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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 1年間ありがとうございました。
2017-12-31 Sun 08:59
 2017年もいよいよ大晦日です。今年も皆様には本当にいろいろとお世話になりました。おかげさまで、主なものだけでも、下記のような仕事を残すことができました。

 <単行本>

      パレスチナ現代史・表紙  
 ・『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 えにし書房

 <重版出来>

      朝鮮戦争・倉山工房  
 ・『朝鮮戦争:ポスタルメディアから読み解く現代コリア史の原点』・2刷 えにし書房

 <連載>
 ・「泰国郵便学」 『タイ国情報』(1月号~2018年も継続)
 ・「切手に見るソウルと韓国」 『東洋経済日報』(1月~2018年も継続)
 ・「小さな世界のお菓子たち」 『Shall we Lotte』(1月~2018年も継続)
 ・「切手歳時記」 『通信文化』 (1月~2018年も継続)
 ・「世界の国々」ほか 『世界の切手コレクション』 (1月~2018年も継続)
 *「世界の国々」は複数の執筆者で分担しましたが、内藤の担当は以下の号です。
  チャド (120号・1月4日号)
  ナミビア (123号・1月25日号)
  パラグアイ (124号・2月1日号)
  モルディヴ (126号・2月15日号)
  ブルキナファソ (127号・2月22日号)
  ドミニカ国 (129号・3月8日号)
  赤道ギニア (131号・3月22日号)
  パナマ (132号・3月29日号)
  ガイアナ (133号・4月5日号)
  マダガスカル (134号・4月12日号)
  モンゴル (135号・4月19日号)
  ヴェネズエラ (137号・5月3日号)
  エクアドル (138号・5月10日号)
  モザンビーク (139号・5月17日号)
  タジキスタン (141号・5月31日号)
  チリ (142号・6月7日号)
  ウズベキスタン (143号・6月14日号)
  キューバ (145号・6月28日号)
  南アフリカ (147号・7月12日号)
  ウルグアイ (148号・7月19日号)
  タンザニア (150号・8月2日号)
  イタリア (152号・8月16日号)
  チリ (155号・9月6日号)
  ベルギー (156号・9月13日号)
  ガーナ (160号・10月11日号)
  ソ連 (161号・10月18日号)
  ルーマニア (162号・10月25日号)
  サウジアラビア (165号・11月15日号)
  中国 (167号・11月29日号)
  ブータン (171号・12月27日号)
 ・「切手で訪ねるふるさとの旅」 『散歩人』第34号(7月号・不定期、2018年も継続)
 ・「日本切手誕生のエピソード」 『キュリオマガジン』(9月~2018年も継続)
 ・「スプートニクとガガーリンの闇」 『本のメルマガ』(9月~2018年も継続)
 ・「岩のドームの郵便学」 『本のメルマガ』 (1月~8月)
 ・「郵便学者の世界漫郵記」 『キュリオマガジン』(~1月)

<単発モノの論文・エッセイなど>
 ・「切手にみる『五族協和』の理想」 辻田真憲監修『満洲帝国ビジュアル大全』 洋泉社
 ・「UAE成立前後の郵便と社会」 『UAE』第61号(2017年春号)
 ・「誌上展覧会 小さなアート お茶の切手」 『茶の間』2017年9月号
 ・「切手に描かれた手」 『手の百科事典』(バイオメカニズム学会編) 朝倉書店 
 ・「この3冊」 『毎日新聞』2017年10月8日号
 ・「アヘン戦争とマルレディ・カバー」 『メディア史研究』第42号

<切手展出品>
 ・Japan and the 15 years' War 1931-1945 (アジア国際切手展<Melbourne 2017>
 ・A History of Hong Kong (世界切手展<Bandung 2017><Brasilia 2017>全日本切手展
 ・Postal History of Auschwitz (世界切手展<Brasilia 2017>
 ・アウシュヴィッツ郵便史1939-1945 (全日本切手展)
 ・パレスチナ郵便史 1995-2001(全国切手展<JAPEX>

 このほかにも、NHKラジオ第1放送での“切手でひも解く世界の歴史”、インターネット放送での「楽しく学ぼう! シリア現代史」をはじめ、実行委員長を務めた7月の全日本切手展、コミッショナーを務めた世界切手展<Bandung 2017>ならびに<Brasilia 2017>など、公私にわたり、実に多くの方々より、ご支援・ご協力を賜りました。関係者の皆様にはあらためてこの場を借りて、皆様に厚くお礼申し上げます。明年も引き続き、ご支援・ご協力を賜りますよう、お願い申し上げます。

 最後に、来る年の皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げ、年末のご挨拶といたします。どうぞ、良いお年をお迎えください。

 内藤陽介拝

★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★

  12月28日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」第13回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、年明け1月11日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。
 
 なお、12月28日放送分につきましては、1月4日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


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 世界の切手:ブータン
2017-12-30 Sat 08:46
 ご報告が遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年12月27日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はブータンの特集(3回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ブータン・馬上のネルー

 これは、2011年にブータンが発行した切手シートで、1958年に同国を訪問したインド首相のネルーが馬で移動する写真が取り上げられています。

 現在のブータンのワンチュク王朝は、1907年、1880年代以来のブータンの内戦を鎮定したウゲン・ワンチュクが国土を再統一し、建国されました。

 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、インドを支配していた英国はブータンと隣接するチベットをめぐって清朝と対立していましたが、1907年のシムラ会議で両者の妥協が成立し、チベットにおける清朝の主権が確認されます。これを受けて、清朝はチベット支配を強化し、チベットの近代化改革に着手しましたが、そのことは、建国後まもないワンチュク王朝にとっても大きな脅威となりました。

 このため、1910年、国王ウゲン・ワンチュクは、プナカ条約を締結してブータンを英領インド帝国の保護国とし、国土防衛を英国に委ねるとともに、鎖国体制を維持しようとします。こうした状況は、1947年に英領インド帝国がインドとパキスタンに分離独立するまで続きました。

 英領インド帝国の解体に伴い、1949年8月、ブータンは独立インドとあらためて友好条約を締結。同条約では「インドはブータンの内政には干渉しないが、外交に関しては助言を行う」とされ、ブータンがインドに依存する関係が構築されます。

 そうしたなかで、1951年12月、中国人民解放軍が “平和解放”と称してチベットに進駐。ブータンは共産中国の直接的な脅威にさらされることになりました。

 一方、1950年代前半、中印関係は良好で、1954年には周恩来とネルーの会談に基づき「平和五原則」も発表されましたが、もともと両国間には国境問題があり、中国がチベットに対する統制を強めていったことで中印関係は徐々に緊迫化していきます。

 こうした中で、1958年、ネルーはブータンを訪問(今回ご紹介の切手は、この時のに撮影された写真が元になっています)し、インドはブータンの独立を支援すると約束。さらに、帰国後、インド議会で「ブータンに対する攻撃は、いかなるものであっても、インドに対する攻撃と同等とみなす」と演説し、ブータンの事実上の“宗主国”としての責任を果たす意思を明確にしました。

 翌1959年、いわゆるチベット民族蜂起が起こり、ダライ・ラマがインドに亡命すると、中国はチベット域内にあったブータンの飛び地領8ヵ所も占領。これに対して、ネルーは「ブータンの領土保全はインド政府の責任」と明言します。

 1962年、カシミールとその東部地域のアクサイチンおよびラダック、ザンスカール、バルティスターン、ブータン東側の東北辺境地区で中印国境紛争が勃発。ブータンはインド軍に対して自国領通過の自由を認めるなど協力しましたが、先制攻撃を仕掛けた中国が終始優勢を維持し、インド軍は惨敗しました。

 紛争後、ブータン政府は、中国との国境は、ドクラム高地、ギプモチ(ガモチェン)山からバタングラまでの稜線、シンチェラ、アモチュフの4ヵ所が未確定であるとし、以後、インドが中印国境をめぐる係争の一環として、国際的にはブータンの主張を代弁することになります。

 中国の脅威を前に、伝統的な鎖国政策を維持できなくなったブータンは、1971年、国連に加盟する一方、1974年、国王ジグミ・シンゲ・ワンチュクの戴冠式に、駐印中国大使を招待し、中国との外交的な接触を開始。1984年以降、国交樹立と国境画定を議題とする定期外相会談もスタートしました。

 この結果、1988年には中国と「国境地域の平和維持に関する協定」が調印され、「中国はブータンの主権と領土的統一を尊重し、両国は平和五原則に基づき、友好関係を築くのが望ましい」とされましたが、その直後、中国はブータンが自国領と主張する地域にブータンの許可なく道路を建設。その後も、冬虫夏草目当てとみられる中国人の越境が相次ぎました。

 このため、ブータンは再びインドとの関係を強化し、2007年、インドとの新友好条約を調印。2008年にはインドのシン首相がブータンを訪問して “強力な支援”を表明したほか、2014年にはモディ首相が最初の外遊先としてブータンを訪問しています。

 こうした中で、2017年6月29日 ブータン領のドクラム高地で中国人民解放軍が無断で道路建設(40トンの戦車が走行可能)を行ったため、ブータン政府は即座に抗議。インドもブータン支援のため、ドクラム高地に派兵し、中印両国がにらみ合う緊張状態(ブータン危機)が生じましたが、8月末、両軍はともに撤退し、本格的な軍事衝突は避けられました。

 さて、『世界の切手コレクション』12月27日号の「世界の国々」では、ブータン・インド・中国の三国関係史をまとめた長文コラムのほか、ブータンの伝統的な弓、織物、ドルデンマの大仏、雷龍の切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のブータンの次は、27日に発売された1月3日号でのヴェトナムの特集になります。こちらについては、発行日の3日以降、このブログでもご紹介する予定です。


★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★

  12月28日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」第13回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、年明け1月11日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。
 
 なお、12月28日放送分につきましては、1月4日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


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 リベリアの怪人、大統領に
2017-12-29 Fri 13:55
 西アフリカ・リベリアの選挙管理委員会は、きのう(28日)、大統領選挙の決選投票で、世界的に有名な元サッカー選手で“リベリアの怪人”と呼ばれたジョージ・ウェア候補が勝利したと発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。

      リベリア・ウェア(1994)

 これは、1994年、リベリアで発行されたジョージ・ウェアの切手です。

 ジョージ・ウェアは、1966年10月1日、モンロヴィア郊外のブッシュロード島のシャンティタウンで生まれました。

 15歳の時に地元のサッカークラブ、ヤング・サバイバーズと契約し、当初はゴールキーパーをしていましたが、まもなくフォワードへ転向、30試合に出場し31得点を記録。チームを3部リーグから2部リーグに昇格させる立役者となりました。

 その後、1部リーグのクラブを経て、1986年、リベリアで最高のチームであったインビンシブル・イレブンへ移籍し、キャプテンとして得点王のタイトルを獲得。これにより、国際的にも注目を集め、1987年には、アフリカ屈指のサッカー強国、カメルーンでデビュー。さらに、1988/89年シーズンにはフランスのASモナコへ移籍し、1991/92年シーズンにはチームのフランス杯(グアドループ、仏領ギアナ、マルティニーク、マヨットニューカレドニア仏領ポリネシアレユニオンのクラブも含め、フランスサッカー連盟登録の全クラブに参加資格があるオープントーナメント大会)での優勝に貢献し、1992年にはチームを欧州カップ・ウィナーズカップの決勝に導く原動力となりました。1992/93年シーズン、パリSGに移籍すると、またしてもチームをリーグ優勝に導き、1995年にはフランス杯をチームにもたらしています。

 この間、1989年と1994年にはアフリカ年間最優秀選手賞受賞。今回ご紹介の切手はこれを讃えて発行されたものです。さらに、1995年にはアフリカ出身者として初のバロンドール(フランスのサッカー専門誌『フランス・フットボール』が創設したヨーロッパの年間最優秀選手に贈られる賞)、FIFA選出の世界年間最優秀選手賞、自身3度目となるアフリカ年間最優秀選手賞と、この年の個人タイトルを総なめにしています。

 1995/96年のシーズンからは、イタリア・セリエAのACミランに移籍。驚異的な身体能力を誇り、「リベリアの怪人」と呼ばれましたが、膝の怪我等も有り、1999/00シーズン途中にチェルシーFCに移籍。以降マンチェスター・シティFC、マルセイユ、アル・ジャジーラと渡り歩き2002/03シーズンをもって現役引退しました。

 引退後は、家族とともに米国で生活していましたが、2005年のリベリア大統領選挙に民主変革会議 (CDC)から立候補。第1回目の選挙で最多得票を勝ち取ったものの、決選投票でエレン・ジョン・サーリーフに敗れています。

 その後、2009年に米国からリベリアに帰国し、本格的に政治活動を開始。2011年の大統領選挙ではCDCのウィンストン・タブマン陣営の副大統領候補としてサーリーフに挑んだものの、再び敗北しましたが、2014年の上院議員選挙ではモンセラード郡から立候補し、初当選を果たしました。

 2017年の大統領選挙では第1回目投票では得票率39%で1位となり、11月7日の決選投票で対立候補のジョゼフ・ボアカイ現副大統領の得票率は38.5%に対して61.5%の得票で大差での勝利を収め、大統領の座を射止めました。


★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★

  12月28日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」第13回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、年明け1月11日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。
 
 なお、12月28日放送分につきましては、1月4日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


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 切手でひも解く世界の歴史(13)
2017-12-28 Thu 09:37
 本日(28日)16:05から、NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第13回が放送される予定です。(番組の詳細はこちらをご覧ください)。今回は、現在公開中の映画『ヒトラーに屈しなかった国王』にちなんで、こんな切手もご紹介しながら、第二次大戦中のノルウェーのお話をします(画像はクリックで拡大されます)

      ノルウェー亡命政府・国王肖像

 これは、1943年、ロンドンのノルウェー亡命政府が発行した国王ホーコン7世の肖像切手です。

 第二次大戦の勃発当時、ドイツはスウェーデンから大量の鉄鉱石を輸入していましたが、スウェーデン側の積出港ルーレオは冬季には凍結してしまい、隣国であるノルウェーのナルヴィク港を利用するしかありませんでした。

 このため、チャーチルは、ナルヴィク近郊のノルウェーの領海に機雷を設置するとともに、ナルヴィクを占領して、ドイツに対して打撃を与えるのみならず、当時、ソ連の侵攻を受けていたフィンランドを支援することを計画。1940年4月、ドイツの輸送船を攻撃するための機雷を設置するウィルフレッド作戦を開始しました。

 これに対して、ドイツは、海軍力に勝る英国よりも先にノルウェーを占領することで、鉄鉱石の輸入ルートを確保するとともに、北大西洋でのUボートなど海軍部隊の基地として活用しようと考えます。そして、1940年4月9日、“英仏の侵略から中立国を守るため”として、デンマーク(ノルウェー侵攻作戦の拠点とすることが目的でした)とノルウェーに侵攻しました。

 このうち、デンマークは、ドイツ軍のコペンハーゲン上陸からわずか2時間で降伏し、ドイツの保護国となります。

 一方、ノルウェーでは、4月9日、オスロ、クリスチャンサン、エゲルスン、トロンハイム、アーレンダールなど南部各地にドイツ軍が上陸作戦を開始。ドイツ軍が電撃作戦でオスロ以下の各都市を占領すると、親ナチ政党、国民連合のヴィドクン・クヴィスリングがクーデターを起こして自身を首相とする臨時政府の樹立を宣言し、ドイツ軍に対する一切の抵抗を止めるように呼びかけると同時に、「首相のヨハン・ニューゴースヴォルは抵抗を放棄し逃げ出した」と告げました。

 一方、国王とオーラヴ王太子(後の国王オーラヴ5世)、ノルウェー政府首脳はオスロを脱出してエーベルベームに逃れ、英国の支援を受けて激しく抵抗しました。ノルウェー軍は、ベルゲンの陸上砲台からの砲撃によってドイツ海軍の軽巡洋艦ケーニヒスベルクを損傷させたのをはじめ、ドイツの艦艇に大損害を与えます。また、4月13日には戦艦ウォースパイト、空母フューリアスを含む英国艦隊がナルヴィク沖に達し、ドイツ駆逐艦隊を攻撃して全滅させました。

 しかし、陸上での戦いは圧倒的にドイツ軍が有利で、4月末までにはノルウェーの大半はドイツ軍に占領されてしまいます。これに伴い、国王は、モルデ、トロムソへと逃れて抵抗を続けていましたが、5月10日、西部戦線でドイツ軍のフランス侵攻が始まり、6月5日にはイギリス軍はダンケルクからの撤退。こうなると、イギリスも本国の守りを固めざるを得なくなり、6月8日にはナルヴィクが陥落しました。

 国王と王太子は、ナルヴィク陥落前日の6月7日、イギリス重巡洋艦デヴォンシャーでトロムソを離れ、辛くも英国に逃れましたが、翌8日、ノルウェー軍はドイツ軍に休戦を申し込み、ノルウェーはドイツの傀儡、クヴィスリング政権の支配下に置かれることとなりました。

 一方、国王と王太子はロンドンに亡命政府を樹立し、レジスタンスを指導しました。また、王孫ハーラル(現国王ハーラル5世)とその母、姉妹たちは、国王より一足先にスウェーデンに亡命しましたが、ノルウェー本国では親独ヴィドクン・クヴィスリング政権がホーコン7世を廃位してハーラルを即位させようと画策。スウェーデン国内にもそれに同調する動きがあったため、母子は米国まで再亡命し、1945年までワシントンDCで過ごしています。

 1945年5月9日、ナチス・ドイツが降伏すると、クヴィスリング政権は崩壊。国王は、国民の歓呼の声の中、帰国を果たしました。ちなみに、クヴィスリングは国家反逆罪で逮捕された後、9月10日、裁判で死刑判決を受け、10月24日に銃殺刑が執行されました。
 

★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回は28日!★★

 12月28日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第13回が放送予定です。今回は、現在公開中の映画『ヒトラーに屈しなかった国王』にちなんで、第二次大戦中のノルウェーについてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

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 パレスチナ支援で45億円拠出
2017-12-27 Wed 12:25
 中東歴訪中の河野太郎外相は、きのう(26日)、ヨルダン川西岸地区(以下、西岸)のジェリコ(イェリコ、エリコとも)農産加工団地(JAIP)を視察し、同団地の開発を中核とする日本独自のパレスチナ支援策“平和と繁栄の回廊”構想を推進するため、新たに約4000万ドル(約45億円)の資金拠出を表明しました。というわけで、JAIPにちなんで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       パレスチナ・イチジクとオリーヴ(2015)

 これは、2015年10月10日、パレスチナを代表する農産物としてイチジクとオリーヴを取り上げた切手です。

 パレスチナ自治区の全農地面積は18万3000ヘクタールですが、その57%でオリーヴが栽培されています。2014年には10万8000トンのオリーヴが収穫され、2万4700トンのオリーヴオイルが生産されました。近年の平均的なオリーヴオイルの生産量は2万2000トンで、そのうち6500トンが輸出されており、重要な外貨獲得源にもなっています。

 さて、2006年、当時の小泉純一郎総理がパレスチナを訪問した際に提唱した“平和と繁栄の回廊”構想は、日本、イスラエル、パレスチナ、ヨルダンの4者が協力し、パレスチナの経済的自立を促進することを目的としたもので、その中核事業が、ジェリコ市郊外でのJAIPの建設です。なお、今回の支援は、JAIPへの支援に加え、情報通信分野の人材育成センターを立ち上げ、パレスチナの人々の起業を支援するほか、周辺の道路整備などヨルダン側国境施設の機能強化を進めることも含まれています。また、今回表明した援助を含め、日本のパレスチナに対する支援は総額約18億5000万ドルとなりました。

 JAIPは、パレスチナ産農産物に付加価値を付け、ヨルダン経由で輸出する枠組みづくりを目指しており、現在は、第1ステージ19.4ヘクタールの開発が進められています。2017年10月現在、約40社が入居契約を終え、うち8社の工場(オリーヴ葉エキスのサプリメント、梱包用緩衝材、ウェットティッシュ、ミネラルウォーター、オリーヴ石鹸、冷凍ポテト、再生紙、デーツのパッケージング)が操業を開始しており、ここでも、地元のオリーヴが活用されています。将来的には、今回ご紹介の切手に取り上げられているイチジクの加工場がJAIP内に開設されることもあるかもしれません。

 ことし(2017年)第2四半期のパレスチナの失業率は失業者21万6900人を抱えるガザ地区で44%(若年失業率は60%超ともいわれています)、西岸で20.5%で、両地区をあわせた自治区全体では29%、39万6400人が失業状態です。JAIPには雇用創出の面もありますので、そのことが、結果としてパレスチナの安定につながることも期待されています。

 なお、パレスチナ自治政府とその切手については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 12月28日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第13回が放送予定です。今回は、現在公開中の映画『ヒトラーに屈しなかった国王』にちなんで、第二次大戦中のノルウェーについてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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 泰国郵便学(52)
2017-12-26 Tue 11:09
 公益財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第51巻第6号ができあがりました。そこで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・国連デー(1976)

 これは、1976年10月24日に発行された“国連デー”の切手で、薬物をはじめ、アルコールおよび煙草の依存症患者に対する国連の支援活動が図案化されています。

 WHOの定義によると、依存症とは「精神に作用する化学物質の摂取や、ある種の快感や高揚感を伴う行為を繰り返し行った結果、それらの刺激を求める耐えがたい欲求が生じ、その刺激を追い求める行為が優勢となり、その刺激がないと不快な精神的・身体的症状を生じる、精神的・身体的・行動的状態」のことで、①物質依存症(アルコールや薬物など、何らかのかたちで体内に摂取する物質に対する依存症)と②行為・過程依存症(ギャンブル依存症・インターネットゲーム依存症など)に大別される。

 麻薬、特にアヘンの輸入と生産に関しては、アユッタヤー王朝の時代から歴代の王がこれを禁じ、アヘンを処理するための儀式が寺院などでも行われていました。また、チャクリー王朝時代に入ると、1811年、国王ラーマ2世はアヘンの使用と売買を正式に禁止しています。

 1840年のアヘン戦争以降、英国は清朝に対して本格的にアヘンを輸出するようになり、中国大陸ではアヘンの使用が拡大。また、1850年代以降、中国大陸の混乱を避けて国外に移住する華人が激増し、華人移住の波はタイにも押し寄せると、それに伴い、タイ国内でもアヘン吸引の習慣が拡大しました。

 当時のアヘンの売買には英国人ないしは英領インド帝国の出身者が数多くかかわっていたこともあり、1852年、英国は国王ラーマ4世に圧力をかけ、華人商人用としてアヘン窟の設置を認めさせます。この結果、タイ国内のアヘン窟は1880年には1200ヵ所に、1913年には3000ヵ所にまで拡大。1913年に英領インドからタイに輸出されたアヘンは147トンにも及びました。

 このように、タイを含めアジア各地にアヘンが蔓延していったことに危機感を抱いたマニラ在住の米国人宣教師は、20世紀初頭、米国大統領セオドア・ルーズベルトに対してアヘン拡大の窮状と吸引禁止に関する国際会議の開催の必要性を訴えます。これを受けて、ルーズベルトは、清国と関係の深かった日英両国の了解を得て、1904年10月、国際会議の開催を提案。その後、日露戦争等もあって開催は遅れましたが、1909年2月、米国、英国、日本、清国、ドイツ、フランス、ロシア、イタリア、イラン、オーストリア、オランダ、タイ、ポルトガルによる万国阿片委員会が上海で開催され、アヘン等の統制に関する9ヶ条の議定書が採択されました。

 さらに、1912年1月には、オランダのハーグでハーグ国際アヘン会議が開催され、薬物(ここではアヘンのみならず、モルヒネ、コカインおよびそこから誘導された薬品、または同等の害悪を起こすもの)を統制する初の国際条約として、万国アヘン条約が調印されます。同条約は、1919年のヴェルサイユ条約を通して批准され、1924年から1925年にかけてのジュネーヴ国際アヘン会議で大麻製剤(チンキ)を追加し条約を補足する協定が作成されました。

 第二次大戦後、万国アヘン条約は、1946年の「麻薬に関する協定、条約及び議定書を改正する議定書」を経て、1961年の「麻薬に関する単一条約」に引き継がれます。

 同条約は、それまで各国が薬物に関して個別に締結していた多数の国際条約、協定等を一本にまとめ、国際的麻薬管理を整理統合し、より実効あるものに統一したもので、1961年3月、ニューヨークにおいて採択され、1964年12月に発効。さらに、10年後の1971年2月、麻薬に関する単一条約が規制の対象としている物質(麻薬、アヘン、大麻)以外の幻覚剤、鎮痛剤、覚せい剤、睡眠薬、精神安定剤等の乱用を防止するため、「向精神薬条約」が採択されました。同条約は、1976年5月、その効力発生に必要な締約国数(40カ国)に達し、同年8月16日に発効しています。

 今回ご紹介の“国連の日”の切手が、薬物をはじめとする依存症患者の救済を題材としているのは、こうした国際的な薬物統制の動きと連動したものであることは言うまでもありません。

 ただし、タイの場合には、そうした国際的な要因に加え、前年(1975年)、薬物依存症患者の社会復帰に尽力してきたプラー・チャムルーン・パルンチャンが、アジアのノーベル賞とされるマグサイサイ賞(社会奉仕部門)を受賞しており、今回ご紹介の切手には、そのことを記念する意味合いも込められていたと思われます。

 1949年、中華人民共和国が成立すると、米国は王室とのつながりも深かったタイ警察を反共のための重要な準軍事組織と位置付け、積極的に支援するようになりました。こうした中で、1951年に警察長官に就任したパオ・シーヤーノン警察大将は、米CIAから兵器、資金、軍事訓練を受け、国境警備警察を創設しましたが、国境警備警察は“黄金の三角地帯”の一角を占める北タイのケシ農園の防衛等を通じて、この地域で麻薬産業を担っていた中国国民党軍(の残党)などと癒着。莫大な麻薬利権を掌握します。

 パオ・シーヤーノンは、当時のピブーン政権下で内務大臣を務め、彼の配下である警察は、サリット・タナラットひきいる陸軍と勢力を二分していましたが、1957年、サリットによるクーデターが発生。首相のピブーンと内務大臣のパオは追放され、警察勢力は政権から一掃されました。

 これに伴い、1958年以降、1954年に制定されたものの、それまで有名無実化していた医薬品以外のアヘンの使用禁止法が厳格に運用されることになり、公認のアヘン窟も廃止されます。しかし、山間部では、少数民族にとって現金収入の手段となるような代替産業が保護・育成されなかったこともあり、その後も、チェンマイ県などでは、地元警察がアヘン栽培農家を不法に保護し、アヘンは根絶されませんでした。

 また、アヘン使用禁止法の施行を受けて、アヘン業者たちはアヘンに代わってヘロインその他の薬物を密売するようになったことや、インドシナの内戦で各派が闘争資金獲得のためにタイ国内でも違法薬物の密売を盛んに行ったことなどもあって、1954年にはアヘン中毒を中心に7万2000人とみられていたタイ国内の薬物中毒患者は、1975年には、マリファナからヘロインに至るまで、多種多様な薬物の中毒患者は40万人にも急増し、薬物汚染は深刻なものとなりました。

 こうした状況の下、1957年、警察官として違法薬物の取締りにも従事してきた経験を持つ僧侶のチャムルーン・パルンチャンは、叔母で女性出家者として活動していたミアン・パルンチャン、弟のチャルーンとともに、同志を募って、禁欲的な求道生活を行う道場として、サラブリー県プラプッタバート郡にワット・タムクラボークを建立します。

 もともと、釈迦の時代の仏教では男性出家者である比丘とともに、女性出家者の比丘尼が存在していましたが、その後、いわゆる“上座部仏教”が確立されていく過程で、女性の出家は認められなくなります。とはいえ、タイを含む上座部仏教圏でも、俗世を離れて出家修行生活を望む女性は存在しており、そうした女性は、タイでは“メーチー”と呼ばれています。

 タイの上座部仏教では、僧侶として出家者の地位・身分を得られるのはあくまでも男性のみとされてきたため、メーチーの宗教上の地位は“在家者”とされており、それゆえ、男性出家者のように、一般信徒から物質的・経済的支援や敬意を受けることもありませんでした。

 ミアンはそうした“メーチー”の一人で、霊感が鋭く、予知能力があるとして地域の尊敬を集めていたが、宗教上はあくまでも在家者という位置づけであったため、ワット・タムクラボークも、“ワット”を名乗っていたものの、当初は正規の仏教寺院としては認証されませんでした。ちなみに、ミアンは1970年に亡くなっていますが、ワット・タムクラボークが正規の仏教寺院として認証されたのは、それから40年以上が経過した2012年のことです。

 さて、1957年のある日、アヘン中毒に悩む老人が治癒を求めて、創建されたばかりのワット・タムクラボーグを訪ねてきました。居合わせた者は、誰も医学的な知識を持っていませんでしたが、チャムルーンは老人を本尊の仏像の前に連れて行き、蓮の果托の一房を渡し、「蓮は聖なる花である。アヘンの禁断症状が現れたら、代わりに蓮の果托を噛むが良い」と諭したところ、数日後、チャムルーンの言いつけに従った老人はアヘン中毒から完全に立ち直ったそうです。

 この話が広まり、多くのアヘン中毒患者が治癒を求めてワット・タムクラボークを訪れるようになったため、1959年以降、チャムルーンは本格的に、アヘンをはじめとする薬物中毒患者の治癒に乗り出すことになり、1959年から1961年にかけての試行錯誤の期間を経て、6-15日間の治癒プログラムが確立されました。

 ワット・タムクラボークの治癒プログラムの参加者は、1964年から1975年までの10年間で5万7000人にも及び、その活動は、タイ政府のみならず世界的にも注目を集め、1975年にはチャムルーンがアジアのノーベル賞と呼ばれるマグサイサイ賞(社会奉仕部門)を受賞しています。ちなみに、タイ人・組織のマグサイサイ賞受賞は、1961年のニラワン・ピントン(1961年・社会奉仕部門。フェミニスト)以来、7人目のことでした。
      

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 Merry Christmas!
2017-12-25 Mon 10:11
 きょう(25日)はクリスマスです。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ヨルダン・教皇訪問(1964・ヨルダン)

 これは、1964年1月4日、ヨルダンが発行した“教皇パウロ6世の聖地訪問”の記念切手のうち、ベツレヘムの聖誕教会を取り上げた1枚です。

 聖誕教会は、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(在位306-37)の時代、イエス・キリストが生まれたとされる洞穴の上に建設が開始され、息子のコンスタンティヌス2世治下の339年に完成しました。ただし、当初の聖堂は6世紀に焼失し、西暦6世紀、ユスティニアヌス1世の時代に再建されました。

 さて、今回ご紹介の切手の発行の名目となった教皇の聖地訪問は1964年1月4日に行われました。このとき、教皇はエルサレム旧市街、ベツレヘム(以上、ヨルダン領)、ナゼレ(イスラエル領)の三聖地を訪問。現地滞在時間はわずか11時間でしたが、教皇自身による聖地訪問は、史上初のことで、さらにいえば、教皇が在位中にイタリアを離れたのも、さらには、飛行機に乗ったのも、このときが初めてのことでした。

 パウロ6世(本名ジョヴァンニ・バッティスタ・モンティーニ)は1897年、北イタリアのサレッツォ生まれ。1920年に司祭となり、第二次大戦中は、バチカン国務長官ルイジ・マリオーネ枢機卿の下、イタリアのファシスト党やナチス・ドイツとの交渉などを担当する一方で、1944年にマリオーネ枢機卿が亡くなると、国務長官の代行としてレジスタンスの保護にも尽力。1953年にミラノの大司教に、1958年に枢機卿に任じられ、1963年、教皇ヨハネ23世の死去により教皇に選出されました。

 ヨハネ23世は、1962年からカトリック教会の近代化と刷新のため、第二バチカン公会議を開催。公会議は、第一会期(1962年10月11日-12月8日)、第二会期(1963年9月29日-12月4日)、第三会期(1964年9月14日-11月21日)、第四会期(1965年9月14日-12月8日)に分けて行われましたが、ヨハネ23世は1963年6月に亡くなったため、第二会期以降は、後を継いだパウロ6世が取り仕切っています。

 教皇の聖地訪問は公会議の第二会期が終わった直後の1964年12月、“純然たる個人の巡礼”として電撃的に発表されましたが、実際には、当時はヴァチカンとの間に正式の国交がなかったヨルダン、イスラエル両国(ちなみに、ヴァチカンとイスラエルの国交樹立は1993年、ヨルダンとの国交樹立は1994年です)との間で、教皇の即位直後から入念に準備が進められていました。

 今回ご紹介の切手は、このときの教皇の聖地訪問当日に4種セットで発行されたもので、左に教皇、右にヨルダン国王のフセイン1世の肖像を配するというフォーマットは各種共通で、中央に取り上げられている建造物が異なっています。

 当時のヨルダンでは切手の製造は英国の印刷会社に委託されており、数カ月の準備期間が必要なことから考えると、教皇の訪問当日に記念切手を発行するためには、公会議の第二会期が始まった1963年9月の時点で、ヨルダン政府は教皇の聖地訪問を受け入れることを決定し、その準備に取り掛かっていたと考えるのが自然なことと思われます。

 なお、教皇がこの時期にエルサレムを訪問したのは、もちろん、“純然たる個人の巡礼”ではなく、東方正教会の最大の権威であるコンスタンティノープル総主教(全地総主教)のアシナゴラスと会談することにありました。

 アシナゴラスは、1886年、ギリシャ北西部のイピロス(エピルスとも)地方のヴァシリコ生まれ。1910年に輔祭(主教・司祭の助手)になり聖職者としてのキャリアをスタートさせ、コルフ主教、南北アメリカ大主教を歴任し、1948年にコンスタンティノープル総主教に就任。以後、キリスト教の宗派を超えた結束を目指すエキュメニズムに積極的に取り組んだことで知られています。

 エキュメニズムは、もともとはプロテスタントにおいて始まった運動ですが、1937年、この運動を促進するための組織として、正教会を含む世界教会協議会設立の合意が成立しました。ただし、カトリックは世界教会協議会には参加せず、第二次世界大戦の勃発もあり、協議会の成立は戦後に持ち越されています。

 ところが、1947年11月に国連でパレスチナ分割決議が可決されたのを機に、パレスチナが内戦状態に陥り、1948年5月にはイスラエルが建国を宣言して第一次中東戦争が勃発。キリスト教にとっての聖地も紛争の直接的な危機にさらされることになり、1948年8月23日、協議会は急ぎ設立されることになりました。ちなみに、「1948年のイスラエル建国以来、聖地の平和のために努力してきた」というのが、協議会の自己認識です。

 一方、当初、エキュメニズムとは距離を置いてきたカトリックですが、1958年に教皇となったヨハネ23世は、エキュメニズムに熱心に取り組み、1500年代以来、初めて英国教会大主教をヴァチカンに迎え、正教会へも公式メッセージを送ったほか、東西冷戦の解決を模索し、1962年のキューバ危機においても米ソ双方の仲介に尽力しています。カトリック教会の近代化をめざして、第二ヴァチカン公会議を開催したのも、こうした流れに沿ったものでした。

 ヨハネ23世の後を継いだパウロ6世は、前教皇の遺志を継いでエキュメニズムにも取り組み、1963年の就任後ほどなくして、アシナゴラスに親書を送っています。何でもないことのようだが、ローマ教皇がコンスタンティノープル総主教に親書を送ったのは、実に、1584年、教皇グレゴリオ13世がイェレミアス2世に対して、グレゴリオ暦の採用に関しての書簡を送って以来、約380年ぶりのことです。

 その後、ヴァチカンとコンスタンティノープル総主教庁との水面下での接触・交渉を経て、1963年末、パウロ6世の聖地訪問が発表されると、これに呼応するかたちでアシナゴラスがエルサレムを訪問し、旧市街の東に位置するオリーブ山での歴史的な直接会談が実現。パウロ6世とアシナゴラスとの会談では、1054年の相互破門(総主教ミハイル1世と教皇レオ9世が互いに相手を破門したとされる事件)の解消が宣言されました。

 なお、東エルサレムならびにベツレヘムを含むヨルダン統治時代の西岸地区については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 クリスマス・イヴ
2017-12-24 Sun 08:28
 今夜はクリスマス・イヴです。とういうわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      パレスチナ自治政府・クリスマスカバー(1998)  パレスチナ自治政府・クリスマスカバー裏

 これは、1998年12月24日、パレスチナ自治政府支配下のベツレヘムで使用されたクリスマスの記念印が押されたカバーとその裏面です。記念印はパレスチナの旗を描き、英語とアラビア語で“パレスチナ自治政府 メリー・クリスマス”の文字が入っています。

 ベツレヘム局では、キリスト生誕の地として同地を訪れる観光客を意識して、1995年から1999年まで、毎年、12月24日付のクリスマスの記念印を使用していました。その後、2000年に第二次インティファーダが発生し、治安状況の悪化により観光客が激減したことから記念印の使用は一時停止されていましたが、2010年以降、使用が再開されています。

 今回ご紹介のカバーは1998年12月31日に宛先のバイト・ジャーラー(ベツレヘム北西のキリスト教地区)まで届けられた後、1999年1月4日、受取人不明で自治政府の事実上の首都、ラーマッラーの中央区分局に持ち込まれた後、翌5日、差出人がリターン・アドレスとして指定したイェリコに返送されました。切手は、1996年3月20日に発行されたアラファトの肖像を描く100フィルス切手が2枚貼られています。

 なお、パレスチナ自治政府とその郵便については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもいろいろまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 ウズベキスタン切手の今上陛下
2017-12-23 Sat 17:04
 きょう(23日)は、天皇誕生日です。というわけで、今上陛下に関係する切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ウズベキスタン・独立10周年

 これは、2001年にウズベキスタンが発行した独立10周年の記念切手(第1次)のうち、今上陛下に謁見する同国のイスラム・カリモフ大統領画取り上げられています。ウズベキスタンの独立10周年の記念切手(第1次)は、建国から10年以内のカリモフと各国の元首との会見場面の切手12種を含む47種が発行されました。

 カリモフは、これまで1994年5月、2002年7月、2011年2月の3回、大統領として日本を公式訪問しています。このうち、1994年5月の訪日は日ソ間で結んだ条約の承継を確認することが最大の目的でした。

 さて、現在のウズベキスタン国家の領域は、かつて、ウズベク・ソヴィエト社会主義共和国としてソ連の構成共和国の1つでした。

 ウズベク・ソヴィエト社会主義共和国は、1959年から1982年まで、ウズベキスタン共産党第一書記を務めたシャラフ・ラシドフによる独裁体制が続いていました。

 ラシドフ死後の1989年、フェルガナ盆地で土着のメスヘティア・トルコ人とウズベク人の民族対立が発生。これに刺激を受け、隣接するキルギスタンの首都オシではウズベク人とキルギス人の衝突が起こると、モスクワの中央政府は、民族対立に伴う粛清に関与していなかった“中間派”のテクノクラートであったカリモフをウズベキスタン共産党第一書記に任命し、事態の鎮静化を図りました。

 カリモフは、1990年6月20日、ウズベク・ソヴィエト社会主義共和国が国家主権宣言を採択すると、大統領に選出されましたが、この時点では、ウズベクの自治の拡大を目指してはいたものの、必ずしも完全独立を施行していたわけではなかったといわれています。

 ところが、1991年8月、ソ連保守派のクーデターが失敗に終わると、8月31日、ウズベキスタンはソ連からの独立を宣言。同年12月の国民投票の(全人口の98.2%が独立に賛成)を経てウズベキスタン議会が開設され、カリモフがそのまま、新国家の大統領に就任しました。以後、現在まで、カリモフは政権を維持し続けています。

 ウズベキスタンの現行憲法では、大統領の連続3選は禁止されていますが、カリモフ政権はこれまで大統領の任期に関し数回憲法を改正し、そのたびに以前の当選回数は無効になったと独自の解釈を適用することで、2016年9月2日に亡くなるまで大統領の地位を維持しつづけました。

 カリモフ政権は、2007-12年に毎年8%以上のGDP成長率を達成するなど、経済運営においてはそれなりの成果を上げる一方、2005年5月13日には、ウズベキスタン東部のアンディジャンで反政府デモを武力で鎮圧し、多数の死者(国家保安庁の公式発表では170名程度、非公式情報では500名程度)が出ており、その強権的な政治手法ゆえに“世界最悪の独裁者(の一人)”として欧米から批判されることも少なからずありました。

 ちなみに、カリモフは、幼少期、母親に連れられて毎週末、日本人抑留者の収容所を訪ね、「ご覧、あの日本人の兵隊さんを。ロシアの兵隊が見ていなくても働く。他人が見なくても働く。お前も大きくなったら、必ず他人が見なくても働くような人間になれ」と教えられたそうで、後年、そうした母の言いつけを守ったおかげで大統領にまで出世したと回想しています。また、1996年にはナヴォイ劇場を建設した日本人抑留者の功績をたたえて、同劇場にウズベク語、日本語、英語の3ヵ国語表記の銘板が掲げられた際には、担当者に対して「決して“捕虜”と書いてはいけない」と厳命。この結果、銘板は「極東から強制移住させられた数百人の日本人」という表現になったとのエピソードもあり、親日家として知られていました。 


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 冬至
2017-12-22 Fri 11:41
 きょう(22日)は冬至です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アイルランド・ニューグレンジ(1983)

 これは、1983年にアイルランドが発行したヨーロッパ切手のうち、ニューグレンジ遺跡の渦巻き模様を取り上げた1枚です。

 ニューグレンジ遺跡は、アイルランド東部、ミース州にある先史時代の遺跡の1つで、差し渡し76メートル、高さ12メートル。塚の内部には18メートル以上の通路が真っ直ぐ伸びていて、その先端に十字型の部屋があり、冬至の明け方のごく短時間のみ、太陽光が長い羨道に真っ直ぐ入射し、部屋の床を照らすように建設されていることで知られています。

 放射性炭素年代測定によれば、ニューグレンジは約5000年前の建設で、エジプトのギーザの大ピラミッドよりも500年、ストーンヘンジよりも約1000年古く、アイルランド神話によれば、ダグザ神が建てたものを、息子オェングスが後に父からそれを騙し取り、後に妖精の塚として、トゥアハ・デ・ダナーンが住んでいたとされています。

 ただし、建設後間もない時期に塚が崩れたため、ながらく土中に埋もれていましたが、1699年夏、この地の領主であったチャールズ・キャンベルの使用人たちが建材用の石を探していた際に、入口にあった彫刻が施された石を発見。報告を受けたキャンベルはウェールズのエドワード・ルイドに調査を依頼し、その存在が明らかになりました。
 
 1962-75年にはユニバーシティ・カレッジ・コーク考古学科による発掘と復元が行われ、ほぼ垂直な鉄筋コンクリートの壁を塚の入り口から両側に建設し、そこに石壁を形成する白い珪岩などを固定する作業が行われました。その間の1967年12月21日、冬至の明け方に太陽光が差し込むイベントが初めて観測されており、今年はそれから50周年にあたります。

 ニューグレンジの入口には巨大な石の平板が置かれており、渦巻き模様と菱形紋の彫刻が施されています。このうち、3つの渦巻き模様は通路や石室内、縁石などにも施された、ニューグレンジ特有のもので、マン島シチリア、北ウェールズのアングルシー島の羨道墳などに見られる三脚巴との類似が指摘されています、


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 小さな世界のお菓子たち:クッキーの切手
2017-12-21 Thu 08:37
 大手製菓メーカー(株)ロッテの季刊広報誌『Shall we Lotte(シャル ウィ ロッテ)』の第38号(2017年冬号)ができあがりました。僕の連載「小さな世界のお菓子たち」では、今回は、こんな切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

      ジブラルタル・クリスマス(2016)

 これは、ジブラルタルが発行した昨年(2016年)のクリスマス切手で、スノウマンをかたどったクリスマス・クッキーが取り上げられています。

 クリスマスの定番ともいうべきジンジャー・クッキーは、ベルギーのディナンで考案された焼き菓子がそのルーツで、そこからドイツを経て、主として中欧から北欧にかけて拡大していったと考えられています。

 一方、地中海に面した南欧地域では、ジンジャー・クッキーのような堅い焼き菓子もないではないのですが、それとは別に、中東・北アフリカから伝来したとされる、崩れやすい焼き菓子も発展しました。その典型が、イベリア半島のポルボロンです。

 ポルボロンは、小麦粉とラード、砂糖を主原料とした焼き菓子で、塵(polvo)のようにほろほろと崩れるのがその名の由来。現在でも、クリスマスなどのお祝い事には欠かせないお菓子で、口の中で溶けてなくなってしまう前に、3回「ポルボロン」と唱えることができると、幸せが訪れるとの言い伝えもあります。

 イベリア半島の南端に位置するジブラルタルは、スペイン継承戦争中の1704年8月、英蘭墺連合軍がスペインの守備隊を破って占領し、戦後、英国に割譲されました。このため、この地の人々の生活には、スペインの文化的伝統を基調としつつも、随所に英国の影響も色濃く見られます。

 たとえば、ジブラルタルでは、クリスマスの定番のお菓子は、上記のポルボロンに加え、パウンドケーキのような形で中にドライ・フルーツをたくさん入れたパン・ドゥルセなど、スペイン由来のものが主流ですが、それとは別に、英国に倣ってクリスマスのアイシングをしたクッキーを作り、ツリーに飾るなどして楽しむことも行われています。

 今回ご紹介の切手は、そうしたクリスマス用のアイシングが施されたクッキーを描く切手の1種です。もっとも、ジブラルタルは、一年で一番気温の低い1-2月でも最低気温が10度以下になることはない地域ですので、切手に取り上げられているようなスノウマンを現地で実際に見る機会はないのでしょうが…。

 ちなみに、ジブラルタルでは、クリスマスにアイシングを施されるクッキーの土台は、バターと小麦粉、砂糖を混ぜるだけのものが主流で、英国など寒い地域のジンジャー・クッキーのように、さまざまなスパイスを加えることはほとんどありません。

 見かけは英国風でも、口に含むと、ポルボロンにも通じる素朴な味わいが広がるジブラルタルのクリスマス・クッキーは、まさに、南北文化の交差点に相応しい一品といえそうです。


★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★★

 12月14日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」第12回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、12月28日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。
 
 なお、14日放送分につきましては、21日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


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 シャンシャンの一般公開始まる
2017-12-20 Wed 11:29
 東京・上野動物園ことし6月に生まれたジャイアントパンダ“シャンシャン(香香、雌)”と母親シンシンの一般公開が、きのう(19日)から始まりました。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      香港節(1973)カバー

 これは、1973年11月23日、香港で発行された“香港節”の切手のうち、“香”の字を描く切手を2枚貼り、インド宛に差し出した初日カバーで、余白にパンダのイラストが描かれているので、結果的に“パンダの香香”というルックスになりました。ちなみに、香の字を“シャン(xiāng)”と読むのは北京語で、広東語では“ホェーン(heung1)”となります。

 さて、今回ご紹介の切手の題材となった“香港節”は、1967年、大陸のプロレタリアート文化大革命(文革)の影響を受けて発生した“左派騒乱”で荒廃した人心を慰撫するとともに、人々に“(大陸とは別の)香港人”としての意識を強く持ってもらうことを目的に企画されました。

 第1回の香港節の実施に当たっては、1969年初、黎保德を事務主任とする実行委員会が組織され、同年12月6日から15日にかけて行われ、美人コンテストを含む様々な文化イベントが行われ、参加者は50万人にも上りました。イベントの中には切手展も含まれています。

 この成功を受けて、1971年と1973年にも香港節が行われましたが、徐々に参加者が減少したことに加え、1973年からは香港芸術祭が毎年開催されることになったため、1974年以降は芸術祭が実質的に関連部門を芸術祭に吸収するかたちで、香港節は行われなくなりました。

 記念切手に関しては、1969年の最初の香港節に際しては発行されていませんが、1971年と1973年の香港節にはそれぞれ記念切手が発行されています。ちなみに、今回ご紹介の切手を含む1973年の記念切手は、香港節の“香”、“港”、“節”の文字を一つずつ図案化した3種セットの構成でした。

 なお、英領時代の香港とその歴史については、拙著『香港歴史漫郵記』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。
 

★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★★

 12月14日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」第12回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、12月28日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。
 
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 スプートニクとガガーリンの闇(3)
2017-12-19 Tue 08:58
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、先月25日、『本のメルマガ』第664号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、ソ連側から見た国際地球観測年と宇宙開発の関係について取り上げました。その記事の中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・国際地球観測年(観測)

 これは、“国際地球観測年”が始まって間もない7月4日、ソ連が発行した“国際地球観測年”の記念切手です。

 1955年7月、米国のアイゼンハワー政権は国際地球観測年の期間中(1957年7月1日-1958年12月31日)に人工衛星を打ち上げる計画を発表。8月6日には、第6回国際宇宙航行会議の席上、国際宇宙航行連盟会長のフレデリック・デュランが「米国は人工衛星の打ち上げを準備している」とのアイゼンハワー書簡を読み上げました。

 これを受けて、会議に出席していたモスクワ大学教授のレオニード・イワノヴィッチ・セドフ(ちなみに、会議には“惑星間飛行の組織ならびに実現分野における共同作業に関わる省庁間委員会”の委員長という資格で参加)は記者会見を開き、「過去、ソヴィエトでは惑星間交通手段の実現に関する研究課題、第一に地球周回人工衛星開発の問題に多くの注意を払ってきている。ソヴィエトの計画は比較的近い将来の実現を予期することができよう」と述べました。この発言は、ソ連でも人工衛星打ち上げの計画が進んでいることを明らかにしたものとして注目されましたが、セドフ本人はソ連の人工衛星開発計画について具体的な知識を持っているわけではありませんでした。

 ソ連国内では、1948年、ミハイル・クラウデイエヴィチ・ティホヌラヴォフを中心とする研究グループが、射程数千キロのロケットを数本束ねれば人工衛星を軌道に投入できると発表していましたが、当時はその実現性はかなり低いとみられていました。

 一方、1950年4月、第88科学研究所(NII-88)第一設計局(OKB-1)の責任者に就任したセルゲイ・パヴロヴィチ・コロリョフは、ソ連の長距離ミサイルの開発責任者として、1953年4月、射程7000kmで水爆の搭載が可能な大陸間弾道弾R-7ロケットの開発計画を提出し、政府の承認を得ています。

 R-7の開発は、一義的には、米国に対する軍事的な劣勢を挽回するためのものでしたが、コロリョフは、このロケットを使って世界最初の人工衛星を打ち上げることを夢見ていました。

 実際、彼は、1953年、ソ連科学アカデミーで犬の運搬を含めた人工衛星打ち上げの可能性を主張したものの、軍や党の反対で実現していません。そこで、1954年以降、コロリョフは科学アカデミーを味方につけ、政府や党、軍との折衝を始めたましが、軍は、人工衛星が国防にとって有用であるとは考えず、計画に対して冷淡でした。

 セドフの記者会見は、こうした状況の中で、いわばハプニング的に行われたもので、結果的に、ソ連の人工衛星開発を大きく進める端緒となります。

 すなわち、米国による人工衛星計画の発表から間もない1955年8月初、コロリョフは航空機工業大臣のミハイル・ワシリエヴィチ・フルニチェフ、兵器人民委員部のワシーリー・ミハイロヴィチ・リャビコフとともに、共産党第一書記のニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフと閣僚会議議長のニコライ・アレクサンドロヴィチ・ブルガーニン宛にソ連も人口衛星を打ち上げるべきとの書簡を送りました。フルシチョフはこれを了承し、8月8日付で「地球人工衛星について」と題する政令が発せられます。

 これを受けて、1956年1月30日、質量1000-1400㎏の地球人工衛星を開発し、1957年中に打ち上げることを指示する政令「オブエクトDについて」が出されました。

 しかし、その具体的な調整には予想以上の時間がかかり、1956年末になると、このままでは1957年中の打ち上げは困難で、打ち上げ時期を1958年に延期する政令が出されます。当時のソ連政府にとっては、あくまでも大陸間弾道弾の開発が優先で、人工衛星の打ち上げは二義的なものとしか考えられていなかったため、国際地球観測年の期間内に人工衛星を打ち上げることへのこだわりは、必ずしも強くはなかったのです。

 これに対して、なんとしても米国に先んじて人工衛星を打ち上げたかったコロリョフは、ティホヌラヴォフの提案を容れて、オブエクトDのプランよりも大幅に機能を縮小し、小型で軽量のスプートニク衛星(“最も簡易なスプートニク”を意味するロシア語の頭文字を取ってPSと略される)の製作を決断します。

 一方、コロリョフの“本業”であるR-7の開発は、1957年5月から発射試験が始まりました。

 しかし、R-7は4機を打ち上げた時点で、大陸間弾道弾として最も重要な再突入技術が未熟で、ノーズコーン(大気圏再突入の際に核弾頭を摩擦熱から守るため、ミサイルの先端に装着する耐熱シールド)が機能せず、ミサイルとしては未完成の状態が続いていました。

 ところで、前年の1956年、フルシチョフは共産党大会でスターリン批判を行い、大規模な軍の改革に乗り出しています。大陸間弾道弾の開発はその金看板でしたが、その一方で、改革の影響で通常兵器は削減され、そのことに不満を持つ軍人たちも少なくありませんでした。

 このため、1957年6月の共産党中央委員会幹部会では、反フルシチョフ派がフルシチョフの解任動議を提出。幹部会員11名の内、7人(マレンコフ、モロトフ、カガノーヴィチ、ブルガーニン、ヴォロシーロフ、ペルヴーヒン、サブーロフ)が賛成、4人(フルシチョフ、ミコヤン、スースロフ、キリチェンコ)が反対し、フルシチョフは失脚の危機に追い込まれます。

 しかし、フルシチョフは、第一書記たる自分は中央委員会によって選出された以上、解任できるのも中央委員会のみであると主張。ゲオルギー・ジューコフ国防相(幹部会員候補)とイワン・セーロフKGB議長の協力を取り付け、反フルシチョフ派の工作が及ぶ前に各地の中央委員をモスクワに招集。この結果、党中央委員会総会では形勢が逆転し、中央委員の大多数はフルシチョフを支持し、逆に反対派の行為を厳しく批判。反フルシチョフ派は“反党グループ”として党役職を解任されました。

 こうした情勢でしたから、フルシチョフが主導してきたミサイル開発の“失敗”は、単にコロリョフら技術者の責任が問われるだけでなく、反フルシチョフ派に対してフルシチョフ批判の口実を与え、新たな政争の火種となりかねません。

 そこで、1957年8月21日、バイコヌール基地から打ち上げられた5機目のR-7が6800km飛翔してカムチャッカ半島へ着弾し、一定の成果を上げると、コロリョフは大胆な賭けに出ました。

 すなわち、R-7を大陸間弾道弾としてではなく、人工衛星PS打ち上げ用のロケットとして打ち上げることができると提案したのであす。

 PSを打ち上げるのであれば、宇宙空間に衛星を放出してしまえば大気圏に再突入する必要はありませんので、ノーズコーンの不具合は問題になりません。それゆえ、R-7は(大陸間弾道弾としては未完成であっても)ロケットとしては完成されたものであると主張が可能です。さらに、コロリョフは党幹部の前で「ソ連は、(米国に先んじて)世界で最初に人工衛星の打上げを行う国家を目指さなくてよいのか」と獅子吼し、渋る幹部たちを説得しました。人工衛星そのものにはほとんど興味のなかったフルシチョフも、ともかくも、自分の支援してきたミサイル開発が一定の成果を上げていることを見せる必要がありましたから、コロリョフの提案を認めざるを得ませんでした。

 後に、世界初の人工衛星として歴史に名を残すことになるスプートニク1号の打ち上げは、こうして、慌ただしく決められます。

 今回ご紹介の切手が純然たる天体観測の図案となっており、ロケットやそれに類するものが全く描かれていないのは、この切手が制作・発行された時点では、上記のような事情から、ソ連当局でさえ、国際地球観測年の事業として、本当に人工衛星を打ち上げられるかどうか、懐疑的だったことによるものです。

 かくして、1957年10月、人工衛星PSを搭載した通算6機目のR-7が打ち上げらることになりました。当初の打ち上げ予定は6日に設定されていましたが、米国がこの日に衛星を打ち上げるのではないかとの情報があり、急遽、打ち上げ日は4日(モスクワ時間)に繰り上げられます。

 ちなみに、この時点では、関係者の圧倒的多数にとっては、R-7が正常に飛ぶか否かこそが最大の関心事であり、PSの成否はほとんど眼中になかったとの証言が少なからず残されています。
 

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 納めの觀音
2017-12-18 Mon 10:51
 きょう(18日)は、今年最後の觀音様の縁日“納めの觀音”の日です。というわけで、今年お参りした觀音様にちなんで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      阿伏兎觀音

 これは、1939年4月20日に発行された「大山・瀬戸内国立公園」の切手のうち、阿伏兎觀音(磐台寺觀音堂)を取り上げた10銭切手です。

 大山国立公園と瀬戸内国立公園は、もともとは全く別の国立公園ですが、1936年2月1日に指定された大山国立公園は大山を中心に地域が限られており、単独で4種類のセットとして発行することが難しかったため、近隣の瀬戸内国立公園との組み合わせで4種セット(うち、大山国立公園は1種のみ)で発行されました。

 瀬戸内国立公園は、1934年3月16日、雲仙国立公園(現・雲仙天草国立公園)、霧島国立公園(現・霧島錦江湾国立公園)とともに、日本初の国立公園として指定されました。当初の区域は、小豆島の寒霞渓、香川県の屋島、岡山県の鷲羽山、広島県の鞆の浦・沼隈町周辺の備讃瀬戸を中心とした一帯に限られていましたが、その後、区域が拡張され、現在の区域は和歌山市から北九州市にまで及ぶ広大なものとなっています。

 阿伏兎觀音は、鞆の浦の西に4キロ、沼隈半島の南端の突端にある盤台寺(臨済宗)の觀音堂で、986年、花山法皇が周囲一帯の海上を往来する船の航海安全を祈願して、岬の岩の上に十一面観音の石像を安置したのが開基とされています。なお、本尊の十一面観音は、航海安全の他、子宝と安産の祈願所として、地元の信仰を集めています。

 その後、一時的に觀音堂は荒廃しましたが、元亀年間(1570-73年)、毛利輝元によって室町時代の建築様式で再興され、福山藩主の水野勝種により、現在の境内の姿が整えられました。海に突き出した急峻な岩肌に鎮座する朱塗りの観音堂は古くから景勝地として知られ、歌川広重の浮世絵や志賀直哉の小説「暗夜行路」の中でも取り上げられているほか、国の重要文化財にも指定されています。

 ことし9月、僕は「日本のこころタウンミ-ティング in 福山」のスピーカーとして、広島県福山市に行ったのですが、講演の翌日、地元の方のご案内で、切手に取り上げられた觀音堂を参拝してきました。

 お寺の入口には、1926年に皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が鞆の浦から尾道まで海路を移動する際、ここを行啓されたことを示す記念碑が立っていました。碑文には、「殿下が広島県知事以下、奉迎の人々に会釈されたことに、一同、大いに感激し、その感動を多くの人に伝えるために碑を建立した」との趣旨の文章が刻まれています。(下の画像)

      阿伏兎觀音・行啓記念碑

 碑文を通り過ぎて、境内の入口で入場券を買ったチケット(下の画像)には、切手とほぼ同じ構図、会場からの觀音堂の写真が取り上げられています。

      阿伏兎觀音チケット

 チケットではトリミングされてほとんど見えませんが、切手では、画面右側の小岩の上に小さな仏塔(下の画像左)が見えます。觀音堂のお参りの前に、まずは、その塔のところに行ってみました。塔の中には、小さな石仏が安置されています。(下の画像右)

      阿伏兎觀音・塔   阿伏兎觀音・石仏

 ちなみに、この仏塔の奥に回り込んだところからは、觀音堂の全景がこんな風に見えます。

      阿伏兎觀音・觀音堂
      
 切手に取り上げられた觀音堂へは、境内の客殿裏手から続く石段を上って行くことになります。階段を上りきって觀音堂に入り、回廊の傾いた床板の上に立つと、こんな感じで瀬戸内の海が間近に眺められます。

      阿伏兎觀音・回廊

 そして、回廊を回って、海に面したお堂の正面に行くと、御本尊の前には、子宝と安産の觀音様ということで、壁一面に、奉納された“おっぱい絵馬”が飾られていました。(下の画像)

      阿伏兎觀音・本殿

 この光景ゆえに、阿伏兎觀音は“おっぱい觀音”とも呼ばれているそうです。国立公園切手だけ見ると、厳しい自然環境の中にたたずむ孤高の觀音堂といった風情の阿伏兎觀音ですが、大量の“おっぱい絵馬”を見てしまうと、そちらのインパクトが強烈すぎて、觀音堂に対するイメージがガラッと変わってしまいました。やはり、こういうのは、現地で実物を見てみないと得られない体験ですね。

 遅ればせながら、お忙しい中、僕のわがままを聞いていただき、現地までご案内いただきました「日本のこころタウンミ-ティング in 福山」のスタッフ、ご関係者の方には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。


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 ミハイ元国王の国民葬
2017-12-17 Sun 11:40
 今月5日、スイスで崩御されたルーマニア王国最後の国王、ミハイ陛下(以下、ミハイ)の国民葬が、きのう(16日)、ブカレストで行われました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ルーマニア・ソヴィエト・ルーマニア会議(1947)

 これは、王政末期の1947年10月30日に発行された“ソヴィエト・ルーマニア会議”の記念切手で、国王の肖像とクルテア・デ・アルジェシュ聖堂を描く当時の普通切手に、会議名と会期、5レウの寄付金額が加刷されています。

 ミハイ元国王は、1921年に皇太子カロル(後のカロル2世)の長子として生まれました。当時の国王は祖父のフェルディナンドでしたが、国王は1927年に崩御。このため、本来であれば、父のカロルがカロル2世として即位するはずでしたが、父親は恋愛関係のもつれから王位継承権を放棄して愛妾とともに国外へ逃亡。このため、孫のミハイが6歳で王位を継承しました。

 ところが、3年後の1930年、カロルは突如帰国し、息子を退位させて自分が国王カロル2世として玉座に収まってしまいます。その後、カロル2世は独裁体制を強化していきましたが、1939年に勃発した第二次大戦でルーマニアは多くの領土を失ったため、1940年に退位を余儀なくされました。これを受けて、ミハイが父親のしりぬぐいをするかたちで復位するという経緯をたどっています。

 1941年6月、いわゆる独ソ戦が始まると、ルーマニアはソ連に奪われた旧領の回復をめざし、枢軸国側に立って参戦。しかし、次第に戦況はドイツ降りに傾いていったことから、1944年8月23日、ミハイは宮廷クーデターを起こして、親独派のイオン・アントネスク政権を追放するとともに、一転してドイツに対して宣戦を布告し、同年9月には連合諸国との休戦協定を締結しています。

 戦後、ルーマニアは敗戦国となることはなんとか免れたものの、国土にはソ連軍が進駐し、ルーマニア軍兵士13万人が捕虜としてソ連に抑留されました。ソ連占領当局は、国王に対して親共産党政府の任命を強要しましたが、国王はこれをかたくなに拒否。今回ご紹介の切手は、そうした状況の中で行われた、ソ連とルーマニアとの会議にあわせて発行されたもので、国王の反共姿勢に業を煮やしたルーマニア共産党のゲオルゲ・ゲオルギュ=デジらは、1947年12月30日、シナイアの離宮にいた国王をブカレストに呼びつけ、銃口を突きつけて退位文書への署名を強要しました。これにより、ルーマニア王国は崩壊し、未配ら王族はスイスへ亡命を余儀なくされました。
 
 スイス亡命後のミハイは、一時、ホーエンツォレルン公を名乗ったものの、基本的にはルーマニア国王を名乗り続けました。1989年のルーマニア革命後、1992年に一時帰国を許され、1997年には50年ぶりに市民権を回復。スイスとルーマニアを往来する生活を送っていました。

 2001年7月には娘のマルガレータ王女とともに共和国政府より特別の地位を与えられ、住居・生計・活動費すべてが国庫で保証されるようになり、ルーマニア政府も“陛下”の敬称を公式に復活させています。また、2011年10月25日の90歳の誕生日に際しては、退位後初となるルーマニア議会での演説を行い、「国家としての誇りの回復」、「民主主義の強化」を呼び掛けています。

 このように、晩年のミハイは、ルーマニア国民にとっての“統合の象徴”として敬愛の対象となり、今月5日の崩御を受けて11日にルーマニア議会で行われた追悼式典では、王制廃止後初めて、議場でルーマニア王国国歌「国王万歳」が流されました。

 謹んで、御冥福をお祈りいたします。
 
 なお、ミハイ元国王とその時代については、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。
 

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 ヒトラーに屈しなかった国王
2017-12-16 Sat 02:09
 第二次大戦中、ナチス・ドイツに最後まで抵抗し続けたノルウェー国王、ホーコン7世の実話を描いた映画『ヒトラーに屈しなかった国王』が、きょう(16日)から公開されます。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ノルウェー・ホーコン7世(1909)

 これは、1909年にノルウェーで発行されたホーコン7世の切手です。

 ホーコン7世は、1872年8月3日、デンマーク国王フレデリク8世の次男として生まれました。元の名はクリスチャン・フレゼリク・カール・ゲオルク・ヴァルデマー・アクセルで、カール王子と呼ばれていました。

 1905年、ノルウェーがスウェーデンとの同君連合を解消して独立するとノルウェー国王に選ばれ、ノルウェー風にホーコンと改名し、首都クリスチャニア(現オスロ)で即位します。

 ノルウェー国王となったホーコン7世は、外国人である自分が国民に受け入れられるよう努め、一般国民とも積極的に接しました。たとえば、バスに一人で乗った際、同乗の女性から「どこかでお見かけしたことがありますね」と言われ、 「国王のホーコンです。新聞で私の写真を見られたのでしょう」と応じたというエピソードや、ある男性を接見した際には、「すみません。私は王様とお話しすることに慣れていませんので…」と緊張している男性に対して「私もまだ国王になったばかりで、慣れていないのです」と応じたというエピソードなどは、国王の気さくな性格を物語るものとして知られています。

 ちなみに、今回ご紹介した切手の発行された1909年は、日本では、八甲田雪中行軍遭難事件が起きた年ですが、遭難のニュースを聞いたホーコン7世は「我が国で冬季に使っているスキー板があれば、このような遭難事故は起こらなかったのではないか」と考え、明治天皇宛にスキー板2台を事故に対する見舞いを兼ねて贈呈。これがきっかけとなり、日本とノルウェーのスキー交流が始まりました。

 こうして、もともとは“外国人”だった国王は、次第に、ノルウェー国民の敬愛を集めるようになります。そして、第二次大戦中の1940年、ドイツ軍の侵攻により、ノルウェーが占領されると、6月7日、国王はノルウェー政府とともにロンドンに亡命。「すべてをノルウェーのために」をスローガンとして“自由ノルウェー”を立ち上げ、BBCラジオを通じて、ノルウェー国民に希望を捨てないように訴え続けました。

 1945年5月8日、ドイツが降伏すると、亡命から5周年にあたる6月7日、国王はノルウェーに帰国。以後、1957年に崩御するまで、ノルウェー国民の精神的な支柱であり続けました。


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 ユダヤ人を救った動物園
2017-12-15 Fri 11:35
 第二次世界大戦下のポーランドを舞台に、ワルシャワ動物園の経営者夫婦がナチスドイツに迫害されるユダヤ人たちを園内にかくまった実話に基づくポーランド映画『ユダヤ人を救った動物園~アントニーナが愛した命』が、きょう(15日)から公開されます。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ポーランド・ワルシャワ動物園50年葉書

 これは、ポーランドが発行した“ワルシャワ動物園50周年”の記念葉書で、ヨーロッパ・バイソンがデザインされています。ヨーロッパバイソンは、かつてはヨーロッパ西部からロシアのレナ川以西まで分布していましたが、すでに純粋な野生種は絶滅し、現在では、ポーランドとベラルーシの国境地帯にまたがるビャウォヴィエジャの森に純粋種が再導入され、約400頭が棲息するのみとなっています。ポーランドを代表するウォッカ“ズブロッカ(ポーランド語ではジュブルフカ)”は、ヨーロッパバイソンを意味するポーランド語の“ジュブル”がその名の由来ですが、これは、ビャウォヴィエジャの森でとれるバイソングラスを使っていることによるものです。

 さて、現在のワルシャワ動物園は1928年3月11日に開園したということになっていますが(今回ご紹介の葉書もここから起算して発行されたものですが、実際の発行は1979年にずれ込みました)、その起源は、選挙王政時代のポーランド王、ヤン3世ソビェスキ(在位1674-96年)の時代、王室の私的な庭園で飼育されていた動物を一般公開していたことに求められます。また、19世紀には、ロシアの支配下でワルシャワ市内にいくつかの小規模な私立動物園が営業していました。

 ポーランド再独立後の1926年、市内のコシコヴァ通りにパゴウスキが小規模な動物園を開園。同園は、翌1927年、マヤ通りの1万平米の敷地に移転。キエフ動物園の創立者で園長のブルジンスキを招いての動物公園としての整備工事を経て、1928年3月、ブルジンスキーを園長として再オープンしました。

 ところが、1928年末、ブルジンスキが急死。このため、動物学者のヤン・ジャビンスキが後任の園長に就任し、彼の下で、サル舎、ゾウ舎、レイヨウやキリンのスペースなどが設けられました。

 1939年、第二次大戦が勃発し、ドイツ軍がワルシャワを占領すると、占領ドイツ軍は戦利品として“重要”とみなした動物をショルフハイデ自然保護区に移送。ドイツ軍から“無価値”とみなされた動物は射殺され、動物園も閉鎖に追い込まれました。

 こうした状況の中、ヤンとその妻アントニーナ、息子のリシャルトは300人のユダヤ人を園内に匿い、ホロコーストの被害から救ったというエピソードは、2007年、米国の詩人のダイアン・アッカーマンがノンフィクション作品 The Zookeeper's Wife (邦題『ユダヤ人を救った動物園 ヤンとアントニーナの物語』)として発表。これを基に制作された映画『ユダヤ人を救った動物園』は、2017年3月8日、ワルシャワで世界初上映され、米英での公開に続き、今回、日本でも公開されることになったというわけです。

 ちなみに、ヤンは1944年のワルシャワ蜂起で負傷し、ドイツ軍の捕虜となりましたが、戦後の1949年に動物園が再開されると、園長として復職。1951年まで園長を務めた後、ホロコーストからユダヤ人を救出した功績に対して、イスラエルから“ポーランド人の正義の人”に認定されています。

 なお、第二次大戦中のポーランドとユダヤ人のホロコーストの問題については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でもいろいろな角度から書いておりますので、機会がありましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。 


★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★★

 12月14日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」第12回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、12月28日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。
 
 なお、14日放送分につきましては、21日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


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 切手でひも解く世界の歴史(12)
2017-12-14 Thu 06:47
 本日(9日)16:05から、NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第12回が放送される予定です。(番組の詳細はこちらをご覧ください)。今回は、先日のトランプ大統領によるエルサレムの首都認定にちなんで、「エルサレム 切手と現代史」と題して、こんなモノもご紹介しながら、お話をします(画像はクリックで拡大されます)
 
      ヨルダン支配下の東エルサレム発ロンドン宛

 これは、1950年1月30日、ヨルダン支配下の東エルサレムからロンドン宛のエアメールです。

 第一次大戦後、パレスチナの地は英国の委任統治下に置かれ、エルサレムはその首府となりました。英領パレスチナは、1917年のバルフォア宣言に基づき、シオニストの移民を受け入れましたが、ユダヤ系人口の急激な増大は、在地のアラブ住民(パレスチナ人)との深刻な摩擦を生み出しました。
 
 1947年11月29日、国連でパレスチナ分割決議が採択されると、パレスチナは事実上の内戦に突入。1948年3月、シオニストたちは、分割決議で認められた“ユダヤ国家”の建設に向けて、テルアヴィヴにパレスチナのユダヤ人居住区を統治する臨時政府“ユダヤ国民評議会”を樹立し、英国撤退の軍事的空白を利用して、1948年5月のイスラエル建国に向けて、準備を進めていきました。

 イスラエルの建国宣言を受けて、周辺アラブ諸国はイスラエルに宣戦を布告し、第1次中東戦争が勃発。1949年2-7月、イスラエルとアラブ側の各国が個別に結んだ休戦条約の結果、これら各国とイスラエルとの停戦ラインが事実上の“国境”となります。これにより、いわゆるヨルダン川西岸地域はトランスヨルダンの支配下に置かれ、エルサレムに関しては、ユダヤ教キリスト教イスラムの三宗教の聖地がある旧市街=東エルサレムはヨルダンの支配下に、新市街の西エルサレムはイスラエルの支配下に入ります。

 今回ご紹介のカバーは、そうした経緯を経て、ヨルダンの支配下に置かれることになった東エルサレムから差し出されたもので、差出人はリターンアドレスとして“old city Jerusalem (エルサレム旧市街)”と記して、イスラエル支配下の西エルサレムとの区別を明らかにしています。

 貼られている切手は、1948年12月2日、ヨルダンがヨルダン川西岸の占領地で使用するため、本国切手に英語とアラビア語で“パレスチナ”と加刷して発行したもので、エルサレム旧市街のみならず、ラマッラー、ヘブロン、イェリコ、ジェニン、トゥルカレム、ベツレヘム、ナーブルス等の主要都市とその周辺で加刷切手を使用されました。

 一方、1950年には、イスラエル議会はエルサレムを首都と宣言して、テルアヴィヴの首都機能を西エルサレムに移転。13カ国が西エルサレムに大使館を設置するなど、国際社会もこれを認めていました。

 1967年の第三次中東戦争でイスラエルは東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区を占領して東西エルサレムを再統合し、“統一エルサレム”を“(イスラエルの)不可分の永遠の首都”とします。ただし、岩のドームのある“神殿の丘(ハラム・シャリーフ)”は歴史的にワクフ(イスラムに独特の財産寄進制度)の対象とされていることから、ヨルダン宗教省が引き続きその管理を行い、その域内ではユダヤ教徒とキリスト教徒による宗教儀式は原則禁止という変則的な状況となりました。

 さて、第三次中東戦争は、理由はどうあれ、イスラエル側の先制攻撃ではじまったことから、イスラエルによる占領地拡大の正統性については、アラブ諸国はもとより、社会主義諸国や中立諸国なども否定的で、同年11月22日の国連安保理はイスラエルの占領を無効とする安保理決議242を全会一致(中華民国、フランス、英国、米国、ソビエト連邦、アルゼンチン、ブラジル、ブルガリア、カナダ、デンマーク、エチオピア、インド、日本、マリ、ナイジェリア)で可決しました。

 ただし、同決議では撤退期限は定められず、経済制裁などの具体的なイスラエルへの対抗措置も行われなかったため、イスラエルは決議を無視し続け、1980年には、あらためて「統一エルサレムはイスラエルの永遠の首都である」との決議がイスラエル議会で採択されました。これに対して、1967年までエルサレムに大使館を置いていた各国も、イスラエルの東エルサレム併合に抗議してテルアヴィヴに大使館を移転しています。

 一方、パレスチナ側では、1988年11月15日、アルジェで開催されたパレスチナ国民評議会(PNC)で、PLOがテロを放棄し、イスラエルの存在を認めたうえで、東エルサレムを首都とする“パレスチナ国”の独立宣言が採択されています。これを継承するかたちで、1993年のオスロ合意を経て1994年に発足したパレスチナ自治政府も、“パレスチナ国家”の首都は東エルサレムであるとの主張を掲げています。

 なお、米国の二大政党である民主党と共和党が綱領でエルサレムをイスラエルの首都と認めており、1995年には連邦議会で大使館のエルサレム移転を認める法律も可決されています。ただし、歴代の政権は大使館のエルサレム移転は中東和平実現の障害になるとの観点から、同法の実施を半年ごとに延期するということで問題を先延ばしにしてきました。

 これに対して、昨年(2016年)の大統領選挙で、大使館のエルサレム移転を公約したドナルド・トランプが当選。トランプ大統領は、2017年6月には歴代政権の先例を踏襲して大使館の移転を半年延期しましたが、今回、公約通り、大使館の移転手続きを開始したというわけです。

 なお、このあたりの事情については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも縷々ご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は14日!★★

 12月14日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第12回が放送予定です。今回は、先日のトランプ大統領によるエルサレムの首都認定にちなんで、エルサレムのお話をします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。
 当初予定していた第二次大戦中のノルウェーについてのお話から内容が変更になりました。あしからずご了承ください。

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 世界の切手:中国
2017-12-13 Wed 11:05
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年11月29日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回は中国(と一部カンボジア)の特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      南京書信館

 これは、1896年3月に発行された“金陵(南京)書信館”の切手です。

 1842年、アヘン戦争の講和条約として南京条約が調印され、上海が開港されると、英国はさっそく租界(行政・治安を外国人が掌握し、清朝の主権が及ばない開港地内の地域)を設置します。これに続き、1847年に米国が上海に租界を設置(両者は1863年9月に合併)。さらに、フランスも、1849年、上海に租界を設置しました。

 これらの租界地区で行政機関として設けられていた(上海)工部局は、1863年2月、年50両(のちに30両に値下げ)を出資した外国人商社を対象に、郵便サービスを提供する機関として、いわゆる上海書信館を設置します。さらに、1865年以降は、郵便サービスを未加盟の商社や旅行者などにも拡大。これに伴い、利用者から料金を徴収するため、独自の切手も発行し始めました。

 その後、上海書信館は、1865年、寧波に分室を設けたのを皮切りに、漢口、福州、羅星塔、汕頭厦門、烟台、九江、宜昌、重慶、蕪湖、牛荘にまで郵便物の取扱を拡大。1893年5月、漢口の分局で、上海からの切手の供給が途絶えたのを機に独自の切手が発行されたのを皮切りとして、各地の書信館は独自の切手を発行するようになります。

 各地の書信館切手は、外国人相手の商品という面もあったため、ドイツや英国など、当時の最先端の印刷技術を持つ国々に製造が委託されていましたが、日本の東京築地活版製造所(以下、築地活版所)も製造を受注しています。

 築地活版所は、大量の布告文書を発していた明治政府への活字販売や、1872年末の太陽暦の採用にともなう新暦5万部の印刷、明治初年の新聞・雑誌の創刊ラッシュの中で急激に社業を拡大し、1883年には上海の出張所として修文書館を設立。さらに、その顧客網をアジア諸国にまで拡大し、書信館切手の製造も請け負うことになりました。

 築地活版所のは、1894年6月1日に発行された九江書信館の切手が最初です。その2ヵ月後の8月1日には日清戦争が勃発していますが、戦争最中の同年12月には宜昌書信館が、翌1895年3月には鎮江書信館が、さらに、日清戦争後の1896年9月には南京の書信館が、それぞれ、築地活版所製の切手を発行しています。

 この実績を基に、1897年、清朝の国家郵政が発足した際には、英国製の切手が到着するまでのつなぎとして、築地活版製造が切手の製造を受注し、日本製の中国切手が発行・使用されることになりました。

 さて、『世界の切手コレクション』11月29日号の「世界の国々」では、清朝国家郵政発足までの経緯をまとめた長文コラムのほか、八卦やドラゴン・ボートの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回の中国の次は、来週20日発売の12月27日号でのブータンの特集になります。こちらについては、発行日の27日以降、このブログでもご紹介する予定です。

 
★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は14日!★★

 12月14日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第12回が放送予定です。今回は、先日のトランプ大統領によるエルサレムの首都認定にちなんで、エルサレムのお話をします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。
 当初予定していた第二次大戦中のノルウェーについてのお話から内容が変更になりました。あしからずご了承ください。

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 フィリピンの慰安婦像?
2017-12-12 Tue 11:49
 フィリピンの首都マニラ市内に「日本軍占領時代(1942-45年)の“慰安婦”を象徴する」とされるフィリピン人女性の像が設置されていたことがきのう(11日)までに分かったとして、在フィリピン日本大使館がフィリピン政府へ抗議したそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      フィリピン・バタアンの戦い25年 フィリピン・女性像実物

 これは、1967年4月9日にフィリピンで発行された“バタアンの戦い25周年”の記念切手で、戦死者を前に悲しむ女性が描かれています。今回問題となった“女性像”(右の画像)と似たようなスタイルということで、取り上げてみました。

 1941年12月8日の日米開戦とともに、日本軍は米国の保護領であったフィリピンへの攻撃を開始します。

 アメリカは、日露戦争時より、フィリピンを防衛するため、日本を仮想敵国とするオレンジ戦略案を策定していましたが、現実には日米開戦時には米比軍(開戦直前、フィリピン軍は米極東軍に統合されました)の戦争準備は完了していませんでした。このため、米比軍の司令官であったダグラス・マッカーサーは、マニラの非武装都市を宣言してバタアン半島方面に撤退。日本軍は1942年1月2日、マニラに無血入城しました。

 その後、3月17日にマッカーサーはフィリピンを脱出し、“アイ・シャル・リターン”と語ってオーストラリアで再起を期していましたが、バタアン半島では、米比軍がジャングルの地形を利用して日本軍に激しく抵抗していました。そして、5月6日、ついに日本軍は半島全域を占領。バタアン・コレヒドールでの勝利は、真珠湾攻撃やシンガポール攻略と並び、日本軍の輝かしい戦果の代表的な事例として、大々的に宣伝されました。

 一方、バタアン半島で捕虜となった米比軍8万人は、バターン半島からサンフェルナンドまで約60キロの距離を徒歩で行軍させられましたが、この間、炎熱や疲労、食糧や衣料品の不足などから、1200人の米兵と1万6000人のフィリピン兵、さらに民間人抑留者が亡くなっています。この移送は“バターン死の行進”と呼ばれ、日本軍の残虐行為を示すものとして、いわゆる南京事件などと共に連合国側によって大きく報じられました。

 ただし、いわゆる“死の行進”の実態は、日本軍が積極的に捕虜を虐待したというよりも、食糧・医薬品の不足と無理な行軍スケジュールのゆえに、結果として、多くの犠牲者が生じたと理解すべきものでしょう。もちろん、捕虜の管理者として、多大な犠牲者を出した日本側の責任は免れるものではありませんが、基本的には、重過失という性格のものと考えるのが妥当と思われます。しかし、米国にとっては、敵国日本に対する国民の敵愾心を煽り立てるためにも、“死の行進”は日本軍の残虐性を示す格好の素材として活用されることになりました。 

 さて、今回、問題となった女性像は、マニラ市のマニラ湾に面したロハス通り沿いのベイウォークと呼ばれる遊歩道上にあり、高さは約2メートル。政府機関“フィリピン国家歴史委員会(学者らで構成され、歴史的建造物への碑文設置などを行う)”が、現地の民間団体などの支援を得て建立されました。8日に行われた除幕式では、エストラーダ市長の代理人が「私たちは慰安婦の苦境を忘れない」との声明を読んだそうです。

 もっとも、この像の台座に刻まれているタガログ語の碑文には「1942年から1945年の日本の占領下で虐待の被害にあったすべてのフィリピン人女性の記憶」と記載されているものの、いわゆる“慰安婦”については一言も触れていません。先の大戦で、フィリピンが戦場となり多くの犠牲者・被害者が生じたことや、日本軍の占領下で過酷な生活を強いられたフィリピン人が多数いたことはまぎれもない事実ですから、その中に“慰安婦”を含めるか否かとは別の次元で、そうしたより広い意味での戦争犠牲者の女性を対象とした像を、単純に“慰安婦像”と断定してしまうのは無理があります。

 もちろん、この像の建立に際しては、“フィリピン人慰安婦”の支援団体や中華系財団などが少なからぬ資金を拠出しており、彼らは、“慰安婦問題”で日本を非難するためにこの像を活用しようと考えているのでしょうが、上述のように、それはこの像の本来の趣旨とは一致しません。むしろ、そうした連中のプロパガンダに脊髄反射して、十分な調査もせずに、“慰安婦像”に対して抗議したりすると、かえって、フィリピン政府を当惑させ(なにせ、碑文の通りであれば、フィリピン政府はこの像を“慰安婦像”とは認識していないのですから)、日比間の関係を悪化させようとの悪意を持った連中の術策にはまってしまうのではないかと、僕などはそちらの方に不安を感じます。

 なお、第二次大戦中のフィリピンについては、拙著『大統領になりそこなった男たち』のマッカーサーの章でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。  
 

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 映画『アイラ』のモデル亡くなる
2017-12-11 Mon 01:20
 朝鮮戦争に参戦した元トルコ兵で、今年の米アカデミー賞外国語映画賞の出品作に選ばれた映画『アイラ(Ayla)』のモデルにもなったスレイマン・ディルビルリー氏が多臓器不全のため、今月7日、亡くなっていたことがわかりました。享年91歳。謹んでご冥福をお祈りしつつ、きょうはこの切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      トルコ・朝鮮戦争参戦

 これは、1952年9月25日、朝鮮戦争に参加したトルコ兵の活動をアピールするため、トルコが発行した切手のうち、朝鮮の子供を肩に載せて本を読み聞かせているトルコ兵を描いた30クルシュ切手です。

 1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、早くも4日後の29日、反ソ・反共感情がきわめて強かったトルコ政府は韓国を支援し、国連加盟国としての責任を果たす用意があることを表明。7月25日には5000名規模の1個旅団の派遣を決定します。

 トルコ軍部隊としては、1950年10月12日、先にイスケンデルン港を出発していた第241歩兵連隊の先遣隊が釜山に到着。次いで、同月17日に本隊が到着し、大邱で米軍から装備の支給と軍事訓練を受け、1950年11-12月の軍隅里の戦いに参加しました。

 軍偶里は、安州(北朝鮮・平安南道西北端の炭鉱都市)の東北方22キロの地点にあり、1950年10月30日、38度線を越えて北進した米第8軍第2軍団が本部を設営していました。

 ところが、翌31日から、林彪ひきいる中国人民志願軍第38軍が軍隅里への攻撃を開始し、韓国第2軍は崩壊。さらに、11月26日、軍隅里=順川間の道路に中国人民志願軍が侵入したことで、米第9軍団は側面攻撃の危機にさらされました。このため、軍隅里に駐屯していたトルコ旅団は徳川(平安南道)の奪回に向かい、翌27日は中国人民志願軍の激しい攻撃を受けながらも徳川の西にとどまります。

 これに対して、11月29日、中国第38軍が軍隅里のトルコ旅団を攻撃。軍隅里以東の韓国・国連軍は壊滅的な打撃を受け、順川まで後退したものの、トルコ旅団は取り残されました。しかし、トルコ旅団は四方の敵に大損害を与えて脱出に成功。さらに、順川も守り抜き、国連軍を全滅から救いました。

 このほかにも、トルコ軍は数々の激戦に参加しましたが、装備が旧式で車両の保有数が少なかったこともあって、1953年7月の休戦までの間に、米軍に次ぐ721名の戦死と2147名の負傷という大きな犠牲を払っており、米国は彼らに“名誉勲章”を、韓国は“連合勲章”を贈って、その功を称えています。

 ちなみに、国連軍参加各国のうち、ムスリム(イスラム教徒)が多数を占めていたのはトルコ軍のみでしたが、米軍から国連軍参加各国の兵士に支給されるレーション(野戦食のパッケージ)の中には宗教上の理由からトルコ軍の将兵が口にできない豚肉なども少なからずありました。このため、戦争の兵站基地となった日本で調理師が雇用され、トルコ軍専用のレーションが作られています。

 さて、亡くなったディルビルリー氏は、朝鮮戦争に従軍中、爆撃で両親を亡くし孤児となったキム・ウンジャさん(当時5歳)を救い、トルコに帰国するまで、彼女に“アイラ”というトルコ語の名前を付け、保護していました。ディルビルリー氏の帰国後、2人の連絡は途絶えていましたが、2010年、ドキュメンタリー制作者の支援で再会。その経緯を基にしたトルコ映画『アイラ』は、公開5週間で興行収入5000万トルコ・リラ(約15億円)、観客動員数は400万人超という大ヒット作となりました。

 なお、トルコ軍をはじめ、朝鮮戦争に参加した各国の活動については、拙著『朝鮮戦争』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は14日!★★

 12月14日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第12回が放送予定です。今回は、12月16日から公開予定の映画『ヒトラーに屈しなかった国王』にちなんで、第二次大戦中のノルウェーについてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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 イラク全土、解放宣言
2017-12-10 Sun 14:40
 イラクのハイダル・アバディ首相は、きのう(9日)、“イスラム国”を自称する過激派組織、ダーイシュを国内から一掃し、全土を解放したとして「戦争の終結」を宣言しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イラク・モスル解放(2017)

 これは、今年(2017年)、イラクで発行されたモースル解放の記念切手です。

 2003年の“イラク戦争”によってサダム・フセイン政権が崩壊した後、イラクは米英を中心とする有志連合の軍事占領下に置かれ、連合国暫定当局(CPA)によって統治されていましたが、2004年6月28日、国家の主権は暫定政権に移譲されました。これに伴い、有志連合軍は国際連合の多国籍軍となり、治安維持などに従事することになります。

 2005年1月30日に行われた議会選挙の結果、3月16日に国民議会が召集され、10月25日、新憲法が可決承認されます。これに伴い、12月15日、新生イラクの正式政府発足に向けた議会選挙が行われましたが、政権を巡りスンニ派とシーア派、クルド人勢力の対立から治安が極端に悪化し、イラク国内は実質的に内戦状態に突入しました。

 当時、イラク国内でテロ活動を展開していたイスラム過激派としては、“イラクの聖戦アル・カーイダ組織”が最大のものでしたが、この組織は、2006年1月、外国人義勇兵とイラク人民兵の対立から“ムジャーヒディーン諮問評議会”と改称。さらに、同年10月には他組織と統合し、“イラクのイスラム国(ISI)”を自称するようになりました。

 ISIは、2009年以降、バグダードをはじめ国内各地で自爆テロを実行し、多くの民間人を殺傷していましたが、2013年4月、ISIの指導者、アブー・バクル・バグダーディーは、シリアで活動するヌスラ戦線がISIのの下部組織であり、両者と合併して“イラクとレヴァントのイスラム国(ISIL)”ないしは“イラクとシリアのイスラム国(ISIS)”に改称すると宣言します。ちなみに、ダーイシュというのは、そのアラビア語のالدولة الاسلامية في العراق والشام‎の頭文字をとった呼称です。

 さて、ダーイシュはシリアの反アサド政権組織から武器の提供や、戦闘員の増員を受けて、急速に軍事力を強化し、2013年12月30日のイラク西部アンバール県ラマーディーから侵攻を開始し、2014年1月にはラマーディーと同県の都市であるファルージャを掌握、3月にはサーマッラーを襲撃しました。さらに、6月10日にはモースルを陥落させたほか、同月17日にはバグダード北東約60キロのバアクーバまで進撃。6月29日には、バグダーディーを“カリフ”として、当時、彼らの勢力が及んでいたシリア北部のアレッポからイラク中部のディヤラ州までを領域とする“イスラム国”の樹立を一方的に宣言します。

 これに対して、同年8月7日、フランスの求めにより国連安保理の緊急会合が非公式で開催され、ダーイシュによる攻撃で、危機に直面しているイラクを支援することが呼び掛けられました。これを受けて、翌8日、米国がイラク国内のダーイシュ拠点に対して空爆を開始すると、フランス、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、バーレーンも作戦参加表明。9月19日には、国連安保理が全会一致でISILの壊滅に向けて対策強化を求める議長声明を採択しました。

 以後、3年半に及ぶ掃討作戦により、一時はイラク国土の4割を支配していたダーイシュは次第に追い詰められ、イラク軍は、ことし7月にはモースルを、11月17日には最後の拠点都市だった西部ラワをダーイシュから撤退。その後は、国境付近の砂漠地帯で、組織一掃のための作戦が行われていました。
 

 * けさ、アクセスカウンターが186万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。

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 12月14日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第12回が放送予定です。今回は、12月16日から公開予定の映画『ヒトラーに屈しなかった国王』にちなんで、第二次大戦中のノルウェーについてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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 第1次インティファーダ30年
2017-12-09 Sat 11:22
 1987年12月9日に第1次インティファーダが始まってから、きょうで40周年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      リビア・インティファーダ支持

 これは、1988年にリビアがインティファーダ支持の意思を示すために発行した“パレスチナの石の革命”の切手で、中央には岩のドームのシルエットを背景に投石する少年が描かれています。

 1967年の第三次中東戦争以来、イスラエルの占領下に置かれつづけてきたヨルダン川西岸とガザ地区では、占領から20年が経過した1987年になると、大いに閉塞感が漂っていました。

 すなわち、レバノン南部では1985年にヒズブッラーの“殉教作戦(自爆テロ)”によって、部分的にせよ、イスラエル軍を占領地から撤退させることに成功していましたが、ヨルダン川西岸とガザ地区の状況には何ら変化がありませんでした。

 また、1985年にPLOとヨルダン政府の間で成立したアンマン合意も、結局、PLO内部の反アラファト派が国連決議第242号に謳われた“イスラエルの生存権承認”の一項を頑として認めなかったため、1986年、ヨルダンはこれを白紙撤回し、和平工作の中断を宣言しています。

 こうして、パレスチナ住民の不満と閉塞感が鬱積していく中で、1987年12月8日、ガザ地区で、帰宅途中のパレスチナ人が乗った車が反対車線に乗り入れたイスラエルの軍用トラックと正面衝突し、パレスチナ人4名が死亡し、7名が重軽傷を負う交通事故が発生。ちなみに、この時の事故で、軍用トラックの乗員は全員無傷でした。

 この事件を機にガザ地区の空気は一挙に緊張。翌9日、難民キャンプの一パレスチナ人青年が、日頃の鬱積した不満からイスラエル兵に投石したことをきっかけに、パレスチナ住民とイスラエル兵との大規模な衝突に発展しました。

 その際、イスラエル兵が17才のパレスチナ人少年を射殺したことから、パレスチナ人住民は憤激。少年の葬儀は、やがて、自然発生的な暴動となり、大量の石やガラス瓶などがイスラエル兵に向かって投げつけられることになります。

 こうして、イスラエル軍の催涙ガスやゴム弾に対して、投石と火炎瓶で抵抗する“石の革命”、インティファーダ(アラビア語の原義は蜂起)が始まり、イスラエルの占領下で生まれ育った十代の少年を中心に、ヨルダン側西岸とガザ地区のイスラエル占領地域全域で、老若男女を問わず、パレスチナ住民による抵抗が拡大しました。

 イスラエルにとって、インティファーダを鎮圧するための膨大なコストは経済を大きく圧迫。さらに、インティファーダに共感するイスラエル本土のパレスチナ人の大規模なストライキが頻発したこともあって、1987年には5.2%だったイスラエルのGDP成長率は、インティファーダ発生後の1988年には1%台に急落しています。

 また、強圧的な弾圧によってインティファーダを鎮静化できなかったことで、イスラエルは、パレスチナ人による自治権の要求は武力で抑え込めるものであり、考慮の必要はないとするそれまでの前提を再検討せざるを得なくなりました。

 さらに、“石つぶてで銃に立ち向かう少年たち”の姿が国際社会の耳目を集めるようになったことで、従来、欧米がイスラエルに対して持っていた“野蛮なアラブ世界に対する西洋文明の防波堤”もしくは“中東唯一の民主国家”とのイメージも大きく揺らぎます。1967年12月の国連決議を無視してヨルダン川西岸とガザ地区の占領を続け、抵抗する少年たちに銃撃するイスラエル軍に対しては、アラブやムスリムだけでなく、西側諸国からも強い批判がありました。『旧約聖書』のダヴィデとゴリアテの物語になぞらえるのなら、ダヴィデの子孫を自称するイスラエルこそが現代のゴリアテであり、パレスチナ人の青年たちがダヴィデであるかのように感じたクリスチャンも多かったのです。

 一方、インティファーダの発生はPLOの指導部にも大きな衝撃を与えています。

 インティファーダの参加者たちは、イスラエルの存在を認めた上で、パレスチナ人としての権利を獲得することを主張していましたが、これは、パレスチナを遠く離れたテュニスを本拠に、イスラエルを破壊してパレスチナ全土を解放するというPLOの非現実的な路線の転換を求めるものだったからです。すくなくとも、PLOが“パレスチナ”を代表する存在ではないことを、ほかならぬパレスチナ人がみずから示したことのインパクトは大でした。

 こうした情勢の変化を受けて、インティファーダ発生から約1年後の1988年11月、アルジェで開催されたパレスチナ国民評議会(PNC)では、東エルサレムを首都とする“パレスチナ国”の独立宣言を採択。イスラエルの存在そのものを否定する従来の路線を放棄する代わりに、インティファーダで獲得した国際的認知を国家樹立という具体的な成果に転化することがPLOの新たな基本方針となりました。

 さらに、アルジェでのPNC開催から1ヶ月後の1988年12月、ジュネーヴで開かれた国連総会に出席したアラファトは、イスラエルの承認とテロの放棄などを言明して、国際社会、特に米国の支持を取り付けようとします。しかし、長年にわたってテロ活動を展開してきたPLOとアラファトに対するイスラエルの不信感は容易には拭いがたかったことに加え、もはや弱体化したPLOを完全に見下していたイスラエルは、PLOの歩み寄りに対して冷淡な姿勢をとりつづけました。

 その一方で、レバノン侵攻作戦の挫折とインティファーダの発生により、イスラエルにおいても、パレスチナ人を武力で弾圧するだけでは問題が解決しないことを認識する勢力も出てくるようになりました。

 ところで、1987年12月に第一次インティファーダが発生すると、パレスチナのイスラム主義勢力もこれに加わり、武装闘争を展開するようになります。

 1970年代以前のパレスチナでは、反イスラエルの武装闘争は世俗主義を掲げるPLO系の組織が中心で、ムスリム同胞団は主として救貧や医療などの社会活動を担い、武装闘争には慎重でした。ところが、第一次インティファーダが勃発すると、ムスリム同胞団パレスチナ支部は、1987年12月14日、アフマド・ヤースィーンを中心に行動組織の“イスラム抵抗運動”を結成しました。

 イスラム抵抗運動は、アラビア語では“ハラカ・ムカーワマ・イスラーミーヤ”となり、そのアラビア文字の頭文字を取って“ハマース”との略称が広く通用するようになります。なお、ハマースという単語自体は、アラビア語で“激情”を意味します。

 当初、イスラエルはPLOの対抗勢力としてハマースの創設を背後から支援したとも言われていますが、結果的に、ハマースはジハード運動と共に、パレスチナでの反イスラエルの武装闘争の急先鋒として、ガザ地区を拠点に勢力を拡大。1990年代以降のパレスチナ問題における主要なプレイヤーとなっていきます。

 なお、第1次インティファーダ以降のパレスチナ現代史については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しく解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 富岡八幡宮の切手
2017-12-08 Fri 14:34
 きのう(7日)午後8時半ごろ、東京都江東区にある富岡八幡宮の敷地内で、女性宮司の富岡長子さんと彼女の運転手が富岡さんの弟とその妻とみられる女性に日本刀で襲われ、富岡さんは死亡、運転手は負傷し、弟と女が自殺する事件がありました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      深川八幡祭

 これは、2009年8月10日、ふるさと切手「ふるさとの祭 第2集」として発行された深川八幡祭の切手で、右側の切手に富岡八幡宮の本殿が描かれています。

 富岡八幡宮は、1627年、菅原道真の末裔といわれる長盛法印が神託により、当時永代島にと呼ばれた小島に創祀したのが始まりとされ、当初は“永代嶋八幡宮”と呼ばれていました。1683年には火災で焼失しましたが、翌1684年、寺社奉行の許しを得て、初めて勧進相撲が行われました。このため、江戸勧進相撲発祥の神社として、現在も新横綱誕生のおりの奉納土俵入りなどの式典が執り行われるほか、相撲にまつわる数々の石碑が建っています。

 その後、1703年の地震による損壊、関東大震災による損壊、1945年3月の東京大空襲の被害など、創建以来、再建や修復を繰り返しており、切手に取り上げられた現在の社殿は、1956年、鉄筋コンクリートを使用した、重層型準八幡造りのものとなっています。

 切手に取り上げられた深川八幡祭は富岡八幡宮の祭礼で、赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭とともに“江戸三大祭”の一つに数えられています。毎年8月15日に行われていますが、3年に1度の本祭では、八幡様の御神霊をお遷ししたとされる御鳳輦(日本―の黄金大神輿として知られています)の渡御が行われています。

 さて、富岡八幡宮は、拙宅からのアクセスが良いこともあって僕も初詣などで何度か訪れており、いわばなじみのある場所だけに、今回の事件には本当に驚きました。無くなられた富岡宮司の御御霊様、お安らかにお鎮まりませと慎み敬って申し上げます。
 

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 米、エルサレムを首都と認定
2017-12-07 Thu 19:00
 トランプ米大統領は、きのう(6日)、ホワイトハウスで声明を発表し、エルサレムをイスラエルの首都と認め、テルアビブにあるアメリカ大使館をエルサレムに移転する手続きを始めるように指示したことを正式に表明しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・首都エルサレム50年

 これは、1999年にイスラエルが発行した“首都エルサレム50年”の記念切手で、エルサレムの風景画を数多く残した画家、ルドウィック・ブルームの作品が取り上げられています。

 第一次大戦後、パレスチナの地は英国の委任統治下に置かれ、エルサレムがその首府となりました。
 
 1947年11月29日、国連でパレスチナ分割決議が採択されると、パレスチナは事実上の内戦に突入し、1948年3月、シオニストたちはテルアヴィヴにパレスチナのユダヤ人居住区を統治する臨時政府“ユダヤ国民評議会”を樹立。新国家樹立に向けての具体的なスタートを切り、英国撤退の軍事的空白を利用して、1948年5月のイスラエル建国に向けて、準備を進めていきました。

 イスラエルの建国宣言を受けて勃発した第1次中東戦争の結果、1949年、エルサレムはイスラエルとヨルダンによって分割され、ユダヤ教・キリスト教・イスラムの三宗教の聖地がある旧市街=東エルサレムはヨルダンの支配下に、新市街の西エルサレムはイスラエルの支配下に入ります。今回ご紹介の切手は、ここから起算して50年になるのを記念して発行されたものです。なお、1950年には、イスラエル議会はエルサレムを首都と宣言して、テルアヴィヴの首都機能を西エルサレムに移転。13カ国が西エルサレムに大使館を設置するなど、国際社会もこれを認めていました。

 1967年の第三次中東戦争でイスラエルは東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区を占領して東西エルサレムを再統合し、“統一エルサレム”を“(イスラエルの)不可分の永遠の首都”とします。ただし、岩のドームのある“神殿の丘(ハラム・シャリーフ)”は歴史的にワクフ(イスラムに独特の財産寄進制度)の対象とされていることから、ヨルダン宗教省が引き続きその管理を行い、その域内ではユダヤ教徒とキリスト教徒による宗教儀式は原則禁止という変則的な状況となります。

 さて、第三次中東戦争は、理由はどうあれ、イスラエル側の先制攻撃ではじまったことから、イスラエルによる占領地拡大の正統性については、アラブ諸国はもとより、社会主義諸国や中立諸国なども否定的で、同年11月22日の国連安保理はイスラエルの占領を無効とする安保理決議242を全会一致(中華民国、フランス、英国、米国、ソビエト連邦、アルゼンチン、ブラジル、ブルガリア、カナダ、デンマーク、エチオピア、インド、日本、マリ、ナイジェリア)で可決しました。

 ただし、同決議では撤退期限は定められず、経済制裁などの具体的なイスラエルへの対抗措置も行われなかったため、イスラエルは決議を無視し続け、1980年には、あらためて「統一エルサレムはイスラエルの永遠の首都である」との決議がイスラエル議会で採択されました。これに対して、1967年までエルサレムに大使館を置いていた各国も、イスラエルの東エルサレム併合に抗議してテルアヴィヴに大使館を移転しています。

 これに対して、パレスチナ側では、1988年11月15日、アルジェで開催されたパレスチナ国民評議会(PNC)で、PLOがテロを放棄し、イスラエルの存在を認めたうえで、東エルサレムを首都とする“パレスチナ国”の独立宣言が採択されています。そして、1994年に発足したパレスチナ自治政府も、“パレスチナ国家”の首都は東エルサレムであるとの主張を掲げています。

 一方、米国の二大政党である民主党と共和党が綱領でエルサレムをイスラエルの首都と認めており、1995年には連邦議会で大使館のエルサレム移転を認める法律も可決されています。ただし、歴代の政権は大使館のエルサレム移転は中東和平実現の障害になるとの観点から、同法の実施を半年ごとに延期するということで問題を先延ばしにしてきました。

 これに対して、昨年(2016年)の大統領選挙で、大使館のエルサレム移転を公約したドナルド・トランプが当選。トランプ大統領は、2017年6月には歴代政権の先例を踏襲して大使館の移転を半年延期しましたが、今回、公約通り、大使館の移転手続きを開始したというわけです。

 なお、エルサレムとその歴史については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。


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 フィンランド独立100年
2017-12-06 Wed 02:38
 1917年12月6日にフィンランドがロシアからの独立を宣言してから、今日でちょうど100周年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      フィンランド独立10周年

 これは、1927年にフィンランドが発行した“独立10周年”の記念切手で、フィンランドの国章を中央に、左側には独立宣言の日に当たる“1917年12月6日”の日付が、右側にはそれから10年後の“1927年12月6日”の日付が入っています。ちなみに、フィンランドの国章は、(切手では紫の単色ですが)赤地に戴冠した金色のライオンが描くもので、ライオンの右前足は剣を掲げる腕に置き換えられ、後足は剣を踏みつけており、周囲には9個の銀色の薔薇を配したデザインとなっています。

 ナポレオン戦争中の1809年、ロシア帝国はフィンランドを獲得。ロシア皇帝がフィンランド大公を兼ねる同君連合として、フィンランド大公国が創設されました。これに対して、欧州諸国の1848年革命以降、フィンランド人の間でも、絶対主義に固執するロシア政府に対して独立を求めるナショナリズムが高揚していきました。

 これに対して、皇帝ニコライ2世は、1899年、二月詔書を発し、フィンランド人の自治を剥奪し、フィンランド語を禁止してロシア語を公用語として強要する強攻策を取りました。このことは、フィンランド人の強い反発を招き、日露戦争のさなかの1904年6月17日、民族主義者オイゲン・シャウマンによるフィンランド総督ニコライ・ボブリコフの暗殺事件が発生。1905年には第一次ロシア革命が起こったこともあり、ニコライ2世は、フィンランドの自治権廃止を撤回せざるを得なくなりました。

 こうした経緯を経て、1914年に第一次大戦が勃発し、ロシアが協商側に立って参戦すると、フィンランドはロシア軍の前哨基地となりました。しかし、職業軍人を除いて参戦する義務が課されなかったフィンランドは国力を温存。1917年、ロシア革命が起きると、フィンランド議会はボリシェヴィキ政権との交渉を経て、12月6日、フィンランド大公の廃位と独立を宣言しました。

 当初、フィンランド国内では王党派がドイツに接近し、ヴィルヘルム2世の義弟ヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ・カールを国王に選出しフィンランド王国を成立させましたが、ドイツは第一次世界大戦に敗れ、ドイツ革命によって帝政も崩壊。その後に行われた総選挙で共和派(農民党、自由党)と社民党が大勝すると、王政は廃され、フィンランドは共和国としてパリ講和会議で独立を承認されることになります。
 

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 イエメン前大統領、死亡
2017-12-05 Tue 01:22
 内戦状態にあるイエメンのザイド派(シーア派の一派)武装組織“フーシ”は、きのう(4日)、アリー・アブドゥッラー・サーリフ(サレハ、サーレハとも)前大統領を殺害したと発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イエメン・サーリフモスク

 これは、2008年、当時の大統領であったサーリフの名を冠した“サーリフ・モスク”の完成を記念して発行された切手です。

 アリー・アブドゥッラー・サーリフは、1942年、イエメン王国のアフマル市でザイド派ムスリムの家に生まれました。

 1958年、イエメン王国軍に入隊。1960年には王立士官学校で学びました。1962年の革命に際しては軍事クーデターに賛同。革命後は、共和国政府と王党派の亡命政府による内戦が始まると各地を転戦して昇進を重ね、1977年、タイズ州の軍司令官に任命されました。

 1978年6月24日、ガシュミー大統領が暗殺されると臨時召集された最高行政委員会の一員として事態収拾にあたるとともに、幕僚会議議長代理として軍参謀本部を統制したうえで、7月17日、大統領に就任。さらに、国家元首として陸軍総司令官および陸軍参謀総長を兼任しました。

 大統領に就任したサーリフは、反対派将校に対する大々的な粛清を行うとともに、1982年8月30日、自らを党首として翼賛連合“国民全体会議”を結成し、同党により2期目を共和国議会に承認させます。以後、イエメンの議会は国民全体会議の一党独裁状態となり、党首であるサーレハの独裁体制が確立しました。

 1990年5月22日、中東やインド洋におけるソ連の拠点となっていたイエメン人民民主共和国(南イエメン)がソ連崩壊で経済的に行き詰まり、イエメン・アラブ共和国に吸収される形で、現在のイエメン共和国が誕生すると、サーリフは初代イエメン大統領に就任。以後、2012年に退陣するまで、イエメンの独裁者として君臨し続けました。

 この間、イエメン国内ではサーリフの個人崇拝・神格化が進められ、その一環として、2008年には今回ご紹介の切手に取り上げられたサーリフ・モスクも建立されました。

 サーリフ・モスクは、イエメンの伝統的な建築様式を取り入れ、6本のミナレット(尖塔)のうち4本は160mの高さがあります。内部は3階建てでメインの礼拝スペースは4万人が収容可能です。6000万ドルもの建設費用はイエメンの経済力からすると、明らかに分不相応なものだったため、サーリフ独裁の象徴として欧米からは批難の対象となりました。なお、今回、サーリフが殺害されたことで、今後、モスクの名前がどうなるかは、現時点では不明です。

 2011年、チュニジアでのジャスミン革命を発端として、“アラブの春”と称される民主化運動がアラブ世界に拡大すると、イエメンでもサーリフの退陣を求める反政府デモが頻発。当初、サーレハは反政府デモの鎮圧を試みたものの失敗し、2月2日には次期大統領選挙への不出馬を表明しました。

 しかし、サーリフ退陣を求める国内世論は収まらず、5月18日、サーリフは、いったん、1ヶ月以内に退陣すると表明。ところが、同月23日には一転して反対派との全ての和平交渉を破棄すると宣言し、反対派への弾圧を再開しました。このため、6月3日、反政府軍が大統領宮殿を砲撃し、重傷を負ったサーリフは治療のためサウジアラビアの陸軍病院へ移送され、結果的に国外へ一時亡命するかたちとなりました。

 2011年9月23日、サーリフはイエメンに帰国し、大統領に復帰したうえで、11月23日、副大統領のアブド・ラッボ・マンスール・ハーディーに30日以内の権限移譲などが盛り込まれた調停案に署名。2012年1月21日にサーリフの訴追免除を可能にする法律が成立すると、治療目的で渡米します。そして、2月21日に行われた大統領選挙でハーディーが当選したことで、サーリフ政権は正式に終焉を迎えました。

 ただし、ハーディーがサーリフの腹心として政権運営に深く関わり続けたことに加え、サーリフは議会内の最大勢力である国民全体会議の党首の座にとどまり続けたため、大統領退陣後もサーリフは隠然たる勢力を維持しつづけます。そして、大統領在任中には弾圧していた反政府勢力のフーシと連携して、ハーディー大統領派と事実上の内戦に突入。2015年3月にはサウジアラビアなどが軍事介入を開始し、これまでに民間人を含む1万人以上が死亡したほか、今年に入ってからは、コレラの感染も深刻化していました。

 ところが、2017年12月2日、サーリフは、突如、フーシと敵対するサウジアラビア主導の連合軍と和平協議を行う用意があることを表明し、フーシとの同盟関係が崩れたと発表。これを受けて、翌3日にはサーリフの支持者らが、フーシの攻撃に備えて、首都サヌア中心部の複数の道路を閉鎖し、両者の衝突により、首都全域と国際空港で約60人が死亡する事態となりました。

 きのう(4日)、フーシが行ったサーリフ殺害の発表はこうした状況の下でなされたもので、詳細は不明ですが、ネット上では、すでに毛布にくるまれたサーリフの遺体の画像が出回っており、サーリフが死亡したこと自体はたしかなようです。なお、フーシは、同日、「アラブ首長国連邦で建設中のバラカ原発に向けミサイルを発射した」とも発表していますが、こちらについては、UAE当局はミサイル発射は事実ではないと否定しています。


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 ヴェネズエラ、仮想通貨導入へ
2017-12-04 Mon 17:49
 深刻な財政危機に陥っているヴェネズエラのニコラス・マドゥロ大統領は、3日、米国による経済制裁に対抗するためとして、国内の石油、天然ガス、金、ダイヤモンドなどの資源によって保証される仮想通貨“ペトロ(Petro)”を導入すると発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ヴェネズエラ・石油国有化

 これは、1976年にヴェネズエラが発行した石油国有化の記念切手で、パイプラインのバルブが描かれています。

 ヴェネズエラにおける石油産業は、1918年に北西部マラカイボ湖の湖底と湖岸に油田が発見されたことからスタートし、1930年代には、それまでのコーヒーとカカオを抜き、同国最大の輸出産業に成長しました。

 ちなみに、ヴェネズエラでは、1943年以降、石油産業に対する所得税制を施行し、1948年には新たに付加税を制定。以後、メジャーを中心とする開発会社と資源国の政府で石油利益を折半する“ヴェネズエラ方式”が世界的に普及することになったほか、課税所得額算定の基準となる原油1バレル当たり輸出価格を公示する必要から、原油公示価格制度が導入されることになります。

 1976年には石油国有化が宣言され、ベネズエラ国営石油会社(PDVSA)が設立されます。この時点では、マラカイボ湖周辺の油田から産出される軽質油が中心でしたが、1990年代に入ると、オリノコ川流域の油田から産出されるオリノコ超重質油の精製が可能になり、ヴェネズエラの石油の生産量が飛躍的に増大し、ヴェネズエラ経済は活況を呈しました。

 ところが、1983年2月18日の原油価格暴落を機に通貨危機が発生。以後、ヴェネズエラの通貨、ボリヴァルは下落の一途をたどり、かつて1米ドル=3.18ボリヴァルだった交換レートは、ウーゴ・チャヴェス政権(1999年発足)下の2003年2月5日には1米ドル=1600ボリヴァルにまで暴落しました。

 このため、2008年1月1日付で、1000分の1のデノミが実施され、“強いボリヴァル”を意味する新通貨、ボリヴァル・フェルテが導入されます。しかし、チェヴェス政権末期から始まった原油価格の低迷もあって、その後もヴェネズエラ通貨の下落に歯止めはかからず、2016年には、当時のヴェネズエラの最高額紙幣の100ボリヴァルは、公定レートでも米ドル換算で15セント、市中の実勢交換レートでは2セントにしかならないほどに下落。マドゥロ政権(2012年発足)は、同年12月11日、72時間以内に現行の100ボリヴァル紙幣を撤廃して硬貨に入れ替えるとともに、500、5000、2万ボリヴァルの新紙幣を発行すると突如発表。このため、100ボリヴァル紙幣が廃止される前に米ドルなどに交換すべく、ヴェネズエラ市民が国境を越えてコロンビアに殺到します。

 ところが、新紙幣流通開始予定日の12月15日になっても新紙幣は市中には出回らなかったことにくわえ、同日、マドゥロ政権は「マフィアがヴェネズエラの通貨をコロンビアに移動させている」としてコロンビアとの国境を封鎖したことから混乱が拡大。結局、旧50および100ボリヴァル紙幣に代わる新硬貨は、当初予定より10日以上遅れた28日から市中での流通が始まったものの、新紙幣が本格的に流通するようになったのは年が明けた2017年1月16日のことでした。

 さらに、チャヴェス政権の反米路線を継承したマドゥロ政権は、野党を封じ込めるため、2017年5月1日、従来から存在する国会(国民議会)とは別に“制憲議会”の招集を発表。7月30日、内外の反対を押し切って制憲議会選挙を強行しました。8月4日に発足した制憲議会は、同月18日、国民議会から立法権を剥奪し、行使することを決定し、ヴェネズエラは事実上の一党独裁体制に移行しました。

 これに対して、米国は、米国民と米国企業に対し、ヴェネズエラ政府やPDVSAが新たに発行する債券の取引を禁止する経済制裁を発動。このため、マドゥロ政権は、従来にもまして対米批判を強めたほか、「米帝国主義制度を除去する」として、自国産原油の価格表示を米ドルから人民元に変更。その流れで、今回の仮想通貨導入に踏み切ったというわけです。

 もっとも、ペトロはヴェネズエラ国内の天然資源によって保障されることになっているとはいうものの、関連企業は代金の不払いを理由に操業を停止しており、ヴェネズエラの石油の生産量は13年ぶりの低水準を記録しています。また、先月には、ヴェネズエラ政府とPDVSAの一部の債務がデフォルト(債務不履行)に陥っており、この結果、約650億ドルもの債務の支払いも不可能になる見込みで、事態が悪化することは避けられず、ペトロの導入が金融危機の解決策となる公算は小さいとみられています、


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 ホンジュラスで非常事態宣言
2017-12-03 Sun 21:48
 11月26日に投票が行われた大統領選挙で不正があったと野党候補が主張したことをきっかけに、全土で暴力を伴うデモが行われている中米ホンジュラスで、現地時間1日夜、非常事態が宣言され、政府は10日間の夜間外出禁止令を出しました。というわけで、きょうはホンジュラスの切手です。(画像はクリックで各位されます)

      ホンジュラス最初の切手(赤紙)

 これは、1865年に発行されたホンジュラス最初の切手です。

 ホンジュラスでは、1865年12月、当時の国章を描く最初の切手が発行されました。切手の製造は、1864年後半から1865年初にかけてベルギーの印刷所で行われ、額面は、当時の書状基本料金2レアルとなっています。ただし、切手発行直前の1865年10月に出された政令で、郵便料金が1レアルに値下げされたため、郵便局の窓口では、切手は1レアルで販売されました。

 また、当時のホンジュラス国内は銅貨の流通地域と銀貨の流通地域に分かれていたため、通貨の違いに対応して銅貨地区では赤紙に印刷された切手が、銀貨地区では緑紙に印刷された切手がそれぞれ使用されていました。印刷枚数は、赤紙・緑紙共に150万枚です。

 もっとも、当時のホンジュラス国内では、政府もしくは協会が差し出す料金無料の郵便物がかなりの割合を占めていたことに加え、切手の発行後も、一般の利用者は、従前どおり、郵便料金の支払に際して切手を貼らず、差出人払いの場合には“franquedo ”もしくは“franco”、受取人払いの場合には“porteado”もしくは“porto”と郵便物に表示していました。

 このため、 1865年に発行された切手は大半が未使用のまま残され、使用済切手の残存数ははるかに少なくなっています。      

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 ワット・アルン前で尻を出し罰金
2017-12-02 Sat 18:20
 “暁の寺”として知られるバンコクの名刹、ワット・アルンを背景に、尻を出した姿で写真を撮影し、写真共有サイト“インスタグラム”に投稿した米国人の男2人が罰金の支払いを命じられたそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・1905年シリーズ(5アット)

 これは、タイの1905年シリーズの5アット切手で、当時の国王ラーマ5世の肖像を描いたメダルをタイ人の子供2人が捧げ持ち、背後にワット・アルンが描かれています。メダルを捧げ持つ子供は裸に近い姿ですが、寺院の方には尻や股間は向けられていません。

 ワット・アルンはアユッタヤー王朝時代に建立されましたが、当初は、ワット・マコークと呼ばれる小さな寺にすぎませんでした。それが、トンブリー王朝時代の1779年、タークシン王の部将だったチャオプラヤー・チャクリーヴィエンチャンから戦利品として持ち帰ったエメラルド仏を祀る王室寺院となって一挙に寺格が上昇。その後、1782年にチャクリー王朝を開き、国王ラーマ1世となったチャオプラヤー・チャクリーは王都を対岸に移し、エメラルド仏も王宮内の寺院に移りましたが、続くラーマ2世の個人的な保護を受け、1820年、ヒンドゥーの暁の神、アルーナにちなんで、ワット・アルンラーチャターラームと改称されました。現在の名前になったのはラーマ4世の時代のことです。

 寺院のシンボルとなっている大仏塔は19世紀に入り、ラーマ2世の時代になってから建設が始まり、次のラーマ3世の時代になって完成しました。水面からの高さ75メートル。中心の大塔を4つの小塔が取り囲む構造は、須弥山(仏教の世界観で世界の中心にそびえる山)を表現したものだといわれており、大塔の表面は色鮮やかなタイルで覆いつくされています。

 今回ご紹介の切手は、1905年12月から使用されたもので、前シリーズの1899年シリーズ同様、ドイツ・ライプツィヒのギーゼッケ・ウント・デヴリエント社で製造されました。

 ちなみに、この切手は、ワット・アルンを取り上げた最初の切手というだけでなく、仏教関係の題材を取り上げた世界最初の切手です。1893年以降、タイは世界各国に対してタイ文字版『三蔵経』の配布を開始し、タイにも西洋キリスト教社会の『聖書』に匹敵する精神的支柱が存在することを示すとともに、自国の近代性をアピールしようとしていますが、この切手の発行も、こうしたタイの宣伝戦略の延長線上にあったとみなすことができます。

 さて、今回、罰金を科された米国人の2人組は、38歳と36歳の同性愛のカップルで、世界各地で尻を出した写真を撮影し、インスタグラムに投稿しています。

 タイでは仏教に対する冒瀆は犯罪として処罰の対象となるため、警察としては、当初、彼らの逮捕も視野に入れていたようです。ところが、警察が写真投稿の事実を確認した時点で、2人はカンボジアに出国していたため、処罰は難しいとみられていました。それが、先月28日になって、2人がバンコクの空港で再入国を試みたため、入管当局が身柄を拘束。そのうえで、警察は問題となった写真の撮影場所が寺院から離れていたため、仏教冒瀆罪での逮捕を断念し、代わりに、公共の場所でわいせつ行為をしたとして、2人にはそれぞれ5000バーツ(約1万7000円)の罰金を科すことで決着しました。

 当初、僕は2人が尻を出した写真を各地で撮影し、インスタグラムに投稿していると聞いて、ゲイの権利擁護・拡大のための活動家かと思ったのですが、警察の取調に対して、2人は「目立ちたかった」と供述しているそうですから、単なる愚か者ということなのでしょう。まぁ、同性愛が禁止されている国家で抗議の意思を示すために自らの尻を出すという活動家なら、そもそも、同性愛者に対しては寛容なタイを活動の場には選ばないでしょうし、そもそも、写真を公開した後に再入国なんてしないでしょうから…。

 なお、ワット・アルンとその切手については、切手紀行シリーズ拙著『タイ三都周郵記』でもいろいろとご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 聖墳墓教会の墓所はローマ時代の建設
2017-12-01 Fri 16:42
 エルサレム旧市街の“キリストの墓”の上に建てられたとされる聖墳墓教会の下の墓所が、アテネ国立技術大学のチームを中心とする調査・修復作業の結果、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世のものであることが科学的に特定され、昨日(30日)、そのことが発表されました。というわけで、聖墳墓教会に関するマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      パレスチナ自治政府(1995年・メータースタンプ消)

 これは、1995年1月17日、パレスチナ自治政府支配下のガザ地区・バイト・ハヌーンからエルサレム宛のカバーで、聖墳墓教会を描く75ミリーム切手が貼られています。
 
 ローマ皇帝として初めてキリスト教会に改宗したコンスタンティヌス1世は、325年頃に、イエスの磔刑の場所、ゴルゴタに教会を建てることを命じました。しかし、その時点では、イエスが生きていた時代のエルサレムの街区は、2度のユダヤ戦争によって完全に破壊されていただけでなく、135年頃にはローマ風の都市へと再開発されてしまったため、その後、ゴルゴタの丘やイエスの墓所の位置は分からなくなっていました。

 こうした中で、326年、コンスタンティヌスの母ヘレナがエルサレムを訪れ、当時はヴィーナス神殿となっていたこの地で磔刑に使われた聖十字架と聖釘などの聖遺物を発見したとされたため、その場所がゴルゴタと比定され、既存の神殿を取り壊して建てられたのが現在の聖墳墓教会です。

 1009年、ファーティマ朝のカリフ、ハーキムはキリスト教会の破壊を命じたため、聖墳墓教会も取り壊されましたが、1048年、東ローマ皇帝コンスタンティノス9世モノマコスが小さな教会を再建。1099年の第1回十字軍では、参加者は自らを武装した巡礼と見なし、聖墳墓教会の土地を奪還し、そこで巡礼者として祈るまことを遠征の目的としていました。

 さて、1993年のオスロ合意後、1994年5月のパレスチナ先行自治協定(PLOによる自治を開始するための具体的協定)を経て、イェリコとガザで暫定自治が開始されました。これに伴い、5月4日にはガザ地区で、5月9日にはイェリコで、イスラエルの郵政機関が閉鎖され、パレスチナ自治政府の郵政機関が発足します。ただし、当初はパレスチナ自治政府独自の切手は間に合わず、ガザ地区とイェリコでもイスラエルの切手がそのまま使用されていました。

 このため、1994年夏、パレスチナ自治政府は国有ドイツ連邦印刷会社に自治政府としての独自の切手を発注。イェリコのヒシャーム宮殿(5、10、20ミリーム)、東エルサレムの聖墳墓教会(30、40、50、75ミリーム)、パレスチナ自治政府の国旗(125、150、250、300、500ミリーム)、岩のドーム(1000ミリーム切手)をデザインした切手が制作されました。

 ちなみに、これらの切手の発行日は、公式には8月15日とされていますが、実際に自治政府がドイツから切手を受け取ったのは1994年末(早くても10月以降)のことで、現地の郵便局では、いつからこれらの切手が実際に販売されたのか、現在となっては正確なデータは残されていません。(8月15日付のFDCも存在していますが、これは後押しです)また、自治政府の最初の切手の額面表示は、1948年に終了した英委任統治時代の先例に倣い、“ミリーム”表記となっていました。

 ところで、1994年4月29日付でイスラエルとPLOが締結した“1994年パリ議定書”では、自治政府統治下の通貨は、イスラエルの通貨である新シェケルを基本としつつも、西岸地区ではヨルダン・ディナール、ガザ地区ではエジプト・ポンドの使用が認められていたものの、自治政府には独自通貨の発行権を認める規定はありませんでした。このため、イスラエル側は自治政府の切手の額面がミリーム表示になっていることに強く反発。イスラエル宛またはイスラエルを経由して海外へ逓送される郵便物に関しては、ミリーム額面の切手が貼られている場合は、料金未納扱いにすると自治政府に通告します。

 このため、ミリーム額面の切手は、西岸地区とガザ地区(の自治政府統治地域)および東エルサレム宛(イスラエルの実効支配下にあるものの、自治政府側も“パレスチナ国”の首都と主張)の郵便物にのみ有効とされ、別途、フィルス額面を加刷した切手が発行されました。

 今回ご紹介のカバーは、そうしたミリーム表示額面切手の東エルサレム宛の使用例で、1995年1月17日、バイト・ハヌーン(ガザ地区北東部)から差し出され、消印の代わりに無額面のメータースタンプで抹消されています。

 なお、 2007年以降、“パレスチナ”は、国際社会から正統政府とみなされているPLO/ファタハ政府の支配するヨルダン川西岸地区と、イスラム原理主義組織・ハマースが支配するガザ地区に、事実上、分裂しており、2009年以降、ガザ地区ではヨルダン川西岸とは別の切手が発行されてきました。

 これに対して、今年10月12日、ハマース政府は、カイロでファタハと共同会見を行い、今年12月1日までにハマースがガザ地区のすべての行政権限を自治政府に返還することで合意したと発表。その一環として、11月1日にはガザの境界管理が自治政府側に移されています。

 ところが、その後は、ハマースの軍事部門解体を求めるファタハに対して、ハマースが一貫して「イスラエルによる占領に抵抗するための武器」と主張してこれを拒否するなど、協議が停滞。両者を含むパレスチナ各派は11月22日、カイロで、2018年末までにパレスチナ評議会選挙や議長選を実施するとの共同声明を出したものの、両者の溝は埋まらず、11月29日、ガザ地区の行政権限をハマスから自治政府に移す期限は12月10日に延期されました。こうした状況ですから、現時点では、12月10日にパレスチナの西岸地区とガザ地区の統治一元化が実現するかどうかは、かなり疑わしいというのが実情です。

 ちなみに、パレスチナ自治政府の切手と郵便については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。


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