一家でニューヨークに移住します。8歳の誕生日に、音楽好きだった父親から中古のバンドネオンをプレゼントされたのを機に、音楽にのめり込むようになりましたが、当時のピアソラは、タンゴよりもジャズやクラシックに惹かれていました。ただし、演奏技術の面では、10歳の時点ですでにひとかどの実力者になっており、“天才少年”としてブロードウェイのラジオ局でフォルクローレ(民謡)を演奏しています。 15歳の時に、一家はアルゼンチンに帰国。故郷のマル・デル・プラタで父親の経営するレストランでバンドネオンやハーモニカを演奏していましたが、1938年、17歳の時に、たまたまラジオから流れてきたエルビーノ・バルダーロ楽団の演奏に衝撃を受け、タンゴの音楽性を強く意識するようになります。そして、翌1939年、18歳でタンゴの本場、ブエノスアイレスに出て、バルダーロの流れを汲み、当時最先端といわれたアニバル・トロイロ楽団のバンドネオン隊に参加しました。 ピアソラはトロイロの下でタンゴの基礎をみっちりと仕込まれたものの、当時のタンゴ業界が、封建的な慣習を数多く残していたことに加え、タンゴをダンス音楽としてしかとらえようとしていなかったことに不満を感じ、楽団の活動と並行して、新進気鋭のクラシック作曲家、アルベルト・ヒナステーラの下で音楽理論を学び、習作的なクラシック作品を作るようになります。 1944年、トロイロ楽団を脱退し、歌手フィオレンティーノの伴奏楽団指揮者を経て、1946年には自らの楽団を率いるようになりましたが、自作曲を発表する機会はほとんどなく、裏方的な仕事をこなしながらクラシックの作曲家としての修練を積んでいました。 1954年、ピアソラは奨学金でパリに留学する機会を得て、数多くの一流演奏家・作曲家を世に出した音楽教師、ナディア・ブーランジェに入門。それまでに書き貯めたクラシック作品をブーランジェに見せましたが、ブーランジェの評価は、「よく書けているが、個性がない」というものでした。当時のピアソラは、クラシックに比べてタンゴを一段低いものとみていたため、タンゴのミュージシャンとしての経歴を隠していたのですが、そのことを知ったブーランジェは、ピアソラにタンゴを書くよう課題を出します。そこで、ピアソラは師の前で自作の「勝利」をピアノで演奏。すると、この曲が“ピアソラの音楽”であり、この路線を進むようにと強く勧められ、“踊るためではなく聴くためのタンゴ”を掲げたタンゴ革命を目指すようになりました。 1955年7月、アルゼンチンに帰国すると、それまでタンゴとは無縁の楽器と思われていたエレキギターを取り入れたブエノスアイレス八重奏団を結成。タンゴ革命の第一歩を踏み出します。ピアソラの楽曲は、従来のタンゴにバロックやフーガなどのクラシックの構造や、ジャズの要素を組み込んでメロディを自由に展開させる斬新なものでしたが、この結果、あくまでも“踊るためのタンゴ”を目指すブエノスアイレスのタンゴ業界からは、“踊れないタンゴ”を作る“タンゴの破壊者”と攻撃されます。自らの“革命”への理解者があまりにも少なかったことに失望したピアソラは、1958年、新天地を求めてニューヨークに渡りましたが、なかなか思うような活動はできませんでした。しかし、翌1959年、プエルト・リコ巡業中に亡くなった父親に捧げるために書いた追悼曲、「アディオス・ノニーノ」は、彼の代表作の一つとなっています。 1960年、ピアソラは再びアルゼンチンに戻り、バンドネオン、ヴァイオリン、ピアノ、コントラバス、エレキギターからなる五重奏団を結成。1965年に発表したアルバム『ニューヨークのアストル・ピアソラ』以降は、カバー曲を演奏するのが当たり前だったタンゴ界では極めて異例のことですが、原則として自作曲しか演奏しないという姿勢を貫きます。また、この時期、詩人で評論家のオラシオ・フェレールとの共作で発表した小オペラ『ブエノスアイレスのマリア』は音楽史に残る傑作と評されています。 1973年に心臓発作を起こした後、1974年、ピアソラはローマに移住。日本でも、サントリーのCMに使われたことで人気を博した『リベルタンゴ』は、イタリア滞在中の1974年の作品で、曲の題名は、“libertad(自由)”と“tango(タンゴ)”の合成語です。 1976年、ピアソラは活動の拠点をパリに移しますが、以後、世界各国の幅広いジャンルの音楽家や映画人から注目を集めるようになります。そして、1980年代の世界ツアーによって、ブエノスアイレスのローカルなダンス音楽という色彩が強かったタンゴを“聴くためのタンゴ”に昇華させたことを全世界にアピールしました。すでに、この頃には、彼の先進性を攻撃していたタンゴ界の保守的な長老はおらず、タンゴ革命の世界的な成功により、ピアソラはアルゼンチンの文化的英雄として誰もが認める存在となります。 ただし、彼の音楽世界はあまりにも独創的であるがゆえに、後継者がほとんどできなかったのも事実で、ピアソラが自分の“後継者”として生前に指名したのは、フランスのアコーディオン奏者、リシャール・ガリアーノしかいません。 なお、ピアソラは、1990年8月、パリで脳梗塞で倒れた後、アルゼンチン政府により大統領専用機でアルゼンチンに搬送され、闘病生活を経て、1992年7月4日に亡くなりました。 * 本日(11日)未明、アクセスカウンターが232万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-03-10 Wed 02:46
今月6日、サッカーのドイツ・ブンデスリーガ2部のハノーファー96対エルツゲビルゲ・アウエ戦で、試合終了間際、日本人の室屋成選手のシュートが外れたことについて、レポーターのヨルグ・ダールマン氏が、「これが決まっていたら、彼のハノーファーでの初ゴールになるはずだった。彼自身が最後にゴールを決めたのは、“寿司の国(Land der Sushis)”でのことだ」とコメントしたことが“人種差別”にあたるのではないかと物議を醸しているそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2019年10月15日、ハンガリーが発行した“ハンガリー・日本外交関係開設150周年”の記念切手のうち、日本の伝統的な食事として寿司を取り上げた1枚で、耳紙には、山葵のイラストが入っています。友好国の日本を”寿司の国”として表現した切手ということで持ってきました。 日本とハンガリーの外交関係は、オーストリア=ハンガリー二重帝国時代の1869年に締結された日墺修好通商航海条約から始まります。 両国の国交樹立後、明治政府は騎兵隊の馬をハンガリーから購入していたほか、1886年にはユダヤ系ハンガリー人のヴァイオリニスト、エドゥアルト・レメーニが訪日し、横浜居留地と宮城(皇居)で明治天皇、昭憲皇太后の前で“御前演奏会”を行っています。ちなみに、この演奏会は、皇族方が洋装で集まる最初の機会となったとされています。 第一次大戦で二重帝国が崩壊し、ハンガリー王国が成立すると、1921年、両国間で改めて国交が樹立されましたが、当初、日本のハンガリー公使はウィーン駐在のオーストリア公使が兼摂していました。ブタペストに日本公使館が設置されたのは、第二次大戦直前の1938年8月のことです。 第一次大戦で広大な領土を失ったハンガリーは、旧領回復のため、1939年2月24日、ドイツと防共協定を結び、1940年11月には三国条約に加入しましたが、日本との軍事的な交流はほとんどありませんでした。 第二次世界大戦末期にハンガリー王国政府が崩壊し、日本も降伏すると、両国の国交は断絶。戦後、ハンガリーはソ連の強い影響下に置かれたため、国交の回復も、1956年の日ソ共同宣言後の1959年8月29日にまでずれ込みました。なお、1960年に相互再開された公使館は1964年6月に大使館に昇格し、現在にいたっています。 さて、今回の“問題発言”について、ダールマン氏本人は自身のインスタグラムで「私が日本を寿司の国とみなせば、それは人種差別になるのか? 本気でそんなことを言っているのか?」と人種差別の意図はなかったと反論。また、ハノーファーの関係者も現地紙『BILD』に「彼の発言は面白くもおかしくもない。だが、それだけで人種差別的な思想の持ち主と決めつけ、行き過ぎた批判をすることはおかしい」とコメントしています。 もちろん、どちらのコメントも全くの正論で、僕自身も“寿司の国”という表現じたいを人種差別とみなす考え方は、明らかに“行き過ぎた批判”として絶対に許容するつもりはありません。ただし、ダールマン氏に関しては、これまでにも試合中継で“不適切な発言”を繰り返してきた前歴があることから、今回の発言が人種差別的ないしは侮蔑的なニュアンスで受け止められるのもやむを得ない面があったようで、結果的に、彼は中継を担当している『Sky』から降板させられています。やはり、日頃の言動が大事だということなんですね。 まぁ、僕が中継の担当だったら、「彼自身が最後にゴールを決めたのは、“寿司の国(Land der Sushis)”でのことだ」の後に、「きっと山葵の味を思い出して涙を流すことだろう(Sicher erinnert er sich an den Geschmack des Wasabi und wird Tränen vergießen)」くらいのオチを付け加えるでしょうが…。 なお、拙著『世界はいつでも不安定』では、ポリコレの本家、米国でリベラル過激派が“反差別”を錦の御旗として、いかに善男善女の常識や社会の伝統を破壊し、多くの人々を苦しめ続けているかということについて、1章を設けてご説明しています。機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『世界はいつでも不安定』 ★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-03-09 Tue 01:42
ギニア湾に面したアフリカの国、赤道ギニア共和国(以下、赤道ギニア)の港湾都市バタ(バータとも)で、7日(現地時間)、地元農家の野焼きの火が制御不能となり、軍基地でずさんに保管されていたダイナマイトや弾薬などの爆発物に引火。4度にわたる大爆発が起き、現地時間8日の時点で、死者98人、負傷者615人の大事故となりました。というわけで、亡くなられた方の御冥福と、一刻も早い負傷者の方の御快癒、被災地の復興をお祈りしつつ、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2010年に赤道ギニアが発行した”現代建築”の切手のうち、バタの“平和医療センター”を取り上げた1枚です。 現在の赤道ギニア国家は、ギニア湾に浮かぶビオコ島、アンノボン島、および大陸部のリオ・ムニ(ムビニとも)とエロベイ諸島から構成されています。なお、首都のマラボがあるのはビオコ島で、今回、爆発事故のあったバタはムビニに位置しています。 かつて、バタは赤道ギアナ最大の都市でしたが、1992年、ギニア湾内のアルバ油田で石油・天然ガスの生産が始まると、油田探査ブームが到来し、欧米企業が数多く進出。1996年には同国最大のザフィーロ油田で、2000年にはセイバ油田での原油生産が開始されました。これを受けて、テオドロ・オビアン・ンゲマ政権は、2001年、首都マラボに国営石油企業G.E.ペトロールを設立したため、マラボへの人口集中が進み、バタの人口を追い越しました。なお、石油の輸出により、赤道ギニア経済が急速に拡大。1991年に310ドルだった一人当たりの国民総所得は、2011年には1万5670ドルになりましたが、その富は1979年以来の世界最長政権を維持し続ける大統領周辺が独占し、国民の貧困率は現在なお7割を超えています。 一方、港湾都市としてのバタは、内陸の熱帯雨林で切り出された木材がムビニ川経由で集められ、海外に輸出するための拠点です。1990年代半ば以降は中国向けの木材輸出が急増し、赤道ギニアの木材輸出全体の2/3を占めるほどになりましたが、その反面、赤道ギニア政府の法的制限(年間30万立米)を50%超過する45万立米の原木生産が行われるなど、弊害も目立つようになりました。このため、2008年には法定最小径60cmより小さい原木の伐採を禁止し、原木のままの輸出も禁止されるなどの対策が採られたものの、その後も違法な伐採や原木の密輸は後を絶たず、森林破壊は深刻な状況にあります。 今回ご紹介の切手に取り上げられた”平和医療センター”は、2007年、イスラエルの支援により開業。医療水準を保つため、赤道ギニア政府はドイツの民間企業に運営を委託しています。おそらく、今回の爆発事故の負傷者に対しても、適切な医療措置が行われていることでしょう。なお、開業当初は、単に“医療センター”と呼ばれていましたが、その後、国内に複数の医療センターがオープンしたため、2010年、“平和医療センター”と改称され、現在にいたっています。 ★★ 『世界はいつでも不安定』 3月10日発売!★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご予約は、アマゾンまたは honto で受付中です。 |
2021-03-08 Mon 02:12
きょう(8日)は国際女性デーです。というわけで、例年どおり、女性を取り上げた切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2008年8月20日にソロモン諸島で発行された“ソロモン地域支援ミッション(RAMSI)派遣5周年”の記念切手のうち、“移動の自由”と題して、市場で談笑する女性たちを取り上げた1枚です。 1978年に独立したソロモン諸島では、1997年まで国内の政治状況は比較的安定していましたが、その反面、一部の有力者が政権をたらいまわしにし、政治的緊張感の乏しさから、サイクロン被害からの復興や食糧輸入の急増に伴う国内経済の悪化などの問題の解決は先送りにされていました。そして、経済状況の悪化に歯止めがかからないまま、一人あたりの実収入が低下しつつある一方、ガダルカナル島東海岸や西部州など一部の地域では開発の利益が適切に再分配されず、就学できない児童も増加したことから、住民の間には不公平感が渦巻いていました。 こうした背景の下、1997年8月の総選挙後に成立したバーソロミュー・ウルファアルの自由党政権は、経済再建を目指し、政治腐敗の温床になっていた既得権益にも切り込もうとしたものの、既得権益層がこれに頑強に抵抗し、改革はなかなか進みませんでした。 これに対して、1998年12月、首相経験者でガダルカナル州主席のエゼキエル・アレブア(ガダルカナル出身)は、中央政府への不満から、ラジオのインタビューで、ガダルカナル島内に居住する島外出身者から補償金を徴収する意向を表明。もともと、英領時代から、ガダルカナルでは、元からのガダルカナル島民(ガダルカナル人)と島外から移住者、中でもその最大勢力であるマライタ出身者(マライタ人)との軋轢があり、マライタ人への敵意を露にする武装組織が“ガダルカナル解放軍”または“ガダルカナル革命軍”などと名乗って活動していました。彼らは、アレブアの発言を機に島内在住のマライタ人への不満を隠そうとはしなくなり、マライタ人に対する暴力事件が頻発。いわゆるガダルカナル紛争が発生します。 特に、ガダルカナル人過激派の“イサタンブ解放運動(IFM:Isatabu Freedom Movement)”は、マライタ人を中心とする島外出身者の排斥のためには暴力も厭わず、ガダルカナル島北部のマライタ人の集落や居住区を襲撃して暴行略奪を繰り返しました。この結果、当時の人口が約11万人だったガダルカナルで約1万人のマライタ人が、国際赤十字の設置したホニアラの難民キャンプへの避難を余儀なくされています。 1999年6月末には、英連邦の調停もあって、「ホニアラ和平協定」が調印されましたが、そのわずか1ヶ月後には、ホニアラ郊外で警察とIFMの武力衝突が起き、IFM側に死者が発生。さらに、ホニアラ和平協定では、被害者であるはずのマライタ人への補償がほとんどなかったことから、2000年1月、一部のマライタ島民は、IFMに対抗して、武装集団を結成し、マライタ州の州都アウキの警察署を襲って武器・弾薬を強奪します。 武器・弾薬を入手した武装勢力はホニアラに向かい、現地で他の集団と合流のうえ、民兵組織 “マライタ・イーグル・フォース(MEF)”の設立を宣言。MEFは、暴力によってIFMに奪われた土地・財産は暴力によって奪還することを主張し、ガダルカナル用内ではIFMとMFFの激しい戦闘が展開されました。 その後、オーストラリアとニュージーランドの介入により、2000年10月、タウンズヴィル和平協定が調印されたものの、協定に定められた武装解除はなかなか進まず、特に、ガダルカナル島南部のウェザーコースト地区は、ハロルド・ケケを中心に、和平協定への署名を拒否し、IFMから分派した強硬派の“ガダルカナル解放戦線(GLF: Guadalcanal Liberation Front:GLF)”が実効支配を続け、略奪や破壊、殺人などの犯罪が繰り返されていました。 こうして、ソロモン諸島は、治安が回復しないために経済状況は一向に好転せず、経済状況の悪化が治安の悪化を招くという悪循環に陥っていましたが、2003年4月、当時のソロモン諸島政府首相だったアラン・ケマケザが、オーストラリアの介入を要請。これを受けて、7月24日、オーストラリアが主導して、ニュージーランド、パプアニューギニア、 フィジー、トンガの太平洋諸島フォーラム(PIF)加盟国の警察・軍隊からなるソロモン地域支援ミッション(RAMSI)2200人が、ソロモン諸島の法と秩序回復・財政再建のために派遣されました。 はたして、RAMSIの派遣後まもない2003年8月10日、ハロルド・ケケ率いる武装勢力のGLFも、ケマケザ首相特使である日系議員Y・サトーの説得に応じ、停戦に同意、武装解除のうえ投降するなど、ソロモン諸島の治安は劇的に改善されます。 今回ご紹介の切手は、ここから5周年に当たるのを記念して発行されたもので、RAMSIの活動により、女性がフツーに市場に出かけていき、買い物ができるまでに治安が回復したことが、”移動の自由”と表現されたわけです。 この辺りの事情については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもいろいろまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 『世界はいつでも不安定』 3月10日発売!★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご予約は、アマゾンまたは honto で受付中です。 |
2021-03-07 Sun 04:14
チベットや新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)などでの中国政府による人権侵害に対して国際的な非難の声が高まる中、5日、中国の国家主席・習近平が全国人民代表大会(全人代)の分科会として内蒙古自治区(南モンゴル)の代表らによる会議に出席し、同自治区での普通話(中国共産党政権が定めた標準中国語)の普及推進を指示したそうです。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、先の大戦末期の1945年、日本軍占領下の南モンゴルで使用するため、満洲国の長春で製造されたものの、日本の敗戦により不発行に終わった切手です。中央の肖像は他の地域の中国切手と同様の孫文ですが、肖像左右の唐草文様の中に“蒙古郵政”を意味するモンゴル語の表示が見られます。 モンゴル民族の居住地域は、かつてはロシアと清朝に分割されて支配され、ゴビ砂漠をはさんで、南側が内蒙古、北側が外蒙古と呼ばれていました。 1911年11月、滅満興漢をスローガンとする辛亥革命が起こり、清朝が亡んで中華民国が発足すると、モンゴル人には新たな中国中央政府に対して忠誠を誓う大義名分がなくなります。新政府は、建前として“五民族(漢人、チベット人、満洲人、モンゴル人、ウイグル人)の平等”を掲げていましたが、孫文であれ袁世凱であれ、政治の中枢は漢族の出身者がほぼ独占しており、清朝の時代のように、満州人やモンゴル人が優越的な地位を占めることはもはやありえません。このため、彼らはロシアの援助を受けて独立を宣言しました。 しかし、“清朝の継承者”を名乗る中華民国政府は、1912年4月23日、内務部に蒙蔵事務処(同年7月、蒙蔵事務局に改組)を設置し、おなじく清朝の滅亡と同時に“中国”からの離脱を宣言したチベットとともに、モンゴルはあくまでも自国の領土であるとする姿勢を強調。革命後の混乱の中で、1913年にはモンゴルの自治を認めたものの、その宗主権だけは絶対に手放そうとはしませんでした。 その後、1921年になって、外蒙古の地域はモンゴル国として独立を達成しましたが(ただし、すぐにソ連によって衛星国化されます)、内蒙古の地域は中国に留め置かれ、モンゴルは民族分断の憂き目に遭います。 こうした状況の中で、内蒙古の察哈爾部の王族の一人であった徳王は、内蒙古・外蒙古・ソ連領ブリヤート(北蒙)を統一し、大モンゴルを再興する「汎蒙古主義」を掲げ、1934年、百霊廟蒙政会を組織し、中国政府に対して高度な自治権を要求します。しかし、蒋介石率いる国民政府はさまざまな口実を設けて、これを阻害しました。 このため、徳王らは、中国に対抗するために、満洲国の事実上の支配者であった関東軍に注目し、日本の影響力を背景に中華民国からの独立を企図。もちろん、華北への支配を拡大したかった関東軍にとって、内蒙古の実力者である徳王が、中国からの独立を唱えてみずから接触してきてくれたのは、非常に好都合でした。かくして、1936年2月、関東軍の支援の下、徳王を首席とする蒙古軍政府が成立します。 その後、1937年7月7日に盧溝橋事件が起こると、同年8月27日、東条英機を長とする察哈爾派遣兵団は、まず張家口を占領。9月4日、ここに“察南自治政府”を樹立しました。 さらに、関東軍は中央の制止を振り切り、山西省内にも兵を進め、9月13日に大同を占領。10月14日には綏遠を、同17日には包頭を、それぞれ占領し、10月15日には大同に“晋北自治政府”を、同28日には包頭に“蒙古連盟自治政府”を樹立。これら3政権(蒙彊政権と総称される)を管轄する機関として、張家口に蒙彊連合委員会を設置し、この地域を支配するシステムを確立しました。 しかし同委員会は十分に機能しなかったため、政府そのものを統合・一体化しようという機運が高まり、1939年9月1日、駐蒙日本軍の主導のもとで、3自治政府が統合して蒙古聯合自治政府が樹立されます。さらに、同政府は、1941年8月4日には“蒙古自治邦政府”と改称され、1945年8月のソ連の対日参戦と日本の降伏まで存続しました。 ソ連軍の対日参戦後、ソ連軍とモンゴル軍は旧満洲国の領域を含む内蒙古全域に進駐し、その影響下でモンゴル人の統一国家を目指すための過渡政権として内蒙古人民共和国が成立しましたが、中国の蒋介石政権とソ連が中ソ友好同盟条約を結び、中華民国がモンゴルの独立を承認したことで、内外モンゴル統一の要求を取り下げます。 その後、国共内戦中の1947年、中国共産党の影響下で内蒙古自治政府が成立。さらに、1949年10月1日に中華人民共和国の成立が宣言されると、中華民国時代の察哈爾省、綏遠省、熱河省、遼北省、興安省は正式に廃止され、現在の内蒙古自治区となりました。 さて、内蒙古自治区はもともとモンゴル人の居住地域であったという歴史的経緯から、中国語とモンゴル語が公用語とされてきましたが、習近平政権は、昨年(2020年)、は昨年、自治区内のモンゴル人が通う小中学校で中国語教育を強化。このため、児童・生徒や保護者らが強く反発し、授業のボイコットなど、異例の抗議活動が展開されていました。 これに対して、全人代の会期初日に同自治区の分科会を開き、習近平が直接、同自治区の代表らに対して「国家の共通言語と文字の普及を真剣に行わなければならない」、「(全国共通の教科書の)使用を全面的に推進する必要がある」と指示。さらに、“中華民族の共同体意識”の重要性を強調したうえで、「さまざまな誤った思想や政治的観点に、旗幟鮮明に反対するよう導くべきだ」として、批判を徹底的に押さえ込む方針を示しています。 昨年(2020年)6月17日 米国でウイグル人権法成立が成立して以来、ウイグルなどでの中国政府による少数民族への人権侵害に対する非難の声が西側諸国では高まっており、8月には、日米欧の16カ国の議員らが結成した世界的な議員連盟“対中政策に関する列国議会連盟”の初代議長で英保守党の元党首、イアン・ダンカン・スミス議員が、英国政府が国際オリンピック委員会(IOC)に中国から2022年五輪開催権の剥奪もしくは公式代表者の参加禁止を要請すべきと提案。9月には、160以上の人権団体が「中国全土で起きている人権危機の深刻化が見過ごされれば、五輪精神と試合の評価は一段と損なわれる」として、IOCに人権侵害を理由に北京冬季五輪開催再考を求める書簡を提出しています。 さらに、10月6日には、英議会外交委員会でドミニク・ラーブ外相が「一般論としては、スポーツと外交・政治は分離しなければならないと考えるが、それが不可能な場合もあり得る」と答弁。さらに、メディアの取材に対して、「新疆ウイグル自治区における中国の弾圧は許容範囲を超えており、人権の観点から、英国は同盟国と連携してボイコットすることは十分あり得る」、「証拠を集め、国際社会におけるパートナーと連携し、どのような措置を講じるべきかを検討する」と発言。 また、10月6日の国連人権会議では、ドイツの主導により、英国やオーストラリア、日本など39カ国が中国の人権問題を批判する共同声明を発表し、中国に対して100万人が収容されている新疆ウイグル自治区の収容施設に、国連人権査察団が「直接的で意味のある自由なアクセス」ができるよう要求しています。この声明には、近年、急速に対中関係が悪化している豪州が「国際社会におけるパートナーと連携したい」として真っ先に反応し、超党派の国会議員が「1936年のヒトラーのナチス政権下で開催されたベルリン五輪と類似性」があるとして、北京冬季五輪のボイコットを支持し、豪州選手に不参加を呼びかけ、以後、オーストラリア国内では北京冬季五輪のボイコット運動が続けられています。 現在、北京冬季五輪“ボイコット連合”への加入が想定されているのは、2019年7月にウイグル族の拘束を問題視して国連人権理事会に送付した共同書簡に署名した日本と英国をはじめとする22カ国+米国(非署名)です。 ことし(2021年)に入ってからは、1月19日、任期切れ直前のトランプ政権が、中国政府によるウイグルでの“ジェノサイド”を認定。バイデン政権のブリンケン国務長官(この時点では予定者)も、新政権発足に先立ち、同認定を支持する姿勢を示しています。 これを受けて、2月2日には米共和党の上院議員5人が、2022年冬季五輪の開催地変更を求める決議案を議会に提出。提案者のリック・スコット議員は「中国政府は新疆ウイグル自治区のウイグル族に対し集団虐殺を行い、香港の人々の人権を制限し、台湾を脅かしている」として、「2022年の五輪開催を許されるべきではない」との声明を発表し、同じく提案者のトム・コットン議員は、「国際オリンピック委員会(IOC)は、2022年大会を市民の生命と権利を尊重する国に移すべき」と主張しました。 この直後、サキ報道官は、コロナ禍での東京五輪への参加の是非についての質問に対して、北京五輪問題がはるかに政治的に重要な問題となっていることから、北京五輪に関する質問と勘違いし、「北京五輪に関して現時点でわれわれの立場や計画を変更することについて話し合っていない」とし、「同盟国や友好国と緊密に協議し共通の懸念を明確にして共に対処するが、米国としての計画変更について現時点で議論されていない」と説明しています。 さらに、2月3日、非政府組織(NGO)のヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)は、IOCが「中国政府の深刻な人権侵害に正式に立ち向かわずにいることは、オリンピックが『世界を変える力』とする自らの主張を台無しにしている」と非難。翌4日には世界ウイグル会議や国際チベットネットワークなど約180の人権団体などが、中国における人権問題を理由に大会参加をボイコットするよう各国首脳に呼び掛ける書簡を公開しています。 そして、2月22日には、カナダ下院で、新疆ウイグル自治区で行われているウイグル人らへの人権侵害はジェノサイド(民族大量虐殺)だと非難し、2022年の冬季五輪を中国以外で開催するよう国際オリンピック委員会(IOC)に働き掛けるべきだとのカナダ政府への要求も盛り込んだ決議を賛成266、反対0(棄権等72)の圧倒的多数で採択しました。 今回、習近平が、内蒙古自治区での普通話の普及促進を指示し、モンゴル人の反発を強引に抑え込む姿勢を明らかにしたことは、国際社会の非難をよそに、“少数民族”に対する人権侵害を止めるどころか、拡大・強化する意思を改めて表明したのも同然なわけで、今後、欧米での北京五輪ボイコット論がさらに盛り上がるのは必至とみられます。 なお、香港やウイグルにおける中国の人権侵害に対する米国の反応については、拙著『世界はいつでも不安定』でも1章を設けてまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 『世界はいつでも不安定』 3月10日発売!★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご予約は、アマゾンまたは honto で受付中です。 |
2021-03-06 Sat 14:27
ドイツ政府は、きのう(5日)、脱原発政策に伴う補償金として、RWEなど電力事業者4社に対して約24億2800万ユーロ(約3100億円)支払うことで合意したことを発表しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、今回、ドイツ政府から補償金を受け取るRWE社のメータースタンプです。 RWEは、1898年4月25日、ライン・ヴェストファーレン電力会社(Rheinisch-Westfälisches Elektrizitätswerk AG)として設立されました。設立当初は、その名の通り、ドイツ帝国時代のヴェストファーレン州(現在は旧ライン州北部および旧リッペ侯国の領域と統合され、ノルトライン=ヴェストファーレン州の一部)の地域に電力を供給することが主な目的で、本社はエッセンに置かれました。 1902年、アウグスト・ティッセンとフーゴ・シュティネスにより買収されると、シュティネスは自らの土地にRWE最初の発電所を建設。ルール地方の自治体に電力を供給する契約を結んで事業を拡大し、ドイツを代表するエネルギー企業に成長しました。また、国や自治体からの出資も受け、半官半民の企業として電気鉄道にも進出しています。 1998年、ドイツでは電力自由化が行われ、当時の八大電力会社は、デュッセルドルフのエーオン、エッセンのRWE、ハンブルクのHEW(現バッテンフォール・ヨーロッパ。スウェーデンの公営電力会社バッテンフォールの傘下)、カールスルーエのEnBW(現在はフランスの電力会社EDFの傘下)の四つに統合されます。 2000年には、ルール地方の競合企業でドルトムントを拠点とするVEW吸収合併し、エーオンに次ぐドイツ2位の地位を確保したほか、英国の電力会社イノジーや上下水道会社テムズ・ウォーター、米国のアメリカン・ウォーター・ワークスやその子会社のCalAm(カリフォルニア・アメリカン・ウォーター)、チェコのトランスガスなど、各国の民営化された電力・水道・ガス会社を買収しました。 ところで、2010年の時点で、メルケル政権は原発の稼働期間延長を決めたのですが、2011年3月、東日本大震災に伴う東京電力福島第1原発事故を受け、突如、2022年末までの脱原発を決定してしまいます。このため、RWEをはじめ、ドイツ国内の電力事業者は急激な政策変更は甚大な損害をもたらすとして、ドイツ政府に補償を求めて提訴。独連邦憲法裁判所は、2016年、損失の補償を政府に命じていました。 実際、RWEに関しては、2013年に1949年以来の赤字決算に転落。このため、2016年には、RWEはイノジーを再生エネルギー事業会社として分離したうえで、同社の株式の4分の3をRWEが保有するかたちで上場。2018年3月には、RWEがエーオンの株式の16%を買収し再生エネルギー事業を保有する一方、エーオンはイノジーの株式の76.8%を買収して同社の送配電事業を得るなど、生き残りのための対応に追われていました。 一方、ドイツ政府による電力事業者への補償については、いったん補償規定が定められたものの、金額や支払い方法などをめぐり電力事業者側が反発。このため、政府と電力事業者との間で協議が続けられ、2020年には、憲法裁判所があらためて規定を見直すべきと判断。これを受けて、ようやく、今回の合意に達したというわけです。 ★★ 『世界はいつでも不安定』 3月10日発売!★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご予約は、アマゾンまたは honto で受付中です。 |
2021-03-05 Fri 02:00
フランスに本部を置く国際刑事警察機構(ICPO)は、3日(現地時間)、南アフリカ当局が北東部ハウテン州ジャーミストンの倉庫でおよそ2400回分の偽の新型コロナワクチンと大量の偽医療用マスクを押収し、中国人3人とザンビア人1人の計4人を逮捕したと発表しました。なお、ICPOは、昨年12月に新型コロナワクチン関連の犯罪に備えるよう加盟各国に警告していて、ユルゲン・ストック事務総長は「これは氷山の一角に過ぎない」とさらなる警戒を呼び掛けています。というわけで、ジャーミストンにちなんで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、(第2次)ボーア戦争中の1901年3月8日、英占領下のジャーミストンからドイツのヴィスバーデン宛の郵便物で、トランスヴァ―ル切手に、英国ヴィクトリア女王の治世を意味する“V.R.I”と加刷した切手が貼られています。また、差出翌日の9日には経由地のヨハネスブルグで占領当局による開封・検閲を受け、ピンク色の封緘紙で封がされています。 南アのジャーミストンはヨハネスブルクの東方13キロの地点に位置する都市で、ヨハネスブルクと連接して大都市圏を形成しています。 1886年、ヨハネスブルク近郊で金鉱が発見されると、ボーア人(オランダ系移民)の支配下にあったトランスヴァ―ル共和国の領域(現在の南ア北東部に相当)には金鉱を求めて多くの人々が集まるはゴールドラッシュが到来しました。 そうした状況下の1887年、英グラスゴー近郊のジャーミストン出身のジョン・ジャックと、ドイツのヴァ出身のアウグスト・ジンメルは、金鉱を求めてエーランズフォンテンから東へ移動する過程で現在のジャーミストン一帯の土地を購入し、この地で金鉱を掘り当てました。その後、一帯はジャックの故郷にちなんでジャーミントンと命名され、周辺の金鉱地帯の中心地となりました。現在でも、ジャーミントンには世界最大の金の精錬所があり、綿紡績,織物,鉄鋼,刃物,マッチ,薬品,化学,農業機械などの工業が盛んに行われています。 ところで、トランスヴァ―ルで金鉱が発見されると、現地の英国人企業家を代表するセシル=ローズは、ケープ植民地の首相に就任するとともに、英国南アフリカ会社(BSAC)を設立。1890年、南アフリカ会社は遠征を開始し1894年までに南東アフリカ地域の広大な土地を支配下に収め、“ローデシア”と命名しました。 このローデシアを拠点に、ローズはトランスヴァール共和国への侵攻を企てたものの失敗し、1896年に失脚しましたが、英本国政府はローズの植民地拡大策を継承し、ボーア人のトランスヴァ―ル共和国とオレンジ自由国を挑発。両国に対して、在留英国人に選挙権を与えることを要求するとともに、両国内の同胞が“奴隷状態”に置かれていると宣伝して、国民の開戦熱を煽り、1899年10月、両国に対する侵略戦争を開始しました。 当初、ボーア軍は英軍を圧倒していましたが、1900年2月、英本国からの増援部隊が到着。2月18日から27日にかけてのパールデベルグの戦いで英軍がボーア軍を破ったことで戦況は逆転し、3月13日にはオレンジ自由国の首都ブルームフォンテーンが、6月5日にはトランスヴァール共和国の首都プレトリアが陥落します。さらに、イギリス軍は、6月11日から12日にかけて、プレトリア近郊のダイアモンド・ヒルでボーア軍の残党を掃討し、正規軍同士の戦いは事実上終結しました。 しかし、その後もボーア人はゲリラ戦術で激しく抵抗。大苦戦を余儀なくされた英国は、ボーア人ゲリラに対する食糧補給を断つべく、ボーア人の婦女子を強制収容所に隔離するなど、なりふり構わぬ戦術を展開しました。ちなみに、後にヒトラー政権はユダヤ人の収容所に“強制収容所”との名前を付けていますが、これは、ボーア戦争時の英国の先例に倣ったものと言われています。 なお、第2次ボ-ア戦争に始まる“強制収容所”の歴史については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 『世界はいつでも不安定』 3月10日発売!★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご予約は、アマゾンまたは honto で受付中です。 |
2021-03-04 Thu 01:20
ご報告が遅くなりましたが、『東洋経済日報』2021年2月12日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、2012年のソルラル(旧正月)にあたっていましたので、この切手をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1967年9月15日に発行された“民俗シリーズ”の1枚で、朝鮮半島の伝統的な正月行事である“ノルティギ(板跳び)”が描かれています。 ノルティギの由来は必ずしも定かではありませんが、高麗時代に始まり、朝鮮王朝時代に現在のようなスタイルが確立されたものと考えられています。 朝鮮王朝時代と異なり、高麗時代の女性は夫と死別後は再婚が可能で、遺産の相続も息子と娘の区別がありませんでした。また、活動的な女性も多く、女性が乗馬や撃毬(ポロに似た球技)などを行うことも珍しくはなかったので、ノルティギもそうした環境の下で生まれたのでしょう。 ところが、朝鮮王朝時代になり、儒教(特に朱子学)道徳が社会的に深く浸透すると、両班階級の女性は外出も制限されてしまいます。こうした中で、ノルティギは、女性たちが塀の外の世界や男性をうかがう手段として始まったとも、さらには、政変などで投獄される両班の妻が、高い垣根の向こうに閉じ込められている獄中の夫を見ようとして、同じく罪人の妻を誘って板の上で交互に飛びながら夫の顔を見るための手段として始まったともといわれる伝承が浸透し、女性限定の遊びとみなされるようになりました。 ソルラルの行事としてのノルティギは、着飾った若い女性が勢いよく飛び跳ねることで、その音に驚いた悪鬼が退散すると信じられていました。 ノルティギを行うには、まず、2-3メートル程度の厚い板の中央に、厚さ30センチぐらいのわら束を敷きます。そして、板の両端に一人ずつ立って交互にジャンプすると、落ちてくる時の反動で相手が高く飛び上がります。最初はあまり高く跳べませんが、2人の息が合ってくれば、次第に高く跳べるようになります。また、相手を高く飛び上がらせるため、初めに勢いよく助走をつけてから板に乗る人もあります。 遊びとしては、板を踏み外したり、板から落ちたりしたら負けた方が負けになりますが、3人以上で跳びあう場合は、1番高く飛んだ人、または相手を最も勢いよく板から転げ落ちさせた人が勝者です。 なお、今回ご紹介の切手では、宙から下りてきて板の上に着地した女性、支点となる板の中央にしゃがんでいる女性、いままさに飛びあがっている女性の3人が描かれています。 1961年の5・16革命公約で「頽廃した国民道義と民族正気を立て直すため、清新な気風を振興する」ことを謳い、「植民地史観と外国文化に対する従属観念を払拭し、民族文化の再発見を通して国民的自覚と誇りを宣揚しよう」と呼びかけた朴正煕は “民族文化の暢達と国民教育の振興”を政策の柱として掲げており、この切手もそうした文脈に沿って発行されたものであることは間違いありません。 その一方で、経済効率を重視する立場から、朴正煕政権は新年の公休日を西暦の1月1-3日とし、旧暦のソルラルは休日とはしませんでした。ちなみに、その前の李承晩の時代も、李がクリスチャンだったこともあって、西暦の1月1-3日が新年の公休日で、ソルラルは平日でした。 現在のように、ソルラルが休日となるのは、全斗煥政権下で1985年のソルラル(この年は1月21日)が“民族名節”として1日のみの公休とされてからのことです。 もっとも、朴正煕の時代も、実際にはソルラル当日の学校はほとんどの学生・生徒は欠席し、職場でもほとんど仕事にならなかったのだとか。当時の韓国人は、ソルラルの日には若い女性に昔ながらのノルティギをやってもらって、こんな日にまで仕事や勉強をさせようとする“鬼”を追い払ってもらいたいと思っていたのかもしれませんね。 ★★ 『世界はいつでも不安定』 3月10日発売!★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご予約は、アマゾンまたは honto で受付中です。 |
2021-03-03 Wed 00:53
以前からご案内しておりました拙著『世界はいつでも不安定 国際ニュースの正しい読み方』(ワニブックス 奥付上の刊行日は2021年4月10日)の現物ができあがりましたので、一言、ご挨拶申し上げます。(画像は表紙カバーのイメージ。クリックで拡大されます)
本書は、2018年4月からインターネット放送「チャンネルくらら」で配信している「内藤陽介の世界を読む」のうち、比較的最近の動画の内容の一部を再構成し、配信後のアップデート情報も加えつつ、大幅に加筆したもので、切手や郵便物はほとんど登場しません。なお、章立てとしては以下のようになっています。 第1章【アメリカを読む】南北問題で知る、米大統領選と左翼運動 第2章【中国を読む】香港征服を狙う野望を読み解く 第3章【中東を読む】日本人のためのイスラエルと湾岸諸国入門 第4章【ロシア・トルコを読む】リビアからコーカサスにいたる紛争ベルトの重要性 もともと、筆者は切手や郵便物から得られるさまざまな情報を集積し、その分析を通じて、歴史や地域事情、国際関係などについて考えようという“郵便学”が本業です。したがって、基本的には世界各国がそれぞれどんな切手を発行しているのか、およそのイメージはほぼ把握しており、ある国や地域の名前を聞けば、その国・地域の切手の画像が頭の中に思い浮かぶ回路はできあがっています。(少なくとも、オリンピックの入場行進に登場するレベルの国・地域であれば、全く知らないということはまずありません) ただし、当然のことながら、切手に取り上げられている個々の題材については把握しきれていないことも多いので、切手や郵便物の解析のために必要な基礎データや背景事情をまとめるとともに、文章のトレーニングと自分の仕事のプロモーションを兼ねて、2005年6月から、その時々の話題にあわせて、あるいは、自分の仕事の宣伝になるように、毎日1点ずつ切手や郵便物を選んで、簡単な文章を書く「郵便学者・内藤陽介のブログ」、つまりはこのブログを続けています。 その結果として、世界の国々の切手を読み解く基礎的な知識・情報に関しては、(あくまでも、広く浅くではありますが)ある程度の蓄積もできてきましたので、その一端を(切手や郵便物ぬきに)原稿としてまとめたり、メディア等でお話したりする機会も少しずつできてきました。「チャンネルくらら」の番組もその一つです。いわば、レストランとして食事を出すことを目的に、小さな農場を作って野菜や果物を植え、鶏・豚・牛などを買っていたところ、料理とは別に、副業として、肉や野菜も売るようになったというのと似たような感じでしょうか。 さて、切手や郵便物というモノを起点に考える習性が骨の髄まで染みついている僕としては、研究ないしは観察対象としては、平和で安定した豊かな国にはあまり興味をそそられません。そうした国では政治や社会の激しい変動が起こりにくく、それゆえ、切手や郵便物への痕跡も乏しいからです。 これに対して、政治的・社会的に不安定な国の場合、切手や郵便物にはそうした状況が鮮明に反映されますから、(不謹慎な表現かもしれませんが)単純に面白いのです。また、特定のイデオロギーを国民に対して徹底的に浸透させようとしている国では、切手がプロパガンダの媒体として使われていますから、これまた興味をそそられます。そのため、そうした国・地域に関しては、熱心に調べてみたくなるのです。 そうした観点から、2010年にメディアファクトリー新書の一冊として上梓した拙著の書名は『事情のある国の切手ほど面白い』としたのですが、昨今の国際ニュースを見てみると、“事情のある”などという生易しい状況にない国が世界の中心にいくつもあることに気が付きます。もっとも、幸か不幸か、世界最初の切手が英国で発行された1840年以来、現在にいたるまで、世界のどこかで常に混乱や動乱、大規模な自然災害が起こり、各国間の派手な離合集散が繰り返されてきたわけで、世界が安定していることのほうがむしろ不自然だともいえるでしょう。 そうであればこそ、「国際ニュースの正しい読み方」と銘打った本書では、そもそもの議論の出発点として「世界はいつでも不安定」と最初に謳うことにしました。世界の混沌や不安定さを嘆くよりも、不安定であることを前提に、日本としての身の処し方を考えるほうが建設的で精神衛生上も良いのではないかと思います。 また、本書の帯にはバイデン(米大統領)、プーチン(ロシア大統領)、習近平(中国国家主席)、トランプ(米前大統領)、サルマーン(サウジ国王)に加え、わが国の菅総理の顔写真も加えています。本書の本文では菅総理については言及していないのですが、それでもあえて帯の写真に加えたのは、わが国が否応なしに「不安定な世界」の中で生きていかねばならないこと、そしてそのためには、国際ニュースを正しく読むことが必須の前提であることを読者の皆さんにイメージしていただきたかったからです。 世界の中で我々が「どうすべきか」という問いに答えるためには、世界が「どうなるか」を予測せねばならず、そのためには現状を正確に認識する必要があります。本書がその一助としていささかなりとも皆さんのお役に立つなら、筆者としては望外の幸です。 つきましては、書店などで本書を見かけられましたら、ぜひ、お手に取ってご覧いただけると幸いです。また、この記事をお読みの方で、ご自身の関連するメディアなどで本書をご紹介いただける場合には、資料等をお送りいたしますので、本ブログ右側のメールフォームにて、お気軽にご連絡ください。 なにとぞよろしくお願い申し上げます。 ★★ 『世界はいつでも不安定』 3月10日発売!★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! 版元特設サイトはこちら。また、ご予約は、アマゾンまたは honto で受付中です。 |
2021-03-02 Tue 03:55
ギリシャ最東部に位置するカステロリゾ島(メギスティ島)が、2月末までに住民の約8割が新型コロナウイルスワクチンの2度の接種を終えたとして“コロナフリー”を宣言しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1920年6月22日、フランス占領下のカステロリゾ島で、フランス本国の種まき切手に“O.N.F./ Castellorizo”と加刷して発行された切手です。 アナトリア半島のトルコ沿岸から3キロの地点に位置するカストロリゾ島は、1512年以降、オスマン帝国の支配下に置かれ、オスマン帝国の切手が使用されていましたが、第一次大戦が勃発すると、1915年12月24日、フランス海軍が上陸し、フランスの占領に置かれます。 カステロリゾ島を占領したフランスは同島に郵便局を設置し、本国の切手とオスマン帝国内のフランス局で使用していたレバント切手を持ちこみ、使用させました。無加刷切手は“占領軍”を意味する“CORPS D'OCCUPATION”の文字と錨のマークが入った印で抹消され、同島から差し出された郵便物はポートサイドのフランス軍基地を経由して各地に運ばれました。 1918年にオスマン帝国が降伏した後もフランス軍はカステロリゾ島への駐留を続けていましたが、1920年6月、それまでの無加刷切手に代わり、加刷切手を使用することが決定され、“フランス海軍占領 カステロリゾ島”を意味する“O.N.F.(= Occupation Navale Française )/ Castellorizo”と加刷された切手が発行され、次いで、“フランス海軍基地 カステロリゾ島”を意味する“B.N.F.(= Base Navale Française)/ Castellorizo”加刷および“フランス占領 カステロリゾ島”を意味する “OF/ Castellorizo”加刷の切手が短期間のうちに発行されました。 1920年8月10日、オスマン帝国と連合国との講和条約としてセーヴル条約が結ばれると、カストロリゾ島はイタリア領とされ、1921年3月1日にイタリア軍が上陸。1922年以降、イタリア切手に“CASTELROSSO”と加刷した切手の使用が開始されます。 第二次大戦中の1943年9月8日、イタリアが連合国に降伏するとカストロリゾ島は連合国の占領下に置かれ、1947年のパリ講和条約を経て、1948年3月7日付で正式にギリシャ領に編入され、現在にいたっています。 ★★ 『世界はいつでも不安定』 3月10日発売!★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! ご予約は、アマゾンまたは honto で受付中です。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-03-01 Mon 02:36
1896年3月1日、エチオピア軍がイタリア軍に大勝し、第一次エチオピア戦争におけるエチオピアの勝利と独立の確保を決定づけた“アドワの戦い”から、ちょうど125年になりました。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、いまから50年前の1971年にエチオピアが発行した“アドワでの勝利75周年”の記念切手です。エチオピア軍がイタリア軍を圧倒する戦闘場面を描いたものですが、おもちゃの兵隊を描いた絵本のような絵柄が良い感じで、個人的に気に入っている1枚です。 さて、1889年、エチオピアはイタリアとウチャリ条約を結び、イタリアによるエリトリアの保護領化を承認。その後、イタリアはエチオピア本土への侵攻を企図し、1893年以降、エチオピア北部、エリトリアとの国境に位置するティグレ州への攻撃を繰り返しました。 これが第一次エチオピア戦争です。 エチオピア軍が常備軍制度ではなく、長期にわたって軍を動員し続けることがられないことから、イタリア軍の指揮官であったオレステ・バラティエリは長期の持久戦に持ち込む戦術を取りました。しかし、イタリア本国の首相、フランチェスコ・クリスピは、アフリカ人相手の戦いにイタリア軍が“苦戦”していると誤解し、バラティエリに決戦を命じます。 本国からの圧力に屈したバラティエリは、結局、2月29日の夜、エチオピア軍主力の駐屯していたティグレ州アドワへの進軍を開始。しかし、1万4527名のイタリア軍(と若干のエリトリア兵)が複雑な地形に手間取っているのを察知したエチオピア軍は、指揮官、ラス・マコネンの下、全面攻撃を開始。夜が明けると、エチオピア皇帝メネリク2世と皇后タイトゥの軍も戦闘に参加し、総勢12万以上のエチオピア軍は、アドワ北方でイタリア軍に壊滅的な打撃を与えました。ちなみに、イタリア軍は9500人から1万2000人が戦死・負傷し、エチオピア側も死者・負傷者合わせて1万名前後の損害を出しています。 アドワの戦いで惨敗を喫したことで、イタリア国内では責任論が浮上し、3月10日、クリスピ政権は退陣に追い込まれました。その後、後継のアントニオ・ルディニ政権はエチオピアを外交団を派遣。メネリク2世との間でアディスアベバ条約が締結され、1896年10月23日、第一次エチオピア戦争はエチオピアの勝利で終結しました。以後、1936年のイタリアによるエチオピア併合まで、アフリカ諸国の中で例外的に独立を維持することになります。 * おかげさまで、オンラインで開催しておりました第12回テーマティク切手展は、28日24:00をもって無事、公開を終了いたしました。ご出品者の皆様、閲覧していただいた皆様、開催の労を取っていただきました皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。2022年に開催予定の第13回展覧会は、通常通り、東京・目白の切手の博物館での開催を予定しておりますので、引き続き、よろしくお願いいたします。 ★★ 『世界はいつでも不安定』 3月10日発売!★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! ご予約は、アマゾンまたは honto で受付中です。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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