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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 イエメン航空
2009-06-30 Tue 21:59
 現地時間の昨日(29日)午後9時半、乗員乗客150人以上を乗せてイエメンの首都サヌアからコモロに向かっていたイエメン航空機がインド洋に墜落し、乗員乗客の生存は絶望的と見られていましたが、きょうになって、同航空は子供1人が救助されたと発表しました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

 イエメン航空

 これは、1951年、王制時代のイエメンで発行された航空切手で、首都サナアの上空を飛行機が飛んでいる風景が描かれています。イエメン最初の航空切手は1947年の発行で、この切手は第2次発行分です。

 旧約聖書の創世記に登場する「ノアの方舟」の物語は、ノアとその一族だけが、方舟に乗って神が人間を罰するために起こした洪水から逃れるというものですが、ノアの息子のセム(アラビア語ではサーム)はアラブをはじめとするセム族の祖と見なされています。現在、イエメンの首都となっているサナアは、このセムが、東のヌクム山から盆地を切り開いてつくったとの伝説を持つ古都で、イスラム以前から、香料の貿易で繁栄する南アラビア有数の都市でした。

 もっとも、交通の要衝であったがゆえに、サナアには周辺勢力の侵入が絶えず、人々は城壁を築いて防衛に努めました。このことが、東西約1・5km、南北約1kmの城壁に囲まれた街の輪郭を形成する大きな動機となります。

 西暦7世紀になってムスリムの支配下に置かれるようになると、サナアにあったジャーヒリーヤ時代の神殿はすべて破壊され、その上に、モスクを中心としたイスラム都市の体裁が整えられていきます。現在、サナアの旧市街には、6000棟以上の古い家屋と103のモスク、64本のミナレット(尖塔)が建ち並んでいますが、数百年前から変わらぬままの古い街並がそのまま残っており、街全体が“生きた博物館”とも称されています。

 今回ご紹介の切手にも、そうしたサナアの町並みの一部が描かれていますが、ユネスコの世界文化遺産にも認定された町並みは、異国の観光客のエキゾチシズムを大いにくすぐる存在となっています。

 ちなみに、今回の事故を起こしたイエメン航空(イエメン・エアウェイズ)は、1961年8月4日に“イエメン・エアラインズ”として創立され、1962年から運行を開始しました。“エアウェイズ”への改称は1972年のことです。したがって、きょうの切手が発行された1951年の時点では会社としてのイエメン航空は影も形もないのですが、古都の上空をプロペラ機がのんびりと飛んでいる風景というのも、なんとなく風情があってよいでものですな。

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 ホンジュラスでクーデター
2009-06-29 Mon 21:52
 きのう(28日)、中米のホンジュラスで軍がセラヤ大統領を拘束し、国外に追放するクーデターが発生しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ホンジュラス・大統領官邸

 これは、1927年にホンジュラスで発行された6センタボ切手で、大統領官邸が取り上げられています。1929年、印刷所から目打が施される前のこの切手のシートが大量に盗まれる事件が起こり、犯人グループはその一部にミシンで私製目打を施して売りさばいています。今回ご紹介のマテリアルも、その過程で1列分の目打を漏らしたものなのかもしれません。なお、盗まれた切手が使われるのを防ぐため、ホンジュラス当局は1929年10月以降、郵便局の窓口から正規に発売したモノには“1929 a 1930”と加刷しています。

 さて、切手に取り上げられた大統領官邸を追われたセラヤ(前)大統領ですが、2006年1月の大統領就任時は中道右派の立場を取っていましたが、その後、急速に左旋回。ベネズエラやキューバなどとともに、中南米の反米左派陣営の一角を担っていました。このため、大統領の“変節”に対してはホンジュラス国内でも批判の声が強く、一部で軍によるクーデター待望論もあったようです。

 特に、今年3月、セラヤ大統領が、大統領の再選を禁止している憲法を改正して長期政権を目指す意向を明らかにすると、反大統領派は一斉に反発。最高裁も大統領の求める憲法改正のための国民投票は違憲であるとの判断を下していましたが、大統領側は、あくまでも6月28日に国民投票を行うと主張。直前の24日には改憲反対派の軍参謀長を解任するなど、緊張状態が続いていました。

 今回のクーデターは、こうした状況の中で、何としてでも国民投票を阻止すべく、軍が大統領を追放したという構図になっているわけですが、現時点では、アメリカはクーデターを非難するとともに、追放されたセラヤ大統領の即時無条件復帰を求める決議を採択し、クーデターによって誕生した新政権の正統性を否定する立場を取っています。もっとも、セラヤ政権は合法政権とはいえ、アメリカも本音では、“裏庭”である中南米の反米左翼政権が一つでも崩壊することは好ましいと思っているのは言うまでもありません。まぁ、アメリカにしてみれば、セラヤが最高裁の判断を無視して国民投票を強行し、反発した国民によって“民主的に”セラヤが政権から引きずりおろされる(ないしは11月の選挙で落選する)というのがベスト・シナリオだったのでしょうから、今回のクーデターに対しては「早まったことをしやがって」と苦り切っているというところですかな。


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 ヴェルサイユ条約90年
2009-06-28 Sun 21:23
 1919年6月28日に第一次大戦の講和条約としてヴェルサイユ条約が調印されてから、きょうでちょうど90年です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ウルグアイ・第一次大戦平和

 これは、ヴェルサイユ条約の調印を受けて南米のウルグアイ(後述するように、最後の条約調印国です)が発行した「第一次大戦平和」のうち8センテシモ切手の試刷です。デザインは正規に発行されたものと同じですが、正規のものの刷色はオレンジブラウンと藍色で、今回ご紹介のものとは異なっています。今回ご紹介のものにはウォータールー&サン社の“見本”加刷があり、パンチ穴も開いていますが、見本というよりは色校正のカラー・トライアルといったほうが良いかもしれません。

 さて、ヴェルサイユ条約は、第一次大戦に関する講和条約のうち、原則としてドイツと各国の間で締結された条約と言う体裁をとっています。このため、オーストリア=ハンガリーやオスマン帝国など他の中央同盟諸国とはそれぞれ、別の条約が調印されました。

 また、一口に連合国といっても、その内訳は、次のように分けられます。

・主要連合国:アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本
・協力諸国:ベルギー、ポルトガル、ルーマニア
・残り諸国:ボリビア、ブラジル、中国、キューバ、エクアドル、ギリシャ、グァテマラ、ハイチ、ホンジュラス、ヒジャーズ(サウジアラビアの前身)、リベリア、ニカラグァ、パナマ、ペルー、ポーランド、セルビア、クロアチア、スロベニア、シャム(タイ)、チェコスロバキア、ウルグァイ (ただし、中国は調印を拒否)

 このうち、条約の執行能力をもつのは主要連合国と協力諸国とされ、“残り諸国”(原語はThe Restです)はそれを待つことになっていました。日本と中国がともに“戦勝国”でありながら、旧ドイツ租借地の山東半島に関して、大戦中にこの地を占領した日本の権益が、中国の返還要求よりも優先されたのはこのためです。ちなみに、中国は大戦中に21ヶ条要求に屈し、すでに日本へのドイツ権益譲渡を認めていましたから、道義的にはともかく、条約上はそれを履行する義務があり、山東問題について講和条約という点から異議申し立てをすることは、国際法上はかなり無理があります。

 条約の調印は、現地時間の6月28日午後3時、ベルサイユ宮殿鏡の間でドイツの署名からスタートし、上記のリスト順(原則としてアルファベット順)に行われました。今回、ご紹介してるウルグアイは最後の調印国で、ウルグアイの調印を受けて、フランス首相のクレマンソーが「これで平和が達成された」と閉会を宣言。フランス国歌ラ・マルセエーズが演奏され、会議は終了しました。

 当時、連合諸国では“世紀のイベント”としてのベルサイユ条約調印に合わせて記念切手の発行を計画していましたが、報道されている会議の進行状況から、条約の調印は8月以降になりそうだというのが大方の予想でした。ところが、急遽、6月28日の条約調印となったため、各国ともに対応に追われ、7月以降、バタバタと記念切手が発行されることになりました。ちなみに、日本の記念切手発行は7月1日、今回ご紹介のウルグアイは7月15日です。

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 Beat It
2009-06-27 Sat 16:15
 「スリラー」「BAD」など多くの世界的ヒット曲で知られ、キング・オブ・ポップと呼ばれたマイケル・ジャクソンが、現地時間午後2時26分、ロサンゼルス市内の自宅で倒れ、搬送先の病院で死亡が確認されました。というわけで、きょうは彼のヒット曲“Beat It”にちなみ、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アルコール依存症撲滅

 これは、1981年にアメリカで発行されたアルコール依存症撲滅のキャンペーン切手で、「アルコール依存症 あなたは打ち勝つ(beat it)ことができます!」とのスローガンが大きく入っています。ちなみに、マイケルの“Beat It”は1983年の発売ですから、ほぼ同時代のモノといってよいでしょう。

 アルコホリズム(alcoholism)という英語の病名に対して、日本では1970年代までは“(慢性)アルコール中毒症”という訳語があてられていました。略して“アル中”です。

 一般に、中毒というのは、細菌などによる食中毒や一酸化炭素中毒などのように、毒性のある物質によっておこる体の不調をいい、どちらかというと短期間に症状が出てくるものを指します。このため、大学生がイッキ飲みで倒れて病院に担ぎ込まれるようなケースは、現在でも、急性アルコール中毒と呼ばれています。

 これに対して、アルコホリズムの訳語としての“慢性アルコール中毒”に関しては、自らの意志で飲酒行動をくりかえす病気に対して“中毒”という表現は適切ではないとの指摘や、“アル中“という表現に“飲んだくれて道に転がっているどうしようもない人”、“ダメ人間”という侮蔑的なニュアンスがあるとされたことから、1970年代半ば以降尾、訳語の見直しが検討されるようになります。

 おりしも、アメリカの精神医学会(APA)やWHO(国際保健機関)は、精神病の分類を改める時期にもあたっており、アルコホリズムには、アルコール依存症(Alcohol Dependence)という病名が与えられることとなり、この訳語が用いられるようになったわけです。ちなみに、APAの定義によれば、アルコール依存は、広くは物質依存(Substance Dependence)のひとつであり、他の依存物質として、アヘン類・大麻類・鎮静剤あるいは睡眠剤・コカイン・カフェイン・幻覚剤・タバコ(ニコチン)・揮発性溶剤・アンフェタミン(覚醒剤)・抗不安剤・これら複数の多剤への依存が挙げられているそうです。

 さて、マイケル・ジャクソンの死因については、特定までにしばらく時間がかかりそうですが、1984年にCM撮影で大やけどを負い、皮膚移植手術を受けて以来、日常的に大量の鎮痛剤などを服用していたとみられることから、薬物の過剰摂取が原因ではないかとする見方が強いようです。音楽界の頂点を極めた彼をしても、薬物中毒ないしは依存症を“beat it”することは困難だったということなんでしょうかね。

 なお、アメリカにおける飲酒問題といえば、歴史的には禁酒法が有名ですが、こちらについては拙著『大統領になりそこなった男たち』でもその概要をまとめていますので、機会がありましたら、ご覧いただけると幸いです。 

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 世界漫遊記:ティミショアラ(前篇)
2009-06-26 Fri 14:34
 『キュリオマガジン』2009年7月号が出来上がりました。僕の連載「郵便学者の世界漫遊記」は、今回と次回の2回に分けて1989年のルーマニア民主革命の発祥の地・ティミショアラを取り上げます。その記事のなかから、今日は、こんなモノをもってきてみました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

 ティミショアラ大聖堂   ティミショアラ大聖堂(実物)

 左は、ティミショアラのランドマークとなっている大聖堂を取り上げた1990年の切手つき封筒で、右側は、その大聖堂の実際の写真です。

 現在のルーマニアは、1877年にワラキアとモルダヴィアが合同してできたルーマニア王国に、第一次大戦後の1918年、トランシルヴァニアが加わってできあがったというのが基本的な成り立ちです。ただし、このときルーマニアに加わったトランシルヴァニアは、歴史的経緯などから、その主要部分を占める狭義のトランシルヴァニア、北部のマラムレシュ、西部のバナトに細分されることもあります。

 このうちのバナトですが、広義のバナト地方は、現在のルーマニア領の部分を超えて、セルビア領、ハンガリー領にもひろがっています。そして、歴史的にその中核となってきたのが、ハンガリー国境に近いルーマニアの都市、ティミショアラ(ハンガリー語でテメシュヴァール、ドイツ語でテメシュブルク)です。

 ティミショアラは14世紀後半以降、東欧を戦場としたオスマン帝国とキリスト教国の戦いが本格化するなかで、キリスト教国側の最前線となり、軍事都市として繁栄しましたが、1522年、オスマン帝国に占領されました。1716年、オスマン帝国を駆逐してバナト地方を支配下に置いたハプスブルク帝国は、長年の戦乱によって荒廃したバナトの復興に力を注ぎ、都市のインフラ整備を本格的に進めるとともに、ドイツ人、イタリア人、スペイン人などをこの地に入植させましたが、この結果、18世紀から19世紀にかけて、ティミショアラは、ハプスブルク体制下ハンガリーの重要都市として大いに発展していくことになります。

 第一次大戦末期の1918年10月、ティミショアラではバナト共和国の独立・建国が宣言され、瀕死のハプスブルク帝国もこれを承認しましたが、混乱の中でセルビア軍がこの地に進駐。バナト共和国はごく短期間で崩壊し、1919年のヴェルサイユ条約、1920年のトリアノン条約を経て、バナト地方の主要部分はルーマニア領に、南西部はユーゴスラビア、北部のごく一部は新独立国家としてのハンガリーに分割されました。もちろん、中核都市としてのティミショアラは、主要部分を抑えたルーマニア領となります。

 長年にわたるハプスブルク帝国支配下のバナトでは、ルーマニア人は住民の多数派でありながら、二級市民と貶められてきました。新たにこの地を“回復”したルーマニア国家は、そうした屈辱の過去を払拭するためのシンボルとして、1936年、ルーマニア正教の大聖堂の建設に着手します。これが、現在、今回ご紹介している三成聖者大聖堂です。ちなみに、大聖堂の名前に冠せられている三成聖者というのは、初期のキリスト教神学の形成に大きな役割を果たした三人の主教、大ワシリイ、神学者グリゴリイ、金口イオアンのことです。

 大聖堂中央の最も高い塔は96メートルの高さがあり、聖堂内には金色の見事なイコノスタシス(最も神聖な場所とされる至聖所を区切るための、イコンで覆われた壁)があります。聖堂内のイコンや外壁の壁画は、1940年に建物が完成した後、アタナシエ・デミアンによって制作されましたが、時あたかも第二次大戦の真っただ中だったこともあり、制作作業しばしば中断を余儀なくされ、最終的に完成したのは1947年のことでした。ちなみに、“宗教はアヘン”とする共産主義者がルーマニアで政権を掌握したのは1947年12月30日のことでしたから、あと少し完成が遅れていたら、大聖堂は未完のまま放置されることになったかもしれません。

 さて、今回の記事では、ティミショアラの大聖堂を中心に、1989年の革命の発端になったティミショアラ事件のことなどをまとめてみました。機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 ソウルの人民軍
2009-06-25 Thu 14:07
 今年もまた、1950年に朝鮮戦争がはじまった“ユギオ(625)”の日がやってきました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

 北朝鮮加刷

 これは、1950年6月、ソウルを占領した北朝鮮が韓国切手を接収し、“朝鮮民主主義人民共和国”と加刷した切手です。

 朝鮮民主主義人民共和国という国は、もともと、朝鮮半島の北半分をソヴィエト体制化したうえで、それを南半分にまで拡大するための“民主基地”としてソ連が作った国家です。したがって、建国当初の憲法でも、韓国支配下の地域のことを“土地改革がいまだ実施されない地域”として、いずれ併呑する意思を明らかに示しています。

 こうした“建国の理念”の延長線上として、1950年6月25日、38度線を越えて南侵を開始した彼らは、3日後の6月28日、首都・ソウル(当時の北朝鮮憲法では、形式的に、ソウルが首都であると規定されていました)を占領しました。

 占領下の首都の行政責任者であるソウル市人民委員会委員長には、北朝鮮の司法相で南朝鮮労働党(南労党)系の李承が就任します。南労党というのは、米軍占領下の1946年11月、ソウルで、朝鮮共産党・新民党・人民党の三者が合同して結成された左翼政党(委員長は、朝鮮共産党の委員長であった朴憲永)です。その後、米軍政庁と李承晩政権の厳しい弾圧のため、指導部は北朝鮮に移り、1949年6月、金日成の北朝鮮労働党と合同し、現在の朝鮮労働党となりました。

 こうした経緯から、ソウル市人民委員会の委員長には、南労党系の人物が任命されたわけですが、副委員長には、平壌市人民委員会副委員長であった朴昌植(ソ連系)が任命されており、実質的には、ソウルのピョンヤン化が志向されていたことがうかがえます。

 彼らは、占領後まもない6月30日には、政党・社会団体に登録を求め、構成員や役員の名簿の提出を義務づけました。また、韓国政府関係者には“自首”が呼びかけられ、ソウル市民には「反動分子」の摘発が義務として課せられました。さらに、午後9時から午前4時までの外出禁止令や、反北朝鮮宣伝は厳罰に処せられることなどが布告されています。新聞・雑誌も、南朝鮮労働党機関紙の『解放日報』と『朝鮮人民報』、朝鮮労働党中央委員会(平壌)機関紙の『労働新聞』を除いて、すべて発行停止となりました。

 このうち、7月2日に発行された『解放日報』の第一号には、「反逆者たちを処断し、人民の政権機関である人民委員会を復活」させようと呼びかける金日成の演説と、彼のソウル解放の祝賀メッセージが掲載されました。また、『解放日報』は、翌3日の紙面で朝鮮民主主義人民共和国憲法の全文を掲載したほか、続く4日には、元南労党委員長・朴憲永(ただし、このとき、朴は北朝鮮の副首相兼外相でしたが、『解放日報』はこの点を秘匿しています)の演説を掲載し、南の人民に対して北朝鮮側に立って李承晩政権に対する武装蜂起に立ち上がるよう呼びかけています。

 こうした状況の下で、ソウルを占領した北朝鮮側が、現地での郵便に使用するため、韓国切手を接収して発行したのが、今回ご紹介の切手です。これらの切手は、韓国領内の北朝鮮占領地域で使用されたことになっていますが、朝鮮人民軍の占領が短期間で終わったため、現在残されているのは大半が未使用のもので、きちんと郵便に使われたことが分かる使用済みやカバーはめったにお目にかかれません。

 しかし、北朝鮮側が、どれほど自分たちは“解放軍”であると強調しても、ソウル市民にとっては、朝鮮人民軍が招かれざる侵入者でしかありませんでした。朴憲永らによる武装蜂起の呼びかけに応じる動きがほとんど起こらなかったのは、その何よりの証といえましょう。

 なお、朝鮮戦争と切手・郵便については、拙著『韓国現代史:切手がたどる60年』でもいろいろと説明しておりますので、機会がありましたら、ご覧頂けると幸いです。
 

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 ヘンリー8世
2009-06-24 Wed 18:23
 イングランド王ヘンリー8世の戴冠式が1509年6月24日に行われてから、きょうでちょうど500年ということで、イギリスはいろいろと盛り上がっているみたいです。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

 ヘンリー8世

 これは、1982年6月にイギリスで発行された“海事遺産”の切手の1枚で、ヘンリー8世と彼の愛した帆船マリーローズ号が描かれています。

 イングランド王室史上最高のインテリとの評価も高いヘンリー8世は、ラテン語、スペイン語、フランス語を理解し、舞踏、馬上槍試合などスポーツにおいても優れた才能を発揮したほか、音楽にも造詣が深勝った人物です。当初は、1517年に始まったルターの宗教改革を批判する『七秘蹟の擁護』を著した功で、教皇レオ10世から“信仰の擁護者”との称号を授かるほどの熱心なカトリック信者でしたが、後に王妃キャサリンとの離婚およびアン・ブーリンとの再婚をめぐる問題から教皇クレメンス7世と対立。1533年に帝政を宣言して教皇クレメンス7世から破門されると、翌1534年には国王至上法(首長令)を発布し、自らをイギリス国教会の長とするとともに、ローマ・カトリック教会から離脱したことで知られています。

 ちなみに、国教会設立の原因ともいうべきアン・ブーリンは、1534年9月にアンは後のエリザベス1世を出産したものの、1536年、国王暗殺未遂および不義密通を行ったとして反逆罪に問われ、ロンドン塔で斬首刑に処せられてしまいました。結局、ヘンリー8世は、1547年に亡くなるまで、合計6人の妃をとっかえひっかえ娶ってしまうわけですが、それから比べると(時代が違うとはいえ)チャールズ皇太子の再婚問題など、別にどうってことないように思えてきますな。まぁ、そのあたりが後世のイギリス人から人気を集める一因なのかもしれませんがね。

 * 今日の午後、カウンターが54万PVを超えました。いつも遊びに来てくださっている皆様には、あらためてお礼申しあげます。

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 5万ウォン札
2009-06-23 Tue 14:02
 韓国ではきょう(23日)から、5万ウォン札(現在のレートで約3750円)の流通が始まりました。いままでの最高額紙幣は1万ウォン札(約750円)でしたが、さすがに、物価の実勢に合わせたということでしょうか。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

 申師任堂   5万ウォン札

 これは、1996年11月に発行された韓国の“切手趣味週間“の切手で、今回の5万ウォン札に取り上げられた申師任堂の「草蟲図八曲屏風」のうち、ケシとヤモリを描く部分が取り上げられています。ついでですので、隣には申師任堂を取り上げた5万ウォン札の画像も張っておきます。

 申師任堂は、李氏朝鮮中期の1504年、江原道江陵の出身の女流書画家です。本名は伝わっておらず、師任堂(古代中国周王朝の文王の母・太任を師として見習うと言う意味)や思任堂、師妊堂などの号(韓国語ではいずれも“サイムダン“の発音になります)で記録に残っています。

 彼女は、幼いころから四書に親しみ、詩文と絵画に優れた才能を発揮。さまざまな漢詩や、山水・葡萄・草・虫などを画題とする作品を数多く残し、朝鮮史上最高の女性画家とされています。

 19歳で李元秀に嫁ぎますが、元秀の母(姑)と元秀は彼女の人格と才能を愛し、その才能を十分に発揮できるように支援したため、朝鮮時代の女性としては極めて珍しいことですが、自由闊達な環境でその才能を開花させています。元秀との間には7人の子供をもうけましたが、三男の李珥は朝鮮の“二大儒”の一人となり、5000ウォン札にも肖像が描かれています。

 李珥によると、「父が生計についての仔細には無頓着であったため生活が苦しく、母はいつも質素で勤勉、節約を旨としていた」とのことですが、ある時、夫の元秀に科挙合格のため10年間離れて学業に専念することを約束させ、ソウルに彼を見送ったものの、元秀は数日で家に戻ってしまい、そんな彼に師任堂は裁縫箱から鋏を取り出し、「この世に未練はありません。あなたが約束すら守れないなら、私は自決して人生を終わらせようと思います」と言って諭したというエピソードも伝えられています。

 こうしたことから、彼女は朝鮮における“良妻賢母”の理想像とされており、発行元の韓国銀行は「韓国社会の男女平等意識向上と女性の社会参加に肯定的に寄与し、文化重視の時代精神を反映する一方で教育と家庭の大切さを喚起する効果が期待される」と、新紙幣に彼女の肖像を取り上げた理由を説明しています。まぁ、5万ウォン札の肖像には、一時、“抗日英雄”の柳寛順も候補に挙がっていたようですが、はるかにまっとうな選択と言ってよいでしょう。もっとも、“良妻賢母”であることについて、韓国のフェミニスト団体などは「現代的女性のモデルにはふさわしくない」とクレームをつけているそうです。なんだかなぁ…。

 ところで、今回の5万ウォン札の肖像画は、韓国美術界の重鎮・李鍾祥が作成したものですが、これが、“標準肖像画”と異なっているということで、申師任堂の父親の母方の一族である江陵崔氏大宗会(同姓同族の一族による会)がクレームをつけているのだとか。もっとも、この“標準肖像画”なるものも、申師任堂の存命中に制作されたものではなく、現代画家の金殷鎬(1892-1979)が制作し、1986年に政府の指定を受けたものです。どっちにしても、空想の産物でしかないわけで、不毛な議論のような気がしますな。まぁ、“整形大国”として知られる韓国のことですから、「申師任堂の顔も時代に合わせて整形したのさ」という説明が一番説得力があるように思うのですがね。


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 イランのデモ
2009-06-22 Mon 13:04
 12日に投票が行われたイラン大統領選の結果に対して、開票に不正があったと主張するムサビ元首相ら改革派支持グループの抗議行動が続いています。19日には最高指導者のハメネイ師が抗議活動の鎮静化を呼び掛けたものの、改革派支持者はデモを続行し、テヘラン市内では機動隊と改革派支持者らが衝突、けが人や逮捕者も出ています。また、選挙取り消しを求めるムサビ元首相は「殉教も恐れない」と語り、抗議活動の継続を訴えているそうです。というわけで、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      タブリーズ蜂起10周年

 これは、イラン・イスラム革命の過程で発生したタブリーズ蜂起の10周年を記念して、1988年にイランが発行した切手です。パーレビ体制に抗議するデモ隊と町中に火の手が上がっている場面が何とも生々しい1枚です。

 1979年のイスラム革命の発端は、1978年1月、イランの有力な日刊紙『エッテラート』にイスラム教シーア派指導者のルーホッラー・ムーサヴィー・ホメイニーを中傷する投稿が掲載されたことにはじまるとされています。

 王政時代のイランの国家・社会体制は、端的に言ってしまえば典型的な開発独裁体制でした。国王はアメリカの庇護と巨額の石油収入を背景に、“白色革命”と称して、農地改革や婦人参政権の付与をはじめとする近代化(西洋化)と中央集権化を推進。イラン経済に急激な成長をもたらしました。

 しかし、白色革命は、ごく一部の特権的企業に巨万の富をもたらした一方で、伝統的な社会構造は大きな変革を迫られ、地主階級を構成していた宗教界やバザール商人、小規模手工業者らは大きな打撃を被ります。さらに、インフレや貧富の差の拡大、農民の都市流入といった近代化の負の部分が顕在化すると、一般国民の間でも開発独裁への不満は高まりましたが、こうした国民各層の不満に対して、政府は秘密警察(SAVAK:国家公安局)による監視を強化し、力で押さえ込んでいました。こうした姿勢が、かえって国民の反王室感情を増幅させることになったのは言うまでもありません。

 こうした状況の下で、ホメイニーは、1963年、反王制活動のために国外追放処分を受けて、事件当時はイラクに亡命していました。当然、彼はパーレビ体制下のイラン社会を激しく批判し、体制側と対立したが、パーレビ王朝とそれを背後から支えるアメリカに対して強い不満を持っていたイラン国民にとって、彼の批判は一定以上の説得力を持って受け止められていたわけです。
 
 こうしたカリスマ的宗教指導者に対する誹謗中傷に対して、宗教都市・コムで学生を中心とした反政府デモが発生。政府はデモ隊に対して強権を持って臨み、警官隊の発砲により多数の死者が出ました。これに対して、翌2月、40日目の追悼というイスラムの慣例にしたがって、先のデモの犠牲者に対する追悼のデモがタブリーズで行われると(これが今回の切手の題材です)、またしても警官隊の実力行使により死者が発生。これを契機に、反国王デモがイラン全土に波及していきます。

 当初、アメリカは事態を楽観視していましたが、労働者のストによりイラン産原油の生産量が激減するとパーレビ王制の延命工作を断念。パーレビ王制は崩壊しました。

 さて、今回のイラン改革派の抗議行動は、すでに、テヘラン以外の地方都市にも波及しているようです。今回のデモの参加者の多くは、現職のアフマディネジャド政権に対して不満を持ってはいるものの、イスラム共和国の体制そのものを転覆しようというわけではなさそうです。ただ、機動隊の発砲などでデモ隊の中から死者が出たりすると、その追悼デモということで40日後により大きなデモが発生する可能性も高いわけで、そうなってくると、事態はいっそう混乱することが予想されます。いずれにせよ、今後しばらくはイランから目が離せない日が続きそうです。


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 父の日
2009-06-21 Sun 22:30
 きょうは父の日です。5月の母の日には新刊の拙著『切手が伝える仏像:意匠と歴史』のなかから、釈迦の母親・麻耶夫人の切手を取り上げましたので、“男女平等”に同書からの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

 ブラフマー

 これは、フランス領インドで1914年に発行された2サンチームの切手で、ヒンドゥーの最高神ブラフマーが描かれています。

 1757年、ヨーロッパで7年戦争が始まると、インドでも英仏の戦闘が再開されました。フランス側は、一時は英領マドラスを占領するなどの健闘を見せたものの、最終的には本拠地のポンディシェリをイギリスに奪われ、1763年のパリ条約でインド植民地を大半を喪失します。しかし、南インドのポンディシェリとシャンデルナゴルなどに非軍事的な拠点を占有することは認められ、これらの地域は、1954年に独立インドに返還されるまで“仏領インド”としてフランスの支配下に置かれていました。

 フランス領インドでは、1914年以降、ブラフマーの像を描く通常切手が長きにわたって使われており、途中、改色や通貨制度改革による額面変更、さらには第二次大戦中にドゴールの自由フランス陣営として発行した“FRANCE LIBRE”加刷などがあって収集対象としてはなかなか面白いかもしれません。

 さて、切手に描かれたブラフマーは、もともとはバラモン教の最高神ですが、仏教は仏法の守護神である“梵天”として取り込まれました。その結果、バラモン教の最高神という地位のゆえに、梵天以下のさまざまなインド古来の神も仏教に含まれることになります。また、釈迦が悟りを開いた時、釈迦はその境地を他人に説明することは不可能と考えていましたが、その悟りを人々に語るように説得したのは梵天です。

 一方、バラモン教とそこから発展したヒンドゥー教では、ブラフマーはシヴァ、ヴィシュヌとならぶ3最高神の1人で、世界の創造と次の破壊の後の再創造を担当するとされています。像としては、4つの顔と4本の腕を持ち、水鳥ハンサに乗った男性の姿であらわされます。その妻は、仏教では弁財天として知られるサラスヴァティーで、彼女との間に生まれたのが人類の始祖とされるマヌです。したがって、ヒンドゥーの世界観によれば、ブラフマーは“人類の父”ということになりましょうか。

 なお、拙著『切手が伝える仏像』では、“天部諸尊“という章を設けて、インド古来の神々の切手と、それが仏教に取り入れられた後の姿を描く切手を並べて比較しています。ルーツが同じでも、時代や地域によって、その姿が大きく異なっているのを見るのはなかなか面白いと思いますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 切手が語る宇宙開発史(2)
2009-06-20 Sat 16:21
 雑誌『ハッカージャパン』の7月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手が語る宇宙開発史」では、今回はこんな切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

 スプートニク1号

 これは、1957年11月にソ連が発行したスプートニク1号の記念切手です。

 1957年7月1日から翌1958年12月31日までの期間、全世界の研究者が、気象、地磁気、電離層、宇宙線、経緯度、海洋、地震、重力などについて共同観測を行う“国際地球観測年”が実施されました。こうした国際共同観測事業は、第二次大戦以前にも、“極年”と呼ばれて2度ほど実施されており、今回が初めてではありませんでしたが、1956年のソ連共産党大会でフルシチョフがスターリン批判を行うという状況の中で、東西の融和ムードを反映するものと受け止められていました。

 国際地球観測年が計画されると、アメリカは早い段階で人工衛星による地球近傍の太陽系空間を観測するとのプランを発表します。

 当時はすでに、1949年8月にはソ連が、そして、1952年10月にはイギリスが原爆実験に成功していました。また、1952年11月にアメリカが水爆実験に成功すると、翌1953年8月にはソ連もその後に続くなど、その頃までには、核兵器はすでにアメリカの専有物ではなくなっていましたが、それでも、当時のアメリカは黄金の50年代の真っただ中にあり、その経済力や軍事力、科学技術力は他国をはるかに凌駕していました。それゆえ、人類で初めて宇宙への扉を開くのはアメリカ以外にはありえないというのが世界の常識でした。

 ところが、1957年10月4日、ソ連は、突如、人工衛星を打ち上げて「スプートニク(ロシア語で“付随するもの”の意)」と名付けたと発表。世界は大騒ぎとなります。

 ソ連の発表をめぐっては、まず、そもそもそれが事実であるのか否かが大きな議論となりました。東京天文台の天体捜索部のスタッフは、米軍のレーダーによる追跡情報をもとに、ただちに新聞社や放送局の飛行機に乗って衛星の実物を確認しようとしたそうです。

 結局、このときの夜間飛行では彼らは衛星を視認することができませんでしたが、まもなく、衛星本体から発信された40.02MHzと20.05MHzの電波は世界各地で受信され、ソ連の発表が紛れもない事実であることが明らかになりました。

 ソ連の発表によれば、スプートニク1号の打ち上げ目的は、あくまでも国際地球観測年事業の一環として、電離層の観測を行うことにあるとされており、実際、衛星の存在証明となった電波もそのためのものでした。

 しかし、彼らが人類初の人工衛星を打ち上げたという事実は、ソ連が科学技術の面においてアメリカを凌駕しているというイメージを多くの人々に与え、東西冷戦の心理戦においてソ連に大きなアドバンテージを与える結果をもたらします。

 こうした文脈の下で、ソ連は、自国の対米優位を大々的にアピールする手段として、人工衛星の打ち上げ成功を華々しく宣伝。その一環として、打ち上げ成功からわずか1ヶ月後の11月5日には地球を周回する人工衛星を描く記念切手を発行しました。おそらく、衛星の打ち上げ準備と並行して極秘裏に製作準備が進められていたのではないかと思われます。

 なお、11月5日に発行された切手は青みがかった用紙に紺色で印刷されていますが、12月28日には白紙に明るい青色で印刷された切手が発行されています。両者のデザインと額面は全く同じで刷色も同系統ですから、このような変更が行われる必然性はあまりないように思われますが、あるいは、突貫作業で作られたために用紙やインクの調達の関係でそうせざるを得なかったということなのかもしれません。


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 桜桃忌
2009-06-19 Fri 12:20
 きょう(6月19日)は、太宰治の誕生日であり、なおかつ彼の遺体が東京都三鷹市の玉川上水から見つかった日(桜桃忌)です。ことしは、1909年生まれの太宰の生誕100年であるとともに、彼の死を悼んで1949年から始められた桜桃忌のイベントも60回目ということなので、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 玉川上水

 これは、2000年1月12日に発行された“ふるさと切手・東京版”の「21世紀に伝えたい東京の風物」のうち、玉川上水・羽村の堰付近の春の風景を取り上げた切手です。

  玉川上水は、多摩川上流の羽村取水堰から9市4区(羽村市、福生市、昭島市、立川市、小平市、小金井市、武蔵野市、西東京市、三鷹市、杉並区、世田谷区、渋谷区、新宿区)を通り、新宿区の四谷大木戸に至る総距離約43キロの上水路で、1653年に羽村から四谷大木戸まで開削され、翌年には江戸市中に通水を開始しました。現在でも上流部は、現役の導水路として活躍しています。

 太宰が山崎富栄とともに入水した正確な場所はわかっていませんが、JR三鷹駅近くの紫橋の辺りではないかと考えられています。紫橋は、三鷹駅から玉川上水の右側、“風の道”を井の頭公園方面に歩いていったところにありますが、その手前には、太宰の記念碑が建っており、1940年に発表された彼の小説「乞食学生」の次のような一節が刻まれています。

 四月なかば、ひるごろの事である。頭を挙げて見ると、玉川上水は深くゆるゆると流れて、両岸の桜は、もう葉桜になっていて真青に茂り合い青い枝葉が両側から覆いかぶさり、青葉のトンネルのようである。・・・・

 太宰のドラマティックな人生は、傍から見ている分には魅力的ですが、当事者となるとしんどいだろうなぁ…と凡人である僕は感じてしまいます。僕もモノカキのはしくれとして、死後60年を経ても人々に愛される傑作を一つでいいから残してみたいものだと思ってはいるのですが、その代償として薬物中毒になったり、愛人と心中したり…というのはちょっとねぇ。もっとも、僕の場合は、中毒になるような薬物を買う金があったら切手を買ってしまうでしょうし、愛人問題で苦労するほどもてないというのが現実なわけですが。

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 南北同時出場(予定)
2009-06-18 Thu 20:52
 きのう(17日)、サッカーの2010年ワールドカップ(W杯)南アフリカ大会アジア最終予選が各地で行われ、北朝鮮が1966年のイングランド大会以来、44年ぶりのW杯出場権を獲得。韓国もすでに出場を決めているため、史上初の南北そろってのW杯出場ということになりました。というわけで、今日はこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

 南北統一サッカー

 これは1990年10月に北朝鮮が発行した“南北統一サッカー”の小型シートで、切手部分にはいわゆる“統一旗”と入場行進の場面、シートのマージンには会場となった平壌の5・1競技場(メーデー・スタジアム)の風景が取り上げられています。

 南北統一サッカーの企画は、1989年3月、北朝鮮が韓国に対して1990年9月に北京で開かれるアジア大会に南北統一チームでの参加を呼びかけたことが発端となっています。このときは南北間の交渉はまとまらず、北京のアジア大会に統一チームが派遣されることはありませんでしたが、大会の現地では南北共同応援が実現。こうした状況の中で、南北の五輪委員会副委員長の間で南北統一サッカーの開催が合意されます。

 その後、1990年9月にソ連が韓国を承認してから、翌1991年9月に韓国・北朝鮮が国連に同時加盟するまでの時期、南北双方は、互いの体面を傷付けることなく、相手の存在を実質的に追認できる環境を作る方策をさまざまに模索していましたが(たとえば、北朝鮮は韓国を承認したソ連を激しく非難したものの、その際、韓国に対する非難は従来の公式声明の域を出ることはありませんでした)、1990年10月の“南北統一サッカー”の開催も、その一環として行われたものです。

 さて、1990年10月の南北統一サッカーの試合後、北朝鮮国家体育委員会委員長の金裕淳と韓国体育部長官の鄭東星は、卓球選手権をはじめ主な国際競技に際して、北京のアジア大会では実現しなかった統一チームで出場することで合意。ソウルで行われる第2戦後の10月24日に共同宣言文を採択しました。

 この結果、同年11月から翌1991年2月まで、4回に渡り南北体育会談が開催され、白地に青の朝鮮半島図を描く“統一旗”が統一チームの旗として採用された。なお、チーム名は、国際的にも広く用いられている「コリア」(英語表記「KOREA」)が採用され、朝鮮の代表的な民謡「アリラン」を統一チームの歌にすることなども同時に決定されています。今回ご紹介の切手は、そうした南北間の合意以前の発行ですが、すでに統一旗が描かれており、正式決定以前に、統一旗が南北統一チームの旗となるとの暗黙の合意が南北間でなされていたことがうかがえます。

 なお、南北間のスポーツ交流は、1992年以降、金正日が対外強硬路線を打ち出したことにくわえ、1994年に金日成が亡くなったことなどもあり中断されてしまいます。そして、それに伴い、統一旗もしばらくは使用されなくなっていましたが、2000年6月の金大中と金正日の南北頂上会談の結果、同年9月のシドニーオリンピックの入場行進を南北同時に行うことが決定され、統一旗は、ふたたび“コリア”の旗として用いられました。

 さて、2010年のW杯への南北同時出場を決めた韓国と北朝鮮ですが、どうせなら、南北統一チームでの参加にしてしまって、あいた出場枠をアジアの別の国に回すという太っ腹なことをやりませんかねぇ。もっとも、ここのところの北朝鮮の対外強硬路線を考えると、南北統一チームはおろか、シドニーの時のような南北同時の入場行進でさえも“ならず者国家”への支援ということで、韓国の国際的な評判を落とすことにしかならないでしょうけど…。そもそも、それ以前に、諸般の国内事情から、北朝鮮チームが無事に来年のW杯に出場する(できる)のかどうか、そのあたりも最後の最後までわからないと僕は思っています。もっとも、近々、祝砲代わりにまたミサイル発射を計画しているという北朝鮮のことですから、「あんまりバカなことばかりやっていると、W杯出場を取り消すぞ!」という圧力をかけたら、案外、効き目があるかもしれませんがね。

 なお、スポーツをめぐる南北間の駆け引きについては、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』でも、多少、ページを設けておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 交流戦はホークス連覇
2009-06-17 Wed 21:36
 プロ野球のセ・パ両リーグ交流戦はきのう(16日)、ソフトバンクが2年連続2度目の優勝を決めました。というわけで、ホークスにちなんで“鷹”の切手です。(画像はクリックで拡大されます)

 松に鷹

 これは、1974年の“国際文通週間”の切手で、雪村の水墨画「松鷹図」が取り上げられています。

 雪村(1504?-1589)は戦国時代の絵師で、常陸国太田に佐竹氏の一族として生まれました。その生涯については不明な点も多いのですが、禅門に入って修行した後、各地を放浪して、雪舟の遺作を通して絵画を学んだといわれています。また、日本最初の本格的な画論といわれる『説問弟資云』の著者としても知られています。

 切手に取り上げられた「松鷹図」は、雪村が47歳から58歳にかけて、小田原・鎌倉を遍歴していた時期の水墨画で、松の悠大な樹幹と鋭い松葉の描写にはわら筆を用い、鷹を描くには毛筆を用い、やわらかさと荒々しさがマッチした傑作といわれています。勇猛果敢な鷹の性格を好んだ戦国の武人の求めに応じて描かれたものでしょう。

 現在は東京国立美術館の所蔵で、国の重要文化財に指定されています。ちなみに、「松鷹図」は二幅一対の作品ですが、切手にはその左側のものが取り上げられています。また、今回の文通週間に関しては、当初は別の作品が取り上げられる予定だったともいわれていますが、それがキャンセルされて雪村の作品が取り上げられることになった経緯については明らかにされていません。

 なお、この切手を含む、1970年代半ばの記念・特殊切手については、拙著『沖縄・高松塚の時代』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。 

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 和菓子の日
2009-06-16 Tue 16:24
 きょうは“和菓子の日”。平安時代の848年、当時国内に疫病が蔓延したことから仁明天皇が元号を“嘉祥”とあらため6月16日に16の数に因んだ菓子・餅を神に供えて疫病除け、健康招福を祈ったことにちなみ、今から30年前の1979年に全国和菓子協会が制定したのだそうです。というわけで、和菓子の切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 第20回全国和菓子博覧会

 これは、1984年2月24日に発行された“第20回全国菓子大博覧会”の記念切手で、和菓子と茶筅が描かれています。

 全国菓子大博覧会は、和菓子を中心に、洋菓子・スナック菓子なども含めた日本最大の菓子業界の展示会で、同時に行われる品評会では、皇族による総裁賞、内閣総理大臣賞、農林水産大臣賞などが優秀な作品に授与されています。主催は全国菓子工業組合連合会(全菓連)などで、5-6年に1度、全国各地持ち回り開催です。そのルーツは、1911年に東京・赤坂で開かれた第1回帝国菓子飴大品評会とされています。

 1984年の第20回博覧会は、“お菓子は世界のことば”をテーマに、①子供たちを主とする消費者の期待や夢を実現する(子どもの夢)、②日本の菓子の持つ優れた伝統や文化性を広く知らせる(伝統技術と文化性)、③日本の菓子の世界への飛躍を促す(国際性)、を基本理念として、2月24日から3月12日まで、東京の明治神宮外苑で開催されています。

 日本の伝統的な和食や和菓子は、見た目にも綺麗なものが多いので切手向きの題材だと思うのですが、どういうわけか、日本の切手にはあまり取り上げられませんねぇ。それだけに、この1枚は貴重なケースだと思うのですが、それにしては、主役のお菓子があまり美味しそうにみえないのが残念です。

 なお、今回ご紹介の切手を含む1980年代前半の記念・特殊切手については、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』で詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 1200年ぶりの“和解”
2009-06-15 Mon 16:53
 天台宗(総本山・比叡山延暦寺)トップの半田孝淳座主がきょう(15日)、和歌山県高野町の高野山真言宗総本山金剛峯寺を訪れました。なんでも、天台座主が高野山を公式に参拝するのは、両宗の約1200年の歴史で初めてなのだとか。というわけで、きょうは高野山がらみの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 矜羯羅童子(ふるさと)

 これは、1999年に和歌山県のふるさと切手として発行された“ 高野山と国宝「童子像」”です。

 日本仏教の聖地としての“高野山”というのは単独の山の名称ではなく、八葉の峰(今来峰・宝珠峰・鉢伏山・弁天岳・姑射山・転軸山・楊柳山・摩尼山)と呼ばれる峰々に囲まれた盆地状の平地の地域を指しています。左側の切手に取り上げられているのは、そのうちの弁天岳からの眺めで、早朝、高野連山が雲を分け浮き出て見える清浄な姿を、日本画家の古村紘一が描いたものです。

 一方、右側の切手に描かれているのは、山内の西寄りの壇上伽藍(生前の空海が堂宇を営んでいた一画で、金堂、根本大塔、西塔、御影堂などがある)の不動堂にあった八大童子像のうちの矜羯羅童子像です。

 矜羯羅とはサンスクリットの音訳で“何をするべきかを問い、その命令の通りに動く”という意味で、普通名詞としては奴隷や従者の意味ですが、そこから転じて仏法に対して恭順であるさまを表しています。八大童子の中での序列は7番目ですが、序列8番目の制多迦童子とともに、三尊形式の不動明王の脇侍として祀られます。切手の像では合掌して金剛杵を挟む姿になっていますが、両手で蓮華を執る姿のものもあります。

 高野山の八大童子の中では、今回ご紹介の矜羯羅童子のほかに、慧光童子、慧喜童子、制多迦童子の計4体が切手に取り上げられています。このうち、矜羯羅童子だけが2回切手に取り上げられていますが、2回ともグラビア印刷なので、凹版印刷による他の3体とは切手としての雰囲気が大きく異なっています。

 ところで、天台座主がなぜ1200年もの間、高野山を訪問することがなかったのかというと、天台宗を伝えた最澄と真言宗を伝えた空海は、晩年、経典の貸し借りをめぐって絶縁状態になり、以来、両宗の交流が途絶えていたのだそうです。こういう話を聞くと、教科書に登場する空海や最澄といった“聖人”たちにも、案外、われわれと同じ煩悩が残っていたことがわかって、なんだか、急に親しみがわいてきますな。

 なお、八大童子の切手については、拙著『切手が伝える仏像:意匠と歴史』でもご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 泰国郵便学(2)
2009-06-14 Sun 17:31
 財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第43巻第3号が出来上がりました。僕の担当している連載「泰国郵便学」は、今回はラーマ5世時代のいわゆるチャクリー改革で誕生した中央省庁について取り上げました。その中から、今日はこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

 国防省108年

 これは、1995年に発行された“国防省108年”の記念切手で、国防省の庁舎とラーマ5世が描かれています。

 1852年、第2次英緬戦争でイギリスが海に面した下ビルマを併合したことに衝撃を受けたラーマ4世は軍制改革に乗り出し、歩兵・砲兵・海兵隊からなる常備軍を組織しました。これが、タイにおける近代軍隊のルーツとされています。

 その後、軍制改革はラーマ5世の時代にも引き継がれ、制度改革を経て、1874年には現在のタイ陸軍が創設されました。そして、行政機構改革の一環として、1887年4月8日、それまで主として南部国境の守備・防衛を統括していたカラーホームの組織を再編するかたちで、常備軍を指揮・監督する機関として国防省が設立されます。

 今回ご紹介の切手に取り上げられている国防省の庁舎は、もともとは、首都防衛の任にあたる兵士たちの兵営ならびに武器庫として建設されたもので、1884年7月18日に完成しましたが、国防省の設立とともに、同省の庁舎として転用されたものです。

 さて、記念切手は、その108周年を記念して発行されていますが、108周年というのは、我々の感覚からすると非常に中途半端な年回りのように感じられるます。

 たしかに、10の倍数や25の倍数のみならず、12の倍数もまた周年の節目となるタイでは、12×9(1ケタの最大の数)ということで108周年というのも記念すべき年になりうるのだが、この記念切手以外に、創立108周年の記念切手が発行された例は現在まで存在しません。なお、国防省の創立100周年にあたる1987年には、5月27日に“空軍創立72周年”(これも12の倍数です)の記念切手が、8月5日には“士官学校100周年”の記念切手がそれぞれ発行されていますが、国防省そのものの100周年記念切手は発行されていません。

 それだけに、1995年に国防省108周年の記念切手が発行された背景には、やはり、1992年の“血の5月事件”(1991年の陸軍によるクーデターの首謀者であったスチンダー・クラープラユーンが1992年に首相に就任すると、これに反発し、民主化を求めた国民が、5月17日、バンコクを中心に大規模な抗議デモを展開。軍がデモ隊を武力で弾圧し、300名以上の死者が出た事件。国王の仲裁により沈静化された)以降の社会状況が反映されているように思われます。

 “血の5月事件”の結果、スチンダー・クラープラユーン率いる軍事政権は退陣し、第2次アーナン・パンヤーラチュン政権が発足します。次期総選挙までの暫定政権として発足したアーナン政権は、軍の政治介入に対する国民の不満を背景に、国営企業役員への軍人就任を制限するなど、軍の政治への影響力を低下させる政策を行いました。そして、1992年9月の下院総選挙を経て誕生したチュアン・リークパイの文民政権もまた、そうしたアーナン政権以来の路線を継承し、軍に対する一定の配慮は示しつつも、中道リベラルの政策を推進しています。

 ところで、タイでは現実には国防省の文民官僚よりも武官、特に陸軍の幕僚が大きな力をもっていますが、制度的には、陸・海・空の三軍は国防省のタイ王国軍最高司令部の下位組織でしかなく、その最高司令部は文民(ただし、退役軍人はタイでは文民の扱いです)の国防大臣の指揮下に置かれています。もちろん、閣僚としての国防大臣は首相の指揮下に置かれていますし、首相が軍を動かすためには、“国家、仏教、国王および民主主義”という国家の基本を守るために緊急の必要があると、国軍の最高指揮官である国王が判断し、命令を下さなければなりません。

 したがって、すくなくとも制度上は、軍の一部がクーデターを起こそうとしても、文民の国防大臣や首相がそれを封じ込めることは十分に可能ですし、彼らの職責という点でいえば、そうしなければならないことになります。クーデターという軍の暴走によって、幾度となく民主化が妨げられてきた経験をもつタイ国民にとって、“血の5月事件”の結果、軍がともかくも政治の表舞台から退いた(ように見える)ことは歓迎すべきことであり、そうした状況を維持していくためには、政治におけるシビリアン・コントロールを十分に機能させていく必要があります。

 だとすれば、“血の5月事件”を経て誕生したチュアン文民政権にとって、シビリアン・コントロールの要ともいうべき国防省の持つ意味は従来以上に強調されてしかるべきであり、その一環として、国防省関連の記念切手を発行することは自然な発想だったのではないでしょうか。

 一方、国防省創立100周年にあたる1987年の時点で政権を担当していたプレーム・ティンスーラーノンは陸軍司令長官を務めた生粋の軍人でした。プレーム本人は権力には恬淡としており、議会制民主主義の原則を重視し、中庸の政治スタイルを取っていました。それでも、プレームが軍人政治家であることには変わりがありませんでしたし、軍の政治に対する影響力は依然として絶大なものでした。したがって、プレーム時代のタイ政府の発想としては、官僚組織としての国防省よりも、実際の戦闘部隊としての空軍や、軍人を育成するための士官学校のほうが、周年記念切手の対象としてより重要性があると判断されたのでしょう。

 国防省に関する記念切手が、創立100周年にあたる1987年にではなく、108周年にあたる1995年に発行された背景には、以上のような、“血の5月事件”を挟んでのタイ社会の変化を読み取ることも可能なように思われるます。

 なお、今回の記事では、他にも国政協議会と外務省の周年記念切手を取り上げ、“血の5月事件”前後のタイ社会の変化について分析してみました。機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 アフマディネジャド再選
2009-06-13 Sat 15:46
 きのう(12日)投票が行われたイランの大統領選挙は、現職で対外強硬派とされるアフマディネジャド大統領が投票総数の過半数を獲得、対外穏健派のムサビ元首相ら3人の候補を破り、再選を果たしました。というわけで、今日はこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      イラン・核の平和利用

 これは、アフマディネジャド政権1期目の2007年にイランが発行した「核の平和利用」と題する切手です。

 イランは1970年に核拡散防止条約(NPT)が発足した当初から加盟していますが、1979年のイスラム革命以降、極秘裏に核開発に着手し、1990年代には少量のプルトニウムの抽出に成功したとされています。その後、2002年にイランの核開発問題が表面化し、2003年には国際原子力機関(IAEA)定例理事会にて、イランに対する非難決議案を全会一致で採択していますが、2005年に発足したアフマディネジャド政権は核開発続行の意思を表面し、国際社会の懸念が高まっていました。

 2006年4月、アフマディネジャド大統領はイランが核燃料サイクルに適合するウランの精製に成功したと発表。さらに、11月には“完全な核燃料サイクル技術を獲得した”との発表も行われています。この間、 7月31日には国連安保理がイランに核開発中止を求める決議1696を賛成14、反対1(カタール)で採択しています。

 今回ご紹介の切手も、こうした背景の下で、イランとしては(実態はともかく建前としては)あくまでも自国の核開発が平和利用のためのモノであることを強調するために発行されたものです。

 再選を果たしたアフマディネジャド大統領は、反米・反イスラエルの姿勢が極めて鮮明な人物として知られていますが、そのイスラエル筋はイランが2009年末までには核兵器を保有すると言う展望を示しています。また、アメリカのシンクタンク“ワシントン近東政策研究所”も、イランの核兵器保有阻止の為にイスラエルが向こう2年以内にイラン攻撃に踏み切る可能性があるという報告書を発表しています。

 もっとも、イランの場合は“法学者の統治”と呼ばれる特殊な統治体制になっていて、核開発や核兵器の使用などについては、最高指導者から任命された委員によって構成される最高国家安全保障会議の管轄となっており、最高指導者のアリー・ハメネイーは核兵器に反対していますので、大統領の暴走には一定の歯止めがかかることになっています。とはいえ、敵国のイスラエルが現実に核兵器を保有しているといわれている中で、イランが自国の防衛のために核兵器を保有しようとするのは、(是非善悪は別として)軍事バランスという点からすれば当然の対応なわけで、この点でイランのみを責めてみても説得力はないでしょう。まぁ、中国や北朝鮮が核武装し、ミサイルの照準を東京にあわせていても、日本だけは核武装を絶対してはならないと主張する人たちがどうおっしゃるかは知りませんがね。

 いずれにせよ、投票前は対外穏健派のムサビ優勢、あるいは、大接戦で過半数を制する候補がなく決選投票にもつれ込むのではないかとの観測が西側メディアでは盛んに流れていましたが、結果的に、予想が大きく外れ、アフマディネジャドの圧勝となったことで、今後ともイラン問題は西側諸国にとっての頭痛のタネという状況がしばらく続きそうです。


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 やっぱり死神なのか?
2009-06-12 Fri 23:03
 きょうの話題はなんといっても、鳩山邦夫総務大臣が日本郵政の西川善文社長の続投問題をめぐって辞任したことにつきるでしょう。鳩山氏といえば毀誉褒貶の激しい人物で、かつては“死神“呼ばわりされたこともありましたな。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      マイダネク収容所・寄附金つき

 これは、1946年4月、ポーランドが発行したマイダネク強制収容所の犠牲者追悼の寄附金つき切手で、収容者を毒ガスで殺す死神が描かれています。

 マイダネク強制収容所は、ナチス・ドイツ占領下のポーランドのルブリン南方に、1941年から建設がはじめられ、1942年冬に完成しました。収容所の建設が開始されてから間もなく最初の囚人移送されており、1942年5月の時点ですでに収容者4万人になっていたとみられています。収容所では、ガス車1台と6つのガス室が設置されており、チクロンBと一酸化炭素を用いて1度につき2000人近くを殺害することが可能だったと考えられています。犠牲者の総数は不明ですが、50万人は下らないとされています。

 さて、鳩山氏といえば、法務大臣時代、戦後最多のペースで死刑執行の書類にサインしたことから、朝日新聞が彼のことを“死に神”と呼んで物議をかもしたことがあります。しかし、冷静に考えれば、死刑制度の存続に対する賛否とは別の次元で、現実に死刑制度が存在している以上、大臣が職務の一環として粛々と死刑執行の書類にサインするのは当然のことであり、そのことをもって彼を“死神”呼ばわりするのはナンセンスとしかいいようがありません。

 ただ、今回の鳩山氏の総務大臣辞任が麻生政権にとって、致命傷ともいうべき大打撃となったことは衆目の一致するところでしょう。その意味では、支持率が低迷するなかで9月までに解散・総選挙を行わなければならない麻生総理にしてみれば、辞表をもってきた鳩山氏の姿が、まさに“死神”に見えたとしても不思議ではありませんがね。


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 切手で巡る庭園散歩:後楽園
2009-06-11 Thu 19:03
 (財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の6月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手で巡る庭園散歩」では、今月はこんなモノをもってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 後楽園(名園シリーズ)

 これは、1966年11月に発行された「名園シリーズ」の第3集として発行された“後楽園”です。

 後楽園は、1686年、備前藩主・池田綱政が家臣の津田永忠に命じて造園を開始し、14年の歳月を経て、1700年に完成しました。当初は、亭を主とすれば茶屋屋敷、園を主とすれば後園(“城の後ろ”の意)と呼ばれ、池田家が使用していましたが、1871年、先憂後楽から名をとって“後楽園”と改称。1884年に岡山県の所有となり、一般公開が始まりました。

 後楽園は、江戸時代を代表する回遊式庭園で面積は約13ヘクタール。主建物の延養亭を中心に烏城、操山を借景として取り入れ、園の各所に祠堂園舎を配し、歩きながら移り変わる景色を楽しむようになっています。

 1934年秋の風水害と1945年の空襲により大きな被害を受けましたが、第二次大戦後、再建が進められ、1966年秋の栄唱の間・墨流し(能楽堂の賓客用観能席)の復元により、戦災復興が完了しました。

 当初、後楽園の切手は1966年6月15日に発行されることが予定されていましたが、後楽園自体の再建工事が秋に完了する予定だったことに加え、同じく戦災を受けた岡山城の再建工事が同年11月に完了することにあわせて、発行日が11月3日に延期されました。久野実デザインの切手の背景に岡山城が描かれているのも、こうした事情を考慮したものと思われます。なお、切手の発行が7月1日の料金改正の後になったことで、額面も当初予定の10円ではなく15円となりました。


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 シビウの時計塔
2009-06-10 Wed 13:28
 きょうは時の記念日。というわけで、時計ネタの中からこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 シビウ時計塔MC
 
 これは、1972年にルーマニアが発行したシビウの時計塔の切手を、時計塔の絵葉書に貼り、1981年の時計塔の消印を押したもので、まさに“時計塔づくし”といった感じのマテリアルです。

 シビウの時計塔は、もともとは13世紀に市街地を取り囲む城壁の出入り口に“参事官の塔”として立てられたもので、現在の姿になったのは1588年のことです。塔の下には大広場と小広場をつなぐトンネルが通っていて、切手や絵葉書などに取り上げられる場合には、大広場の側からの構図が採られることも多いのですが、時計塔に上るための階段は小広場の側にあります。

 早いもので、昨年6月にルーマニアに行ってから、そろそろ1年になろうとしています。当初の予定では、帰国後、昨年中にルーマニア旅行記を書籍化するつもりだったのですが、その“元手”になればと思って始めた雑誌『キュリオマガジン』の連載が思いのほか好評で回を重ね、単行本としての刊行が延び延びになってしまいました。連載の方は、今年11月発行の12月号で完結ということになりましたので、単行本もそれにあわせて、予定より1年おくれで刊行するという段取りになりそうです。

 いずれ、詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。 

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 大統領在職41年
2009-06-09 Tue 15:37
 1967年以来41年間という超長期政権の座にあったガボン(中部アフリカの大西洋に面した国)のボンゴ大統領が亡くなりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

 ボンゴ大統領

 これは、1968年6月にガボンで発行されたボンゴ大統領の最初の肖像切手です。

 ボンゴ大統領は、1935年12月30日、仏領赤道アフリカ時代のガボン東部のオー・トグエ州レワイ生まれ。 仏領赤道アフリカ高等掌校(コンゴー・ブラザヴィル)卒業後、軍人となり、1958年に空軍中尉となりました。 その後、1960年にガボンがフランスから独立すると、ムバ初代大統領の懐刀として外務省官房次長を振り出しに、大統領府官房長官・情報、観光、国防担当の各大臣、国家治安裁判所政府委員などを歴任して、副大統領に就任。1967年12月、ムバ大統領の死去に伴い、大統領に就任しました。

 ガボンの大統領は旧宗主国のフランスに倣い1期7年ですが、多選の制限がないため、ボンゴ大統領は5選を果たし、在職41年・6期目の途中で亡くなったというわけです。

 ちなみに、国王など世襲の君主を除くと、存命中の人物としてはキューバ革命後の1959年2月から2008年2月まで国家評議会議長の座に君臨したカストロが超長期政権の主として有名ですが、カストロの引退後は、ボンゴ大統領が現職として最も長く政権を維持している人物でした。

 なお、新聞などの報道では、ボンゴ大統領の名前は、エル・ハジ・オマル・ボンゴ・オンディンバとなっていますが、これは、1973年にイスラムに改宗した後の名前で、それ以前は、切手に表示されているように、アルベール=ベルナール・ボンゴという名前でした。なお、オンディンバというのは父親の名前ですが、これは、2003年に父親の名前を姓に付する法律が発効したため、大統領の名前につけられるようになったものです。

 ボンゴ大統領とガボンというと、僕なんかは、北朝鮮の工作員が、同国を訪問中の韓国の全斗煥大統領暗殺を企てた“ガボン事件”(1982年)を思い出します。このとき、韓国では大統領ガボン訪問の記念切手を発行しており、ボンゴ大統領の肖像もしっかり取り上げられています。

 なお、ガボン事件の詳細については、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』でもまとめておりますので、よろしかったら、ご覧いただけると幸いです。

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 祝・W杯出場!
2009-06-08 Mon 11:04
 ウズベキスタンタシュケントで6日夜(現地時間。日本時間だと7日未明)に行われたサッカーの2010年ワールドカップ南アフリカ大会のアジア最終予選で日本が勝利をおさめ、世界で最初にW杯本大会出場を決めました。というわけで、今日はサッカーの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 第29回国体

 これは、1974年10月20日に発行された“第29回国民体育大会”の記念切手で、霞ヶ浦の帆曳舟をバックにサッカー選手が描かれています。正面の選手の着ているユニフォームの色が、現在の日本代表と同じくブルーなのが良いですな。まぁ、髪型のほうは、35年前という時代を感じさせますが。

 切手の題材となった1974年の第29回国体(秋季大会)は、「水と緑のまごころ国体」のスローガンの下、1万6526名が参加し、10月20日から25日までの間、茨城県下15市町村の55会場で行われました。

 1963年以来、国体の誘致運動を展開してきた茨城県は、1967年に開催の内定を獲得したことを受けて、1969年に国体事務局を設けて本格的な準備に着手しています。大会開催の正式決定は1971年のことで、その後、準備委員会を改組して実行委員会を組織し、大会開催に向けての本格的な準備が進められました。

 大会は笠松運動公園陸上競技場を主会場とし、開催県の茨城県が天皇杯・皇后杯を獲得しています。なお、大会の会期中は、世界初の試みとして東海村の原子力研究所の原子炉から採られた「科学の火」、鹿島神宮で古式に則った「伝統の火」ならびに、筑波山頂で太陽光線から採られた「自然の火」があわせて笠松運動公園内に設けられた炬火台で燃え続けたのだそうです。

 なお、この切手を含む封書20円時代の記念切手については、拙著『沖縄・高松塚の時代』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

 * きのうの切手市場は無事終了いたしました。ご来場いただいた皆様には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。
 
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 ローザ・ルクセンブルク
2009-06-07 Sun 08:55
 ドイツの女性革命家、ローザ・ルクセンブルクのものと思われる遺体が90年ぶりに発見されて話題となっているそうです。というわけで、今日はこの1枚です。(画像がクリックで拡大されます)

 ローザ・ルクセンブルク

 これは、1955年、東ドイツが発行した“ドイツの共産主義者”切手の1枚で、ローザ・ルクセンブルクと彼女の演説場面が取り上げられています。

 ローザ・ルクセンブルクは1871年(1870年説もあり)、ポーランドの出身で、ギムナジウム在学中の1886年、非合法の左翼政党・プロレタリアートのメンバーとなりました。1889年、逮捕・拘留を逃れるためにスイスに亡命。チューリッヒ大学哲学科で、哲学、歴史学、政治学、経済学、数学を学びました。

 1898年、グスタフ・リューベックとの偽装結婚によってドイツ市民権を取得し、ベルリンでドイツ社会民主労働党(後のドイツ社会民主党。以下SPD)に入党。しかし、同党の穏健路線に飽き足らず、1900年以降、ゼネストを重視する急進左派の論客として活躍しました。このため、1904年から1906年の間に3回、投獄されています。

 第1次大戦の直前には、 ドイツ政府に対する攻撃を強め、フランクフルトほか各地でデモを組織し、良心的兵役拒否や命令への不服従を訴えたため、有罪判決を受けています。そして、1914年7月に第1次大戦が勃発すると、カール・リープクネヒト、クララ・ツェトキン、フランツ・メーリングらSPDの左派メンバーと“グルッペ・インターナツィオナーレ”(のちのスパルタクス団)を結成。非合法のパンフレット『スパルタクス書簡』を発行し、ドイツの労働者への武装蜂起の呼びかけや勃発直後のロシア革命でのレーニン批判などを展開しました。

 1918年、ドイツで革命が発生して帝政が倒れ、ワイマール共和国が発足すると、ローザとリープクネヒトは政権を掌握した穏健な社会民主主義者エーベルトを激しく批判し、1919年1月、ドイツ共産党を結成。ローザが機関紙『赤旗』で新聞の編集部を占拠するよう示唆したのと前後して、各地の主要施設が武装した労働者をはじめとする革命軍によって占拠されると、エーベルト政権は革命軍への弾圧を本格化し、1月9日から15日にかけての戦闘でスパルクス団ほかの革命軍を壊滅させました。その際、ローザとリープクネヒトはベルリンでフライコールに逮捕され、殺害されています。

 いままで、ローザは銃床で殴り殺されて近くの川に投げ捨てられ、6ヶ月間放置されたのち、拾い上げられたとされていました。ちなみに、この遺体は、ナチス政権時代に所在不明となっています。

 これに対して、今回話題となっている遺体は、2007年にベルリンの大学病院地下室で見つかったもので、頭部と手足の一部が失われているものの、身長150センチ、推定年齢40代、左右の脚の長さが違うなど、身体的特徴がローザと酷似しているのだとか。もっとも、DNA鑑定を行なえるだけの材料がなく、最終的な特定は困難なのだそうです。


 *きのうのスター☆オークション+バザールは無事に終了いたしました。ご来場いただきました皆様には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。

 イベントのご案内 

 下記の日程で、拙著『切手が伝える仏像:意匠と歴史』の即売・サイン会(行商ともいう)を行います。入場は無料で、当日、拙著をお買い求めいただいた方には会場ならではの特典をご用意しておりますので、よろしかったら、遊びに来てください。

 6月7日(日) 切手市場 於・桐杏学園(東京・池袋) 10:15~16:00
 

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 66回目のD-DAY
2009-06-06 Sat 09:15
 きょう(6月6日)は、第2次大戦中の1944年6月6日にノルマンディー上陸作戦が始まった日(D-DAY)で、現地では、アメリカのオバマ大統領を迎えての65周年記念式典も行われるそうです。というわけで、この1枚を持ってきました。

 ノルマンディ・パラシュート

 これは、1969年にフランスが発行した“ノルマンディ上陸作戦25年”の記念切手で、作戦の始まりとなった夜間の落下傘部隊降下の場面が描かれています。

 ノルマンディ上陸作戦は、ナチス・ドイツによって占領された西ヨーロッパへの侵攻作戦で、最終的に300万人近い兵員がドーバー海峡を渡ってフランス・コタンタン半島のノルマンディーに上陸。これによって第二戦線が形成されるとともに、フランス国内の抵抗運動が高まって1944年8月25日、パリがドイツ軍の手から解放されることになりました。

 ところで、フランス政府は毎年、D-DAYの記念式典を行っていますが、外国の国家元首を招いた大規模なものは、これまでは25周年、50周年、60周年といった節目の年だけに限られており、今回のように、65周年という半端な年周りでアメリカの大統領が参加するのは異例のことです。これは、今年1月のオバマ新政権の発足を受けて、ブッシュ政権時代にイラク戦争で悪化した仏米関係の改善を演出するため、フランスのサルコジ大統領がオバマ大統領を招待したことによるものです。

 これに対して、イギリスのブラウン首相は、当初、今年の式典への参加は考えていなかったのですが、オバマ大統領の出席という事態を受けて、急遽、式典に参加を決定しました。こうしたこともあって、今年はイギリスからの国賓参加はないと考えていたフランス当局は、エリザベス女王への招待状を送っていませんでした。

 ところが、エリザベス女王は大戦中にイギリス国内で婦人部隊に参加していた実績があることから、女王に対して厚い信頼を寄せる退役軍人たちが、「米仏両国から国家元首である大統領が参列するにもかかわらず、イギリスの国家元首である女王が招待されていないのはイギリスに対する侮辱だ!」と 反発し、話がややこしくなっているのだとか。もっとも、女王ご本人が、83歳という高齢をおしてまで、吹きっさらしの海岸で何時間も式典に臨まれることをお望みかどうか、そのあたりは微妙だと思いますがね。

 
 イベントのご案内 

 下記の日程で、拙著『切手が伝える仏像:意匠と歴史』の即売・サイン会(行商ともいう)を行います。いずれも入場は無料で、当日、拙著をお買い求めいただいた方には会場ならではの特典をご用意しておりますので、よろしかったら、遊びに来てください。

 6月6日(土) スター☆オークション+バザール 於・全国町村会館 13:00~17:00

 6月7日(日) 切手市場 於・桐杏学園(東京・池袋) 10:15~16:00
 

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 千葉縣監獄署を出所
2009-06-05 Fri 12:54
 栃木県足利市で1990年に4歳女児が殺害された“足利事件”の再審請求即時抗告審で、無期懲役の判決を受けて服役していた菅家利和さんが、再審では無罪になる可能性が高いとして、きのう(4日)、千葉刑務所から釈放されました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 千葉監獄・カバー   千葉監獄・中身

 これは、1898年11月、千葉縣監獄署(現在の千葉刑務所)から差し出されたカバーです。右側の画像は中身の手紙ですが、これを見ると、俸給の支払いを求める名宛人に対して、支払いの手続きは既に取ってあり現金は保管しているから、監獄まで本人もしくは委任状を持った代理人が受け取りに来るように、といった趣旨の文章が書かれています。この文面だけだと、“俸給”を受け取るのが、退職した看守なのか、出所した受刑者なのかよくわかりませんが、差出人が“獄務課”(在監者に関する事務を取り扱う部署)となっており、その公印も押されていますので、出所した元受刑者宛のモノだと推測されます。

 受刑者に懲役労働をさせる代わりに、一定の“給与”を支払うことが制度的に確立されたのは、わが国で初めて制定された監獄法となった、1872年の「監獄則並図式(太政官布告)」が最初です。このときの監獄則では、常人懲役囚については1等から5等までの進級制をとり、土石運搬荒地開墾から、木工や皮革工等の作業に従事させました。また、服役時間も8時間と決められています。

 その後、1881年に、1872年の「監獄則」と1881年の「在監人給与規則(前身は1875年の「囚人給与規則」)」および「在監人傭工銭規則」を合わせて、新たな「監獄則」が制定されました。この「監獄則」は1889年に再改正され、囚人の服役時間は7時間30分ないし10時間30分とするほか、工銭(給与)は、利益を十分して、重罪囚にはその20%、軽罪囚にはその40%を与え、余分は監獄の費用に供すること、などが定められています。

 その後、1908年3月に公布された「監獄法」では、それまで、作業収入を監獄と就業者で分割していたのを改め、作業収入をすべて国庫の所得としたうえで、就業者には作業賞与金を給することとし、さらに作業災害手当金の制度が設けられています。

 今回のカバーの場合は、「監獄法」以前の「監獄則」の時代のものですから、作業収入を監獄と就業者(囚人)で分けていた時期のもので、文字通り、「俺の取り分をよこせ」という要求に対する返答だったのでしょう。

 それにしても、きのう釈放された菅家さんの場合は、17年間、冤罪で刑務所にいたわけですが、なんとも長いですな。もちろん、今後、彼に対しては、17年間の懲役労働に対する給与に加え、制度や法律に基づき金銭的な補償が支払われるわけですが、いくらお金をもらったって失われた人生を取り戻すことはできませんからねぇ。冤罪を生んだ警察・検察のやり方が批判されるのは当然としても、どこかで笑っている真犯人を引きずり出して来て、そいつに損害賠償を請求してやりたいものです。

 * きょうのお昼頃、カウンターが53万PVを超えました。いつも遊びに来ていただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。

 イベントのご案内 

 下記の日程で、拙著『切手が伝える仏像:意匠と歴史』の即売・サイン会(行商ともいう)を行います。いずれも入場は無料で、当日、拙著をお買い求めいただいた方には会場ならではの特典をご用意しておりますので、よろしかったら、遊びに来てください。

 6月6日(土) スター☆オークション+バザール 於・全国町村会館 13:00~17:00

 6月7日(日) 切手市場 於・桐杏学園(東京・池袋) 10:15~16:00
 

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 天安門事件から20年
2009-06-04 Thu 18:48
 1989年6月4日に(第2次)天安門事件が起こってから、今日でちょうど20年です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 中国・バルセロナ五輪小型シート

 これは、1992年7月、中国が発行したバルセロナ五輪の記念小型シートですが、ランナーのゼッケンの番号が、左から、“64”、“9”、“17”となっています。切手発行当時、この“64”は天安門事件の起こった日付(6月4日)を、“17”は1+7=8で、“9”と入れ替えると“89”となり、天安門事件の起こった年(1989年)を、それぞれ意味しており、デザイナーによる中国当局への無言の抗議を暗示しているのではないか、と新聞などでも話題になりました。もちろん、この手の話というのは、関係者が「ハイ、そうです」というはずもないので真偽の確かめようはないのですが、こうした噂話が広く受け入れられていたという事実には、天安門事件後の人々の鬱屈した心情がうかがえるような気がします。

 1989年4月8日、胡耀邦(中国共産党の総書記として言論の自由化を推進し、国民からは「開明的指導者」として支持を集めていたものの、保守派との権力闘争に敗れて失脚した)が亡くなると、その死を悼むかたちで、民主化を求める学生運動が北京を中心に発生します。運動の背景には、政府・党幹部の腐敗と汚職、小平による人治(超法規的な君臨)への不満がありました。

 学生を中心とした民主化や汚職打倒を求めるデモは、4月22日には西安や長沙、南京などの一部の地方都市にも拡大。西安では車両や商店への放火が、武漢では警官隊と学生との衝突が発生します。これに対して、首相の趙紫陽は5月3日の“五四運動”70周年記念式典で、学生・市民の改革要求(この日、北京では約10万人が民主化を求めるデモと集会を行っていました)を“愛国的”であると評価し、事態は沈静化の方向に向かうかと思われました。

 ところが、5月13日、民主化を求める学生側がハンガーストライキに突入したことから当局側は態度を硬化。これに反発するかたちで、中国全土から天安門広場に学生・労働者などのデモ隊の数は50万人近くに膨れ上がっていきます。

 両者のにらみ合いが続く中で、5月15日、ゴルバチョフが中ソ対立の終結を表明するために訪中。世界のマスコミは自国の民主化を進めるゴルバチョフの訪中と中国における一連の民主化運動を絡めた報道を行い、天安門広場をはじめ北京市内の要所要所が民主化を求めるデモ隊で溢れ、当局による交通規制さえ不可能となった状況が世界に配信されました。

 このため、メンツを完全につぶされたと考えた当局側は、ゴルバチョフ帰国後の5月19日、北京に戒厳令を布告。23日には戒厳令布告に抗議するために北京市内で100万人規模のデモが行われ、30日には天安門広場の中心に、ニューヨークの自由の女神を模した“民主の女神”像が作られるなど、緊張が高まっていく中で、ついに6月3日深夜から4日未明にかけて、北京の天安門広場前に集まっていた学生・市民に対して人民解放軍が無差別に発砲。民主化運動を力ずくで鎮圧されることになりました。

 軍隊によって民主化運動を圧殺した天安門事件については、国際世論が厳しくこれを指弾し、中国は国際的な孤立に追い込まれます。しかし、中国国内では、事件については徹底した報道管制が敷かれており、現在なお、その実態は明らかにされておらず、一種のタブーのような扱いになっています。ちなみに、僕は以前、中国のご機嫌を伺うことに敏感とされる某社の媒体で中国モノの原稿を書いた際に、天安門事件の影響について触れたところ、担当の編集者から「“3つのT(台湾・チベット・天安門)”には触れないようにお願いします」と言われて書き直しを命じられたことがあります。外国メディアでさえも、これだけの締め付けがあるわけですから、ましてや、国内においては…というところでしょうか。

 今回ご紹介の切手も、(巷間噂されている内容が事実とすれば)そうした状況の中で、デザイナーが精一杯の意思表示をしたものだったのかもしれないのですが、それだかに、件のデザイナー氏がその後、いかなる運命をたどることになったのか、ちょっと気になるところです。


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 シンガポールのスタンプレス・カバー
2009-06-03 Wed 21:06
 現在のシンガポール国家のルーツともいうべき“シンガポール自治州”が1959年6月3日に発足してから、今日でちょうど50周年です。というわけで、今日はシンガポールがらみのマテリアルの中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 シンガポール・無料郵便

 これは、第2次大戦後の1945年10月、シンガポールでの暫定的なスタンプレスカバーです。

 1945年9月、日本の敗戦に伴い、イギリスはマレー半島に再上陸し、軍政が施行されました。その後、イギリスは1946年4月1日に戦前の英領マラヤと海峡植民地による“マラヤ連合”を発足させ、直轄支配下におきましたが、このとき、シンガポールは連合からは分離されています。同連合は、1948年には“マラヤ連邦”に移行しますが、このときもシンガポールは連邦とは分離されてイギリスの直轄支配下に置かれつづけました。その後、1957年にマラヤ連邦は英連邦の一員として独立を達成しますが、シンガポールは英領にとどまり、1959年になってようやく自治州となりました。

 その後、1963年には、マラヤ連邦はシンガポール、サラワク、英領北ボルネオ(サバと改称)と新たな連邦を結成し、マレーシアが誕生しますが、華人とマレー人との対立から、1965年8月9日、シンガポールはマレーシアから追放される形で分離独立し、現在にいたっています。

 今回ご紹介のカバーは、第2次大戦の終結直後、イギリスの支配下で郵便物の取り扱いが再開されたものの、必要な切手の配給が間に合わなかったため、切手の代わりに、料金を収めたことを示す印を押して対応した暫定的なケースで、オーストラリア宛のモノです。なお、ペナン島での似たような使用例については、以前の記事でもご紹介したことがありますので、よろしかったら、ご覧ください。
 

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 開港150年
2009-06-02 Tue 16:23
 きょうは、安政6年6月2日(1859年7月1日)、いわゆる“安政の5ヵ国条約”の締結により、横浜港・長崎港が開港したことにちなんで、横浜・長崎・函館の開港記念日です。というわけで、ストレートにこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 開港100年

 これは、1958年5月10日に発行された“日本開国100年”の記念切手です。切手の発行日は、安政の5ヵ国条約の調印から100周年を記念して、横浜公園市民球場に皇太子を迎えて開港100年記念式典が行われた日付で、条約や開港の歴史的な日付とは直接の関係はありません。

 開港を機に、それまでのひなびた一漁村から、いちやく、西洋文明の窓口となり、大都市へと発展を遂げた横浜市は、1958年、開港の根拠となった安政条約の締結から百周年を迎えたのを機に、“開港百年”の各種記念イベントを計画します。その一環として、1957年11月21日、横浜市長・平沼亮三は、東京郵政局を通じて郵政大臣・田中角栄に“横浜開港百年”の記念切手発行を申請しました。

 横浜が記念切手発行の申請を行ったのを受けて、横浜と同時に開港地となった函館も、市長・長吉谷一次の名で、12月16日、札幌郵政局を通じて、郵政大臣宛に“函館開港百年”の記念切手発行を申請。これに対して、おなじく1859年に開港地となった長崎は記念切手発行を申請しませんでした。

 こうした状況を踏まえ、1958年の切手発行計画を策定するにあたっては、横浜・函館・長崎の三港を一括して“日本開港百年”の記念切手を発行することが決定されます。なお、この段階では、和暦での日米通商修好条約の調印日である6月19日を、そのまま西暦に置き換えて記念切手を発行するというプランが立てられていました。

 しかし、年が明けた1958年1月28日、横浜市長の平沼が、“横浜開港百年祭実行委員長”の肩書で、記念切手の発行日を、記念式典が行われる5月10日として欲しいとの要望を郵政省に提出します。この要望を受け入れるかたちで、記念切手の発行日は、当初予定の6月19日から5月10日に変更されたというわけです。

 切手のデザインは、当時、横浜在住だった木村勝が、1958年1月24日、市の担当者や横浜中郵便局長らとともに、野毛山地区の横浜市中央図書館の史料室で条約調印時の資料を調査した後、山下公園前のニューグランドホテルの屋上と東洋信号通信社の展望台(港の見える丘公園脇の港内信号塔のことか?)から港の風景を取材したほか、三渓園、掃部山公園などで取材して作成しました。

 切手に取り上げられているポーハタン号は、1854年、ペリーが二度目に来航した際、山本啓介(日本側全権の一人、井戸対馬守覚弘の組同心の一人)が写生した「赤筋ポーハタン号」をもとに描いたもので、1928年に横浜市が発行した『開港七十年記念横浜資料』に掲載の図版が資料として用いられました。

 また、中央の井伊大老銅像は、横浜開港50年にあたる1909年7月、旧彦根藩有志が、井伊の開港の功績を顕彰するため、鉄道用地として“鉄道山”と呼ばれていた戸部の丘に建立したもので、掃部山の地名もそのときに命名されました。当時の銅像は藤田文蔵と岡崎雪声によって製作され、その姿は「正四位上左近衛権中将」の正装で、高さは約3.6メートルありましたが、太平洋戦争中の1943年、金属回収で撤去されてしまいました。現在の銅像は、1954年、横浜市の依頼により、慶寺丹長が制作したものです。

 これに対して、切手左側に描かれている“現代の港湾風景”に関しては、当時、住友商事で技師を務めていた小松昌夫は、『切手』紙上において、①切手上に描かれているタワークレーンは主として造船所で用いられるもので港湾荷役用には用いられない、②港内に造船所がある可能性は否定できないが、通常に考えられている“港の風景”としては不自然である、③タワークレーンは、戦前、鉄板を鋲打して船を造っていた時代に船台の側で使われていたもので、戦後、溶接構造の船が造られるようになってからは造船所では用いられていない、といった点を指摘しています。したがって、こちらは、現実の風景を写生したものではなく、イメージとして木村が創作したものと考えるのが妥当なようです。

 なお、幕末から明治初期にかけての開港地には、イギリス・フランス・アメリカの郵便局が設けられていました。このうち、横浜のイギリス局フランス局から差し建てられたカバーについては、拙著『香港歴史漫郵記』でも取り上げてみたことがありますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 おかげさまで4周年
2009-06-01 Mon 15:16
 おかげさまで、2005年6月1日にブログをスタートさせてから、きょうでちょうど4周年になりました。日頃、このブログを応援していただいている皆様には、あらためて、この場をお借りしてお礼申し上げます。

 というわけで、きょうは“4周年”がらみのマテリアルとして、こんなモノを引っ張り出してきました。(画像はクリックで拡大されます)

 フィリピン連邦4周年

 これは、1940年に米領時代のフィリピンが発行した“フィリピン連邦(コモンウェルス)4周年”の記念切手です。

 1934年3月23日、フィリピンの宗主国であったアメリカで“タイディングス・マクダフィー法”が成立し、10年後をめどにフィリピンを独立させることが決定されました。これを受けて、独立準備政府としてのフィリピン連邦(コモンウェルス)が1935年11月に発足。独立運動の指導者で植民地の上院議長を務めていたケソンが大統領に選ばれました。切手はその時の宣誓の場面を取り上げたものです。

 その後、1941年に太平洋戦争がはじまり、1942年に日本軍がフィリピンを占領したため、ケソンはアメリカにわたって亡命政府を組織。フィリピンの独立も第二次大戦後の1946年7月4日までずれ込んでいます。

 もっとも、アメリカによる独立の約束に対しては、かつて、スペインの圧制からフィリピンを解放するという名目で行われた米西戦争が、結果的に、アメリカによるフィリピン支配の道を開いただけに終わったという事情もあって、フィリピンの独立運動家たちからは必ずしも信用されていたわけではありませんでした。このため、フィリピンに残ったホセ・ラウレルらは、自分たちを利用している日本側の意図を十分承知の上で、それでも、“独立”という形式を取っておくことが、戦後のアメリカとの独立交渉において有利に働くと考え、1943年、日本占領下での“独立”を宣言しています。

 ちなみに、アメリカによるフィリピン統治は比較的成功し、フィリピンでは親米感情が浸透していたため、日本の占領軍に対して現地の住民は面従腹背で接する者が多かったという記述がしばしば見られます。たしかに、日本の占領当局に対する怨嗟の声が強かったのは事実ですが、だからといって、フィリピン人はアメリカの領土であることに満足していたわけではありません。このことは、現在のフィリピン政府が、独立記念日を1946年に現在の政府が発足した7月4日ではなく、1898年にアギナルドがアメリカによるフィリピン併合の動きに抗議して独立宣言を行った6月12日としているところからも十分にご理解いただけることでしょう。

 なお、先日出来上がったばかりの(財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』2009年6月号の表紙には、1958年にフィリピンで発行された“マニラ大聖堂再建”の記念切手が取り上げられていて、僕が簡単な解説を書いているのですが、この切手については以前の記事でもご紹介したことがありますので、今回はブログでのご紹介は省略しました。あしからずご了承ください。

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