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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ナポレオン1世没後200年で式典
2021-05-06 Thu 02:16
 1821年5月5日にセントヘレナで亡くなったフランスの元皇帝、ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)の没後200年ということで、日本時間のきょう(6日)から、セントヘレナでは記念のイベントが行われます。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      セントヘレナ・ナポレオン没後150年(墓)

 これは、いまから50年前の1971年にセントヘレナが発行した“ナポレオン1世没後150年”の記念切手のうち、フランスの画家ジャック=ルイ・ダヴィッドの『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』とセントヘレナにあるナポレオンの墓所を組み合わせた1枚です。

 1814年、いわゆる諸国民戦争で英国、オーストリア、ロシア、プロイセン、スウェーデンの連合軍に敗れたナポレオン1世は、4月6日に退位させられ、エルバ島に流されましたが、1815年2月26日、同島を脱出してフランスに再上陸。3月20日、パリに入城して、再び帝位につきました。

 これに対して、各国は第7次対仏大同盟を結成。フランス軍は6月15日にリニーでプロイセン軍を破ったものの、6月18日、ワーテルローで連合軍に大敗を喫し、6月22日、ナポレオン1世は再び退位を余儀なくされます。当初、ナポレオン1世は米国への亡命を試みたものの、港が封鎖されていたために断念。最終的に英国の軍艦に投降。英国政府は彼を南大西洋の孤島、セントヘレナ島に幽閉することを決定しました。

 セントヘレナでのナポレオン1世は、アンリ・ガティアン・ベルトラン伯爵、シャルル=トリスタン・ド・モントロン元帥ら少数の随員とともに、セントヘレナ副総督が夏の間の住居として使っていたロングウッド・ハウスで生活することになります。

 この時、すでにナポレオン1世は胃潰瘍の持病を抱えて健康状態は芳しいものではありませんでしたが、セントヘレナの高温多湿な気候は彼の健康に悪影響を与え、病状も進行。1821年5月5日、51歳で亡くなりました。なお、遺言による解剖の結果、胃に潰瘍と癌が見つかったことから、公式の死因は胃癌と発表されています。なお、死因については、彼の遺髪から相当な量のヒ素が検出されたことから、ヒ素による毒殺ないしはヒ素中毒説(当時は壁紙の素材としてヒ素が使われていました)が唱えられてこともありましたが、当時は、切り取られた毛髪の保存料としてヒ素が一般的に使用されていましたので、遺髪からヒ素が検出されたことを理由に、ただちにヒ素による毒殺ないしはヒ素中毒と断定するのは無理があります。

 ナポレオンの遺体は、5月9日、今回ご紹介の切手に取り上げられた島内の墓所に埋葬されましたが、1840年、フランスに返還され、現在はパリのオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)に葬られています。

 さて、今回の没後200年祭は、ナポレオンが亡くなった5月5日17時49分(現地時間。以下同。ちなみに、日本時間では6日02時49分)に1分間の黙祷をささげることから始まり、6日にはロングウッド・ハウスの食堂でのカトリックのミサ、9日には墓前で埋葬200年の記念イベントが行われる段取りになっています。

 当初、セントヘレナとしては、世界各国から大々的に観光客を誘致し、ナポレオン1世没後の200年の各種イベントを盛大に行う予定だったそうです。しかし、新型コロナウイルス禍のため、没後200年のイベントも大幅な規模縮小を余儀なくされ、最終的に、小規模なローカル・イベントとして行われることになったのだとか。コーヒー以外に目立った輸出産業のない地域だけに、数十年に一度というレベルのビジネス・チャンスを逃した関係者の方々には、つくづくお気の毒としか言いようがありませんね。


★ 放送出演・講演・講座などのご案内★

 5月10日(月) 05:00~  
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。

 5月15日(土)~ 武蔵野大学の生涯学習講座
 5月15日、22日、6月5日、19日、7月3日、17日の6回、下記のふたつの講座でお話しします。 
 13:00~14:30 「日本の郵便150年の歴史 その1 ―“大日本帝国”時代の郵便事情―」
 15:15~16:45 「東京五輪と切手ブームの時代 ―戦後昭和社会史の一断面―」
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 明治4年3月1日(1871年4月20日)にわが国の近代郵便が創業され、日本最初の切手が発行されて以来、150年間の歴史を豊富な図版とともにたどる3巻シリーズの第1巻。まずは、1945年の第二次大戦終戦までの時代を扱いました。今後、2021年11月刊行予定の第2巻では昭和時代(戦後)を、2022年3月刊行予定の第3巻では平成以降の時代を取り扱う予定です。

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 南ア、すべての国との往来を解禁へ
2020-11-13 Fri 02:19
  南アフリカ共和国(南ア)のラマポーザ大統領は、11日、観光・接客部門を後押しする措置の一環として、すべての国との往来を解禁すると発表しました。現時点では、解禁措置の詳細や解禁日については明らかにされていませんが、1年後の来年11月9-13日にケープタウンで開催予定の世界切手展<Cape Town 2021 (IPEX2021) i>の日本コミッショナーを仰せつかっている僕としては気になるニュースです。というわけで、南ア宛の郵便物の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      セントヘレナ収容所からケープ宛(1901)

 これは、1901年8月7日、南大西洋の火山島、セントヘレナに設置されていたボーア戦争の捕虜収容所から英領ケープ植民地のバリー・ドール宛に差し出された郵便物で、ちょっと薄いのですが、切手の左には収容所の検閲印が押され、検閲担当者のEWのサインも書き込まれています。

 1899年10月に始まった第2次ボーア戦争は、当初、アフリカーナー(ボーア)軍が英軍を圧倒していましたが、1900年2月、英本国からの増援部隊が到着。2月18日から27日にかけてのパールデベルグの戦いで英軍がボーア軍を破ったことで戦況は逆転し、3月13日にはオレンジ自由国の首都ブルームフォンテーンが、6月5日にはトランスヴァール共和国の首都プレトリアが陥落します。さらに、英軍は、6月11日から12日にかけて、プレトリア近郊のダイアモンド・ヒルでボーア軍の残党を掃討し、正規軍同士の戦いは事実上終結しました。

 第2次ボーア戦争開戦直前の1899年7月29日、ハーグ陸戦条約が署名され(発効は1900年9月4日)、同条約により、捕虜と親族との通信が認められて“捕虜郵便”の運用が開始されます。これを受けて、英国はアフリカーナーを対象とした捕虜収容所を、南ア域内はもとより、遠くセイロンやインド、セント・ヘレナにも設置し、捕虜となった約2万8000人のアフリカーナーのうち、2万5630人を海外の収容所に送しました。このうち、今回ご紹介のカバーの差出地であるセント・ヘレナの収容所に関しては、ナポレオンさえも脱出できなかった流刑地というメージを連想させ、捕虜たちに対する精神的なダメージを与える意図もあったのではないかといわれています。

 一方、正規軍の戦いが終結した後も、英国の侵略から祖国を守ろうとするアフリカーナーの士気は衰えず、彼らはゲリラ戦を展開し、激しく抵抗していました。

 これに対して、英軍の総司令官ホレイショ・キッチナーは、ゲリラ殲滅のため、焦土作戦を敢行。ゲリラに対する補給を断つとともに、ゲリラ側の戦意を喪失させるためとして、アフリカーナーの家屋や農場を容赦なく焼き払いました。

 その過程で浮上してきたのが“強制収容所”問題です。

 当時の英軍は、いかなる理由であれ(とはいえ、実際には戦禍によるものが大半でしたが)住居を失った現地住民を対象に、人道上の見地から、避難所を設置します。この避難所は、当初、“refugee camp”と呼ばれていました。文字通りに訳すと、難民キャンプです。

 ところが、キッチナーによる焦土作戦が発動され、アフリカーナーに対する事実上の無差別攻撃が開始されると、住居を失うアフリカーナーが急増。ゲリラとみなされた成人男性は処刑されるか遠方の捕虜収容所へと送られ、夫や父親などと引き離された女性や子供、老人は収容所での集団生活を強要された。これが“concentration camp”で、本来の訳語としては“集団生活所”とすべきでしょうが、その実態に照らして、一般に“強制収容所”と呼ばれています。

 しばしば、“集団生活所(=強制収容所)”を設けたのはボーア戦争時の英国が最初といわれていますが、厳密にいうと、米西戦争(1898年)以前のスペイン領キューバやフィリピン、さらには米西戦争後の米比戦争などでの事例があります。ただし、ボーア戦争期の“集団生活所(=強制収容所)”は、現在の南アフリカ共和国に相当する地域のほぼ全域で、住民をもともとの居住地から組織的に駆逐し、収容所での集団生活を強要したという点で、フィリピンなどの先例に比べてはるかに大規模なものであり、その意味では、世界最初の本格的な強制収容所といってよいでしょう。

 英国はアフリカーナーを対象に45ヵ所、アフリカ系黒人を対象に64ヵ所の収容所を設置しましたが、焦土作戦が本格化した後、各収容所には明らかに収容能力を超える人々が抑留され、食糧や医療、衛生環境は極端に悪化。戦時下ゆえに物資の補給が困難であったことに加え、多くの収容所では当局が事態の改善にまじめに取り組みませんでした。さらに、ゲリラとして反英闘争を続けている者が家族にいる場合には食料の配給も減らされ、最終的に2万6000人を超える女性と子供が収容所で命を落としたといわれています。また、アフリカーナーと異なり、アフリカ系の黒人は英国から“敵国人”とみなされていたわけではありませんでしたが、やはり、焦土作戦によって住居を失う者が多く、数万人が強制収容所送りとなり、また1万4154人が死亡しました。

 ちなみに、ナチス・ドイツで設置されていた“Konzentrationslager”という施設に関して、ヒトラーは1941年に「Konzentrationslagerの発明者はドイツ人ではない。英国人だ。彼らはこの種の方法で諸民族を骨抜きにできると思っている」と述べているほか、ゲーリングはニュルンベルク裁判で「Konzentrationslagerはボーア戦争の際に英国が南アフリカに建設したconcentration campをモデルにした」と証言しており、少なくとも、彼らの意識の中では、ナチスの強制収容所は、ボーア戦争以来の先例を踏襲したものと理解されていたことがうかがえます。

 なお、第2次ボ-ア戦争に始まる“強制収容所”の歴史については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。
 

★ 11月19日(木) InterFM 897:The Road 出演します ★

 11月19日(木) 17:30 InterFM 897の番組、嘉衛門 Presents 「The Road」!に内藤が出演し、“知られざる切手の世界”についてお話します。前編にあたる12日の放送分のradikoでのタイムシフト視聴を含め、詳細はこちらをご覧ください。皆様よろしくお願いします。


★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★

      日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史カバー 本体1600円+税

 出版社からのコメント
 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】
 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は
 いかなる歴史をたどり、
 中国はどのように浸透していったのか

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 ロンドン大火350年
2016-09-02 Fri 13:51
 1666年9月2日にロンドン大火が発生してから、きょうでちょど350年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      セントヘレナ・ロンドン大火

 これは、1967年にセントヘレナが発行した“ロンドン大火後の移民到着300年”の記念切手のうち、ロンドン大火の場面を取り上げた1枚です。

 1666年9月2日深夜1-2時頃、ロンドン・ブリッジのすぐ北に位置するプディング・レーンでトマス・ファリナーが経営するパン屋で火災が発生。当時のロンドンは10ヵ月近い干ばつ続きで空気も建物も非常に乾燥していた上、出火当夜は強い東風が吹き荒れていたことから、炎はたちまち隣家へと燃え移り、火薬、タール、油、石炭類などの可燃物が大量に貯蔵されていたテムズ河畔を焼き尽くして、シティにも広がりました。

 火災の被害が拡大した原因は、大火以前のロンドン市内では家屋のほとんどが木造で街路も狭かったことに加え、ロンドン市長のブラッドワースが、シティの地主の反対に押されて、延焼を防ぐための破壊消防に消極的だったことが挙げられています。

 優柔不断なロンドン市長にいらだった国王チャールズ2世は、みずから消火活動を先導。火の進む方向にある民家を取り壊して防火帯を設置し延焼を防ぐとともに、火災3日目には自らも視察におもむき、馬から降りて水桶を手にして消火活動に参加しました。この結果、4日目には防火帯の効果があがり、大火災はようやく収まり始め、5日目の9月6日には鎮火しました。

 一連の大火災で、ロンドン市内の家屋のおよそ85%(1万3200戸)が焼失。火災後の1667年、建築家クリストファー・レンの尽力により「再建法」が制定され、ロンドン市内では木造建築が禁止され、家屋は全て煉瓦造または石造とされたほか、道路も拡幅され、現在のロンドンの街区の基礎がつくられました。

 一方、火災により住居を失ったロンドン市民の一部は、翌1667年、当時は英国東インド会社の統治下にあったセントヘレナ島に集団で移住。今回ご紹介の切手は、そこから起算して300周年になるのを記念して発行されたものです。ちなみに、現在の“セントヘレナ人”は、このとき移住してきた英国系白人(と現地の先住民やアフリカ系の奴隷との混血)の子孫とされています。

 なお、ロンドン大火後、ロンドン市内ではコーヒーハウスが急増。ロンドンの郵便事情にも大きな影響を与えることになるのですが、そのあたりの事情については、拙著『英国郵便史 ペニー・ブラック物語』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いたけると幸いです。


★★★ トークイヴェントのご案内 ★★★

 拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』の刊行を記念して、東京・青山の駐日ブラジル大使館で下記の通り、トークイヴェントを開催いたします。ぜひ、ご参加ください。

 ・日時 2016年9月23日(金)18:00~20:00(17:30受付開始)
 ・会場 駐日ブラジル大使館 セミナー・ルーム
  〒107-8633 東京都港区北青山2丁目11-12 (地図はこちらをご覧ください)
 ・参加費 無料
 ・定員 30名(申込多数の場合は先着順)

  * 9月16日(金)までに、お名前・ご連絡先・ご所属を明記の上、電子メール、ファックス等で下記宛にお申し込みください。(お送りいただいた個人情報は、大使館へ提出する以外の目的には使用しません)
  申込先 えにし書房(担当・塚田)
  〒102-0074 千代田区九段南2-2-7-北の丸ビル3F
  Tel. 03-6261-4369 Fax. 03-6261-4379
  電子メール info★enishishobo.co.jp (スパム防止のため、★の部分を半角@に変えてご送信ください)

 なお、トークヴェベント終了後、20:30より近隣のブラジルレストラン「イグアス」にて懇親会を予定しております。(イグアスの地図はhttp://tabelog.com/tokyo/A1306/A130603/13048055/ をご覧ください) 
 会費は、『リオデジャネイロ歴史紀行』1冊の代金込みで6500円(書籍不要の場合は5000円)の予定です。参加ご希望の方は、トークイベントお申し込みの際に、その旨、お書き添えください。なお、懇親会のみの御参加も歓迎いたします。


★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』  ★★★ 

       リオデジャネイロ歴史紀行(書影) 2700円+税

 【出版元より】
 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介
 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。
 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行!
 発売元の特設サイトはこちらです。

 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

       リオデジャネイロ歴史紀行(東京新聞)


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 小さな世界のお菓子たち:キャンディの切手
2016-04-07 Thu 08:43
 ご報告が遅くなりましたが、大手製菓メーカー(株)ロッテの季刊広報誌『Shall we Lotte(シャル ウィ ロッテ)』の第31号(2016年春号)ができあがりました。僕の連載「小さな世界のお菓子たち」では、今回は、こんな切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

      セントヘレナ・キャンディ

 これは、1998年にセントヘレナが発行したクリスマス切手のうち、伝統的な工芸品に盛り付けられたキャンディとクルミを取り上げた1枚です。

 欧州での戦争に敗れた皇帝ナポレオンが、流刑地として晩年を過ごしたセントヘレナ島は、南大西洋に浮かぶ面積122平方キロの火山島で、最も近い陸地となるアフリカ大陸西岸まで2700キロメートル(ほぼ北海道=沖縄間に相当)も離れています。

 この島は、1502年5月、ポルトガルの航海家ジョアン・ダ・ノーヴァによって発見され、1834年4月、英国の王領直轄地となりました。1853年には米国ペリー艦隊が日本への航海の途中で石炭を補給するために帰港するなど、大西洋とインド洋を結ぶ中継基地として繁栄しましたが、1869年にスエズ運河が開通すると、交通量は激減しました。

 行政上は、2009年9月以降、同じく南大西洋上のアセンション島トリスタン・ダ・クーニャとともに、“英海外領土セントヘレナ・アセンションおよびトリスタン・ダ・クーニャ”を構成していますが、現在でも、1856年以来の“セントヘレナ”単独名義の切手が発行され続けています。

 セントヘレナ島の人口は約4200人。その大半は、セントヘレナ人(英国系白人とアフリカ系などの混血)で、宗教的には英国国教会が主流です。そうしたこともあって、毎年、クリスマス切手が発行されています。

 1998年のクリスマス切手は、島の工芸品を取り上げた4種セットで発行されましたが、そのうち今回ご紹介の20ペンス切手には、島の伝統的なろくろ工芸で作られた木の器にキャンディとクルミが山と盛られたようすが描かれています。

 セントヘレナ島にはコーヒー以外には輸出産業はなく、自給自足の小規模農業や漁業、手工業が細々とおこなわれていますが、それだけで島民の生活を支えるのは不可能なため、食料をはじめ多くの生活物資は英本国ないしは南アフリカからの輸入に頼らざるをえません。

 さらに、2016年5月に島で最初の空港が開港し、ヨハネスブルク(南アフリカ)との間で週1便の旅客機の運行が始まる予定とされていますが、この記事を書いている時点では、島外からの定期的な交通は、ケープタウン(南アフリカ)からの船便が年12便、アセンション島からの船便が年14便あるだけです。このため、品物が入荷すると、外国人向けのホテルやレストランなどが高値で品物を買い占めてしまうこともあって、島民は慢性的なモノ不足に悩まされています。

 こうした状況ですから、器に入りきらないほどのキャンディとクルミ(どちらも島内では生産されておらず、輸入品です)の切手は、それだけで、クリスマスならではの華やいだ雰囲気のイメージを表現したことになるのでしょう。切手の主役は、表向きは木の器ですが、デザイン上は、脇役であるはずのキャンディが完全に主役を食ってしまった格好です。

 * けさ、アクセスカウンターが164万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。


 ★★★ 講座のご案内 ★★★

 ・よみうりカルチャー荻窪 「宗教と国際政治」
 4月から毎月第1火曜の15:30より、よみうりカルチャー荻窪(読売・日本テレビ文化センター、TEL 03-3392-8891)で講座「宗教と国際政治」がスタートします。ぜひ、遊びに来てください。詳細は、こちらをご覧いただけると幸いです。
 

 ★★★ 内藤陽介の新刊  『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 

       ペニーブラック表紙 2350円+税

 【出版元より】
 若く美しい女王の横顔に恋しよう!
 世界最初の切手
 欲しくないですか/知りたくないですか

 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。

 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。


 ★★★ 内藤陽介の新刊  『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 

       アウシュヴィッツの手紙・表紙 2000円+税

 【出版元より】
 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。

 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。

 インターネット放送「チャンネルくらら」にて、本書の内容をご紹介しております。よろしかったら、こちらをクリックしたご覧ください。


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