2023-07-26 Wed 08:25
きょう(26日)は、1953年7月26日にフィデル・カストロらがサンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営を襲撃し、キューバ革命の狼煙を上げたことにちなむキューバの革命記念日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1962年7月26日、キューバが発行したモンカダ襲撃事件9周年の記念切手で、事件後、政府軍に殺害されたアベル・サンタマリーアと、事件の現場となったモンカダ兵営が1959年の革命後、“7月26日小学校”の校舎として利用されている様子が描かれています。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 なお、カストロとゲバラのキューバ革命については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 * 昨日(25日)、アクセスカウンターが259万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 7月28日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 新講座「龍の文化史」 8月9日配信開始! 武蔵野大学の新たなWeb講座「龍の文化史」が8月9日から配信開始になります。龍/ドラゴンにまつわる神話や伝説は世界各地でみられますが、想像上の動物であるがゆえに、それぞれの物語には地域や時代の特性が色濃く反映されています。今回の講座では、日本の龍を皮切りに、中国、朝鮮、琉球、東南アジア、キリスト教世界など、世界の龍について興味深いエピソードなどを切手の画像とともにご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。 ジョン・F・ケネディとその時代 毎月第4土曜日開催のよみうりカルチャー北千住での講座です。今から60年前の1963年11月に暗殺されたケネディ大統領とその時代について、様々な角度から解説をします。詳細はこちらをご覧ください。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 大河企画の「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」、引き続き開講中です。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『今日も世界は迷走中』 7月28日発売!★ ウクライナ侵攻の裏で起きた、日本の運命を変える世界の出来事とは!内藤節炸裂。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★ 『現代日中関係史 第2部 1972-2022』 好評発売中!★ 2022年11月に刊行された「第1部1945-1972」の続編で、日中国交”正常化”以降の1972年から2022年までの半世紀の、さまざまな思惑が絡まり合う日中関係の諸問題を、切手とともに紐解いていきます。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-10-09 Sat 11:06
きょう(9日)は、1967年10月9日に亡くなったチェ・ゲバラの命日です。というわけで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1968年にキューバが発行した“闘争の100年・全国切手展”の初日カバーで、左下に、キューバ第一次独立戦争(十年戦争)の指導者で、キューバでは“国父”とも称されるルロス・マヌエル・デ・セスペデスとゲバラの肖像の入った切手展のロゴが印刷されているのがミソです。 1967年10月にゲバラが亡くなったことを受けて、フィデル・カストロはゲバラの神格化を開始します。その一環として、フィデルは1968年を“英雄的ゲリラの年”とし、ゲバラがボリビアで逮捕された10月8日(当時はこの日のうちに彼が処刑されたと伝えられていました)を“英雄的ゲリラの日”に指定。そのうえで、ゲバラの提唱した“新しい人間”のイメージを援用して「キューバは精神的刺激を重視する」と宣言します。 くしくも1968年はキューバ独立運動の出発点ともいうべきセスペデスの“ヤラの叫び”から100周年という節目の年にあたっていたことから、“闘争の100年”というキャッチフレーズが盛んに唱えられ、“大攻勢”と称して職場や学校で砂糖キビ収穫隊が組織され、人々はマチェーテ片手に人海戦術での刈取作業に従事させられました。 しかし、動員された隊員たちはサトウキビの収穫に関しては全くの素人で、彼らがやみくもにマチェーテを当てることでサトウキビの苗を根こそぎ切り取ってダメにする(サトウキビは植えてから4年間の収穫が可能なので、次の新芽が出るように刈り取る必要があります)ケースが続出。また、杜撰な生産計画のため、隊員たちがサトウキビを刈り取ったものの、運搬用のトラックが来ないためにサトウキビがそのまま放置されて醗酵してしまい、その間、隊員たちは無為に遊んでいるという状況が至る所で見られました。 さらに、収穫隊に労働力を取られたことで工場に残った労働者は残業に加え、休日出勤もしなければノルマをこなせなくなりましたが、本来、労働者の権利を擁護すべきキューバ労働者連合は時間外手当を返上。これを受けて、ノルマ超過分に対する報奨金も廃止されるとともに、同一労働同一賃金を規定した新賃金体系が導入されました。これは、労働の成果に関わらず職種ごとに同じ賃金を支給するという、社会主義的な悪平等政策の典型で、もともと決して高くはなかった国民の労働意欲がさらに減退するのは避けられず、砂糖以外の生活物資の生産性は大幅に低下し、深刻なモノ不足の下、一般国民は粗悪な工業製品さえなかなか入手できなくなってしまいました。 こうして飢餓こそ発生しなかったものの、キューバの”大攻勢”は、中国での“大躍進”の失敗同様、惨憺たる失敗に終わりました。 今回ご紹介の初日カバーの題材となっている全国切手展に“闘争の100年”という冠が付けられているのも、まさにこうした時代状況の産物で、切手展のロゴマークはセスペデスとゲバラの間に“闘争の100年”の文字を入れたデザインになっています。これは、キューバの人民がセスペデスからゲバラに至るまで100年間に渡り闘争を続けてきたことを表現するとともに、人民に対してゲバラの後を継いで闘争を継続していくことを暗に求める意図が込められています。 なお、チェ・ゲバラについては、その生涯のみならず、彼の死後、彼の肖像がどのように扱われてきたかを含めて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 10月11日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です! 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-12 Sat 03:00
きょう(12日)は“宇宙の日”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1964年11月7日、ロシア革命記念日にあわせてキューバが発行した“レーニン没後40年”の記念切手のうち、レーニンの肖像とスプートニク1号を組み合わせた1枚です。 1962年のミサイル危機(キューバ危機)は、最終的に、米国がキューバに侵攻しないことを保証し、トルコのミサイル基地を撤去する代償として、ソ連はキューバのミサイル基地を撤去することで決着しました。ただし、当時、米国の譲歩は公表されなかったため、一般には、ミサイル危機は、米国の毅然たる態度の前に、ソ連が“一方的な譲歩”をしたことで核戦争が避けられたとの印象を与え、このことは社会主義陣営の亀裂を、修復しがたいものとしました。 すなわち、スターリンの死後、ソ連のフルシチョフ政権は米国との勝ち目のない全面戦争を回避するために対米宥和路線を打ち出していましたが、このことは、中国をはじめとするアジアの社会主義諸国からは“変節”ととらえられました。中国にすれば、彼ら自身が1953年まで朝鮮の戦場で米軍との死闘を展開していただけでなく、北ヴェトナムや北朝鮮などの友邦が、冷戦の最前線として、“アメリカ帝国主義”の脅威に直接さらされていたからです。 それゆえ、ミサイル危機の結果を目の当たりにしたアジアの共産主義国家は、ソ連に対する失望感を深め、キューバの反米闘争を支援するとの表現で、“修正主義”のソ連と一線を画す意思を示すようになります。 こうした状況の下、キューバ革命の指導部でも、チェ・ゲバラはソ連の“修正主義”を批判する中国への傾斜を強め、ソ連に頼らない“自力更生”路線を主張。これに対して、ソ連はゲバラを危険視し、フィデル・カストロに対してゲバラの排除を求めるとともに、カストロとの関係改善を模索します。 一方、ミサイル危機以降のカストロは、米国の経済封鎖もあって慢性化しつつあった経済的苦境から脱出するためにも、経済援助と引き換えに、ソ連との妥協の道を選ぶ意思を固め、1963年5月、関係改善を望むソ連の招待を受けてもモスクワを訪問。フルシチョフはカストロを歓待し、群衆を動員しての歓迎イベントを行ったほか、ソ連邦英雄称号、レーニン勲章などの栄誉を与えます。そして、ミサイル危機の最中に、ケネディと交わした書簡をカストロに読ませ、キューバにおけるカストロの地位を保証することを約束しました。 これに応えて、5月19日(ホセ・マルティの忌日)、カストロはモスクワの赤の広場に集まった10万の観衆の前で、以下のように宣言します。 昨年10月のミサイル危機では、ソ連の介入で米国はようやくキューバ侵攻を断念した。危機の解決をめぐって、キューバの敵側ではさまざまな論争が起こった。しかし、何はともあれ、戦争を回避することはできたのだ。 こうして、カストロとフルシチョフの和解が成立し、キューバは中ソ対立においてはソ連を支持するという立場を明確にします。今回ご紹介の切手もそうした文脈に沿って発行されたもので、ロシア革命記念日にレーニンを讃える切手を発行することに加え、宇宙開発におけるソ連の優位の象徴としてスプートニク1号を描くことで、カストロ政権の親ソ的な性格が明確に表現されています。 これに対して、1964年12月、ゲバラは国連総会での演説で“帝国主義との全面的な戦い”を宣言。さらに、1965年2月、アルジェで「先進国と発展途上国という二つのグループ国家の間にこのような関係を作り上げようというのであれば、たとえそれが社会主義諸国であったとしても、ある意味では帝国主義者の搾取の共犯者だと認めねばなるまい」として、名指しこそ避けたものの、ソ連を批難しました。 そして、アルジェからハバナに戻ったゲバラは、カストロとの話し合いの末、革命政府の閣僚の地位を捨て、カストロをはじめ関係者宛に「別れの手紙」を書き残し、キューバを出国することになります。 この辺りの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 9月18日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-08-28 Fri 02:38
検索サイト・グーグルのトップのロゴ(ドゥードゥル)が、きょう(28日)は「アレクサンドル・デュマを称えて」として、『モンテクリスト伯』や『三銃士』などで知られる作家、アレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ)を取り込んだデザインになっていました。(以下、画像はクリックで拡大されます)
というわけで、こんなモノを持ってきました。 これは、1998年、キューバが自国の葉巻を宣伝するために発行した官製絵葉書で、“モンテクリスト”を中央に、コヒーバやボリバルなど、キューバを代表する銘柄の葉巻が並べられています。 葉巻大国のキューバではさまざまな銘柄の葉巻が生産されていますが、なかでも、モンテクリストはチェ・ゲバラが好んだ葉巻として知られています。 モンテクリストは、デュマの小説『モンテクリスト伯』にちなんで命名されたブランドで、1935年にH・アップマン工場で製造が開始されました。 H・アップマンは、1844年、ドイツ人のヘルマンおよびアウグストのアップマン兄弟が創業したブランドで、キューバ産葉巻の中では最古参のひとつです。比較的軽めのミディアム・ライトの味わいが英国市場で人気を博し、世界的なブランドとしての地位を確保しました。 かのジョン・F・ケネディは、1962年、キューバ製品の禁輸措置法案が議会を通過し、大統領として署名する前夜、報道官を内々に呼びつけ、「どんな手段を使ってでもいい。少なくともH・アップマンを1000本確保するように」と厳命。はたして、翌朝、ホワイトハウスに1500本のアップマンが集められたのを確認してから法案に署名したといわれています。まぁ、明らかな職権濫用なのですが、逆に言えば、それほど、H・アップマンは魅力的な葉巻だったといえましょう。 もっとも、ブランドとしてのH・アップマンの経営は必ずしも順調ではなく、1922年以降、業績の悪化により、何度か経営母体が変わっており、1935年に同社を買収したアロンソ・メネンデスが経営再建の切り札として売り出したのが、モンテクリストでした。 なお、当時の葉巻工場では、単調な作業でスタッフの集中力が途切れるのを防ぐため、作業中にさまざまな物語を朗読するのが習慣で、1935年に売り出された新ブランドの葉巻の場合、製造過程で人気のあった読み聞かせの物語が『モンテクリスト伯』だったため、それが命名の由来となりました。なお、モンテクリストのブランドのロゴは、『モンテクリスト伯』の著者、デュマの別の代表作『三銃士』をイメージしたデザインとなっています。 メネンデスは、新ブランドの投入とあわせて、工場を近代化することで、経営を立て直し、モンテクリストをキューバ3大シガーのひとつといわれるまでに成長させました。現在、モンテクリストは、“ゲバラが愛好した葉巻”というイメージ戦略も当たってキューバ産葉巻輸出の約25パーセントを占めています。 今回ご紹介の絵葉書には、No4の箱が取り上げられていますが、銘柄としてはNo1から5までのほか、キューバ産葉巻としては最大サイズの“A”から、小さめのペティコロナサイズ、ミニシガリロまでさまざまな種類があります。その味は、いずれも、やや濃厚で深みがあり、樹木やナッツを思わせる香ばしい香りが感じられるのが特徴です。 なお、キューバ産の葉巻については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 8月28日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★★ ツイキャス出演のお知らせ ★★★ 8月30日(日)21:55~ 拉致被害者全員奪還ツイキャスのゲストで内藤が出演しますので、よろしかったら、ぜひ、こちらをクリックしてお聴きください。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-14 Sun 01:11
きょう(14日)は、1928年6月14日に生まれたチェ・ゲバラの誕生日です。というわけで、ゲバラ切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1971年にキューバが発行した国立博物館収蔵美術品シリーズの切手のうち、ラウル・マルティネスがゲバラをモチーフに制作した作品、「フェニックス」を取り上げた1枚です。 ラウル・マルティネスは、1927年11月1日、キューバ島の中央部に位置するシエゴ・デ・アビラで生まれました。ハバナのサン・アレハンドロ美術アカデミーで学んだ後、渡米してシカゴ美術館付属美術大学でデザインを学んで帰国し、革命以前は広告代理店のOTPLAで働きながら、主として抽象絵画を制作していました。 1959年の革命後は、『ルネ・デ・レボルシオン』誌のアート・ディレクターを務める傍ら、ハバナ大学でも教鞭をとっていました。本人によると、1965年頃までには抽象絵画に対する興味をほぼ失っていた一方で、芸術至上主義的な絵画制作にも違和感を覚えるようになっていたため、米国留学時代に接したポップ・アートの手法を取り入れた作品を制作するようになったとのことです。 革命後のキューバ芸術界は、一時期、ソ連の影響を受けた社会主義リアリズムが主流になりかけたものの、独自の作風でフィデル・カストロやゲバラ、カミーロ・シエンフエゴスらを描いたマルティネスの作品は大きな芸術家たちに大きなインパクトを与え、キューバ美術がソ連の亜流に堕するのを食い止めるうえで大きな役割を果たしたと評価されています。 切手に取り上げられた「フェニックス」は、ゲバラが亡くなった1968年の制作。画面を3×3の9分割にして、ゲバラの顔を並べた構図をとっていますが、これは、マランガによる“ウォーホル風”英雄的ゲリラを明確に意識したものです。しかし、マルティネスによるゲバラ像は、写実的ではなく、民画風に大胆にアレンジされており、顔の色も赤茶色になっています。 これは、ラテンアメリカ解放のための戦いに殉じたゲバラは、その精神において“白人”の枠を超越し(血統的には、ゲバラはアイルランド系の父親とバスク系の母親の間に生まれた“白人です)、ラテンアメリカの歴史と多種多様な人種を包摂した存在であることを表現しようとしたことによるものです。そして、念を押すように、“CHE A ME RI CA”の文字を三段に分けて配することで、ゲバラの死後も、彼の目指したラテンアメリカ解放の理想は不滅であることを表現し、それが画題の「フェニックス(不死鳥)」につながるという仕掛けになっています。 ちなみに、マルティネスは1969年には「英雄たち」と題して、カストロ、ゲバラ、カミーロの革命の三傑とさまざまな国民を組み合わせたポスターを制作していますが(下の画像)、こちらではゲバラは白人として描かれており、「フェニックス」が明確な意図をもってゲバラを“有色人種”風に描いたことが裏付けられます。 なお、現代アートとしての各種のゲバラ像については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも、その歴史的背景を含めて詳しく論じておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 7月4日付で、ビジネス社より、新作『みんな大好き陰謀論』が刊行の予定です。表紙デザインは現在制作中ですが、すでに、版元ドットコムのページもできているほか、アマゾンでの予約も始まりましたので、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-10-28 Mon 01:22
キューバ革命の“聖者”と呼ばれたカミーロ・シエンフエーゴスが1959年10月28日に亡くなってから、ちょうど60周年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1960年にキューバで発行された“カミーロ・シエンフエーゴス逝去1周年”の切手です。 カミーロは、1932年、ハバナで生まれました。初めは画家を志していましたが、学生デモに参加して負傷した経験があり、1953年のモンカダ兵営襲撃に参加した後、米国に亡命していました。しかし、「メキシコでなにか大きなものが料理されている」とのうわさを聞きつけて、メキシコで活動していた革命組織、M26に馳せ参じ、軍事訓練を受けました。 1956年12月、グランマ号でキューバ島に上陸すると、シエラ・マエストラ山中のゲリラ戦では、チェ・ゲバラとともに“ヒット・エンド・ラン”戦術を駆使してバティスタ政府軍を翻弄。1958年8月には、ゲバラの率いるシロ・レドンド第8部隊とともに、アントニオ・マセオ第2部隊を率いて、キューバ島中央部、ラス・ビジャス州の攻略作戦を開始し、中央国道を完全に封鎖して、キューバ島の東西分断に成功するなど革命軍の勝利に貢献し、1959年1月2日、ゲバラとともにキューバに入城しました。 革命後1959年3月、農地改革を推進するための組織として農業改革局(INRA)が設立され、「INRAは(旧)叛乱軍と協力してその機能を果たす」として“農村軍”が組織されることになると、参謀本部長の職にあったカミーロは、自分たちとは別の軍事組織が政府によって創設されることに対する不満と(自分たちが“用済み”として排除されるのではないかとの)不安を感じる(旧)叛乱軍の兵士たちと革命を推進しようとするフィデル・カストロとの板挟みになります。 こうした中で、1959年8月、カミーロはカストロに対して「“解雇された”(旧)叛乱軍の兵士たちがしかるべき保証を得られなければ、参謀本部長の職を辞する」と迫り、兵士たちへの年金の支給を訴えます。これに対して、カストロは(旧)叛乱軍兵士への“配慮”を約束する一方、「米国の侵攻に逆襲する準備をしなければならない。そのために必要なのは、素人のゲリラではなく、規律正しい実効性のある兵士だ」と応え、じっさい、その数日後、(旧)叛乱軍の兵士に無償の鉄道切符3000枚を支給し、彼らを除隊させてしまいました。 この結果、ゲリラ戦の勇者たちの間からも、INRAに対する抵抗感から、農業改革そのものに異議を唱える者が現れるようになります。その筆頭格だったのが、ゲリラ戦の英雄で、カマグエイ州知事として人望が高かったウベール・マトスでした。 1959年10月17日、フィデル・カストロの弟でINRA推進派だったラウルが国防大臣に就任すると、同20日、マトスはカマグエイの駐屯地からフィデルに辞表を送付。マトス本人はフィデルに対して武装蜂起を起こす意図はなかったとされていますが、彼の辞職は反INRA派を勢いづかせ、軍の離反を招きかねない状況となりました。 このため、カストロはラジオを通じて「カマグエイの裏切者たちが革命に対する謀反を企てている」と批難。マトスとその部下を武装解除し、マトスを逮捕するため、カミーロがカマグエイに派遣されました。ただし、実際にはマトスとその部下が武装蜂起したわけではなく、カミーロとマトスの部隊が刃を交えることもありませんでしたが、最終的に、マトスは政府転覆を企てたとして、12月15日、禁錮20年の刑を宣告され、服役しています。 一方、マトスの逮捕を受けて、10月26日、カストロが革命市民軍の創設(このことは、事実上、旧叛乱軍の解体を意味していました)を発表すると、後悔にさいなまされたカミーロは、10月28日、あらためてカマグエイを訪れて事件の関係者から事情を聴き、同日午後6時、ハバナに戻るべくカマグエイを出発します。しかし、カミーロを乗せたセスナ310は、離陸直後にレーダーから姿を消し、カミーロは行方不明となりました。 その後、約20日間、国を挙げての大捜索が行われたものの、結局、機体の残骸や遺体等は発見されず、カミーロは亡くなったものとされました。 現在のキューバ政府の公式見解では、カミーロのセスナは、嵐を避けるために進路を変えて海の方向に向かい、遭難したと結論付けています。その一方で、カミーロのセスナは、予定の航路を外れた飛行機の救出に向かうよう偽の指示を受けて進路を変更したところ、海上で空軍機(マイアミ方向から飛来した小型機がサトウキビ畑に放火しているから撃墜せよとの命令を受けていたという)に撃墜されたとする証言もあります。 ただし、カミーロの死は、その真相がいかなるものであったにせよ、彼とマトスに象徴される(旧)叛乱軍による革命のロマンが終焉したことにほかなりませんでした。 カミーロの遭難を受けて、カストロはカメラの前で涙を流し、絶望に身をゆだねてはならないと国民を督励し、歴史はカミーロを忘れないであろうと演説。また、カミーロの親友でもあったゲバラ(彼は息子の一人にカミーロと名付けています)は、次のような追悼演説をししました。 敵が殺したのだ。彼の死を望んだがために殺したのだ。安全な飛行機がなかったために殺されたのだ。パイロットに必要とされる経験をすべて持っていなかったために、仕事が多すぎてハバナにすぐに戻らなければならなかったがために、(中略)彼の性格のゆえに殺されたのだ。カミーロは危険を顧みない。危険を楽しんでいた。それを弄び、あしらい、操っていた。彼のゲリラ戦士のメンタリティにおいては、雲があるからと言って決まった路線を取りやめたり、回避したりすることはできないのだ。 こうして、カミーロは、その独特の風貌も相まって、シエラ・マエストラ山中のゲリラ戦の時代を象徴するイコンの一つとして、ゲバラとともに、革命の聖人に祀り上げられることになります。 ちなみに、今回ご紹介の切手では、カミーロの“逝去1周年”となっていますが、その後、カミーロの死から節目の年に発行される切手では“失踪XX周年”とされています。おそらく、「カミーロは死んでいない。彼は全ての愛国者の胸の中に生きている。彼は革命青年の永遠の象徴だ。彼は永遠に生き続けるだろう」という、ゲバラの追悼演説の一節を踏まえたものと思われますが、1967年にゲバラが亡くなり、その神格化が進められていく中で“神の言葉”と矛盾しないような配慮がなされたということなのかもしれません。 なお、カミーロについては、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明していますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『(改訂増補版)アウシュヴィッツの手紙』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 2015年の拙著『アウシュヴィッツの手紙』の内容を大幅に充実させた改訂増補版です。近日中にウェブ上に特設ページも解説しますが、当面、詳細につきましては出版元のえにし書房にお問い合わせください。 |
2019-09-12 Thu 02:38
アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2019年9月11日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はキューバ(7回目と一部リベリア)の特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1997年、キューバが発行した“第5回キューバ共産党大会ならびに英雄的ゲリラとその同志たちの落命30周年”の切手で、チェ・ゲバラの肖像である“英雄的ゲリラ”のイラストを背景に、ゲバラがカストロに充てた「別れの手紙」が印刷されています。 1962年10月のミサイル危機以降、ゲバラはソ連の“修正主義”を批判する中国への傾斜を強め、ソ連に頼らない“自力更生”路線を主張。これに対して、ソ連はゲバラを危険視し、カストロに対してゲバラの排除を求めるとともに、カストロとの関係改善を模索。1963年5月、カストロはモスクワを訪問してフルシチョフと和解し、経済支援と引き換えに、キューバが中ソ対立においてはソ連を支持するという立場を明確にしました。 これに対して、1964年12月、ゲバラは国連総会での演説で“帝国主義との全面的な戦い”を宣言。さらに、1965年2月、アルジェで「先進国と発展途上国という二つのグループ国家の間にこのような関係を作り上げようというのであれば、たとえそれが社会主義諸国であったとしても、ある意味では帝国主義者の搾取の共犯者だと認めねばなるまい」として、名指しこそ避けたものの、ソ連を批難します。 アルジェからハバナに戻ったゲバラは、カストロとの話し合いの末、革命政府の閣僚の地位を捨て、キューバを出国し、コンゴ動乱での革命派支援の戦いに参加することを決断。出国に際して、関係者に「別れの手紙」を書き残しましたが、そのうちのもっとも有名なものが、今回ご紹介の切手に取り上げられているカストロ宛の「別れの手紙」です。 ゲバラがキューバを出国したとの報告を受けたソ連は、キューバが自ら好ましい解決方法を選択したと評価し、ブレジネフ政権下のソ連外国貿易銀行はキューバに対して1億6700万ドルの融資を決定しました。 一方、ゲバラの出国後、しばらくの間、キューバ政府は彼の出国について沈黙を守っていたため、キューバ国内では彼の不在をめぐる憶測(精神に異常をきたして病院に入院した、突然死した、フィデルに粛清された、ペルーでゲリラ活動に従事している、ドミニカで米軍と戦って戦死した…など)が広まりましたが、カストロはこれを意図的に放置し、メディアの取材に対しては「チェは生きている。とても健康だ。私や家族や友人たちはたびたび手紙を受け取っている」、「(チェの所在が明らかになるのは)彼が望んだ時だ」と応答していました。 こうして人々の想像を最大限に煽ったうえで、1965年9月28日、カストロは「チェがキューバを発つ前に書いた手紙を近く公表する」と発表。10月3日 社会主義革命統一党が“キューバ共産党”へと改組されたタイミングで「別れの手紙」を公開しました。 ところで、この時公開された(=現在、公式な文言とされている)「別れの手紙」については、ジャーナリストの伊高浩昭氏が関係者へのインタビューを通じて、ゲバラの言葉とされる“hasta la victoria siempre”について、画期的な新解釈(仮説)を提示しています。 それによると、「別れの手紙」のオリジナルの文面は「私は勝利するまではキューバに戻らない。だがいつも私の心には『祖国か死か、勝利するのだ』の標語がある(“No vorveria a Cuba hasta la victria,pero en mi siempre ¡patroia o muerte,venceremos!)」となっていましたが、カストロが公開した文面では“No vorveria a Cuba(私はキューバに戻らない)”の部分を削除して、“hasta la victria siempre”(勝利まで、必ず)のみが残されたそうです。 すなわち、オリジナルの「別れの手紙」では、ゲバラが勝利の後、キューバに戻るというゲバラの意思が示されていましたが、これは、ゲバラを“危険人物”と見なしていたソ連からすれば、せっかくカストロから切り離されたゲバラがコンゴで勝利を収め、英雄として再びキューバに凱旋するという最悪のシナリオを意味しています。 そこで、ソ連の意を汲んだカストロは、「別れの手紙」の末尾を改竄することで、チェが「勝利しても帰れない」、すなわち、「別れの手紙」は、文字通り、チェからフィデルへの“永遠の別れ”の手紙であると人々が解釈するように仕向けたと推測されます。いうなれば、冷徹なリアリスト政治家だったカストロは、キューバ共産党の創立というタイミングで、キューバ国民の間にぬきがたく浸透していたゲバラへの敬慕の情が損なわれることのないよう細心の注意を払いつつ、現実政治の世界では、ゲバラと彼が体現しようとしていた革命の“理想(ないしは誇大妄想)”と絶縁することを宣言たともいえましょう。 なお、ゲバラは、ラジオでキューバ共産党大会の創立宣言と「別れの手紙」の朗読を聴き、自らがキューバ国家にとって“厄介者”になっていることをチェは正確に理解したうえで、革命の“殉教者”となる道を選択。それは、ボリビアでの非業の最期へとつながっていくことになるのです。この辺りの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくまとめておりますので、ご参照いただけると幸いです。 さて、『世界の切手コレクション』9月11日号の「世界の国々」では、ゲバラの死後、彼が革命のキリストとして神格化されていくのと連動して“英雄的ゲリラ”の肖像が全世界に拡散していく過程についてまとめた長文コラムのほか、英雄的ゲリラの肖像が生まれることになったクーブル号事件、ハバナ内務省の壁面に掲げられた巨大なゲバラ像、ラウル・マルティネスの絵画「フェニックス」の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。 なお、2014年9月10日発行の創刊号から5年間にわたり刊行されてきた『世界の切手コレクション』は、今回の2019年9月11日号(第260号)をもって完結となりました。今までご愛読いただきました皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。 ★★ イベントのご案内 ★★ ・インド太平洋研究会 第3回オフラインセミナー 9月28日(土) 15:30~ 於・イオンコンパス東京八重洲会議室 内藤は、17:00から2時間ほど、“インド太平洋”について、郵便学的手法で読み解くお話をする予定です。 参加費など詳細は、こちらをご覧ください。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 10/1、11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年10月13日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-09-11 Wed 01:18
“911”というと、2001年の米国同時多発テロ事件を思い出す人が多いと思いますが、もともとは、1973年9月11日、アウグスト・ピノチェトがチリ・クーデターを起こし、サルバドール・アジェンデ大統領が自殺に追い込まれた日として有名でした。というわけで、きょうは、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1974年、アジェンデの没後1周年にキューバが発行した追悼切手です。 サルバドール・アジェンデは、1908年、チリの港町バルパライソでバスク系移民の家庭に生まれました。チリ国立大学医学部を卒業した後に医師になり、1933年、チリ社会党の結成に参加しています。 1938年、チリでは左翼諸政党が人民戦線を結成し、急進党のルイス・アギーレ・セルダが大統領に当選。アジェンデも保健大臣として入閣します。その後、人民戦線が崩壊すると、アジェンデは社会党・共産党・左翼小党派を糾合して人民行動戦線(FRAP)を組織して1958年の大統領選挙に出馬しました。 このときの大統領選では28.8%の票を得たものの、独立系右派候補のホルヘ・アレッサンドリとわずか3万票、得票率で3ポイント足らずの僅差で落選します。選挙期間中、共産党と連携するアジェンデが善戦していることに脅威を感じた米国がCIAを通して対立候補を密かに援助する一方、ソ連はアジェンデを支援するなど、選挙戦は米ソの代理戦争の様相を呈しました。 その後、アジェンデは1964年の選挙にも出馬して落選しましたが、1970年の大統領選挙で当選。自由選挙による社会党政権の誕生成立は、「共産主義国は暴力革命によってしか生まれない」と主張していた米国に大きな衝撃を与えます。 アジェンデ新政権は、社会主義国との国交樹立、独占企業の国有化、土地改革、所得再配分などを骨子とする新政府の対外・対内政策を発表。その最大の目玉が、銅山の国有化で、1970年11月14日に銅山国有化特別委員会が設置され、銅山国有化にむけて政府は具体的な活動を開始しました。 これに対して、米国系の銅生産の多国籍企業は、1971年3月18日、チリ経済を撹乱すべく、銅の国際価格の操作を開始して対抗しましたが、5月21日に世界最大のエルテニエンテ鉱山が政府の統制下に入ったのを皮切りに、7月11日には銅山国有化の憲法改正案が可決され、アナコンダ社(チュキカマタ、エクソティカ、エルサルバドル銅山)、ケネコット社(エルテニエンテ銅山)、セーロ社(アンディーナ銅山)の5大銅山が国有化されます。 これに対して、米国などの西側諸国は経済封鎖を発動し、会社・店などを経営する富裕層はストライキをおこなうなど、アジェンデ政権に揺さぶりをかけましたが、これはかえって、国内の貧困層を団結させる結果となり、1973年の総選挙では、人民連合は大統領選よりさらに得票率を伸ばしています。 そこで、反アジェンデ勢力は、米国の支援と黙認の下で、武力による国家転覆を計画。9月11日、アウグスト・ピノチェト将軍が率いる軍が大統領官邸を襲撃し、アジェンデは自殺に追い込まれました。以後、チリでは、ピノチェトの下で16年の長きにわたる軍事独裁政権時代が開幕することになります。 ちなみに、チェ・ゲバラは“モーターサイクル・ダイアリーズ”の南米放浪をしていた1952年、大統領選挙期間中のチリでアジェンデの演説を聞いたことがあります。この時は、一介の医学生と大統領候補との接点はありませんでしたが、キューバで革命政権が誕生した直後の1959年1月20日、アジェンデはハバナでゲバラと会見しています。さらに、1961年8月、ゲバラは、ウルグアイの首都、モンテビデオで開催された集会でアジェンデと会い、ブエノスアイレスから呼び寄せた母親とともに、夕食を囲んだこともあります。 また、1967年10月、ゲバラがボリビア山中で殺害された後、ゲバラの同志だったキューバ人のポンボ(本名ハリー・ヴィエガス・タマヨ)、ベニグノ(同ダリエル・アラルコン・ラミレス)、ウルバノ(同レオナルド・タマヨ・ヌネス)の3人は、3ヵ月間、ボリビア山中を彷徨し、1968年2月17日、チリ北部に逃げ込んだところを拘束された際には、米国が3人を“犯罪者”としてボリビアに引き渡すよう圧力をかけたにもかかわらず、当時上院議長だったアジェンデの説得でチリ政府はこれをはねのけて、3人を特別機でイースター島に移送。そこにアジェンデが来島し、3人を連れて仏領タヒチのパペーテに飛び、同地で駐仏キューバ大使に“英雄”の身柄を引き渡しています。 この恩に報いるため、1970年の大統領選挙を控えた1969年、キューバのカストロ政権は、2回に分けて合計1000万ドル(一度はパリで代理人からアジェンデに200万ドルを手渡し、もう一度は外交行嚢を使って800万ドルがメキシコに届けられたそうです)の選挙資金をアジェンデに貢ぎ、アジェンデの当選に大きく貢献しています。 なお、アジェンデとゲバラ、そしてキューバとの関係については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ イベントのご案内 ★★ ・インド太平洋研究会 第3回オフラインセミナー 9月28日(土) 15:30~ 於・イオンコンパス東京八重洲会議室 内藤は、17:00から2時間ほど、“インド太平洋”について、郵便学的手法で読み解くお話をする予定です。 参加費など詳細は、こちらをご覧ください。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 10/1、11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年10月13日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-07-26 Fri 01:00
きょう(26日)は、1953年7月26日にフィデル・カストロらがモンカダ兵営を襲撃し、キューバ革命の狼煙を上げたことにちなみ、キューバの革命記念日です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1969年にキューバが発行した革命10周年の記念切手のうち、“モンカダ蜂起”を取り上げた1枚で、旧モンカダ兵営を背景に、抑圧からの解放を示す“鎖を引きちぎる手”が描かれています。 切手に取り上げられた旧モンカダ兵営は、サンティアゴ・デ・クーバ旧市街の端に位置しており、第一次キューバ独立戦争の英雄、ギジェルモ・モンカダにちなんで命名されました。1953年7月26日、カストロらがここを襲撃して革命の火蓋を切った歴史的な場所で、現在でも、入口の壁には当時の銃撃戦の後として多数の銃痕が残っており。建物の一角は“7月26日モンカダ兵営博物館”として一般公開されています。 さて、1952年、キューバの大統領選挙に立候補したフルヘンシオ・バティスタ・イ・サルディバルは、オルトドクソ党のロベルト・アグラモンテ候補を相手に苦戦を続けていました。このため、同年3月10日、バティスタは軍事クーデターを決行し、力ずくで大統領に就任。親米派の政権復帰を歓迎した米国は、直ちに、バティスタ政権を承認します。 当然のことながら、クーデターによる政権奪取に対しては国民の批判も強かったのですが、バティスタは、米国政府・企業、カジノ経営時代に関係を築いたマフィアと結託し、キューバ国内における彼らの利権を保護する代償として、米国から巨額の支援を引き出し、それらを私物化。この結果、キューバの農業や工業には、従来以上に米国資本が流れ込み、国民の貧困は放置されたまま、キューバ経済は米国に対する隷属の度合いを一層強めることになりました。 これに対して、アウランティコをはじめとする既成政党はバティスタに対して話し合いでの政権交代を要求するなかりでした。翌1953年1月にはオルトドクソ党の党大会が開かれ、政権奪取のための具体的な活動計画が討議されるはずでしたが、党内対立から、反バティスタで党がまとまることもありませんでした。 こうして、キューバ国民の間に政治に対する閉塞感が蔓延していくなかで、1952年の議会選挙にオルトドクソ党から立候補した青年弁護士のフィデル・カストロは、バティスタのクーデターによる選挙の無効化に憤慨、バティスタを憲法裁判所に告発しましたが、裁判所はこれを握り潰してしまいます。 そこで、カストロは、アベル・サンタマリーア、ニコ・ロペス、ヘスス・モンタネら同志とともに、バティスタ打倒のためには、既成政党とのしがらみのない若者を動員することが重要と考え、地下放送を通じて同志を募り、クレー射撃の練習を装い、ハバナ大学の施設を利用して、約1200名の反バティスタの活動家を訓練しました。 彼らが極秘裏に標的と定めたのは、キューバ第2の都市、サンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営でした。 当時のカストロらにはバティスタ政権を一挙に打倒できるだけの実力はなかったため、彼らは、兵営を占拠して政権に不満を持つ一般国民に民衆蜂起を呼びかけ、あわせて、兵営の一般兵士からも同調者を集め、地方に拠点を築くというのが現実的なプランでした。このため、首都ハバナにあるキューバ最大の兵営、コルンビア兵営を襲撃して政権を打倒するというプランは採用されず、ハバナから遠く離れたモンカダ兵営を革命派の拠点として確保することが目標とされました。 また、サンティアゴ・デ・クーバでは、毎年7月下旬の一週間、カーニヴァルが開催されていますが、1953年は7月25-26日がその期間に含まれていました。カーニヴァルの期間中の市内の混雑は、カストロらにとって、官憲の目をかいくぐって騒擾を起こすのに格好の機会でした。 かくして、7月26日未明、シボネイ農場に集まった若者たちに、襲撃の目標(兵営の武器確保、軍通信機器の利用による情報の撹乱)が伝達され、フィデルが指揮する90人がモンカダ兵営の襲撃を、アベル・サンタマリーア率いる21人が兵営に隣接するサトゥリーノ・ローラ市民病院を、フィデルの弟、ラウルが指揮する10人が裁判所広場を襲撃すべく出発しました。また、ニコ・ペロス率いる22人(5人不参加)の別動隊は、サンティアゴ・デ・クーバサンチャゴから80キロ離れたバヤモのカルロス・マヌエル・デ・セスペデス要塞を襲撃して通信網を破壊し、政府軍とモンカダとの連絡を途絶させる計画でした。 一方、カストロらを迎え撃つモンカダ兵営には、事件当時、将校88人、兵士288人、農村警備隊26人、計402人が勤務していました。これは、叛乱側の3倍弱の兵力です。 午前4時45分、若者たちは政府軍を偽装した軍服に着替え、16台の車に分乗してサンティアゴ市内に向かいましたが、車を運転していたスタッフの中にはサンティアゴ市内の地理に不案内な者もおり、市内に入ったところでほぼ半数がはぐれてしまいました。 こうした中で、レナド・ギタルら3人の先遣隊がモンカダ兵営の第3検問所に到達し、軍服姿で敷地内に侵入することに成功しましたが、歩哨の一人が不審に思って警報ボタンを押しため、警備車両が兵営周辺を巡回を開始。そこへ、フィデルら主軸部隊を乗せた車が検問所に向かう脇道に入ってきたため、警備兵との間でいきなり戦闘が始まりました。 カストロの計画では、武力で圧倒的に劣る彼らは兵営を急襲し、10分以内に制圧することになっていましたが、兵営側からの攻撃は15分以上続きました。この間、叛乱側の弾薬が尽きてしまったため、これ以上の襲撃が不可能になったと判断したフィデルは退却命令を出しましたが、戦闘で5人が犠牲になり、さらに、政府軍に捕えられた約56人が虐殺され、シボネイ農場にまで帰着したときには、叛乱側は60人ほどに減っていました。 その後、あくまでも戦闘継続を主張して山へ向かったのは、カストロら19人。彼らは政府軍の追及を逃れるべく、いくつかのグループに分かれて山中を彷徨していましたが、8月1日、ついに捕えられ、サンティアゴ・デ・クーバの駐屯地に連行され、ボニアート監獄に収監されました。ちなみに、駐屯地ではなく、兵営に連行された者たちは、その場で虐殺されています。 バティスタ政権はフィデルらによるモンカダ兵営襲撃事件を闇に葬り去るべく、当初は裁判も行わなかった。ところが、襲撃事件に参加し、政府軍に虐殺された若者の多くは、家族に襲撃計画を全く話していなかったため、“行方不明”となった息子を探す親たちが続出したことから、。急遽、緊急法廷第37号事件の名目で、1953年9月21日、サンティアゴ裁判所でモンカディスタ(モンカダ襲撃事件に加わり、生き残った人々)に対する裁判が始まりました。 裁判の結果、10月6日、ラウルら26人のモンカディスタは禁錮3年から13年の有罪判決を受け、ハバナ州南方、ピノス島のモデーロ監獄に収監されました。 一方、事件の首謀者としてのカストロの裁判は、10月16日、事件現場の一つ、サトゥリーノ・ローラ市民病院付属の看護学校の一室で、100人の兵士が包囲する中で行われます。フィデルの担当弁護士は入廷を拒否されたため、弁護士資格を持つフィデルは自らの弁護を担当し、事件後の軍による虐殺の実態を明らかにしました。 そのうえで、クーデターで誕生したバティスタ政権は非合法であり、立憲主義に反していること、1933年のマチャド独裁政権崩壊以来、バティスタが米国政府・資本の走狗として国家を私物化してきたことを激しく非難。1940年憲法に加え、トマス・アクィナス、マルティン・ルター等の宗教思想やロック、ルソー、モンテスキュー以来の近代政治思想史をも引用し、兵営の襲撃は人民の抵抗権によるものであるとして、その目的は兵士との戦闘にあるのではなく、兵営の選挙によって国民に蜂起を呼びかけることにあったと主張します。 さらに、革命達成の暁に実施すべき政策として、①1940年憲法の復活、②土地改革(小作人下の土地分与、有償による土地接収)、③労働者の企業利益への参加、④小作人の収益参加率の50パーセントへの引き上げ、⑤不正取得資産の返還、の5項目を掲げ、「歴史は私に無罪を宣告するであろう」との一文で、最終弁論を締めくくりました。 結局、カストロは禁錮15年の有罪判決を受け、1953年10月17日、ピノス島のモデーロ監獄に収監されます。 しかし、モデーロ監獄には、すでに26人のモンカディスタが収監されており、カストロは裁判の弁論を再構成した“モンカダ綱領”を食事の際に供されるライムの汁で紙に執筆。獄中の秘密ルートを通じて外部に持ち出された原稿は、一足先に釈放されていたメルバ・エルナンデスにより、1954年10月頃、アイロンを使った“あぶり出し”の手法で解読され、『歴史は私に無罪を宣告するであろう』の書名で地下出版されました。その数は1万部にも達し、独立運動発祥の地であるキューバ島東部ではフィデルの声望が高まります。 一方、バティスタは、政権の正統性に疑問を呈するフィデルらの主張を打ち消すために、1954年11月1日に大統領選挙を実施。露骨な不正選挙により再選を果たすと、自らの独裁体制維持への絶対の自信から、寛大なる為政者のポーズを示すべく、モンカディスタを除く政治犯の恩赦を決定します。これに対して、選挙区民を通じてカストロの国民的な人気を肌で感じていた議員で構成される上下両院は、バティスタ退陣後の選挙のことも考えて、バティスタの反対を押し切って恩赦法を採択し、これにより、1955年5月16日、カストロ以下のモンカディスタはモデーロ監獄から釈放されました。 ピノス島からハバナへ向かう船中、モンカディスタは革命運動組織として“7月26日運動(M26)”の結成で合意。その後、M26のメンバーはメキシコに亡命し、アルゼンチン出身の青年医師だったチェ・ゲバラもそこに合流して、反バティスタの革命運動を本格的に開始することになります。 なお、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、タイトル通り、1959年のキューバ革命について、いろいろな角度からまとめています。機会がありましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-06-27 Thu 01:04
きょう(27日)は、1874年6月27日に慶應義塾三田演説館で日本初の演説会が行われたことにちなむ“演説の日”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(以下、画像はクリックで拡大されます)
これは、1968年10月にキューバが発行した”闘争の100年”の切手のうち、チェ・ゲバラの肖像(英雄的ゲリラ)と、1960年9月、ハバナの革命広場で群衆を前に第1ハバナ宣言の演説を行うフィデル・カストロを組み合わせたデザインとなっています。革命後のキューバ切手の中では割と有名な1枚で、この切手をデザインしたTシャツなんてのもあります。(下の画像) 1967年10月にゲバラがボリビアで亡くなると、カストロはゲバラの神格化を本格的に進めましたが、その一環として、1968年を“英雄的ゲリラの年”とし、ゲバラの命日にあたる10月8日を“英雄的ゲリラの日”とするとしたうえで、チェの提唱した“新しい人間”のイメージを援用して「キューバは精神的刺激を重視する」と宣言します。時あたかも、1968年は、キューバ独立運動の出発点ともいうべきセスペデスの“ヤラの叫び”から100周年という節目の年にあたっていたことから、キューバ政府は“(セスペデスからゲバラまでの)闘争の100年”を強調し、国民の“革命意識”を喚起しようとしました。 今回ご紹介の切手に取り上げられた第1ハバナ宣言は、直接的には、1960年8月コスタリカの首都サンホセで開催された米州機構 OAS外相会議で、中ソ両国のキューバ支援を内政干渉だと非難したサンホセ宣言が採択されたことへの対抗措置として発せられました。 すなわち、1960年7月5日、米政府はキューバからの砂糖の輸入割当停止を決定しましたが、米国が買い付けを拒否したのと同量の砂糖をソ連が国際価格で買い取ることを申し入れたため、米国側が期待していたような効果は挙げられませんでした。これを受けてキューバ政府は、米国を挑発するかのように、「我が国が侵略されるようなことがあれば、ソ連の好意を受け取る以外の道はなくなるだろう」との声明を発表。 この声明に激怒した米国は、ついに、実力で革命政権を転覆させることを決意し、8月16日、CIAによるフィデル暗殺計画を実行に移しましたが、この秘密工作は失敗に終わり、同月19日、米国はキューバに対する経済封鎖を発動しました。上述のサンホセ宣言はこの文脈で出されたものです。 これに対して、カストロは米系資本の工場や農園を次々に接収するとともに、9月2日、革命広場で群衆を前に“第一ハバナ宣言”を発し、キューバは米州における“自由の地”であることを表明し、中国に対して外交関係の樹立を呼びかけました。ちなみに、この光景はキューバ革命史を象徴する名場面の一つとされており、下のような絵葉書も作られています。 なお、このあたりの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 ★★ 6月28日(金) 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★★ 6月28日(金)05:00~ 文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-05-31 Fri 03:03
きょう(31日)は“世界禁煙デー”です。僕自身は煙草を嗜みませんし、煙草を吸う人が周囲の吸わない人へ配慮するのは当然のことだと思っています。しかし、あたかも禁煙・嫌煙を錦の御旗として、問答無用で煙草を悪と決め付け、何が何でも煙草を排除しようとする“禁煙活動家”のほうが、煙草の煙よりもはるかに不愉快です。というわけで、あえて、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1997年にキューバで発行された“チェ・ゲバラ没後30年”の絵葉書のうち、葉巻を吸うゲバラを取り上げた1枚です。 もともと、医師であり、自らも喘息の持病を抱えていたゲバラには喫煙の習慣はなく、メキシコでフィデル・カストロらキューバの革命派と付き合うようになった際にも、健康上の理由から、彼らに禁煙を勧めていました。しかし、シエラ・マエストラ山中でのゲリラ生活を始めると、現地の農民の生活の知恵として葉巻が虫除けに利用されており、また、実際にその効果もあったため、ゲバラを含むゲリラ全員に葉巻を吸う習慣が定着することになります。 1959年の革命後、1961年2月24日に工業省が新設されると初代工業大臣に就任し、キューバの工業化を進めるべく奮闘しました。その一環として、彼はキューバの特産品をアピールする意図を込めて、写真撮影の際には積極的に葉巻姿で応じています。 さて、葉巻大国のキューバではさまざまな銘柄の葉巻が生産されていますが、そのうち、彼が最も愛好したのは“モンテクリスト”だったと言われています。 モンテクリストは、アレクサンドル・デュマの小説『モンテクリスト伯』にちなんで命名されたブランドで、1935年にH・アップマン工場で製造が開始されました。 H・アップマンは、1844年、ドイツ人のヘルマンおよびアウグストのアップマン兄弟が創業したブランド。キューバ産葉巻の中では最古参のひとつで、比較的軽めのミディアム・ライトの味わいが英国市場で人気を博し、世界的なブランドとして有名になりました。 かのジョン・F・ケネディ米大統領も、1962年、キューバ製品の禁輸措置法案が議会を通過し、大統領として署名する前夜、報道官を内々に呼びつけ、「どんな手段を使ってでもいい。少なくともH・アップマンを1000本確保するように」と厳命。はたして、翌朝、ホワイトハウスに1500本のアップマンが集められたのを確認してから、法案に署名したといわれています。明らかな職権濫用ですが、逆に言えば、それほど、H・アップマンは魅力的な葉巻だったわけです。 もっとも、ブランドとしてのH・アップマンの経営は必ずしも順調ではなく、1922年以降、業績の悪化により、何度か経営母体が変わっています。そのなかで、1935年にH・アップマンを買収したアロンソ・メネンデスが経営再建の切り札として売り出したのが、モンテクリストでした。 なお、当時の葉巻工場では、単調な作業でスタッフの集中力が途切れるのを防ぐため、作業中にさまざまな物語を朗読するのが習慣で、1935年に売り出された新ブランドの葉巻の場合、製造過程で人気のあった読み聞かせの物語が『モンテクリスト伯』だったため、それが命名の由来となりました。ちなみに、モンテクリストとならんでキューバを代表する葉巻のひとつとされる“ロメオ・イ・フリエータ(ロミオとジュリエット)”もまた、同じ理由による命名です。また、モンテクリストのブランドのロゴは、『モンテクリスト伯』の著者、デュマの別の代表作『三銃士』をイメージしたデザインとなっています。 メネンデスは、新ブランドの投入とあわせて、工場を近代化することで、経営を立て直し、モンテクリストをキューバ三大シガーのひとつといわれるまでに成長させました。現在では、“ゲバラが愛好した葉巻”というイメージ戦略も当たって、モンテクリストはキューバ産葉巻輸出の約25%を占めるほどになりました。 モンテクリストは代表的な銘柄のNo.1-5以外にも、キューバ産葉巻としては最大サイズの“A”から、小さめのペティコロナサイズ、ミニシガリロまで種類は豊富で、いずれも、やや濃厚で深みがあり、樹木やナッツを思わせる香ばしい香りが感じられるのが特徴です。 なお、ゲバラが愛好した葉巻として、キューバを代表するブランドのコイーバを挙げている文献が散見されますが、これは、歴史的に無理があります。 すなわち、革命後まもない時期、カストロは護衛のチーチョが吸っていた“ランセロス”をいたく気に入りましたが、この葉巻は、市販品ではなく、チーチョの友人だったエドアルド・リベラが個人的にブレンドしたものでした。そこで、1968年、カストロは新たに建設した葉巻工場“エル・ラギート”の責任者としてリベラを迎え、政府要人用ないしは外交的な贈答用の高級葉巻の生産を開始します。これが、コイーバのルーツとなりました。 したがって、リベラの個人的なブレンドはともかく、1967年10月にボリビア山中で亡くなったゲバラが、1968年から生産が開始されたコイーバを嗜むことは時系列的にありえません。 なお、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、トレードマークともいうべき葉巻を咥えたゲバラの切手・絵葉書も、いろいろとご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 ★★ 本荘法人会講演会 「切手で読み解く国際政治」 ★★ 2019年 6月4日(火) 14:00-15:30 会場:安楽温泉 主催は本荘法人会で、入場は無料ですが、事前のお申し込みが必要になります。お問い合わせは、本荘法人会(TEL0184-24-3050)までお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-04-29 Mon 01:49
きょう(29日)は“昭和の日”です。というわけで、昭和史ネタにあらめて、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1964年の東京五輪に際してキューバが発行した記念切手です。ランナーのバックの梅の花や、なんとなく稚拙な感じの“東京”の文字なんかが、なかなかいい味を出していますね。 1961年に社会主義宣言を行った後のキューバは、スポーツを国威発揚の重要な手段と位置づけ、ソ連に倣ってステート・アマ方式を導入し、政府がトップ選手の育成に積極的に関与する政策を採用しています。 はたして、社会主義宣言後最初の参加となった1964年の東京五輪では、エンリケ・フィゲロラが陸上の男子100メートルで10秒2で米国のボブ・ヘイズに次いで銀メダルを獲得しました。これは、キューバ選手としては1948年のロンドン大会以来のメダルで、革命政府のスポーツ政策がそれなりの成果を上げていることが示されました。今回ご紹介の切手は大会前の発行ですが、フィゲロラは前年(1963年)の汎米選手権の100mで優勝した実績の持ち主ですので、あるいは、この切手のデザインもフィゲロラのメダル獲得への期待を込めて制作されたのかもしれません。 ちなみに、1968年のメキシコ大会では銀4(うち一つはフィゲロラがアンカーを務めた4×100mリレー)、1972年のミュンヘン大会では金3、銀1、銅4のメダルを獲得するなど、キューバの五輪での成績は、年を追うごとに上昇しています。 なお、スポーツを含むキューバの文化政策については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもいくつかの事例をご紹介しておりますので、機会がありましたら、お手にとってご覧いただけると幸いです。 * きのう(28日)の拉致被害者全員奪還ツイキャスの内藤の出演回は終了いたしました。途中、バッテリー切れになるアクシデントもありましたが、温かくお聴きいただきました皆様、運営のしぇりーさん、月さんにはこの場を借りて、あらためてお礼申し上げます。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-04-19 Fri 11:08
きょう(19日)は、1961年4月19日にプラヤ・ヒロン侵攻事件でキューバが反カストロの亡命キューバ人部隊を撃退した記念日です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1969年にキューバが発行した革命10周年の記念切手のうち、“プラヤ・ヒロンでの勝利”を取り上げた1枚で、ラテンアメリカ人民の団結により撃退される“侵略者”が描かれています。 1959年のキューバ革命後、米国とキューバの関係が日に日に悪化していく中で、1961年11月8日、アイゼンハワーからケネディへの政権交代を間近に控えた米国はキューバと断交し、ラテンアメリカ諸国の大半がこれに追随します。 1960年の米国大統領選挙を通じて、民主党のケネディ、共和党候補のリチャード・ニクソンの両候補はいずれもキューバに対して“弱腰”ではないことを示すため、(その時期は明言しなかったものの)政権獲得後は軍事介入する意向を明らかにしていましたが、選挙後まもない1960年11月17日、大統領当選者のケネディに対して、CIA長官のアレン・ダレスは、亡命キューバ人がグアテマラ国内でキューバ上陸作戦のための軍事訓練を受けていることを報告。ケネディも計画をそのまま進めるよう指示を出しています。 この時までに、革命を逃れてフロリダに渡ったキューバ難民の数は10万に達しており、CIAの計画は、そうした亡命キューバ人の中から有志を募り、革命政権転覆の尖兵として利用というものでしたが、じつは、キューバ側もその中にスパイを潜り込ませ、CIAの動きをかなり正確に把握していました。 はたして、1961年1月20日、ケネディが正式に米国大統領に就任すると、キューバ政府は警戒態勢に入り、ゲバラはキューバ最西部のピナール・デル・リオに移動し、同軍管区を担当することになりました。侵攻が西側から、すなわち、大陸に最も近い海岸から行われるとすれば、彼の担当地域が最初に敵を迎え撃つことになります。 ピナール・デル・リオに着任したゲバラは、前年の東欧諸国歴訪の体験を踏まえて、「ソ連をはじめ、全ての社会主義国が我々の主権を守るために戦争に入る必要があることは広く知られている」としたうえで、「我々は皆、我々がこれまで最も憎んできた敵、アイゼンハワーの後継者がわずかでも知的であることを望む」とケネディ宛のメッセージを発しました。 1961年4月初旬、カストロは在米亡命キューバ人の中に潜入したスパイからの情報で米国の侵攻がいよいよ間近に迫っていることを察知し、潜在的な反政府勢力と見なした人々を一斉摘発。後にカストロはテレビ演説で「すべての容疑者、何らかの理由で事を起こす可能性のある者、反革命運動に与する行動あるいは動きを示す可能性のある者を逮捕するしかなかった。こうした手段を取る場合、いくらかの不当な行為があるのは当然だ」と弁明していますが、非常時を口実に、正規の法的手続きを踏まずに、体制にとって害をなす“可能性のある者”を逮捕した恐怖政治の先例は、その後、常態化していくことになります。ただし、この時点では、その点について米国以外の西側“進歩的文化人”が警鐘を鳴らすことは全くありませんでした。 また、当時のキューバ島内では、中部エスカンブライ山中を拠点に、反政府勢力(その中には、カストロらとともに反バティスタの革命を戦ったものの、革命政府の“左傾化”に反対して、フィデルと袂を分かった人々も少なからずいました)がゲリラ闘争を展開していたため、カストロは、大規模な掃討作戦を展開し、エルカンブライ山中の反政府勢力を完全に包囲しています。キューバ島に上陸した敵が、山中の反政府勢力と提携する可能性を事前に摘んでおくためです。 さらに、グアテマラ南西部のレタルレウでは、反カストロ軍の“2506部隊”にキューバの工作員が訓練キャンプに潜入し、隊長のペペ・サン・ロマンに対する叛乱も煽ったため、CIAによる上陸計画には遅延が生じ、その間、カストロはじっくりと対策を練ることができました。 一方、CIAのプランでは、まず、キューバの空軍基地を爆撃して制空権を確保したうえで、米空母エセックスの掩護を受けた2506部隊2000人がエスカンブライ山麓のサパタ地区に上陸。橋頭保を築いたうえで、フロリダを拠点とする“革命評議会(その首班は、元首相のカルドナです)”が上陸し、臨時政府の樹立を宣言。米国と他のラテンアメリカ諸国が承認するという段取りになっていました。 こうして、1961年4月10日、CIAに率いられた亡命キューバ人部隊約1500人はグアテマラからソモサ独裁政権下のニカラグアに移動。15日には、「カストロの鬚をお土産に」とのソモサの軽口を聴きながらニカラグアを飛び立ったB26戦闘機8機がキューバを爆撃し、コルンビア、サン・アントニオ・ボラーニョスとサンティアゴ・デ・クーバの空軍基地が爆撃されたほか、首都ハバナでは住宅密集地への爆撃により、病院の入院患者に死者が出ています。ただし、事前に攻撃を予想していたキューバ側は、滑走路にダミーないしは廃棄寸前の飛行機を置き、飛行可能な戦闘機は各地に分散して隠しておいたため、キューバの空軍兵力はほとんど無傷のままでした。 空爆のあった当初、米政府は「爆撃は米国への亡命を希望する元キューバ空軍のパイロットによるものだ」と説明していましたが、真相はすぐに明らかになり、米国の事件への関与も明らかになってしまいます。 翌16日、カストロは「真珠湾攻撃の時、日本政府は“攻撃していない”という嘘はつかなかった」として米国を非難。そして、米国との対決姿勢を鮮明に示すため、ついに、「キューバ革命は社会主義革命である」と宣言しました。 これに対して、国際的な非難を恐れたケネディは、2回目以降の空爆を中止するよう、軍とCIAに命令しましたが、キューバ側の防衛力を過小評価し、事態を楽観視していた彼らは、当初の予定通り、4月17日、キューバ島中部南海岸のプラヤ・ヒロン(米側の呼称はピッグス湾)に2506部隊を上陸させます。 これが、いわゆる“プラヤ・ヒロン侵攻事件”です。 しかし、連絡の不備から、エセックスの艦載機が現場に到着したのは2506部隊の上陸から1時間後のことで(CIAが攻撃時間をニカラグアの現地時間で伝えたのに対して、米海軍はそれを1時間の時差があるワシントン時間で伝えるというミスを犯していました)、その間、キューバ側は虎の子のT33ジェット練習機4機で制空権を確保しつつ、民兵を動員して敵の侵攻を食い止めました。上陸部隊とキューバ側民兵の士気の差は歴然としており、19日午後5時半、革命軍はプラヤ・ヒロンを確保し、2506部隊は撤退しました。 反革命軍の完全撤退を受けて、4月24日、フィデルはテレビに出演して勝利演説を行いましたが、その中には、次のようなフレーズもありました。 ケネディは「わが国の海岸から160キロのところで社会主義革命が起きるのを許すことはできない」といったが、我々は海岸から160キロのところに資本主義国家があることに耐えている。 国が大きいからといって小国との紛争を解決するのに実力を用いる権利があるわけではない。 プラヤ・ヒロン湾侵攻事件は、“アメリカ大陸における帝国主義の初めての敗北”であり、米西戦争以来、百年の恨みを晴らしたカストロの権威は、キューバ国内のみならず、全世界の反米=左派勢力にとって揺るぎないものとなりました。同時にそのことは、キューバ国内において、カストロに対する異論・反論を完全に封じ込める結果ももたらしています。 なお、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、プラヤ・ヒロン事件とその関連の切手・絵葉書も、いろいろとご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。 ★★★ メディア史研究会で発表します! ★★★ 4月20日(土) 14:00から、東京・水道橋の日本大学法学部三崎町キャンパス4号館地下1階 第4会議室A(地図はこちらをご覧ください)にて開催のメディア史研究会月例会にて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の内容を中心に、「メディアとしての“英雄的ゲリラ”」と題してお話しします。 なお、メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-03-17 Sun 02:47
きょう(17日)は、セント・パトリックス・デーです。というわけで、聖パトリックのシンボル、緑色のシャムロックにちなんで緑色のモノを身につける習慣に倣い、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1968年10月8日にキューバが発行した“英雄的ゲリラの日”の記念切手の1枚です。“英雄的ゲリラの日”は、前年10月9日にボリビアで処刑されたチェ・ゲバラの没後1周年にあわせて設定された祝日で、1968年の記念切手は5種セットで発行され、ゲバラの肖像写真“英雄的ゲリラ”を右側に配し、左側に、ゲバラの言葉とそれにちなんだイラストを配するという統一パターンとなっています。 今回ご紹介の切手に取り上げられているのは、『オ・クルゼイロ』1959年6月16日号および『グランマ』1967年10月22日号に掲載された「キューバ革命小史」の中から、「革命の開始」と題された第1章の一節で、日本語版の『ゲバラ選集』では「いま考えると、そのためになんと多くの努力、犠牲、人名を必要としたことか」と訳されています。ただし、原文の文脈では、この1文はバティスタ政権を打倒して革命が達せられた時のことではなく、1956年11月、カストロとゲバラがグランマ号でキューバ島に上陸し、革命戦争を本格的に開始するまでの苦労を回想したものとして記されています。 ちなみに、ゲバラ家はアルゼンチン出身で19世紀半ばのゴールドラッシュ時代にカリフォルニアに移り、この地で生まれたゲバラの祖父、ロベルトが同地でメキシコ出身のアイルランド系女性、アナ・リンチと結婚し、1900年、ゲバラの父にあたるエルネスト・ゲバラ・リンチが生まれました。したがって、ゲバラ本人はアイルランド系の血を引いていることになります。 ゲバラ本人は左翼コスモポリタンで、生前、自分がアイルランド系であることを特に意識していた形跡はありませんが、彼の死後、父エルネストは「私の息子にはアイルランドの“反逆者”の血が流れている」と語っており、現在では、全世界に拡散した“アイリッシュ・ディアスポラ”の代表的な人物のひとりとみなされています。 このあたりの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、お手にとってご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-03-10 Sun 10:31
きょう(10日)は、3と10の語呂合わせて“砂糖の日”です。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1970年にキューバで発行された“(砂糖増産)1000万トン計画”のキャンペーン切手で、地球と“国際旅団”の赤旗を背に、サトウキビの収穫に用いるマチェーテを手にした男たちが描かれています。 キューバの主要産業である砂糖の生産量は、革命直前の1958年に580万トンだった砂糖の生産量は、革命後の混乱に加え、砂糖モノカルチャーを貧困と従属の元凶として、そこからの脱却を掲げる革命政府の方針もあって、1962年には480万トン、1963年には380万トンにまで落ち込みました。革命後のキューバはソ連とバーター貿易を行っていましたが、砂糖の生産が落ち込んだことで、ソ連への砂糖の輸出は滞り、債務も累積し始めます。 このため、ソ連は、カストロに対して、砂糖モノカルチャーを敵視するのではなく、経済建設の幻視として砂糖の輸出を最大限に活用すべきではないかと提案し、資金の供与と砂糖の長期引き受けを約束します。ソ連が提示した砂糖の購入価格は(1ポンドあたり)6.11セントの固定相場で、これは、1963年の国際市場価格の8.4セントに比べると安いものの、低落傾向が続く中で(ちなみに、その後の相場の暴落で、1967年には1.99セントにまで市場価格が落ち込んでいます)は決して悪い条件ではありませんでした。 しかし、砂糖モノカルチャー経済への復帰は、米国に代わってソ連を新たな“宗主国”として選択することに他ならないため、キューバとしては、革命の大義に照らして容認しがたいものでした。 そこで、両者の折衷案として、砂糖の増産を機械化によって実現し、それを軸に工業化を進めるという方針が採択されました。 これが、“1000万トン計画”の基本的な考え方です。 “1000万トン計画”は1965年から開始され、国民に対しては“大攻勢”が命じられます。 “大攻勢”では、国民の“革命意識”に訴えて職場や学校で砂糖キビ収穫隊が組織され、マチェーテ片手に人海戦術での刈取作業に従事させられました。しかし、動員された隊員たちに対する教育は不十分で、彼らがやみくもにマチェーテを当てることでサトウキビの苗を根こそぎ切り取ってダメにする(本来は、植えてから四年間の収穫が可能なため、新しい芽が出るように刈り取らなければなりません)ケースが多発しました。また、杜撰な生産計画のため、隊員たちがサトウキビを刈り取ったものの、運搬用のトラックが来ないためにサトウキビがそのまま放置されて醗酵してしまい、その間、隊員たちは無為に遊んでいるという状況が至る所で見られました。 さらに、収穫隊に労働力を取られたことで工場に残った労働者は残業に加え、休日出勤もしなければノルマをこなせなくなりましたが、本来、労働者の権利を擁護すべきキューバ労働者連合は時間外手当を返上。これを受けて、ノルマ超過分に対する報奨金も廃止されるとともに、同一労働同一賃金を規定した新賃金体系が導入されています。これは、労働の成果に関わらず職種ごとに同じ賃金を支給するという、社会主義的な悪平等政策の典型でしたから、もともと決して高くはなかった国民の労働意欲がさらに減退するのは避けられず、砂糖以外の生活物資の生産性は大幅に低下し、深刻なモノ不足の下、一般国民は粗悪な工業製品さえなかなか入手できなくなりました。 結局、1000万トン計画は、飢餓こそ発生しなかったものの、中国で行われた“大躍進”の失敗をそのままなぞったような格好となり、1970年度の砂糖生産は850万トンで、惨憺たる失敗に終わりました。 なお、このあたりの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、お手にとってご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-03-08 Fri 01:32
きょう(8日)は国際女性デーです。というわけで、例年どおり、拙著の中から女性ネタということで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1972年にキューバで発行された“ゲリラの日5周年”の記念切手のうち、タニアことタマラ・ブンケと彼女の亡くなった場所の地図を描いた1枚です。 タニアは、ナチスの迫害を逃れてアルゼンチンに移住した両親の下、1937年、ブエノスアイレスで生まれました。1952年、一家は東ドイツに移住しましたが、彼女は1959年のキューバ革命に感激し、西独バイリンガルという特性を活かして、キューバ支援の運動に加わります。その活動が認められ、1960年、チェ・ゲバラがベルリンを訪問した折には通訳を務め、その後、キューバに渡航。ハバナ大学に通いながら、ゲバラのスタッフとして通訳・翻訳などに従事し、1963年から1年間、キューバで諜報活動の訓練を受けています。 1964年11月には地下工作の使命を帯びて、“ラウラ・グティエレス・バウエル”の変名でボリビアに入国。現地の大学生と結婚し、考古学およびドイツ語講師としてボリビア社会の中枢に接触し、軍事政権トップのバリエントスや政権中枢の高官の知遇を得て、首都ラパスを中心に情報活動と人脈の構築に尽力しました。 ボリビアでの彼女は、ゲバラのボリビア入りを前に山中での作戦の後方基地となる農場探しをサポートしつつ、 都市部を中心に工作活動に従事し、ゲバラ率いる山岳ゲリラとボリビア共産党との連携を模索しようとしましたが、1966年末、ゲバラはボリビア共産党と決裂。こうして、彼女がボリビア共産党との協力の下で築いてきた人脈や情報網が機能しなくなったことから、1967年3月、彼女は対応を協議すべく山中のゲバラのもとを訪ねました。 ところが、彼女が山中に滞在中の4月24日、ラパスに残されていた彼女のジープと車内に置かれていた書類が政府側に押収され、彼女がゲリラ側の工作員としてラパスでボリビア政府関係者と接触していたことが露見。この結果、彼女はラパスに戻れなくなり、ゲリラとしては何の訓練も受けぬままゲバラに同行せざるを得なくなり、同年8月、グランデ川渡河の途中で敵の攻撃を受けて負傷し、流されながら亡くなりました。 なお、ボリビア山中でのゲバラらのゲリラ活動と、その悲劇的な最期については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも1章を設けてまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧ください。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-02-24 Sun 01:53
キューバで、きょう(24日)、憲法改正の是非をめぐる国民投票が行われます。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1976年にキューバで発行された憲法公布の記念切手で、憲法で規定された国旗・国歌・国章が描かれています。 キューバでは、1959年の革命以来、憲法が停止された状態が長らく続いていました。 しかし、1970年、急進的な社会主義建設政策の“1000万トン計画”が失敗に終わったことで、1970年7月26日、フィデル・カストロ首相は、モンカダ兵営襲撃記念日の演説で自己批判したうえで、「いかなる体制を取るべきか、議論し、検討してほしい」と訴えます。その真意は、革命の理想を追求する“キューバ式社会主義”を事実上放棄し、ソ連型の政治経済体制を導入する以外の選択肢がないというものでした。 この演説の後、制度転換のための具体的な準備が徐々に進められ、1972年、キューバはCOMECON(経済相互援助会議)に加盟し、名実ともに社会主義圏に統合されます。そして、1974年2月のブレジネフのハバナ訪問を経て、1975年12月、キューバ共産党の第1回党大会が開催され、ソ連型体制の導入が決定されました。 これを受けて、翌1976年2月に公布されたのが、現行のキューバ憲法です。 同憲法の前文は、冒頭、キューバの現体制は「ホセ・マルティをはじめとする先人の創造的努力と、戦闘性、革新、勇気、犠牲の伝統の継承者である」とし、「本憲法はマルティの願望を体現するものである」とうたう一方、「キューバ人民はマルティの理想とマルクス・エンゲルス・レーニンの政治・社会思想を導きとする」しており、第1条で「キューバは労働者の社会主義国である」ことを明示したうえで、「(共産党は)労働者階級のマルクス・レーニン主義のもとに組織された前衛であり、社会と国の指導勢力である」(第五条)と規定するなど、明確にソ連化の方向を打ち出していました。 また、憲法の公布により、ようやく、革命以来停止されていた議会制度(国会・州議会・地区議会で構成)が復活しましたが、一般国民による直接選挙制度が採用されているのは地区議会選挙のみで、州議会と国会の議員は地区議会が中心になって選出するものとされていました。 その後の改正で、州議会と国会の選挙でも直接投票が認められるようにはなりましたが、それでも、候補者に関しては、地区の候補者委員会が議員定数の4分の1超の“プレ候補者”を選び、州議会と国会の候補者委員会が独自の候補者を加味した候補者リストを作成し、地区議会がそれぞれ被選挙権を満たしているかどうか審査したうえで、定数と同数の候補者を決定するという方式がとられており、民主的な選挙とは言いがたい状態が続いています。 今回の憲法改正では、昨年のラウル・カストロ国家評議会議長(首相を兼務)の退任を受け、大統領のポストを新設するほか、市場原理の役割や私有財産の所有を認める内容となっていますが、共産党一党支配や社会主義体制堅持の方針はそのまま維持されているため、急激な体制変革ということにはならないとみられています。 なお、キューバの現体制が構築されていった過程については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 2月25日発売!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-02-20 Wed 11:00
米国のトランプ大統領は、18日(現地時間)、フロリダ州で演説し、反米左派のマドゥロ大統領から、暫定大統領就任を宣言したグアイド国会議長への「平和的な権力移行」を目指す方針を示すとともに、「ベネズエラとキューバの社会主義独裁政権は数十年間にわたり、腐敗した取引で互いに支え合ってきた」と批判し、両国の連携を断ち切ることが必要だと訴えました。というわけで、キューバとベネズエラの左翼勢力との長年にわたる関係を示すものとして、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1967年にキューバが発行した“第1回ラテンアメリカ連帯機構(OLAS)会議”の記念切手で、ラテンアメリカの革命烈士の例として、ベネズエラのファブリシオ・オヘダが取り上げられています。 1960年7月1日、ベネズエラのベタンクール政権は「右翼であれ左翼であれ、軍事力によって権力を獲得した政権は一切承認しない」とするベタンクール・ドクトリンを発表。ドミニカ共和国とキューバを敵視する姿勢を明らかにした。 これに対して、キューバの支援で結成された“左翼革命運動(MIR)”は、ベネズエラ共産党とともに武装闘争を展開したため、ベタンクールは軍を総動員して弾圧に乗り出し、1961年10月までに数百人規模の死者が発生しました。このため、11月12日、ベタンクールはキューバを左派暴動の黒幕と断罪して断交すると、キューバは「ベタンクールは米国に追随し、反政府運動を弾圧する独裁政権と化した」と応酬します。 こうした状況の下で、民主行動党内の左派がキューバとの断交に反対して離党し、下院では野党が過半数となったため、政権は不安定化。MRIと共産党の主導による大規模なストライキや反政府暴動、武装反乱などが相次いだため、1962年4月、ベタンクールは混乱を理由に共産党とMIRを非合法化し議員資格を剥奪。5月には両者の政治活動を全面的に禁止しました。 一方、左派勢力は、1962年12月、農民連盟、労働者連合、大学センター連合など全勢力が結集して、民族解放戦線(FLN)を結成し、その軍事組織として民族解放軍全国司令部(FALN)を設置。FALNは3000の兵力を動員して、全国20州のうち7州で作戦を展開。貨物船アンゾアテギ号のシージャック、アルゼンチンのサッカー選手デ・ステファーノ誘拐、カラカスのフランス印象派展覧会の絵画の窃取と自発的返却、米大使館つき武官の誘拐、米国系企業への攻撃などのテロ活動を行いました。 これに対して、ベネズエラ政府軍は、米軍の指揮・支援の下、FALNのゲリラ軍に対してナパーム弾爆撃を含む大規模な掃討作戦を行い、ファルコン州以外のゲリラ支配地区をほぼ壊滅させています。 こうした状況の下、1963年11月1日、ベタンクールの任期満了に伴う大統領選挙(と議会選挙をあわせた総選挙)が告示されましたが、FLNとFALNは選挙のボイコットを呼びかけ、20日には、政府軍が介入してカラカス市内では大規模な戦闘が発生。政府はパラグアナ半島の無人の海岸でFALNの武器貯蔵庫を摘発し、キューバから持ち込まれた携帯兵器3トンを捕獲し、FALNの背後でキューバが暗躍していると名指しで非難しています。 こうして、12月1日、政府が5万の軍隊を動員し、8000名の逮捕者を出すという騒然とした空気の中で大統領選挙が行われ、与党・民主行動党のラウル・レオーニ・オテロが当選しました。 3月11日に発足したレオーニ新政権は、和解政策を提唱し、共産党とMIRを合法化すると発表。これを受けて、8月までに共産党とMIRの主流派は武装闘争路線を放棄し、10月にはFLNが和平アピールを発表しましたが、FALNは武装闘争を放棄せず、その後も、キューバの支援を受けながら、ベネズエラ政府軍の戦闘を続けていました。 そうした中で、1966年6月、カラカス市内に潜伏していたFALN議長のファブリシオ・オヘダが密告により捕えられ、拷問のすえに殺害されると、キューバ首相のフィデル・カストロは、オヘダの逮捕は、平和路線に転じたベネズエラ共産党の裏切りによるものと考えました。 そこで、7月24日、ルベン・ペトコフひきいるFALN部隊がキューバからファルコン州に上陸作戦を行い、イラカラ山系のゲリラ部隊との合流に成功。じつは、このタイミングで、キューバ政府は、キューバに極秘裏に帰国していたチェ・ゲバラのベネズエラ派遣をベネズエラ共産党に内々に提案していたが、ベネズエラ共産党はこれを拒否しています。 その後も、FALNはカラカス市内でのゲリラ活動を展開し、1967年3月1日にはフリオ・イリバーレン・ボルヘス元社会保障庁長官を誘拐・殺害。FALN司令官のエリアス・マヌイト・カメロは、キューバ紙『グランマ』で“犯罪者”イリバーレンを処刑したことを明らかにしました。 事件を受けて、共産党中央委員でカラカス中央大学教授のエクトル・ムヒカをはじめ、共産党の有力者たちが、イリバーレンの殺害は革命とは無関係の単なる犯罪と断じ、ベネズエラ政府も、事件に関与していたとしてキューバを批難。さらに、ムヒカはベネズエラ共産党を代表して「FALNの名においてイリバーレン殺害を命じたエリアス・マヌイトとの関係を断絶する」と発表します。前海軍大尉で一時FALNの司令官を務めたペドロ・メディナ・シルバも「我々の戦闘組織の名を悪用する人々は、敵の共犯者である。イリバーレン殺害者には人民の正義が適用されるだろう」との声明を、主なゲリラ指導者との連名で発表しました。 これに対して、3月13日、カストロはベネズエラ共産党の武装闘争中止の方針は“革命に対する裏切り”と公に批難しましたが、4月22日、ムヒカらベネズエラ共産党中央委員会は武装闘争の停止を正式に決定しました。 そこで、5月8日、キューバを出発したモイセス・モレイロら12人のゲリラ部隊が、レオポルド・シンケ・フリーアスらキューバ軍将校4人の作戦参謀とともに、ミランダ州に上陸し戦闘を開始。結果的に、この作戦は失敗に終わり、参加者の多くは逮捕・投獄され、ベネズエラの提訴を受けて、7月26日に開催された米州機構(OAS)査問委員会ではキューバがベネズエラの反乱軍を支援し訓練したと報告。OAS理事会はキューバ非難決議を採択しました。 今回ご紹介の切手の発行の名目となったOLASの第1回会議は、このようにキューバとベネズエラの関係が緊張状態にある中で行われたもので、キューバとしては、ベネズエラの位置を示したラテンアメリカ地図とオヘダの肖像が取り上げることで、ベネズエラ共産党の“裏切り”に対する憎悪が表現したわけです。 ちなみに、同会議の議長として閉会宣言を行った「ゲリラを都市から指導しようとすることは愚かであるばかりでなく犯罪でさえある」と発言し、ベネズエラ共産党指導部を“えせ革命家のマフィア”と酷評。ベネズエラ共産党を“日和見主義”として名指しで批難しています。 さて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、今回ご説明したベネズエラを初め、ラテンアメリカ諸国の左翼勢力とキューバのカストロ政権との歴史的関係についてもいろいろまとめています。機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★ 2月22日、文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★★ 2月22日(金)05:00~ 文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がゲスト・コメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 2月25日発売!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-01-19 Sat 01:17
2017年にコロンビア革命軍(FARC)との内戦が終結したコロンビアの首都、ボゴタの警察学校で17日朝、自動車爆弾テロが発生し、実行犯も含めて21人が死亡、68人が負傷した事件で、きのう(18日)、コロンビア政府は左翼ゲリラの民族解放軍(ELN)による犯行と断定しました。というわけで、というわけで、亡くなられた方の御冥福と負傷者の方の1日も早い御快癒をお祈りしつつ、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1967年にキューバが発行した“第1回ラテンアメリカ連帯機構(OLAS)会議”の記念切手で、ラテンアメリカの革命烈士の例として、コロンビアのELNの活動家として殺害されたカミーロ・トーレス・レストレポが取り上げられています。 ラテンアメリカ連帯機構会議は、1967年7月31日から8月10日まで、ラテンアメリカおよびカリブ海諸地域の27の共産党、労働党その他の革命組織の代表を集めてハバナで開催されたもので、最終的に、「武力革命をラテンアメリカにおける革命の基本的路線とする」との一般宣言を採択。“キューバ革命路線”をラテンアメリカの左派勢力にとっての正統教義として認知した会議です。 切手に取り上げられたトーレスは、1929年2月3日、ボゴタ生まれ。当初、ボゴタの“ロサリオの聖母学院”に通っていましたが、教員を批難したことが原因で退学処分となりました。1946年、リセオ・デ・セルバンテスで中等教育課程を修了。コロンビア国立大学法学部にごく短期間在籍した後、ボゴタのコンシリアール神学校に転入し、1954年、司祭として叙階され、ベルギーのルーヴェン・カトリック大学に留学しました。 帰国後、研究者としてコロンビア国立大学に籍を置きながら、貧困の根本的な解決と労働者階級への積極的な支援を訴え、さらに、絶望的な社会的格差を解消して社会正義を確立するためには、キリスト教徒は武装闘争に加わらなければならないと主張。1960年には、オルランド・ファルス・ボルダたちとともに、同大でラテンアメリカ最初の社会学部の設立者の一人となりましたが、その急進的な主張に対しては毀誉褒貶が激しく、ついには大学を辞して、1965年、コロンビアの左翼ゲリラ組織、民族革命軍(ELN)に参加しました。 ELNは、マルクス・レーニン主義による反米・親キューバ路線を掲げて、爆弾テロや誘拐を実行していた組織で、トーレスは一ゲリラとして非合法の地下活動に従事し、1966年2月15日、コロンビア政府軍との戦闘で殺害され、ELNの“殉教者”となりました。 カトリックの司祭からゲリラへの転身という異色の経歴もさることながら、トーレスを広く世に知らしめたのは、「もしイエスが生きていたら、ゲリラになっていただろう」との言葉です。この言葉は、ラテンアメリカでは広く人口に膾炙し、1970年代にペルーのグスタボ・グティエレスが著書『解放の神学:歴史、政治、救い』で体系化した“解放の神学(従来の欧米のキリスト教神学は白人の神学ないしはブルジョアジーの神学の制約を脱することができないとして、これを否定し、被抑圧・被差別人民の解放こそキリスト教の福音の本質であるとする現代キリスト教神学の一潮流)”の源流の一つとされています。 ちなみに、OLAS会議が開催された1967年7月の時点では、カストロ政権は、キューバでの閣僚の地位を捨て、ボリビアでのゲリラ活動に従事するゲバラを“革命のキリスト”として神格化することで、革命キューバの正統性をアピールするようになっていました。トーレスの肖像切手と、そこから連想される「もしイエスが生きていたら、ゲリラになっていただろう」との言葉は、そうしたを側面からサポートする役割を担うものだったとみることができましょう。 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、ゲバラと同時代のラテンアメリカ諸国の左派勢力とキューバとの関係についても、いろいろとまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いします。 ★★ 昭和12年学会・第1回公開研究会 ★★ 1月19日(土)、14:00-17:30、東京・神保町のハロー貸会議室 神保町で、昭和12年学会の第1回公開研究会が開催されます。内藤は、チャンネルくららでおなじみの柏原竜一先生とともに登壇し、「昭和切手の発行」(仮題)としてお話しする予定です。 参加費は、会員が1000円、非会員が3000円。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) |
2019-01-14 Mon 01:53
きょう(14日)は成人の日です。というわけで、若者関連の切手の中から、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2007年にキューバで発行された“共産主義青年同盟(UJC:Unión de Jóvenes Comunistas)の45周年”の記念切手で、左から、フリオ・アントニオ・メリャ、カミーロ・シエンフエゴス、チェ・ゲバラの横顔の肖像が取り上げられています。なお、UJCの現在のエンブレムは、この3人の横顔をイラスト化したものですが(下の画像)、切手ではその組み合わせを写真で表現しています。 1959年の革命後のキューバにおける青年組織としては、1960年に設立された革命青年協会が最初です。その後、1962年4月、革命青年協会の第1回全国大会が開催され、組織名を共産主義青年同盟に改称することが承認されると、これに伴い、ビルヒリオ・マルティネスにより、新たなエンブレムが制作されることになりました。 マルティネスは、1931年4月27日、ハバナ生まれ。1949年、商業美術家としてデビューした後は、商業誌での活動のかたわら、反バティスタの地下出版でバティスタ批判の風刺漫画を描いていました。1955-59年、左派系の雑誌『メリャ』誌に、擬人化された犬のプーチョを主人公とする冒険物語『プーチョ』を連載。後に、そこから派生した漫画『クーチョ』は現代キューバを代表するコミック作品となります。 当初、マルティネスの制作した同盟のエンブレムは、UJCの文字の入った円と星を背景に、1920年代の旧キューバ共産党の共同設立者で、大学学生連合を設立したフリオ・アントニオ・メリャ(1929年没。享年26)と、早逝したキューバ革命の英雄、カミーロ・シエンフエゴス(1959年没。享年27歳)の肖像を並置したもので、背後には、青年同盟のスローガンである学習・労働・銃(=革命軍)の語と、それに対応した白(学習)・青(労働)・濃緑(銃)の旗が配されていました。ただし、この時点ではゲバラはキューバ政府の現職閣僚であったこともあり、彼のチェの肖像は含まれていません。 1965年、現在のキューバ共産党が創設され、青年同盟はその下部組織になりましたが、エンブレムは従来のものがそのまま使われていました。ところが、1967年にゲバラが亡くなると、急遽、ゲバラの肖像を最前面に加え、ついで、カミーロ、メリャの順で並べた現在のデザインに変更されました。このデザインでは、チェの肖像が最前面に出ていることから、キューバ政府としては、3人の中でチェを最も重要視していることがうかがえます。 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、ゲバラの死後、彼の肖像がどのように使われ、定着していったかということについてもまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。 ★★ 昭和12年学会・第1回公開研究会 ★★ 1月19日(土)、14:00-17:30、東京・神保町のハロー貸会議室 神保町で、昭和12年学会の第1回公開研究会が開催されます。内藤は、チャンネルくららでおなじみの柏原竜一先生とともに登壇し、「昭和切手の発行」(仮題)としてお話しする予定です。 参加費は、会員が1000円、非会員が3000円。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) |
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