2020-07-31 Fri 01:22
台湾の李登輝元総統が、きのう(30日)午後7時24分ごろ、台北市内の病院で亡くなりました。享年98歳。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1996年、台湾が発行した“第9代総統・副総統就任”の記念切手で、青天白日旗を背景に、李登輝総統(左)と連戦副総統がデザインされています。 李登輝総統(以下、敬称略)は、1923年1月15日、日本統治時代の台北州淡水郡三芝庄(現・新北市三芝区)で客家の警察官の家に生まれました。淡江中学校、台北高等学校を経て、1943年10月、京都帝国大学農学部農業経済学科に進学。1944年に学徒出陣で出征し、名古屋の高射砲部隊の陸軍少尉として名古屋で終戦を迎えました。この間、台北高等学校時代に、改姓名運動を受けて、“岩里政男”の日本名を名乗っています。 日本が台湾を撤退した後の1946年春に台湾へ帰り、台湾大学農学部農業経済学科に編入学。内省人で日本の軍歴もあった李は、1948年の228事件では危うく難を逃れ、1949年、台湾大学を卒業し、同大学農学部の助手となります。1952年に米アイオワ州立大学に留学し、翌1953年、農業経済学の修士号を得て台湾に帰国。以後、台湾省農林庁技正(技師)兼農業経済分析係長、短腕大学講師に就任したのを皮切りに、農業テクノクラートおよび研究職として実績を重ねていきます。 1965-68年、米コーネル大学に留学し、農業経済学の博士号を取得。帰国後は、台湾大学教授兼中国農業復興聯合委員會(農復会)の技正(技師)となりましたが、米国留学中、後に蒋経国暗殺未遂事件を起こす黄文雄・鄭自才との交流があったことから、1969年6月、警備総部の取調べを受けました。後年、李登輝はこのときの経験から台湾人を白色テロの恐怖から救うことを決心したと語っています。 1971年、農復会の上司であった沈宗瀚が農業専門家として蒋経国の知遇を得ると、そのつながりで、同年10月、経済学者の王作栄の紹介により国民党に入党。1972年に蒋経国が行政院長に就任すると、李登輝は49歳の若さて政務委員(閣僚に相当)に抜擢され、以降6年間、農業専門の行政院政務委員として活動しました。 1978年、蒋経国が総統に就任すると、李登輝は台北市長に任命され、台北芸術祭の開催や台北の水源となる翡翠ダムの建設などの実績を上げ、1981年には台湾省主席に任命されます。省主席としては「八万農業大軍」を提唱し、農業の発展と稲作転作などの政策を推進。そうした実績を買われ、1984年、蒋経国により副総統に抜されました。 1988年1月13日、蒋経国が亡くなると、李登輝は主席代行に就任。同年7月、国民党代表大会で正式に党主席に就任します。当初、李登輝の政権基盤は脆弱でしたが、1989年、国民党秘書長の李煥が行政院長(首相に相当)に就任すると、後任の秘書長に自派の宋楚瑜を任命して党内の主導権を掌握。1990年3月21日の総統選挙では、党内の反李登輝派を抑えて総統府秘書長の李元簇を副総統候補とし、2人は総統・副総統に選出されます。 総統再任後の李登輝は、1991年5月、戒厳体制を完全解除するとともに、中華民国憲法を改正。これにより国民大会と立法院を解散し、1949年以来の“万年議員”は全員退職することになりました。さらに、1991年6月、李煥に代わって国防部長の郝柏村を行政院長に指名。その際、郝を軍から退役させたことで、李登輝は軍の主導権を掌握することに成功。さらに、1993年に郝が行政院長を辞任すると、側近の連戦を行政院長に据えて行政院の主導権も握り、権力基盤を固めたうえで、より一層の民主化を推進し、1996年には初めての総統直接選挙を実現。連戦とのコンビで当選を果たし、台湾史上初の民選総統として第9期総統に就任しました。今回ご紹介の切手は、これを記念して発行されたものです。 台湾での総統直接選挙に対して、中華人民共和国(以下、中共)は台湾の独立を推進するものと反発し、選挙に合わせて軍事演習を実施し、ミサイル発射実験を行うなどの威嚇行動に出ましたが(第三次台湾海峡危機)、米国が2隻の航空母艦を台湾海峡に派遣して中共を牽制。以後、李登輝は“台湾独立”の方向へと舵を切っていきます。 その象徴となったのが“台湾省”問題でした。 1949年、台湾に逃げ込んだ中国国民政府(国府)は“大陸反攻”を呼号し、みずからが中国を代表する正統政権であると主張していましたが、この“中国”政府は、福建省沿岸の小島を除くと、中央政府と地方政府である台湾省政府の管轄が同じという異常な構造になっていました。 このため、台北への“遷都”早々、国府は台湾での“地方自治”を実施し、県・市長を公選として県議会を開設したものの、省主席は官選という体裁を取っていました。これは、中華民国総統(当時は蒋介石)が住民によって直接選挙されないのに、台湾省主席が公選されると、台湾の人々にとっては省主席が総統より政治的な正統性を持ってしまうからです。“中央”と“地方”がほぼ同じサイズである以上、蒋介石としては、台湾省主席が自分よりも権威を有することを認めるわけにはいかないので、中華民国と台湾省とのいわば二重行政が長らく続いていたのです。 これに対して、1996年、住民の直接投票によって総統に選出された李登輝には、そうした二重行政を維持する必要はなくっただけでなく、むしろ、中共の軍事的脅威に対して、独立国としての台湾の国際的地位を確保することのほうが現実に即してより重要になったことから、1997年の憲法改正では地方政府としての台湾省の機能は停止(台湾の本土化)され、中華民国政府が台湾政府であることが明確になりました。 2000年の総統選挙では副総統の連戦を後継者として支援したものの、国民党からは宋楚瑜が離党して立候補し、国民党票が分裂したことから、民主進歩党(民進党)候補の陳水扁が当選。このため、野党に転落した国民党内部からは李登輝の責任を問う声が高まり、2000年3月、国民党主席職を辞任しています。 総統退任後は、台湾独立の立場をより明確にし、「“中華民国”は国際社会で既に存在しておらず、台湾は速やかに正名を定めるべき」と主張する台湾正名運動を展開。2001年7月、国民党内の本土派と台湾独立派活動家と共に「台湾団結連盟」を結成し、独立運動の精神的な指導者として、現在に至るまで大きな存在感を示し続けていました。 謹んで、御冥福をお祈りします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-30 Thu 02:08
新型コロナウイルスの感染防止対策をほとんど行わずに話題となっていたベラルーシのルカシェンコ大統領は、28日、ベラルーシ内務省国内軍を前に演説し、「諸君はコロナウイルスを乗り越えた男に会っているのだ」と述べ、具体的な時期には言及しなかったものの、自らが感染していたことを明らかにしたそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2018年2月14日、ベラルーシが発行した“ベラルーシ内務省国内軍100年”の記念切手です。 現在のベラルーシに相当する地域は、ロシア革命以前はロシア帝国の版図でしたが、ロシア革命の混乱の中でドイツ軍に占領され、翌1918年3月のブレスト=リトフスク条約(ロシア革命政府とでドイツとの単独講和条約)により、ベラルーシ人民共和国の樹立が決められました。今回ご紹介の国内軍はこれに伴って組織されたのが起源です。なお、人民共和国は1919年1月の赤軍の侵攻により崩壊し、ベラルーシはソヴィエト政権に吸収されますが、ソ連末期の1991年に独立します。 1991年11月28日、ベラルーシに駐留していたソ連内務省国内軍第43師団はベラルーシ内務省に移管され、ベラルーシ内務省国内軍第43師団に改称。翌1992年3月24日、同師団は、ベラルーシ共和国内務省国内軍に改編されました。なお、ベラルーシ内務省国内軍は、その名の通り、内務省に所属する軍事組織で、公共秩序の維持、重要施設の警備など、純粋な国内軍事作戦を任務としており、構成員の身分は軍人です。 さて、ルカシェンコ大統領といえば、新型コロナウイルスは存在しないとの立場から、ウイルスは集団“精神疾患”であると一蹴したうえで、サウナやウオツカでウイルスを退治できると主張。対策を講じることを拒否し、自らがそれまで通りの公務を続け、5月には毎年恒例の軍事パレードを実施したほか、政府の会合や趣味のホッケーも以前と同じように、マスクなどの予防措置を講じることなく続けていました。 しかし、実際にはベラルーシ国内でも多数の感染者が報告されており(米ジョンズ・ホプキンス大学の統計によると、7月28日までに報告された症例数は6万7366例、死者は548人。ちなみに、ベラルーシの人口は950万人)、外出制限など十分な対策をとっていないことに対して、国民からは批判の声が上がっていました。 今回、内務省国内軍を前にした演説で、ルカシェンコは、「諸君はコロナウイルスを乗り越えた男に会っているのだ」と語り、「(新型コロナウイルスの)症状はなかった」が、「医師が昨日そういう(感染していたとの)結論を下した」と説明。さらに、具体的な根拠を示さないまま「我が国では97%の国民が症状なしに感染を経験している」などと話し、「私もその仲間になれたということだ」などと放言したそうです。 現在、ルカシェンコ政権は、来月9日の大統領選挙でのルカシェンコ6選を目指し、有力な立候補予定者の届け出を相次いで却下するなど強権的な手法をとっており、これに対する抗議行動が相次いでいますが、今回、大統領が存在しないと主張し続けていたウイルスに自ら感染していたことを平然と明らかにしたことで、今後、内外の批判が強まることは必至の状況です。 *昨日(29日)、アクセスカウンターが222万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-29 Wed 01:29
ニュージーランドの裁判所は、27日、同国在住のサモア人首長、ジョセフ・マタマタ被告に対し、25年もの長きにわたり、サモア出身の労働者を奴隷として搾取したとして禁錮11年と約1300万円の賠償金支払いを命じました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第一次大戦中の1914年、ニュージーランドによる占領直後のサモアで発行された“GRI”加刷切手です。 サモア諸島は1722年にオランダ人の探検家ヤーコプ・ロッヘフェーンが“発見”した後、1830年、英国人宣教師が布教活動を開始し、西洋人の往来が本格化します。 1857年、ハンブルクのゴーデフフロイ商会はサモアを拠点に、南洋各地との貿易を開始。これに続いて、米英もサモアに拠点を置くようになり、1878年には米国が海軍の石炭供給基地として東サモアのパゴパゴを併合します。さらに、1888年、サモアで大規模な部族間抗争が発生すると、英米独の各国はこれに介入。翌1889年のベルリン協定でサモアに関しては英米独3国の権益を制限し、島民の自治を認めることになりました。 さらに、1898年の米西戦争で敗北したスペインは、南太平洋上の領土のうち、グアムを米国に割譲しましたが、残りの南洋群島に関しては、1899年2月8日、ドイツに2500万ペセタ(1675万マルク)で売却。これにより、同年6月、カロリン諸島はドイツ・ニューギニア保護領の一部となり、以後、第一次世界大戦までドイツの支配下に置かれます。 こうしたドイツ領ニューギニアの拡大を受けて、南太平洋諸島に権益を有していた英独米の3国が交渉を行い、①ドイツが西経171度以西の西サモアを、米国が子午線以東の東サモアを領有し、英国はサモア諸島の権益を放棄する、②ショートランド島とブーゲンヴィル島の間に境界線を引き、ドイツはソロモン諸島から撤退し、英国がトンガ諸島とソロモン諸島を領有することで合意が成立。これにより、1900年3月1日、ドイツはサモア(西サモア)の統治を開始しました。 その後、ドイツは第一次大戦までサモアを支配しましたが、大戦勃発後の1914年8月29日、ニュージーランド軍がイギリス軍、フランス軍、オーストラリア軍の援護を受けてドイツ領サモアを占領。今回ご紹介の切手はこれに伴い、ドイツ領時代の切手を接収し、英国王ジョージ5世の統治を示す“GRI(=Georgius Rex Imperator)”の文字を加刷して発行されたものです。 大戦後の1919年、ヴェルサイユ条約により西サモアはニュージーランドの委任統治領となり、1962年に立憲君主国(4つの大首長家から国家元首の大首長を選挙で選ぶ選挙王制)として独立しました。当初の国名は“西サモア”でしたが、1997年、“サモア独立国”に改称され、現在に至っています。 さて、こうした歴史的な経緯もあって、ニュージーランドはサモアから、農作物の収穫などの季節労働での出稼ぎ労働者を受け入れてきました。 今回、有罪判決を受けたマタマタ被告は、サモアでは“マタイ(首長)”としれ人々から信頼されている立場を悪用し、十分な報酬を約束してサモアから労働者をニュージーランドに呼び寄せながら、ニュージーランド入国後には暴力を振るい、農場や被告の自宅で無給労働を強制していたとされています。すでに、同被告は、ことし5月、13件の奴隷関連の罪と10件の人身売買の罪で有罪となっており、その判決を受けて、今回、禁錮11年と被害者13人への18万3000ニュージーランドドル(約1300万円)の賠償金支払いが命じられました。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-28 Tue 02:21
カリブ海のフランス海外県、マルティニーク島で、“反人種差別”を標榜する活動家らが皇帝ナポレオンの皇后、ジョゼフィーヌの像を破壊しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、今回破壊されたマルティニークのジョゼフィーヌ像を取り上げた絵葉書で、1906年、マルティニークの県都、フォール=ド=フランスからパリ宛に郵送されたものです。ちなみに、絵葉書の裏面はこんな感じになっています。 マルティニークは、西インド諸島のウィンドワード諸島に属する火山島で、ドミニカ国の南、セントルシアの北に位置しています。 1635年、マルティニーク島を領有したフランスは、アフリカから黒人奴隷を導入して砂糖のプランテーションを行い、莫大な利益を上げます。後にナポレオン・ボナパルトと結婚するジョゼフィーヌ・ド・ボアルネは、1763年、マルティニークの貧乏貴族の家に生まれました。 1789年にフランス革命が勃発すると、1791年には黒人奴隷の叛乱が発生しますが、叛乱を鎮圧した王党派の白人は革命政府の支配を嫌って英領となることを選択し、1794年から1802年まで、マルティニークは英国の占領下に置かれます。ナポレオンとジョゼフィーヌの結婚はこの間の1796年のことでした。 ところで、フランス本国では革命後の1794年に奴隷制が廃止されましたが、英国の支配下にあったマルティニークでは従来通り奴隷制は事実上維持されていました。1802年、マルティニークはフランスに返還されましたが、折から、ハイチでは独立戦争が展開されていたこともあって、プランテーションの経営を維持するため、マルティニークでの奴隷制はごく短期間の中断を除いて継続され、その他の西インド諸島のフランス植民地でも奴隷制が復活します。 ところが、1802年、第一統領の地位にあったナポレオンの妻、ジョゼフィーヌがマルティニークの出身であったことから、彼女が実家や知人に有利になるよう夫を説得して、植民地での奴隷制を復活させたとの噂が広まり、それがそのまま俗説として定着してしまいました。 さて、ジョゼフィーヌは1814年に亡くなり、1848年にはマルティニークでも奴隷制が廃止されます。その後、1859年8月29日、今回ご紹介の絵葉書の像がフォール=ド=フランスに設置され、盛大な除幕式が行われました。 ところが、1968年のパリ5月革命後、“人種差別”に対する批判がフランス国内でも広まると、ジョゼフィーヌが奴隷制を復活させたとの俗説に基づき、マルティニークのジョゼフィーヌ像も撤去すべきと主張する人々が現れます。そして、1991年9月、何者かによってジョゼフィーヌ像の首が切り落される事件が発生します。 事件後の1992年、フランス政府は像の撤去派と保存派の双方の顔を立てるべく、首のない状態のジョゼフィーヌ像を国の歴史文化財に指定。そのうえで、2007年8月、修復のために像を一時撤去し、2010年7月、現在の場所へ像を再設置した際にも、首のない状態のままとされていました。 さて、5月25日、米ミネソタ州ミネアポリスで詐欺容疑で拘束された黒人男性が、拘束時に警官に膝で首を押さえつけられたことが原因で死亡した事件を巡り、米国内のみならず、世界各地に抗議行動が拡大し、一部では暴動にエスカレート。各地で、奴隷を所有していたことのある歴史上の人物を“差別主義者”などとして、その銅像等を損壊・汚損する事件(未遂を含む)が相次いでいます。 今回のジョゼフィーヌ像に関しても、活動家らは、ジョゼフィーヌがナポレオンを唆して奴隷制を復活させたとの俗説を根拠として、26日(現地時間)までに撤去しなければ像を破壊すると犯行予告を出し、それを実行したというわけです。 ちなみに、マルティニーク出身の作家・思想家、エメ・セゼールは、黒人が“ニグロ(フランス語では Négre,、ネグル)”として受けてきた差別や抑圧、“歴史の最悪の暴力を経験し、周辺化と抑圧に苦しんできた人間集団”としての自覚を抱き、植民地主義を拒絶して“ニグロの言葉”で語ることを訴え、アフリカ、北米、カリブ海地域の黒人知識人に大きな影響を与えた人物ですが、ナポレオンによる奴隷制を復活に関してジョゼフィーヌに責任があるとする俗説を明確に否定しています。 まぁ、“反差別”を掲げて破壊衝動を満たしたいだけの連中は、エメ・セゼールさえをも“歴史修正主義者”ないしは“差別主義者”と罵り、歴史的事実をから目を背け続けるのでしょうけれど。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-27 Mon 02:07
1953年7月27日に朝鮮戦争の休戦協定が締結されたことにちなみ、きょう(27日)、ソウルの東大門デザインプラザ(DDP)で、国連軍参戦兵に感謝を伝える“625戦争70周年国連軍参戦の日”の記念式典が開催されます。というわけで、朝鮮戦争に参戦した国連軍関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1952年9月15日、朝鮮戦争に派遣された南アフリカ連邦(以下、南ア)空軍の兵士がケープタウン宛に差し出したエアメールです。 朝鮮人民軍の奇襲攻撃によって朝鮮戦争が勃発すると、国連安全保障理事会は、開戦翌日の1950年6月25日午後2時(国連本部のあるニューヨーク時間。韓国時間では26日午前2時)、北朝鮮の南侵を侵略行為と規定し、北朝鮮に対して38度線以北への撤兵を要求しました。しかし、朝鮮人民軍はこの安保理決議を無視してさらに南侵を続け、6月28日にはソウルを占領します。 このため、米国大統領・トルーマンは、極東海・空軍に対して、38度線以南の朝鮮人民軍への攻撃を指令。国連安保理も、「北朝鮮の侵攻を撃退するため、加盟国は韓国が必要とする軍事援助を与える」との決議を採択して、米国の軍事介入を追認します。 この時点では、トルーマンは、地上軍を本格的に投入して、朝鮮戦争に全面的に介入することには慎重でした。というのも、北朝鮮の侵略行為は阻止しなければならないものの、さりとて、ソ連の介入を招き、“第三次世界大戦”を引き起こすことはなんとしても避けねばならなかったからです。 これに対して、日本占領の総司令官として東京にいたマッカーサーは、6月29日、陥落直後のソウルを漢江南岸から視察。本国政府に地上軍の本格的な投入を主張。このマッカーサー報告を受けて、翌30日、トルーマンも地上軍の投入を決断します。そして、7月7日、国連安保理は国連軍の創設を決議し、その司令官の任命をトルーマンに委任。これを受けて、翌8日、マッカーサーが国連軍司令官に就任し、国連加盟国に兵力の派遣が要請されました。 国連の要請を受けた南アは、7月20日、朝鮮半島があまりにも遠いことを理由に地上軍部隊の直接派遣は現実的ではないとして、空軍を派遣することを決定。これを受けて、同年9月26日、第2飛行中隊1426名のうち、第二次大戦の従軍経験を持つヴェテラン207名が選抜され、ダーバン港を出港しました。 第2飛行中隊は、1950年9月25日、日本の入間基地に入り、米軍から供与されたF-51Dムスタングの操縦訓練を受けた後、同年11月16日、米軍機とともに釜山橋頭堡の域内にあった釜山東(K-9)空軍基地へと向かいます。 その後、第2飛行中隊は烏山(京畿道中部、ソウルの南56キロに位置する都市)を主たる拠点に共産軍への空爆を行ったほか、空軍機を派遣しなかった英陸軍の支援などを行い、1953年7月の休戦後、同年10月に帰国しました。 ちなみに、南アは、1961年、英連邦を離脱して共和制となりますが(英国によるアパルトヘイト政策への非難が理由)、朝鮮戦争時は英連邦加盟国として、英国の野戦局を利用して本国との通信を行っていました。今回ご紹介のカバーが、南アの航空書簡(軍事郵便用の無料のもの)に、航空郵便料金として英国の2ペンス半切手が貼られ、英野戦局の消印が押されているのはこのためです。 なお、朝鮮戦争とその歴史的背景に関する郵便については、拙著『朝鮮戦争』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-26 Sun 02:11
きょう(26日)は、1953年7月26日にフィデル・カストロらがサンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営を襲撃し、キューバ革命の狼煙を上げたことにちなむキューバの革命記念日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2013年7月26日、キューバが発行した“モンカダ兵営襲撃60周年”の記念切手で、事件の現場となった旧モンカダ兵営の建物が取り上げられています。 切手に取り上げられた旧モンカダ兵営は、サンティアゴ・デ・クーバ旧市街の端に位置しており、第1次キューバ独立戦争の英雄、ギジェルモ・モンカダにちなんで命名されました。今回ご紹介の切手に取り上げられた“26”と掲げられた黄色い建物は、現在、“7月26日小学校”の校舎として利用されており、正面には大きなグラウンドがあります。また、建物の一角は“7月26日モンカダ兵営博物館”として一般公開されています。 さて、1952年、キューバの大統領選挙に立候補したフルヘンシオ・バティスタ・イ・サルディバルは、オルトドクソ党のロベルト・アグラモンテ候補を相手に苦戦を続けていました。このため、同年3月10日、バティスタは軍事クーデターを決行し、力ずくで大統領に就任。親米派の政権復帰を歓迎した米国は、直ちに、バティスタ政権を承認します。 当然のことながら、クーデターによる政権奪取に対しては国民の批判も強かったのですが、既成政党の中でもアウランティコ党はバティスタに対して話し合いでの政権交代を要求するばかりで、翌1953年1月に開催されたオルトドクソ党の党大会も党内対立から、反バティスタで党がまとまることもありませんでした。 こうして、キューバ国民の間に政治に対する閉塞感が蔓延していくなかで、1952年の議会選挙にオルトドクソ党から立候補した青年弁護士のフィデル・カストロは、バティスタのクーデターで選挙が無効となったことに憤慨、バティスタを憲法裁判所に告発しましたが、裁判所はこれを握り潰してしまいます。 そこで、フィデルは、アベル・サンタマリーア、ニコ・ロペス、ヘスス・モンタネら同志とともに、バティスタ打倒のためには、既成政党とのしがらみのない若者を動員することが重要と考え、地下放送を通じてひそかに同志を募り、ハバナ大学の施設を利用して、約1200名の反バティスタの活動家を訓練しました。 当時のフィデルらにはバティスタ政権を一挙に打倒できるだけの実力はなかったため、彼らは、警戒の厳重な首都ハバナを避け、サンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営を占拠して政権に不満を持つ一般国民に民衆蜂起を呼びかけ、あわせて、兵営の一般兵士からも同調者を集め、地方に拠点を築くことを計画します。また、サンティアゴ・デ・クーバでは、毎年7月下旬の一週間、カーニヴァルが開催されていますが、1953年は7月25-26日がその期間に含まれていました。カーニヴァルの期間中の市内の混雑は、カストロらにとって、官憲の目をかいくぐって騒擾を起こすのに格好の機会でした。 かくして、7月26日未明、シボネイ農場に集まった若者たちに、襲撃の目標(兵営の武器確保、軍通信機器の利用による情報の撹乱)が伝達され、フィデルが指揮する90人がモンカダ兵営の襲撃を、アベル・サンタマリーア率いる21人が兵営に隣接するサトゥリーノ・ローラ市民病院を、フィデルの弟、ラウルが指揮する10人が裁判所広場を襲撃すべく出発しました。また、ニコ・ペロス率いる22人(5人不参加)の別動隊は、サンティアゴ・デ・クーバサンチャゴから80キロ離れたバヤモのカルロス・マヌエル・デ・セスペデス要塞を襲撃して通信網を破壊し、政府軍とモンカダとの連絡を途絶させる計画でした。 一方、当時のモンカダ兵営には、事件当時、将校88人、兵士288人、農村警備隊26人、計402人が勤務していました。これは、叛乱側の3倍弱の兵力です。 午前4時45分、若者たちは政府軍を偽装した軍服に着替え、16台の車に分乗してサンティアゴ市内に向かいましたが、車を運転していたスタッフの中にはサンティアゴ市内の地理に不案内な者もおり、市内に入ったところでほぼ半数がはぐれてしまいました。 こうした中で、レナド・ギタルら3人の先遣隊がモンカダ兵営の第3検問所に到達し、軍服姿で敷地内に侵入することに成功したものの、歩哨の一人が不審に思って警報ボタンを押しため、警備車両が兵営周辺を巡回を開始。そこへ、フィデルら主軸部隊を乗せた車が検問所に向かう脇道に入ってきたため、警備兵との間でいきなり戦闘が始まりました。 フィデルの計画では、武力で圧倒的に劣る彼らは奇襲攻撃で10分以内に兵営を制圧することになっていましたが、兵営側からの攻撃は15分以上続き、この間、叛乱側の弾薬が尽きてしまったため、叛乱側は退却。戦闘で5人が犠牲になり、さらに、政府軍に捕えられた約56人が虐殺され、シボネイ農場にまで帰着したときには、叛乱側は60人ほどに減っていました。 その後、あくまでも戦闘継続を主張して山岳地帯へ向かったのはカストロら19人。彼らは政府軍の追及を逃れるべく、いくつかのグループに分かれて山中を彷徨していましたが、8月1日、ついに捕えられ、サンティアゴ・デ・クーバの駐屯地に連行され、ボニアート監獄に収監されました。ちなみに、駐屯地ではなく、兵営に連行された者たちは、その場で虐殺されています。 バティスタ政権はモンカダ兵営襲撃事件を闇に葬り去るべく、当初は裁判も行いませんでしたが、襲撃事件に参加し、政府軍に虐殺された若者の多くは、家族に襲撃計画を全く話していなかったため、“行方不明”となった息子を探す親たちが続出したことから、。急遽、緊急法廷第37号事件の名目で、1953年9月21日、サンティアゴ裁判所でモンカディスタ(モンカダ襲撃事件に加わり、生き残った人々)に対する裁判が始まりました。 事件の首謀者としてのフィデルの裁判は、10月16日、事件現場の一つ、サトゥリーノ・ローラ市民病院付属の看護学校の一室で、100人の兵士が包囲する中で開廷。フィデルの担当弁護士は入廷を拒否されたため、弁護士資格を持つフィデルは自らの弁護を担当し、事件後の軍による虐殺の実態を明らかにしました。 そのうえで、クーデターで誕生したバティスタ政権は非合法であり、立憲主義に反していること、1933年のマチャド独裁政権崩壊以来、バティスタが米国政府・資本の走狗として国家を私物化してきたことを激しく非難。1940年憲法に加え、トマス・アクィナス、マルティン・ルター等の宗教思想やロック、ルソー、モンテスキュー以来の近代政治思想史をも引用し、兵営の襲撃は人民の抵抗権によるものであるとして、その目的は兵士との戦闘にあるのではなく、兵営の選挙によって国民に蜂起を呼びかけることにあったと主張します。 さらに、革命達成の暁に実施すべき政策として、①1940年憲法の復活、②土地改革(小作人下の土地分与、有償による土地接収)、③労働者の企業利益への参加、④小作人の収益参加率の50パーセントへの引き上げ、⑤不正取得資産の返還、の5項目を掲げ、「歴史は私に無罪を宣告するであろう」との一文で、最終弁論を締めくくりました。 結局、フィデルは禁錮15年の有罪判決を受け、1953年10月17日、ピノス島のモデーロ監獄に収監されます。 しかし、モデーロ監獄には、すでに26人のモンカディスタが収監されており、フィデルは裁判の弁論を再構成した“モンカダ綱領”を食事の際に供されるライムの汁で紙に執筆。獄中の秘密ルートを通じて外部に持ち出された原稿は、一足先に釈放されていたメルバ・エルナンデスにより、1954年10月頃、アイロンを使った“あぶり出し”の手法で解読され、『歴史は私に無罪を宣告するであろう』の書名で地下出版されました。その数は1万部にも達し、独立運動発祥の地であるキューバ島東部ではフィデルの声望が高まります。 一方、バティスタは、政権の正統性に疑問を呈するフィデルらの主張を打ち消すために、1954年11月1日に大統領選挙を実施。露骨な不正選挙により再選を果たすと、自らの独裁体制維持への絶対の自信から、寛大なる為政者のポーズを示すべく、モンカディスタを除く政治犯の恩赦を決定します。これに対して、選挙区民を通じてフィデルの国民的な人気を肌で感じていた上下両院の議員たちはバティスタの反対を押し切って恩赦法を採択し、これにより、1955年5月16日、フィデル以下のモンカディスタはモデーロ監獄から釈放されました。 ピノス島からハバナへ向かう船中、モンカディスタは革命運動組織として“7月26日運動(M26)”の結成で合意。その後、M26のメンバーはメキシコに亡命し、アルゼンチン出身の青年医師だったエルネスト・ゲバラもそこに合流して、反バティスタの革命運動を本格的に開始することになります。 なお、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、タイトル通り、モンカダ兵営事件以降のキューバ革命史について、いろいろな角度からまとめています。機会がありましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-25 Sat 04:15
マレーシア財務省は、きのう(24日)、政府系ファンド“1MDB(One Malaysia Development Berhad)”をめぐる巨額汚職事件を巡り、米金融大手ゴールドマン・サックスから解決金として39億ドル(約4100億円)相当の支払いを受けることで和解したことを発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2009年8月31日(マレーシア独立記念日)にマレーシアが発行した“ワン・マレーシア”の切手です。 2009年に発足したナジブ・ラザク政権は、「民族の調和、国家の統一、効率的な統治」をスローガンとする“ワン・マレーシア”構想を打ち上げ、クアラルンプールを“イスラム金融のロンドン”にすることを目標に、国際金融地区“トゥン・ラザク・エクスチェンジ(TX)”の建設に着手ししました。そのための最優先事業として、前年(2008年)、トレンガヌ州の油田の収益を運用するために設立された“トレンガヌ投資公社”は、外資を直接投資として呼び込むためとの名目で、“ワン・マレーシア”の名を冠した“ワン・マレーシア・デベロップメント・ブルハド(1MDB)”に改組され、ペトロサウジと25億ドルのジョイントベンチャーを立ち上げます。 ジョイントベンチャー設立の目的は、本来、ペトロサウジの持つ特許を活用することとされていましたが、実際には、1MDB側の出資金10億ドルのうち7億ドルが、首相のナジブとも親交がある資産家の、ジョー・ローがセーシェル(タックス・ヘイヴンとして有名)に所有する資金t流用会社、グッドスターに不正に流れ、さらに、“Malaysian Official 1(MO1)”名義のナジブの秘密口座にも送金されていました。グッドスターから流出した資金は、スイスの銀行や様々なペーパーカンパニーを経て、高級品、自家用ジェットの購入、不動産への投資や、音楽会社の株の獲得などに充てられたとみられています。 以後、1MDBは、中国の国家電網、マスダール、アラブ首長国連邦アブダビのIPIC、カタール投資庁などと共同で発電所および電力関連事業等へ資本参加し、総額110億ドル相当の債権を発行しましたが、その債権を引き受けたゴールドマンサックスは、総額6億ドルという法外な手数料を受け取り、ジョン・ローやナジブおよびその関係者らへの不正な資金流用(たとえば、2012年に発行した債券35億ドル相当のうち、約14億ドルが不正に流用されたといわれています)に加担した疑いがもたれていました。なお、資金の一部は、モデルのミランダ・カーや俳優のレオナルド・ディカプリオらへの贈答品(宝石や絵画など)へも流用されたため、一連の汚職事件は、ハリウッドをも巻き込んだ騒動となっています。 こうした放漫経営の末、2014年までに、1MDB は数十億ドルの債務超過と債務不履行に陥りましたが、その後の調査で、2015年には巨額な資金の不正流用が発覚します。こうした中で、2015年4月、ナジブ政権は6%の消費税を導入したことから国民の不満が爆発し、2018年5月の総選挙では、マハティール元首相が率いる野党連合が過半数議席を獲得。これにより、1957年の独立以来、統一マレー国民組織(UMNO)を中心とした与党連合が政権を独占していたマレーシアでは、初の政権交代が起こることになりました。 その後、2018年7月にナジブは逮捕され、同年12月には、マレーシアの検察当局が、1MDBの起債のうち、65億ドル分について不正があったとしてゴールドマン・サックスの子会社3社を起訴していましたが、今回の和解で、ゴールドマン・サックスが和解金39億ドル(うち25億ドルを現金で支払い、1MDB関連資産からの収益のうち、最低14億ドルの回収を保証)を支払うことで、同社に対する刑事訴追はすべて取り下げられることになりました。ただし、“実行犯”とされるゴールドマンサックスの元社員2人に関しては、不正行為を認めたとして、今後も訴追が維持されます。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-24 Fri 00:06
きょう(24日)は“スポーツの日(ことしから体育の日を改称)”です。もともとは10月の第2月曜日だったところ、今年(2020年)に限って東京五輪の開会式の予定日に合わせて日にちを移動したものの、肝心の五輪そのものが延期となってしまったため妙な感じですが、とりあえず、1964年の東京五輪の切手の中からこの1枚を持ってきました。
これは、1964年10月10日に韓国が発行した東京五輪の記念切手です。 大韓民国成立以前の1948年7月に開幕したロンドン五輪に代表を派遣して以来、南朝鮮=韓国は、朝鮮戦争中の1952年冬季のオスロ大会を除き、1960年まで夏・冬のすべての大会(1952年夏季のヘルシンキ大会を含む)に選手団を派遣してきました。 これに対して、北朝鮮は、自分たちこそが朝鮮半島の正統政府であり、韓国が出場する大会には参加すべきではないとの大義名分や、朝鮮戦争とその後の戦後復興という国内事情などもあって、1956年夏季のメルボルン大会までは、ほとんど、五輪に対して関心を示していませんでした。 ところが、メルボルン五輪終了後の1957年、北朝鮮は、韓国に対して、次回(1960年)のローマ五輪に合同選手団による参加を呼びかけます。この提案は、韓国側の拒絶により実現しませんでしたが、ローマ五輪終了後の1962年7月、北朝鮮の五輪委員会は1964年の東京五輪への南北単一チームによる参加を再び提案。これを受けて、1963年5月、南北間で合同選手団の構成問題についての第一回実務者協議が行われました。このときの協議では、合同選手団の名称や、韓国関係者の北朝鮮関係者に対する不信感、選手団選考などで南北間の溝が埋まらず、交渉は難航。7月には2度目の会談が行われたが、この席上で韓国側から会談打切り通告があり、結局、合同選手団は破談となっています。 そこで、同年10月、北朝鮮は“DPRK”として国際オリンピック委員会(IOC)に正式加盟し、1964年冬季のインスブルック五輪以降、南北は別個に選手団を派遣することになりました。ただし、北朝鮮は、インドネシアが五輪に対抗して1963年に開催した“新興国競技大会(GANEFO)”への有力選手の参加が問題となり、東京五輪には参加しませんでしたが…。 一方、北朝鮮がともかくも東京五輪への初参加を表明したことで、1964年3月、大韓体育大会会長の閔寛植が来日し、駐日代表部、在日本大韓民国居留民団(民団)、在日本大韓体育会(在日体育会)に支援を要請。これを受けて、民団中央顧問の李裕天を会長とする東京オリンピック在日韓国人後援会(以下、後援会)が結成され、①韓国選手の強化練習の支援、②韓国からの五輪参観団3000人の招請、③在日同胞応援団の結成、を目指して、1億4600万円を目標に募金活動を行いました。 その過程で重要な役割を担ったのが、東声会の鄭建永(日本名・町井久之)です。 鄭は、1923年、東京生まれ。終戦直後の1945年、朝鮮建国青年同盟東京本部副委員長となり、それと前後して、事件屋(弁護士資格を持たないまま、他人の民事トラブルに介入し、“手数料”を得る職業)の“中央商会”や興行会社の“中央興行社”を設立し、そこから、“愚連隊・町井一家(関東町井一家)を組織し、東京都内の裏社会で隠然たる勢力を持っていました。 1954年、サッカーW杯スイス大会予選の日韓戦でも巨額の支援を行った鄭は、その後、曺寧柱の影響で“大アジア主義”に感化され、1957年、銀座で町井一家を母体に「東洋の声に耳を傾ける」との理念を掲げて“東声会”を結成。右翼・尊王・反共を旨として、朝鮮総連に対する防波堤をもって任じていました。 東声会は、東京、横浜、藤沢、平塚、千葉、川口、高崎などに支部を置き、1600人の構成員を抱える広域暴力団へと急成長したものの、これに脅威を抱いた他の暴力団等が反東声会で結束。さらに、警察による取り締まりが強化で幹部も逮捕が相次いだため、1963年、児玉誉士夫の仲介により、3代目山口組・田岡一雄組長の舎弟となりました。 閔はこうした事情を十分に理解したうえで、東声会にも後援会への支援を求め、鄭もこれに応えて後援会を物心両面から支えていたわけです。 北朝鮮が初参加する夏季五輪ということで、韓国としては、なんとしても北朝鮮を上回る選手団を派遣し、一つでも多くのメダルを獲得する必要がありました。このため、後援会の支援を受けて、メダル獲得の可能性があるとみられたレスリング、ボクシング、マラソンの有力選手35人が事前に東京に派遣され、練習を積んでいます。また、後援会は3000人の参観団派遣という目標を設定しましたが、これは、北朝鮮が参観団を派遣しない(できない)という事情をとらえて、総連系が優位とされていた在日社会(当時は、総連系六、民団系四の比率といわれていました)に韓国の存在をアピールするとともに、多くの韓国人に“日本”を実際に見せることで、国交正常化を前に対日感情を和らげる効果を狙うという意図もありました。 かくして、9月18日と23日の2回に分けて、韓国から234人もの大選手団が来日し、代々木の選手村に入ります。ちなみに、前回のローマ大会での韓国選手団は67人、東京の次のメキシコシティ大会では76人ですから、東京大会での選手団が異例の規模であったことがわかります。 ところが、代々木の選手村では、民団や後援会の機先を制して、朝鮮総連の関係者が「朝鮮選手団を熱烈に歓迎する」との文言と金日成の写真が印刷されたビラを配りながら到着した選手たちを出迎えるという事件が発生。このため、東声会が朝鮮総連を実力で排除し、その際に負傷者も出ましたが、警視庁は“国際問題”への関与を恐れて、見て見ぬふりで通しています。 こうして、1964年10月10日から始まった東京五輪では、韓国選手は、ボクシング男子バンタム級の鄭申朝とレスリング男子フリースタイルフライ級の張昌宣が銀、柔道の男子80キロ以下級の金義泰が銅、の3個のメダルを獲得しています。 なお、1964年の東京五輪をめぐる韓国・北朝鮮の動きについては、拙著『日韓基本条約』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-23 Thu 01:46
きょう(23日)は“海の日”です。というわけで、海に関する切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1991年11月16日にソロモン諸島が発行した“世界切手展 PHILANIPPON 91”の記念切手のうち、カツオの一本釣りを描いた1枚です。 1960年代まで、太平洋における日本のマグロ・カツオ漁の漁場は、赤道以北が中心でした。これは、カツオ漁で用いられるカタクチイワシの活餌が、当時の技術水準では最大で1800マイルまでしか輸送できず、漁業の南限がトラック島近海となっていたためです。 そこで、漁場を南方に拡大したかった大手漁業資本が注目したのが、当時は米施政権下にあった沖縄のカツオ漁業でした。 本土のカツオ漁では、カツオ釣りと餌取りは完全に分業化していましたが、沖縄では、同じ漁業者が両方を行っているのが一般的で、餌として用いられる魚も、本土から調達するのではなく、地元のイワシ、キビナゴ類やテンジクダイやスズメダイなどの熱帯性魚類の幼魚が用いられていました。また、戦前は、沖縄本島の糸満や宮古の佐良浜の漁民がパラオやセレベス(現インドネシア)で漁を行っていた蓄積があったほか、1966年頃からは、グアム、パラオ、ポナペなどのバン・キャンプ系ないしはスターキスト系の基地漁業に宮古諸島出身者が数多く参加していたという事情がありました。 さらに、当時の日本本土と宮古諸島との経済格差も、本土の大手漁業資本には大きな魅力でした。 たとえば、1971年次に報国水産が沖縄のカツオ船主と結んだ契約によると、報国水産側の買い入れ値段は、マガツオ(3キロ以上のもの)でキロ当たり12セント、当時の1ドル=360円のレートで換算すると、約43円でしたが、同年の焼津での冷凍カツオ(遠洋物)の市場価格はキロ当たり150-180円でした。また、宮古諸島での節原料価格で30セント、すなわち約108円でした。 このため、まず、1968年に極洋が沖縄の漁民を使ってニューギニア海域での試験操業を開始し、1971年1月、極洋と伊藤忠および現地資本との合弁企業としてゴーリン極洋ニューギニア株式会社が設立され、ニューアイルランドのカビエンを基地として本格的な操業を開始。これに、日系の報国水産が出資したニューギニア・マリン・プロダクト社、同じく海外漁業が出資したカーペンター・カイガイ社(のちにニュー・ブリテイン・フィッシング・インダストリー社)と米系のスターキスト社が追従します。 この結果、ニューギニア海域のカツオ漁場は、極洋、報国、海外の三社がほぼ独占することになったため、後発の大洋漁業としては、ガダルカナルを基地としてソロモン海への進出を企図するようになりました。 かくして、大洋漁業は、①日本市場へのカツオ・マグロ供給確保、②ソロモン海における大規模水産事業の独占、③将来的にソロモン諸島とのビジネスを拡大させるための先行投資、などの意図をもって、1971年、英領ソロモン諸島政府との間で合弁企業設立の合意を締結します。出資比率は、日本の大洋漁業が75パーセント、英領ソロモン諸島政府が25パーセントでした。 ちなみに、1971年6-9月、ガダルカナルを基地に幸成丸、第八正丸、第三寿丸、第三水天丸、美和丸、幸徳丸の6隻が試験操業を行った結果は、総計1215トン、17万ドル相当の水揚げでした。これに対して、前年の1970年の焼津における南方カツオ釣船の水揚げ実績は、501隻で3万3237トンでしたから、単純計算で、1隻当たりの水揚げはガダルカナルの202トンという数字は、焼津の66トンの実に3倍です。 試験操業の結果を受けて、ビジネスの成功を確信した大洋漁業は、1971年中に小さな缶詰工場と燻製工場からなる海岸拠点をツラギに建設。この海岸拠点はソロモン諸島における大洋漁業の支店本部の役割も担い、翌1972年、ソロモンタイヨー社としての営業が正式に開始されました。さらに、1970年代半ばにはニュージョージアのノロにも第二工場が建設されています。 当初の漁船乗組員は、沖縄・宮古諸島の伊良部島出身の漁師が中心で、他にソロモン人が若干名。このほか、日本本土から大洋漁業のスタッフが業務監督者としてツラギに常駐するという体制で、水揚げされた魚は、冷凍の後、米領サモア、プエルトリコ、米本土の缶詰業者に輸出されたほか、ツラギとノロの缶詰工場に送られて加工されました。さらに、1974年5月には日本向けの鰹節の製造も始まっています。 事業の拡大に伴い、1974年には、ソロモンタイヨーは136名の漁業者と306名の地上スタッフを現地雇用し、250トンの鮮魚をホニアラ市場に提供するなど、ソロモン諸島におけるプレゼンスを確立しました。 さらに、ソロモン諸島独立後の1982年には、ソロモン諸島政府と大洋漁業の間で第2期10年のソロモンタイヨーの合弁契約が結ばれ、両者の出資比率は50:50となり、法人の現地化が図られます。これと前後して、大洋漁業は優秀なソロモン人乗組員や地上スタッフを年間20人、冬期に1ヵ月間、日本に招いて研修を受けさせるなどして、技術移転にも力を入れました。 この結果、1984年には同社のカツオ・マグロ類および加工品の輸出は2900万ソロモンドルに達し、ソロモン諸島の水産物輸出の約97パーセント、外貨収入の約3分の1を占め、ソロモンタイヨーの漁業および加工部門の雇用は、この時点で全雇用の約5パーセントを占め、同社の存在はソロモン諸島にとって欠かすことのできないものとなりました。日本で開催される世界切手展の記念切手に、カツオの一本釣りが取り上げられたのも、こうした事情を反映したものです。 さて、現在、第二次大戦中の激戦地として知られる“ガダルカナル”にフォーカスを当てた本を作っています。内容は、戦史よりも、戦後のガダルカナルが中心で、すでに、本文の原稿は書き終え、現在、校正作業を進めているところです。正式な書名や発売日などが決まりましたら、またこのブログでもご案内していきたいと思っておりますので、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-22 Wed 00:56
ご報告がすっかり遅くなりましたが、『東洋経済日報』2020年6月19日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」は、今回はこんなモノをご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1960年代に北朝鮮で作られた冷麺店・玉流館の絵葉書です。実際にチェコスロヴァキア宛に送られたものなので、裏面の画像もあわせてご紹介しておきます。 玉流館は、平壌の中区域、大同江に架かる玉流橋の傍らに位置しており、川に突き出た玉流岩の上に建てられたことが名前の由来です。 歴史的にいうと、朝鮮では格式の高い伝統的な“冷麺店”は、もちろん、メニューとして冷麺も出しましたが、その内実は日本語の“料亭”に近いもので、政治家の密談などにも盛んに使われてきました。 たとえば、1945年、北朝鮮を占領したソ連軍政当局の特別宣伝部長・グリゴリー・メクレルは、平壌を拠点に、“朝鮮のガンディー”とも呼ばれていた民族主義者の大物、曺晩植と平壌の冷麺店で面談しています。また、曺がソ連から帰国したばかりの金成柱(後の金日成)に引き合わされたのも、平壌市内の冷麺店でした。ただし、玉流館は、1960年8月、“解放15周年”を記念して開店した店なので、朝鮮戦争中の1950年10月に処刑された曺は、玉流館を利用することはできませんでした。 玉流館本店の建物は、朝鮮の伝統建築の様式を取り入れた2階建てで、2階には特別室が設けられており、階段には平安南道・龍岡郡産の花崗岩が使用されています。 今回ご紹介の絵葉書には、オープンまもない1960年代初頭の玉流館を大同江の下流方向から撮影した写真が取り上げられていますが、画面の奥にはソ連による“朝鮮解放”に感謝して牡丹峰南麓に建てられた解放塔も見えます。この絵葉書は、平壌を訪れた外国人を対象に作られたもので、裏面の説明文は、ロシア語と漢字(中国語)、英語の3ヵ国語表記です。解放塔を画面に組み込んだのも、東側の友好国からの旅行者を意識してのことでしょう。 1970年代以降、金日成ひきいるパルチザンが朝鮮を解放したとの“建国神話”が北朝鮮国内で定着すると、解放塔の存在はそれと矛盾するものとなりましたが、さりとて、ソ連ないしはロシアとの関係もあって、解放塔を完全に撤去としてしまうわけにもいかないので、現在では、塔の存在をほぼ無視するというかたちでやり過ごしているのが実情です。 さて、玉流館は、2000年に行われた金大中=金正日の南北頂上会談の際にも食事の場として利用され、金大中大統領は南北融和のシンボルとしてソウルに玉流館の支店を出店することを打診しています。 日本の政治家としては、その前年の1999年の村山訪朝団(団長は村山富市元首相で、自民党の野中広務氏らも参加)も玉流館で接待を受けました。 変わったところでは、“祖国解放戦争勝利記念日(1953年の朝鮮戦争休戦協定調印の記念日を指す北朝鮮側の呼称)”にあたる毎年7月27日には、平壌在住者のうち、朝鮮戦争の退役軍人は麺を無料で受け取ることができます。 さて、ことし6月4日、北朝鮮の金与正朝鮮労働党第1副部長が、脱北団体の散布した北朝鮮向けのビラを問題にしたのを皮切りに、北朝鮮側は文在寅大統領や韓国政府を続けていますが、そんな中で、13日、玉流館のオ・スボン料理長が、2018年9月19日、文大統領が玉流館で金正恩夫妻と昼食をとった時のことを念頭に、「平壌に来て有名な玉流館の冷麺を食う時は、何かたいそうなことでも成し遂げたかのように、見るからに怪しくよこしまに振る舞っていたのに、今日我々の心臓に大クギを打ち込んだ」として文大統領を非難したことが報じられ、話題になりました。 料理長の発言について文大統領と与党首脳は一切反応せずに無視。それだけなら、どうということのない話なのですが、実は、ことし2月、大統領に「(景気が)こじきのよう(とてもひどい)です。あまりにも商売にならない」と直訴した総菜店の店主に対し、大統領に対する話し方が“不敬だ”として、大統領の支持者らがリンチまがいのネット攻撃を浴びせ、不買運動まで展開されたという出来事がありました。このため、陳重権元東洋大学校教授は「(以前は)大統領を冒涜したと言ってカッカとしていた人たちのなかから、(今回は)なぜ立ち上がる人が誰もいないのか」と指摘し、大統領支持者の“二重基準を批判しています。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-21 Tue 01:06
きょう(21日)は、土用の丑の日。というわけで、毎年恒例、ウナギに関する切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2016年10月31日にポルトガルが発行した“ポルトガルの缶詰”の切手のうち、ウナギのエスカベシュの缶詰が取り上げられています。 欧州有数の漁業国として知られるポルトガルは水産缶詰の生産も盛んな国で、缶詰の専門店のみならず、缶詰のバーや缶詰料理専門店まであるほどです。ちなみに、1999年の“返還”から50年間はポルトガル領時代の制度が維持されることになっているマカオにも、ポルトガル本国と似たような店構えの缶詰専門店があり、2018年にマカオを訪れた際には、僕もその店を覗いてきました。(下の画像) 今回ご紹介の切手に取り上げられたウナギのエスカベシュの缶詰は、1942年、ポルトガル中部の漁港、アヴェイロで創業したコムル社が考案しました。コムル社はポルトガルを代表する水産缶詰メーカーの一つで、ポルトガル国内に22店の直営店(うち、14店舗はリスボン市内で営業)があり、その製品は全世界に輸出されています。なお、ウナギのエスカベシュの缶詰は、現在、ポルトガル国内では同社しか製造していません。 ポルトガルではウナギは好んで食される食材の一つで、コムル社の創業の地、アヴェイロは国内有数のウナギの産地として有名です。その代表的な調理法としては、ウナギを骨ごとブツ切りにしてトマトソースで煮込んだ“エンソパード・デ・エンギーア”のほか、缶詰にもなっているエスカベシュ(エンギーア・フリッテス・コン・モーリョ・エスカベシュ)などがあります。 切手に取り上げられた宣伝ポスターの女性が手にしている大きさからもわかるように、エスカベシュの材料となるウナギは小ウナギで、これをフライにした後、ニンニク、酢、ヒマワリ油、赤唐辛子、塩に漬け込んで作ります。ちなみに、揚げた魚を酢に漬け込むエスカベシュの調理法は、南蛮貿易の時代にスペインおよびポルトガルから日本にもたらされ、これが現在の南蛮漬けの元になりました。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-20 Mon 01:32
ドイツ南西部、バーデン・ビュルテンベルク州で、警察官とのトラブルからシュヴァルツヴァルト(黒い森)に逃げこみ、地元メディアから“黒い森のランボー”と呼ばれていた男が逮捕されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1947年、第二次大戦後、フランス占領下のドイツ・バーデン州(現在のバーデン・ビュルテンベルク州の南西部)で発行されたシュヴァルツヴァルトの切手です。 1945年5月、第二次大戦に敗れたドイツは、米・英・仏・ソの4カ国によって分割占領されました。当初、スターリンは「フランスは軍事的貢献度が少ない」として、フランスがドイツ占領に加わることには反対していましたが、米英両国がフランス国境に面したバーデン地区とラインラント地区をフランスに割り振ることで決着します。 このうち、バーデン地区に関しては、第二次大戦以前のドイツでは、バーデン大公国の流れをくむ“バーデン共和国(実質的には州)”が置かれていましたが、大戦末期の1945年4月、バーデン北部は米欧州陸軍第7軍、南部は自由フランス第1軍に占領されました。戦後の占領区域については、アウトバーンのカールスルーエ=ミュンヘン線 (現在のアウトバーン 8)が米軍地域に含まれるように境界線が設定されたうえで、 バーデン北部が米国占領地域、南部がフランス占領地域とされます。さらに、1945年から1946年にかけて米国占領地域にヴュルテンベルク=バーデン州、フランス占領地域にバーデン州およびヴュルテンベルク=ホーエンツォレルン州が設置。今回ご紹介の切手は、そのうちのバーデン州で発行されたものです。 切手に描かれたシュヴァルツヴァルトは、バーデン=バーデンからフライブルクまでの南北約160キロ、シュトゥットガルトからライン川を挟んでフランス中東部のアルザス地方(アルザス=ロレーヌ)との国境までの東西約60キロにわたって広がる山岳地帯で、密集して生えるトウヒの木によって暗く(黒く)見えることが名前の由来となりました。 さて、バーデン・ビュルテンベルク州では、今月12日、迷彩服姿で弓と矢を持っている不審な男がいるとの通報を受けた地元警察が現場に出動。容疑者は当初、事情聴取に協力的でしたが、最後には所持していた銃で警官を脅して武器を捨てさせ、森の中に逃走したため、警察は、緊急事態要員ら数百人やヘリコプターを動員しての大がかりな捜索をオッペナウ町周辺で行っていました。なお、警察が男の身柄を確保したのは17日でしたが、そのことが正式に発表されたのは19日のことでした。 ちなみに、映画『ランボー』は、ヴェトナム帰還兵のジョン・ランボーが戦友(ランボーが訪ねたときには亡くなっていました)を訪ねて山間の田舎町を訪ねたところ、地元の保安官ティーズルは、トラブルを起こしそうな身なりや顔つきというだけで、ランボーを町から強引に追い出そうとし、さらには逮捕したことから、ランボーが山中に逃走し、保安官や州兵と戦うというストーリーです。作品は、単なるアクション映画の枠を超え、「ヴェトナム戦争によって負った米国の傷」を表現したものとして高く評価されたわけですが、今回逮捕された“黒い森のランボー”に映画に匹敵するほどの深い事情がったのかどうか、現時点の報道を見る限りでは不明です。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-19 Sun 00:31
1870年7月19日、フランスがプロイセンに宣戦を布告して普仏戦争が勃発してから、きょうで150周年です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、普仏戦争中、プロイセン包囲下のパリから“ボロン・モンテ”の気球で運ばれたカバーです。 1870年7月19日に勃発した普仏戦争は、当初からプロイセン有利に戦況が進み、同年9月2日にはセダンの戦いで皇帝ナポレオン3世じしんが捕虜となり、第2帝政は崩壊。その後は、当面の政府機構としてパリ軍事総督のルイ・ジュール・トロシュ将軍を首班とする国防政府が戦争を継続しました。 一方、プロイセンはその後も進撃を続け、9月14日、パリを包囲。そして、翌1871年1月、プロイセン軍はパリ砲撃を開始する一方、1月18日、プロイセン軍は占領下のヴェルサイユ宮殿・鏡の間でヴィルヘルム1世のドイツ皇帝戴冠式を挙行し、1月28日には、ヴェルサイユで休戦条約が結ばれました。 この間、9月19日から1月28日までの4ヵ月にわたって、プロイセン軍によって包囲されたパリでは、外部との輸送・通信手段として、“バロン・モンテ”と呼ばれる小型の気球が往来。バロン・モンテは、のべ66回の飛行で、164名の乗客、381羽の伝書鳩、5頭の犬、そして、200万通の郵便物を運びました。 今回ご紹介のカバーもその1通で、1870年12月13日、パリのサン・ラザールからフランス北部のソンム宛に差し出された郵便物で、封筒の左上には“PAR BALLON MONTE(バロン・モンテで)”の表示が印刷されています。 さて、 休戦条約を受けて、2月12日、ボルドーで国民議会が召集され、ティエールが行政長官に選ばれて臨時政府が発足。臨時政府は、2月26日、ヴェルサイユ仮講和条約を締結し、賠償金の支払いとアルザス・ロレーヌの割譲を受諾します。これを受けて、3月1日、ドイツ軍がパリに入城すると、臨時政府も徹底抗戦を主張する市民らの国民軍に武装解除を命じましたが、同18日、民衆はバリケードを築いて抵抗しました。いわゆるパリ・コミューンです。 その後、臨時政府は5月10日にドイツとフランクフルト講和条約を締結し、正式に普仏戦争は終結。これを受けて、5月21日、臨時政府軍はパリに突入し、“血の週間”と呼ばれた壮絶な戦いの後、5月28日までにパリ=コミューンも鎮圧されました。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-18 Sat 13:49
米国防総省は、17日(現地時間)、南北戦争期の南軍旗について、米軍基地や関連施設などでの掲揚を事実上、全面禁止する方針を示しました。というわけで、きょうは南軍旗の描かれた切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1995年に米国で発行された“南北戦争”の切手シートのうち、ゲティスバーグの戦いを取り上げた1枚で、右側に南軍旗を掲げて戦う南軍兵士が見られます。 南軍期は、南北戦争期のアメリカ連合国(南部連合)陸軍の軍旗で、赤地にX型十字の青を配し、十字の中に13の星(独立時の米国の州の数。また、南部連合の11州に、南軍と連邦の両方の統治機関を持っていたミズーリ州とケンタッキー州を合わると13州)を配したデザインになっています。 南北戦争の勃発後、南部連合では星条旗に替わる国旗を制定することになり、国旗・国章制定委員会の委員長だったウィリアム・ポーチャー・マイルズは、南軍旗の元になった赤字に青のX型十字のデザイン案を提出しました。しかし、独立戦争以来の星条旗を捨てることへの反対が強かったため、星条旗に似せた“スターズ・アンド・バーズ(赤白赤の3本のストライプと、左上のカントンの部分に紺地に星を円形に配したもの)”が“国旗”として採用されました。 しかし、実際の戦場では、南部連合の国旗は、尾硝煙と土煙の中では星条旗と見分けづらく、友軍への誤射などもあいついだため、1861年11月以降、マイルズのデザインした赤字に青のX型十字のデザインが南軍旗として採用され、終戦まで使われました。その後、南軍旗が南部連合のイメージとして定着したこともあり、1863年5月1日には、南部連合の国旗も、白地の左上に南軍旗のデザインを配した“ステインレス・バナー(染みのない旗)”と呼ばれるデザインに変更されています。 南北戦争後、南部諸州には合衆国軍(旧北軍)が進駐し、南部諸州は“敗戦国”として、南部連合は徹底的に否定されました。このため、南軍期を公の場で掲示することも違法とされていましたが、1877年までに南部諸州の自治が回復。これに伴い、南部諸州では相次いで有色人種に対する隔離政策(ジム・クロウ法)が始まり、差別政策が修正第13条・14条・15条に違反するとの連邦裁判所への訴訟においても「隔離すれども平等」である限りは合憲であるとの司法判断が示されるようになります。こうした背景の下、南軍旗も復権。1894年にはミシシッピ州の州旗が、カントンに南軍旗を配したデザインに変更されました。 さらに、20世紀初頭から中頃にかけて、南軍旗の人気が上昇。第二次世界大戦中、南部出身の米兵で構成された部隊の中には南軍旗を非公式のエンブレムする例もあったほか南軍旗などを戦場に持ち込む兵士もいました。じっさい、沖縄戦後、首里城には、一時的に、南軍旗が掲げられたこともあります。ただし、奴隷制の象徴ともみられていた南軍旗には、黒人兵士の反発も強く、首里城の南軍旗はすぐに下ろされ、南軍旗を使用した兵士は調査対象となっています。 現在、一般的な米国人の理解では、南北戦争は“奴隷解放のための戦争”と認識されていますが、実際には、奴隷解放は南北の対立の重要な争点ではあったものの、それだけが戦争の原因ではなかったことは言うまでもありません。このため、南部では、「南軍は奴隷制維持のために戦ったのではなく、“州の権利”を守り、連邦の介入に反対するための戦争だった」との認識から、南軍旗のシンボルは、南部の歴史と文化を記念するものとして尊重されるべきと主張する人も少なくありません。 しかし、2015年、南北戦争の終戦150周年記念イベントの数日後、サウスカロライナ州の黒人教会で白人男性が信者9人を殺害する事件が発生。犯人が南部連合旗の前でポーズを取った写真を公開したことで、南部連合旗のイメージが極端に悪化し、サウスカロライナ州政府が州議会議事堂から南部連合旗の撤去を決定したのを皮切りに、多くの地方自治体が、地元にある南部のシンボルを撤去する流れが生まれます。 これに対して、“南部差別”に対する鬱屈した疎外感から、さらに人種差別的な傾向を強め、そのシンボルとして“南部”を持ち出す勢力が台頭。事態をますますこじらせる状況が続いていました。 ことし(2020年)5月、ミネソタ州ミネアポリスで、詐欺容疑で拘束された黒人男性が、拘束時に警官に膝で首を押さえつけられたことが原因で死亡した事件を巡り、、全米に抗議行動が拡大して暴動にエスカレートし、全米各地で、南北戦争時の南軍指導者や奴隷を所有していたことのある歴史上の人物を“差別主義者”などとして、その銅像等を損壊・汚損する事件が相次ぐ中で、トランプ大統領は、過激派集団の乱暴狼藉に対して“法と秩序”を維持するため、6月26日には、抗議活動の一環として記念碑や像を「損壊、汚損、撤去」する行為に禁錮刑を科す大統領令に署名していますが、現実の暴力の前に、“自主的に”銅像等の撤去に追い込まれるケースも少なくありません。 今回、国防総省が公表した旗の掲揚に関する指針では“統合や団結心を推進する旗”の掲揚を認めるとして国旗や州旗などを挙げる一方、南軍旗を除外。エスパー国防長官も、旗の掲揚については「分断の象徴となることを拒否する」よう求めるなど、事実上、南軍旗の掲揚を禁止する方針を明らかにしました。ただし、トランプ大統領自身は“表現の自由”だとして南軍旗の使用を擁護する姿勢を示しているそうです。 * 昨日(17日)の文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」の僕の出番は、無事、終了いたしました。お聞きいただきました皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。なお、次回の出演は8月7日(金)の予定ですので、引き続き、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-17 Fri 02:23
おととい(15日)、イラン南部のブシェール(ブーシェフル)にある造船所で原因不明の大規模火災が発生し、建造中の船舶5-7隻が損傷しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1906年6月2日、ブシェールで使用された英領インド切手です。 ブシェールはペルシャ湾岸の港湾都市で、1736年、アフシャール朝のナーディル・シャーの治世下で創建されました。1763年、英国東インド会社はこの地に拠点と交易所を設ける権利を獲得し、18世紀後半には英海軍の基地が置かれました。 1856年11月1日、アングロ=ペルシャ戦争が勃発すると、同年12月9日、英国はブシェールを占領。翌1857年3月4日、アングロ=ペルシャ戦争の講和条約としてパリ条約が結ばれると、英国はブシェールから撤退します。しかし、1864年5月1日にはブシェールに英領インド局が設置され、ここに示すように、英領インド切手が使用されました。 1914年に第一次大戦が勃発すると、英国はペルシャ湾からインド洋への制海権を確保するため、1915年8月8日、ブシェールを占領し、イラン切手に“イギリス占領下ブシェール(BUSHIRE Under British Occupation)”と加刷した切手を発行し、使用しています。なお、第一次大戦以降、ブシェールは初期のインド行き航空路の中継地点となり、多くの飛行機がブシェールを経由しました。ちなみに、ブシェールの英領インド局が閉鎖され、ペルシャ郵政が業務を引き継いだのは、1923年4月1日のことです ところで、ブシェールの郊外にはイラン唯一の原子力発電所がありますが、原発の建設は、パーレビ王政時代の1974年、ドイツ企業により始まりました。この計画は、1979年のイスラム革命で中断を余儀なくされていたところ、1980年にイラン・イラク戦争が勃発すると建設途中の施設も壊滅的な打撃を受け、一時は頓挫します。 1988年、イラン・イラク戦争が停戦となり、戦後復興がある程度進むとともに、1991年の湾岸戦争で仮想敵国のイラクが敗北し、原発建設の障害がなくなると、1995年、イラン政府は中断していた原発建設をロシアの協力を得て再開します。 一方、イランでは、1979年の革命直後から極秘裏に核開発に着手していましたが、1990年代には少量のプルトニウムの抽出に成功したことで、2002年にイランの核開発問題が表面化し、2003年には国際原子力機関(IAEA)定例理事会で、イランに対する非難決議案が全会一致で採択されました。 さらに、2005年に発足した対米強硬派のアフマディネジャド政権は、核開発続行の意思を表面し、2006年4月、核燃料サイクルに適合するウランの精製に成功したと発表。さらに、同年11月には“完全な核燃料サイクル技術を獲得した”との発表も行われました。この間、 7月31日には国連安保理がイランに核開発中止を求める決議1696を賛成14、反対1(カタール)で採択しています。 こうした経緯を経て、2011年、イランの最初の原子力発電所であるブシェール第1原子炉が、主にロシアの国営原子力企業ロスアトムによる援助で完成。同年9月12日、公式に稼働を開始しましたが、現在なお、核開発疑惑が払拭されたわけではないのは周知のとおりです。 さて、イランでは、6月下旬に首都テヘランの軍事施設と診療所で爆発が発生。さらに、今月2日には、中部ナタンズの核施設で、動作試験中だった高性能の遠心分離機などが破壊される原因不明の“事故”が発生し、12-14日には、南部のアルミ工場、化学工場、工業団地などで原因不明の火災や爆発が多発しています。 特に、ナタンズでの火災については、イラン当局が破壊工作とほぼ断定し、国営イラン通信は「もし敵国が、特にシオニスト政権(イスラエル)や米国が、越えてはならないイランの一線をいかなる形であれ越えるならば、新たな状況に立ち向かうイランの戦略は根本的に再考されなければならない」と警告する論説を発表しています。 ただし、今回のブシェールでの火災については、米国ないしはイスラエルによる謀略説のほか、国内の反政府組織による犯行との見方もあり、今後、さまざまな陰謀論が出てくることになりそうです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 7月17日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-16 Thu 00:32
公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2020年7月号が発行されました。僕の連載「切手歳時記」は、今回は、7月16日(旧暦)の相撲節会にちなんではこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1978年9月9日、相撲絵シリーズの第2集として発行された「陣幕と雷電の取組の図」の切手です。 『日本書紀』によると、垂仁天皇七(紀元前23)年7月、力自慢で知られた野見宿禰と当麻蹶速が召されて相撲を取り、野見が当麻の腋骨と腰を折って殺したのが、相撲の始まりとされています。 その後も宮中では7月頃、相撲観覧が行われていましたが、奈良時代の天平6年7月7日(734年8月10日)、聖武天皇は野見宿禰と当麻蹴速の試合の故事にちなみ、七夕の日、全国の力自慢を集め、宮中紫宸殿の庭で相撲を取らせ、あした。これが、七夕の歌会にあわせて、その年の農作物の収穫を占う宮中行事、“相撲節会”の由来とされています。また、桓武天皇は、延暦11(792)年に軍制の改革を行い、兵役を廃止して郡司や富裕者、有位者の子弟から健児を採用することとしましたが、相撲の技はその鍛錬の手段として取り入れられます。 天長元年7月7日(824年8月5日)、平城上皇が崩御すると、相撲節会の日取りは7月16日に移され、以後、七夕の諸行事から独立。その後、相撲節会は武力の鍛錬という意味合いが薄れ、雅な宮中行事となりましたが、11世紀半ばに御所で火災が相次いだことで徐々に簡素化されていきます。さらに、12世紀に入ると京の治安が悪化して、保安3(1122)年以降は停止されました。その後、後白河天皇が一時的に再興したものの、承安4(1174)年を最後に、宮中行事としての相撲節会は行われなくなります。 鎌倉以降の武士の世になると、武芸としての相撲の技を主君の前で競うことが行われるようになり、戦国時代に貴族の都落ちで京の文化が全国に広がると、それに伴い、相撲を職業として巡業などで生計を立てる相撲人が現れました。彼らの巡業は神社の祭礼で行われ、寺社仏閣の建築修復費用を調達のため“勧進”を称することも多かったため、“勧進相撲”の名での興行が次第に定着していきます。 江戸幕府は、秩序を乱すとの理由から、慶安元(1648)年に勧進相撲を禁じましたが、徐々に禁令は緩められ、寛保2(1742)年には勧進相撲が完全に解禁。11代将軍家斉と12代家慶の時代には、江戸城吹上で将軍の前での上覧相撲が七回催されました。 特に、寛政3年6月11日(1791年7月11日)、家斉の御前で行われた上覧相撲では、谷風、小野川が横綱土俵入りを披露したほか(公式の横綱土俵入りはこれが初めて)、家斉から弓を賜った谷風が土俵上で敬い奉げて四方に振り回し、これが現在の弓取式の原型になるなど、現在の大相撲の原型ともいうべき要素がいくつか見られます。 しかし、当時の江戸の人々にとっては、それまで無敗を誇った雷電(当時の番付は関脇)が、陣幕にのど輪で土俵外に押し出され、初黒星を喫したことが最大の話題でした。今回ご紹介の切手に取り上げられた「陣幕と雷電の取組の図」は、相撲絵を得意とした勝川春英がこの取組を題材として描いたもので、手前に雷電が、奥に陣幕が描かれており、行司は木村庄之助です。 不覚を取った雷電は、その心境を「陣幕に張りつめられし御上覧 今年ゃ負けても来年(=雷電)は勝つ」と、自分の四股名と来年をかけた狂歌でその悔しさを詠んでいます。その後、雷電は同年の江戸11月場所で陣幕を破って雪辱を果たし、その後も陣幕に負けることはありませんでした。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 7月17日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-15 Wed 01:21
きょう(15日)は、拙著『みんな大好き陰謀論』の奥付上の刊行日です。というわけで、同書の表紙カバーのデザインに使った絵葉書についてご説明いたします。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1920年代にフランスで作られた絵葉書で、英国の女性アーティストのアグネス・リチャードソンのイラスト「陰謀」が取り上げられています。 アグネス・リチャードソンは、1885年、ウィンブルドンで印刷所を経営する家庭に生まれました。ロンドンのランベス美術学校で学び、1908年頃からロンドンのジョゼフ・コースティン・アンド・サン社と契約を結び、子供向けの絵本や絵葉書、ロンドン交通局のポスターなどを制作しました。 今回ご紹介の絵葉書は、少女ドリーにさまざまな扮装をさせた“ドリー・シリーズ”の1枚で、「陰謀」と題して、上流婦人に扮したドリーと道化が密談をする場面が描かれています。 今回の拙著に関しては、ユダヤ陰謀論に基づいて作られたナチスの謀略切手などを表紙に持ってくることも考えたのですが(本文では紹介しています)、それだと拙著も陰謀論の本であるかのような印象を与えかねないので、表紙で取り上げる題材の選択にはかなり頭を悩ませました。結果的に、アンダーソンの絵葉書を入手できましたので、『みんな大好き陰謀論』という書名とも違和感のない表紙デザインになったのではないかと思っているのですが、いかがでしょうか。 なお、著者本人としては、今回の拙著は、ジャンルとしては「世界史」の本だと思っているのですが、アマゾンでは「その他の思想・社会」に分類されているほか、読者の方々のご報告によると、書店によっては、“陰謀論”ということでスピリテュアルやオカルト、さらには基礎心理学の棚に置かれていることもあるのだとか。分類のしづらい本ということで、いろいろご不便をおかけすることもあるかと思いますが、表紙はそれなりに目立つと思いますので、どこかで実物をご覧になりましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 7月17日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-14 Tue 00:52
きょう(14日)は巴里祭(フランス革命記念日)です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1989年7月7日、イスラエルが発行した“フランス革命200年”の記念切手シートで、切手部分には、革命のシンボルとして“自由の木”を植える場面を描いた風俗画が取り上げられています。ちなみに、“自由の木”は、1790年、革命派の人々がパリで植樹したのが最初で、その後フランス、スイス、イタリアとその風潮が広がり、各地の町の中心広場に革命の象徴の木が植えられるようになりました。 シートの余白部分には、切手を挟んで左側にバスティーユ監獄襲撃の場面が、右側に革命派の兵士を背景に、1791年の“ユダヤ人解放令”の文言が記されています。 近代以前のキリスト教世界では、ユダヤ人/ユダヤ教徒は、一定の納税義務と引き換えに、国王の勅許状で安全(王による後見)を保証され、社会的な差別は受けるものの、マイノリティとして独自のユダヤ人社会を形成し、ユダヤ教の風習を守り、ユダヤ人として生きてきました。そして、一部には、医学や金融、芸術、芸能などの特殊な能力により、領主や国王の個人的な“資産”として、一般のキリスト教徒領民よりも豊かな生活を保障される者も少数ながら存在していました。 1789年、フランス革命直前に招集された三部会では、ユダヤ人は、信仰の自由、申請が拒否されてきた地区でのシナゴーグの設置許可、婚姻税と職業制限の撤廃などの請願を出しましたが、この時点では、ユダヤ人から参政権を含む市民権の要求は出されていません。 フランス革命当時、フランス領内のユダヤ人は、イベリアから移住したポルトガル系ユダヤ人とおよびアヴィニョン教皇領のセファラディームと、アルザス・ロレーヌを中心にライン以東に居住していたアシュケナジムの2(または3)系統がありました。このうち、セファルディムは比較的フランス社会との同化が進んでいましたが、アシュケナジム(人口としてはこちらが多数派)は同化を拒否してユダヤ社会の伝統を堅持する傾向がありました。ただし、他の欧州諸国と比べると、どちらも都市への居住が認められるなど、フランス社会は比較的ユダヤ人に対して寛容でした。 1789年7月14日に革命が勃発すると、8月26日、セファルディムとアシュケナジムは共同でユダヤ人の市民権要求の請願を提出。これを受けて、1791年1月28日、まず、セファルディムに対して職業と居住地の自由が保障されます。その後、国民議会では、ユダヤ人の“平等”をめぐって激しい対立が起こりましたが、1791年9月27日にユダヤ人解放令が議決され、11月に発効しました。ちなみに、ここでいう“解放(Emancipation)”は、国王の“後見”を外してユダヤ人を“フランス国民”に編入するという意味です。 さらに、1804年、皇帝として即位したナポレオン・ボナパルトは、フランスのユダヤ人が、ユダヤ人/ユダヤ教徒である以前に、“フランス国民”としてフランス国家への忠誠心を感じるようするには、ユダヤ人を改変することが必要と考え、1806年7月、ユダヤ人名望家会議を招集。1804年に制定されたナポレオン法典とユダヤ社会の慣習やタルムードは矛盾しないことを決議させます。 さらに、1806年8月23日、パリで開催されたサンヘドリン(古代エルサレムの最高宗教裁判所に由来する名称)では、①ある国に生まれ育ち、あるいは居住その他の理由でその国の市民となったユダヤ人(イスラエルの民)は、その国を祖国と見なすのが宗教的義務である、②したがって、フランスのユダヤ人は他のフランス人を愛すべきである、③フランスでの法定の判決はユダヤの法定に優先する、ことが決定されます。 1808年3月17日に発せられた国務院の政令では、ラビに対して、「ユダヤ教徒に兵役を神聖な義務と見なすようにし、兵役中は法と両立しないような宗教的規定を順守する必要はないと明言すること」が命じられ、ユダヤ教徒であっても、“フランス国民”である限りは、安息日にであっても、兵士として戦闘や訓練を行ったり、義務教育の学校で学び、あるいは授業を行ったりするなど、フランス国民としての義務を果たすことが求められました。 こうして、フランスは“国民国家”を形成し、ユダヤ人/ユダヤ教徒を“フランス国民”として統合していったわけですが、これに対して、ユダヤ社会の側も、こうした社会潮流の変化を積極的に受け入れ、“フランス国民”としての同化を志向する立場と、それを拒否してユダヤ人の独自性にこだわる立場に分裂していくことになります。 なお、この辺りの事情については、拙著『みんな大好き陰謀論』でもいろいろ説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 7月17日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-13 Mon 02:04
ブルガリアのルメン・ラデフ大統領が、11日、国民に向けてテレビ演説し、ボイコ・ボリソフ内閣を“暴力団の類”と非難し、総辞職を求めたそうです。というわけで、同大統領にちなんで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1956年にブルガリアで発行された切手付き封筒で、ラデフの出身地、ディミトロヴグラトの“スターリン化学コンビナート”が取り上げられています。 ディミトロヴグラトはブルガリア中南部、ハスコヴォ州の都市です。ディミトロヴグラトは、1947年9月2日、ラコヴスキ、マリウノ、チェルノコヌオヴォという3村が合併して生まれた基礎自治体(日本の市町村に相当)で、地名は、コミンテルン最後の書記長で、共産ブルガリアの初代首相を務めたゲオルギ・ディミトロフに由来しています。ちなみに、ディミトロフに関しては、拙著『みんな大好き陰謀論』でも、コミンテルンとの関連で詳しく述べておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 さて、ラデフは、1963年6月18日、ディミトロヴグラト生まれ。共産政権時代末期の1987年、ゲオルギ・ベンコフスキ・ブルガリア空軍大学を首席で卒業し、第15戦闘機航空連隊に見習操縦士として配属されました。1990年のブルガリア民主化後もそのまま同連隊に残り、部隊長に昇進して米国に留学。1992年、マクスウェル飛行中隊長士官学校を卒業しました。さらに、1994-96年にはラコフスキ国防幕僚大学で学び、首席で卒業しています。その後は、空軍のエリート将校として順調に昇進し、2014年には空軍司令官に就任しました。 2016年に退役し、同年8月、旧ブルガリア共産党の後継政党であるブルガリア社会党と“ブルガリア再興のための選択肢 (ABR)”の大統領候補に指名されましたが、まもなく、ABRはラデフの推薦を取り消し、イヴァイコ・カルフィンを大統領項に指名。11月の大統領選挙では、決選投票で“ヨーロッパ発展のためのブルガリア市民 (GERB)” のツェツカ・ツァチェヴァ候補を破って当選を果たしました。 一方、ラデフから罵倒されたボリソフは、1959年6月15日、ソフィア生まれ。祖父は、共産党・農民同盟左派らで構成される“祖国戦線”が権力を掌握した“9月革命”(1944年)で粛清されており、共産政権時代は不遇をかこっていました。 民主化後の1991年、空手の経験(ブルガリア代表のコーチや国際試合の審判員の経験があります)を活かし、民間警備会社Ipon-1を設立。シメオン2世(ブルガリア王国最後の国王)らの警備を担当し、その実績をもとに、2001-05年には内務省の事務長官を務めました。2005年の総選挙でソフィア市長に当選。翌2006年にはGERBを結党し、現在に至るまで、実質的にGERBのトップに君臨しています。また、2009年の国民議会選挙でGERBは240議席中116議席を確保し、ボリソフはGERBを中心とした中道右派政権の首相に就任。以後、2009年7月~2013年3月、2014年11月~2017年1月に首相を務めました。 2016年11の大統領選挙でGERB候補のツァチェバがブルガリア社会党候補のラデフに敗れると、いったん、首相を辞任しましたが、2017年3月26日の総選挙でGERBが第一党を維持したことから、首相に復帰。現在まで首相の地位を維持しています。 このように、ラデフとボリソフは因縁の宿敵ともいうべき関係にありますが、今月9日、捜査当局が汚職や国家機密流出の疑いで大統領府などを捜索し、大統領側近らを連行すると、ラデフ支持の市民が首都ソフィアでこれに抗議する大規模デモを展開。デモ隊は“暴力団”、“殺人犯”などと政府批判を連呼し、ボリソフの辞任を求め警官隊にペットボトルや花火を投げ付けています。 これを受けて、11日、ラデフは、ボリソフを“オリガルヒ(新興財閥)の仲間”とし、現政権は“汚職、恐怖政治、捜査当局による脅迫”などの罪を犯しているとしたうえで、冒頭ご紹介した“暴力団の類”との表現で政権を罵倒。一方、ボリソフも同日、ネットを通じて「流血の事態は避けたい」と述べ、デモ隊に自制を求めていますが、現在も緊迫した状況が続いています。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 7月17日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-12 Sun 11:13
10日に投票が行われたシンガポールの総選挙で、事前の予想通り、1965年の独立から一貫して単独政権を担ってきた与党・人民行動党(PAP)が83議席を獲得したものの、得票率は急落して過去最低水準に落ち込み、彼らが目標としていた“圧勝”には及びませんでした。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1999年、シンガポールの現在の国会議事堂が完成した際に発行された“新議事堂竣工”の記念切手の1枚です。シンガポールの新議事堂竣工の記念切手は4種セットで、それぞれ、さまざまな角度からの議事堂の景観が取り上げられていますが、今回は議事堂を正面から取り上げた国内料金用・永久保証の無額面切手を持ってきました。 シンガポールの国会は、1院制で選出議員の任期は5年(解散あり)。定数は、独立当初は51議席で、当時の議事堂は、1827年に建設された旧最高裁庁舎(シンガポール最古の西洋建築で、もともとは、スコットランド商人のマックスウェルの邸宅として建造されました)が用いられていました。場所は、トーマス・ラッフルズの上陸記念像を中心とした、シンガポール川河口の北岸のシティ・ホール地区です。 その後、1983年に75議席に拡大されたことから、旧議事堂では手狭になったため、1995年、旧議事堂に隣接する場所に新議事堂の建設が開始され、1999年7月、今回ご紹介の切手に取り上げられた建物が完成しました。なお、現在のシンガポール国会の議席定数は101で、旧議事堂の建物は、現在はアート・ハウスとして公開されています。 さて、シンガポールの国会議員の構成は、101の定数のうち、選挙区選出議員が89名、非選挙区(全国区)選出議員が3名、大統領による指名議員が9名という構成になっており、選挙区選出議員は、13名が単純小選挙区制からの選出、76名が16選挙区のグループ別選挙での選出となっています。このうち、グループ選挙区では、有権者は、候補者ではなく特定のグループへ投票し、最多票を獲得したグループがその選挙区の議席を独占する仕組みになっているため、シンガポール唯一の大政党である与党、PAPに有利とされており、2006年の総選挙では、野党勢力は30%以上の票を得たにもかかわらず、グループ選挙区で全敗したため、2議席しか獲得できませんでした。 さて、今回の選挙では、PAPは、新型コロナウイルス禍で経済が低迷する中、“国民の雇用維持”を最優先の公約に掲げ、経験豊富なPAPの下、国民が団結すべきとアピール。定数92の89%に相当する83議席を獲得したものの、はじめて、議席の占有率が9割を割り込みました。また、得票率でも、前回の2015年選挙時の70%から61%に急落。過去最低となった2011年選挙時の60%にほぼ並んでいます。 一方、野党の労働者党は、PAP体制の極端な競争・能力主義で切り捨てられてきた社会弱者の救済を主張し、PAPの一党支配を批判。4議席増の10議席を獲得し、野党として過去最多の議席数に伸長しました。 現在68歳で、70歳までに退任する意向を示しているリー・シェンロン首相(シンガポールの国父とされるリー・クアンユー元首相の長男)は、今回の選挙結果について、「(若者を中心に)議会の多様性を求める声があった」とのコメントを発表。たしかに、政党や候補者に(まともな)選択肢がないことの辛さは、僕らも身にしみてわかってますがね。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 7月17日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-11 Sat 02:35
トルコのエルドアン大統領は、きのう(10日)、世界遺産“イスタンブル(イスタンブール)歴史地区”を代表する建造物で、現在は博物館となっているアヤソフィア(旧聖ソフィア大聖堂)を再びモスク(イスラムの礼拝施設)とする大統領令に署名しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1984年にトルコが発行した“イスタンブル歴史地区”のユネスコ・世界遺産登録をめざすキャンペーンの切手のうち、アヤソフィアを取り上げた1枚です。ちなみに、この切手の効果もあってか、1985年、アヤソフィアを含む“イスタンブル歴史地区”は無事に世界遺産に登録されています。 アヤソフィアは、東ローマ皇帝のコンスタンティウス2世(コンスタンティヌス大帝の子)治世下の360年、コンスタンティノープル総主教庁の所在地たるキリスト教の大聖堂として建立され、以後、東ローマ帝国の諸皇帝の霊廟としても用いられてきました。 最初の教会堂は木造屋根をもったバシリカでしたが、404年の争乱で焼失。その後、テオドシウス2世によって415年に再建されましたが、ユスティニアヌス帝治世下の532年にふたたび焼失しました。このため、ユスティニアヌス帝は過去の聖堂の復旧ではなく、全く新ドーム型の大聖堂の建立に着手し、537年、直径33メートル、高さ56メートルの堂宇が完成しました。これが、現在のアヤソフィアの原型となります。 その後、ドームは地震などにより何度か崩落し、そのたびに再建されましたが、14世紀の崩落後、基本的なデザインを維持したまま、ドームの開口部を縮小した形で再建されました。 1453年、コンスタンティノープルがオスマン帝国の支配下に入ると、スルターンのメフメト2世は大聖堂をコンスタンティノポリス総主教庁から没収し、“アヤソフィア・ジャミィ”としてモスクに転用。大聖堂に接続する総主教館が破壊されるとともに、内部の十字架は取り外され、聖地メッカの方向を示すミフラーブが加えられました。さらに、その後、4本の尖塔が建設され、ほぼ現在の姿となります。 第一次大戦後、オスマン帝国の滅亡を経て成立したトルコ共和国は世俗主義を国是としていたため、1934年、アヤソフィア・ジャミィはモスクとしての運用が停止され、翌1935年、“無宗教の博物館”として公開。以後、アヤソフィアの建物を、イスラムを含むあらゆる宗教的行事の場として使うことは厳しく禁じられてきました。 これに対して、2003年3月9日、軍部の政治介入をやめさせてトルコを“先進的な民主国家”にするとの公約を掲げて発足したエルドアン政権(当初、エルドアンは首相)は、国民の90%以上がムスリムであるという実情を踏まえてイスラム色の強い政策を推進するとともに、憲法改正を行って、世俗派の牙城である軍の権限を縮小するなどの政策を推進。2016年には国軍の叛乱を鎮圧し、さらに、イスラム回帰の傾向を強めていました。 そうした流れに沿って、2019年3月、エルドアンはアヤソフィアをモスクへ戻す方針を宣言した。さらに、ことし(2020年)5月29日には、アヤソフィアを会場にコンスタンティノープル征服567周年記念式典が開催され、コーランが朗誦されるなどしたため、まずギリシャがキリスト教徒に対する冒涜として反発。米国も、トルコに対するキリスト教徒の反発が強まりかねないとして自制を求めていました。 これに対して、トルコの最高行政裁判所は、今月2日、アヤソフィアの“博物館”としての地位の是非をめぐり審理を行い、「今後15日以内に判断を下す」と決定し、きのう(10日)、アヤソフィアを“無宗教の博物館”と定めた1935年の閣議決定を無効とする判決を発表しました。今回の大統領令はこれを受けての措置ですが、アヤソフィアについては“(トルコにおける)異文化共存の象徴”とする国際世論も根強く、ユネスコはただちに「建物の傑出した普遍的価値に変更を加えてはならない」との声明を発表しています。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 7月17日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-10 Fri 01:20
ロシアの治安当局は、きのう(9日)、2004-05年に起きた複数の起業家の殺人・殺人未遂を画策した疑いで、極東連邦管区のハバロフスク地方の現職知事、セルゲイ・フルガルを逮捕しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2018年11月22日にロシアが発行した連邦構成主体シリーズのうち、“ハバロフスク地方”を取り上げた切手シートで、同地方の紋章ロシア領内での位置を示す地図が取り上げられています。 現在のロシア連邦の構成主体は、国際的には未承認のクリミア併合後のクリミア半島の2主体を除くと、46州(オブラスト)と9地方(クライ)、3市 (連邦直轄市)、22共和国(ソ連時代の自治共和国に相当)、1自治州、4自治管区となっています。このうち、州と地方には基本的な相違はないのですが、“地方(クライ)”という名は、ロシア帝国時代に国境地帯に置かれた歴史的な地方区分の名称がそのまま現在まで継承されたものです。 1858年5月28日、ロシアは清朝とアムール川中流の璦琿で条約を結び、1689年のネルチンスク条約以来、清国領とされてきたアムール川左岸をロシア領とし、ウスリー川以東の外満州(現・沿海州)を両国の共同管理地とするとともに、アムール川におけるロシアの航行権を認めさせました。 これを受けて、さっそく5月31日、ディヤチェンコ大尉ひきいるロシア国境警備隊(東シベリア第13大隊)は、アムール川を東進してアムール川とウスリー川の合流地点近くに上陸。そこに要塞を設置し、この要塞を17世紀のシベリアの探検家、エロフェイ・ハバロフにちなんでハバロフカと命名しました。これが現在のハバロフスクの直接的な起源で、1895年には“ハバロフスク”に地名を改称したうえで、市制が施行されます。 帝政ロシア時代、ハバロフスク市とその周辺は“極東地方”に含まれていましたが、ソ連時代の1938年10月20日、極東地方がハバロフスク地方とプリモルスキー地方(沿海地方)に分割されたことで、現在のハバロフスク地方の枠組みができあがりました。なお、現在のハバロフスク地方は、行政中心地(州都に同じ)のハバロフスクを含め、17地区、7の町、18都市型集落で構成されており、その面積は78万8600平方キロです。 さて、今回逮捕されたフルガルは、1970年2月12日、アムール州ポヤルコヴォ生まれ。2007年に政界入りするまでは、材木や金属を輸出し、日用雑貨を輸入するビジネスを手掛けており、2004年にハバロフスク地方で、2005年にアムール州で実業家が殺害された事件と別の殺人未遂事件に関与した疑いが持たれています。また、フルガルの逮捕に先立ち、実行犯とされる4人の共犯者がすでに逮捕されているそうです。 その後、フルガルは、2007年に自由民主党の候補として連邦下院選挙に当選。以後、2018年まで連邦下院議員を務め、2015-16年には下院の保健委員会の委員長となりました。そして、2018年の知事選では、プーチン大統領の与党統一ロシアの現職、ヴャチェスラフ・シュポルトを決選投票で破って初当選。統一ロシア以外から選出された数少ない知事の1人でした。 なお、ハバロフスクとその歴史については、拙著『ハバロフスク』でも詳しく説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-09 Thu 01:26
ことしは新型コロナウイルスの影響で中止になってしまいましたが、例年であれば、きょう・あす(9・10日)は、浅草寺のほおずき市の日です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2002年6月28日にふるさと切手(東京都)として発行された「東京の市」のうち“ほおずき市”の切手で、雷門を背景にほおずきの鉢が描かれています。 伝承によると、628年、宮戸川(現在の隅田川)で檜前浜成・竹成の兄弟が漁をしていたところ、その網に仏像がかかりました。兄弟はこれを持ち帰り、土地の長である土師中知(名前には諸説あり)に見てもらうと、聖観世音菩薩の尊像であるとわかったため、翌日、里の童子たちが草でつくったお堂に、この像を祀りました。その後、中知は私邸を寺に改め、この観音像を本尊として、礼拝供養に生涯を捧げました。これが浅草寺の始まりとされています。 その後、平安時代頃から、毎月18日が観世音菩薩の縁日とされてきましたが、16世紀半ば頃から、1日の参拝で100日分、1000日分の功徳が得られる“功徳日”の縁日が設けられるようになります。 浅草寺では、月に1度、年に12回の功徳日を設けていますが、そのうちの最大のものが7月10日で、4万6000日分の功徳があるとされることから“四万六千日”と呼ばれています。4万6000という数字の根拠については諸説ありますが、米の一升が米粒4万6000粒にあたることから、一升と一生をかけたとものと説明されることが多いようです。 江戸時代には、四万六千日の縁日には多くの参拝客が浅草寺を訪れ、前日の9日から境内は参拝者で賑わうようになったため、9・10日の両日が縁日とされるようになりました。 四万六千日の縁日にあわせてほおずき市が行われるようになったのは、江戸時代の明和年間(1764-72)のことで、当時の民間信仰では、ほおずきの実は、「水で鵜呑み(丸飲み)すれば、大人は癪(なかなか治らない持病)を切り、子供は虫気(腹の中にいると考えられた虫による腹痛など)を去る」と考えられてしました。 ちなみに、浅草寺の本尊でもある観世音菩薩の観世音は、サンスクリットの“アヴァロキテシバラ”の漢訳で、一切の人々の声や願い事を良く見抜くという意味で、観世音菩薩は、苦しみの中にいる衆生が一心に観世音の名を念じると、直ちにその“音”を“観”じて救うとされています。 僕は特に信心の篤い人間ではないのですが、今年に入ってからのコロナ禍やここ数日、九州と岐阜・長野両県での水害などのニュースに接すると、やはり、観音様のご加護で一日も早く平穏な日々が戻ってほしいですね。来年は無事にほおずき市が開催されることをお祈りしております。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-08 Wed 01:43
ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第54巻第3号ができあがりました。というわけで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1978年10月24日にタイで発行された“国連の日”の記念切手で、「国連のエンブレムの下、“人口と発展”の標語とともに、政府の人口抑制ならびに家族計画促進の政策を表現した」デザインが取り上げられています。 1950年に2071万人だったタイの人口は、1955年には2371万人、1960年には2740万人、1965年には3182万人、1970年には3688万人、1975年には4232万人と25年でほぼ倍増しており、年間人口増加率は3%を超えていました。 もともと、タイは国策として人口増加を施行しており、先の大戦中にはピブーンソンクラーム首相も「1956年までには1億の人口が必要であり、大家族には報奨が与えられる」と発言しています。しかし、1959年、世界銀行により、人口増加がタイ経済に及ぼす負の影響についての警告を発せられたのを機に、タイ政府は家族計画サービス実施の準備を開始。1970年には、「政府は、国の経済社会発展の重大な妨げとなる非常に高い人口増加率に関する種々の問題を解決するため、家族計画を支持する政策を有するものである」との声明を発し、国家家族計画プログラム (NFPP)が始まります。 同プログラムのは、①1970年当時3%であった人口増加率を1976年までに2.5%に抑えること、②あらゆる情報伝達の手段を使って、必要な人々に家族計画の意味を知らせ、その実行をうながすこと、③国内のどこででも、家族計画サービス(具体的には、コンドームやピルの配布、避妊薬DMPAの注射、不妊手術、各種の知識教育など)が受けられるようにすること、④家族計画サービスを、既存の母子保健226 サービスに統合し、相互にその事業を発展させていくこと、の4点を柱としていました。 ところで、NFPPは保健省保健局家庭保険部(常勤職員300人)が担当していますが、家族計画サービスの現場である助産所、保健所、郡保健部は郡医務官の官轄下にあり、家庭保健部の直接命令系統下にはありません。また、郡医務官を監督する県保健部長は、内務省が任命する県知事の命令に服するため、現場の助産婦は家族計画サービスよりも県保健部長の指示を優先しがちです。このため、NFPPは、助産婦に対して原付二輪を供与するなどして、助産婦に家族計画サービスに必要な知識を教育し、インセンティブを高める工夫を行っています。 また、当時のタイならではの事情としては、家族計画が特に必要とされていた国境地帯の農村が、周辺諸国の戦乱の影響もあって治安が悪く、一般の助産婦が家族計画サービスを行うことが現実的ではなかったため、国境警備隊が家族計画サービスを行うこともあったという点が挙げられます。このほか、農村部では村民に対する村長の影響力が大きいので、村長を管轄する内務省を通して、村長らを対象とした家族計画サービスの教育も行われました。 その成果もあり、1960年ごろまではほぼ6.5前後で推移していた合計特殊出生率は、1975年には4.1、今回ご紹介の“国連の日”の切手が発行された1978年には3.5にまで減少。“国連の日”の切手が、母親の周りに4人の子供を配したデザインになっているのも、そうした実績を踏まえたものと思われます。 なお、1978年度のタイの家族計画予算は、米ドル換算で、政府予算が340万ドル、国連人口基金を中核とした国際機関からの支援が200万ドル、日本を含む2国間政府援助170万ドルという構成になっていましたから、“国連の日”の切手にはNFPPの成果を出資者である国連に感謝の意を示すという面もありました。 さらに、切手の発行から1ヶ月ほど後の1978年12月には、パタヤで国際家族計画連盟(IPPF)および東南アジア人口・家族計画政府間協力委員会 (IGCC)共同のワークショップも開催されており、この切手には、その事前の周知・宣伝の意味も込められていたとみることも可能でしょう。 *昨日(7日)、アクセスカウンターが221万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-07 Tue 01:21
きょう(7日)は、1978年7月7日に独立したソロモン諸島の独立記念日です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1907年に発行された英領ソロモン諸島最初の切手の準備段階で制作された試刷です。実際に発行された切手とは用紙が異なり、また、目打も入っていません。 1893年、英国は、ガダルカナル島を含むソロモン諸島中部および東部の島々や西部のニュージョージア島の保護領化を宣言し、英領ソロモン諸島が成立します。 これを受けて、1895年、ガダルカナルの対岸、フロリダ諸島の小島、ツラギに植民地政庁が設置され、翌1896年、植民地行政の責任者である弁務官としてチャールズ・モリス・ウッドフォードが任命されました。また、これとあわせて、ガダルカナル東端のマラウ・サウンド(この場合の“サウンド”は入江の意)の中洲、タヴァニププに船着き場が設けられています。 ウッドフォードが英領ソロモン諸島の弁務官に駐在した1896年の時点でソロモン諸島在住の西洋人は47人しましたが、彼らと外部世界(特にオーストラリア)との通信は、当初は、島を往来する不定期の船に託され、オーストラリアに持ち込まれた後、持ち込んだ人が差出人から預かったお金(英本国のスターリング・ポンド。当時は、ソロモン諸島独自の通貨が発行されていなかっただけでなく、オーストラリアの各植民地でもスターリング・ポンドが法定通貨でした)で切手を購入して投函する形式が採られていました。 弁務官のウッドフォードは、これを少しでも組織化することを考え、1897年以降、ツラギやホニアラなど、外国人の居留地にニューサウスウェールズ切手を持ち込んで欧米系の住民に販売。ニューサウスウェールズ切手を貼った郵便物はツラギの植民地政庁に集められた後、一括してシドニー郵便局長宛に送られ、シドニーで消印されてから、宛先地に届けるという方式が採用されていました。 その後、ウッドフォードは英領ソロモン諸島の存在を広く西洋社会に周知するため、植民地として独自の切手を発行することを計画。1903年、フィジー駐在の英領太平洋地域の高等弁務官ヘンリー・ジャクソンに対して、ソロモン諸島がオーストラリアの一部ではないことを示すためにも、独自の切手を使用したいと申し出ます。 これを受けて、とりあえず、1906年4月12日、ツラギに常設の郵便局が設置され、ニューサウスウェールズ切手の販売を停止するとともに、郵便物の切手を貼るべき場所に“BRITISH SOLOMON ISLANDS PAID”と表示された長方形の印が使用されるようになります。この印が押された郵便物は、シドニー以遠の料金相当の小切手とともに一括してシドニーに送られ、シドニーでニューサウスウェールズ切手を貼り、宛先地へ届けられました。 これと並行して、ウッドフォードは、シドニーのW.E.スミス社に独自の切手製造を委託。翌1907年2月14日、ソロモン諸島最初の切手が発行されました。また、1907年中にガヴツ、ギゾ、ショートランドに、1908年10月20日にはアオラ(ガダルカナル島内)に郵便局も開設され、植民地域内の郵便網も徐々に形成されていきます。 この時発行された切手には、ツラギの風景とソロモン諸島の伝統的な戦闘用カヌーが描れており、ウッドフォード本人がデザインを作成しました。なお、当初、ソロモン諸島の切手は域内の郵便にのみ有効で外国郵便には使用できませんでしたが、同年9月、ソロモン諸島が万国郵便連合に加盟した後は、外国宛の郵便物にも有効となります。また、1908年には、同じデザインで印面を若干縮小したロンドンのトマス・デ・ラ・ルー社製の切手が発行されました。 さて、現在、第二次大戦中の激戦地として知られる“ガダルカナル”にフォーカスを当てた本を作っています。内容は、戦史よりも、戦後のガダルカナルが中心で、すでに、本文の原稿は書き終え、現在、校正作業を進めているところです。正式な書名や発売日などが決まりましたら、またこのブログでもご案内していきたいと思っておりますので、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-06 Mon 02:05
ことしは新型コロナウイルスの影響で中止になってしまいましたが、例年であれば、きょう(6日)から8日までは、入谷の朝顔市が行われています。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1961年8月1日に発行された花切手の“あさがお”に、発行初日の入谷局の風景印を押したオンピースです。 この切手と朝顔市については、以前、「團十郎」と題して短いエッセイを書いたことがあるのですが、自分のブログでは紹介したことがなかったので、以下、転載してみたいと思います。(ただし、内容は一部修正しています) **** 学生の頃、友人が入谷の朝顔市で売り子のバイトをするからといって、鬼子母神まで出かけて行ったことがある。 当日は大変な混雑だったが、彼の店はすぐに見つかった。 友人は会うなり、「せっかく来たんだから、付き合いで一鉢くらい買ってくれよ」と言い、「やはり團十郎が良いんじゃないか。これはどうだ。それともこっちにするか?」と、有無を言わさず、畳み掛けてくる。あまりに鼻息が荒いので、「團十郎なら『しばらく しばらく』というだろうよ」といって逃げ出したい気分だったが、どっこい、そうはさせじと必死の友人は「うん。これが良い」と勝手に決めてしまい、ビニールで鉢を包んで「それじゃ、2000円だ。団扇をおまけに付けとくから」とニコニコしている。 結局、その場の空気に飲まれて一鉢買って帰ったが、地下鉄の車内で鉢を抱えながらふと我に返ると、夜型の僕は早起きをして花を見ることなどできやしないのを思い出し、友人の口車に「おそれ入谷の鬼子母神」という心境になったのが懐かしい。 その後、毎日の水遣りは母がきちんとやってくれたおかげで、ひと夏、家族は花を楽んだという。種も取れたので、翌年、今度は自分で鉢に植えて育ててみようと思ったのだが、結局、どこかへ仕舞ったきり、わからないままになった。 朝顔の切手といえば、昭和36(1961)年に発行された花切手の一枚がすぐに思い浮かぶ。 昭和36年の花切手は、郵便創業90年の記念企画として、毎月1枚ずつ、季節の花を取り上げて発行された。郵政省のデザイナーの負担を軽減するため、原則として、印刷局のデザイナーが技術研究のために描いていたストックの中から適当なものを選び、植物の専門家で東京大学教授の小倉謙の考証を経た上で、切手の原画として浄書するというスタイルで制作された。 あさがおの切手の原画は、印刷局の中島桂が以前に描いていたものをシリーズの規格に合わせて描きなおしたもの(昭和36年2月6日に完成)と、郵政省の大塚均が制作したもの(2月16日に完成)を比較・検討したうえで、中島の作品が採用された。 あらためて切手を見ながら、僕が買わされた買った團十郎も、そういえば、こんな感じだったなぁと懐かしく思って調べてみたところ、「世間では茶色の朝顔をすべて“團十郎”と呼んでいるが、その中には、本来の團十郎ではない團十郎モドキも少なからず含まれている」という一文をネットで見つけた。 どういうことかというと、本来の團十郎の花は、海老茶色の無地の中心に、輪郭のはっきりした白の筒抜け(花の中央の白い部分)があって、葉は黄色っぽい感じのもので、それ以外は、團十郎モドキだという。 切手の朝顔は、葉が青々とした緑色だし、葉の縁が白くなっているが、こうしたものは、ことごとく、“團十郎モドキ”ということになるようだ。 ただし、ホームセンターなどでは、團十郎モドキも“團十郎”として売られていることが多く、一部の専門家を除くと、あまりやかましいことは言わないことになっているという。 僕が買って帰ったのが團十郎だったのか、團十郎モドキだったのか、今となっては確認のしようもないが、仮に、團十郎モドキだったとしても、友人に悪意があったわけではなかろう。そのあたりは團十郎に免じて「かまわぬ」ということで。 **** ちなみに、朝顔市の鬼子母神として知られる真源寺は、寺伝によれば、とある大名の奥女中の腫れ物が真源寺の願掛けで完治したことから、その御利益が江戸中の噂となり、太田南畝の狂歌「おそれ入谷の鬼子母神」が生まれたそうです。アマビエ様に加えて、鬼子母神の御利益も加えて、一日も早くコロナウイルスの状況が落ち着き、来年は無事に朝顔市が開催されることをお祈りしております。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-05 Sun 02:36
日本の大手広告代理店・電通が、現在、新型コロナウイルスに対する“疫病退散”のキャラクター的な存在として、国民各層が広く使っている“アマビエ”について、6月30日付で商標登録を出願していることがわかりました。(特許庁の商標照会はこちらに出ています)というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ことし5月25日の緊急事態宣言解除を受けて、僕の友人が、アマビエのフレーム切手(利用者が枠内に好きなデザインを入れて制作を依頼することができる切手。枠内のデザインはあくまでもプライベートなもので、周囲の枠のみが“切手”として有効)を貼り、拙宅宛に送ってくれた記念カバーです。なお、カバーの左下には、新型コロナウイルス感染症拡大阻止を呼び掛けるため、アマビエをモチーフに厚生労働省が作成したアイコンがデザインされています。 弘化3年(1846年)4月中旬に刊行された瓦版には、ある時期、肥後国で毎晩光るものが出現したため、地元の役人が調査に赴いたところ、アマビエと名乗るものが出現し、「自分は海中に住むアマビエという者だ。今後6年間は諸国で豊作が続くが、その一方で疫病も流行するから、いますぐ、私の姿を描き写して人々に見せるように」と告げ、海の中へと帰って行ったとの記述と、アマビエの図が掲載されています。 このエピソードをもとに、1984年には、『ゲゲゲの鬼太郎』で知られる水木しげるが、弘化3年の瓦版に掲載された図を基に、『水木しげるの続・妖怪事典』のためにアマビエの絵を描いたほか、さまざまな創作で取り上げられるようになりました。 2020年に入り、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が世界的に拡大し、わが国でもその防止対策として、イベントの休止や学校の休校措置など、さまざまな“自粛”が始まる中で、2月27日、妖怪掛け軸専門店「大蛇堂」が、「疫病退散にご利益があるというアマビエの力を借りよう」、「コロナウィルス対策としてアマビエのイラストをみんなで描こう」との趣旨で、アマビエの解説とイラスト作品をツイッターに投稿。これに賛同した多くの人々が、アマビエを自己流にアレンジしたさまざまなジャンルの作品を次々に投稿するようになりました。 さらに、2020年4月7日、東京、埼玉、千葉、神奈川、大阪、兵庫、福岡の7都府県を対象に緊急事態宣言が発令され、社会全体への自粛要請がさらに進むと、「新型コロナウイルスの終息」をうたってアマビエを模した商品やアマビエをデザインしたラベル等が続出。厚生労働省も新型コロナウイルス感染症のWeb向け対策啓発の広報アイコンとしてアマビエのイラストを使い始めました。さらに、アマビエは、各地の寺社の護符やご朱印の印判などにも「疫病退散」のシンボルとして、広く用いられています。 このように、今回、電通が商標登録を出願したアマビエは、もともと江戸時代から人々に語り継がれていた妖怪で、いわば、伝承文化として日本人の共有財産として受け継がれてきたものです。たしかに、その存在を広く世に知らしめるきっかけを作った水木しげるの作品や、今回のコロナ禍のなかで多くの人々が制作した個々の作品には、それぞれの著作権がありますが、その多くは電通とは無関係です。それにもかかわらず、一民間企業の電通が“アマビエ”について包括的な商標権を主張するというのは、仮に法の不備を上手く利用したことで違法性はないにせよ、疫病退散を願い、思い思いのアマビエを作っている多くの日本人の気持ちを踏みにじるもので、決して理解を得られるものではないでしょう。 2014年、焼物の“有田焼”の名称について、中国・福建省の業者が勝手に商標登録をしていたため、中国国内で日本人がこの名称が使えなくなっていた問題が明らかになって以来、2015年には北海道や十勝地方とは全く無関係の韓国人が北海道十勝地方のローマ字表記“TOKACHI ”を商標登録出願、2016年には中国・江蘇省の個人が中国商標局に対して“弘前”の文字を商標登録申請、2019年には中国・大連市に住む人物が“香川小豆島”という商標の登録を中国商標局に申請するなど、商標登録をめぐっては、外国人による理不尽な動きが目についていましたが、まさか、日本を代表する巨大企業が同胞である日本人に対して同様のことをやろうとしているとは…獅子身中の虫にしてはあまりにも巨大すぎます。 ちなみに、米国では、2013年、ウォルト・ディズニー・カンパニーが、メキシコの伝統的なお祭りの名である“Día de los Muertos(スペイン語で死者の日)”を米特許商標庁に商標登録を出願したところ、国際世論の囂囂たる非難を受けて出願の撤回に追い込まれたことがあります。 今回のアマビエの件も、このまま商標登録がなされてしまうことのないよう、多くの国民が声を上げていくことが必要ではないかと思います。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-04 Sat 00:34
きょう(4日)は米国の独立記念日です。というわけで、米国独立戦争時の英雄を取り上げた切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1975年3月25日に米国で発行された“大義への貢献”の切手のうち、独立戦争を資金面で支えたハイム・ソロモン(サロモンとも)を取り上げた1枚です。 ハイム・ソロモンは、1740年、ポーランド中部のレシュノでユダヤ教のラビの家庭に生まれました。ヨーロッパ各地を転々とする中で語学の才を磨きながら、金融業者としてもキャリアアップを重ね、1772年、ニューヨークにやってきました。 ニューヨークのユダヤ系コミュニティは、1654年、それまでオランダの支配下にあったブラジルのレシフェがポルトガルに占領された際、異端審問を行っていたポルトガルの支配を嫌ったユダヤ人23人が、北米におけるオランダの拠点であったニューアムステルダムに逃れたのが起源となります。 翌1655年には、富裕なユダヤ商人5人がニューアムステルダムに到来し、商売を始めます。その後、1667年には、第二次英蘭戦争で英国が勝利を収め、オランダはニューアムステルダムを含む北米植民地を英国に割譲し、ニューアムステルダムはニューヨークと改称されました。 1660年代のニューヨークの人口はわずか1000人ほどでしたが、そこで話されていた言語は18種類。それほどまでに多種多様な人々が入り混じって生活しており、ユダヤ教徒がその信仰のゆえに排除されることも、他の北米植民地に比べて少なかったため、ユダヤ人/ユダヤ教徒がニューヨークに集まるようになります。現在、“ジュー・ヨーク”とも呼ばれるニューヨークのユダヤ系コミュニティはこうして生まれたのです。 その後、独立戦争の時代までに、ニューポート(ロードアイランド州)やフィラデルフィア、チャールストン、サヴァナ(ジョージア州)などにユダヤ人のコミュニティが成立しました。 もちろん、北米植民地においても、ユダヤ人に対する差別感情が全くなかったわけではありませんが、同時代のヨーロッパ大陸に比べれば、北米植民地のユダヤ人は、ユダヤ教の信仰を保ち、自由に職業を選んで、好きな場所で生活できるという点で、はるかに人間らしい生活を保障されていたと言ってよいでしょう。 このため、1775年、米国独立戦争が勃発すると、2000人ほどいた北米在住のユダヤ人の大半は独立派を支持し、そのうちの数百人は実際に武器を手に取って戦闘に参加しました。 こうした中、ソロモンはニューヨークで貿易と金融で財を築く一方、北米植民地の急進愛国派の組織“自由の息子たち”(ボストン茶会事件を起こしたグループです)の指導者であったアレクサンダー・マクドゥーガルの影響を受けて独立派の活動に参加。1776年には独立軍と資金調達の契約を結び、翌1777年にはジョージ・ワシントンの幕僚であったアイザック・フランクスの妹、レイチェルと結婚しています。 ニューヨークが英国軍に占領されると、ソロモンは逮捕・投獄されました。一時はその語学の才能を認められて釈放されましたが、独立運動を続けたためにふたたび逮捕されて財産を没収され、死刑判決を受けたため、フィラデルフィアに逃亡します。 フィラデルフィアでのソロモンは仲介業を再開するとともに、独立戦争の資金調達のために尽力。なかでも、1781年8月、独立側の資金が枯渇したことを知ったソロモンは、ジョージ・ワシントンの求めに応じて、自らの資産から戦費の2万ドルを捻出して大陸会議に貸し付けています。この資金を得たワシントン率いる米仏連合軍は、同9-10月のヨークタウンの戦いでチャールズ・コーンウォリス率いる英軍約7000を包囲、降伏させ、独立戦争を事実上、終結させました。 その後も、建国まもない米国財政が常に破綻の危機にさらされる中、ソロモンは、公債の販売や為替手形の取引による利益などを含め、1784年までに総額65万ドル以上もの資金を調達しています。 ちなみに、ソロモンは大陸会議や連邦政府のみならず、大陸会議や連邦政府の関係者のためには、個人相手にも金利・手数料を破格の安値で資金を融通しました。後に大統領となったジェイムズ・マディスンなどは、ソロモンからの融資に助けられた一人でした。 結局、ソロモンは1785年に亡くなったため、彼が貸し付けた資金はほとんどが回収できないままに終わりましたが、米国独立の最大の“スポンサー”の1人として、彼の名は米国史の教科書に特筆大書されています。 さて、本日発売となった拙著『みんな大好き陰謀論』では、「米国を裏から操っているのはユダヤ人だ」という類の陰謀論が、いかに荒唐無稽なものか、米国におけるユダヤ系コミュニティとその歴史についても触れながら、詳しくご説明しております。機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-03 Fri 00:22
台湾外交部(外務省)は、1日、1991年にソマリアから分離・独立を宣言したソマリランドとの間で、相互に代表機関を設置することを発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1938年、ソマリランドの前身にあたる英領ソマリランドが1938年に発行した5ルピー切手で、英領ソマリランドの地図が描かれています。 いわゆるアフリカの角の北側、アデン湾に面したソマリランドの地域は、1870年代までエジプトのムハンマド・アリー朝が支配しており、1876年にはエジプトの郵便局も開設されました。しかし、1884年、アデン駐留の英軍が駐屯するようになり、エジプトはソマリランドから撤退。英国はソマリランドの各部族と協定を締結し、1887年には同国を保護領化します。これに伴い、1884年には現地に英国局が開局し、英領インド切手が用いられるようになりました。その後、ソマリランドを管轄したのは、英領インド帝国→英国外務省→英国植民地省と変遷。英領ソマリランドとしての独自の切手も1903年から発行されています。 一方、現在のソマリアの南部(内陸部)に相当する地域は1908年にイタリア領ソマリランドとなり、ソマリア人の居住地域は英領とイタリア領に分割された状態が続きましたが、第二次大戦中の1941年2月16日、英軍はイタリア領ソマリランドの首都であったモガディシオを占領。その後、1950年まで、この地は英国の占領下に置かれます。 第二次大戦後の1947年、連合諸国とイタリアの講和条約が結ばれ、イタリアはイタリア領ソマリランドを含むアフリカの全植民地を放棄させられましたが、イタリア撤退後の旧イタリア領ソマリランドの帰属については連合国の間でも合意が成立しなかったため、1949年11月、10年以内にこの地域を独立させることを条件に、この地域を国連の信託統治下に置き、その間、イタリアが統治権を行使することが決定されます。 こうして、1950年4月1日、イタリア信託統治領ソマリアが成立。イタリアによる南部ソマリアの信託統治期限が切れる直前の1960年6月26日、北部の英領地域がソマリランド共和国として独立。7月1日には南部のイタリア領地域も独立し、この両者が統合されて、現在、国際社会が認知している“ソマリア国家”が誕生しました。 しかし、独立後のモガディシオ中央政府は旧イタリア領出身者が主導権を掌握し、南部優遇の経済政策などを推し進めた結果、旧英領地域ではソマリア中央政府および南部地域への反感が強くなり、ソマリアからの脱退を求める声も高まっていきます、そして、1991年1月にモハメド・シアド・バーレ独裁政権が崩壊した後、それまでの南部優遇政策と混迷を極めるソマリア情勢に失望したソマリ国民運動が、同年5月に北部の旧英領ソマリランド地域の分離・再独立を宣言。今回、台湾と代表機関を相互設置することになった新生ソマリランド共和国を発足させました。 アフリカ諸国の中には、ソマリランドのソマリアからの分離独立が、自国の民族問題に火をつけることになりかねないとして、これに強く反対している国も少なくないことに加え、一方の当事者であるソマリアが長年に渡り無政府状態に陥っていたこと、現在、“ソマリア政府”は復活しているものの、その支配領域は旧ソマリア国家の中南部に限定されており、その内部にも複数の自治地域が併存している状態となっていること、などから、ソマリランドの独立を正式に協議できない状況が続いています。 このため、現在、国際社会では、ソマリランドはあくまでもソマリアの一部であるいうのが建前で、事実上、国家としては破綻状態にある“ソマリア”が国際的に承認されているにもかかわらず、事実上、独立国家として機能し、観光客を受け入れるほどに治安のよいソマリランドが承認されていないというねじれ現象が生じています。今回の台湾との代表機関の相互設置が、ねじれ現象の解消へのきっかけになると良いですね。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-02 Thu 00:32
ご報告がすっかり遅くなりましたが、『本のメルマガ』第754号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、1961年のヴォストーク1号の打ち上げについて取り上げました。その記事の中から、こんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1961年4月のヴォストーク1号の打ち上げ成功に際してソ連が発行した記念切手の初日カバーです。 ソ連空軍のパイロットだったユーリ・ガガーリンは、1961年4月12日午前9時7分(現地時間)、ヴォストーク3KA-2(ヴォストーク1号)でバイコヌール宇宙基地を飛び立ち、地球を1周した後、10時25分に逆噴射をかけて大気圏に再突入。高度7000mからパラシュートで降下し、無事帰還を果たしました。なお、当初、ガガーリンは宇宙船と共に着陸したとされていましたが、当時の国際航空連盟 (FAI) のルールとして、公式な宇宙飛行となる条件にパイロットは必ず宇宙船と共に着陸することとされていたためです。 人類初の有人宇宙飛行の成功と同時に、ソ連当局は東西冷戦における自国の優位を示すものとしてこれを大々的に宣伝したが、準備段階では、計画は極秘裏に進められていました。ちなみに、ガガーリンは飛行中(帰還後ではなく)に中尉から少佐に二階級特進したことを告げられていますが、そこには、彼が無事に帰還できない可能性が少なからずあると判断したソ連当局の“温情”があったとも言われています。したがって、不幸にして彼が無事に帰還できなかったときには、事前に用意されていた打ち上げ成功の記念切手もすべて破棄されていた可能性が高いと思われます。 打ち上げ成功の記念切手は3種発行されましたが、このうちの3コペイカ切手に取り上げられたガガーリンの肖像が宇宙服姿ではなく、スーツ姿になっているのも、彼が宇宙に行くことは極秘とされていたため、切手制作時には宇宙服姿の写真などが手配できなかったためでしょう。 ちなみに、残りの切手は、クレムリンとパラボラアンテナに過去のスプートニク衛星と宇宙ロケットを描く6コペイカ切手(フルシチョフのメッセージが印刷されたタブつき)、クレムリンのシルエットとロケットと宇宙飛行士のイメージを描いた10コペイカ切手で、いずれも、実際のヴォストーク1号や宇宙服姿のガガーリンに取材しなくてもデザインを作成できるイメージ画です。 結局、ガガーリンが無事に帰着したことを確認して、ソ連は人類初の有人宇宙飛行の成功を記念する切手を発行しましたが、その実際の発行日をどう考えるかということは、ちょっと厄介な問題です。 すなわち、ソ連当局の公式な記録では、記念切手は飛行当日の4月12日に発行され、即日、各地の郵便局で売りさばかれたということになっていますが、前日の4月11日まではソ連の一般国民はガガーリンのことを全く知らされていません。当然、各地の郵便局にも記念切手は配給されていなかったと考えるのが自然でしょう。 したがって、飛行成功が確認されてすぐに切手の配給を始めたとしても、モスクワなどの主要都市でさえ、最短で4月12日の午後にならないと郵便局の窓口で売り出すことはほぼ不可能だったはずです。 ちなみに、世界の切手カタログでは、この3種の記念切手は4月15日発行の切手と22日発行の切手の間で、日付不詳の4月発行としてリストされています。また、3種の切手に押されている“発行初日”の記念印は、今回ご紹介のカバーもそうですが、公式見解通り、大半が飛行当日に当たる4月12日付となっています。ただし、それらは、しばしば、ソ連が外国の切手収集家向けに輸出用の記念品を作る際におこなっていたように、後になって消印の日付を遡って押印したものと考えらるのが妥当でしょう。 ちなみに、ガガーリンが1968年に飛行訓練中の事故で亡くなった時の詳細が公表されたのは2011年のことでした。人類初の宇宙飛行士として、ソ連の優位を象徴する英雄の地位に祭り上げられたガガーリンに関しては、歴史的事実とプロパガンダの物語を弁別することが容易ではない面も多々ありますが、それは、彼にまつわる切手についても例外ではないのです。 さて、2017年9月25日に配信の『本のメルマガ』658号から月一で続けてきた僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」ですが、ちょうど節目の30回でガガーリンのヴォストーク1号まで到達しましたので、とりあえず、今回で終了となります。いままで、連載にお付き合いいただきました皆様には、あらためて、この場をお借りしてお礼申し上げます。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-07-01 Wed 02:18
きのう(30日)、中国の全国人民代表大会(全人代)常務委員会は、香港に導入する「香港国家安全維持法」を全会一致で可決・成立。これを受けて、習近平国家主席が同法を公布し、香港政府は同日23時(日本時間7月1日午前0時)に施行しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦中の1944年にナチス・ドイツが作成した謀略切手(プロパガンダラベル)のうち、“LIQUIDATION OF EMPIRE(帝国の破産)”シリーズのうちの“香港”の1枚です。 “帝国の破産”シリーズは、ナチス・ドイツが制作した謀略切手のうち、第二次大戦での英国の劣勢を印象付けるために企画されたもので、当時の英国で使われていたジョージ5世の普通切手を模したラベルに、“LIQUIDATION OF EMPIRE/ XXXX(帝国の破産/地名)”の文字を加刷した形式になっています。この地名の部分に、枢軸国に占領された旧英領地域の地名が入っており(今回ご紹介のモノは、日本軍に占領された香港)、大英帝国が枢軸国によって解体されていることを示しています。 加刷に使われている“切手”は、一件、本物のようにも見えますが、よく見ると、国王の王冠の上にはユダヤの象徴であるダヴィデの星が、左上の花の中には共産主義の象徴である鎌と槌が入っており、英ソの同盟を“王制と共産主義の野合”と揶揄する意図が込められています。 こうしたドイツ製の謀略切手は、実際には“切手”としての効力はなく、正確には切手を模したラベルというのが正しいのですが、古くから切手収集家の間では切手に準じるものとして人気があり、ドイツで発行されているドイツ切手の専門カタログにも載っています。 さて、1990年に制定された香港特別行政区基本法では、1997年の“返還”以降、50年間は、“一国二制度”の下、英国時代の制度を踏襲する“高度な自治”が維持される(=社会主義政策を実施しない)ことになっていました。 ところが、実際には香港に対する中国の統制は年々強化され、2014年には、2017年の香港特別行政区行政長官選挙(当初の予定では普通選挙が導入されることになっていました)に関して、民主派候補を事実上排除する制度が導入されます。これに対して学生団体を中心とする“雨傘革命”の抗議行動が展開されましたが、警察による強制排除を受けて失敗。 さらに、2019年3月以降、中国本土への容疑者引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」改正案の完全撤回を求めるデモが行え荒れるようになり、6月9日の“100万人デモ”を機に、中国および香港の両政府への抗議行動が一挙に拡大しました。香港市民の抗議行動はその後も収まらず、11月の区議会選挙は全452議席のうち、民主派が8割を超える385議席を獲得して圧勝しています。 一連の抗議行動の過程で、英領香港の旗は、一国二制度(の順守)の象徴として、また、中国の強圧的な統制に屈しないことを示すシンボルとして、しばしば民主派の一部が掲げてきました。 これに対して、昨年来の民主派の抗議行動に危機感を募らせた北京政府は、新型コロナウイルス問題で世界の関心が香港から離れている隙をついて、民主派の弾圧を本格化し、2020年4月18日には、 香港警察が民主派リーダーら15人を一斉逮捕。そして、5月28日には、ついに、全人代は、香港で中国が“反体制的”とみなした言動を取り締まる“国家安全法制”の導入方針を採択しました。 国家安全法制は、中国が香港の治安維持に責任を有し、立法権限を持つ点を明確にしたうえで、国家安全法制の立法作業は全人代常務委が行い、香港政府は、法の制定後に公布・即日施行するとしてその手続きも定められていますが、この間、香港立法会(議会)が審議を行う機会は与えられませんでした。 このため、全人代の決定は中国が香港の直接統治に乗り出し、一国二制度の原則を踏みにじるものとして国際社会が懸念を示していましたが、今回、中国と香港政府は香港国家安全維持法の施行を強行。これを受けて、香港の民主活動家、黄之鋒氏らは民主派政治団体“デモシスト(香港衆志)”からの脱退を余儀なくされ、デモシストが解散に追い込まれたこともあり、中国と西側世界との対立はさらに激化することは必至の情勢となっています。 今回の香港国家安全維持法は、一国二制度を形骸化するものとして、まさに“香港の政治的破産”を意味するものとなりましたが、新型コロナウイルス問題もあって、今後ますます中国の国際的な孤立が深まれば、結果的に“(中国共産)帝国の破産”という事態になるかもしれません。 なお、英領時代の香港とその歴史については、拙著『香港歴史漫郵記』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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