2007-12-31 Mon 08:23
2007年もいよいよ大晦日です。今年も皆様には本当にいろいろとお世話になりました。おかげさまで、主なものだけでも、下記のような仕事を残すことができました。
<単行本> ・『(解説・戦後記念切手Ⅴ) 沖縄・高松塚の時代:切手ブームの落日 1972-1979』 日本郵趣出版 ・『香港歴史漫郵記』 大修館書店 ・『タイ三都周郵記:バンコク・アユタヤ・チェンマイ+泰緬鉄道の旅 』 彩流社 <単発モノの論文・エッセイなど> ・「The Unissued Stamps of Mengjiang (Inner Mongolia) under the Japanese Occupation:蒙疆占領地の発行されずに終わった切手」 『切手の博物館研究紀要』第3号 ・「“国宝シリーズ切手”誕生の背景」 『郵趣』4月号 ・「香港 古き良き時代の歴史散策」 『郵趣』6月号 ・「中東民主化の可能性」 『表現者』第12号(7月) ・「昭和の遺産、東京中央郵便局」 『東京人』10月号 ・「(日本珍品切手物語41)満洲・不発行切手」 『郵趣』8月号 <連載> ・「切手に見るアラブの都市物語」 『(NHK)アラビア語講座』(1~12月) ・「今月の表紙」 『郵趣』 (1~12月) ・「切手で見る韓国現代史」 『週刊東洋経済日報』 (~3月) ・「外国切手の中の中国」 『(NHKラジオ)中国語講座』(~3月) ・「切手の中の建設物」 『建設業しんこう』(~3月) ・「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」 『SAPIO』(~12月) ・「世界の切手で見る中国」 『国際貿易』(3~4月) ・「切手に見る建設の風景」 『建設業しんこう(4月~) ・「切手の中の日本と韓国」 『表現者』(11月~) (このほか、「大統領になりそこなった男たち」が12月発売の『中央公論』2008年1月号からスタート) <切手展> ・「香港返還10周年記念・香港切手展:香港歴史漫郵記」展(6-7月 切手の博物館) ・「泰俘虜収容所の郵便史」(11月 タイ切手展:<JAPEX07>併催) 上記以外にも、公私にわたり、実に多くの方々より、ご支援・ご協力を賜りました。この場を借りて、皆様に厚くお礼申し上げます。 明年は、1月7日、『中日新聞』でスタートの新連載「きょうの切手」が、皆様にご覧いただく最初の仕事になる予定です。単行本に関しては、4月刊行予定の<解説・戦後記念切手>シリーズの第6巻を皮切りに、現時点で3冊のスケジュールが決まっています。 引き続き、ご支援・ご協力を賜りますよう、お願い申し上げます。 最後に、来る年の皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げ、年末のご挨拶といたします。どうぞ、良いお年をお迎えください。 内藤陽介拝 |
2007-12-30 Sun 13:15
1927年12月30日に日本最初の地下鉄が開業してから、今日でちょうど80年です。というわけで、今日はこの切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1977年12月16日に発行された地下鉄50年の記念切手です。地下鉄開通の記念日は12月30日ですが、さすがに、年末の御用納めも終わって、郵政省が年賀状でパニック状態になっている30日に記念切手を発行することは無理だったためか、記念式典の行われた12月6日に発行されました。 1914年、鉄道と港湾の調査で欧州を視察した早川徳次は、ロンドンにおける地下鉄の発達を目の当たりにし、東京での地下鉄建設の必要性を痛感。1920年に東京地下鉄道株式会社を設立し、1925年に浅草=上野間の地下鉄工事を開始しました。その結果、1927年12月30日、浅草=上野間2.2キロに日本最初の地下鉄が開業しました。当時の運賃は10銭均一で車輌数は10輌、5分間隔の単車運転でした。 その後、地下鉄は神田、日本橋、京橋、銀座と逐次延伸し、1934年に新橋=浅草間の8キロが全線開通します。一方、1939年1月には五島慶太ひきいる東京高速鉄道が渋谷=新橋間の6.3キロを開通させ、同年9月から、現在の東京地下鉄の銀座線に相当する渋谷=浅草間の直通運転が開始されました。 切手は、創業時の車輌を描く切手と“現在”の地下鉄車輌を描く切手を市松模様の連刷にしたもので(田型の画像を持ってきたのはそのためです)、“現在”の車輌に関しては、1977年3月に開通した神戸市営地下鉄の西神線(当時は名谷=新長田間5.7キロを運転)のものがモデルになっています。 この切手が発行された頃、僕は小学生でした。東京・大手町の逓信総合博物館でこの切手の初日カバー用の空封筒が売られていたので、それが何のためのものであるかは知らずに、ただ綺麗だからという理由で買った記憶があります。その後、「その封筒は出たばかりの記念切手を貼って、特印(=記念スタンプ)を押してもらうためのものだよ」とクラスの友達から教えてもらったのは、すでに切手発行から1週間以上経ってからのことで、「へぇー」と素直に感心したことを覚えています。 今年が地下鉄開通80周年ということは、それから30年が経ったんですねぇ。なんとも、懐かしいものがあります。 なお、今回ご紹介の「地下鉄50年」を含め、1972~79年の記念切手についてのさまざまな情報は、今年3月に刊行した拙著『沖縄・高松塚の時代』でまとめていますので、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。 |
2007-12-29 Sat 12:20
官公庁はじめ多くのオフィスでは、昨日(28日)が御用納めでした。僕自身は365日・24時間営業の貧乏物書きゆえ“御用納め”とは無縁の生活をしているのですが、商品としてできあがったものとしては、先日ご紹介した『郵趣』2008年1月号をもって、年内は打ち止めとなりました。というわけで、今年1年の僕の仕事を振り返るのにふさわしい(?)マテリアルということで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1906年2月9日、神戸三宮から差し出されたタイ宛の葉書です。2月16日の香港・ヴィクトリア局の中継印と、2月26日のバンコクの到着印が押されています。右下の印は残念ながら不鮮明でデータがよく読めないのですが、おそらく、宛先地のロッブリーのものだろうと思います。 菊4銭を貼った外信葉書というのはごくありふれたもので、それ自体は取り立てて騒ぐようなものではないのですが、明治期のタイ宛のカバーや葉書、しかも、ハンコ(特にタイ側の)がきちんと読めるものというのは、案外少なくて、入手しようとすると、値段とは無関係に意外と手こずります。その点では、この葉書のレベルなら、まぁ合格点を与えても良いように思うのですが、いかがなものでしょうか。 ところで、この葉書がたどった日本→香港→タイというルートは、今年、僕が出した3冊の本『沖縄・高松塚の時代』→『香港歴史漫郵記』→『タイ三都周郵記』にゆかりの地を順番にたどるもので、個人的には愛着を感じる1枚です。まぁ、余所様から見たら、それがどうしたといわれそうな自己満の世界ですが…。 ちなみに、現時点で、来年(2008年)刊行予定の書籍の題材は、日本→韓国→アメリカとなっているのですが、以前、大韓航空でアメリカに行ったときと同じルートとはいえ、わざわざ韓国に迂回してアメリカまで運ばれた郵便物というのは、見つけようとすると案外苦労するかもしれません。 じつは、『郵趣』1月号で“2007年の収穫品”を紹介するコラムを書いてほしいと頼まれたとき、最初に、思いついたのはこの葉書だったのですが、“収穫”を名乗るには、客観的に見るとあまりにも駄物なので止めにして、ラーマ8世時代の葉書を取り上げることにしました。 こちらは、以前、ブログでご紹介した際には標語印の意味がわからなかったのですが、その後、読者の方が「旅行に行って知識を得ることはとても楽しい」という内容だと教えて下さいました。(ありがとうございます!)まぁ、この標語は拙著『タイ三都周郵記』の趣旨ともぴったり合いますし、なにより、この葉書のルックスの良い使用済みはそれ自体少ないので、“収穫”を名乗るのなら、こちらの方が無難だろうと考えた次第です。 なお、今回ご紹介の葉書と『郵趣』でとりあげた葉書の2点は、いずれも、『タイ三都周郵記』では、本文の内容とは絡めず、章扉の挿絵的に使いました。このうち、ラーマ8世の葉書は、部分的にですが表紙カバーのカラー図版にもなっているので、ぜひ、実際に拙著をお手にとってご確認いただけると幸いです。 |
2007-12-27 Thu 11:00
(財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』の2008年1月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1908年2月20日に発行された神功皇后の10円切手です。2008年の新年号ということで、ちょうど100年前の切手を持ってきました。 1908年(明治41)2月20日に発行された5円・10円の切手は、主として電信・電話の加入登記料・使用料・通話料等の支払に用いるために発行されたものです。当時の書状基本料金が3銭ですから、5円でもその約167倍。現行の80円で単純に比例計算すると1万3360円という勘定になります。 切手は、キヨッソーネの肖像画を元に磯部忠一が原画を制作し、大山助一が直刻法で原版を彫刻したもので、水で湿らせた紙に印刷し、乾燥した後で裏のりを引くという手法で丁寧に作られました。額面の価値にふさわしい見事な出来栄えの逸品です。 切手に取り上げられているの神宮皇后は、記紀神話に登場する三韓征伐のヒロインで、記紀によると、皇后の事跡は以下の通りです。 もともと、シャーマンの術にすぐれていた皇后は、夫の仲哀天皇が九州南部の豪族、熊襲を征討しようとした際に、神から「西方に金銀財宝の豊かな国がある。それを服属させて与えよう」との託宣を受けます。しかし、天皇はこの託宣を信じず、神の怒りにふれて急死。そこで、天皇を葬った後、皇后が再び神意を問うと、「この国は皇后の御腹に宿る御子が治めるべし」との託宣がありました。 これを受けて、皇后は住吉三神を守り神として軍船を整えて新羅に遠征し、これを平定。いわゆる三韓征伐の伝説です。当時、皇后は妊娠中でしたが、遠征中に出産とならないよう、卵形の美しい石を2個、腰のところにつけて呪いとし、出産を後らせることを願い、妊娠から十五ヶ月を経て筑紫国に凱旋した後、無事に誉田別命を出産しました。 その後、大和に戻った皇后は、仲哀天皇の他の二人の王子の反乱を鎮め、誉田別命を皇太子に立てて自ら摂政となります。この誉田別命が、後の応神天皇です。 神功皇后の三韓征伐の物語は、黒船以来、欧米の脅威に晒され続けてきた日本人にとって、国家の威信を回復させるための格好の素材でした。また、彼女の息子の応神天皇の時代に百済から多数の渡来人が日本に学問・技術などを伝えたことは「神功皇后の御てがらに基づきしなり」(『尋常小学国史』の記述より)というのが、当時の標準的な日本人の理解でもありました。 こうしたことから、神功皇后の伝説は、富国強兵と文明開化のシンボルとなります。特に、宮中の反対で天皇の肖像を紙幣に使うことができなかったという制約ゆえに(天皇の肖像を貨幣に刻すべしとするお雇い外国人、トーマス・キンダーの建議は宮中の反対によって拒否されている)、天皇に代わる皇后の肖像は、必然的に、国民に対して“皇国の栄光”を印象づける格好の素材となりうるものであった。 こうして、1873年8月に発行された10円紙幣の裏面に、“神功皇后三韓征伐”の戦闘場面が登場します。さらに、1878年には、印刷局の女子工員をモデルに、キヨッソーネが描いた神功皇后の肖像が大きく紙幣に取り上げられました。この神功皇后像が、今回ご紹介の切手のデザインの元になっています。 その後も、キヨッソーネの描いた神功皇后像の評判は良く、明治10年代には繰り返し、円単位の紙幣に採用されていましたが、明治20年代に入ると、彼女の肖像は紙幣から外され、代わりに、菅原道真、武内宿禰、藤原鎌足、和気清麻呂といった、歴史上の天皇の忠臣が紙幣に登場していきます。 こうして、忘れられた存在になりつつあった神功皇后でしたが、日露戦争後、韓国の植民地化が進められていく中で、伝説の三韓征伐のヒロインというてんが再評価されるようになり、現実に迫りつつあった韓国の植民地化のシンボルとして、切手に復活することになったといういわけです。 さて、今月の『郵趣』は、なんといっても11月の<JAPEX>の特集が見所です。特に、恒例となった巻頭カラーでの名品集は、眼福モノの野マテリアルが目白押しで、テレビでいえば年末年始の特番に相当する豪華企画と言ってもいいかもしれません。 なお、このあたりの神功皇后イメージの変遷については、拙著『皇室切手』でもいろいろと分析してみましたので、よろしかったら、こちらもご一読いただけると幸いです。 *昨日のお昼すぎ、カウンターが27万ヒットを超えました。いつも遊びに来ていただいている皆様には、改めてお礼申し上げます。 |
2007-12-26 Wed 11:50
イギリス史上、最も有名な“敗軍の将”の1人とされるアーサー・パーシバルが1887年12月26日に生まれてから、今日でちょうど120年になりました。というわけで、こんな葉書を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1943年12月8日、いわゆる太平洋戦争の開戦2周年に際して発行された“大東亜戦争記念報国葉書”のうち、宮本三郎の戦争画「シンガポール英軍の降伏」を取り上げた1枚です。“大東亜戦争記念報国葉書”は、額面2銭の葉書を3種セット30銭で販売したもので、このうちの10銭が国防献金となっています。画面の奥、一番右側を歩いている痩せた人物がパーシバルで、中央のヒゲを生やした日本の軍人は情報参謀の杉田一次中佐です。 パーシバルは、第1次大戦中に徴兵されたことから軍人としてのキャリアをスタートさせ、いわゆる戦間期に軍の官僚として能力を発揮して出世した人物です。1939年に第2次大戦が始まるとフランス派遣軍の参謀長として、1940年5月のダイナモ作戦(ダンケルクから英国本土への撤退作戦)に参加 。帰国後は第44師団長として英国本土の沿岸防備を担当した後、 1941年4月にイギリス極東軍(マレー軍)の司令官となりました。 マレー軍の司令官としての彼の言動は、もともと、官僚的な気質があったことに加え、日本軍を舐めきっていたこともあって、かなり強烈です。 1941年12月8日、日本軍がマレー半島に上陸すると、シンガポールの要塞に篭城して本国からの援軍を待つという作戦を取った彼は、“持久戦”にこだわって弾薬の倹約を部下に命じたほか、マレー半島の兵力をシンガポール島に集中させたらどうかとの部下の進言に対しては「それだけの兵を入れる兵舎はない」と応えて、ほとんど無策のまま日々を過ごします。さらに、 シンガポール島全域に陣地を作るよう進言した部下に対して「ゴルフコースに機銃陣地を作るつもりだったが、委員会に諮らないと施設の改造はできない」と応えて、周囲を唖然とさせました。 結局、1942年2月15日、シンガポールは陥落し、パーシバル率いるイギリス軍は降伏。ブキテマ高地にあるフォード自動車工場での降伏交渉の際に、日本側の第25軍司令官・山下奉文中将が机を叩いて「イエスかノーか?」と決断を迫ったとされるエピソードは有名です。 もっとも、このエピソードに関して、後に山下本人が語ったところによると、通訳の不手際で交渉がこじれてしまったことから、弾薬をほとんど使い果たし、同夜にも最後の夜襲をかける予定であった日本軍としては、「細かいことはともかく、とりあえず降伏するのかどうか、その意思を示してほしい」という意味でパーシバルに尋ねたというのが真相のようです。 また、交渉が予想よりも長引いたことでフィルムが足りなくなることを心配した日映(社団法人・日本映画社。現・日本映画新社。ニュース映画を制作・配信した)のカメラマンが、フィルムの撮影速度を通常よりゆっくり回したことから、映写のときは山下の動きが実際よりも早くなり、机の上に普通に手を置いた場面が、机をドンと叩いて恫喝しているように見えることになったのだそうです。 ちなみに、その後、捕虜となったパーシバルは、満洲に送られて抑留生活を送りましたが、終戦とともに解放され、1945年9月2日、ミズーリ号で行われた降伏文書の調印式にも参加しています。 なお、シンガポール陥落に関する切手や消印の類はさまざまなものがあるのですが、その一部は拙著『切手と戦争』や『満洲切手』でもご紹介していますので、機会がありましたら、ご一読いただけると幸いです。 |
2007-12-24 Mon 11:36
今日はクリスマス・イブ。というわけで、単純素朴にクリスマス切手の中からこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2002年に中国香港で発行されたクリスマス切手です。4種類の切手はそれぞれの額面ごとの普通シートと、16面の連刷シートがありますが、今回は16面シートから切り離した田型連刷のものをお見せします。 切手は、クリスマス・ツリー(1ドル40セント)、オーナメント(2ドル40セント)、雪だるま(3ドル)、鐘(5ドル)のデザインに穿孔が施されたもので、アクセントにホログラムが施されている凝ったつくりになっています。(ホログラム部分は肉眼で見ると銀色ですが、スキャンすると、いろいろな色が交じり合った感じの画像になりました) 周知のように、中国の共産党政権は、キリスト教を含むあらゆる宗教を潜在的な反政府勢力とみなして警戒しており、キリスト教の場合、国家公認の“中国キリスト教協会”傘下の教会にしか布教を認めておらず、公認を受けずに布教すると違法という状態が続いています。じっさい、2000年には、中国政府は、バチカンが世界各地の新司教を任命するタイミングにあわせて、国内の新司教の任命を一方的に行い、教皇の持っている司教の任命権を“内政干渉”として排除する姿勢を改めて示すなど、強硬姿勢を崩していません。 しかし、特別行政区としての香港に関しては、“返還”から50年間、すなわち2047年6月30日までは1国2制度として高度な自治が認められることになっています。このため、イギリス時代に香港市民に認められていた“思想信条の自由”は引き続き守られるというのが建前です。中国香港当局としても、こうした建前の一環として、クリスマス切手を発行し、マイノリティとしてのキリスト教徒(カトリック・プロテスタントあわせて、人口の8%程度と考えられています)を尊重している姿勢を示しているのでしょう。 なお、香港の教会建築や、初期の香港でキリスト教の宣教師が果たした役割などについては、今年7月に刊行の拙著『香港歴史漫郵記』でも、いろいろと説明しておりますので、よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。 |
2007-12-23 Sun 16:04
昨年9月のクーデター以来、軍部主導の暫定体制が続いているタイで、今日(23日)、民政移管に向けた下院選挙の投開票が行われます。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1969年2月10日の総選挙に際して発行された切手で、旧アナンタ・サマーコム宮殿(当時は国会議事堂として利用されていた)が描かれています。 旧アナンタ・サマーコム宮殿は、1907年に当時のラーマ5世の命で着工され、国王が亡くなった後、次のラーマ6世時代の1915年に完成しました。完成当時は、迎賓館と国家的行事の宮殿という位置づけです。 旧宮殿の外壁は、近隣のワット・ベンチャマボーピットと同じカララ産の大理石が貼られており、彫刻が施されています。また、建物の中には、イタリア人画家、ガリレオ・チニによる歴代国王(ラーマ6世まで)をたたえるフレスコ画が掲げられているとのことですが、残念ながら一般公開はされていないので、僕たちは柵越しに中の様子を想像することしかできません。 1932年の立憲革命で議会が開設されることになり、アナンタ・サマーコム宮殿は国会議事堂として利用されるようになりましたが、現在は旧宮殿の北隣に建てられた新議事堂が議場として使用されており、旧宮殿は歴史的建造物として保存されています。 ところで、今回ご紹介の切手にちなむ1969年の総選挙は、1968年憲法に基づいて、1957年12月以来、じつに11年ぶりに実施されたものでした。 すなわち、1957年9月、サリット元帥による軍部クーデターの後、タイでは軍事政権が続いており、1963年12月のサリット病死後、政権を引き継いだのは、サリットの片腕とみなされたタノーム・キティカチョーン国軍最高司令官と、プラパート・チャールサティアン陸軍司令官でした。このうち、首相兼国防大臣となったタノームは、副首相で内務大臣のプラパートとともに、サリット時代以来の懸念であった憲法制定に着手。1968年にようやく、恒久憲法を公布しました。この憲法公布により、議会に内閣不信任決議権が認められるとともに、政党活動も解禁され、1969年2月の総選挙実施にいたったというわけです。 選挙の結果、タノームひきいるタイ国民連合党(サハプラチャータイ)が第一党となり、タノームは引き続き政権を担当することになります。しかし、タノームは、1971年に国会の非効率な運営を理由に、自己クーデターを起こして憲法・国会・内閣および政党を廃止。このため、1973年10月に民主化を要求する学生運動が起こり、タノーム政権は退陣に追い込まれました。 なお、タイではこれまで、国会議事堂時代を含め、何度かアナンタ・サマーコム宮殿の切手が発行されていますが、それぞれの切手が発行された当時の政治状況については、拙著『タイ三都周郵記』でもご説明しています。機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。 |
2007-12-22 Sat 11:54
雑誌『表現者』の第16号が出来上がりました。僕は、前号(第15号)から「切手の中の日本と韓国」という連載をやっているのですが、今回は、1945年に米軍による南朝鮮(大韓民国ができるのは1948年のことです)の占領が始まった当時の話ということで、こんなモノも取り上げています。(画像はクリックで拡大されます)
これは、終戦直後の1945年9月28日、富山県の出町(現・砺波市)から米軍政下の水原(ソウルの南約46キロの地点にある都市)宛に差し出されたものの、日本に返送された郵便物です。 日本降伏後の1945年9月2日、降伏文書が調印されると、連合国軍最高司令官一般命令第1号が出され、各地の日本軍の降伏を受理する担当が決められます。この結果、朝鮮半島に関しては、北緯38度線で南北に分割し、アメリカが南朝鮮に、ソ連が北朝鮮に進駐することになりました。 こうして、南朝鮮におけるアメリカ軍政時代がスタートします。 ところで、長らく異民族である日本人の支配下にあった朝鮮人のは、日本の敗戦が直ちに植民地支配からの解放を意味するものと考えていましたが、国際社会の認識は違っていました。彼らによれば、終戦までの朝鮮は紛れもなく“日本”の一部であり、その処分は連合国の自由な裁量に委ねられるべきだというのがコンセンサスとなっていたためです。“日本”では日本政府を通じて占領政策を行う間接統治が行われたのに対して、南朝鮮が直接軍政下に置かれたのはこうした認識によるものです。極論すれば、南朝鮮に進駐してきた米軍にとっては、南朝鮮と沖縄は、彼らが直接軍政を施行する占領地という点で本質的になんら変わったといっても良いかもしれません。 さて、日本から旧植民地を含む海外宛の郵便は、終戦とともにいったん停止され、1945年11月16日に再開されましたが、その間、該当する郵便物は日本国内の郵便局で留め置かれていました。今回ご紹介の郵便物もそうした扱いを受け、海外宛郵便の再開後、水原まで届けられています。ちょっと見にくいのですが、封筒の左下には、この郵便物が水原に到着した際に郵便局で押された1946年2月14日の印も薄く読めます。 しかし、郵便物が水原に到着したときには、おそらく名宛人は日本に帰国していたため、差出人へと返送され、それを受け取った差出人は封筒に「(昭和)21.3.10」のゴム印を押し、「返送落手」と記しています。 ところで、この郵便物は、出町と水原を往復する間、朝鮮に到着した際と朝鮮から差し戻される際の2度にわたって米軍により開封・検閲されています。封筒の四隅が開封されているのは、朝鮮到着時にいったん開封・検閲されたものをセロハンテープで封をしたうえ、後に朝鮮を出るときにも再度、開封・検閲して封緘されたためでしょう。左辺のテープは、水原到着時に押された消印の上から貼られており、この部分は朝鮮から出るときに検閲を受けた痕跡であることが確認できます。 テープには、“OPENED BY U.S. ARMY EXAMINER(合衆国陸軍の検閲官が開封した)”との文字が入っていますが、このテープは、本来、米国陸軍内部の検閲用であったものが郵便用に転用されたもので、当時の南朝鮮がアメリカの直接軍政下に置かれていたことを生々しく示しているといってもよいでしょう。 ちなみに、おなじくアメリカの占領下にあった日本国内でも郵便物に対する開封・検閲は日常的に行われていましたが、その際、用いられたテープには、“OPENED BY MIL. CEN-CIVIL MAILS(民間の郵便物を軍事検閲官が開封した)”との表示がなされるのが一般的でした。 当初の原稿では、今回ご紹介のカバーに関して「戦争に負けるということは、女が犯され、郵便物も犯されるということなのだ」とでも書こうかと思っていたのですが、さすがに品がないと思って止めにしました。ところが、出来上がった雑誌を読んでいたら、事実上の主宰者の西部邁さんが「僕は、いわゆる大東亜戦争で日本人はアメリカに犯されたと思う。そのときに『我ら犯されし人々の末裔』と言って『自分の婆さんを犯したアメ公を絶対に許さない』くらいのことを、真面目な論文でもいいし、冗談でもいいから言ってほしい」と対談の中で話しているのを発見。やっぱり、初めの予定通り、書いておけばよかったかな、とちょっと後悔したという次第です。 |
2007-12-21 Fri 12:48
日本時間の今日(21日)午前2時ごろ、イギリスのエリザベス女王が、ヴィクトリア女王(1819-1901年)を抜いて、イギリス史上最高齢(81歳243日)の君主となったのだそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。
これは、ペニー・ブラック(イギリスで発行された世界最初の切手)発行160年にあたる2000年の2月15日に発行された切手で、ペニー・ブラック発行時のヴィクトリア女王と現在のエリザベス女王の肖像がならべて取り上げられています。同じデザインの切手は、この10年前、ペニー・ブラック150年のときにも発行されていますが、今回は一部の目打の大きさが異なるシンコペーション目打になっているのが特色です。 額面に“1st”と入っていますが、これはファースト・クラス(優先配達:まぁ、速達のようなものです)の郵便料金相当を意味していて、現在でもファースト・クラスの郵便に使えます。ちなみに、当時の売価は26ペンスでした。 さて、ペニーブラックに取り上げられたヴィクトリア女王の肖像は、1837年11月、女王のギルドホール訪問を記念して作られたメダル(彫刻者のウィリアム・ワイオンにちなんで“ワイオンのメダル”と呼ばれている)に刻まれた肖像を基に作られたもの。女王がまだ10代の頃の肖像です。 一方、手前のエリザベス女王の肖像は、1967年以来現在まで、40年間に渡ってイギリスの切手に使われているもので、アーノルド・メイチン(日本では習慣的に“マーチン”とよばれていますが)による石膏像が元になっています。 切手や紙幣に肖像が使われる大きな理由の一つに、人間の顔というのは微妙な変化もすぐに気がつくので、偽造されにくいという点があります。この観点からすると、若い頃のすべすべの肌よりも、年齢を重ねて皺や弛みが出てきたほうが、チェックポイントが増えるので切手や紙幣としてはふさわしいということになります。その意味では、エリザベス女王の肖像も、年相応のものに逐次改めてきても良かったのではないかと思わないでもありません。まぁ、いまさら40年も使ってきたデザインを一新するというわけにも行かないんでしょうけど。 まぁ、くどくどと理屈を言ってみたところで、イギリスの場合は女王陛下ご自身が肖像のデザインをチェックするということのようですので、やはり、ご本人としては若々しい肖像の方がお好みということなんでしょうね。 ちなみに、現役の国王陛下として在位が最年長なのはタイのラーマ9世(プミポン国王)の61年でエリザベス女王は第2位ですが、実年齢としては、ラーマ9世は先日80歳になったばかりですから、女王の方が年上ということになります。 それにしても、エリザベス女王もラーマ9世も、80過ぎてなお、日々の激務をこなすその体力と気力はすごいですねぇ。ようやく、半分の40になったばかりの僕なんか、ちょっと根をつめただけでぐったりしてしまうのですから、情けない限りです。爪の垢でも煎じて飲ませていただきたいところですが、陛下の“爪の垢”を入手することじたいが僕たち民草にとっては最大の難関ですな。 |
2007-12-17 Mon 09:52
12月17日は1903年にライト兄弟が初飛行に成功したことにちなんで、“飛行機の日”なのだそうです。というわけで、エアメール・ネタということで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1939年2月のバンコク→東京の試験飛行で運ばれた郵便物です。当時はエアメール自体が珍しかったためか、日本到着後は速達扱いで届けるよう、東京中央郵便局の付箋がつけられているのが面白いところです。ちなみに、付箋の下の切手と消印はこんな感じです。 タイの航空事業は、1913年にタイ政府が飛行機を購入し、バンコク郊外のドーンムアンに陸軍飛行場を建設したのが始まりで、サイアム航空(現在のタイ航空の前身)がナコーンラーチャシーマー(コラート。東北部の玄関にあたる都市)とウボンラーチャターニー(ウボン。ラオス南部、カンボジアと接するタイ最東端の都市)の間に初の国内線定期航路が開設されたのは1922年のことでした。 日本との航空便に関しては、1940年6月10日に東京とバンコクの間を結ぶ大日本航空株式会社の航路が開設されましたが、それに先立ち、1939年1月から2月にかけて、ハインケル“乃木号”による試験飛行が行われています。 当時の新聞記事によると、1月26日に東京・立川飛行場を出発した乃木号は、翌27日、18時間37分かけてバンコクのドーンムアン飛行場に到着。現地に8日間滞在した後、2月4日午後10時、バンコクを出発して翌5日午後4時50分、立川飛行場に帰着しました。この間、給油のため台北に1時間立ち寄り、飛行時間は17時間10分でした。 2月5日の立川飛行場には、藤原保明航空局長官以下、日本側関係者名もとより、スレシナシャム駐日公使以下の公使館員、さらには来日中のシャレンボール殿下(国王の甥)も駆けつけて乃木号を出迎え、試験飛行の成功を祝福しています。 現在、立川飛行場は自衛隊の駐屯地になっていますし、バンコクの国際空港もドーンムアンではなくスワンナプームですから、当時とまったく同じルートをたどってみるのは事実上不可能です。それでも、途中で台北に立ち寄るということは十分に可能ですから、そういう意味では、乃木号の奇跡をなぞってみることは不可能ではないかもしれません。 なお、今回ご紹介のカバーは、拙著『タイ三都周郵記』でも取り上げていますので、よろしかったら、ぜひ、こちらもご覧いただけると幸いです。 |
2007-12-14 Fri 09:41
年末になると発表される“今年の漢字”ですが、2007年は、相次ぐ食品の偽装表示などを反映してか、“偽”が選ばれたそうです。というわけで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、日本軍占領下の香港で使われた風を装った“ルース・カバー”と呼ばれているものです。 第2次大戦中、日本軍の直轄植民地とされた香港では、日本本土と同じ切手が使用されていました。こうした使用例は、日本切手の収集家にとって興味深い収集対象として人気があり、戦時中から、通常の国内使用例に比べて高値で取引されてきました。たとえば、現在の相場でも、このカバーの一番右側の7銭切手の場合、ごくごくフツーの使用済みは1枚数十円で買えますが、香港で使われたことがハッキリわかるものだと、2000~3000円くらいはするでしょう。ちなみに、未使用の切手は1枚150円くらいです。 このような事情があったところに、終戦から10年ほど経過した1956年、突如として日本切手の香港での使用例が大量に日本・イギリス・香港のマーケットに出現します。 このとき出現した使用例の多くは、エアメールの封筒に日本切手が貼られたもので、宛名の大半は“Mr. H. da Luz, 64, Macdonnell Road, Hong Kong”となっていたことから、名宛人である切手商の名を取ってルース・カバーと呼ばれています。 ルース・カバーの真偽については、その出現当初からさまざまな議論があったのですが、さまざまな検証の結果、現在では、戦後、香港に残されていた大量の日本切手を戦後のインフレにより安価に手に入れたルースが、何らかの手段を使って入手した真正の消印を用いて日本占領時代の封筒に見せかけて変造したものということで概ね決着しています。 今回ご紹介しているのは、そうしたルース・カバーの一例で、1944年に発行されたはずの東郷平八郎の7銭切手に1943年の消印が押されているものです。これなら、真っ赤なニセモノであることが一目瞭然といえましょう。 このように、未使用切手と使用済やカバーの値段に大きな隔たりがある場合には、当然のことながら、一儲けをたくらんで偽造品を作る輩は後を絶ちません。特に、ルース・カバーのように、切手も消印もホンモノだけれど、カバーとしてはニセモノというケースは非常に厄介で、頭の痛いところです。ちなみに、最近では、ルース・カバーに貼られていた切手を切り取って、消印の読めるオンピースの状態でオークションに出品するというケースもあります。これだと、切手も消印もホンモノなので、売り手は“真正品”だと主張しますから、始末が悪いですね。 なお、日本軍占領下の香港での切手や郵便については、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろと解説しています。拙著の図版に使っているブツにはニセモノはない(と思います)ので、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。 |
2007-12-12 Wed 17:44
雑誌『SAPIO』2008年1月4日号が発売となりました。今回は、韓国の盧武鉉政権退陣前の“最後っ屁”で、大統領閣下が敬愛してやまない人物として、新たに発行される10万ウォン紙幣の肖像に取り上げられることが決まった金九を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2001年に韓国で発行された“ミレニアム”の記念切手のうち、金九を取り上げた1枚です。 金九の生涯や雑誌で使った切手に関しては、このブログの以前の記事でもご紹介しましたので、今日は、別バージョンの切手で、少し違った角度から彼のことを取り上げてみましょう。安重根や李奉昌、尹奉吉などの“抗日の義士”が切手に登場することは韓国では珍しくありませんが、金九のように、切手に2回登場する例はめったにないのですから…。 韓国では比較的親日派といわれていた金大中政権下の2001年に、金九の切手が発行されたのは、解放後、彼が南北の統一を強く主張した人物、換言するなら、南北の対話を主張した人物という面が強調された結果ではないかと思われます。 すなわち、解放後のアメリカ軍政下で、金九は米ソによって分割占領された朝鮮の統一独立を主張して政治活動を展開。南北分断が既成事実化していく中で、国連決議に基づく南朝鮮での単独選挙を主張する李承晩と激しく対立しました。実際、彼は単独選挙が行われる直前の1948年4月、“全朝鮮の代表者による会議”として北朝鮮側が呼びかけた全朝鮮政党・社会団体代表者連席会議(連席会議)にも参加したほか、単独選挙への参加をボイコットし、ついには、李承晩の放った刺客に殺されています。 結局、連席会議はなんら具体的な成果をもたらすことはなく、4月30日に発表された共同声明は、外国軍隊の即時・同時撤退、全朝鮮政治会議の召集による臨時政府の樹立、南北統一の総選挙の実施と憲法の制定、南朝鮮単独選挙の正統性の否定等、当時のソ連の主張を追認するだけのものでしかありませんでした。実際、北朝鮮側は、連席会議での共同声明に基づいて単独選挙の無効を宣言し、最高人民会議代議員選挙を行って、朝鮮民主主義人民共和国を樹立させるというプロセスを踏んでいますので、金九らの行動は、結果的に、南北分断は李承晩らに責任があるとする北朝鮮側の主張(事実としては、北朝鮮側が1946年2月に北朝鮮臨時人民委員会を樹立し、南北分断の第一歩を踏み出したのですが…)にお墨付きを与えるものとなってしまっています。 まぁ、北朝鮮に巨額の“お土産”を渡すだけに終わった南北頂上会談を推進してきた金大中政権としては、同じく北に“してやられた”先達の金九に対する愛着もひとしお、といったことだったのかもしれませんが…。 さて、2006年11月8日号の吉田松陰から始まった僕の連載、「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」も、今回で無事最終回を迎えることになりました。今までご愛読良いただきました方々には、この場を借りて、改めてお礼申し上げます。 なお、24回の連載では取り上げ切れなかった“英雄/テロリスト”の切手というのは、まだまだ沢山あります。今後も機会を見つけて、そうした人物とその切手をご紹介していくつもりですので、よろしくお付き合い下さいませ。 |
2007-12-11 Tue 14:00
1957年12月11日に最初の100円硬貨(現在とはデザインが違います)が発行されてから、ちょうど半世紀となりました。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。
これは、100円硬貨が登場する10年前、1947年1月15日に発行された日本最初の100円切手です。この切手が発行された当時の100円札は聖徳太子のデザインで、有名な板垣退助の100円札が登場するのは1953年のことでした。 切手に取り上げられているのは、三嶋大社の梅蒔絵小箱の模様を元に、加曾利鼎造がデザインした梅花模様です。このデザインは、もともとは、1939年に発行の10円切手のものでしたが、戦後、国名表示を“大日本帝國郵便”から“日本郵便”に変更し、額面を100円に変更して発行されたのが、今回ご紹介のモノになります。なお、戦災でダメージを受けた印刷局の復旧が道半ばという時代の切手ですから、目打や裏のりはついていません。 切手が発行された1947年は4月に、書状の基本料金が30銭から1円20銭に値上げされるなど、戦後のハイパーインフレが吹き荒れた時代でした。郵便以外にも、国鉄(現JR)の初乗り運賃は50銭(3月)→3円(7月)、都バス運賃は50銭(2月)→1円(6月)→2円(9月)、ビールは59円61銭(4月)→100円(12月)、清酒1級は43円(2月)→119円(4月)→132円(8月)、タバコのピース(10本入)は30円(4月)→50円(11月) といった具合ですから、年初に最高額の切手として登場した100円切手も、年末になるとすっかりその威光が衰えてしまったという雰囲気があります。 なお、記念切手で最初に額面100円となったのは、それからほぼ30年後の1976年10月に発行された「国際文通週間」(与謝蕪村の「鳶烏図」)です。こちらの切手に関しては、拙著『沖縄・高松塚の時代』で、いろいろと解説しておりますので、よろしかったらご覧いただけると幸いです。 |
2007-12-08 Sat 09:05
今日(12月8日)はいわずと知れた“真珠湾”の日。というわけで、定番ネタですが、日米開戦がらみということで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、いわゆる太平洋戦争の開戦前にアメリカから香港に差し出されたものの、開戦により送達不能となって差出人戻しとなった書留便で、合計25セント分の切手が貼られています。裏面には、1941年10月25日のサンフランシスコ局の印と1942年4月29日のフォレスト・ノールの印が押されています。カバーには開封・検閲された痕跡はありません。おそらく、このカバーを積んだ船は、サンフランシスコを出た後、航海途中で日米開戦になり、サンフランシスコに引き返したのではないかと思います。 宛先の北京道(ペキン・ロード)は、地下鉄の尖沙咀(チムサチョイ)の駅の一番南側、Eの出口の近くで九龍一の繁華街、彌敦道(ネイザン・ロード)とぶつかる道です。九龍の土地勘のある人でしたら、現地の地理に明るい人でしたら、中国旅行社の看板の近くで、のぞきこむと上海料理の名店、滬江大飯店(ウーコン・シャンハイ)のド派手なネオン看板が見えるところといった方がイメージしやすいかもしれません・ 日英開戦に伴い、香港から海外宛に郵便物を差し出せなくなったことは以前の記事でもご紹介しましたが、今回はその逆バージョンとでもいうモノです。両者を並べてみると、戦争による香港の孤立を表現することができます。 太平洋戦争の開戦により、送達不能で差出人戻しとなった郵便物というのはいろいろあって、それらを発着地ごとにまとめてミニ・コレクションを作ってみようかと考えたこともあるのですが、なかなか実現しません。まぁ、気長に取り組むしかないでしょうね。 7月に刊行した拙著『香港歴史漫郵記』は、2004年のアジア展に出品したコレクションをベースに作ったのですが、当然のことながら、それ以降に入手したマテリアルも使っています。今回のカバーもそのひとつなのですが、書籍ではモノクロ図版でのご紹介してみたものの、なかなか実物を展示に使う機会もないので取り上げてみたという次第です。 |
2007-12-07 Fri 09:42
今日(12月7日)は、国際民間航空デー 。1944年12月7日に国際民間航空条約(通称シカゴ条約)が結ばれ、国際民間航空機関(ICAO,International Civil Aviation Organization)が組織されたのを記念して、1992年のICAO総会で決められ、1994年から記念行事などが行われているそうです。というわけで、今日はエアメール・ネタということで、こんなモノを持ってきました。
これは、1936年3月26日、香港からペナン経由でロンドンまで全線航空便で送られたエアメールの第1便(FFC)で、封筒にはそのことを示す“FIRST THROUGH FLIGHT”の表示の入った角型の印が押されています。ロンドンの世界的な切手商スタンレー・ギボンズ社宛のもので、販売目的の記念品として作成されたモノですから、封筒の余白には当時の香港島のウォーター・フロントの写真が刷り込まれており、イギリス人のコレクターに対して、極東の植民地からはるばる運ばれてきたエアメールというイメージを与える工夫もなされています。 香港にやってきた最初の航空郵便は、1928年、コロンボからマニラを経て香港までイギリス空軍が運んだものといわれていますが、一般人も利用できるものとしては、同年11月、ロンドンとマニラを結ぶイギリスの極東飛行の延長線として、マニラから香港まで郵便物が運ばれたのが最初です。 こうして、香港にもエアメールがやってくるようになりましたが、最初のうちは、定期便はなく、単発のフライトに郵便物が搭載されて香港と世界各地を往来するという状況が続いていました。当時は、飛行機の航続距離が長くはなかったので、アジアとヨーロッパを結ぶ便になると、途中で何ヶ所かを経由するのが一般的でした。 イギリス本国と植民地・香港とを結ぶ航空路線を開発した航空会社はインペリアル・エアウェイズですが、同社は1924年3月31日に設立され、翌4月1日にロンドン=パリ線の運航を開始。これを皮切りに、ロンドン南郊のクロイドン空港を拠点に、当初はヨーロッパ各地への路線を拡大していました。アジア・アフリカ地域での営業については、1925年9月末までに行われたカイロ=カラチ間の航路の調査の結果を踏まえて、まず、1927年1月にカイロ=バスラ(イラク)線が開通。この路線を延伸するかたちで、1929年3月30日までに、ロンドン=カラチ線が開通します。 その後、1931年になると、ロンドン=オーストラリア間のエアメールの取り扱いが試験的に始まります。このときのエアメールは、オランダ領東インド(現インドネシア)まで運ばれた後、小型の飛行機に積み替えてオーストラリアまで運ぶというもので、ロンドン=シドニー間の所要日数はおおむね26日間でした。 ロンドン=オーストラリアのエアメールが成功すると、1933年末にはロンドン=シンガポール線でのエアメールの取り扱いが始まり、1934年末にはシンガポール=ブリスベン(オーストラリア)線でのエアメールの取り扱いも開始されます。これに伴い、香港からは、シンガポールまでは船便、シンガポール以遠はエアメールという郵便物を差し出すことができるようになりました。 そして、1936年3月14日、オーストラリア=ペナン(現マレーシア)線の支線としてペナン=香港線が開通。これにより、それまでシンガポールまでは海路で運ばれていた香港からロンドン宛のエアメールは、ペナン経由でロンドンまで全線、航空便で送ることが可能となりました。また、これと時を同じくして、ペナン以遠、アフリカ方面への航空便も全線開通となり、香港もようやく本格的なエアメール時代に突入していきます。 今年7月に刊行した拙著『香港歴史漫郵記』では、当初、香港のエアメールに関する1章を設ける予定だったのですが、紙幅の関係から該当部分は割愛せざるを得なくなりました。今回は、年末の在庫整理といった感じで、そのお蔵入りになった原稿の一部を掲載してみたという次第です。 それにしても、昨日のニュースによると、年末年始(12月21日~1月7日)に成田空港から出入国する旅客が、前年同期を0.7%上回り、過去最高の約140万人になる見込みだとか。このブログの読者の方々の中にも、年末年始は海外でという方も多いと思いますが、香港へお出かけの方は『香港歴史漫郵記』を、タイへお出かけの方は『タイ三都周郵記』を、ぜひとも、旅のお供に連れて行ってくださると幸いです。 |
2007-12-06 Thu 10:25
昨日(5日)はタイのラーマ9世国王陛下(一般にプミポン国王と呼ばれている方です)80歳のお誕生日の日で、都内のホテルで行われたお祝いの会には僕もご招待を受けて参加してきました。(画像はクリックで拡大されます)
というわけで、1日おくれですが、国王陛下がらみのモノということで、今日はこんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1985年8月、日本からプミポン国王宛に差し出された葉書です。内容は、不敬罪で逮捕されたタイ人の釈放を求める嘆願書で、当時、アムネスティの呼びかけで同種のものが世界各国から差し出されています。タイでは、現在でも王室に対する不敬罪が残っており、今年3月には、陛下のご真影に落書きをしたバカなスイス人観光客が逮捕され、陛下の恩赦で釈放されて国外退去処分になるというニュースがあったことは記憶に新しいところです。 この葉書が差し出された1985年のタイは軍事政権下にありましたので、政権批判を展開した人物が“不敬罪”で逮捕されることもあったようで、アムネスティもそのことを問題視したのでしょう。 この葉書では、宛先の住所は、エメラルド寺院(ワット・プラケオ)のある“王宮”宛になっていますが、この“王宮”は、現在では、儀式などでは使われるものの、実際に陛下が住んでおられるわけではありません。このことは、“王宮”が連日観光客でにぎわっており、王宮前広場では深夜に及ぶロックコンサートもしばしば行われていることを考えると、容易に想像つくことと思われます。 それでは、陛下の実際の住居兼オフィスはどこにあるのかというと、チャオプラヤー川沿いの“王宮”から3キロほど北東にあるドゥシット地区のチットラダー宮殿(1913年建設)です。この葉書もそちらへ転送されたらしく、ラーチャダムヌーン局(ラーチャダムヌーン通りは、“王宮”とドゥシット地区を結ぶバンコクのメインストリート)の消印が押されています。嘆願書を送るのなら、きちんと調べてから送ればいいのに、とついつい思ってしまいます。 さて、先月刊行の拙著『タイ三都周郵記』では、バンコク市内のさまざまなスポットを切手や絵葉書を用いてご紹介していますが、チャオプラヤー川沿いの“王宮”から、実際に陛下がお住まいのドゥシット地区までの間の見所もいろいろとご紹介しています。年末年始のバンコク旅行をお考えの方は、ぜひ、旅行のお供にご利用いただけると幸いです。 |
2007-12-05 Wed 09:20
1907年12月5日に林彪が生まれてから、今日でちょうど100年。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1968年5月8日、広州からロンドン宛に差し出された葉書で、林彪と毛沢東の2ショットの切手(上段中央)が貼られています。 林彪は中国共産党最初期からの党員で、1927年8月には、現在の中国人民解放軍の出発点とされる南昌起義や長征にも参加しています。日中戦争中は国民革命軍第八路軍115師団師団長に任じられ、1937年9月には山西省平型関で日本軍と戦い、中国側が「不滅の日本軍という神話を破った」とする勝利を収めたほか、国共内戦でも活躍しました。 この結果、1949年10月に中華人民共和国が発足すると、中央人民政府委員、中共中央中南局第一書記、中南軍政委員会主席、中南軍区司令員、中国人民革命軍事委員会副主席、国務院副総理兼国防部部長、中共中央軍事委員会副主席などを歴任。1955年には“十大元帥”の一人となり、朱徳・彭徳懐に継ぐ人民解放軍のナンバー3になりました。 1959年、廬山会議(政治局拡大会議)で彭徳懐が大躍進の失敗を指摘し、国防部長を解任されると、林彪は後任の国防部長に就任。毛沢東への個人崇拝を巧みに利用し、毛の絶大なる信頼を獲得します。そして、1966年に始まるプロレタリアート文化大革命(文革)では、“毛主席の親密な戦友”として多くの軍幹部を失脚に追い込みました。そして、1969年の9全大会では党副主席となり、毛沢東の後継者として公式に認定されます。 今回ご紹介の葉書に貼られている切手は、こうした林彪絶頂期の1967年9月、「毛主席の長寿をたたえる」と題して発行された3種セットのうちの1枚で、前年(1966年)の天安門広場での毛沢東による紅衛兵接見の際、天安門城楼の休憩室内で撮影された写真が元になっています。ちなみに、オリジナルの写真では、左側に座る林彪の手前には周恩来が写っていますが、切手では、周の姿はトリミングでカットされており、当時の毛・林・周の権力関係がうかがえます。 また、その下に貼られている赤字に金色で文字が書かれている切手は、文革発動後の1966年11月29日、人民解放軍毛主席著作学習積極分子第1回代表大会に際して、林彪が作成した「大海を航行する船は舵手に頼り、革命を行うには毛沢東思想に頼る」との題字が取り上げられています。こちらの切手は、1967年12月26日に発行されました。 こうして、共産中国ナンバー2の地位を確保した林彪でしたが、劉少奇の失脚以後、空席となっていた国家主席のポスト廃止案に同意しなかったことで、毛からその野心を疑われるようになります。その結果、毛は次第に林を疎んじるようになり、追い詰められた林は、1971年9月、毛沢東暗殺を企てたものの失敗し、ソ連への逃亡中にモンゴルのヘンティー県イデルメグ村付近で墜落死しました。 その後、林彪の党籍は剥奪されて、その権威や名誉は全面的に否定され、文革が終了すると、文革のA級戦犯として“反革命集団の頭目”とよばれるようになり、日中戦争中の戦功は歴史から抹殺される状態が長く続いていました。 しかし、今年9月には、林にゆかりの山西省平型関で行われた抗日戦闘記念式典で、林の銅像が公開されるなど、林を再評価する動きも一部では出てきているようです。とはいえ、今日の“生誕100年”に関しては、中国当局は遺族に対して記念行事の開催を認めず、国内メディアに対しても記念行事に関連する報道を一切しないよう指示を出したと伝えられるなど、現在なお、林が中国にとって微妙な存在であることには変わりないようです。 ちなみに、切手においても林彪の存在は長らくタブー視されていたことから、林彪切手やその使用例の残存数は決して多くはなく、オークションに出品されると(現在では以前ほどではないようですが、それでも)高値で落札されることもすくなくありません。 なお、本日(12月5日)は、タイのラーマ9世国王陛下の80歳のお誕生日で、都内でも記念のイベントが行われ、僕も『タイ三都周郵記』の著者として参加してきます。明日はその報告を兼ねて、ラーマ9世がらみのネタで何か記事を書こうかと思っています。 |
2007-12-03 Mon 09:16
ご報告が遅くなりましたが、『SAPIO』12月12日号が発売となりました。僕の連載、「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」では、今回は先ごろ訪日したダライラマ14世を取り上げています。(画像はクリックで拡大されます)
チベットの宗教的・政治的最高指導者であるダライ・ラマの地位は、世襲や選挙ではなく、先代が亡くなった後に、次の生まれ変わり(化身)を探す「輪廻転生制度」によって決定されますが、ラモ・ドンドゥップ少年は、2歳のとき、ダライ・ラマ13世の転生者、すなわちダライラマ14世であると認定され、6歳のときから僧院での学習を開始しています。 1949年10月に成立した中華人民共和国は、1950年10月、チベットを中国の一部とし、国防は中国が担当することをチベットに対して一方的に“提案”。チベットがこれを拒否すると、人民解放軍はチャムド(昌都)に侵攻して、チベットの“解放”を宣言します。翌1951年5月には、「チベットの平和解放に関する17ヵ条協定」をチベットに押し付け、チベットを“自治区域”として強引に中国の主権下に組み込んでしまいました。 当然のことながら、チベットでは中国に対する抵抗運動が発生。1956年以降、各地で反中国のゲリラ活動が展開されていきます。 こうした状況の下で、1959年、23歳になったダライ・ラマがラサのジョカン僧院でラランパの学位(最高位のゲシェーの学位で仏教哲学の博士号)を取得し、チベット仏教の修行をすべて修了すると、同年3月、中国側は彼を観劇に“招待”しました。これに対して、ラサ市民は、観劇を口実にダライ・ラマを拉致しようとの中国側の意図を察知し、抗議のためにダライ・ラマの宮殿を包囲。解散を求める中国軍との間で衝突から、大規模な暴動(ラサ暴動と呼ばれる)が発生します。 結局、“暴動”は3月中に鎮圧され、騒乱の中でダライ・ラマはチベット臨時政府の樹立を宣言してインドに脱出。以後、半世紀近くにわたって、インド北部のダラムサラを拠点とした亡命生活を余儀なくされています。 ダライ・ラマ法王部日本代表部事務所によると、1959年以降、中国政府の弾圧で亡くなったチベット人はチベットの全人口の2割に相当する約120万人。また、6000ヵ所以上もの寺院が破壊されているとのことです。当然のことながら、国際社会は中国によるチベットの人権侵害をたびたび問題にしていますが、中国側がこうした批判を内政干渉としてことごとく退けているのは周知のとおりです。 ダライラマ14世は、このような中国政府と、チベットの“高度な自治”を求めて非暴力の運動を展開し、ノーベル平和賞まで受賞した人物ですが、中国政府に言わせると、中国の分裂を狙うテロリストの一味ということになるようです。 たとえば、今年の10月17日、アメリカ議会がダライ・ラマ14世に対して、民主主義・人権問題で功績のあった市民を対象とする最高勲章“ゴールド・メダル”を授与すると、“チベット自治区”の張慶黎・共産党委員会書記は、記者団に対し「憤りを感じる」、「ダライ・ラマがそんな勲章を与えられるなら、世界に正義や善人は存在しななくなる」、「(ダライ・ラマは)母国を分割する目的でその試みを確立するために、台湾独立軍や、東トルキスタンのイスラム勢力、民主主義運動に法輪功と同盟し徒党を組んでいる」と強く非難しています。まさに、ダライ・ラマは反中国のテロリスト集団と“徒党”を組んでいる一味という中国側の認識が明らかにされています。 まぁ、客観的に見るとどちらが“テロ”の名にふさわしいかは明白だと思うのですが、現実には、インターネット検索エンジンの最大手グーグルが、中国政府の求めに応じて、“ダライ・ラマ14世”を中国語での禁止ワードとするなど、“中国様”のご意向に気兼ねして、なかなか本当のことを言えない人たちも少なくないようです。 なお、雑誌の記事では、ダライラマとチベット地図をえがく亡命政府の“切手”を取り上げたのですが、こちらは以前の記事でもご紹介しましたので、今回は、同じセットの中から、ダライラマとチベット国旗を取り上げたものを持ってきました。ちなみに、この“切手”は万国郵便連合(UPU)100周年を記念して発行されたものですが、チベット政府がUPUに加盟したことはありません。このため、かつてチベット政府が発行した切手を貼って海外に差し出すときには、インド切手とのコンビネーションカバーができあがるのですが、その辺の事情については、いずれ機会を改めてご説明することにしましょう。 |
2007-12-02 Sun 15:22
サッカーのJリーグは鹿島アントラーズが優勝しました。というわけで、今日はアントラーズ(鹿の枝角)にちなんで、先月刊行の拙著『タイ三都周郵記』の中から、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1957年5月13日にタイで発行された仏陀2500年の記念切手で、法輪を背景に鹿が描かれています。日本の印刷局はタイの切手印刷を数多く手がけていますが、この切手はその第1号としても有名です。 南伝仏教(いわゆる小乗仏教)の正統派の理解によれば、1956年は仏教の祖である釈迦の入滅2500年にあたっていたため、東南アジア諸国や欧米の仏教団体などでは、これを記念するための各種のイベントが行われました。タイの場合は、この入滅2500年の直後の仏誕節るにあわせて、今回ご紹介しているものを含めて9種類の記念切手が発行されています。 一方、日本の場合には、いわゆる南伝仏教とは系統の異なる北伝仏教(大乗仏教)が主流を占めており、1956年を入滅2500年と考える仏教関係者はほとんどいませんでしたが、それでも、東南アジア諸国との友好関係への配慮から、1956年5月に“仏紀2500年”という名目で、京都で記念式典が行われたほか、1956年に各国でおこなわれた釈迦入滅2500年の記念行事に日本の政府代表や仏教関係者が多数招待されたことの返礼として、1959年に釈迦2500年記念の“アジア文化会議”が行われ、記念切手も発行されています。 さて、今回ご紹介の切手に描かれている法輪というのは、もともとは仏教の教義(四諦・八正道の)のことで、ブッダガヤの菩提樹の下で悟りを開いた後、バラナシのサルナートで5人の修行仲間に初めて仏教の教義を説いた出来事は“初転法輪”と呼ばれています。ただし、その後、法輪は仏教の教義を示すものとして8方向に教えを広める車輪形の法具としてシンボル化され、寺院の軒飾りにも使用されるようになりました。 ところで、初転法輪の際、5人の修行仲間だけでなく、森に棲息する鹿も説法を聞いていたといわれています。このことから、鹿は仏教に縁の深い動物とされており、バンコクのタイ国立中央博物館でも、仏教に関する遺物として、巨大な石の法輪の前に鹿の像が展示されています。奈良公園で鹿が飼育されているのも、こうした故事を踏まえたものです。 Jリーグで優勝した鹿島は、開幕から5試合白星がなく、首位との勝ち点差は最大11もありましたが、終盤9連勝で首位の浦和を猛追。最下位の横浜FCと対戦した浦和がまさかの敗戦を喫したため、奇跡の逆転優勝をとげたのだとか。こういう話を聞くと、やっぱり、“アントラーズ”には仏のご加護があったのかもしれませんね。 *昨日、東京大学駒場キャンパスで開催されたシンポジウム「戦争とメディア、そして生活」は無事、終了いたしました。お越しいただきました皆様には、お礼申し上げます。 |
2007-12-01 Sat 01:53
本日(12月1日)、東京大学駒場キャンパス・16号館119教室で開催のシンポジウム「戦争とメディア、そして生活」の13:20スタートのセッション「収集されるメディア―絵はがき、切手、ポスター」にて、日本占領時代の香港のことを中心に「切手というメディアが含蓄するもの」と題してお話しします。 そこで、その予告を兼ねて、同じセッションの絵葉書の話とも関連するネタとして、こんなものをご紹介しましょう。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1942年12月8日の開戦1周年に際して香港占領地総督部が発行した記念絵葉書の1枚で、ハッピー・バレーの競馬場が描かれています。同時に発行されたもう一枚の絵葉書には、香港のイギリス海軍の司令部として用いられていたテーマー号(添馬艦)が自沈する場面が取り上げられており、開戦1周年として非常にわかりやすい内容なのですが、今回ご紹介の競馬場が同時に発行された絵葉書に取り上げられた背景については、いささか説明が必要でしょう。 香港を占領した日本軍は、“東洋精神”を強調して住民に窮屈な生活を強いたわけですが、どれほど崇高な理念を振りかざそうとも、人間はそうそう禁欲的に生きられるものではありません。そこで、占領当局は、収益も考慮した結果、娯楽としての競馬を重要視します。 香港では、はやくも1845年に沼地を埋め立ててハッピーバレーの競馬場が作られ、翌1846年からレースが行われていました。ただし、第二次大戦以前の競馬は、支配者であるイギリス人の贅沢な遊びであって、一般の華人の娯楽という雰囲気ではありませんでした。日本の占領当局は、それを一挙に、一般市民の娯楽として大衆化することで、それまで香港在住のイギリス人が占めていた優越的な地位を目に見えるかたちで否定しようとしたわけです。 こうした政策的な意図もあって、1941年12月の日英開戦とともに中断されていた香港の競馬は、早くも翌1942年4月25日には再開されました。開催スケジュールは毎週土曜日ないしは日曜日で午後から11レース前後が行われています。占領以前は、高温多湿の香港の気候を考慮して、夏季のレースはありませんでしたが、占領下では通年開催となっています。また、入場券・馬券ともに占領以前に比べて大幅に値下げされたため、競馬は庶民の娯楽として完全に定着・普及。1942年秋の大レースでは馬券の売上げは12万枚にも達したといわれています。 今回ご紹介の葉書には「百萬市民の健全娯樂場として朗色觀覧席に滿つ」との解説文が付けられていますが、制作時期などを考えると、上述の秋季大レースの際の情景を取り上げたものなのかもしれません。いずれにせよ、絵葉書を発行した総督部としては、占領行政が順調に行われ、市民生活が安定を取り戻していることの象徴として、ハッピーバレーの競馬場を絵葉書に取り上げたと考えるのが妥当でしょう。 なお、ハッピーバレーそのものに関しては、拙著『香港歴史漫郵記』でも、それなりのページを割いてご紹介していますので、こちらもあわせてご覧いただけると幸いです。 |
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