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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ラウル・カストロ、引退を表明
2021-04-18 Sun 03:31
 キューバで、16日(現地時間)、5年ぶりの共産党大会が開幕。党トップのラウル・カストロ中央委員会第一書記(以下、ラウル)は「党第一書記としての私の任務は、重責を終えた満足感と祖国の未来への信頼とともに終える。命尽きるまで一人の革命戦士として、ささやかな貢献を続ける覚悟で戦う」と述べ、引退の意向を表明しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・教皇キューバ訪問(2012)

 これは、2012年にキューバが発行した“教皇ベネディクト16世キューバ訪問”の記念切手で、教皇と並ぶラウルが取り上げられています。

 ラウルは、1931年6月3日、カストロ3兄弟の末子として ビランで生まれました。兄のフィデルと共にハバナで教育を受け、ハバナ大学では社会科学を専攻。フィデルと共に反バティスタの学生運動に参加していましたが、兄よりも早く共産主義に傾倒し、1953年には、ヨーロッパを旅行中にKGBの工作員と接触しています。

 キューバ革命の原点とされる1953年のモンカダ兵営襲撃にはフィデルとともに参加し、逮捕・投獄。1955年に恩赦で釈放された後、メキシコに亡命し、アルゼンチン出身のエルネスト・“チェ”・ゲバラと知り合い、ゲバラをフィデルに引き合わせました。

 1956年12月、フィデル、ゲバラとともにグランマ号でキューバに再上陸。一行は、すぐにキューバ軍に発見されて攻撃を受け、シエラ・マエストラ山中でのゲリラ戦を展開することになります。

 1958年3月10日、ラウルは第二東部戦線の指揮官に就任。8月以降、フィデルとともに、キューバ島東部、オリエンテ地方の中心地であるサンティアゴ・デ・クーバを目指して進軍を開始し、11月20-30日のグィサの戦闘では、政府軍に死者116名、負傷者80名の損害を与えて、勝利を収めました。

 1958年12月29日、ゲバラ率いるシロ・レドンド第8部隊がキューバ島中部の要衝、サンタ・クララを攻略し、革命側の勝利が決定的になると、1959年1月1日、バティスタはドミニカ共和国に亡命し、キューバ革命が達せられます。一方、カストロ兄弟も、同日、サンティアゴ・デ・クーバを完全制圧したうえで、首都ハバナへ向けて進軍を開始。1月8日、人々の歓呼の中を鹵獲した戦車に乗ってハバナに入城しました。

 革命後のラウルは、ゲバラとともに、旧バティスタ政権幹部の処刑を指揮・実行。1959年10月には国防大臣に就任し、以後、2008年までその地位にとどまりました。

 1959年のミサイル危機(キューバ危機)後はソ連との関係強化を強く主張し、中ソ対立に関しては明確に親ソ反中の立場を取り、ソ連も帝国主義の一国にすぎないとして(中国に親和的な)独自路線を主張するゲバラと対立。ゲバラがキューバを去った後、1965年10月、革命以来の政権党であった社会主義革命統一党がソ連の意を汲んで“キューバ共産党”へと改組されると第2書記に就任し、政権内でフィデルに次ぐ地位を確立しました。

 1976年、革命後最初の憲法が制定され、フィデルが国家元首に相当する国家評議会議長に就任すると、ラウルは同第一副議長に就任。1997年の党大会で、正式にフィデルの後継者に指名されます。ちなみに、この間の1991年にソ連が消滅したことにより、キューバは中国との関係を改善したため、ラウル政権時代のキューバは基本的に親中路線を採ることになりました。
 
 2006年7月31日、フィデルが腸の手術を受けた後、党・政府におけるその職務を代行。2008年2月19日にフィデルが引退を発表すると、国家評議会議長に選出。さらに、2011年4月の党大会で、フィデルが党中央委員会第一書記を正式に辞任したことをうけて、後任の第一書記に就任しました。今回ご紹介の切手は、その翌年の2012年、キューバの守護聖人とされる“カリダデルコブレ聖母像”が1612年に発見されてから400年周年を記念するという名目で、教皇ベネディクト16世がキューバを訪問したことを記念して発行されたものです。

 2013年2月24日、国家評議会議長に再任されものの、この任期満了となる2018年での引退を明言し、副議長にはミゲル・ディアス=カネルを任命。2017年9月のハリケーン・イルマの影響で人民権力全国会議の選挙は遅延しましたが、2018年4月19日には、予定通り、ディアス=カネルに国家評議会議長の地位を譲って勇退しました。

 一方、党務に関しては、2016年4月16日に開幕した前回党大会で第一書記に留任したものの、やはり、その任期満了をもって引退することを明言。今回の引退表明はその言葉を実行に移したもので、革命以来60年以上にわたる“カストロ時代”が正式に終わりを告げることになりました。

 なお、フィデルとラウルのカストロ兄弟とゲバラによるキューバ革命とその時代については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。
 

★ 放送出演・講演・講座などのご案内★

 4月19日(月) 05:00~  
 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。

 4月23日(金) 15:00~ 
 東京・浅草の東京都立産業貿易センター台東館で開催のスタンプショウ会場にて、拙著『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.1 戦前編』の刊行記念トークを行います。入場無料・事前予約不要ですので、お気軽にご参加ください。なお、スタンプショウの詳細はこちらをご覧ください

 4月24日(土)  倉山塾東京支部特別講演
 靖国神社参拝と講演がセットになった有料イベント(参加費は3000円、高校生以下1000円)で、スケジュールは以下の通りです。
 14:15 集合 靖国神社 大村益次郎像前 → 参拝(昇殿参拝ではありません)後、講演会場へ移動
 15:00 講演会の受付開始
 15:30-17:00 内藤の講演(拙著『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.1 戦前編』の内容が中心ですが、前日のスタンプショウとは内容が異なるので、両方ご参加いただいても問題ありません)
 * 終了後、懇親会の予定あり(別途予約が必要です)
 お申し込みなどの詳細はこちらへ。一人でも多くの方のご参加をお待ちしております。

 5月15日(土)~ 武蔵野大学の生涯学習講座
 5月15日、22日、6月5日、19日、7月3日、17日の6回、下記のふたつの講座でお話しします。 
 13:00~14:30 「日本の郵便150年の歴史 その1 ―“大日本帝国”時代の郵便事情―」
 15:15~16:45 「東京五輪と切手ブームの時代 ―戦後昭和社会史の一断面―」
 対面授業、オンラインのライブ配信、タイム・フリーのウェブ配信の3通りの形式での受講が可能です。詳細については、武蔵野大学地域交流推進室宛にメール(lifelong★musashino-u.ac.jp スパム防止のため、アドレスの@は★に変えています)にてお問い合わせください。

★ 『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.1 戦前編』4月20日刊行! ★

      郵便創業150年の歴史ー1表紙 2530円(本体2300円+税)

 明治4年3月1日(1871年4月20日)にわが国の近代郵便が創業され、日本最初の切手が発行されて以来、150年間の歴史を豊富な図版とともにたどる3巻シリーズの第1巻。まずは、1945年の第二次大戦終戦までの時代を扱いました。今後、2021年11月刊行予定の第2巻では昭和時代(戦後)を、2022年3月刊行予定の第3巻では平成以降の時代を取り扱う予定です。

 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 


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 米、キューバをテロ支援国家に再指定
2021-01-13 Wed 03:33
 米国のポンペオ国務長官は、11日(現地時間)、キューバが米国からの亡命者やコロンビアの反乱勢力の指導者を受け入れることで「国際テロ行為に繰り返し支援を提供している」と批判。また、ベネズエラのマドゥロ政権を安全保障面で支援することで同氏の権力維持を可能にし、ベネズエラ国内で国際的なテロリストが勢力を拡大する土壌をつくっているとして、キューバをテロ支援国家に再指定したと発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・ALBA

 これは、2017年にキューバが発行した“シエンフエーゴス製油所改良10周年”の切手のうち、キューバとベネズエラの両国国旗を掲げた“ボリバル同盟(ALBA)”の看板が掲げられた製油所の風景を取り上げた1枚です。なお、切手の左上には、シエンフエーゴスの地名の由来となった革命の元勲、カミーロ・シエンフエーゴスの肖像が描かれています。

 シエンフエーゴス製油所は、2007年、キューバとベネズエラの協力の下、キューバがベネズエラの石油企業PDVSAとの合弁事業で経営。以後、10年間で1億5000万バレルの石油を精製したものの、ベネズエラの経済不振によりPDVSAの生産能力が大きく低下し、切手が発行された2017年には800万バレルの精製に留まっていました。こうしたことを踏まえ、同年8月、PDVSAは同製油所の49%分の株式をキューバに譲渡し、100%のキューバ資本となっています。

 さて、ボリバル同盟(ALBA)は、2004年末にキューバとベネズエラが米国主導の米州自由貿易地域に対抗して、“21世紀の社会主義”の原則の下、中南米・カリブ海諸国の相互支援と協力、連帯、社会開発の共同などを協定したのがルーツで、現在の加盟国は、加盟国は、アンティグア・バーブーダ、ボリビア、キューバ、ドミニカ国、エクアドル、ニカラグア、セントビンセント・グレナディーン、ベネズエラ(2008年から加盟していたホンジュラスは2010年1月に脱退)で、 シリア、ハイチ、イランがオブザーバー参加となっています。ベネズエラのマドゥロ政権は、ALBA諸国との関係重視を外交政策の基本に据えていますが、実際には、キューバが政治・イデオロギーの面でALBAの主導権を握っています。

 1999年にベネズエラでウゴ・チャベスの左翼政権が発足して以来、キューバは同政権を支援してきました。

 チャベスの政治的原点は、1989年2月、カラカスでの貧困層の暴動鎮圧のために陸軍が出動し、多数の死傷者が発生したことへの義憤で、1992年には、チャベスは同志を募ってクーデターを起こしたものの失敗に終わったという経緯があります。

 その後、チャベスは武装闘争路線を放棄し、米国追従の既成政党を激しく批判するとともに、富裕層や労働組合幹部による医療・福祉の独占を廃して平等な社会の実現を訴え、貧困層の圧倒的な支持を得て、1999年、大統領に当選しました。これを受けて、国際的な孤立を深めていたキューバは、“社会主義政権”への期待から、ベネズエラに接近していきました。

 その具体策として採用されていたのが“バリオ・アデントゥロ”です。この制度では、キューバから医師や看護師をベネズエラに派遣する代償として、ベネズエラは原油をキューバに供給するものとされていました。ただし、現在では、経済破綻のベネズエラでの活動を拒否して隣国のコロンビアに亡命するキューバ人の医師や看護師が急増していますが…。

 当初、キューバとベネズエラの関係はあくまでも経済的な結びつきが主でしたが、2002年、ベネズエラでCIAの関与するクーデター未遂事件が発生して以来、当時のチャベス政権は、軍事・諜報面でもキューバへの依存度を高めていきました。

 その結果、ベネズエラの軍部をコントロールし、クーデターを企むような動きがあれば探知するシステムがキューバの協力によって構築されるとともに、チャベスに従順な軍人に育てる指導のため、キューバから5万人のスタッフがベネズエラに送り込まれます。以後、その規模は年々拡大し、ベネズエラは国内の治安維持と反対派処罰に関してキューバへの依存度を高めていきます。特に、マドゥロ政権以降、ベネズエラ社会がますます不安定になったことから、ベネズエラのキューバ依存には一層の拍車がかかるようになりました。

 実際、その“成果”は確実に出ており、2015-18年の4年間にベネズエラ国内では60人以上の軍人が反マドゥロ蜂起を起こしたものの、キューバの指導を受けたベネズエラの諜報機関(SEBIN)はそれらをすべて鎮圧しました。このため、マドゥロ政権側も、体制を維持するためには、国内石油産業が機能不全に陥った後も、中露から原油を輸入してまでしてキューバに送り続け、キューバの“指導”を受け続けなければならないのが実情となっています。このため、ベネズエラ国民の間からは「マドゥロはスーパーマーケットを空にしてまでキューバに(原油を)送りたいようだ」との不満声が上がっているほどです。

 ちなみに、この件に関して、キューバ側は、2018年4月、ラウル・カストロの後任の国家評議会議長兼閣僚評議会議長に就任したミゲル・ディアス=カネルは、以下のように語っており、キューバとベネズエラの関係の深さが伺えます。

 (ベネズエラが)抱えている問題がどれだけ大きいか我々には重要ではない。ベネズエラはいつでもキューバに信頼を寄せることができる。我々の(ベネズエラへの)支援は無条件だ
 キューバの側も、ベネズエラから原油の供給を受けるため、ベネズエラを支援し続けて行かねばらないのである。

 一方、2020年の大統領選挙期間中、民主党のバイデン候補は、こうしたキューバとベネズエラの関係について(おそらく意図的に)無視したうえで、トランプ政権の対キューバ政策は「キューバの人々に打撃を与え、民主主義と人権の向上で全く役に立たない」として、当選後は対キューバ政策を早期に宥和路線へと転換することを公約していました。

 おそらく、バイデン次期大統領は、政権の発足後、キューバに対するテロ国家指定を早々に再解除するのでしょうが、いやしくも、人権重視の姿勢を示したいのなら、そのことが、中米の独裁国家による人権侵害を結果的にサポートすることになりかねないというリスクについては、十分に理解しておいてもらわないと困りますね。
 
 ちなみに、キューバと他のラテンアメリカ諸国との関係については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもいろいろな角度からご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 キューバ革命記念日
2020-07-26 Sun 02:11
 きょう(26日)は、1953年7月26日にフィデル・カストロらがサンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営を襲撃し、キューバ革命の狼煙を上げたことにちなむキューバの革命記念日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・モンカダ兵営(2013)

 これは、2013年7月26日、キューバが発行した“モンカダ兵営襲撃60周年”の記念切手で、事件の現場となった旧モンカダ兵営の建物が取り上げられています。

 切手に取り上げられた旧モンカダ兵営は、サンティアゴ・デ・クーバ旧市街の端に位置しており、第1次キューバ独立戦争の英雄、ギジェルモ・モンカダにちなんで命名されました。今回ご紹介の切手に取り上げられた“26”と掲げられた黄色い建物は、現在、“7月26日小学校”の校舎として利用されており、正面には大きなグラウンドがあります。また、建物の一角は“7月26日モンカダ兵営博物館”として一般公開されています。

 さて、1952年、キューバの大統領選挙に立候補したフルヘンシオ・バティスタ・イ・サルディバルは、オルトドクソ党のロベルト・アグラモンテ候補を相手に苦戦を続けていました。このため、同年3月10日、バティスタは軍事クーデターを決行し、力ずくで大統領に就任。親米派の政権復帰を歓迎した米国は、直ちに、バティスタ政権を承認します。

 当然のことながら、クーデターによる政権奪取に対しては国民の批判も強かったのですが、既成政党の中でもアウランティコ党はバティスタに対して話し合いでの政権交代を要求するばかりで、翌1953年1月に開催されたオルトドクソ党の党大会も党内対立から、反バティスタで党がまとまることもありませんでした。

 こうして、キューバ国民の間に政治に対する閉塞感が蔓延していくなかで、1952年の議会選挙にオルトドクソ党から立候補した青年弁護士のフィデル・カストロは、バティスタのクーデターで選挙が無効となったことに憤慨、バティスタを憲法裁判所に告発しましたが、裁判所はこれを握り潰してしまいます。

 そこで、フィデルは、アベル・サンタマリーア、ニコ・ロペス、ヘスス・モンタネら同志とともに、バティスタ打倒のためには、既成政党とのしがらみのない若者を動員することが重要と考え、地下放送を通じてひそかに同志を募り、ハバナ大学の施設を利用して、約1200名の反バティスタの活動家を訓練しました。

 当時のフィデルらにはバティスタ政権を一挙に打倒できるだけの実力はなかったため、彼らは、警戒の厳重な首都ハバナを避け、サンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営を占拠して政権に不満を持つ一般国民に民衆蜂起を呼びかけ、あわせて、兵営の一般兵士からも同調者を集め、地方に拠点を築くことを計画します。また、サンティアゴ・デ・クーバでは、毎年7月下旬の一週間、カーニヴァルが開催されていますが、1953年は7月25-26日がその期間に含まれていました。カーニヴァルの期間中の市内の混雑は、カストロらにとって、官憲の目をかいくぐって騒擾を起こすのに格好の機会でした。

 かくして、7月26日未明、シボネイ農場に集まった若者たちに、襲撃の目標(兵営の武器確保、軍通信機器の利用による情報の撹乱)が伝達され、フィデルが指揮する90人がモンカダ兵営の襲撃を、アベル・サンタマリーア率いる21人が兵営に隣接するサトゥリーノ・ローラ市民病院を、フィデルの弟、ラウルが指揮する10人が裁判所広場を襲撃すべく出発しました。また、ニコ・ペロス率いる22人(5人不参加)の別動隊は、サンティアゴ・デ・クーバサンチャゴから80キロ離れたバヤモのカルロス・マヌエル・デ・セスペデス要塞を襲撃して通信網を破壊し、政府軍とモンカダとの連絡を途絶させる計画でした。

 一方、当時のモンカダ兵営には、事件当時、将校88人、兵士288人、農村警備隊26人、計402人が勤務していました。これは、叛乱側の3倍弱の兵力です。

 午前4時45分、若者たちは政府軍を偽装した軍服に着替え、16台の車に分乗してサンティアゴ市内に向かいましたが、車を運転していたスタッフの中にはサンティアゴ市内の地理に不案内な者もおり、市内に入ったところでほぼ半数がはぐれてしまいました。

 こうした中で、レナド・ギタルら3人の先遣隊がモンカダ兵営の第3検問所に到達し、軍服姿で敷地内に侵入することに成功したものの、歩哨の一人が不審に思って警報ボタンを押しため、警備車両が兵営周辺を巡回を開始。そこへ、フィデルら主軸部隊を乗せた車が検問所に向かう脇道に入ってきたため、警備兵との間でいきなり戦闘が始まりました。

 フィデルの計画では、武力で圧倒的に劣る彼らは奇襲攻撃で10分以内に兵営を制圧することになっていましたが、兵営側からの攻撃は15分以上続き、この間、叛乱側の弾薬が尽きてしまったため、叛乱側は退却。戦闘で5人が犠牲になり、さらに、政府軍に捕えられた約56人が虐殺され、シボネイ農場にまで帰着したときには、叛乱側は60人ほどに減っていました。

 その後、あくまでも戦闘継続を主張して山岳地帯へ向かったのはカストロら19人。彼らは政府軍の追及を逃れるべく、いくつかのグループに分かれて山中を彷徨していましたが、8月1日、ついに捕えられ、サンティアゴ・デ・クーバの駐屯地に連行され、ボニアート監獄に収監されました。ちなみに、駐屯地ではなく、兵営に連行された者たちは、その場で虐殺されています。

 バティスタ政権はモンカダ兵営襲撃事件を闇に葬り去るべく、当初は裁判も行いませんでしたが、襲撃事件に参加し、政府軍に虐殺された若者の多くは、家族に襲撃計画を全く話していなかったため、“行方不明”となった息子を探す親たちが続出したことから、。急遽、緊急法廷第37号事件の名目で、1953年9月21日、サンティアゴ裁判所でモンカディスタ(モンカダ襲撃事件に加わり、生き残った人々)に対する裁判が始まりました。

 事件の首謀者としてのフィデルの裁判は、10月16日、事件現場の一つ、サトゥリーノ・ローラ市民病院付属の看護学校の一室で、100人の兵士が包囲する中で開廷。フィデルの担当弁護士は入廷を拒否されたため、弁護士資格を持つフィデルは自らの弁護を担当し、事件後の軍による虐殺の実態を明らかにしました。

 そのうえで、クーデターで誕生したバティスタ政権は非合法であり、立憲主義に反していること、1933年のマチャド独裁政権崩壊以来、バティスタが米国政府・資本の走狗として国家を私物化してきたことを激しく非難。1940年憲法に加え、トマス・アクィナス、マルティン・ルター等の宗教思想やロック、ルソー、モンテスキュー以来の近代政治思想史をも引用し、兵営の襲撃は人民の抵抗権によるものであるとして、その目的は兵士との戦闘にあるのではなく、兵営の選挙によって国民に蜂起を呼びかけることにあったと主張します。

 さらに、革命達成の暁に実施すべき政策として、①1940年憲法の復活、②土地改革(小作人下の土地分与、有償による土地接収)、③労働者の企業利益への参加、④小作人の収益参加率の50パーセントへの引き上げ、⑤不正取得資産の返還、の5項目を掲げ、「歴史は私に無罪を宣告するであろう」との一文で、最終弁論を締めくくりました。

 結局、フィデルは禁錮15年の有罪判決を受け、1953年10月17日、ピノス島のモデーロ監獄に収監されます。

 しかし、モデーロ監獄には、すでに26人のモンカディスタが収監されており、フィデルは裁判の弁論を再構成した“モンカダ綱領”を食事の際に供されるライムの汁で紙に執筆。獄中の秘密ルートを通じて外部に持ち出された原稿は、一足先に釈放されていたメルバ・エルナンデスにより、1954年10月頃、アイロンを使った“あぶり出し”の手法で解読され、『歴史は私に無罪を宣告するであろう』の書名で地下出版されました。その数は1万部にも達し、独立運動発祥の地であるキューバ島東部ではフィデルの声望が高まります。

 一方、バティスタは、政権の正統性に疑問を呈するフィデルらの主張を打ち消すために、1954年11月1日に大統領選挙を実施。露骨な不正選挙により再選を果たすと、自らの独裁体制維持への絶対の自信から、寛大なる為政者のポーズを示すべく、モンカディスタを除く政治犯の恩赦を決定します。これに対して、選挙区民を通じてフィデルの国民的な人気を肌で感じていた上下両院の議員たちはバティスタの反対を押し切って恩赦法を採択し、これにより、1955年5月16日、フィデル以下のモンカディスタはモデーロ監獄から釈放されました。

 ピノス島からハバナへ向かう船中、モンカディスタは革命運動組織として“7月26日運動(M26)”の結成で合意。その後、M26のメンバーはメキシコに亡命し、アルゼンチン出身の青年医師だったエルネスト・ゲバラもそこに合流して、反バティスタの革命運動を本格的に開始することになります。

 なお、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、タイトル通り、モンカダ兵営事件以降のキューバ革命史について、いろいろな角度からまとめています。機会がありましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。


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 ライオンズが連覇
2019-09-25 Wed 01:29
 プロ野球のパシフィック・リーグは、埼玉西武ライオンズが昨年に続き、2年連続で優勝しました。というわけで、現時点での僕の最新作『チェ・ゲバラとキューバ革命』にちなんで、キューバのライオン切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・国立動物園(2008)

 これは、2008年にキューバが発行した“国立動物園”の切手のうち、ライオンを取り上げた1枚です。

 1937年、カルロス・デ・ラ・トーレらハバナ大学の研究者は、首都ハバナにキューバ最初の動物園を設することを提案。これを受けて、1939年からの開園準備を経て、第二次大戦中の1943年、ハバナ動物園が開園しました。現在の敷地面積は23ヘクタールです。

 ところで、1989年の冷戦終結を経て1991年にソ連が崩壊すると、それまでキューバ産砂糖とソ連製の石油のバーター取引の上に立脚していたキューバ経済は壊滅的な打撃を受け、構造の基盤は大打撃を受け、フィデル・カストロは、“平時の非常時”を宣言し、物資不足、特に食糧難を克服するための厳しい配給制を導入しました。

 こうした状況を反映して、当時、ハバナの動物園の立て札も、「動物に餌を与えないでください」→「動物の餌を食べないで下さい」→「動物を食べないで下さい」へと変化していったとの小咄が市民の間でまことしやかにささやかれていたとか。

 なお、キューバでは、1993年には一般国民に対して米ドルの所持が解禁されたため、観光業者やタクシー運転手など、米ドルを入手できる環境にある者から苦境を脱していきます。さらに、政府は私的所有や、スペイン等の機関投資家を呼び込んでの国営企業の民営化などの“自由化”を部分的に採り入れ、観光業の振興を軸に経済の再生を測った結果、1990年代半ば以降、経済状況は底を打ち、とりあえず、危機的な状況は脱したとされています。


★ 9月27日(金) 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 9月27日(金)05:00~  文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


★★ イベントのご案内 ★★

・インド太平洋研究会 第3回オフラインセミナー
 9月28日(土) 15:30~  於・イオンコンパス東京八重洲会議室
 内藤は、17:00から2時間ほど、「ガダルカナル島の近現代史」と題してお話しします。
 先の大戦の激戦地というだけでなく、9月16日に台湾と断交して中国に乗り換えたソロモン諸島の首都、ホニアラの所在地として、ガダルカナル島がどのような歴史をたどってきたのか、そのあらましについて、関連する切手などとともにお話ししてみたいと思います。
 
 参加費など詳細は、こちらをご覧ください。


★★ 講座のご案内 ★★

 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。

・よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治
 毎月第1火曜日 15:30~17:00
 10/1、11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可)

・武蔵野大学生涯学習秋講座
 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年―
 2019年10月13日(日) 
 (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回)

 切手と浮世絵
 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回)


★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★

      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 ジャイアンツが5年ぶり優勝
2019-09-22 Sun 05:59
 プロ野球のセントラル・リーグは、読売ジャイアンツが5年ぶりに優勝しました。というわけで、“巨人(像)”ネタのなかから、こんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・革命広場(マルティ記念碑) 

 これは、2009年にキューバで発行された“革命50周年”の記念切手のうち、ハバナの革命広場を取り上げた切手シートで、シート地の部分には国旗と広場北側の“メモリアル・ホセ・マルティ(ホセ・マルティ記念碑)”が取り上げられています。メモリアルは星形の記念塔とキューバ産大理石のマルティ像、その周囲の庭園で構成されており、塔は高さ109メートル、マルティ像は18メートルという巨大なものです。キューバ国内で最大の人物像ということで、取り上げてみました。

 キューバ独立の英雄、ホセ・マルティを顕彰するためのモニュメントの建設は、1939年から1943年にかけて、デザイン・コンクールが行われ、入賞作品も発表されたものの、建設予定地にあったモンセラット・エルミタージュの買収交渉が難航し、実際の建設工事はなかなか開始されませんでした。

 1952年のクーデターで権力を奪取したフルヘンシオ・バティスタは、その強権をもってマルティ記念碑の建設を決断。過去のコンクールで受賞した作品の中から、バティスタの個人的な友人で、労働大臣のエンリケ・ルイス・バレーラ率いる建築家集団のデザインを採用すると発表しました。しかし、国民の英雄ともいうべきマルティ記念碑の“私物化”に対しては国民から異論が噴出。そこで、エンリケ・ルイス・バレーラ案では塔の最上部にマルティ像が設置されていたのを、塔の上には像を置かず、基底部にフアン・ホセ・シクルがデザインしたマルティの像を設置し、周囲を庭園とすることになりました。

 メモリアル・ホセ・マルティの建設はマルティの生誕100周年となる1953年に開始され、1958年に竣工しましたが、1959年1月1日のキューバ革命でバティスタはドミニカ共和国へ亡命。シートの切手部分にみられるように、 ハバナに入城したフィデル・カストロが、記念塔の下で国民に対して演説を行いました。

 なお、バティスタ政権時代のキューバについては、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 


★★ イベントのご案内 ★★

・インド太平洋研究会 第3回オフラインセミナー
 9月28日(土) 15:30~  於・イオンコンパス東京八重洲会議室
 内藤は、17:00から2時間ほど、「ガダルカナル島の近現代史」と題してお話しします。
 先の大戦の激戦地というだけでなく、9月16日に台湾と断交して中国に乗り換えたソロモン諸島の首都、ホニアラの所在地として、ガダルカナル島がどのような歴史をたどってきたのか、そのあらましについて、関連する切手などとともにお話ししてみたいと思います。
 
 参加費など詳細は、こちらをご覧ください。


★★ 講座のご案内 ★★

 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。

・よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治
 毎月第1火曜日 15:30~17:00
 10/1、11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可)

・武蔵野大学生涯学習秋講座
 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年―
 2019年10月13日(日) 
 (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回)

 切手と浮世絵
 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回)


★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★

      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 世界の切手:キューバ
2019-08-28 Wed 09:35
 ご報告が遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2019年8月14日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はキューバの特集(6回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます) 

      キューバ・カパブランカ

 これは、2013年に発行されたホセ・ラウル・カパブランカの切手です。

 ラテンアメリカはチェスが盛んですが、なかでも、キューバは不世出の天才、ホセ・ラウル・カパブランカの出身地ということもあって、チェスは国民的な娯楽として定着しています。

 カパブランカは、スペイン領時代の1888年11月19日、ハバナ生まれ。4歳のときに父親が友人とチェスをしているのを見て指し方を覚え、ルールを覚えてから3日後に父親を負かし、13歳の若さでキューバチャンピオンとなりました。

 18歳の時、米コロンビア大学に留学し、化学を専攻したものの、チェスに没頭し過ぎて中退。1909年、当時、米国最強を謳われていたフランク・マーシャルに勝ったことで一躍有名となりました。その後、キューバ政府から外交官に任命されたものの、任地でもチェスばかりで、外交官としての仕事はほとんどしなかったそうです。

 1914年、当時の世界チャンピオンでユダヤ系ドイツ人のエマーヌエール・ラスカーに挑戦状を送りましたが、第一次世界大戦が勃発したこともあって、対局が実現したのは7年後の1921年のことでした。この時、14番勝負のうち、14局を終了したところでラスカーが棄権し、4勝10分け無敗でカパブランカが世界チャンピオンとなりました。その後、1927年にロシア系フランス人のアレクサンドル・アレヒンに敗れて王座を失いましたが、その後も、1942年3月8日、ニューヨークで亡くなるまで、国際大会で活躍しました。

 ちなみに、チェ・ゲバラもチェスの愛好家でしたが、この点については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧ください。

 さて、『世界の切手コレクション』8月14日号の「世界の国々」では、1962年のミサイル危機後のキューバをめぐる国際関係についての長文コラムのほか、葉巻農家、ハバナのジョン・レノン公園ヘスス・メネンデス、キューバワニ、ベネズエラとのボリバル同盟の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のキューバの次は、2019年8月21日発売の同28日号でのボリビア(と一部グレナダ)の特集です。こちらについては、近々、このブログでもご紹介する予定です。


★★ イベントのご案内 ★★

・インド太平洋研究会 第3回オフラインセミナー
 9月28日(土) 15:30~  於・イオンコンパス東京八重洲会議室
 内藤は、17:00から2時間ほど、“インド太平洋”について、郵便学的手法で読み解くお話をする予定です。
 
 参加費など詳細は、こちらをご覧ください。

★★ 講座のご案内 ★★

 武蔵野大学生涯学習秋講座で、以下の講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください)

 ・2019年10月13日(日) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年―
 (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回)

 ・2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 切手と浮世絵


★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★

      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 世界の切手:キューバ
2019-08-05 Mon 02:15
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2019年7月3日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はキューバの特集(5回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・ニコ・ロペス(2015)

 これは、2015年にキューバで発行された“ニコ・ロペス高等学校55周年”の記念切手で、学校の校舎と校名の由来となったキューバ革命の志士、ニコ・ロペスの肖像が描かれています。

 ロペスは、1932年10月2日、ハバナで生まれました。

 1934年、米国の支援を受けて政権を獲得したキューバ陸軍の実力者、フルヘンシオ・バティスタとその一派は、第二次大戦前後の約20年間にわたって政権をほぼ独占していました。

 こうした状況の下、1952年、バティスタ(当時は上院議員)は大統領選挙に立候補したものの、野党オルトドクソ党のロベルト・アグラモンテ候補に対して苦戦していたため、同年3月10日、軍事クーデターを決行し、力ずくで大統領に就任します。

 この選挙に立候補していた青年弁護士のフィデル・カストロ(以下、フィデル)はこれに憤慨し、バティスタを憲法裁判所に告発しましたが、裁判所はこれを握り潰しました。また、既存の二大政党、アウテンティコならびにオルトドクソのいずれも、結果的にバティスタのクーデターを容認しており、キューバの一般国民の生活は一向に改善される気配はありませんでした。

 そこで、フィデルは、アベル・サンタマリーア、ニコ・ロペス、ヘスス・モンタネら同志とともに、バティスタ打倒のためには、既成政党とのしがらみのない若者を動員することが重要と考え、地下放送を通じて同志を募り、クレー射撃の練習を装い、ハバナ大学の施設を利用して、約1200名の反バティスタの活動家を訓練。彼らは、1953年7月26日、反バティスタの武装蜂起を起こします。

 このとき、フィデルら90人の本隊はサンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営を襲撃しましたが、ロペス率いる22人の別動隊は、サンティアゴ・デ・クーバサンチャゴから80キロ離れたバヤモのカルロス・マヌエル・デ・セスペデス要塞を襲撃して通信網を破壊し、政府軍とモンカダとの連絡を途絶させることを試みました。

 しかし、叛乱はすぐに鎮圧され、フィデルを含む叛乱側の若者の多くが逮捕されます。しかし、ロペスは、アルベンス政権下でリベラル改革が進められていたグアテマラに辛くも脱出。そこで、アルゼンチン出身の青年医師、エルネスト・ゲバラと知り合いました。

 アルベンス政権は1954年6月、CIAの介入により崩壊し、ゲバラはメキシコに亡命。この時点では、ゲバラはキューバでのカストロの活動にはそれほどの関心を持っておらず、メキシコに逃れていたキューバ人の亡命者の多くは大言壮語するばかりで、彼らの語る“革命”には何ら現実味を感じられずにいたようです。なお、ゲバラは、アルゼンチンとウルグアイで話されるリオプラテンセ・スペイン語の間投詞で、特に意味はない“チェ”の語を会話の際に連発していましたが、ロペスを含め、亡命キューバ人たちは“チェ”の意味が分からなかったため、いつしかゲバラを“チェ”のあだ名で呼ぶようになり、“チェ・ゲバラ”の由来となりました。

 さて、ゲバラはメキシコでロペスと再会したことに加え、当時の妻で、ゲバラにとっては共産主義理論の師でもあったイルダがキューバの情勢について熱く語るのを聞いて、次第にキューバ情勢にも関心を持つようになり、1955年5月、ロペスから、フィデルの弟、ラウル・カストロを紹介されます。

 そして、同年7月8日、フィデルがメキシコシティに到着すると、7月第2週の“メキシコのあの寒い夜”、亡命キューバ人の溜まり場になっていた、エンバラン街49番地にあるマリーア・アントニア・ゴンザレスの家で、ついにゲバラとフィデルは運命の出会いを果たし、すっかり意気投合。以後、キューバ革命に邁進していくことになります。

 ゲバラとカストロ兄弟を結び付けたロペスは、その後も彼らとともに革命活動を続け、1956年12月2日にはグランマ号でキューバ島への再上陸を果たしました。しかし、その直後の12月8日、バティスタ政府軍との戦闘により、戦死しました。

 さて、『世界の切手コレクション』7月3日号の「世界の国々」では、キューバの革命戦争(その詳細については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』も併せてご覧いただけると幸いです)についての長文コラムのほか、エドゥアルド・アベラの絵画「農民たち」砂糖1000万トン計画グランマ号上陸記念国立公園カストロの白鳩の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のキューバの次は、7月10日発売の同17日号でのオーストラリアの特集となっています。その内容の一部は、近々、このブログでもご紹介する予定です。


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 シモン・ボリバル・デー
2019-07-24 Wed 00:52
 きょう(24日)は、南米大陸のアンデス5ヵ国をスペインから独立に導き、ラテンアメリカ諸国では“解放者”と称されるシモン・ボリバル(ボリーバルとも)が1783年7月24日に生まれたことにちなむ“シモン・ボリバル・デー”です。というわけで、きょうはボリバル関連の切手の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・エリセオ・レエス

 これは、2015年にキューバが発行した“サン・ルイス大尉ことエリセオ・レエス生誕75周年”の記念切手で、銃を構えるレエスの肖像と、右上には、チェ・ゲバラがボリビアで記した日記のオリジナル手稿のなかから、1941年にパブロ・ネルーダが発表した詩「ボリバルのための歌(Un canto para Bolívar)」を引用した部分の筆跡が配されています。

 エリセオ・レエスは、1940年4月27日、キューバ島南東部のサン・ルイスで生まれました。1956年、ゲバラとカストロがシエラ・マエストラ山中を拠点に革命戦争を始めるとこれに参加し、副官としてゲバラに仕えました。

 1959年の革命後もゲバラの側近として活動し、1965年10月3日、ゲバラのコンゴ動乱参加中にキューバ共産党が創設されると党中央委員に任命されましたが、1966年11月、ゲバラがボリビアに潜入してゲリラ戦を展開すると、これに加わり、1967年4月25日、ティクチャとイキラ川間のエル・メソンの戦闘で敵の待ち伏せを受けて戦死しました。

 ゲバラは彼の死を深く悲しみ、同日の日記には、「我々はゲリラ戦士の中で最高の男を喪った」と記すとともに、パブロ・ネルーダの詩、「ボリバルのための歌」の一節“Tu pequeño cadáver de capitán valiente ha extendido en lo inmenso su metálica forma (勇敢な大尉である君の小さな遺体は、無限の中にその金属的な姿を横たえたのだ)”を引用しています。今回ご紹介の切手では、右上に、ゲバラがボリビアで記していた日記の原本から、該当箇所の筆跡が取り上げられており、その下には“チェ”のサインが組み合わされています。

 ゲバラは高校時代にスペイン内戦をテーマにしたネルーダの詩に深い感銘を受け、以後、ネルーダの熱心な愛読者となりました。若き日の“モーター・サイクル・ダイアリーズ”の南米旅行やシエラ・マエストラ山中でのゲリラ闘争の際にも、常にネルーダの詩集を携行し、革命後は、ネルーダとの個人的な親交も結んでいます。

 そうしたネルーダとゲバラの関係については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもご説明しておりますので、機械がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 アフリカデー
2019-05-25 Sat 03:03
 きょう(25日)は、1963年5月25日にアフリカ統一機構(OAU、現アフリカ連合=AU)が創設されたことにちなむ“アフリカデー”です。というわけで、アフリカ大陸の地図を描いた切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・コンゴ共和国との国交50年

 これは、2014年にキューバが発行したコンゴ共和国(旧仏領。以下、コンゴ・ブラザヴィル)との国交樹立50周年の記念切手で、キューバ国旗とキューバ島の地図、アフリカ大陸のシルエットの中にコンゴ・ブラザヴィルの国旗を持つ人々が描かれています。

  1960年8月15日に独立したコンゴ・ブラザヴィルは、初代大統領に就任したフルベール・ユールーと彼の率いる与党“アフリカ人利益擁護民主連合(UDDIA)”の下、親仏路線を維持し、フランスからの資金援助による国家建設を推進しました。しかし、その配分は、彼の出身部族であるラリ族の多い南部が偏重され、北部は冷遇されただけでなく、露骨な利益誘導が行われたため、政権の腐敗も深刻でした。

 外交面でも、隣接する旧ベルギー領コンゴでの動乱に関しては、民族派のパトリス・ルムンバではなく、旧宗主国ベルギーの支援を受けてカタンガの分離独立を主張するモイーズ・チョンベを支持。このことも国民の不満を醸成し、1963年8月、北部での反政府暴動を機に、ユールー政権は崩壊し、アルフォンセ・マサンバ=デバを首班とする新政権が発足しました。

 マサンバ=デバ政権は、民族主義的な色彩の濃い社会主義路線を掲げ、外国系企業の国有化、フランス軍基地の撤去、計画経済の導入などを推進。1964年1月には“革命国民運動(MNR)”を結成して一党体制を構築したほか、外交面では反仏路線に転換し、東西冷戦下では西側との決別を意味するキューバ・カストロ政権との国交樹立に踏み切ります。

 これを受けて、キューバはチェ・ゲバラをブラザヴィルに派遣することを決定。1965年1月2日、ゲバラは「米国の干渉に対する革命の戦いは、西半球の大陸の多くの人をとらえるだろう」と声明してブラザヴィル入りし、5日、マサンバ=デバと会談しました。ゲバラは、マサンバ=デバに対して、キューバと連帯して旧ルムンバ派勢力を支援することを提案。マサンバ=デバ政権がこの提案を受け入れると、ホルヘ・リスケート率いるキューバの軍事ミッションがブラザヴィルに派遣されました。

 その後、キューバの支援を受けたMNR若年層の一部は徐々に民兵を組織して過激化。マサンバ=デバは、1966年、民兵組織のアンブローズ・ヌアザレイを首相に任命し、政権に取り込んで去勢しようとしましたが、MNRは穏健化しませんでした。そこで、1968年1月、マサンバ=デバはヌマザレイを首相から解任しましたが、軍部の実力者で空挺隊司令官のマリアン・ングアビは民兵組織を統御しきれないマサンバ=デバに対する不満を募らせます。

 このため、1968年8月、マサンバ=デバはクーデター容疑でングアビを逮捕しましたが、兵士の反乱で釈放を余儀なくされ、逆に、9月4日、退陣に追い込まれました。なお、政権を掌握したングアビは民兵組織を抑え込みましたが、キューバとの友好関係は維持しています。

 ちなみに、このあたりの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


★★ 〈岡田英弘三回忌 シンポジウム〉岡田英弘の歴史学とは何か ★★

      岡田英弘の歴史学とは何か

 2019年 5月26日(日) 14:00~ (13:30開場/17:00終了予定)
 早稲田大学 3号館 704教室 (東京都新宿区西早稲田1-6-15/東京メトロ東西線「早稲田駅」徒歩5分 副都心線「西早稲田駅」徒歩17分)
 * 資料代として1000円が必要です。

 “世界史”は13世紀モンゴルから始まった!!
朝鮮史を出発点に、満洲史、モンゴル史と深めてゆくなかで、「13 世紀のモンゴル帝国がユーラシア大陸の東西をつなぎ、“世界史”が始まった」と、「世界史とは何か」を初めて提示しえた歴史学者、岡田英弘氏(1931-2017)。その仕事を改めて見直し、次代に継承する!

 このシンポジウムに、内藤も登壇してお話しします。宜しかったら、ぜひ、ご参加ください。
 お申し込みやイベントの詳細はこちらをご覧ください
 

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 キューバ農地改革60年
2019-05-17 Fri 01:36
 1959年5月17日にキューバで農業改革法が公布され、農地改革が始まってから、ちょうど60年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・農業改革法55年

 これは、2014年にキューバで発行された“農業改革法55年”の記念切手で、フィデル・カストロがシエラ・マエストラ山中で同法に署名する場面の写真が取り上げられています。

 キューバ革命の原点とされる1953年のモンカダ兵営襲撃事件の後、カストロが獄中で執筆した手記には、すでに革命後の土地改革についての言及があり、土地改革が成功すれば、キューバ経済は自然と成長軌道に乗るであろうとの見通しが述べられていました。

 その後、土地改革の実施は革命組織 M26の公約とされ、革命戦争の最中、叛乱側の支配していたシエラ・マエストラ山中の解放区やオリエンテ州のラウル・カストロ指揮下の第二戦線、カミーロ・シエンフエゴスとチェ・ゲバラが勢力下においたシエンフエゴスなどでは、2カバジェリーア(約26.8ヘクタール。1カバジェリーアは約13.4ヘクタール)までの土地を農民に対して無償で分与する農地改革が実施されていました。

 革命後の1959年2月10日の閣僚会議では、こうした農地改革をキューバ全土で実施するため、“農業改革法のための委員会”の設置が決定され、ウンベルト・ソリ・マリン農相が委員長に就任します。しかし、グアテマラのアルベンス政権がユナイテッド・フルーツ社と対立して1954年に崩壊に追い込まれたこともあって、政権内には、米国との対立を招きかねない農業改革には消極的な閣僚も少なくありませんでした。

 そこで、カストロはゲバラをはじめM26の“社会改革派”とともに農業改革法案を作成。法案は4月28日の閣議提出を経て、5月5日、閣議で承認。これを受けて、5月17日には、革命戦争中に総司令部の置かれていたシエラ・マエストラ山中のラ・プラタで、大統領のウルティア、農相のソリ・マリンも出席して、カストロが法案に署名する記念式典も行われ、(第一次)農業改革法は正式に公布されました。今回ご紹介の切手は、この場面を取り上げたものです。

 この時の農地改革では、土地の最高所有限度面積は30カバジェリーア(約403ヘクタール)とされ、それを超える土地は有償で接収された。その上で、2カバジェリーア以下の土地しか持たない零細農民や小作人、あるいは営農希望者には、2カバジェリーアまでは無償で、2-5カバジェリーアまでは有償で土地が与えられています。ただし、それまで、米系企業による大規模プランテーションが農業の中心を占めていたキューバでやみくもに農地の細分化を行えば生産性が著しく低下することから、政府主導で大規模な国有農場や協同組合農場の形成が促進されました。また、富の偏在の象徴となっていた外国人・外国企業による土地の所有も併せて禁止されています。

 ところで、革命以前のキューバでは、可耕地の70-75%、農地面積の3分の1は米系企業の所有地となっていたため、外国人の土地所有を禁止した農業改革は米国によるキューバ支配の前提を根本から否定するもので、米国をいたく刺激することになりました。

 もともと、米国政府は、1959年1月7日、キューバの革命政府をとりあえず承認したうえで、その方向性を見きわめようと事態を静観していましたが、農地改革が実行に移されるや、キューバ政府に抗議。アイゼンハワーは「カストロは共産主義者ではないが、共産主義者から引き離す必要がある」との認識を示し、キューバ国内でも、それに同調する声が少なからず上がるようになります。

 以後、米国はキューバの革命への干渉を本格化し、両国の関係は緊張の度合いを高めていくのですが、このあたりの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

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 母の日
2019-05-12 Sun 02:11
 きょう(12日)は“母の日”です。というわけで、毎年恒例、母と子を題材とした切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・革命50年(社会保障制度)

 これは、2009年にキューバが発行した革命50周年の記念切手のうち、“社会保障制度(の充実)”を取り上げた1枚で、左側に老夫婦、右側に母と子を組み合わせたデザインとなっています。

 1959年の革命以前、キューバでは男性優位主義の“マチスモ”の風潮がきわめて強く、育児は女性が行うのが当然という考え方が支配的でした。このため、1955年の時点で、女性の労働力化率は13%にとどまっていました。

 しかし、革命後、海外に流出した労働力の不足を補う必要に迫られたカストロ政権は、女性を労働力として確保すべく、女性が家の外で働くことを奨励。その一環として、1963年には、有給での12週間の育児休業を女性に提供する産休法が採択されました。同法は、その後何度かの改正を経て、2003年の法改正後の現行制度では、妊娠した女性は、職場復帰するまで、出産前6週、出産後12週の計18週の完全有給での育児休業の権利が保障されているほか、さらに40週の育児休業(その場合は、給与の60%が支給)が認められています。こうしたこともあって、15-55歳の女性の労働化率は1996年には42.1%に、2002年には55%にまで上昇しました。今回ご紹介の切手は、そうした“革命の成果”を強調するために発行されたものです。

 なお、革命後のキューバ国民の生活については、プラス・マイナスの両面をあわせて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


★★ 今さら聞けないチェ・ゲバラ ★★

   今さら聞けない

 5月12日(日) 21:00~  『チェ・ゲバラとキューバ革命』の著者、内藤陽介が、Schooに登場し、ゲバラについてお話しします。(ライブ配信は無料でご視聴頂けます)

 誰もが一度は見たことがある、彼の肖像。
 革命家である彼は、どんな生涯を送ったのでしょうか。
 切手や郵便物から彼の足跡を辿ります。

 詳細はこちらをご覧ください。

★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★

      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

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 こどもの日
2019-05-05 Sun 01:19
 きょう(5日)はこどもの日です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・ピオネロス中央宮殿30年

 これは、2009年にキューバで発行された“エルネスト・ゲバラ記念ピオネロス中央宮殿30周年”の切手シートです。

 現在のキューバで小中学校の生徒全員が参加する大衆組織のピオネロスは、社会主義諸国で広く見られるピオネールに相当するもので、1959年の革命後、1961年の社会主義宣言を経て創設されました。活動としては、ボーイスカウト運動に近いのですが、市会選挙の投票所で投票箱の監視なども行っています。

 今回ご紹介の切手シートの題材となった“エルネスト・ゲバラ記念ピオネロス中央宮殿30周年”は、ピオネロスの教育・研修施設として、1979年、ハバナに建設されました。

 1967年に39歳で亡くなったゲバラは、死後、カストロ政権によって“理想の革命家”として神格化され、特に、青少年が目指すべき模範とされるようになりました。ピオネロスの施設に彼の名が冠せられたのも、そうしたキューバ政府の方針を踏まえたものです。

 今回ご紹介のシートの切手部分には、グランマ号の模型を前に“学習”する少年少女が取り上げられています。一方、シートの余白部分には、中央宮殿を背景に、子供を抱くゲバラ像が配されていますが、このゲバラ像は、ハバナの宮殿前ではなく、サンタ・クララの市役所前に設置されているもので、実際にはこうした風景はありません。おそらく、共産主義少年団のピオネロスのイメージに合致するものとして、子供を抱くゲバラの銅像と中央宮殿の建物を合成したデザインが制作されたのでしょう。

 ちなみに、サンタ・クララは、革命戦争末期の1958年12月28日、ゲバラ率いる叛乱軍部隊がバティスタ政府軍を破り、戦局の帰趨を決定づけた土地で、このため、市内には、今回の切手シートンイ取り上げられたものを含め、ゲバラを讃える彫刻やオブジェが数多く設置されているほか、サンタクララ攻略戦から30周年にあたる1988年には広大なエルネスト・チェ・ゲバラ記念公園も造成されています。さらに、1997年7月、ボリビアからキューバ政府に引き渡されたゲバラの遺骨は、ハバナの革命広場での盛大な帰還のセレモニーを経て、10月17日、遺骨はエルネスト・チェ・ゲバラ記念公園のゲバラ像の足元に建設された霊廟に収められています。

 なお、ゲバラの死後、キューバ政府が神格化されたゲバラのイメージをどのように活用してきたかについては、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


★★ 5月10日(金) 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★★

 5月10日(金)05:00~  文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


★★ 今さら聞けないチェ・ゲバラ ★★

   今さら聞けない

 5月12日(日) 21:00~  『チェ・ゲバラとキューバ革命』の著者、内藤陽介が、Schooに登場し、ゲバラについてお話しします。(ライブ配信は無料でご視聴頂けます)

 誰もが一度は見たことがある、彼の肖像。
 革命家である彼は、どんな生涯を送ったのでしょうか。
 切手や郵便物から彼の足跡を辿ります。

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 メディアとしての“英雄的ゲリラ”
2019-04-20 Sat 03:04
 かねてご案内のとおり、本日(20日)14時から、東京・水道橋の日本大学法学部三崎町キャンパス4号館地下1階 第4会議室A(地図はこちらをご覧ください)にて開催のメディア史研究会月例会にて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の内容を中心に、「メディアとしての“英雄的ゲリラ”」と題してお話しします。というわけで、その内容の一部を予告編としてご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・ゲバラ日記(2017)

 これは、2017年、ゲバラの没後50年に際してキューバが発行した記念切手で、生前の彼の横顔と、ゲバラの遺著で、“英雄的ゲリラ”をデザインした『ゲリラ日記』初版本の表紙が並べてデザインされています。

 ゲバラは1967年10月にボリビア山中で亡くなりましたが、1968年初、彼が死の直前まで綴っていた日記の写しがキューバに持ち込まれます。

 チェの日記をキューバ側に引き渡すうえで、主導的な役割を果たしたボリビア内相のアントニオ・アルゲダス・メンディエタは謎の多い人物ですが、もともと、ソ連の影響下で組織された革命的左翼党(PIR)のメンバーで、ボリビアの主要な共産主義者たちとも交流がありました。十代で通信士としてボリビア空軍に入隊しますが、基地内で党の宣伝文書を配布するなどの左翼活動を続けます。ところが、1950年、法律を学んで法務官となったことで、空軍の実力者であったレネ・バリエントス・オルトゥーニョと親しくなり、右派に転向。民族革命運動党(MNR)に加入し、1964年11月のクーデターでバリエントスが政権を掌握すると、内務省勤務となりました。

 アルゲダスを内務省で雇用することについては、彼がもともと左翼活動家だったことから、ラパスの米国大使館付き武官のエドワード・フォックスは再考を求めましたが、CIAのボリビア担当の責任者だったラリー・スタンフィールドはアルゲダスの能力を高く評価し、むしろ、彼をCIAのエージェントとして取り込むことを主張。アルゲダスも「反分は好奇心から」CIA側のリクルートに応じ、その結果、一挙に内相に抜擢されます。

 1967年、ゲバラ率いるゲリラ部隊に対する掃討作戦が本格的に始まると、アルゲダスはCIAのアレンジにより亡命キューバ人のチームを編成して工作活動を展開し、1967年6月のサンフアンの虐殺を承認したほか、同年9月にはゲリラ部隊の都市組織で資金を管理していたロヨラ・グスマン・ララを逮捕し、山岳ゲリラへの支援ネットワークを壊滅に追い込みました。

 しかし、CIAの送り込んだ亡命キューバ人部隊が、徐々にボリビア内務省の統制を無視し、ボリビア国内に独自の拠点を設けるようになると、CIAへの反感から、アルゲダスは左派勢力との妥協を考えるようになります。

 1967年10月9日、ゲバラの処刑後、CIAは遺体が“聖遺物”化されることを恐れて頭部を切り取るよう求めましたが、検死を担当した医師のホセ・マルティネス・カッソとモイセス・アブラム・バプティスタは「キリスト者として受け入れられない」と拒否したため、代わりに、急遽買い集められた蝋燭を材料としてデスマスクが取られます。その後、遺体から切り落とした両手の指紋から遺体が間違いなくゲバラ本人であることが確認されると、アルゲダスは内相として、ホルマリン漬けの両手とデスマスク、押収した日記の写しを保管することになりました。

 ゲバラの日記を入手したアルゲダスは、内務省技術局長で、個人的な友人でもあったリカルド・アネイバに命じて日揮を撮影させます。ついで、1968年1月、アルゲダスは新聞記者のビクトル・サニエルをチリのサンティアゴに派遣し、キューバの通信社、プレンサ・ラティーナのオフィスでゲバラの日記が撮影されたマイクロフィルムをキューバ側に渡し、それがハバナに届けられました。

 マイクロフィルムを受け取ったキューバ側は、当初、その日記の真贋については確証を持てなかったようですが、ともかくも、チェ未亡人のアレイダの協力で判読作業を開始。そこへ、3月6日、ボリビアでゲバラとともに戦っていた“ポンボ”ことハリー・ヴィエガス・タマヨらがハバナに生還。彼の日記との照合により、ボリビアからもたらされた日記が真正の写しであることが確認されました。

 ゲバラの遺著となった『ゲバラ日記』(スペイン語版の原題はEl Diario del Che en Boliviaで、直訳すると『ボリビアにおけるチェの日記』)は、こうした経緯を経て、カストロによる「なくてはならない序文」を加え、1968年6月26日に刊行されました。

 『ゲバラ日記』初版本の表紙に取り上げられたゲバラの肖像は、コルダの“英雄的ゲリラ”が元になっていることは一目瞭然だが、文字などのレイアウトの都合からか、左右が反転した“裏焼き”の状態になっています。また、顔の輪郭や鬚、帽子の星の形などから、フィッツパトリックの“英雄的ゲリラ”のイラストとは別に、キューバ側でイラストとして描き起こしたものであることもわかります。

 カストロの「なくてはならない序文」では、ゲバラが“想像を絶するほど過酷な物理的状況下”で革命ゲリラ闘争の発展のためのメモランダムとしてこの日記を書き、自らが模範的な闘士として、多くの優秀なゲリラたちを感化したことが強調されています。

 その一方で、カストロは、ボリビアとその歴史的首都のスクレの名が、ラテンアメリカ独立戦争の英雄、シモン・ボリバルとアントニオ・ホセ・ド・スクレに由来することからも、ボリビアは反帝国主義闘争において国際的に連帯することが宿命づけられているにもかかわらず、ボリビア共産党のマリオ・モンヘは狭量なセクト主義やゲバラへの嫉妬、復讐心などからボリビア人のゲリラ部隊への参加を妨害した、と批難しました。

 そして、“ヤンキー帝国主義”を批難し、米国に対抗するための国際連帯を呼び掛けるとともに、「革命運動を附帯する連携を捨て去ることは…実際にはヤンキー帝国主義と、世界を支配して隷属化しようとする政策の保持に利便するのである」として、それゆえ、ゲバラの日記を公開する必要があると説明。また、日記の公開は、チェのゲリラ闘争がボリビアのバリエントス政権に大きな打撃を与えていたことを明らかにするものであるともしています。

 そのうえで、カストロは、チェと彼の革命(の大義)が、広く国際的にも認知されていることを示すために、次のように述べています。

 チェとそのうち立てた稀有な範例は全世界で味方を増やしつつあった。彼の理想、そのイメージ、そしてその名前は、圧政と搾取の犠牲者たちが強いられた不正に抵抗する闘争の旗印となった。それは全世界の学生と知識人の間に熱烈な関心を呼び起こした。
 合衆国内でも、参加者の増大しつつある黒人(公民権)運動と進歩的学生運動が揃って、チェの人物像を彼らのものとして掲げている。公民権を要求する、あるいはヴェトナム侵略戦争に反対する最も闘争的なデモ行為において、彼のイメージは闘争のシンボルとして大々的に登場させられている。一人の人物が、一つの名前が、一例の模範像がこれほど迅速に、これほどの感動を伴い、これほどまでに全世界的な象徴として広まった例は、歴史上あったとしてもごくたまさかであり、あるいは存在しなかったかもしれない。これはチェが、今日の世界を特徴づけると共に明日の世界の目標ともなるべき国家を超えた精神を、最も純粋で最も無視無欲な形で体現しているからである。

 すでに、イタリアの出版エージェント、フェルトゥルネッリの制作した“英雄的ゲリラ”のポスターは、『ゲバラ日記』が刊行されるまでの間に100万枚以上を売り上げる大ヒット商品として全世界に拡散していました。また、それと並行して、フィッツパトリックのイラストによる“英雄的ゲリラ”も広く流布し、フランス5月革命では、学生たちは既存の体制に対する反抗の意思を示すアイコンとして“英雄的ゲリラ”を掲げ、その光景がメディアを通じて全世界に配信されていました。同様の現象は、米国内のベトナム反戦運動や公民権運動のデモ、1968年10月2日にメキシコで起きたトラテロルコ事件などにおいても観察され、“英雄的ゲリラ”は指数関数的に拡散していきました。

 したがって、『ゲバラ日記』の刊行の目的(のひとつ)が、革命勢力の国際的な連帯を呼びかけることにあるのであれば、当時の状況からして、その表紙に最もふさわしい題材は“英雄的ゲリラ”以外にはありえません。カストロのこの一文は、まさにそうした状況を説明したものだったのです。

 さて、きょうの報告では“英雄的ゲリラ”がどのように生まれ、流布していったか、そして、キューバのカストロ政権はそれをどのように活用し、“革命のキリスト”としてゲバラを神格化していったのか、さまざまな角度からお話ししてみたいと思ってます。メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも事前予約不要・・参加費無料で気楽にご参加いただけますので、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。


★★★ メディア史研究会で発表します! ★★★

 4月20日(土) 14:00から、東京・水道橋の日本大学法学部三崎町キャンパス4号館地下1階 第4会議室A(地図はこちらをご覧ください)にて開催のメディア史研究会月例会にて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の内容を中心に、「メディアとしての“英雄的ゲリラ”」と題してお話しします。

 なお、メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。

      
★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★

      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

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 太陽節
2019-04-15 Mon 01:52
 きょう(15日)は、1912年4月15日に金日成が生まれた(とされる)ことにちなんで、北朝鮮では“太陽節”の祝日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・北朝鮮国交50年

 これは、2010年にキューバが発行した“キューバ=朝鮮民主主義人民共和国外交関係50周年”の記念切手で、金日成と並ぶフィデル・カストロの写真が取り上げられています。

 キューバと朝鮮半島の関係は、1921年5月25日、1905年に仁川からメキシコへ渡った朝鮮人移民の一部が砂糖労働者としてキューバ島へ渡ったのが最初です。その後、1948年に南北両政府が発足すると、当時の親米政権は韓国と国交を樹立しましたが、1959年の革命を経て、カストロ政権は1960年8月29日、北朝鮮と国交を樹立しています。今回ご紹介の切手は、ここから起算して50周年になるのを記念して発行されました。

 1960年10月、チェ・ゲバラを団長とするキューバ外交使節団が経済支援を求めて東側諸国を歴訪しましたが、その一環として、同年12月2日、中国との協定を調印した使節団は二手に分かれ、北朝鮮と北ヴェトナムに向かいました。このうち、団長のゲバラは北朝鮮に向かい、平壌で数千の群衆に歓呼のうちに迎えられています。

 ゲバラが行き先として北朝鮮を選んだのは、以前から、読書経験を通じて北朝鮮に興味を持っていたということに加えて、当時の北朝鮮当局が、朝鮮戦争からの復興が順調に進み、経済的に韓国を凌駕していると大々的に宣伝していたという事情もあったと思われます。
 
 12月2日に平壌入りした一行は、翌3日、金日成と会見。6日には協定を調印してモスクワに戻っていますが、その慌ただしい日程の中でも、ゲバラは「(北朝鮮の)都市には何もない」、「工業は破壊され、動物は死に、一軒の家も残っていない」、「北朝鮮は死でできている国だ」と、北朝鮮の印象を書き記しています。

 1962年10月のいわゆるミサイル危機は北朝鮮にも大きな衝撃を与え、同年末の朝鮮労働党中央委員会全員会議では「国防建設と経済建設の併進路線」が採択され、1961年から開始されていた7ヵ年計画を後退させても、国防力を増強することが決定されました。当時、北朝鮮当局は“併進”の建前の下、国防建設によって国民経済を犠牲にするわけではないと強調していましたが、実際には、経済建設を犠牲にして国防建設が優先されていきます。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた写真は、1986年、カストロが平壌を訪問した際に撮影されたものです。カストロの証言によれば、当時、金日成は軍事援助として10万丁のAK-47をキューバに送っており、これに応えて、キューバはソウル五輪をボイコットし、北朝鮮が開催した第13回世界青年学生祭典に参加しています。

 また、近年では、2013年7月15日、北朝鮮の貨物船・清川江号が、キューバから北朝鮮へ向かう途中、違法薬物類を運んでいるという通報を受けたパナマ当局によって抑留され、船内を捜索した結果、25万袋のブラウン・シュガーの下にミサイル等が隠されていたことが明らかになったのは、記憶に新しいところです。これに対して、キューバは船内にあったのは北朝鮮へ修理のために送られた“旧式の武器”であると表明。たしかに、船内から発見された対空ミサイル統制装置2器、防空ミサイルの部品9本分、戦闘機MiG-212機のエンジン15基などは、いずれも20世紀半ばに製造されたソ連製のものでした。ただし、北朝鮮へのいかなる武器の持ち込みも持ち出しも国連決議に反していますから、2014年3月の国連安保理・北朝鮮制裁委員会の年次報告書では、大量の武器を搭載した北朝鮮船「清川江号」について「(安保理決議が初採択された)2006年以降、最大の武器取引だった」と指摘した上で安保理決議違反と断定しています。

 もっとも、その後も北朝鮮とキューバとの友好関係は維持されており、2016年1月には両国間でバーター協定が結ばれただけでなく、朝鮮労働党キューバ共産党の間で関係を強化するための会談が行われました。また、同年11月25日、フィデル・カストロが亡くなった際には、北朝鮮は3日間の喪に服すことを宣言し、金正日が自ら平壌のキューバ大使館を弔問に訪れています。こうしたこともあって、2018年、ラウル・カストロに代わって国家評議会議長‎に就任したミゲル・ディアス=カネルも、就任早々の外遊で北朝鮮を訪問しています。

 なお、キューバと北朝鮮の歴史的な関係については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 4月20日(土) 14:00から、東京・水道橋の日本大学法学部三崎町キャンパス4号館地下1階 第4会議室A(地図はこちらをご覧ください)にて開催のメディア史研究会月例会にて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の内容を中心に、「メディアとしての“英雄的ゲリラ”」と題してお話しします。

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 マラドーナに隠し子3人発覚
2019-03-09 Sat 14:09
 サッカー元アルゼンチン代表のディエゴ・マラドーナ氏(以下、敬称略)が、キューバで2人の女性の間にもうけた3人の子どもを認知する考えであることが、きのう(8日)、明らかになりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・マラドーナ(2015)

 これは、2015年にキューバで発行されたマラドーナの切手シートです。マラドーナについては、外貨稼ぎを目的に小国が発行する“いかがわしい切手”がいくつか発行されているほか、母国アルゼンチンの切手にも取り上げられています。キューバの場合、どちらかというと“いかがわしい切手”に近いと判断してよいのでしょうが、後述するように、マラドーナはキューバの現政権とも浅からぬ因縁がありますので、単純に“いかがわしい切手”と切り捨てるのわけにもいかなさそうです。

 ディエゴ・アルマンド・マラドーナは、1960年10月30日、アルゼンチンのブエノスアイレス州ラヌースで生まれました。アルゼンチン・リーグ史上最年少でプロデビューし、1977年に歴代最年少でアルゼンチンフル代表にデビュー。1979年にはU-20アルゼンチン代表としてFIFAワールドユース選手権で優勝して大会最優秀選手に選ばれました。FIFAワールドカップには1982年大会から4大会連続で出場しましたが、1986年に開催されたメキシコ大会では、彼の活躍により、アルゼンチン代表は2度目の優勝を果たしています。なかでも、フォークランド紛争以来の因縁となった準々決勝のイングランド戦は、相手GKピーター・シルトンと交錯したマラドーナが空中のボールを左手ではたいた“神の手”ゴールと、5人抜きドリブルでのゴールという伝説的なプレーをした試合として有名です。

 選手時代から、コカインなど違法薬物の使用が取り沙汰されていましたが、1994年のW杯では大会中のドーピング検査で陽性と判定され大会からの即時追放と15ヵ月の出場停止処分を受け、1995年10月、14年ぶりにアルゼンチンのクラブ・チーム、ボカ・ジュニアーズへ復帰しましたが、衰えは隠せず、1997年に現役を引退しました。

 マラドーナとキューバ政府との関係は、W杯優勝後の1987年7月28日、フィデル・カストロと対面したのが最初です。この時、カストロに魅せられたマラドーナは、以来、カストロの“友人”となり、1989年の自身の結婚式にはカストロを招待しただけでなく、左脚にカストロ、右肩にゲバラ(英雄的ゲリラ)の刺青を彫り込み、ゲバラを真似て両腕に時計をはめるなど、キューバへの傾倒ぶりを示しています。

 さて、マラドーナは、2000年にウルグアイ滞在中に心臓発作を起こした際、カストロを頼ってキューバの医療施設に入所。その後、コカイン中毒の治療も兼ねて、数年間、カストロの賓客として2005年ごろまでキューバに長期滞在していました。この間、マラドーナは治療のかたわら、奔放な生活を送っており、その結果として、今回報道された3人の子供が生まれたということになります。

 なお、マラドーナは2008年にアルゼンチン代表監督に就任し、2010年W杯の南米予選を辛くも突破したものの、本大会では準々決勝で敗れました。2010年7月にはコーチ陣の処遇を巡って、アルゼンチンのサッカー協会と対立して解任。その後、UAEのクラブチーム監督を経て、2018年9月、メキシコ2部のドラドス・デ・シナロアの監督に就任しています。


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 “カストロ首相”60年
2019-02-16 Sat 11:10
 1959年2月16日に、フィデル・カストロ(以下、フィデル)がキューバの首相に就任してから、きょうで60年です。というわけで、きょうはこの切手を持てきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・革命50年(フィデル首相就任)

 これは、2009年にキューバが発行した“革命50周年”の記念切手のうち、フィデルの首相就任を取り上げた1枚で、群衆を前に首相就任の演説を行うフィデルの後姿が取り上げられています。

 親米バティスタ政権打倒後の新政権についての具体的な構想が示されたのは、革命戦争前半の1957年7月、フィデルとオルトドクソ党首のラウル・チバスとキューバ国立銀行元総裁のフェリーペ・パソスの3人が、フィデルら叛乱軍M26の拠点であったシエラ・マエストラ山中で署名した「シエラ・マエストラ宣言」が最初です。

 同宣言の主な内容は、①革命市民戦線を結成し、闘争を統一、②臨時政府首班の指名、③外国の干渉排除、④軍事評議会の拒否、⑤一九四〇年憲法の復活、⑥腐敗根絶、⑦遊休地の優勝接収、などで、②の首班指名はパソスの要求によって盛り込まれたもので、パソスは自らが“大統領”になる野心を持っていました。

 その後、革命派が攻勢を強める中で、1958年8月、フィデルら反バティスタ勢力各派の代表者はマイアミでバティスタ打倒後の臨時政府首班指名についての議論を行い、マヌエル・ウルティアが大統領として推薦されました。ウルティアは元最高裁判事で、1953年のモンカダ兵営襲撃事件後のフィデルに対する裁判で、非常事態下にあっては武装抵抗も憲法上容認されうるとの判断を示したことがあり、フィデルら叛乱軍のみならず、既成政党の支持者にも受け入れやすい人物でした。

 こうした経緯を経て、1959年1月1日、バティスタ政権が崩壊すると、マイアミでの協議に基づき、ウルティアが大統領就任を宣誓。4日にはハバナで臨時革命政府が樹立され、翌5日には全国弁護士会会長のミロ・カルドを首相とする新内閣が発足し、M26からはアルマンド・ハーツ(教育相)とファウスティーノ・ペレス(不正取得資産回復担当相)が入閣しました。

 バティスタ政権打倒の最大の功労者は、いうまでもなく、フィデルらM26でしたが、革命当初の臨時革命政府では、バティスタ政権時代の教訓から、「軍人は政治には介入してはならない」としてシビリアン・コントロールの原則を守るため、フィデルらゲリラの主要メンバーはあえて政府に参加しませんでした。ちなみに、この時点でのフィデルの立場はキューバ人民軍総司令官です。

 これに対して、一方、首相のカルドナは、もともと、最後までバティスタとの話し合いによる政権交代を目指していた“穏健派”であり、対米協調路線の維持を主張するなど、フィデルらM26とはかなりの温度差がありました。

 このため、新政権内部での主導権を確保しようとしたカルドナは、1月17日、大統領のウルティアが慰留することを想定して辞表を提出し、大統領とM26に揺さぶりをかけます。ところが、政治的な駆け引きの機微に疎いウルティアは辞表を受理してしまい、あわてた大統領秘書官がカルドナに辞表を返却し、辞任劇はひとまず収まるという一幕がありました。

 こうした政治的混乱もあって、M26を中心にフィデルの首相就任を求める声が上がり、2月7日、フィデルと大衆デモの圧力に押されたカルドナ政権は国民議会を解散せざるを得なくなります。なお、これを機に、1976年までキューバでは選挙が実施されなくなりましたので、事情はどうあれ、革命キューバは議会制民主主義国家ではなくなりました。
 
 そのうえで、2月16日、フィデルは「首相は政府の全般的政策を代表する」との条件つきで首相に就任。以後、2008年まで続くフィデルの超長期政権がスタートするのです。

 なお、2月25日付で刊行の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、その後のフィデルと革命キューバについて詳しくご説明しております。機会がありましたら、ぜひ、実物を手にとってご覧いただけると幸いです。


★★ 2月22日、文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★★

 2月22日(金)05:00~  文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がゲスト・コメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 2月25日発売!★★

      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


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 ビートルズの日
2019-02-04 Mon 01:18
 きょう(4日)は、ザ・ビートルズの愛称“Fab4 (fabulous four:伝説的な 4人)”と2月4日の“Feb4”をかけて、“ビートルズの日”だそうです。というわけで、ビートルズ関連の切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ ジョン・レノン

 これは、2016年3月、ハバナで開催された切手展<Copa Cuba de Filatelia >に際して発行された、キューバ国内の著名人の銅像を題材とした記念切手のうち、ビートルズのメンバーの写真を背景に、ハバナ市内のジョン・レノン像を取り上げた1枚です。

 キューアとジョン・レノンとの関係といえば、しばしば、ジョン・レノンが“ハイスクール時代”を回想して「あのころ世界で一番カッコいいのがエルネスト・チェ・ゲバラだった」と語ったとのエピソードが紹介されていますが、これは歴史的な事実関係とは若干の齟齬があります。

 すなわち、ジョンは、1958年9月に日本の中学・高校に相当するグラマー・スクールのクオリー・バンク校を卒業し、リバプール・カレッジ・オブ・アートに入学していますが、この時点では、キューバは依然としてバティスタ政権の支配下にありました。そして、1959年1月にキューバ革命が達せられたときには、ジョンは同カレッジに在学中でした。ちなみに、ジョンが同カレッジを卒業するのは、1960年7月のことです。

 一方、ゲバラは、革命戦争の時代からキューバ国内では知られた存在でしたが、1959年1月の革命達成の時点では世界的にはほぼ無名の存在でした。たとえば、米国のグラフ誌『ライフ』にゲバラが初めて登場するのは、ソ連副首相のミコヤンがキューバを訪問し、キューバ政府の要人が出迎える場面を撮影した写真が掲載された1960年2月22日号でしたが、この時の写真には、閣僚の一人としてゲバラの姿も写っているものの、キャプションにも本文記事にも彼の名前はありません。

 欧州において、ゲバラの名前を特定したうえで、彼の肖像が流布するようになったのは、英誌『タイム』の1960年8月号の表紙が最初で、それまでの英国社会では、よほど強い関心を持ってキューバ情勢をフォローしていない限り、ゲバラの名前を知っている人はごくわずかでした。大半の英国人は件の『タイム』の表紙でゲバラのことを知ったというのが実情で、おそらく、ジョンもゲバラのことを知ったのは、カレッジの卒業前後に発行された『タイム』の表紙だったと考えるのが自然でしょう。まぁ、人間の記憶なんて曖昧なものだと言ってしまえばそれまでですが…。

 なお、ゲバラのことを“世界で一番カッコいい”と評したジョンの発言が広く巷間に流布していたこともあってか、2000年12月、ジョンの没後20周年を記念してハバナ市内にジョン・レノン公園が開設され、現代キューバを代表する彫刻家のホセ・ビージャ・ソベロンによる銅像(今回ご紹介の切手の銅像です)が設置されました。

 かつて、共産主義諸国ではビートルズは“頽廃的な西側の商業音楽の典型”として、公の場での演奏などは忌避されていましたが、ジョンの場合は、ベトナム反戦運動へのシンパシーや、代表作の一つとされる『イマジン』が左派リベラル色の強い“反戦歌”となっていることも考慮されて、キューバ政府の評価は悪くありません。ちなみに、ジョンの像が腰かけているベンチには、「人は僕を夢見る人というかもしれない。けれどそれは僕だけじゃない」という「イマジン」のフレーズが刻まれています。

 また、フィデル・カストロの側近で、革命後のキューバ外交の第一線でキャリアを積み、国連大使、外相などを歴任し、銅像が設置された2000年当時は人民権力全国会議(国会)議長の地位にあったリカルド・アラルコンは、個人的にジョンのファンだったそうです。

 今回ご紹介の切手の銅像は、こうした事情に加え、“(ゲバラは)世界で一番カッコいい”との発言が“革命のキリスト”としてのゲバラの神格化を補強する役割を果たしていることも加味して設置されたものと考えられます。

 さて、2月25日に刊行予定の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、そうしたジョン・レノンとキューバの関係についてもご説明しております。すでにアマゾンなど一部のネット書店では予約販売も始まっておりますが、実物が出来上がってきましたら、あらためて、このブログでもご報告いたしますので、よろしくお願いいたします。 


★★  内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 2月25日発売!★★

      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

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 苺の日
2019-01-15 Tue 12:54
 きょう(15日)は、“いいいちご(115)”の語呂合わせで“苺の日”です。というわけで、きょうは苺ネタのなかから、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・苺とチョコレート

 これは、2009年、革命後の全キューバ映画の制作・上映を管理してきたキューバ芸術・映画産業庁(ICAIC)の創立50年を記念して発行された“キューバ映画”の切手のうち、1994年に公開のキューバ・メキシコ・スペイン合作映画『苺とチョコレート』を取り上げた切手シートです。

 『苺とチョコレート』は、共産主義青年同盟(UJS)のメンバーで、(キューバ式)共産主義を信奉する男子学生ダビドと自由主義者で(自称)芸術家のゲイ男性ディエゴとの友情が主題になっています。

 物語は、ハバナのカフェでダビドがチョコレートアイスを食べている時、苺アイスを持ったディエゴから「君のスキャンダル写真を持っている」と声をかけられるところから始まります。写真を返してもらいたいダビドは、しぶしぶ、ディエゴのアパートに向かうと、彼の部屋には、ダビドが理解できないような奇妙な物が並べられており、ディエゴの自由主義的な思想や態度とあいまって、ダビドはおおいに不審を抱きます。学生寮に戻った彼は、UJSの友人ミゲルに相談し、ディエゴを“同性愛者のスパイ”とみなして監視のためにつき合うようになりました。

 しかし、ダビドは、やがて、インテリであり、純粋で温かい人柄と芸術への熱意の持ち主であるディエゴに理解を示し、真の友情をはぐくみますが、最終的に、ディエゴは“同性愛者”として国を追われることになります。そして、2人は彼らが最初に出会ったカフェでお互いのチョコレートアイスとイチゴアイスを交換して食べる場面で幕となります。

 革命当初、カストロ、ゲバラ以下、同性愛(者)を激しく嫌悪していた政府首脳部は、カトリックの価値観を背景に同性愛に対する差別感情が強かった一般市民の支持も得て、同性愛を刑法の規定する“公的破廉恥行為”として処罰の対象としていました。その結果、同性愛者であることが発覚した者は矯正センターに送られて再教育されたり、亡命を余儀なくされることも少なくありませんでした。

 1981年になって、ようやく、文化省が“性の多様性”の観点から、同性愛の排斥を非とする声明を発し、1993年にはカストロも同性愛を(消極的に)容認する姿勢を示すようになったものの、現在なお、キューバでは同性愛者に対する有形無形の差別・迫害は根強く残っているとされています。

 映画『苺とチョコレート』はそうした社会的な背景の下で制作されたもので、各種の国際映画賞でも高い評価を得て、現代キューバを代表する映画作品と見なされるようになり、その結果として、今回ご紹介の切手シートにも取り上げられたというわけです。

 ところで、切手シートには映画の内容を紹介するため、4つの場面が取り上げられていますが、右下には、ダビド役のウラディミール・クルスが「英雄的ゲリラ」の掲げられた部屋にいる場面が取り上げられている点も見逃せません。(下にその部分をトリミングして貼っておきます)

      キューバ・苺とチョコレート

 ここでの「英雄的ゲリラ」は、ダビドがUJSのメンバーであり、キューバ政府の考える“正しき青年”であり、確固たる共産主義者であることを暗示する小道具として用いられているのは明らかで、ゲバラの死後、“革命のキリスト像”ともいうべき「英雄的ゲリラ」がどのようにキューバ社会で活用されてきたかを考えるうえで、なかなか興味深いものがあります。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、ゲバラの死後、彼の肖像がどのように使われ、定着していったかということについてもまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いします。


★★ 昭和12年学会・第1回公開研究会 ★★

 1月19日(土)、14:00-17:30、東京・神保町のハロー貸会議室 神保町で、昭和12年学会の第1回公開研究会が開催されます。内藤は、チャンネルくららでおなじみの柏原竜一先生とともに登壇し、「昭和切手の発行」(仮題)としてお話しする予定です。

 参加費は、会員が1000円、非会員が3000円。皆様、よろしくお願いします。 


★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★

      表紙帯つき 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 

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 グランマ号上陸の日
2018-12-02 Sun 06:40
 きょう(2日)は、1956年12月2日にフィデル・カストロらがグランマ号でキューバ島に上陸し、キューバ革命戦争の火ぶたを切った記念日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・グランマ号航路

 これは、2016年に発行された“グランマ号上陸60周年”の記念切手で、グランマ号とその航路の地図が描かれています。

 1955年夏、メキシコでエルネスト・チェ・ゲバラを加えたフィデル・カストロら7月26日運動(M26)の同志たちは、1956年3月のキューバ島再上陸をめざして本格的な準備を開始しました。

 リーダーのフィデルは、ホセ・マルティの先例に倣い、1955年10月、ニューヨーク、テキサス、マイアミ、コスタリカなどを回り、アウテンティコ党やオルトドクソ党とも協力関係を築き、反バティスタの在外キューバ人の組織化と資金の調達に努めるとともに、モンカダ兵営の襲撃事件を“冒険主義”と批判していた人民社会党の一部とも連携を始めます。

 これとほぼ時を同じくして、ゲバラは他のキューバ人メンバーとともに、スペイン内戦・共和派の勇士、アルベルト・バーヨ将軍の指導の下、ゲリラ戦の訓練に参加していました。1955年の時点で、バーヨはすでに63歳でしたが、フィデルの理想に共鳴してM26の教官を引き受け、サンタ・ロサの農場で銃器の扱い方をはじめ、ゲリラ戦の基礎から教育します。

 バーヨの訓練は厳しく、サンタ・ロサでは落伍者が続出。また、参加者の中には、敵と内通し、通信設備や武器を横流しし、その金を持って消えてしまう者さえいました。

 さらに、フィデルによる資金の調達も困難を極めており、1956年3月の上陸作戦計画は予定通りには進まず、大幅に遅れます。

 一方、キューバのバティスタ政権は、フィデルがメキシコに到着した時点からフィデルを殺害するため、現地のキューバ大使館付き武官が一万ドルを支払って殺し屋を雇っていましたが、この計画は失敗。このため、キューバ大使館はメキシコ当局に接近して関係者を買収し、フィデルらM26メンバーの居場所を突き止めたり、彼を告発したりするよう依頼します。

 この結果、1956年6月20日、交通違反を理由にフィデルの車が捜索を受け、武器が積まれていたことを理由にフィデルらは部金不法所持で逮捕され、同25日にはゲバラも逮捕されてしまいました。

 その後、フィデルらはメキシコ元大統領のカルデナスの仲介により1ヶ月ほどで釈放されたものの、ゲバラは密入国のアルゼンチン人で、しかも、共産主義者と見なされたため拘留が長期化します。

 官憲による逮捕の可能性を予期していたゲバラは、自分が逮捕された場合には、M26の同志は自分を置き去りにしてキューバへ向けて出発してほしいとフィデルに語っていましたが、7月25日に釈放されたフィデルはゲバラを決して見捨てず、あらゆる手段を惜しまずにチェの釈放に奔走。その甲斐あって、ゲバラは57日間の拘留の後、8月半ばに釈放されました。ゲバラの釈放には10日以内に出国することとの条件が付けられていたため、以後、彼は地下活動に入ります。

 一方、フィデルは、この頃、知人のエル・クアーテ・コンデかた“グランマ”という名の古いヨットを購入します。ヨットは1943年製で、定員は12人、無理をすれば何とか20人は乗れるという規模でしたが、竜骨は前年のハリケーンで壊れていました。

 そうしている間にも、M26に対するバティスタ政権の包囲網は日を追って狭められ、彼らがそのままメキシコで訓練を続けることは次第に困難になっていました。さらに、11月半ばにはメキシコ警察がM26の隠れ家二ヵ所を発見して武器を押収し、主要メンバーの1人であったペドロ・ミレーが逮捕されます。また、21日にはM26が訓練拠点としていたアバソーロの牧場からメンバー2人が脱走し、遠征計画が外部に漏れる危険が生じました。

 このため、翌22日、フィデルは急遽、各地の同志に動員令を発し、ゲバラも寝ていたベッドや飲みかけのマテ茶もそのままに、また、喘息の持病を抱える身として必携の吸入器さえ持たずに出発しました。

 こうして、11月24日、グランマ号が係留されていたトゥスパンに遠征隊員が終結。翌25日午前2時頃、フィデルが「1956年、我々は自由を勝ち取るか、さもなくば殉教者となるであろう」と力強く宣言し、55丁の銃と82人の隊員がグランマ号に乗り込み、大雨と大風の荒天の中、キューバ島東部の二ケーロへ向けて出発しました。

 当初、M26の立てた計画では、11月30日にフィデルがニケーロに上陸し、反バティスタの農民兵百人と合流したうえで、マンサニージョからシエラ・マエストラの山中を拠点にゲリラ戦を展開。これに呼応して、フランク・パイスがサンティアゴ・デ・クーバで蜂起するという段取りになっていました。

 このため、グランマ号は夜陰に乗じてユカタン半島沿いを進み、沿岸警備隊に発見されないよう、なるべく早くメキシコの領海外へ出て、ジャマイカに沿って迂回し、ニケーロ周辺の海岸に到着するコースを予定していましたが、もともと老朽化していた船はエンジントラブルに加え、重量の大幅な超過と悪天候、さらに、ほとんどの遠征隊員が当初は船酔いでまったく活動できなかったことなどが重なり、予定の30日になっても海上を漂うばかりでキューバ島は全く見えませんでした。

 本来であれば、ここでフィデルらはフランクに上陸が遅れることを知らせ、作戦を中止すべきでしたが、グランマ号には発信機はなく、フランクにはメキシコ出航時に無時出発した旨の電報が送られたきりだったため、11月30日、サンティアゴ・デ・クーバでは事前の打ち合わせ通りに武装蜂起が発生し、これに呼応して、キューバ内の他の都市でも発砲事件などが散発的に発生。しかし、ニケーロにいるべきフィデルらは依然としてメキシコ湾上におり、同時蜂起とはならなかったため、政府軍は兵力をサンティアゴ・デ・クーバに集中し、叛乱はほどなく鎮圧されてしまいました。

 また、ただでさえ、理想主義者のフィデルは、革命の政治的効果を狙って、メキシコ出発前にグランマ号でのキューバ遠征に向かうとの声明を発表しており、バティスタ政権側に迎撃の準備を整える余裕を与えていましたが、到着がさらに遅れたことで、グランマ号が予定通りニケーロに向かうことは完全な自殺行為となってしまいました。このため、彼らは行き先をニケーロ南西部のラス・コロラダスの海岸に変更し、そこから、トラックを奪ってシエラ・マエストラに向かうことになります。

 結局、彼らがキューバ島に到着したのは、12月2日の明け方のことで、到着場所はラス・コロラダス海岸の予定地点から二キロ離れた地点でした。

 ラス・コロラダス海岸に到着した一行はグランマ号から降りて、胸まで水に浸かりながらマングローブの海を進み、ようやくキューバ島への上陸を果たします。しかし、飛行機を通じて“不審船”の動きを探知していたバティスタ政府は、砂糖キビの食べかすなどから叛乱軍の足跡をたどり、12月5日の昼頃、アレグリーア・デル・ピノで反乱軍を迎撃。こうして、キューバの革命戦争が始まりました。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、キューバ革命に関する切手も多数ご紹介しております。フィデルのM26のキューバ島上陸計画に倣ったわけではないのですが、諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りです。正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。


★★ トークイベント・講演のご案内 ★★

 以下のスケジュールで、トークイベント・講演を行いますので、よろしくお願いします。(詳細は、イベント名をクリックしてリンク先の主催者サイト等をご覧ください)

 12月9日(日) 東海郵趣連盟切手展 於・名古屋市市政資料館 
 午前中 「韓国現代史と切手」

 12月16日(日) 武蔵野大学日曜講演会 於・武蔵野大学武蔵野キャンパス
 10:00-11:30 「切手と仏教」 予約不要・聴講無料


★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★

      表紙帯つき 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 
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 本日、トークやります。
2018-11-16 Fri 00:35
 かねてご案内の通り、本日(16日)15:30より、東京・浅草で開催の全国切手展<JAPEX 2018>会場内で、近日刊行予定の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の事前プロモーションのトークイベントを行います。というわけで、その予告編として、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます。なお、イベントの詳細は主催者HPをご覧ください)

      キューバ・クーブル号事件

 これは、2015年にキューバが発行した“クーブル号事件55周年”の記念切手で、左側に爆発するクーブル号、右側に抗議デモの光景(左端がフィデル・カストロ、中央がチェ・ゲバラです)が取り上げられています。

 1959年のキューバ革命以前、米国の“裏庭”であるラテンアメリカ諸国では、ソ連と外交関係を結ぶことはおろか、経済的な関係を持つことさえタブー視されていました。このため、革命後の土地改革を経て米国との関係が悪化したキューバがソ連の貿易協定調印を目の当たりにした米国は、キューバがついに“赤化”したと判断し、カストロ政権打倒のための経済封鎖に着手。直ちに、キューバからの果実輸入を禁止するとともに、砂糖の割当カットないしは全面禁輸の用意があることを明らかにし、キューバに揺さぶりをかけました。

 こうして事態が緊迫する中、1960年3月4日、ハバナ港で、ベルギーから購入した武器を積んでいたフランスの貨物船クーブル号で、船荷の下に仕掛けられた地雷が爆発。さらに、埠頭も爆破で破壊され、港湾労働者75人が即死し、負傷者も200人に達しました。その後、事件はCIAの“作戦40”によるものであったことが明らかになっています。

 事件当日、国立銀行総裁の地位にあったゲバラは公用車で国立銀行に向かう途中で港の方から立ち上る煙に気づくと、急遽、運転手に命じて現場に駆け付け、居合わせた市民に指示を与えるとともに、自らも先頭に立って被災者の救助活動に当たりました。しかし、彼らの奮闘むなしく、即死を含め、多くの労働者が治療の甲斐なく亡くなりました。

 翌5日、ハバナ市内ベダド地区中心部の交差点に巨大な演壇が組まれ、事件に対する抗議のデモ行進に続き、追悼集会が始まりました。ゲバラは政府要人の一人として式典に参加し、ひな壇二列目の席に座っていましたが、途中、集まった群衆と犠牲者の棺の列を確認するかのように立ち上がった瞬間、『レボルシオン』の専属カメラマンだったアルベルト・コルダが撮影した写真は、後に「英雄的ゲリラ」として全世界に知られることになる一枚となります。

 クーブル号の爆発事件は、米西戦争の発端となった1898年2月のメイン号事件を想起させるものでした。カストロはこのことを踏まえ、追悼式典で「キューバは決してひるまない。キューバは退かない。革命の妨害は許さない。革命派勝利に向かって進むのだ」と獅子吼し、米国を仇敵と名指ししたうえで、「祖国か死か!勝利するのだ」との有名なスローガンを叫びました。また、追悼式典には、偶然、キューバ訪問中だったジャン・ポール・サルトルとシモーヌ・ドゥ・ボーヴォワールも、殉職したフランス人船員を弔うため、急遽フランス代表として参列しています。

 今回のトークでは、クーブル号事件の追悼式典で撮影されたコルダの写真が「英雄的ゲリラ」の名で全世界に拡散していった背景などにも触れつつ、波乱に満ちたゲバラの生涯とキューバ革命についても、お話ししたいと考えています。ぜひ、1人でも多くの方にご参加いただけると幸いです。


★★ トークイベント・講演のご案内 ★★

 以下のスケジュールで、トークイベント・講演を行いますので、よろしくお願いします。(詳細は、イベント名をクリックしてリンク先の主催者サイト等をご覧ください)

 11月16日(金) 全国切手展<JAPEX 2018> 於・都立産業貿易センター台東館
 15:30- 「チェ・ゲバラとキューバ革命」 *切手展の入場料が必要です

 12月9日(日) 東海郵趣連盟切手展 於・名古屋市市政資料館 
 午前中 「韓国現代史と切手」

 12月16日(日) 武蔵野大学日曜講演会 於・武蔵野大学武蔵野キャンパス
 10:00-11:30 「切手と仏教」 予約不要・聴講無料


★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★

      表紙帯つき 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 
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