2021-08-31 Tue 09:09
早いもので、25日から、パシフィコ横浜で開催されていた日本国際切手展<PHILANIPPON 2021>は、昨日(30日)午後、無事にすべての日程を終了し、ました。今回、僕は審査員としてテーマティク、オープン、ユースの3部門の審査を担当しましたが、正田幸弘審査委員長はじめ審査委員会の方々、運営スタッフの方々には非常にお世話になり、有意義な時間を過ごすことができました。この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。なお、冒頭の画像は審査員として参加した証として、29日に頂戴した記念のメダルです。 今回の切手展は、新型コロナウイルス禍での開催ということで、2011年の<PHILANIPPON 2011>以来10年ぶりに日本で開催される国際切手展、さらにわが国の近代郵便創業150周年記念行事として、当初は前回同様、全世界から作品を募る世界切手展として企画されました。しかし、新型コロナウイルス禍により、外国人の出品者・審査員の来日が困難になったため、海外からの作品搬入は郵送のみの受付とし、規模をアジア国際切手展に縮小して行われました。 また、審査に関しても、実際に会場で審査を行う日本人チームと、送られた作品データを基にリモートで審査を行う海外チームの二手に分かれて行い、ネットを通じてすり合わせを行うという、いままでにないスタイルで行われました。日本人審査員に関しては、マスク着用や手指の頻繁な消毒は勿論のこと、審査中は審査員同士が極力向かい合って話さないなど、さまざまな注意が払われました。実際の審査風景をスタッフの方に撮影していただきましたので、その写真も下に貼っておきます。 今回、このスタイルでの国際切手展が無事に開催されたことで、新型コロナ禍で国際切手展の中止・延期が相次ぐ中での切手展開催のありかたについて、一つのモデルケースを示すことになったのではないかと思います。 なお、今回の切手展の会期中には、郵便創業150年を記念した切手帖なども発行されますたが、切手展そのものの記念切手としては、手紙を題材とした浮世絵・錦絵を取り上げた切手10枚を収めた下のような切手シートが、会期初日の25日に発行されました。 とりあえず、切手に取り上げられた作品の作者・作品名を記しておくと、上段左から、喜多川歌麿 「歌撰恋之部夜毎ニ逢恋」、豊原国周 「左手美翫誉彫物」から“左リ甚五郎”、同“おやま人形”、同“郵便ノ使音吉”、喜多川歌麿 「高名美人六歌撰 扇屋花扇」、下段左から、渓斎英泉 「浮世七小町 あふむ小町」、鈴木晴信 「中納言朝忠」、楊洲周延 「時代かがみ 附録」、歌川国貞 「大江戸日日三千両繁栄之為市」(2枚)、です。ここの先品などについては、今後、機会があればあらためてブログ記事としても取り上げる機会があるかもしれません。 さて、<PHILANIPPON 2021>が終わると、国内展は秋の全国切手展<JAPEX>があり、来年2月にはロンドンで世界切手展も予定されています。ロンドン展については現時点では不透明な状況が続いていますが、無事に開催されれば、出品者としての参加を予定しております。今後とも、切手展に関しては皆様にいろいろお世話になるかと思われますが、引き続き、よろしくお願いいたします。 * 昨日(30日)の文化放送「おはよう寺ちゃん」の僕の出番は、無事、終了いたしました。リスナーの皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。次回は来週月曜日・9月6日に登場の予定です。引き続きよろしくお付き合いください。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 9月6日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です! 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-30 Mon 05:21
夏の甲子園(全国高等学校野球選手権)は、きのう(29日)、決勝戦が行われ、智弁和歌山(和歌山)が9-2で智弁学園(奈良)を下し、“智弁対決”を制して21年ぶり3度目の優勝を飾りました。決勝で戦った両校は、いずれも、仏教系の新宗教、辯天宗の学校ということなので、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1905年、英領時代のインド・トンク(ラージャスターン州)からポカラン(同)宛の葉書で、左側に、サラスヴァティーと彼女の乗り物である孔雀が描かれています。 このうち、わが国では弁財天として知られる神は、古代インドで聖なる川とされていた“サラスヴァティー川”の化身、サラスヴァティーがその原型です。流れる川のイメージから、言葉・弁舌、知識、音楽など“流れるものすべて”の女神となりました。仏教には“弁才天”として取り込まれましたが、日本では同音の“弁財天”とも表記され(弁天と略されることもある)、財宝の神としての性格も持つようになりました。 ちなみに、智辯和歌山と智辯学園の母体となっている辯天宗は、1934年、奈良県宇智郡野原村(現五條市)の十輪寺住職だった大森智祥の妻、大森智辯(本名・清子)が大辯才天女尊より天啓を受けたことを始まりとしており、739年に十輪寺を開いた行基が彫ったとされる辯才天像を本尊としています。 仏教の変化観音や天部諸尊、ヒンドゥーの神々の中には、その特殊な能力を示すために、多面多臂の(顔や腕が多数ある)姿で描かれるケースも多いのですが、サラスヴァ―ティーも同様で、4本の腕を持ち、2本の腕には、数珠とヴェーダ、もう1組の腕にヴィーナと呼ばれる琵琶に似た弦楽器を持つ姿が一般的となっています。 これが仏教に取り込まれて“弁才天”になると2臂像と8臂像が中心になり、2臂像は琵琶を抱え、バチを持つ音楽神のとして表現されます。一方、8臂像は、西暦5世紀、中国の五胡十六国時代に中インドから東トルキスタンへ赴いた曇無讖が仏教経典『スヴァルナ・プラバーサ・スートラ』を『金光明最勝王経』「大弁才天女品」として漢訳し、弁才天を、8本の手に、弓、矢、刀、矛、斧、長杵、鉄輪、羂索を持つと紹介したことに由来するとされています。 なお、わが国の弁才天像としては、東大寺法華堂(三月堂。740年代に創建と推定)に安置されている8臂の立像(塑像)が最古のものとされていますので、749年に亡くなった行基の作品ということであれば、それに準ずるものとなるのですが…。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月30日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です! 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-29 Sun 06:18
きょうは“829”の語呂合わせで“焼き肉の日”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2019年10月9日、ウルグアイが発行した“伝統料理”の切手のうち、パラグアイやウルグアイやアルゼンチン、チリなどで食される焼き肉料理の“アサード”を取り上げた1枚です。 アサードはスペイン語で“焼かれたもの”の意味で、もともとは、ガウーチョ(パンパやアンデス山脈東部でかつて牧畜に従事していたスペイン人と先住民などとの混血住民。ガウチョとも)が牛の半分を丸焼きにして食べていたのが原型と言われています。当初は、焼けた肉の塊を各人がナイフで好きな部位を好きなだけ切りとってワイルドなスタイルでしたが、19世紀後半以降、都市部に広がって定着していく過程で、熾火の熱で部位そのままのブロック肉をパリージャと呼ばれる金網に乗せて焼き、適当な大きさにカットして食べるスタイルとなりました。 味付けは、古い時代は岩塩だけでしたが、現在では、チュミチョリソース(パセリとニンニクのみじん切りを、塩と油と酢で和えたソース)やクリオージョソース(たまねぎをみじん切りにして、オリーブオイル、オレガノ、塩を少し入れてかき混ぜたソース)も用いられています。ただし、日本の焼き肉に見られるような濃厚な甘だれはほぼ使われません。 さて、25日から始まった日本国際切手展<PHILANIPPON 2021>ですが、早いもので、会期は今日・明日を残すのみとなりました。ここのところ暑い日が続いていますが、無事のゴールを目指して、今夜は、今回ご紹介の切手のアサードと似た雰囲気の骨付きカルビでも食べて精をつけるとしますかね。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月30日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です! 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-28 Sat 06:39
ご報告がすっかり遅くなりましたが、雑誌『ザ・フナイ』2021年8月号から、「こわい切手」と題する新連載を始めました。その第1回目の記事の中から、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1946年9月、ウィーンのキュンストラーハウス(芸術展示館)で開催された“忘れるな(NIEMALS VERGESSEN)!”展に合わせてオーストリアが発行する予定だったものの、不発行に終わった“ヒトラーの仮面を脱ぐ死神”の切手です。 19世紀のドイツ統一は、オーストリア(ハプスブルク帝国)を含む大ドイツ主義とオーストリアを除外した小ドイツ主義の対立を経て、1871年、プロイセンを軸とする小ドイツ主義のドイツ帝国が誕生することで決着しました。しかし、第一次大戦の敗戦により、ハプスブルク帝国が解体されると、ドイツ人が圧倒的多数を占める新生オーストリアにおいて、アンシュルス(独墺合邦)を求める“大ドイツ主義”が再浮上。これに対して、戦勝諸国は、敗戦国のドイツがかえって国土を拡大させるのはおかしいとして、1919年9月に締結された講和条約、サン=ジェルマン条約によって合邦は禁止されます。 これに対して、1933年、オーストリア生まれのヒトラーがドイツで政権を掌握すると、その支援を受けたオーストリアのナチス党員がアンシュルスの実現を掲げ、政権奪取のためには暴力も辞さずという行動を展開。当時のオーストリア国民の間では、ナチスの暴力には反対するものの、アンシュルスじたいは支持するという声が多数派で、1938年3月13日、オーストリアを新たなドイツの州、オストマルク州とする法案「ドイツ帝国とオーストリア共和国の再統合に関す法律」の署名が行われ、アンシュルスが実現。オーストリア国民の大半は進駐してきたドイツ軍を熱狂的に歓迎しました。 これに対して、第二次大戦中の1943年11月1日、連合諸国は戦後処理の方針としてモスクワ宣言を発し、オーストリアを“ヒトラーの侵略政策の犠牲となった最初の自由国”と認定して、アンシュルスの無効を宣言。戦後は、連合国の方針として、オーストリアをドイツから分離し、元の状態に復帰させることを決定します。 1945年4月10日、ウィーンはソ連赤軍によって占領され、同27日、カール・レンナーを首班とする臨時政府が発足。これにより、「(1938年のアンシュルスは)外部からの軍事的脅迫と少数のナチ・ファシストによる反逆的テロル」によるとして無効として、アンシュルス以前のオーストリア共和国の再建が宣言されました。 1945年5月8日にドイツが降伏すると、1943年のモスクワ宣言に基づき、オーストリアの国土と首都ウィーンは米英仏ソの四国によって占領され、オーストリアの国家機関は連合国の管理下に置かれます。 こうした状況の下で、1945年11月、ウィーン市の文化教育局は、オーストリアが“ヒトラーの侵略政策の犠牲となった最初の自由国”であることを広く周知するため、1946年9月に市内のキュンストラーハウス(芸術展示館)で「忘れるな(NIEMALS VERGESSEN)!」展を開催することを決定。そして、同展の準備の過程で、1946年6月、会期にあわせて、9月16日、展覧会の周知宣伝と開催費用の補助とするため、10種の寄附金つき切手を発行したらどうかとのプランが浮上し、オーストリア郵政はすぐにこの案を承認して、切手の制作に着手しました。 ところで、占領下のオーストリアでは新たに発行する切手のデザインについても占領当局の許可を得なければなりませんでしたが、オーストリア郵政は、その手続きはあくまでも形式的なものと理解していたこともあり、とりあえず切手の制作作業を進めて事後承諾を得ればよいと考えていました。 ところが、切手発行の直前になって、占領当局、特にソ連から、提出された図案のうちの2種について「刺激が強すぎる」とのクレームがつき、問題の切手は破棄されることになります。連合国による占領政策は、あらゆる公的領域からナチズムと軍国主義を一掃する“非ナチ化”が最優先課題とされており、仮にネガティヴな表現であっても、ヒトラーの肖像を切手に取り上げることは認めるわけにはいかないというのが、占領当局の方針だったからです。ちなみに、問題視されなかった8種の切手は、予定通り、郵便局から発売されました。 こうして破棄された切手のうちの一種が、今回ご紹介の“ヒトラーの仮面を外す死神”の12グロッシェン切手です。ただし、この切手に関しては、ごく少数の破棄を免れた切手が流出し、オークションなどで取引されています。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月30日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です! 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-27 Fri 06:45
きのう(26日、現地時間)、アフガニスタンのカブール空港でタリバンと敵対する過激派組織“イスラム国(IS)”の戦闘員による自爆テロが発生し、少なくとも170人(うち米軍兵士13人)が死亡、200人(同18人)が負傷しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1964年にアフガニスタンが発行した航空切手で、当時のカブール国際空港が描かれています。 カブール国際空港は、1960年、ソ連の技術支援によってカブール北部に建設されました。1979年のソ連軍の侵攻後、親ソ政権の時代にはソ連軍およびアフガニスタン国軍との軍民共用となり、ソ連軍撤退後の内戦を経て、1996年9月にカブールしたタリバン(ターリバーン)は、同年11月までに空港の掌握を完了しています。ただし、タリバン政権の人権侵害に対する国際的な制裁もあって、1990年代末期には、ごく一部の例外を除いてカブール発着のフライトは事実上停止され、空港もほぼ閉鎖状態となりました。 2001年、米軍のアフガニスタン進攻時には空港も米軍の空爆で破壊されましたが、同年末、国連安保理決議に基く国際治安支援部隊(ISAF)が設立されるとその管理下に置かれ、国際社会の援助により、2005年にレーダーシステムが設置。2008年11月6日には日本の国際協力機構(JICA)の支援により、総工費3500万ドルをかけた新ターミナルビルが完成。翌2009年6月から営業を開始しました。なお、これに伴い、旧ターミナルは国内線用として使われることになりました。 2014年9月29日、ハーミド・カルザイ大統領が任期満了で退任すると、同年10月、アフガニスタン国民議会での決議を経て、空港名は“ハーミド・カルザイ国際空港”と改称されました。 2021年8月、タリバンがアフガニスタン各地を制圧していく中で、同12日、米国防総省のカービー報道官は米大使館職員を国外退避させるためカーブル国際空港に兵士3000人を直ちに派遣すると発表するとともに、アフガニスタンに滞在する米国民に対し即座に出国するよう要請。これを受けて、同15日、タリバンがカーブルを掌握した数時間後、米国務省のプライス報道官により、米大使館の外交官はヘリコプターなどで退去が完了し、米軍がカーブル国際空港周辺を確保したことが発表されました。 また、翌16日には、国外避難を希望する市民も空港に殺到したため、民間側の旅客機の出発は一時中止となり、米軍輸送機に人々がしがみつくのを阻止するため、米軍が空に向けて発砲。混乱の中、5人が死亡したと報じられています。また、、同日付で、タリバンにより旧アフガニスタン国軍と国家警察は解体され、NATOがその業務を当面代行することになり、翌17日から、国外に退避する市民向けの航空便の運行が再開されました。 ただし、空港周辺の治安状況は相当悪化しており、23日には、空港のゲート近くでアフガニスタン人の警備員に向かって何者かが発砲する事件も発生。米軍やドイツ軍なども巻き込んだ銃撃戦に発展し、警備員1人が死亡、3人が負傷しています。このため、現地の米大使館は、事件発生前日の25日、SNSなどに脅威情報を流し、カブールに残っている米国民に対して、具体的な内容は示さずに“安全上の脅威”があるとして、米政府から個別の指示があるまで空港のゲートには来ないように勧告するとともに、すでに空港ゲートに来ている人々にはただちにその場を離れるよう指示。英外務省も、空港に向かわないよう勧告していました。 さらに、26日には、英国のヒーピー国防担当閣外相が、アフガニスタンのカブール空港に集まった人に対して「過激派組織・ISが自爆攻撃を計画しているという“非常に信頼性の高い”情報が存在する」と明らかにし、オーストラリアもカブール空港から離れるよう勧告、ベルギーは攻撃の危険性があるとして退避活動を終わらせ、オランダ政府は、退避資格のある人を一部残したまま、同日で退避便の運航を終了する見通しを示していました。 謹んで、亡くなられた方の御冥福をお祈りしつつ、負傷者の方の御快癒をお祈りします。 * この記事を最初にアップした時点では、米国防総省の発表では、空港近くで国外退避の便を待つ米国人らが待機する場所として使われていたバロンホテルでもテロがあったされていましたが、後に、ホテルでの爆発はなかったと訂正発表がありましたので、それに合わせて記事内容を一部修正しました。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月30日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です! 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-26 Thu 06:58
万国郵便連合(UPU)の事務局長選挙が、きのう(25日)、コート・ディヴォワールで行われ、日本郵便の目時政彦氏が当選しました。日本人が国連機関のトップに立つのは、国際原子力機関(IAEA)の天野之弥事務局長が2019年に亡くなって以来、およそ2年ぶりのことです。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1902年6月18日に発行された「万国郵便連合加盟25年祝典」の記念絵葉書のうち、条約加盟当時(1877年)と祝典開催時(1902年)の横浜郵便局を対比させた1枚です。万国郵便連合関係の切手・絵葉書類は全世界から山のように出ていますが、せっかくなので、現在開催中の日本国際切手展<PHILANIPPON 2021>の開催地、横浜にちなむものということでこの葉書を選んでみました。 1840年に英国が世界最初の切手を発行して以来、切手を用いる近代郵便制度は急速に全世界へと拡大。当初、国境を越えた郵便物のやり取りに関しては、それぞれの国がさまざまな国との間で二国間条約を結んで処理していましたが、各国ごとに郵便物の重量についての制限や段階などが異なっていたほか、条約ごとに料金体系もさまざまでした。このため、一口に外国郵便といっても、宛先によって料金や手続きがまちまちで、利用者や郵便の現場では、さまざまな不便・不都合がありました。 こうした不便を解決すべく、1862年、米国の郵政長官・ブレアは、世界共通の国際郵便条約締結を目指し、国際会議の開催を提案。これを受けて、1863年、英仏をはじめ14ヶ国の代表がパリに集まり、重量や料金の統一などについて討議し、31ヶ条からなる一般原則を採択しました。 こうした流れを受けて、1868年、北ドイツ連邦の郵政長官・シュテファンが国際郵便条約の草案を発表します。 19世紀初頭のナポレオン戦争以降、いわゆるウィーン体制下のドイツ圏では、オーストリア主導の下、35の領邦(地方君主国)と4の自由都市の緩やかな連合としてドイツ連邦が構成されていました。その後、このドイツ連邦内の主導権をめぐり、プロイセンとオーストリアが対立し、1866年6月、プロイセンはドイツ連邦からの離脱を宣言し、オーストリアに対して宣戦を布告しました。これが、いわゆる普墺戦争です。 この戦争に勝利を収めたプロイセンは、ドイツ連邦を解散し、マイン川以北の領邦との間で新連邦を形成。シュレスヴィヒ・ホルシュタイン両公国、ハノーファー王国、ヘッセン選帝侯国、自由都市フランクフルト・アム・マインはプロイセン領とされました。こうして、1867年、プロイセンを盟主として、22の領邦の連合体による北ドイツ連邦が成立。これを母体に、1871年に誕生したのがドイツ帝国です。 ドイツ統一以前の領邦国家の中には独自の切手を発行している国も多く、領邦間の郵便交換の調整は深刻な問題で、シュテファンが外国郵便の簡素化を各国に提唱したのも、多数の領邦国家を抱えるドイツとして、大いに不便を感じていたという事情もありました。 さて、シュテファンの提案は、ドイツ統一後の1874年、スイスの召集により開催された郵便大会議において討議され、会議最終日の10月9日、「一般郵便連合の創立に関する条約」が調印されます。この条約は1875年7月1日から施行され、以後、一般郵便連合加盟国の間で交換される郵便物は均一料金となり、現在の国際郵便網の原型ができあがりました。 一方、わが国では1871年に近代郵便が創業され、その郵便網は急速に整備されていきます。当初、日本郵政は外国宛の郵便物を取り扱うことはできず、開港地に置かれた英・米・仏の郵便局を頼らざるを得ませんでしたが、1873年8月、日米間で皇米郵便交換条約が締結され、1875年1月1日以降、米国の仲介を頼ったとはいえ、日本の郵政は外国宛の郵便物の取り扱いを開始しました。 こうした実績を踏まえ、1877年、わが国は一般郵便連合への加盟が認められ、郵便に関しては欧米諸国と対等の地位を獲得します。 ちなみに、わが国は同連合創立以来、28番目の加盟国ですが、普仏戦争の影響から、フランスでさえ同連合に加盟したのは、日本の加盟前年の1876年のことでしたから、当時の日本の総合的な国力に比して、日本の国家郵政に対する国際社会の評価は極めて高かったといってよいでしょう。なお、一般郵便連合は1878年のパリ会議で、現在の名称となっている万国郵便連合と改称されました。 1945年6月の国連憲章調印により、万国郵便連合は国連の専門機関となりましたが、これに伴い、敗戦国の日本とドイツ、米軍政下の南朝鮮などは参加資格を一時的に喪失。しかし、これでは、国際郵便の実務面で支障が多かったため、戦後最初の連合大会議となった1947年のパリ大会議では、これら各国も連合国の許可を得れば連合に復帰できることを最終議定書第17号第2項で規定。これを受け、1948年6月、わが国は万国郵便連合への復帰を果たし、現在に至っています。 ちなみに、わが国が万国郵便連合に加盟した経緯などは、拙著『切手でたどる郵便創業150年の歴史vol.1 戦前編』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月30日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です! 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-25 Wed 00:15
きょう(23日)から、パシフィコ横浜でわが国の郵便創業150年を記念して、日本国際切手展<PHILANIPPON 2021>が始まります。というわけで、ストレートにこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、今回の切手展の事前周知のため、昨年(2020年)8月3日に発行された“日本国際切手展2021”の切手シートで、日本の象徴・富士山をテーマに10点の切手が収められています。 シートの上部には、開催地の横浜みなとみらいの高層ビル群から望む富士の夜景を取り上げ、富士山の部分が切手になっています。中段の4枚は、(左から)富士山と桜①、富士山と山中湖に映る逆さ富士、富士山とコキアとコスモス、朝の霧ヶ峰から望む富士山と霧氷のカラマツ林、下段の5枚は(左から)富士山と桜、富士山と茶畑、富士山とツツジ庭園、富士山とキバナコスモス、夜明けの富士山と河口湖に映る逆さ富士、となっています。 今回の展覧会は、2011年の<PHILANIPPON 2011>以来10年ぶりに日本で開催される国際切手展として、当初は前回同様、全世界から作品を募る世界切手展として企画されましたが、新型コロナウイルス禍により、外国人の出品者・審査員の参加が困難になったため、海外からの作品搬入は郵送のみの受付とし、規模をアジア国際切手展に縮小して行われることになりました。また、入場は無料ですが、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、原則として、同展ウェブサイトでの事前登録が必要となっています。 僕自身は、今回は出品者ではなく、審査員として参加するため、昨日(24日)から横浜入りしています。また、会場で販売される展覧会のブルテン(カタログのようなものとお考えください。下にその表紙画像を貼っておきます)にも「日本切手の誕生」と題する文章(和英バイリンガル表記)を寄稿しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧ください。 8月に入り、新型コロナウイルスの感染が拡大する中で、関係者の方々のご尽力により、コロナ対策など各種の制約はありながらも、ともかくも展覧会の開催が実現したことは本当にありがたいことです。いろいろ難しい事情はあると思いますが、一人でも多くの方に、会場でお会いできれば幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月30日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です! 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-24 Tue 02:14
新型コロナウイルス禍により、オリンピックとともに1年延期されていた東京2020パラリンピック競技大会(以下、パラリンピック)が始まります。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、東京オリンピックの開幕一月前の6月23日に発行された“東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会”の記念切手のうち、パラリンピックの切手シートに収められた大会エンブレムの切手です。 第二次大戦中の1944年、英政府は、戦争で負傷し脊髄損傷になった兵士の治療と社会復帰を目的に、ロンドン郊外にあったストーク・マンデビル病院内に脊髄損傷科(現国立脊髄損傷センター)を開設。所長のルードウィッヒ・グットマンは、スポーツを治療に取り入れ、パンチボール訓練を導入、1945年からは車いすによるポロやバスケットボール、卓球などを導入しました。こうした前史を経て、1948年7月29日、グットマンはロンドン五輪にあわせてストーク・マンデビル病院内で16名(男子14名・女子2名)の車いす患者(英国退役軍人)によるアーチェリー大会を開催。これがパラリンピックのルーツとされています。 以後、同大会は毎年開催され、1952年にはオランダの参加を得て国際競技会へと発展。1960年、英国、オランダ、ベルギー、イタリア、フランスの5か国により国際ストーク・マンデビル大会委員会(ISMGC)が設立され、グットマンがその初代会長に就任します。ISMGCは、五輪開催年に実施する大会は、オリンピック開催国でオリンピック終了後に実施する意向を表明しました。 これを受けて、ローマ五輪の行われた1960年、ローマで23か国・400名が参加して国際ストーク・マンデビル大会が開催されます。これが、実際の大会としては第1回のパラリンピックとなりました。 ついで、1964年の東京五輪の直後、東京で国際身体障碍者スポーツ大会が開催され、“Paraplegia(対まひ者)”の“Olympic”=“Paralympic”ということで、パラリンピックという愛称が採用されます。 東京大会の後、ふたたび、パラリンピックは五輪開催地とは別の地で行われるようになりましたが、年を追って、大会の参加者は車いす使用者だけでなく、さまざまな障碍のある人に拡大。これに対して、当時のIOCはパラリンピックの名称がオリンピックと類似であることを嫌い、“パラリンピック”は単なる非公式の愛称にすぎないとの立場を取っていましたが、1985年、IOCはパラリンピックスの名称を使用することに同意(その一方で、オリンピックの名称は禁止)。その際、“パラリンピック”の語は、パラ=Parallel(沿う、並行)+Olympics(オリンピックス)へと解釈変更されました。 こうして、1988年、ソウル五輪の後に、“パラリンピック”を正式名称とした最初の大会として、ソウルパラリンピックが開催され、61か国3057名の選手が出場。同大会が、オリンピック組織委員会がオリンピックとパラリンピックを連動させたはじめての大会(オリンピックで使用した会場も使用)となります。 そして、翌1989年、ドイツのデュッセルドルフで国際パラリンピック委員会(IPC)が創設。2000年にはIOCとIPCとの間で「オリンピック開催国は、オリンピック終了後、引き続いてパラリンピックを開催しなければならない」との基本合意が成立し、現在のパラリンピックの枠組ができあがり、現在に至っています。 * 昨日(23日)の文化放送「おはよう寺ちゃん」の僕の出番は、無事、終了いたしました。リスナーの皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。次回は来週月曜日・30日に登場の予定です。引き続きよろしくお付き合いください。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月30日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です! 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-23 Mon 03:18
きょう(23日)は、1939年8月23日に独ソ不可侵条約(に付随する東欧分割の密約)が調印されたことにちなみ、2009年に欧州議会が制定した“スターリニズムとナチズムの犠牲者追悼の日”です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1995年6月14日、リトアニアが発行した“追悼と希望の日”の切手で、木彫りのピエタ像が描かれています。 独ソ不可侵条約の秘密議定書は、東欧をドイツとソ連の勢力圏に分割するという内容のもので、ナレフ川=ヴィスワ川=サン川を境界として両国でポーランドを分割すること、バルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)およびルーマニア領ベッサラビアはソ連が併合し、フィンランドをソ連の勢力圏とすることが謳われていました。 これに従い、1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻すると、同17日、ソ連は“ウクライナ系・ベラルーシ系市民の保護”を口実にポーランド東部国境から侵攻を開始。独ソ両軍は衝突することもなく、秘密議定書の分割線に従って占領域を確定させ、9月28日には独ソ不可侵条約を前進させたドイツ・ソビエト境界友好条約が締結されます。 その後、リトアニアを含むバルト3国の併合を既定路線としていたソ連は、リトアニアを油断させるため、ポーランド東部への侵攻後、リトアニアとポーランドとの係争地であったヴィリニュス地域をリトアニアに“返還”しましたが、1940年6月、ソ連軍の国境警備隊兵士の誘拐事件を自作自演。この事件にリトアニアが関与しているとしてリトアニアに最後通牒を突きつけ、6月15日、15個師団15万人の赤軍をリトアニアに進駐させました。ソ連の占領下では、7月14-15日、リトアニア共産党の候補しか立候補できない選挙を経て、同21日に開かれた人民議会で、リトアニアの国名を“リトアニア・ソビエト社会主義共和国”とし、ソビエト連邦に加盟する決議が採択されます。そして、8月3日、ソ連最高会議がこれを承認するというかたちで、リトアニアはソ連に併合されてしまいました。 ちなみに、リトアニアの併合を既定路線としていたソ連は、6月15日のリトアニア進駐後、各国に対して在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を要求。このため、7月以降、ユダヤ難民たちは中立国として業務を続けていたカウナスの日本総領事館に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到し、領事代理大使の杉原千畝が8月の領事館閉鎖まで、ビザの発給業務を続けたことは知られています。 なお、当時のリトアニアでは反ユダヤ感情が非常に強く、ソ連占領下では地元警察も協力してのポグロム(流血を伴うユダヤ人・ユダヤ教徒迫害)が発生しており、ソリー・ガノール(杉原千畝と個人的な親交のあったユダヤ人で、ダッハウ収容所に収容され、米日系人部隊によって救出)は、以下のように証言しています。(以下、証言は『日本人に救われたユダヤ人の手記』講談社より) ユダヤ人にとってスラボトケ(リトアニアの一地区)は、殺戮の地とされていた。ナチス・ドイツの対ソ不意打ち攻撃が始まってわずか3日後の6月25日、リトアニア人によるユダヤ人虐殺の最初の惨劇が、ここで繰り広げられたのである。夜更け、斧や銃、ナイフで武装したリトアニア人たちの大きな集団が、ユダヤ人の集中的居住地区に三々五々集まってきた。朝の光は無残な光景を照らし出した。男も女も子どもも四肢をばらばらにされており、家の中は壁も床も血だらけだった。酒に酔ったリトアニア人は、犠牲者の首でサッカーをしたとも伝えられている。この夜、700人をこえる人々が生命を落とした。 スラボトケの惨劇は、その後第七要塞で行なわれた数千人の虐殺への序曲にほかならない。リトアニア人によるユダヤ人攻撃が、多少とも鎮まるのは、ドイツ人による民政・軍政が整備されてからのことである。 さて、ソ連への併合から約1年後の1941年6月14日、ソ連当局は、彼らが反ソ的と認定した“政治犯・思想犯、知識階級”を中心にリトアニア人のシベリア移送を開始しました。これにちなんで設けられたのが、今回ご紹介の切手の題材となっている“追悼と希望の日”です。1941年には6月14日から18日までの5日間だけで約1万7500人もの人々がシベリア送りになりましたが、その後、ドイツ占領時代の中断をはさんで、11年間で約13万人ものリトアニア人がシベリアへ送られ、強制収容所で劣悪な条件の下、過酷な労働に従事させられ、拷問や処刑で亡くなった人を含め、3分の1が命を落としています。 一方、ソ連に対する抵抗運動としては、1941年4月22日、独立回復を目指して“リトアニア臨時政府”が秘密裏に結成。6月22日に独ソ戦が始まると、翌23日、臨時政府は独立を宣言しましたが、ドイツ軍がリトアニアに進駐すると、同年8月7日、臨時政府は解体されてしまいました。 もともと反ユダヤ主義の傾向が強かったところで、ドイツの占領下では、反ソの立場からナチスの反ユダヤ主義に同調するリトアニア人も多く、ユダヤ人への迫害もエスカレート。上述のガノールの手記には、以下のような記述もあります。 1941年8月7日、臨時の首都カウナスにいたリトアニア人は1000人を超すユダヤ人男性を射殺した。このリトアニア人の攻撃は、ゲットー年代記の中で「木曜日の迫害行動」として知られるようになる。私は同じ日、カウナスを離れてスラボトケのゲットーに向かっていたが、市内はわりあい静かに思えた。おそらく、街路をドイツ軍の巡察隊がパトロールしていたせいであろう。私たちを隣人たちから守るためにナチが出てくるなんて変なことになったものだ、と思わずにはいられなかった。 その後、1944年にはソ連がリトアニアを再占領し、リトアニア人のシベリアへの強制移住も復活。以後、1991年の再独立までリトアニアはまたしてもソ連の支配下に置かれ続けることになります。ただし、ソ連時代のリトアニアでは、第二次大戦に関する記念碑にユダヤ人の犠牲に関する言及はなく、“現地住民”の苦難を追悼するためのものとして、ユダヤ人迫害の問題についてはタブー視されていました。これに対して、1991年の再独立後のリトアニア政府は、ホロコーストの犠牲者を追悼し、反ユダヤ主義と戦い、そしてナチス時代の戦争犯罪を裁く旨の声明を発するとともに、旧ソ連諸国の中では、ホロコーストに関連する土地の保存、記録に関する法律を制定した初めての国となっています。 なお、独ソ両国に翻弄された第二次大戦中の中東欧・バルト諸国と、彼らの反ユダヤ主義については、拙著『みんな大好き陰謀論』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月23日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です! 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-22 Sun 11:39
パキスタン南西部バローチスターン州の港町グワーダルで、おととい(20日)午後7時ごろ、中国関連企業の進出に反対する武装勢力、“バルーチスターン解放軍(BLA)”による自爆テロがあり、中国人1人が負傷しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1985年、親ソ政権下のアフガニスタンが発行した“パシュトゥン人とバルーチ人の日”の切手で、アフガニスタンが主張する“パシュトゥニスタン”の国旗を掲げ、記念日を祝う両民族が描かれています。 バルーチスターンは、現在の国名でいうと、パキスタンの西南(バローチスターン州)、イラン東南(スィースターン・バルーチェスターン州)、アフガニスタン南部(ニームルーズ州、ヘルマンド州、カンダハール州、ザーブル州、パクティーカー州)にまたがる地方で、古くはカラート藩王国の支配下にありましたが、1840年に英国が侵攻。1854年に現在のパキスタン領の部分が英国の保護領となり、北部の一部がアフガニスタン領に、西部の3分の1ほどがナーセロッディーン・シャー治世下のガージャール朝ペルシャの支配下に入りました。 1878年に始まる第2次アフガン戦争の結果、アフガニスタンは英国の保護国となり、英国の支援を受けたアフガン王、アブドゥッラフマーン・ハーンは、1884年、国内統一を達成。1891年にはアフガニスタン王国の成立を宣言します。そして、これを受けて、1893年、英領インドとの暫定的な境界として、デュアランド・ラインを画定しました。 ところが、1919年、アフガニスタンが英国から独立したことで、暫定的なものであったはずのデュアランド・ラインは恒久的な“国境”になります。 1947年、英領インドの西側が(西)パキスタンとして独立すると、もともと“インド”の一部ではなかったバルーチスターンはカラート藩王国として独立したうえで、パキスタンとは特別の関係を結ぶことを模索し、1952年、バルーチスターン藩王国連合の独立を宣言しましたが、パキスタンは武力でこれを制圧し、1955年には名目的に残っていた藩王国も消滅させられ、パキスタン領バローチスターン州が樹立されます。 一方、アフガニスタンは、1947年のパキスタン独立をデュアランド・ラインによる国境見直しの好機ととらえ、インド洋への出口を求めて、「パキスタンの北西辺境州(現カイバル・パクトゥンクワ州。デュアランド・ラインからインダス川までの地域)には、アフガニスタン国内の多数派民族・パシュトゥン人が700万人住んでいる」との理由から、この地域を“パシュトゥニスタン(パシュトゥーニスタン)”と呼び、その領有権を主張しました。しかし、この主張は国際社会からは一顧だにされなかったため、アフガニスタンはパシュトゥニスタンを直接領有することを断念し、1949年7月、アフガニスタン領内でアフガニスタンの主張に賛同する勢力に“パシュトゥニスタン”の建国を宣言させました。 さらに、当時の東西冷戦の文脈の中で、パキスタンが親ソ国家のインドへの対抗上、親米政策を採ると、アフガニスタンはパキスタンへの対抗上、親ソ政策を採用。こうして両者の対立がエスカレートする中で、1955年、バローチスターン州を設立したパキスタンは、これと併せて、アフガニスタン領内のバルーチ人居住地域のパキスタンへの併合を主張。そこで、アフガニスタンはパキスタン領内のパシュトゥーン人を支援して“パシュトゥニスタン独立運動”を扇動し、両国の亀裂は決定的となりました。 その後も、パシュトゥニスタン問題は、複雑な民族構成のアフガニスタンにおいて国家統合の重要な手段となり、王制から共和制、親ソ政権など体制が変化しても、切手の題材として盛んに取り上げられていきます。今回ご紹介のアフガニスタン切手で、パシュトゥン人とバルーチ人の友好関係が謳われているのも、こうした背景によるものです。 さて、今回の自爆テロ事件を起こしたBLAは、バルーチ人のパキスタンからの分離独立を掲げ、“中国パキスタン経済回廊(CPEC)”の破棄を求める武装組織で、その拠点はパキスタンのバローチスターン州デラ・ブグティ地区などにありますが、訓練施設はアフガニスタン領内にあるとされています。また、2018年にカラチの中国総領事館襲撃事件を指揮したとされる司令官は、同年12月、アフガニスタン南部のカンダハール州で殺害されるなど、アフガニスタンとの関係が深い組織でもあります。 パキスタン政府は、2006年4月、BLAを非合法化して取り締まりにあたっていますが、テロ組織の根絶にはほど遠いのが実情で、今後、中国がタリバン支配下のアフガニスタンへの進出を進めていけば、BLAによるテロも激しさを増すのではないかと懸念されます。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月23日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です! 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-21 Sat 11:59
今月15日、イスラム武装勢力、タリバン(ターリバーン)が実権を掌握したアフガニスタンで、19日までに、ドイツの公共放送ドイチェ・ウェレの記者(アフガニスタン国籍)の家族1人がタリバンによって射殺され、別の1名も重傷を負わされていていたことが明らかになりました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2016年1月24日、ドイツ・ベルリンで使用された“ドイツ・アフガニスタン国交100周年”の記念印で、両国の国旗がデザインされています。 ドイツとアフガニスタンの関係は、1893年、ドイツの大手兵器製造会社、クルップ社のゲプハルト・フライシャーがカブールを“私的に”訪れ、英保護下のアフガン王、アブドゥッラフマーン・ハーンと面会したことから始まります。その後、1898年にフライシャーはアフガン王と契約を結び、カブールにマシーン・ハーネ(機械廠)とトゥプハーネ(砲兵廠)を設立しましたが、1904年11月、英領インド出張中に何者かによって殺害され、アフガニスタンにおけるクルップ社の事業も頓挫しました。 1914年に第一次大戦が勃発すると、アフガン王ハビーブッラーが英国からの独立を真剣に目指していることを察知したドイツは、英国への件政策として、1915年、23人からなる“ニーダーマイヤー・ヘンティッヒ使節団”をアフガニスタンに派遣。保護国の立場としては、宗主国の英国に無断で他国との条約は結ぶことはできないはずでしたが、ハビーブッラー・ハーンはこれを無視してドイツ使節団を引見し、1916年1月24日、両国間で友好通商協定が調印されて正規の外交関係が樹立されるとともに、ドイツ側は、アフガニスタン側に10万丁のライフルと、300門の大砲を供与することを約束します。 その後、1918年のドイツ革命でドイツ帝国は崩壊し、1919年にはアフガニスタンも英国から独立するなど、両国の立場は大きく変化しましたが、アフガニスタン側は1922年にドイツに外交使節を派遣し、友好関係の維持を希望。これを受けて、1926年3月3日、1916年の条約を修正した友好協定が結ばれ、ベルリンとカブールの領事館は大使館へと格上げされました。さらに、1928年にはアフガニスタン国王のアマーヌッラー・ハーンが訪独し、ワイマール共和国大統領のヒンデンブルクと会見しています。 1933年にドイツでヒトラー政権が誕生すると、歴史的に英露両国の圧力を受けてきたアフガニスタンはドイツとの関係を重視し、ベルリン―カブール間に航空路が開設されたほか、アフガニスタン政府は国内の主要インフラの整備について、ナチス時代のドイツで公共事業を請け負っていたトート機関の指導を仰いでいます。 こうしたこともあって、第二次大戦勃発後、ソ連は独伊両国の外交官を追放するよう、アフガニスタン政府に圧力をかけましたが、アフガニスタン側はこれを拒否。それどころか、ドイツの軍事支援と英領インド帝国の支配下にあったカラチ港への内陸からのアクセス権を得ることや、英領インド領内のの“同胞(パシュトゥン人)”1500万人の解放などを条件に、枢軸陣営に加わることも検討しました。 ところが、1941年6月に独ソ戦が始まると、イランが枢軸陣営に加わることを懸念した英ソ両国はイラン領内に進駐し、イランを分割占領してしまいます。これに驚愕したアフガニスタンは1941年10月、独伊両国の外交官を追放するとともに、枢軸国のみならず交戦中のすべての国の外交官以外の民間人に国外退去を命じ、大戦には伊佐氏無関係と主張して“中立”を宣言しました。 第二j大戦後、アフガニスタンは第三帝国の後継国家として1950年に西ドイツと国交を樹立。1952年にはミュンヘンにアフガン文化センターが開設されたほか、1958年に締結された経済技術協力協定に従ってドイツ人技術者がアフガニスタンに派遣されるなどの友好関係が続いていました。なお、東ドイツとは1973年に相互に国家承認を行っています。 1979年末のソ連軍のアフガニスタン侵攻により、西ドイツ人スタッフが国外退去になると、今度は東ドイツがカブールの親ソ政権を支援することとなり、1982年3月21日、両国間で友好協力条約が締結されました。なお、同条約による東ドイツのアフガニスタン支援は、教育スタッフの派遣が中心でしたが、1985年には2億マルクの資金援助も行われました。 ソ連軍撤退後の内戦を経て、2001年の米軍のアフガニスタン進攻により、タリバン政権が崩壊すると、同年12月5日のボン合意に基づき、12月20日の国連安保理決議1386でアフガニスタンに対する国際治安支援部隊(ISAF)が設立されます。当初、ISAFは有志国からなる多国籍軍により構成されていましたが、その後、北大西洋条約機構(NATO)が統括。ISAFの最盛期には、NATO加盟国を中心に約50ヵ国約14万人が駐留していましたが、そのうち、ドイツは、米国の3万4800人に次ぐ4365人を派遣していました。 また、経済支援という点でも、2002-19年の累積で、ドイツの支援額は米日英に次いで4番目の規模となっており、ことし(2021年)も、インフラ構築のほか、地元警察の訓練、女性教育の向上などの分野で、総額4億3000万ユーロ(約550億円)の支出が予定されていました。 このように、ドイツは旧ガニ―政権を支えてきた経緯もあり、タリバンの攻勢でガニー政権が窮地に陥っていた先週12日の時点で、ハイコ・マース外相は、「タリバンが完全に(アフガニスタンの)支配権を握り、シャリーア(イスラム法)を導入し、カリフ制国家へと変えれば1セントたりともアフガニスタンには送らない」と述べ、アフガニスタンへの経済援助を打ち切る考えを明らかにしており、カブール陥落以後の17日には、シーメンス・エナジーによる電力網整備のインフラプロジェクトを含むアフガニスタン支援の一時停止が発表されました。 カブール陥落後の記者会見などでは、「(彼らの理解による)イスラム法の範囲内で人権は保障する」などと述べているタリバン指導部ですが、長年の友好国であったドイツに対する今回の一件で、西側の不信感が増幅することは避けられないでしょうね。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月23日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です! 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-20 Fri 09:54
きのう(29日)、チベットのラサで、中国共産党政権による“チベット平和解放70年”の記念式典が行われました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1956年10月19日、マカオからチベットの春堆(チュンドゥイ)郵便局長宛に送られた郵便物ですが、中国の支配下で春堆郵便局は閉鎖されていたため、ラサで「当地にはこの機関は存在していないので返送します」という趣旨の角印が押されて差出人に返戻されています。宛先が、“中国西蔵省”になっているのも興味深いところです。 チベットと中国中央政府との“国交”は唐代にまでさかのぼることができますが、宗主国と保護国という両者の関係が確立されたのは17世紀中葉の清朝初期のことです。その後、清朝は、チベットに駐蔵大臣を派遣し、チベットの財政・外交・軍事などに強い影響力を行使するようになりました。 もっとも、この段階では、チベット政府の独自性も確保されており、両者は国境の確定もあいまいなまま、共存する状態にあったといえます。そもそも、清朝の体制は、満洲族の皇帝が漢族を含む他の諸民族を中央集権的に支配するというのではなく、どちらかというと、域内諸民族の緩やかな連合国家という性質の強いものでしたから、それも当然のことと言えましょう。 しかし、こうした状況は、1858年にインドを植民地化した英国が中印国境地域に侵食していくことで、変容を迫られます。この結果、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、チベットをめぐって、清朝と英国との対立が生じましたが、両者の対立は、1907年のシムラ会議により、チベットにおける清朝の主権が確認されたことで、いちおう決着しました。ただし、この間、当事者であるチベットの意向が真剣に考慮されることはありませんでした。 ところで、1911年の辛亥革命で清朝を打倒した孫文らの革命活動は、“駆除韃虜 恢復中華”のスローガンの下、満州族の支配を打倒して漢民族の政治的・文化的支配を復活させることを建前としていました。したがって、“韃虜”に分類される満洲・チベット・モンゴル・ウィグルの各民族からすれば、自分たちを駆除するということを公言してきた革命政権に服属しなければならない理由はまったくないわけで、清朝の滅亡後、チベットは中華民国に対して分離・独立を宣言します。 これに対して、中華民国側は自分たちが清朝の継承者であるとの建前から、チベットの独立を認めず、“中国領チベット”の支配を継続しようと目論見ます。しかし、革命後の混乱により、中国中央政府の統制はチベットには及ばず、チベットは実質的に中国とは別の国になり、チベットでは貨幣や切手も独自のモノが発行されました。これらは、かつてのチベットが独立国であったことの根拠の一つとされています。 1947年、英領インド帝国が解体され、インドとパキスタンが分離独立すると、新生インド政府はラサの英領インド外交部を継承し、チベット−英国間の条約も継承されます。インドはチベットを“国”として認め、チベット外務省に対して「インド政府は、今後新たな協定を結ばない限り現状の関係を維持したい、という貴国の意向を歓迎いたします。インド政府が英国政府から継承した条約関係につきましては、他の国もすべて、そのまま継承していただいております」との書簡を送っています。 ところが、1951年4月、中国人民解放軍が“平和解放”の名の下にチベットに武力進駐。同年5月23日、中国はチベットに対して「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放に関する協定」(いわゆる17条協定)を押し付け、チベットの独立を奪いました。 これに対して、チベットでは1956年以降、カムやアムド地方での武装闘争が始まります。抵抗運動を何とか抑え込みたい中国側はチベット東部には人民解放軍を増派するだけでなく、チベットの村や僧院に対して制裁攻撃を実施。人民解放軍の司令官はポタラ宮やダライ・ラマ14世を攻撃するとの恫喝も行っていました。今回ご紹介のカバーの宛先の春堆郵便局もその過程で閉鎖に追い込まれたものと思われます。 こうした状況の中で、1959年3月1日、中国側がダライ・ラマを観劇に招待。会合前日の3月9日、人民解放軍陸軍の将校たちは、ダライ・ラマの観劇に際してはボディガードを同行させないことや、ダライ・ラマが宮殿から会見場所の人民解放軍駐屯地に移動する際にも公式な儀式を行わないことを強く要求しましたが、中国がダライ・ラマの監禁ないしは誘拐をたくらんでいると察知したチベットの人々は、翌10日、ダライ・ラマが宮殿から連れ出されるのを防ごうと宮殿を取り囲みました。 事態が緊迫する中で、3月12日、チベットの人々は独立を宣言。ラサの通りにはバリケードが築かれるとともに、インド領事に対してもチベット支援の訴えが行われました。そして、3月17日、ついにダライ・ラマの宮殿の近くに2発の砲弾が着弾したことで、ダライ・ラマは亡命を決断するのです。 一連の混乱の中で、チベット亡命政府の推定値によると、およそ8万6000人のチベット人が亡くなり、ノルブリンカ宮殿には、約800発の砲弾が打ち込まれました。また、ラサの三大寺院であるサラ、ガンデン、デプンは砲撃によって深刻な損傷を受け、ラサ市周辺の僧院や寺院は略奪もしくは徹底的に破壊されました。ラサに残ったダライ・ラマのボディガードたちは、数千人の僧侶とともに処刑されています。 その後も チベットでは、強圧的な共産党の支配と強引な中国化・社会主義化への抵抗運動が続けられていますが、中国政府は、チベットの独立運動家やその支援者(とみなされた人々)に対しては容赦のない人権抑圧を日常的に行ってきました。2008年3月10日からは、中国政府の支配に反発するチベット人がラサで抗議活動を開始。抗議活動は、周辺の四川、青海、甘粛各省のチベット人居住地域にも波及し、同14日には地方政府機関や商店などが破壊される大規模な“暴動”に発展します。これに対して、中国政府は治安部隊を動員し、200人以上を殺害して“暴動”を鎮圧しましたが、この騒乱を契機として、中国の圧政を世界に発信するため、抗議の焼身自殺を行うチベット人が急増しました。 こうした経緯を踏まえ、2020年12月、米国では、チベットでの人権弾圧を批判し、人権や信教の自由を擁護する法律(チベット人権法)が成立。中国がダライ・ラマ14世の後継者選定に介入した場合、米国は制裁を検討すると明記しているほか、チベットの首府、ラサに米領事館の設置を認めない限り、在米中国領事館の新設を承認しないよう米政府に求めています。 これに対して、7月21日から23日まで、習近平は、当時大水害の被害が深刻であった河南省については触れることなく、“党総書記”として31年ぶりにチベットを訪問。ラサ中心部のポタラ宮前では「チベットは各民族が共同で開発し、チベットの歴史は各民族が共同で書き記してきたものだ。チベット族とその他の民族の交流が、常にチベットの発展の歴史を貫いてきたのだ。 いまや、社会主義現代化国家は、新たな道のりを全面的に建設し始めており、チベットの発展も新たな歴史の起点上に立っているのだ。ただ中国共産党と共に歩み、中国の特色ある社会主義の道を頑なに進み、同心協力、民族団結を強化するのだ。そしてわれわれは必ずや、第2の100年の奮闘目標を期日内に実現し、中華民族の偉大なる復興という中国の夢を実現するのだ!」と演説し、今後も(人権侵害満載の)チベット政策をそのまま継続していく意思を明らかにしています。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月23日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です! 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-19 Thu 04:20
きょう(19日)は、1919年8月19日にアフガニスタンが英国から独立したことにちなみ、アフガニスタンの独立記念日です。というわけで、現時点で国際的に承認されているアフガニスタン国旗を描く切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2015年2月4日、ニュージーランドが発行した“2015 ICCクリケット・ワールドカップ”の記念切手のうち、同大会の出場国であるアフガニスタンを取り上げた1枚です。 2015年のクリケットW杯は、2月14日から3月29日までオーストラリアとニュージーランドの共催で行われ、オーストラリアが2大会ぶり5度目の優勝を果たしました。アフガニスタンは、大会の主催団体であるICC(国際クリケット評議会)のフルメンバー資格を有する10国には含まれていませんが、2011–13年に行われたICCワールドクリケットリーグチャンピオンシップに参加した8国のうち、上位2国に入ったため本大会への出場権を獲得。本大会では、予選のプールAで7国中6位で決勝トーナメントには出場できませんでした。 ニュージーランドはクリケットW杯の開催に先立ち、ボールの中に大会のロゴマークと参加国の国旗をデザインした切手14種を発行しています。今回ご紹介の切手はそのうちの1枚で、2013年以降のアフガニスタン国旗が取り上げられています。この記事を書いている時点で、アフガニスタンのカブール政権は事実上崩壊していますが、カブールを制圧したタリバンによる統治機構はいまだ確立しておらず、国際社会の大半は“タリバン政権”を承認していません。したがって、現時点では、今回ご紹介の切手に描かれている国旗が国際的に承認されたアフガニスタン国旗(それゆえ、ニュージーランドの切手にも取り上げられたわけですが)ということになります。なお、国旗そのもの画像を下に貼っておきます。 現行のアフガニスタン国旗は、黒・赤・緑の縦三色旗の中央に国章を配したデザインで、2013年8月19日、国章のマイナーチェンジ(国名表示がアフガニスタン・イスラム国からアフガニスタンに変更)に対応して、2004年に制定の国旗を微修正して制定されました。 中央の国章は、シャハーダ(イスラムの信仰告白で、「アッラーのほかに神なし。ムハンマドは神の使徒なり」とのアラビア語の文言)と「神は偉大なり」の聖句の下に、朝日を背景に両脇に国旗を掲げたモスクのイメージを描き、その中に、ミフラーブ(メッカの方角を示す壁龕)と説教壇が配されています。モスクの下部の数字は、英国から独立した年号ですが、イスラム世界で広く使われているヒジュラ暦(預言者ムハンマドがメッカからメディナへ聖遷=ヒジュラした年の第1月ムハッラム月1日=西暦622年7月16日を紀元とする完全太陰暦)ではなく、ヒジュラを紀元としつつも、春分を元日とする太陽暦の“アフガン暦(イラン暦と同じ)”の1298年(西暦の1919年で、ヒジュラ暦では1337または1338年)になっています。そして、その外周をアフガニスタンの国号の入ったリボンを掛けられた2本の小麦の穂が周囲を丸く囲んでいます。 さて、アフガニスタンでは、きのう(18日)、東部のジャララバードで市民がタリバンに対するデモを行っていたところ、広場で今回ご紹介の切手に描かれているアフガニスタン国旗を掲揚しようとした市民に対してタリバンの戦闘員が発砲。少なくとも3人が死亡、10人以上が負傷しました。 現時点では、タリバン指導部は「(彼らの理解する)イスラム法の範囲内で人権を保障する」と説明し、既存の国際秩序を尊重していく意向を示してはいますが、独立記念日を前に、国旗を掲げることさえ認めない武装勢力を信用しろといわれても…というのが一般国民の正直な思いじゃないんでしょうかねぇ。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月23日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です! 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-18 Wed 11:24
1943年にカザフスタンで亡くなった朝鮮の独立運動家、“洪範図将軍”の遺骨がカザフスタンから韓国に返還され、きょう(18日)、国立大田顕忠院に埋葬されます。というわけで、きょうはこのん切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2018年10月12日に韓国が発行した“洪範図将軍生誕150年”の記念切手です。 洪範図は、1868年10月12日(旧暦8月27日)、朝鮮王朝時代の平安北道慈城郡で生まれました。生まれて7日目に母親が亡くなったため、父親は周囲から乳をもらって彼を育てましたが、9歳の時にはその父親も亡くなったため、貧困のうちに少年時代を過ごしました。 その後、平壌の兵営にラッパ手として入ったものの、上官を殴って脱走。1887年には黄海道の製紙工場に職を得たものの、1890年、賃金で雇用主と揉めて相手を殴って逃走し、金剛山の神渓寺に作男として入ったものの、尼僧と恋愛関係になり寺にもいられなくなったため、山中で猟師として生活するようになります。 ところが、大韓帝国末期の1907年9月3日、日本の韓国統監府の“指導”による近代化政策の一環として「銃砲及火薬類団束法」が公布されたことで、(無許可の)猟師として生活ができなくなります。これに激昂した洪は日本に抵抗する“義兵闘争”に身を投じ、同年11月、日本軍30人余を射殺したとされる“厚峙嶺戦闘”にも参加。その後も、トレードマークの長銃二丁とともに、三水郡・甲山郡などで神出鬼没なゲリラ活動を展開し、“空飛ぶ洪範図”と恐れられたそうです。 当然のことながら、大韓帝国当局と日本の統監府からは犯罪者として追われる身となり、1910年に韓国併合により日本の取り締まりが強化されると満洲に逃亡。さらに、1913年にはウラジオストクに移ります。 1919年の三一独立運動後、豆満江を渡った満洲側の間島の朝鮮人居留地域(=日本の官憲の影響が及ばない地域)では、在留朝鮮人の資金提供により、中国の官憲やロシア過激派などとも連携して、“朝鮮独立”を掲げる武装組織の活動が活発化。そうしたテロリスト集団としては、北間島軍政府(後、西路軍政署と改称)、大韓国民会軍、北路軍政署、大韓独立軍、大韓義勇軍、光復軍総署などがあり、彼らはしばしば越境して朝鮮北部の穏城、茂山、恵山などの町々を襲撃しました。 洪はこのうちの大韓独立軍に加わり、越境して強盗、略奪、放火などの犯罪行為を繰り返していましたが、1920年6月の鳳梧洞戦闘、同年10月の青山里戦闘などを指揮し、日本軍に大きな打撃を与えたとされています。 このうち、鳳梧洞の戦闘は 1920年6月4日未明に洪範図部隊が豆満江を越え、咸境北道鐘城郡江陽洞の日本憲兵巡察隊を破壊したため、日本軍は南陽守備隊所属の1個中隊と憲兵警察中隊による越境追撃隊を編成しましたが、追撃中に洪範図の部隊による待ち伏せにより三屯子で殲滅。そこで、咸境道羅南の日本軍19師団は大規模討伐隊を編成して、根拠地破壊作戦に着手したものの、鳳梧洞の谷間で洪の返り討ちに遭い、3時間の戦闘で死者157人を含め死傷者500人余りを残して琵琶洞方面に撤退した、というのが韓国側の主張です。 ただし、当時の日本側の公式資料として作成された「不逞鮮人團取締ニ關スル件」では、この事件の概要は以下の通りです。すなわち、1920年6月4日午前5時に穏城郡南陽対岸の三屯里から朝鮮人武装組織50人が豆満江を渡河して日本の警察憲兵及び守備隊と銃撃戦となり、武装組織は三屯里の民家に退却。その際、日本側の損害はなく、武装組織は1人戦死、2人負傷し、2人捕虜、小銃2挺、小銃弾245発を押収。事件の背後に有力な一団があるとみた日本陸軍の第19師団は、安川少佐率いる歩兵2個中隊による追撃隊を派遣、同年6月7日に汪清県鳳梧洞で家屋内から射撃する独立軍と4時間にわたり衝突し、日本軍の戦死者は1人、武装組織は遺棄死体33人以上を残し、捕虜は8人。また、屋内にいた朝鮮人女性4人、子供1人が負傷。 一方、青山里戦闘は、韓国側の説明では、1920年10月20日から23日にかけて、金佐鎮、洪範図らの率いる約2-3000名の独立軍が間島地域の青山里(和龍県三道溝)で日本軍と衝突し、10回にも及ぶ戦闘の末、“加納連隊長”率いる日本軍に大打撃を与え、日本側は多くの戦死者を出したとされています。日本側の損害については諸説あり、朴殷植の『朝鮮独立運動之血史』(1920)は「加納連隊長以下900余〜1600余人」、韓国中央選挙管理委員会編刊『大韓民国政党史』(1964)は「千余人」、韓国国防部戦史編纂委員会『韓国戦争史』(1967)は「死傷3300人」、趙芝薫『韓国民族運動史』(1975)は「加納連隊長以下3300人」となっており、年々増加しているのが…(いわゆる南京事件の例を連想すると言ったら怒られるでしょうか) ちなみに、事件から4ヶ月後の1921年2月25日付で陸軍第19師団司令部が作成した「間島事件鮮支人死傷者調」によると、青山里戦闘での日本軍の損害は、戦死11、負傷24のみで将校が死傷した記述はありません。また、間島出兵後の第19師団の備蓄兵器調査においても、日本軍の戦闘損耗はきわめて軽微だったことが確認されています。さらに、当時の日本軍で“加納連隊長”に該当する人物としては、騎兵第27連隊長の加納信暉大佐が考えられますが、大佐は事件後も健在で、1922年まで連隊長の地位にとどまっています。 いずれにせよ、鳳梧洞と青山里で派手な戦闘を行った結果、日本側の掃討作戦は厳しくなり、武装集団は密山を経て、ロシアのスヴォボードヌイに移動。ここで、ロシアの赤軍と連携して、体制を立て直そうとします。しかし、主導権争いをめぐって朝鮮人同士の内紛が発生。このため、ロシアの赤軍は事態収拾のため、いったん朝鮮人の武装解除を試みましたが、これに激昂した朝鮮人武装勢力は1921年6月28日、今度は赤軍と戦闘を起こし、返り討ちに遭うかたちで多数の死者を出して壊滅状態に追い込まれます。 その後、大韓独立軍は赤軍に吸収されイルクーツクに移動。生き延びた洪は、同年11月、“抗日ゲリラ代表”としてレーニンと面会し、翌1922年にはモスクワで被圧迫民族大会にも出席。翌1923年には沿海州以南地域で生活し、1927年にはソ連共産党に入党し、1929年以降は年金生活に入りました。 ところが、1937年、沿海州の朝鮮人が日本に内通することを恐れたスターリンは、朝鮮人を中央アジアに強制移住させます。これにより、洪もカザフスタンに移住させられ、当初は荒れ地に掘っ立て小屋の生活を行っていましたが、1938年、カザフスタン内のクジルオルダに移住し、病院の警備や劇場の守衛をして生活。1943年10月、友人たちを呼んで豚を屠って食べさせた後、同25日、76歳で亡くなりました。 ちなみに、洪の遺骨については、2019年4月、文在寅大統領がカザフスタンを訪問した際、返還を要請し、カザフスタン側も快諾。当初、韓国政府は、“鳳梧洞戦闘勝利100周年”の記念事業として、昨年(2020年)、遺骨の帰還と顕忠院への埋葬、その他顕彰事業を大々的に行う予定でしたが、新型コロナウイルス禍で1年延期となり、今月16-17日、カザフスタンのトカエフ大統領の訪韓に合わせて遺骨が帰還し、顕忠院への埋葬も実現したというわけです。 * けさ(18日朝)、アクセスカウンターが239万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月23日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です! 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-17 Tue 04:24
中国外務省の華春瑩報道局長は、きのう(16日)の定例記者会見で、アフガニスタン情勢に関し、タリバン(ターリバーン)が「各党派、民族と団結し、国情に合った政治的枠組みを確立することを望む」と述べ、中国としてタリバンによる政権掌握を事実上容認するとともに、アフガニスタンとの“友好関係”を維持する意向を示しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2005年1月20日、アフガニスタンが発行した“アフガニスタンと中国の外交関係樹立50周年”の記念切手で、握手する両国の下に、万里の長城およびシルクロードのイメージを配したデザインになっています。 1949年10月の中華人民共和国の建国宣言後まもない1950年1月、アフガニスタンは中国を国家承認しましたが、実際に正規の外交関係が樹立され、北京にアフガニスタン大使館が設置されたのは1955年のことで、今回ご紹介の切手はここから起算して50年になるのを記念して発行されました。 1957年1月には周恩来がアフガニスタンを訪問し、国王ザヒル・シャーやムハンマド・ダーウード首相らと会談。その答礼として、同年10月にはダーウードが北京を訪問し、毛沢東や周恩来と会談しています。 当時の中国は、すでにアジア・アフリカの新興諸国に対する援助外交を展開していましたが、中ソ対立が顕在化する中で、ソ連との関係が深いアフガニスタンへの援助は行わいませんでした。ただし、アフガニスタンそのものを明確に敵視していたわけでもなく、1960年には通商協定および友好不可侵条約を結び、外交上は良好な関係を保っていました。 1963年11月22日、両国で国境画定協定が結ばれ、.タクラマカン砂漠を通って東西を結ぶ“ワハーン回廊”をアフガニスタン領とすることとされ、アフガニスタンは新疆ウイグル自治区と92.45キロの国境を接することになります。 1979年、ソ連軍によるアフガニスタン侵攻が起きると、ソ連と対立していた中国はただちにソ連を非難し、ソ連の後ろ盾で成立したカルマル政権を承認せず、カブールの中国大使館は駐アフガニスタン中国代表部に格下げされ、ヴィザ発給など最低限の業務を行うだけとなりました。これに対して、ソ連の意を汲んだアフガニスタン政府は、当時、中国と対立していたヴェトナムを支援。すると、中国は反ソ闘争を行うムジャーヒディーンを支援し、米国から武器の支援を受けたムジャーヒディーンたちに新疆ウイグル自治区での軍事訓練を提供しています。 ソ連軍の撤退後、アフガニスタンは内戦状態となり、1996年にはタリバンがカブールを制圧。そうした中で、2000年11月、パキスタン駐在の中国大使が非ムスリム国家の代表として、タリバンの最高指導者、ムハンマド・ウマルと初めて会談し、タリバンとのパイプを築いています。 2001年、米軍のアフガン進攻によりタリバン政権が崩壊すると、同年12月22日、米国の支援でアフガニスタン暫定行政機構が発足し、ハミド・カルザイが議長に就任すると、中国はアフガニスタンとの関係改善に動き出します。翌2002年1月、カルザイが訪中すると、江沢民は食料など3000万元分の物的支援と1万ドルの資金提供の覚書を交わします。さらに、江沢民は1億5000万ドル相当の復興支援を約束。支援物資は2002年3月末までにカブールに届けられ、カブールの中国大使館も業務を再開しました。 その後、中国は、2002年5月には3000万ドルの経済技術支援協定を、11月には100万ドルの物資の支援協定を、2003年2月には1500漫ドルの資金提供を含む経済技術協力協定をアフガニスタンと締結するなどの実績を積み重ね、アフガニスタン政府との関係を強化していきました。 しかし、アフガニスタン情勢は一向に安定せず、2014年末、13年間にわたって駐留してきた国際治安支援部隊(ISAF)の戦闘任務が終了し、米軍を中心とする国際部隊の大部分が撤退すると、2015年以降、タリバンを含む武装勢力が南部を中心に支配地域を拡大。このため、2016年1月、パキスタン、アフガニスタン政府、中国、米国とアメリカ合衆国の4ヵ国調整グループ(QCG)が結成され、4者調整協議が開催されたものの、さしたる成果は上がりませんでした。 こうした中で、2018年、中国はタリバンの勢力伸長を見越して関係改善を進めるとともに、アフガニスタン政府に対しても援助を継続し、タリバンとアフガニスタン政府のどちらに対しても影響力を行使できる立場を確保することに努めていました。 米軍の撤退開始を受けてタリバンが攻勢を強める中、ことし7月16日、習近平がガニ大統領と電話で協議し、アフガンの早期の秩序回復などを支持する意向を示す一方、同月28日には、タリバンの代表団を北京に迎え入れて王毅外相が会談し、「タリバンはアフガンで決定的な力を持つ軍事、政治勢力であり、アフガンの和平、復興の過程で重要な役割を発揮することが見込まれる」などと発言していたことは、そうした中国のアフガニスタン政策を象徴的に示しています。 今回、タリバンがアフガニスタン全土を掌握したことを受けて、早速、中国は“タリバン政権”を認める姿勢を明らかにし、米軍・NATO軍撤退後のアフガニスタンを自陣営に取り込んでいく意欲を明らかにしたわけですが、アフガニスタンは、相手がどこであれ“攘夷”が習い性になってきた国ですからねぇ。大英帝国やソ連、米国にもできなかったことを中国ができるのかどうか、まずはお手並み拝見というところでしょうかね。 * 昨日(16日)の文化放送「おはよう寺ちゃん」の僕の出番は、無事、終了いたしました。リスナーの皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。次回は来週月曜日・23日に登場の予定です。引き続きよろしくお付き合いください。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月23日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です! 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-16 Mon 04:21
今月末の米軍の撤退を前に、アフガニスタンはイスラム原理主義を掲げる反政府武装組織、タリバン(ターリバーン)が急速に勢力を拡大していましたが、きのう(15日)、カブール政権(国際的に承認されたアフガニスタン政府)のモハンマド・アシュラフ・ガニー・アフマドザイ大統領(以下、ガニ)が首都カブールから退去し、隣国のタジキスタンに脱出。2001年の米軍進攻後に成立したカブール政権は事実上崩壊しました。というわけで、きょうはこの切手です(画像はクリックで拡大されます)
これは、2011年1月1日にアフガニスタンが発行した“世界識字デー(本来は9月8日)”の切手で、学校に通う男女の児童が描かれています。タリバンの支配地域では女子教育は禁止されており、今後、アフガニスタン国内ではこうした光景は見られなくなるでしょう。また、この切手もタリバンから“有害”認定され、使用が禁止されるか、児童の部分をカットして使用するなどの措置が取られるかもしれません。 1996年から2001年にかけてアフガニスタンを実効支配していたタリバンは、カブール制圧直後の1996年9月、正規の裁判手続きを経ることなく、ただちに、旧人民民主党政権時代の元大統領ナジーブッラーを処刑。その遺体を傷つけて凌辱しただけでなく、イスラムの慣習に従った葬儀を行うことも禁止しました。 タリバンのこうした蛮行は、当然のことながら、国際社会、とりわけイスラム世界からも非難され、国連はタリバン非難の声明を発しましたが、タリバンはそれを無視して“(彼らの理解による)イスラム”に基づいた社会規範を厳格に適用し、飲酒はもちろん、映画や音楽(これらはタリバンによれば反イスラム的とされた)なども禁止。女子教育や女性の社会的活動もほぼ全面的に禁止されました。 このため、2001年のタリバン政権崩壊後、米国をはじめとする西側の支援で発足したカブール政権は、タリバン時代を否定し、西側からの支援を得るためにも、(少なくとも制度上は)女子教育に熱心に取り組んでいる姿勢を示す必要がありました。今回ご紹介の切手もそうした文脈に沿って発行されたものです。 さて、2001年のタリバン政権崩壊後、米国と西側諸国はアフガニスタンに安定した民主政権を樹立することを試みましたが、彼らが支援するカブール政権は弱体で統治能力に乏しかったことから、アフガニスタンは再び軍閥割拠の状態に陥ります。一時は壊滅寸前にまで追い込まれたタリバンも、自らの支配地域でのアヘン栽培を通じて潤沢な資金を確保し、徐々に息を吹き返していきました。特に、2014年末、13年間にわたって駐留してきた国際治安支援部隊(ISAF)の戦闘任務が終了し、米軍を中心とする国際部隊の大部分が撤退したため、2015年以降、タリバンを含む武装勢力が南部を中心に支配地域を拡大。その領域は、2015年からの2年間で、面積比で、アフガニスタン全土の7%から11.1%へと6割近くも増加しました。 こうして、米国は莫大な資金とおびただしい犠牲を払いながら、”アフガニスタンの民主化”についてはほとんど成果を上げられない状況が長らく続いていましたが、2017年に発足したトランプ政権は、外交面においては、実利を重視して”使えない相手“を徹底して軽視する立場を取ります。このため、アフガニスタン問題に関しては、正統政府とされるガニ政権を蚊帳の外に置いたまま、アフガニスタン最大の実力者として復活したタリバンと交渉。2400人を超える米兵が犠牲となり、2兆ドル(200兆円)もの莫大な戦費を投じた最長の戦争に、終止符を打つという“実”を重視し、2020年2月、タリバンと戦闘の停止で合意します。 この合意では、アフガニスタンの駐留米軍は2021年5月1日までに全面撤退する代わりに、タリバンは米軍や北大西洋条約機構(NATO)軍への攻撃を控え、国際テロ組織アルカイダなどとの関係を絶つとされていましたが、タリバンをアフガニスタン政府軍との戦闘はアフガニスタンの“国内問題”として対象外とされていました。 この合意に基づき、トランプ政権は、順次米軍の撤退を開始、アフガニスタンに駐留する4500人の米兵は、2021年1月15日までに2500人にまで削減され、米軍機による政府軍支援も大幅に減少します。 ちなみに、この時期のカブール政権では統治能力の欠如を示す出来事が相次いで発生しています。 たとえば、2020年3月10日、カブール教育局は、突如、(おそらく、国内で急速に勢力を拡大していた原理主義勢力との妥協するため)、全国の公立学校と私立学校を対象に、12歳以上の女子生徒の歌唱禁止の通達を出しました。通達によれば、彼女たちが歌を歌うことができるのは、女性だけが参加する集会のみで、男性の教師が12歳以上の女子生徒に歌を教えることも禁止され、違反者には法的措置の可能性も言及されています。当然のことながら、この通達は、“民主的なアフガニスタン政府”の大義名分とも相いれないものとして内外の激しい非難を浴び、3日後の3月13日には文部省が撤回を発表するという混乱ぶりでした。 米国とタリバンの合意後、内戦の終結に向けて、カタールのドーハでガニ政権とタリバン代表の和平交渉が始まりましたが、将来の国家体制などをめぐる対立から交渉はすぐに暗礁に乗り上げます。この間、タリバンは政府軍への攻撃を続けて南部や北部などで支配地域を拡大して、国土の半分以上を実効支配。2020年後半以降、南部のカンダハル(カンダハール)州や北部のクンドゥーズ州などで冬季攻勢を強め、カンダハール(カブールに次ぐ第2の都市)にも迫り、2020年末の時点で、政府軍はカンダハルの検問所約200カ所を放棄して敗走しました。 各地を占領したタリバンは、前回同様、占領地に厳格なイスラムの規律や夜間外出禁止令を敷き、住民らのスマホを破壊し、音楽も禁止したほか、政府軍の攻撃に備えて住宅地にトンネルを張り巡らし、道路に爆弾を仕掛けます。クンドゥーズ州でもカブールに続く高速道路がタリバンに占領され、交通網も寸断されました。 一方、2020年の米国大統領選挙では、民主党候補のバイデンも「われわれの大量の血と大切な人々を犠牲にし、アフガンと中東で続いている永遠の戦争を終わらせる」と公約していました。バイデンの公約は、実質的な内容はトランプ政権のアフガニスタン政策とほぼ同じでしたが、この時点では、米軍に従ってアフガニスタンに派兵していたNATO諸国等に配慮して、その文言を厳密に読むと、アフガンから“圧倒的多数”の米軍を帰還させる(=少数の米軍は駐留を続ける)との逃げ道も用意されていました。 2021年1月にバイデン政権が発足すると、同政権は撤退延期などの選択肢の検討を開始。これに対して、翌2月に公表された議会報告書では、米軍がアフガニスタンから全面撤退すれば、国家崩壊を招いて内戦が激化するとの警告もなされています。 これを踏まえて、2月末に出された米国の和平新提案では、「統治、権力分担、(その他の)本質的原則についてタリバンと協議するための明確な目標」を打ち出すようガニ政権に要求したうえで、ガニ政権とタリバンが話し合いで数週間以内に“暫定政権”を樹立し、新憲法を策定した後、選挙を行って新政権を発足させることが謳われました。そして、暫定政権は“大統領と数人の副大統領”ないしは“大統領と首相”のいずれかの形態で、暫定政権の大統領らは将来の新政権には参画できないとされていました。 ところで、NATOやオーストラリアなどは、“アフガンの民主化”という大義名分の下、米軍に従ってアフガニスタンに派兵して多大な犠牲も払ってきたのに、その目的を達しないまま、米軍がいち早くアフガニスタンから撤退しようとすることには大いに不満を持っていました。 ところが、2021年3月から4月にかけて、ロシアとウクライナの緊張が高まり、クリミア情勢が緊迫化。4月15日、選挙期間中からロシアを米国の主敵とすることを明言していたバイデン政権は、これを理由に包括的対露制裁を発動するとともに、前日の14日、9月11日までに米軍がアフガニスタンから撤退することを表明。これを受けて、クリミア情勢に集中するためという理由で、NATOとオーストラリアもこれに同調し、アフガニスタンからの撤退を表明します。 こうして、西側諸国のアフガニスタンからの撤退方針が固まると、ただでさえモラルの低かったカブール政府軍の士気はさらに低下し、タリバンはさらに攻勢を強めていきます。 5月以降、アフガニスタンの全34州中25州が戦闘状態となり、2カ月間で6万世帯が難民化。そのほとんどが、タリバンの支配を嫌って首都カブールに流入しました。EU関係者によると、2021年に入ってから、約40万人のアフガニスタン人が避難しており、イランへの難民も8月以降に急増したとされています。 さらに、7月5日には、タリバンの攻撃を受けたアフガニスタン政府軍の兵士1037人が“命を守るため”、国境を超えてタジキスタンに逃亡。これを受けて、タジキスタンのエモマリ・ラフモン大統領は、カブール政権の崩壊に備えて、2万人の予備役軍人の動員をシェラリ・ミルゾ国防相に指示し、国境警備のほか、テロ、過激主義、麻薬密輸などの対策も強化しました。 また、8月5ー9日には、アフガニスタンでの不測の事態に備えて、ロシア、タジキスタン、ウズベキスタンの三国が、タジキスタン領内のアフガン国境に近い演習場で合同演習を実施。計2500人以上の兵士が参加し、戦車やドローンも投入され、テロリストの侵入などを想定し連携を確認しました。ちなみに、演習初日の5日、ロシア軍のゲラシモフ参謀総長は、ウズベキスタンに対して「武器や軍事機器の追加の供給について調整している。軍の装備の性能を上げ、兵士への訓練も提供する」と発言しています。 一方、アフガニスタンの“最大の隣国”である中国は、カブール政権の崩壊を見据えて、7月28日、タリバンの代表団(タリバン創設者の一人で、外交を統括するアブドゥル・ガニ・バラーダルを含む)を北京に迎え入れて王毅外相と会談。その際、王毅は 「タリバンはアフガンで決定的な力を持つ軍事、政治勢力であり、アフガンの和平、復興の過程で重要な役割を発揮することが見込まれる」、「アフガンからの米軍と北大西洋条約機構(NATO)軍の撤収は、米国のアフガン政策の失敗を示している」、「アフガンの人々は自国を安定させ発展させる重要な機会を得た」などと発言し、タリバン政権発足後はアフガニスタンを“一帯一路”に組み込む意欲を示しています。 同時に、中国はアフガニスタン情勢が新疆ウイグル自治区に波及することを強く警戒しており、8月9-13日には、内陸部の寧夏回族自治区でテロ対策を目的として、ロシア軍との合同軍事演習を実施。演習には、双方合わせて1万人余りが参加しました。 そうしている間にも、8月6日、タリバンは南西部ニームルーズ州の州都ザランジを制圧。これは、米軍の撤収開始後、タリバンによる初の州都制圧となり、以後、各州の州都が雪崩を打って陥落。14日には、ガニ大統領が「治安部隊の再動員が最優先で、必要な措置が進行中だ」と述べ、戦闘を継続する意志を明らかにしていましたが、翌15日、大統領はタジキスタンに脱出し、カブール政権は事実上崩壊しました。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月16日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です! 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-15 Sun 01:35
きょう(15日)は“終戦の日”です。というわけで、先の大戦の戦没者追悼の意味を込めて発行された切手のなかから、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1993年4月19日にソロモン諸島が発行した“第二次世界大戦50周年”の記念切手のうち、ガダルカナルの戦いでの戦没者の出身国を反旗として掲げられている状態で描き、彼らへの追悼の意を表現しています。描かれている国旗は、左から、フィジー、ニュージーランド、米国、ソロモン諸島、オーストラリア、日本、トンガのものです。 さて、毎年、この時期になると、大手メディアでは日本が米国と戦争をしたことを知らない若者が少なからずいるとの調査結果が発表され、識者と称するタレントが歴史の風化や若者の無知を嘆いてみせるというのがお約束となっています。しかし、ここで、米国だけではなく、“英国”とも戦ったのだと付け加える人は多くはありません。 そもそも、昭和天皇の開戦の詔勅には、「朕茲ニ米國及英國ニ対シテ戦ヲ宣ス」としっかり書かれています。また、当時の帝国臣民の生活の中には、“鬼畜米英”というスローガンが氾濫していました。さらに、“大東亜戦争”の大義が、欧米列強の植民地支配からアジアを解放することにあったと主張するなら、当時の大日本帝国の主な敵は、フィリピンしかアジアに植民地を持たなかった米国ではなく、アジアの広範な地域を支配していた英国と考えるべきであり、日英戦争としての側面にもっと関心を払う必要があるでしょう。 ところで、一口に“英国”といっても、日本が戦ったのは英本国=イギリスに限定されているわけではありません。かつて日の沈まぬ帝国と呼ばれた大英帝国ですが、第一次大戦後は国力が大きく衰退。1931年のウェストミンスター憲章では、海外自治領に外交権が与えられ、英本国と海外自治領は、英国王を共通の国家元首とした主権国家の平等な共同体、すなわち英連邦を構成するようになります。 この結果、自治領の議会は英本国の議会の支配を受けず、英本国は自治領に対して法律を押しつけることができなくなり、自治領は事実上の独立国となりました。それでも、彼らの国家元首はあくまでも英国王であり、その意味では旧大英帝国の枠組も残されていたわけです。 1939年9月、第2次欧州大戦が勃発したことで、英連邦に加盟するカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦の各主権国家はドイツと戦うことになりました。また、英連邦加盟の主権国家以外にも、世界中に散らばっていた英領植民地も“英国の戦争”に否応なしに動員されています。その中には、今回ご紹介の切手に国旗が描かれているフィジー、ソロモン諸島、トンガも含まれていました。 しかしながら、現在の日本では、先の大戦は日米戦争として語られることが大半で、英国・英領とのの人々が日本軍と戦い、命を落としたの亡くなった人々の国籍が多岐にわたっていることを示すものですが、現在なお、日本では、ガダルカナルの戦いを日米の戦闘としてのみとらえている人が多数派で、日“英”の戦闘については見落とされがちではないかと思います。 そこで、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』では、先の大戦中のガダルカナル島の戦いについても、日本や米国ではなく、主に、ガダルカナル島を含むソロモン諸島とオーストラリアの視点でまとめてみました。機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月16日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です! 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-14 Sat 00:22
きょう(14日)は、1941年にアウシュヴィッツ収容所で殉教したカトリックの聖人、聖マキシミリアノ・コルベ神父の祝日です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2016年9月13日にヴァティカンが発行した“マクシミリアン・コルベ神父殉教75周年”の記念切手です。 マキシミリアノ・マリア・コルベ神父(出生名ライムンド・コルベ)は、1894年1月8日、ロシア帝国の支配下にあったポーランドのズドゥニスカ・ヴォラ生まれ。1907年に、兄のフランシスコとともにコンベンツァル聖フランシスコ修道会への入会を決意し、同修道会の神学校に入学しました。1910年、修練院に入り、翌1911年、マキシミリアンの名前を与えられています。 その後、ローマで哲学、神学、数学および物理学を学び、1915年にグレゴリアン大学で哲学の博士号を、1919年には神学の博士号を取得。この間、1917年10月16日に“汚れなき聖母の騎士会”を創立しています。 ローマで司祭叙階を受けた後、クラクフにある大神学校の教会史の教授として3年間勤め、1927年にはワルシャワ近郊のテレシンでニエポカラノフ修道院(無原罪の聖母の騎士修道院)を創立し、『無原罪の聖母の騎士』という小冊子を発行してメディアによる宣教に力を入れました。 1930年、コルベは数名のポーランド人修道士とともに、長崎での宣教を開始。同年5月、大浦天主堂下の木造西洋館に聖母の騎士修道院を開き、日本語版の『無原罪聖母の騎士』を出版するなどして、宣教活動に尽力しました。 1936年、ニエポカラノフ修道院の院長に選ばれたために故国ポーランドに帰国。出版やラジオなどを通じての活発な布教活動を行っていましたが、1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発。同月19日、西ポーランドがドイツに占領されると、コルベは“反独分子”として逮捕され、アムティッツ強制収容所へと収容されました。その後、11月にポーランド領にあるオスチェロー強制収容所へ移送され、12月18日にいったん釈放されたものの、ユダヤ人にも人道的態度で接したことなどを理由に、1941年2月17日、再逮捕され、パヴィアック収容所を経て、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られます。 1941年7月末、収容所内の彼の所属班から脱走者が出たことで、“連帯責任”として無作為に10人が選ばれて餓死刑に処せられることになった際、自由ポーランド軍の軍曹、フランツェク・ガイオニチェクが「私には妻子がいる」と泣き叫びだしたの聞いたコルベは、彼の身代わりになることを申し出て、餓死刑を受けることを申し出て地下牢の餓死室に送られました。 その後、牢内でコルベは2週間ほど生きていましたが、1941年8月14日、フェノールを注射により殺害され、翌15日、荼毘に付されました。ちなみに、カトリックでは8月15日は“聖母被昇天の日”の祝日になっており、生前のコルベは聖母の祝日に死にたいと語っていたそうです。 戦後、コルベの行為は称賛され、1971年10月、教皇パウロ6世は彼を列福。さらに、東西冷戦下で無神論国家のソ連に対抗すべく、祖国ポーランドのナショナリズムと信仰心を高揚させるべく、1979年6月にお国入りした教皇ヨハネパウロ2世は、ビルケナウのアウシュヴィッツ第2収容所跡を訪れて約50万人とともにミサを行い、強制収容所を「私たちの時代のゴルゴダ」と呼び、コルベを称えるとともに、ビルケナウのガス室で殺害された修道女エーディト・シュタインについて列福のための調査を行う方針を明らかにします。 はたして、ヨハネ・パウロ2世の企図した通り、教皇の訪問を契機として、ポーランド国内の反ソ感情は高揚。1980年7月、政府が発表した食糧品等の大幅値上げに反対し、グダニスク等のバルト海沿岸地方で労働者のストが発生し、これが全国に波及する勢いとなったため、政府とグダニスクの連合スト委員会の交渉が行われ、政府は、9月17日、ポーランドでは共産圏として初めて、共産党(ポーランドでは統一労働者党)の統制を受けない独立自主管理労働組合“連帯”の発足を認めざるを得なくまりました。 当初、統一労働者党の目論見としては、党が政治、“連帯”が社会活動に専念するという分業体制を想定していましたが、“連帯”の組織は全国的に拡大し、レフ・ワレサ率いる指導部は政府との対立のなかでしだいに急進化。これに対して、ソ連がポーランドに軍事介入する姿勢を見せるようになったため、1981年12月、ポーランド政府は戒厳令を発令。“連帯”幹部の大半が拘禁され、翌1982年10月には、“連帯”は非合法化されました。 これに対して、逮捕を免れた“連帯”幹部は、1982年4月、地下組織として暫定委員会を結成し、1989年の民主化実現まで、抵抗を訴え続けます。 ポーランド情勢の変化を受けて、1982年10月10日、教皇ヨハネ・パウロ2世は、急遽、アウシュヴィッツで殉教したコルベをカトリックの信徒として最高の栄誉である聖人に列し、8月14日をコルベを記念する祝日としました。コルベの列聖に際しては、直接的に批判されているのは、彼を餓死刑で殺害したナチス・ドイツですが、暗に、“連帯”を非合法化したポーランド政府もナチス同様の存在であるとの批判が込められていたのは明らかでした。 なお、コルベについては、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月16日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です! 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-13 Fri 00:57
1521年8月13日にアステカ王国が滅亡してから、ちょうど500年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1980年6月21日にメキシコが発行したクアウモテック(アステカ最後の王)の切手です。 1504年、カリブ海のイスパニョーラ島に渡り植民者となったエルナン・コルテスは、1511年、ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャルのキューバ征服に参加し、ベラスケスの秘書官となりました。しかし、1519年、コルテスはベラスケスに無断で500人の兵、馬16頭、帆船11隻を率いてメキシコ湾岸沿いに進み、3月12日タバスコ川に到着。同年8月、メキシコ湾岸にベラクルス市を建設した後、内陸へと進んでアステカへと向かい、11月18日、アステカの首都テノチティトランへ到着します。 当時のアステカ王、モクテスマ2世は抵抗せずにコルテスを歓待し、父のアシャヤカトルの宮殿に住まわせました。しかし、ベラクルスのスペイン人がメシカ人によって殺害される事件が発生すると、コルテスはこれを口実にクーデターを起こしてモクテスマ2世を影響下におき、テノチティトランはモクテスマ2世とコルテスの二重統治状態になりました。 一方、キューバ総督ディエゴ・ベラスケスは無断で兵を動かしたコルテスを逮捕するため、1520年、追討軍をメキシコに派遣。このため、コルテスがベラクルスに出征すると、コルテスの留守をあずかっていたペドロ・デ・アルバラードは儀式を行っていたアステカ人の神官と貴族を虐殺する事件が発生。このため、アステカの兵士はアシャヤカトルの宮殿を攻撃し、6月29日、混乱の中でモクテスマ2世は殺害され、弟のクィトラワクがアステカ王として即位しました。 翌30日、コルテスがテノチティトランを脱出すると、クィトラワクの下に団結したアステカ軍は、7月7日、オトゥンバ谷でコルテス軍に追いつきましたが、コルテスの軍はこれを返り討ちにし、アステカ軍はテノチティトランに撤退しました。 その後、コルテスらはトラスカラに戻ってスペイン人と先住民のトラスカラ人の連合軍を結成し、10月、テノチティトランを再攻撃。これと前後して、アステカ王のクイトラワックはスペイン人の持ち込んだ天然痘に罹って亡くなったため、モクテスマ2世の従弟で、今回ご紹介の切手に描かれたクアウテモックが王として推戴されます。 クアウテモックは、1495年頃の生まれで、即位時は25歳。テスココ湖の中の島にあったメシカの都市、トラテロルコの区長で勇猛な戦士として知られていました。名前は現地語で“急降下する鷲”の意味で、切手の肖像画にもそれがシンボルとして描かれています。 1521年初、コルテスは5万余のスペイン兵・トラスカラ・テスココの連合軍を率いてアステカに侵入すると、メキシコ中央盆地の都市を攻略して4月28日にテノチティトランを包囲。3カ月以上の激しい攻防戦いの末、8月13日、テノチティトランは陥落。脱出を試みたクアウテモックはスペイン軍に捕らえられて降伏し、アステカは滅亡しました。 捕らえられたクアウテモックは、コルテスの短刀を指さして自分を殺すよう求めたものの、コルテスは王を殺さず、黄金の場所をつきとめるためにクアウテモックを拷問にかけたうえ、1525年2月28日、反乱を企てたとして王を絞首刑にしました。こうしてアステカを滅したスペインは、テノチティトランを徹底的に破壊し、その上にメキシコ・シティを建設。ここを首都として、現在のメキシコ国家のルーツとなるヌエバ・エスパーニャ副王領を創設しました。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月16日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です! 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-12 Thu 03:56
ご報告がすっかり遅くなりましたが、『キュリオマガジン』2021年7月号が発行されました。僕の連載「沖縄切手物語」では、今回は1965-66年に発行された“亀シリーズ”をご紹介しましたが、その記事の中から、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1965年10月20日、亀シリーズの最初の切手として発行された“セマルハコガメ(ヤエヤマセマルハコガメ)”の切手で、岡本太郎と東京美術学校で同期だった洋画家、大城皓也が原画を制作しました。 セマルハコガメは、石垣島と西表島の固有亜種で、甲長は18センチほど。背甲は上から見ると楕円形や卵形で、ドーム状に盛り上がり、中央部からやや後方で最も甲高が高く、さらにその後方で最も幅広くなっています。背甲の色彩は赤紫色を帯びた暗褐色や黒褐色で、成体では一部のみ明色になる個体もいます。また、頭部はやや大型で、吻端はあまり突出せず、上顎の先端は鉤状になっています。 標高400メートル以下の広葉樹林や森林内を流れる河川の周辺や沼沢地、湿原などの湿度の高い環境を好んで棲息し、雑食で、昆虫、クモ、陸棲の貝類、ミミズ、動物の死骸、果物などを食べますが、車によって轢死した動物の死骸や、牛糞に集まった昆虫を食べることもあります。本土復帰後の1972年、“セマルハコガメの日本個体群”として国の天然記念物に指定されました。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です! 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 8月16日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-11 Wed 10:54
ブラジルの首都、ブラジリアの三権広場で、きのう(10日)、ジャジャイール・メシアス・ボウソナロ(ボルソナロ、ボルソナーロとも)大統領とバルテル・ブラガ・ネット国防相の立会いのもと、海軍の戦車などによる軍事パレードが行われました。ブラジルでは、2022年の選挙での“印刷付き電子投票(ヴォト・インプレッソ)”をめぐり、導入を主張する大統領と議会の対立が続いており、この日は下院での全体投票が行われる予定だったため、反対派は大統領による民主主義に対する威嚇行為と批判しています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1967年12月16日にブラジルが発行した“予備役の日”の切手で、愛国詩人のオラーヴォ・ビラックの肖像と陸海空の三軍を象徴する戦闘機、戦車、軍艦が描かれています。 ビラックは、1865年12月16日、リオデジャネイロ生まれ。幼少期より神童の誉れ高く、15歳でリオデジャネイロの連邦大学医学部に進学しましたが、中退。その後、サンパウロ大学の法学部に転学しましたが、ここも中退して作家・ジャーナリストとしての活動を開始し、1884年に発表したソネット「ネロの昼寝」が、当時のブラジルを代表する劇作家のアルトゥール・アゼヴェードから激賞され、注目を集めました。ジャーナリスト、翻訳家としても幅広く活動しましたが、没後の1919年(ビラックは1918年12月28日没)に刊行されたソネット集『午後』は、ポルトガル語圏では、カモンイス(カモンエス)、ボカージェ、ケンタールの三代詩人に匹敵する名編とされています。 また、社会的・政治的な活動としては、識字率向上にも尽力したほか、愛国者としても知られ、欧州で第一次大戦が勃発すると、ブラジルが中立を保っていた1916年の時点で、ドイツとの戦争に備えて、予備役を積極的に活用し、徴兵制を拡充する運動を主導しました。ちなみに、1917年4月、ブラジル商船がドイツの潜水艦に撃沈されたのをきっかけに、ブラジルは親米英外交に基づいて同年中にドイツ帝国に宣戦布告しますが、ビラックらの活動はその先導役になったともいえましょう。ブラジルで彼の誕生日の12月16日に合わせて“予備役の日”が設定されたのも、こうした事情によるものです。 さて、ブラジルのボウソナーロ大統領に関しては、そのマチズモ全開の政治姿勢や、新型コロナ対策に消極的な施策などから毀誉褒貶が激しく、来年(2022年)に予定されている大統領選挙で再選されるかどうかは微妙な状況です。こうした中で、かねて「現行の電子投票制度には不正がある」と主張し続けてきた大統領は、ヴォト・インプレッソの導入を強引に進めようとしただけでなく、ヴォト・インプレッソが導入されなければ来年の選挙は実施しない(=自分が大統領職に居座る)と公言し、これを「憲法違反」として批判する野党勢力などと対立していました。 こうした中で、ヴォト・インプレッソ導入の理由が“不正投票”であると大統領が主張してきたことから、最高裁は大統領に「不正の証拠を提出するように」と命令。これを受け、7月29日、大統領は自らのライブ配信で彼が証拠と思う内容を示したものの、それらは“樹木に針灸を施す占星術師”アレクサンドレ・シュートの発言など、すでにフェイクニュースとして否定されたものばかりでした。 このため、8月2日、選挙高裁は大統領に対し、①自分のライブ配信を国営放送のTVブラジルで放送するなど、公的報道機関を私的利用したなどの選挙法違反、②「現行電子投票には不正がある」というニセ言説を執拗に繰り返した罪(刑法犯)の容疑で犯罪捜査の開始を宣言。これに対して、大統領は、6日、サンタカタリーナ州シャペコ市で支持者を前に、最高裁のルイス・ロベルト・バローゾ判事(選挙高裁長官兼任)を「filho da p…(”娼婦の子”を意味する最低の侮蔑語)」と罵倒し、非難を浴びていました。 こうした状況の下、9日午後、突如、翌日(10日)にブラジリアでの軍事パレードの計画が発表されます。 ブラジルでは、例年もこの時期にゴイアス州のフォルモーザ・教育センター(CIF)で海軍のパレードが行われていますが、リオ州から来た戦車がブラジリアを通過するのは前例がありません。さらに、今回の行進には陸軍や空軍の兵士が参加し、最高裁前に戦車を停止させることなどが事前に報じられていたため、連邦議員らは、ヴォト・インプレッソに関する憲法補足法案(PEC)の投票に対する威嚇行為として反発し、パレードの中止を求めて最高裁に提訴しました。 しかし、最高裁の担当判事、ジアス・トフォリはこれを却下し、10日の午前8時頃から、戦車1台を含む14台の車両が、記念大通り(エイショ・モヌメンタル)のL4北地点から出発し、三権広場に向けての軍事パレードが実施され、行進を妨げようとした市民が逮捕されるなどの混乱が生じました。 なお、この行事には、ボウソナーロ大統領本人のほか、ヴォト・インプレッソの承認をリラ下院議長に迫ったとされるブラガ・ネット国防相が参加。沿道には大統領の支持者たちが集まり、“軍事介入による独裁政権”の実現を求める一方、連邦議事堂の前では、「民主主義を守れ!」、「軍政には戻らない」と抗議する人々が集まり、メディアも批判的に報じています。 なお、1985年の民主化以前のブラジルの軍事政権時代については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもいろいろ説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 武蔵野大学のWeb講座 「切手と浮世絵」 配信中です! 8月11日から10月12日まで、計6時間(30分×12回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 8月16日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-10 Tue 04:34
東京五輪もあってすっかりご報告が遅くなりましたが、『東洋経済日報』2021年7月16日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、東京五輪の開幕にあわせて、上下2回の特別企画として、1964年の東京五輪と朝鮮半島について書いてみました。その前編に続き、今回は後編の中から、この切手をご紹介です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1964年10月10日に韓国が発行した東京五輪の記念切手のうち、競技場のトラックと五輪マーク、月桂樹の入ったVサインを組み合わせた1枚です。 1964年の東京五輪は、1962年にIOC(国際オリンピック委員会)に加盟した北朝鮮が初めて参加する夏季大会でした。そこで、韓国としては、なんとしても北朝鮮を上回る選手団を派遣し、一つでも多くのメダルを獲得する必要がありました。このため、東京オリンピック在日韓国人後援会(以下、後援会)の支援を受けて、メダル獲得の可能性があるとみられたレスリング、ボクシング、マラソンの有力選手35人が事前に東京に派遣され、練習を積んでいます。 また、開会式当日の10月10日、韓国郵政は五輪参加の記念切手を一挙に5種(と小型シート5種)発行しました。1960年のローマ大会以前の五輪参加記念切手は2種セットでしたが、今回は、北朝鮮がすでに5種セットで発行していたため、それに対抗する意図もあったのでしょう。 一方、後援会は韓国からの3000人の参観団派遣という目標を設定しましたが、これは、北朝鮮が参観団を派遣しない(できない)という事情をとらえて、総連系が優位とされていた在日社会(当時は、総連系6、民団系4の比率といわれていました)に韓国の存在をアピールする意図がありました。また、多くの韓国人に“豊かな日本”を実際に見せることで、当時大詰めを迎えていた国交正常化交渉に対する世論の理解を得る効果が期待されていたことはいうまでもありません。 かくして、1964年9月18日と23日の2回に分けて、234人もの大選手団が来日し、代々木の選手村に入ります。ちなみに、前回のローマ大会での韓国選手団は67人、東京の次のメキシコシティ大会では76人でしたから、東京大会での選手団が異例の規模であったことがわかります。 ところが、代々木の選手村では、民団や後援会の機先を制して、朝鮮総連の関係者が「朝鮮選手団を熱烈に歓迎する」との文言と金日成の写真が印刷されたビラを配りながら到着した選手たちを出迎えるという事件が発生。このため、東声会が朝鮮総連を実力で排除し、その際に負傷者も出たのですが、警視庁は“国際問題”への関与を恐れて、見て見ぬふりで通していました。 一方、北朝鮮の選手団は、10月4日、ソ連船ヤクーチャ号で新潟に入港し、鉄道で東京入りしています。当初の予定では、北朝鮮選手団も代々木の選手村に入る予定でしたが、有力選手の辛金丹らが五輪と対立するGANEFO大会に参加(特に、辛は陸上女子中距離の400および800メートルで、未公認ながら世界記録を更新して金メダルを獲得)していたとの理由で五輪への“参加資格なし”とみなされたため、選手団全員が選手村へは入村せず(できず)、小平市の朝鮮大学校へ入りました。 このため、東京五輪の組織委員会は必死の調停を行い、最終的に、IOCは彼女の出場を容認するところまで軟化したものの、国際陸連は彼女の出場を頑として認めませんでした。ちなみに、9月28日に日本に到着したインドネシア選手団に関しても、参加資格のない選手が含まれていたことを理由に、該当する選手は選手村への入村は認められていません。 そこで、組織委員会は、選手村への入村を拒否された選手に対して別途宿泊施設を用意するなどの妥協案を提示しましたが、北朝鮮・インドネシア両国はともに、一部選手を分離して宿泊させることを拒否。結局、10月8日、両国の選手団は五輪への不参加届を出して、開会式の行われた10日に帰国してしまいます。 ところで、辛には、朝鮮戦争で離散家族となった父親の文濬が韓国にいて、1964年当時はソウルのセブランス病院に勤務していました。文濬は娘に会えることを期待して、韓国からの参観団に加わっており、後援会長の李裕天は、組織委員会の協力を得て、父娘の対面を実現できるよう奔走していました。 当初、北朝鮮側は「辛金丹には父親はいない」との冷淡な対応でしたが、最終的に、北朝鮮選手団が帰国する10月9日、東京・飯田橋の朝鮮総連中央会館で15分間のみの対面が実現します。ただし、北朝鮮側は辛を“保護”するとして彼女の周りでスクラムを組んでいたため、父娘は会話らしい会話ができませんでした。また、父親の文濬が服などの土産を渡そうとしたところ、北朝鮮側は「こんなものは必要ない。我々は豊かに暮らしている」として、それらを捨ててしまったそうです。 こうして、東京五輪開会式の前日、北朝鮮の選手団は東京を去りました。ちなみに、北朝鮮が夏季五輪に参加するのは、1972年のミュンヘン大会以降のことです。一方、韓国は、10月10日からの大会で、ボクシング男子バンタム級の鄭申朝とレスリング男子フリースタイルフライ級の張昌宣が銀、柔道の男子80キロ以下級の金義泰が銅のメダルを獲得しました。 なお、この辺りの事情については、拙著『日韓基本条約』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 * 昨日(9日)の文化放送「おはよう寺ちゃん」の僕の出番は、無事、終了いたしました。リスナーの皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。次回は来週月曜日・16日に登場の予定です。引き続きよろしくお付き合いください。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月16日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-09 Mon 01:55
7月23日から始まった東京五輪は、最終日のきのう(8日)、自転車女子オムニアムの梶原悠未とバスケットボール女子の日本代表が銀メダルを獲得し、有終の美を飾りました。というわけで、きょうはこんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ことし(2021年)6月28日、今回の東京五輪を前に、1992年のバルセロナ五輪以降、スペインの女子代表チームがメダルを獲得した球技を取り上げた切手シートで、ホッケー(バルセロナ五輪で金)、バスケットボール(リオデジャネイロ五輪で銀)、水球(ロンドン五輪で銀)、ハンドボール(ロンドン五輪で銀)の4競技について、それぞれメダルの色をイメージした刷色でデザインされています。ちなみに、バスケットボールでスペイン代表がメダルを獲得したのは男女ともにリオデジャネイロ五輪が最初のことで、女子が銀メダルだったのに対して、男子は銅メダルでした。 さて、当初2020年に予定されていた夏季五輪は、2011年9月2日までにバクー、ドーハ、イスタンブール、マドリード、ローマ、東京の6都市がIOCに立候補を申請しましたが、2012年2月にローマが財政難を理由に脱落、同年5月の1次選考でドーハとバクーが落選した後、2013年9月7日、ブエノスアイレスで開かれた第125次IOC総会で東京がマドリードとイスタンブールを下して開催都市となりました。 その後、新型コロナウイルス禍により開催は1年延期され、大半の競技が無観客試合で行われるなど幾多の困難の中、なんとか東京五輪が無事に終了したこと特筆すべきことだと思います。今後の新型コロナ禍の状況と五輪との因果関係次第ではありますが、ひとまずは、今回の東京五輪の実績を踏まえ、2020年の五輪開催を逃したスペイン五輪委員会のアレハンドロ・ブランコ会長がスペイン紙「エル・ムンド」のインタビューに応えて「東京で大会が開かれていなかったら、スポーツ界は崩壊していた」と発言したことはもっと多くの人に知られても良いのではないかと思います。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月9日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-08 Sun 01:45
現在開催中の東京五輪ですが、きのう(7日)は、レスリング男子フリースタイル65キロ級の乙黒拓斗、レスリング女子50キロ級の須崎優衣、野球の日本代表が金、ゴルフ女子の稲見萌寧が銀、空手男子組手75キロの荒賀龍太郎が銅、の各メダルを獲得しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、昨年(2020年)7月27日、米国が発行した“バッグス・バニー80周年”の記念切手で、野球の投手姿のバッグス・バニーが描かれています。 バッグス・バニーは、ワーナー・ブラザースのアニメーション作品に登場する架空のウサギで、1938年に公開された『ポーキーのウサギ狩り』に“ハッピー・ラビット”として登場したのが最初です。バッグス・バニーの名前となったのは、1940年に公開の『野生のバニー』からで、今回ご紹介の切手もここから起算して発行されたものです。 今回ご紹介の切手は、1946年に公開の『バッグスの野球狂時代(Baseball Bugs)』の一場面で、映画では、バッグスは、ガスハウス・ゴリラズの対戦で、すべてのポジションを守るという設定になっています。 さて、オリンピックにおける野球競技は、1904年のセントルイス五輪で公開種目として実施されたのが最初で、その後、1912年のストックホルム五輪、1936年のベルリン五輪、1956年のメルボルン五輪、1964年の東京五輪、1984年のロサンゼルス五輪、1988年のソウル五輪で公開競技として実施されました。また、この間、1952年のヘルシンキ五輪は、フィンランド式の野球であるペサパッロが公開競技として実施されました。 正式種目としては、1992年のバルセロナ五輪で採用されたのが最初で、この時は、キューバが金、台湾が銀、日本は銅という結果でした。続く1996年のアトランタ五輪でもキューバが優勝し、日本は決勝で敗れて銀メダルとなりました。 2000年のシドニー五輪では、日本は4位でメダルを逃しました(ちなみに、金は米国、銀はキューバ、銅は韓国)が、2004年のアテネ五輪では銅メダルを獲得(金はキューバ、銀はオーストラリア)。ところが、2008年の北京五輪では再び4位で(金は韓国、銀はキューバ、銅は米国)メダルを逃してしまいます。 ところで、2002年、IOCのオリンピックプログラム委員会は、夏季五輪の肥大化に歯止めをかけるためとして、野球とソフトボールを”環太平洋の特定地域以外では盛んに行われていない競技”と認定し、正式種目からの除外を勧告。2005年7月8日にシンガポールで行われたIOC総会では、現行の28競技を対象に行われた五輪競技としての存続を決める投票で、野球とソフトボールは過半数の賛成票を集められず、2012年のロンドン五輪から除外する方針が決まりました。 このため、関係者は2016年のリオ五輪での復活を目指してPR活動を続けましたが、2009年8月13日、IOCはリオ五輪の競技にも加えないことを決定します。 今回の東京五輪でも、野球とソフトボールは当初は正式種目から除外されていましたが、2016年8月4日のIOC総会で、野球とソフトボールは開催都市が追加できる正式種目として実施されることとなり、同年12月には横浜スタジアムを会場とすることが決まりました。(その後、2017年3月には、福島県の福島あづま球場での一部開催も決定) 今回の東京五輪での野球・ソフトボールは、新型コロナ禍の状況が悪化したため、会期直前になってすべての試合の無観客開催が決まるという異例の形式となったものの、いずれも開催国の日本が優勝という結果となりました。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月9日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-07 Sat 03:08
現在開催中の東京五輪ですが、きのう(6日)は、空手男子・形の喜友名諒とレスリング女子53キロ級の向田真優が金、スポーツクライミング女子複合の野中生萌が銀、野口啓代が銅、卓球男子団体の日本代表が銅(リオデジャネイロ五輪に続く連覇)、の各メダルを獲得しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2005年10月1日、カナダが発行した“若者のスポーツ”の切手のうち、スポーツクライミング(ウォールクライミング)を取り上げた1枚です。 競技としてのスポーツクライミングは、1940年代後半以降のソ連で行われていた岩登りのフリークライミングがそのルーツです。フリークライミングは、もともとは、自然の岩場で規定の高さまで登る速さを競う単純なスピード種目でした。その後、ここから、人工壁を使い、整備されたルールの下、参加者同士が技の優劣やタイムを競いあう競技として行われるものとしてスポーツクライミング(ウォールクライミングとも)が分離。現在の五輪競技としては、以下の3種目から構成されています。 ①ボルダリング:5メートル以下の高さの壁を用い、ロープを使わずに手足のみ(シューズとチョーク)で壁面のホールドを使って、4分以内にいくつ完登できるかを競う ②リード:12メートル以上の高さの壁を用い、ロープのつながったハーネスを装着し、途中の支点にロープをかけながら6分以内にどこまで登れるかを競う ③スピード:15メートルの高さの壁を用い、安全装置用のロープを装着し、同一のコースを2名同時に隣り合って登り、速くゴールまで到達した者が勝利する スポーツクライミングのワールドカップは1988年から、世界選手権は1991年から行われていますが、競技人口の急激な拡大を受け、2006年、国際山岳連盟 (UIAA) から国際スポーツクライミング連盟(IFSC)が独立。翌2007年にスペインで開催された世界選手権には50カ国以上の国・地域からの参加者が集まりました。 こうした実績を踏まえ、2007年12月10日、ローザンヌで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)理事会はIFSCを仮承認。その後、スポーツクライミングはIOCの承認競技となりましたが、五輪の正式競技には採用されない時代が長らく続いていました。そこへ、2020年の東京五輪において開催都市提案の追加種目として採用され、今回の日本選手のメダル獲得となったわけです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月9日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-06 Fri 01:39
現在開催中の東京五輪ですが、きのう(5日)は、レスリング女子57キロ級の川井梨紗子が金(リオデジャネイロ五輪に続く連覇)、男子20キロ競歩の池田向希が銀、山西利和が銅、空手女子・形の清水希容と卓球女子団体の日本代表が銀、ボクシング男子フライ級の田中亮明が銅、の各メダルを獲得しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2020年1月13日に北マケドニアが発行した今回の東京五輪の記念切手で、大会のエンブレムと空手の形の演武が取り上げられています。 地域概念でいう“マケドニア”の範囲は、古代のアレクサンダー大王の故地として、現在の北マケドニア国家の領域のみならず、ギリシャ、ブルガリアの3国にまたがり、さらに、アルバニア領マラ・プレスパおよびゴロ・ブルド、コソヴォ領ゴーラ、セルビア領プロホル・プチニスキをも含むものとされています。このため、広義のマケドニアの領域をめぐっては、歴史的にギリシャ、ユーゴスラヴィア、ブルガリアの3国が領有権を主張してきました。 1991年、旧ユーゴスラヴィア連邦を構成していたマケドニア(社会主義)共和国が“マケドニア共和国”の名義で連邦から分離・独立。この時点で、広義のマケドニアのうち、面積比で、南部の約50%がギリシャ領に、北西部の約40%が“マケドニア共和国”の領域となりました。 ただし、広義のマケドニアの歴史的な中心都市はギリシャ領のテッサロニキであり、さらに、古代マケドニア王国がギリシャ系の国であったのに対して、“マケドニア共和国”の多数派民族がスラブ系であったことなどから、ギリシャ側は、本来のマケドニアはギリシャであると主張。1991年の独立宣言以来、“マケドニア共和国”に対して国名の変更を要求していました。 ところで、当時はいわゆるボスニア紛争により、ユーゴスラヴィア(旧連邦のセルビアとモンテネグロで構成)が国連の制裁下に置かれ、ユーゴスラヴィア五輪委員会が五輪に選手を派遣することが事実上不可能となっていたため、1992年のバルセロナ五輪に関しては、IOCは救済措置として“独立参加選手団(Independent Olympic Participants:IOP)”の枠を設け、ユーゴスラヴィア選手が個人名義での参加することを認めます。国名問題により、IOCへの参加が頓挫していた“マケドニア共和国”もこれに便乗して、同国の選手はIOPに加わることでバルセロナ五輪に参加しました。しかし、1994年のリレハンメル五輪ではIOPが設定されなかったため、マケドニア選手は参加を断念せざるを得ませんでした。 1993年、“マケドニア共和国”は同名で国連に加盟申請をしましたが、ギリシャがこれに強く反発。マケドニア共和国は“マケドニア旧ユーゴスラビア共和国”という暫定名で加盟するということで妥協が図られましたが、これに納得しないギリシャは、1994年2月にマケドニアに対する経済封鎖を断行。海を持たない内陸のマケドニア共和国は大きな打撃を受け、国旗のデザインを変更(1991年の独立時に定められた国旗は、古代マケドニアのヴェルギナの星を用いていました)するとともに、憲法を改正してギリシャ領のマケドニアに対する領土的野心がないことを明言するなどして、1995年にようやく経済制裁を解除させました。 この結果、1996年のアトランタ五輪に関しては、ようやく“マケドニア旧ユーゴスラビア共和国”名義でのマケドニア選手の参加が認められ、1998年の長野冬季五輪にも参加しています。 しかし、その後も、ギリシャは“マケドニア”の国名変更を求め、マケドニア共和国がこれに抵抗するという状況が続き、マケドニア共和国のEUやNATOへの加盟は国名問題の解決までは保留されたままになっていました。 こうした中で、2017年にマケドニアでゾラン・ザエフ政権が発足すると、同政権はNATOやEU加盟を優先して国名問題についても柔軟路線に転換。そこで、ギリシャ側も態度を軟化させ、2018年1月の両国の外相会談で国名改称に向けた作業部会の設置が決定されます。そして、翌2月、北マケドニア共和国、上マケドニア共和国、ヴァルダル・マケドニア共和国、マケドニア・スコピエ共和国の4案が提案され、6月12日、マケドニアが国名を北マケドニア共和国とすることでギリシャとの政府間合意が成立しました。 一方、マケドニア国内では、国名変更に反対する野党勢力が同年9月30日の国民投票ボイコットを呼び掛けたこともあり、投票率は約37%にとどまります。国民投票の成立条件は投票率が50%とされていたため、この時の投票結果は無効となりましたが、2019年1月11日、マケドニア議会は国名を“北マケドニア共和国”に変更するとした憲法改正案を賛成多数で承認。これを受けて、1月25日にはギリシャ国会でもマケドニアとの政府間合意が承認され、ようやく、1991年のマケドニア独立以来の国名論争がようやく決着しました。 今回の東京五輪はこの”北マケドニア”名義での最初の五輪参加となり、派遣された8人の選手のうち、このブログ記事を書いている時点で、デヤン・ゲオルギエフスキがテコンドー男子80キロ超級で銀メダルを獲得しています。ちなみに、同国のメダル獲得は2000年のシドニー五輪での銅メダル以来、21年ぶり2回目のことです。なお、切手の題材となった空手の形については、女子選手のプレクセニア・ヨヴァノスカが出場しましたが、予選ラウンドで敗退しています。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月9日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-05 Thu 05:16
現在開催中の東京五輪ですが、きのう(4日)は、スケートボード女子パークの四十住さくらが金、開心那が銀、レスリング女子62キロ級の川井友香子が金、ボクシング女子フライ級の並木月海が銅、の各メダルを獲得しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、今年(2021年)7月20日、コソヴォが今回の東京五輪を記念した発行した切手シートで、レスリングが取り上げられています。 コソヴォはバルカン半島中部の内陸部に位置しており、北東をセルビア、南東を北マケドニア、南西をアルバニア、北西をモンテネグロに囲まれています セルビア民族の揺籃の地とされるコソヴォは、12世紀末には中世セルビア王国・セルビア正教会の中心でしたが、14世紀末にオスマン帝国に占領され、それ以後、多くのセルビア人は北方に移住。代わりに、オスマン帝国支配下のアルバニアからイスラム教に改宗したアルバニア系が入植が進みます。 20世紀初頭のバルカン戦争の後、1912年に独立を宣言したアルバニアはコソヴォの領有を主張しますが、列強が介入した1913年の国境画定でコソボはアルバニアではなく、セルビアに組み込まれます。その後、第一次世界大戦中のオーストリア・ハンガリー帝国、ブルガリア王国の占領時代を経て、大戦後にユーゴスラヴィア王国が成立しましたが、第2次大戦中、コソヴォ地域はブルガリアに併合されていました。 第2次大戦後、第2のユーゴとなるユーゴスラヴィア連邦共和国が成立すると、コソヴォ一帯はアルバニア人が多数を占めていたことから、セルビア共和国内の自治区とされました。しかし、欧州一の出生率を誇るアルバニア人の急激な人口増加(過去50年間で人口が約4倍に急増。1948年の46万人から1998年には183万人へ)や、強烈なカリスマを持った建国の父、ティトーが亡くなり、連邦の分裂傾向が強まる中で、次第に、コソヴォのアルバニア系住民の間では自治州から共和国への格上げを求める声が高まっていきました。 これに対して、“ユーゴスラヴィア”の枠組を維持したかったミロシェビッチ政権は、コソヴォでは少数派のセルビア系住民が抑圧を受けるようになったこともあり、1989年、コソヴォの自治権を縮小。さらに、翌1990年、アルバニア系住民が住民投票を経て“コソヴォ共和国”の独立を宣言すると、コソヴォ議会を解散して自治権を剥奪し、独立運動に対する弾圧を本格化します。 その後、コソヴォ民主同盟代表のルゴバらが平和的手段によるコソヴォの独立運動を展開したものの、事態の進展はなく、1998年2月にアルバニア系のコソヴォ解放軍(KLA)とセルビア治安部隊との間に武力衝突が発生。これにユーゴ連邦軍が介入し、コソヴォ紛争は本格化しました。 武力紛争は、1999年5月にG8外相間で合意された和平案をもとに、同年6月10日、国連安保理決議1244が採択されて終結。セルビア人部隊は撤退し、コソヴォは国連コソヴォ暫定行政ミッション(UNMIK)の統治下、すなわち、“独立国ではない”ものの“特定国家の実効支配下にない”という微妙な立場におかれることになります。 なお、切手に関しては、2000年3月15日、UNMIKの名の下にドイツマルク額面の切手が発行され、以後、2002年5月からは額面をユーロに変更して、UNMIK名での独自の切手発行が続けられてきましたが、2008年の独立宣言とともに“コソヴォ共和国”名での切手が発行されるようになりました。 2008年の独立宣言に対して、コソヴォ独立を一貫して否定してきたロシアとセルビアは猛反発。特に、セルビアはコソヴォの分離独立を「永遠に認めない」と主張しています。一方、2010年7月、国際司法裁判所は、コソヴォ独立宣言は国際法に違反しないとの勧告的意見を発表。これを受けて、わが国を含む西側諸国の多くはコソヴォの独立を承認しましたが、安保理常任理事国の中露がセルビア政府の合意なしにはコソヴォの独立を承認しないとの立場をとっていたほか、少数民族の独立運動を抱えているインドやスペインなどもコソヴォ独立を承認しない意向を表明しています。 現在のコソヴォ国家の基本方針は、独立承認国(2019年8月現在,101か国以上)を増やし、国連等国際機関への加盟を達成することが当面を目標としており、将来はEUにも加盟したいとの意思を示しています。 なお、コソヴォは欧州最貧国(のひとつ)で、旧ユーゴ及びセルビアからの援助に依存しており、経済的に自立する基盤がありません。主要産業の農業は小規模な家族経営が大半で、褐炭、亜鉛等の鉱物資源はあるものの、設備投資はほとんど行われず、恒常的な貿易赤字と税収の不備、電力不足、若年層を中心とする大量の失業など課題が山積しています。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月9日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-04 Wed 00:47
現在開催中の東京五輪ですが、きのう(3日)は、ボクシング女子フェザー級の入江聖奈と体操男子・鉄棒の橋本大輝が金、レスリング男子グレコローマンスタイル77キロ級の屋比久翔平が銅、の各メダルを獲得しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2012年7月27日、カナダ・ニューファンドランド島の沖合に位置するフランスの海外準県のサンピエール・ミクロンが発行したロンドン五輪の記念切手で、女子ボクシングの試合のイメージが取り上げられています。 女子ボクシングの歴史は古く、1722年にはロンドンで行われた試合でエリザベス・ウィルキンソンがマーサ・ジョーンズに勝利したとの記録があります。しかし、当時の社会規範では、女子ボクシングは風紀を乱すものとみなされ、1880年には英国で女子ボクシングが禁止されました。 米国では、1876年にニューヨークで女子ボクシングの試合が行われた記録があり、1904年のセントルイス五輪では公開競技としてボクシング女子の試合も行われています。また、わが国では、昭和初期、砲丸投げ選手の石田正子が日本拳闘倶楽部でトレーニングを積み、試合も計画されましたが、警視庁条例違反という理由で試合の開催は認められませんでした。 第二次大戦後になると、各国での女子ボクシングに対する規制は徐々に緩和され、1990年、元女子ボクサーのバーバラ・バトリックにより設立された女子最古の団体として女子国際ボクシング連盟(WIBF)が設立されます。さらに、2001年からは国際アマチュアボクシング協会(AIBA)が世界女子ボクシング選手権大会を開催するようになり、2012年のロンドン五輪以降、女子ボクシングは五輪の正式競技に採用されました。 ところで、2012年のロンドン五輪を前に、AIBA は「男子選手との区別を容易にするため」との理由で、女子選手のユニフォームとしてスカートの導入を考え、2011年10月の欧州選手権では選手たちに任意でのスカート着用を試験的に呼びかけます。しかし、多くの選手たちは試合中のスカート着用には否定的で、実際に欧州選手権でスカート型のウェアを着用したのはポーランドとルーマニアの2選手のみでした。 それでも、2012年の審議会でAIBA は女子選手の“スカート着用”の義務化を検討すると発表。今回ご紹介の切手のデザインもこうした事情を踏まえて作成されたものと思われます。 しかし、AIBA による“スカート着用(の義務化)”に対しては、ワールドチャンピオンを3度獲得したアイルランドのケイティ・テイラー選手がBBCのインタビューで「ミニスカートを強要するなんて、侮辱している。私は夜遊びするときだってミニスカートを履かないのに、リングでは絶対に履くわけがない」と語ったのをはじめ、選手の多くが猛反発。結局、この問題については、2020年2月19日、AIBA 会長の呉経国が、選手のスカート着用は義務ではなく任意とする方針を明かしたことで決着し、スカートを着用して試合に臨む選手はいなくなりました。 なお、女子ボクシングの服装規定としては、スカートとは全く別の次元で、胸部保護用のチェストガードと、子宮保護用のローブローガードの着用が安全性の面から義務付けられています。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月9日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-03 Tue 04:54
現在開催中の東京五輪ですが、きのう(2日)は、レスリング男子グレコローマンスタイル60キロ級の文田健一郎が銀、体操女子種目別の“ゆか”で村上茉愛が銅(体操女子の個人メダルは初。団体でも1964年の東京五輪以来57年ぶり)、の各メダルを獲得しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2020年9月21日にフランスが発行した“スポーツ 情熱の色”の切手のうち、体操女子を取り上げた1枚です。 “スポーツ 情熱の色”は、2019年から毎年1枚ずつ、各大陸の地図を背景に6種の競技の切手を収めた円形のシート形式で発行され、次回のパリ五輪前年の2023年には、シート周囲の枠で“五輪”が完成するという趣向になっています。ちなみに、今回ご紹介の切手が収められていたシートは赤枠で背景は南北アメリカ大陸(下の画像)、2019年のシートは青枠で背景は欧州大陸、2021年のシートは黄枠で背景はアジア大陸になっています。 さて、今回ご紹介の切手のシートの1枚として体操女子が取り上げられたのは、2020年が今回の東京五輪の当初の開催予定年だったことに加え、五輪の代表選考会として、同年の“体操女子ヨーロッパ選手権大会”が4月23日から5月3日までパリで開催される予定だったことを踏まえたものです。 しかし、新型コロナ禍により、東京五輪は開催が1年延期され、ヨーロッパ選手権も4-5月のパリでの開催は取りやめとなり、12月17-20日にアゼルバイジャンのバクーで規模を大幅に縮小して実施されることになりました。ところが、今度は、同年9月27日、ナゴルノ・カラバフをめぐりアゼルバイジャンとアルメニアの紛争が勃発したため、日程はそのままで開催地をバクーからトルコのメルシンに変更して実施されています。 ちなみに、メルシンでの大会には15ヵ国から90人の選手が参加しましたが、今回ご紹介の切手を発行したフランスをはじめ、ドイツ、イタリア、スペイン、英国など西側主要国は参加しませんでした。 * 昨日(2日)の文化放送「おはよう寺ちゃん」の僕の出番は、無事、終了いたしました。リスナーの皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。次回は来週月曜日・9日に登場の予定です。引き続きよろしくお付き合いください。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月9日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-02 Mon 01:44
現在開催中の東京五輪ですが、きのう(1日)は、体操男子種目別の鞍馬で萱和磨が銅メダルを獲得しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、今年(2021年)3月17日、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを構成するスルプスカ共和国(セルビア人共和国)が、今回の東京五輪を意識して発行した“スポーツ”の切手のうち、体操男子の鞍馬と体操女子の平均台の演技を組み合わせたデザインになっています。 1991年6月、いわゆるユーゴスラヴィア紛争が勃発し、 スロヴェニアとクロアチアが旧ユーゴスラヴィア連邦からの独立を宣言。続いて、翌1992年3月にはボスニア・ヘルツェゴビナも独立を宣言します。 これに対して、ボスニア・ヘルツェゴビナ内で独立に反対していたセルビア人は、セルビア人共和国(スルプスカ共和国)の樹立とボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を主張し、独立賛成派のクロアチア人・ボシュニャク人(ムスリム人)の対立が軍事衝突に発展します。さらに、同年4月27日、クロアチア民主同盟(当時のクロアチアの政権与党)ボスニア・ヘルツェゴヴィナ支部の過激派がボスニア・ヘルツェゴヴィナからの分離独立を唱えて“ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア共和国”の独立を宣言。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(以下、ボスニア紛争)は、セルビア、クロアチア両国の介入もあって泥沼化していきます。 その後、1995年11月21日、セルビア大統領スロボダン・ミロシェヴィッチ(ボスニア・セルビア人代表として、ラドヴァン・カラジッチは欠席)、クロアチア大統領フラニョ・トゥジマン、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ大統領アリヤ・イゼトベゴヴィッチと同国外相ムハメド・サツィルベイの間で和平合意(デイトン合意)が成立。同合意は、12月14日にパリで署名されて発効してボスニア紛争は終結しました。 この和平合意により、ボスニア・ヘルツェゴヴィナはボシュニャク人(ムスリム人)とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人主体のスルプスカ共和国からなる連合国家となり、民生面を上級代表事務所(OHR)、軍事面をNATO中心の多国籍部隊(平和安定化部隊、SFOR)が担当し、停戦の監視と和平の履行が進められます。切手に関しては、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦とスルプスカ共和国が別個のものを発行しているだけでなく、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦に“県”として併合された旧ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国も“ヘルツェグ=ボスナ”として独自の切手を発行し続けています。今回ご紹介の切手は、そのうちのスルプスカ共和国が発行したものです。 さて、スルプスカ共和国は毎年“スポーツ切手”を発行していますが、2020年に関しては、当初、東京五輪の記念切手として発効することを計画していました。ところが、2020年3月、五輪の開催が1年間延期されたことから、デザインの一部などを変更した切手が同年9月21日に発行されました。 こうした経緯を踏まえて、2021年のスポーツ切手に関しては、3月17日の切手発行に合わせて、ボスニア・ヘルツェゴビナ・ポストは、「スポーツ2021(切手)について」と題して、以下のような内容のプレスリリースを発表しています。 (以下、プレス・リリースの内容です) 新型コロナウイルス禍は全世界でいまだ終息しておらず、スポーツに関しても我々にとって未知の状況をもたらしています。多くの世界選手権、競技会、試合が延期されており、開催されたものも無観客で行われました。世界中のスタジアムから観客がいなくなり、試合のテレビ中継に観客が写ることもありませんでした。 2021年は、我々が記憶している(新型コロナウイルス禍が深刻なものとなった)昨年3月以前のレベルまで、スポーツ・イベントは復活するでしょうか?近い将来、観客がスタジアムにいそいそと出かけるようになるでしょうか?それとも、人々は自らの自制心と新型コロナウイルスへの恐れから、事態はしばらく時間をかけて戻っていくことになるのでしょうか?(中略) 同時に、アスリートたちも孤立を感じ、精神的にかなり追い詰められています。選手、ファン、観客、運営スタッフ、スポーツジャーナリストなど、スポーツに関わる全ての人が深刻な影響を受けているのです。 世界最大級のスポーツ・イベントであるオリンピックさえも、史上初めて、延期の状態が続いていましたが、いよいよ、今年の異常な状況の中で開催される予定です。ただし、観客数や参加選手数など、開催予定という以上のことは(現時点では)ほとんどわかっていません。オリンピックは世界規模のイベントであり、世界中から人々が 一つの都市に集まるため、パンデミック時代の主催者にとって特別な課題となっています。 それでも、我々は、自信をもって、まもなくスポーツのフィールドに共に集い、自分たちのスポーツ精神を失うことはないとの希望を持っているのです。 (引用終わり) ちなみに、今回の東京五輪は無事に開幕し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナは、陸上と競泳に各2人、射撃、柔道、テコンドーに書く1人の計7人の選手が参加しています。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月2日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-08-01 Sun 04:02
現在開催中の東京五輪ですが、きのう(31日)は、柔道混合団体の日本代表が銀、アーチェリー男子個人の古川高晴が銅、の各メダルを獲得しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2020年12月、タジキスタンが発行した今回の東京五輪の記念切手で、2003年に発行の“(アテネ五輪の)プレ五輪”切手の内、パルテノン神殿とギリシャ地図などを描くタブを挟むアーチェリーとサッカーの連刷切手に、“東京夏季五輪”を意味する英語とタジク語(Токио бозиҳои тобистонаи олимпӣ)の文字と“2020”の年号が入った富士山などが加刷されています。 1991年に独立したタジキスタンでは、1992年春、イスラム勢力やパミール人、ガルム人などによる中央政府への抗議行動が発生。5月には、政府側の警備兵と反政府勢力の間で戦闘が勃発し、いわゆるタジキスタン内戦に突入します。 内戦勃発後の1992年9月に発足したラフモノフ(現ラフモン。2007年にロシア語名からタジク語名に改名)は反政府勢力の民族浄化を行うなど強硬姿勢で臨み、1993年3月頃までに、国土の大半を掌握。ただし、大量の難民がアフガニスタンに流入し、タジク野党連合(UTO)を結成し、タジキスタン南部での抵抗を続けました。 その後、1994年4月以降、国連・ロシア・イランの3者の仲介により、モスクワでラフモノフ政権とUTOの仲介に和平交渉がはじまり、交渉の進展を受けて、同年11月6日、憲法改正が行われ、ラフモノフは正式にタジキスタン共和国大統領に就任。さらに、同年12月16日、国連タジク監視団が創設され、停戦状況の監視と状況の報告、人道支援協力、CIS平和維持軍の協力による警備などが行われ、1997年6月27日の和平協定成立により、タジキスタン内戦はとりあえず終結しました。 タジキスタンでは、独立後まもない1992年に国内オリンピック委員会が設立され、翌1993年には国際オリンピック委員会に承認されていますが、内戦の影響もあって、五輪に参加したのは、夏季大会は1996年のアトランタ五輪が、冬季大会は2002年のソルトレイクシティ五輪が最初です。また、2008年の北京五輪では柔道男子73キロ級でラスル・ボキエフが銅メダルを獲得し、同国初のメダリストになりました。 さて、タジキスタンでは、2003年5月20日、五輪参加資金を捻出する一手段として、“オリンピックに向けて”と題してタブを挟む連刷切手2組で構成された切手シートを発行しました。このシートは海外のエージェントの企画による輸出向け商品としての性格が強いものだと思いますが、とりあえず、万国郵便連合からは正規の”タジキスタン切手”として認められています。今回ご紹介の切手の台切手に使われたのは、そのシート上段に収められていた“アテネ五輪”の連刷切手で、下段にはこれと同形式で体操と陸上競技の切手を組み合わせた“北京五輪”の連刷切手が収められています。 切手の正確な発行枚数は定かではないのですが、“オリンピックに向けて”の切手シートはかなり売れ残ったようで、2012年のロンドン五輪の際にも、今回ご紹介のモノ同様、売れ残り切手に記念銘などを加刷した記念シートが、正刷切手とともに発行されています。おそらく、それでも売れ残り分を消化しきれなかったため、今回のような加刷切手の発行になったということなのでしょう。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月2日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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