2007-03-31 Sat 00:33
年度末ギリギリですが、本日(3月31日付)で、昨年11月に開催の全国切手展<JAPEX06>の記念出版として『国際切手展金賞作品集 2005-06』(下は表紙の画像です)が刊行になりましたので、ご挨拶申し上げます。
昨年の<JAPEX>では、主催団体である(財)日本郵趣協会の創立60周年の記念事業として、「国際切手展凱旋展」と銘打ち、2005年のシドニーと台北、2006年のワシントンDCの3ヶ所で開催された国際切手展(シドニーとワシントンは世界展、台北はアジア展)で金賞を受賞したコレクション7作品(僕も末席に加えさせてもらっています)の招待展示を行いました。また、会場では“小判振舞処”(小判切手収集家有志のグループ)の特別企画出品「小判切手130年」が話題となりましたが、この企画展示には、上記国際展で金賞を受賞されたお2人の方のコレクションの逸品が数多く展示されておりました。 本書は、会期中、「国際切手展凱旋展」に展示された7作品と「小判切手130年」にご出品のため、「国際切手展凱旋展」のコーナーには展示されなかった2作品の抜粋をあわせて採録した写真集です。 日本語でコレクションというと、いかに珍しいモノ・高価なモノを持っているか、あるいは、いかに大量に所蔵しているか、といった物質的な側面が強調されがちです。たしかに、コレクションにはそういう側面があることは、僕も否定しません。 しかし、単なるモノの集積ということであれば、それはアキュムレーションというべきであって、欧米語でいうコレクションとは根本的に異なっています。 たとえば、ファッションの世界で“パリ・コレクション”とか“ミラノ・コレクション”という場合、それは何も大量の服を集めてくることにも、あるいは、高価な(素材を使った)服を集めてくることに価値が置かれているわけではありません。ここでいうコレクションとは、デザイナーがあるコンセプトを立て、それにあわせてさまざまな服をデザインし、モデルを選び、演出を練り上げて、その総体として彼の思想を表現しようとする営為のことです。 コンペティションの展覧会に出品するコレクションというのも、基本的には同じことで、ある主題に対して、それぞれの出品者が関連するあらゆるマテリアルを集め、それを体系的・論理的に、そして美しく構成することが肝要になってきます。いくらⅩ億円の珍品を持って来ようと、前後の脈絡もなしにそれらを並べただけでは、“コレクション”として高い評価を得ることはほとんど不可能でしょう。 その意味で、今回の『国際切手展金賞作品集』は、切手のコレクションのお手本ともいうべき作品をまとめたものとして、非常に価値があるのではないかと<JAPEX>の実行委員長を務めた僕としては自負しております。 まぁ、自分の作品も掲載されている写真集をあんまり持ち上げるのは気が引けるのですが、僕の作品はともかく、僕以外の方々のコレクションは本当に見応えがあり、勉強になります。少部数の限定出版で定価も16000円と高価なため、気軽に「買ってください」とお願いするわけにもいかないのですが、可能であれば、是非、お手元においてじっくりとご覧いただけると幸いです。(ちなみに、まだ、ネットからの注文は可能です) <おしらせ> 4月7日(土)の午前中、東京・目白のカルチャービルにて行われる切手市場会場内にて、僕の最新刊『沖縄・高松塚の時代』の即売・サイン会を行います。切手市場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。 |
2007-03-30 Fri 08:59
2002年1月から『週刊東洋経済日報』で続けてきた僕の連載、「切手で見る韓国現代史」が、本日(3月30日)付の号をもって206回の連載を無事終了することになりました。
「切手で見る韓国現代史」は、毎回1点ずつ、切手やカバーをご紹介しながら、1945年の日本敗戦以降の韓国現代史をたどっていくというもので、今回、ちょうど年度末になって盧武鉉政権の発足までたどり着いたところで終了となったものです。 で、いままでの記事の中から何を持ってこようかと悩んだのですが、やはり、連載を始めた2002年といえば、なんといっても日韓ワールドカップが開催された年ですので、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます) これは、ワールドカップ開催の決定を受けて、1996年8月1日に韓国郵政が発行した記念切手です。 2002年のワールドカップ大会の開催地に関しては、1986年、当時のFIFA会長であったジョアン・アベランジェがアジア・アフリカ地域での開催(それまでは、欧州と米州での交互開催だった)を提案。これを受けて、まず日本サッカー協会が大会招致に名乗りを上げました。 当時、日本にはトヨタカップ(欧州と南米の優勝クラブが戦うクラブ世界一の決定戦)の開催実績があったことに加え、サッカー協会としても、ワールドカップの開催を低迷する国内サッカーの活性化につなげたいという思惑がありました。また、欧米諸国の間でも、アジア地域では圧倒的な経済力とインフラ設備を誇る日本でのワールドカップ開催は無難な選択と見られていました。 これに対して、日本の大会招致計画を知った韓国は、“アジア初”の名誉をかけ、1993年11月、大会招致に名乗りを上げ、翌1994年には招致委員会を発足させて猛烈な巻き返しを開始します。 すなわち、韓国政財界は現代財閥を中心に、豊富な資金力に物を言わせて精力的な招致活動を展開。南北の共同開催案を持ち出すなど、国際社会に対するアピールも抜かりなく行いました。 こうして、1995年2月、2002年大会の開催国として日韓両国が正式に立候補を表明します。 これを受けて、FIFAでは、1996年6月1日の臨時理事会の投票で2002年大会の開催国を決定することになりました。 ところが、臨時理事会の直後に予定されていたFIFA会長選挙をめぐって、南米出身のアベランジェ会長の再選問題をめぐって、会長の再選を阻止しようとする欧州の理事が、会長の意向であった日本での大会開催に反対。日韓の共同開催を強く主張し始めます。もちろん、南米出身の理事たちは会長の再選を支持し、その意向を汲んで日本での単独開催を支持。この結果、FIFAは事実上の分裂状態に陥り、中間派のアフリカ出身理事の票をめぐって激しいつばぜり合いが展開されました。 結局、欧州リーグに多数の選手を送り出しているアフリカ諸国の大半は欧州に加担し、日韓の共同開催という流れが決定。開催国を決定する投票日前日の定例理事会前のパーティー会場で、趨勢を悟ったアベランジェ会長は、定例理事会で日韓両国による共同開催案を自ら提案せざるを得なくなり、日韓両国にその旨が打診されます。 これに対して、日本側もこの提案を拒否すれば、韓国の単独開催か、開催地決定の延長と中国開催の可能性があったことから、これを受け入れる以外に選択肢はありません。一方、韓国側も、当時、経済状況が急速に悪化しつつあり、とうてい、日本からの援助なしではワールドカップを開催できる状況にはありませんでした。 こうしたさまざまな事情が絡み合い、1996年5月31日、2002年大会の日韓共催が正式に決定、発表され、今回の記念切手発行につながったというわけです。 さて、「切手で見る韓国現代史」は、今年末の大統領選挙が終わり、新大統領が決まるタイミングを見計らって単行本することが決まっています。詳細が決まりましたら、また、このブログでもご案内しますので、よろしくお願いします。 <おしらせ> 4月7日(土)の午前中、東京・目白のカルチャービルにて行われる切手市場会場内にて、僕の最新刊『沖縄・高松塚の時代』の即売・サイン会を行います。切手市場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。 |
2007-03-29 Thu 00:47
(財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』の2007年4月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1905年7月13日、イギリスの南アフリカ会社(BRITISH SOUTH AFRICA COMPANY)が、ザンベジ川にかかるヴィクトリア・フォールズ橋の開通を記念して発行した記念切手です。 現在のジンバブエとザンビアにあたる地域は、かつてローデシアと呼ばれていました。これは、1850年代にデイヴィッド・リヴィングストンが探検した地域を、ケープ植民地の首相であったセシル・ローズのイギリス南アフリカ会社が開拓したことから、ローズの名前にちなんでつけられた呼称です。 南アフリカ会社は、その管轄地域での郵便に使うため、1890年以来、紋章を描く通常切手を発行していましたが、記念切手としては、今回ご紹介したものが最初となります。 ヴィクトリア・フォールズ(ヴィクトリアの瀧)は、ジンバブエとザンビアの国境にある瀧で、世界三大瀑布(他のふたつはナイアガラとイグアス)の一つとして世界遺産にも登録されています。1分間に5億リットルの水が落下し、巨大な水煙が立ち上るため、幅1700メートル、落差108メートルという巨大なその全貌は、水量の少ない乾季にしか見ることができません。 切手は1ペニーから5シリングまでの6種セット(額面ごとに刷色が違うが同図案)で発行されました。ウォータールー社の凹版印刷によって迫力ある瀧の景観が再現されており、そのまま拡大して観光ポスターにも使えそうな出来栄えです。 さて、今月号の『郵趣』は、巻頭で元切手小僧の僕には懐かしい「第1次国宝シリーズ40年」の特集が組まれています。僕も、シリーズ登場までの経緯について簡単にまとめた文章を書いていますので(この点についての詳細は、拙著『一億総切手狂の時代』をご覧ください)、機会があったら、お読みいただけると幸いです。 <おしらせ> 4月7日(土)の午前中、東京・目白のカルチャービルにて行われる切手市場会場内にて、僕の最新刊『沖縄・高松塚の時代』の即売・サイン会を行います。切手市場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。 |
2007-03-28 Wed 00:36
サッカー男子の北京五輪アジア2次予選で、日本は今夜、シリアと対戦するのだそうです。まぁ、常々申し上げている通り、僕は同じ太ももと見るのなら、筋骨隆々の男のヤツよりも、女性のやわらかそうなものを見たいという人間ですから、今日は、シリアに絡めてこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1962年にシリアが発行したゼノビアの切手です。 ゼノビアは現在のシリア共和国の地域にあった古代パルミラの王妃で、夫の暗殺後は息子とともに女王として君臨。ローマに対抗したものの、ローマ軍に破れて捕らえられたという人物です。 もっとも、彼女が有名になったのは、王妃ないしは女王としての功績というよりも、彼女が、浅黒い肌に真珠のような歯の絶世の美女だったという伝説によるものです。もともと、シリア人は目鼻立ちの整った人が多く、美男・美女の産地として知られていますが、その中でも際立った美貌の持ち主というのであれば、是非、ご尊顔を拝したかったと思うのは人情でしょう。もっとも、切手の肖像は、おそらく、当時のコインなり彫像なりを元にしたのでしょうが、どうも“看板に偽りあり”という感じが拭えません。 学生時代の一時期、それなりに一生懸命にアラビア語をやっていたことがあるのですが、「なんでそんなモノをやるのか」とちょくちょく聞かれて往生したことがあります。そういうときには、「大学に入ったとき、第2外国語でドイツ語かフランス語を選ぶのなら、美人が多そうなフランス語の方がいいと思った。でも、その後、シリアにはもっと美人が沢山いるのだと聞いて、シリア人は何語を話すのか調べたらアラビア語だったので、アラビア語を勉強することにした」と応えることにしていたのですが、実際には、アラビア語を勉強してもシリアの美女とお友達になったことはないので、無駄な努力だったということになるのでしょうか。 なお、今日ご紹介した切手ですが、学研の歴史群像シリーズ特別編集の最新刊『図説 激闘ローマ戦記』に図版として提供しています。切手はゼノビアと以前の記事でご紹介したクレオパトラの“美女”2人しか登場しませんが、本としては十分に読み応えのある1冊ですので、機会があったら、お読みいただけると幸いです。 <おしらせ> 4月7日(土)の午前中、東京・目白のカルチャービルにて行われる切手市場会場内にて、僕の最新刊『沖縄・高松塚の時代』の即売・サイン会を行います。切手市場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。 |
2007-03-27 Tue 00:47
先週は『沖縄・高松塚の時代』もあってご報告が遅れましたが、日本国際貿易促進協会の発行する週刊紙『国際貿易』の3月20日号に、僕の担当する「世界の切手で見る中国」の第2回目が掲載されましたので、ご報告いたします。今回取り上げたのは、こんな切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2006年にマレーシアが発行した“伝統的な民族衣装”の切手のうち、華人の衣装を取り上げたものです。ガッター(切手と切手の間の余白)にも切手とは違う種類のコスチュームが取り上げられていますので、今回の画像では、その部分もスキャンしています。 多民族国家であるマレーシアは、総人口約2400万人のうち、マレー人が65%、華人が26%、インド人が8%、その他が1%を占めています。しかしながら、同国の長者番付の上位は華人によって独占されていることからもわかるように、マレー人と華人の経済的な格差は非常に大きなものがあります。 これを是正するために導入されたのが、いわゆるブミプトラ政策です。ブミプトラとはマレー語で“土地の子”の意味で、民族間の経済格差を縮小するために先住のマレー人などを優遇するものという建前ですが、実質的には、華人の活動を制限するというものです。 この結果、マレーシア社会は、政治的にはマレー人が、経済的には華人が実権を握るという二重構造になっていますが、それゆえ、マレーシア国家にとっては、マレー人と華人の民族的な融和がきわめて重要な課題となっています。今回の切手も、マレー人・インド系・華人のそれぞれの民族衣装を同じように切手に取り上げることで、(少なくとも建前では)各民族の“対等”の関係を強調しようとする政府の意図を表現したものといってよいでしょう。 ところで、切手に取り上げられている女性の服装は、いわゆるチャイナ・ドレスのようですが、この選択はちょっとどうかな、と首を傾げてしまいます。というのも、いわゆるチャイナドレスは、満州族の民族衣装であった旗袍を洋服風にアレンジしたもので、1920年代に中国国民政府が女性の正装の一つとして認定したことから急速に広まったという経緯を考えても、いわゆる伝統的な民族衣装と言えるかどうかは大いに疑問があるからです。 これに対して、ガッター部分に取り上げられているのは、中国式の前開きのトップとマレー式の巻きスカートを組み合わせた伝統的なスタイルですから、どちらかというと、こっちの方が切手にはふさわしかったのではないかと思います。もっとも、チャイナ・ドレスの方が、より多くの人にとって“華人”のイメージに合致するのかもしれませんが…。 なお、この切手では、衣装の切手という建前からか、のっぺらぼうのマネキンに衣装を着せた姿が取り上げられていますが、どうせなら、美男・美女の顔を入れてほしかったというのが、僕の偽らざる感想です。 <おしらせ> 4月7日(土)の午前中、東京・目白のカルチャービルにて行われる切手市場会場内にて、僕の最新刊『沖縄・高松塚の時代』の即売・サイン会を行います。切手市場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。 |
2007-03-26 Mon 00:25
昨日(25日)の朝、能登半島を中心に強い地震があり、石川県内で1人の方が亡くなったほか、石川県を中心に160名を越える方が怪我をされ、住宅や道路などの被害も大きかったそうです。被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。
というわけで、今日は、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1982年6月12日に「近代洋風建築シリーズ」第5集の1枚として発行された“尾山神社神門”の切手です。 尾山神社は、加賀藩の藩祖・前田利家を祀った神社で、明治維新後の1873年に創建されました。切手に取り上げられている神門は、オランダ人ホルトマンの設計によるもので、長谷川準也・大塚志良の兄弟により1874年8月に計画され、津田吉之助によって建てられました。竣工は同年11月です。 建設としては、1階が加賀花崗岩を用いた石造りで2・3階が木造となっており、竜宮条の門のようだとも称される独特の形状をしています。日本で最初の避雷針が備えられているほか、最上階には色ガラスの窓もあり、遠く日本海を行く船の灯台の役割を果たしたともいわれています。 尾山神社の祭神となった前田利家に由来する加賀藩は、江戸時代に加賀、能登、越中の3国の大半を領地としていた藩ですから、今回の地震の被災地域とほぼ重なっているといってよいでしょう。被災地の1日も早い復旧が達せられるよう、尾山神社と利家公のご加護があらんことを、お祈り申し上げます。 <おしらせ> 4月7日(土)の午前中、東京・目白のカルチャービルにて行われる切手市場会場内にて、僕の最新刊『沖縄・高松塚の時代』の即売・サイン会を行います。切手市場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。 |
2007-03-25 Sun 00:37
かねてお知らせしているとおり、いよいよ本日(25日)、拙著『沖縄・高松塚の時代』が刊行日を迎えました。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1974年2月に発行された“昔ばなしシリーズ”の第2集「つる女房」のうち、若者に助けられた鶴が、その恩返しとして、娘に姿を変えて若者の家を訪ねる場面を取り上げた「娘」の切手ですが、目打が1段おきに漏れているように見える“ブラインド・パーフ”になっています。 以前の記事で「つる女房」を取り上げた時に「ちょっと面白いマテリアルがある」と書いていたのは、実はコイツのことです。あの時点では、現物は未入手でしたが、その後、なんとか入手できましたので、ここにご紹介します。 画像を拡大していただくと、目打漏れのように見える列には、目打の穿孔を行った痕跡がはっきり見えます。目打針の一部が何らかの理由で上手く抜けなかったため、このような結果になったのでしょう。このブラインドパーフの切手は、1974年11月、東京の中村安正によって1シートが発見されていますが、今回ご紹介した以外の残りのモノについては、いまどこでどうなっているのか、僕にはわかりません。 本当なら、こういう目立つ“エラー”は、バーンと表紙カバーにカラーで載せたかったのですが、今回の拙著のタイトル『沖縄・高松塚の時代』とはちょっとイメージが違うので、拙著では、本文ページのモノクロ図版でのご紹介となりました。その代わりと言ってはなんですが、今日の刊行日にあわせて、僕のブログでカラーでお見せすることにしたという次第です。 まぁ、細かい理屈は抜きにして、この手のモノは、単純に見ていて面白がっていただくのが何より。やっぱり、切手は楽しくなくっちゃね。 <おしらせ> 4月7日(土)の午前中、東京・目白のカルチャービルにて行われる切手市場会場内にて、僕の最新刊『沖縄・高松塚の時代』の即売・サイン会を行います。切手市場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。 |
2007-03-24 Sat 00:32
今日・明日(24・25日)の2日間、大阪天満橋OMMビル2階展示ホールで第20回関西スタンプショー・JAPEX 2006大阪展が開催されます。そこで、今日は同展の企画展示“南極”に敬意を表して、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1958年の南極観測船<宗谷>の記念カバー(封筒)で、昭和基地局の“南極観測記念”の特印が押されています。貼られている切手は、1957年7月1日に発行の「国際地球観測年」の記念切手です。 国際地球観測年は、1957年7月1日から翌1958年年12月31日までの間、気象、地磁気、電離層、宇宙線、経緯度、海洋、地震、重力などの諸現象について全世界の研究者たちが共同観測を行うというもので、以前は“極年”と呼ばれていました。ちなみに、現在、世界各国が協力して特定の事業を行う“国際XX年”のという企画としてはさまざまなものが行われていますが、国際地球観測年はその最初のものです。 当初、国際地球観測年の記念切手は、同年1月に始まった南極観測の記念切手とは別に発行されることも検討されていましたが、最終的に、記念切手の発行は国際地球観測年のみにしぼり、南極観測は切手の図案において表現するということになりました。記念切手が皇帝ペンギンと観測年のマークを描く図案になったのは、このためです。 ところで、カバーの消印は1958年1月30日になっていますが、その直後の2月、先発の南極地域観測隊第1次越冬隊と交代するため海上保安庁観測船・宗谷で南極大陸へ赴いた第2次越冬隊が、長期にわたる悪天候のため南極への上陸・越冬を断念。彼らは、やむなく第1次越冬隊の樺太犬15頭を昭和基地に置き去りにして撤退しますが、その1年後、再び越冬隊員が南極を訪れると兄弟犬タロとジロが生きていたというエピソードは、映画『南極物語』でも有名です。それだけに、このカバーにタロやジロと思しき犬の姿が描かれているのも嬉しいところです。 なお、国際地球観測年の切手の詳細については、拙著『ビードロ・写楽の時代』をご参照いただけると幸いです。 さて、今回の関西スタンプショーには、あいにく、僕自身は都合でいけないのですが、実行委員会にお願いして先日できあがったばかりの僕の最新刊『沖縄・高松塚の時代』と昨年9月に刊行の『満洲切手』の販売していただくことになりました。『沖縄・高松塚の時代』に関しては、おそらく、関西への初出荷になると思いますので、よろしかったら、是非、実物を手にとってご覧いただけると思います。 <おしらせ> 4月7日(土)の午前中、東京・目白のカルチャービルにて行われる切手市場会場内にて、僕の最新刊『沖縄・高松塚の時代』の即売・サイン会を行います。切手市場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。 |
2007-03-23 Fri 01:25
作家の城山三郎さんが亡くなったそうです。城山さんの本はいろいろと読みましたが、個人的に印象に残っているのは、濱口雄幸と井上準之助を題材とした『男子の本懐』です。というわけで、今日はこんなものを持ってきてみました。(画像は、いずれもクリックで拡大されます)
これは、1930年2月の総選挙に際して、立憲民政党総裁としての濱口の名前で送られた与党候補者の推薦状です。直筆の文面を原版として印刷したもので、実物が大きくてわが家のスキャナーでは全体を一度にスキャンできませんので、画像は文面の後半と署名部分のみになっていますが、あしからずご了承ください。ちなみに、当時の選挙郵便は封書だったため、この推薦状は下の画像の“選挙”の表示のある封筒に入れて送られました。 満洲某重大事件(張作霖暗殺事件)によって政友会の田中義一内閣が倒壊した後、1929年7月に元老・西園寺公望などの奏薦を受けて組織された濱口内閣は、日中関係の改善に努めて田中時代の“積極外交”を排し、外相・幣原喜重郎の下、対米英協調外交路線を展開。その延長上に、1930年1月21日から始まるロンドン海軍軍縮会議に若槻礼次郎を全権として派遣します。 また、蔵相・井上準之助蔵相の下、緊縮財政を実施し、輸出を高めることで、国内に正貨、つまり金を蓄積させ、1930年1月11日からの金解禁(金本位制への復帰)を断行しました。 これらの政策への国民の信を問うため、濱口が議会を解散して行われたのが、今回、ご紹介している推薦状が出された1930年2月の選挙でした。 結局、選挙で対象を納めた民政党政権は、“統帥権干犯”を理由とした海軍や野党・政友会の反対を押し切って軍縮条約を調印します。しかし、そのことが原因で、11月14日、濱口は東京駅で右翼青年の佐郷屋留男に狙撃され、重傷を負います。そのとき、駆けつけた医師に対して、漏らした言葉が「男子の本懐」だったといわれています。 一方、金解禁に関しては、濱口内閣の緊縮財政は世界恐慌のダメージをより深刻なものとする結果をもたらし、彼の持ち味である“断固たる姿勢”が裏目に出た結果となったことを見落としてはなりません。 どれほど、立派な人格をもち、高い理想を掲げていようとも、指導者は結果責任を問われます。その意味で、濱口内閣は、軍縮条約の功績は大きいと思いますが、その経済失政のゆえに、手放しに彼のことを絶賛する気にもなれない、というのが僕の率直な感想です。 <おしらせ> 4月7日(土)の午前中、東京・目白のカルチャービルにて行われる切手市場会場内にて、僕の最新刊『沖縄・高松塚の時代』の即売・サイン会を行います。切手市場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。 |
2007-03-22 Thu 00:40
神奈川横浜市の称名寺所蔵の大威徳明王坐像が、鎌倉時代の仏師・運慶の作品と確認されたそうです。なんでも、運慶の確実な作品が新たに判明したのは48年ぶりとか。
運慶の作品を取り上げた切手はいくつかありますが、今日は、できたてホヤホヤの新刊『沖縄・高松塚の時代:切手ブームの落日 1972-1979』に掲載の、この1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1977年6月27日、第2時国宝シリーズの第4集として発行された「制多伽童子像」の切手です。 制多伽童子像は1197年、高野山に建てられた不動堂の本尊、不動明王像に付属の八大童子像のひとつで、運慶の作と考えられています。像の頭上には五つの知恵を表す五つの髻を結い、両手に仏敵を調伏する三鈷杵と宝棒を持って立っている姿の像で、檜の板二枚を前後にあわせて頭と体の幹部をつくり内刳りして作られています。目には玉眼(レンズ型の水晶板)を入れ、像内には月の輪型の銘札が収められています。 この切手が発行された当時、僕は小学生でしたが、学校でもらったチケットで東京・大手町の逓信総合博物館に遊びに行った時、「逓博通信」なるパンフレットの表紙にこの切手の拡大写真が掲載されているのをみて、“制多伽童子”という名前とともに、強烈な印象を受けた記憶が鮮明に残っています。オリジナルの仏像が運慶の傑作ということを割り引いてみても、重厚な感じの凹版印刷はいま見ても十分に鑑賞に堪える一枚と言ってよいでしょう。 さて、以前からご案内しておりました<解説・戦後記念切手>シリーズの第5巻『沖縄・高松塚の時代:切手ブームの落日 1972-1979』ができあがりました。この切手を含む第2次国宝シリーズの詳細については、是非、同書をご参照いただけると幸いです。 ところで、『沖縄・高松塚の時代:切手ブームの落日 1972-1979』の奥付上の刊行日は3月25日ですが、目白の切手の博物館1階の“世界の切手ショールーム”では、本日から店頭に並ぶ予定と聞いています。 また、今週末の3月24-25日(土・日)に大阪天満橋OMMビル2階展示ホールにて開催の第20回関西スタンプショー・JAPEX 2006大阪展会場でも、昨年9月刊行の『満洲切手』とともに本書の販売を行う予定です。(ただし、僕自身は都合で大阪には行けません。あしからず、ご了承ください) 書店等でも実物をお見かけになりましたら、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。 なお、4月7日(土)の午前中、東京・目白のカルチャービルにて行われる切手市場会場内にて、本書の即売・サイン会を行います。切手市場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。 |
2007-03-21 Wed 00:30
以前からご案内しておりました拙著『沖縄・高松塚の時代:切手ブームの落日 1972-1979』ができあがってきました。今日(3月21日)は、ちょうど35年前の1972年に高松塚古墳で極彩色壁画が発見された記念すべき日で、このような日に本書刊行のご挨拶を皆様に申し上げることができたことを、筆者として嬉しく思います。(画像は表紙カバーです)
<解説・戦後記念切手>は、1946年以降に発行された記念・特殊切手(ただし公園・年賀切手を除く)について、切手発行の経緯やデザイン、当時の人々の評判などの情報を網羅的にまとめた“読む事典”です。2001年の刊行以来、昨年までに刊行した第1~4巻では、1946年12月の「郵便創始75年」から1971年末の「政府印刷事業100年」までを採録しましたが、今回の第5巻は、それを引き継ぎ、1972年2月の「札幌オリンピック」から1979年の「国土緑化運動」までの全記念切手についてまとめました。 体裁としては個々の記念切手の解説を集めたものというかたちをとっていますが、それぞれの切手についての記述を通じて、高度成長の時代が終わりを告げ、石油危機を経て日本社会が成熟していった時代の諸相を浮かび上がらせるよう、精一杯の努力をしたつもりです。 その中には、こんなエピソードも含まれています。 ・沖縄の本土復帰で切手や郵便はどうなった? ・国民全体の人気が過熱した高松塚保存の募金切手とは? ・小渕恵三元総理の“失言”から発行されることになった切手とは? ・ロッキード事件が産み落とした意外な記念切手とは? ・横綱・北の湖が郵政大臣から贈呈された切手とは? ・発行日が春闘にぶつかって全く売れなかった記念切手とは? このように、本書はバラエティ豊かな内容で、切手収集家の方はもちろん、戦後史に興味をお持ちの方にも関心を持っていただけるのではないかと考えております。 奥付上の刊行日は3月25日ですが、一部切手商の店頭などでは、早ければ今週木曜日ごろには実物をご覧いただけると思います。 また、今週末の3月24-25日(土・日)に大阪天満橋OMMビル2階展示ホールにて開催の第20回関西スタンプショー・JAPEX 2006大阪展会場でも、昨年9月刊行の『満洲切手』とともに本書の販売を行う予定です。 書店等でも実物をお見かけになりましたら、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。 なお、4月7日(土)の午前中、東京・目白のカルチャービルにて行われる切手市場会場内にて、本書の即売・サイン会を行います。切手市場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。 |
2007-03-18 Sun 00:24
(財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の3月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手の中の建設物」は今回が最終回。というわけで、ラストにふさわしい派手な1枚と言うことで、こんなモノをもってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1978年3月3日に発行された第2次国宝シリーズの「東照宮陽明門」です。 日光の東照宮は1617年に徳川家康を奉祀して創建された神社で、1636年に3代将軍家光によって建て替えられ、現在の絢爛豪華な社殿群となりました。8点の国宝、34点の重要文化財を含み、江戸初期 寛永文化の優れた絵師、名工達、技術集団によって生み出されたわが国を代表する宗教建築として、1999年にはユネスコの世界遺産にも登録されています。 このうち、陽明門は1634年に最初に作られたときは桧皮葺の屋根で回廊と透塀は銅瓦葺でしたが、1654年の修理で全てが銅瓦葺となり、1689年に拝殿と石の間が改築され、現在の姿となりました。構造材の先端や羽目板など各所におびただしい彫刻が施され、彩色と金具で飾り立てられている姿は、その見事さから見ていると日が暮れるのを忘れるという意味で“日暮の門”とも呼ばれています。 陽明門は、1926年の風景切手6銭に取り上げられたのを皮切りに、通常切手にはたびたび取り上げられていますが、特殊切手に取り上げられたのは今回が初めてです。シリーズ第1集が発行される前に発表された資料写真は風景切手6銭と同じ構図のものでしたが、実際に発行された切手は、門を正面から描くものとなりました。 切手は斉藤三男の撮影した写真をもとに渡辺三郎が原画構成を担当。凹版部分の原版彫刻は押切勝造が担当しています。いつもながら、戦後最高の名手と謳われた押切の彫刻は見事で、おびただしい数の彫刻や金具が緻密に再現されているだけでなく、背後の杉林の静謐な空気までもが表現されています。花粉症の僕なんかは、背後の杉林を見ているだけでなんだか鼻がむずかゆくなってくる始末です。本家の“日暮の門”に負けず劣らず、時間が経つのを忘れて見入ってしまう素晴らしい出来栄えの1枚といえましょう。 さて、戦後記念切手の“読む事典”<解説・戦後記念切手>シリーズの第5巻『沖縄・高松塚の時代:切手ブームの落日 1972-1979』の刊行が、いよいよ、間近に迫ってまいりました。奥付上の刊行日は3月25日ですが、今週半ばには、一部切手商の店頭などで実物をご覧いただけるだろうと思います。 今回の採録範囲は、今日ご紹介の「第2次国宝シリーズ」を含めて、1972年の「札幌オリンピック」から1979年の「国土緑化運動」まで。前作までと同様、対象期間の(公園・年賀を除く)全記念特殊切手についての情報がぎっしり詰まった1冊に仕上がっていますので、刊行の暁には、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。 |
2007-03-17 Sat 00:35
1907年3月17日に三木武夫が生まれてから、今日でちょうど100年になりました。三木といえば、何と言ってもロッキード事件ですが、ロッキード事件にまつわる切手については、すでに以前の記事で取り上げてしまったので、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1947年8月15日に発行された“民間貿易再開”の記念切手が貼られた台湾宛の初日カバーです。 終戦直後の1945年9月22日、日本の輸出入は連合国の完全なる管理下に置かれることが明示され、当面、疾病と社会不安を防止するための最低限の輸入と、その決済に必要な外貨を獲得するための輸出以外は許可されないことになりました。 こうした状況に対応すべく、日本側も国家が貿易を直接管理するための機関として、1945年12月14日に貿易庁を設置。さらに、1946年6月20日、貿易等臨時措置令の公布により、「別に定める場合を除いては政府以外の者は物品を輸出し又は輸入することが出来ない」として、貿易の国家管理という原則が明示されました。その後、1947年4月、従来の輸入協会や輸出組合に代わり、アメリカ式の公社に範を採った貿易公団 が設立され、同年7月1日より活動を開始。貿易交渉を貿易庁が、実際の輸出入業務を各貿易公団が、それぞれ担当する体制が確立しました。 こうして、占領下日本の貿易国家管理体制が整ったところで、1947年6月10日、GHQは同年8月15日から制限つきの“民間貿易”再開を許可すると発表。8月15日以降、各国のバイヤーの来日と、日本への総額五億ドルのクレジット設定、輸出製品に必要な材料の一部輸入などを許可することとし、戦後日本の「民間貿易」が再開されました。 もっとも、民間貿易の再開とはいっても、当時の貿易国家管理の原則により、①輸出入品は政府がいったん買い取る、②契約には連合国軍総司令部の確認が必要とされる、③為替レートは商品ごとに取引のたびに決められる、④輸出品にはMADE IN OCCUPIED JAPAN(占領下日本製)の表示を行う、など大きな制約がありました。それでも、民間貿易の再開は、敗戦国日本が国際社会に復帰する第一歩として当時の国民から歓迎され、各都府県市の商工会議所を中心とした各種の祝賀行事もさかんに行われました。今回ご紹介の切手もその一環として発行されたものです。 民間貿易再開の方針がGHQより発表されると、逓信省でも記念切手の発行を計画。1947年6月24日、逓信大臣の諮問機関である逓信文化委員会で発行の計画が承認されたことを受けて、発行に向けての実務作業が開始されました。 このときの逓信大臣というのが、当時、40歳だった三木武夫でした。 1937年に明治大学法学部を卒業し、30歳で衆議院議員総選挙で初当選した三木は、戦前、軍部に対しては批判的な立場を取り、対米戦争反対の論陣を張って大政翼賛会にも参加しませんでした。このため、戦後は公職追放を免れ、保守・革新の双方と一線を画した中間派政党の国民協同党で書記長を務め、1947年6月1日、日本社会党首班の片山哲内閣に伴い、逓信大臣として初入閣を果たしたというわけです。ちなみに、今回ご紹介の記念切手は、三木逓信大臣時代の最初の記念切手となりました。 さて、当初、切手の図案としては、貿易船の船尾に翻る日章旗を描くものと、MADE IN JAPANの文字の入った輸出品の積荷風景を描くものの二種類が用意されましたが、これらは結果として不採用となりました。 このため、当時の輸出品のなかから適当な題材を選んで図案を作成することになり、渡邉三郎が作成した下図を修正したものが切手として採用されることになりました。 渡邉のデザインした切手のうち、1円20銭切手には扇子、置時計、熊手、ギター、玩具、人形、カメラが、また、4円切手にはコーヒー・セット、電気スタンド、織物、生糸、ガラス器具、真珠のネックレスと真珠貝が、それぞれ描かれています。これらは、いずれも、当時の日本の代表的な輸出商品でした。 なお、渡邉の原画では、当初、国号の中央に菊花紋章が入れられていましたが、実際に発行された切手では、菊花紋章は外されています。これは、1947年7月、占領軍民間情報局宗教課長のバーンズが、民主国家として切手上から菊花紋章を除くべきだとの“意見”を述べたことによるものでしたが、デザイナーの渡邉は菊花紋章がなくなることで切手全体を引き締めるポイントがなくなったと不満を漏らしています。 さて、たび重なる変更により、原画の完成が当初予定よりも大幅におくれましたが、印刷局の懸命の努力により、六大都市の郵便局ではなんとか8月15日から発売するよう準備が整えられました。しかし、その他の郵便局では、8月15日に記念切手を売り出すことができなかったため、逓信省は、8月15日付で次のような異例の告示を出しています。 逓信省告示第二百六十二號 民間貿易再開記念として、本日から、次の様式の一圓二十銭及び四圓の各郵便切手を發行し、東京都内普通郵便局、横濱、名古屋、大阪、京都及び戸の各市内郵便局においては發行當日から、その他の郵便局においては同日以後、現品到着次第これを賣りさばく。 昭和二十二年八月十五日 逓信大臣 三木 武夫 ところで、今回ご紹介しているカバーですが、当時の日本は占領下で外信便にもいろいろと制限があり、切手収集家が外国との郵便で切手を交換することは認められていなかったため、検閲で“不許可”として差出人に返送されています。“民間貿易の再開”の記念切手が貼られているのに、切手の交換もできないところに、占領されている国の悲哀を感じるんは僕だけではないでしょう。 なお、この切手を含めて、占領時代の記念特殊切手については、拙著『(解説・戦後記念切手Ⅰ)濫造・濫発の時代 1946-1952』でくわしくまとめていますので、こちらをご参照いただけると幸いです。 |
2007-03-13 Tue 09:34
2008年の北京五輪が“無煙(ノースモーキング)五輪”となる方向で進んでいるそうです。で、ひねくれ者の僕としては、“禁煙”ではなくて“無煙”という表現が使われていることに反応してしまって、こんな葉書を引っ張り出してみました。(画像はクリックで拡大されます)
この葉書は、1941年5月に満洲国で発行されたもので、表面下部に“アヘンを禁じることが民族の復興につながる”という趣旨の「禁煙拒毒 復興民族」という標語が入っています。 ここでいう“禁煙”とは、われわれが日常的に使う意味での禁煙ではなくて、アヘンの吸引をやめるということです。 満州におけるアヘン栽培の歴史は古く、日露戦争後には地元の農民によって大規模なアヘン栽培が行われていたことが関東州民政署の記録にも記されています。 1932年11月、建国間もない満州国政府はアヘン専売公署を設置するとともにアヘン法を公布し、大豆(満州国最大の輸出商品)の3倍の利益をもたらすともいわれたアヘンの専売に乗り出します。その一方で、満州国政府はアヘン中毒者の根絶を目指してアヘン禁止政策を打ち出したものの、1941年に太平洋戦争が勃発すると対外支払いにはアヘンが使われるようになり、かえってケシの栽培は拡大していきました。 こうした状況では、アヘン中毒者の根絶は現実の問題として非常に困難で(ほかならぬ皇帝溥儀の皇后婉容が重度のアヘン中毒であったことは広く知られています)、満州国政府としても、はがきという国民に身近な媒体を用いてアヘン吸引の禁止を呼びかけざるを得なかったわけです。 ちなみに、このとき発行された葉書の標語には、日本語のものと中国語のものがありますが、“禁煙”に関しては中文の標語だけで、和文の標語がありません。これは、アヘン中毒者の多くが中国系の住民(“満人”と呼ばれていた)であったという事情によるものでしょう。 なお、この葉書を含め、満洲国で発行された標語入りのはがきについては、拙著『満洲切手』でいろいろと論じてみましたので、ご興味をお持ちの方は是非ご一読いただけると幸いです。 |
2007-03-12 Mon 00:59
大相撲の春場所が始まりました。というわけで、今日はこの1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、相撲絵シリーズの第5集として1979年3月10日に発行された歌川国芳「武隈と岩見潟取組の図」の切手です。 歌川国芳は、1797年、江戸日本橋に染物屋の息子として生まれ、1811年に初代豊国に入門しました。相撲絵シリーズにたびたび作品が取り上げられている初代国貞(三代豊国)は兄弟子に当ります。1827年頃に発表した『水滸伝』が評判となり、人気絵師となり、1861年に亡くなるまでに役者絵、武者絵、美人画、名所風景から戯画、春画までさまざまなジャンルの作品を残しましたが、中でも歴史、伝説、物語などに題材を採り、大判三枚続きの大画面に巨大な鯨や骸骨、化け物などが跳梁するダイナミックな作品に本領を発揮しました。 切手に取り上げられた「武隈と岩見潟取組の図」は、1844年春場所の両力士の取組(両力士がこの四股名で対戦したのはこのときのみ)を描いたもので、切手には3枚続きのうちの左の2枚が取り上げられました。取り上げられている人物は、左から順に、年寄・武蔵山、武隈、岩見潟です。 武隈は、1798年、江州神崎郡今代村(現・滋賀県東近江市)に生まれました。江戸へ出て雷権太夫に入門し、1824年、冬勇山岩右衛門の四股名で幕下へ昇進。以後、毎場所好成績を残しながらも昇進は遅れたばかりでなく、1836年に阿武松引退の後を受けて大関に昇進したものの、1841年冬場所に関脇に降格され(前場所で武隈は6勝1敗の好成績であったが、8戦全勝の鰐石が大関となったため)、以後、1845年春場所に引退するまで関脇の座にありました。幕内での通算成績は、120勝52敗19分13預かりでした。 一方、岩見潟は、シリーズ第一集の切手に取り上げられた秀ノ山雷五郎と同一人物です。 秀ノ山雷五郎は、1808年、陸前国本吉郡最知村(現・宮城県気仙沼市最知川原)の出身で、力士を目指して江戸に上り、1827年、秀ノ山伝治郎に入門。身長5尺4寸(164センチ)しかないというハンディを克服し、天津風雲衛門の名で1837年に入幕後は好成績を残して昇進を重ね、1841年には当時の最高位であった大関に昇進しました。この間、立神雲右衛門、岩見潟丈右衛門と改名しています。1844年には師の名を継いで秀ノ山雷五郎を名乗り、二場所連続で土付かずの実績が認められて、1845年、横綱が免許されました。1850年に現役を引退するまでの幕内27場所の通算成績は112勝21敗33分2預かりで、引退後は年寄り秀ノ山として重んじられました。 なお、武隈と岩見潟の対戦成績は、武隈2勝、岩見潟3勝、3分で岩見潟が一つ勝ち越しています。 ところで、この切手は、連刷を切り離した場合、左側の切手単片だと年寄の武蔵山と武隈の脚のみが取り上げられた形となってしまいます。このため、武隈の足が大きく目立つことをとらえて、左側の切手を“脚相撲”と揶揄する人もいました。 さて、この切手を含めて、相撲絵シリーズについては、今月25日、大相撲春場所の千秋楽の日に刊行の<解説・戦後記念切手>シリーズ第5巻『沖縄・高松塚の時代』で詳しくまとめています。刊行の暁には、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。 |
2007-03-11 Sun 01:08
数日前の報道によると、沖縄県が米軍や那覇防衛施設局から入手した契約資料などに基づいて厳密に計算したところ、同県には米軍基地の約75%が集中しているにもかかわらず、在日米軍全体の発注の約8割を本土の業者が受注しており、“経済効果”の多くは本土に移っている実態が明らかになったのだそうです。
このニュースを聞いて、こんな1枚を思い出しました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1974年3月2日に発行された、沖縄海洋博のための寄附金つき切手です。 沖縄の復帰記念事業ならびに地域振興策の一環として国際海洋博覧会(海洋博)を沖縄で開催すべきというプランは、1969年の日米共同声明により1972年の沖縄返還が確定した頃からすでに浮上していましたが、沖縄での公式の誘致運動がスタートするのは、1970年に海洋博沖縄開催推進協議会が発足してからのことでした。 海洋博沖縄開催推進協議会の誘致活動を受けて、1970年8月15日、琉球政府は沖縄で海洋博を開催したい旨、日本政府に対して正式に要請。これを受けて日本政府は1971年6月、通産省に沖縄海洋博覧会調査室を設け、10月22日には海洋博実現のための国際手続きを進めることで閣議了承を行います。日本政府による海洋博開催の申請は、同年11月24日の国際博覧会事務局の理事会で承認され、1972年3月24日、「昭和50年に沖縄で海洋博覧会を開催すること」が決定されました。 この間、1972年2月1日には財団法人・沖縄国際海洋博覧会協会(海洋博協会)が海洋博の推進母体として設立されるとともに、2月29日には、沖縄本島の本部(もとぶ)半島先端の桃原とその対岸の一帯百ヘクタールを会場とすることが決定されます。 会場となった桃原は那覇から80キロメートル離れた地点にあります。こうした土地があえて会場に選ばれたのは、海洋博の開催を機に、沖縄県内の道路をはじめとするインフラ整備を一挙に進めようという目論見があったためです。 また、1972年2月に開催された第68回国会では、海洋博協会に対して、政府並びに関係機関が資金の調達や人材の確保で支援を行えるようにするため、「沖縄国際海洋博覧会の準備及び運営のために必要な特別措置に関する法律」(海洋博特措法)が成立しています。 1972年5月の復帰後は、同年年6月の沖縄国際海洋博覧会関係閣僚協議会の設立を経て、1973年1月30日、通産大臣を本部長とする沖縄国際海洋博覧会推進対策本部が設置され、本格的な準備が進められることになりました。 さて、海洋博特措法の第3条には、寄付金つき切手の発行に関して次のような規定がありました。 お年玉郵便葉書及び寄附金つき郵便葉書等の処理に関する法律(昭和24年法律第224号)第5条第1項に規定する寄附金つき郵便葉書等は、同条第二項に規定するもののほか、博覧会協会が調達する博覧会の準備及び運営に必要な資金(以下「博覧会準備等資金」という。)にあてることを寄附目的として発行することができる。この場合においては、博覧会協会を同項の団体とみなして同法の規定を適用する。 この規定に基づき、郵政省は1974年3月2日に寄付金つき切手を発行しました。切手は、額面20円に対して5円の寄付金をつけたもので、発行枚数は5000万枚。総額2億5000万円の寄付金を集めることが目標とされています。 切手には、日本画家・平福百穂の作品「荒磯」が取り上げられました。切手に取り上げられた「荒磯」は1926年の屏風絵で百穂の代表作の一つですが、画題と沖縄とは直接の関係はありません。おそらく、海洋博のテーマである“海”にちなんだものとして今回の切手に取り上げられたものと考えるのが妥当でしょう。 なお、切手によって集められた寄付金のうち、必要経費を差し引いた2億2795万7726円は沖縄海洋博覧会協会に配分され、海洋博会場北ゲートターミナル管理サービス施設の建設資金に充てられました。 海洋博の場合、インフラ整備が急速に進んだという意味で沖縄県にもかなりの経済効果があったわけですが、冒頭でご紹介したようなニュースを聞くと、このときの約2億2800万円というお金も、結局は本土の業者がほとんどもって行ってしまったんだろうなぁ、とちょっぴり複雑な気分になります。 なお、この切手を含めて、沖縄海洋博に関する記念切手については、今月25日刊行の<解説・戦後記念切手>シリーズの第5巻『沖縄・高松塚の時代』で詳しくまとめています。刊行の暁には、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。 |
2007-03-10 Sat 00:31
能楽師・観世流の中所宜夫さんがアンデルセン童話「ある母親の物語」をもとに現代語で書き下ろした能楽劇「命の花」が今日(3月10日)、東京・新宿区の矢来能楽堂で演じられるのだそうです。能についての知識がまったくない僕は、アンデルセンと能という組み合わせに戸惑うばかりですが、まぁ、東西文化融合の試みとしては、きっと意義のあることなのでしょう。
で、土着化というか現地化というか、世界各地でその土地なりにアレンジされたアンデルセンということで思い出したのがこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます) これは、2005年3月、中国香港(以下、香港)が発行した「アンデルセン生誕200年」の記念切手の1枚で、『人魚姫』(切手上の表記は、中国語風に“小美人魚”となっています)を取り上げたものです。中国の伝統的な切り絵風のデザインが、なんとも印象的な1枚です。 以前の記事でも書きましたが、アンデルセンの生誕200年に関しては、中国が6月1日から浙江省・杭州市で開催した“第1回中国国際アニメ・マンガフィスティバル”にあわせて、自国アニメの“商品見本”として記念切手を発行しています。こちらの場合は、海外のマーケットを意識して欧米や日本風のデザイン(平たく言えば、あんまり中国っぽくないデザイン)が採用されています。 これに対して、香港の切手は思いっきり中国テイストあふれるデザインです。人魚姫を中国風に再現することの是非はともかくとして、こうした切手が発行されるということは、それじたい、香港の“中国化”が着々と進展していることを見せ付けられているかのようにな感じるのは僕だけではないでしょう。 いまさらいうまでもないことですが、返還後の香港は“中国化”が急速に進んでおり、かつての英領時代の痕跡は急速に失われつつあります。もちろん、イギリス時代の香港が理想郷だったというつもりはないのですが、大陸の共産党政権がどうしても好きになれない僕としては、かつての香港には確実にあった“コロニアル”のよさが日に日に失われていくのは、なんとも淋しい思いがしてしまいます。(こういうことを書くと怒る人がいるんだろうなぁ。きっと) 現在、10年前に出した『切手が語る香港の歴史』の全面リニューアル版の書籍(たぶん、分量的に前著の倍ぐらいのボリュームになると思います)を作っているのですが、かつての古きよき英領香港の残り香のようなものをどれだけ再現できるか、それが勝負の分かれ目だろうなと自分なりに考えている今日この頃です。 |
2007-03-09 Fri 00:26
東京新聞などに通算44年にわたって連載されてきた佃公彦の連載漫画「ほのぼの君」が昨日(8日)付の紙面で終了したのだそうです。1956年3月23日の初登場以来の総回数は1万5451回で、国内の新聞連載漫画としては、もちろん最長不倒記録だとか。というわけで、今日はこの1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは1978年8月1日に発行されたラジオ体操50年の記念切手で、佃公彦によるラジオ体操50年のシンボルマークの一部(正式なマークは、このキャラクターを円で囲んだものだが、切手では外縁の円が除かれている)が描かれています。 世界で最初のラジオ体操は、ニューヨークに本社を置くメトロポリタン生命保険会社が1925年3月に実施したものです。ちょうどそのころ、メトロポリタン生命保険会社を視察した逓信省簡易保険局監督課長の猪熊貞治は、ラジオ体操が人気を集めていることに注目。帰国後の同年7月、日本にメトロポリタン社のラジオ体操を紹介し、日本人の体格向上のため、「老若男女を問わず」、「誰にでも平易にできる」、「如何なる場所でもできる」ものとして国民保険体操をラジオで実施することを提唱しました。 これを受けて、1927年8月、国民の健康の増進などを目的として、簡易保険局がラジオ体操の実施を決定。翌1928年11月の昭和天皇の即位の大礼の記念事業の一つとして、11月1日、東京圏でラジオ体操の放送が開始されました。 一方、児童などを集めて行うラジオ体操会は、1930年7月、東京の神田万世橋警察署の面高巡査が、町内会の世話人とともに付近の児童を集めて、佐久間小学校(現・佐久間公園)で「早起きラジオ体操会」を始めたのが最初で、以後、急速に全国へ広まりました。なお、当時のラジオ体操会は、当時の夏休み初日にあたる8月1日から実施されるのが一般的でした。 記念切手は、1978年をラジオ体操の50周年と位置づけて発行されたものですが、そうなると、本来の記念日は11月1日になります。しかし、現在では、ラジオ体操(会)というと夏休み中の児童の行事というイメージが一般には強いため、ラジオ体操が始まった頃の夏休みが毎年8月1日から始まっていたことを踏まえ、発行日を8月1日に設定したというわけです。 この切手が発行された当時、僕は小学生でした。わが家は『東京新聞』を取っていたわけではないので、新聞連載の「ほのぼの君」を読んでいたわけではないのですが、佃公彦の描くキャラクターそのものは知っていましたので非常に親しみを感じた記憶があります。もっとも、同じころの切手の中では、(第2次)国宝シリーズの方が好きでしたが…。 ちなみに、僕が今までやってきた最長の連載というのは、この3月いっぱいで終了予定の「切手に見る韓国現代史」(『週間東洋経済日報』)が現在6年目、回数にして200回ちょっとです。「ほのぼの君」の記録に並ぶなんてことはまず無理ですが、4月以降も継続する予定の連載はいくつかありますので、一日でも長く、それらを続けられるように頑張りたいものです。 さて、戦後記念切手の“読む事典”<解説・戦後記念切手>シリーズの第5巻『沖縄・高松塚の時代:切手ブームの落日 1972-1979』が、いよいよ、3月25日に刊行になります。 今回の採録範囲は、今日ご紹介の切手を含めて、1972年の「札幌オリンピック」から1979年の「国土緑化運動」まで。前作までと同様、対象期間の(公園・年賀を除く)全記念特殊切手についての情報がぎっしり詰まった1冊に仕上がっていますので、刊行の暁には、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。 |
2007-03-08 Thu 01:30
ロシアの2月革命はユリウス暦の1917年2月23日に起こったことからこの名で呼ばれていますが、この日付は、現在一般に使われているグレゴリオ暦では1917年3月8日(ちょうど90年前)となります。というわけで、今日は、革命によって滅亡したロマノフ朝を偲んで、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1863年に帝政ロシアがオスマン帝国内に設けていた郵便局で使用するために発行した最初の切手です。上部のマージンがちょっと狭い(ただし、印面にはタッチしていません)とか、中央部にちょっと糊のシワがあるとか、コンディションの点ではイマイチですが、まぁ勘弁してください。 オスマン帝国の領内における帝政ロシアの郵便活動は、1721年にサンクトペテルスブルグ=イスタンブール間で外交文書を運んだのが最初といわれています。その後、1774年になるとイスタンブールの領事館で郵便物の定期的な取り扱いが始まり、ロシア側は“治外法権”を援用するかたちで郵便網を拡充していきます。 郵便印が用いられるようになったのは1830年ごろのことで、1856年にはロシア通商航海会社(ROPiT)による郵便サービスが始まり、オデッサ経由でオスマン帝国内の同社のオフィスからロシア全土への郵便物の配達が可能となりました。 1863年、オスマン帝国内のROPiTのオフィスはロシア国内の郵便局と同等の資格を与えられ、実質的なロシア局として機能するようになります。これに伴って発行されたのが、今日ご紹介している6コペイカの切手というわけです。 さて、切手には大きくロマノフ家の紋章である“双頭の鷲”が描かれています。 双頭の鷲は、もともとは、東ローマ帝国で東洋と西洋の両方にローマ皇帝の支配を意味するものとして使われていました。東ローマ帝国の後継者を自負していたロマノフ朝は、東ローマ帝国にならい「西(ヨーロッパ)」と「東(アジア)」にまたがる統治権を象徴するため、この紋章を採用しています。 双頭の鷲の紋章は、当時のロシア本国の切手にも描かれているのですが、いかんせん、切手が小さいので細部はよく見えません。その点、今日ご紹介の切手は、本国切手に比べて大判なので、細かいところまで見えるのが嬉しいところです。 なお、“双頭の鷲”は、ロマノフ家以外にも、ヨーロッパ各地の王室等の紋章として用いられていますが、それぞれ、微妙に異なっています。有名なところではハプスブルク家の紋章もそうですが、それがロマノフ家とどう違っているのか、そのあたりの薀蓄は、オーストリアと切手が大好きというユリヤ嬢のブログで、いずれ読めるんだろうと期待したいところです。 |
2007-03-07 Wed 00:50
アラブ首長国連邦(UAE)の首都・アブダビに建設予定の美術館が「ルーブル・アブダビ」を名乗り、パリのルーブル美術館から美術品の大量の貸与を受ける契約が調印にこぎつけたのだそうです。契約額は約10億ユーロ(約1500億円)だとか。
というわけで、アブダビがらみのストックの中からこんなものを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1966年12月、アブダビからイギリス宛に差し出されたカバー(封筒)で、同年9月に発行された加刷切手が貼られています。 1971年にUAEが発足する以前のアブダビでの近代郵便制度は、1960年に沿岸のダス島に暫定的な郵便局が置かれ、現地通過の額面を加刷したイギリス切手が使われるようになったことから始まります。 当時、イギリスと休戦協定を結んで保護国になっていた“休戦協定諸国(trucial states)”のなかで、アブダビとドバイという“2大首長国”は積年のライバルとしてあらゆる面で張り合っていました。以前の記事でも書きましたが、イギリスが“休戦協定諸国”共通の切手を発行しようとした際「ドバイの風下に置かれるような扱いは真っ平ごめんだ」として、アブダビがその切手を拒否したことは、そうした両者の関係を象徴するエピソードといえます。 結局、“休戦協定諸国”共通の切手を拒否したアブダビは、1963年3月、アブダビ市内に郵便局を設置。その1周年にあたる1964年3月から独自の切手を使用しはじめます。 ところが、1966年6月、休戦協定諸国の共通通貨であったガルフ・ルピーが為替市場で暴落したため、アブダビは、同年9月以降、バハレーン・ディナールを域内通貨とする通貨改革を実施。この間、アブダビ域内では、暫定的にサウジアラビア・リヤルが基準通貨として流通していましたが、同年8月、経済政策の失敗から首長のシャクブートは退位に追い込まれてしまいます。これを受けて、9月以降、バハレーン・ディナール表示の新額面とともに、彼の肖像を抹消する加刷の施された切手が発行・使用されました。今回ご紹介のカバーは、その加刷切手が貼られているものです。 その後もアブダビとドバイの対立関係は1960年代を通じて続いていくのですが、1971年、両者を含めた7首長国が集まって“アラブ首長国連邦”が結成されます。これは、イギリス軍がこの地域から撤退するため、対岸のイランの脅威に直接さらされることになった首長国が団結せざるを得なくなった結果でした。 なお、UAEができあがっていくまでの“アラブ土侯国”とその郵便については、拙著『中東の誕生』でもまとめていますので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。 |
2007-03-04 Sun 00:49
3月4日は、1972年に「日米渡り鳥保護条約」が調印された日なのだそうです。というわけで、今日はこんなものを持ってきてみました。(画像はクリックすると拡大されます)
これは、1974年3月25日、「自然保護シリーズ」の第1集として発行された“イリオモテヤマネコ”の切手です。 1960年代の高度成長期以降、公害や自然環境の破壊が問題視される中で、切手発行政策にも自然環境の保護・保全の意味が込められるようになったのは、1971年4月に発行された「国土緑化運動」の切手 が最初のことで、このときの切手発行に関して、郵政省は“近年各種公害の発生が重大な社会問題として採りあげられるにおよび環境保全のためにも国土緑化の必要が痛感されている”としてキャンペーン切手発行の意義を強調しています。 その後、1971年7月に環境庁(現・環境省)が発足したことに加え、1972年6月にストックホルムで国連人間環境会議が開催されることもあって、郵政省部内では、昭和47年度の切手発行計画を策定するにあたって、自然環境保護が切手発行の重要なテーマとして検討されています。 ただし、新たに自然環境の保護を題材とした切手と発行することに関しては、部内でも意見が分かれていたようで、当時の『切手』誌には次のような当局者(匿名)のコメントが掲載されています。 自然環境保護についての要請があったことも時代の反映というべきでありましょうが元来国立、国定公園シリーズそのものがこの要請に対応するものでありますので発行の意義を従前にも増して強調していきたいと考えております。 結局、昭和47年度においては、自然保護と関連する題材の切手としては、前年同様、“国土緑化運動”の切手 が発行されただけで、つづく昭和48年度の切手発行計画が発表された際にも、当初は“国土緑化運動”以外には、自然保護を第財とした切手が発行されるという予定は公表されていませんでした。 ところが、1973年10月25日、郵政省は、突如、年度末ギリギリの1974年3月25日に「自然保護シリーズ」の第1集として“イリオモテヤマネコ”の切手を発行すると発表します。この時点では、昭和48年度から発行が開始されることになっていた「昔ばなしシリーズ」の第1集 もまだ発行されていない時期の出来事であっただけに、緊急性を要するとは思われないシリーズ切手が、なぜ、突如として追加発行されなければならないのか、不審に思う収集家も少なくなかったようです。 実際、郵政省としては、当初は昭和49年度に入ってから、純粋に日本に生息する貴重動物を紹介する「動物シリーズ」の発行を計画していたようで、シリーズ第1集として発行された「イリオモテヤマネコ」の官封の表面も、「動物シリーズ『イリオモテヤマネコ』」との表示の「動物シリーズ」の部分を二重線で抹消して、急遽「自然保護シリーズ」と改められています。 このように、1974年3月から「自然保護シリーズ」の発行が開始されることになった真相は依然として明らかにされていませんが、この時期に発効した日米渡り鳥条約 ならびにほぼ同時期に調印された日ソ渡り鳥条約 および日濠渡り鳥条約 の記念切手に変わるものとして企画されたという説が有力です。 ちなみに、シリーズ切手の発行開始に当たって郵政省切手室は、切手発行の意義と目的を次のように説明しています。 人間は、自然との調和の中で、幸福な生活を営んでいます。そして人間は、自然な順応過程のなかで、自然との調和のとれた状態をつくるようにできています。しかし、時として、自然への働きかけが破壊的な結果をもたらすことがあります。 私達は、ここ10数年間の自然破壊の歴史のなかから、皮肉にも「自然がなければ生きていけない」ということを知りました。そして自然保護の重要さを再認識しました。1971年には環境庁が発足し、その後、日米、日ソ及び日濠間の渡り鳥条約(協定)が調印され、日本を始め世界的に自然保護に対する関心が高まっています。 郵政省は、このような趣旨をふまえ、自然保護シリーズ切手を発行することとなりました。 こうして、1978年まで5年にわたるロング・シリーズとしての「自然保護シリーズ」の発行が始まるわけですが、その全貌については、今月25日刊行(予定)の<解説・戦後記念切手>シリーズの第5巻『沖縄・高松塚の時代』で詳しくまとめています。刊行の暁には、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。 |
2007-03-03 Sat 00:38
今日はひな祭りの日です。というわけで、そのものズバリの切手としてこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1962年3月3日、「季節の行事切手」の第1集として発行された“ひなまつり”です。 季節にあわせて特殊切手を発行するという計画は、1950年代半ばから、郵政省の内部では検討されていましたが、それが具体的なかたちで実を結んだのは、1961年、郵便創業90年の特別企画として発行された“花切手”が最初のことでした。 この花切手の第一段として、同年1月31日、“すいせん”が発行されると、郵政省は翌1962年にも季節に合わせたシリーズ切手を発行すべく、企画の検討を開始。その結果、古くから日本に伝わる年中行事の中から、四季おりおりの代表的なものを切手の題材として選んで、シリーズとして4回にわけて発行するという案が採用され、同年9月27日、「季節の行事切手」の発行計画が決定されました。なお、このシリーズについては、年中行事シリーズとか、伝統行事シリーズという名前でも呼ばれていますが、発行当時の郵政省側の呼称は「季節の行事切手」です。 さて、このとき決定されたシリーズとしての概要は、以下のとおりです。 春:ひなまつり 夏:たなばた 秋:七五三 冬:節分(立春の前日) また、シリーズのスタートは、1962年3月の“ひまなつり”からということもあわせて決定されます。これは、花シリーズが年度の変わり目とは無関係に1月からスタートしていたという先例があったことに加え、4月の新年度以降にシリーズをスタートさせると、翌1963年2月の“節分”と三月の“ひなまつり”の間隔が近すぎるという問題があったためです。 こうして、シリーズの具体的なプランが決まったところで、1961年10月6日までに、郵政省のデザイナーたちが、シリーズ最初の“ひなまつり”の原画を作成します。この結果、久野実の版画調の作品、渡辺三郎の童画調の作品、大塚均の日本画調の作品、のなかから、大塚の作品が原画として採用となりました。また、シリーズ全体の統一感を出すため、残りの三種についても大塚が原画を担当することも、あわせて決定されています。 ところで、今回の切手発行にあわせては、特印の類は使用されず、初日カバーには京都の中京局の風景印を用いた例が多かったようです。また、切手の発行に合わせて、京都四條の大丸百貨店では3月3・4日の両日、「ひなまつり切手発行記念ひな人形展」が開催され、小型印も使用されましたため、この小型印を押した初日カバーもしばしば見受けられます。 なお、この切手を含む「季節の行事切手」についての詳細は、解説・戦後記念切手シリーズの第3巻『切手バブルの時代』をご覧いただけると幸いです。 * 今月25日には、シリーズ第5巻『沖縄・高松塚の時代』が刊行の予定です。刊行の暁には、こちらも是非、よろしくお願いします。 |
2007-03-01 Thu 00:25
今日は、1932年3月1日に満洲国が建国されてから75周年にあたります。というわけで、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1933年3月1日に満洲国が発行した建国1周年の記念切手の1枚で、月桂樹に囲まれた満洲国の地図と国旗が描かれています。 満洲国の国旗は、1928年以前の北京政府の五色旗をベースに作られたもので、黄色の地に他の4色を左上に配したものでした。それぞれの色は、青が東方、赤が南方、白が西方、黒が北方、黄色が中央をあらわしています。しかし、いつの間にか、黄色が満州民族と統一、赤が日本民族および情熱、青が漢民族および青春、白がモンゴル民族および純真、黒が朝鮮民族と決心を表し、国旗全体で“五族協和(日・朝・満・蒙・漢の五民族が協力して平和国家を建設すること)”という建国の理念が表現されたものという俗説が広まり、本来の意味合いはあまり顧みられなくなっていきました。 なお、今回の記念切手では、“建国一周年記念”と“記念”の表示が使われていますが、実は、“記念”という表記は日本式のもので、中国語で同様の意味内容を伝える場合には“紀念”と表記するのが一般的です。これは、切手のデザインを担当したのが、日本人の吉田豊であったことによるものなのですが、そうしたところからも、満洲国の支配下で生活している人々は、彼らを統治している政府が日本人によって作られたものであることを見せつけられていたといってもよいでしょう。 さて、満洲国とその切手をめぐるさまざまなドラマについては、昨年刊行の拙著『満洲切手』でさまざまな角度から分析してみました。今年は建国75周年という節目の年ですし、上戸彩主演のドラマ、李香蘭が話題になったということでもありますので、ぜひとも、この機会にご一読いただけると幸いです。 |
| 郵便学者・内藤陽介のブログ |
|