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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 母の日
2021-05-09 Sun 03:00
 きょう(9日)は“母の日”です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      マリスト・ミッション絵葉書(ソロモン諸島)

 これは、19世紀末のソロモン諸島の母子を取り上げた絵葉書で、元になった写真は、マリスト教育修道会の宣教師が撮影したものです。

 マリスト教育修道会は、1822年、フランスのベレーで.コラン神父が創立したカトリック修道会で、1836年に教皇から公認され、太平洋諸島での布教に従事しました。

 ソロモン諸島へは、1845年12月16日、同会のエパル神父と12人の宣教師がサンタ・イサベル島ブゴトゥ地域に上陸。これが、ソロモン諸島に上陸した最初のキリスト教宣教師となりました。

 しかし、島に上陸した一行は先住民に襲撃され、エパルは殺害されてしまいます。他の宣教師たちはなんとか生き残り、サン・クリストバルに留まって布教活動を続けたものの、何人かは先住民に殺害されました。このため、1852年、カトリック教会はソロモン諸島での布教をいったん断念せざるを得なくなりました。

 これに対して、ソロモン諸島に定着することに成功したのが、ジョン・コーリッジ・パティソンら英国国教会のメラネシアン・ミッションでした。

 もともと、パティソンは、1855年からニュージーランドを拠点に太平洋地域での布教を行っていましたが、1861年、メラネシアン・ミッションが設立されると初代主教に就任。「宣教団は大英帝国の付属物ではなく、政治的戦略の歯車として異教徒と接するのではない」として政治と宗教の分離を主張するとともに、部下の宣教師たちには、白人とメラネシア人を平等に扱い、能力に応じてメラネシア人も登用することや伝統文化を尊重することなどを厳命します。また、メラネシア・ミッションは、1860年代にはニュージーランドからサツマイモをもたらすなど、地元との共存に努力します。

 その後、パティソン本人は、1871年9月20日、サンタ・クルス島で島民によって殺害されてしまいますが、この頃になると、オーストラリアやフィジーへ出稼ぎに行き、現地でキリスト教に改宗してソロモン諸島に戻ってくる島民も徐々に増えてきたことから、キリスト教が徐々に浸透。これに伴い、マリスト教育修道会をはじめカトリックの宣教団もソロモン諸島に再訪するようになりました。

 なお、この辺りの事情については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


★ 放送出演・講演・講座などのご案内★

 5月10日(月) 05:00~  
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。

 5月15日(土)~ 武蔵野大学の生涯学習講座
 5月15日、22日、6月5日、19日、7月3日、17日の6回、下記のふたつの講座でお話しします。 
 13:00~14:30 「日本の郵便150年の歴史 その1 ―“大日本帝国”時代の郵便事情―」
 15:15~16:45 「東京五輪と切手ブームの時代 ―戦後昭和社会史の一断面―」
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 明治4年3月1日(1871年4月20日)にわが国の近代郵便が創業され、日本最初の切手が発行されて以来、150年間の歴史を豊富な図版とともにたどる3巻シリーズの第1巻。まずは、1945年の第二次大戦終戦までの時代を扱いました。今後、2021年11月刊行予定の第2巻では昭和時代(戦後)を、2022年3月刊行予定の第3巻では平成以降の時代を取り扱う予定です。

 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

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 服の日
2021-02-09 Tue 03:05
 きょう(9日)は、2・9の語呂あわせで“服の日”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島・警察官(1939)

 これは、ジョージ6世時代の1939年2月1日にソロモン諸島で発行された普通切手のうち、当時のソロモン人巡査(左)と部族の族長(右)を描いた1ペニー切手です。巡査が、西洋式の制服ではなく、上半身裸に腰蓑の伝統的な服装で銃を担ぐ姿で描かれている点にご注目ください。

 1939年9月1日に第二次欧州大戦が勃発すると、ソロモン諸島でも、“(第二次大戦中の)英連邦軍の中で最も新しい戦闘部隊”として、同年中に、急遽、ソロモン諸島防衛軍が組織され、警察官の多くが軍に転籍しました。ソロモン兵は、1940年以降、オーストラリア軍によって訓練を受けましたが、彼らに与えられた武器は、旧式ルイス銃が3丁、ライフルが270丁だけで、軍服や軍靴、軍帽などの支給はなく、今回ご紹介の切手に見られるように、上半身裸の伝統的なスタイルで勤務していました。

 1942年8月、ガダルカナル島で日米の本格的な戦闘が始まると、多くのソロモン人が人足として米軍の下で働きましたが、彼らの多くは伝統的な腰蓑姿のままでした。

 ところが、1943年2月に日本軍がガダルカナルから撤退し、ヘンダーソン飛行場の拡充とあわせて、戦闘によって破壊された村落の復旧やインフラの整備などが進められ、上陸してくる米兵の中にアフリカ系の黒人が交じるようになると、黒人が白人と同じ軍服を着て、靴を履き、同じ食べ物を食べ、同じ銃を使い、同じように歩き回り、同じ階級であれば賃金も同じであることを知って衝撃を受けます。

 さらに、米兵たちは米軍が持ち込んだ食糧をソロモン人と分け合っただけでなく、ソロモン人労働者に自分たちのグラスや食器を渡して飲食をさせ、その日の作業が終わると、慰問のための映画会にソロモン人も招待しました。

 もちろん、実際には米軍においても黒人に対する差別は厳然と存在していましたが、それでも戦前の英国やオーストラリア(の白人)がソロモン人を家畜扱いしていたのに比べれば、はるかにましでした。

 こうして、米兵とソロモン人の信頼関係が醸成されてくると、米兵たちは、ソロモン人たちに服やライフル、その他さまざまなものを与え、ソロモン人たちはそれらを大事に家の中に保管するようになります。

 しかし、米兵たちがソロモン人を“甘やかしている”ことを苦々しく思っていた英国人は、ソロモン人が労働に出かけている間に留守宅に入り込んで、彼らが米軍からもらったものを没収。それらを一カ所に集めたうえで、ソロモン人たちの目の前でガソリンをかけて燃やして見せることがしばしばでした。

 こうした英国人の理不尽な仕打ちに対しては、ソロモン人だけでなく、米兵たちも激怒しましたが、英国人は米軍の抗議を完全に無視。ソロモン人は、米軍から受け取ったものを英国人に見つからないように必死に隠したものの、英国人はそれを探し出し、容赦なく没収し続けました。

 そこで、米軍の側でも、下士官が監視を兼ねてソロモン人の村の中央に住むなどして、英国の“略奪”からソロモン人を守る一方、ソロモン人に英国の理不尽な支配に対して立ち上がり、自由を得るべきだと説諭。この結果、ソロモン人の中にも権利意識や政治意識に目覚める者が現れ、マライタ島を中心に、1945年12月以降、ソロモン人の自治権回復運動としての“マアシナ・ルール”運動が展開されることになります。

 1948年6月、植民地政府は“ジェリコ作戦”を発動し、武力によってマアシナ・ルール運動を弾圧しましたが、ソロモン人の権利意識の向上に対して、相応の対応を余儀なくされました。その一環として、ソロモン人警察官にも制服が支給されるようになり、エリザベス女王の即位を受けて、1956年3月1日に発行された普通切手では、左側に描かれている巡査は、西洋式の制服姿となっています。(下の画像)

      ソロモン諸島・警察官(1956)

 なお、この辺りの事情については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。
 

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 空の日
2020-09-20 Sun 01:34
 きょう(20日)は、航空の安全と一層の成長を願い広く国民に親しまれるようにアピールすることを目的とした“空の日”です。というわけで、航空関係のマテリアルの中からこんなモノを持ってきました。

      ソロモン諸島・米宛航空便(混貼)

 これは、1927年4月27日、当時の英領ソロモン諸島の首府、ツラギから米国宛の航空書留便です。

 1926年10月31日、オーストラリア空軍のウィリアム大佐が操縦するデ・ハヴィランドDH50A飛行艇が、オーストラリアからニューギニア、ソロモン諸島、ニューヘブリデス(現ヴァヌアツ)ニューカレドニアフィジーサモアをめぐる周遊飛行の途上で、英領ソロモン諸島北西端のショートランド島に寄港しました。これが、現在のソロモン諸島国家の領域に飛行機が飛来した最初の事例です。同機は、続いて、ギゾ、ツラギに停泊。ツラギでは部品交換を行い、11月23日、次の目的地であるニューヘブリデスに向かいました。

 この実績を踏まえ、翌1927年には、ツラギからシドニー経由で太平洋を横断する米国行きの試験的な飛行も行われましたが、今回ご紹介のカバーは、この時の飛行で送られたものです。なお、当時のソロモン諸島では、制度上、航空便の差出は想定されていなかったため、このカバーの差出人(おそらく収集家でしょう)は、米国宛の船便書留料金6ペンス(外信書状の基本料金3ペンス+書留料金3ペンス)に、航空料金を想定して米国の航空切手10セントを貼り足しています。また、カバー裏面に押されている印を見ると、飛行機は島伝いで5月にシドニーに到着し、サンフランシスコを経由して6月30日、宛先のニューヨークに到着したことがわかります。

 なお、1941年の日英開戦を経て、1942年5月、日本軍は米豪遮断の拠点としてツラギの飛行場を占領しましたが、ツラギ島は面積わずか2平方キロの山がちな小島で飛行場を拡張するための平地を確保することはできませんでした。そこで、5月下旬、技術者などを動員してソロモン諸島での飛行場建設用地を探していたところ、ガダルカナル島の北岸から約2キロ入ったルンガ川東岸一帯が適地として上層部に報告され、飛行場の建設が決定されました。この飛行場をめぐり、同年8月以降、いわゆるガダルカナルの戦いが展開されることになります。

 ちなみに、9月30日付で刊行の拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』では、第二次大戦以前のソロモン諸島についても、1章を設けて説明しております。すでに、アマゾン等では予約の受付も始まっておりますので、なにとぞよろしくお願いします。
 

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 ソロモン諸島マライタ州で独立住民投票実施へ
2020-09-03 Thu 01:54
 昨年(2019年)、台湾と断交し、中国と国交を樹立したソロモン諸島で、台湾との断交に反対するマライタ州のダニエル・スイダニ主席は、1日夜、ソロモン諸島からの独立を問う住民投票を実施すると発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島・マライタカヌー

 これは、1939年2月1日、英領ソロモン諸島が発行した普通切手のうち、マライタ島の伝統的なカヌーを描く5シリング切手です。

 マライタ島はガダルカナル島の北東に位置する島で、ソロモン諸島国家においては、ガダルカナルに次いで2番目に大きな島です。ガダルカナル島東端のマラウ・サウンドはマライタと近いこともあって、古くから、今回ご紹介の切手に描かれたようなカヌーを使ってマライタとの往来があり、住民の中にはマライタ島民(以下、マライタ人)と姻戚関係にある者も少なくありませんでした。

 こうした事情もあって、1953年以降、現地住民の意見を植民地行政に反映させるための地区評議会の創設に向けた準備が各地で始まると、その過程で、1954年、マラウ・サウンドの2つの村落、ハテレとニウは、ガダルカナルではなく、マライタの地区評議会に参加したいと申し出ました。

 これに対して、ガダルカナル人の一部は、マライタ人がガダルカナルにも影響を拡大しようとしていると強い警戒心を招き、ペリセ・モロ率いるガダルカナル人至上主義的な“モロ運動”が発生し、一部が暴徒化。植民地政府は警察官を動員してモロら運動の指導者らを逮捕し、1960年代以降は、モロ運動も下火になりました。しかし、モロの提起した排外主義(特に反マライタ感情)は、その後もガダルカナルでは伏流し続けます。

 1978年、ソロモン諸島が独立すると、首都ホニアラのあるガダルカナルは、他の島々に比べると諸外国の支援による開発が進められ、現金収入の手段も多かったため、マライタをはじめ、他の島々からの移住者が急増。1990年代後半にはマライタ人がホニアラの人口の45%を占めるほどになりましたが、マライタ人移民は、公務員などの給与所得者として就職したり、実業家で成功したりする者と、ガダルカナルに来たものの職に就くことができず、暴力や犯罪に手を染める者に二極化し、ガダルカナル人の不満は鬱積していきます。

 こうした状況の下、1998年12月初、ソロモン諸島中央政府の元首相でガダルカナル州主席のエゼキエル・アレブア(ガダルカナル出身)が、中央政府への不満から、ラジオのインタビューで、ガダルカナル島内に居住する島外出身者から補償金を徴収する意向を表明。これを機に、ガダルカナル人は島内在住のマライタ人への不満を隠そうとはしなくなり、マライタ人に対する暴力事件が頻発。いわゆるガダルカナル紛争が発生します。

 ガダルカナル紛争は、2001年10月のタウンズヴィル和平協定でひとまず収束しますが、この間、約100名が死亡し、2-3万名が難民となるなど、ソロモン諸島国内に深い亀裂を残しました。
 
 ところで、ソロモン諸島は、1983年に台湾と国交を樹立し、以後、台湾もソロモン諸島に対してさまざまな支援を行ってきました。特に、農業に関しては伝統的な焼き畑農業からの脱皮を定着させるべく、台湾人による技術指導が行われたほか、養豚場では、在来種と台湾から持ち込まれた品種を掛け合わせた“SOLROC”(ソロモンのSOLと台湾=中華民国のROCが名前の由来)種のブタが生産され、両国友好のシンボルともなってきました。

 ところが、近年、中国が台湾を外交的に追い詰めるべく、ソロモン諸島への進出を急速に拡大。この結果、中国はソロモン諸島の輸出額の6割超を占め、貿易相手国として第1位となります。また、2017年には、中国の通信機器大手、華為技術(ファーウェイ)がソロモン諸島に高速インターネットの敷設を提案。このときは、域内大国であるオーストラリアが直ちに対抗策を提案し、1億3700万豪ドル=約103億円を投じ、パプアニューギニアを含む海底インターネットケーブルを建設しましたが、その過程で、マナセ・ソガヴァレ(2000-01年、2006-07年、2014-17年、2019ー現在の4次に渡り首相)ひきいるソロモン諸島社会信用党が華為技術から巨額の政治献金が受け取っていた疑惑が浮上。さらに、ソガヴァレ本人も“複数の中国企業と親密な関係”にあることが明らかになりました。

 こうした中国の浸透工作が功を奏し、ソロモン諸島の政界では徐々に中国派が台頭。2019年4月、ソガバレが組織した連立政権の与党議員の一部は、半年以内に中国と国交を樹立しなければ不信任案を提出すると圧力をかけ、これを容れるかたちで、ソロモン諸島議会内には特別委員会が設けられ、中台いずれかの国との国交を樹立することのメリット・デメリットが審議されることになります。

 こうした状況に危機感を抱いたオーストラリアのモリソン首相は、6月3日、ソガヴァレと会談し、「太平洋島嶼国の平和的な独立と主権のための支援」を表明。今後10年間で2億5000万豪ドル(約188億円)の経済支援やソロモン諸島首相府の建築補助などを約束し、中国の浸透に対抗しようとしました。また、米政府も、ソロモン諸島に対し、中国の資金拠出の約束には慎重に対応し、台湾との断交を強制されないよう注意が必要だと呼びかけていました。ちなみに、今年9月に行われた現地の世論調査では、国民の8-9割が台湾との外交関係の維持を支持しているとの結果が出ています。

 しかし、2019年9月13日、議会特別委員会は、台湾との外交関係を絶ち、中国との国交樹立を勧告する答申書を政府に提出。ソロモン諸島は台湾との断交し、同月21日、中国と正式な国交を樹立します。さらに、翌22日、ソロモン諸島政府は、ガダルカナル北方、第二次世界大戦以前の英領ソロモン諸島の首府が置かれていたツラギと周辺の島々を”経済特区“として開発すべく、中共の複合企業、”中国森田“に七五年間賃貸する契約を結びました。

 こうした中央政府の“暴走”に対して、ソロモン諸島各地では強い反発の声が上がりましたが、中でも、歴史的経緯から、ガダルカナルと中央政府に対して批判的な声の強いマライタでは、10月23日、州政府のダニエル・スイダニ主席がニュージーランドのラジオ放送局RNZの取材に応じ、「借金となる海外からの資金提供に関わりたくはない。これは、よく知られている中国からの資金提供による“債務の罠”に陥る可能性がある」と述べ、ツラギの賃貸契約と台湾との断交に真っ向から反対を表明しています。これに対して、ソガヴァレ政権はマライタ州に対して中国を受け入れるよう圧力をかけ続けていました。

 2020年に入ると、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大により、ソロモン諸島は中国をはじめ、過去に感染者が出た国からの入国を禁止するなどの制限措置をとっていましたが、親中路線を推し進めるソガヴァレ政権は、中国本土ではウイルス禍がほぼ終息したとする中国側の主張に追従して、8月31日、入国制限措置を緩和して、廣州からホニアラの直行便を受け入れました。

 ここにいたり、もともと、中国を信用せず、台湾との断交に反対していたマライタ州のスイダニ主席は猛反発し、1日夜、ソロモン諸島からの独立の是非を問う住民投票を実施することを発表。今後、住民投票が実施され、仮に独立派が多数を占めたとしても、ホニアラの中央政府がこれを認める可能性は低いため、最悪の場合、武力衝突が発生する可能性も否定できません。

 さて、現在、第二次大戦中の激戦地として知られる“ガダルカナル”にフォーカスを当てた本を作っています。内容は、戦史よりも、戦後のガダルカナルが中心で、すでに本文の原稿は書き終え、現在は、書籍としてまとめる最終段階にの作業を進めているところです。近々、このブログでも、正式な書名や発売日などをご案内できると思いますので、よろしくお願いします。


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 ニューサウスウェールズ250年
2020-08-22 Sat 02:41
 1770年8月22日(現地時間)、ジェームズ・クックがオーストラリア東部のポゼッション島に上陸し、オーストラリア東岸の英国領有を宣言し、“ニューサウスウェールズ”と命名してから、ちょうど250年になりました。というわけで、ニューサウスウェールズ関連で、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島・NSW切手使用例
      ソロモン諸島・NSW切手使用例(裏面)

 これは、 1905年12月、英領ソロモン諸島からシドニー経由でニューサウスウェールズのメリーランド宛に差し出された絵葉書です。

 1893年、英国は、ガダルカナル島を含むソロモン諸島中部および東部の島々や西部のニュージョージア島の保護領化を宣言し、英領ソロモン諸島が成立します。

 これを受けて、1895年、ガダルカナルの対岸、フロリダ諸島の小島、ツラギに植民地政庁が設置され、翌1896年、植民地行政の責任者である弁務官としてチャールズ・モリス・ウッドフォードが任命されました。また、これとあわせて、ガダルカナル東端のマラウ・サウンド(この場合の“サウンド”は入江の意)の中洲、タヴァニププに船着き場が設けられています。

 ウッドフォードが英領ソロモン諸島の弁務官に駐在した1896年の時点でソロモン諸島在住の西洋人は47人でしたが、彼らと外部世界(特にオーストラリア)との通信は、当初は、島を往来する不定期の船に託され、オーストラリアに持ち込まれた後、持ち込んだ人が差出人から預かったお金(英本国のスターリング・ポンド。当時は、ソロモン諸島独自の通貨が発行されていなかっただけでなく、オーストラリアの各植民地でもスターリング・ポンドが法定通貨でした)で切手を購入して投函する形式が採られていました。

 弁務官のウッドフォードは、これを少しでも組織化することを考え、1897年以降、ツラギなど外国人の居留地にニューサウスウェールズ切手を持ち込んで欧米系の住民に販売。ニューサウスウェールズ切手を貼った郵便物はツラギの植民地政庁に集められた後、一括してシドニー郵便局長宛に送られ、シドニーで消印されてから、宛先地に届けるという方式が採用されていました。

 今回ご紹介の絵葉書は、ソロモン諸島の風景を取り上げた「サンゴ礁とヤシの木」シリーズ(シドニーのケリー社が制作)の1枚で、おそらくツラギでニューサウスウェールズ切手を貼って差し出された後、シドニーに持ち込まれ、そこから宛先に配達されたものです。

 その後、1906年4月12日、ツラギに常設の郵便局が設置され、ニューサウスウェールズ切手の販売を停止するとともに、郵便物の切手を貼るべき場所に“BRITISH SOLOMON ISLANDS PAID”と表示された長方形の印が使用されるようになります。この印が押された郵便物は、シドニー以遠の料金相当の小切手とともに一括してシドニーに送られ、シドニーでニューサウスウェールズ切手を貼り、宛先地へ届けられました。

 これと並行して、ウッドフォードは、シドニーのW.E.スミス社に独自の切手製造を委託。翌1907年2月14日、ソロモン諸島最初の切手が発行されます。

 さて、現在、第二次大戦中の激戦地として知られる“ガダルカナル”にフォーカスを当てた本を作っています。内容は、戦史よりも、戦後のガダルカナルが中心で、すでに本文の原稿は書き終え、現在は、書籍としてまとめる最終段階にの作業を進めているところです。正式な書名や発売日などが決まりましたら、このブログでもあらためてご案内いたしますので、よろしくお願いします。


★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 8月28日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。


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 ソロモン諸島独立記念日
2020-07-07 Tue 01:21
 きょう(7日)は、1978年7月7日に独立したソロモン諸島の独立記念日です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島1907試刷

 これは、1907年に発行された英領ソロモン諸島最初の切手の準備段階で制作された試刷です。実際に発行された切手とは用紙が異なり、また、目打も入っていません。

 1893年、英国は、ガダルカナル島を含むソロモン諸島中部および東部の島々や西部のニュージョージア島の保護領化を宣言し、英領ソロモン諸島が成立します。

 これを受けて、1895年、ガダルカナルの対岸、フロリダ諸島の小島、ツラギに植民地政庁が設置され、翌1896年、植民地行政の責任者である弁務官としてチャールズ・モリス・ウッドフォードが任命されました。また、これとあわせて、ガダルカナル東端のマラウ・サウンド(この場合の“サウンド”は入江の意)の中洲、タヴァニププに船着き場が設けられています。

 ウッドフォードが英領ソロモン諸島の弁務官に駐在した1896年の時点でソロモン諸島在住の西洋人は47人しましたが、彼らと外部世界(特にオーストラリア)との通信は、当初は、島を往来する不定期の船に託され、オーストラリアに持ち込まれた後、持ち込んだ人が差出人から預かったお金(英本国のスターリング・ポンド。当時は、ソロモン諸島独自の通貨が発行されていなかっただけでなく、オーストラリアの各植民地でもスターリング・ポンドが法定通貨でした)で切手を購入して投函する形式が採られていました。

 弁務官のウッドフォードは、これを少しでも組織化することを考え、1897年以降、ツラギやホニアラなど、外国人の居留地にニューサウスウェールズ切手を持ち込んで欧米系の住民に販売。ニューサウスウェールズ切手を貼った郵便物はツラギの植民地政庁に集められた後、一括してシドニー郵便局長宛に送られ、シドニーで消印されてから、宛先地に届けるという方式が採用されていました。

 その後、ウッドフォードは英領ソロモン諸島の存在を広く西洋社会に周知するため、植民地として独自の切手を発行することを計画。1903年、フィジー駐在の英領太平洋地域の高等弁務官ヘンリー・ジャクソンに対して、ソロモン諸島がオーストラリアの一部ではないことを示すためにも、独自の切手を使用したいと申し出ます。

 これを受けて、とりあえず、1906年4月12日、ツラギに常設の郵便局が設置され、ニューサウスウェールズ切手の販売を停止するとともに、郵便物の切手を貼るべき場所に“BRITISH SOLOMON ISLANDS PAID”と表示された長方形の印が使用されるようになります。この印が押された郵便物は、シドニー以遠の料金相当の小切手とともに一括してシドニーに送られ、シドニーでニューサウスウェールズ切手を貼り、宛先地へ届けられました。

 これと並行して、ウッドフォードは、シドニーのW.E.スミス社に独自の切手製造を委託。翌1907年2月14日、ソロモン諸島最初の切手が発行されました。また、1907年中にガヴツ、ギゾ、ショートランドに、1908年10月20日にはアオラ(ガダルカナル島内)に郵便局も開設され、植民地域内の郵便網も徐々に形成されていきます。

 この時発行された切手には、ツラギの風景とソロモン諸島の伝統的な戦闘用カヌーが描れており、ウッドフォード本人がデザインを作成しました。なお、当初、ソロモン諸島の切手は域内の郵便にのみ有効で外国郵便には使用できませんでしたが、同年9月、ソロモン諸島が万国郵便連合に加盟した後は、外国宛の郵便物にも有効となります。また、1908年には、同じデザインで印面を若干縮小したロンドンのトマス・デ・ラ・ルー社製の切手が発行されました。

 さて、現在、第二次大戦中の激戦地として知られる“ガダルカナル”にフォーカスを当てた本を作っています。内容は、戦史よりも、戦後のガダルカナルが中心で、すでに、本文の原稿は書き終え、現在、校正作業を進めているところです。正式な書名や発売日などが決まりましたら、またこのブログでもご案内していきたいと思っておりますので、よろしくお願いします。

 
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 ソロモン諸島でM8.0の大地震
2013-02-06 Wed 18:21
 きょう(日本時間6日)午前10時12分、太平洋の島国ソロモン諸島のサンタクルーズ諸島近くでマグニチュード8.0の大きな地震が発生。というわけで、きょうはソロモン諸島の切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島・ラージカヌー

 これは、1907年に発行された英領ソロモン諸島最初の切手です。

 1893年に英領となったソロモン諸島には、1896年に弁務官としてチャールズ・モリス・ウッドフォードがツラギに派遣されましたが、当初、この地域では近代郵便は実施されておらず、外部との通信は幸便に託され、オーストラリアに持ち込まれた後に、持ち込んだ人が差出人から預かったお金で切手を購入して投函するという形式が取られていました。
 
 このため、ウッドフォードはニューサウスウェールズ切手を持ち込んで欧米系の住民に販売。ニューサウスウェールズ切手を貼った郵便物はツラギに集められ、一括してシドニー郵便局長宛に送られ、シドニーで消印された後宛先地に届けるという方式が採用されます。

 ウッドフォードは、ソロモン諸島独自の切手発行を目指して、1903年、フィジー駐在のイギリス太平洋地域の高等弁務官ヘンリー・ジャクソンに対して、ニュー・ヘブリデスギルバート&エリスの先例に倣い、フィジー切手に“Solomon Islands”と加刷した切手をソロモン諸島でも使用したいと申し出ましたが、却下されてしまいました。ただし、1906年になると、ツラギでのニューサウスウェールズ切手の販売は停止され、代わりに、“BRITISH SOLOMON ISLANDS PAID”と表示された印が使用されるようになります。この印が押された郵便物は、シドニー以遠の料金相当の小切手とともに一括してシドニーに送られ、シドニーでニューサウスウェールズ切手を貼り、宛先地へ届けられるようになりました。

 こうした経緯を経て、翌1907年2月、ウッドフォードがシドニーのW.E.スミス社に切手の製造を委託して作られたのが、今回ご紹介の切手です。なお、翌1908年には、同じデザインで印面を若干縮小したトマス・デ・ラ・ルー社製の切手が発行されましたので、シドニーで作られた切手は“ラージ・カヌー”、デ・ラ・ルー社の切手は“スモール・カヌー”と呼ばれています。

 さて、今回のソロモン諸島の地震に関しては、気象庁が北海道から沖縄にかけての太平洋沿岸に津波注意報が出し、警戒を呼び掛けています。当該地域の皆様は、十分にご注意ください。


 【世界切手展BRASILIANA 2013・出品募集中】

 今年11月、ブラジル・リオデジャネイロで世界切手展 <BRASILIANA 2013> が開催される予定です。現在(国内での受付期間は14日まで)、僕が日本コミッショナーとして、その出品作品を募集しております。詳細はこちらをご覧ください。


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