2020-04-30 Thu 00:34
『東洋経済日報』2020年4月17日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、韓国の仏誕節(ことしは4月30日)にちなんで、こんなモノをご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1997年12月9日、「世界遺産登録」シリーズ第1集として発行された「石窟庵と仏国寺」の切手シートの上部で、石窟庵の本尊、釈迦如来像と仏国寺を組み合わせたデザインになっています。ちなみに、シートの全体像は下の画像のような感じですが、単片切手を組み合わせた部分は収集家以外にはあまり関心がないと思いましたので、紙面では上の画像をご紹介しました。 さて、日本ではお釈迦様の誕生日は西暦4月8日で固定されていますが、アジア諸国ではそれぞれの伝統的な暦で祝うため、毎年、西暦の日付は異なっています。ちなみに、釈迦の誕生日は、インド暦の2月に相当するヴァイシャーカ月の満月の日としか記録がないため、中国では旧暦の2月15日が釈迦の誕生日とされていました。わが国の場合は、これをもとに、明治以降の太陽暦の採用で4月8日という日付が設定されたという事情があります。 クリスチャンが人口の3割弱を占める韓国ですが、仏教徒も15%ほどおり、熱心な仏教徒だった朴正煕は、1975年、太陰暦の4月8日を“仏誕節”として公休日に指定。以後、毎年、韓国の仏誕節は移動祝日になっており、ことしは、4月30日がその日に当たっています。 ところで、韓国で最も有名な釈迦如来像といえば、やはり、今回ご紹介の切手にも取り上げられている慶州石窟庵の像でしょう。 日本海に面した韓国・慶尚北道の慶州は、古代には新羅王国の首都・金城として発展し、高麗王朝の太祖王建が慶州と改称しました。 石窟庵は、その新羅王朝の宰相だった金大城が自分の父母のために建立した寺院で、第35代の王であった景徳王治下の751年に建築が開始され、次の恵恭王治下の774年に完成しました。 石窟は花崗岩を組み合わせて作られており、内部は、入口から前室・扉道・主室の3つに分かれています。本尊が安置されている主室はドーム型で、壁には菩薩像や四天王像などの石仏が掘り込まれており、本尊は東の方向(冬至の日に日が昇る方向)を向いて置かれ、朝日が石窟内に差し込むと額に埋め込まれたガラスが光る設計になっています。また、本尊の釈迦如来像は高さ3.4メートルです。 石窟庵は、新羅滅亡後、長らくその存在が忘れられていましたが、大韓帝国末期の1909年、豪雨に見舞われた配達中の郵便配達員が吐含山中の洞窟に逃げ込んだ際に発見されました。発見当時の庵は崩壊寸前で、天井が抜け落ち、本尊には直接雨が当たり、全体の半分以上が土に埋もれていましたが、その後、日本統治下の1913年から3回にわたり、日本による大規模な修復工事が行われ、一部にコンクリートが使用されています。 1945年の解放後、石窟庵は民族文化の至宝として韓国の国宝に指定されました。その後、韓国は、日本時代の修復で本尊周囲の仏像の配置が変更されたとして、仏像を並べ替えていますが、その後、日本時代に行われた補修と仏像の配置が正しかったことが確認されたものの、現在にいたるまで、仏像の配置は元に戻されていません。 なお、石窟庵は、4キロほど離れた仏国寺とともに、1995年、「石窟庵と仏国寺」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、1997年にはそのことを記念して今回ご紹介の切手シートが発行されました。 ところで、この切手シートを見ていただくと、仏像の印相(手の形)が、右手指を下に向け地面に触れている降魔印(触地印)の形をとっていることがよくわかります。降魔印は、悟りを得る前の釈迦がガヤー村(現ブッダガヤー)の菩提樹の下で瞑想にふけっていた際、それを妨害する魔物を調伏した様子を表現したものです。 新型コロナウイルスの勢いがなかなか止まらず、心身ともに照応する日々の中で暮らしている身としては、いまこそ、お釈迦様が魔物としてのウイルスを調伏してくださらないかと祈るばかりです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-29 Wed 02:52
きょう(29日)は“昭和の日”です。というわけで、“昭和の風景”が描かれた切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1965年に北朝鮮が発行した“平壌ゴム工場労働者の罷業”の切手で、抗議活動を行う労働者たちの背景に、日本統治時代の1930年=昭和5年当時の平壌市内の町並みが描かれています。 1920年代初頭の朝鮮半島は、日本統治の影響で人々の生活が急速に変化し、西洋風の衣服や日用品が普及。これに伴い、ゴムの需要も急拡大し、各地に小規模なゴム工場が建設されました。なかでも、平壌の大同江東岸の船橋里周辺にはゴム工場が集中していました。 なお、日本時代の船橋里は、現在の行政区域でいうと船橋区域にほぼ相当しており、同区域内の江岸二洞には、朝鮮戦争休戦後の1956年、中国の支援で作られた“平壌ゴム工場(こちらは固有名詞)”が現存しています。(ただし、稼働状況は不明)。ちなみに、船橋区域の北側の東大院区域には平壌のシンボルとされる主体思想塔が立っており、その対岸が北朝鮮の党・政府の中枢機関が集まる中区域となります。 さて、朝鮮におけるゴム製造業の中心地となった平壌では、1926年に労働組合として“平壌ゴム職工組合”が結成され、翌1927年に昭和金融恐慌発生を経て、1929年には平壌大同ゴム工場労働者が賃金引下げ反対闘争を展開しました。これに続いて、平壌西京商工株式会社の労働争議をはじめ、無断解雇反対・不良品賠償制度廃止・監督排撃・賛助会の労働者運営などを掲げる争議が各地で頻発します。 こうした中で、1930年5月、世界恐慌で大きな打撃を受けた朝鮮のゴム工業会は、ソウルで全朝鮮ゴム工業者大会を開き、労働者の賃金を一律1割カットを決定。これに対して、同年7月、平壌のゴム工業者(経営側)は平均17パーセントの賃金引下げを発表しました。このため、平壌ゴム職工組合は緊急大会を開き、賃金引下げに抗議しましたが、経営側は逆に8月14日までに服従しない場合は労働者を新規募集するとの強硬姿勢をとったため、8月11日、平壌の全ゴム工場の労働者1800名余がいっせいにストライキに突入しました。これが、今回ご紹介の切手に描かれている“平壌ゴム工場労働者の罷業”です。 大規模な労働争議が発生したことを受けて、朝鮮総督府が仲裁に乗り出したため、穏健派の労働者はこれを受け入れたものの、調停案に反対する強硬派が分裂して争議は過激化。このため、警察が介入して弾圧が強化され、63人が検挙されたほか、200人以上が解雇されました。この結果、労働者側も争議の継続は困難と判断し、8月29日、ストライキは終結を余儀なくされています。 なお、今回ご紹介の切手は、事件から35周年という半端な年回りの1965年に発行されましたが、その背景には、日韓国交正常化交渉が大詰めを迎えるなかで、韓国でも根強かった国交正常化交渉反対論に呼応し、それを煽ろうとの意図があったことは明らかです。この辺りの事情については、拙著『日韓基本条約』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-28 Tue 01:22
ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相は、きのう27日)、新型コロナウイルスの感染拡大を阻止する「闘いに勝利した」と宣言。同国では、流行対策として導入していた封鎖措置の段階的な解除が始まりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1920年1月27日、第一次大戦の勝利を記念してニュージーランドが発行した“ヴィクトリー・スタンプ”のうち、ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン記念柱の台座のライオン像を描いた3ペンス切手です。 1918年11月11日、第一次大戦の休戦協定が結ばれると、ニュージーランド国内ではすぐに“平和”の記念切手発行を求める世論が起こりました。これを受けて、同29日、ニュージーランドの郵政長官だったサー・ジョゼフ・ワード(1906-12年と1928-30年には首相も務めています)は記念切手の発行を承認します。 記念切手のデザインに関しては、郵政当局としては、ニュージーランドの独自性よりも、“大英帝国の勝利”を強調することが方針とされました。今回ご紹介の切手の題材として、ロンドンのライオン像が取り上げられたのもそうした事情によるもので、ニュージーランド当局は「この像は大戦に参加したニュージーランド兵にとってなじみの深いものであった」と説明しています。 また、“大英帝国の勝利”の勝利を強調するあまり、ヴィクトリー・スタンプは、ニュージーランド本国での発行日(1920年1月27日)よりも2ヵ月以上早い1919年11月9日、ロンドンで先行発売されました。このため、一部のニュージーランド人コレクターは、地元の郵便局でこの切手を入手する以前に、ロンドンの切手商から入手するという珍現象も起きています。 当然のことながら、ニュージーランド国内では、切手収集家のみならず、一般国民からも批判の声が強く、「今後は、ニュージーランドの切手は国外で(先行)発売すべきではない」。「ニュージーランドの切手なのに、ニュージーランドを思わせる題材が6種セットのうち、(マオリの兵士を描く)1ペニー半切手1種しかないのはおかしい」といった抗議の投書が、当時の首相、ウィリアム・マッセー宛に殺到したと言われています。 また、ヴィクトリー・スタンプに関しては、発行当初、オーストラリアが「ニュージーランドは、この切手を通じて、自分たちだけが戦争の勝利に貢献したかのように詐称している。こうしたプロパガンダは許容できない」とクレームをつけ、切手としての有効性を認めないとしていましたが、さすがにこれに同調する国はなく、オーストラリアの“抗議”もいつの間にか有耶無耶に終わってしまいました。 さて、ニュージーランドでは、国内での新型コロナウイルス感染が確認される3週間以上前の2月2日の時点で中国本土からの外国人入国を禁止。さらに、感染者がわずか6名で、死者がまだ発生していなかった3月14日午後、アーダーン首相は、感染拡大を防ぐため、16日以降、自国民も含め海外から入国するすべての人(例外として、太平洋島嶼国からの入国は除外)に14日間の自主隔離を求めることを発表。同25日には、新型コロナ対策の警戒レベルを最高の“4”に引き上げて、ロックダウンを実施。生活に必要不可欠な店舗や企業以外の営業を禁止していました。 これと並行して、籠城戦を戦う国民への補償として、 ①2020年1-6月のどれか1月の間に30%の収入減少があった全事業者に対して、フルタイムの従業員(20時間以上)ごとに週585.80NZドル(この記事を書いている時点で、1NZドルは約65円)もしくはパートタイムの従業員(20時間未満)ごとに週350NZドルを最大$15万NZドルまで支給、②ウイルスの影響で自己隔離を余儀なくされた人々、もしくは自己隔離が必要な人の支援をするために働けなくなった人に対して、フルタイムの労働者には週585.80NZドル、パートタイムの労働者には350NZドルを支払う、といった補償もロックダウン後直ちに実行されました。 その甲斐あって、昨日の時点で、ニュージーランドでは約495万の人口に対して、感染者数は1122人、死者は19人。過去24時間に確認された新規感染者も1人となったことから、今回のアーダーン首相も勝利宣言を出し、きょうから、一部企業や持ち帰り販売の飲食店、学校などの再開が可能になりました。 ただし、今回の勝利宣言は、あくまでも、最も厳しい状態を脱したというだけであり、アーダーン首相も「いつになったら新型コロナウイルス感染を完全に排除し、平常の生活に戻ることができるかは分からない」として、「自信を持って元の状態を取り戻すためには、ゆっくりと注意深く進まなければならない」と国民に呼び掛けたうえで、「ニュージーランド国民の健康上これまで達成してきたことを、危険にさらすつもりはない。したがって警戒レベルを3にとどめる必要がある」と説明しています。 このように、“勝利宣言”とはいっても、その実態は警戒レベル4から3への引き下げにすぎませんから、あくまでも局地戦で勝利したという位置づけが妥当で、戦いを終わらせる休戦協定なり講和条約なりへの道はまだまだ遠いということになりましょう。とはいえ、ウイルスとの戦いが世界的に長期化するのが必至な情勢の中で、とりあえず、国民の協力を得てこれだけの戦果を挙げることができたとアピールし、民心の安定をはかるとともに、今後も戦いを継続させるうえで国民のさらなる協力を呼びかけるには、勝利宣言というパフォーマンスの効果は決して無視できないでしょう。 もちろん、ニュージーランドとわが国では国の規模が違いすぎるため、単純な比較はできませんが、ウイルスとの戦いが新たな局面に入りつつある中で、今後もニュージーランドの動向には注目したいですね。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-27 Mon 01:25
きょう(27日)は、1960年4月27日、西アフリカのトーゴがフランスから独立したことにちなみ、トーゴでは独立記念日です。ことしは、独立60周年という節目の年でもありますので、ストレートにこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1960年4月27日、トーゴが独立時に発行した記念切手で、“1960年4月27日”の日付と、トーゴ国旗を持つ初代大統領シルヴァヌス・オリンピオが描かれています。 ギニア湾岸の港町、アネホには、早くからポルトガル人が寄港し、貿易と布教を行っていました。その後、フランスもこの地域に進出し、1626年と1767年、1865-83年には拠点を築き、ここを“プティ・ポポ”と命名(ただし、その後も現地語名のアネホの地名も併用されました)したが、定着はしませんでした。 一方、英仏に遅れてアフリカに進出したドイツは、1847年、北ドイツ伝道会がプティ・ポポ/アネホでの布教活動を開始したのを皮切りに、1878年には、ブレーメン出身のフィーエトールがこの地で交易を開始します。彼らは地名をドイツ語の“クライン・ポポ”と改称。フランスが完全撤退する1883年までに、商館5軒を設け、英仏(両国合わせて商館は3件)を圧倒するプレゼンスを確保したうえで、1884年2月、ドイツ軍はアネホの首長に保護条約の調印を強要しました。 また、1884年、ドイツ帝国の宰相ビスマルクは、医師で探検家のグスタフ・ナハティガルをギニア湾沿岸に派遣。ナハティガルは7月6日、ロメ(現在のトーゴの首都)に上陸してドイツ国旗を掲げ、周辺の海岸地帯の保護領化を宣言します。 この宣言をめぐって、翌1885年12月、独仏間で協議が行われた結果、ロメとあわせてクライン・ポポを含む地域もドイツの保護領とすることが認められ、以後、ドイツは内陸部にも進出。1885年までに、現在のトーゴ国家とガーナ東部ヴォルタ川以東の地域を独領トーゴランドとしました。 ドイツ領トーゴランドの成立に伴い、クライン・ポポはその首府となり、現在首都であるロメまでの鉄道が敷設されたほか、英領ゴールド・コースト(現ガーナ)のアクラから同ナイジェリアのラゴスを結ぶ、ギニア湾岸の主要都市をつなぐ幹線道路の経由地として、交通の要衝となりました。あわせて、独領トーゴランドの首府として、プロテスタント教会(1895年建設)や、カトリックの聖ペトロ聖パウロ教会(1898年建設)等も建設され、欧風の町並みが整備されていきます。 1897年、独領トーゴランドの首府はロメに遷移し、1898年4月21日には、現在、トーゴ第2の都市となっているソコデが建設されました。また、交通インフラの整備も進み、1905年、ロメ=アネホ間にトーゴ最初の鉄道が開通。1907年にはロメから内陸・高原州のパリメまで鉄道が開通し、1911年にはさらに北方のアタクパメまで延伸します。さらに、1910年までに1000本の道路が建設され、独領トーゴランドのインフラは、一挙に、アフリカ大陸で最高水準となりました。 経済発展に伴い、1895年にドイツ人31名、アフリカ系2084名だったロメの人口は、第一次大戦直前の1913年にはドイツ人194名(うち女性33名、子供14名)、アフリカ系7042名にまで急増。もちろん、ドイツによる開発事業に動員された現地住民には大きな負担が課せられましたが、列強の植民地支配下でアフリカ系の人口がこれほど急増した例はほかにはなく、英仏によるアフリカの植民地統治に比べると、ドイツのトーゴ統治が民生にもかなり配慮していたことがうかがえます。 第一次大戦勃発直後の1914年8月、独領トーゴランドには西側から英国が、東側からフランスが侵入。防衛体制が未整備で、警察官が約670名しかいなかった独領トーゴランドは抵抗するすべもなく、首府ロメはすぐに陥落。8月26日、独領トーゴランドは英仏に降伏しました。 1916年12月27日、独領トーゴランドは英仏によって分割占領され、大戦後のヴェルサイユ条約を経て、1922年7月10日、旧独領トーゴランドは正式に東西に分割されて消滅し、東トーゴランドをフランスが、西トーゴランドを英国が支配するようになります。 その後、英仏、特に西トーゴランドを支配したフランスは、ドイツと違って、トーゴへのインフラ投資をほとんど行わなかったため、トーゴ経済は停滞し、人々の中には独領時代を懐かしむ者も少なからずいました。イメージ的には、台湾の人たちの日本統治時代に対するまなざしと似たような感じでしょうかね。 第二次大戦後の1956年、国連主導の住民投票で、西トーゴランドの住民は隣接する英領ゴールドコースト植民地との合併を選択。翌1957年、英領ゴールドコーストがガーナとして独立すると、旧西トーゴランドは、その一部となります。 一方、フランス統治下の西トーゴランドは、1956年の住民投票によりフランス共同体の一部として自治権を獲得しましたが、1958年にフランス第5共和政が発足し、フランス共同体がフランス連合に改編されたことを受けて、1960年に実施された住民投票の結果、独立派が勝利し、4月27日付で現在のトーゴ共和国が発足しました。 ちなみに、トーゴ共和国の独立記念式典には、独領時代最後のトーゴ総督(任1912-14)であったメクレンブルク公アドルフ・フリードリヒが来賓として招かれ、新生トーゴとドイツの友好がうたいあげられています。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-26 Sun 03:20
新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、国境を封鎖されていた南アフリカ共和国に駐在する日本人など156人を乗せたエチオピア航空のチャーター機が、昨夜(25日夜)、成田空港に到着しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2014年12月25日にエチオピアが発行した「エチオピア航空」の切手のうち、“アフリカ発のボーイング787ドリームライナー就航”を取り上げた1枚です。 エチオピアのフラッグ・キャリアであるエチオピア航空は、皇帝ハイレ・セラシエの勅命により、TWA航空の支援を受けて1945年12月30日に設立され、1946年4月8日、5機のDC-3によりアディスアベバ=カイロ間の定期運航を開始しました。その後、1958年にはフランクフルトへの長距離路線の運航を開始し、1963年1月にはナイロビへの路線で初のジェット機の運航を開始しました。 当初、エチオピア航空は政府の直轄事業で、TWA航空の支援を受けていることもあって、運航スタッフは全員米国人でした。その後、1965年にエチオピア政府100%出資会社への業態変更を経て、1971年以降はエチオピア人が全運航を担当しています。 今回ご紹介の切手に取り上げられたボーイング787の同社向け初号機は、2012年8月14日に受領済みとなりました。これは、全日空、日航に次いで、世界で3番目(アフリカでは初)の導入例です。なお、ボーイング787に関しては、2013年1月、世界各地でほぼ同時にバッテリー・システムのトラブルが発生したため、エチオピア航空でも同型機の一時停止。その後、新バッテリー・システムへの回収を経て、同年4月27日、エチオピア航空が世界で初めて商業運航を再開したものの、同年7月12日、アディスアベバ近郊のボレ国際空港からロンドン・ヒースロー国際空港に到着後、全電源を落として数時間後、機体後部にて火災が発生し、機体上部が損傷し、外部からも外板が薄く焦げて変色する事故を起こしています。 日本便に関しては、2014年10月26日から全日空(ANA)とのコードシェアが開始され、2015年4月22日、アディスアベバ=香港=成田線が就航しました。2018年6月2日以降、寄港地がソウルに変更されていますが、成田=ソウル間での利用も可能です。 南ア日本商工会議所(CCIJ)と南ア日本人会が中心になって手配したもので、エチオピア航空(ETH/ET)のボーイング787-9型機(登録記号ET-AUR)が使用された。 さて、当初、南ア駐在の日本人の帰国に関しては。日本商工会議所(CCIJ)と南ア日本人会が中心になってチャーター便を手配。当初は、現地を今月22日か23日に出発し、南アフリカ航空でケープタウンおよびダーバンからヨハネスブルグ、第三国を経由して成田へ向かう計画でしたが、最終的に、24日に現地出発のエチオピア航空が利用されました。乗客は企業や政府系機関などの駐在員とその家族が中心で、乗客によるとジャカルタへ向かうインドネシア人たちも搭乗していたとのこと。チャーター便の費用は乗客負担で、ケープタウン発が5875米ドル(約63万円)、ヨハネスブルグ発が5210米ドル(約56万円)ですが、予定よりも利用者が多かったことから1人あたりの負担は減り、若干の払い戻しがある見通しだそうです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-25 Sat 03:17
昨年9月、台湾と断交して中国と国交を結んだキリバスで、一昨日(23日)、総選挙が行われ、ターネス・マーマウ大統領を支持する与党連合が、台湾との外交復活を主張する野党の攻勢を前に、過半割れとなりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、キリバスの前身、英領ギルバート&エリスとして発行された最初の切手です。 現在のキリバス国家は、ギルバート諸島、フェニックス諸島、そしてライン諸島の一部などを領土としており、その範囲は赤道付近に3800平方キロにも散らばっています。このうち、中核をなすギルバート諸島は、1765年、ドルフィン号のバイロン司令官が南東部の島ニクナウを発見。1788年には、英国東インド会社のシャーロット号のトマス・ギルバート船長とスカボロー号のジョン・マーシャル船長が、、オーストラリアへ囚人を移送した帰路、アパママ、クリア、アラヌカ、タラワ、アベイアン、ブタリタリ(マキン環礁)、マキンを発見しました。ギルバート諸島の名は、このギルバート船長に由来するものです。 1892年5月27日、ギルバート諸島は隣のエリス諸島とともに英国の“ギルバート&エリス”保護領となりました。当初、この地の郵便は周辺を往来する船の幸便に託されていましたが、1911年1月1日から定期便が開設され、同日、ここに示すように当時のフィジー切手に“GILBERT & ELLICE / PROTECTORATE”と加刷した切手が発行されます。なお、1916年、ギルバード&エリスは英国の保護領から直轄植民地に変更され、その首府がタラワに置かれました。 1941年12月8日の日英開戦に伴い、日本軍はマキン環礁のブタリタリとタラワへの攻撃を開始し、12月10日には占領。これに対して、1942年8月17日、米軍がブタリタリを攻撃し、日本軍の守備隊に大きな打撃を与えましたが、翌18日、米軍はいったん撤退しています。 1943年に入り、アリューシャン、ソロモン諸島方面で勝利を収めた米軍は中部太平洋の拠点を確保すべく、1943年11月20日、第2海兵師団がタラワとブタリタリに侵攻。この島を要塞化した日本軍と壮絶な戦いを展開してギルバート諸島を制圧しました。その後、ギルバート諸島は1944年2月のマーシャル諸島攻略の拠点として使われることになります。 1945年の終戦後は英領ギルバート&エリスが復活しましたが、1956年から1962年にかけて、ライン諸島のクリスマス島(現キリスィマスィ島。インド洋のクリスマス島とは別の島)が米英両国の核実験場となります。 1971年、ギルバート&エリスは自治領になりますが、ギルバート諸島ではミクロネシア人が多数派を占めていたのに対して、エリス諸島ではポリネシア人が主流と、民族構成が異なっていたため、1974年、住民投票で両者の分離が決定。1978年にエリス諸島がツバルとして独立すると、翌1979年、ギルバート諸島は米領フェニックス諸島およびライン諸島(ただし、3つの島を除く)を統合してキリバスとして独立しました。ちなみに、独立後の国名となったキリバスは、ギルバートの現地語読みです。 かつて、キリバスにはリン酸塩の鉱床がありましたが、1979年の独立とほぼ同時に枯渇。現在は、コプラ、観賞用魚や海草が生産および輸出の大半を占めています。また、国土において海抜の低い環礁の占める面積が大きい多いため、近年の海面上昇で国土の半数以上は水没の危機にあり、2007年、キリバス政府は全国民の他国への移住計画を発表。当時のアノテ・トン大統領は、熟練労働者としての移住のため、日本、米国、オーストラリアなどに職業訓練の支援を呼びかけています。 こうしたこともあって、キリバス経済は慢性的な苦境に陥っており、近年は、国家予算の約50%を、日本、オーストラリア、ニュージーランド、台湾からの支援に頼らざるを得ない状況が続いていました。 これに対して、キリバスが太平洋のほぼ中央に位置し、地形的に空港や大型船が寄港できる深水港の建設が可能であることに目を付けた中国は、キリバスを軍民両用の拠点とすべく、札束攻勢を展開。これに呼応したマーマウ現政権は、昨年9月20日、ソロモン諸島が台湾と断交したのに続き、台湾と断交しました。 このため、キリバスでは台湾との断交の是非を巡って国内の対立が深刻化。今回の総選挙では、改選前に45議席中31議席を占めていた与党連合が過半数割れとなる22議席に転落し、野党側が23議席を獲得しました。 今回の選挙結果を受け、6月にも大統領選が行われる見通しとなり、現職のマーマウに対して、台湾との断交に懐疑的で、与党から離脱したバヌエラ・ベリナ議員が立候補の意向を示しています。今後の、キリバス国民の賢明な判断に期待したいですね。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-24 Fri 01:43
ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第54巻第2号ができあがりました。というわけで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1978年10月8日に発行された「国際文通週間」の切手のうち、タイ東北部、サコンナコーン県ムアン・サコンナコーン郡のワット・プラ・タート・チューン・チュム・ウォーラマハウィハーン(以下、ワット・プラ・タート・チューン・チュム)の仏塔を取り上げた1枚です。 サコンナコーンは、11世紀頃、クメール人によってノーンハーン湖の西側に建設された都市、ムアン・ノーンハーンがその前身です。その後、クメール人はこの地から撤退し、14世紀に起こったラーオ人のラーンサーン王朝に征服され、いつしか、ムアン・タワーピーと呼ばれるようになりました。 ラーマ2世の時代、タイの宗主権下にあったラーオ諸国のうち、ヴィエンチャン王国のアヌ王は、1824年にラーマ2世が崩御すると、その葬儀に参列し、ラーオ人の人質を解放するよう求めましたが、タイ側はこれを拒否。このことを不満に思ったアヌ王は、ビルマを破った英国が次はタイを攻撃するとの噂を聞き、1827年に叛乱を起こしましたが、ナコーンラーチャシーマー副領主の妻、ターオ・スラナーリー(モー夫人)の機転によって足止めされ、シャム軍によって撃退されます。さらに、翌1828年、アヌ王は再びバンコクへの攻撃を試みたものの捕えられ、1829年に処刑され、ヴィエンチャンとチャムパーサックはバンコクの直轄支配下に置かれることになりました。 これを受けて、ムアン・タワーピーはサコンナコーンと改称され、現在に至っています。 今回ご紹介の切手に取り上げられた仏塔のあるワット・プラ・タート・チューン・チュムは、伝承によれば、2000年前に建立されたともいえ荒れていますが、詳細は不詳です。また、寺院には、寺名の由来となった仏舎利(プラ・タート)のほか、プラ・カサンタ、プラ・コナコム、プラ・カタパ、プラ・コドムの4体の仏像と仏足石が祀られています。毎年陰暦6月の満月の日、“ヴィサカブーチャ(仏誕節)”の祭礼が盛大に行われることでも有名です。 切手の仏塔は寺院の伽藍中央に配され、高さ24m。塔の先端にはおよそ4㎏もの金で作られた傘の装飾が施されており、町のランドマークになっています。このため、現在のムアン・サコンナコーン郡は、かつては寺院にちなむタート・チューン・チュム郡と呼ばれていましたが、1938年、県の名前に合わせて現在のムアン・サコンナコーン郡に改称されました。ただし、現在でも、サコンナコーン県の県章には、県の象徴として、ワット・プラ・タート・チューン・チュムの仏塔がデザインされています。(下の画像) ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-23 Thu 01:41
イランのイスラム革命防衛隊は、きのう(22日)、同国初の軍事衛星“ヌール(光)”を打ち上げ、軌道に乗せることに成功したと発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、イランが同国初の国産人工衛星オミードの打ち上げ成功を記念して2009年に発行した切手の1枚で、オミードを搭載したサフィール1ロケットが取り上げられています。 1979年のイラン・イスラム革命後のイランでは、当初、宇宙開発を行うことは全く想定しておらず、“西でも東でもないイスラム共和国”との国是に従って、最高指導者のホメイニも、米ソの宇宙開発競争を皮肉って「彼らは月へでもどこへでも好きなところへ行くが良い」といった主旨の発言をしていました。 ホメイニ死後の1990年6月21日、ソ連のミハイル・ゴルバチョフとイランのハーシェミー・ラフサンジャーニーとの首脳j会談で、イランはソ連と共同で、宇宙ステーション“ミール”に向かう共同有人飛行の実現を目指すことで原則合意しましたが、1991年末にソ連が崩壊したことで、この計画も有耶無耶に終わります。 一方、イランでは、1979年の革命直後から極秘裏に核開発に着手していましたが、1990年代には少量のプルトニウムの抽出に成功。さらに、2002年にイランの核開発問題が表面化し、2003年には国際原子力機関(IAEA)定例理事会で、イランに対する非難決議案が全会一致で採択されました。 こうした状況の下、2003年12月10日、「通信情報技術省の役割と権限に関する法律」が議会を通過。同胞第9条に基づき、翌2004年2月1日、大統領が議長を務める宇宙最高評議会の指示の下、イラン国内の宇宙科学、技術の平和的利用に関する全ての活動を総轄、支援する組織として、イラン宇宙機関(ISA)が創設されました。 2005年10月28日には、ISAはイラン初の人工衛星、スィーナー1号の打ち上げに成功し、独自の人工衛星を保有する43番目の国となります。ちなみに、スィーナー1号はイランが設計しましたが、製造はロシアで行われ、ロシアのプレセツク宇宙基地から、ロシアのコスモス3Mロケットによって打ち上げられています。 さらに、2008年には、北朝鮮や中国から技術協力を受けて開発されたと推測される国産ロケット、サフィール1の軌道投入が行われており、翌2009年2月2日、革命30周年の記念事業として、今回ご紹介の国産衛星“オミード”がサフィール-2によって打ち上げられ、イランは衛星を自国で打ち上げた9番目の国となりました。なお、オミードの打ち上げについて、当時の大統領、アフマディーネジャードは「“一神教と平和と正義」”を世界に広める」ことが目的であると説明。さらに、外務大臣のモッタキーも“純粋な平和目的”のものと説明していますが、そのことを示すため、近隣諸国の上空を通らないように南東のインド洋に向かって打ち上げられるなどの配慮が払われています。 こうした実績を踏まえ、2010年8月、アフマディーネジャードは、2017年までに有人宇宙飛行を実現する意向を表明。2013年1月には、サルを搭乗させた衛星ロケット“ピーシュガーム”の打ち上げ(弾道飛行)に成功しました。 ところで、核爆弾の運搬手段である大陸間弾道ミサイル(ICBM)は大気圏外を飛行する技術が必要で、それゆえ、宇宙開発と核兵器開発は表裏一体の関係にあります。そもそも、“飛翔体”としての広義のミサイルには、いわゆるロケット(狭義には“飛翔体”の推進体を指す)も含まれますが、一般にはロケットの先端部に爆発物を搭載した軍事目的の“飛翔体”をミサイルと呼び、先端部に人工衛星などが搭載されていれば宇宙ロケットと呼ばれており、ロケットとミサイルは本質的に同一の技術です。 現在、イランは新型コロナウイルスの感染拡大が深刻な状況になっていますが、それでも、軍事衛星の打ち上げを敢行したのは、やはり、米国をはじめ世界各国が自国でのウイルス対応に追われ、イランに対する締め付けが緩んでいる隙に、宇宙技術(≒ミサイル開発)を進めておこうという確固たる意志があってのこととみるべきでしょう。 なお、米国のトランプ大統領は、この記事を書いている時点では、イランの軍事衛星については特に言及していませんが、今月15日に革命防衛隊の艦船がペルシャ湾で米海軍と沿岸警備隊の艦船に異常接近したことを取り上げ、「イランの小型砲艦が海上で米戦艦に嫌がらせをしてくれば、それら全てを撃沈して破壊するよう米海軍に指示した」とツイートし、革命防衛隊の“暴走”を牽制しています。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-22 Wed 01:37
ロシア革命の指導者、ウラジーミル・レーニンが1870年4月22日に生まれてから、150周年になりました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1934年、ソ連が発行した“レーニン没後10周年”の記念切手のうち、幼少時代のレーニンの肖像を取り上げた1枚です。 現在でも、ときどき、「ロシア革命はユダヤ人の革命であり、ソ連はユダヤ人が作った。ボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党の多数派で、後のソ連共産党の源流)の8割はユダヤ人だった」とする主張する人がいます。しかし、こうした主張は、歴史的事実に照らしてみると、かなり荒唐無稽なものです。 1917年2月、ロシア帝国を打倒した最初の革命直前の時点で、ボリシェヴィキの党員数は約2万3000人で、そのうち“ユダヤ人(本人の申告による)”は364人と圧倒的に少数派でした。 その後、革命が進行し、1922年末にはソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が発足します。この頃になると、ソ連全体での共産党員の数は爆発的に増加していきますが、それでも、ユダヤ系党員は1万9564人、全党員の5.21%にすぎません。 さらに、1923-30年のソ連人民委員会議(閣議に相当する組織)の構成員23人中ユダヤ人は5人(2割弱)しかいませんし、議会に関しても、1929年のソヴィエト連邦最高評議会の民族別議席割当数はロシア人に402議席、ウクライナ人に95議席、ユダヤ人に55議席、ラトヴィア人に26議席等で、ユダヤ人は1割程度です。したがって、ソ連国家の指導部におけるユダヤ人の比率は、党員全体に比べれば高いと言えますが、それでも、「革命政府の約8割がユダヤ人だった」などというのは無理があります。 革命の最高指導者であったレーニンに関しても、彼が“ユダヤ人のクウォーター”だったことを、ロシア革命がユダヤ人の革命とする根拠(のひとつ)として挙げる人がいます。 たしかに、ウラジーミル・レーニンの母マリア・アレクサンドロヴナ・ブランクにはユダヤ人の血が入っています。マリアの父(レーニンの母方の祖父)アレクサンドル・ブランクは、一般に、ウクライナ生まれのユダヤ人で、正教に改宗した人物といわれていますが、エカテリーナ2世の時代にドイツから来た入植者の子孫とする説もあります。また、マリアの母アンナは、ドイツ人とスウェーデン人の両親から生まれ、信仰としてはルター派のプロテスタントでした。 一方、ウラジーミルの父イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフはチュヴァシ系解放農奴の父親とカルムイク人(ロシアに移住したテュルク人の末裔)の母親から生まれました。 こうしたアンナとイリヤの子としてのウラジーミルは、ロシア帝国の法的な解釈によれば、彼は“モルドヴィン人(モルドヴァ人)、カルムイク人(中央アジア系)、ユダヤ人、バルトドイツ人、スウェーデン人による混血”となります。したがって、多種多様な民族が複雑に交じり合った血統の人物として、一言で表現するなら“ロシア帝国人”としか言いようがありません。しかも、ユダヤ人の血統を引く祖父も正教に改宗しているのですから、宗教的には“4分の1”以下です。 したがって、レーニンにはユダヤ人の血が流れているとはいえ、ドイツ人やモルドヴァ人の要素を捨象して“ユダヤ人”という要素だけを強調するのは、フェアな議論とは言えないでしょう。 さて、現在、いわゆる“ユダヤ陰謀論”の矛盾や、そうした陰謀論が出てきた背景などを開設する書籍を刊行すべく作業を進めています。すでに、本文は脱稿しており、これから校正作業に取り掛かろうという状況です。正式な書名や刊行日、定価などが決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-21 Tue 01:58
カナダ東部、ノヴァスコシア州の数カ所で、現地時間の18日深夜から19日午前にかけて銃乱射事件があり、警察官1人を含む少なくとも16人が亡くなり、容疑者の男も警察との銃撃戦で死亡しました。これは、同国の乱射事件で史上最多の犠牲者です。というわけで、謹んで亡くなられた方々のご冥福をお祈りしつつ、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1851年にノヴァスコシアで発行された最初の切手です。 現在のカナダの領域は、かつて、上カナダ(現在のオンタリオ州)、下カナダ(現在のケベック州)、ブリティッシュコロンビア、ノヴァスコシア、ニューブラウンズウィック、ニューファンドランドといった具合に、地域ごとに別個の英領植民地に分かれていました。 このうち、ノヴァスコシアは、大西洋に面したノヴァスコシア半島とケープ・ブレトン島で構成される幅約 35kmの地峡部です。 1497年、探検家のジョン・カボットがケープ・ブレトン島を探索。その後、1605年にフランス人が移住して、現在の米国メイン州東部とカナダノバスコシア州に相当する地域に“アカディア植民地”を形成しました。1620年、北米の英国人入植者が中部大西洋岸からアカディアまでをニューイングランドと規定したことを受け、アカディアにスコットランド人グループが送られ、“ノヴァ・スコシア(新スコットランド)植民地”が形成されました。 ノヴァスコシアでは、1754年、ハリファックスに最初の郵便局が開設され、ロンドンの本国郵政省の管轄下に郵便事業が行われてきました。その後、ノヴァスコシアの郵便事業は、ニューブランズウィックとともに、1851年7月6日付で現地の植民地当局に移管されると、ノヴァスコシアでも英本国とは別の独自の切手が必要になり、本国のパーキンス・ベーコン社に最初の切手の製造が委託されました。切手は、同年8月中に現地に到着し、9月1日から発行されています。なお、当初の配給分は量が少なかったため、パーキンス・ベーコン社は10月に追加分を現地に送っています。 ノヴァスコシア最初の切手は、英領の象徴である王冠を中心に花の紋章(上にイングランドのバラ、左にアイルランドのシャムロック、右にスコットランドのアザミ、下にノヴァスコシアのサンザシ)を配したもので、今回ご紹介の3ペンスのほか、6ペンスおよび1シリング(=12ペンス)の3額面の切手が同図案の色違いで発行されました。また、このデザインは世界で最初の花切手としても知られています。 1851年の切手の額面は、当時のカナダ域内あての郵便料金が、半オンスごとに3ペンスの統一料金だったことに対応したものです。なお、カナダ域内の小包およびニューヨーク経由での英国宛重量便書状の料金が10ペンス半だったため、1ペンス半の切手も必要でしたが、その場合には、3ペンス切手を半裁したり、、6ペンス切手を4分の1にカットしたりして対応していました。その後、1853年にハリファックスで料金1ペニーの市内便制度が開始されたため、ヴィクトリア女王を描く1ペニー切手も発行されています。 なお、1867年、英領北アメリカ法が制定されると、英領カナダ(1841年に上下カナダが統合して発足)、ノヴァスコシア、ニューブラウンズウィックの各植民地を統合して、現在のカナダの原型ともいうべきカナダ自治領が発足。これに伴い、1868年に自治領としての最初の切手が発行されると、ノヴァスコシア切手もその役割を終えることになります。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-20 Mon 01:00
米国のトランプ大統領は、おととい(現地時間18日)、国内の感染状況について「ウイルスがピークを過ぎたという前向きな兆候が数多くある」との認識を示したうえ、新型コロナウイルス対策として各州が発動している企業の営業制限などの規制が、きょう(20日)からテキサス、ヴァーモント両州で緩和され、経済活動が再開されると発表しました。今後、24日にはモンタナ州、5月1日にはオハイオ、ノースダコタ、アイダホの各州でも経済活動が再開される見通しだそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1956年6月14日、米国で発行された9セントの普通切手で、テキサス州サンアントニオのアラモ砦が描かれています。 現在のメキシコの領域に加えて米国南西部(カリフォルニア、ネヴァダ、ユタ、コロラド、ワイオミング、アリゾナ、ニューメキシコ、テキサスの各州)とフロリダ半島にまで広がる地域が、かつて、“ヌエバ・エスパーニャ”の一部としてスペインの領土でした。 1776年、大西洋岸の東部13州で独立を宣言した米国は、1803年にはフランスからルイジアを購入。この結果、米国とヌエバ・エスパーニャとの国境を画定する必要が生じることにります。 当時のスペイン側の認識では、ルイジアナのうち、ミシシッピ川西岸とニューオーリンズ市が自国領でしたが、米国側はロッキー山脈の稜線までが自分たちの購入した土地だと考えていました。このため、東西はカルカシュー川(アロヨ・オンド)とサビーン川の間、南北はメキシコ湾から北緯32度近辺までは、当面、どちらにも属さない中立地帯(ルイジアナ中立地)とすることで決着が図られます。 また、米国はスペインからフロリダを購入したいと希望していましたが、スペイン側はこれを拒否し続けていました。 ところが、19世紀初頭のナポレオン戦争と、その余波としてのラテン・アメリカ諸国の独立運動により、スペインは疲弊し、本国から遠く離れたフロリダの維持が困難になります。そこで、1819年、両国間でアダムズ・オニス条約が結ばれ、米国がフロリダとルイジアナを得て、それ以西のテハス(英語名:テキサス)からカリフォルニアまでをスペインの領土とする形で、国境が確定されました。この境界線は、1821年にメキシコが独立すると、基本的には米墨間でも継承されています。 ところが、1821年のメキシコ独立の前後から、米国からテハスへのアングロサクソンの移民が大量に流入。メキシコ政府は1830年には米国人の新規移住を禁止したものの、その後も米国からの“不法移民”の流入は止まず、1832年の時点では、テハスの人口のうち、独立以前からのメキシコ人住民の人口比率は14%にまで落ち込みました。 こうした状況の下で、1835年、メキシコ大統領アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナが中央政府の権限が強い憲法を宣言すると、メキシコ各地でこれに反対する叛乱が発生。テハスでも、1835年10月1日、米国からの移住者たちが分離独立を唱えてゴンザレスで中央政府と衝突。これを機に、テキサス独立戦争(テキサス革命とも)が勃発しました。 ところで、サンアントニオでは、1718年にフランシスコ修道会が建設した伝道所の建物にスペイン軍が駐屯し、要塞化していました。この要塞は、周辺にハコヤナギの木があったことから、ハコヤナギのスペイン語名にちなんで“アラモ砦”と呼ばれていました。 テキサス独立戦争の勃発後の1836年1月、テキサス独立派のジェームズ・ボウイ大佐が、アラモ砦を解体すべく、30名の分遣隊とともに派遣されます。しかし、2月3日、現地に到着したボウイは砦を戦略拠点として保持することを司令部に具申。これを受けて、ボウイの下に義勇兵たちが集まり、その数は約200名に膨れ上がります。 これに対して、メキシコ軍は1500名の騎馬隊をアラモ砦に派遣し、テキサス軍に降伏を要求。ボウイはこれを拒否し、2月23日から3月6日までの13日間、テキサス軍は籠城戦を展開しました。しかし、最終的に、メキシコ軍総司令官アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ指揮下の 4000人の軍隊に包囲されたテキサス軍は全滅してしまいます。 しかし、アラモ砦の“玉砕”は、テキサス側の士気を大いに高めることになり、3月21日のサン・ハシントの戦いでは、メキシコ軍総司令官となっていたサンタ・アナを捕虜とする勝利を収め、ベラスコ条約を結んで“テキサス共和国”の独立を承認させました。 なお、テキサス共和国内では独立当初から米国との統合を求める声が強かったものの、米議会では併合慎重派が多数を占めていました。ところが、1844年の米大統領選挙で、テキサス併合を公約に掲げるジェイムズ・ポークが当選。これを受けて1845年2月、米議会は「1846年1月1日までにテキサス共和国が併合を承認すれば、州として連邦への加盟を認める」とする決議を採択します。 これを受けて、テキサス議会は米国への併合に同意。1845年12月、ポーク大統領はテキサスを合衆国の州として受け入れる法案に署名。こうして、現在の米テキサス州が発足しました。 さて、今回のテキサスでの経済活動の再開により、これまで新型ウイルスの戦いで籠城戦を強いられていた米国は戦術を転換した格好です。たしかに、籠城戦は疫病との戦いには有効ではあるものの、経済活動を全面的にストップさせたままでは、国民への補償ないしは補給にも限界が出てくるのは致し方ないわけで、感染死亡率の低い地域などでは、まずは兵糧の確保を優先するのは妥当性のある判断でしょう。もちろん、ソーシャル・ディスタンスなどの対策は今後も継続されるということですので、テキサスでのやり方が、感染状況などを見ながら経済を回していくうえでの、一つのモデルになってほしいですね。 * 昨日(19日)、アクセスカウンターが217万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-19 Sun 01:46
韓国で李承晩政権を退陣に追い込んだ1960年4月19日の“4月革命(4・19学生革命とも)”から、ちょうど60年になりました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1965年に北朝鮮が発行した“4・19抗争(4月革命の北朝鮮での呼称)5周年”の記念切手です。 朝鮮戦争が勃発した1950年、米国の国防予算は130億ドルでしたが、休戦の1953年には504億ドルに拡大しました。休戦後の1955年には、いったん407億ドルまで圧縮されたものの、ソ連との核開発競争や在外米軍基地の展開などにより、国防予算は着実に増えつづけ、1959年には465億ドル、すなわち、1950年の3.6倍に急増します。また、政府予算総額に占める国防費の割合も、1950年の32.9パーセントだったものが1959年には57.9パーセントへと拡大しています。 こうした軍事費の拡大に加え、反ソ包囲網を形成・維持するための対外援助も1950年代を通じて増額され続けたため、米国の政府予算は大いに圧迫され、米国の金保有高も急減。この結果、1950年代末になると、金1オンス=35ドルという公定レートが維持できなくなるのではないかとの懸念が国際市場で急速に高まり、ロンドン市場では金価格が上昇しはじめました。いわゆるドル危機の表面化です。 このため、対外政策を基本的に見直す必要に迫られた米国は、従来のようなバラマキ型の経済援助政策から、経済開発を支援することによって同盟諸国の支配の安定をはかるよう、政策を転換。その結果、韓国に対する経済援助も大幅に減額され、米国に依存していた韓国経済にも大きなダメージを与えることになります。 しかし、李承晩政権は、援助削減反対を声高に叫んでいたものの、現実をみすえた効果的な対策を講じることができませんでした。それどころか、反共・反日を金看板とする李承晩政権は、在日朝鮮人の帰還事業をめぐって日本との通商断交を強行したものの、断交声明を撤回するタイミングを逸し、事態を悪化させていました。その結果、1958年に6.1パーセントだった経済成長率も、1959年には4.6パーセントに下落します。 経済失政に対する国民の不満に対して、李政権は強権支配で乗り切ろうとします。野党・進歩党の指導者で、1960年の大統領選挙の有力候補と目されていた曺奉岩が、1958年1月、北朝鮮から選挙資金を受け取っていたとして国家保安法違反容疑で逮捕され、翌1959年7月に処刑されたのは、その象徴的な出来事といえましょう。しかし、こうした姿勢は、長期政権につきものの各種の腐敗ともあいまって、国民の不満をいっそう募らせることになり、李政権が末期的な状況に陥っていたことは誰の目にも明らかとなっていました。 こうした状況の下で、1960年1月、野党・民主党の大統領候補だった趙炳玉が、5月の大統領選挙を前に、持病の治療のために渡米。すると、李政権はその留守をねらって、大統領選挙の実施を3月15日に変更します。さらに、趙は手術の結果が思わしくなく、選挙1ヵ月前の2月15日に急死してしまいました。 こうして、大統領選挙での李承晩の4選はほぼ確実になり、選挙の焦点は副大統領に移ります。(当時の韓国では、大統領と副大統領は別々に選出されていました) すなわち、李承晩は与党候補だった李起鵬の当選を希望していましたが、選挙戦では、一貫して野党候補で現職の張勉が優勢でした。このため、政府は露骨な選挙干渉に乗り出し、選挙当日の未明、李起鵬への票を投票箱に前もって入れておくことや、有権者を小人数のグループに分け、組長が組員の記入内容を確認した後、投票箱に入れるようにしたり、投票箱と投票用紙をすり替えたりすることも行われています。 その結果、大統領候補としての李承晩が963万票を獲得して当選。副大統領に関しては、李起鵬833万票、張勉184万票と発表されると、あまりにも露骨な不正に怒った国民は、各地で糾弾デモを展開しました。 特に馬山で行われたデモは激しく、警察の発砲により、8人が死亡し、200人余が負傷。さらに、デモに参加した後、行方不明となっていた中学生・金朱烈(当時17歳)が、4月11日、馬山の沖合で、目に催涙弾が突き刺さった惨殺体で発見されると、これを機に、李政権に国民の不満が爆発。4月19日には、ソウルで大規模な学生デモが発生します。 このときのデモでは、学生と警官隊との衝突で183人が死亡し、6200人が負傷。さらなる騒擾状態が続く中で、米国もついに李承晩に対する不支持を明らかにし、万策尽きた李承晩は退陣を表明してハワイに亡命。また、副大統領に“当選”したばかりの李起鵬は二十八日にピストルで自殺しました。 これが、いわゆる“4月革命”です。 今回ご紹介の切手は、その4月革命から5周年というタイミングをとらえて、民衆蜂起によって親米独裁政権が打倒されたことを称揚するため、北朝鮮が発行したもので、ソウルの中央庁(旧朝鮮総督府庁舎)を背景にしたデモ隊と松明を持つ手が描かれています。また、切手が発行された1965年4月は、日韓国交正常化交渉が大詰めを迎えていたこともあり、韓国でも根強かった国交正常化交渉反対論に呼応し、それを煽るため、切手上部の松明の炎の中には「米軍はすぐに出ていけ 韓日会談反対」のスローガンも入っています。 なお、この辺りの事情については、拙著『日韓基本条約』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-18 Sat 00:44
公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2020年4月号が発行されました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1963年8月20日に発行された「瀬戸内海国立公園」の切手のうち、“鳴門の渦潮”を取り上げた1枚です。 兵庫県淡路島の南西端・門崎と徳島県鳴門市大毛島の北東端・孫崎の間の鳴門海峡には、1日に2回、大量の海水が瀬戸内海に流れ込み、また同様に1日に2回瀬戸内海から流れ出ていますが、海峡の幅が狭いことに加え、海底の複雑な地形も影響し、その潮流は毎時13-15キロ、大潮のときは毎時20キロになることもあります。これは日本で一番速く、“世界三大潮流”にも数えられるほどで、この早い潮流と、海峡両岸に近い穏やかな流れの境目において、発生するのが、今回ご紹介の切手にも取り上げられた渦潮です。その直径は最大30メートルになることもあります。 渦潮は自然現象なので、日時によりその規模に大小がありますが、毎年3月下旬から4月下旬がベストシーズンとされており、鳴門観光汽船の「潮見表」の今年4月のページを見ると、あす19日から27日が“大潮の日”となっています。 渦潮を見るには、①鳴門海峡に架かる“大鳴門橋”の海上遊歩道・展望台、“渦の道”(海面からの高さ45メートル)から見下ろす、②船に乗って渦潮の上をクルーズする、の二つの方法がありますが、このうち、大鳴門橋は1889年、香川県会議員の大久保諶之丞が讃岐鉄道の開通式での祝辞で「塩飽諸島ヲ橋台トシ、架橋連絡セシメバ、常時風波ノ憂ヒナク、南来北向東奔西走瞬時ヲ費ヤサズ、ソレ国利民福是ヨリ大ナアルハナシ」と述べて架橋の構想を話してから、1985年の完成まで、ほぼ100年がかりの巨大プロジェクトでした。 大久保の演説の後、1914年には、衆議院議員の中川虎之助が第31回帝国議会予算委員会に「鳴門架橋及潮流利用發電調査ニ關スル建議案」を提出。「阿淡海峡ノ鳴門ニ橋梁ヲ架設シ、本土ト四国ノ間ノ交通ヲ完全ナラシムルノ目的ヲ以テ、政府ハ之ニ關スル諸般ノ調査及ビ工費ノ算出等ヲ為シ、且ツ阿淡海峡ノ鳴門潮流ヲ利用シテ電力ヲ起シ得ルヤ否ヤ調査研究セラレンコトヲ望ム」と演説し、鳴門海峡に橋を架けるだけでなく、潮流のエネルギーを利用しての発電も提案をしましたが、当時の技術水準では実現不可能な妄想として、わずか30分で否決されしまいます。 さらに、1940年には、内務省神戸土木出張所長の原口忠次郎が「鳴門海峡架橋構想」を策定し、神戸側からの架橋を提案しましたが、海峡への架橋は軍艦航行の妨げになるとの海軍の反対や、戦時下の資材調達難などのため、実現しませんでした。 戦後の1949年、神戸市長となった原口は、国鉄の鉄道整備計画や本四架橋を求める地元の声などを受け、1952年の市議会に鳴門架橋の建設調査費350万円を含む予算案を提出して成立させ、鳴門架橋実現への第一歩となります。 1969年の新全国総合開発計画には、本州四国連絡橋のひとつに神戸=鳴門ルートが盛り込まれ、翌年には本州四国連絡橋公団も設立されましたが、1973年の石油危機により、着工は1976年7月までずれ込みました。その後、総工費1650億円と年の歳月をかけた工事の結果、1985年6月8日、全長1629メートルの大鳴門橋が開通します。 現在では、切手のような角度で写真を撮ると、画面には巨大な橋の一部が映りこむことになりますが、景観として、橋の有無、どちらが良いかは好みが分かれるところでしょうね。 * 昨日(17日)の文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」の僕の出番は、無事、終了いたしました。お聞きいただきました皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。なお、次回の出演は5月15日の予定(仮)ですので、引き続き、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-17 Fri 00:34
1895年4月17日に日清戦争の講和条約として下関条約が調印されてから、きょうでちょうど125年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1955年8月15日に韓国が発行した“光復(=日本統治からの解放)10周年”の記念切手で、ソウルの独立門が描かれています。 長年にわたって清朝を宗主国とし、事実上の鎖国体制を採ってきた朝鮮王朝(李氏朝鮮)は、1876年に日朝修好条規を結んで開国。その後、列強諸国の圧力に対して、清朝の属国としての地位から脱して近代独立国家の建設を目指すべきだという勢力(開化派)と、清朝との関係を維持・強化することで危機を脱すべきと考える勢力(事大派)が対立していました。こうした朝鮮国内の対立は、朝鮮半島の権益をめぐる各国の対立ともリンクし、1894年には日清戦争を引き起こしています。 日清戦争は、朝鮮での農民反乱の鎮圧をめぐる両国の対立が直接の発端となったことにみられるように、朝鮮に対する清朝の宗主権を認めるか否かというのが最大の焦点でしたが、戦争は日本の勝利に終わり、清朝は朝鮮に対する宗主権を放棄して朝鮮が独立国であることを承認。朝鮮からの朝貢なども廃止されます。下関条約の第一条が「淸國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス 因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ淸國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ」となっているのは、こうした経緯によるものです。 清朝の属国ではなくなったことを受け、朝鮮ではいつまでも属国の首長である“国王”を名乗るのはおかしいということになり、国王を皇帝となり、国号は大韓帝国と改められました。 そして、清朝からの独立記念事業の一環として、ソウル4大門の一つで、清朝の使節を迎えるための門として迎恩門とも呼ばれていた西大門と清朝への服属のシンボルであった大清皇帝功徳碑などを破壊し、その隣に建てられたのが、切手に描かれている独立門です。 門は、徐載弼の案をもとにロシア人建築家のアファナシー・イバノビッチ・セレディン=サバチンが設計施工。パリの凱旋門をモデルとしており、高さ14.28m、幅11.48mで、約1850個の御影石が用いられています。建設費用は、開化派の団体である独立教会が中心となり民間の浄財を募り、1897年11月20日の完成時には、新生大韓帝国の臣民によって独立を祝賀する式典も行われました。 なお、もともと、門は現在の位置より東南に70mほど離れた場所にありましたが、1979年、高速道路の建設により現在の場所に移設されました。本来は、迎恩門の跡である2本の柱と独立門の間にはそこそこの距離がありましたが、移設に際して両者は近接するようになっています。 いずれにせよ、独立門は、もともと、清朝からの独立を記念して建てられたものであり、間接的には、日清戦争での日本の勝利を記念する門とみなすことさえできます。すくなくとも、今回ご紹介の切手が発行された1955年の時点では、この門が1945年以前から存在しており、日本からの“解放”を記念して建てられたものではないことは、南北を問わず、全朝鮮人がしっかりと認識していたことは間違いありません。したがって、独立門はまさしく“日韓友好”の象徴ともいうべきもので、このデザインなら“朝鮮独立60周年”とでも表示したほうが適切だと思うんですがねぇ。 なお、このあたりの事情については、拙著『日韓基本条約』でもいろいろ書きましたので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 4月17日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-16 Thu 00:58
所得税の確定申告は今日(16日)までですが、皆さんは無事に済まされましたか?今年は、新型コロナウイルスの問題もあって、〆切が一月延期されたのですが、僕の申告書提出は今年もまた〆切ギリギリ、昨日になってしまいました。というわけで、毎年恒例“TAX”ネタとして、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1967年3月3日に韓国が発行した“税金の日”の切手です。 第二次大戦の終戦直後、米軍政下の南朝鮮では、1945年11月2日付の軍政法令第21号に基づき、原則として日本統治時代の税制が踏襲されるとともに、戦時下で導入された臨時税は順次廃止されました。 1948年8月に発足した大韓民国は、財政制度を確立し、租税負担の公平を図ることを目的に、税法委員会を設立。同委員会により、所得税法、会社税法、酒税法を含む8部基本税法を発布したのを皮切りに、本格的な税制改革に着手します。当初の税制は、土地改革(農地改革)によって資産を失った地主の税負担を軽減する一方、都市の富裕層の税負担を重くすることを志向していました。 1950年に朝鮮戦争が勃発すると、政府は戦費調達の必要から所得税法をはじめ既存の税制を大幅に改定するとともに、臨時加税法、税収特殊措置法、臨時土地所得税法など戦時税法を導入。このうち、戦時下の土地所得税は一般所得税をしのぐ重要な財源となりました。 1953年7月に朝鮮戦争が休戦になると、臨時加税法と税収特殊措置法が廃止される一方、商品税と紡織品税が導入され、1954年以降、戦後復興を支援するため、朝鮮戦争中に引き上げられていた所得税、法人税、営業税の税率が戦前の水準に戻されました。また、直接税の引き下げに対応して、1956年以降、間接税が引き上げられています。 1961年の“5・16革命”を経て発足した朴正煕政権は、同年、第1次5ヶ年計画を発動。これに合わせて、5ヶ年計画の財源を確保するため、①簡素な税務機構、②徴税の効率化、③個人貯蓄と投資の促進、④公平な税制の確立、⑤地方税税源の育成、を骨子とする税制改革の基本指導方針が発表されるとともに、税務当局内部の不正の一掃が課題として掲げられました。これに基づき、同年中に税収収入臨時措置法と脱税特別懲罰法が発布されました。 こうして、1962年1月1日から中央税と地方税の調整法、国家税務上告法の施行を含む税制改革が行われ、韓国の税収は大幅に増加。さらに、1965年の日韓国交正常化とヴェトナム派兵による日米両国による経済支援もあって、第1次5ヵ年計画の達成に大きく貢献しました。 上記のような経緯を経て、1966年3月3日には財務部(現・企画財政部。日本の財務省に相当)の外庁とし、国税庁が発足。今回ご紹介の切手は、ここから1周年になるのを記念して発行されたものです。 昨年末に刊行の拙著『日韓基本条約』では、1965年の日韓国交正常化までの朝鮮半島現代史をまとめたものですが、その続編として、1966年以降のいわゆる“漢江の奇跡”とその時代についても、書籍としてまとめる予定です。まだまだしばらく先の話になりそうですが、具体的な刊行時期などが決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、その時はよろしくお願いします。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 4月17日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-15 Wed 00:41
韓国では、きょう(15日)、4年に1度の国会議員の総選挙が行われます。というわけで、ストレートにこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1950年5月30日に韓国で発行された“第2回総選挙”の記念切手の銘版つき田型です。 1948年8月に発足した大韓民国ですが、新政府発足以前の1948年4月から、済州島では四三暴動が起こっていたことにくわえ、政府発足後の同年10月には、暴動鎮圧の出撃命令を受けた国軍部隊が麗水・順天で反乱を起こすなど、社会状況は大いに混乱していました。 また、国軍内には、旧日本軍系・旧満州軍系・中国軍系・独立軍系などの派閥が乱立していましたが、李承晩政権は“共産分子一掃”の名目で国軍の1割を超える8000名を粛清することで軍部のコントロールを握る一方、政府に対して批判的だった大物政治家・金九は、1949年、李承晩派の陸軍将校、安斗煕により暗殺されます。 もちろん、経済状況も惨憺たるものでした。 すなわち、独立翌年の1949年度の国家予算は、歳出額の6割が赤字歳出だったため、韓国銀行の紙幣が増発され、物価は米軍政時代末期の2倍にまで跳ね上がっています。これに対して、工業生産は電力難・原料難で日本統治時代末期の1944年を100%として18・6%にまで落ち込んでいました。さらに、米国の経済支援も、独立以前には1億7000万ドル以上あったものが、独立後は1億1600万ドルに減額されています。 このため、韓国内の政治・経済状況に危機感を抱いた米国務省は、1950年度下期に韓国に対する6000万ドルの追加援助案を議会に提出したものの、これは野党・共和党の反対で否決されています。結局、1950年4月、米国国務省は、韓国政府が財政政策を改め、インフレの抑制に真剣に取り組まないかぎり、軍事経済援助を再検討すると警告せざるを得なくなっていました。 こうした状況の下で、1950年5月、1948年の第1回総選挙によって開院した制憲国会は任期満了を迎え、総選挙が行われました。 選挙を乗り切る自信のなかった李政権は、国内の治安悪化を名目に選挙の実施を延期しようとしましたが、米国は、憲法の規定どおり5月中に選挙を行わない場合には援助の中止もありうると圧力をかけ、投票は予定通り、5月30日に行われました。その結果、与党・李承晩派は定数210議席中30議席しか獲得できないという惨敗。代わって、前回の総選挙を分断固定化につながるとしてボイコットした中間派が130議席を獲得して躍進します。こうして、国民の不満を前に李承晩が大統領辞任に追い込まれるかに見えた、まさにその瞬間、北朝鮮の南侵によって朝鮮戦争が勃発。李承晩政権は、結果的に息を吹き返すことになります。 さて、昨年末の時点で、韓国の文在寅政権は曺国(前法相)のスキャンダルや、経済失政、外交の失敗(対北、対日関係)が重なり、今回の総選挙でも与党が大幅に議席を減らすのは確実視されていました。 こうした状況の下、ことし(2020年)1月20日、韓国で新型ウイルスの感染例が最初に確認されます。その後、2月中旬に感染の拡大がいったん収まったことから、文在寅政権は終息宣言を出したものの、その数日後、大邱市で新興宗教団体“新天地イエス教会”の信者から大量の感染者が発生し、一気に拡大。これに対して、当初、韓国政府は、医療現場の処理能力以上の膨大な数の検査を実施したことで、医療崩壊というべき状況を招き、政権の支持率も低下しました。しかし、その後は、クレジットカードなどの使用履歴、監視カメラの記録、携帯電話のデータなどの個人情報を使って感染者の動きと接触者の情報を把握したことで、重症者と軽症者を区別して対応するように方針を転換し、感染者の増加をある程度食い止めることに成功しています。 これを受けて、文在寅政権は、「欧米における爆発的な感染の拡大と死者の増大があるが、それに引き換え韓国の感染者と死者はともに安定的に抑制されている」、「韓国が提供している検査キットは国際的に高い評価」との自画自賛キャンペーンを大々的に展開するとともに、感染の責任を“保守政党に近い”新天地イエス教会に押し付けるイメージ戦略に展開しているほか、保守系野党候補に対する露骨な選挙妨害も行われています。 また、昨年来の経済危機についても、米国との為替スワップ(韓国がドル不足になると、韓国に進出している米国企業に影響が出るので、その予防策として講じられたもので、為替介入には使えません)600億ドルの合意で一息ついた格好です。さらに、ウイルス対策に伴う経済の落ち込みをフォローするため、「国民の7割に100万ウォン(約8万8000円)支援」をぶち上げたことも、国民からは好感を持って迎えられています。 これらが絡み合って、政権支持率も徐々に回復。韓国ギャラップが3月24-26日に行った「国政への評価」の調査では、文在寅の支持率が前週比6%増の55%に、31-2日の調査では、支持率は1%増の56%で、不支持率は3%減の36%となっており、きょうの総選挙では与党の勝利が確実視されているとか。 なんだか、朝鮮戦争という国難を逆手に取って政権維持に成功した李承晩の先例を思わせるような話ですが、その“先例”については、拙著『朝鮮戦争』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 4月17日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-14 Tue 02:58
1975年8月15日、バングラデシュで発生した軍事クーデターでムジブル・ラフマン(ラーマン)大統領暗殺の実行犯として、国外逃亡中に死刑が確定していたアブドル・マジット元陸軍大尉が、今月7日にダッカで発見され、5日後の12日に刑を執行されていたことが明らかになりました。というわけで、きょうはこの切手です、(画像はクリックで拡大されます)
これは、1996年にバングラデシュが発行したラーマン元大統領の肖像切手です。 1947年に英領インド帝国が解体された際、現在のバングラデシュに相当する地域は東パキスタンとして、現在のパキスタンに相当する西パキスタンとともにパキスタン・イスラム共和国を構成することになりました。しかし、パキスタン国家の政治的な実権を握っていたのは西パキスタンで、東パキスタンで生産されるジュートによってもたらされる外貨は、西パキスタンに優先的に支出される状況が続きます。 また、東パキスタンの住民の大半がベンガル語を母語としていたのに対して、パキスタン国家としての公用語は西パキスタンの主要言語であったウルドゥ語であり、そのことに対する東パキスタン側の不満も根強いものがありました。 さらに、1970年の集中豪雨、ボーラ・サイクロンによって東パキスタン国土のほとんどが水没、17万人に上る死者が出たにもかかわらず、パキスタン政府の西パキスタン偏重政策は変わらず、東西の亀裂は決定的になります。 こうした状況の下で行われた1970年の総選挙では、東パキスタンを地盤とするアワミ連盟が“バングラ民族主義”を掲げ、東パキスタンの選挙区で162議席中160議席を獲得。アワミ連盟の躍進が東パキスタンの分離・独立につながることを恐れたパキスタン政府は、選挙後、なかなか議会を開催しようとしなかったため、1971年3月7日、アワミ連盟は10万人の大集会を開催し、党首のムジブル・ラーマンがパキスタン中央政府への非協力政策を宣言しました。 これに対して、3月25日、中央政府はムジブル・ラーマンを逮捕。さらに、パキスタン軍による東パキスタン住民の虐殺事件が発生します。翌26日、陸軍のジアウル・ラーマン少佐が「我々旧東パキスタンは旧西パキスタンに対し自由解放のための戦いを開始する」と宣言。4月10日には“バングラデシュ人民共和国”の独立が宣言されました。 すると、パキスタン政府は軍を空輸して武力鎮圧を試み、さらに、反独立派のイスラム過激派組織がベンガル人の大量殺戮を行ったため、9ヶ月で300万人もの死者が発生しました。 この動きに目をつけたインドは、パキスタンを弱体化させるために、東パキスタンからインドへの難民流入を“人口学的侵略”として、1971年12月3日、パキスタンに侵攻。第3次印パ戦争が勃発しました。 圧倒的な兵力を誇るインド軍の前に、パキスタン軍はわずか10日余りで降伏。12月16日、パキスタンはバングラデシュの独立を承認し、ラーマンは解放されました。 翌1972年1月12日、独立後の初代首相に就任したラーマンは、パキスタンへの対抗上、親インドの立場を取り、民主主義、社会主義、政教分離を柱とする議院内閣制を骨子とする憲法を制定します。 しかし、独立時の混乱はなかなか収束しなかったため、新政府は戒厳令を施行し、ラーマン自身が大統領に就任。与党アワミ連盟以外の政党を非合法化するなど強権的な統治により事態を乗り切ろうとしましたが、状況は改善されず、飢餓と疫病が蔓延しました。 こうした状況の下、1975年8月15日、陸軍によるクーデターが発生。ムジブル・ラーマンは妻と息子とともに殺害されました。なお、現在、バングラデシュの首相を務めるシェイク・ハシナは、事件当時は英国留学中だったために難を逃れ、インドでの亡命生活を経て、1981年に帰国。アワミ連盟の党首に就任し、フセイン・モハンマド・エルシャド軍事政権の反対運動を展開しました。 ラーマンの暗殺後、事件に関与した軍の高官らが政権中枢を占めていたこともあって、事件の真相究明は棚上げにされていましたが、2009年1月、ハシナが2度目の首相に就任すると、同年11月、最高裁判所は実行犯の元軍将校12人全員(国外逃亡者、死亡者含む)に対して死刑の判決を言い渡しています。 ちなみに、今回、死刑を執行されたアブドル・マジッドは、1996年、ハシナの第一次政権が発足し、事件の追及が始まったため、以後23年間、インドで逃亡生活を送っていましたが、今月7日、帰国してダッカに潜伏したところを発見され、逮捕されたばかりでした。バングラデシュでは、きょう(14日)がベンガル暦の新年、ポヘラ・ボイシャクなので、それまでに片をつけたかったということなのかもしれません。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 4月17日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-13 Mon 01:48
新型コロナウイルスに感染し、ロンドン市内の病院に入院していた英国のボリス・ジョンソン首相が、昨日(12日)、退院しました。当面は公務には復帰せず、ロンドン郊外にある首相の公式別荘・チェッカーズで療養を続けるそうですが、まずはめでたい話です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、先日、英国からわが家に届いた郵便物ですが、カバー上部には今回のウイルス対策の標語である “Stay Home. Protect the NHS. Save Lives; Royal Mail - keeping communities connected.(不要な外出はしない。NHSを守ろう。命を救おう。 ロイヤル・メールは共同体のきずなを守っています)” の文言が入った標語印が押されています。下に、その標語印の部分をトリミングした画像を貼っておきましょう。 新型コロナウイルス対策として、英政府は、3月初め時点で300憶ポンド(4.4兆円)を当初予算で投入していましたが、その後の感染拡大を受けて、3月12日夕方、ジョンソン首相が、今後の対策は“封じ込め”から“遅延”に移行しなければならないと演説。感染リスクが最も高まり、NHS(イギリスの公的保健医療制度)に最も大きな負担がかかる流行のピーク時に、リスクの高い人たちをウィルスから守ることを最大の課題として、翌13日以降、咳もしくは熱などの症状のある人への1週間の自宅待機を求めました。 これを機に、英国内の空気が一変。16日には、症状のある人のいる世帯や高齢者などリスクの高い人の自宅待機に加え、全国民に対し不要不急な外出自粛、可能な限りの在宅勤務の推進を発表します。さらに、20日には全国の学校の休校、23日には「緊急事態」が宣言されました。 緊急事態宣言の具体的内容は、社会的距離政策(全市民が互いに最低2メートルの距離を置くこと)と外出禁止措置で、外出禁止措置の具体的な内容は、①外出が認められるのは、必要最低限の買い物,1日1回の運動、医療上の必要、真に必要な通勤という目的に限られる、②生活必需品以外を扱う商店や施設は閉鎖し、3人以上が公共の場で集うことや、結婚式等を含む社会的行事を中止する、③ルールに従わなければ,警察は罰金や集会の解散を含む対応を取る、となっており、3週間のロックダウンが始まりました。 また、強制力を伴う外出禁止措置を導入した結果、それに伴う経済損失を政府が責任をもって補填することとなり、影響を受ける企業に対する3300憶ポンド(46兆円)の緊急融資、休業を強いられる非雇用者に対する給与の8割補償(上限は月約2500ポンド=40万円)、家賃滞納の容認、納税期限の来年への延期等々の次々と手当てが行われています。 これに伴い、英国内では、先ご紹介した“Stay Home Protect the NHS Save Lives“が至る所に掲げられることになり、3月末から、今回ご紹介の標語印の使用が開始されました。 なお、英国のスローガンにある“NHS”は、英国の国営医療サービス事業“国民保健サービス(National Health Service)”の略称で、,患者の医療ニーズに対して公平なサービスを提供することを目的に1948年に設立されました。その運営には国家予算の25.2%が投じられており、利用者の健康リスクや経済的な支払い能力にかかわらず、臨床的必要性に応じて利用が可能で、自己負担は無料もしくはごく少額です。また、外国人であっても合法的に英国に滞在していると認定されれば、利用できます。 ジョンソン首相は退院を報告する動画メッセージで、「NHSが私の命を救ってくれた。恩義は表現しがたい」と述べ、治療や看護にあたった病院スタッフの名前を列挙。また、外出自粛を続けている英国民への謝意も繰り返し「新型コロナとの国家の闘いは進展している」と語るとともに、感染の拡大を防いで医療制度を守るため、引き続き自宅にとどまるよう呼びかけました。 ちなみに、英保健当局の発表によると、12日の時点で、英国での新型コロナウイルスの感染者は計8万4279人、死者は計1万621人で、このうち医師や看護師らNHSのスタッフ計19人が殉職しています。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 4月17日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-12 Sun 00:57
きょう(12日)はイースター(復活祭)です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2000年4月23日、パレスチナ自治政府が発行したイースター切手の小型シートを貼って、ナーブルス(ヨルダン川西岸地区北部)からエジプトのイスマーイーリーヤ宛に差し出されたカバーです。 切手に取り上げられているのは、イタリアの画家、ジョット・ディ・ボンドーネが1305年頃に完成させたと言われているテンペラ画、『パドヴァの十字架像』(部分)です。この作品は元々フィレンツェのスクロヴェーニ礼拝堂の中央に飾られていましたが、現在はエレミターニ博物館に所蔵されています。 貼られている切手の額面は2000フィルスですが、当時のパレスチナ自治政府の郵便料金体系では、アラブ諸国宛の航空便の基本料金が300フィルス、外国宛の速達料金が1700フィルスですので、料金的にはピッタリです。裏面には各種の中継印などが押されており、このカバーは、ナーブルスから差し出された後、ラーマッラーの中央区分局経由でガザに運ばれ、そこからエジプト側に引き渡されたことがわかります。シートの右側、カバ-の中央には、不鮮明ですが、イスマーイーリーヤ局の着印も押されています。 ところで、カバーに貼られているシートには、上部に大きく“ベツレヘム2000”の表示があります。 “ベツレヘム2000”は、1999年12月から2001年のイースターまでの期間、西暦の新千年紀(ミレニアム)到来にあわせて、キリスト生誕の地とされるベツレヘムで各種の記念イベントを大々的に行おうという国連主導のプロジェクトで、これを契機に、ベツレヘムを中心に、パレスチナ自治政府支配下のヨルダン川西岸地区に全世界から多くの観光客を誘致するとともに、国際社会の支援で同地域の大規模再開発を進め、パレスチナ経済の浮揚を図る意図も込められていました。 ところが、期間中の、2000年9月28日、イスラエルの右派政党、リクードの党首アリエル・シャロンが、当時のバラック政権の軟弱姿勢を批判するため、エルサレムの神殿の丘に登り、岩のドームの前で「エルサレムは全てイスラエルのものだ」と宣言したのを機に、第二次インティファーダが発生。情勢が一挙に不安定化したことから、“ベツレヘム2000”は、結果的に尻すぼみに終わってしまいました。 ちなみに、このあたりの事情については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 4月17日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-11 Sat 00:44
1945年4月11日、ナチス・ドイツのブーヘンヴァルト収容所が解放されてから、ちょうど75年になりました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1941年3月7日(消印は14日)、ブーヘンヴァルト収容所からビルケナウ宛に差し出された葉書で、左側には「私は6週間ごとに1通の手紙を受け取れます」との文言の印が押されています。 ブーヘンヴァルトは、ヴァイマル(ワイマール)市の北西7キロ、テューリンゲン地方エッテルベルクに位置しており、収容所名としては、しばしばこの葉書にも表示されているように“ヴァイマル ブーヘンヴァルト”と呼ばれます。 ドイツでは、1936年秋から4ヵ年計画が始まり、そのために大量の煉瓦が必要となりました。そこで、ブーヘンヴァルの地から算出される粘土を原料に煉瓦を製造させるため、同年末からリヒテンブルク収容所やザクセンハウゼン収容所の囚人を動員して建設工事が始まり、1937年7月、収容が開所しました。 以後、1945年4月11日、米第80歩兵師団によって解放されるまでに、累計23万3800人がこの収容所に送られ、5万5000人以上が亡くなったとされています。 収容者の数は、1943年1月まではおおむね1万人弱で推移していましたが、戦況が悪化した1943年以降、移送されてくる収容者が激増。1944年1月1日には3万7319人に、1945年1月1日には6万3048人に、同年4月1日には8万人超になりました。米軍の接近を前に、収容所当局は収容者の移送を開始しましたが、そのまま取り残された人も多く、解放時にブーヘンヴァルトにいた収容者は2万1000人でした。そのほとんどは骨と皮だけにやせ細り、衰弱しきっており、収容所内には、腐乱した死体が散乱し、中庭には裸の老若男女の死体が山積みにされているなど、酸鼻をきわめる状態でした。 その光景を見たジョージ・パットン将軍は、ドイツ国民に自国の政府が犯した非人道的行為をしっかり目に焼き付けさせるため、ヴァイマル市民約2000人を連行し、収容所内の惨状を見せましたが、ほとんどのドイツ人は正視できなかったそうです。 ちなみに、葉書の宛先となっているビルケナウには、この葉書は差し出されてから約半年後の1941年10月、アウシュヴィッツ第2収容所(アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所)が開設されました。 なお、ナチス・ドイツの収容所と郵便については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 4月17日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-10 Fri 01:22
ご報告が遅くなりましたが、『東洋経済日報』2020年3月20日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、昨今の新型ウイルス問題にちなんで、こんな切手をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2019年12月27日に8種セットで発行された“科学技術に対する韓国の貢献”と題する切手のうち、 “ハンタウイルス対策”を取り上げた1枚です。 ハンタウイルスは、ブニヤウイルス科ハンタウイルス属に属するウイルスの総称。自然宿主はげっ歯目ならびにトガリネズミ目などの小型哺乳動物で、それら動物に対して病原性を示すことはありませんが、人に感染すると腎症候性出血熱(HFRS)やハンタウイルス肺症候群(HPS)といった重篤な疾病を引き起こします。 ハンタウイルスによって引き起こされるHFRSは20世紀初頭からユーラシア大陸各地で広く見られ、韓国では韓国出血熱、中国では流行性出血熱、旧ソ連では出血性腎症腎炎、スカンジナビア諸国では流行性腎症などと呼ばれ、原因不明の風土病として認識されていました。このうち、“流行性出血熱”は、支那事変(日中戦争)の時期には、中国とソ連の国境を流れるアムール川(黒龍江)の流域で流行し、現地に駐屯していた日本軍の兵士が罹患したとの報告もあります。また、1950年に始まる朝鮮戦争でも、国連軍のあいだに約3200例の不明熱が報告されたことで、欧米でも注目されました。 その後も、1960年代には大阪梅田の居住環境の悪い地区において、不明熱の発生が119例報告され(うち2例は死亡)たほか、1970年代には日本各地の医学系動物実験施設でラットを取扱う担当者の間に不明熱の患者が相次いで発生しましたが、その原因については長らく不明でした。 こうした状況の下、1976年、韓国・高麗大学校の李鎬汪らは、セスジネズミより“韓国出血熱”の病因ウイルスを分離することに成功。この時のネズミが京畿道漣川郡の漢灘江(ハンタンガン)の付近で採取されたモノであったことから、ウイルスは“ハンターンウイルス”と命名されました。 これを機に、各流行地でも病因ウイルスが分離され、解析が進められた結果、既存のウイルスとは別の性状を示すことが判明したため、これらのウイルスはブニヤウイルス科の5番目の属としてハンタウイルス属と命名されました。ちなみに、わが国では、1982年に感染研と北大獣医学部により、札幌医科大学のラットから原因ウイルスが国内で初めて分離されています。 一方、同じくハンタウイルスが引き起こすHPSは、1993年、米国南西部で肺水腫を伴う急性の呼吸困難による死亡例がナバホインディアンのあいだで複数報告されたことから確認されたもので、以後、世界各地において様々なハンタウイルスが発見され、最近ではげっ歯目だけでなく、トガリネズミ目やコウモリ目などの小型哺乳動物からもハンタウイルスが見つかっています。 今回ご紹介の切手は、韓国の研究者がそうしたハンタウイルス対策の基礎を築いたことを広く内外に知らしめることを意図したもので、ワクチンの入った注射器を抱えた男女の医師がウイルスを媒介する鼠を退治している様子がユーモラスなタッチで描かれています。 それにしても、この切手が発行された2019年12月27日の時点では、約3週間後の1月20日、韓国で新型ウイルスの感染例が最初に確認され、突起のある球体で表現されたウイルスのイメージが、これほどまでに人々の間に浸透するようになるとは誰も想像できなかったでしょうねぇ。 ちなみに、韓国では、2018年10月にイランとの友好の切手を発行したら、翌11月に米国がイラン産原油の禁輸措置を再開し、2019年5月には韓国も“(米国によるイラン制裁の)例外国”から外されるなど、間の悪い切手がしばしばみられます。こういうことがあるから、韓国の切手からはなかなか目が離せませんな。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-09 Thu 01:57
フランスのディディエ・ギヨーム農相が、新型コロナウイルス拡大の影響で仕事を失った労働者らに対し、夏が近づくにつれて労働力の確保が急務となっている栽培農家や畜産農家で働くことを呼び掛けたところ、おととい(7日)までに、20万人以上から応募があったそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1903年に発行されたフランスの“種まき”シリーズの普通切手のうち、10サンチーム切手です。 “種まき”のデザインは、登りゆく太陽を背に、自由の象徴であるフジア帽をかぶる女性(=フランスの象徴としてのマリアンヌ)が、種の入った布袋を左肩に掛け、右腕を伸ばして畑に種を播いている姿と表現したものですが、これは、もともと、1887年、レジオン・ドヌール・シュヴァリエを受章したメダル彫刻家のルイ・オスカル・ロティ(1888年にアカデミー会員)が、フランス農業省の委託を受けて制作したメダルの原型がオリジナルとなっています。 このメダルは実際には製作されませんでしたが、1896年、フランスではコインのデザインを一新することになり、当時の財務大臣、ポール・ドゥメはデザイン制作をロティに委託しました。これを受けて、オスカルはお蔵入りになっていた1887年のメダルの型をもとに新コインの原版を制作。翌1897年、種まきをデザインとする50サンチーム硬貨が発行されました。 このデザインについては、当初、「この蒔き方では種が風に流されてしまい不適切だ」との批判もありましたが、オスカルは「彼女が気前良く蒔いている種は、いつの日にか、彼女がいなくなった後で芽吹くであろう、無数のアイディアの種なのである」と説明して、これを退けました。実際、“種まき”はその後の歴史を通じてフランスを象徴するデザインの一つとして定着。現行のフランス10、20、50ユーロ貨にも採用されています。 切手に関しては、1903年に、今回ご紹介の10サンチーム切手に加え、15、20、25、30サンチームの計5額面の切手が発行されて以来、1938年まで35年間にわたり、“種まき”はフランスの通常切手として、フランス本国のみならず、仏領地域でも広く使用されました。デザインのタイプとしては、①オスカルのオリジナルに忠実に、背景に地平線と太陽のあるもの、②太陽と地平線がなく、マリアンヌの足元の地面だけあるもの、③背景が無地のもの、に大別されます。 さて、フランスでは、新型コロナウイルスによる外出制限により、レストランや学校のカフェテリアなどが休業し、何万人もの一時解雇が生じているだけでなく、国境封鎖により農家も例年のように季節労働者を確保できない状況となっています。特に、アスパラガスやイチゴ、トマトなど初夏の作物の収穫期と、畜産業の繁殖期が迫るなかで、現状では労働力が圧倒的に不足しており、食料の生産・流通に支障が出ることが懸念されていました。 そこで、ギヨーム農相は、先月、“大農業部隊”の結成を提案。ウイルスの拡大防止にも配慮して、大農業部隊は「(一時解雇された人々に)国内移動を強いるつもりはなく、自宅付近や近隣の農家、または食品産業や運送、物流業界での勤務となる予定だ」、「(アスパラガスなど)これらの製品が、売れる場所に確実に届くようにすることが非常に重要だ」と説明し、大きな反響を呼びました。 現時点で、フランス農業省は20万人以上の応募に対して、採用担当者5000人を動員して業務の調整に当たっているとのことですが、こうした取り組みは、わが国でも大いに参考になるのではないでしょうかね。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-08 Wed 02:49
きょう(8日)は、お釈迦様の誕生を祝う“花まつり”の日です。というわけで、毎年恒例、お釈迦様ネタの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1993年9月20日に韓国が発行した900ウォンの普通切手で、三国時代の釈迦三尊像の名品として国宝第72号にも指定されている“金銅癸未銘三尊仏”が取り上げられています。 金銅癸未銘三尊仏は、中尊の釈迦如来とその左側(向かって右)が文殊菩薩、同右側が普賢菩薩の両脇士の三尊が一つの舟形光背を負っている“一光三尊仏”の三尊像で、中国南北朝時代の影響が色濃くみられます。高さは17.5センチで、両脇侍菩薩を一鋳し、中尊は別鋳して光背用枘として互いに結合する中尊別鋳結合式で作られました。光背裏面には「癸未年十一月一日…」の造像年銘があり、西暦563年の作品であることがわかります。現在は、ソウルの澗松美術館の収蔵品です。 金銅癸未銘三尊仏の釈迦如来像は、右手を胸の前に上げ、掌を正面に向けた姿勢を取っています。この手の形(印相)は“施無畏印”と呼ばれ、人々を安心させ、恐れを取り除く身振りとされています。また、左手は掌を前側に向けて下げる“与願印”となっていますが、これは、人々の願いを聞き入れ望むものを与えようとする深い慈悲を表わす身振りとされています。 安倍首相は、昨日(7日)、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、東京、埼玉、千葉、神奈川、大阪、兵庫、福岡の7都府県を対象に、5月6日まで、改正新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく初の「緊急事態宣言」を発令しました。 ちなみに、その記者会見で、首相は、1933年3月4日、フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトが最初の大統領就任演説で用いた「恐れるべきは恐れそれ自体である」というフレーズを引用しました。テレビ番組ではキャスターの池上彰がこのフレーズについて「1929年にニューヨークの株式の大暴落があった時に、ルーズヴェルト大統領が言った有名な言葉なんですね」と説明していましたが、1929年の時点ではルーズヴェルトはそもそも大統領ではありませんでしたし、歴史的事実とは明らかに異なっています。 現在、世界各国は“準戦時体制”で新型ウイルス対策に臨んでおり、都市封鎖や外出禁止などの措置を講じている国も少なくありません。人々の移動・交流等を制限することが感染拡大に効果があるのは言うまでもないことで、人々は、いわば、ウイルスとの籠城戦を戦っているといってよいでしょう。 ただし、ウイルスとの戦いで国民にも籠城戦を呼びかけるのであれば、それなりの食料や武器弾薬(現状であれば、最大の武器となるのは、やはり現金でしょうね)の補給が必要です。補給もなしに籠城しろというのは、砦の中で飢えて死ぬか、被弾を覚悟のうえで銃弾の下をかいくぐって食糧を探しに行くか、兵士が自分で決めろという無茶苦茶な話です。 今回のわが国の非常事態宣言も、国民に対して“籠城戦”への参加を求めるものですから、国民の側から「(各種自粛の)要請と補償はセットに」という声が上がるのも当然のことで、「全世帯への現金一律給付」を求める声もあがっていました。また、昨年10月の消費税増税により、新型ウイルス問題の発生以前から、日本経済は壊滅的な打撃を受けていたため、共同通信社が3月26-28日に実施した全国緊急電話世論調査によると、望ましい緊急経済対策としては「消費税率の引き下」が43.4%でトップとなっていました。 しかし、政府は消費税率の引き下げを頑なに拒否する姿勢を崩していないばかりか、きょうの会見でも、安倍首相は全世帯への一律給付の実施を否定し、「本当に厳しく収入が減少した人に直接給付をしていきたい」と強調しています。報道では、一定の水準まで所得が減少した世帯に対し、世帯当たり最大30万円支給するとされていますが、その施策では、給付を受けられるのは全世帯の5分の1程度にしかなりません。 また、厳しい状況にある個人事業主に対する最大100万円、中小企業には200万円の給付、無利子無担保の融資や、税・社会保障の猶予措置など、さまざまな補償があるともされていますが、手続きが複雑なうえ、実際に現金が支給されるのは早くても2ヶ月後ということで、このままでは、きょう・明日の現金が必要な中小企業の倒産が激増し、未曽有の大恐慌が到来することは避けられないでしょう。 ウイルスでの死者よりも経済的な困難による“飢え死に”が多くなれば、旧日本軍の戦没者の6割が餓死だったという、先の大戦の失敗から我々は何も学んでいなかったということになります。 いずれにせよ、非常時の政府の対応としては、まず、国民の不安を取り除き、必要な資金・物資を供給することにあるわけで、まさに、施無畏印と与願印の姿勢が求められているといってよいでしょう。そういえば、現政権には、仏教系の宗教団体を支持母体とする政党が与党として加わっているはずなんですが、まさか、そうした仏の心を理解していないということなのかなぁ。そうだとすると、遠からず、仏罰が下りそうな気がしますね。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-07 Tue 02:39
フランス南部で暮らす男性が、安い煙草を買うため隣国スペインまで歩いていこうとしたところ、両国にまたがるピレネー山中で遭難。ヘリコプターで救出され、新型コロナウイルス対策の規制に違反により、135ユーロ(約1万6000円)の罰金が科されたそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ピレネー山脈をフランス=スペイン間の国境と定めたピレネー条約の締結300年を記念してスペインが発行した切手で、条約締結時に握手するルイ14世(仏)とフェリペ4世(西)を描くタペストリーが取り上げられています。 ピレネー条約は、1635-59年のフランス・スペイン戦争の講和条約で、両国の間を流れるビダソア川の中州であるフェザント島で締結されました。同条約により、フランスはルシヨン、アルトワ、ルクセンブルク公国の一部とフランドルの一部を手に入れ、ピレネー山脈がスペインとの国境として固定されます。ただし、条約では、ピレネー山脈の北にある“全ての村”がフランス領とされたため、“町”であったリビアはスペインの飛び地とされ、スペインのジローナ州サルダーニャの自治区となりました。 さて、南仏では多くの人々が、スペインの方が煙草やアルコール類、一部の食品、燃料が安いとして、国境を越えて買いに出かけています。 今回問題となった男性は、今月4日、フランスのペルピニャンから車でスペイン北部のラジョンケラへ向かったところ、新型ウイルス対策の規則(一般国民の外出は、必要不可欠な理由があり、かつ用事があることを自らが証明する文書を携帯している場合しか認められません)により、検問所で止められました。そこで、男性はピレネー山脈を歩いて越えようとしましたが、小川に落下して道に迷い、緊急当局に連絡。国家憲兵隊ピレネーオリアンタル県山岳警備隊のヘリコプターによって救助され、新型ウイルス対策の規則に違反で罰金が科されました。 今回の件に関して、山岳警備隊は「もう一度お知らせしておきます。自宅にとどまってください」とツイートし、ウイルス対策の外出規制を遵守するよう、国民に呼びかけています。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-06 Mon 01:43
1320年4月6日、イングランドに対する独立戦争に勝利したスコットランドがアーブロース寺院で独立を宣言(アーブロース宣言)してから、ちょうど700年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1970年に英国で発行された“アーブロース宣言650年”の記念切手で、スコットランド王ロバート1世による宣言署名の場面が描かれています。 1290年、スコットランドではわずか7歳の女王マーガレットが亡くなり、アサル王家の直系が断絶。このため、王位継承をめぐる有力者13人による争いが起こりました。スコットランド支配を狙うイングランド王エドワード1世は、“裁定者”としてこの争いに介入し、自らの従妹の配偶者であったジョン・ベイリャルを王位継承者に選びます。 これを受けて、1292年、ジョン・ベイリャルがスコットランド王として即位しましたが、即位の経緯から、ジョン・ベイリャルはエドワード1世の言いなりにならざるを得ませんでした。 その後、エドワード1世の傀儡の地位に甘んじることに我慢できなくなったジョン・ベイリャルは、1294年、フランス王フィリップ4世と同盟を結び、1296年、北部イングランドへ侵攻。しかし、ジョン・ベイリャルの軍はダンバーの戦いで大敗し、彼は廃位され、スコットランドはイングランドの支配下にかれることになりました。 これに対して、1297年、スコットランドでは大規模な叛乱が勃発。以後、30年に渡ってスコットランドはイングランドに対する独立戦争を戦い続けることになります。 その過程で、1306年、スコットランド王を宣言して戴冠式を行ったのが、ノルマンディー系の貴族、ロバート・ブルース(ロバート1世)でした。 ロバート1世は1314年までにスコットランドの大部分を再征服し、バノックバーンの戦いでイングランド軍に大勝を収めてスコットランドの独立をほぼ確保。その後、1318年にはスコットランドから全てのイングランド兵が駆逐され、1320年のアーブロース宣言でスコットランドはイングランドからの独立を勝ち取りました。ちなみに、イングランド王エドワード3世の末妹ジョーンとロバートの長男デイヴィッド(後のデイヴィッド2世)が結婚により、イングランドとスコットランドの間で和平が成立したのは、1328年のことでした。 ちなみに、拙著『英国郵便史 ペニーブラック物語』では、アーブロース宣言後の1326年、ロバート1世が配下のウィリアム・オリファントに送った所領安堵の特許状をご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-05 Sun 01:50
ご報告がすっかり遅くなりましたが、『本のメルマガ』第745号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、1960年のコラブリ・スプートニク1号(1957年のスプートニク1号から通算するとスプートニク4号)について取り上げました。その記事の中から、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1960年6月17日に発行されたスプートニク4号打ち上げの記念切手で、クレムリンとソ連地図に上空を飛ぶスプートニク4号が描かれています。 1958‐59年、月への接近ないしは衝突を目的とした初期のルナ計画が成功裏に終了したことを受けて、ソ連の宇宙開発は、有人飛行の準備段階として、コラブリ・スプートニク計画へと移行します。 ちなみに、“コラブリ”はロシア語で“船”の意味で、“コラブリ・スプートニク”は直訳すると“船舶衛星”の意味です。現在の辞書的な定義によれば、“宇宙船”は打ち上げロケットを用いて大気圏外で使用される人工物(=宇宙機)のうち、人が乗ることを想定しているものとなっていますが、有人飛行の前段階のコラブリ・スプートニクを“宇宙船”と呼べるかどうかは議論が分かれるかもしれません。ただ、ここではロシア語の原義を尊重して、とりあえず“宇宙船”と呼んでおくことにします。 さて、コラブリ・スプートニク計画の目的は、有人宇宙飛行へ向けて、生命維持装置の機能の検証、宇宙飛行が生物に与える影響の調査、大気圏突入の実験を行うことで、宇宙船内には生命維持装置、テレビジョン装置、人形などが乗せられていました。また、地上との通信実験を行う目的で、宇宙船はテレメトリー以外に録音された人間の声も送信しました。 ただし、最初のコラブリ・スプートニク1号=スプートニク4号では、地上への帰還に必要な耐熱シールドの開発が間に合わなかったため、先に完成していた他の技術を実証することを主目的として、耐熱シールドは装備せず、ミッション終了後は大気圏に突入させて、宇宙船そのものを廃棄することが計画されています。 さて、スプートニク4号は、1960年5月15日にバイコヌール宇宙基地からボストークロケットによって打ち上げられました。宇宙船は予定通り4日間の飛行を終えた後に、地球周回軌道から離脱するために逆噴射エンジンに点火したものの、姿勢制御装置に異常が起きたため、意図しない方向に加速されてしまいます。その結果、宇宙船はより高い軌道に移動してしまい、大気圏再突入は失敗。宇宙船はしばらく地球周回軌道にとどまった後、地球大気の抵抗による軌道の縮小のために1962年9月5日に大気圏に突入し、機体の大部分は大気の断熱圧縮の熱で燃え尽き、重量9キロの金属片が米ウィスコンシン州マニトワックの市街地に落下しました。この破片はソビエト政府に返還され、代わりにレプリカが地元の博物館で展示されているほか、市街地には破片回収地点を示した石碑が建てられています。 ちなみに、スプートニク4号の破片の落下とほぼ同時に、ワシントン州スノホミッシュにも宇宙船の破片らしき金属塊が落下しており、地元では、この物体もスプートニク4号の一部ではないかと考えられました。しかし、調査の結果、この破片はスプートニク4号のものではないことが確認されたものの、結局、その素性は不明のままで、一部ではUFOの破片ではないかとする声(ただし、専門家は否定的である)も根強いようです。 なお、スプートニク4号には間に合わなかった耐熱シールドですが、1960年6月28日に打ち上げられた宇宙船では初めて装備され、地球への帰還を想定して、2匹の犬が乗せられました。しかし、この時はロケットが発射数十秒後に爆発し、実験は失敗。このため、6月28日の宇宙船は命名されぬままに終わっています。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-04 Sat 02:19
きょう(4日)は、1960年4月4日に現在のセネガル共和国の前身にあたるマリ連邦とフランスの間で主権移譲協定が結ばれたことにちなみ、セネガルの独立記念日です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1964年にセネガルが発行した“独立記念塔”の切手です。 独立記念塔は、首都ダカール中心部、シャルル・ドゴール通りに面したオベリスク広場にあり、1960年の独立にちなみ、高さは60m。独立の年を示すローマ数字(MCMLX)が掲げられているほか、基部にはセネガルの象徴として国章にも描かれているライオンが描かれています。 1958年、フランス植民地の再編がすすめられていく中で、西アフリカでは、フランス共同体内の自治権を持つ国として、仏領スーダン(現マリ)、セネガル、オートボルタ(現ブルキナファソ)、ダオメー(現ベナン)、ニジェール、トーゴ、象牙海岸(現コートジボワール)などの自治共和国がつくられました。 これを受けて、同年12月末、仏領スーダンの首府バマコにスーダン、セネガル、オート・ヴォルタ、ダオメー各地の汎アフリカ主義者らが集まり、新たな連邦を創設してフランスからの完全独立を目指して会議を開催。翌1959年1月17日、セネガルのダカールで開催された“憲法制定会議”において「“マリ連邦”憲法」が承認され、各共和国で国民投票にかけられることになりました。 ところが、連邦のあり方をめぐっては、完全な独立国家を目指すスーダンおよびセネガルと、フランス共同体の中で対等な地位を目指そうとするオートボルタおよびダオメーが対立。結局、国民投票の結果、実際に同憲法を承認したのは旧スーダンとセネガルのみで、1959年4月4日、“マリ連邦”は両者の連合体としてスタートします。 フランスは、当初、マリ連邦の独立を承認せず、フランス本国との国家連合を求めていましたが、最終的に1959年12月11-12日にセネガルのサン・ルイで開催されたフランス共同体委員会でマリ連邦の独立を実質的に承認。1960年4月4日、主権移譲協定が結ばれたことでマリ連邦の独立が確定し、同年6月20日、連邦としての完全独立が達成されました。 マリ連邦の独立に伴い、首都はセネガルのダカールに置かれ、大統領にはとりあえず旧仏領スーダン首相のモディボ・ケイタが、副大統領にはセネガル首相のママドゥ・ディアが就任しましたが、2ヶ月後の8月20日、セネガルが突如、連邦からの分離独立を宣言します。その背景には、両者のうち、人口・面積ともに少ないセネガルが経済的にはスーダンを圧倒しており、両者の政治的バランスをとることが困難だったという事情がありました。 旧スーダン側は国連軍の派遣を要請してこれを阻止しようとしましたが、結局失敗し、1960年9月22日、旧スーダンの領域のみで、あらためて現在の“マリ共和国”として独立し、同月28日、国連に加盟します。 こうして、マリ連邦はわずか2ヶ月の超短命国家に終わりましたが、現在のセネガル政府は、1960年のフランスからマリ連邦への主権移譲協定をもって“独立”が事実上達せられたとして、協定調印日の4月4日を独立記念日としています。 なお、マリ連邦については、拙著『マリ近現代史』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-03 Fri 03:03
武漢発とされる新型コロナウイルスが全世界で猛威を振るっている中、2月下旬、動物から人へ病気が感染する危険性を理由に、野生動物を食用目的で売買することを一時禁止したはずの中国で、先月、国家衛生健康委員会(NHC)が、新型ウイルスの重症患者の治療用として、“痰熱清”と呼ばれるクマの胆汁の粉末、ヤギの角、薬草3種が含まれる注射液の使用を推奨する指針を発表していたことが明らかになりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2001年にマカオで発行された故事成語の切手のうち、“臥薪嘗胆”を取り上げた1枚です。“臥薪嘗胆”の切手は、台湾でも1975年に「民間故事」の1枚として発行されていますが、今回は、北京政府の影響下にある地域ということで、マカオの切手を持ってきました。 中国の春秋時代、越王勾践に父を討たれた呉王夫差は常に薪の上に寝て復讐の志を奮い立たせ、ついに越を破りました。これが“臥薪”の由来です。一方、敗れた勾践は室内にクマの胆を掛けてこれを嘗め、その苦さで敗戦の恥辱を思い出し、ついに夫差を滅ぼし、これが“嘗胆”の由来となりました。 したがって、臥薪と嘗胆は別々の人物として描かないといけないはずなのですが、切手では一人の人物が薪の上に寝て肝を嘗めている絵になっています。なお、もともと、臥薪と嘗胆は全く別の語として使われていましたが、宋代の蘇軾(1037年 - 1101年)が『擬孫権答曹操書』において「僕受遺以来 臥薪嘗胆」との語を使って以来、徐々にセットで使われる用例が定着しました。 さて、迷信や俗習を目の敵にする共産主義政権という一般的なイメージからすると意外に思われるかもしれませんが、中国の共産党政権は、建国以来一貫して、国策として漢方医学を非常に重用しています。 その背景には、辛亥革命以降の中国の医療政策をめぐる歴史的な背景があることを見逃してはなりません。 西洋医学を学び、医師として開業した経験のある孫文は、1912年の中華民国建国以来、近代化政策の一環として、漢方医学を徹底的に排除することを医療政策の基本として掲げていました。 すなわち、中華民国の成立から間もない1912年には公式の漢方医学教育の廃止が強行され、それを皮切りに、1922年の医師法、1923年制定の漢方医取締法など、国民党は漢方医学を排除して西洋医学を導入することに邁進。そして、1929年には漢方医廃止法案(漢方医免許証の交付停止、漢方医学校の新設禁止、漢方医学校を伝習所と改称し、新入生の募集を停止する、などの内容がうたわれていました)が議会に提出されるほどでした。 結局、こうした漢方排除の政策は、1943年に医師法が改正され、西洋医と漢方医の並立が認められたことで頓挫します。しかし、1949年に台湾に移った国民党政権は、日本時代の経験から西洋医学が中心となっていた台湾において、ふたたび、漢方医学を軽視する医療政策を展開することになります。 したがって、国民党を打倒することで大陸を制圧した共産党政権が、ことさらに漢方医学を重視するのも自然の成り行きで、現在の習近平自身も、漢方薬を“中国文明の宝”と呼び、他の治療法と同等に生かしていくべきだとして、その使用推進に力を入れており、今回明らかになった国家衛生健康委員会の指針もこうした路線に沿ったものといえます。 とはいえ、現時点では新型コロナウイルスの発生源は特定されていないとはいえ、新型コロナウイルスの流行は、武漢の野生動物を扱う市場から始まったと見られており、それゆえ、食用目的での野生動物の売買は禁止されてから、まだ一月強ですからねぇ。国の機関として、クマの胆汁やヤギの角を薬として奨励するというのは…。まぁ、それがあの国らしいところだといえばそれまでですが。 なお、マカオとその切手については、拙著『マカオ紀行』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-02 Thu 09:51
安倍首相は、きのう(1日)、新型コロナウイルス特措法に基づく政府対策本部で、洗濯して繰り返し使える布マスクを1世帯(住所)当たり2枚ずつ、1億枚配る方針を明らかにしました。というわけで、マスクの切手といえば、やはりこの1枚でしょうか。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1977年9月3日に発行された“第27回万国外科学会議”の記念切手です。 万国外科学会は、狭義の外科のみならず、脳外科・胸部外科・小児外科・整形外科はもちろん、産科婦人科・泌尿器科・眼科・耳鼻咽喉科などの外科系の各分野を包含する学会で、1902年にベルギーのブリュッセルで創立されました。以後、おおむね2-3年に1度、欧米諸国で総会として万国外科学会議が開かれてきましたが、1977年は学会の創立75周年にあたることから、初めて、欧米以外の地で総会が開かれることになり、9月3日から8日まで、京都市京都会館に64ヵ国から3000名の研究者等が集まって研究発表と討議が行われました。 今回ご紹介の切手は、その会期初日に合わせて発行されたもので、手術室の外科医が描かれています。なお、国際会議の記念切手の場合、一般に会議名称の欧文表示は英語ですが、今回の切手ではフランス語表示となっています。また、発行枚数は、今回配布予定のマスクよりも少ない3000万枚ですが、特に希少性があるわけではありません。 さて、西洋式のマスクが日本にもたらされたのは明治時代のことで、当初は、真鍮の金網を芯に布地をフィルターとして取り付けたものが主として作業現場などでの粉塵よけに利用されていました。 病気の予防用としては、1918年、“スペイン風邪”として知られるインフルエンザ(スペイン風邪)大流行をキッカケに注目されるようになり、1923年、内山武商店が“壽マスク”を発売。これが国産マスクの商標登録品第1号に認定となりました。 その後も、インフルエンザの流行を機にマスクの出荷量も増加。それにあわせて品質の改良も進み、枠のない布地だけのもの(今回配布予定のマスクはこのタイプでしょうか)や、1950年には布に代わるガーゼマスクが登場します。なお、1973年には不織布製プリーツ型の原型が日本でも製造・販売されるようになりましたので、今回ご紹介の切手に描かれているマスクも、布製ではなく、不織布製のものと考えてよさそうです。さらに、1980年代からは花粉症の流行もあってマスク需要は激増し、2003年には、立体構造で顔にぴったりフィットし、マスクと口の間に空間ができて呼吸がしやすい超立体マスクの一般向け販売も始まり(医療現場では1990年代後半から使用されていました)、現在に至っています。 現在、世界で猛威をふるっている新型コロナウイルスに対しては、世界各国が“準戦時体制”で臨んでおり、都市封鎖や外出禁止などの措置を講じている国も少なくありません。人々の移動・交流等を制限することが感染拡大に効果があるのは言うまでもないことで、人々は、いわば、ウイルスとの籠城戦を戦っているといってよいでしょう。 ただし、ウイルスとの戦いで国民にも籠城戦を呼びかけるのであれば、それなりの食料や武器弾薬(現状であれば、最大の武器となるのは、やはり現金でしょうね)の補給が必要です。補給もなしに籠城しろというのは、砦の中で飢えて死ぬか、被弾を覚悟のうえで銃弾の下をかいくぐって食糧を探しに行くか、兵士が自分で決めろという無茶苦茶な話です。 もちろん、全世帯へのマスクの配布はありがたいことではあるのですが、援軍なり弾薬なり食糧なりが届いたと思って喜んでいたらマスクだけだったというのは…。 ちなみに、今回配布される布製マスクは、1950年以前、すなわち、先の大戦中のマスクと基本構造は同じもののようです。そういえば、先の大戦では、日本軍の戦没者の6割が餓死でしたね。ウイルスとの戦いではなく、補給の不備による“飢え死に”が蔓延するようなことは、二度と繰り返されてはなりますまい。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-04-01 Wed 00:47
受動喫煙による健康被害を未然に防止するための改正健康増進法と東京都受動喫煙防止条例が、きょう(1日)から施行され、都内では、公共施設はもとより、一般の飲食店でも原則として屋内は禁煙となります。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2009年のふるさと切手(東京都)の「江戸名所と粋の浮世絵」のうち、喜多川歌麿の「錦織歌麿形新模様 文読み」を取り上げた1枚です。 “南蛮人”を通じて喫煙の習慣がわが国にもたらされたのは、16世紀中頃から17世紀初頭にかけてのことで、女性の喫煙は、おそらく、長崎・丸山当たりの遊女の間で最初に流行し、それが各地の遊里にも広まったと考えられています。 1650年に亡くなった岩佐又兵衛の作とされる「松浦屏風」の右端には煙管に煙草を詰める女性が描かれており、日本女性の喫煙に関する資料としてはかなり初期のものとして知られています。「松浦屏風」に描かれている女性は遊女ですが、手にしている煙管が、後の吉原のように朱羅宇の煙管ではないのも興味深いところです。 一方、江戸の吉原では、“張り見世”といって、通りに面した表側に格子をつけた座敷があり、その奥に花魁が打掛を着て並び、客に姿を見せていました。 客は張り見世を格子ごしに覗き、好みの遊女を品定めするのですが、遊女の膝元には朱塗りの煙草盆に朱羅宇(朱色の胴)の煙管が置かれるのが常でした。 彼女たちは外を歩く客たちの中から、気に入った男がいたら、煙管に煙草をつめて、自らくわえて火をつけて、すぐに据える状態にした“吸い付けたばこ”を格子越しに差し出します。これは、厭な客がついてしまう前に、気に入った男を今宵の相手にしようというもので、道行く男が格子の中から出てきた煙管を受け取れば、交渉成立。彼が煙管の遊女の客になります。そして、格子の中に上がった客は、まずは出された煙草盆で一服吸い、遊女が出てくるのを待つというのが段取りでした。 歌舞伎の「助六由縁江戸桜」では、主人公の助六が吉原を歩くと、四方八方から煙管が伸びてくるさまを「煙管の雨が降るやうだ」とのセリフで表現していますが、これは、彼のすさまじいまでのモテっぷりがわかる表現というわけで、当時の言葉で煙草のことを“相思草”と呼んだのも、こうした習慣と無縁ではないでしょう。 もっとも、女性の煙管というと、遊女が連想されることも多いのですが、実際には、江戸も中期以降になると、農家や商家の女性も煙管で煙草を楽しんでいました。 今回ご紹介の切手に取り上げられた歌麿の錦絵はその証拠ともいうべきもので、この絵は「文読み」以外に、「煙管を持つ女」という題名で呼ばれることもあります。その名の通り、煙管をくゆらせながら手紙を読む女性の姿が描かれたものですが、その髪型や紫の渋い色味の着物、暗い色の煙管などからして、明らかに、彼女は堅気の女性です。前帯にしているのは、彼女が労働の必要のない身分であるためで、大店の女房といったところでしょうか。 ところで、この絵は背景に書かれている詞書が面白いので、引用してみます。 夫れ吾妻にしき絵は江都の名産なり。然るを近世この葉画師専ら蟻のごとくに出生し、只紅、藍の光沢をたのみに怪敷形を写して、異国迄も其恥を伝る事の嘆かはしく、美人画の実意を書て世のこの葉どもに与ることしかり その大意は「浮世絵は江戸の名産だが、最近は質の悪い絵師がうじゃうじゃ蟻のように湧いてきて、ただ単に紅や紺を塗りたくった絵を出しているが、デッサンはでたらめ。海外まで恥をさらしているのは実に嘆かわしい。だから、自分がまっとうな美人画を描いて、そういう連中にを教育してやるために、絵を描いてやった」というこ風になりましょうか。美人画の第一人者だった歌麿の、他の連中とは一緒にしてもらっては困るという強烈な自負がうかがえる文章です。 なお、この切手については、かつて拙著『日の本切手 美女かるた』でも取り上げたことがありますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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