2020-09-30 Wed 00:49
きょう(30日)は、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』の奥付上の刊行日です。というわけで、毎回恒例、同書の表紙カバーのデザインに使った切手についてご説明いたします。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1995年11月6日にソロモン諸島が発行した同年のクリスマス切手で、クリスマス時季の恒例行事となっていカヌーのレース風景が描かれています。 オセアニア地域では、胴体が二つある双胴型または本体からアームを突き出して先端に材木などをつけたアウトリガー型のカヌーが一般的です。しかし、これらのカヌーは安定性がある代わりに機動性に乏しいため、ソロモン諸島の中でも、長年にわたって抗争を繰り返してきたマライタ島とサンタ・イサベル島では互いに接近遭遇した際に備えて、古くから、巨木を切り倒して中を刳り貫き多人数で漕ぐ戦闘用カヌーを日常生活にも用いていました。これがソロモン諸島全域で定着したため、このタイプのカヌーはソロモン諸島のシンボルとして、1907年に発行された最初の切手以来、しばしば切手にも取り上げられてきました。 切手に取り上げられたカヌー・レースは、英領時代の1968年12月、クリスマス・シーズンのイベントとして、サンタ・アナ、サンタ・カタリナ、ロヴィアナなどから伝統的な装飾を施したカヌーがホニアラに集まって行われたのが最初です。その後、1970年には開催されなかったり、1974年にはエリザベス女王の訪問に合わせて2月に開催されたりするなどのこともありましたが、クリスマス時季のイベントとして定着しました。なお、今回ご紹介の切手が発行された1995年の時点では、カヌーのレースは、文字通り、スピードを競うレースの側面が強いものでしたが、現在では、観光客を意識して、レースというより、コンペ形式の電飾パレードの色彩が強くなっています。 今回の拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』では、第二次大戦中の激戦地としてのみ語られがちな“ガダルカナル”について、第二次大戦後の現代史にフォーカスを当てていますので、表紙に使う切手も、現在の現地の風俗を描いたものの中から、個人的にお気に入りのデザインの1枚を取り上げてみましたが、いかがでしょうか。書店の店頭などで実物をご覧になりましたら、ぜひ、お手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-29 Tue 00:18
ご報告がすっかり遅くなりましたが、大手製菓メーカー(株)ロッテのウェブマガジン『Shall we Lotte(シャル ウィ ロッテ)』での僕の連載記事、「お菓子の切手」の記事が2本(8月25日配信と9月15日配信)がアップされました。そのうち、9月15日配信の記事は過去に紙版の雑誌に発表したものの再録ですが、8月25日配信の記事は書下ろしで、こんな切手を取り上げています。(画像はクリックで拡大されます)
これは、フランスの造形作家、ローレンス・ジェンケルさんの作品群、“キャンディ・ネイションズ”のうち、アンドラ国旗をデザインしたオブジェを取り上げた2018年のアンドラ切手です。 あるモノを包んで両端をキュッとねじってリボン留めするラッピング方法を“キャンディ包み”と言います。いうまでもなく、お菓子のキャンディの包装方法がもとになった言葉ですが、キャンディを一つずつ包装紙でくるむようになったのは、19世紀の産業革命の時代のことと考えられています。 それ以前のキャンディは生産量も少なく、個々の製品が流通する地域も限られており、販売方法も街頭で瓶に入れて量り売りするのが一般的でした。これに対して、産業革命以降、さまざまな種類のキャンディが大量に生産・販売され、市場が急速に拡大すると、流通過程での品質の劣化を防ぐため、個包装が必要になったわけです。 当初、キャンディの個包装は手作業で行われていましたが、かならずしも、現在の“キャンディ包み”ばかりだったわけではなく、角形のキャンディを包装紙の辺と平行になるように置き、両側から合わせるように包む“合わせ包み(キャラメル包みとも)”もかなりありました。 これに対して、1914年、米国のネッコ社(NECCO:New England Confectionery Company)が自動包装機を導入。以後、“キャンディ包み”で個包装されたキャンディが、人間の手に触れることなく、衛生的に大量生産されるようになり、“キャンディ包み”がキャンディのイメージとして定着していくことになります。 そんなキャンディ包みのイメージと世界各国の国旗を組み合わせた“キャンディ・ネイションズ”という現代アートの作品をご存じでしょうか。 作者のローレンス・ジェンケルさんは、1965年、フランスのブールジュ生まれ。独学で美術を学び、1990年代にカンヌで創作活動を開始。現在は、イタリアとの国境に近いヴァロリスを拠点に活動する女性造形作家です。 “キャンディ・ネイションズ”は、2011年、カンヌでG20サミットが開催されたことを記念して、参加各国の国旗をデザインした巨大なキャンディのオブジェとして作られたのが最初です。このオブジェが大いに評判になったことから、その後、“キャンディ・ネイションズ”はさまざまな国のバージョンが作られるようになり、彼女の代表作として知られるようになりました。 ちなみに、わが国は2011年のカンヌ・C20サミットの参加国でもありますので、キャンディ・ネイションズの中には日の丸をデザインした作品も含まれています。仮に、各国の国旗をデザインした包み紙の中に、それぞれのお国柄がしのばれるキャンディを入れるとしたら、日本の場合は“小梅ちゃん”が一番じゃないでしょうかね。 さて、今回ご紹介の切手は、2018年、フランス・スペイン国境のピレネー山脈中腹に位置するアンドラ公国(以下、アンドラ)が発行したもので、同国南部、エスカルデス=エンゴルダニ(アスカルダズ=アングルダーニとも)教区に置かれたアンドラ国旗のオブジェが取り上げられています。 アンドラ公国は面積468平方キロ、人口約8万4000人の小さな国で、欧州最大規模の温泉遊園地のカルデアやスキーリゾートなどを擁する観光立国です。公用語はカタルーニャ語ですが、スペイン語、フランス語、ポルトガル語も話されています。 国の起源は、839年にウルヘル大聖堂の聖別証書でアンドラ人が自治権を得たことに求められており、1278年以降は、ウルヘル司教とフォア伯爵が共同領主となりました。その後、フォア伯爵家の当主が、フランス王アンリ4世として即位したことから、アンドラはウルヘル司教とフランスの共同統治となります。そして、1993年3月、新憲法が住民投票で承認されたことで、アンドラはウルヘル司教とフランス大統領を共同元首とする立憲君主国として正式に独立しました。 アンドラでのキャンディ・ネイションズの展示は、2017年7-9月、エスカルデス=エンゴルダニ教区内に、アンドラ国旗を含む16ヵ国の国旗をデザインしたオブジェが配置され、会期中には作者のジェンケルさんを招いてのワークショップも行われました。また、会期終了後、オブジェの大半は撤去されましたが、アンドラ国旗をかたどったオブジェのみはイベント開催の記念碑として教区内で永久保存されており、2018年発行の記念切手にも取り上げられたというわけです。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-28 Mon 01:14
旧ソ連のアルメニアとアゼルバイジャンの係争地、ナゴルノ・カラバフで、きのう(27日)、両国軍による大規模な戦闘が発生。民間人などにも死者が出ています。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、旧ソ連時代の1982年に発行された切手付き封筒で、ナゴルノ・カラバフの首府、ステパナケルトのアゼルバイジャン共産党ナゴルノ・カラバフ支部(当時)の庁舎が描かれています。 アゼルバイジャン西部のナゴルノ・カラバフの地域は、第一次大戦まで帝政ロシアの支配下に置かれていました。 1917年のロシア革命を経て、1918年5月、アルメニアとアゼルバイジャンが相次いで独立を宣言します。その際、ムスリム国家アゼルバイジャンの領域内にありながら、キリスト教徒のアルメニア人が多数居住している“飛び地”のナゴルノ・カラバフをめぐりアルメニアとアゼルバイジャンは激しく対立しましたが、1920年には赤軍の進駐により両国はいずれも崩壊。翌1921年、ロシア革命政府はナゴルノ・カラバフを“自治州”としてアゼルバイジャンに帰属させました。 1922年末に成立したソ連においては、アゼルバイジャンとアルメニアはともに連邦を構成する社会主義共和国となったため、ナゴルノ・カラバフ問題もとりあえず棚上げとなります。今回ご紹介の切手付き封筒のアゼルバイジャン共産党ナゴルノ・カラバフ支部も、こうした状況で創設されたものです。 しかし、1985年以降、ゴルバチョフの下でソ連のペレストロイカ改革が進むと、ナゴルノ・カラバフのアルメニア人は自治州のアルメニアへの編入を請願。ゴルバチョフはこれを拒否しましたが、1988年2月、あらためて、自治州政府が公式にアルメニアへの移管を要請。さらに、2月22日、ナゴルノ・カラバフのアスケランで起きたアゼルバイジャン人青年の殺害事件を機に、対立は一挙に暴力化します。6月15日には、アルメニア共和国最高会議がナゴルノ・カラバフ自治州の自国への移管を決議すると、翌16日にはアゼルバイジャン共和国最高会議がこれを否認する決議を採択し、ソ連の枠内での内戦に発展しました。 1991年8月、ソ連共産党のクーデター失敗により、ソ連の崩壊が避けられなくなると、8月30日にアゼルバイジャンが、9月21日にアルメニアが再独立。これに伴い、ナゴルノ・カラバフ紛争は内戦から国際紛争になり、1992年1月6日には“ナゴルノ・カラバフ共和国(アルツァフ共和国)”の独立が宣言されました。 国際社会はナゴルノ・カラバフ共和国を承認しませんでしたが、戦況はアルメニア有利に展開され、1994年5月12日には停戦が成立。ナゴルノ・カラバフ共和国は事実上、アゼルバイジャンの統制が及ばない“独立国”となりました。さらに、アルメニア側は、ナゴルノ・カラバフとアルメニア本国を連結する形で旧自治州の領域を越えてアゼルバイジャンの領土を占領して実行支配を続けており、停戦合意後も、小規模な衝突が散発的に続いていましたが、2016年4月には、大規模な衝突として、双方の政府発表で、アゼルバイジャン兵12人、アルメニア兵18人が死亡する“4日戦争”が発生しました。 今年(2020年)に入ってからは、7月12-14日、ナゴルノ・カラバフ地区ではありませんが、アルメニア北東部とアゼルバイジャン国境のドブズ地域でアゼルバイジャン側12人、アルメニア側4人の死者が発生する衝突が起きており、9月20日にはアゼルバイジャンのアリエフ大統領が「アルメニアが新たな戦争の準備をしている」と非難するなど、両国の緊張が高まっていました。 報道によると、戦闘は27日朝、ナゴルノ・カラバフ共和国内で発砲事件が発生。アルメニアはアゼルバイジャン軍が攻撃を仕掛けてきたと主張し、アゼルバイジャン軍のヘリコプター2機や無人機3機を撃墜。アルメニア国内では戒厳令と総動員令が発令され、ナゴルノ・カラバフ共和国でも同日中に戒厳令が敷かれています。 これに対して、アゼルバイジャン側は、アルメニア軍がナゴルノ・カラバフの接触ラインの集落に発砲したとして、「アルメニア軍の攻撃を阻止し、民間人の安全を守るため反撃を開始した」と反論。この記事を書いている時点では、アルメニア側は民間人2人のほか、軍人10人が死亡、アゼルバイジャン側は民間人ら複数の死者が出たと発表しています。 南カフカースの親露国アルメニアと、カスピ海沿岸の産油国でトルコ(NATO加盟国)との友好関係にあるアゼルバイジャンの対立は、今後、国際社会に大きなハレーションを起こしかねません。このブログでも、必要に応じて関連の記事をアップしていきたいと思います。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-27 Sun 02:54
農林水産省は、きのう(26日)、群馬県高崎市の養豚農場で豚熱(CSF)に感染した豚を確認したと発表。県が法律に基づいて約5390頭を殺処分することになりました。国内の養豚場で豚熱が発生するのは今年3月に沖縄県で確認されて以来59例目で、群馬県ではこれまで55頭の野生イノシシで感染が確認されているものの、養豚農場での感染は初めてです。というわけで、きょうは養豚関係の切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ソロモン諸島が発行した1991年用のクリスマス切手で、クリスマスのご馳走としての豚の丸焼きを準備している様子が描かれています。ソロモン諸島では、結婚式、葬式、祝いの席、季節の行事、政府部門の宴会に際しては豚を屠って饗するのが慣習になっており、「豚肉なしに宴会は成り立たない」とまで言われています。また、地域間ないしは部族間の紛争では、和解に際して生贄が献上されますが、その際にも豚が屠られます。 このため、ソロモン諸島では養豚が産業として重要な意味を持っていますが、現在のソロモン諸島の養豚業を支えてきたのが台湾でした。 1971年10月25日に採択された第26回国連総会2758号決議で、国連における“中国”の代表権が台湾から北京政府に移ると、台湾は巻き返しのため途上国援助の拡充を決断。1972年、途上国支援政策を総合的に扱う部署として外交部(外務省に相当)内に“海外技術合作委員會(海外會)”を設置します。この海外會は、1996年、経済部(経済産業省に相当)が1989年に設置した“海外經濟合作發展基金管理委員會(海合會)”と合併し、“財團法人 國際合作發展基金會(ICDF)”となって現在に至っています。 1978年に独立したソロモン諸島は、1983年に台湾との国交を樹立。台湾側も、ソロモン諸島は外交関係を有する太平洋諸国のうち、面積・人口ともに最大の国であったため、ソロモン諸島に対してさまざまな支援を行いました。 養豚支援もその一環として行われたもので、ICDFは、それまで縄でつないだブタを屋外で飼育していた従来の方法に代わり、比較的安価でありながら、商業的な養豚が可能な豚舎や飼料倉庫の建設する方法をソロモン諸島国民に伝授。さらに、ソロモン諸島の条件に合わせて、在来種と台湾から持ち込まれた品種を掛け合わせて作られた“SOLROC”(ソロモンのSOLと台湾=中華民国のROCが名前の由来)種のブタは、両国友好のシンボルとして人々の生活に定着しています。 こうしたこともあって、昨年9月の世論調査では、ソロモン諸島国民の8-9割が台湾との外交関係の維持を望むという結果が出ていましたが、中央政府は台湾と断交し、中国との国交樹立を強行しました。 ちなみに、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』では、1978年の独立以来、台湾との友好関係を維持してきたソロモン諸島が台湾と断交し、中国と国交を結ぶに至った経緯について詳しくまとめております。機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-26 Sat 12:23
国連人道問題調整事務所(OCHA)スーダン事務所は、24日、7月半ば以降にスーダン全土を見舞った洪水で、83万人近くが被災し、全壊または半壊、一部損壊した家屋は16万6000棟近くに上ったことを明らかにしました。というわけで、亡くなられた方の御冥福と被災地の一刻も早い復興をお祈りしつつ、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1950年、英埃領時代のスーダンで発行された青ナイルを描く切手です。 青ナイルは、エチオピアのタナ湖に源に発する川で、ハルトゥームで白ナイルと合流してナイル川となります。川の名は、灰色に濁った白ナイルに比して、透明度が高いことに由来するもので、測量困難な地域を流れているため、その長さには1460km説、1600km説などがありますが、800kmほどはエチオピア国内を流れています。 1970年にアスワン・ハイ・ダムが建設されるまで青ナイルはナイル川の洪水を引き起こす原因となっていましたが、その反面、「エジプトはナイルの賜物」とヘロドトスが記したように、古代エジプトの繁栄の源となりました。現在では、青ナイルに設けられた2つのダムによりスーダン国内の電力の80%が賄われているほか、ゲジラ平原の灌漑なども行われています。 さて、今回の大洪水ですが、今年7月、エチオピア領内の青ナイル川周辺での豪雨により、青ナイル川の水位は過去100年で最も高いレベルにまで上昇。7月下流に当たるスーダン国内で氾濫が発生しました。水は数日前にようやく引き始めましたが、この間、9月4日にはスーダン政府が3ヵ月間の非常事態宣言を発令。9月7日時点でのスーダン政府の説明によると、被害は判明しているだけで死者100人、避難民50万人に上るとされていました。 ちなみに、きょう(26日)は、1954年の洞爺丸台風、1958年の狩野川台風、1959年の伊勢湾台風をはじめ、統計上、日本への台風襲来の回数が多い日として、“台風襲来の日(魔の9月26日、台風襲来の特異日とも)”になっています。あらためて、防災への備えを心がけるようにしたいものです。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 9月26日発売!★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-25 Fri 00:17
ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』第763号が配信されました。僕の連載、「沖縄切手モノ語り」は、今回は1948年の第1次普通切手について取り上げましたが、その中からきょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます。
これは、1948年7月1日に発行された第1次普通切手のうち、農夫を描く1円切手です。 1945年6月の沖縄戦終結と前後して、米軍は占領下の沖縄で“B円”を額面とする軍票の使用を開始します。この時点での米ドルとの交換レートは1ドル=10B円でしたが、沖縄本島など、戦争による被害が大きく無貨幣経済を行わざるを得ない地域もありました。 敗戦直後の1945年9月、大蔵省はGHQの要請を受けて、1ドル=15B円のレートで(日本円と等価で)占領下でのB型軍票円の発行を承認します。しかし、占領軍が本土でB型軍票円を使用すれば日本経済の混乱が拡大することが懸念されたため、日本政府は占領経費を日本円で支弁することを条件に、占領軍による軍票支払の停止を要請。GHQ側もこれを承認したため、日本本土ではB円軍票はごく少数が流通しただけにおわりました。 ところで、日本本土では、敗戦後の急激なインフレに対処するため、1946年2月16日、「金融緊急措置令」と「日本銀行券預入令」が発せられます。いわゆる“新円切り替え”です。 その骨子は、 ①1946年(以下同)2月17日以降、全金融機関の預貯金を封鎖する ②市中に流通している10円以上の銀行券(旧券)を同年3月2日限りで無効とする(2月22日に旧5円券も追加) ③3月7日までに旧券を強制的に預入させ、既存の預金とともに封鎖する一方、2月25日から新様式の銀行券(新円)を発行し、一定限度内に限って旧券との引き換えおよび新円による引き出しを認める というものでした。 この施策は、当初、1946年夏に実施予定でしたが、インフレの進行が予想以上に早く、2月に繰り上げての実施となったため、新日銀券として、A100円および10円券が3 月1日、A5円券が同8日、A1円券が同月20日に発行されています。ところが、当初は必要な数量の新券を調達できなかったため、2月20日、政府は「日本銀行券預入令ノ特例ノ件」を公布し、1000円、200円、100円および10円の証紙4種を発行し、これを旧券の表面に貼付することで、暫定的に“新円券”として流通させることにしました。(証紙貼付銀行券。ただし、1946年10月末で通用停止) 一方、軍政下の沖縄では、無貨幣経済から貨幣経済の再建のための最初の措置として、1946年4月15日、第一次通貨交換が行われましたが、ここにも、本土の新円切り替えの影響が及んでいます。 すなわち、この時の通貨交換で、米軍政下の琉球地区の法定通貨として認められたのは、①B円型軍票円紙幣、②新日本銀行券(新円)、③5円以上の証紙貼付旧日本銀行券、④5円未満の旧日本銀行券および同硬貨(小額紙幣と硬貨は新円切り替えの対象外で、1946年3月3日以降も有効)で、沖縄住民が戦前から所有していた旧円は原則としてすべて回収され、B円軍票と1対 1で交換されました。 ところが、1946年7月以降、本土に疎開していた沖縄本島出身者の引揚げが実施され、引揚者が日本円を沖縄に持込むようになります。当時の日本本土はハイパーインフレの時代で、対ドルの実勢交換レートでは日本円は急速に下落していましたが、沖縄では日本本土よりもインフレのスピードが緩かったため、日本円を密輸し、建前としては等価とされていたB円軍票と交換して差益を得るものが横行します。さらに、貨幣経済の復活により通貨量も急速に増大したこともあって、沖縄本島でもインフレが急速に進行しました。 そこで、軍政当局は、同年8月5日から20日にかけて、沖縄本島と周辺の離島にかぎって第二次通貨交換を実施し、B円軍票を新日本円に交換させ、沖縄本島の通貨をいったん新日本円に統一させました。 一方、米軍政下の奄美、宮古、八重山の各地区ではB円軍票と新日本円が併用される状態が続いていたため、9月15日、軍政当局は沖縄本島以外の他の南西諸島にも同様の布令を出したものの、新日本円不足のため全面的な交換はできず、各種通貨が混在する状況が続きました。 その後、1947年9月になって、ようやく、北緯30度以南の南西諸島の法定通貨として新日本円とB円軍票が併用されることとなり、当初の二本建通貨制度が復活します。 こうした経緯を経て、1948年になると、東アジアでも東西冷戦が本格化してきたことから、米国は、沖縄を太平洋戦略の要石として長期的に確保すべく、さまざまな布石を打ち始めましたが、その一環として、琉球全域における通貨の統一が図られます。 かくして、1948年6月、法定通貨を新たに発行するB円(新B円)に一本化することが決定され、同年7月16日から21日にかけて行われた第三次通貨交換で、日本円とB円軍票の流通が禁じられ、すべて、新B円に交換されました。 これに合わせて、7月1日、全琉球統一の“琉球切手”(額面は新B円に対応)が発行され、それまで、各地区で発行されていた暫定切手類は使用禁止となります。 なお、この琉球切手の発行に先立ち、すでに1947年の時点で沖縄地区では独自の切手発行が試みられ、地元軍政府の依頼を受けた逓信部の比嘉秀太郎が、琉球王国の紋章や首里城、守礼門を描く切手図案の原案を作成していましたが、東京の総司令部はこれを「民主的ではない」との理由で却下。その後、比嘉は新たに4種の図案を制作して東京に空輸し、今度は総司令部に承認されたことで、1948年6月7日、日本の大蔵省印刷局で製造された琉球切手が納品され、7月1日の切手発行となりました。これが、いわゆる第1次普通切手です。 切手の国名表示は“琉球郵便”となっていますが、これは、“沖縄”の語が狭義には沖縄本島のみを指す言葉であったことにくわえ、いわゆる琉球処分に際してこの地域が日本領であることを示すために”沖縄”の語が県名として採用されたこと、さらに、“琉球”という名称が戦勝国の一角を占めていた中国による命名であったことなどが総合的に考慮された結果と考えられています。要するに、軍政当局としては、日本と沖縄の歴史的なつながりを否定するため、“沖縄”ではなく“琉球”の表示を採用したというわけです。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 9月26日発売!★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-24 Thu 03:14
8月9日の大統領選の結果に対する抗議活動が続くベラルーシで、きのう(23日)、アレクサンドル・ルカシェンコ大統領が国民に対する事前の予告なしに、首都ミンスクの独立宮殿(大統領官邸)で6期目の就任式を行いました。というわけで、ベラルーシ関連のマテリアルの中から、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、独ソ戦下のドイツ占領地域で発行された“オストラント”加刷切手のミンスクでの使用例(オンピース)です。 1941年6月22日、ドイツ・ソ連国境でドイツ軍が一斉に侵攻を開始し、独ソ戦が勃発。ドイツ軍はソ連の航空戦力の大半を地上で撃破し、電撃戦を用いてソ連の領土に深く進攻しました。6月29日にはミンスクが、8月5日にはスモレンスクが陥落。9月8日にはレニングラードが包囲され、10月2日にはモスクワ近郊での攻防戦が始まります。 ソ連領内の広大な地域を占領したドイツ軍は“東部占領地域”を設定。東部占領地域は、現在のウクライナの領域の大部分からなる“ウクライナ国家弁務官区”と、バルト三国およびベラルーシの領域からなる“オストラント国家弁務官区”で構成され、オストラントでは1941年11月から1944年夏にソ連軍がこの地を奪還するまで、今回ご紹介のように、ドイツ本国の切手に“オストラント”と加刷した切手が使用されました。 さて、ベラルーシの法律では、新大統領の就任式は選挙から2カ月以内に行うことが義務づけられていますが、8月の選挙をめぐっては、中央選挙管理委員会が、ルカシェンコの得票が80.2%、主要対立候補のスヴャトラーナ・ツィハノウスカヤが9.9%として、ルカシェンコが6選を果たしたと発表しましたが、不正選挙を訴える市民と警官隊との間で衝突が発生。8月11日には、国外へ亡命していた野党指導者のバレーリー・ツェプカロらが“救国戦線”の結成を表明し、国内でも大規模な抗議行動が続いていたため、大統領の就任式も開催できない状態が続いていました。 このため、就任式についての情報は事前には一切告知されず、ロシア大使を含む各国外交団も招待されなかったとか。そして、23日朝、突如、首都ミンスクの中心部が封鎖され、大統領官邸付近に治安部隊が展開。政府高官や議会代表ら約700人が出席する中、官邸で式典が始まり、大統領に就任したルカシェンコは「試練を耐え抜いたベラルーシ人を誇りに思う。我々は自らの主権と独立を守った」と演説したそうですが、国民の怒りの火に油を注ぐのは必至です。 思い返してみれば、1919年の共産政権成立から、独ソ戦期のナチスの占領時代、戦後のソ連支配の復活を経て、1991年の独立以来のルカシェンコ独裁政権と、この100年間、ベラルーシ国民の試練は過去形になることなくずっと続いてきましたからねぇ。 “欧州最後の独裁者”として悪名高いルカシェンコが退陣し、一日も早く「試練を耐え抜いたベラルーシ人を誇りに思う。我々は自らの主権と独立を守った」との言葉が現実のものとなる日が来るのをお祈りしております。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 9月26日発売!★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-23 Wed 03:17
オーストラリア南東部のタスマニア島西部のマッコーリー湾の入り口付近や周辺で、21日、ゴンドウクジラ約270頭が浅瀬で座礁し、うち90頭が死亡しているのが発見され、きのう(22日)から救出作業が開始されました。タスマニアではクジラの座礁は珍しくありませんが、これほど大量の座礁は例がないそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1963年にオーストラリアが発見したアベル・タスマンと彼の船団を描く切手です。 タスマンはオランダの探検家で、1603年生まれ。1639年には、マティス・クワストの指揮する北太平洋の探検に副官として参加し、長崎の出島に寄港したほか、7月21日にはヨーロッパ人として小笠原諸島の父島と母島を最初に望見しました。 1642年、オランダ東インド会社の依頼を受け、すでにオランダが発見していた“ニュー・ホーランド(現在のオーストラリア西海岸)”が、南半球の大半を占める大陸の“テラ・アウストラリス”であるか否かを確認するため、モーリシャスを経由して、11月24日、オーストラリア大陸南東部から240キロ南方、現在のタスマニアの西海岸に到達しました。その際、島の名をオランダ東インド会社総督のアントニオ・ヴァン・ディーメンにちなんで“ヴァン・ディーメンズ・ランド”と命名します。 その後、タスマニア島から北上しようとしたものの、天候に阻まれて東進。このため、“オーストラリア大陸”を確認できないまま、12月13日にニュージーランドの南島に到達しましたが、ここを南米南端のスターテン島(現在のロス・エスタードス島)の一部と考えていました。さらに、オランダ東インド会社の拠点であるバタヴィアへの帰路、1643年1月20日にはトンガに、さらにその後はフィージーにも寄港し、ニューギニアの北岸を西進し6月15日にバタビアへ戻っています。 ナポレオン戦争中の1803年、英国は、ヴァン・ディーメンズ・ランドを流刑地とし、シドニーから流刑囚と看守を中心とした入植が開始。当初は、ヴァン・ディーメンズ・ランドはニューサウスウェールズの一部とされていましたが、1826年12月にニューサウスウェールズから分離し、独自の植民地政府を構成することになりました。そして、1856年には、英国により、タスマンにちなみ、タスマニア島と改名され、現在にいたっています。 最初の切手は、ヴァン・ディーメンズ・ランド時代の1853年に発行されましたが、1856年の改称を経て、1857年には切手の表示も“タスマニア”に変更されました。そして、1901年のオーストラリア連邦を経て、1913年以降は連邦統一の切手が使用されています。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 9月26日発売!★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-22 Tue 00:26
きょう(22日)は秋分の日。秋のお中日でお墓参りの日ですが、祝日法では“祖先をうやまい、亡くなった人々をしのぶ”日とされています。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1985年6月28日にソロモン諸島が発行した国際科学技術博覧会(つくば博)の記念切手のうち、ガダルカナル島アウステン山麓のソロモン平和慰霊公苑を取り上げた12セント切手の試刷です。なお、この試刷では、公苑の地名が“AUSTIN”と誤記されています(下の画像はその部分の拡大画像) このため、この切手を含め、同時に発行された4種の切手を貼り込んで校正チェックが行われた際には、下の画像のように、台紙の余白にミススペルが指摘されています。 そのうえで、実際に発行された切手では、地名の表示も修正され、“AUSTEN”となりました。 さて、ソロモン平和慰霊公苑は、1980年10月、独立後のソロモン諸島と日本との友好のあかしとして、ガダルカナルのアウステン山麓に建立されました。総工費は約1億7000万円です。 公苑の中核となるのは十字の通路がつけられた慰霊塔で、その中心には、国籍・民族を問わず、先の大戦で犠牲となったすべての人の霊が集まるという黒石が置かれており、集まった霊はそこから昇天し、あるいは故郷に帰っていくことを表現しています。 また、切手の左手前に描かれているのは、ガダルカナルで戦死した彫刻家、高橋英吉の作品「潮音」です。(下に実際の像の画像を貼っておきます) 高橋は、1911年4月13日、宮城県石巻町(現在は市)生まれ。東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科木彫部研究科在学中の1936年、文部省美術展覧会に「少女像」を出展し、入選しました。切手に取り上げられた「潮音」は1939年に新文展に出品され、特選となった作品です。 1941年、応召して仙台「勇1301部隊」(歩兵第4連隊)に入隊。同年12月16日に出征し、ジャワ、ミンダナオ(フィリピン)、ラバウル、ショートランドを経て1942年9月、ガダルカナルに上陸しましたが、1942年11月2日、ガダルカナル島マタニカウ川攻防戦で戦死ました。 「潮音」は、戦後長らく所在不明でしたが、鳥取県境港市でオリジナルの木像が発見されて石巻市に寄贈され、公苑には木像を元にしたブロンズ像が設置されました。なお、木像は長らく石巻文化センターに収蔵されていましたが、同センターが東日本大震災で被災したため、宮城県美術館が一時的に保管しています。 公苑内の像は顔が石巻の方角に向くように設置されており、台座には「海と空の彼方をみつめ 大漁を祈るこの雄々しい漁夫の像が ソロモン諸島に永遠の平和と幸せをもたらさんことを… 第二次世界大戦当地で戦死した彫刻家 高橋英吉氏の遺作 出身地・石巻市寄贈」との文言の入った銘板が付けられています。 ガダルカナルを含むソロモン諸島の島々では、ジャングル等に放置されたままになっている戦没者の遺骨も少なくないほか、現在なお何千発もの不発弾が残されていて、地元住民が死亡したり重傷を負ったりする事故が後を絶ちません。このため、不発弾処理に協力しているノルウェーのNGOの「NPA」が不発弾の地図データベースを作成していますが、今月20日には、英国籍のスティーブン・アトキンソンさんと、オーストラリア国籍のトレント・リーさんが首都ホニアラにあるNPAの建物内で作業中、建物内に保管されていた不発弾の爆発に巻き込まれ、死亡する事故も起きるなど、現在も、“戦争”はガダルカナルに大きな影を落としています。 なお、9月30日付で刊行の拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』では、今回ご紹介の切手に取り上げられた公苑や高橋英吉についても、いろいろご説明しております。すでに、複数のネット書店で紙版・電子版ともに予約の受付も始まっておりますので、なにとぞよろしくお願いします。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 9月26日発売!★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-21 Mon 01:02
きょう(21日)は“敬老の日”です。というわけで、ご長寿関連の切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1986年9月23日、ソロモン諸島が発行した“サイクロン“ナム”の被災者救援の寄附金つき切手で、前年(1985年)7月7日、クイーンマザー(エリザベス女王の母后)の生誕85年を記念して発行された“クイーン・マザーの生涯とその時代”の切手に、“サイクロン救援基金”の文言と50セントの寄附金の表示が加刷されています。 サイクロン“ナム”は1986年5月15日にソロモン諸島北方で発生し、同22日に消滅したサイクロンで、瞬間最大風速は33m。ソロモン諸島、ヴァヌアツ、二ューカレドニアに甚大な被害をもたらしましたが、特にソロモン諸島のマライタ島とガダルカナル島の被害は甚大で、マライタ島では東部の村々が壊滅し、ガダルカナル島では平地の75%が水没し、農業は壊滅的な打撃を受けました。ソロモン諸島国家全体で少なくとも150人が死亡、9万人が住居を失い、被害総額は2億ドル。このうち、マライタ島の被害が2500万ドル、ガダルカナル島の被害が1億ドルです。 サイクロン後、ソロモン諸島政府は国家非常事態宣言を発し、日米英と隣国のパプアニューギニアが中心になって復興支援を行っています。 さて、今回ご紹介の切手の加刷用に使われた台切手は、1985年7月7日、クイーン・マザーの85歳を記念して英連邦諸国がオムニバス形式で発行したもののうち、ソロモン諸島が4種セットで発行したものの1枚で、前年(1984年)生まれたばかりの曾孫、ヘンリー王子を抱く彼女の写真が取り上げられています。写真を撮影したのは、クイーン・マザーの女婿(彼女の次女、マーガレット王女の夫)で写真家としても知られるスノードン伯爵です。 クイーン・マザーことエリザベス・アンジェラ・マーガレット・ボーズ=ライアンは、英国の貴族、クロード・ボーズ=ライアンの4女として、1900年8月4日に生まれました。1923年、英国王ジョージ5世と王妃メアリーの次男ヨーク公アルバートと結婚。1936年12月、アルバートの兄であるエドワード8世が“王冠を賭けた恋”で退位し、アルバートが英国王ジョージ6世として即位すると王妃として夫を支え、第二次世界大戦中は英国民を鼓舞し、その精神的支柱となりました。 ジョージ6世は1952年2月6日に崩御し、エリザベスは51歳で未亡人となりますが、義母のメアリー太王太后が1953年に崩御したこともあり、英王室の女婿の長老格として、27歳で即位した長女のエリザベス2世を支え、国民からの高い人気を保ち続けたまま、2002年3月30日、101歳で大往生を遂げました。 なお、9月30日付で刊行の拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』では、サイクロン・ナムとその影響についても、ご説明しております。すでに、複数のネット書店で紙版・電子版ともに予約の受付も始まっておりますので、なにとぞよろしくお願いします。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 9月26日発売!★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-20 Sun 01:34
きょう(20日)は、航空の安全と一層の成長を願い広く国民に親しまれるようにアピールすることを目的とした“空の日”です。というわけで、航空関係のマテリアルの中からこんなモノを持ってきました。
これは、1927年4月27日、当時の英領ソロモン諸島の首府、ツラギから米国宛の航空書留便です。 1926年10月31日、オーストラリア空軍のウィリアム大佐が操縦するデ・ハヴィランドDH50A飛行艇が、オーストラリアからニューギニア、ソロモン諸島、ニューヘブリデス(現ヴァヌアツ)、ニューカレドニア、フィジー、サモアをめぐる周遊飛行の途上で、英領ソロモン諸島北西端のショートランド島に寄港しました。これが、現在のソロモン諸島国家の領域に飛行機が飛来した最初の事例です。同機は、続いて、ギゾ、ツラギに停泊。ツラギでは部品交換を行い、11月23日、次の目的地であるニューヘブリデスに向かいました。 この実績を踏まえ、翌1927年には、ツラギからシドニー経由で太平洋を横断する米国行きの試験的な飛行も行われましたが、今回ご紹介のカバーは、この時の飛行で送られたものです。なお、当時のソロモン諸島では、制度上、航空便の差出は想定されていなかったため、このカバーの差出人(おそらく収集家でしょう)は、米国宛の船便書留料金6ペンス(外信書状の基本料金3ペンス+書留料金3ペンス)に、航空料金を想定して米国の航空切手10セントを貼り足しています。また、カバー裏面に押されている印を見ると、飛行機は島伝いで5月にシドニーに到着し、サンフランシスコを経由して6月30日、宛先のニューヨークに到着したことがわかります。 なお、1941年の日英開戦を経て、1942年5月、日本軍は米豪遮断の拠点としてツラギの飛行場を占領しましたが、ツラギ島は面積わずか2平方キロの山がちな小島で飛行場を拡張するための平地を確保することはできませんでした。そこで、5月下旬、技術者などを動員してソロモン諸島での飛行場建設用地を探していたところ、ガダルカナル島の北岸から約2キロ入ったルンガ川東岸一帯が適地として上層部に報告され、飛行場の建設が決定されました。この飛行場をめぐり、同年8月以降、いわゆるガダルカナルの戦いが展開されることになります。 ちなみに、9月30日付で刊行の拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』では、第二次大戦以前のソロモン諸島についても、1章を設けて説明しております。すでに、アマゾン等では予約の受付も始まっておりますので、なにとぞよろしくお願いします。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 9月26日発売!★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-19 Sat 02:22
きのう(18日)の日没をもって、ユダヤ暦5781年の“ローシュ・ハッシャーナー”(新年。直訳すると“年の頭”の意)となりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1988年9月1日にイスラエルが発行した同年のローシュ・ハッシャーナーの切手のうち、現存する米国最古のシナゴーグ、“トーロ・シナゴーグ”の模型(テリアヴィヴのディアスポラ博物館蔵)を取り上げた1枚です。 古代ユダヤには、春から1年が始まる宗教暦と秋から1年が始まる政治暦が併存していました。政治暦は旧約聖書・レビ記23章24節に「第七の月の一日は安息の日として守り、角笛を吹き鳴らして記念し、聖なる集会の日としなさい」とあるのを根拠として、宗教暦の7月1日から始まります。ただし、ユダヤ暦は太陰暦ですので、毎年、新年の日付は異なります。また、ユダヤ暦の紀元は、ユダヤ教において神が世界を創世した日を西暦に換算したとして、紀元前3761年10月7日とされています。 さて、北米のユダヤ系コミュニティは、1654年、それまでオランダの支配下にあったブラジルのレシフェがポルトガルに占領された際、異端審問を行っていたポルトガルの支配を嫌ったユダヤ人23人が、北米におけるオランダの拠点であったニューアムステルダムに逃れたのが起源となります。 翌1655年には、富裕なユダヤ商人5人がニューアムステルダムに到来し、商売を始めます。その後、1667年には、第二次英蘭戦争で英国が勝利を収め、オランダはニューアムステルダムを含む北米植民地を英国に割譲し、ニューアムステルダムはニューヨークと改称されました。 1660年代のニューヨークの人口はわずか1000人ほどでしたが、そこで話されていた言語は18種類。それほどまでに多種多様な人々が入り混じって生活しており、ユダヤ教徒がその信仰のゆえに排除されることも、他の北米植民地に比べて少なかったため、ユダヤ人/ユダヤ教徒がニューヨークに集まるようになり、1729年には北米最初のシナゴーグも建立されましたが、この建物は現存していません。 今回ご紹介の切手に描かれたトーロ・シナゴーグのあるロードアイランド州は、1636年、マサチューセッツ湾植民地で宗教的迫害を受けた神学者のロジャー・ウィリアムズがナラガンセット族の酋長カノニカスから贈られた土地に設立した“ロードアイランド植民地”が起源で、その設立の経緯から、“公共の事項”における多数決の原則と“良心の自由”をコミュニティの基本理念としていました。 ロードアイランド南東部の港湾都市だったニューポートには、1658年、カリブ海の英領ないしは蘭領から、スペインもしくはポルトガル系のユダヤ人15家族が移住。そこからユダヤ系のコミュニティが形成され、1763年には、北米2番目のシナゴーグとして、ニューポートにトーロ・シナゴーグが建立されました。ちなみに、トーロという名は、シナゴーグの建立を指揮したオランダ出身のラビ、アイザック・トーロにちなむものです。 なお、米国におけるユダヤ人/ユダヤ教徒の歴史については、拙著『みんな大好き陰謀論』でもその概要をまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 * 昨日(18日)の文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」の僕の出番は、無事、終了いたしました。お聞きいただきました皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。なお、次回の出演は10月16日(金)の予定ですので、引き続き、よろしくお願いします。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 9月26日発売!★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-18 Fri 01:23
以前からご案内しておりました拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』(扶桑社 奥付上の刊行日は2020年9月30日)の現物ができあがりましたので、一言、ご挨拶申し上げます。(画像は表紙カバーのイメージ。クリックで拡大されます)
いまから1年前の2019年9月16日、南太平洋の島国、ソロモン諸島が台湾と断交し、中国と国交を樹立しました。ソロモン諸島という国名にはなじみがなくても、同国の最大の島がかつての激戦地、ガダルカナル島だといえばイメージしやすいのではないかと思います。 いうまでもないことですが、“激戦地”は、その時々の戦略上の要衝であるが故に、交戦国は大きな犠牲を払うことを厭わず、死守ないしは奪取しようとした土地です。先の大戦でのガダルカナルの戦いに関しては、日本軍がここを掌握することで、太平洋における連合国の拠点であったオーストラリアを孤立させようとしたのに対して、連合国側はガダルカナルを確保することで日本の勢いを封じ込め、攻守の転換に成功しました。 そんなガダルカナル(を含むソロモン諸島)を外交的に取り込んだことで、中国は、年来の親中国家であるヴァヌアツを起点に、ソロモン諸島→パプアニューギニア→東ティモールを結ぶ親中国家のリンクを形成することに成功し、事実上のオーストラリア包囲網を構築したにも等しい状況にあるといえましょう。 さらに、ソロモン諸島に続き、同年9月20日にはキリバスが台湾と断交しています。キリバス領内には、やはり、先の大戦中の激戦地であったタラワ環礁があります。 戦史を振り返ってみれば、ガダルカナルを含むソロモン諸島方面で勝利を収めた米軍は中部太平洋の拠点を確保すべく、タラワの戦いで日本軍と壮絶な戦いを展開してギルバート諸島(=キリバス)を制圧。その後、ギルバート諸島は日本の委任統治領であったマーシャル諸島攻略の拠点として使われました。 したがって、オーストラリア包囲網からウイングを北に伸ばし、キリバスを影響下に置いた中国の戦略は、先の大戦での日本軍と連合国の双方の戦略をミックスしたものであり、彼らが日本を攻略しようという意図を持っているなら、まさに 歴史的な先例を忠実になぞっていると理解すべきでしょう。 昨今、中国の艦船がわが国の領土である尖閣諸島周辺の領海を日常的に侵犯していることは、多くの日本人から安全保障上の脅威と受け止められています。たしかに、その認識は正しいのですが、上記のような現状を考えれば、尖閣諸島のある南西方面からの脅威と併せて、先の大戦中の米軍の進路をなぞる南東方面からの脅威についても鈍感であっていいはずがありません。 これに対して、わが国では、“ガダルカナル”の物語は、あくまでも昭和戦史の一齣であり、日本軍のガダルカナル撤退(ガ島転進)をもって、わが国とガダルカナルの濃密な関係は終了したと理解している人が大半ではないでしょうか。 もちろん、戦力の逐次投入の愚を象徴する事例として、ガ島転進の故事を引用することは十分に意義のあることです。しかし、ガ島転進の印象が強烈すぎることもあって、ガダルカナル(とソロモン諸島)は歴史用語として凍結保存されてしまったきらいがあることは否定できません。その結果、多くの日本人の視界から“現在のガダルカナル”は長きにわたって抜け落ちたままになり、一部の漁業者等を除き、第二次大戦後のガダルカナルにおいて、日本の存在感は希薄なままでした。その結果、中国が南太平洋に進出してオーストラリア包囲網を形成し、そこから日本に圧力をかける地歩を築く土壌を育まれてしまったのです。 ソロモン諸島をめぐっては、今月(2020年9月)に入ってから、昨年の台湾との断交に反対するマライタ州のダニエル・スイダニ主席がソロモン諸島からの独立を問う住民投票を実施すると発表し、これを阻止しようとするホニアラ(ガダルカナル島)の中央政府との間で緊張が高まっています。ここに、中国と西側諸国との対立が絡み合い、まさに現在の“冷戦”の最前線といった様相を呈しており、今後、不測の事態が発生する可能性も否定できません。 本書は、こうした状況を踏まえ、第二次大戦中のガダルカナル攻防戦のみならず、ガダルカナル島を中心としたソロモン諸島の近現代史を通観することで、日本、米国、中国、オーストラリアなど、関係各国の南太平洋の要衝をめぐるこれまでの動きと、未来の構図を明らかにしようとしたもので、ぜひ、一人でも多くの皆様にお手に取っていただきたく存じます。 つきましては、書店などで本書を見かけられましたら、ぜひ、お手に取ってご覧いただけると幸いです。また、この記事をお読みの方で、ご自身の関連するメディアなどで本書をご紹介いただける場合には、資料等をお送りいたしますので、本ブログ右側のメールフォームにて、お気軽にご連絡ください。 なにとぞよろしくお願い申し上げます。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 9月18日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 9月26日発売!★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-17 Thu 01:42
1890年9月16日、和歌山県沖で発生したエルトゥールル号事件から130周年のきのう(16日)、串本町大島の慰霊碑前で追悼式典が行われました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2015年4月1日、トルコが発行したエルトゥールル号事件125周年の記念切手のうち、エルトゥールル号の乗員の集合写真を取り上げた1枚です。 1889年、オスマン帝国政府は、1887年の小松宮彰仁親王のイスタンブル訪問の答礼として、オスマン・パシャをスルターン(アブデュルハミト二世)の正使とする親善訪日使節団の派遣を決定。あわせて、軍艦エルトゥールル号の航海演習を行うこととしました。 しかし、当時のオスマン帝国の海軍政策は海防が中心で遠洋航海の準備はなく、また、派遣されるエルトゥールル号も1863年建造の木造老朽艦で、海軍としての予算も貧弱でした。したがって、日本への軍艦の派遣は、オスマン帝国海軍の実力からすると明らかに無謀な試みとみられていました。 それにもかかわらず、アブデュルハミト二世がエルトゥールル号の派遣に踏み切った背景は、これを汎イスラム主義のプロパガンダにしようという意図がありました。すなわち、列強諸国の支配下にあるイスラム地域の主要港を、イスラム世界の盟主であるオスマン帝国の軍艦が寄港すれば、各地のムスリムはこれを歓呼して迎え、その結果として、スルターンの威信は高まると考えたのです。 かくして、1889年7月14日、イスタンブルを出港したエルトゥールル号は、苦難の航海を11ヵ月つづけた後、1890年6月7日、横浜に入港。同月13日、オスマン・パシャはスルターンの親書と勲章を明治天皇に奉呈し、特使としての任務を果たしました。 その一方で、長旅でエルトゥールル号の乗員は疲弊しきっており、船内の劣悪な衛生環境の中で、乗員にはコレラが流行。親書の奉呈が終わった後も、すぐに帰国できるような状況ではありませんでした。 このため、一行はしばらく日本に滞在したものの、9月15日、横浜を出港。時あたかも日本は台風の季節で、日本側は天候を理由に帰国の延期を勧告しましたが、オスマン帝国側は帰国を強行しました。日本滞在が長期化すれば、国際社会から「オスマン帝国海軍には帰国の能力がない」と見なされ、スルターンの毛にを傷つけることを恐れたためです。 はたして、9月16日、エルトゥールル号は熊野灘を航行中、暴風雨に遭い、紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突して座礁。機関部に浸水して水蒸気爆発を起こして沈没しました。これにより、司令官オスマン・パシャをはじめとする600名以上が海へ投げ出され、生存者はわずか69名しかいませんでした。 事件の報に接した日本側は、官民あげて遭難者の救助と慰霊に全力を尽くし、大島村(現串本町)樫野の住民は、自分たちも台風の最中で食料の蓄えが乏しかったにもかかわらず、浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリを供出。明治天皇は、政府に対し、可能な限りの援助を行うよう指示し、全国から多くの義捐金・弔慰金も寄せられます。 その後、10月5日、生存者は東京を出航した日本海軍の「比叡」と「金剛」に収容され、翌1891年1月、無事、イスタンブルに生還。これら一連の事件は、その後の、トルコ国民の親日感情の端緒となったといわれています。 今回の式典は、新型コロナウイルス対策のため、参加人数を制限したうえ、日土両国をオンラインでつなぎ、両国の代表者のメッセージが映像で披露されたほか、串本町長夫妻が慰霊碑に献花し、犠牲者を偲んだそうです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 9月18日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 9月26日発売!★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-16 Wed 03:07
きょう(16日)は、1975年9月16日にパプアニューギニア独立国がオーストラリアから独立したことにちなみ、パプアニューギニアの独立記念日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1952年10月30日、豪委任統治領パプアニューギニアとして発行された最初の切手のうち、弓矢で魚を取ろうとする現地住民を描く1ポンド切手です。 ニューギニア島は、1511年にポルトガルの航海士ダブロが“発見”し、1526年にはスペインの探検家メネゼスが最初に上陸。1546年にはスペインが島の領有権を主張したのをはじめ、1793年には英国東インド会社が島全体の領有を主張し、さらに、1828年には英国に対抗してオランダ東インド会社が島の西半分を領有するなど、列強の勢力角逐の場となっていました。 ただし、各国による領有権の主張とは裏腹に、気候が厳しく天然資源にも恵まれない島の開発はなかなか進まず、19世紀までは“領有”は名目的なままに放置されたままでした。 こうした状況の下で、1873年、ハンブルクの民間会社ゴーデフロイ商会が島に上陸し、マトゥピを拠点に交易を開始。1875年には、ドイツの軍艦“ガゼル”が近海の島々を探検し、1878年には軍艦“アリアネ”がビスマルク諸島ニューブリテン島の一部を原住民から購入しています。その後、ゴーデフロイ商会は経営難に陥ったため、1880年にベルリンの銀行家アドルフ・フォン・ハンゼマンが設立した“南洋商事会社”がゴーデフロイ商会の経営権を継承。1884年11月には軍艦“エリザベート”がマトゥピに寄港し、同地のほか、ビスマルク諸島やアドミラルティ諸島の各地にドイツ国旗を掲揚しました。 これに対抗して、同年、英国もニューギニア本島南東部のポートモレスビーにユニオンジャックを掲揚。かくして、ニューギニア島は、オランダが西部を、東部ではドイツがほぼ北半分を、英国がほぼ南半分を領有することになります。 このうち、英領部分に関しては。1901年のオーストラリア連邦の結成を経て、1902年にはオーストラリア連邦の支配下に置かれます。そして、1905年のパプア法成立により、英領ニューギニアはパプアと改称され、1906年以降、正式にオーストラリアの統治が始まりました。 一方、独領部分は、1914年8月、対一次大戦が勃発すると、オーストラリア軍によって占領され、大戦後は国際連盟によりオーストラリア委任統治領のニューギニアとなります。 こうしてニューギニア島東部はオーストラリアの管理下に置かれましたが、パプアとニューギニアでは別々の行政が行われ、切手もそれぞれ別のものが使用されていました。 太平洋戦争の勃発後、1942年に日本軍がニューギニア島に侵攻すると、パプア、ニューギニアの双方でオーストラリアによる民政は途絶。その後、ポートモレスビーに司令部を置いた連合国は軍政を施行し、パプアとニューギニアではオーストラリア切手が共通に使われるようになります。 そして、大戦後、オーストラリアはニューギニアの南東部と北東部を“パプアニューギニア”として単一の行政単位として統合。これを受けて、1952年に発行されたのが今回ご紹介の切手です。なお1953年3月1日までは引き続きオーストラリア切手も有効とされていました。 その後、1964年の住民議会設置を経て、1973年に内政自治に移行。1975年9月16日、英連邦の一国として現在のパプアニューギニア独立国が成立し、現在にいたっています。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 9月18日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 9月26日発売!★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-15 Tue 01:24
きのう(14日)投開票が行われた自民党の総裁選で、菅義偉官房長官が、岸田文雄政調会長、石破茂元幹事長を破り、当選しました。菅新総裁は、あす(16日)午後に召集される臨時国会で首相に選出される見通しです。法政大学出身の総理大臣は菅氏が初めてということで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、いわゆる文化人切手のうち、“法政大学初代総理”の梅謙次郎を取り上げた1枚です。 梅謙次郎は、1860年7月24日(万延元年6月7日)、松江藩(現・島根県松江市)藩医・梅薫の次男として生まれました。12歳にして藩主の前で日本外史を講じて褒章を受けるなど神童として知られ、東京外国語学校仏語科を首席で卒業した後、司法省法学校でフランス法を学び、こちらも首席で卒業しました。ちなみに、司法省法学校時代には、1週間で仏文教科書300ページを完全に暗記し、試験の答案にそのまま再現したため、カンニングを疑われ減点されたというエピソードもあるほどです。 1886年、文部省の国費留学生としてフランス・リヨン大学に留学し、1889年、博士号を取得。さらに、同年、ベルリン大学で学び、1890年に帰国すると帝国大学教授となりました。日本国内では、お雇い外国人のボアソナードがフランス民法を基礎に立案した旧民法が1890年公布、1893年に施行される予定となっていましたが、「民法出デテ忠孝亡ブ」と主張する穂積八束らの反対で、旧民法の施行延期と即時断行をめぐる“民法典論争”が発生。梅は、裁判実務の統一ならびに不平等条約改正に有用との立場から断行派として論陣を張りましたが、1892年の帝国議会は施行を延期を可決してしまいます。これを受けて、あらためて、日本人起草委員のみによる民法典の編纂事業が行われることになり、1893年、法典調査会が設立されると、穂積陳重・富井政章とともに民法典の起草委員に就任。彼らの起草した民法典は1898年7月16日から施行され、梅は“日本民法典の父”の筆頭に挙げられています。 ところで、留学からの帰国に際して、梅は帝国大学法科大学教授の職務に専念するため、私学には出講しないつもりでしたが、外国語学校時代の恩師、レオン・デュリー門下の富井政章(ただし、デリューが京都仏学校時代の教え子)やリヨン留学時代に世話になった本野一郎(1889年、東京法学校と東京仏学校が合併して創立された和仏法律学校の講師)が、横浜港の船内まで出向いて懇請したため、和仏法律学校の学監を無報酬で引き受けることになりました。以後20年間に渡り、梅は、学監、校長として学校運営に尽力。1903年、専門学校令が発せられると、和仏法律学校を法政大学と改称し、“初代総理”となりました。ちなみに、法政大学の“総理”は梅のみで、2代目の松室致と3代目の秋山雅之介は“学長”、4代目の水町袈裟六以降は“総長”がトップの肩書となっています。 1897年には東京帝国大学法科大学学長となり、以後、法制局長官、内閣恩給局長、帝室制度調査局御用掛、文部総務長官などの要職を歴任。さらに、伊藤博文の信任を得て、1906年、韓国統監時代の伊藤の嘱託を受けて韓国政府の法律顧問となり、諸法典の起草にあたりましたが、1910年8月25日、病のため京城(ソウル)にて客死しました。 なお、文化人切手の人選に際して、当初、梅はその候補者に入っていませんでしたが、郵政審議会会長で法学者の末弘厳太郎の推薦により、急遽、切手に取り上げられることになり、1952年の命日にあたる8月25日、今回ご紹介の切手が発行されました。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 9月18日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-14 Mon 01:49
公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2020年9月号が発行されました。僕の連載「切手歳時記」は、今回は、この切手を取り上げています。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1977年4月20日に発行された切手趣味週間の切手で、MOA美術館所蔵の『機織図屏風』が取り上げられています。 『機織図屏風』は、庭先で糸をつむぐ娘を画面中央に立たせ、その右に機を織る女性とそれを手伝う少女、画面左上には縁先で絞り染めをする2人の女性を描き、これに菊、ススキ、朝顔などの秋草を配した作品で、いわゆる職人尽図の形式を借りた美人画・風俗画の傑作のひとつに数えられています。作者は不詳ですが、女性の髪形や装束、草花の描かれ方などから、江戸時代の初期、元和・寛永(1615-44年)の頃に活躍した岩佐派の画風を学んだ画家の手になるものと考えられています。 また、現在伝えられているのは切手に取り上げられた二曲一隻のみですが、おそらく、当初はこれと対をなしていたと考えられる他隻があったはずで、そこには、桜の季節の婦女遊楽図が描かれていた可能性が高いとみられています。 ところで、日本では基本的に機織りの作業は屋内で行われますから、よほどの陋屋でもないかぎり、織物工房の室内に秋草が茂っているということは考えにくいと思います。したがって、「機織図」の題材は、女性の労働風景になぞらえて、別の題材を表現した“見立絵”と考えてよいでしょう。 現在の日常語としてはすっかり忘れられていますが、“はたおり”という言葉には、織物を作ること以外に、キリギリスの意味もあります。ちなみに、秋の虫を意味する古語は少しややこしくて、鳴く虫の総称が“こほろぎ(蟋蟀)”、現代語のコオロギを意味するのが“ぎす(螽蟖、きりぎりすとも)”で、現代語のキリギリスは“はたおり(機織)”または“はたおりめ(機織女)”と呼ばれていました。「ギィース、チョン」という虫の音が、ギッコンバッタンの機織りの音に似ているとされたのが由来とされています。 初秋に虫の音を楽しむ風習は万葉の昔からあって、『枕草子』の「春はあけぼの」にも「秋は夕暮れ」として「日入りはてて、風の音、虫の音など、はたいふべきにあらず」との一節がありましが、特に、“はたおり”については、『拾遺和歌集』にある紀貫之の歌、「秋来ればはたをる虫のあるなへに唐錦にも見ゆる野辺哉」が有名です。 貫之の歌は、虫と労働の“はたおり”の二つの意味をかけていて、機織の女性が丹精込めて華やかな錦を作り上げていく姿になぞらえ、“はたおり”の虫がひと鳴きするごとに秋が深まり、紅葉の時季へと移っていく感興を詠んだものです。 あらためて「機織図」を見てみると、描かれている女性たちは、いわゆる機織りだけでなく、糸操り、管巻き、くくり染めなどのさまざまな作業をしており、秋草に囲まれて織物を仕上げている構図になっていて、“はたおり”の虫の音が紅葉の錦につながっていくという貫之の歌のモチーフとも重なっています。 「女三人寄れば姦しい」という言い回しは、井戸端会議の女性がひっきりなしに喋りまくっている光景を男の目線で表したのがはじまりだそうですが、おそらく、「機織図」の女性たちもあれこれ他愛のない話をしながら作業を進めていたにちがいありません。なにせ、くさむらの“はたおり”は、この時季、鳴くのも仕事の一つなのですから。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 9月18日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-13 Sun 03:29
トランプ米大統領は、11日(現地時間)、イスラエルとバハレーン(バーレーン)が国交正常化に合意したと発表しました。イスラエルとアラブ諸国との国交樹立は、8月13日のアラブ首長国連邦(UAE)に続き、4ヶ国目です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2003年、シャルム・シェイクでのアラブ連盟首脳会議に合わせてバハレーンが発行した記念切手(22の加盟国・地域を取り上げた22種セット)のうち、“パレスチナ”を取り上げた1枚で、エルサレムの象徴として岩のドームも取り上げられています。 2002年3月、ベイルートで開かれたアラブ連盟首脳会議で、サウジアラビア(以下、サウジ)のアブドゥッラー皇太子は“アラブ平和イニシアティヴ”と呼ばれる中東包括和平案を提唱。その骨子は、①イスラエルは1967年の第3次中東戦争で得た全占領地から撤退、②帰還権を認めた国連決議194号(1949年にイスラエルが国連に加盟する際に採択)に基づくパレスチナ難民問題の公正な解決、③東エルサレムを首都とするパレスチナ独立国家の樹立、を条件に、全アラブ諸国がイスラエルとの関係を全面的に正常化するというものでした。 今回ご紹介の切手を発行したバハレーンは、王家のハリーファ家がサウジのサウード家と同じくアナイザ族出身ということもあって、サウジアラビアの強い影響下にあり、事実上の保護国ともいわれている国ですが、サウジに比べると宗教的な規制はかなり緩く(たとえば、外国人の飲酒や西洋音楽も認められています)、サウジにとって“長崎の出島”のような存在となっています。このため、この切手のデザインもサウジの意向を反映して、アラブ平和イニシアティヴの最終的な目標としてパレスチナ国家の樹立をイメー時させる内容となったものと考えてよいでしょう。 もともと、サウジ政府は、イスラム原理主義者の不満が対米協調路線を採っている(とされる)サウード王室に向かわないよう警戒を続けており、1980年代には、イスラム原理主義に傾斜した国内の不満分子を“義勇兵(ムジャーヒディーン)”としてソ連軍侵攻下のアフガニスタンに送り込むことで、国内の不安定要因を物理的に除去してきました。かのビン・ラーディンも、もともとはサウジ国内有数の建設会社の創業一族の御曹司であり、敬虔なムスリムとしてアフガニスタンでのムジャーヒディーン闘争に関与することで、結果的に、反米・反イスラエル・反サウジのテロリズムに傾斜していったという経緯があります。 したがって、ハマースをはじめとするイスラム武装組織がパレスチナで台頭すれば、そのことが国内外のイスラム過激派勢力、特にサウジの対米協調路線に対する攻撃に転化しかねないという懸念がありました。 さらに、ペルシャ湾の覇権をめぐって長年の対立関係にあるイランは、レバノンを拠点に反イスラエル闘争を展開しているヒズブッラー(ヒズボラ)を明確に支援しているほか、ハマースに対しても武器弾薬を提供していました。このため、サウジとしては、イランの勢力伸長を抑えるためにも、パレスチナ和平に積極的に関与せざるを得なくなったという事情がありました。 一方、米国のブッシュJr大統領は、2002年6月24日、サウジの提案を受けて、「パレスチナが独立国家としてイスラエルと平和的に共存することを求める」と演説。この認識をもとに、翌2003年4月、米国、ロシア、EU、国連の4者が、イスラエルとパレスチナの双方に、新しい和平プロセスとして、以下の三段階からなる“ロードマップ”を提示します。すなわち、 第一段階:パレスチナ側の過激派の解体とイスラエル側の入植活動の停止、パレスチナの市民生活の正常化と制度構築、イスラエル軍の(第二次インティファーダが勃発した)2000年9月以前の位置まで撤退 第二段階:2003年中に暫定的な国境をもつパレスチナ国家の樹立 第三段階:国境線の画定と難民問題の話し合い ロードマップでは、上記のプロセスを経て、2005年末を目途に、パレスチナ国家の正式な樹立を実現することを謳っており、2003年6月4日、ヨルダンのアカバで行われた米・イスラエル・パレスチナ自治政府の3者会談では、ロードマップを実行することで合意が成立。サウジとエジプト、ヨルダンもロードマップへの支持を表明し、7月1日には、エルサレムでイスラエルとパレスチナの双方がロードマップ和平交渉の開始を正式に宣言しました。 しかし、ハマースをはじめとする和平そのものに反対する勢力は、ロードマップ和平交渉の開始に激昂し、反イスラエルのテロ活動を継続。パレスチナ自治政府はこれを抑えきれず、イスラエル側も治安上の理由から占領地内の分離壁の建設を継続したこともあって、和平交渉は頓挫してしまいます。 ところで、2010年以前のバハレーンは、イスラエル国家の存在そのものを認めず、イスラエルとは一切の接触を拒否するというアラブ連盟の建前を維持しており、両国の接触はほぼない(例外は、1994年9月のイスラエルの環境相がバハレーンでの国際会議にオブザーバー参加と、2007年10月の国連総会に合わせて訪米したバハレーンのハリド・アル・ハリーファ外相とイスラエルのリヴィニ外相との会談)とされていました。 ところが、2011年2月、エジプトの反政府デモに呼応し、首都マナーマでもシーア派の国民を中心に民主化を要求する反政府デモがおこり、いわゆるバハレーン騒乱へと発展しました。 じつは、バハレーン王家のアール・ハリーファ家はスンナ派でサウジの影響下にありますが、国民の75%はシーア派です。このため、2011年のバハレーン騒乱では、少数派のスンナ派が政治やビジネスなどの面で優遇されているのに対して、多数派のシーア派は公務員や警察への登用での差別があり、貧困層も多いことなどへの不満が爆発したという面がありました。バハレーンのシーア派の大半はアラブで、イラン系は8%にすぎませんが、イランは「バハレーンは歴史的にイランの領土だった」と主張していることもあり、カタール王制としては、対岸のシーア派国家イランが国内の不満層を扇動し、体制が動揺することは何としても避けなければなりません。はたして、バハレーン騒乱じたいは、3月18日までにサウジの軍事介入で一応終息したものの、対岸のイランがバハレーンに介入してきた場合、サウジの軍事力でこれを撃退することは事実上不可能です。 こうした状況の中で、前年(2010年)11月に発生した米外交公電ウィキリークス流出事件の余波で、2005年2月のバハレーンがイスラエルと国交正常化に向けて秘密交渉を行っていたことが暴露されます。それによると、ハマド・ビン・イーサ・アール・ハリーファ国王がモサドの関係者と秘密裏に接触し、バハレーンがイスラエルとの国交正常化に向けて準備していることを明かしたうえで、国王はバハレーン政府の公文書で、イスラエルのことを”敵国”、“シオニスト国家”と記さないよう指示する一方、パレスチナ国家の樹立後には、まず経済関係を正常化する意向を示したとされています。実際、国王とモサド関係者との会談の前年に当たる2004年には、バハレーンは米国との貿易協定を結んでおり、米国経由でのイスラエルとの貿易取引が事実上可能になっていました。 ところで、当時の米国はイランに対して宥和政策を採っていたオバマ政権の時代で、2015年7月には、いわゆる核合意が成立。同年11月にはイラン産原油の禁輸措置が解除されています。 これに対して、2017年に発足したトランプ政権は、オバマ政権の対イラン政策を根本的に見直すため、同年5月、サウジの首都、リヤドにイスラム諸国55ヵ国を集めてイラン問題を討議するためのイスラム諸国会議を開催しましたが、会議後、バハレーンと敵対関係にあり、サウジに対する抑止力としてイランとも比較的良好な関係を保っていたカタールのタミーム現首長が、「米大統領とサウジ国王はイランを世界の主要テロ支援国と名指しし、反イランの機運を醸成している」と非難するとともに、ハマースを支持する発言も行ったとの主旨の報道が流れます。 報道内容について、カタール政府は事実関係を否定し、ハッキング被害に遭ったものだと主張しましたが、6月5日、上記の報道を理由に、長年の宿敵であるバハレーンがカタールとの国交断絶を宣言し、これに、サウジ、エジプト、UAEが続き、さらにイエメン、モルディヴ、リビア臨時政府が加わるというかたちになりました。 こうした情勢の変化を受けて、2017年9月18日、バハレーン政府はイランの脅威に備えることを最優先にするとの立場から、アラブ連盟のイスラエル・ボイコット政策を批判。国王は、ロサンゼルスでサイモン・ヴィーゼンタール・センター主催のハヌカーイベントに参加し、仮に両国間に外交関係がなくても、バハレーン国民にはイスラエルを訪問する資格があると発言します。ちなみに、古くからユダヤ教徒のコミュニティがありましたが、その多くは、イスラエル建国後、アラブ諸国のイスラエル・ボイコットの影響でバハレーンを脱出。しかし、2017年の時点でも30人程度のユダヤ人/ユダヤ教徒が残っており、国王の発言は、彼らのイスラエル訪問への道を開くものというのが建前でした。 さらに、2018年5月8日、米国がイラン核合意から脱退すると、サウジ、UAE、バハレーンの三国は直ちにこれを支持する声明を発表。これを受けて、バハレーンはイランの脅威に対抗するため、イスラエルとの関係を強化する方向に動き始め、バハレーン外務省は、イランに対するイスラエルの“自衛権(の行使)”を支持する声明も発表しました。翌2019年2月には、ワルシャワで安全保障に関する国際会議が開催され、イラン問題が中心的な議題の一つとして取り上げられると、バハレーンはじめ湾岸諸国とイスラエルは共にこれに参加しています。 この間、トランプ政権は、1967年の第3次中東戦争から半世紀が経過したことを踏まえ、2017年12月6日、エルサレムをイスラエルの首都と認め、翌2018年5月14日にはイスラエル建国70周年に合わせて、米国大使館をエルサレムに移転しています。これに対して、アラブ諸国の大半は形式的には反発したものの、実質的に現状追認の姿勢をとったため、UAEとバハレーンは、イランの脅威に備えることを最優先課題として、イスラエルとの国交正常回向けて具体的に動き始めます。 そして、2020年8月13日、UAEとイスラエルの国交正常化が発表され、イスラエルはヨルダン川西岸のユダヤ人入植地などの併合計画の一時停止に合意。これを受けて、バハレーンは直ちに「両国の国交正常化は地域の平和と安定に寄与するであろう」と歓迎の声明を発表するとともに、イスラエル機の上空通過を承認しました。 さらに、9月9日にオンラインで開催されたアラブ連盟の定例外相会議では、イスラエルとUAEの国交正常化合意について討議されましたが、パレスチナ自治政府が求めた非難声明は採択されなかったことから、11日、バハレーンも、イスラエルとの国交正常化に踏み切ったというわけです。 なお、バハレーンの事実上の宗主国であるサウジは、その領内にメッカとメディナというイスラムの二大聖地を擁し、“イスラムの守護者”を自称しているという立場もあって、現時点では、イスラエルとの国交正常化には慎重な姿勢をとっていますが、今後は、彼らにとっての“長崎の出島”にあたるバハレーンを活用して、イスラエルとの関係を強化していこうとするのではないかと思われます。 なお、パレスチナとサウジやバハレーンの歴史的な関係については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもいろいろまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 9月18日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-12 Sat 03:00
きょう(12日)は“宇宙の日”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1964年11月7日、ロシア革命記念日にあわせてキューバが発行した“レーニン没後40年”の記念切手のうち、レーニンの肖像とスプートニク1号を組み合わせた1枚です。 1962年のミサイル危機(キューバ危機)は、最終的に、米国がキューバに侵攻しないことを保証し、トルコのミサイル基地を撤去する代償として、ソ連はキューバのミサイル基地を撤去することで決着しました。ただし、当時、米国の譲歩は公表されなかったため、一般には、ミサイル危機は、米国の毅然たる態度の前に、ソ連が“一方的な譲歩”をしたことで核戦争が避けられたとの印象を与え、このことは社会主義陣営の亀裂を、修復しがたいものとしました。 すなわち、スターリンの死後、ソ連のフルシチョフ政権は米国との勝ち目のない全面戦争を回避するために対米宥和路線を打ち出していましたが、このことは、中国をはじめとするアジアの社会主義諸国からは“変節”ととらえられました。中国にすれば、彼ら自身が1953年まで朝鮮の戦場で米軍との死闘を展開していただけでなく、北ヴェトナムや北朝鮮などの友邦が、冷戦の最前線として、“アメリカ帝国主義”の脅威に直接さらされていたからです。 それゆえ、ミサイル危機の結果を目の当たりにしたアジアの共産主義国家は、ソ連に対する失望感を深め、キューバの反米闘争を支援するとの表現で、“修正主義”のソ連と一線を画す意思を示すようになります。 こうした状況の下、キューバ革命の指導部でも、チェ・ゲバラはソ連の“修正主義”を批判する中国への傾斜を強め、ソ連に頼らない“自力更生”路線を主張。これに対して、ソ連はゲバラを危険視し、フィデル・カストロに対してゲバラの排除を求めるとともに、カストロとの関係改善を模索します。 一方、ミサイル危機以降のカストロは、米国の経済封鎖もあって慢性化しつつあった経済的苦境から脱出するためにも、経済援助と引き換えに、ソ連との妥協の道を選ぶ意思を固め、1963年5月、関係改善を望むソ連の招待を受けてもモスクワを訪問。フルシチョフはカストロを歓待し、群衆を動員しての歓迎イベントを行ったほか、ソ連邦英雄称号、レーニン勲章などの栄誉を与えます。そして、ミサイル危機の最中に、ケネディと交わした書簡をカストロに読ませ、キューバにおけるカストロの地位を保証することを約束しました。 これに応えて、5月19日(ホセ・マルティの忌日)、カストロはモスクワの赤の広場に集まった10万の観衆の前で、以下のように宣言します。 昨年10月のミサイル危機では、ソ連の介入で米国はようやくキューバ侵攻を断念した。危機の解決をめぐって、キューバの敵側ではさまざまな論争が起こった。しかし、何はともあれ、戦争を回避することはできたのだ。 こうして、カストロとフルシチョフの和解が成立し、キューバは中ソ対立においてはソ連を支持するという立場を明確にします。今回ご紹介の切手もそうした文脈に沿って発行されたもので、ロシア革命記念日にレーニンを讃える切手を発行することに加え、宇宙開発におけるソ連の優位の象徴としてスプートニク1号を描くことで、カストロ政権の親ソ的な性格が明確に表現されています。 これに対して、1964年12月、ゲバラは国連総会での演説で“帝国主義との全面的な戦い”を宣言。さらに、1965年2月、アルジェで「先進国と発展途上国という二つのグループ国家の間にこのような関係を作り上げようというのであれば、たとえそれが社会主義諸国であったとしても、ある意味では帝国主義者の搾取の共犯者だと認めねばなるまい」として、名指しこそ避けたものの、ソ連を批難しました。 そして、アルジェからハバナに戻ったゲバラは、カストロとの話し合いの末、革命政府の閣僚の地位を捨て、カストロをはじめ関係者宛に「別れの手紙」を書き残し、キューバを出国することになります。 この辺りの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 9月18日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-11 Fri 04:49
今月5日、SNSのTikTokで1500万人以上のフォロワーを抱えるフィリピンのベラ・ポーチさんが自らのタトゥ(下の画像)を公開したところ、韓国人ユーザーから「旭日旗を連想させる」との批判が殺到し、翌6日、ポーチさんが謝罪に追い込まれる事件がありました。
ところが、ポーチさんの謝罪後も、一部の韓国人ユーザーはフィリピン人に対して、「教育を受けられていない」、「背が低くて貧しい」などと差別的な発言を執拗に繰り返したことから、フィリピンでは反韓国感情が爆発。9日にはツイッターで#Cancel Korea(韓国をキャンセルする)のツイートが35万件以上書き込まれたほか、10日にも韓国に対する怒りのツイートが10万件以上書き込まれる騒動になっているそうです。 というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1998年、エミリオ・アギナルドによる独立宣言100周年を記念してフィリピンが発行した切手シートのうち、フィリピン国旗を題材にした1枚で、シートの余白には独立宣言とその時代を説明する以下のような文言が記されています。 1892年7月7日、カティプーナンとして知られる秘密結社が生まれました。創立者はアンドレス・ボニファシオです。その使命は、全てのフィリピン人を団結させ、外国の支配によって長年搾取されてきた祖国解放の一助とすることです。カティプナンの有名なメンバーの一人に、エミリオ・アギナルドという愛国者がいました。1898年6月12日、エミリオ・アギナルド将軍はカヴィテで歴史的な儀式を行い、フィリピンの独立を宣言しました。 なお、シートの切手で、女性が手にしているのが、独立宣言以来のフィリピン国旗で、その右側、3つのKを山形に配した旗が1892-96年のカティプナン旗、上部に描かれているのが、顔のついた太陽を描くアギナルドの革命旗(1897年)です。 さて、現在のフィリピン国旗のデザインは、白は平等と友愛を、青は平和、真実と正義を、赤は勇気と愛国心を象徴し、黄色い太陽は自由を意味するとされています。また、太陽の周囲に配された3つの星は、ルソン島・ミンダナオ島・ヴィサヤ諸島を、太陽から伸びる8本の光条(それぞれが細い3本の光条で構成)は、独立革命の際、最初に武器を取ったルソン島内の8州(パンパンガ州、ブラカン州、リサール州、カヴィテ州、バタンガス州、ラグナ州、タルラック州、ケソン州)を表しています。このうちの太陽は、それ自体がフィリピンの象徴として、国旗だけでなく、国章などにも広く利用されていることは理解しておく必要があります。 ポーチさんが太陽の光をイメージさせるタトゥを入れたのも、おそらくは、フィリピン人として自国の象徴としての太陽のイメージを意識したためと考えるのが自然で、それを日本の旭日旗と結びつけて批判するのはあまりにも短絡的な思考とのそしりを免れないでしょう。 そもそも、旭日旗は太陽(光)をデザイン化したものとして、“日の本”のわが国では、官民を問わず広く使われてきたものですし、諸外国でも、太陽(光)の表現として光条を配するデザインは無数にありますし、ほかならぬ韓国の切手にも朝鮮半島の背景に放射状の光条が描かれているデザインのものだけでなく、大韓聖公会100周年の記念切手のように(下の画像)、より旭日旗に似たデザインの切手さえあります。 したがって、基本的には日本との関係が深いわけでもない外国人が太陽(光)のイメージで光条のデザイン使ったからといって、それを“戦犯旗(旭日旗を否定する立場からの呼称)”として非難するのはナンセンスであり、ましてや、今回のフィリピンの太陽のように、それがその国の人に取っても重要なシンボルである場合、縁もゆかりもない韓国人がいきなりクレームをつけ、さらに差別的な言動を繰り返すということであれば、攻撃された側が戸惑い、不快に思うのは当然のことです。 今回の騒動を機に、いい加減、明らかに旭日旗とも無関係なものをも含め、光条のデザイン全般へのヒステリックな条件反射に対して、韓国社会でも反省の声が上がってほしいのですが、まぁ、難しいでしょうね。 * 昨日(10日)、アクセスカウンターが224万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-10 Thu 02:06
第二次大戦中の1940年4月9日、ドイツ軍のノルウェー侵攻作戦に参加したドイツの大型艦のうち、唯一沈没場所が不明だった巡洋艦、カールスールエが、ノルウェー沖水面下488mの海底で80年ぶりに発見されたそうです。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1930年6月20日、アフリカ方面への航海中のカールスールエの船内局で使用された消印のオンピースです。 カールスルーエは1929年11月6日に就役したドイツ海軍の軽巡洋艦で、1930年5月24日から12月12日までアフリカ方面への航海を行いました。今回ご紹介の消印はその航海中に使用されたもので、外国への航海を示す“AUSLANDSREISE”の文字と、“KARLSRUHE”の船名が入っています。ちなみに、カールスルーエの船内局では、その後、“DEUTSCHE MARINE-SCHIFFSPOST Nr. 28(ドイツ海軍艦船郵便 28)”との船名なしで番号表示の消印が使用されるようになります。 さて、第二次大戦の勃発当時、ドイツはスウェーデンから大量の鉄鉱石を輸入していましたが、スウェーデン側の積出港ルーレオは冬季には凍結してしまい、隣国で中立国のノルウェーのナルヴィク港を利用するしかありませんでした。 このため、チャーチルは、ナルヴィク近郊のノルウェーの領海に機雷を設置するとともに、ナルヴィクを占領して、ドイツに対して打撃を与えるのみならず、当時、ソ連の侵攻を受けていたフィンランドを支援することを計画。1940年4月、ドイツの輸送船を攻撃するための機雷を設置するウィルフレッド作戦を開始しました。 これに対して、ドイツは、海軍力に勝る英国よりも先にノルウェーを占領することで、鉄鉱石の輸入ルートを確保するとともに、北大西洋でのUボートなど海軍部隊の基地として活用しようと考えます。そして、1940年4月9日、“英仏の侵略から中立国を守るため”として、デンマーク(ノルウェー侵攻作戦の拠点とすることが目的でした)とノルウェーに侵攻しました。 このうち、デンマークは、ドイツ軍のコペンハーゲン上陸からわずか2時間で降伏し、ドイツの保護国となります。 一方、ノルウェーでは、4月9日、オスロ、クリスチャンサン、エゲルスン、トロンハイム、アーレンダールなど南部各地にドイツ軍が上陸作戦を開始。ドイツ軍が電撃作戦でオスロ以下の各都市を占領すると、親ナチ政党、国民連合のヴィドクン・クヴィスリングがクーデターを起こして自身を首相とする臨時政府の樹立を宣言し、ドイツ軍に対する一切の抵抗を止めるように呼びかけると同時に、「首相のヨハン・ニューゴースヴォルは抵抗を放棄し逃げ出した」と告げました。 このときの作戦では、カールスルーエは4月8日にブレーマーハーフェンを出撃し、翌9日、クリスチャンサンへの攻撃を行い、同地の占領に成功しましたが、その帰途、英潜水艦トルーアントの攻撃を受けて大きな損害を受け、乗組員らによる自沈処分が行われました。 その後、ノルウェー国王のホーコン7世とオーラヴ王太子(後の国王オーラヴ5世)、ノルウェー政府首脳はオスロを脱出してエーベルベームに逃れ、英国の支援を受けて抵抗。ノルウェー軍は、ベルゲンの陸上砲台からの砲撃によってドイツ海軍の軽巡洋艦ケーニヒスベルクを損傷させたのをはじめ、ドイツの艦艇に大損害を与えます。また、4月13日には戦艦ウォースパイト、空母フューリアスを含む英国艦隊がナルヴィク沖に達し、ドイツ駆逐艦隊を攻撃して全滅させました。 しかし、陸上での戦いは圧倒的にドイツ軍が有利で、4月末までにはノルウェーの大半はドイツ軍に占領されてしまいます。これに伴い、国王は、モルデ、トロムソへと逃れて抵抗を続けていましたが、5月10日、西部戦線でドイツ軍のフランス侵攻が始まり、6月5日にはイギリス軍はダンケルクからの撤退。こうなると、イギリスも本国の守りを固めざるを得なくなり、6月8日にはナルヴィクが陥落しました。 国王と王太子は、ナルヴィク陥落前日の6月7日、イギリス重巡洋艦デヴォンシャーでトロムソを離れ、辛くも英国に逃れましたが、翌8日、ノルウェー軍はドイツ軍に休戦を申し込み、ノルウェーはドイツの傀儡、クヴィスリング政権の支配下に置かれることとなりました。 一方、国王と王太子はロンドンに亡命政府を樹立し、レジスタンスを指導しました。また、王孫ハーラル(現国王ハーラル5世)とその母、姉妹たちは、国王より一足先にスウェーデンに亡命しましたが、ノルウェー本国では親独ヴィドクン・クヴィスリング政権がホーコン7世を廃位してハーラルを即位させようと画策。スウェーデン国内にもそれに同調する動きがあったため、母子は米国まで再亡命し、1945年までワシントンDCで過ごしています。 1945年5月9日、ナチス・ドイツが降伏すると、クヴィスリング政権は崩壊。5月16日にまずオーラヴ王太子が帰国し、ついで、6月7日、国民の歓呼の声の中、国王以下の王族も帰国を果たしました。ちなみに、クヴィスリングは国家反逆罪で逮捕された後、9月10日、裁判で死刑判決を受け、10月24日に銃殺刑が執行されています。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-09 Wed 04:05
米政府は、8日(現地時間)、中国・新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)産の綿花とトマト製品について、強制労働で生産されている疑いがあるとして輸入禁止措置を取る方針を明らかにしました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2014年10月7日、東トルキスタンでの人権侵害に直接関与しているとされる“新疆生産建設兵団”の創立60周年を記念して中国が発行した切手のうち、同兵団の主導による新疆の開発を表現した1枚で、右下には機械化された綿花(今回の禁輸措置の対象)の収穫風景が取り上げられています。 東トルキスタンは、天山山脈の雪解け水を地下壕を通じて利用できることや、年間の最低気温がマイナス40℃、最高気温がから50℃と寒暖差が大きく、害虫が死滅することなどの好条件が整っていることから、高品質の超長綿花の栽培に適しています。このため、同地で生産される綿は“新疆綿”と呼ばれ、エジプト綿(ギザ綿)、スーピマ綿と並んで世界三大高級コットンの一つとされており、中国の主要輸出品のひとつとして、日米欧に輸出され高級シャツ、高級シーツなどに利用されています。 一方、切手の題材となった新疆生産建設兵団は、中国の新疆ウイグル自治区で開墾と辺境防衛を行う共産党傘下の準軍事組織で、いわゆる屯田兵に近いイメージです。その任務は、タクラマカン砂漠など辺境地域の開発、経済開発、社会の安定と調和の保証、東トルキスタン独立運動への弾圧などで、現在の兵団全体の総人口は258万人余、その86%が漢族です。 1949年、国共内戦の帰趨がほぼ明らかになる中で、中国共産党は東トルキスタンに鄧力群を派遣し、在地の民族政権であるイリ政府との交渉を開始し、毛沢東はイリ政府首脳陣を北京の政治協商会議に招きます。しかし、8月27日、北京行きの飛行機に乗った3地域首脳11人は、そのままソ連領内のアルマ・アタ(現アルマトイ)に連行・殺害され、東トルキスタン政府は事実上消滅。残されたイリ政府幹部のセイプディン・エズィズィは、陸路で北京へ赴き、政治協商会議に参加して共産党への服属を表明せざるをえなくなりました。 これを受けて、1949年末までに中国人民解放軍が東トルキスタン全域に展開し、東トルキスタンは完全に中華人民共和国に統合されました。その後も、中国人民解放軍第2軍、第6軍、第15軍の約10万人は中国本土には戻らずに東トルキスタンへの駐留を続け、1952年には開墾と辺境防衛任務を与えられます。その後、1954年には彼らを母体に“新疆軍区生産建設兵団”が設立され、初代司令官には国民党政権時代の新疆警備総司令である陶峙岳が就任しました。今回ご紹介の切手はここから起算して60周年になるのを記念して発行されたものです。 新疆生産建設兵団は、文革時代の混乱で一時はほぼ壊滅状態に陥りますが、1979年のイラン・イスラム革命やソ連軍のアフガニスタン侵攻など、中央アジア方面が緊張したことを受けて辺境防衛の重要性が高まったことから、1981年10月以降、組織の再建が図られました。その後は中国による東トルキスタン支配が強化されていくのにあわせてその規模を拡大し、現在では、新疆ウイグル自治区の経済的利益をほぼ独占しています。 現在、中国政府によるウイグル人など少数民族への人権侵害は、ナチス・ドイツのホロコーストをも凌ぐ非道として国際社会でも問題視されており、米国のポンペオ国務長官も声明で、中国による自治区での人権侵害は「世紀の汚点だ」と非難。ことし(2020年)7月31日には、兵団が自治区のムスリム少数民族の大量強制収容に「直接関与した」として、組織としての兵団と同幹部および元幹部の2人が米国政府による制裁対象に指定され、兵団の在米資産は凍結され、米国人との取引も禁止されました。 今回の禁輸措置では、農産物としての綿花とトマトだけでなく、新疆ウイグル自治区から輸出される織物、衣料品を含む綿製品の供給網全体やトマトペーストなどが「違反商品保留命令」の対象となり、米税関・国境警備局(CBP)は強制労働の疑いがある商品の輸入を停止することが可能になるというわけです。 ちなみに、日本企業では、無印良品(MUJI)とユニクロなどが“新疆綿”を原料として使用していることが、これまでも国際社会から問題視されてきました。今回の米国の禁輸措置を機に、日本企業も、中国の人権侵害に加担するようなビジネスは改めていただきたいですね。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-08 Tue 00:55
ご報告が遅くなりましたが、『東洋経済日報』2020年8月21日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、いわゆるデニー太極旗の公開時期にあわせて、こんな切手をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1895年に朝鮮王朝が発行した5分切手で、中央にはデニー太極旗が描かれています。 旧大韓帝国の国旗でもあった太極旗は、朝鮮王朝時代の1882年8月、朝鮮の特命全権大使にして修信使(この場合は、1882年7月23日に漢城=現ソウルで発生した“壬午事変”に際して、日本公使館が襲撃され、日本人の軍事顧問や公使館員が殺害された件を謝罪するための使節)であった朴泳孝が日本に向かう船中でその原型を考案したとされています。ただし、同年7月に米海軍省公開局の発行した『海上国家の旗』には、太極旗を思わせるデザインの旗が図版として採録されており、朴泳孝の航海以前に何らかの国旗制作作業が進められていた可能性も否定できません。 さて、船上で朴が考案したという太極旗の原型は、中央に青と赤で陰陽を表現した太極文様(ただし、中華文化圏では、太極文様の陰陽は単色で表現されるのが一般的で、韓国の国旗に見られるような二色使いのものは例外的です)を描き、その周囲に八卦を配するデザインでした。古代から中華世界で行われてきた易では、陰(--)と陽(――)を示す記号の爻を3つ組み合わせて、方位や吉凶などを表現しましたが、この組み合わせが8通りあることから、それらは総称して八卦とよばれます。 しかし、英国人船長ジェームスから、八卦は複雑で区別しにくく、朝鮮国旗として他国が制作する場合に誤りが生じやすいとの指摘があったため、八卦のうち半分の4つを削って、残りを45度かたむけて四隅に配するというパターンに改められました。ちなみに、現行の太極旗に取り上げられている卦は、左上が天を示す“乾”、右下が地を示す“坤”、右上が月を示す“坎”、左下が日を示す“離”です。 さて、デニー太極旗の名前の由来となったオーウェン・デニーは1838年生まれの米国人で、1886年、朝鮮王朝の宗主国だった清朝の李鴻章の推薦により高宗の外交顧問に就任しました。しかし、その後は清朝を牽制し、ロシアに接近する外交を主導し、ロシアと陸路通商章程を締結するなどしたため、1890年、清朝の圧力で外交顧問を解任されています。 デニーの帰国に際して、高宗は、横263㎝、縦180㎝の大型の国旗を下賜しました。これがデニー太極旗で、現在のものと卦の部分は同じですが(ただし、現行の国旗の黒色ではなく、青色)、中央の太極文様は渦を巻くようなスタイルになっています。今回ご紹介の切手は、1895年、朝鮮王朝から切手製造の依頼を受けた米国のアンドリュー・グラハム社が制作したもので、中央には、太極文様が渦巻き状になったデニー太極旗がデザインされています。 その後、太極旗は卦の大きさや位置、太極の構図などが細かく変化し、太極文様の部分に関しては、1907年までには現在のものとほぼ同じスタイルのものが登場したものの、なかなかデザインの統一は進まず、1945年の解放後も細部の異なるさまざまな様式の太極旗が使用されていました。最終的に太極旗の仕様が法律で正式に定められ、国旗としての統一が達成されたのは、大韓民国成立後の1949年10月のことです。 なお、デニー太極旗は、全斗煥政権下の1981年、デニーの子孫ウィリアム・ラルストンによって韓国政府に寄贈され、ソウルの国立中央博物館に所蔵のうえ、2008年、登録文化財第382号として登録され、現在に至っています。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-07 Mon 01:04
台湾外交部(外務省)は、きのう(6日)、新型コロナウイルスの影響で太平洋の島国、ツヴァル(ツバル)に足止めされていた台湾人男性3人が、同じくツヴァルに足止めされていた日本人2人と共に海上保安当局の公船で無事帰国したことを発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1976年1月1日に発行されたツヴァル最初の切手で、英領ギルバート&エリス時代の切手の国名を抹消し、“TUVALU”の文字が加刷されています。 現在のツヴァル国家の領域は、4つのサンゴ礁に囲まれた島と5つの環礁から構成されており、島々は125-150間隔で、およそ700キロにわたる火山弧をなしており、そのうち、最大のものがフナフティ島です。西洋人としては、アルバロ・ド・メンダーニャ・ド・ネイラの船団が、ソロモン諸島へ向かう途中の1568年1月15日、ヌイ環礁の存在を確認し、ここを“イエス島”と命名したのが最初の接触となりました。 1892年5月27日、現在のツヴァルの領域は“エリス諸島”として、隣のギルバート諸島とともに英国の“ギルバート&エリス”保護領となりました。当初、この地の郵便は周辺を往来する船の幸便に託されていましたが、1911年1月1日から定期便が開設され、同日、当時のフィジー切手に“GILBERT & ELLICE / PROTECTORATE”と加刷した切手が発行されます。なお、1916年、ギルバード&エリスは英国の保護領から直轄植民地に変更され、その首府がギルバート諸島のタラワに置かれました。 1941年12月8日の日英開戦に伴い、日本軍はマキン環礁のブタリタリとタラワへの攻撃を開始し、12月10日には占領。これに対して、1942年8月17日、米軍がブタリタリを攻撃し、日本軍の守備隊に大きな打撃を与えましたが、翌18日、米軍はいったん撤退し、エリス諸島のフナフティ、ヌクフェタウ、ナヌメアに基地を設置しました。 1971年、ギルバート&エリスは自治領になりますが、ギルバート諸島ではミクロネシア人が多数派を占めていたのに対して、エリス諸島ではポリネシア人が主流と、民族構成が異なっていたため、1974年、住民投票で両者の分離が決定。1976年、エリス諸島は英自治領ツヴァルとしてギルバート&エリスから分離し、旧ギルバート&エリス切手の国名を抹消し、ツヴァルの地名を加刷した独自の切手が発行されます。なお、ツヴァルの独立が正式に認められたのは1978年10月1日のことで、1979年には台湾との正式な外交関係を樹立します。 ところで、台湾は、1950年代末から、外交部(外務省に相当)の海外技術合作委員会ならびに海外経済合作発展基金管理委員会を通じて途上国への支援を積極的を行っていました。具体的には、1959年、最初の途上国支援として、北ヴェトナムと対峙する反共国家の南ヴェトナムに農業ミッション(中外農技團)を派遣。これが一定の成果を上げたことを受けて、1961年、外交部内に“先鋒案執行小組”が設置され、“先鋒案(Operation Vanguard、前衛作戦の意)”の名の下、アフリカの新興独立諸国を中心に、農業支援の技術ミッションの派遣を開始するとともに、翌1962年にはこれを制度として恒久化するため、“中非技術合作委員會(非はアフリカの意)”が設置されています。 しかし、アフリカの新興独立諸国に対しては中国側の援助攻勢が激しく、中国の影響力が急速に拡大したことから、1963年、台湾はラテンアメリカ諸国を対象とした“拉丁美洲農業技術合作小組”を設置。1968年には同小組を“外交部海外技術合作委員會”に発展的に改組し、アフリカで切り崩された親台湾派諸国の分を、米国の強い影響下で、反共諸国の多かったラテンアメリカで穴埋めしようとしました。 その後、1971年10月25日、国連における“中国”の代表権が台湾から中共に移ると、台湾は巻き返しのため途上国援助の拡充を決断。翌1972年、既存の中非技術合作委員會と外交部海外技術合作委員會を合併し、農業の技術支援を中心に、途上国支援政策を総合的に扱う部署として“海外技術合作委員會(海外會)”を設置しました。なお、海外會は、1996年、“海外經濟合作發展基金管理委員會(海合會。1989年に経済部が設置)”と合併し、“財團法人 國際合作發展基金會”となって現在に至っています。 ツヴァルに対しても、こうした文脈に沿って、台湾は農業技術支援を行っており、徴兵の代わりに実施している外交代替役の対象者3人が昨年、ツヴァルに派遣されました。しかし、今年3月、新型コロナウイルス対策のため、ツヴァル政府が国境を閉鎖。このため、3人の台湾人が帰国困難となっていましたが、今回、台湾による公船派遣が認められ、帰国が実現しました。 その際、台湾側は、公船の座席に余裕があったことから、同じように帰国が難しくなっていた日本人2人の求めに応じて、彼らも受け入れてくれたそうです。なお、ツヴァル政府による国境閉鎖は2021年3月まで延長されることになったため、一行は現地を離れられた初の外国人となりました。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-06 Sun 01:05
セルビアのアレクサンダル・ブチッチ大統領とコソヴォのアブドラ・ホティ首相は、4日(現地時間)、米ホワイトハウスで会談し、経済関係の正常化で合意しました。あわせて、仲介役となった米国は、コソヴォとイスラエルの国交樹立(コソヴォの在イスラエル大使館はエルサレムに設置予定)とセルビアによる在イスラエル大使館のエルサレム移転方針も発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2015年2月25日、セルビアが発行したイースターの切手で、キリストのエルサレム入城を描いたデチャニ修道院のフレスコ画が取り上げられています。“コソボの中世建造物群”としてユネスコの世界遺産に登録されている修道院に関するセルビアの切手はいろいろあるのですが、今回は大使館のエルサレム移転ということもあるので、エルサレム関連の1枚を選んでみました。 さて、コソヴォはバルカン半島中部の内陸部に位置しており、北東をセルビア、南東を北マケドニア、南西をアルバニア、北西をモンテネグロに囲まれています。 歴史的にセルビア民族の揺籃の地とされるコソヴォは、12世紀末には中世セルビア王国・セルビア正教会の中心地となっていました。今回ご紹介の切手のフレスコ画があるデチャニ修道院は、1327年、セルビア王ステファン・ウロシュ3世によって建設が開始され、翌年、ステファン・ウロシュ3世が崩御した後も息子のステファン・ドゥシャンが工事を引き継ぎ、建物は1335年に、壁画は1350年に完成しました。修道院内は中世に建てられたものとしてはバルカン半島最大のもので、大聖堂のフレスコ画はビザンチン美術における現存最大のものとして知られています。 その後、14世紀末にコソヴォはオスマン帝国に占領され、それ以後、多くのセルビア人は北方に移住。代わりに、オスマン帝国支配下のアルバニアからイスラム教に改宗したアルバニア系が入植が進みました。 20世紀初頭のバルカン戦争の後、1912年に独立を宣言したアルバニアはコソヴォの領有を主張しますが、列強が介入した1913年の国境画定でコソボはアルバニアではなく、セルビアに組み込まれます。その後、第一次世界大戦中のオーストリア・ハンガリー帝国、ブルガリア王国の占領時代を経て、大戦後に成立したユーゴスラビア王国に組み込まれましたが、第二次大戦中、コソヴォ地域はブルガリアに併合されていました。 第二次大戦後、第2のユーゴとなるユーゴスラビア連邦共和国が成立すると、コソヴォ一帯はアルバニア人が多数を占めていたことから、セルビア共和国内の自治州(コソボ・メトヒヤ自治州)とされます。ちなみに、現在のコソヴォの領域は、同自治州の範囲を継承したものです。 しかし、コソヴォでは連邦からの独立を求める運動が収まらなかったため、ティトー政権は、独立運動を抑えつつ、1964年にコソヴォ・メトヒヤ自治州をコソボ自治州に改称。さらに、1968年に自治権拡大を求めるアルバニア人の暴動が発生したことを受け、1974年には、コソヴォ自治州をコソヴォ社会主義自治州に改組し、連邦構成共和国並みに自治権を拡大しています。 それでも、欧州一の出生率を誇るアルバニア人の急激な人口増加や、強烈なカリスマを持った建国の父、ティトーが亡くなり、連邦の分裂傾向が強まる中で、コソヴォのアルバニア系住民の間では自治州から共和国への格上げを求める声が高まっていきました。 これに対して、なんとしても“ユーゴスラビア”の枠組を維持したかったミロシェビッチ政権は、コソヴォでは少数派のセルビア系住民が抑圧を受けるようになったこともあり、1989年、コソヴォの自治権を縮小。さらに、翌1990年、アルバニア系住民が住民投票を経て“コソヴォ共和国”の独立を宣言すると、コソヴォ議会を解散して自治権を剥奪して、コソヴォ自治州(社会主義政権崩壊後、“社会主義”が取れました)をコソボ・メトヒヤ自治州へと改称するとともに、独立運動に対する弾圧を本格化します。 こうした中で、1991年6月にはユーゴスラヴィア連邦の構成国だったスロヴェニアとクロアチアが連邦からの独立を宣言。セルビアが主導する連邦軍とスロベニアとの間に10日間戦争、クロアチアとの間にクロアチア紛争が勃発し、ユーゴスラビア紛争が始まりました。 さらに、1992年3月、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言すると、独立に反対するセルビア人と独立賛成派のクロアチア人・ボシュニャク人(ムスリム人)の対立が軍事衝突に発展。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が起こります。ボスニア・ヘルツェゴビナにはセルビア人とクロアチア人も相当数居住していたため、セルビア、クロアチア両国が介入し、ボスニア紛争は泥沼化しました。こうした状況の下、1992年4月28日、連邦に留まっていたセルビアとモンテネグロは、人民民主主義・社会主義を放棄した“ユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)”の設立を宣言しています。 クロアチア紛争とボスニア紛争は1995年に終結しましたが、同年、コソヴォ内の数カ所で、独立強硬派のコソボ解放軍(KLA)が警察官やセルビア人を殺害し、実力行動を開始。その後、コソボ民主同盟代表のルゴバらが平和的手段によるコソボの独立運動を展開したものの、事態の進展はなく、1998年2月にKLAとセルビア治安部隊との間に武力衝突が発生し、これにユーゴ連邦軍が介入し、コソヴォ紛争は本格化しました。 武力紛争は、1999年5月にG8外相間で合意された和平案をもとに、同年6月10日、国連安保理決議1244が採択されて終結。セルビア人部隊は撤退し、コソヴォは国連コソヴォ暫定行政ミッション(UNMIK)の統治下、すなわち、“独立国ではない”ものの“特定国家の実効支配下にない”という微妙な立場におかれることになります。 なお、切手に関しては、2000年3月15日、UNMIKの名の下にドイツマルク額面の切手が発行され、以後、2002年5月からは額面をユーロに変更して、UNMIK名での独自の切手が発行されています。 これに対して、コソヴォはあくまでもセルビアの自治州であると主張するセルビアは、2004年、コソヴォ域内にあるデチャニ修道院を単独で世界遺産に登録。さらに、2006年、世界遺産委員会は、デチャニ修道院に、同じくコソヴォ域内のペーチ総主教修道院、リェヴィシャの生神女教会、グラチャニツァ修道院の3つの教会を加え、これらを合わせて“コソヴォの中世建造物群”に世界遺産の登録名を変更しています。 ところが、2007年の11月に行われたコソヴォ議会選挙で、セルビアからの即時独立を主張するハシム・サチ率いるコソヴォ民主党が第一党となり、翌2008年にはサチが首相に選出されると、セルビアやロシアが主張していたコソボの“現状維持”を廃して、コソヴォを正規の独立国家とすることで問題の決着を図ろうと考えた欧州連合(EU)と米国も“民主的な手続きによる独立”を支持する以上を示したため、2008年2月17日、コソヴォ議会はセルビアからの独立宣言を採択しました。 これに対して、コソヴォ独立を一貫して否定してきたロシアとセルビアは猛反発。特に、セルビアはコソヴォの分離独立を「永遠に認めない」と主張し続け、コソヴォが自国の自治州であることをアピーるするため、今回ご紹介の切手をはじめ、“コソヴォの中世建造物群”に題材をとった切手をたびたび発行してきました。 また、安保理常任理事国の中露がセルビア政府の合意なしにはコソヴォの独立を承認しないとの立場をとっていたほか、少数民族の独立運動を抱えているインドやスペインなどもコソヴォ独立を承認しない意向を表明していました。 今回、セルビアがコソヴォを交渉相手として認知し、両国が経済関係の正常化で合意したことから、今後、両国は外交関係正常化の方向へ進むのは確実で、欧州においてはまさに歴史的な大事件といえます。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-05 Sat 00:11
今日(5日)は、石炭の良さを見直そうという趣旨の“石炭の日”または“クリーン・コール・デイ(Clean Coal Day)”です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1943年5月23日、アウシュヴィッツ・ビルケナウ第2収容所の民間人スタッフがベーメン・メーレン(ボヘミア・モラヴィア)保護領宛に差し出した葉書で、左下に「石炭泥棒(コーレンクラウ)を捕まえよう!」との絵入りのスローガン(下の画像)が入っているのがミソです。 コーレンクラウは第二次大戦中に、シュトゥットガルトのヴィルヘルム・ホーンハウゼンがドイツの民間伝承に登場するブッツェマン(箪笥の中、寝台の下など、子供たちが夜間に恐れる暗いところに隠れている幽霊に似た怪物)をもとに考案したキャラクターです。 1942年12月7日、戦争が長期化し、戦況が悪化していく中で、ドイツでは燃料節約のために「コーレンクラウとの闘い」と称するキャンペーンが開始され、コーレンクラウのキャラクターは新聞や映画、子供向けのゲームなど、国民生活のあらゆる場所に登場し、戦車の装甲にも描かれていました。この葉書もそうした宣伝政策の一環としてコーレンクラウのイラストともに「コーレンクラウを捕まえよう!コーレンクラウを退治して、石炭、電気、ガスを節約しよう」とのスローガンが刷り込まれています。その後、戦況がさらに悪化してくると、処刑されるコーレンクラウの姿を描き、その脇に「さあ、鏡で顔を映してみよう。これはあなたでしょうか?それとも違いますか?」という文言が添えられることもありました。 第二次大戦後、ナチス時代の“遺産”がことごとく否定される中、コーレンクラウとそのイラストはその意味付けが大きく変化し、敗戦後の厳しい状況の中で、生きていくうえでやむを得ず鉄道やトラックから石炭を盗むことを正当化するためのキャラクターとして用いられ、しぶとく生き延びました。ちなみに、第二次世界大戦後、ザール地方を管理下に置いたフランスが、この地方で豊富に産出する石炭を狙い、住民投票によってこの地域を独立させようとした際、ザールの西ドイツ復帰を目指す人々は、フランスをコーレンクラウになぞらえて揶揄。その甲斐あってか、ザール地方は、1957年1月1日、西ドイツに復帰しています。 ところで、今回ご紹介の葉書はチェコ語で書かれており、差出人はチェコ人と推測されます。 アウシュヴィッツをはじめ収容所を管理していたナチスの親衛隊入隊資格は、当初、“純粋北方人種”ないしは“圧倒的に北方人種であるかファーレン人種”であることが原則とされ、例外的に、“基本的に先の二人種だが、それにアルプス山地人種、ディナール人種(南欧)、地中海人種が少し混じっている人種”も採用することがある、というのが基本方針でした。 しかし、戦線の拡大に伴い、1940年末頃から占領地域に住むドイツ系外国人の募集が本格化。ついで、国防軍の徴兵対象にないヒトラー・ユーゲントなどの若年層や、さらには、非ドイツ系の外国人も受け入れも開始されます。特に、独ソ戦の開始で戦線が大幅に拡大すると、外国人の受け入れは次第に常態化し、今回ご商j界の葉書の差出人のように、チェコ人が収容所の民間人スタッフとして働く事例も出てきたわけです。 なお、この辺りの事情については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-04 Fri 02:17
1870年9月4日、フランスで皇帝ナポレオン3世が失脚し、第2帝政に代わる国防政府が成立してから、ちょうど150年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、国防政府の発足後間もない1870年10月11日に発行されたセレス(豊穣の女神)図案の20サンチーム切手です。 1870年7月19日に勃発した普仏戦争は、当初からプロイセン有利に戦況が進み、同年9月2日にはセダンの戦いで皇帝ナポレオン3世が捕虜となったことから、パリでは共和制への移行を求める運動が広がり、9月4日、ブルボン宮殿の議員だったレオン・ガンベタがパリ市庁舎で共和政を宣言。第2帝政は崩壊し、当面の政府機構として、パリ軍事総督のルイ・ジュール・トロシュ将軍を首班とする国防政府が成立し、プロイセンとの戦争を継続することになりました。 当時のフランスの普通切手にはナポレオン3世の肖像が描かれていましたが、第二訂正の崩壊に伴い、ナポレオン3世の切手に代わり、帝政以前の1849‐50年に発行されていたセレス切手の原版を用いた凸版切手が発行されました。なお、1849‐50年のセレス切手は無目打でしたが、1870年の切手はここに示すように目打入りとなっています。 しかし、9月19日にはプロイセン軍によるパリ包囲が始まり、切手を含む生活物資が欠乏したため、パリから離れたフランス南西部、ボルドーの印刷所で平版印刷で無目打の暫定的な“ボルドー版セレス”の切手が製造され、1870年11月5日以降、プロイセンの占領を免れた地域で使用されました。 その後、1871年1月28日にヴェルサイユで普仏戦争の休戦条約が結ばれると、2月12日、ボルドーで国民議会が召集され、ティエールが行政長官に選ばれて臨時政府が発足。臨時政府は、2月26日、ヴェルサイユ仮講和条約を締結し、賠償金の支払いとアルザス・ロレーヌの割譲を受諾しました。これを受けて、3月1日、ドイツ軍がパリに入城すると、臨時政府も徹底抗戦を主張する市民らの国民軍に武装解除を命じましたが、同18日、民衆はバリケードを築いて抵抗しました。いわゆるパリ・コミューンです。 その後、臨時政府は5月10日にドイツとフランクフルト講和条約を締結し、正式に普仏戦争は終結。これを受けて、5月21日、臨時政府軍はパリに突入し、“血の週間”と呼ばれた壮絶な戦いの後、5月28日までにパリ=コミューンも鎮圧されました。 なお、1871年8月、ティエールはボルドーの議会から大統領に選出され、臨時政府は終わり、第3共和政がスタートしますが、その後もセレス切手の使用は続けられます。そして、1875年1月に第3共和政憲法が成立して名実ともに第3共和政が確立したことを受けて、同年8月に新普通切手のデザイン公募が行われ、その優秀作品となったジャン=アウグスト・サージュのデザインした切手が1876年から使用されることになります。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-03 Thu 01:54
昨年(2019年)、台湾と断交し、中国と国交を樹立したソロモン諸島で、台湾との断交に反対するマライタ州のダニエル・スイダニ主席は、1日夜、ソロモン諸島からの独立を問う住民投票を実施すると発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1939年2月1日、英領ソロモン諸島が発行した普通切手のうち、マライタ島の伝統的なカヌーを描く5シリング切手です。 マライタ島はガダルカナル島の北東に位置する島で、ソロモン諸島国家においては、ガダルカナルに次いで2番目に大きな島です。ガダルカナル島東端のマラウ・サウンドはマライタと近いこともあって、古くから、今回ご紹介の切手に描かれたようなカヌーを使ってマライタとの往来があり、住民の中にはマライタ島民(以下、マライタ人)と姻戚関係にある者も少なくありませんでした。 こうした事情もあって、1953年以降、現地住民の意見を植民地行政に反映させるための地区評議会の創設に向けた準備が各地で始まると、その過程で、1954年、マラウ・サウンドの2つの村落、ハテレとニウは、ガダルカナルではなく、マライタの地区評議会に参加したいと申し出ました。 これに対して、ガダルカナル人の一部は、マライタ人がガダルカナルにも影響を拡大しようとしていると強い警戒心を招き、ペリセ・モロ率いるガダルカナル人至上主義的な“モロ運動”が発生し、一部が暴徒化。植民地政府は警察官を動員してモロら運動の指導者らを逮捕し、1960年代以降は、モロ運動も下火になりました。しかし、モロの提起した排外主義(特に反マライタ感情)は、その後もガダルカナルでは伏流し続けます。 1978年、ソロモン諸島が独立すると、首都ホニアラのあるガダルカナルは、他の島々に比べると諸外国の支援による開発が進められ、現金収入の手段も多かったため、マライタをはじめ、他の島々からの移住者が急増。1990年代後半にはマライタ人がホニアラの人口の45%を占めるほどになりましたが、マライタ人移民は、公務員などの給与所得者として就職したり、実業家で成功したりする者と、ガダルカナルに来たものの職に就くことができず、暴力や犯罪に手を染める者に二極化し、ガダルカナル人の不満は鬱積していきます。 こうした状況の下、1998年12月初、ソロモン諸島中央政府の元首相でガダルカナル州主席のエゼキエル・アレブア(ガダルカナル出身)が、中央政府への不満から、ラジオのインタビューで、ガダルカナル島内に居住する島外出身者から補償金を徴収する意向を表明。これを機に、ガダルカナル人は島内在住のマライタ人への不満を隠そうとはしなくなり、マライタ人に対する暴力事件が頻発。いわゆるガダルカナル紛争が発生します。 ガダルカナル紛争は、2001年10月のタウンズヴィル和平協定でひとまず収束しますが、この間、約100名が死亡し、2-3万名が難民となるなど、ソロモン諸島国内に深い亀裂を残しました。 ところで、ソロモン諸島は、1983年に台湾と国交を樹立し、以後、台湾もソロモン諸島に対してさまざまな支援を行ってきました。特に、農業に関しては伝統的な焼き畑農業からの脱皮を定着させるべく、台湾人による技術指導が行われたほか、養豚場では、在来種と台湾から持ち込まれた品種を掛け合わせた“SOLROC”(ソロモンのSOLと台湾=中華民国のROCが名前の由来)種のブタが生産され、両国友好のシンボルともなってきました。 ところが、近年、中国が台湾を外交的に追い詰めるべく、ソロモン諸島への進出を急速に拡大。この結果、中国はソロモン諸島の輸出額の6割超を占め、貿易相手国として第1位となります。また、2017年には、中国の通信機器大手、華為技術(ファーウェイ)がソロモン諸島に高速インターネットの敷設を提案。このときは、域内大国であるオーストラリアが直ちに対抗策を提案し、1億3700万豪ドル=約103億円を投じ、パプアニューギニアを含む海底インターネットケーブルを建設しましたが、その過程で、マナセ・ソガヴァレ(2000-01年、2006-07年、2014-17年、2019ー現在の4次に渡り首相)ひきいるソロモン諸島社会信用党が華為技術から巨額の政治献金が受け取っていた疑惑が浮上。さらに、ソガヴァレ本人も“複数の中国企業と親密な関係”にあることが明らかになりました。 こうした中国の浸透工作が功を奏し、ソロモン諸島の政界では徐々に中国派が台頭。2019年4月、ソガバレが組織した連立政権の与党議員の一部は、半年以内に中国と国交を樹立しなければ不信任案を提出すると圧力をかけ、これを容れるかたちで、ソロモン諸島議会内には特別委員会が設けられ、中台いずれかの国との国交を樹立することのメリット・デメリットが審議されることになります。 こうした状況に危機感を抱いたオーストラリアのモリソン首相は、6月3日、ソガヴァレと会談し、「太平洋島嶼国の平和的な独立と主権のための支援」を表明。今後10年間で2億5000万豪ドル(約188億円)の経済支援やソロモン諸島首相府の建築補助などを約束し、中国の浸透に対抗しようとしました。また、米政府も、ソロモン諸島に対し、中国の資金拠出の約束には慎重に対応し、台湾との断交を強制されないよう注意が必要だと呼びかけていました。ちなみに、今年9月に行われた現地の世論調査では、国民の8-9割が台湾との外交関係の維持を支持しているとの結果が出ています。 しかし、2019年9月13日、議会特別委員会は、台湾との外交関係を絶ち、中国との国交樹立を勧告する答申書を政府に提出。ソロモン諸島は台湾との断交し、同月21日、中国と正式な国交を樹立します。さらに、翌22日、ソロモン諸島政府は、ガダルカナル北方、第二次世界大戦以前の英領ソロモン諸島の首府が置かれていたツラギと周辺の島々を”経済特区“として開発すべく、中共の複合企業、”中国森田“に七五年間賃貸する契約を結びました。 こうした中央政府の“暴走”に対して、ソロモン諸島各地では強い反発の声が上がりましたが、中でも、歴史的経緯から、ガダルカナルと中央政府に対して批判的な声の強いマライタでは、10月23日、州政府のダニエル・スイダニ主席がニュージーランドのラジオ放送局RNZの取材に応じ、「借金となる海外からの資金提供に関わりたくはない。これは、よく知られている中国からの資金提供による“債務の罠”に陥る可能性がある」と述べ、ツラギの賃貸契約と台湾との断交に真っ向から反対を表明しています。これに対して、ソガヴァレ政権はマライタ州に対して中国を受け入れるよう圧力をかけ続けていました。 2020年に入ると、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大により、ソロモン諸島は中国をはじめ、過去に感染者が出た国からの入国を禁止するなどの制限措置をとっていましたが、親中路線を推し進めるソガヴァレ政権は、中国本土ではウイルス禍がほぼ終息したとする中国側の主張に追従して、8月31日、入国制限措置を緩和して、廣州からホニアラの直行便を受け入れました。 ここにいたり、もともと、中国を信用せず、台湾との断交に反対していたマライタ州のスイダニ主席は猛反発し、1日夜、ソロモン諸島からの独立の是非を問う住民投票を実施することを発表。今後、住民投票が実施され、仮に独立派が多数を占めたとしても、ホニアラの中央政府がこれを認める可能性は低いため、最悪の場合、武力衝突が発生する可能性も否定できません。 さて、現在、第二次大戦中の激戦地として知られる“ガダルカナル”にフォーカスを当てた本を作っています。内容は、戦史よりも、戦後のガダルカナルが中心で、すでに本文の原稿は書き終え、現在は、書籍としてまとめる最終段階にの作業を進めているところです。近々、このブログでも、正式な書名や発売日などをご案内できると思いますので、よろしくお願いします。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-02 Wed 01:41
1945年9月2日、東京湾に停泊中の米海軍の戦艦、ミズーリ号上で、日本と連合国との降伏文書が調印されて、ちょうど75年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1946年4月5日、トルコが発行した“ミズーリ号イスタンブール寄港”の記念切手で、海上を航行するミズーリ号が描かれています。 戦艦ミズーリは、日米開戦以前の1940年6月12日に建造発注され、1941年1月6日にニューヨーク海軍工廠で起工、いわゆる太平洋戦争中の1944年1月29日、当時、ミズーリ州選出の民主党上院議員だったハリー・トルーマンの娘、メアリーによって命名され、進水しました。米海軍の戦艦としての就役は1944年6月11日のことです。 ちなみに、1944年11月の大統領選挙でローズヴェルトは4選を果たしますが、現職の副大統領だったヘンリー・ウォレスがあまりにもリベラル色が強いことに民主党内の右派が反発し、ウォレスおろしを始めたのが1944年春のことで、その過程で、中道派のベテラン上院議員だったトルーマンが対抗馬として浮上。最終的にトルーマンが副大統領候補になるのは、シカゴで開催された民主党大会最終日の7月21日のことなので、6月にミズーリが就役した時点で、トルーマンが大統領として日本に対する勝利を宣言することを予想していた人はほとんどいなかったのではないかと思います。 さて、就役後のミズーリは、戦闘訓練の後、1944年11月11日にノーフォークを出航し、パナマ運河、サンフランシスコを経て、12月24日に真珠湾に到着。その後は、マーク・ミッチャー海軍中将率いる第58任務部隊臨時司令部となり、硫黄島や沖縄での戦闘に参加。1945年7月以降は北海道および本州北部への攻撃を行っていました。 8月15日の玉音放送を受けて、8月29日、降伏調印式準備のため東京湾に入港。9月2日には、大日本帝国政府および陸海軍と、米・英・仏・蘭・中(国民政府)・カナダ・ソ・豪・ニュージーランドとの降伏文書調印式の会場となりました。 降伏文書の調印後は、9月6日に東京湾を出航し、グアム島、真珠湾、パナマ運河を経由して、10月23日にニューヨークに戻りました。 ところで、ミズーリがノーフォークを出港した1944年11月11日、トルコの駐米大使メフメト・ムニール・エルテギュン(英語読みだとアーテガン)が心臓発作で亡くなります。エルテギュンはムスリムでしたが、当時、ワシントンDCには彼の葬儀を行うためのモスクがなかったため(ちなみに、これを機にワシントンのイスラミック・センターが建立されることになります)、彼の遺体は終戦まで保管されていました。 一方、第二次大戦後、ソ連はバルカンへと勢力を伸ばし、その余波でギリシャでは共産党と非共産党の内戦も起きていました。そこで、米国がソ連の脅威にさらされているトルコやギリシャを支援する姿勢を示すため、エルテギュンの遺体をトルコに届けるという名目で、ミズーリの地中海派遣が計画されました。 こうして、1946年3月22日、ミズーリはエルテギュンの遺体を乗せて出航し、ジブラルタル経由で4月5日、イスタンブールに到着。今回ご紹介の切手は、これに感謝して、トルコが発行したものです。 その後、ミズーリは4月9日にイスタンブールを出港し、ギリシャのピレウス港に入港。同26日までピレウス港に停泊した後、アルジェ、タンジールを経由して、5月9日、ノーフォークに到着。さらに、戦後初の大西洋艦隊の大規模演習に参加した後、同27日にニューヨークに帰還しました。 1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、国連軍を支援するために8月19日にノーフォークを出港し、9月15日の仁川上陸作戦に参加。同年12月には、中国人民志願軍の参戦により退却を余儀なくされた国連軍の退却を支援するため、興南を砲撃したのを皮切りに、戦争末期の1953年3月まで朝鮮半島東岸で共産側に対する砲撃を行いました。 朝鮮戦争後の1955年に退役し、プレマートンの太平洋予備役艦隊に入りましたが、1986年5月10日に最新の武器を搭載してサンフランシスコで再就役。イラン・イラク戦争時の1987年にはホルムズ海峡でタンカー船団の護衛業務に就いたほか、1991年の湾岸戦争の際には28発のトマホーク・ミサイルをイラク領内に打ち込んでいます。 湾岸戦争後は1991年12月にハワイで真珠湾攻撃50周年記念式典に参加した後、1992年3月31日に退役。1999年1月29日からはアリゾナ・メモリアルの後方で博物館として公開されています。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-01 Tue 02:08
台湾を訪問中のチェコのミロシュ・ヴィストルチル上院議長は、きのう(31日)、台湾大学で講演し、中国を念頭に「自由、真実、正義こそが最高の剣であり、鎧だ」と述べ、台湾を支持し協力関係を強化していく考えを表明しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1997年にチェコが発行した“民話と伝説の切手のうち、伝説のプラハ王、ブルンツヴィークを描いた1枚です。 伝説の勇者として知られるブルンツヴィークにはさまざまな冒険譚が伝えられています。右側の龍は、彼がある無人島で龍と戦う獅子と出会い、獅子と共に倒したもので、龍との戦いの後、この獅子はブルンツヴィークに仕えることになりました。ブルンツヴィークの下に獅子が描かれているのは、このことを表現したものです。 一方、左側の女性は、ブルンツヴィークがアフリカを訪れた際、彼に求婚した現地の姫です。彼女の求婚を断って帰国する際、彼は魔法の剣を持ち帰りました。その剣は黄金でできており、手に取って命じるだけで敵の首を斬り落とすことができるとされています。 帰国後、プラハ王となったブルンツヴィーク、以後40年に渡ってボヘミアに君臨し、他国の侵略から祖国を守っただけでなく、現在でもプラハの守護者として、プラハが危機に見舞われた時には、ブルンツヴィークが魔法の剣と共に現れるとの言い伝えがあります。 さて、1993年元日、旧チェコスロヴァキアがチェコとスロヴァキアに分裂したことに伴い、チェコは旧チェコスロヴァキア以来の中国との外交関係を継承しましたが、チェコ側は当初から中国の“一つの中国”論には懐疑的で、中台両国との国交を主張していました。 実際、1989年のヴィロード革命でチェコスロヴァキアが民主化された後、初代大統領となったヴァーツラフ・ハヴェルは、民主化運動の闘士として逮捕・投獄経験もあったことから、“人権”には敏感で、ダライラマとの個人的な親交も篤く、1990年にはダライ・ラマ14世を国賓として招待する意思を示したほか、1995年には李登輝政権の連戦行政院長(首相)ら台湾の閣僚を国賓として招待しています。当然のことながら、中国はハヴェルを激しく非難しましたが、1996年、とりあえず、チェコ側が“一つの中国”を確認するという形式をとってなんとか関係改善が図られました。 その後も、チェコの歴代政権は中国に対して距離を置いていましたが、2013年に大統領になったミロシュ・ゼマン(1998-2002年は首相)は、経済的利益を求めて、前政権までの対中方針を180度転換して親中路線を推進するようになります。 たとえば、2014年10月、ゼマンは北京で習近平と会談。ゼマンは習に経済協力と観光客の誘致拡大を要請するとともに、上海=プラハ直行便の開設、成都での領事館開設を提案しました。これを受けて、2016年3月には習が答礼でチェコを国賓訪問し、両国間で戦略的パートナーシップ協定を調印しています。 一方、2018年12月には、チェコの国家サイバー・情報安全局は、ファーウェイおよび中興通訊(ZTE)のソフトウエアとハードウエアは安全を脅かす可能性があるとして、その使用に関する公式の警告を発しましたが、ゼマンはこの警告の根拠を明らかにしていないと逆に国家サイバー・情報安全局を批判。2019年4月には訪中し、第2回国際協力一帯一路フォーラムに参加し、あらためて一帯一路への支持を表明する一方、米中貿易摩擦争や英国のEU離脱(ブレグジット)などに対するリスクアセスメントの必要性も指摘しただけでなく、ファーウェイの任正非とも会談し、同社に対する国際的批判は何ら根拠がないと強調しました。それどころか、ゼマンは、ファーウェイが5Gネットワーク確立などでチェコのデジタル化に参与することを望むとさえ発言しています。 ちなみに、2019年の大統領訪中には、60人の企業代表団が同行。中国銀行(2015年にプラハ支店開設)が向こう4年間、チェコ企業の投資およびチェコ・中国間の貿易拡大に関するプロジェクトに対して、最高20億ドルの貸し付け提供をすることを保証する覚書を調印しました。 その際、ゼマンは、中国の対チェコ投資がいまだ“低調”だとして、「投資面においても今後、ダイナミックな進展がみられることを望む」と発言しています。 当然のことながら、ゼマンの対中傾斜に対しては、チェコ国内でも安全保障上の理由から疑問視する声が強く、2019年11月26日にチェコ情報局が発表した2018年のスパイ活動に関する報告書では、中国とロシアが安全保障上の脅威となっており、特に中国は2018年に欧州の中央に位置するチェコ国内で工作員集めを強化していることを指摘しています。また、同報告書では、中露両国がチェコの国営組織に対するサイバー攻撃に関与しており、中国の工作員がソーシャルメディア「リンクトイン」を通じて人々に接触しているとの見方も示されています。 一方、親中派のゼマン政権に対して、現在のプラハ市長、スデニェク・フジブ(フジプとも)は、政治の透明性と説明責任、腐敗防止と電子政府の確立、中小企業の保護と租税回避防止、大衆参加による意思決定などの直接民主主義、地域の発展、 人権擁護を進める提案型の政策などを掲げる“チェコ海賊党”の出身で、フジブ本人も、台湾に留学した経験あり、台湾とは個人的に関係が深い人物です。フジブらは、北京市との姉妹都市協定書から「1つの中国」に関する項目を削除するよう要求し続け、2019年10月には北京市との姉妹都市の関係を解消するとともに、「台北市とは民主主義の価値や基本的人権の尊重などを共有している」と主張し、2020年1月、台北市と姉妹都市協定を調印しました。 今回、89人の代表団を率いて訪台したヴィストルチル議長は中道右派の市民民主党の出身で、ゼマン政権の親中路線には批判的な人物です、昨日の演説でも、議長は、1989年のビロード革命でチェコスロヴァキアでも共産党政権が崩壊したことと、台湾が1990年代に民主化を勝ち取った経緯に触れ、「チェコと台湾の共通点は自ら民主主義を選択したことだ」と強調しました。 チェコ人にとっての最高の剣のイメージは、おそらく、ブルンツヴィークの魔法の剣なのだろうと思いますが、冒頭ご紹介した「自由、真実、正義こそが最高の剣」との言葉は、それを踏まえたうえで、自由、真実、正義という剣を共に携え、独裁国家の圧力に対して共闘していこうという姿勢を示したものと理解することができましょう。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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