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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 “イスラム国”の樹立を宣言
2014-06-30 Mon 10:25
 イラク北部の主要都市を制圧したイスラム過激派のISIS(イラク・シリアのイスラム国。ISIL:イラク・レバントのイスラム国とも)が、きのう(29日)、ウェブサイト上で声明を発表し、アブー・バクル・バグダーディーを“カリフ”として、シリア北部のアレッポからイラク中部のディヤラ州までを領域とする“イスラム国”の樹立を一方的に宣言しました。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ハイファ・フランス局カバー

 これは、1911年11月26日、現在はイスラエル領となっているハイファのフランス局からドイツ宛に差し出されたカバーで、フランスのレヴァント用切手(1ピアストル)が貼られています。消印には地域名として“シリア”と表示があるのがミソです。

 今回、“イスラム国”の樹立を宣言した組織のアラビア語での名称は、“الدولة الاسلامية في العراق والشام‎”で、これは、直訳すると“イラクとシャーム(الشام)のイスラム国家”となります。

 ここでいう“シャーム”というのは、地中海東岸、いわゆる歴史的シリアに相当する地域で、欧米語ではレヴァントと呼ばれている地域とほぼ同一です。地域概念として厳密な定義はないのですが、最も広くとらえると、現在の国名でいうギリシャ、トルコ、シリア、キプロス、レバノン、イスラエル・パレスチナ、エジプトにまたがる地域ということになりますが、現在では、地中海東岸のアラブ地域として、シリア、レバノン、ヨルダン、イスラエル・パレスチナを指すことが多いようです。

 いずれにせよ、このシャームを“シリア”と訳すと、件の組織の英文名称は“Islamic State of Iraq and Syria(ISIS:イラク・シリアのイスラム国)となり、“レバント”と訳すと“Islamic State of Iraq and the Levant(ISIL:イラク・レヴァントのイスラム国)となるわけで、日本の報道では両者が混在しているためにわかりづらいのですが、どちらも同じ組織です。なお、アラブ世界では、アラビア語の頭文字を取ってダーイシュ(داعش)という略称が用いられているので、それをそのまま用いるのが混乱は少ないのではないかと思います。ちなみに、アラビア語の略称がそのまま日本語でも用いられている例は、PLO傘下のファタハや、いわゆるイスラム原理主義組織のハマス等の事例もありますので、それほど突飛なことではないと思います。

 さて、第一次大戦以前、オスマン帝国の支配下に置かれていたレバント地域では、オスマン帝国の郵政とは別に、列強諸国の郵便局が活動していました。その先鞭をつけたのはロシアで、1721年にサンクトペテルスブルグ=イスタンブール間で外交文書を運んだのが最初です。その後、ロシアは1774年にイスタンブールの領事館で郵便物の定期的な取り扱いを開始。以後、ロシアが“治外法権”を援用するかたちで郵便網を拡充していったことで、列強諸国もこれに続くことになります。

 今回ご紹介のカバーのハイファを含むパレスチナの地域では、1852年にフランスとオーストリアの両国が郵便局を開設したのを皮切りに、1856年にロシアが、1898年にドイツが、1908年にイタリアが、それぞれ、郵便局を開設しています。

 このうち、フランスは、1852年、ヤッファ(ジャッファ)に最初の郵便局を開設し、以後、1890年にエルサレム局を、1906年にハイファ局を開局しています。当初、ヤッファのフランス局ではフランス本国の切手がそのまま使われていましたが、1885年以降、現地通貨に対応した加刷切手が発行され、1902年からは“仏領レヴァント”切手が持ち込まれて使用されました。なお、パレスチナのフランス局が取り扱った郵便物は、フランス本国のほか、イタリア、イギリス、アメリカ宛に限定されており、各局から集められた郵便物は地中海東岸沿いに、アレクサンドレッタ、コンスタンティノープル(イスタンブル)を経由して、各地に運ばれています。

 いずれにせよ、今回ご紹介のカバーは、現在はイスラエル領となっている地域で“レヴァント”表示の切手が使われ、“シリア”表示の消印が使われているわけですが、このことは、第一次大戦の結果、英仏によりオスマン帝国の支配地域が分割されて現在のアラブ諸国の基本的な枠組が形成される以前は、東地中海のレヴァントなり歴史的シリアなりが歴史的に一体性を持った地域であったことを物語っていると言えましょう。

 さて、7月18日・8月29日・9月19日の3回、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、第一次大戦100年の企画として、「切手を通して学ぶ世界史」と題する講座を行います。講座では、第一次大戦後、オスマン帝国の崩壊により現在の中東諸国の枠組ができあがっていくプロセスについても、当時の切手や郵便物等を使ってわかりやすく解説する予定です。名古屋エリアの方は、ぜひ、遊びに来ていただけると幸いです。 


 ★★ 講座「切手を通して学ぶ世界史:第一次世界大戦から100年 」のご案内 ★★ 

       中日・講座チラシ    中日・講座記事

 7月18日・8月29日・9月19日の3回、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、第一次大戦100年の企画として、「切手を通して学ぶ世界史」と題する講座を行います。

 講座では、ヨーロッパ、中東、日本とアジアの3つの地域に分けて、切手や絵葉書という具体的なモノの手触りを感じながら、フツーとはちょっと違った視点で第一次世界大戦の歴史とその現代における意味を読み解きます。

 詳細は、こちらをご覧ください。

 * 左の画像は講座のポスター、右は講座の内容を紹介した5月20日付『中日新聞』夕刊の記事です。どちらもクリックで拡大されますので、よろしかったらご覧ください。
 

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 エルサレムのフランス局
2012-12-02 Sun 12:50
 おととい(日本時間30日、米東部時間29日)、パレスチナの国連オブザーバー資格を“組織”から“国家”に格上げする国連総会決議が採択されましたが、これに対して、イスラエル政府は、きのう(日本時間1日・現地時間30日)、報復措置として占領地の東エルサレムとヨルダン川西岸の入植地に約3000戸の入植者住宅を建設することなどを決定しました。というわけで、最近入手したパレスチナ関連のマテリアルをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

         エルサレム・フランス局

 これは、1913年にエルサレムのフランス局から差し出された葉書です。消印下部の地域名が“シリア(パレスチナを含む歴史的シリアのことです)”ではなく、“パレスチナ”となっているのがミソです。

 第一次大戦以前、オスマン帝国領内では、オスマン帝国の郵政とは別に、列強諸国の郵便局が活動していました。パレスチナの地域に関しては、1852年にフランスとオーストリアの両国が郵便局を開設したのを皮切りに、1856年にロシアが、1898年にドイツが、1908年にイタリアが、それぞれ、郵便局を開設しています。

 このうち、フランスが1852年に最初に開局したのはヤッファ(ジャッファ)局で、エルサレム局は1890年、ハイファ局は1906年の開局でした。当初、ヤッファのフランス局ではフランス本国の切手がそのまま使われていましたが、1885年以降、現地通貨に対応した加刷切手が発行され、1902年からは“仏領レヴァント”切手が持ち込まれて使用されました。

 パレスチナのフランス局が取り扱った郵便物は、フランス本国のほか、イタリア、イギリス、アメリカ宛に限定されており、各局から集められた郵便物は地中海東岸沿いに、アレクサンドレッタ、コンスタンティノープル(イスタンブル)を経由して、各地に運ばれました。

 さて、来年早々のイスラエルの総選挙をにらんで、イスラエルのネタニヤフ政権のみならず、パレスチナ側でも、今後、さまざまな動きが出てくるものと思います。前々から、パレスチナに関しては、2002年に刊行の拙著『中東の誕生』のアップデート版を作らねば…と思っているのですが、なかなか実現できずにいます。まだまだ鬼に笑われるレベルかもしれませんが、来年こそ、なんとか実現しないといけないなぁとニュースを見ながら考える今日この頃です。


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 シリア政府が撤収期限無視
2012-04-11 Wed 15:48
 反政府勢力への大規模な武力弾圧が続いているシリアのアサド政権は、アナン前国連事務総長の調停に基づき、きのう(10日)までに人口一周地域から政府軍を撤収させることになっていましたが、期限を過ぎた現在なお、各地では反体制派への攻撃や戦闘が続いているそうです。というわけで、きょうはシリアがらみのマテリアルを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        シリア・アラブ王国正刷カバー

 これは、1920年7月11日、アレッポからテュニス宛のカバーで、ファイサルのアラブ王国が発行した正刷切手が貼られています。

 第1次大戦中、英仏間の密約として結ばれたサイクス・ピコ協定により、現在のシリア・レバノンにあたる地域がフランスの勢力圏と規定されましたが、大戦の終結時、フランスはベイルートやアレキサンドレッタ、ラタキア対岸のルアド島などを占領していたにすぎませんでした。

 一方、ダマスカスの陥落とともに、シリアではファイサルを首班とするアラブ政府の樹立が宣言されていたこともあり、1919年のベルサイユ会議では、アカバからアレッポにいたる内陸部は東部OETAとしてアラブ支配地域に指定され、フランス支配地域の西部OETAはティールからキリキアにいたる海岸地域に限定されています。

 しかし、フランスは、あくまでもサイクス・ピコ協定の遵守を求め、シリアにおける自国の権利を主張。1919年11月、イギリス支配地域の南部OETA以外のシリア・パレスチナ全域からイギリスの占領軍を撤退させることに成功します。なお、これに伴い、フランスは西部OETAの郵便業務を引き継ぐことになり、自国の切手に「敵国領土占領(区域)」を示すフランス語(Territoiers Ennemies Occupes)の頭文字にあたるT.E.O.の文字を加刷した切手を発行しました。

 一方、イギリス軍の撤退により軍事的保護者を失い、フランスの軍事的脅威に直接さらされることになったアラブ支配地域では、首長のファイサルが、フランスとの交渉により、シリア内陸部におけるアラブ政府の存在を認めさせるべく、レバノンにおける委任統治の承認やベカー高原における中立地帯の設置などの妥協案を提示していました。その一方で、ファイサル政権は、オスマン朝時代の切手を接収して“アラブ政府”と加刷した切手を発行するなど、アラブ政府の存在を既成事実化するための措置も取っていました。

 しかし、シリア地域のアラブの間では、フランスとの妥協を図ろうとするファイサルの弱腰を非難する声が強く、それに押し切られるかたちで、1920年3月に招集されたシリア国民大会において、ファイサルはシリア・パレスチナ地域全域を領土とする立憲君主国「アラブ王国」の国王となり、独立を宣言。これにあわせて“シリア・アラブ王国”のカリグラフィーを中心にした切手が発行されました。

 これに対して、フランスは、1920年4月のサンレモ会議において、イラク北部のモースルの支配を放棄する代償として、イギリスに対して現在のシリア・レバノンの地域を自らの勢力圏とすることを最終的に承認させることに成功。当然、アラブ側は完全独立の要求と委任統治の拒否を決議してこれに抗議しましたが、同年6月、英仏両国は、これを無視して、それぞれの勢力圏内での委任統治を開始。全シリアを軍事占領したフランスは、同年7月、ファイサルを放逐してアラブ王国を崩壊させました。

 今回ご紹介のカバーはそうしたアラブ王国末期の使用例で、宛先地のテュニスは、アラブ王国の存在を認めないフランスの領土でしたが、アラブ王国の切手に関しては、料金未納扱いにせず、そのまま受け付けているのが興味深いところです。
 
 さて、第一次大戦から現在のシリア国家が独立するまでの期間のシリアは、切手や郵便の面で非常の面白い材料が多いので、いずれはまとめてみたいと思っています。書籍化を目指すということであれば、良くも悪くも、シリア情勢が人々の耳目を集めている現在は千載一遇のチャンスなんですが…。


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 下記の通り、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。

・よみうりカルチャー柏
 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日
 (毎月第4火曜日)13:30~15:30

 切手でたどる昭和史

 詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。

 *よみうりカルチャー荻窪での講座のお申込み受付は終了いたしました。

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 2月29日の中継印
2012-02-29 Wed 16:46
 きょうは4年に1度の2月29日です。というわけで、2月29日の印が押されたカバーの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      シリア・アラブ王国加刷カバー     シリアアラブ王国加刷カバー(裏面)

 これは、1920年2月、アレッポからエルサレム宛に差し出されたカバーで、裏面に同年2月29日のハイファの中継印(右側にその部分の画像を貼っておきました)が押されています。アレッポの消印は日附がはっきりしないのですが、どうやら26日もしくは28日のようです。貼られている切手は、ファイサルのアラブ政府時代の加刷切手です。

 第1次大戦以前、“シリア”といえば、現在のシリア・アラブ共和国の領域のみならず、現在の国名でいうレバノン・ヨルダン・イスラエル(パレスチナ)の領域をも含む広範な地域の呼称でした。

 第1次大戦中、英仏間の密約として結ばれたサイクス・ピコ協定により、現在のシリア・レバノンにあたる地域がフランスの勢力圏と規定されましたが、大戦の終結時、フランスはベイルートやアレキサンドレッタ、ラタキア対岸のルアド島などを占領していたにすぎませんでした。じっさい、ダマスカスを解放したのはファイサルのアラブ軍とアレンビーのイギリス軍でしたし、内陸部の広大な地域はイギリスの占領下に置かれていました。

 このため、ダマスカスの陥落とともに、シリアではファイサルを首班とするアラブ政府の樹立が宣言されていたこともあり、1919年のベルサイユ会議では、アカバからアレッポにいたる内陸部は東部OETAとしてアラブ支配地域に指定され、フランス支配地域の西部OETAはティールからキリキアにいたる海岸地域に限定されています。

 しかし、フランスは、あくまでもサイクス・ピコ協定の遵守を求め、シリアにおける自国の権利を主張。1919年11月、イギリス支配地域の南部OETA以外のシリア・パレスチナ全域からイギリスの占領軍を撤退させることに成功します。なお、これに伴い、フランスは西部OETAの郵便業務を引き継ぐことになり、自国の切手に「敵国領土占領(区域)」を示すフランス語(Territoiers Ennemies Occupes)の頭文字にあたるT.E.O.の文字を加刷した切手を発行しました。

 一方、イギリス軍の撤退により軍事的保護者を失い、フランスの軍事的脅威に直接さらされることになったアラブ支配地域では、首長のファイサルが、フランスとの交渉により、シリア内陸部におけるアラブ政府の存在を認めさせるべく、レバノンにおける委任統治の承認やベカー高原における中立地帯の設置などの妥協案を提示していました。その一方で、ファイサル政権は、オスマン朝時代の切手を接収して“アラブ政府”と加刷した切手を発行するなど、アラブ政府の存在を既成事実化するための措置も取っていました。今回ご紹介の切手とカバーはこの時期のモノです。

 しかし、シリア地域のアラブの間では、フランスとの妥協を図ろうとするファイサルの弱腰を非難する声が強く、それに押し切られるかたちで、1920年3月に招集されたシリア国民大会において、ファイサルはシリア・パレスチナ地域全域を領土とする立憲君主国「アラブ王国」の国王となり、独立を宣言しました。

 これに対して、フランスは、1920年4月のサンレモ会議において、イラク北部のモースルの支配を放棄する代償として、イギリスに対して現在のシリア・レバノンの地域を自らの勢力圏とすることを最終的に承認させることに成功。当然、アラブ側は完全独立の要求と委任統治の拒否を決議してこれに抗議しましたが、同年6月、英仏両国は、それぞれの勢力圏内での委任統治を開始。全シリアを軍事占領したフランスは、同年7月、ファイサルを放逐してアラブ王国を崩壊させました。
 
 さて、第一次大戦から現在のシリア国家が独立するまでの期間のシリアは、切手や郵便の面で非常の面白い材料が多いので、いずれはまとめてみたいと思っています。書籍化を目指すということであれば、良くも悪くも、シリア情勢が人々の耳目を集めている現在は千載一遇のチャンスなんですが…。

  ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★
   
 3月下旬から、下記の通り、首都圏各地のよみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。(掲載は開催日順)

よみうりカルチャー柏
 3月23日(金)13:00-15:00(公開講座)
 「ご成婚切手の誕生秘話――切手でたどる昭和史」
 *柏センター移転、新装オープン記念講座です。

 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日
 (毎月第4火曜日)13:30~15:30

 切手でたどる昭和史


・よみうりカルチャー荻窪
 3月27日(火) 13:30~15:30(公開講座)
 「ご成婚切手の誕生秘話——切手でたどる昭和史」

 4月10日、5月8日、6月12日、7月10日、8月7日、9月11日
 (毎月第2火曜日)13:30~15:30

 切手でたどる昭和史


・よみうりカルチャー錦糸町 
 3月31日(土) 12:30-14:30(公開講座)
 皇室切手のモノ語り

 4月7日、6月2日、7月7日、8月4日、9月1日
 (毎月第1土曜日) 12:30~14:30

 郵便学者・切手博士と学ぶ切手のお話 

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 日本、シリアに勝利
2011-01-14 Fri 10:18
 きのう(13日)行われたサッカーのアジア・カップ1次リーグB組の第2戦で、2大会ぶり4度目の優勝を狙う日本がシリアに2-1で競り勝ちました。ザッケローニ監督は公式大会初勝利だそうです。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        EEF・アレッポ使用

 これは、第一次大戦後の1919年、現在のシリア=トルコ国境に近いシリア北部の都市、アレッポから差し出されたカバーで、この地に進駐していたイギリスのエジプト遠征軍用の切手が無加刷で使用されています。

 第一次大戦中の1916年、戦争終結後のアラブ国家の建設と引き換えに、現地のアラブ勢力がオスマン朝への反乱を起こしてイギリスの軍事行動をサポートするというフサイン=マクマホン書簡の密約に従い、シャリーフ・フサインがオスマン帝国に叛旗を翻し、いわゆるアラブ叛乱が勃発します。

 フサインの第三皇子ファイサルが率いる叛乱側は、はやくも1916年7月にはメッカとジェッダでオスマン朝の守備隊を降伏させたほか、同年9月にはターイフも陥落させ、メディナを除くヒジャーズ(アラビア半島北西部の紅海沿岸地帯)のほぼ全域を制圧。叛乱軍は、メソポタミアの英印軍とも共同して対オスマン朝のゲリラ戦を展開しながら北上し、翌1917年にはアカバのオスマン朝軍を撃破し、エルサレムに進撃します。さらに、1918年に入ると、ファイサル率いるアラブ軍とアレンビー率いるイギリス軍は、共同作戦を展開して勝利を重ね、9月30日にはダマスカスを占領。ファイサルを首班とするアラブ政府の樹立が宣言されました。

 こうした状況の下で、イギリス軍の駐留地域ではエジプト遠征軍の切手が持ち込まれ使用されました。その使用地域は、今回ご紹介のシリアのみならず、パレスチナやトランスヨルダンなどにも広がっています。

 その後、現在のシリア・レバノンの地域は、大戦中の1915年から1916年にかけてまとめられた英仏の密約、サイクス=ピコ協定によりフランスの勢力圏内とされたとおり、フランスの委任統治下に置かれ、アラブ政府は駆逐されることになります。

 このあたりの事情については、昨年開催の<テーマティク出品者の会>作品(CD-ROM)に所収の僕の作品「マグレブ近現代史」でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 試験問題の解説(2008年7月)-5
2008-08-05 Tue 09:35
 きょうから3日間は、都内の某大学でやっている「中東郵便学」の試験問題の解説です。今日は、「この切手(画像はクリックで拡大されます)について説明せよ」という問題を取り上げてみましょう。

 エルサレム・ロシア局

 これは、1909年、エルサレムのロシア局で使用するために発行された切手です。

  オスマン帝国の領内における帝政ロシアの郵便活動は、1721年にサンクトペテルスブルグ=イスタンブール間で外交文書を運んだのが最初といわれています。その後、1774年になるとイスタンブールの領事館で郵便物の定期的な取り扱いが始まり、ロシア側は“カピチュレーション”を援用するかたちで郵便網を拡充していきます。

 郵便印が用いられるようになったのは1830年ごろのことで、1856年にはロシア通商航海会社(ROPiT)による郵便サービスが始まり、翌1857年以降、オデッサ経由でオスマン帝国内の同社のオフィスからロシア全土への郵便物の配達が可能となりました。

 オスマン帝国内のロシア局では、1909年までは各局共通の切手が用いられていましたが、1909年以降、使用局を限定した加刷切手が発行されるようになりました。今回ご紹介の切手もその一例で、ロシア通商航海会社による郵便50年(1857年から起算されています)の記念切手として用意されたものに“Ierusalem”(エルサレム)の文字と5パラとの額面表示が加刷されています。

 試験の解答としては、①この切手がエルサレムのロシア局で使用するためのものであること、②ロシアをはじめとする列強諸国は、カピチュレーションを援用する形で、オスマン帝国内に郵便局を設けたこと、の2点がきちんと説明できているかどうかがポイントになります。

 もう一度切手を集めてみたくなったら 
 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。
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 試験問題の解説(2007年7月)-2
2007-07-31 Tue 01:11
 現在、都内の某私立大学で“中東郵便学”と題する授業を週に1回やっているのですが、昨日(30日)はその前期試験をやりました。そこで、例によって、3日に分けて、その解説をしてみたいと思います。僕が大学でどんなことを話しているのか、という一つのサンプルとして、しばし、お付き合いください。

 さて、初回の今日は、「この郵便物(画像はクリックで拡大されます)について説明せよ」という問題を取り上げてみましょう。

ガザ・ドイツ軍事顧問団

 これは、1917年2月6日、オスマン帝国に派遣されていたドイツの軍事顧問団のメンバーがガザから差し出した軍事郵便のカバーです。料金は無料扱いなので切手は貼られていません。防諜上の理由から消印やカバーにはガザとの表示はありませんが、消印のAOK4という表示から、このカバーがガザ差出のモノであることがわかります。

 19世紀以来の数次にわたるロシアとの戦争でコーカサス地方を喪失したオスマン帝国にとって、コーカサスの奪還は悲願となっていました。このため、1914年に第一次大戦が始まると、オスマン帝国は当初こそ中立を保っていたものの、戦争はドイツ有利との判断の下、8月2日にドイツとの秘密同盟を締結。10月29日、黒海のロシア海軍基地を砲撃し、ドイツ側にたって参戦することになります。

 なお、オスマン帝国とドイツとの軍事的な関係は、露土戦争に敗れたオスマン帝国がドイツから軍事顧問団を招いて陸軍力の再建に乗り出したことから始まります。ドイツとしては、イギリスのライフラインであるスエズ運河の咽元を押さえているオスマン帝国を取り込むことは、イギリスとの戦争遂行していく上で重要なことでした。実際、一時的にではありますが、ドイツの支援を受けたオスマン帝国は中東地域のイギリス軍に打撃を与えており、ドイツの目論見はある程度効果を挙げたといってよいでしょう。

 こうして、東地中海地域はドイツとイギリスを主役とする第一次大戦に巻き込まれ、そのことが、英仏によって現在の“中東”の枠組が作られていく端緒となるのです。
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 シリアとレバノン
2006-01-14 Sat 10:47
 切手の博物館で開催中の<中近東切手コレクション>展も今日・明日(14・15日)の2日間となりました。

 今日と明日は、14:00からと15:30からの2回、簡単な展示解説を行います。また、13:30頃からは会場に詰めていますので、展示に関するご質問等があれば、お気軽にお声をおかけください。

 さて、イランの核開発やイスラエルのシャロンの容態などのニュースの陰に隠れて見逃されがちですが、レバノンの元首相暗殺事件のほうも、目が離せない状況になっているようです。

 そもそもの発端は、昨年(2005年)2月、レバノンのハリリ元首相が暗殺されたことにあります。この事件にシリアのアサド政権が関与していた疑惑が強まり、シリア軍はレバノン内戦以来駐留していたレバノンからの撤退を余儀なくされました。

 その後、暗殺事件に関しては、国連の独立調査委員会が2次にわたる報告書を安保理に提出し、シリア機関の関与を示唆。シリアに対する国際的な包囲網が強まる中、この年末年始にかけて、昨年6月に辞任した前副大統領のハダムが、アサド(シリア大統領)が元首相暗殺の数カ月前に「我々の決定を邪魔する者は誰だろうとたたきつぶす」と同元首相を脅していたと証言。さらに、ハダム氏「いかなるシリア機関も独断でこのような決定はできない」と述べ、元首相暗殺へのシリア政権中枢の関与を示唆したところから、アサド政権はますます窮地に追い込まれているという状況です。

 シリア軍が長年にわたってレバノンに駐留できり、シリアの政権がレバノン政府に圧力をかけるということが日常的に行われてきたりしたのは、シリアとレバノンがもともとは一体のものであったという歴史的な背景があります。

 非常に大雑把にいうと、第一次大戦以前、地中海東岸のアラブ地域は一括して“シリア”と呼ばれていました。それが、オスマン帝国の解体と英仏による植民地分割の過程で、シリア・レバノン・パレスチナ・トランスヨルダンに分割されます。このうち、フランスの支配下に置かれたシリアとレバノンは、旧レバノン県を中心に、キリスト教徒が人口の過半数を占めるように“レバノン(大レバノン)”が画定され、現在のシリアから切り離されました。

 当然のことながら、シリアではレバノンはもともと自分たちの国の一部という国民感情が根強くあるわけです。

 さて、今回の<中近東切手コレクション>展に出品している僕の作品の中には、こんなカバー(封筒)も入っています。

 ベイルート・フランス局

 このカバーは、第一次大戦以前の1905年1月、ベイルートに置かれていたフランスの郵便局からクレタ島のハニア宛に差し出されたものですが、消印の表示は“ベイルート・シリア”となっています。歴史的にシリアとレバノンが一体のものだったというシリア側の主張を裏付けるようなものと言っても良いかもしれません。

 もっとも、「歴史的に云々~」という主張は心情的には分からなくはないのですが、だからといって隣国の要人を暗殺してもいいということにはならないはずなのですが…。

 *<中近東切手コレクション展>の詳細については、http://yushu.or.jp/museum/toku/をご覧ください。


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