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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 1年間ありがとうございました
2007-12-31 Mon 08:23
 2007年もいよいよ大晦日です。今年も皆様には本当にいろいろとお世話になりました。おかげさまで、主なものだけでも、下記のような仕事を残すことができました。

 <単行本>
『(解説・戦後記念切手Ⅴ) 沖縄・高松塚の時代:切手ブームの落日 1972-1979』  日本郵趣出版
 沖縄・高松塚の時代

『香港歴史漫郵記』 大修館書店
 香港歴史漫郵記

『タイ三都周郵記:バンコク・アユタヤ・チェンマイ+泰緬鉄道の旅 』 彩流社
 タイ三都周郵記

 <単発モノの論文・エッセイなど>
・「The Unissued Stamps of Mengjiang (Inner Mongolia) under the Japanese Occupation:蒙疆占領地の発行されずに終わった切手」 『切手の博物館研究紀要』第3号
・「“国宝シリーズ切手”誕生の背景」 『郵趣』4月号
・「香港 古き良き時代の歴史散策」 『郵趣』6月号
・「中東民主化の可能性」 『表現者』第12号(7月)
・「昭和の遺産、東京中央郵便局」 『東京人』10月号
・「(日本珍品切手物語41)満洲・不発行切手」 『郵趣』8月号

 <連載>
・「切手に見るアラブの都市物語」 『(NHK)アラビア語講座』(1~12月)
・「今月の表紙」 『郵趣』 (1~12月)
・「切手で見る韓国現代史」 『週刊東洋経済日報』 (~3月)
・「外国切手の中の中国」 『(NHKラジオ)中国語講座』(~3月)
・「切手の中の建設物」 『建設業しんこう』(~3月)
・「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」 『SAPIO』(~12月)
・「世界の切手で見る中国」 『国際貿易』(3~4月)
・「切手に見る建設の風景」 『建設業しんこう(4月~)
・「切手の中の日本と韓国」 『表現者』(11月~)
(このほか、「大統領になりそこなった男たち」が12月発売の『中央公論』2008年1月号からスタート)

 <切手展>
・「香港返還10周年記念・香港切手展:香港歴史漫郵記」展(6-7月 切手の博物館)
・「泰俘虜収容所の郵便史」(11月 タイ切手展:<JAPEX07>併催)

 上記以外にも、公私にわたり、実に多くの方々より、ご支援・ご協力を賜りました。この場を借りて、皆様に厚くお礼申し上げます。

 明年は、1月7日、『中日新聞』でスタートの新連載「きょうの切手」が、皆様にご覧いただく最初の仕事になる予定です。単行本に関しては、4月刊行予定の<解説・戦後記念切手>シリーズの第6巻を皮切りに、現時点で3冊のスケジュールが決まっています。 引き続き、ご支援・ご協力を賜りますよう、お願い申し上げます。

 最後に、来る年の皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げ、年末のご挨拶といたします。どうぞ、良いお年をお迎えください。

 内藤陽介拝
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 “地下鉄50年”から30年
2007-12-30 Sun 13:15
  1927年12月30日に日本最初の地下鉄が開業してから、今日でちょうど80年です。というわけで、今日はこの切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 地下鉄50年

 これは、1977年12月16日に発行された地下鉄50年の記念切手です。地下鉄開通の記念日は12月30日ですが、さすがに、年末の御用納めも終わって、郵政省が年賀状でパニック状態になっている30日に記念切手を発行することは無理だったためか、記念式典の行われた12月6日に発行されました。

 1914年、鉄道と港湾の調査で欧州を視察した早川徳次は、ロンドンにおける地下鉄の発達を目の当たりにし、東京での地下鉄建設の必要性を痛感。1920年に東京地下鉄道株式会社を設立し、1925年に浅草=上野間の地下鉄工事を開始しました。その結果、1927年12月30日、浅草=上野間2.2キロに日本最初の地下鉄が開業しました。当時の運賃は10銭均一で車輌数は10輌、5分間隔の単車運転でした。

 その後、地下鉄は神田、日本橋、京橋、銀座と逐次延伸し、1934年に新橋=浅草間の8キロが全線開通します。一方、1939年1月には五島慶太ひきいる東京高速鉄道が渋谷=新橋間の6.3キロを開通させ、同年9月から、現在の東京地下鉄の銀座線に相当する渋谷=浅草間の直通運転が開始されました。

 切手は、創業時の車輌を描く切手と“現在”の地下鉄車輌を描く切手を市松模様の連刷にしたもので(田型の画像を持ってきたのはそのためです)、“現在”の車輌に関しては、1977年3月に開通した神戸市営地下鉄の西神線(当時は名谷=新長田間5.7キロを運転)のものがモデルになっています。

 この切手が発行された頃、僕は小学生でした。東京・大手町の逓信総合博物館でこの切手の初日カバー用の空封筒が売られていたので、それが何のためのものであるかは知らずに、ただ綺麗だからという理由で買った記憶があります。その後、「その封筒は出たばかりの記念切手を貼って、特印(=記念スタンプ)を押してもらうためのものだよ」とクラスの友達から教えてもらったのは、すでに切手発行から1週間以上経ってからのことで、「へぇー」と素直に感心したことを覚えています。

 今年が地下鉄開通80周年ということは、それから30年が経ったんですねぇ。なんとも、懐かしいものがあります。

 なお、今回ご紹介の「地下鉄50年」を含め、1972~79年の記念切手についてのさまざまな情報は、今年3月に刊行した拙著『沖縄・高松塚の時代』でまとめていますので、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。
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 順番どおり
2007-12-29 Sat 12:20
 官公庁はじめ多くのオフィスでは、昨日(28日)が御用納めでした。僕自身は365日・24時間営業の貧乏物書きゆえ“御用納め”とは無縁の生活をしているのですが、商品としてできあがったものとしては、先日ご紹介した『郵趣』2008年1月号をもって、年内は打ち止めとなりました。というわけで、今年1年の僕の仕事を振り返るのにふさわしい(?)マテリアルということで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 神戸からバンコク宛

 これは、1906年2月9日、神戸三宮から差し出されたタイ宛の葉書です。2月16日の香港・ヴィクトリア局の中継印と、2月26日のバンコクの到着印が押されています。右下の印は残念ながら不鮮明でデータがよく読めないのですが、おそらく、宛先地のロッブリーのものだろうと思います。

 菊4銭を貼った外信葉書というのはごくありふれたもので、それ自体は取り立てて騒ぐようなものではないのですが、明治期のタイ宛のカバーや葉書、しかも、ハンコ(特にタイ側の)がきちんと読めるものというのは、案外少なくて、入手しようとすると、値段とは無関係に意外と手こずります。その点では、この葉書のレベルなら、まぁ合格点を与えても良いように思うのですが、いかがなものでしょうか。

 ところで、この葉書がたどった日本→香港→タイというルートは、今年、僕が出した3冊の本『沖縄・高松塚の時代』『香港歴史漫郵記』『タイ三都周郵記』にゆかりの地を順番にたどるもので、個人的には愛着を感じる1枚です。まぁ、余所様から見たら、それがどうしたといわれそうな自己満の世界ですが…。

 ちなみに、現時点で、来年(2008年)刊行予定の書籍の題材は、日本→韓国→アメリカとなっているのですが、以前、大韓航空でアメリカに行ったときと同じルートとはいえ、わざわざ韓国に迂回してアメリカまで運ばれた郵便物というのは、見つけようとすると案外苦労するかもしれません。

 じつは、『郵趣』1月号で“2007年の収穫品”を紹介するコラムを書いてほしいと頼まれたとき、最初に、思いついたのはこの葉書だったのですが、“収穫”を名乗るには、客観的に見るとあまりにも駄物なので止めにして、ラーマ8世時代の葉書を取り上げることにしました。

 こちらは、以前、ブログでご紹介した際には標語印の意味がわからなかったのですが、その後、読者の方が「旅行に行って知識を得ることはとても楽しい」という内容だと教えて下さいました。(ありがとうございます!)まぁ、この標語は拙著『タイ三都周郵記』の趣旨ともぴったり合いますし、なにより、この葉書のルックスの良い使用済みはそれ自体少ないので、“収穫”を名乗るのなら、こちらの方が無難だろうと考えた次第です。

 なお、今回ご紹介の葉書と『郵趣』でとりあげた葉書の2点は、いずれも、『タイ三都周郵記』では、本文の内容とは絡めず、章扉の挿絵的に使いました。このうち、ラーマ8世の葉書は、部分的にですが表紙カバーのカラー図版にもなっているので、ぜひ、実際に拙著をお手にとってご確認いただけると幸いです。
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 ラーワルピンディの因縁
2007-12-28 Fri 11:11
  昨日(27日)、パキスタンの首都イスラマバード近郊のラーワルピンディで、野党指導者ベナズィール・ブット元首相の選挙集会後に自爆攻撃が発生し、元首相が暗殺されました。ブット元首相に関しては、1995年にパキスタンが発行した肖像切手というのもあるのですが、整理が悪くてすぐには出てこなかったので、代わりに、事件のあったラーワルピンディとの関係でこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      カンダハルからカラチ宛A
      カンダハルからカラチ宛B

 これは、1920年6月、アフガニスタン南部の都市、カンダハルからカラチ宛に差し出された郵便物で、途中で押されている各種の印も重要なので、両面の画像をお見せしています。

 ラーワルピンディは、イスラマバードから南へ約10キロの地点にある北部パキスタンの商工業の中心地で、パーキスターン軍司令部や情報機関が置かれる軍事都市でもあります。建国当初の首都・カラーチーから現在への首都・イスラーマーバードへの遷都が完了するまでの1960年から1966年にかけては、臨時首都にもなっていたところですが、歴史的には、1919年にイギリスの保護国であったアフガニスタンの正式独立を定めたラーワルピンディ条約が結ばれた土地として名をとどめています。

 ラーワルピンディ条約による独立の結果、イギリスはそれまでアフガニスタン国王に支払っていた年金(その代償として、アフガニスタンは外交権を英領インド帝国に委ねていた)を打ち切ります。また、インド経由での武器弾薬の輸入も禁じられ、独立はしたものの、アフガニスタンの国家建設の前途は多難なスタートとなりました。さらに、保護国時代のアフガニスタンと英領インド帝国との間の暫定的な境界線であったデュアランド・ラインが、アフガニスタンの独立により、恒久的な国境として確定されることとなり、これが現在の両国の国境紛争の火種となっています。

 さて、今回ご紹介のカバーは、ラーワルピンディ条約による独立直後の1920年6月カンダハルから差し出されたものですが、押されている郵便印によると、6月5日にチャマンで国境を越えて英領インド(現在はパキスタン領)の域内に入り、クエッタを経て6月20日にカラチに届けられています。この間、経由地のクエッタではイギリス当局による開封・検閲が行われており、独立戦争直後のアフガニスタンと英領インドとの緊張関係がうかがえます。

 貼られている切手は保護領時代の1918年に発行された額面1アフガンの切手ですが、封書はチャマンで料金不足扱いとされ(そのことを示すDUEの文字が入った半円形の印が表面に押されている)、到着地のカラチでも料金未納を示すUNPAIDの文字が入った印が押されています。おそらく、保護領時代には“国内便”扱いであった英領インド宛の郵便物が、独立に伴い、外国郵便として扱われるようになったことによるものと思われます。

 いずれにせよ、現在、アフガニスタンと呼ばれている地域とパキスタンと呼ばれている地域の密接な関係が垣間見えるカバーといってよいでしょう。

 ラーワルピンディで暗殺されたベナズィール・ブット元首相は、1990年から1993年にかけての第2次政権期に、アフガニスタンのタリバン勢力を支援していたことがあります。当時、隣国のアフガニスタンは内戦状態でしたから、ブット政権としては、タリバンがアフガニスタンを安定させ、それにより、パキスタンと中央アジアとを結ぶ通商ルートが開かれることを期待していたようです。また、内戦を通じてアフガニスタンにイランの影響力が扶植されるのを防ぐためにも、パキスタンから見れば、親イラン派への対抗勢力としてタリバンを支援することは十分に意味のあることでした。

 こうしたことから、ブット政権はタリバンに軍事的・経済的支援を与え、タリバンは急速に勢力を拡大していきます。しかし、タリバンが支配地域であまりにも原理主義的な政策を展開していることが世界的に知られるようになると、ベナズィール側はタリバン非難を始めます。これに対して、タリバン側も女性政治家であるベナズィールを非難。こうして、ベナズィールとタリバンの関係は決定的に悪化しましたが、ベナズィールの退陣後も、パキスタンによるタリバン支援は継続され、1996年9月、タリバンはカブールに入城することになりました。

 こうしてみると、アフガニスタンの独立を決めたラーワルピンディの地で、タリバンを支援したこともあるベナズィール・ブットが暗殺されたということには、因縁めいたものを感じずに入られません。ちなみに、因縁といえば、彼女の父親で1970年代にパキスタンの首相を努めたズルフィカル・アリ・ブットも、1979年の軍事クーデターで失脚後、ラワルピンディで処刑されています。
 
 いずれにせよ、1月8日に予定されていたパキスタンの総選挙は、このままでは実施が困難との見方が大勢で、しばらく、パキスタンからは目が離せない状況が続きそうです。
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 『郵趣』今月の表紙:旧高額10円
2007-12-27 Thu 11:00
 (財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』の2008年1月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

 旧高額10円

 これは、1908年2月20日に発行された神功皇后の10円切手です。2008年の新年号ということで、ちょうど100年前の切手を持ってきました。

 1908年(明治41)2月20日に発行された5円・10円の切手は、主として電信・電話の加入登記料・使用料・通話料等の支払に用いるために発行されたものです。当時の書状基本料金が3銭ですから、5円でもその約167倍。現行の80円で単純に比例計算すると1万3360円という勘定になります。

 切手は、キヨッソーネの肖像画を元に磯部忠一が原画を制作し、大山助一が直刻法で原版を彫刻したもので、水で湿らせた紙に印刷し、乾燥した後で裏のりを引くという手法で丁寧に作られました。額面の価値にふさわしい見事な出来栄えの逸品です。

 切手に取り上げられているの神宮皇后は、記紀神話に登場する三韓征伐のヒロインで、記紀によると、皇后の事跡は以下の通りです。

 もともと、シャーマンの術にすぐれていた皇后は、夫の仲哀天皇が九州南部の豪族、熊襲を征討しようとした際に、神から「西方に金銀財宝の豊かな国がある。それを服属させて与えよう」との託宣を受けます。しかし、天皇はこの託宣を信じず、神の怒りにふれて急死。そこで、天皇を葬った後、皇后が再び神意を問うと、「この国は皇后の御腹に宿る御子が治めるべし」との託宣がありました。

 これを受けて、皇后は住吉三神を守り神として軍船を整えて新羅に遠征し、これを平定。いわゆる三韓征伐の伝説です。当時、皇后は妊娠中でしたが、遠征中に出産とならないよう、卵形の美しい石を2個、腰のところにつけて呪いとし、出産を後らせることを願い、妊娠から十五ヶ月を経て筑紫国に凱旋した後、無事に誉田別命を出産しました。

 その後、大和に戻った皇后は、仲哀天皇の他の二人の王子の反乱を鎮め、誉田別命を皇太子に立てて自ら摂政となります。この誉田別命が、後の応神天皇です。

 神功皇后の三韓征伐の物語は、黒船以来、欧米の脅威に晒され続けてきた日本人にとって、国家の威信を回復させるための格好の素材でした。また、彼女の息子の応神天皇の時代に百済から多数の渡来人が日本に学問・技術などを伝えたことは「神功皇后の御てがらに基づきしなり」(『尋常小学国史』の記述より)というのが、当時の標準的な日本人の理解でもありました。

 こうしたことから、神功皇后の伝説は、富国強兵と文明開化のシンボルとなります。特に、宮中の反対で天皇の肖像を紙幣に使うことができなかったという制約ゆえに(天皇の肖像を貨幣に刻すべしとするお雇い外国人、トーマス・キンダーの建議は宮中の反対によって拒否されている)、天皇に代わる皇后の肖像は、必然的に、国民に対して“皇国の栄光”を印象づける格好の素材となりうるものであった。

 こうして、1873年8月に発行された10円紙幣の裏面に、“神功皇后三韓征伐”の戦闘場面が登場します。さらに、1878年には、印刷局の女子工員をモデルに、キヨッソーネが描いた神功皇后の肖像が大きく紙幣に取り上げられました。この神功皇后像が、今回ご紹介の切手のデザインの元になっています。

 その後も、キヨッソーネの描いた神功皇后像の評判は良く、明治10年代には繰り返し、円単位の紙幣に採用されていましたが、明治20年代に入ると、彼女の肖像は紙幣から外され、代わりに、菅原道真、武内宿禰、藤原鎌足、和気清麻呂といった、歴史上の天皇の忠臣が紙幣に登場していきます。

 こうして、忘れられた存在になりつつあった神功皇后でしたが、日露戦争後、韓国の植民地化が進められていく中で、伝説の三韓征伐のヒロインというてんが再評価されるようになり、現実に迫りつつあった韓国の植民地化のシンボルとして、切手に復活することになったといういわけです。

 さて、今月の『郵趣』は、なんといっても11月の<JAPEX>の特集が見所です。特に、恒例となった巻頭カラーでの名品集は、眼福モノの野マテリアルが目白押しで、テレビでいえば年末年始の特番に相当する豪華企画と言ってもいいかもしれません。

 なお、このあたりの神功皇后イメージの変遷については、拙著『皇室切手』でもいろいろと分析してみましたので、よろしかったら、こちらもご一読いただけると幸いです。

 *昨日のお昼すぎ、カウンターが27万ヒットを超えました。いつも遊びに来ていただいている皆様には、改めてお礼申し上げます。
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 「イエスかノーか?」の真相
2007-12-26 Wed 11:50
 イギリス史上、最も有名な“敗軍の将”の1人とされるアーサー・パーシバルが1887年12月26日に生まれてから、今日でちょうど120年になりました。というわけで、こんな葉書を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 シンガポール英軍の降伏

 これは、1943年12月8日、いわゆる太平洋戦争の開戦2周年に際して発行された“大東亜戦争記念報国葉書”のうち、宮本三郎の戦争画「シンガポール英軍の降伏」を取り上げた1枚です。“大東亜戦争記念報国葉書”は、額面2銭の葉書を3種セット30銭で販売したもので、このうちの10銭が国防献金となっています。画面の奥、一番右側を歩いている痩せた人物がパーシバルで、中央のヒゲを生やした日本の軍人は情報参謀の杉田一次中佐です。

 パーシバルは、第1次大戦中に徴兵されたことから軍人としてのキャリアをスタートさせ、いわゆる戦間期に軍の官僚として能力を発揮して出世した人物です。1939年に第2次大戦が始まるとフランス派遣軍の参謀長として、1940年5月のダイナモ作戦(ダンケルクから英国本土への撤退作戦)に参加 。帰国後は第44師団長として英国本土の沿岸防備を担当した後、 1941年4月にイギリス極東軍(マレー軍)の司令官となりました。

 マレー軍の司令官としての彼の言動は、もともと、官僚的な気質があったことに加え、日本軍を舐めきっていたこともあって、かなり強烈です。

 1941年12月8日、日本軍がマレー半島に上陸すると、シンガポールの要塞に篭城して本国からの援軍を待つという作戦を取った彼は、“持久戦”にこだわって弾薬の倹約を部下に命じたほか、マレー半島の兵力をシンガポール島に集中させたらどうかとの部下の進言に対しては「それだけの兵を入れる兵舎はない」と応えて、ほとんど無策のまま日々を過ごします。さらに、 シンガポール島全域に陣地を作るよう進言した部下に対して「ゴルフコースに機銃陣地を作るつもりだったが、委員会に諮らないと施設の改造はできない」と応えて、周囲を唖然とさせました。

 結局、1942年2月15日、シンガポールは陥落し、パーシバル率いるイギリス軍は降伏。ブキテマ高地にあるフォード自動車工場での降伏交渉の際に、日本側の第25軍司令官・山下奉文中将が机を叩いて「イエスかノーか?」と決断を迫ったとされるエピソードは有名です。

 もっとも、このエピソードに関して、後に山下本人が語ったところによると、通訳の不手際で交渉がこじれてしまったことから、弾薬をほとんど使い果たし、同夜にも最後の夜襲をかける予定であった日本軍としては、「細かいことはともかく、とりあえず降伏するのかどうか、その意思を示してほしい」という意味でパーシバルに尋ねたというのが真相のようです。

 また、交渉が予想よりも長引いたことでフィルムが足りなくなることを心配した日映(社団法人・日本映画社。現・日本映画新社。ニュース映画を制作・配信した)のカメラマンが、フィルムの撮影速度を通常よりゆっくり回したことから、映写のときは山下の動きが実際よりも早くなり、机の上に普通に手を置いた場面が、机をドンと叩いて恫喝しているように見えることになったのだそうです。

 ちなみに、その後、捕虜となったパーシバルは、満洲に送られて抑留生活を送りましたが、終戦とともに解放され、1945年9月2日、ミズーリ号で行われた降伏文書の調印式にも参加しています。

 なお、シンガポール陥落に関する切手や消印の類はさまざまなものがあるのですが、その一部は拙著『切手と戦争』『満洲切手』でもご紹介していますので、機会がありましたら、ご一読いただけると幸いです。
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 インドのチャップリン
2007-12-25 Tue 14:06
 1977年12月25日に喜劇王、チャールズ・チャップリンが亡くなってから、今日でちょうど30年になります。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 インドのチャップリン

 これは、1978年4月16日にインドが発行したチャップリンの追悼切手で、山高帽にステッキ、だぶだぶのズボンというチャップリンおなじみのスタイルが描かれています。チャップリンが亡くなってから半年も経たないうちの発行ですので、追悼切手としては非常に早い時期のモノいってよいでしょう。

 チャップリンとインドというと意外な組み合わせのように思われるかもしれませんが、実は、彼の代表作の一つ『モダン・タイムス』には、ガンジーの影響があるといわれています。

  1931年9月、ロンドンで開かれたインドの憲法制定に関する第2回英・印円卓会議に出席したガンジーは、会議の合間にチャップリンと会っています。ガンジーはチャップリンの映画を見ていないので、彼が何者かは知りませんでしたが、チャップリンがロンドンの貧民街の生まれであることを知ると、喜んで面会に応じたそうです。

 当時のガンジーはインドの独立運動家として“ヒンドゥ・スワラジ”の運動を展開しており、 「機械はヨーロッパを荒廃させかけている。イギリスはいまや破滅の寸前にある。機械は近代文明の主要な象徴であり、重大な罪悪を意味する」と主張していました。しかし、機械文明を一切否定するかのような発言は、彼の“聖人”イメージともあいまって、欧米世界では奇異の目で見られることも多かったようです。おそらく、チャップリンも最初はそうした好奇心から、ネタ探しの一環として、ガンジーと会おうとしたのかもしれません。

 いうまでもないことですが、実際のガンジーは西洋式の教育を受け、弁護士資格も持っている人物ですから、決して神がかり的な復古主義者ではなく、教養人として欧米社会の知識人とも対等以上に渡り合える人物です。チャップリンも、そうした彼の人柄に魅了された1人ですが、特に、機会に関してガンジーが語った「失業者をだすような機械の罪悪に反対しているのであって、機械そのものを否定しているのではない」との言葉に強い感銘を受けたといわれています。

 この言葉からインスピレーションを受けたチャップリンは、1938年、機械文明に翻弄される現代人の悲哀を表現した名作『モダン・タイムス』を完成させました。

 このように考えると、インド側からすると、チャップリンはガンジーの理念を映画という形式によって広く全世界に広めた恩人ということになります。インド郵政が、いちはやく、チャップリンの追悼切手を発行した背景には、そうした事情があったのではないかと思います。

 僕が子供の頃は、年末年始になるとNHKの深夜番組でチャップリンのサイレント映画をさかんにやっていた記憶があるのですが、最近はどうなんでしょうねぇ。この記事を書いていたら、なんだか久しぶりに、『モダン・タイムス』とか『街の灯』とか、サイレント時代のチャップリンの名作を見たくなりました。
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 聖誕快樂
2007-12-24 Mon 11:36
 今日はクリスマス・イブ。というわけで、単純素朴にクリスマス切手の中からこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

香港・クリスマス(2002)

 これは、2002年に中国香港で発行されたクリスマス切手です。4種類の切手はそれぞれの額面ごとの普通シートと、16面の連刷シートがありますが、今回は16面シートから切り離した田型連刷のものをお見せします。

 切手は、クリスマス・ツリー(1ドル40セント)、オーナメント(2ドル40セント)、雪だるま(3ドル)、鐘(5ドル)のデザインに穿孔が施されたもので、アクセントにホログラムが施されている凝ったつくりになっています。(ホログラム部分は肉眼で見ると銀色ですが、スキャンすると、いろいろな色が交じり合った感じの画像になりました)

 周知のように、中国の共産党政権は、キリスト教を含むあらゆる宗教を潜在的な反政府勢力とみなして警戒しており、キリスト教の場合、国家公認の“中国キリスト教協会”傘下の教会にしか布教を認めておらず、公認を受けずに布教すると違法という状態が続いています。じっさい、2000年には、中国政府は、バチカンが世界各地の新司教を任命するタイミングにあわせて、国内の新司教の任命を一方的に行い、教皇の持っている司教の任命権を“内政干渉”として排除する姿勢を改めて示すなど、強硬姿勢を崩していません。

 しかし、特別行政区としての香港に関しては、“返還”から50年間、すなわち2047年6月30日までは1国2制度として高度な自治が認められることになっています。このため、イギリス時代に香港市民に認められていた“思想信条の自由”は引き続き守られるというのが建前です。中国香港当局としても、こうした建前の一環として、クリスマス切手を発行し、マイノリティとしてのキリスト教徒(カトリック・プロテスタントあわせて、人口の8%程度と考えられています)を尊重している姿勢を示しているのでしょう。

 なお、香港の教会建築や、初期の香港でキリスト教の宣教師が果たした役割などについては、今年7月に刊行の拙著『香港歴史漫郵記』でも、いろいろと説明しておりますので、よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。
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 タイの総選挙
2007-12-23 Sun 16:04
 昨年9月のクーデター以来、軍部主導の暫定体制が続いているタイで、今日(23日)、民政移管に向けた下院選挙の投開票が行われます。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

旧国会議事堂

 これは、1969年2月10日の総選挙に際して発行された切手で、旧アナンタ・サマーコム宮殿(当時は国会議事堂として利用されていた)が描かれています。

 旧アナンタ・サマーコム宮殿は、1907年に当時のラーマ5世の命で着工され、国王が亡くなった後、次のラーマ6世時代の1915年に完成しました。完成当時は、迎賓館と国家的行事の宮殿という位置づけです。

 旧宮殿の外壁は、近隣のワット・ベンチャマボーピットと同じカララ産の大理石が貼られており、彫刻が施されています。また、建物の中には、イタリア人画家、ガリレオ・チニによる歴代国王(ラーマ6世まで)をたたえるフレスコ画が掲げられているとのことですが、残念ながら一般公開はされていないので、僕たちは柵越しに中の様子を想像することしかできません。

 1932年の立憲革命で議会が開設されることになり、アナンタ・サマーコム宮殿は国会議事堂として利用されるようになりましたが、現在は旧宮殿の北隣に建てられた新議事堂が議場として使用されており、旧宮殿は歴史的建造物として保存されています。

 ところで、今回ご紹介の切手にちなむ1969年の総選挙は、1968年憲法に基づいて、1957年12月以来、じつに11年ぶりに実施されたものでした。

 すなわち、1957年9月、サリット元帥による軍部クーデターの後、タイでは軍事政権が続いており、1963年12月のサリット病死後、政権を引き継いだのは、サリットの片腕とみなされたタノーム・キティカチョーン国軍最高司令官と、プラパート・チャールサティアン陸軍司令官でした。このうち、首相兼国防大臣となったタノームは、副首相で内務大臣のプラパートとともに、サリット時代以来の懸念であった憲法制定に着手。1968年にようやく、恒久憲法を公布しました。この憲法公布により、議会に内閣不信任決議権が認められるとともに、政党活動も解禁され、1969年2月の総選挙実施にいたったというわけです。

 選挙の結果、タノームひきいるタイ国民連合党(サハプラチャータイ)が第一党となり、タノームは引き続き政権を担当することになります。しかし、タノームは、1971年に国会の非効率な運営を理由に、自己クーデターを起こして憲法・国会・内閣および政党を廃止。このため、1973年10月に民主化を要求する学生運動が起こり、タノーム政権は退陣に追い込まれました。

 なお、タイではこれまで、国会議事堂時代を含め、何度かアナンタ・サマーコム宮殿の切手が発行されていますが、それぞれの切手が発行された当時の政治状況については、拙著『タイ三都周郵記』でもご説明しています。機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。
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 切手の中の日本と韓国:犯された郵便物
2007-12-22 Sat 11:54
 雑誌『表現者』の第16号が出来上がりました。僕は、前号(第15号)から「切手の中の日本と韓国」という連載をやっているのですが、今回は、1945年に米軍による南朝鮮(大韓民国ができるのは1948年のことです)の占領が始まった当時の話ということで、こんなモノも取り上げています。(画像はクリックで拡大されます)

終戦直後の水原宛

 これは、終戦直後の1945年9月28日、富山県の出町(現・砺波市)から米軍政下の水原(ソウルの南約46キロの地点にある都市)宛に差し出されたものの、日本に返送された郵便物です。

 日本降伏後の1945年9月2日、降伏文書が調印されると、連合国軍最高司令官一般命令第1号が出され、各地の日本軍の降伏を受理する担当が決められます。この結果、朝鮮半島に関しては、北緯38度線で南北に分割し、アメリカが南朝鮮に、ソ連が北朝鮮に進駐することになりました。

 こうして、南朝鮮におけるアメリカ軍政時代がスタートします。

 ところで、長らく異民族である日本人の支配下にあった朝鮮人のは、日本の敗戦が直ちに植民地支配からの解放を意味するものと考えていましたが、国際社会の認識は違っていました。彼らによれば、終戦までの朝鮮は紛れもなく“日本”の一部であり、その処分は連合国の自由な裁量に委ねられるべきだというのがコンセンサスとなっていたためです。“日本”では日本政府を通じて占領政策を行う間接統治が行われたのに対して、南朝鮮が直接軍政下に置かれたのはこうした認識によるものです。極論すれば、南朝鮮に進駐してきた米軍にとっては、南朝鮮と沖縄は、彼らが直接軍政を施行する占領地という点で本質的になんら変わったといっても良いかもしれません。

 さて、日本から旧植民地を含む海外宛の郵便は、終戦とともにいったん停止され、1945年11月16日に再開されましたが、その間、該当する郵便物は日本国内の郵便局で留め置かれていました。今回ご紹介の郵便物もそうした扱いを受け、海外宛郵便の再開後、水原まで届けられています。ちょっと見にくいのですが、封筒の左下には、この郵便物が水原に到着した際に郵便局で押された1946年2月14日の印も薄く読めます。

 しかし、郵便物が水原に到着したときには、おそらく名宛人は日本に帰国していたため、差出人へと返送され、それを受け取った差出人は封筒に「(昭和)21.3.10」のゴム印を押し、「返送落手」と記しています。

 ところで、この郵便物は、出町と水原を往復する間、朝鮮に到着した際と朝鮮から差し戻される際の2度にわたって米軍により開封・検閲されています。封筒の四隅が開封されているのは、朝鮮到着時にいったん開封・検閲されたものをセロハンテープで封をしたうえ、後に朝鮮を出るときにも再度、開封・検閲して封緘されたためでしょう。左辺のテープは、水原到着時に押された消印の上から貼られており、この部分は朝鮮から出るときに検閲を受けた痕跡であることが確認できます。

 テープには、“OPENED BY U.S. ARMY EXAMINER(合衆国陸軍の検閲官が開封した)”との文字が入っていますが、このテープは、本来、米国陸軍内部の検閲用であったものが郵便用に転用されたもので、当時の南朝鮮がアメリカの直接軍政下に置かれていたことを生々しく示しているといってもよいでしょう。

 ちなみに、おなじくアメリカの占領下にあった日本国内でも郵便物に対する開封・検閲は日常的に行われていましたが、その際、用いられたテープには、“OPENED BY MIL. CEN-CIVIL MAILS(民間の郵便物を軍事検閲官が開封した)”との表示がなされるのが一般的でした。

 当初の原稿では、今回ご紹介のカバーに関して「戦争に負けるということは、女が犯され、郵便物も犯されるということなのだ」とでも書こうかと思っていたのですが、さすがに品がないと思って止めにしました。ところが、出来上がった雑誌を読んでいたら、事実上の主宰者の西部邁さんが「僕は、いわゆる大東亜戦争で日本人はアメリカに犯されたと思う。そのときに『我ら犯されし人々の末裔』と言って『自分の婆さんを犯したアメ公を絶対に許さない』くらいのことを、真面目な論文でもいいし、冗談でもいいから言ってほしい」と対談の中で話しているのを発見。やっぱり、初めの予定通り、書いておけばよかったかな、とちょっと後悔したという次第です。
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 最高齢の女王
2007-12-21 Fri 12:48
 日本時間の今日(21日)午前2時ごろ、イギリスのエリザベス女王が、ヴィクトリア女王(1819-1901年)を抜いて、イギリス史上最高齢(81歳243日)の君主となったのだそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。

ペニーブラック160年

 これは、ペニー・ブラック(イギリスで発行された世界最初の切手)発行160年にあたる2000年の2月15日に発行された切手で、ペニー・ブラック発行時のヴィクトリア女王と現在のエリザベス女王の肖像がならべて取り上げられています。同じデザインの切手は、この10年前、ペニー・ブラック150年のときにも発行されていますが、今回は一部の目打の大きさが異なるシンコペーション目打になっているのが特色です。

 額面に“1st”と入っていますが、これはファースト・クラス(優先配達:まぁ、速達のようなものです)の郵便料金相当を意味していて、現在でもファースト・クラスの郵便に使えます。ちなみに、当時の売価は26ペンスでした。

 さて、ペニーブラックに取り上げられたヴィクトリア女王の肖像は、1837年11月、女王のギルドホール訪問を記念して作られたメダル(彫刻者のウィリアム・ワイオンにちなんで“ワイオンのメダル”と呼ばれている)に刻まれた肖像を基に作られたもの。女王がまだ10代の頃の肖像です。

 一方、手前のエリザベス女王の肖像は、1967年以来現在まで、40年間に渡ってイギリスの切手に使われているもので、アーノルド・メイチン(日本では習慣的に“マーチン”とよばれていますが)による石膏像が元になっています。

 切手や紙幣に肖像が使われる大きな理由の一つに、人間の顔というのは微妙な変化もすぐに気がつくので、偽造されにくいという点があります。この観点からすると、若い頃のすべすべの肌よりも、年齢を重ねて皺や弛みが出てきたほうが、チェックポイントが増えるので切手や紙幣としてはふさわしいということになります。その意味では、エリザベス女王の肖像も、年相応のものに逐次改めてきても良かったのではないかと思わないでもありません。まぁ、いまさら40年も使ってきたデザインを一新するというわけにも行かないんでしょうけど。

 まぁ、くどくどと理屈を言ってみたところで、イギリスの場合は女王陛下ご自身が肖像のデザインをチェックするということのようですので、やはり、ご本人としては若々しい肖像の方がお好みということなんでしょうね。

 ちなみに、現役の国王陛下として在位が最年長なのはタイのラーマ9世(プミポン国王)の61年でエリザベス女王は第2位ですが、実年齢としては、ラーマ9世は先日80歳になったばかりですから、女王の方が年上ということになります。

 それにしても、エリザベス女王もラーマ9世も、80過ぎてなお、日々の激務をこなすその体力と気力はすごいですねぇ。ようやく、半分の40になったばかりの僕なんか、ちょっと根をつめただけでぐったりしてしまうのですから、情けない限りです。爪の垢でも煎じて飲ませていただきたいところですが、陛下の“爪の垢”を入手することじたいが僕たち民草にとっては最大の難関ですな。
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 フランデレンとワロン
2007-12-20 Thu 14:17
 韓国の新大統領当選のニュースに隠れて地味な扱いですが、フランデレン(北部オランダ語圏)とワロン(南部フランス語圏)との政治的対立から、今年6月の総選挙以来、半年以上過ぎても新政権が樹立できなかったベルギーで、ようやく、来年(2008年)3月22日までの期限つき暫定連立内閣が成立することになりました。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

ワロンとフランデレンの団結

 これは、1945年5月1日に発行された戦後復興のための附加金つき切手で、“ワロンとフランデレンの団結”が表現されています。

 1944年9月、ナチス・ドイツによる占領から解放されたベルギーでは、今回ご紹介の切手にあるように、国内の2大勢力であるワロンとフランデレンの宥和が強調されていましたが、現実には、北部のフランデレンに対して南部のワロンが優位に立つという構造が続いていました。これは、ベルギーが独立を果たした19世紀には、フランス語が権威ある国際語・文明語だと見なされており、ベルギーの指導者層がフランス語を話していたという歴史的経緯によるものです。当然のことながら、人口的に多数派を占めるフランデレンは常に不満を持っており、第2次大戦後、彼らへの配慮として両地域を分ける“言語境界線”が公式に設定され、フランデレンではオランダ語が公用語とされました。(ただし、首都ブリュッセルはオランダ・フランス両語が公用語)

 ところが、戦後の産業構造の変化により、工業・サービス業を中心とするフランデレンが目覚しい経済成長を遂げたのに対して、石炭・鉄鋼業を中心としていたワロンは衰退。これにより、両者の力関係は徐々に変化し、フランデレンの発言力が向上していきます。

 じっさい、ワロンでは失業率がフランデレンのほぼ2倍にのぼっていますが、言語の違いから、労働者の需給にギャップが生じても、南北間の人的交流が難しい上、フランデレンの中で和論語が通用する首都のブリュッセルでも、単純作業の低技能労働は安価な移民労働力によってまかなわれることが多いため、失業問題はなかなか改善されません。さらに、両者の経済力の差を反映して教育水準も異なっており(当然、フランデレンのほうが高い)、そのことが、ますます南北の格差を拡大させることになっています。

 こうしたことから、1970年以降、ベルギーでは4度の憲法改正が行われてフランデレンの地位向上がはかられ、ついに1993年の憲法改正により、単一国家の政体は放棄され、連邦制に移行しています。その後、一部ではベルギー国家そのものを解体して、フランデレンはオランダと、ワロンはフランスと、それぞれ合併したらどうかという議論さえ登場したほどでした。

 まぁ、ともかくも、今回は、ベルギーの国家分裂の危機だけは回避されたわけですが、この問題は当分、尾を引きそうですから、しばらく、ベルギーの切手をチェックし続けてみると、いろいろと面白いことが見えてきそうです。

 それにしても、我々は、選挙が終われば無事に新体制が発足すると考えがちですが、ベルギーのような先進国であっても、そうならないこともあるんですねぇ。昨日、大統領選挙が終わった某国の場合も、2月25日の新大統領就任式までの間に、“まさか”ということが起こらなければ良いんですが・・・。
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 出来レースの選挙
2007-12-19 Wed 12:12
 韓国では、今日(12月19日)、大統領選挙の投開票が行われます。というわけで、韓国の大統領がらみのネタのなかから、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

韓国・初代大統領就任

 これは、大韓民国成立直前の1948年8月5日にアメリカ軍政下の南朝鮮で発行された“初代大統領就任”の記念切手の初日カバー(新切手を封筒に貼って、発行初日の消印を押したもの)で、韓服姿の李承晩が描かれています。

 1948年7月17日、大韓民国の樹立を間近に控えたアメリカ軍政下の南朝鮮で公布された憲法(第一共和国憲法ともいう)では、大統領の下に国務総理を置き、大統領は国会議員の間接選挙で選ぶことになっていました。

 当時の国会(憲法草案の審議が最大の議題だったため、制憲国会と呼ばれる)では、李承晩系の大韓独立促成国民会が53議席で第1党となっていましたが、これは全198議席のうちの4分の1しかありません。このため、大統領を目指していた李は多数派工作を開始し、第2党の韓国民主党(韓民党)と連携。7月20日、念願の初代大統領に選出されました。

 李承晩は、1875年3月、現在は北朝鮮の支配下にある黄海道平山郡の李朝の王室ともつながる名家に生まれました。戦前は、主として、ハワイ、アメリカで独立運動家として活動し、日中戦争期のアメリカの対中支援政策と絡めて、朝鮮独立に対する支援を訴えています。特に、1941年3月に発表された著書『私の日本観(原題はJapan inside out: the challenge of today)』は、同年末に太平洋戦争が勃発したことでいちやく脚光を浴び、李は自称「大韓民国臨時政府・大統領」の肩書をもって、日本の“極悪非道ぶり”を宣伝しながら朝鮮の独立を訴える積極的なロビー活動を展開していました。

 解放後の1945年10月、李はアメリカ軍政下の南朝鮮に帰国。1946年5月に米ソ共同委員会が無期休会となった時点では、南朝鮮代表民主議院(米軍政庁の諮問機関)の議長として、東西冷戦という国際環境を睨みつつ、アメリカとのパイプを最大限に活用し、政治権力を拡大していきました。

 このように、李承晩は、長年にわたってアメリカを拠点に独立運動を展開してきたというキャリアゆえに国際的な知名度を獲得し、国内では米本国が最も支持する政治家との印象を植え付けることで権力を掌握したこともあって、現在残されている彼の写真は、伝統的な韓服姿ではなく、背広姿のもの圧倒的多数を占めています。

 しかし、彼の権力基盤であったアメリカとの関係は、民族独立を果した新国家の長としては、“事大(韓国・朝鮮の政治的文脈では大国追従の意味を持つ)主義”とのマイナス・イメージとも重なり合う危険性もありました。このため、李は、切手の肖像を伝統的な韓服姿とすることによって、李朝の王室とも血縁関係にある名家出身の民族主義者という自己演出を企図したのではないかと考えられます。(ちなみに、大韓民国政府術の記念式典でも、李は韓服を着ています)

 ところで、今回ご紹介の切手は1948年8月5日の発行です。大統領就任式は7月24日でしたから、切手の発行はそれからわずか12日後ということになります。仮に国会での間接選挙が行われた7月20日から数えたとしてもわずか半月後のことで、おそらく、デザインの大半を事前に準備しておき、実際に大統領に選出されるのを確認してから、日付のみを加えて印刷に回すという方式を採ったのではないかと思います。まぁ、このときの選挙が出来レースみたいなものだったからこそ、可能だったんでしょう。

 さて、今回の大統領選挙では、野党の李明博が圧倒的に優勢で、日本のテレビだったら開票即当確という報道になる状況のようです。まぁ、最初から結果がわかっているようなものなのとはいえ、いわゆる八百長的な色彩はなさそうですから、これを“出来レース”といってしまうのは李明博に気の毒でしょう。ただ、年明けの就任式にあたって発行されるであろう“新大統領就任記念”の記念切手に関しては、韓国郵政は李の当選は堅いと見て、すでに制作作業が始められているかもしれませんけどね。
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 “盗人”の切手
2007-12-18 Tue 13:18
 窃盗団が主人公のハリウッド映画「オーシャンズ11」をまね、自動車盗やスリを繰り返していた中学生グループが捕まったそうです。というわけで、ストレートに“盗人”の文字が入った切手をもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

人盗人

 これは、1970年5月29日、日本復帰以前、アメリカ施政権下の沖縄で発行された「組踊りシリーズ」の切手で、「人盗人(ちゅぬすっと。“ちうぬすど”とも)」の一場面が取り上げられています。

 組踊りは、1719年、中国からの冊封使をもてなす踊奉行の玉城朝薫が、重陽の宴にあたって創作・上演した楽劇で、「組踊りシリーズ」の切手には、朝薫が創作した5作品(“朝薫の五番”とよばれる)「執心鐘入(しゅうしんかねいり)」、「銘苅子(めかるしぃ)」、「孝行之巻(こうこうのまき)」、「人盗人」、「二童敵討(にどうてきうち)」が取り上げられています。

 このうち、今回ご紹介の「人盗人」は、別名「女物狂(おんなものぐるい」とも呼ばれる作品で、謡曲の「桜川」や「隅田川」に想を得たといわれる物語は、以下のようなストーリーになっています。

 子供が風車で遊んでいるところに盗人が現れ、人形をだしに言葉巧みに子供を誘い(切手にはこの場面が取り上げられています)、ついには鎌を振り上げすざましい形相で脅し、かどわかします。盗人は子供を売り飛ばしに遠く山原(ヤンバル=沖縄本島北部の山岳地帯)をめざす途中、日が暮れたため、寺へ一夜の宿を乞いました。

 盗人が寝静まると、子供がこれまでのいきさつを寺の者へ話して助けを求めたので、寺の者たちは一計を案じ、偽の手配状を仕立て、寝入る盗人を叩き起こし、荒々しい人相の盗人の顔だちや身なりの特長を読み上げます。このため、追っ手が迫ってきたと誤解した盗人は逃げ出していきました。

 一方、子供を失った母親は、あてどなく子を捜し歩き、道中、出くわす子供らに狂人扱いされながらも、子供をかくまった寺へ辿り着きます。そこで、住職から事情を尋ねられた女は「人盗人に子供をさらわれ、この状態になった」と返答。住職が「もしやあなたが捜す子はこの子ではないか」と彼女に子供を会わせると、女は正気に戻り、再会を果たした母子は首里にもどる・・・というものです。

 まぁ、犯罪(者)を題材とする文学作品や演劇、映画の類は古今東西いろいろあって、その中には切手になっているものも少なからずありますから、“犯罪”をテーマにしたコレクションというのも作ろうと思えば作ることができると思います。実際、以前の国際切手展には“殺人”をテーマにしたコレクションが出品されたこともありましたが(たしか、出品者はアメリカの牧師さんで、命の尊さを表現するため、あえて、このテーマを選んだというようなことを言っていた記憶があります)、日本で同じことをやったら、どうでしょうかねぇ。少なくとも、僕がやったら「悪趣味だ」と大いに顰蹙を買いそうな気がします。
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 バンコク→東京の試験飛行
2007-12-17 Mon 09:52
 12月17日は1903年にライト兄弟が初飛行に成功したことにちなんで、“飛行機の日”なのだそうです。というわけで、エアメール・ネタということで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

泰日FFC

 これは、1939年2月のバンコク→東京の試験飛行で運ばれた郵便物です。当時はエアメール自体が珍しかったためか、日本到着後は速達扱いで届けるよう、東京中央郵便局の付箋がつけられているのが面白いところです。ちなみに、付箋の下の切手と消印はこんな感じです。

泰日FFC(部分)

 タイの航空事業は、1913年にタイ政府が飛行機を購入し、バンコク郊外のドーンムアンに陸軍飛行場を建設したのが始まりで、サイアム航空(現在のタイ航空の前身)がナコーンラーチャシーマー(コラート。東北部の玄関にあたる都市)とウボンラーチャターニー(ウボン。ラオス南部、カンボジアと接するタイ最東端の都市)の間に初の国内線定期航路が開設されたのは1922年のことでした。

 日本との航空便に関しては、1940年6月10日に東京とバンコクの間を結ぶ大日本航空株式会社の航路が開設されましたが、それに先立ち、1939年1月から2月にかけて、ハインケル“乃木号”による試験飛行が行われています。

 当時の新聞記事によると、1月26日に東京・立川飛行場を出発した乃木号は、翌27日、18時間37分かけてバンコクのドーンムアン飛行場に到着。現地に8日間滞在した後、2月4日午後10時、バンコクを出発して翌5日午後4時50分、立川飛行場に帰着しました。この間、給油のため台北に1時間立ち寄り、飛行時間は17時間10分でした。

 2月5日の立川飛行場には、藤原保明航空局長官以下、日本側関係者名もとより、スレシナシャム駐日公使以下の公使館員、さらには来日中のシャレンボール殿下(国王の甥)も駆けつけて乃木号を出迎え、試験飛行の成功を祝福しています。

 現在、立川飛行場は自衛隊の駐屯地になっていますし、バンコクの国際空港もドーンムアンではなくスワンナプームですから、当時とまったく同じルートをたどってみるのは事実上不可能です。それでも、途中で台北に立ち寄るということは十分に可能ですから、そういう意味では、乃木号の奇跡をなぞってみることは不可能ではないかもしれません。

 なお、今回ご紹介のカバーは、拙著『タイ三都周郵記』でも取り上げていますので、よろしかったら、ぜひ、こちらもご覧いただけると幸いです。
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 浅井忠100年
2007-12-16 Sun 12:07
 明治を代表する洋画家、浅井忠が1907年12月16日に亡くなってから、今日でちょうど100周年です。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

収穫

 これは、「近代美術シリーズ」の第4集として発行された浅井忠の「収穫」です。

 浅井は、1856年、江戸の佐倉藩中屋敷で佐倉藩士・浅井常明の長男として生まれました。13歳の頃から佐倉藩の南画家・黒沼槐山に師事して花鳥画を学び、明治維新後の1873年に上京。はじめは英語の塾で学んでいましたが、1875年に彰技堂で国沢新九郎の指導を受けて油絵を学び、1876年、工部美術学校に第1期生として入学します。ここで、ミレーの「落穂ひろい」に接して衝撃を受け、イタリア人画家・アントニオ・フォンタネージの下で本格的に洋画を学びました。

 しかし、2年後の1878年、東京帝国大学教授のアメリカ人教授、アーネスト・フェノロサが日本の伝統美術を称え、油絵は歴史を顧みない有害文化であると批判したことから、明治政府は洋画家育成の方針を放棄。フォンタネージもイタリアへと帰国してしまいます。さらに、1889年、上野に東京美術学校が創設されても、フェノロサとその弟子の岡倉天心の強い主張で、西洋画科と洋風彫刻科は置かれませんでした。

 洋画家たちが活動の場を失い、自殺者さえ出る逆境の中で、浅井は挿絵や教科書の仕事で生活を支えながら、関東はもちろん東北、関西にまで足を伸ばして風景のスケッチを続けるとともに、1889年、80名の会員を集め、「明治美術会」を結成。原敬など政財界の要人を後援者につけて活動を始め、同年秋には上野公園の共同競馬会社の馬見所で第1回展覧会を開催します。

 展覧会は好評のうちに終了し、皇后の来臨を賜ったほどでしたが、その成果を確実なものとするため、浅井は、翌1890年の第2回展覧会の開催に執念を燃やします。そして、そこに出品された渾身の作品が、今回ご紹介した「収穫」だったわけです。

 「収穫」は、浅井の原点ともいうべきミレーの作品をモチーフに、日本のありふれた農村風景を取り上げたもので、日本人が洋画の手法を用いて日本独自の風景を表現した作品としては、最初の頂点となりました。

 こうした浅井らの活動が実り、1896年、東京美術学校に洋画科が設置されました。洋画の教育・研究機関が復活したのは、工部美術学校の廃止以来、13年ぶりのことでした。その後、1898年に東京美術学校の教授に就任した浅井は、フランス留学を経て京都に移り住み、梅原龍三郎、安井曾太郎などの多くの人材を育てました。ちなみに、弟子の中の変り種としては、俳人の正岡子規がいます。

 さて、今回ご紹介の「収穫」を含む「近代美術シリーズ」に関しては、来年春に刊行予定の<解説・戦後記念切手>シリーズの第6巻に解説記事を採録すべく、現在、作業を進めています。例年のこととはいえ、春の“収穫”に向けて、資料の山に囲まれて、記念切手三昧を日々をすごすようになると、今年も暮れていくのだなぁ…と感じ入る内藤でした。
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 建設の風景:左官
2007-12-15 Sat 10:26
 (財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の12月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手に描かれた建設の風景」では、今月は、先ごろ開催された技能五輪の記念切手の中から、この2枚を取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      技能五輪

 これは、10月23日に10種セットで発行された“2007年ユニバーサル技能五輪国際大会”の記念切手のうち左官を取り上げた2種です。

 11月14日から21日までの1週間、静岡県で開催された2007年ユニバーサル技能五輪国際大会は、22歳以下の若手技能者が出場する技能五輪国際大会と、障害者による技能大会の国際アビリンピックを同時開催としたもので(両大会の同時開催は今回が初)、記念切手は全78職種のうち、5職種を選んで2枚ずつ10種類のデザインで発行されました。

 たが、建築関係として取り上げられた“左官”は、大会競技としては、ヨーロッパ建築の室内壁をモチーフにした課題を製作し、壁面の仕上がりの美しさ、形状の美しさ、寸法精度などが競われるというもので、右側の切手はまさにそのイメージのデザインになっています。

 一方、左側の切手には、背景として江戸末期の名工、“伊豆の長八”こと入江長八の作品、「飛天」(浄感寺所蔵)の一部分が取り上げられています。

 長八は、1815(文化12)年8月5日、当時の伊豆国松崎村明地(現在・松崎町)の出身。幼少時に菩提寺の浄感寺の寺子屋に通ううち、手先の器用なことを見込まれ、12歳で村の左官棟梁・関仁助に弟子入りしました。あるとき、兄弟子が土蔵の裏壁に、漆喰で半球形の“折釘の座”(大きな折釘を壁に通して、その根もとに半球形に漆喰を塗り固める技法)を長時間かかって塗りつけているのを見た長八は、棟梁と兄弟子が仕事場を離れたすきをみはからって、古いお椀の中へ漆喰を詰め、信じられないほどの速さでみごとな“折釘の座”をつくり、まもなくもどってきた2人を驚かせたそうです。

 その後、19歳で江戸へ出た長八は、川越在住の狩野派の絵師・喜多武清の弟子となって、3年間修行。漆喰に漆を混ぜると発色が豊かになることや、鏝絵(漆喰をレリーフ状に盛り上げる技法)などの新技法により、それまで芸術性とは無縁と思われていた左官の世界に独自のジャンルを築きます。

 その後、26歳のとき、日本橋茅場町の不動堂が再建された際に、表口御拝柱の左右に1対の龍を描いたことで、長八は稀代の名工としての名を確立し、浅草観音堂、目黒祐天寺、成田不動尊など各地に名作を残しました。しかし、その多くは関東大震災によって焼失。東京近郊で現存する作品は、足立区・橋戸稲荷、品川区・高輪の泉岳寺、東品川の寄木神社、千葉県・成田山新勝寺などに約45点のみとなっています。

 切手に取り上げられているのは、今回の技能五輪の開催地・静岡県にある長八の菩提寺、浄感寺所蔵(ちなみに、浄感寺には長八記念館があり、約20点の作品が展示公開されています)の飛天の一部です。

 切手の「飛天」は我々の持っている“左官”のイメージにあわせたためか、非常に平面的な印象ですが、個人的には盛り上げインクを使うなどして、オリジナルの立体感ある雰囲気を出したほうが良かったのではないかと思います。10種セットの変なシートを作るより、“技”を感じさせる1枚を出した方が、“技能五輪”の名にふさわしいような気もするんですがね。
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 ホンモノだけどニセモノ
2007-12-14 Fri 09:41
 年末になると発表される“今年の漢字”ですが、2007年は、相次ぐ食品の偽装表示などを反映してか、“偽”が選ばれたそうです。というわけで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ルース・カバー

 これは、日本軍占領下の香港で使われた風を装った“ルース・カバー”と呼ばれているものです。

 第2次大戦中、日本軍の直轄植民地とされた香港では、日本本土と同じ切手が使用されていました。こうした使用例は、日本切手の収集家にとって興味深い収集対象として人気があり、戦時中から、通常の国内使用例に比べて高値で取引されてきました。たとえば、現在の相場でも、このカバーの一番右側の7銭切手の場合、ごくごくフツーの使用済みは1枚数十円で買えますが、香港で使われたことがハッキリわかるものだと、2000~3000円くらいはするでしょう。ちなみに、未使用の切手は1枚150円くらいです。

 このような事情があったところに、終戦から10年ほど経過した1956年、突如として日本切手の香港での使用例が大量に日本・イギリス・香港のマーケットに出現します。

 このとき出現した使用例の多くは、エアメールの封筒に日本切手が貼られたもので、宛名の大半は“Mr. H. da Luz, 64, Macdonnell Road, Hong Kong”となっていたことから、名宛人である切手商の名を取ってルース・カバーと呼ばれています。

 ルース・カバーの真偽については、その出現当初からさまざまな議論があったのですが、さまざまな検証の結果、現在では、戦後、香港に残されていた大量の日本切手を戦後のインフレにより安価に手に入れたルースが、何らかの手段を使って入手した真正の消印を用いて日本占領時代の封筒に見せかけて変造したものということで概ね決着しています。

 今回ご紹介しているのは、そうしたルース・カバーの一例で、1944年に発行されたはずの東郷平八郎の7銭切手に1943年の消印が押されているものです。これなら、真っ赤なニセモノであることが一目瞭然といえましょう。

 このように、未使用切手と使用済やカバーの値段に大きな隔たりがある場合には、当然のことながら、一儲けをたくらんで偽造品を作る輩は後を絶ちません。特に、ルース・カバーのように、切手も消印もホンモノだけれど、カバーとしてはニセモノというケースは非常に厄介で、頭の痛いところです。ちなみに、最近では、ルース・カバーに貼られていた切手を切り取って、消印の読めるオンピースの状態でオークションに出品するというケースもあります。これだと、切手も消印もホンモノなので、売り手は“真正品”だと主張しますから、始末が悪いですね。

 なお、日本軍占領下の香港での切手や郵便については、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろと解説しています。拙著の図版に使っているブツにはニセモノはない(と思います)ので、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。
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 “南京”70年
2007-12-13 Thu 14:14
 日中戦争時の1937年12月13日に日本軍が南京を陥落させてから、今日でちょうど70年になりました。というわけで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

南京からの年賀状

 これは、南京陥落後、現地にいた兵士が名古屋宛に差し出した郵便物で、1938年1月1日付の南京野戦郵便局の“祝勝新年”の印が押されています。ただし、年賀状の類は年末に差し出されたものにも1月1日付の印が押されますので、この郵便物の場合も、かならずしも1月1日の差出ということではないでしょう。なお、封筒の表面に押されている“13(年)2(月)3(日)”の印が正しいとすると、日本到着までほぼ1月かかっている勘定になります。

 “祝勝新年”の記念印は、このほか、上海でも使われているのですが、やはり、中国側の首都だった南京のモノのほうが、よりふさわしいように思います。当時の日本側は、首都・南京の陥落イコール勝利という理解から、このような記念印を準備し、使うことになったのでしょう。もちろん、史実としては、蒋介石の国民政府は南京陥落後に重慶に遷都して抗日戦争を継続するわけですが、戦史を紐解いてみれば、首都の陥落によって戦争が終結した例は少なくないわけで、当時の日本側が南京を陥落させれば蒋介石も降伏すると考えていたとしても不思議はありません。

 さて、南京陥落後、日本軍の占領下で多くの民間人が犠牲となったことは紛れもない事実であり、僕もそのことを否定するつもりはありませんが、当時、人口20万人とされていた南京で30万人が虐殺されたとする中国側の主張を聞くと、「しょうがねぇなぁ」という感想しか出てきません。

 あらためて言うまでもないことですが、どんな国にも“建国の神話”というものがあります。

 ここでいう“神話”とは、我われが通常イメージするような神代の昔の物語ではなく、その国の現体制が正統性を主張するための歴史的な物語のことです。

 たとえば、多くの国々の歴史教科書では、独立ないしは革命以前の祖国の状況がいかに悲惨なものであったか、また、そうした煉獄から民族を救うために英雄たちが立ち上がり、いかに苦心惨憺して現在の国家を作ったか、という内容の記述が執拗なまでに繰り返されています。アメリカの独立戦争やフランス革命が、かの国の教科書でどのように語られているかということは、誰しも容易に想像がつくことでしょう。

 この建国神話の世界では、そこで述べられている内容が客観的な歴史的事実と合致しているか否かはたいした問題ではありません。むしろ、英雄譚としての神話を国民が受け入れ、社会の暗黙の構成原理として流通しうるか否かのほうがはるかに重要とされます。アメリカ初代大統領のジョージ・ワシントンが神格化されていく過程で、有名な桜の木の物語が捏造され、広く流布していったことは、その典型的な事例といえましょう。

 同様に、なんらかのかたちで“抗日”の過去の延長線上に誕生した東アジア諸国が、自らの建国神話を語る際、日本(少なくともかつての日本)を悪役として取り上げ、そのイメージを誇張して表現するのも、ある意味では自然なことといえます。

 “南京”のケースはその典型的なもので、“抗日戦争を勝利に導いた”ことを自らの正統性の根拠として掲げている中国共産党政府が、国民の求心力を高めるため、<極悪非道な日本軍>のイメージを極大化して活用することは、(賛否は別として)純粋に政治宣伝の技術論として定石どおりの行動といわざるをえません。

 好むと好まざるとに関わらず、このような“神話”の上に成り立っている国が海を挟んで対岸に存在していることは事実であり、日本列島がどこか遠くへ移動することが不可能である以上、我々としては、こうした彼らの事情を理解したうえで、彼らと割り切ったお付き合いをしていくしかないように思うのですが、現実にはそれもなかなかしんどそうです。

 まぁ、「戦前の日本は軍部独裁の暗黒時代だった。だから、戦争に負けて民主化がもたらされたのは日本人にとっては幸福なことで、そのことが戦後の高度成長と経済大国化に繋がった……」というのが戦後日本の“建国神話”であるなら、戦前の日本を悪者にするという点で、日中双方の“神話”の相性が良いのは当然なのかもしれません。もっとも、「だから“日中友好”は大事なんだよ」と言われてしまったら、僕なんかは黙ってしまうしかないのですが…。
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 『SAPIO』の連載終了
2007-12-12 Wed 17:44
 雑誌『SAPIO』2008年1月4日号が発売となりました。今回は、韓国の盧武鉉政権退陣前の“最後っ屁”で、大統領閣下が敬愛してやまない人物として、新たに発行される10万ウォン紙幣の肖像に取り上げられることが決まった金九を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

金九(ミレニアム)

 これは、2001年に韓国で発行された“ミレニアム”の記念切手のうち、金九を取り上げた1枚です。

 金九の生涯や雑誌で使った切手に関しては、このブログの以前の記事でもご紹介しましたので、今日は、別バージョンの切手で、少し違った角度から彼のことを取り上げてみましょう。安重根李奉昌尹奉吉などの“抗日の義士”が切手に登場することは韓国では珍しくありませんが、金九のように、切手に2回登場する例はめったにないのですから…。

 韓国では比較的親日派といわれていた金大中政権下の2001年に、金九の切手が発行されたのは、解放後、彼が南北の統一を強く主張した人物、換言するなら、南北の対話を主張した人物という面が強調された結果ではないかと思われます。

 すなわち、解放後のアメリカ軍政下で、金九は米ソによって分割占領された朝鮮の統一独立を主張して政治活動を展開。南北分断が既成事実化していく中で、国連決議に基づく南朝鮮での単独選挙を主張する李承晩と激しく対立しました。実際、彼は単独選挙が行われる直前の1948年4月、“全朝鮮の代表者による会議”として北朝鮮側が呼びかけた全朝鮮政党・社会団体代表者連席会議(連席会議)にも参加したほか、単独選挙への参加をボイコットし、ついには、李承晩の放った刺客に殺されています。

 結局、連席会議はなんら具体的な成果をもたらすことはなく、4月30日に発表された共同声明は、外国軍隊の即時・同時撤退、全朝鮮政治会議の召集による臨時政府の樹立、南北統一の総選挙の実施と憲法の制定、南朝鮮単独選挙の正統性の否定等、当時のソ連の主張を追認するだけのものでしかありませんでした。実際、北朝鮮側は、連席会議での共同声明に基づいて単独選挙の無効を宣言し、最高人民会議代議員選挙を行って、朝鮮民主主義人民共和国を樹立させるというプロセスを踏んでいますので、金九らの行動は、結果的に、南北分断は李承晩らに責任があるとする北朝鮮側の主張(事実としては、北朝鮮側が1946年2月に北朝鮮臨時人民委員会を樹立し、南北分断の第一歩を踏み出したのですが…)にお墨付きを与えるものとなってしまっています。

 まぁ、北朝鮮に巨額の“お土産”を渡すだけに終わった南北頂上会談を推進してきた金大中政権としては、同じく北に“してやられた”先達の金九に対する愛着もひとしお、といったことだったのかもしれませんが…。

 さて、2006年11月8日号の吉田松陰から始まった僕の連載、「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」も、今回で無事最終回を迎えることになりました。今までご愛読良いただきました方々には、この場を借りて、改めてお礼申し上げます。

 なお、24回の連載では取り上げ切れなかった“英雄/テロリスト”の切手というのは、まだまだ沢山あります。今後も機会を見つけて、そうした人物とその切手をご紹介していくつもりですので、よろしくお付き合い下さいませ。
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 100円玉50年
2007-12-11 Tue 14:00
 1957年12月11日に最初の100円硬貨(現在とはデザインが違います)が発行されてから、ちょうど半世紀となりました。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。

第1次新昭和100円

 これは、100円硬貨が登場する10年前、1947年1月15日に発行された日本最初の100円切手です。この切手が発行された当時の100円札は聖徳太子のデザインで、有名な板垣退助の100円札が登場するのは1953年のことでした。

 切手に取り上げられているのは、三嶋大社の梅蒔絵小箱の模様を元に、加曾利鼎造がデザインした梅花模様です。このデザインは、もともとは、1939年に発行の10円切手のものでしたが、戦後、国名表示を“大日本帝國郵便”から“日本郵便”に変更し、額面を100円に変更して発行されたのが、今回ご紹介のモノになります。なお、戦災でダメージを受けた印刷局の復旧が道半ばという時代の切手ですから、目打や裏のりはついていません。

 切手が発行された1947年は4月に、書状の基本料金が30銭から1円20銭に値上げされるなど、戦後のハイパーインフレが吹き荒れた時代でした。郵便以外にも、国鉄(現JR)の初乗り運賃は50銭(3月)→3円(7月)、都バス運賃は50銭(2月)→1円(6月)→2円(9月)、ビールは59円61銭(4月)→100円(12月)、清酒1級は43円(2月)→119円(4月)→132円(8月)、タバコのピース(10本入)は30円(4月)→50円(11月) といった具合ですから、年初に最高額の切手として登場した100円切手も、年末になるとすっかりその威光が衰えてしまったという雰囲気があります。

 なお、記念切手で最初に額面100円となったのは、それからほぼ30年後の1976年10月に発行された「国際文通週間」(与謝蕪村の「鳶烏図」)です。こちらの切手に関しては、拙著『沖縄・高松塚の時代』で、いろいろと解説しておりますので、よろしかったらご覧いただけると幸いです。
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 大統領になりそこなった男たち:ロバート・ケネディ
2007-12-10 Mon 08:33
 本日(10日)発売の雑誌『中央公論』の2008年1月号から、僕の新連載「大統領になりそこなった男たち」がスタートします。第1回目の今回は、ロバート・ケネディを取り上げました。

      ロバート・ケネディ

 これは、1979年に発行されたロバート・フランシス・ケネディの切手です。この切手を持ち出すまでもなく、ロバートの横顔は第35代大統領となったの兄ジョン・フィッツジェラルド(JFK)とそっくりで、このため、ロバートは兄のオマケというイメージをもつ人も少なくありません。しかし、ロバート自身も、まぎれもなく、偉大なる米国人(グレイト・アメリカン)と呼ぶにふさわしい人物でした。

 ロバートの実績としてまず評価されるのは、組織犯罪との戦いです。1961年にJFK政権の司法長官となったロバートは、あらゆる脅しや妨害に屈せずマフィアの追及に全力を注ぎ、全米最大の労組である全米トラック運転組合(チームスターユニオン、IBT)の不正を追及したほか、マフィアがらみの犯罪に容赦なくにメスを入れました。このため、兄の暗殺事件に際しては、ロバート自身、マフィアの関与を疑い「やられるのは私だと思っていた」と漏らしたほどです。

 また、州立大学への黒人学生の入学を認めようとしないアラバマ州知事のジョージ・ウォレスを「それでも君はアメリカの市民か!」と怒鳴りつけるなど、彼の不義不正を憎む硬骨漢ぶりを示すエピソードは数多く知られています。現在、アメリカ司法省の庁舎が、ロバート・F・ケネディ司法省ビルと呼ばれているのも、こうした彼の事跡を踏まえてのことです。

 JFK暗殺後の1964年、司法長官を辞職してニューヨーク州から上院議員に当選した彼は、1968年3月、泥沼に陥ったベトナムからの即時撤退を公約に大統領選への出馬を表明。その直後の4月4日にキング牧師が暗殺され、全米が抗議の黒人暴動で騒然とする中、インディアナポリスの黒人街で歴史に残る名スピーチを行います。

 「私の家族も白人によって殺されました」、「白人であろうと黒人であろうと、我々に必要なのは、同じ人間に対する愛や知恵、お互いを思いやる気持ち、この国で苦しむ人々に対する正義の心です」と穏やかに語るロバートの姿に全米は粛然となり、彼は一躍“アメリカの良心”のシンボルとなります。この瞬間、彼は次期大統領の座をほぼ手中にしたといっても良いでしょう。

 しかし、6月5日、カリフォルニアでの予備選に勝利を収め、民主党の大統領候補指名を確実にした直後、ロバートはロサンゼルスのアンバサダー・ホテルで銃撃され、42歳の若さで死亡。ロバート・ケネディ政権は幻に終わってしまいました。

 今回の連載は、4年に1度の米国大統領選挙の投票が、2008年11月4日に行われることにちなんでの企画です。

 大統領選挙の過酷な戦いを勝ち抜いて、最高権力者の椅子を射止めるのはたった一人。その影に累々と横たわる敗者たちのことは、すぐに歴史のかなたへと消えうせてしまうわけですが、冷静に考えてみると、大統領選挙の候補者やその予備軍にリストされた人物というのは、それだけで、偉大なる米国人(グレイト・アメリカン)であり、死後、その功績を顕彰する切手が発行されるケースも少なくありません。1年間の連載では、そうした偉大なる敗者たちの物語をご紹介していきますので、よろしくお付き合いください。 
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 中正紀念堂
2007-12-09 Sun 15:47
 台北の観光スポットとして有名な中正紀念堂で、蒋中正(=蒋介石)の名前にちなむ“大中至正”の文字が当局によって撤去されたという記事をネットのニュースで読みました。というわけで、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

中正紀念堂

 これは、1985年に発行された蒋介石没後10周年の記念切手の1枚で、中正紀念堂が取り上げられています。

 台湾の独裁者であった蒋介石が1975年に亡くなると、行政院(日本の内閣に相当)は同年6月、紀念堂の建設を決定します。紀念堂の工事は蔣の生誕90年にあたる1976年10月31日に始まり、1980年3月31日に完成。同年4月5日から、一般公開されています。

 紀念堂を取り上げた最初の切手は、一般公開前日の1980年4月4日に発行された“蒋介石没後5周年”の2円切手ですが、このときは紀念堂のメインの建物のみで、今回問題になった正門と“大中至正”の額は登場しません。正門から紀念堂を臨む構図の切手としては、1981年4月5日から発行が始まった普通切手が最初のものとなりますが、いかんせん、“大中至正”の文字が小さくてわかりにくいので、今回は、1985年の記念切手を持ってきたという次第です。

 蒋介石に関しては、1947年の2・28事件をはじめとする数々の本省人(1945年以前から台湾に居住していた人々とその子孫)への差別と弾圧、戒厳令や白色テロによる恐怖支配などから、本省人の中では「アメリカは、日本には原爆を落としただけだが、台湾には蒋介石を落とした」として、台湾の本省人の間では根強い拒否感があります。

 こうしたこともあって、台湾を中国とは別個の存在として台湾の独自性を内外にアピールしたい陳水扁政権は、今年(2007年)5月、人権侵害を重ねてきた独裁者の名前を冠した記念施設は不適切として、中正紀念堂を台湾民主紀念館へと改名しようとしました。これに対して、翌6月、立法院(台湾の“脱中国化”に否定的な野党勢力が多数を占めている)が政府提出の「台湾民主紀念館組織規程」を否決し、建物の名称は中正紀念堂に戻されたという経緯があります。

 今回の措置について、陳水扁は「蒋介石の威光を維持し続けることは反民主、反人権であり、反台湾でもある」と説明し、“大中至正”の文字が取り外された跡には、自由廣場の文字が取り付けられています。まぁ、建物そのものを破壊してしまえとならないだけ、旧朝鮮総督府庁舎を解体してしまった韓国なんかと比べて、台湾での“過去の清算”のやり方はマイルドだといえるのかもしれません。

 僕の個人的な感覚からすると、台湾では清朝の時代から現在にいたるまで、原則として、中国本土と別の切手が使われ続けてきたことでもありますし、台湾が“中国”の一部であるというロジックには、感覚的になじめないものがあります。それだけに、現在の陳政権による“脱中国化”の流れは至極まっとうなことのように思えてならないのですがねぇ。
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 開戦で届かず
2007-12-08 Sat 09:05
 今日(12月8日)はいわずと知れた“真珠湾”の日。というわけで、定番ネタですが、日米開戦がらみということで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      香港宛返戻

 これは、いわゆる太平洋戦争の開戦前にアメリカから香港に差し出されたものの、開戦により送達不能となって差出人戻しとなった書留便で、合計25セント分の切手が貼られています。裏面には、1941年10月25日のサンフランシスコ局の印と1942年4月29日のフォレスト・ノールの印が押されています。カバーには開封・検閲された痕跡はありません。おそらく、このカバーを積んだ船は、サンフランシスコを出た後、航海途中で日米開戦になり、サンフランシスコに引き返したのではないかと思います。

 宛先の北京道(ペキン・ロード)は、地下鉄の尖沙咀(チムサチョイ)の駅の一番南側、Eの出口の近くで九龍一の繁華街、彌敦道(ネイザン・ロード)とぶつかる道です。九龍の土地勘のある人でしたら、現地の地理に明るい人でしたら、中国旅行社の看板の近くで、のぞきこむと上海料理の名店、滬江大飯店(ウーコン・シャンハイ)のド派手なネオン看板が見えるところといった方がイメージしやすいかもしれません・

 日英開戦に伴い、香港から海外宛に郵便物を差し出せなくなったことは以前の記事でもご紹介しましたが、今回はその逆バージョンとでもいうモノです。両者を並べてみると、戦争による香港の孤立を表現することができます。

 太平洋戦争の開戦により、送達不能で差出人戻しとなった郵便物というのはいろいろあって、それらを発着地ごとにまとめてミニ・コレクションを作ってみようかと考えたこともあるのですが、なかなか実現しません。まぁ、気長に取り組むしかないでしょうね。

 7月に刊行した拙著『香港歴史漫郵記』は、2004年のアジア展に出品したコレクションをベースに作ったのですが、当然のことながら、それ以降に入手したマテリアルも使っています。今回のカバーもそのひとつなのですが、書籍ではモノクロ図版でのご紹介してみたものの、なかなか実物を展示に使う機会もないので取り上げてみたという次第です。
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 香港からのエアメール
2007-12-07 Fri 09:42
 今日(12月7日)は、国際民間航空デー 。1944年12月7日に国際民間航空条約(通称シカゴ条約)が結ばれ、国際民間航空機関(ICAO,International Civil Aviation Organization)が組織されたのを記念して、1992年のICAO総会で決められ、1994年から記念行事などが行われているそうです。というわけで、今日はエアメール・ネタということで、こんなモノを持ってきました。

香港発ロンドン宛FFC

 これは、1936年3月26日、香港からペナン経由でロンドンまで全線航空便で送られたエアメールの第1便(FFC)で、封筒にはそのことを示す“FIRST THROUGH FLIGHT”の表示の入った角型の印が押されています。ロンドンの世界的な切手商スタンレー・ギボンズ社宛のもので、販売目的の記念品として作成されたモノですから、封筒の余白には当時の香港島のウォーター・フロントの写真が刷り込まれており、イギリス人のコレクターに対して、極東の植民地からはるばる運ばれてきたエアメールというイメージを与える工夫もなされています。

 香港にやってきた最初の航空郵便は、1928年、コロンボからマニラを経て香港までイギリス空軍が運んだものといわれていますが、一般人も利用できるものとしては、同年11月、ロンドンとマニラを結ぶイギリスの極東飛行の延長線として、マニラから香港まで郵便物が運ばれたのが最初です。

 こうして、香港にもエアメールがやってくるようになりましたが、最初のうちは、定期便はなく、単発のフライトに郵便物が搭載されて香港と世界各地を往来するという状況が続いていました。当時は、飛行機の航続距離が長くはなかったので、アジアとヨーロッパを結ぶ便になると、途中で何ヶ所かを経由するのが一般的でした。

 イギリス本国と植民地・香港とを結ぶ航空路線を開発した航空会社はインペリアル・エアウェイズですが、同社は1924年3月31日に設立され、翌4月1日にロンドン=パリ線の運航を開始。これを皮切りに、ロンドン南郊のクロイドン空港を拠点に、当初はヨーロッパ各地への路線を拡大していました。アジア・アフリカ地域での営業については、1925年9月末までに行われたカイロ=カラチ間の航路の調査の結果を踏まえて、まず、1927年1月にカイロ=バスラ(イラク)線が開通。この路線を延伸するかたちで、1929年3月30日までに、ロンドン=カラチ線が開通します。

 その後、1931年になると、ロンドン=オーストラリア間のエアメールの取り扱いが試験的に始まります。このときのエアメールは、オランダ領東インド(現インドネシア)まで運ばれた後、小型の飛行機に積み替えてオーストラリアまで運ぶというもので、ロンドン=シドニー間の所要日数はおおむね26日間でした。

 ロンドン=オーストラリアのエアメールが成功すると、1933年末にはロンドン=シンガポール線でのエアメールの取り扱いが始まり、1934年末にはシンガポール=ブリスベン(オーストラリア)線でのエアメールの取り扱いも開始されます。これに伴い、香港からは、シンガポールまでは船便、シンガポール以遠はエアメールという郵便物を差し出すことができるようになりました。

 そして、1936年3月14日、オーストラリア=ペナン(現マレーシア)線の支線としてペナン=香港線が開通。これにより、それまでシンガポールまでは海路で運ばれていた香港からロンドン宛のエアメールは、ペナン経由でロンドンまで全線、航空便で送ることが可能となりました。また、これと時を同じくして、ペナン以遠、アフリカ方面への航空便も全線開通となり、香港もようやく本格的なエアメール時代に突入していきます。

 今年7月に刊行した拙著『香港歴史漫郵記』では、当初、香港のエアメールに関する1章を設ける予定だったのですが、紙幅の関係から該当部分は割愛せざるを得なくなりました。今回は、年末の在庫整理といった感じで、そのお蔵入りになった原稿の一部を掲載してみたという次第です。

 それにしても、昨日のニュースによると、年末年始(12月21日~1月7日)に成田空港から出入国する旅客が、前年同期を0.7%上回り、過去最高の約140万人になる見込みだとか。このブログの読者の方々の中にも、年末年始は海外でという方も多いと思いますが、香港へお出かけの方は『香港歴史漫郵記』を、タイへお出かけの方は『タイ三都周郵記』を、ぜひとも、旅のお供に連れて行ってくださると幸いです。
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 日本から国王陛下宛
2007-12-06 Thu 10:25
 昨日(5日)はタイのラーマ9世国王陛下(一般にプミポン国王と呼ばれている方です)80歳のお誕生日の日で、都内のホテルで行われたお祝いの会には僕もご招待を受けて参加してきました。(画像はクリックで拡大されます)

 招待状

 というわけで、1日おくれですが、国王陛下がらみのモノということで、今日はこんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

日本からタイ国王宛

 これは、1985年8月、日本からプミポン国王宛に差し出された葉書です。内容は、不敬罪で逮捕されたタイ人の釈放を求める嘆願書で、当時、アムネスティの呼びかけで同種のものが世界各国から差し出されています。タイでは、現在でも王室に対する不敬罪が残っており、今年3月には、陛下のご真影に落書きをしたバカなスイス人観光客が逮捕され、陛下の恩赦で釈放されて国外退去処分になるというニュースがあったことは記憶に新しいところです。

 この葉書が差し出された1985年のタイは軍事政権下にありましたので、政権批判を展開した人物が“不敬罪”で逮捕されることもあったようで、アムネスティもそのことを問題視したのでしょう。

 この葉書では、宛先の住所は、エメラルド寺院(ワット・プラケオ)のある“王宮”宛になっていますが、この“王宮”は、現在では、儀式などでは使われるものの、実際に陛下が住んでおられるわけではありません。このことは、“王宮”が連日観光客でにぎわっており、王宮前広場では深夜に及ぶロックコンサートもしばしば行われていることを考えると、容易に想像つくことと思われます。

 それでは、陛下の実際の住居兼オフィスはどこにあるのかというと、チャオプラヤー川沿いの“王宮”から3キロほど北東にあるドゥシット地区のチットラダー宮殿(1913年建設)です。この葉書もそちらへ転送されたらしく、ラーチャダムヌーン局(ラーチャダムヌーン通りは、“王宮”とドゥシット地区を結ぶバンコクのメインストリート)の消印が押されています。嘆願書を送るのなら、きちんと調べてから送ればいいのに、とついつい思ってしまいます。

 さて、先月刊行の拙著『タイ三都周郵記』では、バンコク市内のさまざまなスポットを切手や絵葉書を用いてご紹介していますが、チャオプラヤー川沿いの“王宮”から、実際に陛下がお住まいのドゥシット地区までの間の見所もいろいろとご紹介しています。年末年始のバンコク旅行をお考えの方は、ぜひ、旅行のお供にご利用いただけると幸いです。
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 林彪100年
2007-12-05 Wed 09:20
 1907年12月5日に林彪が生まれてから、今日でちょうど100年。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

林彪切手使用例

 これは、1968年5月8日、広州からロンドン宛に差し出された葉書で、林彪と毛沢東の2ショットの切手(上段中央)が貼られています。

 林彪は中国共産党最初期からの党員で、1927年8月には、現在の中国人民解放軍の出発点とされる南昌起義や長征にも参加しています。日中戦争中は国民革命軍第八路軍115師団師団長に任じられ、1937年9月には山西省平型関で日本軍と戦い、中国側が「不滅の日本軍という神話を破った」とする勝利を収めたほか、国共内戦でも活躍しました。

 この結果、1949年10月に中華人民共和国が発足すると、中央人民政府委員、中共中央中南局第一書記、中南軍政委員会主席、中南軍区司令員、中国人民革命軍事委員会副主席、国務院副総理兼国防部部長、中共中央軍事委員会副主席などを歴任。1955年には“十大元帥”の一人となり、朱徳・彭徳懐に継ぐ人民解放軍のナンバー3になりました。

 1959年、廬山会議(政治局拡大会議)で彭徳懐が大躍進の失敗を指摘し、国防部長を解任されると、林彪は後任の国防部長に就任。毛沢東への個人崇拝を巧みに利用し、毛の絶大なる信頼を獲得します。そして、1966年に始まるプロレタリアート文化大革命(文革)では、“毛主席の親密な戦友”として多くの軍幹部を失脚に追い込みました。そして、1969年の9全大会では党副主席となり、毛沢東の後継者として公式に認定されます。

 今回ご紹介の葉書に貼られている切手は、こうした林彪絶頂期の1967年9月、「毛主席の長寿をたたえる」と題して発行された3種セットのうちの1枚で、前年(1966年)の天安門広場での毛沢東による紅衛兵接見の際、天安門城楼の休憩室内で撮影された写真が元になっています。ちなみに、オリジナルの写真では、左側に座る林彪の手前には周恩来が写っていますが、切手では、周の姿はトリミングでカットされており、当時の毛・林・周の権力関係がうかがえます。

 また、その下に貼られている赤字に金色で文字が書かれている切手は、文革発動後の1966年11月29日、人民解放軍毛主席著作学習積極分子第1回代表大会に際して、林彪が作成した「大海を航行する船は舵手に頼り、革命を行うには毛沢東思想に頼る」との題字が取り上げられています。こちらの切手は、1967年12月26日に発行されました。

 こうして、共産中国ナンバー2の地位を確保した林彪でしたが、劉少奇の失脚以後、空席となっていた国家主席のポスト廃止案に同意しなかったことで、毛からその野心を疑われるようになります。その結果、毛は次第に林を疎んじるようになり、追い詰められた林は、1971年9月、毛沢東暗殺を企てたものの失敗し、ソ連への逃亡中にモンゴルのヘンティー県イデルメグ村付近で墜落死しました。

 その後、林彪の党籍は剥奪されて、その権威や名誉は全面的に否定され、文革が終了すると、文革のA級戦犯として“反革命集団の頭目”とよばれるようになり、日中戦争中の戦功は歴史から抹殺される状態が長く続いていました。

 しかし、今年9月には、林にゆかりの山西省平型関で行われた抗日戦闘記念式典で、林の銅像が公開されるなど、林を再評価する動きも一部では出てきているようです。とはいえ、今日の“生誕100年”に関しては、中国当局は遺族に対して記念行事の開催を認めず、国内メディアに対しても記念行事に関連する報道を一切しないよう指示を出したと伝えられるなど、現在なお、林が中国にとって微妙な存在であることには変わりないようです。

 ちなみに、切手においても林彪の存在は長らくタブー視されていたことから、林彪切手やその使用例の残存数は決して多くはなく、オークションに出品されると(現在では以前ほどではないようですが、それでも)高値で落札されることもすくなくありません。

 なお、本日(12月5日)は、タイのラーマ9世国王陛下の80歳のお誕生日で、都内でも記念のイベントが行われ、僕も『タイ三都周郵記』の著者として参加してきます。明日はその報告を兼ねて、ラーマ9世がらみのネタで何か記事を書こうかと思っています。
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 終身大統領なる幻想
2007-12-04 Tue 12:47
 1977年12月4日に中央アフリカでジャン-ベデル・ボカサが皇帝としての戴冠式を行ってから、ちょうど30年が経ちました。というわけで、今日はこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ボカサ

 これは、1977年12月4日の“戴冠式”の日に、中央アフリカで発行されたボカサの切手です。

 ボカサは1921年2月22日、仏領赤道アフリカ時代のボバンギで生まれました。第2次大戦中、自由フランス軍の兵士として従軍した彼は、1960年に中央アフリカ共和国が独立すると、初代大統領デービッド・ダッコの従兄弟という立場を利用して昇進を重ね、国軍参謀総長に就任します。そして、参謀総長時代の1969年、軍事クーデターでダッコ政権を倒し、翌1970年、大統領に就任しました。

 大統領就任後は独裁傾向を強め、1972年には終身大統領を宣言。1976年12月4日に国名を「中央アフリカ帝国」と改称して、みずから“皇帝”を称します。戴冠式が行われたのは、それから1年後の1977年12月4日のことで、その経費は2500万ドル。実に、当時の中央アフリカの国家予算の2倍という巨額のものでした。

 あまりの濫費に、国際社会では批判の声もあったのですが、ボカサは旧宗主国・フランスの大統領ジスカールデスタンに巨額の贈賄攻勢をかけて、皇帝としての承認を受け、おまけに経済支援まで獲得しています。まぁ、旧宗主国がお墨付きを与えたとなると、他の西側諸国も追随しないわけには行きませんので、日本政府も国名変更を承認し、昭和天皇の祝電も送られました。

 こうして、晴れて皇帝となったボカサは、反対派を容赦なく弾圧・粛清し、ウガンダのアミン(1979年失脚)と並ぶアフリカの独裁者として恐れられましたが、粛清による人材不足や経済無策、皇帝一族による濫費などから、国家は衰退への坂道を転がり落ちて行きます。そして、1979年1月、反帝政の学生デモの武力弾圧で400人の死者がでると、フランスからも見放され、同年9月、リビア訪問中にフランス軍による無血クーデターで帝政は廃止されダッコが大統領に復帰、中央アフリカは共和制に復帰しました。

 その後、ボカサはフランスに亡命しましたが、1986年に帰国。翌1987年に死刑判決を受けたものの、1993年に釈放され、1996年に亡くなりました。

 昨日(3日)、開票が行われたプーチン閣下のロシアの選挙では、反政府デモに加わる小政党が締め出され、メディアを使っての野党攻撃も盛んに行われた結果、政権に批判的なリベラル系野党2党が全滅し、与党系が定数の9割近くを占めることになったとか。一方、チャベス閣下のベネズエラでは、大統領の連続再選を無制限に認める憲法改正案への国民投票で、反対がかろうじて過半数を占め、憲法改正が阻止されたそうです。

 当代の独裁者2人が明暗を分けた格好ですが、いわゆる国王・皇帝の類を除くと、カエサル以来、終身独裁官(終身統領、終身執政、終身大統領など)を目指したり、自称したりした者のうち、実際に最期までその地位を守って安らかに亡くなったケースというのはほとんどありません。まぁ、そんなことは、今回ご紹介したボカサの例を持ち出すまでもなく、お2人ともよくご存知なんでしょうけどね。
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 英雄/テロリスト図鑑:ダライラマ
2007-12-03 Mon 09:16
 ご報告が遅くなりましたが、『SAPIO』12月12日号が発売となりました。僕の連載、「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」では、今回は先ごろ訪日したダライラマ14世を取り上げています。(画像はクリックで拡大されます)

ダライラマ

 チベットの宗教的・政治的最高指導者であるダライ・ラマの地位は、世襲や選挙ではなく、先代が亡くなった後に、次の生まれ変わり(化身)を探す「輪廻転生制度」によって決定されますが、ラモ・ドンドゥップ少年は、2歳のとき、ダライ・ラマ13世の転生者、すなわちダライラマ14世であると認定され、6歳のときから僧院での学習を開始しています。

 1949年10月に成立した中華人民共和国は、1950年10月、チベットを中国の一部とし、国防は中国が担当することをチベットに対して一方的に“提案”。チベットがこれを拒否すると、人民解放軍はチャムド(昌都)に侵攻して、チベットの“解放”を宣言します。翌1951年5月には、「チベットの平和解放に関する17ヵ条協定」をチベットに押し付け、チベットを“自治区域”として強引に中国の主権下に組み込んでしまいました。

 当然のことながら、チベットでは中国に対する抵抗運動が発生。1956年以降、各地で反中国のゲリラ活動が展開されていきます。

 こうした状況の下で、1959年、23歳になったダライ・ラマがラサのジョカン僧院でラランパの学位(最高位のゲシェーの学位で仏教哲学の博士号)を取得し、チベット仏教の修行をすべて修了すると、同年3月、中国側は彼を観劇に“招待”しました。これに対して、ラサ市民は、観劇を口実にダライ・ラマを拉致しようとの中国側の意図を察知し、抗議のためにダライ・ラマの宮殿を包囲。解散を求める中国軍との間で衝突から、大規模な暴動(ラサ暴動と呼ばれる)が発生します。

 結局、“暴動”は3月中に鎮圧され、騒乱の中でダライ・ラマはチベット臨時政府の樹立を宣言してインドに脱出。以後、半世紀近くにわたって、インド北部のダラムサラを拠点とした亡命生活を余儀なくされています。

 ダライ・ラマ法王部日本代表部事務所によると、1959年以降、中国政府の弾圧で亡くなったチベット人はチベットの全人口の2割に相当する約120万人。また、6000ヵ所以上もの寺院が破壊されているとのことです。当然のことながら、国際社会は中国によるチベットの人権侵害をたびたび問題にしていますが、中国側がこうした批判を内政干渉としてことごとく退けているのは周知のとおりです。

 ダライラマ14世は、このような中国政府と、チベットの“高度な自治”を求めて非暴力の運動を展開し、ノーベル平和賞まで受賞した人物ですが、中国政府に言わせると、中国の分裂を狙うテロリストの一味ということになるようです。

 たとえば、今年の10月17日、アメリカ議会がダライ・ラマ14世に対して、民主主義・人権問題で功績のあった市民を対象とする最高勲章“ゴールド・メダル”を授与すると、“チベット自治区”の張慶黎・共産党委員会書記は、記者団に対し「憤りを感じる」、「ダライ・ラマがそんな勲章を与えられるなら、世界に正義や善人は存在しななくなる」、「(ダライ・ラマは)母国を分割する目的でその試みを確立するために、台湾独立軍や、東トルキスタンのイスラム勢力、民主主義運動に法輪功と同盟し徒党を組んでいる」と強く非難しています。まさに、ダライ・ラマは反中国のテロリスト集団と“徒党”を組んでいる一味という中国側の認識が明らかにされています。

 まぁ、客観的に見るとどちらが“テロ”の名にふさわしいかは明白だと思うのですが、現実には、インターネット検索エンジンの最大手グーグルが、中国政府の求めに応じて、“ダライ・ラマ14世”を中国語での禁止ワードとするなど、“中国様”のご意向に気兼ねして、なかなか本当のことを言えない人たちも少なくないようです。

 なお、雑誌の記事では、ダライラマとチベット地図をえがく亡命政府の“切手”を取り上げたのですが、こちらは以前の記事でもご紹介しましたので、今回は、同じセットの中から、ダライラマとチベット国旗を取り上げたものを持ってきました。ちなみに、この“切手”は万国郵便連合(UPU)100周年を記念して発行されたものですが、チベット政府がUPUに加盟したことはありません。このため、かつてチベット政府が発行した切手を貼って海外に差し出すときには、インド切手とのコンビネーションカバーができあがるのですが、その辺の事情については、いずれ機会を改めてご説明することにしましょう。
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 アントラーズとお釈迦様
2007-12-02 Sun 15:22
 サッカーのJリーグは鹿島アントラーズが優勝しました。というわけで、今日はアントラーズ(鹿の枝角)にちなんで、先月刊行の拙著『タイ三都周郵記』の中から、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ブッダ2500年

 これは、1957年5月13日にタイで発行された仏陀2500年の記念切手で、法輪を背景に鹿が描かれています。日本の印刷局はタイの切手印刷を数多く手がけていますが、この切手はその第1号としても有名です。

 南伝仏教(いわゆる小乗仏教)の正統派の理解によれば、1956年は仏教の祖である釈迦の入滅2500年にあたっていたため、東南アジア諸国や欧米の仏教団体などでは、これを記念するための各種のイベントが行われました。タイの場合は、この入滅2500年の直後の仏誕節るにあわせて、今回ご紹介しているものを含めて9種類の記念切手が発行されています。

 一方、日本の場合には、いわゆる南伝仏教とは系統の異なる北伝仏教(大乗仏教)が主流を占めており、1956年を入滅2500年と考える仏教関係者はほとんどいませんでしたが、それでも、東南アジア諸国との友好関係への配慮から、1956年5月に“仏紀2500年”という名目で、京都で記念式典が行われたほか、1956年に各国でおこなわれた釈迦入滅2500年の記念行事に日本の政府代表や仏教関係者が多数招待されたことの返礼として、1959年に釈迦2500年記念の“アジア文化会議”が行われ、記念切手も発行されています。

 さて、今回ご紹介の切手に描かれている法輪というのは、もともとは仏教の教義(四諦・八正道の)のことで、ブッダガヤの菩提樹の下で悟りを開いた後、バラナシのサルナートで5人の修行仲間に初めて仏教の教義を説いた出来事は“初転法輪”と呼ばれています。ただし、その後、法輪は仏教の教義を示すものとして8方向に教えを広める車輪形の法具としてシンボル化され、寺院の軒飾りにも使用されるようになりました。

 ところで、初転法輪の際、5人の修行仲間だけでなく、森に棲息する鹿も説法を聞いていたといわれています。このことから、鹿は仏教に縁の深い動物とされており、バンコクのタイ国立中央博物館でも、仏教に関する遺物として、巨大な石の法輪の前に鹿の像が展示されています。奈良公園で鹿が飼育されているのも、こうした故事を踏まえたものです。

 Jリーグで優勝した鹿島は、開幕から5試合白星がなく、首位との勝ち点差は最大11もありましたが、終盤9連勝で首位の浦和を猛追。最下位の横浜FCと対戦した浦和がまさかの敗戦を喫したため、奇跡の逆転優勝をとげたのだとか。こういう話を聞くと、やっぱり、“アントラーズ”には仏のご加護があったのかもしれませんね。

 *昨日、東京大学駒場キャンパスで開催されたシンポジウム「戦争とメディア、そして生活」は無事、終了いたしました。お越しいただきました皆様には、お礼申し上げます。
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 香港の競馬と日本軍
2007-12-01 Sat 01:53
 本日(12月1日)、東京大学駒場キャンパス・16号館119教室で開催のシンポジウム「戦争とメディア、そして生活」の13:20スタートのセッション「収集されるメディア―絵はがき、切手、ポスター」にて、日本占領時代の香港のことを中心に「切手というメディアが含蓄するもの」と題してお話しします。 そこで、その予告を兼ねて、同じセッションの絵葉書の話とも関連するネタとして、こんなものをご紹介しましょう。(画像はクリックで拡大されます)

ハッピーバレーの競馬場

 これは、1942年12月8日の開戦1周年に際して香港占領地総督部が発行した記念絵葉書の1枚で、ハッピー・バレーの競馬場が描かれています。同時に発行されたもう一枚の絵葉書には、香港のイギリス海軍の司令部として用いられていたテーマー号(添馬艦)が自沈する場面が取り上げられており、開戦1周年として非常にわかりやすい内容なのですが、今回ご紹介の競馬場が同時に発行された絵葉書に取り上げられた背景については、いささか説明が必要でしょう。

 香港を占領した日本軍は、“東洋精神”を強調して住民に窮屈な生活を強いたわけですが、どれほど崇高な理念を振りかざそうとも、人間はそうそう禁欲的に生きられるものではありません。そこで、占領当局は、収益も考慮した結果、娯楽としての競馬を重要視します。

 香港では、はやくも1845年に沼地を埋め立ててハッピーバレーの競馬場が作られ、翌1846年からレースが行われていました。ただし、第二次大戦以前の競馬は、支配者であるイギリス人の贅沢な遊びであって、一般の華人の娯楽という雰囲気ではありませんでした。日本の占領当局は、それを一挙に、一般市民の娯楽として大衆化することで、それまで香港在住のイギリス人が占めていた優越的な地位を目に見えるかたちで否定しようとしたわけです。

 こうした政策的な意図もあって、1941年12月の日英開戦とともに中断されていた香港の競馬は、早くも翌1942年4月25日には再開されました。開催スケジュールは毎週土曜日ないしは日曜日で午後から11レース前後が行われています。占領以前は、高温多湿の香港の気候を考慮して、夏季のレースはありませんでしたが、占領下では通年開催となっています。また、入場券・馬券ともに占領以前に比べて大幅に値下げされたため、競馬は庶民の娯楽として完全に定着・普及。1942年秋の大レースでは馬券の売上げは12万枚にも達したといわれています。

 今回ご紹介の葉書には「百萬市民の健全娯樂場として朗色觀覧席に滿つ」との解説文が付けられていますが、制作時期などを考えると、上述の秋季大レースの際の情景を取り上げたものなのかもしれません。いずれにせよ、絵葉書を発行した総督部としては、占領行政が順調に行われ、市民生活が安定を取り戻していることの象徴として、ハッピーバレーの競馬場を絵葉書に取り上げたと考えるのが妥当でしょう。

 なお、ハッピーバレーそのものに関しては、拙著『香港歴史漫郵記』でも、それなりのページを割いてご紹介していますので、こちらもあわせてご覧いただけると幸いです。
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