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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 20万アクセス+香港切手展
2007-06-30 Sat 08:17
 昨日、家に帰ってきたらカウンターが20万アクセスを越えていました。いつも遊びに来ていただいてる皆様、ありがとうございます。今日から、東京・目白の切手の博物館でスタートの「香港返還10周年記念・香港切手展 香港歴史漫郵記」の景気づけとしては、願ってもないタイミングです。

 というわけで、今日は20がらみの切手ということで、この1枚をピックアップしてきました。(画像はクリックで拡大されます)

      郵の字

 これは、1976年に香港郵政總局(中央郵便局)の新局舎が完成した際の記念切手の1枚(20セント)で、大きく“郵”の字が取り上げられています。今回の拙著『香港歴史漫郵記』のタイトルは漫遊記の“遊”の字を“郵”に置き換えたものということで、持ってきてみました。

 香港の中央郵便局は、アヘン戦争中の1841年、ヴィクトリアピークの中腹に設けられたのが最初です。その後、市街地の開発とともに郵便局も維多利亜の地域に移転し、1846年には畢打街と皇后大道中の交差点に局舎が設けられました。

 切手や絵葉書でもおなじみのエドワード様式の重厚な局舎は3代目で、1911年、2代目の局舎が手狭になったため、旧局舎から100メートルほど北側の海寄りの場所、つまり、西側を畢打街、北側を干諾道中、南側を輔道中で囲まれた一角に建てられました。現在の中央郵便局は、そこからさらに北へ200メートル弱動いた場所、つまり、中環の康樂廣場に面したところにあります。

 中央郵便局が現在の場所に移ったのは、地下鉄の中環駅を建設するためで、かつての郵便局の跡地には27階建ての環球大廈が実質的な駅ビルのような格好で建っています。なお、中央郵便局の局舎の変遷については、拙著『香港歴史漫郵記』でも簡単にまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

  【展覧会のご案内】
 今日・明日(6月30日・7月1日)の2日間、 東京・目白の切手の博物館にて、拙著『香港歴史漫郵記』の刊行にあわせて「香港返還10周年記念・香港切手展 香港歴史漫郵記」を開催(登録審査員によるワンフレーム展と併催)いたします。

 展示内容は2004年のアジア国際切手展のオープンクラスに出品して部門最高賞のExcellentメダルを受賞した僕のコレクション、A HISTORY OF HONG KONGと返還以降2006年末までに発行された中国香港切手が中心です。

 入場は無料。時間は両日ともに10:30-17:00で、両日ともに14:30から展示解説を行うほか、先着300名様に英領時代の香港切手をプレゼントしますので、是非、遊びに来てください。
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 香港切手展の展示より(3)
2007-06-29 Fri 00:44
 明日・明後日(6月30日・7月1日)の両日、東京・目白の切手の博物館特設会場にて、「香港返還10周年記念・香港切手展 香港歴史漫郵記」を開催(登録審査員によるワンフレーム展と併催)いたします。

 今回の展示では、切手や郵便物、官製の葉書類などのフィラテリック・マテリアル以外にも、いろんな種類のモノも展示しています。このブログは、“郵便学者・内藤陽介のブログ”と銘打っている手前、普段は、そうしたノン・フィラテリック・マテリアルを取り上げる機会がなかなかないのですが、今回は、展示品の中からいくつかご紹介してみましょう。(以下、画像はクリックで拡大されます)

大嶼島

 18世紀のフランスの作家、プレヴォーの『旅行記集成』の挿絵より、おなじくフランスの水路学者ベランの手になる大嶼島の風景画。おそらく、想像図でしょう。現在は香港国際空港で有名な大嶼島ですが、挿絵の表題は「マカオ近くのランタン島」となっており、“香港”の地名は出てきません。

川鼻の戦い
 アヘン戦争時の川鼻の戦いの場面を描いた銅版画。戦闘に参加したイギリス海軍のホワイト大尉のスケッチをもとに、トマス・アロンが制作した1843年の作品「広東近郊、川鼻の攻撃と占領」を、1850年代にアドラードが銅版画化したものです。

省港スト紀念章

 1925~26年にかけて、広州と香港を中心に行われた大規模なストライキ、“省港罷工”の支援者がつけていた記念章。省港罷工は、香港史を語る上で欠かせない重要事件ですが、フィラテリック・マテリアルで表現するのは難しく、このようなマテリアルに頼らざるをえません。

初期の飛行機

 1930年代の啓徳空港に停まっている飛行機の写真。今回の展示では、いくつかの写真が貼られたアルバムページと、初期の香港宛エアメールのカバーをならべて、香港航空史の黎明期を表現しました。

 なお、啓徳空港の写真以外は、拙著『香港歴史漫郵記』でも取り上げていますので、よろしかったら、そちらの解説文もご参照ください。

 このほかにも、今回の展示では、古新聞や油絵、私製の絵葉書など、さまざまなノン・フィラテリック・マテリアルを、切手や郵便物と組み合わせて展示していますので、是非、会場で実物をご覧いただけると幸いです。

 【展覧会のご案内】
 6月30日・7月1日(土・日)の両日、 東京・目白の切手の博物館特設会場にて、拙著『香港歴史漫郵記』の刊行にあわせて「香港返還10周年記念・香港切手展 香港歴史漫郵記」を開催(登録審査員によるワンフレーム展と併催)いたします。

 展示内容は2004年のアジア国際切手展のオープンクラスに出品して部門最高賞のExcellentメダルを受賞した僕のコレクション、A HISTORY OF HONG KONGと返還以降2006年末までに発行された中国香港切手が中心です。

 入場は無料。時間は両日ともに10:30-17:00で、両日ともに14:30から展示解説を行うほか、先着300名様に英領時代の香港切手をプレゼントしますので、是非、遊びに来てください。

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 香港切手展の展示より(2)
2007-06-28 Thu 09:20
 昨日に引き続き、今週末の30日から、東京・目白の切手の博物館特設会場にて開催の「香港返還10周年記念・香港切手展 香港歴史漫郵記」(登録審査員によるワンフレーム展と併催)の展示品の中から、こんなマテリアルをご紹介いたします。(画像はクリックで拡大されます)

香港黒塗りカバー

 これは、日本占領下の1943年3月、香港から桂林宛に差し出されたカバーで、日本軍による香港占領に抗議して、中国側に渡った時点で、貼られている日本切手(東郷平八郎の5銭切手)が黒く塗りつぶされています。

 消印の局名は読めませんが、差出人の蔡天普が差し出した郵便物には九龍塘の消印のモノが多いといわれているので、あるいは、このカバーもそうかもしれません。日付のほうは、スキャンで上手く出ているかどうかは微妙ですが、活字の痕跡がなんとか見えますので、昭和18年3月27日と特定できます。

 中国がらみで黒塗りの郵便物というと、満洲国に絡むものが有名ですが(こちらについては、いずれこのブログでもご紹介しますが、とりあえずは拙著『満洲切手』をご覧いただけると幸いです)、こちらは、満洲国の場合と違って、黒塗りにされた切手は無効とはされず、受取人から不足料等は徴収されていません。いずれにせよ、当時の中国人の“抗日”の意思が強く伝わってくるマテリアルではあります。

 あさって30日からスタートの「香港返還10周年記念・香港切手展 香港歴史漫郵記」では、今回の郵便物のほかにも、日本占領時代の香港のマテリアルをいくつか展示しています。是非、会場で実物をご覧いただけると幸いです。
 
 また、今日ご紹介のカバーについては、このたび大修館書店から刊行の拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろと書いてみましたので、こちらもあわせてご覧いただけると幸いです。

 【展覧会のご案内】
 6月30日・7月1日(土・日)の両日、 東京・目白の切手の博物館特設会場にて、拙著『香港歴史漫郵記』の刊行にあわせて「香港返還10周年記念・香港切手展 香港歴史漫郵記」を開催(登録審査員によるワンフレーム展と併催)いたします。

 展示内容は2004年のアジア国際切手展のオープンクラスに出品して部門最高賞のExcellentメダルを受賞した僕のコレクション、A HISTORY OF HONG KONGと返還以降2006年末までに発行された中国香港切手が中心です。

 入場は無料。時間は両日ともに10:30-17:00で、両日ともに14:30から展示解説を行うほか、先着300名様に英領時代の香港切手をプレゼントしますので、是非、遊びに来てください。
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 香港切手展の展示より(1)
2007-06-27 Wed 08:58
 いよいよ、今週末の30日から、東京・目白の切手の博物館特設会場にて、「香港返還10周年記念・香港切手展 香港歴史漫郵記」(登録審査員によるワンフレーム展と併催)がスタートします。というわけで、今日から同展の展示品の中から、いくつかのマテリアルをピックアップしてプレ公開して行きたいと思います。

 まずは、この郵便物をご覧ください。(画像はクリックで拡大されます)

アヘン戦争時のカバー

 これは、1839年10月18日、香港沖で船上生活を送っていたイギリス人が、ボストンの貿易商、トーマス・パーキンス社の船に託して差し出した商用の手紙です。

 1839年3月、1アヘン取締りのため、広州に赴任した林則徐は、まず、中国人に対する取締りを強化し、貿易を停止して武力で商館を閉鎖。さらに、イギリス商人には、アヘンを持ち込まない旨の誓約書の提出を要求してアヘンを没収し、これを廃棄処分としました。

 イギリスの貿易監督官だったチャールズ・エリオットは、林の厳しい措置に抗議して在留イギリス人全員を率いてマカオへ退去しますが、英国船籍のトマス・カウツ号がマカオで誓約書を書いて広州に入ってしまったことから、林はエリオットの指導力が弱まったものと考え、強硬姿勢に転じ、イギリス人にマカオ退去を命じます。

 この結果、イギリス人50家族あまりがマカオを追われて香港沖での船上生活を余儀なくされ、英清関係は一挙に緊張。こうした中で、1839年7月、泥酔したイギリス人水夫たちが中国人を嬲り殺すという事件が発生。犯人の身柄引き渡しを求める清朝に対してイギリス側がこれを拒否すると、林は商船への食糧供給を断ち、外国人商人たちの生活の拠点となっていたマカオを武力で閉鎖します。これが、アヘン戦争の直接的な引き金となりました。

 ところで、アヘン戦争以前の広州貿易の時代、中国から西洋宛の通信は、1834年に開設された広州とマカオの収信所が受け付けていました。しかし、収信所は、マカオの封鎖に伴い閉鎖され、船上のイギリス人たちは外部との交通・通信手段を失います。このため、彼らは近くを通過するアメリカ船(彼らはアヘンを持ち込まない旨の誓約書を提出し、貿易を続けていた)に託して、手紙や品物のやり取りを行ったほか、アメリカ船の関係者に用件を依頼することがしばしばありました。

 この手紙もそうしたアメリカ商人に託されたものの一例で、広州のジャーディン・マセソン商会との商品の決済を代行するよう、トーマス・パーキンス社の船の船長に依頼したもので、裏側には1840年1月5日に手紙を受け取ったとの書き込みがあります。

 30日からスタートの「香港返還10周年記念・香港切手展 香港歴史漫郵記」では、今回の郵便物のほかにも、アヘン戦争以前のマテリアルをいくつか展示しています。是非、会場で実物をご覧いただけると幸いです。

 なお、この郵便物については、拙著『香港歴史漫郵記』でもご紹介しておりますので、よろしかったら、同書もあわせてご覧ください。

 【展覧会のご案内】
 6月30日・7月1日(土・日)の両日、 東京・目白の切手の博物館特設会場にて、拙著『香港歴史漫郵記』の刊行にあわせて「香港返還10周年記念・香港切手展 香港歴史漫郵記」を開催(登録審査員によるワンフレーム展と併催)いたします。

 展示内容は2004年のアジア国際切手展のオープンクラスに出品して部門最高賞のExcellentメダルを受賞した僕のコレクション、A HISTORY OF HONG KONGと返還以降2006年末までに発行された中国香港切手が中心です。

 入場は無料。時間は両日ともに10:30-17:00で、両日ともに14:30から展示解説を行うほか、先着300名様に英領時代の香港切手をプレゼントしますので、是非、遊びに来てください。

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 金融都市としてのマカオ
2007-06-26 Tue 00:47
 北朝鮮外務省が「マカオのバンコ・デルタ・アジア(BDA)に凍結された資金がわれわれの要求通り送金された」と発表し、2005年9月以来のBDA問題はとりあえず決着しました。となると、「マカオのことがニュースになる機会もめっきり減るだろうなぁ」と思って、マカオがらみのマテリアルとしてこんなものを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

マカオから日本占領下の香港宛

 これは、太平洋戦争開戦後の1942年6月16日、中立国のマカオから日本占領下の香港宛に差し出されたカバーで、裏面には6月24日の九龍の消印が押されています。

 第二次大戦中、ポルトガルは中立国でしたが、日本軍はポルトガル領のチモール島を占領しています。これに対して、マカオの場合は、日本側にここを“国際社会への窓”として活用したいという意図があったため、日本軍は海上封鎖こそ行ったものの、あえて占領はしていません。

 占領当初の香港では、イギリス時代の香港ドルと日本の軍票が併行して流通させられていましたが、1941年12月末から九龍で、翌1942年1月から香港島で、軍票1円に対して香港ドル2円の割合で交換が開始されます。この交換レートは、同年7月には軍票1円に対して香港ドル4ドルへと変更され、香港ドルを駆逐して軍票を占領香港の基軸通貨とするプランが着々と実行に移されていきました。公租公課の納入が軍票に限定され、軍票需要者に対する軍票交換所が設けられたのもこの時期の出来事です。

 さらに、1943年7月以降、占領香港の行政機関である香港占領地総督部は香港ドルの使用を全面的に禁止し、住民に対して香港ドルをすべて軍票交換に交換することを義務づけます。その際に発せられた総督令には「軍票の流通を拒んだり、香港ドルを隠し持ったりしている物は厳罰に処する」との内容の文面があり、憲兵政治の下で、香港の住民が軍票の使用を余儀なくされていた状況がうかがえます。

 こうして住民から回収された香港ドルは、国際的には、イギリスの信用により価値が維持されていたため、中立国のマカオでの物資購入の資金に充てられました。日本軍がマカオをあえて占領せず、“国際社会への窓”として活用しようとしたのもこのためです。

 もっとも、太平洋戦争中も香港とマカオの間では(制度上は)戦前同様、交通・通信が行われていたため、日本軍がマカオで使用した香港ドルが、まわりまわって、香港へと戻ってきて、占領当局を苛立たせることも少なからずあったようですが…。

 香港の歴史を語る場合にはマカオについても避けて通ることはできませんので、新刊の拙著『香港歴史漫郵記』でも多少の記述を試みています。いずれ、そうした部分を抜き出してミニコレクションを作ってみようかとも思いますが、他人様に胸を張ってお見せできるような水準のものを作るとなると、まだまだ道は険しそうです。

 【展覧会のご案内】
 6月30日・7月1日(土・日)の両日、 東京・目白の切手の博物館特設会場にて、拙著『香港歴史漫郵記』の刊行にあわせて「香港返還10周年記念・香港切手展 香港歴史漫郵記」を開催(登録審査員によるワンフレーム展と併催)いたします。

 展示内容は2004年のアジア国際切手展のオープンクラスに出品して部門最高賞のExcellentメダルを受賞した僕のコレクション、A HISTORY OF HONG KONGと返還以降2006年末までに発行された中国香港切手が中心です。

 入場は無料。時間は両日ともに10:30-17:00で、両日ともに14:30から展示解説を行うほか、先着300名様に英領時代の香港切手をプレゼントしますので、是非、遊びに来てください。
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 足止め
2007-06-25 Mon 17:28
 いやぁ、参りました。週末の土日、熊本に行って帰ってくるつもりが、日曜日夕方の飛行機が天候不良のため(霧による視界不良ということのようです)欠航となり、空港近くのエアポートホテルで一泊。振り替えてもらった飛行機でようやく今日の午後、羽田に戻ってきました。さすがに、ちょっとグッタリです。

 で、熊本に足止めされている間、僕の手持ちのカバーの中にも、途中で足止めされていたものがないかと思って探してみたら、こんな1枚が出てきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ドイツ抑留便

 これは、第2次大戦中の1940年6月12日、スイスのバーゼルからイギリスのシェフィールド宛に差し出されたものの、途中、フランスのドイツ占領地域を通過する際に“敵国”宛の郵便物として足止めされていたもので、そうした事情を説明する印が左上に押されています。

 1940年5月、ドイツ軍は電撃作戦を開始してヨーロッパを席捲。6月10日には、フランス政府がパリを放棄し、14日にドイツ軍がパリに入城します。その後、フランス政府は、ペタン元帥の和平派の政府(ヴィシー政府)と、イギリスで樹立されたド・ゴールの抗戦派の自由フランス政府に分裂。6月21日にヴィシー政府は休戦を申し込み、フランス北部と大西洋岸はドイツの占領下に置かれました。

 このカバーが差し出された1940年6月は、まさに、そうしたフランス降伏前後にあたっています。カバー上の書き込みによれば、カバーが配達されたのは、連合国によるフランス解放後の1945年4月のことですから、5年近くも、ドイツ占領下のフランスでひっそりと眠り続けていたという計算になります。

 以前の記事で、太平洋戦争中、香港郵便局の地下で眠り続けていたカバーをご紹介しましたが、今回のモノはそのヨーロッパ版ともいうべきもので、二つ並べてみると、まさに“世界大戦”ということを実感できるような気がします。

 【展覧会のご案内】
 6月30日・7月1日(土・日)の両日、 東京・目白の切手の博物館特設会場にて、拙著『香港歴史漫郵記』の刊行にあわせて「香港返還10周年記念・香港切手展 香港歴史漫郵記」を開催(登録審査員によるワンフレーム展と併催)いたします。

 展示内容は2004年のアジア国際切手展のオープンクラスに出品して部門最高賞のExcellentメダルを受賞した僕のコレクション、A HISTORY OF HONG KONGと返還以降2006年末までに発行された中国香港切手が中心です。

 入場は無料。時間は両日ともに10:30-17:00で、両日ともに14:30から展示解説を行うほか、先着300名様に英領時代の香港切手をプレゼントしますので、是非、遊びに来てください。
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 続・熊本行きにちなんで
2007-06-24 Sun 00:42
 昨日は熊本のアークホテルで開かれた“九州郵趣家の集い”で簡単な講演をしました。お集まりいただいた皆様には、この場をお借りしてあらめてお礼申し上げます。

 で、僕のオブリゲーションはとりあえず昨日でおしまいということなので、せっかくですから、ちょっと観光をしてみたいと考えています。というわけで、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

天草架橋

 これは、1966年9月に発行された天草架橋の記念切手です。

 熊本県の西の海上に連なる天草諸島は、天然資源に恵まれ、伝統的な水産業や鉱産業のほか、果樹、園芸、蔬菜の栽培、酪農経営などが行われてきました。また、雲仙天草国立公園の一角を占めており、風光明媚な地として多くの観光客を集めています。

 しかし、離島の宿命として交通は不便で、第2次大戦以前は道路による連絡は不可能でした。

 こうした天草諸島を本土と陸路で結ぼうという計画は1936年頃に一度持ち上がりましたが、戦争などの影響ですぐに頓挫していました。

 1953年、離島振興法が成立し、離島地域の開発が本格的に進められることになると、天草諸島もその対象となり、1958年から橋を架けるための道路の建設が開始されます。そして、1962年8月から、架橋そのものの工事が開始され、1966年9月に完成。それにあわせて記念切手が発行されています。

 切手に描かれているのは、手前からパイプアーチ式の松島橋(第5号橋:天草上島の松島と前島を結ぶ)、前島橋(第4号橋:前島と大池島を結ぶ)、中の橋(第3号橋:大池島と永浦橋を結ぶ)、大矢野橋(第2号橋:永浦島と大矢野島の満越を結ぶ)、天門橋(第1号橋:大矢野島と宇土半島の三角を結ぶ)で、右手向こうに見えるのが雲仙岳です。

 熊本の名所といえば、なんといってもまずは熊本城でしょうから、とりあえず、熊本初体験の僕としては、まずお城に行かねばなりますまい。その後で、ほんの端っこだけでも、この切手に描かれた景色を拝みにいけたら良いのですが、今日はあいにくの雨で視界も悪いですし、帰りの飛行機の便を考えるとちょっと難しそうです。まぁ、切手の風景を見に行くのは、次回のお楽しみに取っておくことにしましょうか。

 【展覧会のご案内】
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 展示内容は2004年のアジア国際切手展のオープンクラスに出品して部門最高賞のExcellentメダルを受賞した僕のコレクション、A HISTORY OF HONG KONGと返還以降2006年末までに発行された中国香港切手が中心です。

 入場は無料。時間は両日ともに10:30-17:00で、両日ともに14:30から展示解説を行うほか、先着300名様に英領時代の香港切手をプレゼントしますので、是非、遊びに来てください。
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 熊本行きにちなんで
2007-06-23 Sat 00:38
 今日と明日(23・24日)、熊本のアークホテルで開催される“九州郵趣家”の集いにお招きを受け、ちょっとした講演をしに行きます。熊本は、いままで行ったことのない土地なので、非常に楽しみです。

 というわけで、今日は熊本に関する切手ということで、こんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

熊本逓信展

 これは、1948年9月20日から26日まで熊本日日新聞社で開催された”明るい逓信展覧会(熊本展)”を記念して発行された小型シートです。

 “明るい逓信展”は、同年4月末に東京で開催された「明るい逓信展覧会(東京展)」の地方巡回展です。当時は、地方の郵政局が開催する切手展などに際して、通常切手等の印面を流用した記念小型シートがしばしば発行されていましたが、これらはとかく評判が悪く、また、地方によっては小型シートを発行する(してもらう)ためにイベントを企画するという本末転倒の現象も見られたため、逓信省は、同年5月の福島での“明るい逓信展覧会”の巡回展を最後に、当面、通常切手等を流用した小型シートは発行しない方針を取っていました。

 しかし、これに対しては、地方小型シートの発行されていない熊本・長野・松山・金沢・広島の各逓信局からクレームがついたため、結果として、熊本点の小型シートも発行されることになったといわれています。

 さて、熊本展の小型シートは、同展開催の10日前に発行された3円80銭と1円50銭の切手をそれぞれ2枚ずつ組み合わせたもので、売価は額面の10円60銭。会場内の熊本局臨時出張所と熊本局で発売されました。

 小型シートに描かれているイチョウは、熊本城が銀杏城と呼ばれていること、市内に銀杏並木があることなどにちなんだものです。ただし、イチョウが正式に熊本市の“市の木”にも指定されたのは、1974年のことでした。

 なお、この切手を含めて、終戦直後の地方切手展の小型シートに関しては、拙著『濫造・濫発の時代』でも詳しくまとめていますので、機会がありましたら、是非、ご一読いただけると幸いです。

 【展覧会のご案内】
 6月30日・7月1日(土・日)の両日、 東京・目白の切手の博物館特設会場にて、拙著『香港歴史漫郵記』の刊行にあわせて「香港返還10周年記念・香港切手展 香港歴史漫郵記」を開催(登録審査員によるワンフレーム展と併催)いたします。

 展示内容は2004年のアジア国際切手展のオープンクラスに出品して部門最高賞のExcellentメダルを受賞した僕のコレクション、A HISTORY OF HONG KONGと返還以降2006年末までに発行された中国香港切手が中心です。

 入場は無料。時間は両日ともに10:30-17:00で、両日ともに14:30から展示解説を行うほか、先着300名様に英領時代の香港切手をプレゼントしますので、是非、遊びに来てください。
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 太陽ふたつ
2007-06-22 Fri 00:53
 梅雨入りした途端にぴたっと雨が降らなくなった東京ですが、今日は夏至。天気予報では、今日位から雨が降るようなことをいっていますが、今日も晴れれば、1年で一番お日様の出ている日です。というわけで、太陽がらみのマテリアルの中からこんなものを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ロンボク・太陽加刷

 これは、第2次大戦中の1943年2月から5月までの間、日本軍占領下のロンボク島で使われた切手で、旧蘭印(オランダ領東インド)の切手に“大日本”ならびに“ロンボク”の文字と太陽をデザインした印が押されているため、“ロンボク太陽加刷”と呼ばれているものです。

 画像を見ていただけるとお分かりのように、“加刷”の印が切手よりも大きく、郵便物などに貼られた切手にのみ押されたため、この切手には未使用というものは存在しません。今回ご紹介しているものは、郵便為替証書に貼られたものの断片で、アンペナンの消印が押されています。太陽加刷の切手は、それなりの難物で1枚集めるのもなかなかしんどいのですが、コイツは景気良く2枚貼られているのが嬉しいところです。

 ロンボク島は、インドネシア中部、バリ島の東隣にあり、南部のタンジュンアン・ビーチは「インドネシア一美しいビーチ」といわれているのだとか。たまには、そういうところに行ってのんびり俗世間の垢を落としてきたら良いんでしょうが、僕はボーっとしているのが苦手な根っからの貧乏性ですからねぇ。彼の地へ行っても、ダメもとで昔の切手を探して歩いて帰ってくるだけのような気がします。

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 展示内容は2004年のアジア国際切手展のオープンクラスに出品して部門最高賞のExcellentメダルを受賞した僕のコレクション、A HISTORY OF HONG KONGと返還以降2006年末までに発行された中国香港切手が中心です。

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 磯風さんありがとう
2007-06-21 Thu 01:31
 7月1日付で拙著『香港歴史漫郵記』が刊行されるのにあわせて、友人の磯風さんがご自身のブログ軍事郵便保存会・関西事務局員の日記でやってくださっていた“香港祭り”が無事終了となりました。およそ半月間、ありがとうございました。

 というわけで、今日は磯風さんに感謝の意を込めて、手持ちの香港関連のマテリアルのうち、日本の戦争とも関わっているモノのなかから、こんなカバーを持ってきてみました(画像はクリックで拡大されます)

第一次大戦の捕虜郵便(香港)

 これは、第一次大戦中、香港に抑留されていたドイツ人捕虜宛のカバーです。

 1914年7月28日、いわゆるサライェヴォ事件の報復として、オーストリアがセルビアに宣戦を布告したのを皮切りに、8月初めには欧州全域を戦場とする第一次大戦が勃発します。

 イギリスは香港やシンガポールなどの拠点や、イギリス商船が危機にさらされた際の日本の援助を期待したものの、日本が無制限に行動してオーストラリアやニュージーランドの自治領に脅威を与えたり、アメリカの反発を招いたりすることを警戒し、日本が参戦する場合には戦闘区域を限定することを望んでいました。

 これに対して、戦争は、最悪でもイギリス優位の引き分けに終わるとにらんでいた日本は、連合諸国の駐日大使に対して、日本には領土的野心はないと説明した上で、戦闘区域を限定せず、8月15日、ドイツに対して宣戦を布告します。

 当時、発足間もない中華民国は局外中立を宣言していましたが、9月2日、日本軍は「膠州湾租借地ヲ支那國ニ還付スル」ためという大義名分を掲げて、山東半島に上陸。11月7日には、ドイツの極東の拠点だった青島を陥落させました。また、赤道以北のドイツ領南洋群島も、10月中には日本軍によって征圧されています。

 こうした状況の中で、香港の紅磡地区には、ドイツ人捕虜の収容所が設けられました。

 このカバーは1915年8月、日本の松山捕虜収容所のドイツ人捕虜が差し出したもので、料金は無料です。各種の印が重なり合って押されていて読みにくいのですが、カバーの中央には、王冠のマークが入った紅磡の収容所の検閲印(紫色)も押されています。

 紅磡は九龍半島の東南に位置しており、現在では、九広鉄路の九廣東線紅磡駅や紅磡海底隧道(クロスハーバートンネル)、さらに、これらの地点を発着・経由するバス路線などがある、交通の拠点になっています。しかし、20世紀初めの時点では、紅磡は黄埔ドッグと呼ばれる造船所を中心とした工業地帯でした。現在の紅磡駅から東北方向に少し行くと、いまでも、黄埔花園とか黄埔新邨、黄埔廣場といった地名がありますから、埋め立てが進む前はこのあたりがそうした工業地帯だったのかもしれません。

 二つの世界大戦のうち、香港に大きな影響を与えたのは第二次大戦のほうですが、第一次大戦の痕跡も注意深く探してみるといろいろと見つけることができます。7月1日付で刊行の拙著『香港歴史漫郵記』でも、今回ご紹介のカバーをはじめ、そのいくつかをご紹介していますので、刊行の暁には、是非、ご覧いただけると幸いです。

 【展覧会のご案内】
 6月30日・7月1日(土・日)の両日、 東京・目白の切手の博物館特設会場にて、拙著『香港歴史漫郵記』の刊行にあわせて「香港返還10周年記念・香港切手展 香港歴史漫郵記」を開催(登録審査員によるワンフレーム展と併催)いたします。

 展示内容は2004年のアジア国際切手展のオープンクラスに出品して部門最高賞のExcellentメダルを受賞した僕のコレクション、A HISTORY OF HONG KONGと返還以降2006年末までに発行された中国香港切手が中心です。

 入場は無料。時間は両日ともに10:30-17:00で、両日ともに14:30から展示解説を行うほか、先着300名様に英領時代の香港切手をプレゼントしますので、是非、遊びに来てください。
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 3年8ヶ月ぶりの配達
2007-06-20 Wed 00:39
 7月1日付で拙著『香港歴史漫郵記』が刊行されるのにあわせて、現在、友人の磯風さんがご自身のブログ軍事郵便保存会・関西事務局員の日記で“香港祭り”をやってくださっているのですが、その昨日(19日)付の記事で香港の“抑留印”の話が出てきたので、僕の手持ちのマテリアルをご紹介したいと思います。(画像はクリックで拡大されます)

       香港・抑留カバー

 1941年12月8日の日英開戦により、香港から海外宛の郵便物のルートは完全に途絶します。このため、開戦前の香港からの最終便となった1941年12月6日の便には、12月4日正午の消印が押されたものがギリギリ滑り込みセーフで間に合ったものの、それ以降は香港外へは配達できなくなりました。

 その後、12月8日に戦争が始まり、25日のイギリス側の降伏までに差し出された海外宛の郵便物は、配達の見込みもないまま郵袋に入れられて、とりあえず、香港中央郵便局の地下に保管されます。しかし、上陸してきた日本側は中央郵便局を接収して郵便業務を開始した後も、地下に保管されていた郵袋には気づかなかったようで、戦後、再上陸したイギリス側は、香港中央郵便局地下の倉庫で、占領時代を通じて配達されないまま眠り続けていた郵便物を発見します。

 そこで、彼らは、遅ればせながら、放置されたままになっていた郵便物をあらためて配達することにしたのですが、その際、配達が遅れた事情を説明するため、このとき発見された郵便物には“DETAINED IN HONG KONG/ BY JAPANESE/ FROM DECEMBER 1941 TO SEPTEMBER 1945”(1941年12月から1945年9月まで日本人によって留め置かれた)との事情説明の印を押しています。

 今回ご紹介しているカバーはその実例で、日英開戦日の12月8日の午後、湾仔からパレンバン(現・インドネシアの都市)宛に差し出され、翌9日には中央郵便局に運び込まれたものの、終戦まで中央郵便局を出ることはありませんでした。

 この事情説明の印が押されている郵便物は、3年8ヶ月にも及んだ戦争をはさんで、宛先不明で差出人戻しとなるケースもかなり多かったのだが、このカバーに関しては、名宛人が戦前同様の住所にいたため、“Soerat ini boleh diserahkan kepada silamat”(本郵便物は宛先地への配達可能)との付箋が到着地のパレンバン局で付けられ、実際に名宛人まで配達されているのがうれしいところです。

 なお、本日ご紹介のカバーは、7月1日付で刊行の拙著『香港歴史漫郵記』でも取り上げて説明しておりますので、刊行の暁には、是非、ご覧いただけると幸いです。

 【展覧会のご案内】
 6月30日・7月1日(土・日)の両日、 東京・目白の切手の博物館特設会場にて、拙著『香港歴史漫郵記』の刊行にあわせて「香港返還10周年記念・香港切手展 香港歴史漫郵記」を開催(登録審査員によるワンフレーム展と併催)いたします。

 展示内容は2004年のアジア国際切手展のオープンクラスに出品して部門最高賞のExcellentメダルを受賞した僕のコレクション、A HISTORY OF HONG KONGと返還以降2006年末までに発行された中国香港切手が中心です。

 入場は無料。時間は両日ともに10:30-17:00で、両日ともに14:30から展示解説を行うほか、先着300名様に英領時代の香港切手をプレゼントしますので、是非、遊びに来てください。
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 朝鮮総連の切手
2007-06-19 Tue 08:37
 経営破たんした朝銀信用組合から不良債権を譲り受けた整理回収機構が、実質的な融資先の在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)に約627億円の返済を求めていた訴訟の判決で、東京地裁は、朝鮮総連に請求通りの支払いを命じ、判決確定前の資金回収を可能とする仮執行も認めました。このニュースに関連して、今日はこの1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

朝鮮総連15年

 これは、1970年に北朝鮮が発行した朝鮮総連15周年の記念切手で、背後には富士見町の朝鮮総連本部ビルも描かれています。ただし、現在の朝鮮総連本部が入っている朝鮮総連中央会館(朝鮮総連が差し押さえ逃れと見られる不明朗な登記移転を行ったとされているビル)は1986年の完成ですから、切手のビルが差し押さえられるということではありません。

 朝鮮総連が、当時の東京都知事・美濃部亮吉から“外交機関に準ずる機関”として認定をうけたのは1972年。これをきっかけに、多くの自治体が関連施設の固定資産税や不動産取得税の減免措置を行うようになったことはよく知られていますが、ということは、この切手が発行された1970年当時は、まだ、朝鮮総連側もきちんと固定資産税を払っていたということなのでしょうか。
 
 ちなみに、在日朝鮮人の民族系金融機関で、朝鮮総連の“財布”代わりになっていた朝銀信用組合は、朝鮮戦争中の1952年、東京で同和信用組合が設立されたのが最初です。これは、1955年に北朝鮮政府の肝煎りで朝鮮総連が組織される3年前のことになります。

 その後、福岡をはじめ、日本各地に朝銀信用組合(名前はまちまちでしたが)が設立されていくことになります。一番最後に設立されたのは、1977年の朝銀長崎信用組合ですが、その一つ前は1968年の朝銀青森信用組合ですから、今回ご紹介の切手が発行された1970年までには、ほぼ、朝銀信用組合の組織も出来上がっていたとみてよいでしょう。

 北朝鮮では1970年前後に金日成の独裁体制が完成したとされていますが、こうしてみると、日本国内でも朝鮮総連やそれを資金的に支える朝銀信用組合の組織もほぼ同じ頃に確立されており、あらためて、朝鮮総連が“本国”と一体の関係にあることがうかがえます。

 【展覧会のご案内】
 6月30日・7月1日(土・日)の両日、 東京・目白の切手の博物館特設会場にて、拙著『香港歴史漫郵記』の刊行にあわせて「香港返還10周年記念・香港切手展 香港歴史漫郵記」を開催(登録審査員によるワンフレーム展と併催)いたします。

 展示内容は2004年のアジア国際切手展のオープンクラスに出品して部門最高賞のExcellentメダルを受賞した僕のコレクション、A HISTORY OF HONG KONGと返還以降2006年末までに発行された中国香港切手が中心です。

 入場は無料。時間は両日ともに10:30-17:00で、両日ともに14:30から展示解説を行うほか、先着300名様に英領時代の香港切手をプレゼントしますので、是非、遊びに来てください。
別窓 | 北朝鮮:金日成時代 | コメント:2 | トラックバック:0 | top↑
 香港歴史漫郵記
2007-06-18 Mon 00:47
 以前からこのブログでもご案内しておりましたが、7月1日付で大修館書店より拙著『香港歴史漫郵記』が刊行となります。その現物が出来上がってきましたので、あらためてご挨拶申し上げます。(画像は表紙カバーのイメージ。クリックで拡大されます)

香港歴史漫郵記

 今回の拙著は、2004年のアジア国際切手展に出品してオープンクラスの部門最高賞であるExcellentメダルを受賞したコレクションA History og Hong Kongをベースに、切手や郵便物のみならず、古写真や絵画なども用いて、アヘン戦争以前から現在にいたるまでの香港の歴史をたどってみたものです。

 香港に関しては、いまから10年前の1997年に社会評論社から『切手が語る香港の歴史』という本を上梓しましたが、今回の拙著は、文章の分量が前回の倍近くに増えているほか、掲載している切手やカバー類も大幅に充実しています。(たとえば、このマテリアルなんかは、前回の拙著には掲載されていません)また、この10年間で僕自身の歴史に対する見方も大分変わりましたので、その点も内容に反映されています。

 しかし、そうしたこと以上に、今回の『香港歴史漫郵記』では、切手や郵便物を片手に香港を歩き回った歴史紀行という、いままでの僕にはなかった新たなスタイルに挑戦したことが最大の特徴です。タイトルの“漫郵記”という言葉は僕が勝手に作った言葉で、郵便学者が切手を見ながら、香港の歴史をたどった珍道中の記録、という意味のつもりです。水戸黄門なんかの漫遊記の“遊”の字を郵便の郵に置き換えたわけですが、さてさて、テレビの水戸黄門のように末永く皆様にお付き合いいただけますかどうか…。

 奥付上の刊行日は香港返還10周年の記念日にあわせて7月1日になっておりますが、取次への配本が22日の予定ですから、早ければ今週末には全国の大手書店の店頭などでも並んでいるかもしれません。また、東京・目白の切手の博物館1階の世界の切手ショウルームでは、今週半ばには発売になると聞いております。現物をおみかけになりましたら、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。

 なお、本書の刊行にあわせて、6月30日・7月1日(土・日)の両日、 切手の博物館特設会場にて、香港政府観光局ならびに大修館書店のご後援の下、「香港返還10周年記念・香港切手展 香港歴史漫郵記」を開催(登録審査員によるワンフレーム展と共催)いたします。展示内容は2004年のアジア国際切手展に出品したコレクション、A HISTORY OF HONG KONGと返還以降2006年末までに発行された中国香港切手が中心です。
 
 会期中両日ともに14:30から展示解説を行うほか、『香港歴史漫郵記』の販売・サイン会も行います。

 入場は無料。先着300名様に英領時代の香港切手をプレゼントしますので、是非、遊びに来てください。
別窓 | 内藤陽介の本 | コメント:4 | トラックバック:0 | top↑
 英雄/テロリスト図鑑:ウルブリヒト
2007-06-17 Sun 01:48
 ご報告が遅れましたが、『SAPIO』6月27日号が発売になりました。僕が担当している連載「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」では、今回は、先ごろ旧東独地域のハイリゲンダムでサミットが行われたことにちなみ、東ドイツ建国の元勲、ヴァルター・ウルブリヒトを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

ウルブリヒト

 ウルブリヒトは、1893年6月30日、ライプチヒの仕立屋の家に生まれました。両親はともにドイツ社会民主党(SPD)の熱心な活動家で、小学校を卒業したヴァルター少年も親の活動を手伝わされています。門前の小僧よろしく左翼少年として成長した彼は、第一次大戦が始まると兵士として召集されましたが、戦争反対を唱えて1917年に脱走。あっけなく捕まって投獄されてしまったのですが、1918年のドイツ革命のどさくさに紛れて出獄に成功しました。この辺りは、ヒトラーから見たら「それ見たことか。左翼は裏切り者じゃないか」といわれそうなキャリアですな。

 大戦後のウルブリヒトは、穏健左翼の社会民主党を生ぬるく感じたのか、1920年にドイツ共産党に入党。モスクワにわたって共産主義者としての修業を積み、帰国後は、ザクセンの州議会議員を経て国会議員となりました。

 大戦後のドイツでは、ナチスの突撃隊や共産党員の民兵組織が各地で暴力事件を起こしており、警察とのトラブルもしばしばありました。こうした中で、共産党は1931年に警察が共産党のデモ隊員を1人殺すごとに報復として警官を2人殺すことを決定。現職の国会議員だったウルブリヒト本人も、共産党幹部の仲間と共謀して警官の殺害計画をたてて、部下の党員に実行させています。

 1933年にナチスが政権を獲得すると、ナチスは共産党員の追放を開始。当時のドイツ共産党のトップ、エルンスト・テールマンは逮捕されてしまいます。また、残りの有力党員たちもソ連に呼び出されて粛清されると、消去法でウルブリヒトがドイツ共産党の指導者に祭り上げられることになりました。

 とはいえ、ナチスが共産党員を追放しなくても、殺人事件の首謀者であったウルブリヒトがドイツ国内にいづらくなるのは当然で、彼は1945年まで各地を転々として亡命生活を余儀なくされています。

 この間、ウルブリヒトは、1941年に独ソ戦が始まると、ソ連のプロパガンダ文書をドイツ語に訳して宣伝放送を行なったり、ドイツ人捕虜への尋問や洗脳活動を行ったりするなど、積極的に祖国ドイツを裏切ってソ連に忠誠を尽くします。

 こうして、ソ連の忠犬となったウルブリヒトは、第二次大戦終結とともに、ソ連軍占領下のドイツに派遣されて東ドイツのソビエト体制化に奔走。1949年10月にソ連占領地域でドイツ民主共和国が正式に発足すると、ドイツ社会主義統一党(共産党)の中央委員会書記長(後に第一書記)に就任。1960年には国家元首である国家評議会議長にも就任し、東ドイツの独裁者として君臨します。

 ウルブリヒトの肖像は、彼が国家評議会議長に就任した後の1961年から切手に登場し、彼が亡くなる1973年まで“東ドイツの顔”として使われることになります。今回ご紹介の切手は、1963年に発行された2マルク切手です。

 さて、忠犬・ウルブリヒトは、スターリンが亡くなった約3ヵ月後の1953年6月17日に起こった反ソ暴動を容赦なく弾圧したり、1961年にはベルリンの壁を作ったり、さらには、1968年にチェコで起こった民主化運動“プラハの春”に際しては、ワルシャワ条約機構軍の軍事介入を強く支持するなど、スターリン主義の優等生の面目躍如といった対応を示しています。

 その一方で、経済政策に関しては、資本主義的な要素を取り入れようとしたため、1960年代後半からホーネッカーらと対立。この権力闘争は、結局、ブレジネフのソ連が支持したホーネッカーの勝利に終わり、1971年、ウルブリヒトは事実上の引退を迫られました。このことを“忠犬”の哀れな末路といったら、酷でしょうかねぇ。
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 トーク:緑化運動切手の物語
2007-06-16 Sat 01:29
 直前のご案内になって恐縮なのですが、本日(16日)午後3時より、東京・目白の切手の博物館で開催中の企画展示「切手でガーデニング」の展示スペースで、簡単なギャラリートークを行います。内容は、来週、今年の国土緑化運動の切手が発行されることにちなんで、日本の緑化運動関係のお話です。

 というわけで、その予告編を兼ねて、今日はこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 緑化運動(1948)

 これは、1948年4月1日に発行された“全国緑化運動”の切手で、日本の緑化運動切手としては最初の1枚です。

 公式に組織化された緑化運動のルーツは、1874年1月4日、当時のアメリカ・ネブラスカ州知事、モートンが4月10日を植樹祭(Arbor Day)とするよう提案したことに求められます。その後、この運動はアメリカ全土に広がるとともに、植樹祭も提唱者モートンの誕生日である4月22日に変更され、1907年には大統領セオドア・ローズヴェルトの命により、全米共通の祭日となりました。

 アメリカから始まった緑化運動の習慣は、その後、スペイン 、イタリア 、ブルガリア 、ドイツ 、中国(国民政府) などにも広まり、日本でも大正時代には青森をはじめとする東北地方、新潟、岐阜、山梨、香川、九州各県などでさまざまな催しが行われるようになりました。これら日本各地の行事は、1934年、“愛林日”として全国的規模で行われることになり、4月3日の“神武天皇祭”を中心に3日間にわたって緑化運動が展開されていました。

 その後、こうした愛林日の各種行事は、戦争により、一時的に途絶していましたが、大日本山林会ほか農林関係団体の提唱により、1947年、森林愛護連盟が結成されます。そして、その最初の事業として4月4日が“愛林日”として復活し、この日を含む1週間に全国緑化運動(以下、緑化運動)が展開されることとなりました。

 切手が発行された1948年の緑化運動は、日本各地の気候にあわせて、九州が3月10日から1週間、本州・四国が4月1日から1週間、北海道が5月1日から1週間とされ、「荒れた國土を平和なで」のスローガンの下、連日、さまざまな催しが開催されています。

 なお、現在の緑化運動切手は、天皇・皇后両陛下をお迎えして各都道府県持ち回りで行われる全国植樹祭の記念切手という色彩が強いのですが、1948年の時点では、そうした植樹祭は行われておらず、緑化運動も全く違った動機から展開されていました。

 で、その動機が何だったのか、また、いつから、どのようにして緑化運動の切手が実質的に全国植樹祭の記念切手へと変質していたのか、という点について、今日のトークではお話してくるつもりです。

 なお、今回のギャラリートークに関しては、博物館の入場料(大人200円・切手代用可)がかかってしまうのですが、トークそのものは無料で行います。よろしかったら、是非、遊びに来ていただけると幸いです。

 また、トークの内容をより深くご理解したいと仰る方は、拙著<解説・戦後記念切手>シリーズのうち、『濫造・濫発の時代』『切手バブルの時代』『一億総切手狂の時代』『沖縄・高松塚の時代』の該当箇所もあわせてご覧いただけると幸いです。

 * 7月1日付けで刊行予定の拙著『香港歴史漫郵記』については、近日中に、このブログでもご案内いたします。
別窓 | 日本:昭和・1945-52 | コメント:3 | トラックバック:0 | top↑
 帰らざる密使
2007-06-15 Fri 01:22
 1907年6月15日のハーグ密使事件から、今日でちょうど100年。というわけで、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

李儁

 これは、大韓民国発足後間もない1948年10月1日に発行された4ウォン切手で、ハーグ密使事件の当事者である李儁の肖像が取り上げられています。

 1904~05年の日露戦争は、朝鮮半島の支配権をめぐって日本とロシアが争った戦争でした。このため、この戦争に勝利を収めた日本は、朝鮮を勢力圏内に取りこむため、1905年11月、第2次日韓協約を結んで、大韓帝国を保護国化し、韓国統監をおいて外交権を接収します。

 これに対して、韓国皇帝の高宗は、1907年6月15日、オランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に皇帝の密使を直接派遣し、列強に大韓帝国の外交権保護(第2次日韓協約の無効)を訴えようとしました。このとき、密使として派遣された3人のうちの1人が、今日の切手の李儁というわけです。

 ところが、会議に現れた密使たちに対して、出席していた列強諸国は大韓帝国の外交権が日本にあること、大韓帝国の利益は条約によって日本政府が代表していることなどを理由に、三人の会議出席を拒絶。そこで、密使たちは会議場の外でビラ撒きなどの抗議行動を行ったとされています。

 当然のことながら、韓国皇帝による密使の派遣は、大韓帝国の外交権が日本にあると定めた第2次日韓協約に明らかに違反していますから、日本側は韓国側を強く非難。高宗は譲位を余儀なくされ、7月20日、息子の純宗が皇帝として即位します。そして、同月24日、第3次日韓協約が調印されて、韓国は内政面でも日本の韓国統監の管轄下におかれることになりました。

 ところで、3人の密使のうち、切手に取り上げられている李儁は、列強の姿勢に抗議して現地で自殺したとされ、現在の韓国・北朝鮮では殉国の義士として尊敬を集めています。しかし、彼の死については、会議への出席を拒絶されてから10日以上も経過してからの自殺は不自然で、それゆえ、単なる病死ではないかとする見方も根強く、議論が分かれています。

 なお、ハーグ密使事件と李儁については、北朝鮮に拉致された映画監督の申相玉と女優の崔銀姫の夫妻が『帰らざる密使』という映画(ただし、この作品の監督は崔で、申は脚本を担当しました)を作っています。その後、夫妻はウィーン出張中に亡命に成功。自分たちも北朝鮮を脱出して、自分たちを拉致した“将軍様”のもとへは“帰らざる”存在となりました。
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 フォークランド紛争25周年
2007-06-14 Thu 09:17
 1982年4月2日、アルゼンチン軍がフォークランド諸島に上陸しこれを占領したことで始まったフォークランド紛争は、同年6月14日、イギリス陸軍部隊がポート・スタンレーを包囲し、フォークランド諸島のアルゼンチン軍が降伏したことで終結しました。というわけで、今日はフォークランド紛争終結25周年にあたるので、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

フォークランド戦争記念カバー

 これは、フォークランド紛争の勝利を記念してイギリスで作られたカバーで、イギリスのリネハム空軍基地からアフリカのダカール、アセンション島を経てフォークランドのポート・スタンレーのイギリス野戦局まで運ばれています。カバーの余白にフォークランド諸島の地図とイギリスの軍艦が印刷されているのが、いかにも、といった感じです。

 切手の左横にはアセンション島を示す赤いスタンプが押されていますが、同島には、アメリカ陸軍の工兵隊により、第二次世界大戦中に飛行場が造成されています。この飛行場は、アメリカ大陸とアフリカ大陸の給油地点として、また、フォークランド諸島への連絡基地として重要で、フォークランド紛争の際にはイギリス軍の拠点となりました。

 カバーがリネハムの空軍基地を出発したのは、紛争の終結後間もない6月23日のことでしたが、しばらくアセンションで足止めされ、8月8日になって、ようやく、ポート・スタンレーまで届けられています。おそらく、紛争が終わったとは言っても、状況がある程度落ち着くまでは、この手の記念カバーを受け入れる余裕が現場の野戦局にはなかったのでしょう。

 フォークランド紛争での勝利によって、経済の低迷から支持低下に悩まされていたサッチャー政権は支持率を劇的に上昇させ、国内の権力基盤を磐石のものとすることに成功します。その余勢をかって、サッチャー政権は、中国との香港返還交渉に関しても、強硬姿勢を貫けば中国は譲歩するはずだと考え、香港島と九龍市街地はイギリス領であると声高に主張し続けました。しかし、こうした強硬姿勢は、かえって、香港に対する中国の主権さえ認めれば、香港の現状維持を容認してもよいと考えていた中国側の強い反発を招くことになり、香港からのイギリスの全面撤退という結果を招くことになってしまいました。

 このあたりの事情については、今月末には書店の店頭に並ぶはずの『香港歴史漫郵記』でもご説明しておりますので、刊行の暁にはご一読いただけると幸いです。
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 磯風さんの兄弟カバー
2007-06-13 Wed 00:59
 今月下旬の拙著『香港歴史漫郵記』の刊行(版元の近刊案内はこちら)にあわせて、友人の磯風さんがご自身のブログ軍事郵便保存会・関西事務局員の日記で“香港祭り”をやってくださっていることは、以前の記事でもご紹介したとおりです。その磯風さんの昨日の記事で、「今度、内藤先生がお出しになられる本にも詳しく解説されると思います」と話を振られてしまいましたので、微力ながら、それにお応えしようとこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

香港20銭カバー

 これは、太平洋戦争中の1942年6月27日、日本軍占領下の香港・赤柱の民間人抑留所に収容されていた女性がシドニーの香港政庁連絡事務所気付でオーストラリアに避難していた知人宛に差し出したカバー(郵便物)です。

 このカバーの郵便史的な説明については、磯風さんの記事が要領よくまとめられているので、ちょっとコピペして貼り付けてみます。

 香港での連合国サイドの捕虜、及び抑留者がマカオ以外に手紙を出す事が許可されたのは、昭和17年の中立国ポルトガル領・モザンピークで行われた外交官交換でした。この交換船は3隻で横浜を6月26日に出港、神戸、上海、ホンコンと巡航して各地の敵国外交官と一般人を乗せ、捕虜や抑留者差出の手紙も運びました。
 このカヴァー(磯風さんのブログの画像です)は、アメリカ経由イギリス宛で、当時の外信封書料金20銭が貼られ、香港局で抹消されています。日付は、昭和17年6月27日で、現在、見つかっているこの兄弟カヴァーは全て同じ日付けです。
 日本側の検閲はカヴァーには確認されてませんが、イギリスとアメリカの双方の検閲が入っているのがこのカヴァーの特徴です。
 本来、捕虜や抑留者差出の手紙は無料のはずなのですが、何故かこの時の郵便物に限っては、全てに20銭切手を貼った有料便として扱われています。(引用終わり)

 さて、今回の『香港歴史漫郵記』では、僕は、自分のカバーの受取人と差出人に注目して、磯風さんとはちょっと違った角度から取り上げてみました。

 ヨーロッパではすでに戦争が始まっていた1940年6月、香港政庁は香港在住のヨーロッパ人の女性と子供をオーストラリアへ避難させるよう、住民に命じました。“敵国”(名指しこそないものの、それが日本を意味することは明白でした)から攻撃を受け、香港が戦場となる可能性が高まっていると判断したからです。

 特に、1940年9月、日本軍が北部仏印に進駐し、アメリカを仮想敵国とする日独伊三国軍事同盟を結ぶと、日本と連合諸国の関係は一挙に悪化し、香港社会の緊張も一挙に高まっていきました。市街地の重要なビルには土嚢が積み上げられ、天星小輪の船着場にはおびただしい数の砲台が並べられました。また、灯火管制の演習は頻度を増し、街頭の新聞スタンドの売り子は「我々は最後の血の一滴まで香港を守ってみせる」と豪語。根も葉もない噂に注意しようとの香港政庁のキャンペーンが展開され、それをもじって「不確かな情報は国家を危機に追いやる。代わりに、タイガー・ビールについて話をしよう」という広告がいたるところで見られるようになったのもこの頃のことです。

 その一方で、1940年から1941年にかけての香港社会には、日本軍がまさか香港を攻撃するはずがないという根拠のない楽観論が満ち溢れていました。当時の香港の不思議な戦時バブルについては、以前の記事でもちょっとご紹介したとおりですが、じっさい、香港政庁が欧米系の全婦女子に香港島からの避難を命じた後も、彼女たちのうちの900人は何かと口実をつけて、日英開戦まで香港に居残り続けています。

 その結果、香港政庁の退避命令を無視して香港内に留まっていた婦女子は、日英開戦とともに日本軍に抑留されてしまいます。その結果、このカバーでは、香港政庁の指示に従ってオーストラリアに避難していた名宛人と差出人の明暗が分かれることになりました。

 なお、このカバーはオーストラリア宛でアメリカ経由ではないのですが、米軍の検閲を受けた後、オーストラリア当局の検閲を受けています。これは連合国側が対日反攻の陣容を整えて、オーストリアに脱出したマッカーサーを最高司令官とする南西太平洋軍がメルボルンで組織されたことを受けて、カバーがオーストラリアに陸揚げされた後、南西太平洋軍の開封・検閲を受けて封緘紙を貼られた後、再度、オーストラリア当局の開封・検閲を受けたためであろうと考えられます。

 それにしても、突如矛先がこっちに向いてくると、ちょっとビックリしてしまいますから、磯風さん、どうかお手柔らかにお願いしますね。
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 ラウレルの言葉
2007-06-12 Tue 01:16
 今日(6月12日)はフィリピンの独立記念日です。というわけで、今日はこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ラウレルの言葉

 これは、1966年に発行されたホセ・ラウレルをたたえる切手で、彼の肖像とともに、「誰もフィリピン人以上にフィリピンを愛せない」との彼の言葉が取り上げられています。

 第2次大戦中、フィリピンを占領した日本軍は、戦況が悪化する中で、現地住民の戦争協力を得るため、親日派政権を樹立してフィリピンを独立させます。もっとも、“独立”といっても、日本軍は引き続きフィリピンへの駐留を続けていましたし、その実態は多分に名目的なものでしかありませんでした。

 このため、親日派政権の大統領となったホセ・ラウレルに対しては、「(敗戦必至の)日本に利用されることがわかっていながら、なぜ、火中の栗を拾うようなことをするのか(したのか)」という疑問や批判も少なからず寄せられています。

 今回の切手に取り上げられている言葉は、こうした批判に答えてラウレルが述べたものです。

 ラウレルによれば、たしかにアメリカは1935年にフィリピン独立準備政府(コモンウェルス)を発足させ、10年後を目途にフィリピンを独立させると約束していました。しかし、スペインの圧制からフィリピンを解放するという名目で行われた米西戦争が、結果的に、アメリカによるフィリピン支配の道を開いただけに終わったという過去の経験から、フィリピンの独立運動家たちは、けっして、アメリカによる“独立”の約束を信用していませんでした。

 このため、ラウレルらは、自分たちを利用としている日本側の意図を十分承知の上で、それでも、“独立”という形式を取っておくことが、戦後のアメリカとの独立交渉において有利に働くと考え、苦渋の選択を取ったのです。同時にこのことは、彼らがどれほど“独立(それがいかに形式的なものであったにせよ)”を希求していたか、なによりも雄弁に物語るものといってよいでしょう。

 ちなみに、アメリカによるフィリピン統治は比較的成功し、フィリピンでは親米感情が浸透していたため、日本の占領軍に対して現地の住民は面従腹背で接する者が多かったという記述がしばしば見られます。たしかに、日本の占領当局に対する怨嗟の声が強かったのは事実ですが、だからといって、このことは、フィリピン人が独立を放棄してアメリカの領土であることに満足していたということを意味しているわけではありません。

 その証拠に、現在のフィリピン国家が独立記念日として指定している6月12日というのは、1898年にアギナルド政府がアメリカによるフィリピン併合の動きに対抗して独立宣言を行った日(そういえば、今日でちょうど100年目ですね)です。このことは、彼らが、自分たちのルーツは反米と切り離せないものであるとの歴史認識に拠っているためとみなすことができます。

 なお、この辺りのフィリピン人のアメリカに対するまなざしに関しては、拙著『反米の世界史』でも1章を設けて触れていますので、是非、ご一読いただけると幸いです。
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 建設の風景:男女平等の現場
2007-06-11 Mon 00:47
 (財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の6月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手に描かれた建設の風景」では、今月号はこんなモノを取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)

スウェーデン・国際婦人年

 これは、1975年にスウェーデンが発行した国際婦人年の切手です。

 1972年の国連総会は、1975年を“国際婦人年”とする決議を採択しました。これは、国連の「婦人の地位委員会」が過去に得た結果を再検討する時期として、「男女平等の促進、経済・社会・文化の発展への婦人の参加、国際友好と協力への婦人の貢献」をテーマとして、活動を広く世界に呼びかけていくために設けられたものでした。

 この国際婦人年の中心的な行事として、1975年6月23日にはメキシコで国際婦人年世界会議が開催されたほか、各国でも多彩な催しが行われ、わが国を含めて多くの国で記念切手も発行されています。

 今回ご紹介するのは、そうした国際婦人年の記念切手のうち、スウェーデンが発行したもので、建設現場で男性と一緒にヘルメットをかぶり、図面を見ている女性が取り上げられています。洋の東西を問わず、力仕事の建設現場はどうしても男社会になってしまうものですが、そうした現場で力強く働く女性の姿こそ、男女の平等ないしは共同参画という理念を体現するものというのがデザイナーの主張なのでしょう。

 なお、わが国で発行された国際婦人年の記念切手に関しては、今年3月に刊行の拙著『沖縄・高松塚の時代』で詳しくご説明しておりますので、よろしかったら、ご覧いただけると幸いです。
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 “6日戦争”の悲劇
2007-06-10 Sun 08:23
 1967年6月5~10日の第3次中東戦争からちょうど40年になりました。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

1967年のナセル

 これは、第3次中東戦争の帰趨が決した後の1967年6月22日、エジプトが発行した「パレスチナ防衛のためのアラブの団結」を訴えるためのプロパガンダ切手です。

 1967年4月、シリア、イスラエル両国の空軍が国境地帯で空中戦を展開し、シリアのミグ戦闘機6機が撃墜される事件が発生。これを機に、軍事的緊張は一挙に高まり、アラブ世界では、“アラブの盟主”であったナセルにイスラエルへの実力行使を求める世論が沸騰します。当初、慎重姿勢を保っていたナセルも、同年5月14日、アラブ諸国からの要請を拒否しきれずに、シナイ半島に兵力を進駐させ、第2次中東戦争の終結以来駐留を続けていた国連緊急軍に撤兵を要求。同月22日、イスラエルにとって紅海への出口となるチラン海峡を再び封鎖しました。

 アラブ諸国はナセルの決断を歓迎し、5月30日にはヨルダンとエジプトとの間で相互防衛条約が調印されたほか、エジプトとシリア、ヨルダンの間では軍事同盟が結成されます。さらに、イラク、クウェート、スーダン、アルジェリアの各国も有事の際の派兵を約束。イスラエルは周囲を完全に包囲されてしまいます。

 これに対して、イスラエルはアラブ諸国軍に対する戦闘準備を急ぎ、先制攻撃を計画。当初、米国はイスラエルの先制攻撃に反対し、問題の政治的解決を求めましたが、最終的には、和平解決のための具体的行動をとる用意がないことをイスラエルに通告します。これを受けて、1967年6月5日、イスラエルはアラブ諸国軍に対する先制攻撃を開始しました。第3次中東戦争の勃発です。

 戦争の勝敗は、開戦早々、イスラエル空軍が、エジプト、ヨルダン、シリア、イラク各国の空軍基地を壊滅状態に追い込んだことによって、早々に決まってしまいます。イスラエル軍は早くも6月7日には東エルサレムを占領し、同月10日にはゴラン高原のシリア軍が潰滅。この間、6月8日には国連安保理の勧告を受けて、エジプトが無条件停戦に応じ、シリアも10日には停戦に応じ、戦争はわずか6日間でアラブ側の惨敗に終わります。イスラエルが、この戦争を誇らしげに“6日戦争”と呼ぶのはこのためです。

 第3次中東戦争の結果、イスラエルのエルサレムを含む広大な占領地を得て、その領土は一挙に戦前の三倍に拡大。一方、アラブ世界は、イスラエルとの圧倒的な戦力差を見せ付けられ、パレスチナ解放=イスラエル国家の解体という政治目標は全く現実味のないものであることが白日の下にさらされてしまいます。エジプトやシリア、イラクなどの国家イデオロギーであったアラブ民族主義の権威は地に堕ち、アラブ民族主義の象徴的な存在であったナセルは辞意を表明。結局、ナセルはエジプト国民の支持により辞意を撤回するものの、もはや、彼の掲げるアラブ統一の夢は封印されてしまうのです。

 今回の切手は、そうした状況の下で発行されたもので、開戦前の昂揚した雰囲気の中で制作準備が開始されたものの、実際に切手が出来上がったときには、すでに戦争はエジプトの敗戦というかたちで決着していました。

 このため、切手に表現されている理念もすでに空文化していたわけですが、それでも、こうした切手が発行されたのは、依然としてナセルが体現してきた“夢”を信じたいという空気が当時のエジプト国内に充満していたからなのかもしれません。それだけに、この切手を見ると、僕には、滑稽さを通り越して、痛ましさが充満しているように感じられてならないのです。

 なお、第3次中東戦争と切手・郵便に関しては、以前、『中東の誕生』という本でまとめてみたことがあります。よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。
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 東ドイツ最初の切手
2007-06-09 Sat 02:44
 ドイツのハイリゲンダムで開かれていたサミット(先進国首脳会議)は、昨日(8日)無事に終了しました。今回のサミットは、開催地が旧東独(ドイツ民主共和国)地域であるばかりか、議長のメルケル首相も旧東独出身。ということで、久しぶりに旧東独のことを何となく意識させられた3日間でした。というわけで、今日はこの1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

東独最初の切手

 これは、1949年10月9日に発行された“万国郵便連合75周年”の記念切手です。ソ連占領下の東ドイツ地区では、それまでにも、西側地区とは別個の切手が発行・使用されていましたが、ドイツ民主共和国の正式発足後に新たに発行されたものとしては、この切手が最初の1枚となります。

 第2次大戦後、ドイツは米英仏ソの4国によって分割占領されましたが、その後、東西冷戦の進行に伴い、西側地区と東側地区の分断が進んで生きます。特に、1948年6月、西ベルリンを含む西側地区で通貨改革が実施されると、ソ連は対抗措置としてベルリン封鎖を断行。封鎖は1949年5月に解除されたものの、東西両陣営の対立は決定的となり、西側地区では、1949年5月23日のドイツ連邦共和国基本法施行を経て9月7日に第1回連邦議会が開催されてドイツ連邦共和国(西ドイツ)が発足。これに対抗して、東側地区では、同年10月7日、ドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立しました。

 今回の切手は、その2日後の10月9日の発行ですが、国名表示は、後の東ドイツ切手のようなDDRではなく、単にドイツ・ポストとなっています。おそらく、切手の制作作業が進められていた時点では、この切手の発行と東ドイツ国家の正式発足のどちらが先になるか、確定していなかったということなのでしょう。

 ちなみに、1949年の“万国郵便連合75周年”に際しては、加盟各国が記念切手を発行しており、結果として、デザイン・コンクールのようなかたちになっています。もちろん、わが国も記念切手を発行していますが(その一部はコレです)、さてさて、皆さんはどちらのデザインがお好みでしょうか。
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 オーストリアの海運
2007-06-08 Fri 07:08
 今日(6月8日)は、1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国が発足した日だそうです。というわけで、オーストリアがらみのマテリアルの中から、こんなものを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

オーストリア・ロイド社カバー

 これは、二重帝国発足から間もない1869年8月5日、地中海のクレタ島のカンディアからスミルナ宛に差し出された郵便物です。裏面(画像では見えるように開いています)には、“SPED. POST PRESSO LLOYD/ SMIRNE”の印も押されており、この郵便物が当時有数の海運会社、オーストリア・ロイド社によって運ばれたことがわかります。

 オーストリア・ロイド社は、南欧から東地中海にかけての海運を行なっていた会社で、1837年以降は、クレタ島のハニアにも代理店を開設してクレタ発着の郵便物を取り扱っていました。なお、同社はその後、1845年には同島のカンディア(イラクリオン)とレシムノンにも代理店を開設。これらの代理店は、1890年には世紀のオーストリア在外局として認証され、クレタ=ヨーロッパ諸国間の通信において圧倒的なシェアを占めることになります。ちなみに、この間の1865年、当時のクレタ島の主権者だったオスマン帝国もこの地域に郵便局を開設しているのですが、当然のことながら、そんなことはお構いなしです。

 なお、今回ご紹介のカバーでは、オーストリアのレバント(東地中海)用の10ソルディ切手が貼られていますが、当時のロイド社のカバーの中には、オーストリア領だったロンバルディア・ヴェネトの切手で料金を徴収している例もあります。

 オーストリア・ハンガリー二重帝国の成立は、1848年の革命以降、衰退傾向の著しかったオーストリアが、1859年のロンバルディアの喪失や1866年の普墺戦争の敗北などの危機的な状況に対処するためのもので、決して、華々しい出来事ではないのですが、それでも、その領土は(現在の)オーストリア・ハンガリー・ボヘミア・モラヴィア・シュレジエン・ガリチア・ロドメリア・スロヴァキア・ルテニア・トランシルヴァニア・バナート・クロアティア・クライン・キュステンラント・スラヴォニア・ブコヴィナ・ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・イストリア・ダルマティアにまたがる広大なもので、アドリア海東岸もその支配下にありました。ロイド社の活動も、こうしたオーストリアの海があればこそのものだったといってよいでしょう。(ただし、今回ご紹介のカバーに出てくるクレタ島やスミルナはオーストリア領土ではありません。念のため)

 現在のオーストリアは、第一次大戦の敗北によって領土の大半を失い、完全な内陸国に転落してしまいましたが、こういうオーストリアの海運業の一端を物語るマテリアルを見ると、往時の帝国の繁栄が偲ばれるような気がします。
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 ミッドウェイからの手紙
2007-06-07 Thu 01:25
 太平洋戦争のターニング・ポイントとなった1942年6月5~7日(アメリカ標準時では4~7日)のミッドウェイ海戦から、ちょうど65年になります。というわけで、今日はこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      ミッドウェイ海軍基地

 これは、太平洋戦争勃発後の1942年3月23日(ミッドウェイの海戦の2ヶ月半前ですな)、ミッドウェイのアメリカ海軍基地から差し出された郵便物です。消印には“U.S. NAVY”だけで地名は入っていませんが、カバー左上には差出人がしっかりとMidway Islandsと差出地名を書き込んでいます。

 ミッドウェイ島は、その名の通り、ハワイ諸島の北西、太平洋のほぼ真中にある島で、1859年7月、探検家のキャプテン・ブルックスによって発見されました。その後、1867年にアメリカが領有を宣言し、その際にミッドウェー島と命名されています。

 ハワイを併合する以前、アメリカはそれまで無人島だったミッドウェイ島に人間を住まわせ、太平洋の補給基地を作ろうとしましたが、結果的に失敗。1903年に太平洋横断ケーブル敷設工事のため、関係者が上陸したものの、その後も、アメリカ海軍の下、わずかな海兵隊員が駐留するだけに留まっていました。

 しかし、1935年にパンナムの飛行艇によるアメリカ=中国航路が開設されると、ミッドウェイ島は太平洋を横断する航空機の中継地として注目されるようになり、ハワイ防衛の拠点として軍事基地化が進められています。太平洋戦争中のミッドウェイ海戦も、そうしたアメリカの軍事的要衝を攻撃・占領することで、アメリカ海軍をおびき出して打撃を与えようとして、日本側が企画したものでした。

 第2次大戦後も、ミッドウェイ島にはアメリカ海軍の基地が置かれていましたが、冷戦終結後、島は自然保護区に指定され、1996年に基地は閉鎖されました。その後、一時は観光客も受け入れられていたのですが、現在ではそれも中止されています。

 さて、ミッドウェイ海戦は太平洋戦争の歴史を語る上で欠かせない出来事ですが、戦闘そのものはわずか3日間しか行われていませんから、それを切手や郵便物で表現しようとするのはかなり困難です。歴史的な重要性にもかかわらず、ブツがないという点では、5・15事件と並んで、昭和史のテーマティク・コレクションにとっての最大の泣き所の一つといえそうです。

 結局、僕自身も、昨年ワシントンの国際展に出品した作品では、ミッドウェイ海戦のリーフは、今回ご紹介のカバーを持ってきてなんとか誤魔化したというのが正直なところです。ただ、以前の拙著『切手と戦争』では、スペースの都合でこのカバーは図版として使えず、アメリカの第2次大戦シリーズの切手のみの掲載だったので、それよりは大分ましですが…。

 この辺りのマテリアルについては、友人の磯風さんがやっておられるブログ軍事郵便保存会・関西事務局員の日記に何か面白いモノが出てないかと思ってみてみたのですが、なんと、磯風さんのブログでは、今月下旬の拙著『香港歴史漫郵記』の刊行にあわせて早くも“香港祭り”をやってくださっていることが判明。今の時期に香港ネタを盛り上げてくださっている友情には感謝・感激なのですが、その一方で、磯風さんのブログにすごいものがズラズラっと並んでしまうと、僕の本は見劣りしてしまうなぁ、と少し心配になっている内藤でした。
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 香港の昭和通
2007-06-06 Wed 01:46
 太平洋戦争中、日本の香港総督を務めた磯谷廉介が1967年6月6日に亡くなってから、今日でちょうど40年。というわけで、香港における日本の占領行政の一端がうかがえるマテリアルとして、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

香港占領カバー

 これは、日本占領下の1942年6月3日、永安銀行が九龍の顧客宛に差し出したもので、当時の書状基本料金に相当する5銭分の切手が貼られ、香港局の消印が押されています。カバーの裏面には6月4日の九龍局の印が押されており、九龍までは配達されたものの、宛先に尋ねあたらなかったため、そのことを示す“住址不詳”印が押されたのち、“退回原寄局”との印が押されて差出人に返送されました。

 占領行政の開始に伴い、“敵性”とみなされた銀行は容赦なく接収され、清算されましたが、永安銀行は敵性銀行の指定を免れ、1942年2月24日に業務再開を認められました。

 業務の再開後、永安銀行は顧客に対して所在確認の郵便物を大量に差し出しています。これは、日英の戦闘に加え、日本の占領当局による疎散政策もあって、顧客の実態がつかめなくなっていたからと考えられます。

 もともと、香港では生産人口が少なく、住民の多くは、商業を含めて物資の流通に関わって生計を立てていました。しかし、日本軍の占領によって海外との交通は途絶し。香港は流通の拠点としての機能を喪失。日中戦争以来、大量の人口流入が続いていたこともあって(いわゆるホームレスも多く、正確な数字は算出できませんが、日本軍による占領時には“200万になんなんとした”という表現がさかんに用いられています)、占領地香港はその経済力に比して明らかに人口過剰となっていました。このため、総督部は「無為徒食の華人を管外に帰郷せしむる」として、少なくとも2年間で97万3000人の住民を香港から追い出しています。これが、いわゆる人口疎散政策です。

 このカバーの名宛人が元の住所に居住していなかった理由はわかりませんが、当時の状況から考えると、疎散政策のゆえに香港を離れた可能性が高いのではないかと僕は考えています。

 ところで、差出人の永安銀行の住所表示は“東昭和通”となっているが、これは、輔道(デボー・ロード)の日本占領下での名称です。

 日本の占領行政は、戦前のイギリス色を払拭したうえで、「彼らをして日本人となるべきことを要求せず、彼らが真の中国人として更生することを強く要求」し、“皇土・香港”を建設することを根本に掲げていました。その政策の一環として、香港神社・忠霊塔・仏舎利塔の三大建設が計画され(ただし、日本の敗戦により未完に終わった)、1942年4月20日、各地の地名は日本式に改められています。

 永安銀行の住所となっている東昭和通は香港島の心臓部、輔道中(デボー・ロード・セントラル)のことで、当時、ここには数多くの日本企業が進出していました。その主なものだけでも、横浜正金銀行、東京海上火災、服部洋行、朝日新聞、毎日新聞、東洋経済新報、松坂屋…といった具合です。また、総督部や南支那艦隊司令部もここに置かれていました。

 もっとも、日本の総督部は香港の主要な地名を日本的なものに改称したものの、実際に香港の住民たちの生活の中にはそうした新地名は浸透せず、会話などでは、彼らは占領以前の地名を従来どおり使い続けていました。やはり、いくら制度として強制しようとも、人々の意識までをも変えさせることはできないということなのでしょう。

 さて、今月下旬に大修館書店から刊行予定の『香港歴史漫郵記』では、このカバーをはじめ、切手や絵葉書、郵便物を使って、日本占領下の香港の諸相を描いてみました。刊行の暁には、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。
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 マーシャル・プラン60年
2007-06-05 Tue 00:39
 1947年6月5日にアメリカによるヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)が発表されて、今日でちょうど60周年になります。というわけで、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      マーシャル・プラン

 これは、1950年10月1日に西ベルリンで発行されたヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)に感謝するための記念切手で、ニューヨークはロックフェラーセンター インターナショナルビル前のアトラス像が描かれています。第2次大戦後、米英仏ソの4国によってドイツは分割占領されましたが、その結果、西ベルリン地区はソ連占領地区に浮かぶ陸の孤島のような格好となり、独自の切手が発行されることになりました。今回ご紹介の切手もその1種です。

 第2次大戦の終結時に圧倒的な経済力を誇っていたアメリカは、ヨーロッパにおける共産主義勢力の伸張を食い止めるため、ヨーロッパの敗戦国や、発展途上国に対して、無償、もしくは低金利で経済援助を行うことを計画。1947年6月5日に、当時の国務長官であったジョージ・マーシャルが、ハーヴァード大学の卒業式場に出席してその骨子を発表したことから、ヨーロッパ復興計画=マーシャル・プランと呼ばれるようになりました。

 当然のことながら、西側諸国はマーシャル・プランの受け入れを表明しましたが、東欧諸国の中でも、大戦で大きな被害を被ったポーランドとチェコスロバキアは同プランに関心を示し、特にチェコスロバキアにいたっては、一度はプランへの参加も表明しています。しかし、結局、米英による東欧諸国の切り崩しに反発するソ連の圧力に屈して、チェコスロバキアも参加を撤回。同年10月には、ワルシャワでコミンフォルムが結成され、ヨーロッパにおける東西冷戦の構図が確立していくことになります。
 
 第二次大戦から東西冷戦にいたるプロセスに関してはいろいろと面白いマテリアルがあるのですが、そのごくさわりについては、以前刊行した拙著『反米の世界史』でも簡単にまとめたことがあります。同書には今回ご紹介している切手は出てきませんが、機会があれば、是非ご一読いただけると幸いです。
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 天安門事件の落とし子
2007-06-04 Mon 01:04
 今日(6月4日)は、1989年に(第2次)天安門事件が起こった日です。というわけで、6月下旬に刊行予定の拙著『香港歴史漫郵記』のなかから、天安門事件がらみのちょっと毛色の変わったものとして、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ランタオリンク

 これは、香港返還直前の1997年5月18日、青馬大橋の開通を記念して発行された英領香港の小型シートです。

 返還を控えた香港では一党独裁の共産中国に吸収されることへの反発から“民主化”運動が盛り上がることになります。こうした状況の中で、天安門事件を契機に、香港内のみならず国際社会からも「イギリスは香港の住民を独裁政権の手に売り渡すのか」という批判が噴出。事件後、香港の景気が冷え込んでいたこともあって、香港政庁は新たな対応を迫られることになりました。

 このため、事件後の1989年10月、香港政庁は総額1270億香港ドルに達する総合的な社会資本整備計画(PADS)を発表します。その具体的な事業内容は、大嶼島沖での新空港の建設ならびに中心部から空港までアクセスのための道路・鉄道、地下鉄新路線、大規模コンテナターミナルなど。香港の将来に向けた投資計画を前面に押し出すことで、景気を回復させ、香港経済に対する信任を回復しようとしたものでした。

 しかし、中国側はPADSに対して、資金の負担が大きすぎ、返還後の香港の財政を悪化させると反発。事前に香港政庁からの説明がなかったことへの感情的な反発もあいまって、以後、この問題は財源問題で大きくもめることになります。結局、英中間の最終的な合意は1994年11月に成立するのですが、それまでの間、PADS問題はくすぶり続けることになります。

 ところで、PADSの目玉の大嶼島沖の新国際空港でしたが、結局、空港の開港は1997年7月の香港返還に間に合わず、翌1998年7月6日にまでずれ込んでしまいました。このため、今回ご紹介している大嶼島へ渡る青馬大橋の開通が、結果として、返還以前のPADSの最大の成果となっています。

 さて、今月下旬に大修館書店から刊行予定の『香港歴史漫郵記』では、今回ご紹介の切手以外にも、返還直前の英中間の微妙な関係を表す切手をいろいろと取り上げています。今回の拙著は、切手を使った歴史紀行のスタイルを取りながら、返還から10周年という節目を機に、“英領香港”とはなんだったのか、さまざまな角度から眺めることができるように努力したつもりです。刊行の暁には、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。
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 “徳育”っていわれてもねぇ
2007-06-03 Sun 00:47
 週末の金曜日(1日)、政府の教育再生会議(野依良治座長)が、土曜授業の復活と“徳育”の新設に向け、学習指導要領の改定などを今年度中に行うよう提言したことが話題となっています。まぁ、“徳育”ってのは、要するに戦前の“修身”みたいなもんなんでしょう。で、“修身”といえば「やっぱりこの人かな」ということで、今日はこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

二宮貯金台紙

 これは、1941年7月1日に発行された10銭切手つきの郵便貯金台紙で、切手部分には“勤倹貯蓄”の象徴として薪を背負った二宮金次郎が描かれています。

 戦前の日本では、切手を特定の台紙に貼って差し出せば、郵便貯金として扱ってもらえるという制度がありました。この制度は明治時代の1900年3月にスタートしたものの、大正時代に関東大震災のあおりで廃止されてしまいます。しかし、その後、太平洋戦争開戦直前の1941年2月の貯金法改正で、事務手続きの簡素化をはかるため、50銭以下の少額貯金の預入ができなくなったため、その代替措置として切手による貯金制度が復活しました。

 これに伴い、1941年7月に登場したのが、今回の貯金台紙というわけで、残りのスペースに10銭切手4枚を貼って郵便局に持っていけば、50銭の貯金として預かったもらえるという仕組みになっています。なお、二宮金次郎の10銭切手の部分は切り取って郵便にも使えましたが、実際に、この切手を郵便に使った例は収集家が意図的に作ったモノ以外にはほとんどありません。もちろん、郵便局に預け入れてしまうという性格上、台紙に切手を貼って貯金として使った使用済も入手は困難です。

 まぁ、僕が自分の昭和史のコレクションで貯金台紙を使う場合には、切手を貼るスペースの「貯金で身が伸び国が伸び」といった類の標語を見せたいので、入手のしやすい未使用で十分なわけで、「なにも稀少な使用例を大枚はたいて買うこともないや」というのが正直な気分です。(半分は負け惜しみですが)

 それはともかく、“修身”の教科書では、当然のことながら、二宮金次郎は立派な人格者として取り上げられているのですが、この切手を見ていて、僕は、芥川龍之介が「二宮尊徳」と題して次のような文章を書いていたのを思い出しました。

 わたしは小学校の読本の中に二宮尊徳の少年時代の大書してあったのを覚えている。貧家に人となった尊徳は昼は農作の手伝いをしたり、夜は草鞋を造ったり、大人のように働きながら、健気にも独学をつづけて行ったらしい。これはあらゆる立志譚のように――と云うのはあらゆる通俗小説のように、感激を与え易い物語である。実際又十五歳に足らぬわたしは尊徳の意気に感激すると同時に、尊徳ほど貧家に生まれなかったことを不仕合せの一つにさえ考えていた。……

 けれどもこの立志譚は尊徳に名誉を与える代りに、当然尊徳の両親には不名誉を与える物語である。彼等は尊徳の教育に寸毫の便宜をも与えなかった。いや、寧ろ与えたものは障碍ばかりだった位である。これは両親たる責任上、明らかに恥辱と云わなければならぬ。しかし我々の両親や教師は無邪気にもこの事実を忘れている。尊徳の両親は酒飲みでも或は又博奕打ちでも好い。問題は唯尊徳である。どう云う艱難辛苦をしても独学を廃さなかった尊徳である。我我少年は尊徳のように勇猛の志を養わなければならぬ。

 わたしは彼等の利己主義に驚嘆に近いものを感じている。成程彼等には尊徳のように下男をも兼ねる少年は都合の好い息子に違いない。のみならず後年声誉を博し、大いに父母の名を顕わしたりするのは好都合の上にも好都合である。しかし十五歳に足らぬわたしは尊徳の意気に感激すると同時に、尊徳ほど貧家に生まれなかったことを不仕合せの一つにさえ考えていた。丁度鎖に繋がれた奴隷のもっと太い鎖を欲しがるように。
 (引用終わり)

 まぁ、決して道徳的に立派な生活を送っているわけではない僕なんかは、そのうち、学校で“徳育”を習ってきた子供たちに散々馬鹿にされるようになるんでしょうねぇ。現在でさえも、僕ら“バブル世代”は世の中を甘く見ているって、就職氷河期を潜り抜けてきた30代前半の人たちから叱られてばかりいるのんですから…。もっとも、ろくでなしの父親から生れたからこそ、僕の娘がまっとうに育つというのであれば、僕としては、十分に慶賀すべきことなのですがね。
別窓 | 日本:昭和・1926-45 | コメント:2 | トラックバック:0 | top↑
 19万アクセス
2007-06-02 Sat 01:48
 昨日(1日)の夜、カウンターが19万アクセスを越えました。いつも遊びに来ていただいている皆様には、この場を借りて、あらためてお礼申し上げます。

 というわけで、今日は19万アクセスにちなんで、こんな“19”がらみのモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      つり舟・コイル切手

 これは、1991年にアメリカで発行された19セントのコイル切手(主として自販機で販売するため、ロール状になっている切手)で係留されている釣り船が描かれています。

 この切手については、1991年に発行されたタイプ1と1993年に登場したタイプ2があります。タイプ1はタイプ2に比べてドットが粗く、額面数字の1の縦の部分が、タイプ1ではギザギザが目立つのに対して、タイプ2では直線に近くなっているので、区別は可能です。

 アメリカの釣というと、僕なんかはヘミングウェイと彼が愛したキーウェストの海釣りを思い出してしまうのですが、切手のデザインを見ていると、水草なんかもあってボートが係留されているのは川岸ないしは湖畔のようです。ということは、このボートに乗っていく釣り人たちの獲物はマスなのかもしれません。

 まぁ、僕自身は釣りそのものにはあまり関心はないのですが(それよりも、食べるほうが好きです)、本格的な暑さがやってくる前に、一日のんびり、こんな感じのボートの上で横になって過すのも悪くないなぁ、とふと思ってしまいました。
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 おかげさまで2周年
2007-06-01 Fri 01:03
 おかげさまで、本日6月1日をもって、ブログの開設から2周年を迎えることができました。日頃、このブログを応援していただいている皆様には、あらためて、この場をお借りしてお礼申し上げます。

 というわけで、“2周年”がらみのマテリアルとして、こんなモノを引っ張り出してきました。(画像はクリックで拡大されます)

蒙疆・開戦2周年カバー

 これは、1944年1月3日、日本軍占領下の蒙疆(内蒙古)・武川から北京宛の配達証明便で、一番左側には蒙疆政権(現地の親日派政権)が発行した“大東亜戦争2周年記念”の4分切手が貼られています。

 “大東亜戦争2周年”の記念切手は、日本の内閣印刷局が製造したもので、鉱山労働者の姿が描かれています。これは、「鉱山資源の豊かな蒙疆地域は鉱業の増産によって日本の戦争に協力しよう」というプロパガンダを表現したものと考えることができます。

 蒙疆政権の切手に関しては、吉田一郎の日本精版印刷株式会社が幻に終わった普通切手の試作品と1943年4月の蒙古電信事業5周年の切手を制作し、高い評価を得ています。

 しかし、蒙疆政権の交通総局郵政科の横井正は、図に乗って、1943年7月14日、吉田に対して、「蒙疆政権では同年末に“大東亜戦争2周年”の記念切手を発行する計画があるので、そのために参考となる図案を作成してほしい」との依頼状を一方的に送りつけています。しかも、横井は「紀念切手の發行は別に決定した譯ではありませんから、貴男様の方より圖案を送って戴いても別に圖案の料金等は支払ひ出来ない譯で、・・・(中略)・・・右の点、豫め御含み置き願ひます」と主張。蒙疆政権としては、日本精版のノウハウにただ乗りしたいから協力せよという、虫の良い要求を突きつけています。横井の厚顔ぶりはこれに留まらず、吉田が依頼を受けるものと勝手に決め付けて話を展開し、図案についてもさまざまな指示を出す始末で、これをきっかけに、吉田と蒙疆政権の関係は切れてしまいました。

 そこで、日本精版から袖にされた蒙疆政権があわてて記念切手の製造を日本の印刷局に依頼し、なんとか出来上がったのが今回ご紹介している切手というわけです。

 蒙疆地域の記念切手に関しては、なかなか気の利いたカバーがなくって苦労させられるのですが、このカバーは、配達証明というひねった使用例の上、張家口や大同とは違って地方のマイナーな局の消印が押されているので個人的にはお気に入りの1枚です。このブログの“2周年”記念として持ってきても罰は当らないマテリアルと思うのですが、さてさて、いかがなものでしょうか。

 なお、吉田一郎と蒙疆政権の切手については、拙著『外国切手に描かれた日本』の中で詳しく説明していますので、もしよろしかったら、そちらの方もご一読いただけると幸いです。
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