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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 前半戦終了
2005-06-30 Thu 02:00
おかげさまをもちまして、このブログも公開1ケ月を迎えました。3日坊主の僕が、とりあえず、一月、一日も休むことなくブログを続けてこられたのは、ひとえに、毎日、このページに遊びに来てくださる皆様の支えがあってこそ、です。

 ここのところ、毎日平均140~150名の方にご訪問いただき、通常通りのペースであれば、本日中にカウンターは4000を超えるでしょう。予想外に多くの方々にご覧いただいていることを、素直に喜ぶとともに、これからもより多くの方にこのブログを見て、楽しんでいただけるよう、これからも頑張っていくつもりです。

 さて、今日で今年も前半が終了となります。そこで、備忘録を兼ねて、今年前半の主な仕事(放送媒体での仕事は除く)をリストしてみることにしました。その中に一つでも二つでも、皆様の新たなご興味・ご関心をそそるものがあれば、幸いです。

 【内藤陽介・2005年前半の仕事】

 <単行本>
 ・『切手バブルの時代―五輪・新幹線切手に踊らされた頃 』
 ・『反米の世界史 』

 <連載>
 ・「切手で見る韓国現代史」 『東洋経済日報』(第109~133回)
 ・「日本の郵政」 『MM日本国の研究 』(1月20日号、3月3日号)
 ・「たたかう切手たち」 『Webちくま 』(第5回・第6回)
 ・「ピンホールコラム」 『朝日新聞』夕刊(1~3月)
 ・「切手に見るアラブの都市の物語」 『(NHKラジオ)アラビア語講座』および『(NHKテレビ)アラビア語会話』(第6~8回)
 ・「外国切手の中の中国」 『(NHKラジオ)中国語講座』(第1~4回)


 <単発モノ原稿>
 ・「『解放切手』の時代:郵便に見る歴史の転換点」 『日韓文化交流基金NEWS』第32号
 ・「日本陸軍の経済謀略作戦:中国通貨を偽造せよ!」 『歴史群像』第69号(2月号)
 ・「東京オリンピック募金切手の研究」 『メディア氏研究』第18号
 ・「『趣味週間』と切手ブーム」 『郵趣』3月号
 ・「通信(ロシア・ソ連)」 『中央ユーラシアを知る事典』
 ・「郵便学者の舞台裏 」 『本』2005年7月号

 <展覧会関係>
 ・「もう一つの昭和戦史:切手と戦争展」 (個展、1月26~30日)
 ・「朝鮮:分断国家の誕生」 『日韓国交正常化40年記念・コーリア切手展』(4月15~17日)
 ・「旧南方占領地の戦後史」 『登録審査員によるワンフレーム展』(6月18~19日)

 *名称などは、一部省略した箇所もあります。漏れがある可能性もありますが、ご容赦ください

 こうやって見ると、忙しい割には、案外、仕事をしていないことが分かってしまい、反省しきりです。後半はもっとペースを上げて、真面目に仕事をこなしていかねば…。


 ★★★ イベント告知 ★★★

 『反米の世界史』の刊行を記念して、下記のイベントを行います。皆様、お気軽に遊びに来ていただけると幸いです。

◎ 7月2日(土) 即売・サイン会@切手市場
 (詳細はhttp://kitteichiba.littlestar.jp/ をご覧ください)
 
◎ 7月5日(火) トークイベント@新宿ロフト
  「復活!!!!北朝鮮祭り~最近の北鮮総括!」
 (詳細はhttp://www.piks.or.tv/ をご覧ください)
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 戊辰戦争と日清戦争
2005-06-29 Wed 01:57
 昨日に続いて、皇室切手の本の作業途中で拾った話を書きます。

 1896年8月、日清戦争の勝利を記念するという名目で、日清戦争中に病没した有栖川宮(下の画像の左)と北白川宮(同じく画像右)の二人の肖像を描く切手(ともに、2銭と5銭の切手が発行されたので、セットとしては4種1組となる)が発行されました。

有栖川

北白川

 この2人の肖像が、記念切手に取り上げられた理由としては、「戦捷を華々しく記念する切手を発行すると清国の国民感情を害するおそれがあったため、亡くなった2人を偲ぶことで、ひっそりと戦勝を祝う意図があった」というのが一般的な説明です。

 僕も、そうした一般的な理解を否定するつもりはないのですが、この2人が同時に切手に取り上げられた背景には、もう少し別の事情もあったんではないかと考えています。

 というのも、有栖川宮は戊辰戦争の際の東征大総督、つまりは官軍のトップでした。一方、北白川宮は、いろいろと経歴をロンダリングしていますが、戊辰戦争の際は“輪王寺宮”として上野の山に立てこもり、官軍と戦っていた人間、つまりは賊軍の象徴的な存在でした。

 つまり、戊辰戦争で敵と味方に分かれて戦った2人の皇族は、わずか20数年後の日清戦争では、ともに帝国陸軍の幹部として亡くなり、靖国神社(戊辰戦争の際の賊軍の死者は祭られていません)に祭られているのです。

 戦争の清算がいつ済むのか、ということはケース・バイ・ケースでしかいえないのですが、一般的に言ってしまえば、次の戦争が起こって、それが勝利に終われば、前の戦争の記憶(特に敗戦の記憶)はきゅうそくに風化するものと思われます。

 戊辰戦争の“勝組”であった薩長藩閥が政府の要職を独占し、旧賊軍の流れを汲む“負組”の人たちは、明治という時代を通じて、社会的に不遇な状況に置かれつづけていました。そうした“負組”のルサンチマンを浄化する上で、挙国一致体制をもたらした日清戦争の持っている意味は、現代の我々が考えている以上に大きかったのではないかと思います。

 そのように考えると、2人の皇族の肖像を描いた切手は、それ自体、戊辰戦争が(少なくとも公的な言説の場では)完全に清算されたことの、一つの証言だったのではないか、と考えてしまうのです。

 現在、執筆中の“皇室切手本(タイトルが未定なので、とりあえず、こう呼ばせてください)”では、こうしたことを含めて、この切手にまつわるさまざまな伝説の虚実を僕なりに検証してみました。今秋、無事に刊行の運びとなり、皆様にお読みいただけるよう、現在、鋭意作業を進めているところです。
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 両陛下
2005-06-28 Tue 01:55
 昨日の日記では、両陛下のサイパンご訪問の話に少し触れましたが、そもそも、この“両陛下”という表現、明治以降の発想だということは、案外知られていないようです。

 明治の初期まで、皇室の中で一番序列の高い女性は、皇后ではなく、天皇の母親である皇太后でした。これは、天皇家といえども、儒教的なイエの論理で見る限り、嫁である皇后よりも姑である皇太后のほうが上だという論理によるもので、明治十年代には、天皇→皇太后→皇后という序列で描かれた肖像画が多数存在しています。

 また、明治までは、皇統の維持という観点から側室制度が厳然として残っており(ちなみに、明治天皇と大正天皇の母親は、いずれも、皇后ではなく、側室の女性です)、その意味でも、正妻としての皇后の立場は現在と比べると弱いものでした。

 これに対して、近代国家の体裁を整える必要に迫られていた明治政府は、国王夫妻を前面に押し出す西洋の王室と平仄を合わせて、天皇と皇后を並べて(つまり、皇太后を排除して)帝国を象徴するイコンとして定着させようとします。大日本帝国憲法の発布式典の日に日本の歴史上おそらく初めて、天皇・皇后が揃って民衆の前でパレードを行うという演出が行われたのも、教育勅語の制定にあわせて、「夫婦相和シ」の文言に合わせるかのように、両陛下のご真影が下賜されたのも、いずれも、“近代化(=西洋化)された皇室”を国民に印象づけるための演出だったわけです。

 1894年、年明け早々、突如として明治天皇の銀婚式が企画され(実際には、2月9日の結婚記念日に間に合わず、3月9日に式典が行われている)、準備期間わずか1ヶ月程度で下のような記念切手が発行されたのも、“両陛下”というものの存在を、急いで国民に浸透させることが目的だったといってよいでしょう。ちなみに、当時は銀婚式というものがあることはおろか、結婚記念日を祝うという習慣でさえ、一般の日本人には知られていませんでした。

明治銀婚

 もっとも、西洋風の“国王夫妻”というユニットについて、側室制度を頑なに守っていた明治天皇は批判的で、祝典の名称に“銀婚式”という言葉を使うことは断固拒否し続けています。この結果、祝典の正式名称は“大婚25年祝典”とされました。伝統的な価値観の中で生まれ育ち、公式の場で皇后と並ぶことを非常に嫌がったという明治天皇の、せめてもの“近代化”に対する抵抗であったといったら、いささか、いいすぎでしょうか。

 現在、切手から見た近代日本の皇室についての本を作っているのですが、今日は、その過程で拾えた話を書き込んでみました。

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 南洋庁の絵葉書
2005-06-27 Mon 01:52
 今日(27日)、両陛下が慰霊のためサイパンをご訪問なさるそうです。

 本来であれば、サイパン関連のモノをここでご紹介できればいいのですが、手許には余り気の利いたものがないので、範囲を“南洋”全般に広げて、こんな絵葉書をご紹介します。

南洋絵葉書

 この絵葉書は、1943年7月、南洋群島始政25周年を記念して、パラオ島にあった南洋庁が発行した3枚組絵葉書の1枚です。

 第一次大戦以前、赤道以北の南洋群島(ただし、米領となったグァムは除く)はドイツ領でした。これらの島々は、第一次大戦中、日本軍が占領し、1918年7月からは民政部が行政を担当しました。その後、大戦の終結に伴い、南洋群島が正式に日本の委任統治領となると、1922年3月、軍政は廃止され、4月に南洋庁が設けられました。

 この絵葉書は、その南洋庁が、民政部の設置から起算して25周年になったのを記念して発行したもので、飛行艇とサンゴ礁という、いかにも“南洋”というデザインになっています。

 1943年夏に発行された葉書の光景は、なんとものどかで、戦争中のものとは思えません。わずか1年後、南洋群島が激戦の地となり、サイパンではバンザイ・クリフの悲劇が展開されたことを思い起こしてみると、あらためて、こういう穏やかな絵葉書が伝えてくれる歴史のイメージにいろいろと考えさせられます。
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 沖縄(下)
2005-06-26 Sun 01:49
 アメリカの占領下あるいは施政権下におかれていた時期の沖縄切手には、いくつかの名品がありますが、いわゆる久米島切手もその一つといっていいでしょう。

 沖縄戦終結後の1945年6月25日、久米島(那覇市の西方94キロの地点にある離島)は米軍に占領され、軍政府がつくられます。

 沖縄本島と異なり、戦争の被害が軽かったこともあり、久米島では早くも1945年10月1日には通常の郵便業務が再開となり、これにあわせて、謄写版を用いた7銭切手も発行されました。これがいわゆる“久米島切手”(↓)です。

久米島

久米島・ウラ

 画像を見ていただけると分かりますが、KUME SHIMAの文字を両脇に配し、中央に額面の7銭と印刷して、その上から郵便局長の印が押されただけの素朴な切手です。目打(周囲のミシン目)も裏ノリもありません。右側は裏面の写真で、切手用に専用の用紙が用いられたわけではなく、てもとにあった用紙の裏面を再利用するかたちで切手が製造されたことが分かります。

 久米島切手は、まずか3120枚しか製造されませんでしたから、現存数は少なく、コレクターの間では人気があります。

 24日から、東京・目白の<切手の博物館>で開催の、“立川憲吉・石澤司 沖縄切手コレクション展”でも、いよいよ、今日26日で最終日。(ここにあげたものとは別物ですが)久米島切手も展示されています。是非、お運びいただき、実物を間近にご覧いただけると幸いです。
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 オリエントクラブでの講演
2005-06-25 Sat 01:47
 昨日(24日)は、オリエントクラブで講演をしてきました。オリエントクラブというのは、国会議員夫人を中心とした勉強会(会長は後藤田元副総理の奥様です)で、世話人は、あの浜田麻記子さんです。東京外国語大学の名誉教授・上岡弘二先生経由できた仕事で、演題は「中東郵便学入門」でした。

 僕は、よほどのことがない限り、依頼された仕事は原則として断らない主義ですが、今回は“代議士の妻たち”という、普段なかなか接する機会のない人たちを前にしての仕事ということで、好奇心も手伝って二つ返事でお引き受けしたという次第です。

 結論から言えば、“代議士の妻たち”といっても、好奇心の旺盛な普通の奥様方といった感じで(もちろん、近所の八百屋のオバチャンよりは皆様ずっとお上品でしたが)、ちょっと拍子抜け(?)しました。こんなことを書くと怒られてしまいそうですが、デビ夫人系の強烈な人ばっかりかな、と思っていたのです。まぁ、普段、新聞やテレビで見ているセンセイたちと奥さんの組み合わせが、なるほどと思う方あり、意外な感じのする方ありで、その意味では非常に興味深かったのですが・・・。

 さて、肝心の講演の方ですが、とにかく、身近な切手や郵便物が歴史や地域を読み解く資料となるのだということが新鮮だったらしく、興味を持って聞いていただけたようで、まずはホッとしました。切手=男の趣味というイメージが強いのでは、と思っていたので、奥様方には退屈な話にならないだろうかと、心配していたものですから。

 また、切手そのものが“綺麗”という印象をお持ちになった方も少なからずおられたみたいで(1940年代のレバノンの切手なんか、結構、評判良かったです)、昨今、雑貨系の人たちの間で“かわいい切手”が持てはやされているバックには、実は、今まで僕が考えていた以上に大きなマーケットがある可能性を感じました。この点は、今後、いろいろな企画を立てていく上で、大きな収穫になったと思います。

 ところで、講談社のPR誌『本』に「郵便学者の舞台裏 (クリックしていただくと、同社HPにてお読みいただけます)」と題するエッセイを書きました。内容は『反米の世界史』の楽屋ネタで、切手の世界に詳しい方には目新しい話はありませんが、そうでない方にはそれなりに面白がっていただけるのではないかと思います。よろしかったら、ご覧いただけると幸いです。

 なお、またしても、「沖縄(下)」の掲載が延期になってしまい、申し訳ありません。開催中の「沖縄切手展」の会期最終日に当たる明日26日の日記(日付が変わってすぐにアップする予定です)には、必ず、掲載いたしますので、いましばらくお待ちください。
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 ブックバトン
2005-06-24 Fri 01:43
 高校以来の友人で、現在、大学で日本文学の先生をなさってるタヲヤメさんから、ブックバトンというのがまわってきました。

 なんでも、次の質問に答えて、5人以内にまわすのだそうです。面白そうなので、僕もやってみることにしました。

1.持っている本の冊数 
→ この商売をやっていると、必ず聞かれるのが、「何枚、切手を持っていますか?」という質問です。しかしながら、既に枚数を数えられる状況ではないので、事実関係として、8畳間とレンタルボックス1つ、資料用に埋まっていると答えています。書籍の場合も状況は似たようなもので、4畳半くらいのスペースとレンタルボックス半分が書籍用(コピー製本したものも含む)のスペースとして埋まっています。まぁ、身動きするスペースを考えず、天井までぎちぎちに詰め込めば、6畳間一つで収まるでしょうから、3~4000冊くらいじゃないでしょうか。(結構、大型本も多いので)


2.今読みかけの本 or 読もうと思っている本
→ いろいろあるのですが、仕事と全く関係のない本で探すのは難しいです。あえて、一番関係なさそうなのを探そうとすると、蓮池薫さんの訳で有名になった『孤将』でしょうか。

 あと、積読になっているもののうち、気になっているのは、中島岳志さんの『中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義 』ですかねぇ。それ以外は、現在、執筆中の本の資料なので、遠慮しておきます。

3.最後に買った本(既読、未読問わず)
→ 純粋に事実関係だけいえば、娘の中学受験のための過去問集(声の教育社から出ている学校別のやつです)が、最後に書店で買った本ということになりますが(笑)。自分の読む本としては、立川憲吉さんと石澤司さんの『沖縄 1874-1972:立川憲吉・石澤司コレクション』(財団法人・日本郵趣協会、2005年:書誌データがアマゾンには登録されていません)ということになります。

4.特別な思い入れのある本、心に残っている本5冊(まで)
 → 正直に“思い入れのある本”を列挙すると、現時点では拙著『反米の世界史 』が筆頭に来ます。なんてったって、自分の最新作ですから…。このほかにも、素直に埋めていくと、当然のことながら、全部、自分の書いた本だけですぐに5冊の枠は埋まってしまいます。ただ、それでは、このバトンの趣旨に合わないでしょうから、とっさに思いついたものを、あげておきます。

・高沢皓司 『宿命―「よど号」亡命者たちの秘密工作 』
 ノンフィクションの傑作です。いまのように、拉致問題が明らかになる前に、これだけのことを調べあげていたという筆者の調査力には、素直に敬服します。というよりも、この本を読んでいたため、一連の北朝鮮報道を見て、「一般にはそんなことも知られていなかったのか」と思ってしまった記憶があります。

・猪瀬 直樹 『黒船の世紀―ガイアツと日米未来戦記 』
 いつもお世話になっている猪瀬さんの1冊です。正直に言うと、僕の今回の『反米の世界史』は、かなり、この本を意識して作っています。もっとも、仕上がりのテイストは全く違ったものとなりましたが…。

・保阪 正康 『陸軍省軍務局と日米開戦 』
 時節柄、昭和史ネタからも1冊。日米開戦にいたるまでの2ヵ月半の陸軍内の葛藤が活写された名著だと思います。保坂さんの作品は、歴史のリアリティ(必ずしも、学問的な正確さと同義ではない)をどう表現するのかという点で、非常に参考になる視点をいくつも提供してくれるのですが、中でも、特におすすめの1冊です。

・太宰 治 『走れメロス 』(角川文庫)
 僕は太宰が結構好きです。といっても、世間で言われている「生まれてすみません」系のイメージではなく、プロの物書きとしてみたときの筆力、あこぎなまでの営業戦略などに、(広義の)同業者として素直に敬服できるからです。悪い意味で生活臭の全くしない作家や学者というものを、僕は全く信用しません。

5.次にまわす人5人まで(←「まで」が入っているところが良心的かも)
 それでは、以下の方々(50音順)にお願いします。

 池田健三郎 さん
 DOCTOR さん
 ぺぴーく さん
 マサト さん

 このページをご覧頂いて、気付いていただけるのをひたすらお待ちしております。既にバトンをお受け取りの際はご容赦を。もちろん「スルーでもOK」です。

 よろしくお願いします。

 PS 昨日・一昨日からの続き物「沖縄(下)」は、明日以降に順延となります。また、本日(24日)、都内で行う講演についてのご報告も、日を改めて行いたいと思います。(これでしばらく、ネタには不自由しなさそうです)
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 沖縄(中)
2005-06-23 Thu 01:41
 今日は沖縄慰霊の日です。

 昨日は配達されなかった沖縄宛のカバーをご紹介しましたが、今日は、終戦直後の沖縄島内の郵便物をご紹介します。

 沖縄戦で完全に破壊された沖縄(特に沖縄本島)では、1945年9月に郵便が再開されましたが、料金は全て無料でした。これは、壊滅的な状況にあった沖縄本島では、現実の問題として貨幣経済を行うことが困難で、住民は米軍に労働力を提供して物資を得るという“無貨幣経済”が行われていたことによります。

 その後、1946年7月1日、有料の郵便制度が復活しますが、切手は使用されず、料金を収めたことを示す印が代わりに押されていました。下のカバーがその実例です。

沖縄スタンプレス

 カバーには、(1947年)5月5日、1種(普通の書状のことです)、30銭などの数字が書き込まれ、具志川局の料金別納印が押されています。廃墟の中から沖縄の戦後史が始まったことを記録したマテリアルといってよいでしょう。

 明日(24日)から、東京・目白の<切手の博物館>(地図などはhttp://yushu.or.jp/museum/index.html をご覧ください)で開催の“立川憲吉・石澤司 沖縄切手コレクション展”でも、このカバーに類する戦後初期の沖縄の郵便物が多数、展示される予定です。是非、お運びいただけると幸いです。

 *なお、今回の展示には、このカバーは展示されません。あしからずご了承ください。
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 沖縄(上)
2005-06-22 Wed 01:39
6月23日は、沖縄慰霊の日。1945年6月23日、沖縄で日本軍が玉砕したことにちなむ日です。

 今年は戦後60年ということもあって、まさに慰霊の日に当たる23日には、(財)日本郵趣協会の元理事長で沖縄切手収集の大御所・立川憲吉さんと現在最も精力的に沖縄切手の収集・研究に取り組んでいる石澤司さんによる『沖縄1874-1972』も刊行されます。また、同書の刊行にあわせて、今週金曜日(24日)から3日間、東京・目白の<切手の博物館>では、“立川憲吉・石澤 司 沖縄コレクション展”も開催されます。(切手の博物館については、http://yushu.or.jp/museum/index.html をご覧ください)

 そこで、慰霊の日の23日をはさんで、今日・明日・明後日の3日間、このブログでも、少し沖縄の切手やカバーをご紹介したいと思います。“立川憲吉・石澤 司 沖縄コレクション展”にお出かけいただくときの予習を兼ねてお読みいただけると幸いです。

 さて、まずは、沖縄戦の終結に伴い、沖縄が“日本”から切り離されたことを象徴的に示すマテリアルです。

沖縄・返戻

 1945年8月の終戦に伴い、日本から海外宛の郵便物は取扱停止となりましたが、同年11月、葉書に限って、まず、旧外地(ただし、当初はソ連占領地域は除く)などとの郵便交換が再開されます。

 そうした状況の中で、このカバーは沖縄宛に差し出されたものです。差出人の発想では、沖縄は“日本”の一部だったのでしょうが、アメリカ側はすでに沖縄を日本から切り離して自らの施政権下に編入する方針を固めていました。このため、占領当局の視点では、沖縄は、“日本”には含まれない地域であり、日本から沖縄宛の郵便物は“外国郵便(国際郵便)”ということになります。

 この結果、当時の規定では、日本から沖縄宛には、葉書の差出しか認められず、封書を差し出すことは認められないという結論が導き出され、このカバーもルール違反ということで差出人戻しとされてしまいました。なお、カバーには、「国際郵便通信トシテ許可セラレタルモノハ端書(=葉書)ノミナルニ付キ此ノ手紙ハ差出人ニ返送ス」との事情説明の付箋が付けられています。(今回は、付箋の文字をお読みいただきやすいように、画像を横向きにしました)

 いずれにせよ、苦難に満ちた沖縄の戦後史の原点が刻印されたカバーといってよいでしょう。
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 旧南方占領地の戦後史(5・最終回)
2005-06-21 Tue 01:37
 切手が原則として国家によって発行されるものである以上、主権の交代や政体の変更は、切手上にも大きな影響を及ぼします。たとえば、革命によって旧政権が倒れ、新政府が誕生すると、新政府は自らの存在をアピールするため、独自の切手(多くの場合、当初は旧政権の切手を接収して暫定的な加刷を施したものですが…)を発行されます。

 もっとも、新政権が発足したからといって、直ちに旧政権の切手を全面的に使用禁止にしてしまうのはいささか乱暴で、旧政権の切手を実際に所有している一般国民の理解を得られません。そこで、通常は、一定の移行期間を設け、旧政権の切手と新政権の切手がともに有効という過渡的な時期が生じるものです。

 さて、日本軍撤退後のビルマに関しては、イギリス軍政→イギリス支配下の民政→独立準備政府という手順を経て、1948年1月に正式な独立国家が誕生します。その独立初期には、こんなカバー(↓)も出現しています。

ビルマ・カバー

 このカバーは、独立後まもない1948年2月、ラングーンからスコットランド宛に差し出された書留航空便です。使われている封筒は、イギリス時代に発行された印面付のものですが、この印面は1948年2月の段階では有効とされています。また、右下の紫の切手は、独立準備政府時代に、イギリス時代の切手を接収して“独立準備政府”の文字を加刷したものです。さらに、その上の茶色の切手は、独立ビルマの切手で、アウンサン将軍(スーチーさんのお父上です)が描かれています。

 このように、このカバーには、イギリス・独立準備政府・ビルマ政府の3者の切手が並存しており、ビルマの戦後史のある部分が凝縮されたかたちになっています。こういう“歴史”を語る郵便物が、僕にとって非常においしい存在であることはいうまでもありません。

 さて、「旧南方占領地の戦後史」の中からのご紹介はこのくらいにして、明日からは、ちょっと話題を変えてみましょう。現時点では、まだ何も内容を決めていませんが、何かご要望などがあれば、コメント欄に書き込んでいただけると幸いです。
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 旧南方占領地の戦後史(4)
2005-06-20 Mon 01:35
 ワンフレーム展は無事に終わりましたが、引き続き、展示作品の中からのご紹介です。

 旧南方占領地のうち、太平洋戦争の終結後、血みどろの独立戦争に突入したインドネシア(旧蘭印)に対して、比較的スムースに独立を達成したのがフィリピンです。フィリピンの場合、1934年の段階で、すでにアメリカは10年後の独立を約束していました。これに基づき、終戦後の1946年7月4日、フィリピンは独立を達成します。

 ただし、独立後もフィリピンが親米国家としてアメリカの太平洋戦略において重要な地位を占めていたことに変わりはなく、米軍基地の駐留もそのまま続いていました。

 そうした米比関係を象徴するかのように、1948年2月3日、フィリピンはマニラ解放3周年の記念切手を発行。そのデザインに、“(フィリピンの)守護者にして解放者”という名目で、マッカーサーを取り上げています。ちなみに、マッカーサーの肖像が切手上に登場するのは、これが最初のことでした。

マック・プルーフ

 さて、土日の展覧会では、そのマニラ解放3周年の記念切手の試刷(プルーフ)を展示しました。原版から直接、厚紙に刷ったもので、実際に発行された切手に比べると凹版彫刻の画線がシャープなのが嬉しいところです。いろいろ理屈をつけて、切手や郵便物の薀蓄を語っている僕ですが、単純にキレイな切手というのも嫌いではありません。

 さて、公式にはマッカーサーを“守護者にして解放者”と位置づけていたフィリピン国家ですが、本音では、アメリカも、日本同様、征服者でしかなく、けっして歓迎されるべき存在ではありませんでした。それが仮に名目的なものでしかなかったにせよ、日本軍の占領下でフィリピンが“独立”を宣言したこと、その際、大統領に就任したホセ・ラウレルが「誰もフィリピン人以上にフィリピンを愛せない」と語ったということなどは、植民地支配下の人間の屈折した感情の一端をうかがわせるものとして、重みがあります。

 それだけに、今回の切手に刻まれた“守護者にして解放者”という一節は、彼らにとっての“独立”の意味を考える上で、なかなか興味深いものに思えます。
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 旧南方占領地の戦後史(3)
2005-06-19 Sun 01:33
 昨日はボルネオ島の話をしましたが、今日は、そのボルネオ島の一部を含めて、オランダとの独立戦争を戦ったインドネシアのマテリアルをご紹介します。

 1945年8月15日に日本軍が降伏すると、インドネシアの独立運動の指導者であったスカルノは、同17日、すかさず旧オランダ領東インドを領土とする“インドネシア共和国”の独立を宣言します。これに対して、インドネシア独立を阻止したいオランダは、独立運動を武力で押さえ込もうとし、1949年12月まで続くインドネシアの独立戦争が勃発しました。

      インドネシア・カバー

 この葉書は、スカルノの独立宣言から約1年後の1946年7月、スマトラ島のメダンで差し出されたものですが、日本の占領時代に発行されたものに“インドネシア共和国”の文字を加刷して使用されています。独立戦争前期の過渡的な状況をよく示しているマテリアルといえます。

 一方、葉書の左側に張られているのは、インドネシア共和国の支配下で発行・使用されていた切手で、スカルノの肖像なども見えます。押されているスタンプには、インドネシア語で“猛牛精神”のスローガン(?)と牛の絵、独立宣言の日付(1945年8月17日)などが入っています。詳しいことは調べ切れませんでしたが、独立に向けて国民を鼓舞する内容のものであると見て間違いないでしょう。

 インドネシアの独立戦争は、最終的に、1949年末、オランダがインドネシアの独立を正式に承認したことで決着しましたが、この間、4年以上にも及ぶ独立戦争により、インドネシアは多大な犠牲を払っています。その意味では、インドネシアにとっては、第二次大戦という一つの戦争の終わりは、まさしく、真の戦争の始まりになったといって良いでしょう。
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 旧南方占領地の戦後史(2)
2005-06-18 Sat 01:31
昨日に引き続き、今日(18日)も「旧南方占領地の戦後史」の中からのご紹介です。

ラブアン・カバー

 今回、ご紹介しているのは、1945年12月、ラブアン島(ボルネオ島北部の小島。日本の占領中は“前田島”と呼ばれていた)からオーストラリア宛に差し出されたカバーで、戦前発行の英領ノース・ボルネオの切手に“BMA”の加刷をした切手が貼られています。ご注目いただきたいのは、消印でモールス信号の形をしています。これは、この地域に進駐したオーストラリア軍が使用したものです。

 太平洋戦争というと、我々は日本がアメリカ・イギリスと戦った戦争というイメージを持ちがちですが、その“イギリス”の中身には、英連邦の一員としてのオーストラリア、ニュージーランドの人々が少なからず含まれていたことを見逃してはならないでしょう。実際、オーストラリア軍は、(米軍と比べるとかなり小数でしたが)敗戦後の日本にも進駐しており、日本との戦争において、英連邦内では重要な役割を果たしています。

 さて、ボルネオ島は、現在、いくつかの国が分割領有していますが、第二次大戦以前は、英領地域と蘭(オランダ地域)領地域に分かれていました。太平洋戦争中は両地域ともに日本軍に占領されましたが、終戦直後、とりあえず両地域に進駐して日本軍の降伏を受理したのはオーストラリア軍でした。その後、戦前の蘭領地域は、独立宣言を発してオランダとの戦争に突入したインドネシア領に組み込まれますが、それ以外の地域は、当面、英領にとどまり、イギリスの支配が復活することになります。
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 旧南方占領地の戦後史(1)
2005-06-17 Fri 01:29
 明日(18日)と明後日(19日)の二日間、東京・目白の<切手の博物館>(地図等はhttp://yushu.or.jp/museum/index.html をご覧ください)にて、(財)日本郵趣協会の登録審査員によるワンフレーム展(難しいことをいうといろいろあるのですが、まぁ一言で言えば、切手の専門家によるミニコレクションの展示会、とお考えください)が開催されます。

 僕は、この展覧会には「旧南方占領地の戦後史」と題する小品を出品します。内容は、太平洋戦争中、日本が占領していた東南アジア地域が、戦後、どのような歴史をたどったのか、切手や郵便物で見てみようというものです。

 10月末に東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の全国切手展<JAPEX>で、戦後60年にちなみ、“1945年”という企画展示をやるのですが、今回の展示はその一部の試作プレビューです。

 で、展示用のディスプレイの形に加工した“作品”は、既に、郵趣協会の事務局に納めてしまったのですが、その中からいくつか、面白そうなモノを何日かに分けてご紹介していきたいと思います。

 第1回目の今日は、終戦直後のペナン(マレーシア)での航空郵便のカバーです。

ペナンのカバー

 1945年9月、日本の敗戦に伴い、イギリスはマレー半島に再上陸し、軍政が施行されました。しばらくすると、終戦とともに一時停止されていた海外宛の郵便取扱も再開されますが、当初は必要な切手の配給が間に合わず、切手の代わりに、料金を収めたことを示す印を押して対応するということも行われました。このカバーもその一例で、1945年10月、ペナンからアイルランド宛に差し出されたものです。料金を納めたことを示すのは、右側の黒い印ではなく、その左の(残念ながら半欠けになった)赤い印です。

 封筒は、1937年のイギリス国王の即位の記念に作られたモノを引っ張り出してきて使っています。国王夫妻の肖像を掲げ、イギリス支配の復活を歓迎するという意思を差出人が示そうとしたものと思われます。

 インドネシアやフィリピン、ベトナム等と異なり、マレー半島の独立は、戦後間もない時期にはほとんど問題とされませんでしたが(マレー人が独立を望まなかったということではなく、イギリス側がマレーの独立について検討する気が全くなかったためです)、そうした状況が反映されたようなカバーといってよいでしょう。

 ちなみに、ペナンを含むマレーで、戦前の切手にイギリス軍政をしめす“BMA(British Military Administration)”の文字を加刷した新切手が発行・使用されるようになるのは、1945年11月以降のことでした。
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外国切手の中の中国:北朝鮮
2005-06-16 Thu 01:26
6月9日の日記にも書きましたが、現在、NHKラジオの中国語講座のテキストで、「外国切手の中の中国」という連載をやっています。明後日18日発売の7月号の現物が送られてきましたので、今日はその中から、こんなモノをご紹介したいと思います。

方虎山

 これは、1952年6月、北朝鮮が発行した「方虎山将軍」の切手が貼られた郵便物の一部です。

 方虎山は、日本の植民地時代、中国で中国共産党とともに抗日活動を行い、中堅将校として中国で1945年の解放を迎えました。その後、国共内戦では中国人民解放軍にしたがって国民党と戦い、1949年に中華人民共和国が成立すると北朝鮮に帰国。朝鮮人民軍(北朝鮮軍)の師団長になりました。

 朝鮮戦争の開戦後、方は米軍のディーン師団長を捕虜にするなど、目覚しい戦功を上げます。また、北朝鮮が国連軍に追い詰められて壊滅状態に陥った時に、中国の参戦で息を吹き返したことから、中国と関係の深い彼は、朝中友好のシンボルとして祭り上げられ、最高勲章の“二重英雄”の称号を与えられたほか、このように切手にも取り上げられています。

 しかし、朝鮮戦争の休戦後、金日成ら抗日パルチザン出身グループと、親ソ派(ソ連派)・親中派(延安派)との権力抗争が起こり、親ソ派・親中派が粛清されると、親中派のシンボルであった方も失脚し、中国に亡命せざるを得なくなります。そして、北朝鮮側は、方の切手を発行していた事実を隠蔽し、公式の切手カタログからは、その存在を抹消してしまいました。まさに、切手まで粛清されたわけです。

 もっとも、北朝鮮側が、方の切手の存在をどれほど否定しようと、彼らが実際に切手を発行し、それが郵便物に使われていたという事実は、ここに示したような“物証”によって明らかになるわけです。

 今回の記事では、このほかにも朝鮮戦争時の北朝鮮切手において“中国”が、どのように描かれているのか、詳しくご紹介しています。機会があれば、ご一読いただけると幸いです。

 *『反米の世界史』が本日配本となるのに伴い、講談社のHPの中に、拙著の紹介ページができました。URLはhttp://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=1497901 です。ブックマークにも追加しておきますが、お手すきの折にでも、一度アクセスしていただけると幸いです。
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 『反米の世界史』予告編(8・最終回)
2005-06-15 Wed 01:24
 昨日の日記でもお知らせいたしましたが、いよいよ明日(16日)、『反米の世界史』が配本となります。そこで、今日は最後の予告編として、サダムフセイン政権下のイラクの切手を1枚、ご紹介します。

 湾岸戦争10周年

 この切手は、2001年、湾岸戦争10周年を記念して発行されたものです。我々の感覚からすると、イラクは湾岸戦争で負けたということになりますが、フセイン政権によれば、「アメリカがフセイン政権を打倒できなかったコトを持って、イラクは負けていない」と説明されていました。

 さて、切手をみると、イラクを象徴する鷲が星条旗を引きちぎってイラク国旗を打ち立てているのが、まず、目につきます。もちろん、これはアメリカに対するイラクの“勝利”を表現したものです。

 鷲と並んで、左の上のほうにはエルサレムを象徴する“岩のドーム”が描かれています。これは、フセイン政権の掲げる“リンケージ論”と密接に絡んでいます。

 リンケージ論というのは、簡単にまとめると、次のような主張です。

 イラクは国連決議に従わず、クウェートから撤退しなかったがゆえに、懲罰として湾岸戦争で多国籍軍の攻撃を受けた。しかし、同じように国連決議を無視して、1967年の第3次中東戦争以来、ガザ地区とヨルダン川西岸を占領し続けているイスラエルに対して、国際世論は何も制裁を加えていないではないか。これは、明らかなダブル・スタンダード(二重基準)で、不当である。それゆえ、イラクを公平に扱うというのであれば、クウェートの問題とパレスチナの問題は、リンクさせて解決しなければならない。

 このリンケージ論は、もともと、国際的に孤立していたフセイン政権が、アラブ意諸国の支持を得るため、苦し紛れに発したものという色彩が濃いのですが、一向に解決の兆しが見えないパレスチナ問題に閉塞感を感じていたアラブ世界の一般国民の間では、一定の支持を獲得しています。そして、そうした一般国民の支持が、結果として、国際社会においてフセイン政権を支えていた一要因となっていたことも事実です。

 切手では、鷲の背後に緑色でアラブ世界の地図が描かれていますが、このことは、西側世界の押し付けたダブル・スタンダードに対して断固戦うイラクに対して、アラブ世界は支援を与えるべきだとの意味が込められており、上記のようなアラブ世界の世論をさらに喚起する狙いがあるものと考えられます。

 いずれにせよ、こうした切手が実際に郵便物に貼られて流通していくことで、アラブの人々の間に、アメリカを中心とした西側世界のダブル・スタンダードに対する不信感が醸成されていくことになるのです。

 『反米の世界史』では、この切手を含め、フセイン政権下のイラクの切手を多数取り上げ、この10年間のイラクから見たアメリカと国際社会の諸相を明らかにしています。

 是非一度、お手にとってご覧いただけると幸いです。
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 “あかがね倶楽部”での講演
2005-06-14 Tue 01:21
今日は古河電工のOB会、“あかがね倶楽部”で講演をしてきました。題目は「切手の中の“昭和の戦争”」です。僕の父は、数年前にリタイアしましたが、古河電工とその関連会社に勤めていましたので、その線で来た仕事です。

 話の内容は、『切手と戦争』の話がベースになっていますが、1時間~1時間半という限られた枠の中で、あれもこれもと詰め込みすぎると収拾がつかなくなりますので、今回は“満州”がらみの話題に絞ってお話をしてきました。メンバーの平均年齢は70歳を超えていて(60歳代の僕の父は、会の中では“若造”だそうです)、ご出席いただいた方の中には、実際に旧満州での生活経験をお持ちの方も少なくなかったとのこと。そのため、こちらが思っていた以上に喜んで話を聞いていただけたようで、まずは安心しました。

 講演の前後に、倶楽部の理事長・金井泰三さんとお話したところ、意外なところで共通の知人(切手の関係者です)がいることを発見。また、金井さんは、1964年に開通し、記念切手にもなった太平洋横断ケーブル(切手の画像はhttp://kitte.com/catalogue/jpn19640619_01/ をご覧ください)の建設の直接のご担当者だったそうです。

 僕は、2001年から昭和・戦後期に発行された全ての記念・特殊切手(ただし、いわゆる公園切手と年賀切手は除く)について、網羅的な読む事典(<解説・戦後記念切手シリーズ>)を作っています。今年の4月には、1960年1月~66年4月の期間の全記念切手を対象としたシリーズ第3弾、『切手バブルの時代―五輪・新幹線切手に踊らされた頃 』(表紙のイメージは↓)を上梓しました。

切手バブルの時代

 この本では、当然、1964年6月に発行された「太平洋ケーブル開通」の記念切手の項目もありますが、地味な切手でたいした情報を盛り込むことはできませんでした。それだけに、同書の制作期間中に、金井さんにお会いできていれば、この切手の項目でもいろいろと面白いエピソードが拾えたろうに、惜しいことをした、という気分になりました。まぁ、書籍ってのは、だいたい、出した後でああすればよかった、という部分が出てくるものなのですが…。

 さて、『反米の世界史』の見本があがってきましたので、トップのメッセージ・ボードに表紙と帯の画像をアップしました。また、それに伴い『切手と戦争』のPOP画像はプロフィールの下に移動しています。7月後半、世の中が終戦特集一色になるまでは、しばらく、このスタイルにしようと思います。なんといっても、一番新しい本を一番アピールしたいですから。

 なお、『反米の世界史』の奥付上の刊行日は20日ですが、配本は16日ですので、今週末には店頭に並んでいるところも多いと思います。見かけたら、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。
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 『反米の世界史』予告編(7)
2005-06-13 Mon 01:18
 昨日(12日)に続いて、中東ネタです。

 1979年のイスラム革命からホメイニーの亡くなるまでの間、イランでは切手をプロパガンダの手段として積極的に活用しており、かなりどぎつい反米切手を数多く発行しています。たとえば、「アメリカ大使館占拠X周年」なんて名目で、目隠しをされて後ろ手に縛られた大使館員を大きく取り上げた切手や、大使館の建物と崩れ落ちたCIAの紋章を描いた切手などが、毎年、発行されていました。

 この手の切手をご紹介するたびに、必ずといっていいほど、「はたして、こんな切手実際に貼って使う奴がいるのかね?」というご質問を頂戴します。

 そこで、今日はそういうイランの反米切手が実際に郵便に使われた例(↓)をご紹介しましょう。

      イラン機撃墜

 このカバー(封筒)に貼られているのは、イラン・イラク戦争末期の1988年、ペルシャ湾に停泊中の米軍艦船から発射されたミサイルがイランの民間機を撃ち落としたことに。抗議して発行された切手です。星条旗の艦船から発射されるミサイル、爆発する飛行機、湾岸の火の手など、イラン側から見た“大悪魔”アメリカの非道が分かりやすく表現されています。

 さて、カバーは、1988年12月、アフワーズから、なんと、アメリカはプリンストンのトフル(そうです。あのTOEFLです)事務局宛に差し出されています。トフルへ手紙を出す(おそらく、何らかの問い合わせでしょう)くらいですから、差出人は、当時のイラン社会では、アメリカに対して比較的親和的な感情の持ち主だったと考えられます。それだけに、貼られている切手とのミスマッチがなんともいえない雰囲気をかもし出しています。

 一方、この手紙を受け取ったトフルのスタッフは、どのように反応したのでしょうか。この点にも興味があります。もっとも、僕のような人間は別として、郵便物というのは中身が重要で外側に貼られている切手なんてどうでもいいという人も少なくありません。案外、このカバーの場合も、そういう事情で、受け取ったトフルのスタッフや配達した郵便局員なんかは、なーんにも考えずにスルーしてしまったのかもしれませんね。

 さて、今週刊行の『反米の世界史』では、今回ご紹介したカバーも含め、革命イランの発行した反米切手の数々を、“お腹いっぱい”になるまでお見せします。そして、一見、闇雲に発行されているかに見える、そうした反米切手にも、すべて、その時々のイランの政治的・社会的状況が色濃く反映されているのだということを明らかにしています。

 ご一読いただけると幸いです。
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 アラブの都市の物語:ベイルート拾遺
2005-06-12 Sun 01:15
9日の日記でNHKラジオの中国語講座のテキストで連載している「外国切手の中の中国」の話を書きましたが、おなじくNHKのアラビア語講座のテキストで「切手に見るアラブの都市の物語」という連載も持っています。

 中国語のテキストは月刊でアラビア語は隔月刊ですが、いずれも、発売日は18日なので、2ヶ月に1度は、中国語の原稿を出したら、すぐにアラビア語の原稿をつくらねばならないというスケジュールになっています。(中国語の原稿を先に出すというのは、単純に、編集部からの督促が早いという理由です)

 「切手に見るアラブの都市の物語」は、タイトルの通り、毎回、アラブの都市を一つ取り上げて、その歴史や文化、特色などを、切手や郵便物を用いて紹介するというもので、去年の4・5月号からスタートしました。いままでに取り上げたのは、バグダード、カイロ、ドバイ、ダマスカス、サナア(イエメン)、エルサレム、アルジェ、マナーマ(バハレーン)の8都市。今回は、シリア軍のレバノンからの撤退が話題になっていることでもありますし、7月18日発売の8・9月号では、ベイルートを取り上げることにしました。

 で、その原稿に使いそこなったモノ(↓)がありますので、今日の日記でご紹介します。

PFLP

 ご注目いただきたいのは、カバー(封筒)の左側に貼られているラベルです。

 これは、PLO(パレスチナ解放機構)の非主流派で、過激な武装闘争路線を掲げていたPFLP(パレスチナ民族解放戦線)の作った宣伝ラベルで、旅客機の爆破を成功させた同志をたたえるデザインとなっています。封筒の左側には、パレスチナ解放闘争への支持を訴えるイラストとアラビア語の文言も印刷されており、プロパガンダ色の非常に濃厚な一品です。

 1970年9月、ヨルダン政府と対立して弾圧され、ヨルダンを追われたPLOは、1982年にイスラエルによるベイルート包囲によってテュニスへの撤退を余儀なくされるまで、ベイルートを拠点に反イスラエル闘争を展開していました。その一環として、PFLPやアラファトの組織であるファタハなどは、自らの存在と主義主張をアピールするため、切手状のラベルを作成。支持者たちはそれらを郵便物に貼ることで、彼らのプロパガンダ戦略の一翼を担っていました。ただし、これらのラベルは、所詮はラベルですから、切手としての効力はなく、郵便物を差し出す場合には、別にレバノン政府が発行した切手を貼らなければなりませんでした。

 今回のカバーは、数年前、PFLP関連のモノということで手に入れたもので、つい先ほど原稿を書くまで、ベイルートから差し出されたものとばかり思い込んでいました。そして、今回、ベイルートの物語を書くに当たって、かの地での反イスラエル闘争の一端を示すものとして、「アラブの都市の物語」でも使おうと考えていました。

 ところが、消印をよく見ると、(レバノンの)トリポリとなっているではありませんか!そこで、今回の仕事では、デザインがはるかに大人しいファタハのラベルを貼ってベイルートから差し出されたカバーを使うことにして、PFLPは泣く泣く、引っ込めることにしました。もっとも、NHKの教育番組のテキストですから、このカバーみたいに、どぎつい(絵的にはどことなく素朴な感じが漂っていないわけでもありませんが)ものは、編集部で没にされてしまったかもしれません。

 いずれにせよ、せっかく探し出してきたので、このまま、かび臭い僕の書斎でまた埋もれさせてしまうのは、ちょっともったいない気がしたので、この日記に登場させて見たという次第です。
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 『反米の世界史』予告編(6)
2005-06-11 Sat 01:10
 公開のブログを始めてから、10日が過ぎました。1日に10人くらい、まぁ20人も遊びに来ていただければ“御の字”と考えていたので、1日100人以上もの方からアクセスしていただき、はやくもカウンター(ダブりなし)が1000を超えたのは、ちょっとビックリです。これからも、よろしくお付き合いください。

 さて、1000を超えたということで、今日は、この切手(↓)をご紹介します。

      1000機撃墜

 この切手は、ベトナム戦争中の1966年4月、ベトナム民主共和国(北ベトナム)が発行したもので、米軍機1000機撃墜の記念切手です。1000という数字の中を米軍機が火を噴いて落ちていく、なんともわかりやすいデザインです。

 ベトナム戦争中、北ベトナムは米軍機の撃墜数が節目に達すると、そのたびに、強烈なデザインの記念切手を発行してきました。その最初のものが、1965年8月の500機撃墜記念の切手で、今回ご紹介のものは2番目になります。その後も、1973年11月には4181機撃墜記念の切手が発行されて“打ち止め”になるまで、1966年10月には1500機撃墜、1967年6月には2000機撃墜、同11月には2500機撃墜、1968年6月には3000機撃墜、1972年6月には3500機撃墜、同10月には4000機撃墜、の記念切手が発行されています。

 来週刊行予定の『反米の世界史』では、そうした北ベトナムの米軍機撃墜記念切手を全てご紹介しているほか、第2次大戦の終結以来、30年間にわたって繰り広げられたインドシナの戦争を、切手や郵便物を使った歴史絵巻として再構成しています。

 是非一度、お手にとってご覧いただけると幸いです。

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 『反米の世界史』予告編(5)
2005-06-10 Fri 01:07
 アジアがらみのネタが続きましたから、今日は毛色の変わったところで、南米キューバのカバー(封筒)をご紹介します。
 
キューバ・プロパガンダ

 このカバーは、1959年12月、キューバのサンチャゴ・デ・クーバからアメリカ・オハイオ州宛に差し出されました。1959年といえば、カストロの革命が成就しバティスタ政権が打倒された年です。

 バティスタ政権下のキューバは、中南米の独裁政権にありがちな腐敗と汚職に満ち溢れていました。カストロの革命は、独裁政権下でのあまりにも不平等な社会システムや極端な富の偏在を是正することを目的として始まったもので、当初は、必ずしも社会主義政権の樹立を目指したものではありませんでした。

 しかし、1959年5月、革命政府が、小作人への土地分与を目的とした土地改革と不正蓄財の没収を実施すると、アメリカは猛反発します。バティスタ政権下では、アメリカ系の資本が政府と結びついて巨額の利益を上げており、カストロの改革は、そのトラの尾を踏む結果となったからです。このため、革命政権の方向性を見極めようとしていたアメリカは、カストロの革命を“アカ”と認定し、経済制裁や空爆などを行い、革命を頓挫させることを目論むようになりました。

 さて、そうした背景事情を頭に入れた上で、カバーに貼られている横長で緑色のラベルにご注目ください。

 ラベルには、次のように書かれています。

 我々の革命は共産主義者(によるもの)ではない。
 我々の革命は人道主義者(によるもの)である。
 キューバ人はただ、教育の権利、労働の権利、不安なく食べる権利、平和・正義・自由の権利を望むだけである。

 当時のキューバ人たちは、このようなラベルを外国宛の郵便物に貼って、自分たちの革命に対する国際社会、なかでもアメリカ国民の理解を得ようとしたのでした。郵便物が宛先に届くまでの間に多くの人の手を経ることに注目し、郵便物そのものをメディアとして活用しようとしたのです。

 しかし、キューバの革命を赤色革命であると信じて疑わないアメリカは、カストロ個人の暗殺計画を含め、革命政権の転覆を画策し続けます。そして、その結果、カストロは“敵の敵”であるソ連と急速に接近していくことになり、それがまた、アメリカとの対立を激化させていくという悪循環に陥っていくのです。

 6月16日に刊行予定の『反米の世界史』(講談社現代新書)では、そうしたキューバとアメリカの関係についても、切手や郵便物を通じて歴史的にたどっていきます。そして、キューバ危機がもたらした“反米勢力”の亀裂についても、当時の共産圏諸国のさまざまな切手を分析することで明らかにしようとしました。

 是非、ご一読いただきますよう、よろしくお願いいたします。
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 外国切手の中の中国:バチカン
2005-06-09 Thu 01:04
 昨日(8日)はバタバタしていて日記に書きそびれたことを書きます。

 現在、いくつかの媒体で連載を持っていますが、そのうちの一つが、NHKラジオ中国語講座のテキストで、今年4月から始めた「外国切手の中の中国」です。

 メディアとしての切手には、自国のことばかりではなく、外国のことが取り上げられることも少なくありません。たとえば、「日米修好100年」とか、「日本におけるドイツ年」なんて名目で切手が発行されるのはよくある話で、その場合、相手の国のシンボルやイメージが切手に取り上げられるということは珍しくありません。では、中国は、中国以外の切手にどのように描かれてきたのか--そういう趣旨の下に、毎月、テーマを変えて読みきりの文章を書いているというわけです。

 で、現在、発売中の6月号では、バチカンを取り上げています。バチカンは、大陸の共産中国とは国交を断絶したままですが、1990年代に入って、前教皇(法王)じきじきの旗振りで、中国との国交樹立を目指して水面下での交渉を続けてきました。そうしたことを反映するかのように、1990年代に入ると、バチカンでは中国がらみの切手が急増します。

バチカン

 ↑の切手もその1枚で、“中国への福音伝道700年”を記念して、1994年に発行されたものです。山水画を背景に、十字架を手にしたモンテ・コルヴィノの姿が描かれています。我々の目から見ると、かなりシュールで、下手をすると夢に出てきそうな雰囲気がありますが、信仰篤き人たちの目には、輝ける立派なデザインという風に映るのでしょうか。

 さて、「外国切手の中の中国」は、今月18日発売の7月号では北朝鮮を取り上げたんですが、ここのところ、北朝鮮ネタが二日続いたので、ここでご紹介するのはパスしました。で、おとといから昨日にかけて、うんうん唸って書いていたのは、太平洋戦争中のアメリカ切手のお話です。こちらについても、機会があれば、この日記でご紹介したいと思います。

 現在の予定では、連載は少なくとも来年3月までは続きますので、ご興味のある方は、毎月18日に書店に行って、チェックしていただけると幸いです。

PS 昨日、VTR撮りをしたテレビの仕事ですが、昨夜の「報道ステーション」の方は、サッカーの話に押されて吹っ飛んでしまったようです。一方、今朝の「スーパーモーニング」は、貴乃花親方のインタビューが飛び込みで入ったので、20分ぐらい、当初の予定よりも遅れましたが、無事、放送となりました。ご覧頂いた方にはお礼申し上げます。
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 テレビの仕事2件、飛込みで入る
2005-06-08 Wed 01:02
 2時すぎ、電話でテレビの仕事が2件、立て続けに入りました。どちらもテレビ朝日系列の番組で、一つは今晩放送予定の「報道ステーション」、もうひとつは、明朝放送予定の「スーパーモーニング」です。

 どちらも、至急、日本人の元脱北者で、最近、北朝鮮に戻ってしまった女性から送られてきた手紙を分析して欲しいとのこと。急いで、六本木ヒルズに向かいました。

 で、現場でビデオに写った郵便物を見たところ、

 1.差出人の住所表示が平壌だけになっている:北朝鮮の一般市民が外国宛の郵便物を出すのはかなり難しいが、きちんと住所を書かないで出したりすると、普通なら“スパイ”扱いされかねない

 2.消印が妙にキレイ:北朝鮮普通の郵便物に押されている消印は、インクが薄かったり、汚れていたりで読みにくいのが多い。それなのに、この封筒の消印は平壌(PYONGYANG)の文字がやたらとはっきり読める。まるで、読んでくださいとでもいうかのように。

3.消印の日付が正しいとすると、6月4日に平壌から差し出された郵便物が6月7日に届くというのは、ものすごく順調:通常、平壌-東京間の郵便は約1週間かかる。

 といった点が、不自然かな、と思いましたので、インタビューに答えてその旨、説明しました。

 まぁ、サッカーの北朝鮮戦で日本が勝って、そちらの話題が盛り上がりすぎると、僕のネタなんか吹っ飛んでしまうのでしょうが、無事に放送の場合、「報道ステーション」は今夜10:20頃、「スーパーモーニング」は明朝09:00頃の登場ということになりそうです。

 お時間のある方は、見てやってくださいまし。
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 『反米の世界史』予告編(4)
2005-06-07 Tue 01:02
 こないだ、日本とバハレーンのサッカーの試合があったと思ったら、明日はタイで北朝鮮との試合があるそうで。僕はサッカーにはほとんど全く興味がないので(まぁ、サッカー切手の原稿を書けとでもいう依頼がどっかから降ってくれば、その瞬間から、にわかサッカーファンになるくらいのことは、朝飯前の芸当ですがね)、多分、明日の試合もろくに見やしないのですが、それでも、物書き稼業という商売柄、世間様の話題についていく努力だけは怠らないつもりです。

 北朝鮮といえば、2001年に『 北朝鮮事典―切手で読み解く朝鮮民主主義人民共和国 』なんて大それたタイトルの本を書いてしまってからというもの、僕の仕事の中では結構、大きなウェイトを占めるようになっています。当然、ああいう国ですから、強烈な切手が多くて(不謹慎な言い方をすれば)なかなか面白いのですが、今回の『反米の世界史』でご紹介したものの中では、こんなの(↓)が“お気に入り”です。

北朝鮮・ニクソン

 この切手は、1969年9月、「“アメリカ帝国主義”に反対するジャーナリストの国際会議」(なるものが開催されたんだそうです。はい)を記念して発行されたもので、「ペンは剣より強し」の言葉の通り、ジャーナリストのペンという銃剣で、核兵器を傍らにした当時のアメリカ大統領ニクソンがやっつけられているデザインになっています。左側のシンボルマークは、世界各国の(肌の色の違う)ジャーナリストの腕が一つのたいまつ(ペン先は怒りと正義感で燃えている!)を掲げ、団結している様子を表現しています。切手の下のほうには、ご丁寧に、ずたずたに引き裂かれた星条旗まで転がっています。国家の名前で発行する公式の切手で、ここまでやってくれると、主義主張への賛否は別として、ある種の潔ささえ感じられます。

 北朝鮮では、この切手以外にも数多くのどぎつい反米切手を発行していますが、近刊の『反米の世界史』でも、もちろん、その代表的なものをご紹介しています。あわせて、同書では、第二次大戦から朝鮮戦争の終結にいたるまでの、アメリカと朝鮮半島との複雑なドラマについても、かなりのスペースを割いて、切手や郵便物に刻まれた痕跡をたどっています。

 6月16日、講談社現代新書の一冊として刊行予定の『反米の世界史』、是非、ご一読いただけると幸いです。
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 香港と軍票
2005-06-06 Mon 00:56
 この数週間、抱え込んで難儀していた『歴史群像』の仕事が、ようやく、片付きそうです。今回のお題は軍票。19世紀のヨーロッパの話を冒頭に紹介した後、日本に関しては西郷札から太平洋戦争までを概観する内容です。その中から、切手の背景にも深く関係するところで、香港の話を簡単にまとめて書いてみることにします。

 第二次大戦中、日本軍の占領下に置かれていた香港では、住民は日本の軍票を使うことが強制され、香港ドルは所有さえしてはならないということになっていました。

 日本の戦争が中国大陸にとどまっていた時期は、日本軍は各種の工作(大雑把にいえば、一種の“通貨介入”が中心になります)を行い、中国国民政府の通貨である法幣に対して軍票の価値を維持しようとしていました。しかし、戦時インフレの進行により、日本側は大陸での軍票の価値維持工作を断念。1943年3月いっぱいで、中国の華中・華南地区での軍票の使用を取りやめました。

 その後、中国大陸で使われなくなった大量の軍票は、そのまま、香港に流れ込みます。太平洋戦争開戦後の占領地域では、中国大陸と違い、日本軍は軍票の価値を維持するための工作を全く行いませんでした。このため、ただでさえ、占領下の戦時インフレに悩んでいた香港では、猛烈なハイパー・インフレが発生します。その結果、たとえば、郵便料金一つとっても、1942年の占領当初には封書の基本料金は4銭でしたが、1945年4月には3円にまで暴騰してしまいます。このため、急いで郵便料金に相当する切手を発行しなければならなくなった占領当局は、日本から持ち込んだ切手に新料金に相当する金額と“暫定”ならびに“香港総督部”の文字を加刷(すでに発行されている切手の上から文字などを印刷すること)した切手を発行しました。

香港占領

 今回、ご紹介しているのは、その加刷切手が実際に貼られたカバー(封筒)です。戦争末期の1945年7月30日、香港から上海の赤十字国際委員会宛に差し出されたものです。同封されていた手紙の使用言語や名宛人の国籍が明記されているのは、防諜上の理由から、そのような記載が義務づけられていたためです。

 さて、香港の軍票は、日本の敗戦により一文の価値もない紙屑となりました。これに対して、占領下で軍票の使用を強要されていた香港住民の一部は、戦後、日本政府に補償を求める訴訟を起こしていますが、最高裁で住民敗訴の判決が確定しています。

 今回の仕事では、軍票がお題ということで、香港のインフレを物語るこのカバーを記事に登場させる余裕はありませんでした。ただ、仕事の副産物として、いままで、なんとなくあやふやに分かったつもりになっていたこのカバーや加刷切手の背景について、一応の知識を整理することができたのは、それなりの収穫だったと思います。

 今日の文章は、その記録の意味で書いてみました。
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 『反米の世界史』予告編(3)
2005-06-05 Sun 00:54
まだまだ、このブログの使い方をよく分かっていないのですが、とりあえず、メッセージボードを使うと日記とは別に、ページのトップに文章や画像を入れられることが分かりましたので、去年の11月に刊行した『切手と戦争:もう一つの昭和戦史』(新潮新書)の宣伝を入れてみました。やはり、戦後60年という現在のタイミングで、一人でも多くの方に読んでいただきたい本ですから…。

 で、新書の常として表紙のデザインは規格モノでアップしても面白くありませんので、刊行時に編集部の方が作ってくださったPOPを画像として載せています。ただ、POPの画像では、使われている絵葉書がいまいち見づらいので、今日は、その画像をアップしてみました。

鎧武者

 この絵葉書は、ムッソリーニ時代のイタリアの独裁与党、ファシスタ党が作成した軍事郵便用のもので、日独伊三国の旗を背景に、日本を象徴する鎧武者が軍艦を叩ききっている場面が描かれています。軍艦を良く見てみると、ユニオンジャックと星条旗が掲げられており、三国同盟をバックにした日本が太平洋で“鬼畜米英”をやっつけるというイメージが表現されています。鎧武者の格好が、なんとなく、イタリアっぽくお洒落なの感じなので、僕のお気に入りの1枚です。なお、この葉書が差し出されたのは1943年5月。バドリオ内閣による降伏は同年9月のことでしたから、イタリアの敗色がかなり濃厚になっていた時期です。

 6月16日に刊行予定の『反米の世界史』では、日本中で“鬼畜米英”が叫ばれていた時代を中心に、20世紀初頭から太平洋戦争を経て1960年の安保騒動にいたるまでの日米関係の歴史を、この絵葉書をはじめ、さまざまな切手や郵便物などでたどっています。ご一読いただけると幸いです。

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 『反米の世界史』予告編(2)
2005-06-04 Sat 00:50
 全世界の人民が団結し、抑圧された人々・民族の解放を目指して戦う“共産主義”の総本山であったソ連にとって、資本主義世界のチャンピオンであるアメリカの国内で人種差別が深刻な問題となっているということは、イデオロギー宣伝の面で、格好の宣伝材料でした。

ソ連絵葉書

 今日、ご紹介している葉書(↑)は、そうした視点から1932年にソ連が発行したものです。葉書の左側には、星条旗を背景に縛り首にされた黒人(アフリカ系アメリカ人)と、その周囲で気勢をあげるカウボーイ・スタイルの白人男性が描かれています。当時のアメリカの黒人差別が、往々にして、黒人に対する残虐な暴力行為を伴うものであったことを告発する意図が込められているのは言うまでもありません。

 6月16日刊行予定の『反米の世界史』(講談社現代新書)では、この葉書も含め、各種のプロパガンダ絵葉書などもご紹介しながら、東西冷戦を生み出していった米ソの歴史的な関係についても、説明しています。機会がありましたら、是非、ご一読いただけると幸いです。
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 アラブの都市の物語:バハレーン
2005-06-03 Fri 00:37
 昨日は、本の宣伝ということもあって、ちょっと固めの中身でしたが、今日はちょっと軽めの話題にしましょう。今日(3日)はサッカーの試合がバハレーン(マスコミなんかじゃバーレーンと書くことのほうが多いかな)の首都、マナーマで行われるんだそうで、それにまつわる薀蓄ネタを一つ。

 バハレーンというのは、もともとは海を示すアラビア語のバハルの双数形(アラビア語には単数と3つ以上の複数のほかに、2つを意味する双数というのがある)で、この島国を取り巻く海と、地下水の二つの海を持つというところに由来しています。

 さて、この地域は、19世紀に英領となり、当初はインドの切手が持ち込まれて使われていました。下のカバー(封筒)は、その実例で、1905年11月、マナーマからインドのボンベイ宛の郵便物の一部です。当時は、バハレーンには郵便局が一つしかなかったんで、消印の地名も豪快にバハレーンとなっています。なお、バハレーンで2番目の郵便局がムハッラク(現在、空港のある地域)に開設されるのは、1946年6月1日のことでした。

バハレーンカバー

 ちなみに、その昔、アラブ土侯国(現在のアラブ首長国連邦:UAEを構成している群小首長国)のひとつで、マナーマというのがありましたが、こっちは、アジュマーンの飛び地で、バハレーンの首都のマナーマとは(名前は一緒ですが)全く別の土地です。切手をかじったことのある人の中には、時々、両者を混同している人がいるみたいですが、お間違いのなきよう。

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 『反米の世界史』予告編(1)
2005-06-02 Thu 00:34
 6月16日、講談社現代新書の一冊として『反米の世界史:郵便学が切り込む』を上梓します。

 19世紀の末から20世紀を経て2005年の現在にいたるまで、アメリカは政治・経済・文化のあらゆる領域で世界的な影響力を拡大していきました。その必然的な副作用として、彼らは世界各地でさまざまなレベルの抵抗と直面し続けました。それが先鋭化して、直接的な武力衝突に至った例も少なくありません。その意味では、“アメリカの世紀”と呼ばれた20世紀を、“反米の世紀”と読み替えることも可能でしょう。

 そこで、僕は、アメリカと激しく対立した過去を持つ国や地域の視点から、アメリカが“世界の覇者”となっていく過程を、切手という小窓を通して眺めてみようと考え、今回の本を作りました。

 今回の本には、図版として、ハワイ、フィリピン、ソ連、チェコスロバキア、東ドイツ、日本、中国、タイ、韓国、北朝鮮、ポーランド、キューバ、ベトナム、イラン、イラク、アフガニスタン、フランスなど、世界各地の切手や郵便物が取り上げられています。このことからも、“アメリカ帝国主義”の歴史が、結果として、20世紀の世界史の相当部分と重なっていることがお分かりいただけるでしょう。

 これから何日間かかけて、そうした国や地域の切手・郵便物のいくつかをご紹介していきたいと思います。第1回目の今日は、米比戦争時のカバー(封筒 ↓)です。

米比戦争

 1898年、キューバの独立支援を大義名分として米西戦争が起こると、アメリカはキューバ同様、スペイン領であったフィリピンに派兵します。その際、エミリオ・アギナルドらフィリピンの独立運動家に対して、アメリカは、いったん、フィリピンの独立を口頭で約束します。しかし、アメリカはアギナルドらを裏切り、1898年末、スペインと講和条約を結んでフィリピンを領有してしまいました。

 当然、フィリピン市民は憤激。両者の対立は翌1899年に、米比戦争として爆発します。

 正規軍同士の戦争は、アメリカ側がアギナルド軍を圧倒し1899年11月にはアギナルドの革命政府は壊滅しました。しかし、その後も、1902年頃までゲリラによる抵抗は続き、アメリカを悩ませました。

 今回カバーは、そうしたゲリラ側の支配地域で差し出されたもので、ルソン島北部の南イロコスから1901年1月に差し出されたものです。封筒に押されている印には、アギナルドのフィリピン共和国を示す太陽と三ツ星が描かれ、周囲には「ゲリラ(ナポレオン戦争化のスペインで使われた、“国民的抵抗”という、まさに本来の意味です) No4」の文字が入っています。カバー左上のS.M.R.の書き込みは、“Servicio Militar Revolutionario(革命軍用)”の略。その右側に記されたUrgentisimo(緊急)の文字も生々しい雰囲気を伝えています。ジャングルの中、迫り来る米軍の攻撃を前に、このカバーをやり取りしていた人々の息遣いが伝わってくるようです。

 『反米の世界史』では、今回ご紹介したカバーのほか、1898年から1902年までのアメリカとフィリピンの関係についても、さまざまな切手やカバーを使いながら分析しています。詳細は、20日の刊行後、拙著をお読みいただけると幸いです。

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 はじめまして
2005-06-01 Wed 00:32
はじめまして。郵便学者の内藤陽介です。

 切手っていうと、郵便に使うという以外に、どんなイメージをお持ちですか?

 子供の頃に集めたことがあるとか、根暗なオタク連中が訳のわからない屁理屈を並べ立てて悦に入っているといったようなイメージをお持ちの方が多いのでは。あるいは、この切手にはプレミアがつきそうだというようなことを考えた人もいるかも。

 でも、切手というモノを、もう少し違った角度から眺めてみると、そこには、多分、あなたがいままで気づかなかった発見がイロイロあるのです。

 そんな切手の面白さを、少しでも皆さんにご紹介していけたら・・・、と思って公開のブログを始めることにしました。

 あわせて、僕の仕事の進行状況や日々の雑感なども書いていきたいと思います。

 どうか、よろしくお付き合いください。
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