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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 チェコ全土で都市封鎖
2020-10-22 Thu 01:18
 チェコのプリムラ保健相は、きのう(21日)、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、きょう(22日)から11月3日まで、全土で生活必需品などを除くほとんどの商店を閉鎖し、外出も大幅に制限するロックダウン(都市封鎖)を実施すると表明しました。チェコはことし3-4月の流行第1波は抑え込みましたが、9月ごろから感染者が急増し、人口当たりの新規感染者数は欧州でも最悪級の水準となっています。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ピヴィーンからアウシュヴィッツ宛返戻便

 これは、1943年10月4日、ベーメン・メーレン(ボヘミア・モラビアのドイツ語読み)保護領のピヴィーンからアウシュヴィッツ収容所の収容者宛に差し出された書留便ですが、収容者宛に書留便を送ることは認められていなかったため、差出人に返戻されています。

 第二次大戦勃発前年の1938年9月29-30日に行われたミュンヘン会談の結果、対独宥和政策を取る英国のネヴィル・チェンバレン首相、フランスのエドゥアール・ダラディエ首相は、「ズデーテンラントは我々の最後の領土的要求であり、チェコスロヴァキアの独立を侵害するつもりはない」と主張するヒトラーに譲歩し、ズデーテン地方のドイツ編入を容認。同年10月1日には、ズデーテンラントでのドイツによる軍政が施行されました。その後、ヒトラーは前言を翻し、1939年3月、チェコスロヴァキア国家を解体。ドイツはチェコ地域の主要部を併合して、ボヘミアとモラビアの主要部分にベーメン・メーレン保護領を設置します。今回ご紹介の郵便物の差出地であるピヴィーンは、現在の行政上はチェコ共和国オロモウツ州にありますが、上記のような事情でベーメン・メーレン保護領に編入されたため、切手も同保護領のモノが貼られています。

 さて、1940年、ポーランド南部に開設されたアウシュヴィッツ収容所は、もともとは、ポーランド人の政治犯・捕虜を収容するための施設でした。ところが、1941年6月の独ソ戦勃発を経て、1942年1月のヴァンゼー会議で「ユダヤ人問題の最終解決」が決定されると、ドイツ勢力圏下の欧州各地からユダヤ系の人々がアウシュヴィッツに移送されてくるようになり、アウシュヴィッツとベーメン・メーレン保護領との間でも郵便物の往来が始まりました。

 なお、アウシュヴィッツ収容所とその郵便については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。
 

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 本日、トークやります。
2018-07-21 Sat 00:35
 昨日(20日)から、東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展2018(以下、全日展)がスタートしました。今回は、チェコスロヴァキア独立100周年ということで、会場では“チェコ切手展”も併催しており、本日(21日)は僕も14:30から「アウシュヴィッツとチェコを往来した郵便」と題するトークイベントをやります。というわけで、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ヘジュマヌーヴ・ムニェステツからアウシュヴィッツ宛

 これは、1942年3月17日、ヘジュマヌーヴ・ムニェステツからアウシュヴィッツの収容者宛に差し出されたものの、収容所側の通信制限を理由に差出人に返送された郵便物です。

 第二次大戦勃発前年の1938年9月29-30日に行われたミュンヘン会談の結果、対独宥和政策を取る英国のネヴィル・チェンバレン首相、フランスのエドゥアール・ダラディエ首相は、「ズデーテンラントは我々の最後の領土的要求であり、チェコスロヴァキアの独立を侵害するつもりはない」と主張するヒトラーに譲歩し、ズデーテン地方のドイツ編入を容認。同年10月1日には、ズデーテンラントでのドイツによる軍政が施行されました。その後、ヒトラーは前言を翻し、1939年3月、チェコスロヴァキア国家を解体。ドイツはチェコ地域の主要部を併合して、ボヘミアとモラビアの主要部分にベーメン・メーレン保護領(ボヘミア・モラビアのドイツ語読み)を設置します。今回ご紹介の郵便物の差出地であるヘジュマヌーヴ・ムニェステツは、現在のチェコの領域にありますが、上記のような事情でベーメン・メーレン保護領に編入されたため、切手も同保護領のモノが貼られています。

 さて、1940年、ポーランド南部に開設されたアウシュヴィッツ収容所は、もともとは、ポーランド人の政治犯・捕虜を収容するための施設でした。ところが、1941年6月の独ソ戦勃発を経て、1942年1月のヴァンゼー会議で「ユダヤ人問題の最終解決」が決定されると、ドイツ勢力圏下の欧州各地からユダヤ系の人々がアウシュヴィッツに移送されてくるようになり、アウシュヴィッツとベーメン・メーレン保護領との間でも郵便物の往来が始まります。

 アウシュヴィッツの収容者宛の通信に関しては、差出地のいかんにかかわらず、収容者の名前・誕生日・収容者番号・収容棟番号を記して、アウシュヴィッツ郵便局気付で送られました。そして、収用所に到着した郵便物は、まず、収容所当局によって名宛人が収容所にいるか否か、1ヶ月に2通という受取可能な通数の制限内に収まっているか否かをチェックしたうえで、内容の検閲を受け、収容者に渡されるという段取りになっていました。

 このため、収容者の死亡や別の収容所への移送により名宛人が不在となった場合や、受け取り可能な通数を超えた場合には、そのことが明らかになった時点で、事情説明の印を押して差出人に返戻されています。今回ご紹介の郵便物では、下から、名宛人がすでに1ヶ月2通までの制限を超える郵便物を受け取っていたことを示す“schon post erhalten(郵便物受領済)”、郵便検閲を受けたことを示す“Postzensurstelle/ K.L. Auschwitz/ geprüft:…………..(郵便検閲/アウシュヴィッツ収容所/検閲担当者…)”の3行印、“zurück/ Annahme verweigert(差出人戻/受取拒否)”の2行印が押されています。

 今日のトークイベントでは、第二次大戦中のチェコスロヴァキアについての基本的な状況や、アウシュヴィッツからベーメン・メーレン保護領宛の郵便物、テレジーン(ドイツ語名テレジエンシュタット)収容所からアウシュヴィッツに移送された収容者に関して行われた郵便物の偽装工作などについてもお話しするほか、時間に余裕があれば、今年5月、エルサレムでの世界切手展に出品したPostal History of Auschwitz 1939-1945 (審査員出品として会場に展示しています)についても、簡単に解説したいと思っています。

 つきましては、ぜひ、14:30から全日展会場の8階イベントスペースでのトークにご参加ください。また、アウシュヴィッツとその郵便物の概要につきましては、拙著『アウシュヴィッツの手紙』も併せてご覧いただけると幸いです。
 
 
★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月20-22日(金-日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにチェコ切手展が開催されます。主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2018ポスター

 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 

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 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

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 目打があってもなくても④
2010-09-30 Thu 11:28
 ご報告が遅くなりましたが、東京郵便切手類取引所(TOPHEX)による『スター☆オークション』(10月2日実施)のカタログ第12号ができあがりました。僕が担当しているオマケの読み物は、ジョルジュ・バルトーリの郵趣コラム集 Avec ou sans dents (邦題『目打があってもなくても』)に所収のコラムをご紹介する第4回目。今回は、下の切手にまつわるエピソードを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

      ボヘミア・モラビア1
      ボヘミア・モラビア2
      ボヘミア・モラビア3
      ボヘミア・モラビア4

 ドイツとオーストリアに隣接したズデーテンラントはドイツ系住民が多く、ドイツによる領土要求の結果、1938年9月29-30日に行われたミュンヘン会談によって、ドイツへの割譲が決定されます。ミュンヘン会談ではハンガリー王国やポーランドへの係争地域の割譲も求められたため、チェコスロヴァキア国内の民族運動は激化。5ヵ月後、チェコスロバキア東部のスロヴァキアとカルパティア・ルテニアが独立を宣言し、スロヴァキア共和国とカルパト・ウクライナ共和国が成立。さらに、残ったチェコ地域に関しては、ドイツがこれを併合し、1939年3月15日、ボヘミアとモラビアの主要部分にベーメン・メーレン保護領(ボヘミア・モラビアのドイツ語読み)を設置しました。

 こうして、チェコスロヴァキアが解体されるなかで、占領当局は新たに発足した保護領の正刷切手制作をチェコ人に命じます。命令を受けたデザイナーと彫刻家は、おとなしく占領当局の命令に従うふりをして、チェコスロヴァキアの復活を願う意図を込めて、さまざまな仕掛けを施しました。たとえば。上の4枚の切手の雲や林の輪郭を左下のようにつなげると、ドイツによって消滅させられたチェコスロヴァキア地図の輪郭が浮かび上がるようになっています。また、切手の随所には、チェコスロヴァキア共和国初代大統領のマサリクや後継大統領のベネシュ、国民的英雄であったミラン・シュテファニク将軍の肖像なども隠されています。(右下は、その一例で、50K切手に隠されている“顔”の部分です)

      チェコスロヴァキア地図
      50Kの顔

 ボヘミア・モラビアの切手は未使用は大量に残されており、安価に入手できますので、チェコ・レジスタンスの隠された痕跡を探して遊んでみるのも面白いかもしれません。

 それにしても、わが日本政府は、北方領土や竹島、尖閣諸島など、領土問題で弱腰の姿勢を取り続けており、切手というメディアを通じて自国の領土を内外に宣伝するという、当たり前のことができない状況が何十年も続いています。こういう情けない状況に対して、切手デザイナー諸氏は、今回ご紹介したボヘミア・モラビアの事例を見習って、せめて、切手の中に他国の侵略を受けている地域の地図のシルエットなどを入れてくれると良いんですがねぇ。まぁ、デザイン上の理由か何か知りませんが、択捉島を外した日本地図の切手を何度も発行してきたような人たちに、あまり期待はできんでしょうな。

 なお、そうした日本の領土問題と切手政策については、拙著『事情のある国の切手ほど面白い』でもいろいろと取り上げておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

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 カッコよすぎる独裁者や存在しないはずの領土。いずれも実在する切手だが、なぜそんな“奇妙な”切手が生まれたのだろう?諸外国の切手からはその国の抱える「厄介な事情」が見えてくる。切手を通して世界が読み解ける驚きの1冊!

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