2025-01-05 Sun 01:45
公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2025年1月号が発行されました。僕の連載「切手歳時記」は、今回は、巳年の新年ということで、この1枚を選んでみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1971年4月1日に発行された古典芸能シリーズ第2集「雅楽」のうち、「還城楽」を取り上げた1枚です。切手は、胡人が彼らの間で食材として珍重されていた蛇を見つけて喜ぶ場面を取り上げたものですが、その蛇が描かれている右下部分の拡大画像も下に貼っておきます。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 また、日本の古典文化における蛇のエピソードについては、拙著『蛇の文化史 世界の切手と蛇のはなし』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。なお、同書を含め、えにし書房から刊行の拙著につきましては、内藤総研の会員の皆様(無料登録会員を含む)を対象に、こちらでサイン本の割引販売を行っておりますので、ぜひご登録の上、ご利用ください。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 1月7日(火) 10:00~ ニッポンジャーナル インターネット番組「ニッポンジャーナル」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。皆様、よろしくお願いします。 1月10日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 謀略の世界史 原則毎月第1土曜日 13:00~14:30 MI6、CIA、モサドなど各国の情報機関のあらましや、現代史の中で彼らが実際に関与した事件などを幅広くご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 現在配信中の「日本の歴史を学びなおす ―近現代編その11―」と「切手・郵便物でみる朝鮮半島現代史 1956-61」は、2025年1月7日までの配信となり、1月8日からは新たに「切手・郵便物でみる朝鮮半島現代史 1956-61」と巳年にちなむ新企画「蛇の文化史」の配信がスタートします。詳細は各講座名をご覧ください。 ★ 『蛇の文化史』 好評発売中!★ 「干支の文化史」シリーズ第2作。巳年にちなんで、蛇をめぐるポジティヴ・ネガティヴ、さまざまなイメージの背景にある歴史的・社会的文脈について、主に切手を手掛かりとして読み解いています。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2024-01-12 Fri 03:43
公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2024年1月号が発行されました。今回は新年号なので、僕の連載「切手歳時記」も、干支にちなんで、龍に関する切手の中からこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1968年5月20日に発行された40円切手(普通切手)で、日光東照宮の陽明門と薬師堂の鳴き龍(のイメージ。下にその部分の拡大画像も貼っておきます)が描かれています。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。また、切手に描かれた龍については、拙著『龍とドラゴンの文化史』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 1月12日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 1月13日(土) 19:00~ ニッポンジャーナル インターネット番組「ニッポンジャーナル・夜鍋」に内藤がゲスト出演の予定です。皆様、よろしくお願いします。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 謀略の世界史 原則毎月第1土曜日 13:00~14:30 MI6、CIA、モサドなど各国の情報機関のあらましや、現代史の中で彼らが実際に関与した事件などを幅広くご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 大河企画の「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」、引き続き開講中です。詳細はこちらをご覧ください。 「龍の文化史」、絶賛配信中です。龍/ドラゴンにまつわる神話や伝説は世界各地でみられますが、想像上の動物であるがゆえに、それぞれの物語には地域や時代の特性が色濃く反映されています。世界の龍について興味深いエピソードなどを切手の画像とともにご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『龍とドラゴンの文化史』 好評発売中!★ 辰年にちなんで、中国 の龍を皮切りに、 日本 、朝鮮、琉球、東南アジア、キリスト教世界など、世界の龍について、そのベースとなる文化史や興味深いエピソードなどを切手とともにご紹介します。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2022-11-11 Fri 04:29
公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2022年11月号が発行されました。今回の僕の連載「切手歳時記」では、立冬も過ぎて寒ブリの時期が始まることから、この切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1967年2月10日に発行された魚介シリーズの“ぶり”の切手です。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 11月11日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」と「日本郵便150年の歴史」の2種類の講座をやっています。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『現代日中関係史 第1部 1945-1972』11月20日刊行! ★ 日本郵趣出版の新レーベル「郵便×歴史シリーズ」の第一弾の企画として、切手という切り口から第二次大戦後の日中関係を読み解く『現代日中関係史』。その第1巻となる本書は、第二次大戦後、わが国が中華人民共和国と国交を樹立(いわゆる国交正常化)する1972年9月以前を取り扱っています。なお、1972年の国交”正常化”以降については、2023年3月に刊行予定の第2巻でまとめる予定です。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページのリンクがあるほか、主要書店の店頭在庫も確認できます。また、販売元の郵趣サービス社のサイト、スタマガネットの特設サイトサイトでは、本書の内容見本をご覧いただけます。 ★ 『本当は恐ろしい! こわい切手』 好評発売中!★ 怨霊、ゾンビ、鬼、そして人間の闇 … 古今東西の奇妙な切手を集めた一冊。 それぞれの切手には、いずれも世に出るだけの理由が必ずある。 その理由を求めて、描かれた題材の歴史的・文化的・社会的背景を探っていくと、そこからさまざまなドラマが浮かび上がってくる。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2022-07-12 Tue 01:12
公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2022年7月号が発行されました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1966年7月1日、葉書料金用として発行された琉金の7円切手(普通切手)です。翌1967年には、郵便物の機械処理に対応するため、図案はそのままに刷色を明るい色に変更した切手も発行されていますが、最初の切手の暗い黄緑色は、子供の頃、わが家にあった金魚鉢の水に近い色味を思い出させて、個人的には親近感がわきますね。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。また、この切手を含む戦後の普通切手については、拙著『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.2 戦後編』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、是捕飛お手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★★ 全日本切手展のご案内 ★★★ 7月16-18日(土-月・祝) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)が開催されます。全日本切手展のオフィシャルサイトおよびフェイスブックの特設ページ(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 7月17日(日) 全日本切手展2022でのトークイベント 11:00~ 「切手でたどる郵便創業150年の歴史」 *5月に第3巻の平成・令和編を刊行し、シリーズとして完結した拙著『切手でたどる郵便創業150年の歴史』について、第3巻の内容を中心にお話するイベントです。 15:00~ 「本当は恐ろしい! こわい切手」 *7月20日にビジネス社から刊行予定の『本当は恐ろしい! こわい切手』の出版記念のトークイベントです。一般販売に先駆け、会場内では先行販売も行います。 両イベントとも、事前予約不要・参加費無料(全日本切手展への入場料は必要)です。親イベントとなる切手展、全日本切手展の詳細は同展のオフィシャルサイトまたはフェイスブックの特設ページ(どなたでもご覧になれます)をご覧ください。 7月22日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 読書人Web 「切手がつなげた人と時代」 6月24日に『切手でたどる 郵便創業150年の歴史』シリーズ完結を記念して、田中秀臣先生と行ったトークイベントのアーカイブ配信のご案内です。7月24日まで、こちらでチケット(1500円)を販売しておりますので、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 4月6日-7月12日 鏑木清方と江戸の残り香 詳細はこちらをご覧ください。 4月13日-7月19日 日本の郵便150年の歴史2 占領時代(1945年の終戦から1952年) 詳細はこちらをご覧ください。 5月18日-8月23日 日本の歴史を学びなおす― 近現代編その2― 幕末 詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.3 平成・令和編』 好評発売中!★ 明治4年3月1日(1871年4月20日)にわが国の近代郵便が創業され、日本最初の切手が発行されて以来、150年間の歴史を豊富な図版とともにたどる3巻シリーズの最終巻。平成以降、郵政省が郵政事業庁、日本郵政公社を経て、株式会社化され現在に至るまでを扱っています。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-12-04 Sat 03:05
姫路市は、きのう(3日)、姫路城の“城主”体験を返礼品とするふるさと納税(寄附額は3000万円以上・先着順2名まで)の募集を開始しました。“城主”の送迎は専用ヘリとハイヤーで行われ、一般公開が終わる午後5時以降、甲冑姿の“家来”が城を守る実演を見学したり、専門家の解説で非公開の場所を含めて城内を回ったりするほか、江戸時代の城主の食事を現代風に再現したメニューが供され、姫路城永久入城の権利が贈呈されるそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1969年7月21日に発行された(第1次)国宝シリーズ第6集(安土・桃山時代)のうち、姫路城を取り上げた切手です。 1601年、関ケ原の戦いで勝利を収めた徳川家康は、大阪城の豊臣秀頼と西国の諸大名との間に物理的にも楔を打ち込むため、大阪城の背後にあたる姫路の地に大規模な城を築くことを決定。娘婿(督姫の夫)のおける池田三左衛門輝政をこの地に配し、備前・淡路とあわせて87万石(実際は97万8000石と推定されています)を与え、8年の歳月をかけ5層7階の大天守を持つ大城郭を築かせました。 さらに池田輝政の後にこの地に封じられた本多忠政は、息子の忠刻の妻として千姫(徳川秀忠の長女)を迎え、“化粧櫓”や“西の丸”一帯を築き、1618年、現在の姫路城が完成。その後も、幕府にとって姫路(播磨)は、西国諸大名をおさえる重要な拠点だったため、 譜代の大名が配置され、跡継ぎが幼少・病弱な場合には、容赦なく国替が行われたことから、城主も松平氏、榊原氏、酒井氏とめまぐるしく変化しました。 明治維新後の1869年、藩籍奉還により、姫路城は兵部省の管轄となり、1872年には陸軍省に引き継がれます。陸軍省は、翌1873年、全国の城郭の存廃を検討し一旦は姫路城を残しましたが、修理費用が捻出できなかったことから、城を競売にかけてしまいました。そして、瓦を再使用するつもりだった神戸清一郎が23円50銭でこれを落札しましたが、落札後、瓦が一般家屋には大きすぎて使えないことがわかると、神戸は城の購入件を放棄。姫路城はふたたび陸軍省の管理下に置かれました。 このため、1874年、陸軍省は、城内三の丸広場に歩兵十連隊を設置。一部の櫓や門などを取り壊し、大天守なども取り壊すことを決定。しかし、陸軍省第4局長代理中村重遠(階級は大佐)は、貴重な名城は後世に伝えるべきと考え、1878年、陸軍卿・山県有朋に姫路城の存続を直訴したため、1879年1月、ようやく、姫路城の保存が正式に決定されました。 さて、第1次国宝シリーズの当初の発行計画では、第5集の“室町時代”の次は、第6集の“江戸時代”を発行して完結する予定でした。しかし、1968年11月の内閣改造で、兵庫県を地盤とする河本敏夫が郵政大臣に就任すると、急遽、第6集として“安土・桃山時代”が割り込み発行されることが決定されます。はたして、“安土・桃山時代”の題材には、河本の地元選挙区のシンボルである姫路城が取り上げられていたことから、今回の切手発行はいわゆる“大臣切手”にあたるのではないかという批判が寄せられました。ちなみに、今回の切手の原画は、河本の大臣就任から1ヶ月以内に増井国夫の撮影した写真を元に、大塚均が構成しています。 なお、昭和30-40年代を中心に発行された大臣切手については、拙著『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.2 戦後編』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 12月6日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 2021年12月1日~2022年2月8日 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編その1 ― 黒船来航」 12月1日から2月8日まで、計7.5時間(30分×15回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 三鷹市生涯学習センター 「宗教と国際政治」 2022年1月10~23日 国際紛争や諸外国のタイムリーな重大ニュースを取り上げ、その背後にある「宗教」をめぐる諸問題をじっくり解説する講座です。今回は、混迷続くアフガニスタンとその歴史に焦点を当ててお話します。お申し込みは12月11日(土)までで、ご応募多数の場合は抽選になります。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.2 戦後編』 11月20日刊行! ★ 2530円(本体2300円+税) 明治4年3月1日(1871年4月20日)にわが国の近代郵便が創業され、日本最初の切手が発行されて以来、150年間の歴史を豊富な図版とともにたどる3巻シリーズの第2巻。まずは、1945年の第二次大戦終戦までの時代を扱った第1巻に続き、第二次大戦後の1946年から昭和末の1989年までを扱っています。なお、2022年3月刊行予定の第3巻では平成以降の時代を取り扱う予定です。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★★ 書籍無料ダウンロードを装った違法サイトにご注意ください!★★ 最近、拙著『切手でたどる郵便創業150年の歴史』をPDF化して、無料でダウンロードできるかのように装い、クレジットカード情報を盗み取ろうとする違法サイトの存在が確認されました。 この種のサイトは多種多様な出版物を無許可で取り扱っているものと思われます。 内藤および拙著の出版元・販売元ではこのような行為は一切認めておらず、フィッシング詐欺等に巻き込まれる可能性もありますので十分ご注意ください。 |
2021-11-04 Thu 01:55
1946年11月4日にユネスコ憲章が発効し、ユネスコ(国連教育科学文化機関)が発足して、ちょうど75年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1966年7月2日に発行された“ユネスコ創立20周年”の記念切手です。 ユネスコ(UNESCO:United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization 国際連合教育科学文化機関)は、教育・科学・文化の発展と推進を目的とした国連の専門機関で、経済社会理事会の下に置かれており、本部はパリにあります。 第二次大戦中、連合諸国は定期的に文部大臣会議を開催していましたが、大戦終結後の1945年11月、英仏両国がその拡大版として“ロンドン会議”を招集。同会議で、国連憲章にしたがって、教育・科学・文化を担当する専門機関の樹立が合意されました。この決定に従い「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」との一節を前文に含む“ユネスコ憲章”が起草されます。同憲章は、翌1946年11月4日、20ヵ国が受諾したことで発効し、ユネスコが正式に発足しました。 わが国は第二次大戦の敗戦国であったためユネスコの原加盟国となることはできませんでしたが、ユネスコ憲章の趣旨に賛同した桑原武夫らによって、1947年、世界初の民間ユネスコ協力会(現ユネスコ協会)として“仙台ユネスコ協力会”が設立され、熱心な加盟運動が続けられました。この結果、1956年の国連加盟に先立ち、1951年、六60番目の加盟国としてユネスコに正式加盟を果たしています。 さて、1966年はユネスコの創立20周年にあたっており、ユネスコ本部は加盟各国に記念切手の発行を呼びかけました。これを受けて、万国郵便連合(UPU)は、ユネスコ記念切手の統一図案を作成し、1965年11月、わが国を含む各国のユネスコ関係機関に送付しています。このため、1965年の“国際協力年”と同様に、各国で似たようなデザインの記念切手が発行されることが予想されていました。 しかし、わが国の場合は、1966年はユネスコの創立20周年であると同時に、加盟25周年でもあるということから、UPU作成の雛形とは別に、独自のデザインとして、大塚均によりユネスコと国連のマークを組み合わせた原画が作られました。 ところで、今回ご紹介の記念切手は1966年7月2日に発行されましたが、前日の7月1日には、改正郵便法が施行されて、郵便物の定型制度が始めて導入されるとともに、書状の基本料金が10円から15円に値上げされる郵便料金の改定が行われました。 この郵便法の改正をめぐっては、野党が主として定型制度の導入などをめぐって強硬な反対活動を展開していたため、一時は法案の成立が危ぶまれていたため、郵政当局は部内に強い緘口令を敷いて、新料金に関する事項については国会通過まで一切の情報を外部に漏らさないという方針を採っています。 結局、郵便法の改正案に関しては、料金の値上げが行われなければ公共企業体等労働委員会(公労委)の裁定どおりの賃上げが不可能ということで、全逓信労働組合(全逓)からの突き上げで、社会党も最終的に妥協し、国会を通過・成立。このため、通常であれば、数カ月前に発表されていた切手の原画写真は、今回に限っては発表されず、発行直前の6月17日になって、いきなり、実物の見本が発表されるという、当時としては異例の経緯をたどっています。 なお、1966年の定形制度導入については、拙著『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.2 戦後編』でもその経緯についてご説明しております。同書に関しては、明日(5日)から開催の全国切手展<JAPEX>会場内で先行発売を行うとともに、切手展会期中の6日(土)11:00からは会場内で出版記念のトークイベントを行います。つきましては、ぜひ一人でも多くの方に会場までお運びいただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 全国切手展<JAPEX 2021> 於・都立産業貿易センター台東館 毎年恒例、全国切手展<JAPEX>ですが、今回は会期中、以下の2回のトークイベントに登場します 11月6日(土) 11:00~ 「切手でたどる郵便創業150年の歴史Vol.2 戦後編」 * 11月20日付で刊行の『切手でたどる郵便創業の歴史』第2巻の会場内先行販売を兼ねた出版記念イベントで、同書の内容の一部をご紹介します。 11月7日(日) 13:00~ 「アフガニスタン現代史」 * 12月上旬にえにし書房から刊行予定の「アフガニスタン近現代史(仮)」の事前プロモーションを兼ねたイベントです。 両イベントとも、イベントそのものは事前予約不要・参加費無料ですが、会場の切手展へは入場料が必要です。切手展の詳細は、主催者サイトをご覧ください。 11月8日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.2 戦後編』 11月20日刊行! ★ 2530円(本体2300円+税) 明治4年3月1日(1871年4月20日)にわが国の近代郵便が創業され、日本最初の切手が発行されて以来、150年間の歴史を豊富な図版とともにたどる3巻シリーズの第2巻。まずは、1945年の第二次大戦終戦までの時代を扱った第1巻に続き、第二次大戦後の1946年から昭和末の1989年までを扱っています。なお、2022年3月刊行予定の第3巻では平成以降の時代を取り扱う予定です。 |
2021-01-03 Sun 00:43
公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2021年1月号が発行されました。今回は新年号ですから、僕の連載「切手歳時記」も、毎年恒例、干支にちなんで、牛に関する切手の中からこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1968年9月2日に発行された第1次国宝シリーズ第4集の「平治物語絵詞(絵巻とも)」の切手のうち、「平治物語絵詞」を取り上げた1枚で、牛車に乗って二条帝が内裏を脱出する場面が描かれています。 正月の飾り物にも使われる南天は「難を転ず」の語呂合わせで災厄を逃れる縁起物とされています。 昨年は新型コロナ禍で世の中全体が鬱々とした気分でしたから、南天を飾って、今年は“難”を引きずらないようにと祈りたい気分の人も多いでしょうね。丑年の年賀切手ではなくても、牛を描いた日本切手はいろいろあるのですが、今回は、牛もからんだ“難を逃れる”切手ということで、この1枚を選んでみた次第です。 絵巻のテーマとなっている平治の乱は、保元の乱(保元元=1156年)が終結した後の権力闘争でした。 保元の乱に勝利した後白河帝は、保元3(1158)年、二条帝に皇位を譲り、後白河院として院政を始めます。これに伴い、院近臣の信西(藤原通憲)が政権を握りましたが、二条帝の親政を望む藤原経宗と藤原惟方や、信西と対立関係にあった藤原信頼はこの状況に不満を持っていました。 一方、保元の乱で武勲第一の源義朝が左馬頭に留まったのに対して、平清盛が播磨守・大宰大弐になったため、源平の反目も鋭くなります。こうした中、清盛と結びついた信西に対して、信頼は義朝と手を結び、後者を経宗と惟方が支持する構図が生まれました。 平治元12月4日(1160年1月19日)、清盛が一門を率いて熊野に詣でると、同9日、信頼と義朝は御所を襲い、二条帝と後白河院を内裏に幽閉するとともに、宇治田原の大道寺に隠れていた信西を討ち取り、信頼が政権を掌握しました。 ところが、事件を知った清盛が17日に帰京して六波羅の屋敷に戻ると、二条帝の親政が実現しないことに不満だった経宗と惟方はあっさり清盛方に寝返りました。 清盛は信頼への忠誠を装って油断させたうえ、25日、二条大宮で失火騒ぎを起こします。信頼と義朝の関心がそちらに向いている隙に、清盛は、女装した二条帝と中宮・紀伊の二位局を牛車に乗せ、北野詣と偽って内裏から六波羅に行幸させるとともに、後白河院を仁和寺に逃がすことに成功します。 今回ご紹介の切手に取り上げられているのは、内裏を脱出しようとする二条帝の牛車を前に、警護の武士たちが御簾をはね上げて中をあらためようとする場面で、御簾がめくれて女装した帝の裳裾がちらっと見えているところなど、芸が細かいですね。 後白河院と二条帝の脱出を知った公卿や武士は先を争って清盛に与して六波羅に終結。二条帝から信頼と義朝の追討宣旨が清盛に出され、清盛は加軍として内裏を攻撃し、事実上、勝敗は決しました。 ちなみに、『平治物語絵巻』はもともと全5巻でしたが、現存するのは、切手に取り上げられた「六波羅行幸の巻」(東京国立博物館蔵)のほか、「三条殿焼討の巻」(明治初年にフェノロサが購入し、現在は米国・ボストン美術館蔵)、「信西の巻」(静嘉堂蔵)の三巻のみ。しかも、「六波羅行幸の巻」は欠損があり完本ではありません。 また、現存する3巻すべてが国宝に指定されているわけではなく、「信西の巻」は国の重要文化財で、ここからは、牛車で参内した公家たちとその従者が待賢門前で騒然としている場面と、乱によって一時、大臣兼大将となった信頼が信西一族追捕の詮議を行う場面は、1992年の「国際文通週間」の切手に取り上げられました。同じ絵巻物でありながら、国宝の部分と重要文化財の部分があり、それらが別々に切手に取り上げられているので注意が必要です。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 1月8日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-06-12 Fri 00:03
公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2020年6月号が発行されました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1969年2月10日に発行された第1次国宝シリーズ第5集(室町時代)の“慈照寺銀閣”の切手です。 なにかと気分の滅入る梅雨時ですが、この時期ならではの楽しみというのもいくつかあります。苔はそのひとつではないでしょうか。 日本には約1800種の苔が棲息しているそうです。雨に濡れるほどに青みが深くなる苔は、雨の降り続く梅雨時、体に水分を染み渡らせ、濃淡様々な緑が鮮やかになり、一年でも最も見栄えのする時期を迎えます。 苔の名所としては、“苔寺”で知られる京都の西芳寺を挙げる人が多いでしょうが、西芳寺に倣ったとされる銀閣寺こと慈照寺の庭園も捨てがたいものがあります。 慈照寺の観音殿を銀閣と呼ぶのは、江戸時代、金箔の貼られた鹿苑寺舎利殿を金閣と呼んだのと対にしてからのことで、開基となった室町幕府の八代将軍義政には、建物に銀箔を貼るつもりは毛頭ありませんでした。 応仁の乱最中の文明5(1473)年、子の義尚に将軍職を譲った義政は、乱後の文明14(1482)年、東山の月待山麓、戦乱で焼亡した浄土寺のあった場所に東山山荘(東山殿)の造営を始めました。当時、京の町は疲弊していましたが、義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な隠栖生活を送っていました。 義政は西芳寺の庭園を気に入っていましたが、当時の西芳寺は女人禁制で、将軍といえども、母親の日野重子にそれを見せることができません。そこで、西芳寺に倣いつつも、西芳寺に劣らぬ見事な庭園を母親に見せてやりたいとの思いで、東山山荘の造園には力を入れたのです。 西芳寺は、もともとは奈良時代に行基が“西方寺”として開いた法相宗の寺院でしたが、建武年間には荒廃していたところ、暦応2(1339)年、室町幕府の重臣である摂津親秀が再興し、作庭の名手でもあった夢窓疎石を招いて臨済宗(禅宗)に改宗され、枯山水と池泉回遊式庭園から構成される上下二段の庭が造成されました。有名な苔の庭はこのうちの下段ですが、疎石の時代には池の周囲の苔もそれほど多かったわけではなく、現在のように100種類以上もの苔が池の周囲を埋め尽くすようになったのは幕末のことでしたから、義政には、西芳寺が殊更に苔寺というイメージもなかったかもしれません。 義政の時代の慈照寺の庭は、当代一の庭師と謳われた善阿弥の一族が中心になって造営しましたが、その後の戦乱などもあり、江戸時代に入ってから大幅に改修され(おそらく、その過程で苔も大幅に増えたのでしょう)、中国・西湖の波打つ風景を白砂で描写したとされる銀沙灘と月に照らされる光の反射を意識して造営された円錐台形の向月台が加わりました。 慈照寺の庭園の構成が、錦鏡池の周囲に観音殿と東求堂を配した回遊式庭園と、裏山の枯山水庭園の上下二段になっているのは西芳寺と同じです。なお、園内にはいたるところにウマスギゴケを中心にした苔が植えられており、特に、裏山の斜面は苔の名所として知る人ぞ知る場所になっています。また、これとは別に、園内の苔を、“大切な苔”、“ちょっと邪魔な苔”、“とても邪魔な苔”と分類して展示している一角もあるのが面白いところです。 今回ご紹介の切手は、国宝シリーズの1枚切手なので、観音殿=銀閣が主役なのは当然ですが、よく見ると、建物の右に植えられた木の根元や、手前の錦鏡池の岩の隙間などにはしっかりと苔も見えています。 金閣も銀閣も四季を通じてそれぞれの良さがありますが、雪化粧の似合う金閣に対して、銀閣には夏の緑が似合う――そんなことをあらためて実感させてくれる1枚です。 ★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★ 7月4日付で、ビジネス社より、新作『みんな大好き陰謀論』が刊行の予定です。表紙デザインは現在制作中ですが、すでに、版元ドットコムのページもできているほか、アマゾンでの予約も始まりましたので、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-04-11 Thu 02:13
1919年4月11日、パリ講和会議で国際労働機関(ILO)憲章の草案が採択されてから、ちょうど100周年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1969年に発行された“国際労働機関50年”の記念切手です。 1918年に第一次世界大戦が終結すると、戦争への反省や大戦中に発生したロシア革命の影響から、戦後世界の平和を維持するためには社会正義の確立が必要であり、そのためには、労働者を保護し、貿易競争の公平性を維持することで不正・困苦・窮乏を解消しなければならないとの気運が世界的に盛り上がり、国際的に協調して労働者の権利を保護するべきとの考えが広がりました。そこで、1919年4月11日、パリ講和会議において国際連盟の姉妹機関としての国際労働機関の設立が合意され、「普遍的で持続的な平和は社会正義によってのみもたらされる」と記されたヴェルサイユ条約第13編が採択されました。これが、ILO憲章の草案となります。 その後、同年10-11月、日本を含む原加盟国43ヵ国がワシントンに集まって、第1回総会(設立総会)が開催されてILOは正式に発足。本部はジュネーブに置かれました。 ILOのおもな任務は、国際労働基準と呼ばれる条約と勧告の採択・普及にあります。加盟国は、総会で採択された条約を1年以内に権限ある機関(日本では国会)に提出し、批准した条約についての年次報告の提出と監督を受ける義務を負います。ただし、加盟国には全ての条約を批准する義務はなく、批准していない条約については、理事会の指示にしたがって自国の法令の状態、批准をさまたげている理由などを報告すればよいことになっています。ちなみに、2018年8月の時点で、ILOには、189の条約(うち撤回・廃止11、棚上げ19)と205の勧告(うち撤回36、置き換え22)がありますが、わが国が批准しているのは、そのうちの49条約にとどまっています。 わが国は、ILOの原加盟国でしたが、途中、1938年に脱退。1951年、サンフランシスコ講和条約の調印時に、国際連合の専門機関となっていたILOに復帰しました。 さて、1969年は、上記のようなILOの創立50周年に当たっており、ILO本部は加盟各国に対して記念切手の発行を要請していました。これを受けて、1969年1月23日、昭和44年度の特殊切手発行計画を審議した郵政審議会専門委員打合会では、ILO創立50周年の記念切手発行が決定されました。 記念切手の発行日については、ILOの創立記念日(=ILO憲章草案の採択記念日)である4月11日や記念式典の行われる10月29日なども候補に上がりましたが、最終的に、サンフランシスコ講和条約の調印を受けてわが国が再加盟を果たした記念日の11月26日となりました。 発行された切手は、ILO50周年のマークをつけたヘルメットをかぶった労働者の横顔を描いたもの(報道発表では“働く人”と説明された)で、原画作者は渡辺三郎です。 ★★★ メディア史研究会で発表します! ★★★ 4月20日(土) 14:00から、東京・水道橋の日本大学法学部三崎町キャンパス4号館地下1階 第4会議室A(地図はこちらをご覧ください)にて開催のメディア史研究会月例会にて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の内容を中心に、「メディアとしての“英雄的ゲリラ”」と題してお話しします。 なお、メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-11-25 Sun 10:35
博覧会国際事務局(BIE)は、きのう(24日・日本時間)未明、パリで開いた総会で、2025年国際博覧会(万博)を大阪で開催することを決定しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、前回の大阪万博(1970年)の開催1年前に発行された寄附金つき切手で、地球に万博のマークを配した図案になっています。 支那事変の影響で、オリンピックとともに日本での開催の返上を余儀なくされた国際博覧会(通称・万国博覧会、以下、万博)を、戦後、再び誘致しようという運動は、1964年2月、参議院で旧商工省の事務次官だった豊田雅孝が提案したことから本格的に始まります。その後、同年6月、大阪府知事、大阪市長、大阪商工会議所会頭の連名で、万博の大阪開催が通産大臣に要望され、同年7月22日、万国博覧会大阪誘致委員会が発足しました。 これを受けて、同年12月、政府は国際博覧会条約を批准し、翌書1965年2月、同条約に正式に加盟します。そのうえで、同年5月13日、国際博覧会事務局に1970年度万博の日本開催の申請書を提出。その後4ヵ月間、1970年度に関しては立候補を表明した国がなかったため、9月14日、大阪万博の開催が自動的に承認、決定されました。 万博開催の正式決定を受けて、1965年10月9日、大阪市東区の御堂ビル内に、万博の主催団体として日本国際博覧会協会(会長は経団連会長の石坂泰三)が発足。同月25日には「人類の進歩と調和」(PROGRESS AND HARMONY OF MANKIND)とのテーマも決定され、万博開催へ向けての準備が本格的にスタートします。 ところで、大阪万博の開催にあたっては、1964年の東京オリンピックの3倍にあたる約1200億円の経費が必要と考えられていました。このため、オリンピックの際の先例に倣い、1966年7月、「日本万国博の準備等のために必要とする特別措置に関する法律」(通称・万国博特別措置法)が施行され、経費捻出のために寄付金つき切手を発行できるよう法的な基盤が整えられました。 これを受けて、1967年12月に開催された郵政審議会専門委員打合会では、昭和43年度に万博の準備に協力するために寄付金つき切手を発行する方針が了承されましたが、この時点では、具体的な切手発行の時期などについては結論が出ませんでした。 その後、1968年3月8日の閣議後の記者会見で、郵政大臣の小林武治は“日本万国博覧会協賛寄付金つき切手”の発行について閣議了承を得たと発表。郵政省としては、寄付金つき切手は、がん制圧切手の先例を考慮し、額面7円プラス3円のものと15円プラス5円の2種類で総額2億円の寄付金を集める予定で準備を進めることを明らかにします。 このとき発表されたプランを元に、寄付金つき切手についての具体的な検討が開始され、1968年6月の郵政審議会では、大阪万博の開催1年前に当たる1969年3月15日に、15円プラス5円(寄付金)のものを1500万枚、50円プラス10円(寄付金)のものを750万枚、それぞれ発行し、総額1億5000万円の寄付金を集めることが正式に決定されました。 これを受けて、切手原画の制作が開始され、15円切手の原画としては、地球に万博のマークを配した木村勝の作品が、50円切手の原画としては、京都・智積院の障壁画のうちの「桜図」(切手としての原画構成は久野実が担当)が、それぞれ、採用となり、1969年1月8日に報道発表されています。 ところで、今回の切手に関しては、1月8日の報道発表から3月15日の発行日の期間が短かったこともあって、東京中央郵便局切手普及課による通信販売は行われませんでした。このため、いままでの寄付金つき切手が概して不評であったことを踏まえ、ただでさえ売りにくい高額の50円切手に関しては、1シートを「見返り美人」、「月に雁」以来の5面構成とするなどの、販売上の工夫がなされました。 しかし、50円切手は出来栄えが見事だったこともあって収集家の前評判もよく、一部の郵趣誌には、発行以前からプレミアム付の完封買入広告が掲載されるほどで、関西では早々に売り切れる局も少なくなかったようです。 ただし、全国的に見ればそれなりの枚数が売れ残っていた ため、郵政省は法律上の募金期間内にこの切手を売り切るため、全国から回収した売れ残りの切手を、5月22日、東京中央局で再発売して売り切っています。 なお、1970年の大阪万博の切手と郵便については、拙著『一億総切手狂の時代』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★ トークイベント・講演のご案内 ★★ 以下のスケジュールで、トークイベント・講演を行いますので、よろしくお願いします。(詳細は、イベント名をクリックしてリンク先の主催者サイト等をご覧ください) 12月9日(日) 東海郵趣連盟切手展 於・名古屋市市政資料館 午前中 「韓国現代史と切手」 12月16日(日) 武蔵野大学日曜講演会 於・武蔵野大学武蔵野キャンパス 10:00-11:30 「切手と仏教」 予約不要・聴講無料 ★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) |
2018-10-23 Tue 00:37
1868年10月23日(慶應4年9月8日)に元号が慶應から明治に改められて、きょうで150年です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、50年前の1968年10月23日に発行された“明治百年”の記念切手のうち、明治百年のシンボルマークと昌平丸を描く1枚です。 1968年が明治改元から100周年にあたっていたことから、政府は、この機会をとらえて、「明治元年から百年間にわたり、長い封建制を脱し、泰西の文明を吸収、近代国家完成への道を歩んだ我が国の発展」を祝うとともに、「政治、経済、文化その他すべての面にわたって偉大で強固な基盤を築き上げた先人の勇気と努力に感謝するとともに、このしあわせを、将来への限りない希望をこめて、次の日本の担い手である若い世代に引き継ごうとする覚悟を新たにしなくてはならない」との趣旨で記念行事を大々的に展開することを決定。1966年4月11日、明治百年記念準備会議の初会合を開き、同年9月28日の同会議の事業部会において、①国土の緑化、②青年の船、③歴史の保存と顕彰、④記念切手の発行、の四つを柱とする、記念事業の実施案が定められました。 これに伴い、同年10月、明治百年記念事業委員会が正式に発足し、1968年10月23日(明治改元の記念日)に日本武道館で開催の明治百年記念式典(中央祝典)をメイン・イベントとして、第23回国民体育大会、第17回全国青年大会、記念植樹と国土緑化運動 、記念講演の整備と建設、青年の船などの各種事業が“明治百年”の冠をつけて行われています。 さて、1966年9月の決定を受けて、1968年10月の明治百年記念式典に先立ち、関連の記念切手として、1月19日には“明治百年記念 青年の船”の切手 が、ついで、5月18日には“明治百年 国土緑化”の紀念葉書が、さらに、10月1日には“明治百年 第二十三回国民体育大会”の記念切手 がそれぞれ発行されたほか、各種イベントにあわせて小型印も用いられています。 これに対して、“明治百年記念”の直接的な記念切手は、中央祝典当日の10月23日に発行されました。当初、明治百年の記念切手は身体障害者援護事業の寄付金をつけて発売されることも検討されましたが、会計処理の問題から、通常の記念切手を2種類発行するということで決着しています。 記念切手は、小堀鞆音の絵画「東京御著輦」を取り上げたものと、木村勝のデザインによる、明治百年のシンボルマークと昌平丸を取り上げたもの(今回ご紹介の切手)の2種セットで発行されました。 明治百年のシンボルマークは、グラフィック・デザイナーの大橋正がデザインしたもので、丸の中に菊花が配されています。マークの使用を管理していた総理府では、①赤味がかった金、②青味がかった金、③さえた赤、④うすい赤味の黄、⑤みどり、⑥明るい青、⑦明るい紫・赤味がかった紫、の7種類をマークの規定色としていましたが、切手には“赤味がかった金”が採用されました。 なお、シンボルマークは切手の発行と同時に用いられた特印(デザインは大塚均が作成)にも取り上げられています。 一方、昌平丸は、1854年12月、幕府の依頼を受けて、薩摩藩の島津斉彬が建造したわが国最初の洋式軍艦です。翌1855年、鹿児島を出航して品川に入り、島津から幕府に献納され、その後は幕府の練習艦として用いられました。維新後は明治政府に移管され、1869年、北海道開拓使の所管となって北海道沿岸の物資の輸送に用いられましたが、函館から小樽へ向かう途中で難破漂流し、翌1870年3月、北海道桧山郡上ノ国町沖で座礁し、破船しました。切手のデザインは、山高五郎の『日の丸船隊史話』(千歳書房 1942年刊)に収められている挿絵を元に構成されたものと思われます。 ところで、切手の図案と昌平丸についての説明が郵政省の報道資料によって発表されると、この船を今回の記念切手に取り上げることの必然性に疑問を呈する声が各方面から上がっています。郵政省としては、西欧文明を取り入れた日本の造船技術を象徴するものとして昌平丸を切手に取り上げたということのようですが、そのことを理解できた国民はごく稀だったようです。 なお、昌平丸を切手に取り上げたことに関しては、調布市在住の学生、宮地竹史の以下のような投書が10月2日付の『朝日新聞』に掲載されています。 十月二十三日に行われる明治百年記念式典に際して、郵政省は二種の記念郵便切手を発行する予定だそうですが、その中の一つに、明治百年のシンボルマークと太陽に帆船を描いた切手があります。その切手の説明を読んで驚いたことには、この帆船はわが国最初の洋式軍艦「昇平丸(後に昌平丸と改称)」であるということです。 私は、この昌平丸がどういう軍艦であったかは知りませんが、過去の歴史を振返って、この百年の間、戦争によってわが国がどれだけ他国に迷惑をかけ、またみずからも、どれだけひどい目にあったかを考えると、この戦争で大きな役割を果たした軍艦を、たとえわが国最初のものであろうと描くということは、平和で迎えた明治百年の意義に逆行はしないでしょうか。 昇平丸の“昇平”を表現する意味は分かりますが、百年もかかって築かれた今日の日本を祝うのにはふさわしくありません。そう思ってみていると、切手に描かれた太陽を背にしたシンボルマークが、まるで原爆のか水爆のせん光に浮かび上がったキノコ雲に思えてくるのです。 ちなみに、1968年という年は、いわゆる東大紛争をはじめ、全国で大学紛争が繰り広げられており、学生の間ではいわゆる左翼的な価値観が主流を占めていました。上述の宮地の投書も、そうした時代の空気を反映したものとみなすことができるでしょう。 もっとも、宮地のように、今回の記念切手を思想的な理由から批判的にとらえていたのは少数派で、今回の記念切手は一般には非常に人気を博し、発行初日の東京中央局では雨天にもかかわらず長い行列ができ、1人各5シートずつの販売制限も行われたほどでした。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-09-10 Mon 02:37
テニスの全米オープンは、きのう(現地時間8日・日本時間9日)、女子シングルス決勝で大坂なおみがセリーナ・ウィリアムズに6-2、6-4でストレート勝ちし、日本選手初のグランドスラム制覇の快挙を達成しました。というわけで、日本の女子テニスの切手ということで、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1971年10月24日に発行された第26回国民体育大会(国体)の記念切手で、潮岬灯台を背景に、軟式テニスの女子選手と開催地和歌山県の県花、梅の花が描かれています。 1971年の秋季国体は、和歌山県下19市町村の会場で、10月24日から29日までの6日間、1万6689名の参加を得て開催されました。テーマは“黒潮国体”、スローガンは“明るく・豊かに・たくましく”で、開催県の和歌山県は天皇杯を獲得しています。 切手に取り上げられている軟式テニスは2人1組になって相手チームと対戦しますが、切手に描かれている女子選手はボールを握っていることから、後衛のポジション(当時のルールでは後衛しかサーブ権がなかった)です。また、彼女の用いているラケットは、その形状から、軟式テニスの世界では“幻の名品”と呼ばれているカワサキラケットの“ニューナンバーワン”と思われます。 背景に描かれている潮岬灯台は、本州最南端に位置する潮岬に設置されているもので、1873年9月に正式点灯されました。1928年に電化され、1957年に90センチの回転式に変更され、現在では光度97万力ンデラ、光達距離十九海里の能力を有しています。 なお、この切手を含む書状料金15円時代の記念特殊切手については、拙著『一億総切手狂の時代』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-08-05 Sun 00:32
公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2018年8月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1968年8月9日に発行された“第50回全国高等学校野球選手権大会”の記念切手です。 “夏の甲子園”こと全国高等学校野球選手権大会のルーツは、1915年8月、大阪朝日新聞社主催、箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)の豊中グラウンドで行われた“第1回中等学校優勝野球大会”です。 明治の末以降、郊外から都市部への通勤・通学が増えると、彼らを対象に民間の郊外鉄道が生まれました。鉄道会社は、通勤・通学客が激減する休日対策として、沿線に娯楽施設を設け、需要の掘り起こしに努めます。かつて、プロ野球チームのオーナーに、近鉄、国鉄、南海、阪急など鉄道会社が多かったのは、野球がそのための重要なコンテンツだったからです。 豊中での野球大会も、そうした発想の下、箕面有馬電気軌道が大阪朝日新聞に持ちかけて実現に至ったものですが、肝心のグラウンドが手狭だったため、1917年、会場は阪神電鉄が所有する鳴尾運動場に移されます。 さらに、武庫川の改良工事で、支流の枝川・申川が埋め立てられると、その河川敷跡を購入した阪神電鉄は、旧枝川・旧申川の分流点があった付近に大野球場を建設。野球場は、1924年、すなわち、十干十二支の始まりにあたる甲子の年に完成したことから、甲子園球場と命名され、同年開催の大会から使用されました。 以後、“夏の甲子園”は風物詩として定着し、1941-45年の戦争による中断を挟んで、2018年8月5日、第100回大会が開幕します。なお、学制改革に伴い、現在の“全国高等学校野球選手権大会”となったのは1948年のことで、それから20年後の1968年の第50回大会に際しては、優勝旗を背景にした投手と、記念の人文字を描く記念切手も発行されました。(今回ご紹介の切手です) ところで、切手に描かれた球児たちは“甲子園の土”を記念に持ち帰ったはずですが、そもそも、“甲子園の土”を持ち帰る習慣がいつ始まったのかは、定かではありません。 打撃の神様・川上哲治は、熊本工業の投手として出場し、準優勝した1937年、他の選手の真似をして“甲子園の土”をポケットに入れ、母校の練習場にまいたというから、戦前から、すでに、一部で“甲子園の土”を持ち帰ることがあったようです。 終戦直後の1946年には、準決勝で敗れた東京高等師範附属中(現・筑波大学附属中高)の選手達が、次回また返しに来るという意味で足下の土を持ち帰ったとの記録があります。ただし、当時の甲子園球場は米軍が接収しており、大会は阪急西宮球場で行われたから、これは“甲子園の土”ではありません。 ちなみに、文献上の記録では、1949年、準々決勝で敗れた小倉北の投手、福嶋一雄がホームベース後方で無意識に足元の土を摘んでポケットに入れたのを、帰郷後、大会役員からの速達で気付き(本人よりも先に自宅に届いたらしい)、ユニフォームから取り出して自宅の植木鉢に入れたのが“甲子園の土”を持ち帰った最初の例とされています。 しかし、“甲子園の土”を一躍有名にしたのは、1958年、復帰前の沖縄から初出場した首里の選手たちが、1回戦で敦賀(福井)に敗れ、甲子園の土を持ち帰ろうとしたものの、検疫の関係で沖縄に持ち帰れなかったというエピソードでしょう。 “外国”の土を持ち込もうとすれば、検疫で没収・処分されるのは万国共通で、当時の沖縄の係官は申し訳なさそうに「規則なので…」といって没収したそうです。しかし、この一件は、沖縄の悲劇を象徴するものとして大々的に報じられ、“甲子園の土”が広く知られるようになるとともに、沖縄の祖国復帰運動を加速させる契機になったともいわれています。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-07-01 Sun 00:24
1968年7月1日にわが国で郵便番号制度が導入されてから、きょう(1日)でちょうど50年です。というわけで、きょうは今月20-22日に東京・錦糸町すみだ産業会館で開催の全日本切手展での宮崎博司さんの招待展示「郵便番号50周年」のなかから、こんなモノをご紹介しします。(画像はクリックで拡大されます)
これは、制度スタート時の『郵便番号住所録』に、郵便番号宣伝の切手(第1次)を貼り、発行初日(=郵便番号制度の初日)の消印を押した記念品です。 いわゆる高度経済成長の進展に伴い、昭和30年度に48億5500万通だった郵便物の取扱量は、昭和41年度には98億2200万通にまで膨れ上がりました。これに対して、1955年に7万4132名だった郵政職員の数は、1966年の時点で11万3530名までしか増えておらず、従来どおりのやり方では郵便の処理能力は限界に到達することが懸念されていました。 こうした状況を踏まえ、郵政省は、郵便の機械化を本格的に検討するようになります。 その作業が本格的に始まったのは1965年のことで、開発を請け負った東芝は、郵政省の指導のもとに、柳町工場(現・機器事業部)と総合研究所(現・研究開発センター)でプロジェクトを編成。まず郵便局内の作業を系統的に分析し、郵便物自動読取区分機(TR)、郵便物自動取揃押印機(TC)、郵便物自動選別機(TS)の順に開発を進めました。 このうち、郵便物自動読取区分機は、局内作業のうち最も労力のかかる郵便物の区分を機械化するもので、そのために、全国の集配局の配達担当区域に3桁ないしは5桁の郵便番号が割り振られることになりました。機械は、利用者が郵便物に記載した郵便番号を読み取って区分作業を行うというシステムになっていたためです。こうして、1966年、制限手書数字を読取る最初の試作機が完成。さらに、翌1967年には、世界初の手書き文字読取試作機TR-2型が完成します。 一方、番号の割り振りに関しては、当時の郵便輸送の主力であった鉄道郵便輸送の担当部門が担当しました。当初は、郵便番号と電話番号を連動させる(これだと、東京は03になる)ことも検討されましたが、郵務局長の曾山克巳が「第一師団は東京」と主張したことから、東京を“1”で始まる番号とすることが決まりました。ついで、東京を起点として、鉄道路線に沿って、東京-門司線方面の都府県には上1桁に1、2、4、5、6、7、8を、東京-青森線方面の都道県には上1桁に1、3、9、0を割り当てたうえで、全国を97に分けた地域番号が割り振られます。上から3桁目の数字は、比較的大きな規模の集配局の配達担当区域を示すもので、必要に応じて、直接配達を行う小規模の集配局の担当区域に対して2桁の小番号が与えられるという仕組みが取られました。 こうした経緯を経て、1968年7月1日、日本の郵便番号制度がスタートします。ちなみに、世界で最初に郵便番号制度を導入したのは英国(1959年)で、ついで、西ドイツ、米国、スイス、東ドイツ、フランス、オーストリアの各国がこれに続き、日本での制度開始は世界で8番目でした。 郵便番号制度の導入にあわせて、新制度を宣伝するための切手を発行するというプランは、1968年1月12日に昭和43年度の記念・特殊切手の発行計画が大臣決裁を受けた段階では、関係者の間でも具体的には固まっていなかったようで、1月18日に発表された新年度の切手発行計画には、郵便番号宣伝の切手についての記載はありません。 その後、年度が改まった4月1日から、郵政省は本格的な郵便番号普及のキャンペーンを開始しますが、4月25日、全日本切手展(全日展)の表彰式に郵務局長として出席した曾山克巳は、挨拶の中で郵便番号制度の実施に触れ、制度を宣伝するための“普通切手(本人談)”を発行すると発言。5月23日には、7月1日の制度開始にあわせて7円および15円の宣伝切手を各2種(計4種)発行することが正式に発表されました。 切手の原画は久野実が制作し、いずれの額面も、数字で描いた日本地図に郵便番号のシンボルマークである“ナンバーくん”を配したデザインになっています。なお、今回ご紹介の『住所録』の表紙イラストの地図と郵便番号と比べてみると、切手の地図に配された番号を郵便番号の配置は、関係があるような無いような、微妙な感じですな。 また、切手の下部には「あて名には郵便番号を」と「あなたの住所にも郵便番号を」の スローガンが交互に入れられました。郵政省が発表した原画写真を詳細に検討すると、切手の原画としては、15円の「あて名には郵便番号を」の切手がオリジナルで、あとは、文字部分を差し替えたほか、15円切手と7円切手で刷色が変更されただけであることが分かります。 切手に取り上げられたナンバーくんは、もともとは、前年の1966年7月に導入された定型郵便制度をアピールするためのキャラクターとして、木村恒久をディレクターに迎え、イラストレーターの松野のぼるが制作したものです。1966年8月11日から1ヶ月間、東京・大阪で週4回、テレビに登場しました。これが好評だったため、郵政省は、引き続き、1976年以降、このキャラクターを郵便番号の宣伝のために積極的に活用していました。 その後、1968年に入ってから、地域ごとの郵便番号の割り当てが完了したことを受けて、キャラクターの胴体に当たる封筒の左下にあった“456101”の数字が削除され、デザインが確定しています。ただし、切手の発行が発表された5月23日の時点では、このキャラクターには決まった名称がなく(そのため、民間ではさまざまな名前で呼ばれていました)、郵政省の報道発表でも“郵便番号シンボルマーク”と説明されています。 ちなみに、“ナンバーくん”との呼称は、1968年4月20日から6月20日までの間に行われた愛称公募の結果、1103通を集めて1位になったものが採用されたもので、その発表は、切手発行後の7月5日のことでした。 さて、7月20日からの全日本切手展で展示予定の宮崎コレクションでは、郵便番号宣伝の切手のみならず、当時の関連資料などを展示する予定です。ぜひ、会場にて実物をご覧いただけると幸いです。 ★★★ 全日本切手展のご案内 ★★★ 7月20-22日(金-日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにチェコ切手展が開催されます。主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-11-30 Thu 00:17
【謹告】 本日(30日)16:05~ NHKラジオ第1放送で放送予定だった「切手でひも解く世界の歴史」は、国会中継のため、放送が休止となりました。あしからずご了承ください。なお、次回の「切手でひも解く世界の歴史」は、12月14日の予定です。
というわけで、きょうは三の酉でもありますし、国会議事堂と3羽の鳥の組み合わせということで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1970年11月29日に発行された“議会開設80年”の記念切手です。 1970年は、1980年11月29日に第1回帝国議会の開院式が行われてから80周年にあたっていました。 このため、これを記念して衆参両院では記念式典が行われました。80周年といういささか半端な年回りで記念式典が行われたのは、沖縄の祖国復帰が決定されたことを受けて、1970年11月に戦後初の沖縄の国政参加選挙が行われ 、次回国会からその代表が審議に加わることを記念する意味合いも込められていたためです。 なお、記念事業の一環として、1960年に開館した尾崎記念館の北側に憲政記念館を建設することが決定されました。憲政記念館は、1972年3月に開館し、国会の組織や運営などを資料や映像によってわかりやすく紹介するとともに、憲政の歴史や憲政功労者に関係のある資料を収集して常時展示するほか、特別展などが開催されています。なお、憲政記念館の開館に伴い、尾崎記念館は同館に吸収・統合されることになりました。 さて、当時の郵政省には、周年記念切手を発行する場合には、原則として四半世紀ごとの節目にあわせるという基準がありました。このため、80周年という年回りは、本来、記念切手発行のタイミングとはならないはずなのですが、衆参両院は、1960年に“議会開設七十年”の記念切手が発行された先例 を理由に、7月10日、郵政省に対して記念切手の発行申請を提出。郵政省にこれを呑ませています。なお、国会側は“議会開設七十周年”の時の先例に倣って、今回の記念切手も2種類発行することを希望していましたが、製造日数の関係からそれは不可能なため、一種のみの発行となりました。 11月29日の記念式典当日に発行された切手は国会議事堂と祝賀のテープをくわえた鳩を描くもので、武荒勧嗣が原画を制作しました。発行枚数は、当初は2100万枚と発表されましたが、後に増刷されて最終的に2400万枚となっています。 ちなみに、今回ご紹介の切手を含め、書状基本料金15円時代の記念切手については、拙著『一億層切手狂の時代』で詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-08-04 Fri 07:42
公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2017年8月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1970年6月15日に発行された大阪万博の記念切手(第2次)のうち、竿燈とパビリオンを取り上げた7円切手です。 毎年8月3-6日に秋田県秋田市で行われる“秋田竿燈まつり”は、竿燈全体を稲穂に、連なる提灯を米俵に見立て、額・腰・肩などにのせ、豊作を祈る祭です。 秋田には、すでに江戸時代以前から“ねぶりながし”の習慣がありました。“ねぶり”とは“眠り”のことで、黄泉や常夜の意味でもあります。そこから、“ねぶりながし”は「黄泉の穢れを祓いて水に流す行事」として、古くは七夕に笹や合歓木に願い事を書いた短冊を下げ、それを手に練り歩いたうえ、川へ流して邪気を払っていたといわれています。 その後、宝暦年間(1751-64)になると、蝋燭が普及したこともあって、外町(町人街)の町人が、五穀豊穣や無病息災などを願い、お盆を前に、門前に立てる高灯籠を持ち歩けるようにしたのが、現在の竿燈の原型となりました。 1789年に津村淙庵が著した『雪の降る道』には、秋田独自の風俗として、陰暦7月6日の“ねぶりながし”が紹介されていますが、同書には、長い竿を十文字に構え、それに燈火を数多く付けて、太鼓を打ちながら町を練り歩くようすが記されています。 ちなみに、“竿燈”という言葉は、1881年に秋田日報を創刊した大久保鐵作が、中国・北宋の禅僧、道原が11世紀初に編纂した燈史『景徳傳燈録』に記述のある“百尺竿頭須進歩”からヒントを得て命名したもので、江戸時代には、提灯をつけた竿は、作り燈籠、ネブリナガシ、七夕などの名前で呼ばれていました。 しかし、大久保が竿燈という言葉を考案した頃から、皮肉にも、秋田の竿燈は徐々に下火になっていきます。この頃から、市内に電灯がともり、電線が張り巡らされて物理的に竿燈を掲げることが難しくなったためです。このため、1902年には、発祥の地である外町通りでの竿燈が廃止。翌年からは竿燈は楢山グランドに場所を移して行われたものの、下駄履きで歩き回るためにグランドが荒れることから、グランド側は3年間で竿燈に場所を貸すことを拒否するようになりました。そこで、再び、外町が竿燈の会場となったものの、電線の折損事故が絶えず、1907年には千秋公園二の丸が会場となります。 こうして、一時は存続の危機に瀕した竿燈でしたが、1908年、皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)の東北行啓の際に台覧の栄に浴し、また、大正時代に入ると他県からの観光客も訪れるようになったことで、次第に活気を取り戻していきます。こうした事情を踏まえて、1931年には秋田市竿燈会が結成されました。 その後、1937年に日中戦争(支那事変)が始まると、1945年の終戦まで竿燈は中断されましたが、終戦後すぐに早坂吉助会長以下、竿燈会は竿燈の復活に向け動き出し、早くも翌年にはまつりを復活させます。ただし、当時は提灯に必要な紙や油も不足していたため、1946年のまつりの開催は、例年より大幅に遅い、9月29日となりました。 復活当初は1日だけだった竿燈まつりは、1954年からは2日間、1964年からは3日間に拡大され、1988年以降は、現在と同じ4日間となっています。この間、1970年の大阪万博に際しては、会場内お祭り広場で披露された日本各地の祭りを代表して、記念切手にも取り上げられ、その知名度は全世界に広がることになりました。 ちなみに、竿燈は大きさにより、大若、中若、小若、幼若に分けられます。提灯の数は、大若と中若が最上段2個、二段目4個、3-8段目6個、最下段(9段目)4個、小若と幼若は最上段2個、2段目-6段目4個、最下段(7段目)2個という構成ですが、今回ご紹介の切手では、デザイン上の都合から、最下段に6個の提灯が下げられています。 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-05-12 Fri 10:16
民生委員制度のルーツとなる済世顧問制度が、1917年5月12日に設立されてから、今日でちょうど100年です。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1967年5月12日に発行された“民生委員制度50年”の記念切手です。 民生委員とは、民生委員法に基づき市町村の区域に配置されている民間のボランティア委員で、その職務は、①住民の生活状態を必要に応じて適切に把握しておくこと、②援助を必要とする者がその有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるように生活に関する相談に応じ、助言その他の援助を行うこと、③援助を必要とする者が福祉サービスを適切に利用するために必要な情報の提供その他の援助を行うこと、④社会福祉を目的とする事業を経営する者又は社会福祉に関する活動を行う者と密接に連携し、その事業又は活動を支援すること、⑤福祉事務所その他の関係行政機関の業務に協力すること、などとされています。 民生委員制度のルーツは、1917年5月12日に設立された済世顧問制度です。 1916年5月、大正天皇ご臨席の下で行われた全国地方長官会議の際、天皇から岡山県知事笠井信一に対して、県下の生活困窮者の状況についてのご下問がありました。これを受けて、笠井が調査したところ、県民の約一割が極貧層である事実が判明。驚愕した笠井は、恒久的な防貧対策として、翌1917年5月、済世顧問制度を実施しました。 翌1918年には、これにならい、東京府が慈善協会救済委員措置を施行するとともに、悲惨な夕刊売りの母子の姿に同情した大阪府知事の林市蔵が方面委員制度を設け、これが各府県に普及。1928年には方面委員制度は日本全国をカバーするようになりました。 方面委員は、現在の生活保護法の前身にあたる救護法の制定に尽力したほか、戦時中は母子保護法、医療保護法、軍事扶助法などに協力。戦後の1946年には民生委員として改組されました。 1947年に児童福祉法が制定されると、民生委員は児童福祉法による児童委員(地域の児童および妊産婦の健康状態、生活状態を把握して、必要な援助を受けられるようにしたり、福祉サービスを行なう者との連絡調整を行なったりする民間ボランティア委員)を兼ねるようになり、地域の社会福祉事業の最前線の担い手となっています。 今回ご紹介の記念切手は、済世顧問制度の発足から50周年になるのを記念して発行されたもので、切手発行日の1967年5月12日には、制度発祥の地の岡山市民会館で記念式典が行われました。 切手に描かれているのは民生委員の記章です。このデザインは、1960年の公募作品のうちの優秀作品をもとにつくられたもので、幸福をあらわす四葉のクローバーの中に図案化されたハト(児童委員としての双葉=児童と、民生委員の“み”の意味も兼ねています)が描かれています。 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-04-20 Thu 06:20
ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2017年4月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1970年に発行された国際文通週間の切手で、三代広重の『東京府下名所尽』の中から「四日市駅逓寮」が取り上げられています。 きょう(20日)は「雨が降り百穀を潤す」とされる二十四節季の“穀雨”ですが、毎年、この時季は春雨の日が多くなります。 もともと、春雨は“はる”と“さめ”を意味する「春小雨」と書かれていましたが、なるほど、小ぬか雨とも呼ばれるだけあって、穀雨の頃の雨は雨粒が小さく、柔らかに降るイメージがありますね。 芝居の月形半平太は、京・三条の宿を出るときに、馴染みの舞妓、雛菊から「月様、雨が…」と声を掛けられ、「春雨じゃ 濡れてまいろう」と応ずるのが定番です。半平太のような色男の口から出ると、何とも粋な雰囲気になる台詞ですが、国語学者の金田一晴彦に言わせると、「これは春の京都に多い霧雨なので、傘をさしたところで濡れてしまう」ということなのだとか。 身もふたもない説明ですが、それなら、春雨の街角には傘を差す人と差さぬ人が同じくらい歩いている風景というのがあってもよさそうなもので、なにかないかと考えていて、ふと思いついたのが、今回ご紹介の切手に取り上げられている「四日市駅逓寮」だったわけです。 『東京府下名所尽』は1874年5月に刊行された作品。“駅逓寮”は、明治4年3月1日(1871年4月20日)に日本の近代郵便が創業されたときの“駅逓司”が同年8月に昇格して生まれた組織で、切手に取り上げられた庁舎はこの絵が刊行される前月の1874年4月に完成したばかりでした。 郵便創業当時、駅逓司(後に駅逓寮)と東京郵便役所(現在の中央郵便局に相当)は四日市、すなわち、現在の東京都中央区の江戸橋南詰付近に置かれていました。当初の駅逓司の建物は、旧幕府の老朽化した魚納屋役場を改造したもので、駅逓頭・前島密の机も押入れを改造した中に置かれているというありさまでした。 その後、郵便事業の発展とともに、駅逓寮の局舎も近代的なものに改築する計画が持ち上がり、1874年4月30日、瓦葺き木造漆喰仕上げ二階建ての洋風建築が完成します。入口上部の切妻中央に設置された直径4尺の舶来時計は時を知らせ、文明開化のシンボルとして、東京名所の一つでした。ただし、この建物は1888年2月の火災で焼失。現在、その跡地には日本橋郵便局が建てられ、その正面玄関には“郵便発祥の地”と記された石碑がはめ込まれています。 三代広重の作品を見ると、玄関脇に満開の桜の木が一本植わっています。さすがに、4月末の竣工時には桜は散っていたでしょうから、あるいは、建物の外観ができあがった時点で絵筆をとったのではないかと推測できます。 往来には傘を差した人物が3人ほど歩いていますが、画面手前の丁髷と思しき男衆(1871年に断髪令が出された後も丁髷を結ったままの人は多く、8割が断髪するまでには10年近くが必要だったそうです)は傘を差していません。 新国劇で『月形半平太』が初演され、「春雨じゃ~」の名台詞が生まれたのは1919年のことでしたから、丁髷の彼らは、雛菊・半平太の物語など知る由もなく、春雨に濡れて歩いていたということになります。 穀雨が過ぎると、だんだんと雨量が多くなってきて、傘なしで雨中を歩くのはしんどくなってきますから、そうした点からも、やはり、この絵も4月末より少し早い穀雨の頃の風景と考えるのが妥当でしょう。 ちなみに、年によって若干の差があるものの、今年を含め、穀雨はたいてい4月20日です。“郵政記念日”と同じ日というのは偶然でしょうが、三代広重が描いた駅逓寮の絵をみていると、彼がその場所にいたのは、まさに穀雨の4月20日でなかったかと、ついつい根拠もないままに想像してみたくなるのでした。 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-04-11 Tue 09:34
1967年4月11日に日本近代文学館が開館してから、今日で50年です。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1967年4月11日に発行された“日本近代文学館開館”の記念切手です。 明治維新からほぼ一世紀が過ぎた1960年代に入ると、明治以降の近代文学に関する資料の散逸が各方面で問題視されるようになりました。このため、作家の高見順や小田切進らの間で、1961年頃、近代文学に関するあらゆる資料を広く収集・保存し、一般の閲覧に供するために“日本近代文学館”を設立しようというプランが持ちあがります。 その実現に向けて、1962年7月、高見順、伊藤整、小田切進、久松潜一、稲垣達郎らを発起人として「日本にはまだ近代文学の関係資料を保存する専門図書館がありません」との書き出しで始まる「日本近代文学館設立趣意書」が発表され、文学館建設に向けての具体的な活動が開始されました。この呼びかけに対しては、早くも1962年末までに1100万円の基金や4万点の図書雑誌類が寄贈され、翌1963年4月、これを基にして財団法人・日本近代文学館が設立されます。 こうして、本格的な文学館建設のための準備作業が本格的に開始され、その第一段階として、1964年11月、東京の上野図書館(国立国会図書館支部・上野図書館)内に日本近代文学館文庫が設けられました。 文学館の建物の建設は、翌1965年8月16日から東京・目黒区の東京都立駒場公園内で工事が開始されました。その後、2年弱の年月と7億円の総工費をかけて、1967年4月11日、地上2階・地下3階で閲覧室・書庫(収容能力50万冊)・資料室(収容能力10万点)・ホール・研究室などを備えた、わが国最初の近代文学専門図書館として“日本近代文学館”が開館しました。なお、初代理事長は作家の伊藤整でした。 日本近代文学館の開館に際して記念切手を発行することは、1967年1月22日に開催された郵政審議会専門委員会打合会で正式に決定されましたが、発行期日を勘案すると、切手制作のための準備はその前から内々に進められていたと見るのが自然でしょう。 記念切手は、文学館の全景を描いたもので原画作者は久野実です。一方、切手発行と同時に用いられた特印は、夏目漱石の『吾輩は猫である』初版本の表紙に森鴎外と樋口一葉の印影を配したもので、こちらは大塚均がデザインしました。 今回の記念切手に関しては、文学館の建物をストレートに描いた図案が安易だとの批判も一部にありましたが、文学館そのものへの社会的な関心の高さもあって売れ行きは好調だったようで、発行早々、売り切れとなった郵便局も少なからずあったと報告されています。 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” スタート! ★★★ 4月13日(木)から、NHKラジオ第1放送で、隔週木曜日の16時台前半、内藤がレギュラー出演する「切手でひも解く世界の歴史」スタートがします。初回は、13日がタイの水かけ祭“ソンクラーン”の日なので、16:05から、タイの切手のお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-03-07 Tue 10:47
ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2017年3月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1966年7月1日に発行されたホタルイカの35円切手(普通切手)です。 ことしも、3月1日、富山湾のホタルイカ漁が解禁になりました。 ホタルイカの水揚量が日本で最も多いのは浜坂漁港をはじめとする兵庫県ですが(富山県は第2位)、富山湾のものは身が大きく、ミソも詰まっていて美味なので、人気があります。 富山湾の常願寺川の河口左岸から魚津港までの15 km、満潮時の沖合1260 m までの海域では、毎年春の宵、 ホタルイカの雌が産卵のため深海200-600 m から浮上して浅瀬に密集し、翌未明には沖へ帰っていきます。これが、国の特別天然記念物に指定されている“ホタルイカ群遊海面”です。ちなみに、天然記念物に指定されているのは、ホタルイカそのものはではなく、ホタルイカのいる海面なので、ホタルイカを食べることはなんら問題ありません。 富山湾のホタルイカ漁は、こうしてやってきたホタルイカを、夜間、定置網で獲るため、網にかかるのはほとんどが雌になります。ちなみに、ホタルイカは雄よりも雌が大きく、味も雌が美味。また、定置網漁だと、小さく繊細なホタルイカの身が他の魚に傷つけられることも少ないというメリットがあります。 一方、他の地域のホタルイカ漁は、日中、底引き網でごっそり獲るので、雌雄が半々になるだけでなく、他の魚が網に入ってホタルイカの身が傷むことも少なくありません。 富山産のホタルイカが人気を集めているのは、こうした事情によるものです。 ホタルイカはすぐに傷んでしまうため、産地以外でも春の味覚として楽しめるようになったのは、冷蔵・運搬技術が発達した近年のことです。このため、かつてのホタルイカは肥料として使われることも多く、富山地方では、このイカを松の肥料として使っていたため“マツイカ”と呼んでいたとのだとか。ちなみに、ホタルイカとの名前は、1905年、生物学者の渡瀬庄三郎が命名したもので、学名は渡瀬にちなんでWatasenia scintillansといいます。 僕が子供の頃は、東京でホタルイカというと、沖漬けの瓶詰くらいしか手に入りませんでした(少なくとも、わが家ではそうでした)から、大学生になって、居酒屋で初めてホタルイカの酢味噌和えを食べたときは、今回ご紹介の切手の印象とだいぶ違うことに、ちょっと面食らった記憶があります。切手のイカは、いかにもイカらしくスリムな体型で、画面の印象からも、スルメイカ程度の大きさがあるような雰囲気ですが、実際に出てきたイカはかなり小ぶりで、ぷっくらと丸みを帯びた胴が印象的でしたから…。いまから思うと、あるいは、切手のイカは富山湾で獲れた雌ではなく、他の地域で獲れた雄がモデルになっていたのかもしれません。 切手ではわかりづらいが、ホタルイカの触手の先には、それぞれ、3個の発光器がついていて、なにかに触ると光る仕組になっています。また、体表の海底側(腹側)にも細かい発光器がありますが、これは海底側にいる敵に対して光る姿を見せ、海面からの光に溶け込んで敵の目をくらますためのものです。 海中のホタルイカは月の光を目印に自分の位置を把握しているらしく、月明かりのない新月の夜は、方向を見失って、棲家である深海へ戻ることができなくなります。このため、産卵を終えて力尽きた雌は光を放ったまま砂浜に打ち上げられ、“ホタルイカの身投げ”と呼ばれる光景が見られます。 もっとも、ホタルイカを肴にちょっと一献のつもりが、ついつい杯を重ねすぎ、風呂も入らずテカリ顔のまま、自宅の玄関先でひっくり返っている僕の場合は、さしずめ“ホタルイカで身投げ”ということになりましょうか。 ★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』 ★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
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