2024-11-15 Fri 06:33
ブラジルの首都、ブラジリアで、現地時間13日午後7時30分(日本時間14日午前7時30分)ごろ、男が連邦議会議事堂・最高裁判所・大統領府に面した三権広場の議事堂駐車場(事件当時、下院本会議が開かれていました)に停めていた車を爆破し、その数秒後、裁判所への侵入を試みた際に2回目の爆発を起こして自爆するテロ事件が発生しました。裁判官や職員は避難し、けが人はいませんでしたが、現在、三権広場は封鎖されています。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1978年9月18日にブラジルが発行した“連邦最高裁判所150年”の記念切手で、今回の事件があった最高裁庁舎のイメージと庁舎前に置かれた正義の女神像を組み合わせたデザインになっています。 ちなみに、2017年にブラジリアで開催された世界切手展<Brasilia 2017>に参加した際、実際に三権広場を訪れて最高裁庁舎と正義の女神像の写真を撮ってきましたので、その画像を下に貼っておきます。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 11月15日(金) 10:00~ ニッポンジャーナル インターネット番組「ニッポンジャーナル」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。皆様、よろしくお願いします。 11月22日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 11月23日(土・祝) 15:00~ 「米大統領選後の世界」 東京・永田町の星陵会館にて開催の救国シンクタンク第8回フォーラム「米大統領選後の世界」に、内藤も登壇します。お申込みなどの詳細はこちらをご覧ください。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 謀略の世界史 原則毎月第1土曜日 13:00~14:30 MI6、CIA、モサドなど各国の情報機関のあらましや、現代史の中で彼らが実際に関与した事件などを幅広くご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 大河企画の「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」、引き続き開講中です。詳細はこちらをご覧ください。 「龍の文化史」、絶賛配信中です。龍/ドラゴンにまつわる神話や伝説は世界各地でみられますが、想像上の動物であるがゆえに、それぞれの物語には地域や時代の特性が色濃く反映されています。世界の龍について興味深いエピソードなどを切手の画像とともにご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『切手もの知り図鑑 一番切手50のエピソード』 好評発売中!★ 「動物と植物」「科学技術」「社会と文化」「神話/伝説と宗教」の4章立てで、犬、猫、宇宙開発、飛行機、クリスマスといったテーマで、初めて描かれた切手図案にまつわる秘話、思いがけない発行に至る背景に加え、シーラカンスやテレビ、警察官、タトゥー、髑髏といった、あっと驚く意外なテーマの一番切手も登場します! * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2023-02-17 Fri 10:49
ことし(2023年)の“リオのカーニヴァル”が、現地時間の17日夜(日本時間28日午前)から始まります。というわけで、カーニヴァル関連の切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1988年2月9日、1983年7-8月にリオデジャネイロで開催された世界切手展<Brasiliana 83>のプロモーションとしてブラジルが発行した切手で、リオの象徴としてカーニヴァルの先導役の女性が取り上げられています。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 また、リオとカーニヴァル、サンバの関係については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 2023年2月24日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 よみうりカルチャー 北千住 エリザベス女王の現代史 原則毎月第4土曜日 13:00~14:30 エリザベス女王の描かれた切手を手掛かりに、現代史を読み解く講座です。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」と「日本郵便150年の歴史」の2種類の講座をやっています。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『なぜレジ袋は「有料化」されたのか』 好評発売中! ★ 関係省庁、政治家、業界団体等が国民が知らないところで粛々と作り続けているさまざまな規制。「レジ袋の有料化」という規制ができるまでの政治的・行政的プロセスを詳細に分析し、規制の新設防止、そして規制廃止を訴える。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2022-09-07 Wed 05:23
1822年9月7日にポルトガル王太子だったドン・ペドロがブラジルの独立宣言とされる“イピランガの叫び”を発してから、ちょうど200年になりました。というわけで、ブラジル切手の中から、拙著『本当は恐ろしい!こわい切手』でご紹介したこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1974年2月28日にブラジルが発行した民話シリーズの1枚で、ズンビが描かれています。ズンビは黒人奴隷抵抗のリーダーとして実在した人物ですが、民話の世界では、しばしば、ヴォドゥン(ヴードゥー)の神“オグン”ないしはその霊力を受け継ぐ者として語られています。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 また、ブラジルとその歴史については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 9月9日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」と「日本郵便150年の歴史」の2種類の講座をやっています。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『本当は恐ろしい! こわい切手』 好評発売中!★ 怨霊、ゾンビ、鬼、そして人間の闇 … 古今東西の奇妙な切手を集めた一冊。 それぞれの切手には、いずれも世に出るだけの理由が必ずある。 その理由を求めて、描かれた題材の歴史的・文化的・社会的背景を探っていくと、そこからさまざまなドラマが浮かび上がってくる。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-11 Wed 10:54
ブラジルの首都、ブラジリアの三権広場で、きのう(10日)、ジャジャイール・メシアス・ボウソナロ(ボルソナロ、ボルソナーロとも)大統領とバルテル・ブラガ・ネット国防相の立会いのもと、海軍の戦車などによる軍事パレードが行われました。ブラジルでは、2022年の選挙での“印刷付き電子投票(ヴォト・インプレッソ)”をめぐり、導入を主張する大統領と議会の対立が続いており、この日は下院での全体投票が行われる予定だったため、反対派は大統領による民主主義に対する威嚇行為と批判しています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1967年12月16日にブラジルが発行した“予備役の日”の切手で、愛国詩人のオラーヴォ・ビラックの肖像と陸海空の三軍を象徴する戦闘機、戦車、軍艦が描かれています。 ビラックは、1865年12月16日、リオデジャネイロ生まれ。幼少期より神童の誉れ高く、15歳でリオデジャネイロの連邦大学医学部に進学しましたが、中退。その後、サンパウロ大学の法学部に転学しましたが、ここも中退して作家・ジャーナリストとしての活動を開始し、1884年に発表したソネット「ネロの昼寝」が、当時のブラジルを代表する劇作家のアルトゥール・アゼヴェードから激賞され、注目を集めました。ジャーナリスト、翻訳家としても幅広く活動しましたが、没後の1919年(ビラックは1918年12月28日没)に刊行されたソネット集『午後』は、ポルトガル語圏では、カモンイス(カモンエス)、ボカージェ、ケンタールの三代詩人に匹敵する名編とされています。 また、社会的・政治的な活動としては、識字率向上にも尽力したほか、愛国者としても知られ、欧州で第一次大戦が勃発すると、ブラジルが中立を保っていた1916年の時点で、ドイツとの戦争に備えて、予備役を積極的に活用し、徴兵制を拡充する運動を主導しました。ちなみに、1917年4月、ブラジル商船がドイツの潜水艦に撃沈されたのをきっかけに、ブラジルは親米英外交に基づいて同年中にドイツ帝国に宣戦布告しますが、ビラックらの活動はその先導役になったともいえましょう。ブラジルで彼の誕生日の12月16日に合わせて“予備役の日”が設定されたのも、こうした事情によるものです。 さて、ブラジルのボウソナーロ大統領に関しては、そのマチズモ全開の政治姿勢や、新型コロナ対策に消極的な施策などから毀誉褒貶が激しく、来年(2022年)に予定されている大統領選挙で再選されるかどうかは微妙な状況です。こうした中で、かねて「現行の電子投票制度には不正がある」と主張し続けてきた大統領は、ヴォト・インプレッソの導入を強引に進めようとしただけでなく、ヴォト・インプレッソが導入されなければ来年の選挙は実施しない(=自分が大統領職に居座る)と公言し、これを「憲法違反」として批判する野党勢力などと対立していました。 こうした中で、ヴォト・インプレッソ導入の理由が“不正投票”であると大統領が主張してきたことから、最高裁は大統領に「不正の証拠を提出するように」と命令。これを受け、7月29日、大統領は自らのライブ配信で彼が証拠と思う内容を示したものの、それらは“樹木に針灸を施す占星術師”アレクサンドレ・シュートの発言など、すでにフェイクニュースとして否定されたものばかりでした。 このため、8月2日、選挙高裁は大統領に対し、①自分のライブ配信を国営放送のTVブラジルで放送するなど、公的報道機関を私的利用したなどの選挙法違反、②「現行電子投票には不正がある」というニセ言説を執拗に繰り返した罪(刑法犯)の容疑で犯罪捜査の開始を宣言。これに対して、大統領は、6日、サンタカタリーナ州シャペコ市で支持者を前に、最高裁のルイス・ロベルト・バローゾ判事(選挙高裁長官兼任)を「filho da p…(”娼婦の子”を意味する最低の侮蔑語)」と罵倒し、非難を浴びていました。 こうした状況の下、9日午後、突如、翌日(10日)にブラジリアでの軍事パレードの計画が発表されます。 ブラジルでは、例年もこの時期にゴイアス州のフォルモーザ・教育センター(CIF)で海軍のパレードが行われていますが、リオ州から来た戦車がブラジリアを通過するのは前例がありません。さらに、今回の行進には陸軍や空軍の兵士が参加し、最高裁前に戦車を停止させることなどが事前に報じられていたため、連邦議員らは、ヴォト・インプレッソに関する憲法補足法案(PEC)の投票に対する威嚇行為として反発し、パレードの中止を求めて最高裁に提訴しました。 しかし、最高裁の担当判事、ジアス・トフォリはこれを却下し、10日の午前8時頃から、戦車1台を含む14台の車両が、記念大通り(エイショ・モヌメンタル)のL4北地点から出発し、三権広場に向けての軍事パレードが実施され、行進を妨げようとした市民が逮捕されるなどの混乱が生じました。 なお、この行事には、ボウソナーロ大統領本人のほか、ヴォト・インプレッソの承認をリラ下院議長に迫ったとされるブラガ・ネット国防相が参加。沿道には大統領の支持者たちが集まり、“軍事介入による独裁政権”の実現を求める一方、連邦議事堂の前では、「民主主義を守れ!」、「軍政には戻らない」と抗議する人々が集まり、メディアも批判的に報じています。 なお、1985年の民主化以前のブラジルの軍事政権時代については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもいろいろ説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です! 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 8月16日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-03-25 Wed 03:02
きょう(25日)は“奴隷及び大西洋間奴隷貿易犠牲者追悼国際デー”です。というわけで、大西洋を渡ってアフリカから米州に連れて行かれた奴隷に関する切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1970年にブラジルが発行した「ジャン=バティスト・デブレの水彩画」の切手のうち、「奴隷たち」を取り上げた1枚です。 デブレは、1768年、パリ生まれ。パリのエコール・デ・ボザールでジャック=ルイ・ダヴィッドに学び、フランス第一帝政の時代の1798年のサロン・ド・パリで画家としてデビューしました。 1815年にナポレオンが失脚すると、リオデジャネイロに遷移していたポルトガル王室の資金援助を受けたフランス美術ミッションの一員としてブラジルに渡り、1816年3月25日にリオに到着。1822年のブラジル独立後は皇帝ペドロ1世の寵愛を受け、宮廷画家となったほか、1822年にブラジル帝立美術アカデミーの教授に就任。1831年に帰国するまで、奴隷制度を中心に、ブラジルの住民の風習や社会的関係を描き、帰国後の1834-39年に3巻本の版画集、『ブラジルの美観、歴史的旅行記またはフランス画家のブラジル滞在記』を発表しました。 ちなみに、ブラジルでは1822年の独立後も奴隷制が維持されていましたが、デブレが帰国した1831年に即位したドン・ペドロ2世はこれを徐々に廃止の方向へと導き、1850年には奴隷貿易を禁止。ついで、1871年9月28日に新生児解放令が発せられ、同法の施行以降に生まれた子供は、親が奴隷であっても、自由人の身分が保障されることになりました。 その後も、奴隷の労働力に依存したプランテーション地主は奴隷制度の反対に強硬に反対しましたが、1888年5月13日(切手右側の日付)の黄金法をもって奴隷制は完全に廃止されます。ただし、地主層には奴隷制廃止などのリベラルな政策への反発が強く、1889年に軍事クーデターが発生して、帝政は廃止されて共和制が宣言され、皇帝一家はフランスに亡命を余儀なくされました。 なお、解放された奴隷たちは、職を求めてリオとその周辺に集まってきましたが、それに伴い、彼らによってアフリカ起源の音楽とダンスもリオに持ち込まれます。当初、彼らが主に演奏していたのは、バトゥカーダ(打楽器のみの構成による2拍子の音楽)、ショーロ(管楽器と弦楽器のバンドリン+、カヴァキーニョ、ギター、打楽器のパンデイロを基本構成とし、即興演奏を重視した三部形式の音楽)、ルンドゥー(アフリカ系の軽快な舞踏音楽)などで、ここに、ヨーロッパの舞曲であるポルカやマズルカ要素が入り込み、舞踏音楽としてのサンバが生まれることになりました。 このあたりの事情については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 3月27日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ イベント・講座等のご案内 ★★ 今後の各種イベント・講座等のご案内です。詳細については、イベント名・講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 3/31、4/7、5/5、6/2、7/7、8/4、9/1(1回のみのお試し受講も可) ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-02-21 Fri 02:22
ことし(2020年)の“リオのカーニヴァル”が、現地時間の21日夜(日本時間22日午前)から始まります。というわけで、例年同様、カーニヴァル関連の切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1970年のリオのカーニヴァルの事前プロモーションとして、1969年12月29日に発行された“リオのカーニヴァル”の切手です。 西方キリスト教会では、四旬節(復活祭の46日=日曜日を除く40日前)から復活祭(イースター)前日までの期間は、イエス・キリストの受難を思って肉や卵などの食事制限を行うことから、その直前に肉に別れを告げる祭りが行われます。これが“謝肉祭”で、いわゆるカーニヴァルというカタカナの言葉は“carne vale(肉よさらば)”という表現に由来するものです。 この断食の前の祝祭に、キリスト教伝来以前からのゲルマン人の春の到来を祝う祭りが融合し、街中を練り歩いたり、どんちゃん騒ぎをしたりする習慣になったと考えられています。 この種の行事は、ポルトガル人入植者によってリオにももたらされましたが、リオのカーニヴァルの起源をどこに求めるかについては諸説があります。 たとえば、1565年のリオデジャネイロ市の建設を記念して、1567年に人々が街を練り歩いたという記録が残されており、カーニヴァルの中心をパレードに求めるのなら、これが最古の例ともいえます。また、17世紀以降、遅くとも1723年までに、アゾレス諸島、マデイラ諸島、カーボ・ヴェルデからのポルトガル人移民が春祭りの“エントルード”を持ち込んだことをもって、リオのカーニヴァルの起源とされることも多いようです。 エントルードでは、人々は仮面をつけ、通りで水や泥、柑橘類を投げ合いますが、じっさい、19世紀前半までのブラジルの街頭でのカーニヴァルは、“灰色の水曜日(カーニヴァル後の水曜日、すなわち、この日から四旬節が始まる日)”までの3日間、かつらや仮面をつけて、液体を掛け合ったり、小麦粉やタピオカ粉を投げつけあったりするのが、庶民の間では一般的でした。 一方、春祭りの時期のパレードとしては、1786年、前年(1785年)のポルトガル王ドン・ジョアン6世の結婚を祝って山車が作られたほか、1808年にポルトガル王家がナポレオン戦争の戦禍を逃れてブラジルに遷移してきた際に、ブラジル在住のポルトガル人たちが仮面をかぶり、派手な衣装をつけ音楽を鳴らして町中を練り歩き歓迎したことが、記録に残されています。 こうした経緯を経て、1840年代になると、地元新聞社が主導して、かつてのローマやヴェネツィアに倣って、街の中で仮装し、コンフェッテ(紙吹雪)をかけあう“カーニヴァル・パレード”の復活キャンペーンが始まりましたが、この時点では、カーニヴァルの音楽はゆっくりとしたマーチの“マルシャ”が主流でした。 ちなみに、音楽としてのサンバは、公式には、1916年12月16日に楽曲として登録された「電話で(Pelo Telephone)」(ギタリストのドゥンガとジャーナリストのマウロ・ヂ・アルメイダの作品)が最初の1曲とされています。「電話で」は、翌1917年の大ヒット曲となり、当時の舞踏音楽の最高の名誉として、翌1918年のカーニヴァルのテーマ曲の一つとなりますが、これが、サンバとカーニヴァルの最初の接点となりました。 ところで、20世紀初頭、サンバとカーニヴァルが結び付く以前のリオでは、カーニヴァルの音楽はマルシャが中心で、パレードには公式には中流以上の白人しか参加が認められておらず、黒人や貧しい地域の人々は、自分たちで独自のグループを作り、カーニヴァルに勝手に参加していました。 この小さなグループは“ブロコ”と呼ばれていますが、そうしたブロコが合併して規模を拡大していき、1928年以降、“エスコーラ・ヂ・サンバ”と呼ばれる巨大組織が生まれていくことになります。 エスコーラというのは、本来、“学校”の意味ですが、この場合は、1928年にイズマエル・シルヴァらが組織した最初の団体の近くに学校があったため、冗談で“エスコーラ・ジ・サンバ・デイシャ・ファラール(Escola de Samba Deixa Falar=「言わせておけ」サンバ学校)”と名乗ったことに由来するもので、サンバの技能訓練施設という意味ではありません。 さらに、1930年からは、カーニヴァルのパレードにコンテスト制度が導入され、5つのエスコーラが参加。これが好評だったため、1932年からはリオの大手スポーツ紙「ムンド・スポルチーヴォ」が、翌1933年からは大手紙の「ウ・グローボ」が、それぞれコンテストのスポンサーとなったことで、メディアを通じて、“リオのカーニヴァル”の注目度もあがり、優れた演出、楽曲が次々に誕生。世界的なビッグ・イヴェントへと成長していく端緒となりました。 なお、リオとカーニヴァル、サンバの関係については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 2月21日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ イベント・講座等のご案内 ★★ 今後の各種イベント・講座等のご案内です。詳細については、イベント名・講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 3/3(1回のみのお試し受講も可) ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-03-03 Sun 01:33
ことし(2019年)のリオデジャネイロ(以下、リオ)のカーニヴァルのメインパレードが、現地時間の1日夜(日本時間2日午前)、はじまりました。というわけで、例年同様、カーニヴァル関連の切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1983年2月9日、同年7-8月、リオで開催された国際切手展<BRASILIANA 83>のプロモーションとして、開催国のブラジルが開催地リオの象徴として発行したカーニヴァルの切手です。 西方キリスト教会では、四旬節(復活祭の46日=日曜日を除く40日前)から復活祭(イースター)前日までの期間は、イエス・キリストの受難を思って肉や卵などの食事制限を行うことから、その直前に肉に別れを告げる祭りが行われます。これが“謝肉祭”で、いわゆるカーニヴァルというカタカナの言葉は“carne vale(肉よさらば)”という表現に由来するものです。 この断食の前の祝祭に、キリスト教伝来以前からのゲルマン人の春の到来を祝う祭りが融合し、街中を練り歩いたり、どんちゃん騒ぎをしたりする習慣になったと考えられています。 この種の行事は、ポルトガル人入植者によってリオにももたらされましたが、リオのカーニヴァルの起源をどこに求めるかについては諸説があります。 たとえば、1565年のリオデジャネイロ市の建設を記念して、1567年に人々が街を練り歩いたという記録が残されており、カーニヴァルの中心をパレードに求めるのなら、これが最古の例ともいえます。また、17世紀以降、遅くとも1723年までに、アゾレス諸島、マデイラ諸島、カーボ・ヴェルデからのポルトガル人移民が春祭りの“エントルード”を持ち込んだことをもって、リオのカーニヴァルの起源とされることも多いようです。 エントルードというのはポルトガルの春祭りのことで、人々は仮面をつけ、通りで水や泥、柑橘類を投げ合うもので、じっさい、19世紀前半までのブラジルの街頭でのカーニヴァルは、“灰色の水曜日(カーニヴァル後の水曜日、すなわち、この日から四旬節が始まる日)”までの3日間、かつらや仮面をつけて、液体を掛け合ったり、小麦粉やタピオカ粉を投げつけあったりするのが、庶民の間では一般的なスタイルでした。 一方、春祭りの時期のパレードとしては、1786年、前年(1785年)のポルトガル王ドン・ジョアン6世の結婚を祝って山車が作られたほか、1808年にポルトガル王家がナポレオン戦争の戦禍を逃れてブラジルに遷移してきた際に、ブラジル在住のポルトガル人たちが仮面をかぶり、派手な衣装をつけ音楽を鳴らして町中を練り歩き歓迎したことが、記録に残されています。 こうした経緯を経て、1840年代になると、地元新聞社が主導して、かつてのローマやヴェネツィアに倣って、街の中で仮装をつけ、コンフェッテ(紙吹雪)をかけあう“カーニバル・パレード”の復活キャンペーンが始まりましたが、この時点では、カーニヴァルの音楽はゆっくりとしたマーチの“マルシャ”が主流です。ちなみに、音楽としてのサンバは、公式には、1916年12月16日に楽曲として登録された「電話で(Pelo Telephone)」(ギタリストのドゥンガとジャーナリストのマウロ・ヂ・アルメイダの作品)が最初の1曲とされています。「電話で」は、翌1917年の大ヒット曲となり、当時の舞踏音楽の最高の名誉として、翌1918年のカーニヴァルのテーマ曲の一つとなりますが、これが、サンバとカーニヴァルの最初の接点となりました。 ところで、20世紀初頭、サンバとカーニヴァルが結び付く以前のリオでは、カーニヴァルの音楽はマルシャが中心で、パレードには公式には中流以上の白人しか参加が認められておらず、黒人や貧しい地域の人々は、自分たちで独自のグループを作り、カーニヴァルに勝手に参加していました。 この小さなグループは“ブロコ”と呼ばれていますが、そうしたブロコが合併して規模を拡大していき、1928年以降、“エスコーラ・ヂ・サンバ”と呼ばれる巨大組織が生まれていくことになります。 エスコーラというのは、本来、“学校”の意味ですが、この場合は、1928年にイズマエル・シルヴァらが組織した最初の団体の近くに学校があったため、冗談で“エスコーラ・ジ・サンバ・デイシャ・ファラール(Escola de Samba Deixa Falar=「言わせておけ」サンバ学校)”と名乗ったことに由来するもので、サンバの技能訓練施設という意味ではありません。 さらに、1930年からは、カーニヴァルのパレードにコンテスト制度が導入され、5つのエスコーラが参加。これが好評だったため、1932年からはリオの大手スポーツ紙「ムンド・スポルチーヴォ」が、翌1933年からは大手紙の「ウ・グローボ」が、それぞれコンテストのスポンサーとなったことで、メディアを通じて、“リオのカーニヴァル”の注目度もあがり、優れた演出、楽曲が次々に誕生。世界的なビッグ・イヴェントへと成長していく端緒となりました。 なお、リオとカーニヴァル、サンバの関係については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ イベントのご案内 ★★★ 第10回テーマティク研究会切手展 3月1-3日(金ー日) 於・切手の博物館(東京・目白) テーマティク研究会は、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。今回は、僕じしんは作品を出品していませんが、最終日・3日の15:00より、国際切手展審査員の目から見た作品の解説・批評会を行います。入場は無料ですので、ぜひ、遊びに来てください。(詳細はこちらをご覧ください) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-10-29 Mon 10:44
ブラジルで、28日(現地時間)、ミシェル・テメル大統領の任期満了に伴う大統領選挙の決選投票が行われ、元軍人で右派のジャジャイール・メシアス・ボルソナーロ(ボウソナロ)下院議員が、元教育相で左派のフェルナンド・アダジ氏を破り、当選しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます。以下、敬称略)
これは、1985年3月8日にブラジルで発行された“パラシュート部隊40年”の記念切手です。ボルソナーロ新大統領は、パラシュート部隊の出身ということで、持ってきました。 ボルソナーロは、1955年3月21日、サンパウロ州グリセーリオで、イタリアとドイツに先祖をもつヨーロッパ系移民の家庭に生まれました。 陸軍士官学校を卒業後、1977年にアグーリャス・ネーグラス軍事学校に入学。1979-81年、マット・グロッソ・ド・スル州のニオケの第9野戦砲兵連隊に所属したのち、リオデジャネイロ州のパラシュート歩兵旅団に配属されました。今回ご紹介の切手が発行された1985年の時点でも、彼は現役のパラシュート部隊の隊員でした。 1986年9月3日、第8砲兵連隊パラシュートキャンペーンで主将を務めていたとき、雑誌『Veja』に「所得が低い」と題する論考を投稿。これが、陸軍倫理規則に違反するとして、15日間の禁固刑の判決を受けましたが、軍事工学研究所の役員らの支援を受け、リオデジャネイロのプライア・ヴェルメーリャの軍事複合施設の前でデモンストレーションを行ない、上級軍事裁判所では無罪宣告を勝ち取っています。 ところが、翌1987年10月27日、同じく『Veja』が、“袋小路作戦”をスクープ。同作戦は、レゼンデやリオデジャネイロ他の複数の軍兵舎のバスルームで低威力の爆弾を爆発させ、軍人の低賃金に対して抗議をするというもので、ボルソナーロ自身は計画への関与を否定していました。しかし、その後、彼自身がリオデジャネイロの自治体に水を供給するバイショ・グァンドゥのダクトに爆弾をおくことを計画していた資料が出てきたため、ボルソナーロは逮捕され、除隊処分となります。ただし、1988年に開かれた軍事最高裁の判決では、証拠不十分であるとして、ボルソナーロの除隊処分は撤回され、予備役(大尉)に編入。これを機に、同年、ボルソナーロは政治活動を開始し、1989年、キリスト教社会民主党からリオデジャネイロ市議に初当選を果たしました。 1990年の選挙では、キリスト教社会民主党から連邦議員になり、以後、保守系の政党をいくつか渡り歩いた後、2006年、キリスト教社会党に加入。今回の大統領選挙では、社会自由党の候補者となりました。 この間、1992年には、「問題解決を妨げる法律が多すぎる。例外状態では、上官がペンを取り、足枷となっている法律を取り消す線を引けばよい。国会を信用しているものは誰もいない。国会は一時的に閉鎖されるべきだ」として“例外状態”の復活と国会の一時的閉鎖を求めて、物議を醸しています。 その後も、1960年代の軍事独裁政権を称揚するなど、民族主義的で保守的な主張と、共産主義と左派に対する容赦のない批判で、一定の国民的な支持を得る一方、リベラル勢力からは蛇蝎のごとく忌避され、毀誉褒貶の激しい政治家として知られていました。彼の政治的な主張として紹介されているものの中には、軍縮規程の廃止、土地のない労働運動の侵入を防止するため地主に“銃を持つ権利”を与えること、強姦罪で有罪を宣告された受刑者たちに対する“自発的な化学去勢”の導入、LGBTの人々の権利を認める法律への反対、計画的犯罪の場合の即決裁判、麻薬密売・誘拐の場合の拷問の使用の擁護、などがあります。 また、2017年、リオデジャネイロでのイベントで、アフリカ系民族に対して人種差別的な発言をしたことについて、5万レアルの罰金を命じる判決を受けると、 「黒人は繁殖する役割ではない」と述べたほか、左派労働党のマリア・ド・ロザリオから強姦擁護派であると非難されると、ボルソナーロは「あなたはレイプに値しない。なぜなら、あなたは非常に醜い」からだと述べるなど、舌禍事件にも事欠きません。 ただし、小政党を渡り歩いてきたボルソナーロには、政治資金にまつわる汚職政治家のイメージが無く、このことは、4期続いた労働党政権での汚職・政治腐敗が問題となった今回の選挙では大いにアドバンテージとなりました。そうした背景の下、ボルソナーロは、治安改善策として刑法強化や銃規制緩和、軍の関与強化などを提唱。「汚職をする人々や犯罪者、その他ブラジルを破壊しようとする者は、私の政権下では安眠できない」と強調するとともに、中央省庁の半減や国営企業売却による財政健全化と減税などを公約として、既成の政治経済に閉塞感を覚える中間・富裕層や経済界の支持を集め、当選を果たしました。 過去の言動から、(良くも悪くも)“秩序の破壊者”というイメージが定着しているボルソナーロについては、“ブラジルのトランプ”と呼ばれることもありますが、今後、彼が本家・トランプ並みの実績を挙げてブラジルを立て直せるかどうか、『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者としても注目していきたいところです。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-09-04 Tue 01:58
ブラジル・リオデジャネイロの国立博物館で、現地時間2日夜(日本時間3日朝)、大規模な火災が発生。現在のところ死傷者の報告はありませんが、建物はほぼ全焼し、2000万点以上と言われた収蔵品もほぼ全て焼失しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、今回火災のあったブラジル国立博物館の150周年を記念して、1968年にブラジルで発行された切手で、ブラジルを含む中南米の熱帯雨林に生息する猛禽類、オウギワシが描かれています。 現在のブラジル国立博物館のルーツは、ポルトガル領時代の1818年6月6日、ポルトガル王ジョアン6世が、植民地の科学的研究の拠点とする目的で、リオデジャネイロ中心部のカンポ・デ・サンタナに設立した王立博物館です。当初は植物や動物の剥製が中心で、特に、鳥の剥製が有名だったことから“鳥の館”とも呼ばれました。今回ご紹介の切手にオウギワシ(の剥製)が取り上げられているのも、こうした事情を踏まえたものです。 王立博物館の設立に先立つ1817年、王太子ペドロ(後のブラジル皇帝ペドロ1世)は、神聖ローマ皇帝フランツ2世の皇女、マリア・レオポルディナ・デ・アウストリアと結婚。これを機に、オーストリアを筆頭に、多くのヨーロッパの博物学者がブラジルを探検に訪れるようになりまた。 さらに、1831年に即位したペドロ2世は、人類学、古生物学、考古学の各分野の資料を熱心に収集。皇帝みずからも旅先でエジプトの美術品や化石などを入手し、南米の自然史、人類学の資料の一大コレクションが形成されました。 1889年、軍部のクーデターにより、皇帝は廃位され、ブラジルは共和制に移行しましたが、ペドロ2世個人に対する国民の任期はその後も衰えることはなく、彼の旧皇居は博物館として改装され、1892年までに収蔵物を移して、国立博物館となりました。1946年以降は、ブラジル大学(現在のリオデジャネイロ連邦大学)の管理下になっています。 近年、国立博物館の建物は老朽化が進み、補修工事の必要性が指摘されてきたものの、2016年のリオデジャネイロ五輪以降は予算が削減され、工事は進んでいませんでした。現時点では、今回の火災と予算の削減との関係は明らかになっていませんが、ルイス・フェルナンド・ディアス・ドゥアルテ副館長は、ブラジル当局が博物館の維持管理に「無頓着」だったと非難し、「深い落胆と計り知れない怒り」を表明しています。 なお、リオデジャネイロ市内には、今回焼失した博物館以外にも、ポルトガル植民地時代の古い建造物が数多く残されています。それらについては、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-06-02 Fri 10:35
おかげさまで、2005年6月1日にこのブログをスタートさせてから、12年が過ぎました。日頃、このブログを応援していただいている皆様には、あらためて、お礼申し上げます。 というわけで、きょうは額面12のこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)(画像はクリックで拡大されます)
これは、1981年にブラジルが“コルコヴァードのキリスト像50周年”を記念して発行した12クルゼイロ切手です。 ブラジルの通貨は、もともとはレアル(複数形はレイスもしくはヘアイス)が使われていましたが、インフレの昂進により、1942年、1/1000のデノミにより新通貨クルゼイロが導入されました。さらに、1967年には1/1000のデノミにより新クルゼイロが導入されますが、1970年には新クルゼイロはクルゼイロに改称されます。その後、1986年には1/1000のデノミによりクルザードに、さらに1989年には1/1000のデノミにより新クルザードが導入されました。新クルザードは、1990年、クルゼイロに改称されましたが、1993年、1/1000のデノミによりクルゼイロ・レアルが導入され、翌1994年、1/2750のデノミにより現行のレアルが導入され、現在に至っています。 リオデジャネイロのコルコヴァードの丘にキリスト像を建立しようというプランは、帝政時代の1850年代半ば、愛徳姉妹会(貧しい人々のはしため、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会)のペドロ・マリア・ボス司祭が、皇女イザベラを称えるものとして提案したのが最初だといわれています。 当時、ブラジル皇室はカトリックを国教と定めていましたが、皇帝ドン・ペドロ2世は財政上の理由から、キリスト像の建設を許可せず、また、1889年の革命で誕生した共和国政府は、憲法で政教分離をうたっていたため、国家としてキリスト像を建立する道は閉ざされてしまいました。 このため、教会は独自に建設費用を調達することにしましたが、ようやく、ある程度の資金の目途がついたのは1921年のことでした。ちなみに、像の建設費用25万ドルは、現在の価値では、330万ドルに相当しています。 ときあたかも、翌1922年はブラジル独立100周年の記念すべき年だったため、キリスト像は独立100周年の記念事業として宣伝され、1923年に設立されたカトリック連盟が本格的に寄附金を募ることになりました。 建設場所としては、当初、ポン・ヂ・アスーカルも検討されましたが、最終的に、当時の大統領エピタシオ・ペッソアがコルコヴァードの丘の頂上に建立するゴー・サインを出しています。 設計を担当したブラジルの建築家、エイトール・ダ・シウヴァ・コスタは、当初、チリ=アルゼンチン国境の標高4000メートルの地点に立つキリスト像をモデルとすることも考えたようですが、最終的にキリスト自身を十字架に見立てたデザインを考案。夜明けの薄光の中でキリストを仰ぎ見ることで始まった一日が、沈みゆく夕日を背にしたキリストの姿で暮れていくことをイメージしながら、図面を引いたそうです。 ダ・シウヴァ・コスタの設計ができあがると、キリスト像の実際の制作では、ルーマニア出身のゲオルゲ・レオニダがキリストの顔を作り、カルロス・オズヴァウヂが最終的なデザインを監修して、ポーランド出身のポール・ランドウスキが造形を担当。フランスで作られた像は輪切りにして運ばれ、現地で、鉄筋コンクリートの基礎から上部に向かって順番に組み立てて、頭、両腕、両手を付け加え、最後に、表面にリオデジャネイロ州の北隣にあるミナス・ジェライス州産の石鹸石を表面に貼って仕上げられました。 1931年10月12日に完成したキリスト像は、高さは30メートル(台座を含めると38メートル)、両手を広げた長さが28メートル。その大きさは、奈良の大仏のおよそ2倍という堂々たる巨躯です。 完成式典は1931年10月4日から12日まで続き、カトリックの集会のみならず、無線電信の開発で知られるマルコーニがローマのオフィスから無線を利用して、キリスト像の照明に点灯するパフォーマンスも行われました。ちなみに、現在のように、キリスト像の夜間ライトアップが常態化するのは、翌1932年、ブラジルの大手日刊紙『オ・グローボ』が照明機材を寄贈してからのことです。 なお、コルコヴァードのキリスト像については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でも1章を設けて解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 * 昨日の放送は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は6月15日の予定です。ちょっと間が開いてしまいますが、引き続き、よろしくお願いいたします。 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-03-25 Sat 22:46
きょう(25日)は、2007年の国連総会で制定された“奴隷及び大西洋間奴隷貿易犠牲者追悼国際デー”です。というわけで、大西洋を渡ってアフリカから米州に連れて行かれた奴隷に関する切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1971年にブラジルで発行された“新生児解放令100周年”の記念切手で、ルチリオ・デ・アルブケルケの「黒い母」が取り上げられています。 ブラジルでは1822年の独立後も奴隷制が維持されていましたが、ドン・ペドロ2世はこれを徐々に廃止の方向へと導き、1888年の黄金法をもって奴隷制は完全に廃止されました。その過程で、1871年に新生児解放令が発せられ、同法の施行以降に生まれた子供は、親が奴隷であっても、自由人の身分が保障されることになりました。今回ご紹介の切手は、そこから起算して100周年になるのを記念して発行されたものです。 切手に取り上げられた「黒い母(Mãe Preta)」は、白人の下で働く黒人乳母のことで、腹を空かせた自分の子供を放置したまま、主人の子に授乳する乳母の姿が画題となっています。ちなみに、そうした“黒い母”は奴隷解放後も、白人の中上流家庭で数多く働いており、彼女たちの悲哀はブラジルの文化シーンでは定番のモチーフのひとつとなっています。有名なところでは、ポルトガルを代表するファドの女王、アマリア・ロドリゲスの出世作となった『暗い艀』の元ネタとなったブラジルの楽曲『黒い母』等が挙げられましょうか。 なお、切手に取り上げられた「黒い母」の作者、ルチリオ・デ・アルブケルケは1877年のバラス生まれですから、黄金法で奴隷制が完全に廃止されたときでも11歳。リオデジャネイロの国立美術アカデミーでエンリケ・ベルナルデリの指導を受けて、画家としてのキャリアをスタートさせたのは20世紀初頭のことでしたから(ちなみに、没年は1939年)、彼自身は奴隷制の時代とはほとんど無関係です。その意味では、この作品も、奴隷制の廃止後もブラジル社会に広く見られた“黒い母”を取り上げたものとみるのが自然でしょう。 ちなみに、リオデジャネイロの国立歴史博物館の展示の中には、新生児解放令の理念を表現したものとして、下の画像のようなブロンズ像が展示されていましたが、こちらもなかなかいい出来なので、記念切手の題材としては、こちらを選んだ方がよかったのではないかと、僕は個人的に思っています。 なお、リオデジャネイロの国立歴史博物館とその所蔵品については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもいろいろ取り上げておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。 ★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』 ★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2017-02-24 Fri 11:53
ことし(2017年)のリオデジャネイロ(以下、リオ)のカーニヴァルのメインパレードが、きょう(24日・現地時間)から27日まで行われます。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1967年11月22日、ブラジルで発行された“国際観光年”の切手で、“リオのカーニヴァル”が取り上げられています。(リオに限らず)カーニヴァルがブラジル切手の題材となったのは、これが最初でした。 西方キリスト教会では、四旬節(復活祭の46日=日曜日を除く40日前)から復活祭前日までの期間は、イエス・キリストの受難を思って肉や卵などの食事制限を行うことから、その直前に肉に別れを告げる祭りが行われます。これが“謝肉祭”で、いわゆるカーニヴァルというカタカナの言葉は“carne vale(肉よさらば)”という表現に由来するものです。 この断食の前の祝祭に、キリスト教伝来以前からのゲルマン人の春の到来を祝う祭りが融合し、街中を練り歩いたり、どんちゃん騒ぎをしたりする習慣になったと考えられています。 この種の行事は、ポルトガル人入植者によってリオにももたらされましたが、リオのカーニヴァルの起源をどこに求めるかについては諸説があります。 たとえば、1565年のリオデジャネイロ市の建設を記念して、1567年に人々が街を練り歩いたという記録が残されており、カーニヴァルの中心をパレードに求めるのなら、これが最古の例ともいえます。また、17世紀以降、遅くとも1723年までに、アゾレス諸島、マデイラ諸島、カーボ・ヴェルデからのポルトガル人移民が春祭りの“エントルード”を持ち込んだことをもって、リオのカーニヴァルの起源とされることも多いようです。 エントルードというのはポルトガルの春祭りのことで、人々は仮面をつけ、通りで水や泥、柑橘類を投げ合うもので、じっさい、19世紀前半までのブラジルの街頭でのカーニヴァルは、“灰色の水曜日(カーニヴェル後の水曜日、すなわち、この日から四旬節が始まる日)”までの3日間、かつらや仮面をつけて、液体を掛け合ったり、小麦粉やタピオカ粉を投げつけあったりするのが、庶民の間では一般的なスタイルでした。 一方、春祭りの時期のパレードとしては、1786年、前年(1785年)のポルトガル王ドン・ジョアン6世の結婚を祝って山車が作られたほか、1808年にポルトガル王家がナポレオン戦争の戦禍を逃れてブラジルに遷移してきた際に、ブラジル在住のポルトガル人たちが仮面をかぶり、派手な衣装をつけ音楽を鳴らして町中を練り歩き歓迎したことが、記録に残されています。 こうした経緯を経て、1840年代になると、地元新聞社が主導して、かつてのローマやヴェネツィアに倣って、街の中で仮装をつけ、コンフェッテ(紙吹雪)をかけあう“カーニバル・パレード”の復活キャンペーンが始まりましたが、この時点では、カーニヴァルの音楽はゆっくりとしたマーチの“マルシャ”が主流です。ちなみに、音楽としてのサンバは、公式には、1916年12月16日に楽曲として登録された「電話で(Pelo Telephone)」(ギタリストのドゥンガとジャーナリストのマウロ・ヂ・アルメイダの作品)が最初の1曲とされています。「電話で」は、翌1917年の大ヒット曲となり、当時の舞踏音楽の最高の名誉として、翌1918年のカーニヴァルのテーマ曲の一つとなりますが、これが、サンバとカーニヴァルの最初の接点となりました。 ところで、20世紀初頭、サンバとカーニヴァルが結び付く以前のリオでは、カーニヴァルの音楽はマルシャが中心で、パレードには公式には中流以上の白人しか参加が認められておらず、黒人や貧しい地域の人々は、自分たちで独自のグループを作り、カーニヴァルに勝手に参加していました。 この小さなグループは“ブロコ”と呼ばれていますが、そうしたブロコが合併して規模を拡大していき、1928年以降、“エスコーラ・ヂ・サンバ”と呼ばれる巨大組織が生まれていくことになります。 エスコーラというのは、本来、“学校”の意味ですが、この場合は、1928年にイズマエル・シルヴァらが組織した最初の団体の近くに学校があったため、冗談で“エスコーラ・ジ・サンバ・デイシャ・ファラール(Escola de Samba Deixa Falar=「言わせておけ」サンバ学校)”と名乗ったことに由来するもので、サンバの技能訓練施設という意味ではありません。 さらに、1930年からは、カーニヴァルのパレードにコンテスト制度が導入され、5つのエスコーラが参加。これが好評だったため、1932年からはリオの大手スポーツ紙「ムンド・スポルチーヴォ」が、翌1933年からは大手紙の「ウ・グローボ」が、それぞれコンテストのスポンサーとなったことで、メディアを通じて、“リオのカーニヴァル”の注目度もあがり、優れた演出、楽曲が次々に誕生するという結果をもたらしました。 こうして、ブラジルの他の地域に比べて“リオのカーニヴァル”が突出した存在になっていくと、ブラジル・ナショナリズムの高揚を目指していたヴァルガス政権の下、政治が介入し始めます。 すなわち、1935年にはリオ市長のペドロ・エルネストが、コンテスト上位4位のエスコーラへの賞金の支給を開始。あわせて、出し物にテーマやナショナルイベントを選択させるようにしたことで、民族的なテーマを持った出し物が登場しました。 さらに、1937年に権威主義的なエスタード・ノーヴォ体制がスタートすると、カーニヴァルのテーマにも“ブラジルらしさ”が強く求められるようになります。その際、サンバとカーニヴァルの組み合わせは、(当時の)ヨーロッパにはなかった“黒人”という要素を全面的に取り込んでいるものとして、ヨーロッパに対するブラジルの独自性や国家アイデンティティを強調するうえで格好の素材として認識されました。 1939年のカーニヴァルで、白雪姫をテーマに参加しようとしたエスコーラが、“国際的にすぎる(=ブラジルらしくない)”との理由から、参加を却下されたのも、上記のようなヴァルガス政権のナショナリズムとサンバ・カーニヴァルの関係を端的に象徴していると言ってよいでしょう。 もっとも、こうしてブラジルの象徴(の一つ)になっていった“リオのカーニヴァル”ですが、1945年までのエスタード・ノーヴォ体制下では、それでも卑俗にすぎるとして切手に取り上げられることはありませんでした。 1964年、軍事クーデターによって、カステロ・ブランコ将軍を大統領とする軍事政権が誕生すると、軍事政権は、政治の腐敗を正し、国家転覆の危機を排除するとの名目で憲法を停止。政府に批判的な政治家を1万人以上、逮捕・追放する一方、親米反共の砦として米国の支援を受けることで権威主義的な開発独裁体制を維持しようとしました。 1966年10月に布告された軍政令第2号では、大統領の間接選挙(投票は連邦議会議員と地方代表で構成される選挙人団は行う)既成政党の廃止が決定された。これを受けて、それまでの政党に代わって、旧政党は与党の国家革新同盟と野党のブラジル民主運動に再編され、大統領選挙では国家革新同盟の推すアウトゥール・ダ・コスタ・エ・シウヴァ将軍が当選。そして、コスタ・エ・シルヴァ大統領の就任直前の1967年1月、軍事政権はそれまでに布告された軍政令を取り込んだ新憲法を公布します。 同憲法により、議会は形骸化し、大統領に戒厳令の施行や地方諸州への介入権が認められたほか、国名もそれまでのブラジル合衆国から現在のブラジル連邦共和国と改められました。 これに対して、学生のデモや労働者の抗議集会、ストライキが頻発しただけでなく、リオデジャネイロやサンパウロでは、キューバ革命の影響を受けたカルロス・マリゲーラ率いる民族解放行動(ALN)や10月8日革命運動などが軍事政権の打倒を唱えて武装闘争を展開。こうした状況の中で、あらためて、“ブラジル国民”としての団結を強調する必要に迫られた軍事政権側は、かつてのエスタード・ノーヴォ体制がナショナリズム涵養の手段としてサッカーとサンバを奨励した先例に倣い、“リオのカーニヴァル”に注目し、国際観光年の切手の題材にも取り上げたというわけです。 さらに、切手が発行された11月22日というタイミングが、12月2日の“サンバの日”の直前であることも見逃せません。“サンバの日”には、毎年、翌年2月前後に行われるサンバ・カーニヴァルの曲集が発売され、いよいよ、リオのみならず、ブラジル全体でサンバ気分が盛り上がってくる時期です。したがって、この時期にカーニヴァルの切手を発行することは、日常的に使われる切手を通じて、そうした雰囲気をいっそう盛り上げ、国民の関心をカーニヴァルに集中させようという政府の意図もうかがえます。 なお、リオのカーニヴァルについては、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でも1章を設けて取り上げておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 ★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』 ★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2016-11-23 Wed 11:25
きょう(23日)は二の酉です。というわけで、一の酉の時と同様、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』の増刷を祈念して、同書で取り上げた“鳥”の切手の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1968年にブラジルが発行した“第3回国際フォークソング・フェスティヴァル”の記念切手で、リオデジャネイロ・アトランティカ通りのカルサーダス(ポルトガル風の石畳の装飾)とポン・ヂ・アスーカルに、鶏の顔をつけたト音記号の楽譜を組み合わせたデザインとなっています。 リオデジャネイロのコパカバーナ海岸に面したアトランティカ通りは、南端のコパカバーナ要塞から海岸を弧に沿って北東に約3キロ先のプリンセサ・イザベル通りまでの大通りです。 アトランティカ通りのカルサーダスはホベウト・ブーレ・マウクス(英語風にロバート・ブール・マルクスとも)のデザインによるもので、1970年に完成しました。 カルサーダスをデザインしたブーレ・マウクスは、1908年、サンパウロ生まれ。父親のヴィルヘルム・マルクスはドイツ・シュトゥットガルト出身のユダヤ系ドイツ人、母親のセシリア・ブーレはブラジル北東部ペルナンブーコ州出身の富裕なフランス系カトリック家庭の出身です。 ブーレ・マウクスは、当初、画家を目指して父親の祖国であるドイツ・ベルリンに渡り、絵画を学ぶ一方、ベルリンのダーレム植物園に足繁く通って植物についての造形も深めました。1930年、ドイツから帰国した彼は、リオの国立美術学校に入学し、1932年には学内審査会で金賞を受賞。同年、故郷のサンパウロに戻り、自宅周辺の植物を収集し、熱帯原産の植物に合うよう土壌を改良して、欧州スタイルの緑豊かな庭園に仕上げて、最初の作品“マウクス自邸”を発表します。 この作品が高く評価されたことで、造園家、環境デザイナーとしての地位を確立。ブラジル文部省庁舎屋上庭園(1937年)、ブラジル再保険協会庁舎屋上庭園(1939年)など、公的機関の庭園を手がけるようになりました。1954年にはブラジル大学建築学科風致計画学担当教授に就任するとともに、翌1955年、環境デザインのスタジオを設立し、1960年の新首都ブラジリア建設に際しては、オスカー・ニーマイヤーが設計した公共施設の景観設計ならびに庭園設計に協力したほか、1965年にはリオのフラメンゴ公園の造成も手掛けています。 1970年のアトランティカ通りのプロムナード景観設計は、そんな彼の代表作のひとつで、曲線のパターンを取り込んだスタイルは、ブラジル先住民の伝統的な文様が取り込まれています。 なお、コパカバーナ海岸とその一帯については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でも詳しく解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』 ★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました! ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2016-10-12 Wed 09:54
きょう(12日)は、ブラジルでは“アパレシーダの聖母”の祝日です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1979年にブラジルで発行されたアパレシーダの聖母戴冠75周年の記念切手で、アパレシーダの聖母像が取り上げられています。 1717年10月、サンパウロ総督のドン・ペドロ・デ・アルメイダがミナス・ジェライスに向かう途中、パライバ川の渓谷を通ることになり、地元の漁師に魚の供出を求めました。このため、ドミンゴ・マルティス、ホァン・アルヴェス、フェリペ・ペドロソの3人の漁師がパライバ川のホセ・コレイア・レイテ港付近で漁を始めたものの、全く収獲がなかったため、川沿いに6キロほど進み、イタグアス港まで進んでいったところ、10月12日、ホアン・アルヴェスの網に頭のない聖母像がかかりました。さらに、彼がもう一度網を投げると、同じ像の頭が網にかかります。このため、アルヴェスは像を布にくるんで小舟の中に置き、漁を続けると、突如として大量の魚が獲れはじめました。 漁の後、3人のうちの最年長だったフィリペ・ペドロソがその像を自分の家に持ち帰り、綺麗に洗って泥を落とし、頭をつないで像を修理し、像に対して祈りを捧げました。さらに、1734年、フィリペの息子、アタナシオは小さな礼拝堂を建て、木製の祭壇の上にその奇跡の像を置き、毎週土曜日、近隣の人々が像の前でロザリオを唱えるようになります。以後、聖母像にまつわる数々の奇跡が伝えられ、多くの巡礼者が訪れるようになりました。 そこで、1745年、グアラティングエタ教区のモッロ・ドス・コンケイロスにさらに大きい聖堂を建立され、聖堂の落成式に際して、川底から“現れた(=アパレシーダ)”聖母像への祈願が行われました。その後も、巡礼者の数の増加に伴い、聖堂の増改築が進められ、1904年、聖母像は戴冠されました。今回ご紹介の切手は、ここから起算して75周年になるのを記念して発行されたものです。さらに、1908年、聖堂は大聖堂に昇格し、1930年6月16日には、教皇ピウス11世がアパレシーダの聖母はブラジルの守護者であると宣言。1717年に像が発見された日の10月12日は、アパレシーダの聖母に捧げる国民の祝日となりました。 ちなみに、世界最大のカトリック国家であるブラジルでは、さまざまな聖母像が祀られていますが、その一端は、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ イヴェントのご案内 ★★★ 10月29日(土) 13:45-15:15 ヴィジュアルメディアから歴史を読み解く 本とアートの産直市@高円寺フェス2016内・会場イヴェントスペースにて、長谷川怜・広中一成両氏と3人で、トークイヴェントをやります。入場無料ですので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。(本とアートの産直市@高円寺については、主催者HPをご覧ください) ★★★ 講座のご案内 ★★★ 11月17日(木) 10:30-12:00、東京・竹橋の毎日文化センターにてユダヤとアメリカと題する一日講座を行います。詳細は講座名をクリックしてご覧ください。ぜひ、よろしくお願いします。 ★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』 ★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました! ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2016-09-29 Thu 11:15
プロ野球のパシフィック・リーグは、北海道日本ハムファイターズが4年ぶりに優勝しました。というわけで、“戦士”にちなんでこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1973年にブラジルで発行された大酋長アラリボイアの切手です。切手の右には、ニテロイ港にあるアラリボイアの銅像の写真を貼っておきました。銅像は半裸の姿ですが、切手では、そこに大酋長としての盛装の飾りをつけた姿になっています。 16世紀前半、ブラジル沿岸部は、ポルトガル、フランス、オランダの各国が領土の争奪戦を展開していましたが、その過程で、1555年、フランスは先住民のタモイオ族と結んで、グアナバラ湾沖合の小島を占領します。 一方、グアナバラ湾を挟んで現在のリオデジャネイロ市の対岸の地域は、ポルトガル人の来航以前から先住民の集落があった場所で、先住民のトゥピ語で“隠れた水(川、海、湾など)”を意味する“ニテロイ”と呼ばれていました。当時、ニテロイとその周辺はテミミノ族が支配しており、その大酋長は、トゥピ語で“獰猛なヘビ”を意味する“アラリボイア”の名で呼ばれていました。 アラリボイアは、1564年以降、ポルトガルの軍人、エスタシオ・デ・サアと協力してフランス軍に抵抗。小山の上からフランスの動きを見張り、その動きを逐一ポルトガル軍に報告したほか、自らも戦闘に参加し、1567年、フランスを放逐します。ちなみに、この間の1565年3月、エスタシオ・デ・サアはグアナバラ湾に面した一角に橋頭保を築きましたが、これが、都市としてのリオデジャネイロのルーツになりました。 フランスに対する勝利の後、ポルトガルはアラリボイアの功績を認め、マルチン・アフォンソ・デ・ソウザというポルトガル名とポルトガルの市民権、さらに毎年1万2000ヘアイスの年金を与えるとともに、彼をニテロイ一帯の執政官に任じ、1587年に彼が亡くなるまで、大酋長時代からの権利を保証しています。 なお、1565年にリオデジャネイロ市が発足した頃の話については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 講座のご案内 ★★★ ・よみうりカルチャー荻窪 「宗教と国際政治」 10月から毎月第1火曜の15:30より、よみうりカルチャー荻窪(読売・日本テレビ文化センター、TEL 03-3392-8891)で講座「宗教と国際政治」がスタートします。初回は10月4日です。ぜひ、遊びに来てください。詳細は、こちらをご覧いただけると幸いです。 ・毎日文化センター それぞれ、1日講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) 10月11日(火) 19:00-20:30 リオデジャネイロ歴史紀行 11月17日(木) 10:30-12:00 ユダヤとアメリカ ★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』 ★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました! ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2016-09-15 Thu 12:14
きょう(15日)は中秋節です。というわけで、最新の拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』にちなんで、“月”に関するブラジル切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1969年10月17日、同年7月のアポロ11号の月面着陸を称えるために発行された切手です。左側には、ブラジル人が飛行機の父として敬愛するサントス=ドゥモンと彼のエッフェル塔旋回飛行を、右側には月面に着陸するアポロ11号を描き、サントス=ドゥモンと3人の宇宙飛行士の名前を印面下部に記すことで、飛行史に残る2大偉業を並立させるスタイルとなっています。 第二次大戦後のブラジルは、ながらく左派ポピュリストの政権が続いていましたが、1964年、軍事クーデターによって、カステロ・ブランコ将軍を大統領とする軍事政権が誕生します。 軍事政権は、政治の腐敗を正し、国家転覆の危機を排除するとの名目で憲法を停止。政府に批判的な政治家を1万人以上、逮捕・追放する一方、親米反共の砦として米国の支援を受けることで権威主義的な開発独裁体制を目指します。 1966年10月に布告された軍政令第2号では、大統領は間接選挙(投票は連邦議会議員と地方代表で構成される選挙人団が行う)で選ぶものとされたほか、既成政党が廃止されたことで、政党は与党の国家革新同盟と野党のブラジル民主運動に再編されあした。そして、大統領選挙では国家革新同盟の推すアウトゥール・ダ・コスタ・エ・シウヴァ将軍が当選。そして、コスタ・エ・シウヴァ大統領の就任直前の1967年1月、軍事政権はそれまでに布告された軍政令を取り込んだ新憲法を公布しました。 1967年憲法により、議会は形骸化し、大統領に戒厳令の施行や地方諸州への介入権が認められたほか、国名もそれまでのブラジル合衆国から現在のブラジル連邦共和国と改められます。ただし、こうした強権的な政治の下で、当時のブラジルは年10%を超える高い経済成長を記録し、ブラジル経済は“ブラジルの奇跡”と呼ばれる空前の好景気を謳歌していたことも事実です。 ところで、軍事政権に対しては、学生のデモや労働者の抗議集会、ストライキが頻発しただけでなく、リオデジャネイロやサンパウロでは、キューバ革命の影響を受けたカルロス・マリゲーラ率いる民族解放行動(ALN)や10月8日革命運動(MR8)などがコスタ・エ・シウヴァ政権の打倒を唱えて武装闘争を展開しました。 こうした中で、1969年8月28日、コスタ・エ・シウヴァが執務中に脳出血で倒れると、同31日、ペドロ・アレイショ副大統領の昇格ではなく、大統領は空席のまま、陸・海・空相からなる三頭政治に移行するという変則的な事態が発生します。そうした政治的な混乱と空白の隙を突くかたちで、9月4日、ALNとMR8の合同突撃隊が、リオで白昼、チャールズ・バーク・エルブリック米大使を誘拐する事件が発生しました。 犯行グループはマスコミを通じて9月7日の独立記念日まで政治犯15名を釈放することを要求。当初、軍事政権はこれを拒絶しようとしましたが、大使の安全を最優先する米国の圧力を受け、最終的に犯行グループの要求を受け入れて政治犯を釈放し、大使も解放されました。 面子をつぶされた軍事政権は、9月5日、軍政令13号、14号を公布し、釈放された15人に対して国家反逆罪を適用し、永久国外追放とすること、死刑制度を復活し、国家反逆罪に対しては極刑をもって臨むことを明らかにします。また、陸軍秘密警察のほかに、国防省内にテロ対策を専門とする社会政治保安局が創設され、ゲリラ組織への弾圧は強化され、9月29日には、大使誘拐事件の主犯だったALNのメンバーが逮捕され、拷問の末に殺害されました。 9月30日には、“軍最高指導部”が空白となっていた大統領に陸軍内強硬派のエミリオ・メディシを指名。10月7日、メディシは軍事評議会により次期大統領に選出され、10月30日、正式に大統領に就任します。この間、10月17日には軍事評議会の承認を得て1969年憲法が公布され、正式に死刑制度が復活し、大統領の任期は4年から5年に延長されました。 今回ご紹介の切手の発行日となった10月17日は、9月の大使誘拐事件の以前から決められていたことではありますが、上述のような政治的・社会的な背景の下、自国の英雄を顕彰してナショナリズムを強調するとともに、米国の偉業をたたえ、米国との友好関係を強調する(大使誘拐事件の後であれば、なおさら、その必要があったでしょう)ために企画・発行されたものと考えるのが妥当ではないかと思われます。 ★★★ トークイヴェントのご案内 ★★★ 拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』の刊行を記念して、東京・青山の駐日ブラジル大使館で下記の通り、トークイヴェントを開催いたします。ぜひ、ご参加ください。 ・日時 2016年9月23日(金)18:00~20:00(17:30受付開始) ・会場 駐日ブラジル大使館 セミナー・ルーム 〒107-8633 東京都港区北青山2丁目11-12 (地図はこちらをご覧ください) ・参加費 無料 ・定員 30名(申込多数の場合は先着順) * 9月16日(金)までに、お名前・ご連絡先・ご所属を明記の上、電子メール、ファックス等で下記宛にお申し込みください。(お送りいただいた個人情報は、大使館へ提出する以外の目的には使用しません) 申込先 えにし書房(担当・塚田) 〒102-0074 千代田区九段南2-2-7-北の丸ビル3F Tel. 03-6261-4369 Fax. 03-6261-4379 電子メール info★enishishobo.co.jp (スパム防止のため、★の部分を半角@に変えてご送信ください) なお、トークヴェベント終了後、20:30より近隣のブラジルレストラン「イグアス」にて懇親会を予定しております。(イグアスの地図はhttp://tabelog.com/tokyo/A1306/A130603/13048055/ をご覧ください) 会費は、『リオデジャネイロ歴史紀行』1冊の代金込みで6500円(書籍不要の場合は5000円)の予定です。参加ご希望の方は、トークイベントお申し込みの際に、その旨、お書き添えください。なお、懇親会のみの御参加も歓迎いたします。 ★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』 ★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました! ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2016-09-07 Wed 10:39
きょう(7日)は、ブラジルの独立記念日です。というわけで、ストレートにこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1972年8月26日から9月2日まで、ブラジル独立150周年の記念事業として開催された国際切手展<EXFILBRA>の記念小型シートで、ブラジルの独立宣言とされる“イピランガの叫び”を題材としたペドロ・アメリコの歴史絵画「独立か死か」が取り上げられています。 1500年のカブラルによるブラジル発見以来、ポルトガルはブラジルの地で勢力を拡大し、1646年にはポルトガルの王太子をブラジル公とするブラジル公国が成立します。 ナポレオン戦争最中の1808年、ポルトガルのブラガンザ王室はブラジルに逃れ、1821年まで王室はリオデジャネイロに留まりました。この間、1815年にはブラジルは、それまでの植民地公国からポルトガル本国と対等の王国(=ポルトガル王がブラジル王を兼ねる)に昇格し、“ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国”が誕生します。 1821年にポルトガル王ジョアン6世はリスボンに帰還しますが、その際、本人はブラジル王位を兼任したまま王太子のペドロ・デ・アルカンタラ・フランシスコ・アントニオ・ジョアン・カルロス・ザビエル・デ・パウラ・ミゲル・ラファエル・ジョアキム・ジョゼ・ゴンサガ・パスコアール・シプリアーノ・セラフィム(以下、ドン・ペドロ)を摂政としてブラジルに残しました。 ところが、1821年に開催されたポルトガル議会では、対等な立場であるはずのポルトガル代表の議員が130人だったのに対し、ブラジル代表の議員は72人に過ぎず、さらにポルトガル政府はブラジルを再び植民地にすべく、ブラジルの各県をリスボン政府の直接管轄下に置くことを決定するとともに、ドン・ペドロの帰国を要求。これに対して、1822年1月、ドン・ペドロが帰国を拒否しまし、独立に向けての動きが本格化しました。 6月3日には、ブラジル各県の代表から構成されるブラジル憲法制定議会が招集され、8月6日、ドン・ペドロはポルトガルの専制主義を批判する書簡を友好国に送りました。これに対して、ポルトガルはドン・ペドロの行動は国家反逆罪に値すると非難。その旨の書簡をドン・ペドロ宛に送ります。 そして、9月7日、サンパウロ訪問中にこの書簡を受け取ったドン・ペドロは、サントスのイピランガ川のほとりで書簡を破り捨て、剣を高く掲げて「独立か死か」と叫んだとされています。これが、“イピランガの叫び”で、ブラジルの公式な独立宣言とされています。その後、10月12日、ドン・ペドロはリオデジャネイロでブラジル皇帝ペドロ1世として即位し、ブラジル帝国が成立しました。 なお、1822年から始まる帝政時代のブラジルについては、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ トークイヴェントのご案内 ★★★ 拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』の刊行を記念して、東京・青山の駐日ブラジル大使館で下記の通り、トークイヴェントを開催いたします。ぜひ、ご参加ください。 ・日時 2016年9月23日(金)18:00~20:00(17:30受付開始) ・会場 駐日ブラジル大使館 セミナー・ルーム 〒107-8633 東京都港区北青山2丁目11-12 (地図はこちらをご覧ください) ・参加費 無料 ・定員 30名(申込多数の場合は先着順) * 9月16日(金)までに、お名前・ご連絡先・ご所属を明記の上、電子メール、ファックス等で下記宛にお申し込みください。(お送りいただいた個人情報は、大使館へ提出する以外の目的には使用しません) 申込先 えにし書房(担当・塚田) 〒102-0074 千代田区九段南2-2-7-北の丸ビル3F Tel. 03-6261-4369 Fax. 03-6261-4379 電子メール info★enishishobo.co.jp (スパム防止のため、★の部分を半角@に変えてご送信ください) なお、トークヴェベント終了後、20:30より近隣のブラジルレストラン「イグアス」にて懇親会を予定しております。(イグアスの地図はhttp://tabelog.com/tokyo/A1306/A130603/13048055/ をご覧ください) 会費は、『リオデジャネイロ歴史紀行』1冊の代金込みで6500円(書籍不要の場合は5000円)の予定です。参加ご希望の方は、トークイベントお申し込みの際に、その旨、お書き添えください。なお、懇親会のみの御参加も歓迎いたします。 ★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』 ★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました! ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2016-08-21 Sun 15:33
リオデジャネイロ五輪16日目(現地時間20日)は、日本選手のメダル獲得はありませんでしたが、マラカナン競技場でサッカー男子の決勝が行われ、PK戦の末、ブラジルがドイツを下し、悲願の金メダルを獲得しました。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1969年11月28日にブラジルが発行した“ペレ1000ゴール”の記念切手で、マラカナン競技場でゴールを決めるペレの後ろ姿が描かれています。ちなみに、実際にペレが前人未到の通算1000得点を達成したのは、1969年11月19日のマラカナン競技場での対CRヴァスコ・ダ・ガマ戦でした。 なお、今回、決勝のPKを決めたネイマールも、切手に描かれたペレ同様、背番号10ですが(ついでですので、切手の隣に、マラカナン競技場のロッカールームでネイマールのユニフォームと一緒に撮った写真を並べておきます)、優勝ゴールを決めた瞬間は、切手のペレのように飛び上がって喜ぶのではなく、ひざまずいて涙を流し、その後はピッチに顔を伏せたまま動かなかったのが印象的でした。いずれ、その場面がブラジルの切手に取り上げられる日がくるかもしれません。 さて、マラカナン競技場は、1950年に行われたサッカーW杯のために建設されたスタジアムで、開設当初の正式名称は“リオデジャネイロ市営スタジアム”でした。1966年、ブラジルのサッカー振興に貢献したジャーナリスト、マリオ・フィーリョの功績をたたえて正式名称は“エスタジオ・マリオ・フィーリョ”と改称されましたが、一般には、マラカナン地区にあることから“エスタジオ・ド・マラカナン(マラカナン競技場)”と呼ばれています。 地名の“マラカナン”とは、もともとは、先住民トゥピー族の言葉で“鈴のような”を意味する単語で、そこから、鈴のような声で鳴く小鳥の名前となり、その鳥が数多く棲息するリオ郊外の沼地も“マラカナン”と呼ばれるようになったといわれています。 1855年、競馬の運営会社だった“デルビー・クルービ(英語風の発音ではダービー・クラブ)”は、マラカナンの沼地を買い取って競馬場を建設しましたが、この競馬場はほどなくして経営難から閉鎖されてしまいます。 その跡地に巨大サッカー・スタジアムを建設しようというプランが持ち上がったのは、ブラジルにサッカーが伝来してから半世紀以上が過ぎた1940年代後半のことでした。 現在でこそ、ブラジルは質量ともに世界一のサッカー大国ですが、20世紀前半までは、必ずしもそうではありませんでした。 すなわち、1916年にアルゼンチンの独立100周年を記念して開催された第1回南米選手権では、ブラジルは参加4ヵ国(アルゼンチン、ブラジル、チリ、ウルグアイ)中の3位。翌1917年の第2回南米選手権でも同じく3位という成績です。その後も、南米選手権に関しては、1919年の第3回大会と1922年の第6回大会では優勝したものの、この間の1920年の第4回大会では、ウルグアイに0-6(現在にいたるまで、南米選手権での最多得失点差での敗戦)を記録しています。 さらに、1930年7月13-30日、独立100周年を迎えたウルグアイで開催された第1回FIFAワールドカップでは、グループ2初戦のユーゴスラヴィア戦に1-2で敗れ、続くボリヴィア戦には4-0で勝利したもののグループリーグ敗退しています。 しかし、1930年の第1回W杯で開催国のウルグアイが優勝したことは、1932年の“護憲革命”以降、州を越えた“ブラジル国民”としてのアイデンティティを養い、国民の団結を訴える必要に迫られていたヴァルガス政権を大いに刺激しました。 すなわち、ヴァルガス以前のブラジルでは、広大な連邦国土を構成する各州の自立傾向が強かっただけでなく、先住民のインディオ、欧州系の白人、黒人(アフリカ系、カリブ系)、日本人・中国人などアジア系、さらにはそれらの混血など、多種多様な民族が集っており、ブラジル国民としての共通項は、ポルトガル語とカトリックくらいしかありませんでした。 このため、政権はナショナリズムを高揚させる手段としてスポーツを重視しましたが、特に、サッカーが重視されたのは ①南米の国でも世界一になれるW杯という具体的な目標がある ②サンバ、カポエイラなどの黒人のリズム感覚や身体能力を取り入れた独特の動きがサッカーにとって有効であり、それゆえ、サッカーに勝つという目標の下に人種間の宥和を促進できる ③かつてのポルトガル植民地時代以来、多くの国民の間には“マランドラージェン(主人や相手の目をごまかして上手に怠けることが生き残る術であり、上手な生き方であるという価値観)”の気風が染みついていたが、サッカーを通して、彼らが規律や努力を学ぶ教育効果が期待できる などの理由をあげることができます。 かくして、ヴァルガス政権がサッカー振興に熱心に取り組んだ結果、人種や経済階層を問わずにボールさえあればどこでも誰でもできるスポーツとして、サッカーはブラジル国民の間でサッカーが急速に普及し、直線的で素早いパス回しをする欧州勢に対して、“ジンガ”(もともとは“ふらふら歩く、揺れる”という意味のポルトガル語ですが、サッカーでは“しなやかでリズミカルな動き・ステップ”を意味しています)を含む黒人のリズムや身体能力を取り入れた“ブラジル式”サッカーのスタイルが徐々に確立されていくことになりました。 その結果、1934年のW杯イタリア大会で1回戦敗退だったブラジル代表は、1938年のフランス大会では堂々の3位となります。 その次の大会は、本来であれば、1942年に開催の予定でしたが、1939年9月に第2次大戦が勃発したことで欧州での開催は不可能となります。さらに終戦直後の1946年の大会も戦争の傷跡が癒えずに見送られてしまいました。 この間、ヴァルガスは1945年10月の軍事クーデターで大統領の座を追われましたが、彼がレールを引いたサッカーとナショナリズムを結びつける路線はその後も継承され、ブラジル政府は、1950年の大会開催国として立候補し、無競争で1950年6月24日から7月16日にかけてのW杯開催権を獲得しました。 W杯の開催が決まると、大型スタジアムの建設が必要となります。 当初の案では、名門クラブ“ヴァスコ・ダ・ガマ”の本拠地だったサン・ジャヌアリオ・スタジアム(1927年建設。収容人員4万)の増築も検討されましたが、1947年11月、作曲家でリオデジャネイロ市議のアリ・バホーゾらがダウンタウンにも近いマラカナン地区の競馬場跡地(デルビー)を市が買い取って新スタジアムを建設する法案を市議会に提出。これが可決され、マラカナン競技場が建設されました。 完成当初のスタジアムは、ピッチを円形のスタンドが取り囲むという当時では斬新なデザインで、1階席3万、2階席2万5000、3階席10万という巨大なものだったこともあり、“デルビーの巨人”と称されました。また、3階席スタンドの3/4を幅30mの屋根で覆う設計だったが、観客の視界を遮らないよう柱を外側に立てることにしたため、100トンもの重みを支える強度を確保するため、工事も大幅に遅れ、6月24日の開幕に何とか間に合っています。 開催国として悲願の初優勝を目指していたブラジルは、1次リーグを2勝1分で突破。決勝リーグにはブラジルの他、ウルグアイ、スウェーデン、スペインが進出しましたが、ブラジルは同リーグでスウェーデンを7-1、スペインを6-1の大差で破ってウルグアイとの試合に望みます。 一方、ウルグアイは、スウェーデンに勝ち、スペインには引き分けて1勝1分の成績でブラジルとの対戦を迎えました。 運命の1950年7月16日、19万9854人の観客が見守る中、マラカナン競技場で行われたブラジル対ウルグアイの試合では、後半開始2分にフリアカのゴールでブラジルが先制。この時点で、多くのブラジル国民はブラジルの優勝を確信していましたが、ウルグアイは後半21分にスキアフィーノが同点ゴール、後半34分にギジャが逆転ゴールを決め、そのまま試合終了。この結果、ウルグアイが3大会ぶり2回目の優勝を達成しました。 これが、いわゆる“マラカナンの悲劇”です。 あと一歩で悲願の初優勝を逃したブラジル国民の落胆は大きく、2人がその場で自殺したほか、2人がショック死、20人以上が失神したといわれています。また、当時9歳だったペレは、落ち込む父親に「悲しまないで。いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから」と励ましていましたが、はたして、8年後、1958年のスウェーデン大会では、ペレは17歳で代表メンバーに抜擢され、6得点を挙げてブラジルのワールドカップ初優勝に大きく貢献しています。 その後、ブラジルはサッカー王国として世界に君臨し、W杯5回、南米選手権8回もの優勝を果たしていますが、なぜか、五輪の金メダルだけはこれまで獲得できませんでした。 また、1950年の“マラカナンの悲劇”の雪辱を期して臨んだ2014年のW杯では、ブラジルははただ準決勝でドイツに1―7で惨敗しており、開催国としてマラカナン競技場で、宿敵ドイツを破ってサッカーの金メダルを獲得することは、今大会での絶対的な使命とされていました。それだけに、今回の優勝は、今後、“マラカナンの歓喜”としてブラジルの歴史に名を残すことになるのではないかと思われます。 なお、マラカナン競技場とブラジルのサッカーの歴史については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『リオデジャネイロ歴史紀行』 好評発売中!★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました! ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2016-08-08 Mon 16:15
現在開催中のリオデジャネイロ五輪3日目(現地時間7日)は、柔道男子66kg 級海老沼匡と女子52kg 級の中村美里がともに銅メダルを獲得しました。 というわけで、きょうは柔道の切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1976年のモントリオール五輪に際してブラジルが発行した記念切手の1枚で、柔道が描かれています。リオ五輪開催国のブラジルでも柔道の切手は何度か発行されていますが、今回ご紹介の切手はその最初の1枚です。 ブラジルにおける日系社会の歴史は1908年6月の笠戸丸移民から始まりますが、すでにこの時の移民の中にも小中学校で柔道を学んだ人が少なからずおり、移民とともに自然発生的に柔道がブラジルに持ち込まれることになりました。また、1908年12月には、香港からブラジル海軍のベンジャミン・コンスタント号に乗船した三浦鑿が船内で柔道を教えたのがきっかけで、リオの海軍兵学校で柔道を教えることになったとの記録も残されています。 一方、1906年、講道館は柔道の国際的な普及のため柔道使節団を米国に派遣していましたが、その一員であった前田光世五段は、使節団の帰国後も米国にとどまり、米国人に本物の柔道を見せることで柔道の実践における有効性を宣伝すべく、新聞に広告を出し、積極的に公開試合を行っていました。しかし、普及活動の成果があがらなかったことから、前田は米国に見切りをつけて、1907年に渡英。さらに欧州大陸に渡って、ベルギーやフランス、スペインなどを行脚した後、キューバ、メキシコ、グァテマラ、パナマ、ペルー、ボリヴィア、チリ、アルゼンチン、ウルグアイを経て、1914年、サントス港からブラジルに上陸。しばらくリオの海軍兵学校で柔道を教えた後、翌1915年には北上してアマゾン河口の都市ベレンに到着し、以後、この地に定着することになりました。 ベレンでの前田は、飛び入りで“アマゾン1の勇者”を決めるレスリング大会に参加して優勝。その強さと礼儀正しい振る舞いでベレン市民に感銘を与え、警察や兵学校で柔道を教える傍ら、道場を開設し、1922年、40歳で格闘家として引退するまで、多くの門弟を育てました。 その後、1924年には大河内辰夫四段がサンパウロに移住し、大河内製薬会社を立ち上げたほか、1928年にはパリ五輪でレスリング選手として銅メダルを獲得した内藤克俊三段が農業技師としてアマゾンに入植。彼らは、サンパウロ近郊の柔道関係者の取りまとめに尽力し、その後の日系人柔道を隆盛に導くことになります。 また、1930年代に入ると、前田光世の教えを受けたグレイシー家のエリオが、柔道にレスリングなどの技を組み合わせた柔術をさらに改良し、誰にでも使いこなせる技術体系として“グレイシー柔術”を生み出します。グレイシー柔術の祖としてのエリオは、1930年代から、“何でもアリ”を意味する総合格闘技のバーリトゥードに参戦し、日系人柔道家を次々に破るなど、約20年間無敗を誇り、ブラジル格闘界に君臨する存在となりました。1951年、サンパウロの新聞社の招待で来伯した木村政彦と戦ったマラカナン競技場での試合は、柔道史上最強と謳われていた木村が大外刈からのキムラロック(腕がらみ)を極め、エリオの腕の骨を折るという“マラカナンの屈辱”として、格闘技史上の重大事件とされています。 なお、“マラカナンの屈辱”の詳しい経緯については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『リオデジャネイロ歴史紀行』 好評発売中!★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました! ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2016-07-10 Sun 09:42
きょう(10日)は参議院議員選挙の投票日です。僕も、この記事を書いたら投票所に行きますが、投票は20時までですから、有権者の皆様は、ぜひお出かけください。というわけで、国政選挙の投票日恒例の“投票しませう”シリーズ、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1983年にブラジルで発行された“女性参政権50年”の記念切手で、投票する女性が描かれています。 1930年、軍事クーデターで政権を掌握したジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスは1891年に公布された共和国憲法を停止し、連邦議会と州議会を解散するとともに、全国の州知事を罷免して臨時政府の任命する執政官を派遣。これに対して、サンパウロ州の反ヴァルガス勢力は、1932年7月9日、いわゆる護憲革命をおこしましたが、革命そのものは、3ヶ月後の10月に鎮圧されました。 “革命”の鎮圧後、ヴァルガス政権は一定の譲歩を余儀なくされ、1933年5月には制憲議会選挙が実施されることになります。その際、一部の女性に参政権が認められたのが、ブラジルにおける女性参政権の始まりとなりました。 その後、制憲議会を経て1934年7月に公布された新憲法(1934年憲法)では、非識字者を除く18歳以上の男女に対して、秘密投票の権利が与えられ、一挙に、女性有権者の数が拡大します。ただし、当時のブラジルでは識字率が人口の1/3程度でしたから、有権者の数はまだまだ限られていました。ちなみに、非識字者にも選挙権が与えられたのは、1946年の憲法改正以降のことです。 さて、現在、8月のリオ五輪開催にあわせて、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行(仮題)』を刊行すべく、制作作業を進めています。奥付上の刊行日は8月8日、本体定価は2700円の予定で、刊行に先立ち、全日展の会場でも、23日15:00からトークベントを行う予定です。なにとぞ、よろしくお願いします。 ★★★ 全日本切手展(+内藤陽介のトーク)のご案内 ★★★ 7月22-24日(金ー日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにオリンピックとブラジル切手展が開催されます。詳細は、主催団体の一つである日本郵趣連合のサイト(左側の“公式ブログ”をクリックしてください)のほか、フェイスブックのイベントページにて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。 *画像は全日展実行委員会が制作したチラシです。クリックで拡大してご覧ください。 会期中の7月23日15:00から、すみだ産業会館9階会議室にて「リオデジャネイロ歴史紀行」と題するトークイベントを行います。ぜひ、ご参加ください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『ペニー・ブラック物語』 好評発売中! ★★★ 2350円+税 【出版元より】 若く美しい女王の横顔に恋しよう! 世界最初の切手 欲しくないですか/知りたくないですか 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
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