2023-08-03 Thu 10:22
ウクライナ国防省は、きのう(2日)、ロシアが黒海経由の穀物輸出合意の延長を拒否してから、ウクライナにとって重要な穀物輸送ルートになっているイズマイール港(ドナウ川をはさんでルーマニアの対岸に位置しています)の穀物貯蔵施設が、ロシア軍のドローン攻撃によって損傷したと明かしました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2010年10月1日、ルーマニアが発行した“(かつてはルーマニア領だった)ドナウ川沿岸の諸都市”の切手のうち、今回ロシア軍のドローン攻撃を受けたイズマイールを取り上げた1枚で、イズマイルの位置を示す地図と現在、この都市を領有しているウクライナの国章、イズマイルのランドマークとしての大聖堂が取り上げられています。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 新講座「龍の文化史」 8月9日配信開始! 武蔵野大学の新たなWeb講座「龍の文化史」が8月9日から配信開始になります。龍/ドラゴンにまつわる神話や伝説は世界各地でみられますが、想像上の動物であるがゆえに、それぞれの物語には地域や時代の特性が色濃く反映されています。今回の講座では、日本の龍を皮切りに、中国、朝鮮、琉球、東南アジア、キリスト教世界など、世界の龍について興味深いエピソードなどを切手の画像とともにご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。 8月11日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 ジョン・F・ケネディとその時代 毎月第4土曜日開催のよみうりカルチャー北千住での講座です。今から60年前の1963年11月に暗殺されたケネディ大統領とその時代について、様々な角度から解説をします。詳細はこちらをご覧ください。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 大河企画の「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」、引き続き開講中です。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『今日も世界は迷走中』 好評発売中!★ ウクライナ侵攻の裏で起きた、日本の運命を変える世界の出来事とは!内藤節炸裂。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-31 Sat 03:11
現在開催中の東京五輪ですが、きのう(30日)は、柔道女子78キロ超級の素根輝とフェンシング男子エペ団体の日本代表が金、バドミントン混合ダブルスの渡辺勇大・東野有紗組が銅、の各メダルを獲得しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ことし(2021年)7月23日(五輪開会式の日)、ルーマニアが発行した東京五輪の記念切手のうち、フェンシングを取り上げた1枚です。ちなみに、ルーマニアがフェンシングでメダルを獲得したのは、2016年のリオデジャネイロ五輪のフェンシング女子エペ団体での金メダルが最初で、今大会では、アナマリア・ポペスクが女子エペ個人で銀メダルを獲得しています。 さて、わが国におけるフェンシングの歴史は、西洋の軍人のたしなみであった剣技を陸軍が導入すべく、1884年、陸軍卿・西郷従道の命を受けた陸軍戸山学校が“片手軍刀術”を教えるフランス人教官を募集したのがルーツとされています。 1896年にアテネで第1回近代オリンピックが開催されると、フェンシングも正式種目として採用されましたが、当時は競技方法やルール等がまちまちだったため、国際大会が開催されるたびにさまざまなトラブルが発生しました。このため、1914年6月、パリで開催されたIOC国際会議で統一的な「競技規則」が採用され、現在のフェンシングの基礎が確立されます。 ところで、岩倉具視の養子・具綱の孫にあたる岩倉具清は、この時代にフランスのグルノーブル大学に留学し、趣味としてフェンシングとその統一ルールを習得して1932年に帰国。帰国後は駐日アルゼンチン公使館に勤務し、1935年、アルゼンチン臨時代理公使アルトゥーロ・モンテネグロらの後援を得て“日本フェンシング倶楽部”を設立し、スポーツとしてのフェンシングを日本に紹介しました。 五輪のフェンシング競技への日本代表の派遣は、1952年のヘルシンキ五輪に、慶應OBの牧真一が“視察員”の名目で、事実上のフェンシング日本代表として参加したのが最初で、さらに、1956年のメルボルン五輪には同じく慶應OBの佐野雅之が“視察員”の名目で出場しました。日本フェンシング協会が正規の選手団を派遣したのは1960年のローマ五輪が最初で、1964年の東京五輪では男子フルーレ団体が4位に入賞しました。 五輪でのメダルは、2008年の北京五輪の男子フルーレ個人で太田雄貴が銀メダルを獲得したのが最初で、続く2012年のロンドン五輪でも男子フルーレ団体で銀メダルを獲得。今回の東京五輪で、悲願の金メダル到達となりました。 * 昨日(30日)、アクセスカウンターが238万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月2日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-20 Tue 01:45
米国の食品会社、ホーメルが、“呼吸できるベーコン(Breathable Bacon)”という名前で同社のベーコンの香りがするマスクを開発。10月28日まで特設サイトからの申込みで無料配布され、ひとつの申し込みにつき1食(1万食まで)が米国の恵まれない人たちに寄付されるそうです。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2019年10月1日、シビウが“欧州美食地域”に選ばれたことを記念してルーマニアが発行した切手のうち、シビウのランドマーク、時計塔と、豚肉で知られる同地のハム、ベーコンを取り上げた1枚です。 紀元前のデンマーク人は、塩漬けにした豚肉を火であぶったものを航海用の食糧として用いていましたが、あるとき、たまたま湿った薪の煙で燻されたものが、風味が良く、より長期間の保存に耐えることが分かったため、人為的に塩漬けの豚肉を煙で燻したものが作られるようになりました。これが、現在のベーコンの原型で、いったん塩漬けにした豚肉を塩抜きしてから燻製したものは、欧州大陸では古くから食されていました。 現在のように“ベーコン”の名で世界的に普及するのは、16世紀末、英国艦体が世界各地に進出していく過程で、政治家であり哲学者でもあった随筆家のフランシス・ベーコンが船舶用の食糧として塩漬け豚肉の燻製品を大量に作らせたことによるものです。ちなみに、ベーコンとその製法がわが国に伝わったのは幕末のことでした。 今回ご紹介の切手の題材となっているシビウは、12世紀半ば、ハンガリー王ゲーザ2世が辺境防衛のためにザクセン人(ドイツ人)を招いて入植させたのがルーツで、中欧とバルカン半島を結ぶルート上に位置するため、歴史的に、さまざまな勢力の侵攻を受けてきました。 1691年以降はハプスブルク家の支配下でドイツ語名のヘルマンシュタットと呼ばれ、トランシルヴァニアの文化的・経済的な中心のひとつとして繁栄。さらに、1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国が発足すると、ハンガリー王国に編入され、ハンガリー語の“ナジセベン”と呼ばれました。現在のように、ルーマニア語の“シビウ”となったのは、第一次大戦終結後の1918年12月1日、ハプスブルク帝国の崩壊により、トランシルヴァニアがルーマニア領になってからのことです。 ちなみに、シビウとその歴史については、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行:ルーマニアの古都を歩く』でも1章を設けてご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-12-22 Sun 07:47
チャウシェスク独裁政権が崩壊した1989年12月22日のルーマニア革命から30年がたちました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1990年、1989年革命1周年を記念してルーマニアで発行された寄附金つき切手で、革命発祥の地となったティミショアラで、共産国家の国章を切り取った国旗(穴あき国旗)を掲げて勝利を祝う人々が描かれています。 ハンガリー国境に近いルーマニアの都市、ティミショアラ(ハンガリー語でテメシュヴァール、ドイツ語でテメシュブルク)は、トランシルヴァニアのバナト地方における中核都市として、第一次大戦以前はハプスブルク体制下ハンガリーの重要都市として繁栄していました。 第一次大戦末期の1918年10月、ティミショアラではバナト共和国の独立・建国が宣言され、瀕死のハプスブルク帝国もこれを承認しましたが、混乱の中でセルビア軍がこの地に進駐。バナト共和国はごく短期間で崩壊し、1919年のヴェルサイユ条約、1920年のトリアノン条約を経て、バナト地方の主要部分はルーマニア領に、南西部はユーゴスラビア、北部のごく一部は新独立国家としてのハンガリーに分割され、ティミショアラもルーマニア領となります。こうした経緯から、共産体制下でも、ティミショアラにはハンガリー系住民が多数居住していました。 さて、1988年3月、チャウシェスク政権は、破綻に陥っていた社会主義経済を立て直しすための起死回生の策として、“農村再編計画”を発表。生産を高めるためとの名目で、農地整備のためにトランシルヴァニアを中心に8000もの村落を破壊し、農民を強制移住させようとしました。 当然のことながら、“農村再編計画”は国民、なかでも、強制移住の対象者が多かったハンガリー系(当時のルーマニアの人口の27%を占めていました)の猛反発を招き、体制に絶望したハンガリー系住民のハンガリーへの逃亡が続出。ハンガリー政府もルーマニアの政策を人権侵害として国連人権委員会に提起するなかで、ラースロー・テケシュという一人のカルヴァン派牧師の存在がにわかにクローズアップされていくことになります。 テケシュは1952年生まれ。最初の任地であったデジュで当局の意向に反してハンガリーの文化と歴史を講じて解職され、2年間のブランクの後、1986年、ティミショアラに赴任しました。 ティミショアラでの彼は、次第に体制批判の度を強め、ハンガリー系のみならず全ての抑圧されたルーマニア人のための人権擁護運動を展開し、幅広い支持を集めるようになります。これに対して、テケシュの行動を苦々しく思っていたルーマニア政府は、1989年7月、厄介払いの意味も込めて、彼の申請を受理してハンガリー行きの旅券を発給しました。 出国したテケシュはハンガリーでカナダのテレビ局のインタビューを受け、トランシルヴァニアのハンガリー系住民の苦境について語り、そのインタビューがハンガリーで放映されると、大きな話題となりました。 当然、テケシュはそのままハンガリーに亡命するものと思われていたのですが、予想に反して、ルーマニアに帰国してしまいます。 その後、テケシュの元には毎日のように脅迫状が舞い込み、9月には支持者が謎の“自殺”に追い込まれました。さらに、治安当局は彼を12月15日限りでティミショアラからの退去と北部の寒村、ミネウへの強制移住を命じます。 これに対して、ティミショアラからの強制退去期限の12月15日が近づくと、その数日前から、彼を守ろうとする信者たちが教会に泊まり込むようになりました。そして、15日の当日はさらに多くの信者や市民が集まって教会を取り囲み、出動した治安警察部隊に激しく抗議します。さらに、翌16日、期限切れを理由に治安警察がテケシュを連行しようとすると、ついに市民の怒りが爆発。多数の市民が市内中心部に集まり、共産党ティミショアラ県委員会本部がある市役所に乱入して、書類を破り、チャウシェスクの肖像画を窓から投げ捨て、街路で火をつけるなど、ティミショアラは騒乱状態となりました。 報告を受けた党政治執行委員会は緊急会議を招集し、チャウシェスクは治安警察部隊に実弾を供給していなかったとして、ヴァシレ・ミレア国防相とトゥドル・コスタニク内相、ユリアン・ブラッド秘密警察長官(内務副相)の三人を厳しく叱責。「党の建物に侵入した者を生きたまま帰すな」と厳命します。 さらに、17日、チャウシェスクはティミショアラに内務省秘密警察、国境警備隊、治安警察の応援部隊を派遣し、市内中心部のオペラ劇場付近に集まっていた市民に対して自動小銃や装甲車の車載銃などで発砲。多数の死傷者が生じ、大聖堂正面の階段は、堂内に逃げ込もうとしたものの、背後から治安部隊の銃弾を受けた子供たちの鮮血で赤く染まりました。こうして、“暴徒”を鎮圧したチャウシェスクはすっかり安心し、予定通り、翌12月18日から外遊先のイランへと旅立ちます。 一方、治安部隊の発砲によりティミショアラで多数の犠牲者が出たという情報は、ただちにVOA(アメリカの声)などによって全世界に拡散。ルーマニア国内では事件についての報道はなく、首都ブカレストも表面的には平穏を保っていましたが、17日の流血事件の情報は口コミでルーマニア国内を駆け巡り、ブラショフ、アラド、シビウ、クルージュなどでも暴動が発生。翌19日にはルーマニア全土に非常事態宣言が布告されました。 チャウシェスクは20日にイランから帰国し、情勢報告を受けると、国営ルーマニア放送のテレビを通じて演説をおこない、発砲は“暴徒”鎮圧のためにやむを得なかったと説明。しかし、ティミショアラの市民や犠牲者たちを“フーリガン”“外国のスパイ”と非難した彼の演説は、結果的に、多くの国民の猛反発を買います。 翌21日、チャウシェスクはブカレスト中心部の勝利広場で官製集会を開きましたが、群衆の中から「チャウシェスク打倒」、「ティミショアラ」の野次が飛び、爆竹が炸裂したため、演説は中断。翌22日、チャウシェスクは全土に戒厳令を発し、軍に治安回復を命じましたが、軍は命令を拒否し、かえって装甲車で大統領官邸のある共和国広場に押し寄せてきました。ここにいたり、チャウシェスク夫妻は党本部からヘリコプターで脱出。独裁政権は崩壊しました。 なお、1989年のルーマニア革命については、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でも解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 12月27日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★ イベント等のご案内 ★★ 今後の各種イベント・講座等のご案内です。詳細については、イベント名をクリックしてご覧ください。 ・第11回テーマティク研究会切手展 1月11-12日(土・日) 於・切手の博物館(東京・目白) テーマティク研究会は、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。今回の展覧会は、昨年に続き11回目の開催で、香港情勢が緊迫している折から、メインテーマを香港とし、内藤も「香港の歴史」のコレクションを出品しています。 また、会期中の12日13:00からは、拙著『(シリーズ韓国現代史1953-1865)日韓基本条約』の刊行を記念したトークイベントも行います。 展覧会・トークイベントともに入場無料・事前予約不要ですので、ぜひ、遊びに来てください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-02-02 Thu 14:50
ルーマニアで、きのう(1日)、汚職を免罪する緊急命令を発令した政府への抗議デモが全土で30万人にまで拡大し、1989年にニコラエ・チャウシェスク大統領の社会主義政権を打倒したデモ以来、最大の規模となったそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1990年、1989年革命1周年を記念してルーマニアで発行された寄附金つき切手で、首都ブカレストでのチャウシェスク政権に対する反政府デモのようすが描かれています。 社会主義経済が破綻していたルーマニアのチャウシェスク政権は、起死回生の策として、1988年3月、“農村再編計画”を発表。生産を高めるためとの名目で、農地整備のためにトランシルヴァニアを中心に8000もの村落を破壊し、農民を強制移住させようとしました。 当然のことながら、“農村再編計画”は国民、なかでも、強制移住の対象者が多かったハンガリー系(当時のルーマニアの人口の27%を占めていました)の猛反発を招き、体制に絶望したハンガリー系住民のハンガリーへの逃亡が続出。ハンガリー政府もルーマニアの政策を人権侵害として国連人権委員会に提起するなかで、ラースロー・テケシュという一人のカルヴァン派牧師の存在がにわかにクローズアップされていくことになります。 テケシュは1952年生まれ。最初の任地であったデジュで当局の意向に反してハンガリーの文化と歴史を講じて解職され、2年間のブランクの後、1986年、ティミショアラに赴任しました。 ティミショアラでの彼は、次第に体制批判の度を強め、ハンガリー系のみならずすべての抑圧されたルーマニア人のための人権擁護運動を展開し、幅広い支持を集めるようになります。これに対して、テケシュの行動を苦々しく思っていたルーマニア政府は、1989年7月、厄介払いの意味も込めて、彼の申請を受理してハンガリー行きの旅券を発給しました。 出国したテケシュはハンガリーでカナダのテレビ局のインタビューを受け、トランシルヴァニアのハンガリー系住民の苦境について語り、そのインタビューがハンガリーで放映されると、大きな話題となりました。 当然、テケシュはそのままハンガリーに亡命するものと思われていたのですが、予想に反して、ルーマニアに帰国してしまいます。 その後、テケシュの元には毎日のように脅迫状が舞い込み、9月には支持者が謎の“自殺”に追い込まれました。さらに、治安当局は彼を12月15日限りでティミショアラからの退去と北部の寒村、ミネウへの強制移住を命じます。 これに対して、ティミショアラからの強制退去期限の12月15日が近づくと、その数日前から、彼を守ろうとする信者たちが教会に泊まり込むようになりました。そして、15日の当日はさらに多くの信者や市民が集まって教会を取り囲み、出動した治安警察部隊に激しく抗議します。さらに、翌16日、期限切れを理由に治安警察がテケシュを連行しようとすると、ついに市民の怒りが爆発。多数の市民が市内中心部に集まり、共産党ティミショアラ県委員会本部がある市役所に乱入して、書類を破り、チャウシェスクの肖像画を窓から投げ捨て、街路で火をつけるなど、ティミショアラは騒乱状態となりました。 報告を受けた党政治執行委員会は緊急会議を招集し、チャウシェスクは治安警察部隊に実弾を供給していなかったとして、ヴァシレ・ミレア国防相とトゥドル・コスタニク内相、ユリアン・ブラッド秘密警察長官(内務副相)の三人を厳しく叱責。「党の建物に侵入した者を生きたまま帰すな」と厳命します。 さらに、17日、チャウシェスクはティミショアラに内務省秘密警察、国境警備隊、治安警察の応援部隊を派遣し、市内中心部のオペラ劇場付近に集まっていた市民に対して自動小銃や装甲車の車載銃などで発砲。多数の死傷者が生じ、大聖堂正面の階段は、堂内に逃げ込もうとしたものの、背後から治安部隊の銃弾を受けた子供たちの鮮血で赤く染まりました。こうして、“暴徒”を鎮圧したチャウシェスクはすっかり安心し、予定通り、翌12月18日から外遊先のイランへと旅立ちます。 一方、治安部隊の発砲によりティミショアラで多数の犠牲者が出たという情報は、ただちにVOA(アメリカの声)などによって全世界に伝えられました。ルーマニア国内では事件についての報道はなく、首都ブカレストも表面的には平穏を保っていましたが、17日の流血事件の情報は口コミでルーマニア国内を駆け巡り、ブラショフ、アラド、シビウ、クルージュなどでも暴動が発生。翌19日にはルーマニア全土に非常事態宣言が布告されました。 チャウシェスクは20日にイランから帰国し、情勢報告を受けると、国営ルーマニア放送のテレビを通じて演説をおこない、発砲は“暴徒”鎮圧のためにやむを得なかったと説明。しかし、ティミショアラの市民や犠牲者たちを“フーリガン”“外国のスパイ”と非難した彼の演説は、結果的に、多くの国民の猛反発を買います。 そして、21日、チャウシェスクはブカレスト中心部の勝利広場で官製集会を開きましたが、群衆の中から「チャウシェスク打倒」、「ティミショアラ」の野次が飛び、爆竹が炸裂し、演説を中断。翌22日、全土に戒厳令を発し、軍に治安回復を命じましたが、軍は命令を拒否し、かえって装甲車で大統領官邸のある共和国広場に押し寄せてきました。ここにいたり、チャウシェスク夫妻は党本部からヘリコプターで脱出。独裁政権は崩壊しました。 さて、今回の大規模デモは、昨年12月の選挙で政権を奪還した社会民主党(PSD)ひきいるルーマニア政府が、先月31日夜、一部の汚職犯罪について免罪するとの緊急命令を出し、汚職による損失額が4万4000ユーロ以上だった場合のみ収監対象とすると宣言したことに対して、現在2万4000ユーロの汚職容疑で起訴されているPSD党首のリビウ・ドラグネアを救済しようとする意図が露骨だとして、抗議活動が広がったもので、首都ブカレストでは、昨晩、一部のデモ参加者がペットボトルや爆竹、石などを治安部隊に投げつけ、治安部隊側が催涙ガスで応酬。警官とデモ参加者、合わせて数人が軽傷を負う騒ぎになったそうです。 なお、1989年のルーマニア革命については、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でも解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。 ★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』 ★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2014-12-09 Tue 19:23
ルーマニア政府は、きのう(8日)、アフガニスタンで従軍後に病気を患い衰弱した軍用犬マックスを救うための法改正を命じたそうです。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2002年、ルーマニアが発行した「ルーマニア NATOへの道」と題する記念葉書の1種で、国際治安支援部隊(ISAF)の一員としてアフガニスタンで活動するルーマニア兵が取り上げられています。 1989年の民主革命以降、ルーマニアを含む旧共産圏諸国の多くは、EU加盟という最終目標のための一段階として、まずは、NATOへの加盟を目指していました。このため、ルーマニアは、コソヴォやソマリア、アンゴラなどにPKO部隊を派遣。さらに、2001年12月、アフガニスタンの治安維持を通じアフガニスタン政府を支援するための組織としてISAFが設立されると、これに1000名弱の兵員を派遣しました。こうした実績が認められ、ルーマニアは2004年にNATOに加盟を認められ、2007年、EUにも正式加盟を果たしました。 さて、今回話題となった軍用犬のマックスは5歳のジャーマンシェパードで、アフガニスタンで2度従軍し、爆発物の探知活動に当たっていましたが、帰国後、病気を患って衰弱していました。ルーマニアの法律には引退した軍用犬の飼育を政府が引き継ぐための規定がないため、現状では、マックスは保護施設送りもしくは殺処分となる可能性が高かったのですが、このことを知った動物愛護運動の活動家らがキャンペーンを展開。2万7000人近くがオンライン請願書に署名し、政府を動かしたというわけです。 なお、1989年の民主革命後のルーマニアについては、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でも、いろいろと書いておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ インターネット放送出演のご案内 ★★★ 毎週水曜日、インターネット放送・チャンネルくららにて、内藤がレギュラー出演する番組「切手で辿る韓国現代史」が配信されています。青字をクリックし、番組を選択していただくとYoutube にて無料でご覧になれますので、よろしかったら、ぜひ、ご覧ください。(画像は収録風景で、右側に座っているのが主宰者の倉山満さんです) ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★ 毎月1回(原則第1火曜日:1月6日、2月3日、3月3日、3月31日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。 次回開催は1月6日(都合により、12月はお休みをいただきます)で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『朝鮮戦争』好評発売中! ★★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』、『郵趣』10月号、『サンデー毎日』10月5日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました! ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2014-11-03 Mon 21:25
昨日(2日)、ルーマニアの大統領選挙が行われ、中道左派のビクトル・ポンタ首相と中道右派で中部シビウ市長のクラウス・ヨハニス氏の2人が他候補を大きくリードし、16日の決選投票に進む見通しとなりました。というわけで、今日はシビウに絡めてこの切手です。
これは、2007年、シビウが同年の欧州文化首都に指定されたことを記念して発行された小型シートで、城壁に囲まれた中世のシビウが描かれています。 欧州文化首都というのは、1985年にギリシャの文化大臣だったメリナ・メルクーリが提唱したもので、EU加盟国の文化閣僚会議でEU加盟国の中から2都市を選んで“欧州文化首都”に指定し、1年間を通して様々な芸術文化に関する行事を開催することで、加盟国の相互理解を深めようというもの。欧州文化首都に指定されれば、ヨーロッパはもとより世界各国から観光客が大挙して押し寄せるため、2007年に新たにEU加盟を果たしたルーマニアにとってはシビウが文化首都の指定を受けたことは、EUからの何よりのご祝儀になったといえましょう。 現在のシビウ市を中心とするシビウ県の地域は、12世紀半ばにハンガリー王ゲーザ二世が辺境防衛のためにザクセン人(ドイツ人)を招いて入植させたことから拓かれました。シビウに直接つながる名前は、1191年のヴァチカンの文書に“シヴィニウム”という地名が登場しています。 なお、シビウというのはルーマニア語の地名ですが、近代以前は、ザクセン人がハンガリー人やセーケイ人とともにトランシルヴァニアの特権階級を構成しており、人口の多数を占めるルーマニア人は小作農として二級市民の地位に甘んじていました。ちなみに、この土地は、ドイツ語ではヘルマンシュタット、ハンガリー語ではナジセベンです。 中央ヨーロッパとバルカン半島を結ぶルートの途中に位置することから、ザクセン人の町、ヘルマンシュタットは商工業の拠点として早くから発達しましたが、その反面、幾度となく外敵の侵攻を受けてきました。1241年にモンゴルが攻め込んできたときには、最初期の城塞は破壊され、生き延びた住民も百人ほどしかいなかったといわれています。その後、シビウは急速に復興を果たし、14世紀にはトランシルヴァニアの商業の中心地として復活。市民は1350年に街区を30の城壁で囲み、1452年にはオスマン帝国の侵攻に備えて4番目の城壁を築いています。 16世紀に入り、ルターによる宗教改革の嵐がヨーロッパを吹き荒れる中で、ザクセン人たちの多くはルター派に改宗しましたが、当時のトランシルヴァニアは宗教的には寛容で、ドイツからは迫害を逃れてきたプロテスタントがヘルマンシュタット近郊に数多く移住。1691年以降、トランシルヴァニアはハンガリーから切り離され、カトリックを奉じるハプスブルク家の支配下に置かれましたが、ザクセン人の特権はほぼ維持され、ヘルマンシュタットはトランシルヴァニアの文化的・経済的な中心のひとつとして繁栄しました。 その後、1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国が発足すると、ヘルマンシュタットを含むトランシルヴァニアはハンガリー王国に編入され、消印の地名表記もザクセン人が慣れ親しんでいたヘルマンシュタットから、ハンガリー語の“ナジセベン”へと改められています。さらに、第一次大戦終結後の1918年12月1日、ハプスブルク帝国の崩壊により、トランシルヴァニアがルーマニア領となると、それまでヘルマンシュタットもしくはナジセベンと呼ばれていた都市は、ようやく、住民の多数を占めるルーマニア人の呼び名である“シビウ”が正式名称となりました。 なお、シビウとその歴史については、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でも1章を設けて解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ インターネット放送出演のご案内 ★★★ 毎週水曜日、インターネット放送・チャンネルくららにて、内藤がレギュラー出演する番組「切手で辿る韓国現代史」が配信されています。青字をクリックし、番組を選択していただくとYoutube にて無料でご覧になれますので、よろしかったら、ぜひ、ご覧ください。(画像は収録風景で、右側に座っているのが主宰者の倉山満さんです) ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★ 毎月1回(原則第1火曜日:11月4日、1月6日、2月3日、3月3日、3月31日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。 次回開催は11月4日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『朝鮮戦争』好評発売中! ★★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』、『郵趣』10月号、『サンデー毎日』10月5日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました! ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-03-03 Sat 21:50
きょう(3日)は桃の節句です。というわけで、桃の花に絡んでこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、昨年(2011年)6月にルーマニア(漢字で書くと羅馬尼亜)で発行された桃の花の切手の初日カバーです。 この切手の発行に際してルーマニア郵政が発表したプレスリリースでは、桃についての植物学上の説明に加え、桃が中国原産でアレキサンダー大王によってヨーロッパにもたらされ、大航海時代のスペイン人によってアメリカ大陸にもたらされたこと、17世紀には英仏の宮廷でもてはやされたこと、古代中国では不老長寿の象徴としてみなされていたことなどが説明されています。また、プレスリリースには、「この切手と合わせて2011年3月に発行された芍薬の切手もあわせてどうぞ」といった趣旨の文言も見られます。 このように、今回ご紹介の切手を発行するに際して、ルーマニア郵政は“中国”を強く意識している様子がうかがえますが、その背景には、昨今のルーマニア社会において中国(人)のプレゼンスが急速に高まっているという事情があるとみて間違いないでしょう。 もともと、共産主義時代のルーマニアは、ソ連と距離を置く独自路線を推し進めていたことに加え、チャウシェスク夫妻は1971年に中国・北朝鮮を訪問し、かの地で毛沢東ないしは金日成に対する異常な個人崇拝やマスゲームなどを目にし、自国でもこれと同じことを行うべく、帰国後の同年7月、“ルーマニア文化大革命”を発動して独裁体制を強化していったという経緯があります。したがって、共産政権時代、ルーマニアと中国・北朝鮮は強い友好関係にあり、チャウシェスク政権の崩壊後、北朝鮮は政権崩壊のプロセスをかなり詳細に分析したレポートを残していたとされています。 共産政権の崩壊後の1990年代、中国とルーマニアの政治的な関係は以前ほど緊密ではなくなりましたが、中国が急激な経済成長を遂げると、今度は経済という点から中国はルーマニアに注目するようになります。特に、2004年にルーマニアが北大西洋条約機構 (NATO) に参加し、2007年1月に欧州連合(EU)に加盟すると、中国はかつての友誼を持ち出してルーマニアに対するアプローチを加速させていきました。 中国からすれば、NATOの1票を持つルーマニアを取り込んでおくことで、NATOにおける対中批判に対する反撃の拠点を確保することができます。また、EU加盟国であるルーマニアの国内に工場を設けて製品を生産すれば、EU域内の産品としてEU全域へ無関税で持ち出すことができます。さらに、中国とルーマニアの総合的な国力を比較してみれば、中国が圧倒的な優位に立っていることは明白です。こうしたことから、中国にとって、ルーマニアは対EU工作の拠点として格好の存在といえましょう。 一方、人口2100万人強、経済規模でほぼ広島県並みといわれるルーマニアにしてみれば、中国の経済力は非常に魅力的で、それゆえ、近年、中国への傾斜を急速に強めています。 たとえば、2011年8月10日から16日にかけて、ルーマニアのエミル・ボック首相以下、外相、公共財務相、運輸・社会基盤相らを含む大代表団が訪中。ドナウ川・ブカレスト間の運河建設、ブカレスト環状道路の整備に水力発電所の建設、さらには原発2期の増設など、ルーマニアのインフラ整備に関して、中国のより一層の関与を要請しています、これ以外にも、ルーマニア政府は、炭鉱経営や地下鉄建設を中国に任せる意向を示しています。 もちろん、こうした対中依存ともいうべき外交政策に関しては、ルーマニア国内でも国家の基幹インフラを外国にゆだねるのはいかがなものかとの反対意見もあるのですが、訪中団を組織したボック首相は「中国は大事な国だからもっと早く行くべきだった」と応じて、全く意に介するようすはなかったそうです。 一方、中国資本の進出に伴い、ルーマニア国内で働く中国人労働者の数も急増していますが、昨年8月には、古都ヤシの建設現場で働く中国人約50人が待遇への不平から暴動を起こす事件も発生しています。この暴動に際して、中国から派遣された管理者が説得に失敗したことから、ルーマニア警察が催涙ガスを打ち込んで暴動を鎮圧しましたが、このことは、あらためて、ルーマニアの社会と経済における中国のプレゼンスを見せつける結果となりました。 いずれにせよ、今回ご紹介の切手が発行された背景には、現在のルーマニアと中国との抜き差しならぬ関係があるということは、留意しておいた方が良さそうです。 なお、ルーマニアについては、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でもいろいろとご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 3月下旬から、下記の通り、首都圏各地のよみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。(掲載は開催日順) よみうりカルチャー柏 3月23日(金)13:00-15:00(公開講座) 「ご成婚切手の誕生秘話――切手でたどる昭和史」 *柏センター移転、新装オープン記念講座です。 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 ・よみうりカルチャー荻窪 3月27日(火) 13:30~15:30(公開講座) 「ご成婚切手の誕生秘話——切手でたどる昭和史」 4月10日、5月8日、6月12日、7月10日、8月7日、9月11日 (毎月第2火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 ・よみうりカルチャー錦糸町 3月31日(土) 12:30-14:30(公開講座) 皇室切手のモノ語り 4月7日、6月2日、7月7日、8月4日、9月1日 (毎月第1土曜日) 12:30~14:30 郵便学者・切手博士と学ぶ切手のお話 |
2011-06-02 Thu 08:56
きょう(2日)の明け方、北海道・東北・北陸では部分日食がありました。というわけで、きょうは日食の切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1999年8月11日のヨーロッパでの皆既日食に合わせてルーマニアが発行した記念切手のマキシマムカードです。切手は、日食のイメージとルーマニア国土の上を通る軌跡を組み合わせたデザインで、太陽の前を横切る月をデザインした特印もなかなか愛嬌がありますねぇ。 今回の日食は、日付変更線を挟む関係で、6月2日の夜明けに中国北部とシベリアで始まり、6月1日(現地時間)の夕方早くにカナダ北東部、北極で終わるそうです。わが国では、天気が良ければ、午前4時55分頃、稚内で最も大きな欠けが見えたはずですが、きょうは全国的に曇りや雨のようなので、ちょっと難しかったかもしれませんね。まぁ、仮に天気が良くても、その時間帯に起きて日食を見るのは、なかなか容易なことではないのですが。 なお、2週間後の今月16日には、こんどは月食が起こるそうです。1ヶ月の間に日食と月食が立て続けに起こるのは珍しいことですが、それにより重力場の作用が強まるという話を聞くと、また大きな地震が来るんじゃなかろうかとちょっと不安になります。まぁ、自然が相手のことゆえ、我々にできることなど限られてはいるのでしょうが、それでも、今一度できる限りの準備をしておくにこしたことはありませんな。 * 昨晩、カウンターが86万PVを超えました。いつも、遊びに来ていただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 5月29日付『讀賣新聞』に書評掲載! 切手百撰 昭和戦後 平凡社(本体2000円+税) 視て読んで楽しむ切手図鑑! “あの頃の切手少年たち”には懐かしの、 平成生まれの若者には昭和レトロがカッコいい、 そんな切手100点のモノ語りを関連写真などとともに、オールカラーでご紹介 全国書店・インターネット書店(amazon、boox store、coneco.net、JBOOK、livedoor BOOKS、Yahoo!ブックス、エキサイトブックス、丸善&ジュンク堂、楽天など)で好評発売中! |
2009-12-23 Wed 19:24
おかげ様で、昨日(22日)、東京・中野坂上のレストラン“ルーマニア”にて開催いたしました『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』の出版記念パーティーは、盛況のうち、無事に終了いたしました。 ご参加いただきました皆様ならびにご支援・ご協力賜わりました皆様には、この場を借りて、あらためてお礼申し上げます。というわけで、今日はルーマニア+感謝ということで、この1枚を選んでみました。(以下、画像はクリックで拡大されます)
これは、1990年にルーマニアが発行した革命1周年の小型シートで、革命後の混乱の中で新生ルーマニアに対して寄せられた各国の支援に感謝する内容の図案として、食糧援助を行うフランスの自動車と医療援助を行うオーストリアの救急車が描かれています。僕も、多方面の方々のご支援・ご協力に感謝して、この1枚を持ってきたというわけです。 さて、昨日のパーティーは、ルーマニアの革命記念日(12月22日)にあわせたいとの僕のわがままな思いつきのせいで、年末、それも天皇誕生日の前日という皆さんご多忙の時期にもかかわらず、会場のレストランが満員になるほどのお客様にお集まりいただきました。本当にありがたいことです。また、ルーマニア大使館からは、経済担当公使のネゴイツァ・エウジェン閣下にご出席いただき、あたたかいご挨拶をいただいたほか(上の画像・左)、日本におけるジプシー・バイオリンの第一人者・古館由佳子さんの演奏(上の画像・右)も実にすばらしいものでした。もちろん、料理も質・量ともに評判がよく、ご参加いただいた方々にはご満足いただけたようで、主催者としてはホッと胸をなでおろしているところです。 なお、『キュリオマガジン』の連載「郵便学者の世界漫郵記」は、2009年はルーマニアを特集してきましたが、2010年は1年間かけて、マカオ半島の“マカオ歴史市街地区”として世界遺産に指定された史跡等を中心にご紹介していく予定です。そして、この連載をもとに、11月には彩流社の“切手紀行シリーズ”の第3弾としてマカオに関する書籍を刊行し、年末には今回同様、忘年会を兼ねたパーティーを開催したいと思っていますので、引き続き、ご支援・ご協力を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。 ★★★ イベントのご案内 ★★★ 下記の日程で、拙著『昭和終焉の時代』の即売・サイン会(行商ともいう)を行います。入場は無料で、当日、拙著をお買い求めいただいた方には会場ならではの特典をご用意しておりますので、よろしかったら、遊びに来てください。 1月10日(日) 切手市場 於・桐杏学園(東京・池袋) 10:15~16:30 詳細はこちらをご覧ください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 総項目数552 総ページ数2256 戦後記念切手の“読む事典”(全7巻) ついに完結! 『昭和終焉の時代』 日本郵趣出版 2700円(税込) 2001年のシリーズ第1巻『濫造濫発の時代』から9年。<解説・戦後記念切手>の最終巻となる第7巻は、1985年の「放送大学開学」から1988年の「世界人権宣言40周年年」まで、NTT発足や国鉄の分割民営化、青函トンネルならびに瀬戸大橋の開通など、昭和末期の重大な出来事にまつわる記念切手を含め、昭和最後の4年間の全記念・特殊切手を詳細に解説。さらに、巻末には、シリーズ全7巻で掲載の全記念特殊切手の発行データも採録。 全国書店・インターネット書店(amazon、bk1、JBOOK、livedoor BOOKS、7&Y、紀伊国屋書店BookWeb、ゲオEショップ、楽天ブックスなど)で好評発売中! |
2009-12-22 Tue 10:02
チャウシェスク独裁政権が崩壊した1989年12月22日のルーマニア革命から20年がたちました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
左の切手は、1990年にルーマニアが発行した民主革命1周年の記念切手でチャウシェスク政権の崩壊に際して、共産国家の国章を切り取った国旗(穴あき国旗)を掲げるシビウの市民が描かれています。右の写真は、ブカレストの軍事博物館の展示品で、革命直後の穴あき国旗の実物です。ちなみに、ここに示したように旧国章を切り抜く前の共産主義時代の国旗については、下に、国連が発行した国旗シリーズの1枚をご覧ください。 1989年12月17日、ハンガリー系の人権派神父であったラースロー・テケシュの強制退去をめぐり、これに反対するティミショアラ市民と治安部隊の衝突で多くの犠牲者が発生しました。いわゆるティミショアラ事件です。 “暴徒”を鎮圧したチャウシェスクはすっかり安心し、予定通り、翌12月18日から外遊先のイランへと旅立ちました。 しかし、治安部隊の発砲によりティミショアラで多数の犠牲者が出たという情報は、ただちにVOA(アメリカの声)などによって全世界に伝えられます。ルーマニア国内では事件についての報道はなく、首都ブカレストも表面的には平穏を保っていたが、ティミショアラ事件の情報は口コミでルーマニア国内を駆け巡り、ブラショフ、アラド、シビウ、クルージュなどでも暴動が発生。翌19日にはルーマニア全土に非常事態宣言が布告されました。 チャウシェスクは20日にイランから帰国し、情勢報告を受けると、国営ルーマニア放送のテレビを通じて演説をおこない、発砲は“暴徒”鎮圧のためにやむを得なかったと説明。しかし、ティミショアラの市民や犠牲者たちを“フーリガン”“外国のスパイ”と非難した彼の演説は、結果的に、多くの国民の猛反発を買います。 そして、21日、チャウシェスクはブカレスト中心部の勝利広場で官製集会を開きましたが、群衆の中から「チャウシェスク打倒」、「ティミショアラ」の野次が飛び、爆竹が炸裂し、演説を中断。翌22日、全土に戒厳令を発し、軍に治安回復を命じましたが、軍は命令を拒否し、かえって装甲車で大統領官邸のある共和国広場に押し寄せてきました。ここにいたり、チャウシェスク夫妻は党本部からヘリコプターで脱出し、独裁政権は崩壊したのです。 なお、ルーマニア革命については、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。 ★★★ 出版記念パーティーのご案内 ★★★ 『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』の刊行を記念して、ルーマニア民主革命20周年の記念日にあたる12月22日、下記のとおり出版記念パーティーを開催いたします。当日は、僕のトークのほか、日本におけるジプシー・バイオリンの第一人者、古館由佳子さん(当日は彼女のCDも販売します)による生演奏もお楽しみいただけますので、ぜひ、遊びに来てください。 古館由佳子さん ・日時 2009年12月22日 18:30~ ・会場 レストラン・ルーマニア(本格的ルーマニア料理のレストランです。) *東京都中野区本町1-32-24(東京メトロおよび都営地下鉄中野坂上駅1分) tel: 03-5334-5341 地図などはこちらをご覧ください。 料理は下の画像のようなイメージで、ブッフェ・スタイルです。 ルーマニアのワイン(もちろん飲み放題)も出ます。 ・会費 7000円(『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』1冊つき) *当日会場にてお支払いをお願いいたします。 ・参加ご希望の方は、キュリオマガジン編集部まで、電子メール([email protected])にてお申し込みください。たくさんの方々のお越しを心よりお待ちしております。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 総項目数552 総ページ数2256 戦後記念切手の“読む事典”(全7巻) ついに完結! 『昭和終焉の時代』 日本郵趣出版 2700円(税込) 2001年のシリーズ第1巻『濫造濫発の時代』から9年。<解説・戦後記念切手>の最終巻となる第7巻は、1985年の「放送大学開学」から1988年の「世界人権宣言40周年年」まで、NTT発足や国鉄の分割民営化、青函トンネルならびに瀬戸大橋の開通など、昭和末期の重大な出来事にまつわる記念切手を含め、昭和最後の4年間の全記念・特殊切手を詳細に解説。さらに、巻末には、シリーズ全7巻で掲載の全記念特殊切手の発行データも採録。 全国書店・インターネット書店(amazon、bk1、JBOOK、livedoor BOOKS、7&Y、紀伊国屋書店BookWeb、ゲオEショップ、楽天ブックスなど)で好評発売中! |
2009-12-17 Thu 09:56
1989年のルーマニア革命の直接のきっかけとなった“ティミイショアラ事件”から、きょう(12月17日)でちょうど20年です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1989年12月17日のティミショアラ事件から1か月後の1990年12月17日に使われた犠牲者追悼の印です。 社会主義経済が破綻していたルーマニアのチャウシェスク政権は、起死回生の策として、1988年3月、“農村再編計画”を発表。生産を高めるためとの名目で、農地整備のためにトランシルヴァニアを中心に8000もの村落を破壊し、農民を強制移住させようとしました。 当然のことながら、“農村再編計画”は国民、なかでも、強制移住の対象者が多かったハンガリー系(当時のルーマニアの人口の27%を占めていました)の猛反発を招き、体制に絶望したハンガリー系住民のハンガリーへの逃亡が続出。ハンガリー政府もルーマニアの政策を人権侵害として国連人権委員会に提起するなかで、ラースロー・テケシュという一人のカルヴァン派牧師の存在がにわかにクローズアップされていくことになります。 テケシュは1952年生まれ。最初の任地であったデジュで当局の意向に反してハンガリーの文化と歴史を講じて解職され、2年間のブランクの後、1986年、ティミショアラに赴任しました。 ティミショアラでの彼は、次第に体制批判の度を強め、ハンガリー系のみならずすべての抑圧されたルーマニア人のための人権擁護運動を展開し、幅広い支持を集めるようになります。これに対して、テケシュの行動を苦々しく思っていたルーマニア政府は、1989年7月、厄介払いの意味も込めて、彼の申請を受理してハンガリー行きの旅券を発給しました。 出国したテケシュはハンガリーでカナダのテレビ局のインタビューを受け、トランシルヴァニアのハンガリー系住民の苦境について語り、そのインタビューがハンガリーで放映されると、大きな話題となりました。 当然、テケシュはそのままハンガリーに亡命するものと思われていたのですが、予想に反して、ルーマニアに帰国してしまいます。 その後、テケシュの元には毎日のように脅迫状が舞い込み、9月には支持者が謎の“自殺”に追い込まれました。さらに、治安当局は彼を12月15日限りでティミショアラからの退去と北部の寒村、ミネウへの強制移住を命じます。 これに対して、ティミショアラからの強制退去期限の12月15日が近づくと、その数日前から、彼を守ろうとする信者たちが教会に泊まり込むようになりました。そして、15日の当日はさらに多くの信者や市民が集まって教会を取り囲み、出動した治安警察部隊に激しく抗議します。さらに、翌16日、期限切れを理由に治安警察がテケシュを連行しようとすると、ついに市民の怒りが爆発。多数の市民が市内中心部に集まり、共産党ティミショアラ県委員会本部がある市役所に乱入して、書類を破り、チャウシェスクの肖像画を窓から投げ捨て、街路で火をつけるなど、ティミショアラは騒乱状態となりました。 報告を受けた党政治執行委員会は緊急会議を招集し、チャウシェスクは治安警察部隊に実弾を供給していなかったとして、ヴァシレ・ミレア国防相とトゥドル・コスタニク内相、ユリアン・ブラッド秘密警察長官(内務副相)の三人を厳しく叱責。「党の建物に侵入した者を生きたまま帰すな」と厳命します。 さらに、17日、チャウシェスクはティミショアラに内務省秘密警察、国境警備隊、治安警察の応援部隊を派遣し、市内中心部のオペラ劇場付近に集まっていた市民に対して自動小銃や装甲車の車載銃などで発砲。多数の死傷者が生じ、大聖堂正面の階段は、堂内に逃げ込もうとしたものの、背後から治安部隊の銃弾を受けた子供たちの鮮血で赤く染まりました。 こうして、治安部隊の発砲によりティミショアラで多数の犠牲者が出たという情報は、ただちにVOA(アメリカの声)などによって全世界に伝えられました。ルーマニア国内では事件についての報道はなく、首都ブカレストも表面的には平穏を保っていましたが、17日の流血事件の情報は口コミでルーマニア国内を駆け巡り、ブラショフ、アラド、シビウ、クルージュなどでも暴動が発生。翌19日にはルーマニア全土に非常事態宣言が布告され、ついには、22日のチャウシェスク政権打倒へとつながるのです。 なお、1989年の革命とティミショアラについては、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でも解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。 ★★★ 出版記念パーティーのご案内 ★★★ 『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』の刊行を記念して、ルーマニア民主革命20周年の記念日にあたる12月22日、下記のとおり出版記念パーティーを開催いたします。当日は、僕のトークのほか、日本におけるジプシー・バイオリンの第一人者、古館由佳子さん(当日は彼女のCDも販売します)による生演奏もお楽しみいただけますので、ぜひ、遊びに来てください。 古館由佳子さん ・日時 2009年12月22日 18:30~ ・会場 レストラン・ルーマニア(本格的ルーマニア料理のレストランです。) *東京都中野区本町1-32-24(東京メトロおよび都営地下鉄中野坂上駅1分) tel: 03-5334-5341 地図などはこちらをご覧ください。 料理は下の画像のようなイメージで、ブッフェ・スタイルです。 ルーマニアのワイン(もちろん飲み放題)も出ます。 ・会費 7000円(『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』1冊つき) *当日会場にてお支払いをお願いいたします。 ・参加ご希望の方は、キュリオマガジン編集部まで、電子メール([email protected])にてお申し込みください。たくさんの方々のお越しを心よりお待ちしております。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 総項目数552 総ページ数2256 戦後記念切手の“読む事典”(全7巻) ついに完結! 日本郵趣出版 2700円(税込) 2001年のシリーズ第1巻『濫造濫発の時代』から9年。<解説・戦後記念切手>の最終巻となる第7巻は、1985年の「放送大学開学」から1988年の「世界人権宣言40周年年」まで、NTT発足や国鉄の分割民営化、青函トンネルならびに瀬戸大橋の開通など、昭和末期の重大な出来事にまつわる記念切手を含め、昭和最後の4年間の全記念・特殊切手を詳細に解説。さらに、巻末には、シリーズ全7巻で掲載の全記念特殊切手の発行データも採録。 全国書店・インターネット書店(amazon、bk1、JBOOK、livedoor BOOKSなど)で好評発売中! |
2009-11-21 Sat 11:25
『キュリオマガジン』2009年12月号が出来上がりました。僕の連載「郵便学者の世界漫遊記」ですが、ルーマニア篇は今回が最終回。前回に続きルーマニア北東部・南ブコヴィナの“5つの修道院”の4回目。今回は、そのなかから、こんなモノをもってきました。(以下、画像はクリックで拡大されます)
これは1991年に発行されたプトナ修道院の切手と、その実際の写真です。“5つの修道院”というタイトルによれば、今回は記事中のアルボーレ修道院を取り上げるべきなのでしょうが、同修道院については、以前の記事でもご紹介したことがありますので、今回はいままで取り上げたことのないプトナ修道院を持ってきました。 モルダヴィアの、というより全ルーマニア人にとっての民族的英雄であるシュテファン大公は、戦で勝利を収めるたびに修道院を一つずつ寄進することを誓い、それを実行に移した人物で、キリアの戦いでオスマン帝国を破った後、1466年7月10日、神への感謝を示すために聖母マリア(正教会では“生神女マリヤ”のが一般的)にささげる教会を建設することを決意。ブコヴィナのヴィコヴ・デ・スス村を200ズロトで購入。村を見渡せる丘の上から3本の矢を放ち、1本目が落ちた場所に修道院の聖なる井戸を、2本目が落ちた場所に祭壇を、3本目が落ちた場所に鐘楼を建てたといわれています。 修道院の建設は、近隣の洞窟に住んでいた隠者ダニエル(後にヴォロネツ修道院の初代院長となった人物)の指導の下、およそ3年がかけられ、1470年9月3日、大公とその家族が参列する中、成聖式(聖職者の祈りによって、礼拝の器具や建造物などを聖なるものとする儀式)が行われました。この結果、プトナ修道院はモルダヴィアにおける宗教・芸術・文化の中心地としての地位を獲得。1504年に亡くなったシュテファン大公のみならず、息子のボグダン三世やペトゥル・ラレシュ(モルドヴィツァ修道院を建立したモルダヴィア公)もここに埋葬されています。 当初の建物は、1484年の火災によりほとんど焼失し、2年後に再建されましたが、その後も、戦乱や火災、さらには地震などで何度か損傷し、そのたびに再建されるという歴史が繰り返され、1881年9月に周囲の壁と塔が建設され、ほぼ現在のかたちとなりました。 聖堂の外壁は真っ白で、壁画が描かれていないがゆえに世界遺産には指定されていないものの、ほとんど飾りがないことがかえって修道院としての品格や威厳といったものを強く感じさせます。 さて、「郵便学者の世界漫郵記」ですが、2008年11月号掲載の“ブラン城”から14回続いたルーマニア篇は今回で終了し、次回・2010年1月号からは新たにマカオ篇がスタートします。ぜひ、ご期待ください。 また、プトナ修道院に関しては、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でも詳しくご紹介しておりますので、あわせてご覧いただけると幸いです。 ★★★ 出版記念パーティーのご案内 ★★★ 『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』の刊行を記念して、ルーマニア民主革命20周年の記念日にあたる12月22日、下記のとおり出版記念パーティーを開催いたします。ちょっと変わったオフ会あるいは忘年会としていかがでしょうか。当日は、僕のトークのほか、楽しいアトラクションを予定しております。 ・日時 2009年12月22日 18:30~ ・会場 レストラン・ルーマニア(本格的ルーマニア料理のレストランです) *東京都中野区本町1-32-24(東京メトロおよび都営地下鉄中野坂上駅1分) tel: 03-5334-5341 地図などはこちらをご覧ください。 ・会費 7000円(『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』1冊つき) *当日会場にてお支払いをお願いいたします。 ・参加ご希望の方は、12月18日までにキュリオマガジン編集部まで、電子メール([email protected])にてお申し込みください。たくさんの方々のお越しを心よりお待ちしております。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行:ルーマニアの古都を歩く』 (彩流社 オールカラー190ページ 2800円+税) 全世界に衝撃を与えた1989年の民主革命と独裁者チャウシェスクの処刑から20年 ドラキュラ、コマネチ、チャウシェスクの痕跡を訪ねてルーマニアの過去と現在を歩く! 全国書店・インターネット書店(アマゾン、bk1、7&Y、Yahoo!ブックス、楽天ブックス、livedoor BOOKS、紀伊国屋書店BookWeb、本やタウンなど)にて好評発売中! |
2009-10-14 Wed 18:52
きょう(10月14日)は“鉄道の日”(昔は鉄道記念日といいましたな)です。というわけで、近日刊行の拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』のなかから、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2008年に発行されたルーマニア鉄道150年の記念切手のうちの1枚で、1869年12月に開通したスチャヴァ=ロマン間の路線図と開業時の列車が描かれています。 1359年にモルダヴィア公国が建国された時、最初の首都はモルドヴァ川沿いのバイアに置かれていました。その後、首都はシレトに移転し、1388年、ペトゥル・ムシャト一世によってスチャヴァが公国の首都と定められ、1546年のヤシ遷都まで、首都としての地位を保ちました。 その後、ブコヴィナがハプスブルク帝国の支配下に入ると、現在のスチャヴァ市の南東を流れるスチャヴァ川がハプスブルク帝国とモルダヴィア公国(ないしはルーマニア)との国境となります。この結果、両国はそれぞれの国境近くまで引いて別個に鉄道を敷き、別々にスチャヴァ駅を作りました。そのハプスブルク側の駅が北駅で、ルーマニア側の駅が南駅です。なお、現在、単に“スチャヴァ駅”というと南駅を指します。 ちなみに、現在のスチャヴァ北駅はこんな感じです。 一方、スチャヴァ駅(南駅)はこんな感じ。右端はホールで、歴史的建造物として立ち入り禁止になっていましたが、写真の撮影はできました。 ガイドブックなどには北駅のほうが主要駅と書かれていることにくわえ、ハプスブルク帝国とルーマニアの国力の差から考えて、南駅は大したことはなかろうと僕はタカをくくっていたのですが、レンガ造りの駅舎は予想していたよりもずっと立派なもので、個人的には南駅の方が気に入りました。 モルダヴィアとワラキアの統一によって、近代ルーマニア国家が誕生したのは1861年のことでした。スチャヴァ駅の開業は、そのわずか8年後のことです。新生ルーマニアとしては、国家の威信をかけて、隣国(ハプスブルク帝国)に負けないよう、北方の玄関口としての国境の駅の建設に取り組んだのかもしれません。 さて、かねてこのブログでもご案内している拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』ですが、本日、予定よりも早くサンプルができあがってきました。奥付上の刊行日は11月5日ですが、10月23日には全国の主要書店に配本される予定です。実物を見かけることがありましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。 ☆☆ お待たせしました! 半年ぶりの新刊です ☆☆ 全世界に衝撃を与えた1989年の民主革命と独裁者チャウシェスクの処刑から20年 ドラキュラ、コマネチ、チャウシェスクの痕跡を訪ねてルーマニアの過去と現在を歩く! “切手紀行シリーズ”の第2弾 オールカラーで10月23日、配本予定! 『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行:ルーマニアの古都を歩く』 (彩流社 オールカラー190ページ 2800円+税) 10月31日(土) 11:00から、<JAPEX09>会場内(於・サンシャイン文化会館)で刊行記念のトークイベントを行いますので、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 異色の仏像ガイド決定版 全国書店・インターネット書店(アマゾン、bk1、7&Yなど)・切手商・ミュージアムショップ(切手の博物館・ていぱーく)などで好評発売中! 『切手が伝える仏像:意匠と歴史』 彩流社(2000円+税) 300点以上の切手を使って仏像をオールカラー・ビジュアル解説 仏像を観る愉しみを広げ、仏教の流れもよくわかる! |
2009-09-23 Wed 15:32
今日は彼岸の中日。僕は今年も行きそびれてしまいましたが、お墓参りの日です。というわけで、現在制作中の『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』(仮題・11月刊行予定)に掲載予定のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1990年にルーマニアが発行した民主革命1周年の記念切手で、ティミショアラの大聖堂前で犠牲者を悼む人々が取り上げられています。 1989年のルーマニア革命は、同年12月16日、チャウシェスク政権がハンガリー系の牧師で人権活動家のラースロー・テケシュをティミショアラから追放しようとしたことに反発した住民が、これを阻止しようとして教会を取り囲み、出動した治安警察部隊と衝突したことから始まりました。 テケシュを連行しようとする治安警察に対して怒りを爆発させた多くの市民は、市内中心部に集まり、共産党ティミショアラ県委員会本部がある市役所に乱入。書類を破り、チャウシェスクの肖像画を窓から投げ捨て、街路で火をつけるなど、ティミショアラは騒乱状態となりました。 これに対して、チャウシェスクは“暴徒”の徹底弾圧を指示し、治安警察に対して「党の建物に侵入した者を生きたまま帰すな」と厳命。翌17日には、ティミショアラに内務省秘密警察、国境警備隊、治安警察の応援部隊を派遣し、市内中心部のオペラ劇場付近に集まっていた市民に対して自動小銃や装甲車の車載銃などで発砲します。この結果、多数の死傷者が生じ、大聖堂正面の階段は、堂内に逃げ込もうとしたものの、背後から治安部隊の銃弾を受けた子供たちの鮮血で赤く染まったといわれています。また、鎮圧にあたった治安部隊の装甲車に轢き殺された子供や老人も少なくありませんでした。 このティミショアラの惨劇が、チャウシェスク政権の圧政に対するルーマニア国民の怒りを爆発させる結果となり、政権の打倒につながっていくのです。ちなみに、ティミショアラの大聖堂前には、革命の犠牲者を悼むためのこんな十字架が立っていました。 さて、今年はチャウシェスクの処刑で全世界に衝撃を与えたルーマニアの民主革命から20周年にあたります。これにあわせて、11月には、彩流社の“切手紀行シリーズ”の第2弾として、ルーマニアを舞台とした拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』(仮題)を刊行する予定です。すでに、原稿はすべて書きあがっており、現在は編集作業を進めているところですが、発売日は定価などが決まりましたら、逐次、このブログでもご案内してまいりますので、どうかよろしくお願いします。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 異色の仏像ガイド決定版 全国書店・インターネット書店(アマゾン、bk1、7&Yなど)・切手商・ミュージアムショップ(切手の博物館・ていぱーく)などで好評発売中! 『切手が伝える仏像:意匠と歴史』 彩流社(2000円+税) 300点以上の切手を使って仏像をオールカラー・ビジュアル解説 仏像を観る愉しみを広げ、仏教の流れもよくわかる! |
2009-08-29 Sat 15:34
きょう(8月29日)は、洗礼者聖ヨハネの殉教の日です。というわけで、こんな切手をもってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1996年にルーマニアが発行した切手で、南ブコヴィナ地方の“5つの修道院”のうちのアルボーレ修道院が取り上げられています。 アルボーレ修道院は、1503年、モルダヴィアの貴族だったルカ・アルボーレが洗礼者ヨハネ(ルーマニア語でいうとイオアンですが)の殉教にささげるために建立されました。 洗礼者ヨハネは、人々に神の国の到来と悔い改めを説くとともに、ヨルダン川でイエスを含む多くの人々に洗礼を授けていましたが、当時、この地域を治めていたヘロデ王が弟の妻ヘロディアを自分の妻としたことを批判し、投獄されてしまいます。その後、ヘロデは、自らの誕生日の宴席で、ヘロディアの娘サロメが披露した踊りに感心し、褒美として望むものは何でも与えると公衆の面前で約束。これに対して、ヨハネを憎んでいたヘロディアは、娘のサロメをそそのかしてヨハネの首を望ませました。ヘロデは、ヨハネを投獄したものの、彼が人々の尊敬を集めていることを知っていたため、ヨハネの処刑には躊躇しましたが、最終的に、王として公の約束を破るわけにはいかず、ヨハネの首を斬ってしまいました。これが、洗礼者ヨハネの殉教です。 今回ご紹介した修道院を建立したアルボーレは、シュテファン大公、ボグダン3世、シュテファニツァの三代のモルダヴィア公に仕えましたが、後にシュテファニツァと対立し、1532年、二人の息子とともに斬首されてしまいます。まぁ、彼も修道院を建立した際には、まさか自分がヨハネと同じ運命をたどることになろうとは想像だにしていなかったでしょうが、なんとも皮肉な話です。 さて、今年はチャウシェスクの処刑で全世界に衝撃を与えたルーマニアの民主革命から20周年にあたります。これにあわせて、現在、11月にルーマニアがらみの本を刊行すべく準備を進めているところです。正式タイトルや内容の詳細などが決まりましたら、逐次、このブログでもご案内してまいりますので、どうかよろしくお願いします。 * このブログでご案内しておりました「タイ」フォーラム <タイの魅力-タイは私をなぜ虜にしたのか?>(9月4日)は申し込みが定員に達しましたので、受付を終了しました。ありがとうございました。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 異色の仏像ガイド決定版 全国書店・インターネット書店(アマゾン、bk1、7&Yなど)・切手商・ミュージアムショップ(切手の博物館・ていぱーく)などで好評発売中! 『切手が伝える仏像:意匠と歴史』 彩流社(2000円+税) 300点以上の切手を使って仏像をオールカラー・ビジュアル解説 仏像を観る愉しみを広げ、仏教の流れもよくわかる! |
2009-07-25 Sat 14:37
『キュリオマガジン』2009年8月号が出来上がりました。僕の連載「郵便学者の世界漫遊記」は、前回に続き、1989年のルーマニア民主革命の発祥の地・ティミショアラを取り上げました。その記事のなかから、今日は、こんなモノをもってきてみました。(以下、画像はクリックで拡大されます)
これは、民主革命の直後に発行された記念切手に、革命の発端となったティミショアラ事件1ヶ月の記念印を押したものです。ティミショアラでは、このVサインとよく似たマークを所々で見かけましたが、その一つとして、自由広場西側の軍の施設の前に並べられた75ミリ砲にペイントされていたのが右側の画像です。ちなみに、雑誌ではスペースの関係で割愛しましたが、75ミリ砲の全体像は下の画像のようになっています。 1989年のルーマニア革命は、同年12月16日、チャウシェスク政権がハンガリー系の牧師で人権活動家のラースロー・テケシュをティミショアラから追放しようとしたことに反発した住民が、これを阻止しようとして教会を取り囲み、出動した治安警察部隊と衝突したことから始まりました。 住民の抗議行動に対して、チャウシェスク政権は「党の建物に侵入した者を生きたまま帰すな」と厳命。内務省秘密警察、国境警備隊、治安警察の応援部隊が市内中心部のオペラ劇場付近に集まっていた市民たちに対して自動小銃や装甲車の車載銃などで発砲し、多数の死傷者が発生しました。こうして、“暴徒”を鎮圧したチャウシェスクでしたが、治安部隊の発砲によりティミショアラで多数の犠牲者が出たという情報は、ただちにVOA(アメリカの声)などによって全世界に伝えられるとともに、口コミでルーマニア国内を駆け巡り、アラド、シビウ、クルージュなどでも暴動が発生。19日にはルーマニア全土に非常事態宣言が布告されることになります。 当初チャウシェスクの命令に従って“暴徒”を鎮圧していた国軍でしたが、「国軍の中に“暴徒”の抹殺を躊躇する者があれば容赦なく発砲せよ」とのチャウシェスクの理不尽な命令を受けた国防相のミレアは、これに反発し、「私も軍だ。したがって私は軍を撃つ」と叫んで短銃自殺を遂げます。以後、国軍は革命側につき、国軍の支持を失ったチャウシェスクは翌21日にブカレストで開催した官製集会で国民から引導を渡されることになるのです。 今回の記事では、そうした革命の史跡に加え、かつてのハプスブルク帝国の栄華を思わせる旧市街の町並みなどをご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 異色の仏像ガイド決定版 全国書店・インターネット書店(アマゾン、bk1、7&Yなど)・切手商・ミュージアムショップ(切手の博物館・ていぱーく)などで好評発売中! 『切手が伝える仏像:意匠と歴史』 彩流社(2000円+税) 300点以上の切手を使って仏像をオールカラー・ビジュアル解説 仏像を観る愉しみを広げ、仏教の流れもよくわかる! |
2009-06-26 Fri 14:34
『キュリオマガジン』2009年7月号が出来上がりました。僕の連載「郵便学者の世界漫遊記」は、今回と次回の2回に分けて1989年のルーマニア民主革命の発祥の地・ティミショアラを取り上げます。その記事のなかから、今日は、こんなモノをもってきてみました。(以下、画像はクリックで拡大されます)
左は、ティミショアラのランドマークとなっている大聖堂を取り上げた1990年の切手つき封筒で、右側は、その大聖堂の実際の写真です。 現在のルーマニアは、1877年にワラキアとモルダヴィアが合同してできたルーマニア王国に、第一次大戦後の1918年、トランシルヴァニアが加わってできあがったというのが基本的な成り立ちです。ただし、このときルーマニアに加わったトランシルヴァニアは、歴史的経緯などから、その主要部分を占める狭義のトランシルヴァニア、北部のマラムレシュ、西部のバナトに細分されることもあります。 このうちのバナトですが、広義のバナト地方は、現在のルーマニア領の部分を超えて、セルビア領、ハンガリー領にもひろがっています。そして、歴史的にその中核となってきたのが、ハンガリー国境に近いルーマニアの都市、ティミショアラ(ハンガリー語でテメシュヴァール、ドイツ語でテメシュブルク)です。 ティミショアラは14世紀後半以降、東欧を戦場としたオスマン帝国とキリスト教国の戦いが本格化するなかで、キリスト教国側の最前線となり、軍事都市として繁栄しましたが、1522年、オスマン帝国に占領されました。1716年、オスマン帝国を駆逐してバナト地方を支配下に置いたハプスブルク帝国は、長年の戦乱によって荒廃したバナトの復興に力を注ぎ、都市のインフラ整備を本格的に進めるとともに、ドイツ人、イタリア人、スペイン人などをこの地に入植させましたが、この結果、18世紀から19世紀にかけて、ティミショアラは、ハプスブルク体制下ハンガリーの重要都市として大いに発展していくことになります。 第一次大戦末期の1918年10月、ティミショアラではバナト共和国の独立・建国が宣言され、瀕死のハプスブルク帝国もこれを承認しましたが、混乱の中でセルビア軍がこの地に進駐。バナト共和国はごく短期間で崩壊し、1919年のヴェルサイユ条約、1920年のトリアノン条約を経て、バナト地方の主要部分はルーマニア領に、南西部はユーゴスラビア、北部のごく一部は新独立国家としてのハンガリーに分割されました。もちろん、中核都市としてのティミショアラは、主要部分を抑えたルーマニア領となります。 長年にわたるハプスブルク帝国支配下のバナトでは、ルーマニア人は住民の多数派でありながら、二級市民と貶められてきました。新たにこの地を“回復”したルーマニア国家は、そうした屈辱の過去を払拭するためのシンボルとして、1936年、ルーマニア正教の大聖堂の建設に着手します。これが、現在、今回ご紹介している三成聖者大聖堂です。ちなみに、大聖堂の名前に冠せられている三成聖者というのは、初期のキリスト教神学の形成に大きな役割を果たした三人の主教、大ワシリイ、神学者グリゴリイ、金口イオアンのことです。 大聖堂中央の最も高い塔は96メートルの高さがあり、聖堂内には金色の見事なイコノスタシス(最も神聖な場所とされる至聖所を区切るための、イコンで覆われた壁)があります。聖堂内のイコンや外壁の壁画は、1940年に建物が完成した後、アタナシエ・デミアンによって制作されましたが、時あたかも第二次大戦の真っただ中だったこともあり、制作作業しばしば中断を余儀なくされ、最終的に完成したのは1947年のことでした。ちなみに、“宗教はアヘン”とする共産主義者がルーマニアで政権を掌握したのは1947年12月30日のことでしたから、あと少し完成が遅れていたら、大聖堂は未完のまま放置されることになったかもしれません。 さて、今回の記事では、ティミショアラの大聖堂を中心に、1989年の革命の発端になったティミショアラ事件のことなどをまとめてみました。機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 異色の仏像ガイド決定版 全国書店・インターネット書店(アマゾン、bk1、7&Yなど)・切手商・ミュージアムショップ(切手の博物館・ていぱーく)などで好評発売中! 『切手が伝える仏像:意匠と歴史』 彩流社(2000円+税) 300点以上の切手を使って仏像をオールカラー・ビジュアル解説 仏像を観る愉しみを広げ、仏教の流れもよくわかる! |
2009-01-27 Tue 13:39
『キュリオマガジン』の2009年2月号が出来上がりました。僕の連載「郵便学者の世界漫遊記」は、前回につづき、ドラキュラのモデルとされるヴラド・ツェペシュの生まれ故郷・シギショアラを取り上げています。その記事のなかから、今日は、こんなモノをもってきてみました。(以下、画像はクリックで拡大されます)
これは、2007年にルーマニアで発行された“ルーマニアで活躍したドイツ人”の3種セットのうち、ヘルマン・オベルトを取り上げた1枚です。 オベルトは1894年6月25日、当時はオーストリア・ハンガリー支配下にあったシギショアラ近郊のメディアスで生まれ、少年時代をシギショアラで過ごしました。11歳の頃、ジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』と『月世界へ行く』を読んで大いに感銘を受け、14歳の時には宇宙ロケットの模型を作り、独自に多段式ロケットを着想したそうです。 1912年、医学を学ぶためにミュンヘン大学に進学しましたが、第一次大戦にぶつかり、東部戦線に送られます。1915年、彼は軍医としてシギショアラの病院勤務となりましたが、軍務のかたわら、無重力状態に関する実験を行うとともに、ロケット研究を再開。独自のミサイル構想を軍部に提案しています。 第一次大戦後の1919年、オベルトはドイツに戻って物理学を学び直し、1922年にはロケット科学に関する博士論文を提出しましたが、内容が空想的として退けられてしまいます。当時の技術では、オベルトの理論はとても実現できないと考えられていたため、アカデミックな世界では彼の議論はほとんど無視されてしまうのですが、1928~29年にはベルリンで映画『月の女』に登場するロケットについての技術顧問に就任。この映画によって、ロケット科学の考え方は一般に広まり、オベルトも映画のプロモーション活動の一環として小型のロケットを作り、打ち上げています。そして、これを機に、オベルトの研究は一躍脚光を浴びるようになりました。 第二次大戦中、オベルトはドイツ軍のためのロケット開発に尽力しましたが、戦後はその技術力が評価されてアメリカに渡り、1962年に引退するまで研究活動を続け、アポロ計画の礎を築きました。 前回のシギショアラ(前篇)で取り上げた時計塔の内部は歴史博物館になっており、古代の生活用品、ルネサンス時代の家具、17世紀のガラス、18世紀の手術道具などとならんで、“ロケットの父”であるオベルトのコーナーもあります。また、街の中心部には“地元の名士”オベルトの名を冠したヘルマン・オベルト広場もあり(下の画像、左は1905年の絵葉書、右は2008年の撮影です)、オベルトはドラキュラ同様、シギショアラの街にとって重要な人物であることがわかります。 今回の記事では、そんなオベルトを狂言回しとして、シギショアラの旧市街の歴史散歩をまとめてみました。機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 誰もが知ってる“お年玉”切手の誰も知らない人間ドラマ 好評発売中! 『年賀切手』 日本郵趣出版 本体定価 2500円(税込) 年賀状の末等賞品、年賀お年玉小型シートは、誰もが一度は手に取ったことがある切手。郷土玩具でおなじみの図案を見れば、切手が発行された年の出来事が懐かしく思い出される。今年は戦後の年賀切手発行60年。還暦を迎えた国民的切手をめぐる波乱万丈のモノ語り。戦後記念切手の“読む事典”<解説・戦後記念切手>シリーズの別冊として好評発売中! 1月15日付『夕刊フジ』の「ぴいぷる」欄に『年賀切手』の著者インタビュー(左の画像)が掲載されました。 こちらでお読みいただけます。また、日本郵政本社ビル・ポスタルショップでは、『年賀切手』の販売特設コーナー(右の画像)も作っていただきました。 *写真はいずれも:山内和彦さん撮影 もう一度切手を集めてみたくなったら 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。 |
2008-12-29 Mon 10:35
ご報告が遅くなりましたが、『キュリオマガジン』の2009年1月号が出来上がりました。僕の連載「郵便学者の世界漫遊記」は、今回と次回の2回に分けてドラキュラのモデルとされるヴラド・ツェペシュの生まれ故郷・シギショアラを取り上げます。その記事のなかから、今日は、こんなモノをもってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
左は、1997年にルーマニアで発行されたシギショアラの風景を描く切手の1枚で、民衆広場から時計塔を望む景色が描かれています。中央は今年6月に僕が現地で撮影した写真で、右は社会主義時代の1963年に差し出された絵はがきです。 シギショアラはルーマニアのほぼ中央に位置する都市で、12世紀にドイツ系のザクセン人がハンガリー王の招きに応じて辺境地区に定住したのが始まりといわれています。 もともと、この土地は“第六要塞”を意味するカストゥルム・セクスと呼ばれていましたが、ザクセン人の商人や手工業者が増えていくにつれ、モルダヴィア(現在のルーマニアの東北部、カルパティア山脈とプルート川に挟まれた地域を指すことが多いが、ルーマニア領を越えてプルート川の東にあるドニエプル川にいたるベッサラビア地方を含めることもある)やワラキア(ドナウ川と南カルパティア山脈にはさまれた地域。モルダヴィアとの境界はミルコヴ川)との交易で発展しました。 吸血鬼ドラキュラのモデルとされるヴラド・ツェペシュ(ヴラド3世)の父親、ヴラド2世は、1431年、神聖ローマ帝国から龍騎士団の騎士に叙任されましたが、この頃の彼はシギショアラに逼塞していました。ちなみに、龍騎士団のメンバーに選ばれたことで、ヴラド2世は龍(ドラコ)にちなんで“ドラクル”と呼ばれるようになり、このドラクルの息子ということで、ヴラド3世には“ドラクラ”とのあだ名が付けられ、それがドラキュラの語源になります。 シギショアラでのヴラド2世の旧宅、すなわち、ヴラド3世の生家は現存しており、現在ではカーサ・ヴラド・ドラクルという名のレストランになっています。今回ご紹介の画像は、いずれも、正面にシギショアラのシンボルの時計台、その右側にお目当てのレストラン(黄色の壁の建物)が見えるという構図を取っていますが、1997年の切手ではレストランの看板が見えているにもかかわらず、社会主義時代の葉書ではそのような看板は確認できません。外国人観光客をも視野に入れたレストランの営業というものは、やはり、民主化以降のことなのでしょうね。 さて、今回の記事では、カーサ・ヴラド・ドラクル訪問記を中心にシギショアラとその歴史についてまとめてみました。機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 誰もが知ってる“お年玉”切手の誰も知らない人間ドラマ ・・・年末年始はコタツにミカンにこの1冊!! 紅白見ながら、蕎麦食いながら、おせちに飽きたら 『年賀切手』! 『年賀切手』 日本郵趣出版 本体定価 2500円(税込) 年賀状の末等賞品、年賀お年玉小型シートは、誰もが一度は手に取ったことがある切手。郷土玩具でおなじみの図案を見れば、切手が発行された年の出来事が懐かしく思い出される。今年は戦後の年賀切手発行60年。還暦を迎えた国民的切手をめぐる波乱万丈のモノ語り。戦後記念切手の“読む事典”<解説・戦後記念切手>シリーズの別冊として好評発売中! * 内容の一部は、このブログの年賀カテゴリーでもご覧になれます。なお、本書をご自身の関係するメディアで取り上げたい、または、取り上げることを検討したい、という方は、是非、ご連絡ください。資料を急送いたします。 おかげさまで売れてます! おかげさまで、売れ行き好調です。ネット書店でも、bk1、アマゾン、7&Yなどで現在品切れになっているようで、年末年始の休業中ということもあって入荷に時間がかかり、ご迷惑をおかけしておりますが、紀伊国屋書店には在庫があるので、比較的対応が早いだろうと思います。なお、日本郵政本社ビル・ポスタルショップ(現在は年末年始のお休みで1月5日から営業のようです)では、『年賀切手』の販売特設コーナー(下の画像:山内和彦さん撮影)も作っていただきました。 もう一度切手を集めてみたくなったら 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。 |
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