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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 世界漫郵記:コーチン③
2012-05-31 Thu 16:10
 『キュリオマガジン』2012年6月号が出来上がりました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記 インド西海岸篇」は、前回に引き続き、コーチン(コーチ)の3回目です。その記事で使ったモノの中から、こんなモノをもってきてみました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

        トラヴァンコール・コーチン葉書

 これは、旧トラヴァンコール・コーチンの葉書で、印面は、向かい合う2頭の象を取り上げたトラヴァンコール・コーチンの紋章となっています。

 現在のインド各州の境界は、1956年11月1日、使用言語に沿ってほぼ決められました。現在のケーララ州もこの時の州割によって誕生しましたが、その範囲は、旧トラヴァンコール・コーチン州を母体として、旧トラヴァンコールの南端をマドラス州に割譲する代わりに、マドラス州マラバル県が統合されました。この時採用されたケーララ州の紋章は、向かい合う2頭の象の間にホラ貝(トラヴァンコール藩王の紋章)と“アショーカの獅子柱頭”を配したデザインです。

 現在のケーララ州の前身にあたるトラヴァンコール・コーチンは、英領インド時代の藩王国だった北ケーララのコーチンと南ケーララのトラヴァンコールが合併して1949年7月1日に発足しました。当初は、藩王国としての立場を維持した“連合政権”でしたが、1950年の憲法施行により、インド共和国のトラヴァンコール・コーチン州となります。

 このトラヴァンコール・コーチンの紋章は、現在のケーララ州の紋章の獅子柱頭の部分がインド国旗に用いられているのと同じ法輪のデザインでした。

 ところで、1947年にインドとパキスタンが分離独立した後も、インドに加わったコーチンとトラヴァンコールでは独立以前同様、藩王国時代の先例を踏襲し、ケーララ域内でのみ有効な独自の切手の発行が続きました。そればかりか、1949年にトラヴァンコール・コーチンとして両者が合併した後も、トラヴァンコール・コーチンとして、インド中央とは別の切手が発行・使用されています。

 そこで、トラヴァンコール・コーチン郵政をインド郵政に統合するための第一段階として、まず、トラヴァンコール・コーチン州発足後の19501年6月6日、トラヴァンコール・コーチン切手をインド切手同様にインド全域のみならず外国宛郵便物にも有効なものとして、両郵政の差異をなくしたうえで、翌1951年7月1日、トラヴァンコール・コーチン切手の使用を停止しました。ただし、いわゆる公用切手に関しては、使用停止は1951年9月までずれ込んでいます。

 さて、今回の連載記事では、現地で見たプーラムの話を中心に書きました。そこで、ケーララの象に関するマテリアルをいくつかご紹介しましたが、今回ご紹介のマテリアルもその一つというわけです。機会がありましたら、ぜひ雑誌の実物を手にとってご覧いただけると幸いです。

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 中国大使館員のスパイ疑惑
2012-05-30 Wed 16:42
 中国人民解放軍の情報機関である総参謀部出身で、スパイ疑惑がある在日中国大使館の一等書記官・李春光が、日本警察当局の出頭命令(外国人登録証を不正に更新した疑いと外交官の商業活動を禁じたウィーン条約違反による)を拒否して帰国していたことが昨日(29日)、明らかになりましたが、その後、問題の外交官が民主党の筒井信隆農水副大臣と接触し、結果的に、農林水産省の機密文書の内容を把握していた疑いのあることがわかりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        ゾルゲ(東ドイツ)

 これは、1976年に東ドイツで発行されたリヒャルト・ゾルゲの切手です。

 いわゆるゾルゲ事件の首謀者として知られるリヒャルト・ゾルゲは、1895年、ソ連支配下のアゼルバイジャンの首都、バクーでドイツ人鉱山技師の家に生まれました。

 3歳の時、家族とともにベルリンに帰国した彼は、第一次大戦が勃発すると、1914年10月、ドイツ陸軍に志願しましたが、西部戦線で両足を負傷。入院中に社会主義思想を学び、終戦後はベルリン、キールの大学を経て、1919年にハンブルク大学で政治学の博士号を取取得しました。1919年、ドイツ共産党が結成されるとハンブルク支部に加入し、1924年にはモスクワに渡ってソ連共産党に加入し、軍事諜報部門である労農赤軍参謀本部第4局に配属されました。

 1930年代には、ドイツの有力紙「フランクフルター・ツァイトゥング」の記者という身分を隠れ蓑として、上海で諜報活動を行い、中国各地に情報網を築くことに成功します。朝日新聞記者だった尾崎秀実と知り合ったのは、この時代のことです。

 1932年の第1次上海事変を報道した後、ゾルゲはいったんモスクワに戻りましたが、1933年9月、日本やドイツの動きを探るために「フランクフルター・ツァイトゥング」紙の東京特派員にしてナチス党員として日本に赴任。駐日ドイツ大使を務めたオイゲン・オットの信頼を勝ち取り、最終的に大使の私的顧問の地位を獲得し、近衛内閣のブレーンであった尾崎を通じて収集した日本の情報をモスクワに送っていました。

 スパイとしてのからの最大の“業績”は、①駐日ドイツ大使との関係を利用して、ドイツによるソ連侵攻の正確な開始日時を事前に察知し、モスクワに報告したこと、②独ソ戦開始後、日本軍の矛先が同盟国のドイツが求める対ソ参戦に向かうのか、仏領インドシナやイギリス領マレー、フィリピンなどの南方へ向かうのかという点について、日本が南進を決定したことを、いわゆる太平洋戦争の開戦以前にモスクワに報告したこと、の2点となりましょう。このほかにも、日本の武器弾薬、航空機、輸送船などのための工場設備や生産量、鉄鋼の生産量、石油の備蓄量などについて、彼は正確な情報を探知して、モスクワに報告しています。

 ゾルゲのスパイ活動が発覚した発端は、1941年6月に逮捕された日本共産党員の伊藤律が、アメリカ共産党員で当時日本に住んでいた北林トモの名を自供したことで、そこから北林の同志である宮城与徳が逮捕され、芋づる式にゾルゲや尾崎の逮捕につながりました。逮捕されたゾルゲは、1942年に国防保安法、治安維持法違反などにより起訴され、一審によって死刑が確定し、1944年11月7日のロシア革命記念日に巣鴨拘置所にて処刑されました。

 ゾルゲの逮捕後、ソ連政府はゾルゲが自国のスパイであることを否定し続けていました。しかし、スターリン批判を行ったフルシチョフが失脚した直後の1964年11月5日、ソ連政府はゾルゲに対して“ソ連邦英雄勲章”を授与。今回ご紹介の東ドイツの切手も、こうした文脈に沿って発行されたものです。

 ゾルゲと尾崎については、一部で、悲劇のヒーローとしてもてはやすような人もいますが、純然たる冤罪ならともかく、スパイ行為を働き、国家機密を外国に漏洩したことは紛れもない事実であることを忘れてはなりません。

 今回発覚した李春光の事件では、現時点では、政府高官としては筒井副大臣の名前しか出ていないようですが、李は松下政経塾に外国人インターンとして参加していたことがあり、民主党を中心に政官界との人脈を築いていたことが明らかになっています。ただでさえ、現在の民主党政権は、中国に対しては過剰なまでに配慮する体質が染みついているだけに、下手をすると、李から求められてもいない情報まで流していたんじゃなかろうかと大いに不安になりますな。

 まぁ、周辺諸国の動静を探るために各国とも必死に諜報活動を行うのは、その国としては当然の行為なわけですから、中国大使館によるさまざまな工作をけしからんと怒ってみても、彼らが活動を中止するということはありえません。むしろ、こちらの守りを固めて、彼らに付け入るすきを与えないよう対策を講じることが先決でしょう。

 いいかげん、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」などと妄想は捨て、今回の事件を機にスパイ防止の法整備をきちんと進めていただきたいものです。国が乗っ取られたら、消費税もへったくれもないんですから。

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 各国でシリア大使追放
2012-05-29 Tue 22:10
 今月25日、シリア中部ホムスのホウラ地区で、シリア政府軍の砲撃により、女性や子どもを中心に少なくとも108人が死亡、約300人が負傷した事件を受けて、ドイツとフランスの政府が、きょう(29日)、自国駐在のシリア大使を追放する方針を明らかにしたほか、オーストラリアもシリアの外交官に国外退去を命じました。というわけで、きょうはこの切手です、(画像はクリックで拡大されます)

        シリア・撤退1周年

 これは、1947年にシリアで発行された“(フランス軍の)撤退1周年”の記念切手です。
 
 現在のシリア国家に相当する地域は、第一次大戦後、フランスの委任統治下に置かれていましたが、1936年、フランス・シリア友好条約が結ばれ、一時は3年後の完全独立が決められました。しかし、1939年9月に第2次大戦が勃発したことで独立は延期され、1940年6月のフランス降伏後、シリアはヴィシー政府の支配下に置かれます。これに対して、1941年6月、イギリスに支援された自由フランス軍がシリア・レバノンに進攻。シリア・レバノンは自由フランスの支配地域となりました。

 自由フランスの支配下では、1943年にレバノンの独立が認められましたが、シリアの独立はさらに延期されます。このため、第2次大戦後、シリアでは独立運動が本格化。ダマスカスでは大規模な対仏叛乱も発生しました。

 当初、フランス側は叛乱を武力で鎮圧しようとしたものの、結局断念し、1946年4月17日にシリアから完全に撤退。これにより、シリアは独立を達成します。今回ご紹介の切手の“撤退”とはこのことを意味しています。

 さて、ホウラの一件で、ますます国際社会から孤立することになったシリアのアサド政権ですが、今回は切手とは逆に、フランスから駐在大使が撤退させられることになりました。もっとも、本国のアサド政権は、ホウラでの攻撃の責任はイスラム過激派武装グループにあると主張するなど強気の姿勢を崩しておらず、国際社会もアサド政権を非難するものの、具体的な打開策を提示できず、事態は手詰まりになっている状況です。アサド政権の“撤退”を記念する切手が発行される日は、果たしていつになったら来るんでしょうかねぇ。

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 ネパール制憲議会、時間切れ
2012-05-28 Mon 14:17
 2008年の王制廃止後の新憲法を議論してきたネパール制憲議会は、任期満了の27日までに党派間で草案の合意に至らず、憲法を制定できないまま自動的に解散となりました。これを受けて、バタライ首相は新たな議会選挙を11月22日に実施すると発表しましたが、混乱は必至の情勢です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        ネパール連邦民主共和国

 これは、2009年10月に発行された“ネパール連邦民主共和国”の切手です。

 1996年、ネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)が王制打倒を唱えて“人民戦争”を開始して以来、内戦状態に陥っていたネパールでは、2006年、ギャネンドラ国王による事実上の絶対君主の廃止をもとめる民主化運動が発生。国王は直接統治を断念し、暫定的に象徴君主制へ移行します。これに伴い、国王は国家元首としての地位を失い、国号は“ネパール王国”から“ネパール国”に変更され、内戦も終結しました。

 内戦終結を受けて、2008年4月に実施された制憲議会選挙では、マオイストが第1党を占めたほか、王制廃止派の諸政党が議会の圧倒的多数を占め、王制の廃止を連邦民主共和制への移行が正式に宣言されました。ちなみに、ネパール外務省が、各国外交団に国家の正式名称(英文)を“Federal Democratic Republic of Nepal”とするよう要請したのは同年7月24日のことで、これに伴い、同月28日には日本語での正式国号も“ネパール連邦民主共和国”に」変更されています。

 今回ご紹介の切手は、こうした状況を踏まえて、ネパールの地図と国旗、国章とともに、新たな国号を周知宣伝するために発行されたものです。このうち、地図と国旗は王制時代と変わりありませんが、国章は2006年の民主化を受けて変更されたものです。なお、ネパール国家の正式名称は、上述の通り、英文だと“Federal Democratic Republic of Nepal”なのですが、切手の国名表示としては長すぎるため、王制時代同様、単に“Nepal”とされています。

 さて、昨日いっぱいで時間切れとなった制憲議会ですが、州割を含む連邦制のあり方をめぐり、特に、州名を民族に基づくものにするべきだと主張するマオイストと他党の溝が埋まらなかったことが、新憲法の草案がまとまらなかった理由だそうです。国家建設の指針となる新憲法の制定に失敗したことで、制憲議会や主要政党、バタライ政権に対する国民の失望は大きく、首都カトマンドゥでは、少数民族の集会参加者らと治安部隊が衝突、多数が負傷する事件も発生したと伝えられています。

 そういえば、ヒマラヤ8000メートル峰全14座の完全登頂を達成したばかりの竹内洋岳さんが最後に登頂したダウラギリは、ネパール領内にありましたな。竹内さんの帰国は6月中旬の予定だそうですが、ネパール社会の混乱で、ヒマラヤの高峰から下山するよりも、ネパールから出国することの方が困難だというような事態になっては洒落になりません。ちょっと気がかりですな。

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 日本人初の全14座登頂
2012-05-27 Sun 09:48
 登山家の竹内洋岳さんが、きのう(26日)、世界第7位の高峰・ダウラギリに登頂。日本人初となるヒマラヤ8000メートル峰全14座の完全登頂を達成しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        マナスル登頂

 これは、1956年11月3日に発行された“マナスル登頂(日本人として初の8000メートル峰登頂)”の記念切手です。

 1950年代初めのネパールは厳しい鎖国体制を敷いており、ヒマラヤ各峰を目指す各国登山隊は、入国と登山の許可を得るために懸命の努力を続けていました。

 そうした中、京都大学の西堀栄三郎は、ネパールの閣僚がかつて日本に留学していた際、自分の家に下宿させていたという伝手をたどって、ネパール側と接触。1952年、ネパールに渡ってトリブバン国王に謁見し、開国後は日本側(京都大学山岳部)にマナスル登頂第一号の権利を与えるとの約束を取り付けます。

 マナスルは、ネパール中部、中国との国境近くにある世界第8位の高峰で、標高は8163メートルあります。山の名はサンスクリット語で“霊魂の土地”を意味するもので、インド測量局が命名しました。なお、現地では、チベット語でカン・ブンゲン(“雪の肩”の意)あるいはプンゲン(“腕輪”の意)と呼ばれています。

 さて、西堀の帰国後、ネパール政府は京大にマナスルの登頂許可を与えますが、西堀は、京大内の反対を押し切って登頂権を日本山岳会に譲渡。戦後初の外国登山であるマナスル登山を日本全体のプロジェクトとする代わりに、毎日新聞社をスポンサーとして獲得し、日本人初の8000メートル峰登頂の実現を目指します。

 こうして、1952年秋、今西錦司 ら4人の日本山岳会偵察隊が派遣されたのを皮切りに、数次のマナスル登頂隊が派遣されました。

 これらの日本隊は、悪天候や現地住民とのトラブルからなかなか登頂を果せませんでしたが、1956年5月9日、第3次遠征隊が、ついに登頂に成功します。

 マナスル登頂の成功は、戦後日本が次第に自信を回復していくステップのひとつとして、当時、大々的に報じられ、1960年代から70年代にかけては、若戸大橋開通・黒四ダムの建設・東京オリンピックなどと並べて、教科書などにも大きく取り上げられました。

 マナスル登頂の成功の報に国民が沸き立つ中、記念切手の発行にむけてまず動き出したのは、登山隊のスポンサーであった毎日新聞社でした。

 すなわち、報道を受けて、『京都寸葉』を主宰していた武田修は、収集家で毎日新聞大阪本社のラジオ報道部長を務めていた富岡昭に、同社が記念切手の発行を郵政省に申請するよう提案。これを受けて、富岡は、すぐさま東京本社のマナスル登山後援事務局長の古市美津雄に連絡します。古市は富岡の提案をただちに了承。東京本社事業部の岡副部長が窓口となって、5月25日、同社と郵政省との折衝がはじめられ、同月29日、毎日新聞社社長・本田親男の名義で郵政大臣(村上勇)宛に記念切手発行の申請書が提出されました。

 当初、郵政省内には、この種の記念切手は先例がないといって反対論もありましたが、6月13日の郵政審議会専門委員会打合会議では、日本にとっての大壮挙に記念切手を発行するのは当然のこととの意見が大勢を占め、切手の発行が決定されました。

 さて、記念切手の発案者である毎日新聞社は、登山隊の帰朝報告会もしくは記録映画『マナスルに立つ』(日本山岳会監修、毎日新聞社配給、語りは森繁久弥)の封切りにあわせての切手発行を希望していましたが、調整機関の関係からこれは不可能とされ、七月七日になって、発行日は十一月三日・文化の日(日本山岳会と毎日新聞社の共催でマナスル登山隊員顕彰式が行われることになっていた)とすることで決着しました。

 一方、記念切手発行の決定を受け、郵政省では図案の作成が開始されます。

 原画を担当したのは、郵政省のデザイナー・久野実でした。7月20日、毎日新聞社の岡が郵政省を来訪し、葉山御用邸で昭和天皇がご覧になった記録写真の印画とカラースライドを久野らに資料として提供。その中から、サマ部落から望むマナスルの夜明けの風景(依田隊員が撮影した場面と推測される)が題材として選択され、これに登山隊員を配する原画が作成されることになりました。

 久野の作業は8月に行われたため、毎日新聞社事業部のベランダで、同社の若手社員が登山隊員の服装にピッケルの姿をして写真撮影が行われましたが、現在のようなエアコンのない時代のことゆえ、件の若手社員は滝のような汗を流していたそうです。また、当日は、たまたま、登山隊の隊長を務めた槇有恒が毎日新聞社を訪れていたことから、久野はピッケルやザイルの持ち方についてもレクチャーを受けています。

 こうして、11月3日、マナスル登頂の記念切手が発行されました。当日は、東京・神田御茶ノ水の日本体育協会階上会議室で、マナスル登山隊員の顕彰式が行われ、その席上、登山隊長を務めた槇に大臣のサイン入り初刷シートが贈呈されていました。

 なお、今回ご紹介の“マナスル”の切手については、拙著『切手百撰 昭和戦後』でも取り上げてご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

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 “世界最大の花”が開花
2012-05-26 Sat 15:17
 茨城県つくば市の国立科学博物館・筑波実験植物園で、きのう(25日)、“世界最大の花”とされるショクダイオオコンニャクが開花しました。国内では9例目という珍しい花だそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ショクダイオオコンニャク

 これは、1989年にインドネシアで発行されたショクダイオオコンニャクの花の切手です。

 ショクダイオオコンニャク(燭台大蒟蒻)は、サトイモ科の植物で、インドネシア・スマトラ島の熱帯雨林に自生していることから、スマトラオオコンニャクとも呼ばれています。花びらを開いたときの直径は1~1.5メートル、中央の突起は高さ3メートル前後にまで成長し、“世界最大の花”とされていますが、7年間に1度、約2日間しか咲きません。

 現地では、“死体の花”を意味するブンガ・バンカイの名で呼ばれていますが、これは、獣肉や魚肉の腐ったような臭いを発するためで、中央の突起からこの臭いを発して、花粉の媒介のため、死肉や糞などを餌とする虫を集めます。突起が大きくなったのは、より広範囲に臭いを拡散させるための仕掛けなんだとか。まさに、「蓼食う虫も好き好き」を地で行くような話ですな。

 ちなみに、ショクダイオオコンニャクに関しては、そのあまりにも強烈な見かけと異臭のゆえに、イギリス王立園芸協会がインターネット投票で決めた“世界で最も醜い植物”の第一位にも選ばれているそうです。切手を見ている限り、そこまで醜いとは思えないのですが、やはり、切手からは臭いがしないからなんでしょうかね。

 *昨日(25日)、カウンターが104万PVを越えました。この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。

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 島サミット開幕
2012-05-25 Fri 09:37
 1997年から3年ごとに日本で開催されている「第6回太平洋・島サミット」が、きょう・あす(25・26日)の日程で、沖縄県名護市で開催されます。サミットは、14の島国・地域やオーストラリア、ニュージーランドがメンバーで、米国からはクルーン筆頭国務次官補代理が出席し、わが国とクック諸島が共同議長国だそうです。というわけで、きょうはクック諸島の切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        クック諸島加刷

 これは、1931年にニュージーランドの印紙に加刷して発行されたクック諸島の切手です。

 クック諸島は、1770年にジェームス・クックがヨーロッパ人として“発見”。1888年にイギリスの保護領となったのに伴い、1892年5月に最初の切手が発行されました。なお、クック諸島は1901年にニュージーランドの属領となりますが、クック諸島としての独自の切手発行はその後も継続されます。今回ご紹介の切手が、ニュージーランドの印紙に加刷という形式になっているのは、こうした事情によるものです。

 さて、現在のクック諸島は、1973年のニュージーランドとの共同宣言により、ニュージーランドとの自由連合による“自治国”という位置づけです。すなわち、クック諸島政府は、独自の憲法や議会を持ち、内政権のみならず外交権も有するものの、外交や防衛などの権限をニュージーランドに委ねるという形態をとっています。ただし、ニュージーランドとクック諸島の両政府の関係は対等ですから、ニュージーランドがクック諸島の内政に干渉することはできず、結果的に、面倒なことだけニュージーランドが引き受けるということになりますな。

 現在、クック諸島の“国民”は全員がニュージーランドの国籍も持ち、ニュージーランドのパスポートを使って“ニュージーランド国民”としてニュージーランドに出稼ぎに行く人も少なくありません。また、クック諸島政府に対してはニュージーランドから多額の補助金が支出されています。このため、財政難のニュージーランドとしては、いい加減にクック諸島には完全独立してもらいたいというのが本音なのですが、クック諸島政府は耳を貸そうとはしません。

 こうしたこともあって、クック諸島を独立国として認めるかどうかは国によって議論がわれており、国交を結んでいるのは、27ヵ国にとどまっています。ちなみに、わが国がクック諸島を独立国として承認し、国交を樹立したのは、ようやく昨年(2011年)3月のことですが、これは、日本政府がクック諸島を敵視していたからではなく、ニュージーランドとの国交があれば、“自治国”政府との交渉にも不都合はなかろうとの発想によるものでした。
 
 今回の島サミットで、クック諸島のプナ首相が野田首相とともに共同議長を務めるのは、一義的には、日本との国交樹立のご祝儀なんでしょう。ただ、島サミットの最大のテーマが、パラオ沖にまで侵略の矛先を拡大してきた中国を、アメリカの協力も得て封じ込めようということにあります。この点で、クック諸島には、自分たちよりもはるかに大国であるニュージーランドを手玉に取り続けた外交巧者としての知恵と経験を、十分に披瀝していただきたいものですな。

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 切手で訪ねるふるさとの旅:北海道
2012-05-24 Thu 22:07
 ご報告が遅くなりましたが、『(郵便局を旅する地域活性マガジン)散歩人』第15号(2012年5月号)ができあがりました。僕の連載「切手で訪ねるふるさとの旅」では、今回は北海道を取り上げました。そのなかから、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        ワッカ原生花園

 これは、2004年2月5日に発行された「ふるさと切手(北海道):北海道遺産Ⅱ」のうち、ワッカ原生花園を取り上げた1枚です。

 ワッカ原生花園は、北海道東部、オホーツク海とサロマ湖を隔てる幅200-700m、長さ約20km、面積は約700haの砂洲で、海岸草原としては国内最大規模を誇っています。

 1921年6月、この地を訪れた文学者、大町桂月は300種を超える草花と野鳥に魅了され、原生花園を横断する道を“龍宮街道”と名付けました。24kmにも及ぶ“街道”は、現在、一般車両の乗り入れが禁止されて散策路となっており、毎年、5月-10月までの間、観光馬車が運行しています。

 今回ご紹介の切手は、上空から見たサロマ湖を背景に、龍宮街道の観光馬車を描き、前面にエゾスカシユリの花を大きく取り上げたデザインで、イラストレーターの前橋康博が原画を制作しました。なお、ワッカ原生花園のHPをチェックしてみたところ、切手に描かれたエゾスカシユリの見ごろは6-7月で、5月に楽しめる花としては、ハマナス、ハマエンドウ、センダイハギ、ハマハタザオ等があげられていました。

 さて、『散歩人』の僕の連載で、北海道を取り上げるのは昨年7月発行の第10号以来、2度目のことですが、前回との重複しないよう、今回ご紹介の切手のほか、阿寒湖のマリモ旭岳北海道庁旧本庁舎、北竜町、ニセコアンヌプリ、流氷とガリンコ号Ⅱを取り上げました。掲載誌の『散歩人』は各地の郵便局などで入手が可能ですので、御近所でお見かけになりましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。

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 メッカの方角、違ってた
2012-05-23 Wed 18:44
 トルコ北西部テキルダー県の村で30年以上前に建てられたモスクで、昨年、本来は聖地メッカに向かってしなければならない礼拝が約60度ずれた方角に対して長年行われてきたことが判明。このため、モスクは建て直しとなり、このほど、正しい方角に向けて作り直した新しい建物が完成したそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されました)

        ミフラーブ(アルジェリア)

 これは、1970年にアルジェリアで発行された切手で、シディ・ウクバ・モスクのミフラーブが取り上げられています。
 
 シディ・ウクバ・モスクは、西暦663年から670年にかけて、リビアからチュニジアにかけての北アフリカを征服したウマイヤ朝の将軍、ウクバ・イブン・ナーフィーにちなんで建てられたモスクで、北アフリカ各地にあります。同名のモスクのうち、もっとも有名なのは、ウクバが軍営を置いたチュニジアのカイラワーンの大モスクです。 

 さて、切手の題材に取り上げられたミフラーブというのは、礼拝の方向、すなわち、メッカの方向を示すために壁につけられた窪み(壁龕)のことで、原則として、ほぼすべてのモスクに設けられています。ただ単に壁に窪みを作るだけでなく、その部分の天井からランタンのような装飾をつるしたりするケースもありますが、いずれにせよ、その前で導師が説教を行い、信徒はミフラーブの方を向いて礼拝を行っています。

 今回、問題になったトルコのモスクでは、このミフラーブがメッカの方角からずれていたことに昨年まで誰も気づかなかったため、地元の信徒たちは関係ない方に向かって礼拝を続けていたことになるわけですが、どういうきっかけでわかったんでしょうかねぇ。

 いずれにせよ、世界各国には膨大な数のモスクがありますので、中には、設計ないしは測量ミスでミフラーブがおかしな方向を向いているモスクというのもいくつかあるんじゃないかと思います。だったら、この際だから、きっちり調べてみようという話にはならないんでしょうかねぇ。

 まぁ、礼拝の方向が違っていたからといって、直ちに、生命財産に危険が及ぶということはないわけで、その意味では、あまり深く突っ込まない方がいいのかもしれません。もっとも、それを“知らぬが仏”といったりしたら、ムスリムの人たちには別の意味で怒られそうですけれど。

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 東京スカイツリー開業
2012-05-22 Tue 12:36
 高さ634メートル、高さ世界一の電波塔で、地上デジタル放送などの送信設備として総事業費約650億円を投じて建設された東京スカイツリー(以下、スカイツリー)が、きょう(22日)、開業しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      地デジ化

 これは、昨年(2011年)4月15日に発行された「地上テレビ放送の完全デジタル化」の記念切手のシートです。スカイツリーの切手と東京タワーの切手の連刷5組の10枚シートで、シート・マージンにはスカイツリーと東京タワーを並べて、スカイツリーの大きさがイメージできるようになっています。

 スカイツリーの建設計画は、2003年12月に日本放送協会(NHK)と在京民間テレビ局5社(日本テレビ放送網、東京放送、フジテレビジョン、テレビ朝日、テレビ東京)が600m級の新しい電波塔を求めて“在京6社新タワー推進プロジェクト」を発足させたのが始まりとされています。

 建設の目的は、増大する電波需要に対応するとともに、東京タワーの周辺に超高層建築物が林立し、その影となる部分に電波が届きにくくなった状況を改善することで、事業主体は東武鉄道が筆頭株主となる東武タワースカイツリー株式会社です。着工は2008年7月14日で2012年2月29日に竣工。2012年4月から2013年3月にかけて放送局の試験放送ならびに本放送を実施する計画でとなっています。

 なお、電波塔としてのスカイツリーに隣接する関連商業施設・オフィスビルを含む街区は東京スカイツリータウンと呼ばれ、最寄駅の名称も、“押上”から“押上(スカイツリー前)”、“業平橋”から“とうきょうスカイツリー駅”に改称されました。初年度の入場は、スカイツリー本体で約540万人、周辺施設も含めると約3200万人が見込まれているそうです。

 今回ご紹介の切手は昨年4月の発行ですから、デザイン制作の時点では、建設途中だったものと思われます。塔の形が微妙にデフォルメされているほか、ソラマチの建物の形状が実物と異なっているのは、そのためでしょう。

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 次の出番は6月6日
2012-05-21 Mon 16:10
 きょう(21日)の話題は、なんといっても87年ぶり(沖縄の場合。東京では173年ぶり、大阪では173年ぶり、名古屋にいたっては932年ぶり、だそうです)の金環日食でしょう。というわけで、世界の日食切手の中から、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        トルコ・日食     金環日食(2012)

 左は、2006年にトルコで発行された皆既日食の記念切手で、日食メガネをかけて太陽の満ち欠けを見ている子供が描かれています。ついでですので、右側には、おそらく今回の日食の公式写真となるであろう、国立天文台撮影の画像を貼っておきました。

 今回の金環日食は、日本国内の観測可能な地域の人口が約8300万人にも及んだこともあって、日食を見る際には、太陽を直接見ると目を傷める可能性が高いので、かならず日食メガネなどを用いるよう、くりかえし注意が呼びかけられていました。そのためもあって、日食メガネは全国でバカ売れ。けさの日食の時間には多くの人たちが日食メガネを手に空を見上げているようすがそこかしこで観測観察されました。

 おそらく、世界各地で日食が起きるたびに似たような光景が見られるのでしょうが、それをストレートに表現した切手というのは、今回ご紹介のトルコのものくらいしか思い浮かびませんな。

 ちなみに、今回大活躍した日食メガネですが、来月6日には“金星の太陽面通過”(地球と太陽の間に金星が入り、ちょうど一直線に並んだ時に起きる現象)という、これまたレアな天体現象があるので、再び出番が回ってくるということになりそうです。もっとも、さすがに“金星の太陽面通過”は発行されていないでしょうから、このブログでは紹介のしようもないでしょうけれど…。

 <追記>
 記事を書いた後、読者の方から、“金星の太陽面通過”があると教えていただきました。ありがとうございます。やはり、思い込みで書いてしまってはいけませんね。というわけで、早々にその切手を手配して、来月6日の記事に取り上げたいと思います。

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 旭天鵬が初優勝
2012-05-20 Sun 22:45
 大相撲夏場所は、モンゴル出身の旭天鵬が史上初となった平幕同士の優勝決定戦で栃煌山を破り、初優勝を果たしました。初土俵から20年、121場所目の初賜杯はいずれも最も遅い記録で、37歳8カ月での優勝は、昭和以降、最年長での初優勝だそうです。というわけで、長年の苦節に耐えての開眼ということで、きょうはモンゴル切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

        ガンダン寺・開眼觀音

 これは、1999年に発行されたガンダン寺の開眼観音(メグゼド・ジャンライシグ観音)の切手です。

 ガンダン寺の名で知られるガンダン・テクチェンリン僧院は、チベット・モンゴル仏教の総本山として1838年に第5代活仏のボグド・ジェブツンダンバによってウランバートルの高台に建立されました。

 ガンダン寺の開眼観音は、もともと、ボグド・ハーンとして知られる第8代活仏が1914年に盲目となった際、その治癒を祈って建立されました。当時の像は、約20トンの銅、45キロの金、56キロの銀、500個の宝石が使われ、高さ28メートル。世界最大の仏像とたたえられ、内部にはおびただしい数の経典が収められていました。

 ところで、ボグド・ハーンは、1911年の辛亥革命を機にモンゴルが清朝から独立宣言した際、モンゴル諸侯に推戴されてモンゴルの皇帝(ハーン)として即位したことに伴う尊称で、それ以前の彼は“聖人様”を意味するボグド・ゲゲーンの称号で呼ばれていました。

 しかし、モンゴルの独立を認めない中華民国は、1919年、モンゴルに侵攻。ボグド・ハーンを退位させ、私邸に軟禁します。これに対して、1921年、ソ連赤軍の支援を受けたモンゴル人民党(後にモンゴル人民革命党)のダムディン・スフバートルによる独立闘争の結果、モンゴルが再独立すると、ボグド・ハーンは推戴されて皇帝に復位。ただし、再独立後の政府の実権はスフバートルらが掌握しており、ボグド・ハーンの権限は以前に比べて制限されました。

 1924年4月、ボグド・ハーンが亡くなると、コミンテルンの指導を受けたモンゴル人民革命党は、同党による一党独裁の社会主義国を宣言。同年11月26日、ソ連の衛星国としてのモンゴル人民共和国が誕生し、活仏の転生も否定されてしまいました。これに対して、1939年、チベット政府は、1932年生まれのジャンペルナムドゥル・チューキゲンツェンを第9代活仏として認定。モンゴルの社会主義政権はこれを頑なに否定していましたが、社会主義政権崩壊後の1990年、当時のオチルバト大統領からの照会に対し、チベット亡命政府のダライ・ラマ14世が改めてジェプツンダンパ9世として認定し、モンゴルの活仏は復活しました。

 さて、社会主義政権下では仏教寺院の大弾圧が進められましたが、それはガンダン寺も例外ではなく、1937-38年にかけて観音堂などが破壊され、観音像も1938年10月、ソ連赤軍第17連隊によって倒され、レニングラードに持ち去られ、その後、行方不明となりました。なお、ガンダン寺の宗教活動は、1944年に再開を許されたものの、社会主義政権の崩壊まで、厳しい管理下に置かれることになります。

 切手に取り上げられた観音像は、社会主義政権崩壊後の1990年に再建が企画され、1996年に完成したもので、エルデネト鉱山で採掘された銅に金メッキを施した仕様で、モンゴル独立の象徴とされています。

 なお、今回ご紹介の切手に取り上げられた開眼観音を含むモンゴルの仏像については、拙著『切手が伝える仏像』でもいろいろとご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 アンニゴーニのQEII
2012-05-19 Sat 10:36
 きのう(18日)、イギリスの英国のエリザベス女王の在位60周年を記念して、女王夫妻主催の午餐会とチャールズ皇太子夫妻主催の晩餐会が開かれました。というわけで、エリザベス女王の切手のうち、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        香港1962

 これは、1962年に英領時代の香港で発行された20ドルの普通切手で、イタリアの肖像画家、ピエトロ・アンニゴーニの描いた肖像画が取り上げられています。エリザベス女王の肖像を描く普通切手といえば、ドロシー・ワイルディングやアーノルド・メイチン(日本語ではマーチンと呼ばれることが多いようです)による肖像をデザインした切手が有名ですが、華やかさという点では、今回ご紹介の多色刷の高額切手が一番だろうと思います。

 今回ご紹介の切手のデザインを制作したアンニゴーニは、1910年、ミラノ生まれ。フィレンツェの芸術アカデミーで学び、1930年に展覧会デビューを果たしました。その作風はイタリア・ルネサンス期の肖像画家を強く意識したもので、1949年にイギリスのロイヤル・アカデミーの展覧会に出品した作品が高い評価を受け、1950年代半ばに制作した女王の肖像により、肖像画家としての地位を確立しました。

 ちなみに、今回の切手と同じ肖像画は、1956年に発行されたフィジーの切手のほか、1959年にはカナダ切手にも取り上げられています。香港切手では、エリザベス女王の肖像を取り上げた最初のシリーズであるワイルディング(ただし、英本国とは別のデザイン)に次ぐ2番目のシリーズとして1962年10月4日から発行されました。シリーズとしては、1962年発行の第1版(アラビアゴム糊、透かし直立)、1966-71年発行の第2版(アラビアゴム糊、透かし横向き)、1970-71年の第3版(PVA糊)、1971-73年発行の第4版(光沢紙に印刷)に分類されます。

 なお、英領時代の香港で発行されたエリザベス女王の切手については、拙著『香港歴史漫郵記』でもいくつかご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 

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 厦門英国局のカバー
2012-05-18 Fri 21:47
 中国建国以来最大の密輸・汚職事件とされる“厦門事件”の主犯格とされる頼昌星被告に、きょう(18日)、中国福建省厦門市の裁判所は無期懲役の判決を言い渡しました。というわけで、きょうは厦門に絡めてこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        厦門カバー

 これは、1892年3月10日に厦門の英国局からドイツ・ハンブルク宛に差し出されたカバーで、ヴィクトリア女王の香港切手5セントが2枚貼られています。

 厦門は福建省の南部、台湾海峡を挟んで台湾の対岸に位置しており、古くは“下門”と呼ばれていました。アモイという欧米での呼称は、この下門の閩南語の発音エームイがもとになったと考えられています。

 現在の厦門という呼称は、明代の1387年に廈門城が築かれてからのことで、明末清初の鄭成功はこの地を反清運動の根拠地の一つとして戦いました。1840年にアヘン戦争が勃発すると、1841年にイギリス軍に占領され、翌1842年の南京条約によって開港となり、1860年代以降、茶葉の積出港として海外に知られるようになりました。

 郵便に関しては、南京条約後の1844年に英国局が開設されたとの記録がありますが、実際の使用例としては、1846年3月15日付でイギリス・アバディーン宛に差し出されたカバーが最古とされています。1858年には英本国から“AMOY PAID”の表示のある円形の朱印が配給され、1859年から使用されました。1862年に香港切手が発行されると、アモイの英国局にも香港切手が支給され、A1ないしはD27の抹消印が使用されています。A1の印は1882年まで、D27の印は1884年まで使われましたが、その後は、AMOYの地名表示が入った円形の印を用いて、1922年の閉局まで、切手の抹消が行われました。

 なお、厦門以外の英国局での香港切手の使用例については、拙著『香港歴史漫郵記』でもいくつかご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 ちなみに、厦門事件は、民間企業「遠華集団」元社長・頼昌星が煙草や自動車など計約274億元(約3425億円)相当の物資を密輸し、関税など計約140億元(約1750億円)を脱税。発覚を逃れるため政府職員64人に不動産や現金など計約3912万元(約4億8900万円)相当を贈ったとされる事件です。

 一連の事件では、福建省党委書記にして共産党政治局常務委員ナンバー4の賈慶林(人民政治協商会議主席)の妻らが関与した疑惑を指摘されており、頼が真相を語れば、中国政治を揺るがしかねないとの見方も出ていました。頼は1999年にカナダに亡命していましたが、昨年7月、亡命先のカナダから中国に強制送還。カナダの法令では、死刑の恐れがある場合は出国させてはならないと定められているため、他の密輸事件では死刑判決が出ているにもかかわらず、今回の無期判決となったというのが表向きの解説ですが、頼の生命をとりあえず保証することを条件に裏取引が行われた可能性も十分にありそうです。

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 悲劇か喜劇か
2012-05-17 Thu 23:29
 今月6日に総選挙が行われたものの、組閣に向けた連立協議が決裂したギリシャで、6月17日に再選挙が行われることが決まり、それまでの選挙管理内閣の暫定首相に国家評議会(行政事件の最上級審)のピクラメノス長官が任命されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        ギリシャ悲劇

 これは、1966年にギリシャで発行された劇場2500年の記念切手のうち、ギリシャ悲劇の仮面を取り上げた1ドラクマ切手です。

 ギリシャ悲劇は、もともとは、古代アテナイのディオニュシア祭で上演されていた悲劇のことで、仮面をつけた俳優と舞踊合唱隊(コロス)の掛け合いによって進行します。ちなみに、コロスの登場する舞台をオルケストラといい、劇場は円形のオルケストラを底とするすり鉢状となっていました。もともと、俳優一人で演じられていましたが、後に3人となりました。

 さて、2010年に発覚した経済危機以来、ギリシャ経済はまさに悲劇的な状況にあるわけですが、今回、再選挙を余儀なくされたことで、事態の一層の深刻化は避けられなさそうです。ちなみに、暫定首相の名前のピクラメノスはギリシャ語で「つらい」ないしは「悲嘆にくれた」という意味で、暫定首相は宣誓式前の大統領との会談で「(財政危機に直面したギリシャの現状を考えると)私はこの役目にぴったりですね」と冗談を飛ばしていたのだとか。悲劇なんだか喜劇なんだか、よくわかりませんな。
 
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 両陛下、英国へ
2012-05-16 Wed 21:29
 天皇、皇后両陛下は、きょう(16日)、エリザベス女王の在位60年を記念した午餐会などの行事へのご出席のため、政府専用機で公式訪問先の英国に向けてご出発なさいました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        ご帰朝5円

 これは、1953年10月12日に発行された“皇太子殿下御帰朝”の記念切手のうち、鳳凰と瑞雲を描いた5円切手です。

 立太子礼直前の1952年11月8日、宮内庁は、翌1953年6月2日にロンドンのウェストミンスター寺院で行われるイギリスのエリザベス女王の戴冠式に、昭和天皇の名代として皇太子・明仁親王が出席することを発表しました。

 皇太子の外遊は、1921年、裕仁親王のヨーロッパ歴訪以来のことで、今回の明仁皇太子の外遊も、裕仁皇太子が外遊を通じて人間的に大きく成長したのと同様の“教育的効果”が期待されていたものと考えてよいでしょう。

 さて、皇太子は1953年3月30日、アメリカン・プレジデント・ラインズ社のプレジデント・ウィルソン号で横浜を出航。いったん、サンフランシスコへ入り、カナダを経由してニューヨークへ寄った後、海路、イギリスに渡りました。

 皇太子の旅程がわざわざアメリカ経由で設定されたのは、おそらく、最初の寄港地をアメリカとすることで、現実の外交関係のうえで日英関係よりも日米関係を重視していることを示す意図が政府部内にあったためでしょう。あるいは、実現しなかったものの、皇太子をアメリカに留学させたかったという昭和天皇夫妻の意向が反映された結果かもしれません。

 この時期のイギリスは、日本を敵国として戦った第2次大戦の終結からまだ日も浅かったため、一般国民の対日感情は、決して良好とはいえず、皇太子もエリザベス女王に謁見するために1週間以上も待たされたり、戦争捕虜協会や労働組合の抗議により予定されていた歓迎行事が中止に追い込まれたりする等の体験をしています。

 それでも、無難に公務をこなし、日本の若きプリンスとして国際デビューを果した皇太子は、戴冠式への出席後、ヨーロッパ諸国を歴訪。それから、今度は空路、アメリカへ渡り、約1ヶ月間、アメリカに留まった後、パン・アメリカン航空で10月12日に帰国しています。

 さて、皇太子の外遊が発表されると、郵政省は、これを、宮内庁の妨害により立太子礼の際に皇太子の肖像切手を発行できなかった雪辱を果たす絶好の機会ととらえ、“ご外遊”の記念切手を発行することを計画。1952年12月18日の郵政審議会・郵便切手図案審査専門委員会(以下、図案審査専門委員会)において、外遊の最大の目的であるエリザベス2世の戴冠式が行われる6月2日に、記念切手を発行することを決定します。

 もっとも、前回同様、切手上に皇太子の肖像を入れることの是非をストレートに宮内庁に問えば、今回も拒否の回答が帰ってくることは目に見えていました。このため、郵政サイドは一計を案じ、外遊の記念切手を発行することを決定した上で、そのデザインに関しては、一般からの公募を行うという方式がとられています。

 当時の一般国民の認識では、皇太子外遊の記念切手が発行されるとしたら、皇太子の肖像が切手上に描かれるのは当然で、それがどのようなものとなるのか、といった点に関心が集まっていました。それゆえ、図案を公募すれば、応募作品の多くは皇太子の肖像を取り上げることであろうことは、ほぼ確実でした。そして、郵政省は、その中の優秀作品を切手の原画として採用することによって、“国民世論”の反映という錦の御旗を掲げ、宮内庁の反対を押し切って肖像切手を発行することができると考えたのです。

 こうして、全日本切手展の開催などを通じて、郵政省との協力体制が整っていた毎日新聞社が、1953年1月から、毎日新聞社主催・郵政省協賛という形式で切手図案の公募を開始。6月2日の切手発行予定日から逆算して、3月10日が応募の〆切とされました。

 はたして、『毎日新聞』紙上で告知された募集要項には、図案の内容については「大英帝國の戴冠式に御參列の皇太子殿下の御渡歐を慶祝するにふさわしい圖案(または寫真)で新かつ迫力あるもの」との文言しかありませんでしたが、寄せられた2611点もの作品のうち、8割以上がなんらかのかたちで皇太子の肖像を取り上げたものでした。

 このなかから、3月20日に行われた審査の結果、ロンドン塔や自由の女神など、訪問地の建物をバックに皇太子の肖像を描いた山野内孝夫の作品と、世界地図をバックにした皇太子の肖像を描いた大野射水の作品の2点が特選(賞金10万円)に選ばれ、郵政省はこの両作品を元にした切手の制作を開始。また、これと前後して、印刷局では、早くも郵政省から原画が回ってこないうちから、3人の凹版彫刻家が皇太子の肖像部分の彫刻を始めています。

 当然、郵政省はこの2作品を原画として記念切手を発行する予定で、宮内庁との交渉を開始しました。

 しかし、なんとしても肖像切手の発行実現を阻止したい宮内庁は、郵政省との交渉で時間を稼ぎ、肖像切手の発行を時間切れに追い込もうとする戦術を取ります。実際、郵政大臣・高瀬荘太郎が宮内庁長官・田島道治を訪ねた際も、宮内庁側は言を左右にして、高瀬との交渉にまともに応じようとはしなかったといわれています。

 こうして、6月上旬の切手発行に間に合わせるためのデッドラインとなった4月上旬になると、しびれを切らした郵政省は、ついに、宮内庁に対して公文書で期限付きの回答を要求。これに対して、宮内庁側は、従前通り、“拒否”の回答を郵政省に送付します。その文面は非公開のため、詳細は不明ですが、実質的には恫喝といってよいほどのものだったようです。四月十日に開かれた図案審査専門委員会では、それまでとは雰囲気が一転し、ただちに、切手への肖像の使用を見合わせることが決定されているのは、宮内庁側の対応が相当に強硬だったことの状況証拠と見てよいでしょう。

 ちなみに、郵政省と毎日新聞社による切手図案募集の企画を聞いた秩父宮は、「(非常に良いアイディアだが)宮内庁がなかなか難かしいだろうな」と語っており、皇族でさえも宮内庁の頑迷固陋さには頭を抱えていたことがうかがわれます。

 なお、切手図案の懸賞公募を取り仕切った毎日新聞社は、当初こそ、肖像切手を発行しないという郵政省の決定に不満を示していたものの、ある時期から、突如、この件について完全に沈黙してしまいます。関係方面からのさまざまな圧力があったのか、あるいは、今後の皇室取材に関して支障が出ることを怖れた会社の上層部が“自粛”を関係部署に命じたのか、現在となっては、真相は薮の中ですが、このこともまた、今回の切手に関して後味の悪い印象を残すことになりました。
 
 こうして、肖像切手の発行が中止となって緊張の糸が途切れた郵政省に対して、宮内庁は追い討ちをかけ、立太子礼の記念切手同様、今回の記念切手に関しても発行までの主導権を握ろうとします。

 すなわち、宮内庁側は、エリザベス女王の戴冠式にあわせて記念切手を発行することは、女王の戴冠式を記念するような印象を与えるので好ましくない、と強硬に主張。そのうえで、“皇太子”にまつわる記念切手である限り、発行の名目を“ご外遊”とすることも認められないとして、記念名称の変更まで要求したのです。

 結局、郵政省側は、宮内庁に押し切られるかたちで、彼らの主張をことごとく受け入れ、皇太子が欧米歴訪を終えて日本に帰国する10月12日に“御帰朝”の記念切手を発行することで決着がはかられました。

 また、これに伴い、山野内孝夫と大野射水の作品は切手の原画としてはお蔵入りとなり、代わって、“御外遊”記念切手の図案として毎日新聞社に寄せられた作品の中から、中尾龍作の「鳳凰」と前川治朗の「」が切手の原画として採用されることになりました。

 あいつぐ宮内庁からの無理難題に対して、すっかり今回の記念切手発行への意欲を失った郵政省は、その後、暑中見舞葉書や通常切手の制作に追われていたこともあって、しばらく作業を中断。その後、6月中旬になって、「鳳凰」を久野実が、「鶴」を渡辺三郎が、それぞれ、切手の原画として構成しています。

 その後、8月10日には、試刷の第1回目の回校となりましたが、その時の様子について、“郵務局管理課切手係同人(中村宗文か?)”は『切手』紙上に「(五円の)製版は少し細か過ぎて思つた程凹版のよさが出なかつたが、これは全部をやり直しても、こちらの望む程の出来栄は六ヶ敷しいと思つたので、そのままで進むことになつた」と記しています。こうしたところからも、今回の記念切手政策に際しての郵政省の投げやりな姿勢が見て取れるように思われます。

 以上のような経緯を経て、御帰朝当日の10月12日、今回ご紹介の記念切手は発行されました。

 今回は、当初、皇太子の肖像が入った切手が発行されるものとの期待が大きかっただけに、それが裏切られたことに対する失望感は相当なもので、著名な収集家であった荒井国太郎が『切手趣味』誌に「皇太子殿下御帰朝記念切手に失望す」と題する文章を寄せたのをはじめ、多数の収集家がさまざまな郵趣誌(紙)上で不満と失望を述べています。

 また、漫画家の横山泰三が、切手発行からまもなくの『サンデー毎日』11月1日号の連載漫画「ミス・ガンコ」で取り上げ、登場人物に「コノ切手ノ鳥ハホントニイルノ」と言わせるなど、今回の一連の騒動での宮内庁の対応が、収集家だけでなく、広く一般の国民からも批判の的になっていたことがうかがえます。また、この切手のデザインに関しては、背景に描かれている瑞雲が、鳳凰の糞または放屁のように見えるとして、主として小中学生の間では揶揄の対象とされたようです。

 なお、今回の御帰朝の切手を含む戦後の皇室切手をめぐる宮内庁と郵政省の暗闘については、拙著『皇室切手』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

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 沖縄復帰40年
2012-05-15 Tue 17:23
 1972年5月15日に沖縄が祖国復帰を果たしてから、きょうでちょうど40年です。というわけで、きょうは返還前後に世間を騒がせたこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        守礼門復元

 これは、1958年に沖縄で発行された守礼門復元の記念切手です。
 
  アメリカ施政権下の沖縄では、1948年7月1日から“琉球郵便”の表示の入った正刷切手が発行・使用されていましたが、これらの沖縄切手も、復帰から20日間の移行期間を経て、1972年6月3日限りで使用禁止となりました。このため、この移行期間を利用して、日本切手と沖縄切手のコンビメーションカバーが収集家によって多数作られています。なお、公衆手持ち分の​沖縄切手に関しては、那覇中央局(復帰後は那覇局と改称)・名護局・宮古局・八重山局では8月31日まで、その他の沖縄県内の局では6月30日までの間、日本切手との交換が行われ、その後の残った沖縄切手は焼却処分となりました。

 ところで、本土への復帰を前にした1971年12月10日、琉球政府郵政庁は突如、1972年1月10日をもって沖縄切手の通信販売の受付を停止すると発表します。これに伴い、1月10日以降、復帰までの間に新切手が発行されなければ何も問題はなかった​のですが、実際には、郵政庁は海洋シリーズをはじめ、新たな記念特殊切手を発行し、その発売を窓口に限定してしまったことから、混乱が生じます。そして、こうした状況の中で、伊藤淳也の切手投資センターを中心とした切手投機の集団が暗躍することになるのです。

 1969年から1970年にかけて、大阪万博を契機とした好景気が日本中を覆う中で、記念切手のブームが到来すると、一部の記念切手の市価が大幅に値上がりし、そのことがマスコミなどで批判​的に取り上げられることが少なからずありました。このため、批判を恐れた郵政省は、記念切手の発行枚数を大幅に増やし、市価の“​暴騰”を防ごうとしました。たとえば、1971年の切手趣味週間​の切手(「築地明石町」)の発行枚数が、趣味週間切手としては過去最高の4300万枚となったのもそのためです。

 これに対して、それまで投機的な思惑買いをしていた一部業者の​中には、郵政省の施策によって日本の新切手の値上がりが期待できないと判断し、“投資”の対象を日本切手から沖縄切手へとシフトする者が現れはじめました。

 こうした状況の中で、伊藤らは、本土復帰を前に琉球政府郵政庁​が通信販売の受付を停止したことを奇禍として、“入手困難な沖縄​切手”を一般向けに大々的に宣伝し、1958年10月18日発行の「守礼門復元記念」の切手(以下、守礼門切手)を中心とした沖縄切手の投機的な売買を仕掛けていきます。三越をはじめとする有名百貨店では切手投資センターを中心とした大掛かりな即売会が開催され、“沖縄切手ブーム”がマスコミなどを通じて大々的に報じられるようになりました。

 こうした動きに煽られるかのように、復帰直前の沖縄では、「返還協定批准」の記念切手が発行された1972年4月17日や、「切手趣味週間」(“最終発行”を意味するFinal Issueの文字が印面に入っていることでマスコミでも大きく取り上げられました)の切手が発行された同月20日、郵政庁の窓口に本​土から飛行機をチャーターしてやってきたブローカーやデパート関係者、彼らに切手を売って利益を得ようとする地元民が殺到し、切手の入手をめぐって怒号が飛び交う混乱が見られました。郵政庁近​隣の路上には「切手高価にて買います」との張り紙をした車が並び​、札束を持ったブローカーが額面合計10ドルの切手を、すぐさま30ドルで買いあさるという光景もみられたことが、一般紙でも大きく報じられています。

 当然のことながら、こうした投機的な動きに対しては、日本郵趣協会(以下、郵趣協会)をはじめとする切手収集家の団体や東京郵​便切手商協同組合(以下、切手商組合)に属する多くの切手商は「1種300万枚も発行された切手が将来的に値上がりするはずがない」として、バブル相場に警告を発します。特に、郵趣協会は機関誌の『郵趣』を通じて大規模な切手投機反対キャンペーンを展開し、社会的にも注目を集めました。

 これに対して、切手投資センター側はマスコミを通じて「全日本​切手商協会(切手投資センターが中心となって組織した団体)の発展を快く思わない業者の妄言である」と反論。さらに、彼らが主催する即売会の会場に「某組合(切手商組合のこと:引用者註)の発行している(カタログでは)守礼門には200円と評価されている​。当方は10枚綴りの1シートを9000円で買い上げている。どつち(ママ)のカタログを信用して良いのだろうか」との掲示を張り出したり、切手評論家を名乗る平岩道夫がマスコミにたびたび登場して切手投資センター発行のカタログ以外は“不当表示”“バカ​な値段”“デタラメ”“インチキ”などとする発言を繰り返すなど、対決姿勢を強めていました。

 しかしながら、切手投資センター側がどれほど言を尽くそうとも​、品薄になったわけでもない沖縄切手の市価が、極短期間に数倍の​暴騰を示すというのは明らかに異常な事態であり、とうてい持続可能なものとはいえませんでした。さらに、切手投資センターと切手​商組合や郵趣協会の対立が“切手界の内ゲバ”として一般紙でも面白おかしく取り上げられたことで切手に対する社会的なイメージが悪化したことに加え、1972年9月2日付で平岩が信用毀損と営業妨害で切手商組合から東京地検の告訴されたこともあって、1972年も終わりに近くなると、伊藤らによって作られた“沖縄切手ブーム”には次第にかげりが見え始めます。

 それでも、1973年の早い時期までは沖縄切手の​投機的な相場はなんとか持ちこたえていましたが、同年3月2日、​国民的な人気を集めていた高松塚の寄付金つき切手に関して、郵政省が「切手投機業者の悪辣なやり方を封じるため」として大規模な増刷に踏み切ると、投機業者は大きな打撃を受けることになります。

 そして、沖縄復帰からおよそ1年が過ぎた1973年5月、投機業者たちはついに高値をつけていた守礼門切手の投売りを開始。同​年6月中旬の『京都寸葉』には、それまで、切手の買入値段表が掲載されていた広告スペースに、「琉球切手は市場不安定のため当分​の間買入を一時休止することに致します」(秀和スタンプ社)、「​日本および沖縄切手ともに、不安定な流動相場のため、当面買い入​れ及び販売を中止致します」(クマノスタンプ社)との文言の広告​が掲載されています。さらに、1964年の新幹線切手のときも投機的な手法で問題となった切手経済社(社長:矢沢敬一郎)は、琉球切手のバブル崩壊がもとで、1973年6月14日と15日の2回にわたって、それぞれ1000万円と160万円の不渡り手形を出し、銀行取引が停止されました。

 こうして、守礼門切手の暴落(ピーク時には全日本切手商協会系​の評価で4000円といわれていましたが、7月の業者間取引では1枚200円になりました)に引きずられるかたちで沖縄切手全体の市価は急落し、およそ1年半にわたって続いた沖縄切手をめぐる投​機騒動は、仕掛け人の伊藤自身がいみじくも「どんな手のこんだからくりも、半年一年と大勢を欺くことは不可能です」と発言していたように、あえなく破綻して終わったのです。


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 海賊の末路
2012-05-14 Mon 23:13
 環境保護を騙る卑劣なテロリスト集団、シー・シェパードの頭目、ポール・ワトソンがドイツのフランクフルトで逮捕されました。逮捕の直接の容疑は、2002年に中米コスタリカのサメ漁船の通航を妨害したことによるもので、ワトソンは今後、同国に引き渡されることになりそうです。というわけで、ワトソンとその一味にふさわしい末路を表した切手として、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

        海賊キッド

 これは、カリブ海の島国、セントクリストファー(セントキッツ)・ネイヴィス連邦のネイヴィスで発行されたミレニアムの切手のうち、海賊ウィリアム・キッドの処刑の場面を取り上げた1枚です。

 ウィリアム・キッドは、1645年、スコットランドのグリーノック生まれ。ニューヨークに移住し、裕福な商人として生計を立てていましたが、イギリスとの貿易活動の過程で、英国政府から海賊退治を含む私掠船の許可を獲得します。

 私掠船というのは、敵国の船を攻撃しその船や積み荷を奪う許可(私掠免許)を得た個人の船のことで、もともとは、一種の傭兵に類するものです。キッドの場合は、貴族たちをスポンサーとして必要な資金を集め、36門の大砲と70人の乗員を擁するアドベンチャー・ギャリー号で華々しく出航しました。しかし、キッドはフランスと非合法の海賊船に対する略奪の許可しか得ていなかったこともあって、“投資”に見合う利益を確保することができず、徐々に、英国船以外のすべての船舶を略奪するようになります。

 1697年10月30日、船員のウィリアム・ムーアを殺害したのを機に、キッドは本格的に海賊活動を行うようになりましたが、1698年4月、マダガスカル島で、かつての部下で海賊として活動していたロバート・カリフォードとその船を襲撃することを企図するも、部下の造反により敗走。ニューヨークへ戻ったところを逮捕され、イギリスへ護送された後、海賊行為とウィリアム・ムーアの殺人で起訴され、有罪判決を受けて、1701年5月23日、ロンドンで絞首刑にされました。その遺体は、遺体はテムズ川の上に鉄の檻にいれられ、海賊を志すものに対する警告として放置されたそうです。

 さて、環境保護を騙り、主として欧米諸国のリベラル派人士から資金を集めて、漁船や捕鯨調査船等へ攻撃を行うシーシェパードの連中は、政治的信念を持ったテロリストというような立派なものとはとうていいえず、単なる卑劣な犯罪集団でしかありません。その意味では、現在の海賊といっても差し支えありません。

 今回、ワトソンを拘束したドイツも、逮捕の直接の容疑で彼を国際手配していたコスタリカも、残念ながら、現在は死刑制度を廃止しています。しかし、幸いなことに、死刑制度を継続している我が国の海上保安庁も2010年6月、南極海での日本の調査捕鯨船に対する妨害を指示したとして、傷害容疑などで彼を国際手配しているわけですから、ワトソンがコスタリカでの刑期を終えた後、きちんと身柄の引き渡しを受けたうえで、シーシェパード一味の犯罪行為を余さず精査したうえで、きっちりと死刑判決を下し、即日、執行していただきたいものです。その際には、“海賊”としての名誉を尊重して、処刑の瞬間を全世界に生中継するとともに、その遺体は、さらし者にしてやるのが良いでしょうな。環境テロリストに対する見せしめのためにも。

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 ファティマの聖母
2012-05-13 Sun 18:52
 きょう(13日)は“母の日”ですが、ことしは、“ファティマ聖母の行列の日”とも重なりました。というわけで、聖母も母のうちですから、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        ファティマ小型シート

 これは、1951年に発行された小型シートで、同年発行のポルトガル領インドの切手と、1948-49年に発行されたポルトガル植民地で発行されたファティマの記念切手8種が収められています。8種の切手の発行国は、カーボ・ヴェルデ(紺)、ポルトガル領ギニア(現ギニアビサウ、緑)、サン・トメ・エ・プリンシペ(紫)、アンゴラ、(青)、モザンビーク(淡青)、ポルトガル領インド(濃緑)、マカオ(赤)、ティモール(現東ティモール、灰青)です。なお、シート中央下部の肖像は、シート発行時のローマ教皇、ピウス12世です。

 1917年5月13日、ポルトガル中央部、サンタレン県オウレン市の農村、ファティマで、10歳のルシアと従弟で9歳のフランシスコ、8歳のジャシンタの3人の純朴で信心深い子供が、羊たちの面倒を見ていた遊牧地で、昼食を終え、ロザリオ(聖母マリアに霊的なバラの冠を捧げるために繰り返される祈りの言葉)を唱えていました。そこへ、突如聖母マリアが現れ、みずからを“ロザリオの聖母”と名乗り、 罪人の改心と世界の平和のために毎日ロザリオを祈ること、すべての困難と苦しみを犠牲として神に捧げることを子供たちに願うとともに、毎月13日に同じ場所へ会いに来るように命じました。ルシアは急いで両親にその出来事を報告。両親も最初は信じなかったのですが、噂が広がり、ファティマには大勢の参拝客が訪れるようになります。

 聖母は3度目の出現となる7月13日、最後の出現となる10月13日に奇跡を起こすことを約束。はたして、10月13日には 7万人もの人々が見守る中、太陽が色や大きさを変えて激しく回転するような動きを見せ、人々はファティマの奇跡を信じるようになったそうです。

 聖母は5月13日から10月13日までの6回の出現に際して、さまざまな予言を残しました。その内容には、第1次世界大戦の終結やロシア帝国の崩壊と共産主義の台頭、核兵器の使用やローマ教皇の暗殺事件などが含まれていたといわれています。

 その後、カトリック教会は聖母の出現を公認し、5月13日はファティマの聖母の出現記念日とされるようになりました。ちなみに、3人の子供のうちのジャシンタとフランシスコは1919年から1920年にかけて流行の病で相次いで亡くなりましたが、その後、調査のために墓が開かれた際、ジャシンタの遺体の顔の部分は腐敗していなかったといわれています。一方、残されたルシアは修道女となり、2005年2月13日に97歳で亡くなりました。

 このエピソードにちなみ、毎年、マカオでは“ファティマ聖母の行列(花地瑪聖母像巡禮)”として、聖職者が祈祷をあげるなか、白い装束に身を包んだ女性達によって聖母の像が掲げられ、ロザリオの聖母を祀った聖ドミニコ教会から、南灣大馬路へ出て、ペンニャ教会(西望洋聖堂)までパレードするというイベントが行われます。

 なお、マカオのお祭りとしての“ファティマ聖母の行列”については、拙著『マカオ紀行』でもパレードを撮影した写真を交えてご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 麗水万博開幕
2012-05-12 Sat 17:40
 韓国南部の沿岸都市、全羅南道麗水市で、きょう(12日)、「生きている海、息づく沿岸」をテーマとする国際博覧会(麗水万博)が開幕しました。というわけで、麗水に関する切手ということでこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

        麗水

 これは、2002年8月1日に韓国で発行された「わが故郷」の切手(竹島切手が含まれていたシリーズです)のうち、全羅南道を取り上げた切手の1枚で、麗水の梧桐島が取り上げられています。なお、「わが故郷」の切手は2種連刷を16組同時発行するという構成になっていましたが、今回ご紹介の切手とペアになっているのは、珍島のカンガンスルレを取り上げた切手です。

 麗水は、全羅南道東南部の沿海部、麗水半島にあり、文禄・慶長の役の朝鮮側の英雄である李舜臣が司令官として赴任した土地として知られています。切手に描かれた梧桐島は、市内東部にある面積12万7000平方メートルの小島で、島の形が桐の葉の形に似ていることからこの名がつけられました。椿の名所として知られ、この島から南側の巨済・只心島までの地域は、1968年、閑麗海上国立公園(韓国初の海上国立公園)に指定されています。

 さて、今回の万博には、外国パビリオンとしては最大規模の日本館が出店しています。日本館では、東日本大震災からの復興の様子を伝える展示を中心に、館の外壁に設置したモニターで世界中から寄せられた支援に感謝する被災者のメッセージを流し、館内では被災した少年が復興に向けて歩む姿を童話風に描いたアニメを上映するほか、ジャパン・デーの6月2日には、航海訓練所の練習帆船「海王丸」が寄港するのだそうです。

 それはそれで結構なことですが、個人的には、今回の万博のテーマが「生きている海、息づく沿岸」となっているところが気になりますな。フツーに考えれば、韓国側はこの機会をとらえて、“独島”支配の正統性をアピールするとともに、日本海呼称問題でも、東海の名称を国際的に定着させようとするものと予想されます。

 もちろん、韓国には韓国の国益があり、それに沿って、彼らがいかなる主張をしようと、そのこと自体は止めることはできないわけですが、そのことによってわが国の国益が損なわれるというのであれば、きちんと対抗措置を取らねばなりません。まぁ、万博会場の日本館で「竹島は日本の領土であり、日韓の間にある海の名称は日本海以外にはありえない」という横断幕でも掲げられればベストでしょうが、日本以外の国では、外国人の出店者が自国の国益を損なう行為を行った場合、それを黙認すると言うことはありえませんので、実現は不可能でしょう。

 報道では、万博への一番乗りが日本人だったということが大きく報じられていましたが、むしろ、どういう展示がなされていたのか、きちんと検証報道をしていただきたいものです。少なくとも、日本人が会場に一番乗りして「“独島”は韓国の領土・日本海の呼称は東海とすべき」という彼らの主張をありがたく受け入れたというイメージ操作がなされないよう、十分に注意しなければなりませんな。

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 ケープ周郵記②
2012-05-11 Fri 22:17
 ご報告が遅くなりましたが、先月25日、本のメルマガ第463号が配信となりました。僕の連載、「ケープ周郵記」は、今回は、ケープタウンから喜望峰へと向かう道中のキャンプスベイを中心に取り上げました。その記事の中から、きょうはこのマテリアルのご紹介です。(画像はクリックで拡大されます)

      キャンプスベイ(1907)     キャンプスベイ(実物)

 左は、ケープ植民地時代の1907年に差し出された絵葉書で、当時のキャンプス・ベイを遠望する写真が取り上げられています。右側には、曇っていて見晴らしが悪いのですが、2010年に撮影したキャンプス・ベイの風景の写真を貼っておきました。

 ケープタウン郊外のキャンプス・ベイのエリアは、高級ホテルやセレブ達の別荘などが立ち並ぶリゾート地として知られています。

 現在のケープタウンの基礎は、1652年、南アフリカにオランダ人入植地とオランダ東インド会社のための補給基地の建設を命じられたヤン・ファン・リーベックが上陸して築かれましたが、その時からすでに、ケープタウン郊外のこの地は東インド会社の保養地として利用されていました。

 ケープ半島沿岸の海岸の中でも、キャンプス・ベイ一帯が特に保養地として選ばれたのは、テーブルマウンテンとそれに続く十二使徒と呼ばれる山々が南東からの季節風をさえぎり、気候が穏やかなためで、オランダ人の入植以前はサン族やコイ族などの先住民が住んでいました。

 十二使徒という名前は、12の峰が連なっていることから、キリストの12人の弟子になぞらえて命名されたものですが、峰ごとにペトロとかヨハネとかそういう名前が付けられているわけではありません。個人的には、ユダなんて峰があったら、金貨を持って(昔懐かしいクルーガー・ランド金貨が良いかもしれません)登ってみたいですがね。

 18世紀に入ると、一帯の土地はウェルニヒ家に払い下げられましたが、1778年、当主のヨハンが亡くなり、財産を引き継いだ未亡人のアンナ・コーケモールがフレデリック・フォン・カンプスと再婚すると、いつしか、“フォン・カンプスの海岸”を意味するディー・バーイ・フォン・カンプスの地名が定着。現在のキャンプス・ベイというのは、その英語名です。

 イギリスがケープ植民地を獲得した19世紀初頭の時点では、キャンプス・ベイ一帯は未開発の自然が数多く残されていて、1814年から26年にかけてケープ植民地総督を務めたチャールズ・ヘンリー・サマーセットは、海水浴ではなく、狩猟を楽しんだといわれています。

 リゾート地としての本格的な開発が進むのは、1887年にケープタウン市内からの直通道路が開通してからのことです。道の名前は、当初の計画ではクルーフ・ロードとなっていましたが、完成翌年の1888年がたまたまヴィクトリア女王の在位50年の記念の年であったため、完成時にはヴィクトリア・ロードと命名されました。

 19世紀末、キャンプス・ベイ一帯のリゾート地としての開発が進み、多くの観光客が訪れるようになると、さっそく、ビーチと山並みを組み合わせた絵葉書が盛んに作られるようになりました。今回ご紹介の絵葉書もその1枚で、1907年5月8日、東ケープ州のポート・エリザベスから差し出され、同月10日にケープタウンに到着しています。ケープタウンの名宛人に送るのなら、ポート・エリザベスの絵葉書を送ったほうが喜ばれるだろうと思うんですが、まぁ、そのあたりはご愛嬌でしょうな。

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 昭和切手75年
2012-05-10 Thu 23:19
 1937年5月10日に第1次昭和切手のトップを切って乃木希典を描く2銭切手が発行されてから、きょうでちょうど75年です。というわけで、きょうは、最近入手した昭和切手関連のマテリアルの中から、こんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

        香港・暫定加刷カバー

 これは、1945年6月16日、日本占領下の香港から廣州宛に差し出された書留便で、昭和切手に加刷した暫定切手が8円分(乃木2銭に加刷した3円切手+東郷5銭に加刷した5円切手)が貼られています。

 第二次大戦中、日本軍の占領下に置かれていた香港では、住民は日本の軍票を使うことが強制され、香港ドルは所有さえしてはならないということになっていました。

 日本の戦争が中国大陸にとどまっていた時期は、日本軍は各種の工作(大雑把にいえば、一種の“通貨介入”が中心になります)を行い、中国国民政府の通貨である法幣に対して軍票の価値を維持しようとしていました。しかし、戦時インフレの進行により、日本側は大陸での軍票の価値維持工作を断念。1943年3月いっぱいで、中国の華中・華南地区での軍票の使用を取りやめました。

 その後、中国大陸で使われなくなった大量の軍票は、そのまま、香港に流れ込みます。太平洋戦争開戦後の占領地域では、中国大陸と違い、日本軍は軍票の価値を維持するための工作を全く行いませんでした。このため、ただでさえ、占領下の戦時インフレに悩んでいた香港では、猛烈なハイパー・インフレが発生。その結果、たとえば、郵便料金一つとっても、1942年の占領当初には香港域内ならびに日本・南方占領地・満洲・中国大陸宛封書の基本料金は4銭でしたが、1945年4月には3円にまで暴騰してしまいます。このため、急いで郵便料金に相当する切手を発行しなければならなくなった占領当局は、日本から持ち込んだ切手に新料金に相当する金額と“暫定”ならびに“香港総督部”の文字を加刷した切手を発行しました。

 今回ご紹介のカバーは、基本料金の3円と書留料金の5円のそれぞれに相当する切手がきっちり貼られています。表裏に押されている印を見ると、このカバーは6月16日に香港から差し出された後、6月22日にはいったん廣州に到着したものの、受取人不在で一定期間郵便局に保管されたのち、7月5日に廣州局から香港に戻され、7月18日に香港に帰着したことがわかります。データがきちんとしていることに加え、姿もなかなか良いので、最近入手したマテリアルの中ではお気に入りの一点です。

 さて、6月18日から、ジャカルタで世界切手展<INDONESIA 2012>が開催されますが、同展には、僕も“A History of Hong Kong”と題するコレクションを出品する予定です。今回の出品作品は、2008年にルーマニアのブカレストで開催された世界切手展<EFIRO 2008>のオープンクラスに出品して金銀賞(スコアは88点ですが、オープンクラスは“大金銀賞”が存在しないため)を受賞した作品を、テーマティク・コレクションとして再構成した内容となっています。部門の変更ということで、“資格なし”として出品申し込みが受け付けられないことも覚悟していましたが、主催者側のご厚意で受け付けていただき、ありがたい限りです。

 なお、今回の作品では、きょうご紹介のマテリアルも含め、5年前の拙著『香港歴史漫郵記』刊行後に入手したマテリアルも大幅に追加しました。今回のインドネシア展を皮切りに、昨年の横浜展を花道に引退した“昭和の戦争”に代わる国際展用のコレクションとして、育てていければ…と思っているところです。

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 猫ひろし、五輪出場不可
2012-05-09 Wed 22:08
 カンボジア国籍を取得し、いったんはロンドン五輪男子マラソンの同国代表に選ばれたタレント、猫ひろしについて、国際陸上競技連盟は「参加資格を満たしていない」と判断。猫のロンドン五輪出場の可能性は消滅しました。というわけで、きょうは、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        キンナリー小型シート(カンボジア)

 これは、1953年4月に発行されたカンボジアの航空切手の小型シートで、それぞれの切手にはキンナリーが描かれています。

 キンナリーは、もとはヒマラヤに住む精霊の一種で、一般には、上半身が人間、下半身が鳥の姿で表現されることが多いようです。歌と踊りで神々に仕え、古典文学では美人の象徴として女性の姿で登場しますが、単語としては男性形のキンナラもあります。今回ご紹介の切手に描かれているのは中性的な顔つきですが、キンナリーとなっていますので、女性の姿ということなのでしょう。なお、キンナリーを取り上げた各国の切手については、拙著『切手が伝える仏像』でもいろいろとご紹介しておりますので、ぜひ、見比べていただけると幸いです。

 さて、ついでなので、この切手が発行されるまでのカンボジア近代史についてもおさらいしておきましょう。

 フランスによるインドシナ植民地化の過程で、1863年8月、フランスはカンボジア王と「修好、通商及びフランス国の保護に関する条約」を締結し、カンボジアを保護国化します。1867年7月には、カンボジアの宗主国であったシャム(現タイ)もカンボジアに対するフランスの保護権を承認。1887年には現在のカンボジア領の大半がフランス領インドシナの一部となり、1893年のパークナーム事件を経て、バッタンバン、シェムリアップ、シソポンの各地域もフランスに割譲され、カンボジア全土がフランス領インドシナに編入されました。

 こうした経緯もあって、第2次大戦でフランス本国が敗れた後の1940年11月、タイ・フランス領インドシナ間で、カンボジア、ラオスの領土をめぐり国境紛争が勃発。1941年5月、日本の調停によりタイ・フランス両国間で平和条約(東京条約)が結ばれ、タイはバッタンバンなどカンボジアの失地を回復します。さらに、1945年3月、カンボジア王ノロドム・シハヌークが日本軍の明号作戦に呼応してカンボジアの独立を宣言しましたが、日本の敗戦により、カンボジアは再びフランスの支配下に置かれることになりました。

 これに対して、シハヌークは粘り強く独立運動を続け、1947年には憲法を公布、1949年にフランス連合内での独立を獲得。1953年には警察権・軍事権を回復してカンボジア王国として完全独立を達成し、今回ご紹介の切手が発行されるに至ったというわけです。

 その後のカンボジアは、1970年のロン・ノルによるクーデターで発足したクメール共和国、1976-79年のポルポト時代、1979年に始まるヘン・サムリン政権と1982-91年の内戦を経て、1991年に現在のカンボジア王国が成立するという激動の歴史をたどることになります。

 さて、“カンボジア人”になったばかりの猫ひろしが、カンボジアの近現代史についてどの程度の知識を持っているのか、テレビのインタビューなどを見る限りでは良くわからないのですが、報道によれば、ご本人いわく「カンボジア人として4年後のリオデジャネイロ五輪を目指す」ということだそうです。そういうことなら、その間、近現代史の概説を含めたカンボジア入門の番組なり書籍なりを、ぜひ、作っていただきたいものですな。

 *けさ、カウンターが103万PVを越えました。この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。

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 プーチン大統領就任
2012-05-08 Tue 15:01
 きのう(7日)、ロシアの新大統領就任式が行われ、ウラジミール・プーチンが4年ぶりに大統領として復活。かわって、ドミトリー・メドヴェージェフはプーチンに代わって、きょう(8日)、首相に就任することになっています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        メドヴェージェフ大統領就任

 これは、2008年のメドヴェージェフ大統領就任に際してロシアで発行された記念切手です。中央に大きく描かれている双頭の鷲は、もともとは、東ローマ帝国で東洋と西洋の両方にローマ皇帝の支配を意味するものとして使われていたもので、東ローマ帝国の後継者を自負していたロマノフ王朝が、東ローマ帝国にならい「西(ヨーロッパ)」と「東(アジア)」にまたがる統治権を象徴するため国章として採用し、ソ連崩壊後の現ロシア連邦の国章としても引き継がれました。まぁ、国旗と国章というデザインは新大統領就任の記念切手として定番のものともいえますが、メドヴェージェフ政権の発足に際しては、さかんに、プーチンとメドヴェージェフとの双頭体制ということが言われていましたから、そういうイメージでこの切手を受け止める人も少なくなかったでしょうな。

 さて、どうしてもプーチンの陰に隠れて影の薄いメドヴェージェフですが、もともと、彼と政治とのかかわりは、ソ連時代の1989年にレニングラード大学法学部の恩師、アナトリー・サプチャークが人民代議員大会に出馬した際にその選挙運動を手伝ったのがきっかけです。翌1990年、サプチャークがレニングラード市ソビエト議長に就任すると、メドヴェージェフは議長参事官に就任しますが、ここで同僚の参事官として勤めていたのがプーチンで、二人の関係ができました。

 以後、メドヴェージェフは、プーチン議長の下でのサンクトペテルブルク市渉外委員会の法律顧問、同市第一副議長としてのプーチンの顧問となり、1999年8月にプーチンがロシア連邦首相に就任するとロ連邦政府官房次長に、同年12月31日にプーチンが大統領代行に就任すると、大統領府副長官に就任。さらに、2000年の大統領選挙では、プーチン陣営の選挙対策本部責任者としてプーチンの大統領当選に貢献し、以後、第1期プーチン政権下では、大統領府長官や第一副首相などを務めました。

 こうした忠勤ぶりが評価され、2008年の大統領選挙では、連続3選を禁止した憲法の規定でプーチンが立候補できないため、代役として与党候補として大統領選挙に出馬。当選後は、プーチンを首相に指名し、いわゆる双頭体制がスタートします。

 大統領就任後のメドヴェージェフは、汚職との戦いや経済近代化、中央集権の是正や司法の独立など改革路線を宣言し、政治・経済の国家統制による“安定”を重視した第1期プーチン政権との違いをアピールしました。しかし、改革よりも安定を重視するシロヴィキ(政権内の治安・国防関係省庁の職員とその出身者)による抵抗もあり、地下資源に依存する経済構造の多角化・効率化は進まず、金看板だった汚職対策も大した成果を上げることのないまま4年間が過ぎ、プーチンに大政奉還ということになりました。

 ちなみに、第2期プーチン政権下で首相に就任するメドヴェージェフですが、プーチンの大統領返り咲きに対する反対デモも頻発する中で、年金や医療・福祉の改革など難しい政治課題に取り組まなければならず、前途は多難なようです。早くも、国民の政権に対する不満が高まれば、プーチンは実務責任者としての首相に責任を押し付けて、メドヴェージェフをお払い箱にしてしまうという観測が出ているのだとか。

 ちなみに、今回のプーチン大統領就任を記念して昨日発行された切手は、報道資料によれば、以下のようなデザインになっています。

        プーチン大統領就任(2012)

 まぁ、双頭の鷲はロシアの国章ですから、今回の切手にも登場はしますが、4年前のメドヴェージェフ大統領就任の記念切手に比べると、ずいぶんと控え目な扱いです。やっぱり、メドヴェージェフのお留守番期間は終わり、双頭体制もおしまい、ということの表れなんでしょうな。

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 オランド新大統領の住まい
2012-05-07 Mon 15:34
 きのう(6日)、フランス大統領選の決選投票が行われ、社会党のオランド前第1書記が現職大統領のサルコジを破って当選しました。というわけで、きょうはこの切手です、(画像はクリックで拡大されます)

        エリゼ宮

 これは、1957年にフランスで発行されたエリゼ宮の切手です。

 エリゼ宮は、建築家モレの設計により、エヴェール伯爵のために建てられた宮殿で、完成は1722年のことです。その後、 ポンパドゥール夫人やナポレオン1世の皇后ジョゼフィーヌの住居としても用いられました。ナポレオン1世の失脚と王政復古により1816年に王室財産に復しましたが、1848年の2月革命で第2共和国が発足すると、国民議会により大統領官邸に指定されました。

 ところが、第2共和国の初代大統領となったルイ・ナポレオンは、エリゼ宮を官邸とせぬまま、1851年にクーデターで皇帝ナポレオン3世として即位してしまいます。結局、エリゼ宮が大統領官邸として定着したのは、ナポレオン3世の失脚後に発足した第3共和国の第2代大統領マクマオン以降のことでした。

 ちなみに、オランド新大統領の就任式は今月15日の予定だそうですが、それまでにサルコジ現大統領はエリゼ宮を明け渡さなければならないということになります。選挙に負けたから仕方ないといえばそれまでですが、10日以内というのはあまりにも慌ただしくて、ちょっと気の毒な感じがしますな。

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 切手に描かれたソウル:国会議事堂
2012-05-06 Sun 17:42
 ご報告が遅くなりましたが、『東洋経済日報』4月20日号が刊行されました。僕の連載「切手に描かれたソウル」では、今回は汝矣島の国会議事堂の切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

        韓国国会議事堂(1998)

 これは、1998年5月30日に発行された国会開院50年の記念切手で、汝矣島の国会議事堂の夜景と花火が描かれています。

 韓国の国会のルーツは米軍政時代末期の1948年5月31日に開院の制憲国会ですが、この時の議場は、旧朝鮮総督府の建物を利用した中央庁舎でした。

 その後、1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、ソウルが北朝鮮の朝鮮人民軍によって占領されると、国会は大邱の文化劇場(同年7月27日から8月17日まで)、釜山の文化劇場(同年9月1日から10月6日まで)へと移転します。ちなみに、開戦2週間前の6月10日、ソ連の政府機関紙『イズベスチア』には「8月5日から8日の間に、南北朝鮮を通ずる総選挙を実施し、15日にソウルで統一国会を開くであろう」との記事が掲載されており、北朝鮮による南侵(の可能性)が暗示されていました。

 9月28日、韓国国連軍がソウルを奪還すると、10月7日から11月26日まで、国会は、再びソウルの中央庁舎で開催されるようになります。その後、1950年12月から翌1951年1月にかけて、国会は市民会館(日本統治時代の旧京城府民館で現・ソウル特別市議会議事堂)で開催されましたが、中国人民志願軍の参戦により戦況が悪化すると、国会も再び釜山に移り、文化劇場(1951年1月4日から同年6月11日まで)、慶尚南道庁舎(旧武徳殿。1951年6月27日から1953年8月14日まで)が議事堂として使われました。

 1953年7月27日の休戦を経て、8月15日にソウルへの再遷都が実現すると、1954年5月末まで中央庁が議事堂となったが、その後は、市民会館が改修されて議事堂として使用されています。

 なお、1960年から61年にかけての第2共和国の時代には、韓国の国会は二院制で民議院と参議院がありましたが、参議院の議場は民議院の市民会館からも近い大韓公論社に設けられていました。

 さて、現在の汝矣島の議事堂は、光復30年にあたる1975年8月に完成しました。

 現在でこそ、汝矣島は、国会議事堂やKBS、株式市場、銀行などが立ち並ぶオフィス街となっていますが、日本時代の飛行場が1958年に閉鎖された後は、開発から取り残されていました。議事堂は、その汝矣島の再開発の手始めとして、島の西端に建設されたというわけです。

 議事堂本館の建築面積は2万4636坪。単一の議事堂建築としては東洋最大の大きさだといわれています。建物の周囲を囲む花崗岩の八角柱24本は二十四節気を象徴するもので、ドーム状の屋根は、国民の多様な意見から討論によって一つの結論を出す議会制民主主義を象徴するものだそうです。

 本会議場の議席は、将来の統一により議席が拡大することを想定して最大400議席まで拡充可能な構造になっているほか、憲法改正により二院制が導入された場合には、現在の予算決算特別審議会会議室が参議院(第二院)の議場に当てられることになっています。

 汝矣島が新議事堂の立地に選ばれた理由はいろいろと考えられますが、当時の朴正熙政権には、国会前での反政府デモに備えて、議事堂を市内中心部から動かしてしまいたいとの意図もあったといわれています。泉下の元大統領も、よもや、自分の娘(朴槿恵)が総選挙で与党を勝利に導き、汝矣島の議事堂を足掛かりに青瓦台を目指す日が来ることになるだろうとは、思いもしなかったでしょうな。

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 こどもの日
2012-05-05 Sat 17:24
 今日は“こどもの日”です。というわけで、“こども”がらみでこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        三番叟(昭和28年用年賀)

 これは、昭和28年用の年賀切手で、三番叟の御所人形が描かれています。

 御所人形は、江戸時代に発達した人形形態のひとつで、主として、三頭身で白い肌の裸の子供がモチーフとなっています。江戸時代、京都の御所や公卿達から大名等への贈り物の返礼として使われたのが名前の由来で、桐の木を掘った素地に胡粉を塗り重ねて造られます。

 一方、切手の題材となった三番叟は、もともとは能楽の「翁」で、千歳・翁に次いで三番目に登場する老人の舞です。面をつけない直面の揉の段と黒い尉面をつける鈴の段とから構成されており、狂言方(狂言師)が舞う(専門的には、三番叟を演じる動詞は“踏む”の語が用いられます)ものです。

 ここから派生して、江戸時代には人形浄瑠璃や歌舞伎などのさまざまな分野の三番叟が発展し、特に、歌舞伎では三番叟物と呼ばれるジャンルも生まれました。いずれも、演じられる場合には、その日の最初の演目となっており、ここから、物事の始まりを意味する代名詞となっています。

 演者は頂が剣先状になっている剣先烏帽子を冠りますが、能楽ではこの烏帽子が黒一色であるのに対して、歌舞伎や人形浄瑠璃などでは金と黒の横縞に旭日を配した、いかにもお目出度いデザインになっています。また、本来は扇と神楽鈴を持って舞いますが、扇二本を用いるなどのバリエーションもあります。
 
 これに対して、切手に取り上げられている三番叟の人形は三番叟烏帽子を冠り、扇子を持った舞姿のものですが、神楽鈴は持っていません。また、一般に三番叟では演者は羽織をはおっていますが、この人形には羽織もなく、その意味では特殊な形態のものと言ってよいでしょう。

 ちなみに、三番叟を題材とした人形のうち切手に取り上げられたものとしては、金沢の郷土玩具“猿の三番叟”を取り上げた一九九二年(平成四)用の年賀切手と、松山の郷土玩具“伊予一刀彫・三番叟”を取り上げた二〇〇四年(平成十六)用の年賀切手がありますが、このうち、羽織をはおって鈴と扇を持つ“猿の三番叟”の姿が三番叟のスタイルとしては最もオーソドックスなものといえましょう。

 ちなみに、原画を作成した加曾利鼎造は、切手の原画が完成し、印刷局での作業が進められていた1952年11月19日、東京都中野区江古田の自宅近くでひき逃げ事件に遭い、翌朝、通行人に発見されて病院に運ばれたものの、11月22日に亡くなりました。このため、この切手が彼の絶筆となりました。

 なお、この切手が発行された当時の状況や加曾利の交通事故については、拙著『年賀状の戦後史』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 

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 盲目の人権活動家、出国へ
2012-05-04 Fri 22:22
 中国・北京のアメリカ大使館を出たあと、市内の病院に入院している盲目の人権活動家・陳光誠の処遇について、中国外務省は、きょう(4日)、陳の出国を容認する意向を表明しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        一人っ子政策(1983)

 これは、1983年、中国が発行した“一人っ子政策(計画生育政策)”の宣伝切手です。

 一人っ子政策は1979年に始まった人口規制政策で、夫婦ともに漢族ないしはチワン族の場合、第1子の出産については無条件で戸籍を与えるものの、第2子以降の出産については“社会扶養費”という名目で罰金を徴収するほか、両親ともに昇級・昇進の停止、学校への優先入学権の剥奪、各種手当ての停止などのペナルティを課すことによって、妊娠・出産を抑制しようというものです。

 この政策は人口抑制という点では一定の成果を上げた反面、第2子以降を産んでも親が戸籍に登録しない“黒孩子”(法律上は国民として存在していないことになっているため、行政サービスの対象外となります)の問題や、“社会扶養費”が利権化することによる行政の腐敗などの弊害が社会問題化。さらに、人口抑制の結果として、少子高齢化が進み、2015年以降、労働力人口が減少に転じることが予想されるなど経済へのマイナスも懸念されており、近年では規制は緩和されつつあるというのが建前です。

 さて、今回、話題となった陳光誠は、1971年、山東省出身。乳児の頃、高熱を出して失明しましたが、1998年に盲学校を卒業し、2001年、南京中医薬大学を卒業しました。その後、マッサージ師として働くかたわら、蒙学校在学中に学んだ法律の知識を生かして、弱者の権利擁護に取り組み、2005年6月には、山東省臨沂の当局が一人っ子政策を理由に(賄賂を払わないないしは払わない妊婦とその家族に対する)人工妊娠中絶や不妊手術を強制したことに対して集団訴訟を起こしました。

 今回ご紹介の切手には、「一人っ子政策はわが国の最優先国策である」との趣旨の文言が入っていますが、陳の組織した集団訴訟はこれと真っ向から対立するものであったため、地元当局は彼とその家族を自宅に軟禁。さらに、翌2006年6月には彼を逮捕し、同年8月、懲役4年3ヶ月の有罪判決を下しています。

 刑期満了後の2010年9月、陳は釈放されますが、その直後から妻とともに自宅に軟禁されていました。今年(2012年)4月22日、彼は監視の隙をついて脱出し、その後、北京のアメリカ大使館に保護されます。

 このため、陳の処遇は米中間の懸案事項となりましたが、5月2日、中国側がアメリカに対して陳の安全を保証し、陳は大使館を出て北京市内の病院に入院するという形で決着が図られました。しかし、一部報道で明らかになったことによると、中国側は陳に対して、大使館から出なければ家族の安全を保証しないと仄めかして圧力をかけたほか、中国との関係を悪化させたくないアメリカの民主党政権は陳の安全を保証するという中国側の“約束”を渡りに船として、事実上、陳を大使館から追放したというのが実情のようです。

 このため、病院に入院した陳は、各国のメディアに対してアメリカへの出国の意思を表明。このことが世界的に問題視され、中国側も、海外留学の形で陳の出国を認めざるを得なくなったというわけです。

 まぁ、陳が家族ともども無事に出国できれば、とりあえず、そのこと自体は慶賀すべきでありますが、今回の一件で、アメリカは中国に対して貸を作った格好になりましたからねぇ。ただでさえ、“人権派”を自称していながら、世界最大の人権抑圧国家である中国に対しては宥和的な姿勢の目立つオバマ政権のことですから、アメリカがどうやって今回の借りを中国に返すつもりなのか、我々としても注視しておく必要はあるでしょう。

 それにしても、昨日は憲法記念日ということで、人権問題を取り上げる護憲派の集会も各所で開かれたようですが、我が国の身近に、こうした人権抑圧国家が存在しているという厳然たる事実を、参加者の皆さんはゆめゆめお忘れではありますまいな。


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 漂着のハーレー所有者判明
2012-05-03 Thu 22:14
 先月中旬、カナダ西部ブリティッシュ・コロンビア州のグレアム島に、東日本大震災での津波にさらわれたとみられる白いコンテナが漂着し、中から、宮城ナンバーの大型オートバイ“ハーレー・ダビッドソン”が1台出てきた件で、その所有者が判明したそうです。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        アメリカ特別配達用切手10セント

 これは、1922年にアメリカで発行された特別配達(まぁ、速達のようなものと思ってください)用の10セント切手で郵便配達の場面が描かれています。

 1885年にアメリカで最初に発行された特別配達用切手の切手には手紙を持って走る郵便配達員が描かれていましたが、1902年の切手では、それが自転車に乗る配達員のデザインに代わっています。その後、1908年には通信の象徴であるマーキュリーのヘルメットをデザインした切手も発行されましたが、今回ご紹介の1922年の切手ではオートバイとなっており、時代とともに、“スピード”の表現が変化しているのが面白いところです。

 ところで、今回ご紹介の切手に描かれているオートバイについては、アメリカの郵政当局は特定のメーカーのモノではないとしていますが、収集家の間では、1922年製のハーレー・ダビッドソン22Jと呼ばれるモデルをもとに原画が制作されたことがほぼ確実視されています。ハーレーというと大型バイクの代名詞。これに対して、郵便配達のオートバイというと、小回りの利くスーパーカブというイメージが強いだけに、ハーレーにまたがっての郵便配達というのは、ちょっと意表を突いた組み合わせかもしれません。
 
 さて、今回、カナダで見つかった車両について、アメリカ・ウィスコンシン州のハーレー・ダビッドソン本社は、同社の負担でカナダから元の持ち主のいる日本に運び、修理する意向だそうです。今年は1912年にわれらが帝国陸軍がハーレーのオートバイを初めて輸入(後に、サイドカーを中心として軍用車両として用いられました)してから100周年という節目の年でもありますし、ポトマック河畔の桜に続き、日米友好親善の100年を記念する出来事として記憶にとどめておきたいですね。

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 エジプト向けサバ輸出再開へ
2012-05-02 Wed 22:42
 エジプト政府は、きょう(2日)までに、サバなど日本産食品の輸入規制を大幅に緩和する方針を決定。これにより、昨年3月の東京電力福島第1原発事故を受けて停止されていた日本からエジプトへの食品輸出が今月中にも再開される見通しとなりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        マサバ

 これは、1966年9月1日に発行された魚介シリーズ第7集の“まさば”です。原画は、日本画家の上村松篁が制作しました。

 マサバは、サンマやイワシと並んで“背の青い魚”の代表的な存在で、樺太、朝鮮からハワイ、カルフォルニア、フィリピン、台湾など主に黒潮流全域に分布しています。沿岸の表層から中層を群れで回遊しており、日本近海でごく普通に見られるため、古くから食用魚として広く漁獲されてきました。福岡県の県魚・静岡県の2月の県魚・長崎県の秋の県魚・鹿児島県の秋の県魚に指定されていますが、切手発行時の初日印適応局としては、水揚げ日本一の千葉県銚子局が指定されました。

 さて、フクシマ事故が起こるまで、エジプトは日本産のサバの最大の輸出国だったそうで、今回のニュースは日本の漁業関係者にとっても朗報と言えそうです。

 エジプトではサバは庶民的な魚で、わが国からだけでなく、オランダやアメリカなどからも輸入しています。調理法としては、単純な焼物・揚物のほか、サバをオーブンで焼き上げてその上に野菜を敷き詰めて、スパイスをしっかりかけ、臭みを消して食べる料理も定番だそうです。これが、トルコあたりに行くと、焼くか揚げるかしたサバの身をパンに挟み、タマネギ、トマト、レモン、塩をかけて食べるサンドイッチが名物として知られているのですが、類似のものがエジプトでも食べられているのかどうかは、未確認です。

 いずれにせよ、わが国は食料自給率が低く、食料品は海外から輸入するばかりと考えがちですが、今回のサバのように、海外でも広く利用されている日本産の食材というのは、探せばかなりあるはずです。海外からの輸入攻勢に対する国内の農林水産業の保護はもちろん重要ではありますが、そうした防御策と並行して、海外への輸出を意識した日本産食材・食品のアピールも積極的に行うべきではないでしょか。じっさい、中国では、中国産の食材・食品の安全性に問題があるということが国民的なコンセンサスになっているため、富裕層は競って日本からの輸入品を求めているわけですしね。

 諸外国では、自国の食材・食品などを広く海外に紹介するための切手を発行するケースも珍しくないのですから、わが国でも、それにならって、日本産の食材・食品を広く世界にアピールするような切手が発行されることを望みたいものです。

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 米比2プラス2の開催
2012-05-01 Tue 22:20
 アメリカ・フィリピン両政府は、きのう(4月30日)、南シナ海の領有権問題をめぐり、フィリピンなどと争う中国に対抗するため、ワシントンで初の外務、国防担当閣僚級会合(2+2)を開催。フィリピンの海上での安全保障能力を強化するため、両国が緊密に連携することを確認しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        フィリピン第1駐屯所(米)

 これは、1899年2月8日、マニラに設置された米軍のフィリピン第1駐屯所からイギリスのエセックス宛に差し出された書留便で、裏面には3月18日付の香港の中継印が押されています。

 1898年4月25日、アメリカはメイン号事件をきっかけに、キューバの独立支援を大義名分としてスペインに対して宣戦を布告。いわゆる米西戦争が勃発します。

 開戦と同時に、アメリカはキューバとは無関係であったはずのスペイン領フィリピンにも艦隊を派遣。ここでも、スペインの圧政から現地住民を解放するとの大義名分が掲げられいました。

 ところで、フィリピンでの戦闘に際しては、香港が重要な役割を果たしています。

 米西戦争以前のフィリピンでは、1896年8月に独立革命が勃発して以来の混乱の最中にありました。当初、革命は労働者出身のインテリ、アンドレス・ボニファシオひきいる秘密結社のカティプーナンの蜂起によりはじまりましたが、革命がフィリピン各地に波及し、諸勢力がこれに加わるようになると、革命の主導権はエミリオ・アギナルドに代表されるプリンシパーリア層(スペイン統治下で地域レベルの行政に従事していた役職者)が握るようになります。さらに、階層対立に地域間対立も加わって、革命派内部は混乱が続き、戦況はスペイン有利に展開されていました。

 こうした状況の中で、革命派内の主導権を掌握したアギナルドは、1897年5月、ボニファシオを処刑し、ともかくも、自らを大統領としてフィリピン共和国(総司令部の置かれていた地名にちなみ、ビアクナバト共和国とよばれることもある)の成立を宣言しました。

 しかし、ビアクナバト共和国が発足したものの、依然として戦況はスペイン有利に展開されており、アギナルドは次第にスペイン側との妥協を余儀なくされます。結局、革命政府の成立からわずか半年後の12月20日、革命派とスペイン側との間で停戦が結ばれ、革命指導部は80万ペソ(40万米ドルに相当。ただし、この段階でスペイン側がアギナルドに支払ったのは半額の40万ペソ)の補償金と引き換えに香港へ亡命しました。

 しかし、アギナルドらの亡命後も、反スペインの独立闘争は激しさを増すばかりで、スペインの植民地政府はその対応に追われていました。

 米西戦争は、まさにこうしたタイミングで勃発したわけですが、すでに開戦以前の1898年3月の時点で、アジア太平洋地域における拠点を捜し求めていた“アメリカ帝国主義”は、スペインという共通の敵を前に、再起を期して香港に亡命していたアギナルドらとの折衝を開始します。

 香港でアギナルドと面会したアメリカ東洋艦隊の戦艦ペトレル号のウッドは、アギナルドに対して、祖国へ帰り、米軍の支援を得てフィリピンを解放すべきだと説得。さらに、ウッドは、「アメリカは偉大で豊かな国家であり、植民地を必要としないし、また欲しいとも思わない」とまで発言しました。その一方で、双方の合意を書面に残すように要求するアギナルドに対して、ウッドは「その点についてはデューイ(艦隊司令官)と相談する」と応え、独立への支援を口約束に留めています。

 アギナルドへの帰国の説得が続けられていた5月1日、アメリカはついにマニラ湾停泊中のスペイン艦船を攻撃し、フィリピンでの戦闘を開始。本国からの地上軍が到着するまでスペインの地上勢力を封じ込めるためにも、また、あらたにフィリピンに食指を伸ばしてきたドイツ(5月6日には、はやくも、総トン数でアメリカを上回るドイツ艦隊がマニラ湾に出現し、将兵が上陸しています)に対抗するためにも、もはや、アメリカにとってアギナルドの帰国は一刻の猶予も許されないものとなっていました。

 一方、アギナルドはアメリカの“約束”が一向に文書化されないことに不安を感じ、アメリカによる新たな植民地化を懸念していましたが、香港の革命指導部の大半は、合衆国憲法の理念を無邪気に信じ、アメリカはフィリピンに独立を与えてくれるものと思い込んでいました。さらに、彼らの間では、アメリカがフィリピンを植民地化しても、アギナルドが民衆を率いて蜂起すれば、独立を達成することは可能であるとの楽観論が主流を占めていました。

 結局、5月19日、アギナルドら革命指導部は帰国します。一行を迎えた艦隊司令官のデューイは、あくまでもフィリピンの独立を文書で保証することを要求するアギナルドに対して、「アメリカ人の口頭による保証は、スペインの文書による保証(ビアクナバトでの停戦協定で約束されていた補償金は半額が未払いのままであった)よりも信頼に値する」と主張。さらに、アギナルドに対して、独立フィリピンの存在を内外に誇示するためにも、新たなフィリピン国旗を制定したらどうか、とまで述べました。もっとも、その後の歴史を見れば、フィリピンはアメリカによって植民地化され、アギナルドの懸念は見事に的中したことになります。

 フィリピンでの戦闘が続けられていた間、アメリカは九龍半島の大鵬湾付近を根拠地として戦果を挙げました。フィリピンの攻略にとって香港が重要な役割を果たしたということは、裏を返せば、アメリカが拠点としていたフィリピンからは香港へと容易に兵を派遣できるということになります。このことが、1898年のイギリスによる新界租借の一要因となりました。

 なお、このあたりの事情については、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

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