2006-04-30 Sun 22:29
28日から開催しておりましたスタンプショウは本日(30日)16:00をもって無事終了しました。ご参観いただきました皆様、ありがとうございました。特に、昨日(29日)の僕のミニ講演に来ていただきました大勢の方々には、重ねてお礼申し上げます。
さて、スタンプショウその他でご紹介が遅くなってしまいましたが、(財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』5月号ができあがりました。すでに、会員の皆様のお手元には現物が届いていると思うのですが、今月号の表紙には、 この1枚を取り上げました。今日の記事では、解説コラムでは字数の制限がきつくて書けなかったことも補足しながら書いてみようと思います。(以下、画像はすべてクリックで拡大されます) これは、1933年6月24日から7月9日までの16日にわたって開催された、ウィーン国際切手展<WIPA 1933>を記念してオーストリアが発行した切手です。切手展の正式名称は“Die Wiener Internationale Postwertzeichen – Ausstellung”。ウィーン国際切手展というそのままの意味ですが、一般には、この展覧会は頭文字をとってWIPAの名で親しまれています。 切手に取り上げられているのは、モーリツ・フォン・シュヴィント(1804-71)の油絵『交響曲』の一部です。ミュンヘンのノイエ・ピナコテーク絵画館に所蔵されているオリジナルの作品は、下の画像のような、100×169センチの大きさのものです。 作者のシュヴィントによると、彼はベートーベンの「ピアノのためのファンタジアハ長調」にインスピレーションを得て『シンフォニー』を制作したとのこと。絵画は3つの部分に分かれていますが、下からそれぞれ、アンダンテ、アダージョ、ロンドと名前が付けられています。切手に取り上げられているロンドは、新婚夫婦がハネムーンに向けて出発する場面を描いたものです。 さて、切手の額面は50グロッシェンだったのですが、郵便局の窓口では、切手展開催費用を捻出するための同額の寄付金にくわえ、切手展の入場料1シリング60グロッシェンを上乗せして販売されました。さらに、通常のシート切手と同時に、単片切手4種を収めた小型シートも発行されています。 額面をはるかに上回る金額で発売されたことに加え、素晴らしい印刷、音楽・美術・馬車といった題材を取り上げていたため、この切手は発行当初から収集家の間で非常な人気を呼び、特に小型シートは名品として有名です。なお、通常のシート切手と小型シートから切り離した単片は、目打の違いによって容易に区別できます。 それにしても、この連休中も、今回の切手みたいにハネムーンに出かけるカップルというのは多いんでしょうねぇ。僕は連休中もひたすら仕事ですが…。 |
2006-04-29 Sat 01:19
今日はみどりの日。といっても、僕にとっては昭和天皇の誕生日と言ったほうがしっくりきます。もっとも、いまでも“陛下”というと、今上陛下より昭和天皇のイメージのほうが条件反射的に浮かんでしまう人も少なくないのではないでしょうか。そういえば、たしか来年(2007年)からは、4月29日は“昭和の日”になって、“みどりの日”は5月4日に移動するんじゃなかったでしたっけ。休日なら何でもいいと言ってしまえばそれまでですが、ちょっと、ややこしいですね。
というわけで、今日は昭和天皇がらみで、かつ“みどり”ネタということで、こんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます) この切手は、1971年4月18日、国土緑化運動の名目で全国植樹祭にあわせて発行されたものです。 全国植樹祭を機に国土緑化運動の名目で発行された切手としては、1965年、鳥取県で行われた運動15周年の全国植樹祭にあわせて発行された例がありますが、1971年の植樹祭は第22回(21周年)という半端な回数です。 これとは別に、1968年に緑化運動が“明治百年”の記念事業の一つに認定されて以来、毎年、記念葉書が発行されていますので、1971年の緑化運動に関しても、切手ではなく葉書が発行されとみる収集家が多かったようで、切手の発行はいささか、唐突なものと受け止められたようです。 郵政省側は切手発行の理由を“近年各種公害の発生が重大な社会問題として採りあげられるにおよび環境保全のためにも国土緑化の必要が痛感されている”としてキャンペーン切手発行の意義を強調していましたが、むしろ、今回の植樹祭に際して、昭和天皇夫妻のお泊り所(宿舎)に簡易保険郵便年金福祉事業団三瓶簡保保養センターが、簡保保養センターとしては初めて、お泊り所に選ばれていますので、こちらのほうが、切手発行が決定された真相だったように僕は考えています。 なお、この切手に関しては、もみじの葉の描き方があまりにも図案化されていて正確さを欠くのではないかとの批判が一般から寄せられたことも、一つのエピソードとして付け加えておいて良いかもしれません。このあたりの詳しいことについては、4月20日付で刊行の拙著『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』もあわせてごらんいただけると幸いです。 さて、今日(29日)の14:30から、今日から東京・浅草の都立産業貿易センターで開催のスタンプショウ06会場6回の特設スペースで、『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』の刊行を記念して、ミニ講演と即売サイン会をやりますので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。 |
2006-04-28 Fri 08:08
最近では、すっかり「あの人はいま…」のネタになってしまった感があるサダム・フセインですが、今日(4月28日)は彼の誕生日です。かつて、彼がイラクで独裁権力を振るっていた頃は、毎年、彼の誕生日を祝う切手も発行されていたわけで、今日はそんな中からこの1枚をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
この切手は、1995年4月28日のフセイン誕生日に発行されたもので、イラクの国旗を模したハート型の枠の中に少女から祝福を受けるフセインを描き、バラの花束を添えているというなんともわかりやすいデザインです。 少女から花束を受けるという構図は、独裁者が“国民の父”を演出するイメージとしては、洋の東西を問わず、定番中の定番となっていて、ヒトラーや金日成の誕生日の切手にも同様の構図のものが見られます。 ただ、ヒトラーや金日成と異なっているのは、イラクの場合は、フセインの肖像がハートで囲まれています。このパターンは、たとえば、こんな切手にも見られますが、フセインが好きだったのか、デザイナーの好みなのか、その辺は良く分かりません。 そういえば、かつて、ある大学の授業で切手を通じてイラクの現代史を読むという話をしていたとき、この切手を見た学生さんから「フセインも“幼女たん萌え~”なんですか」と聞かれたことがありますが、なるほど、独裁者というのは案外ロリコンの気が入っていることが多いのかもしれませんね。 さて、今日から東京・浅草の都立産業貿易センター6・7階で春の切手イベントスタンプショウ06が開幕します。会期中の29日(土)14:30からは、会場6回の特設スペースで、僕の最新作『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』の刊行を記念して、ミニ講演と即売サイン会をやりますので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。 |
2006-04-27 Thu 14:10
いよいよ明日(28日)から、東京・浅草の都立産業貿易センター6・7階で春の切手イベントスタンプショウ06が開幕します。かねてご案内の通り、今年のスタンプショウでは、ムーミン60年+フィンランド切手発行150年にちなみ、「ムーミンの国・フィンランド切手展」を開催します。
というわけで、今日はフィンランド切手展の“予習”を兼ねて、1856年に発行されたフィンランド最初の切手について、簡単にご説明することにしましょう。 イギリスで世界最初の切手が発行されてから5年後の1845年、当時、帝政ロシアの下の大公国であったフィンランドでは、郵便改革の一環として切手つき封筒の使用が開始されました。これが一定の成果を収めたことを踏まえて、1856年3月、切手付封筒の印面と同図案の切手が試験的に導入されました。これが、今日の画像(クリックで拡大されます)でご紹介しているフィンランド最初の切手になります。 切手は青い5コペイカと赤い10コペイカの2種類で、デザインはいずれも楕円形の中にフィンランドの紋章と郵便を示すポストホルンを組み合わせたものです。切手上には“フィンランド”を示す表示はなく、額面の数字もラテン文字とキリル文字(ロシア文字)で併記されるなど、宗主国ロシアの支配下にあることを強くうかがわせる内容となっています。ただし、帝政ロシアが最初の切手を発行したのは1857年12月のことでしたから、フィンランドでの切手発行はこれに先んじることになりました。 切手は大きな用紙に1枚分ずつの印判を押すという簡単な製法で作られたため、随所に偽造を防ぐためのシークレットマークが入れられています。なお、目打(切手周囲のミシン目)は、この段階では入れられておらず、1枚ずつ切り離す時にはハサミが使われました。このため、シートから切手を切り離す際に、楕円形の枠にハサミが当たってしまったものも少なからずあり、枠が完全に残っている単片は珍重されています。 この切手を用いた郵便制度が軌道に乗ったことを受けて、2年後の1858年から、ロシア支配下のフィンランドでは切手を用いた郵便制度が本格的にスタートすることになります。 明日から30日(日)までの「ムーミンの国・フィンランド切手展」では、今日ご紹介している最初の切手以降、150年間に及ぶフィンランド切手の歴史を通観できるようになっております。北欧独自の美しいデザインで人気のフィンランド切手ですが、なかなか、日本ではまとまって診る機会は少ないと思いますので、是非、この機会にご参観いただけると幸いです。 なお、会期中の29日(土)14:30からは、会場6回の特設スペースで、僕の最新作『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』の刊行を記念して、ミニ講演と即売サイン会をやりますので、よろしかったら、こちらにも、ぜひ遊びに来てください。 |
2006-04-26 Wed 21:25
以前の記事でもご案内しましたが、東京・目白の切手の博物館は今年で開館10周年を迎えます。その企画展として1階展示室では“まる。”展を開催しておりますが、3階特設会場の特別展示は、前半戦の<日本普通切手10選>が無事終了し、明日(27日)から後半戦の<テーマ収集グッド10!>がスタートします。
今回の展示は、切手のデザイン等に注目して、映画、お天気、オリンピック、モーツァルト、名画、蝶、時計、文学、ペンギン、木材の10テーマでストーリーを構成した10のコレクションを展示します。これをあわせて、会場内では“花”の切手の一例として、こんなモノもガラスケースに展示されています。 1971年の大阪万博の際には、2回に分けて単片で6種類の記念切手が発行されたほか、記念切手3種を収めた小型シートや切手帳も発行されています。 画像(クリックで拡大されます)のマテリアルは、そのうち、第1次発行の切手帳が未裁断のまま4枚つながった状態のままのもので、実際に発売されたときは、これに表紙をつけて裁断されています。目打の穿孔方法をはじめ、切手帳の製造過程に関するいろいろなことが読み取れる貴重な資料といってよいでしょう。 今回の画像は1次のものだけですが、会場には、1次のものと2次のものが並んで展示されていますので、是非、会場にお越しいただき、実物をご覧いただけると幸いです。 なお、せっかくの機会ですので、会期中の5月6日(土)、午前11時からと午後2時30分からの2回、各30分程度の時間を取って、今回の画像のマテリアルも使いながら、万博記念に発行された切手帳をテーマとしたギャラリートークを行います。切手帳の製造工程といった通好みの話から、切手帳をめぐる当時の収集家の泣き笑い騒動記まで、盛りだくさんの内容でお届けする予定ですので、皆様のお越しをお待ちしております。 *イベントの御案内 4月29日(土)14:30から、東京・浅草の都立産業貿易センターで開催のスタンプショウ6階会場にて、『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』の刊行を記念して、ミニ講演と即売サイン会をやります。スタンプショウは入場無料ですので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。 |
2006-04-25 Tue 23:58
ソロモン諸島では18日、先に行われた首相選の結果に不満を持つ住民ら数百人が国会周辺で行ったデモが過熱し、首都ホニアラでは商店街などでの放火や略奪などに発展。中華街の住民らが被害を受け、中華系の住民など249人が避難する事件があったそうです。
ソロモン諸島というと太平洋の島々“その他大勢”という感じがしてしまいますが、首都のホニアラがあるのはガダルカナル島と聞くと、僕なんかは途端に、太平洋戦争の激戦地ということでイメージが浮かんできます。というわけで、今日はこの1枚です。(以下、画像はクリックで拡大されます) この切手は、英領時代のソロモン諸島が1976年にアメリカの独立200年を記念して発行した切手の1枚で、ソロモン諸島にとってアメリカとつながりが最も深い事件としてガダルカナル島の戦いが取り上げられています。 切手は、島の地図を描いて戦闘の模様を表現したものですが、結構、細かい地名なんかも書いてありますが、ホニアラの地名はありません。そこで、国際機関・太平洋諸島センターのサイトの中からソロモン諸島のページにアクセスして、現在のガダルカナル島の地図を見つけてきました。(↓) ガダルカナル島というと以前の記事でも少し書いたことがありますが、僕なんかは、どうしても“激戦地”のイメージが強すぎて、現在の人々の生活を想像しにくいところがあります。それだけに、今回の暴動のニュースで初めてこの島にも中華街があることを知ったという体たらくですが、まぁ、これを機会にいろいろわかったので、それはそれでよしとすることにしましょうか。 *イベントの御案内 4月29日(土)14:30から、東京・浅草の都立産業貿易センターで開催のスタンプショウ6階会場にて、『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』の刊行を記念して、ミニ講演と即売サイン会をやります。スタンプショウは入場無料ですので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。 |
2006-04-24 Mon 23:57
今週の金曜日(28日)から、いよいよ、東京・浅草の都立産業貿易センター6・7階で春の切手イベントスタンプショウ06が開幕します。かねてご案内の通り、今年のスタンプショウでは、ムーミン60年+フィンランド切手発行150年にちなみ、「ムーミンの国・フィンランド切手展」を開催します。
というわけで、会期も迫ってきたことですし、今日は10日くらい前に書いた「幻のヘルシンキ五輪」の続編として、こんなものをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます) このカバー(封筒)は、蘇芬(ソ連=フィンランド)戦争最中の1940年1月、ヴァーサからヘルシンキ宛に差し出されたもので、封筒の左下に押されているのは検閲印です。 「幻のヘルシンキ五輪」でも簡単に触れましたが、1939年9月、ドイツとの密約でポーランドを分割したソ連はフィンランドを恫喝して領土の割譲を要求し、同年11月30日にフィンランドに侵攻。蘇芬戦争が勃発します。フィンランド軍は勇敢に戦い、なんとか国家としての独立は守ったものの、1940年3月の講和条約で国土の10%の割譲を余儀なくされました。 今回のカバーは、そうした蘇芬戦争の最中に差し出されたものですが、こうした状況下にあっても、何とか戦争を終結させて五輪の開催を実現しようとしていたのでしょうか。カバーの裏面には下のような五輪の宣伝の標語印が押されています。 この標語印の押されたカバーの大半は1939年中のもので、ソ連との戦争が始まった後のモノは、案外、見かけません。やはり、一般的な世論としては、もはや五輪どころではないといった雰囲気で、標語印を使うこともはばかられたということなのでしょうか。 結局、開催国のフィンランドが対ソ戦争で大きな打撃を受けたことにくわえ、欧州大戦が本格化したこともあり、1940年のオリンピックは中止に追い込まれ、ヘルシンキ大会は、東京大会同様、“幻のオリンピック”となってしまいます。 「ムーミンの国・フィンランド切手展」では、このカバーを「幻のヘルシンキ五輪」でご紹介したものとあわせて、ガラスケースで展示する予定です。決して高価なマテリアルというわけではないのですが、日本では語られることの少ない“幻のヘルシンキ五輪”の一端を示す歴史の証言者としてご覧いただけると幸いです。 なお、スタンプショウ会期中の4月29日(土)14:30から、6階会場にて、『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』の刊行を記念して、ミニ講演と即売サイン会をやります。入場無料ですので、よろしかったら、ぜひこちらにも遊びに来てください。 |
2006-04-23 Sun 23:29
竹島周辺の排他的経済水域(EEZ)での日本の測量調査をめぐって行われていた日韓外務次官会談は、韓国が6月の国際会議で海底地名の変更提案を行わない一方、日本側も調査を中止することで合意し、日本が調査を強行すれば拿捕も辞さないとしてきた韓国側との衝突は当面、回避されることになりました。
今日のニュースはどこもこの問題がトップ扱いでしたから、やはり、竹島がらみのマテリアルを取り上げないわけにはいかないでしょう。というわけで、こんなカバー(封筒)をご紹介しましょう。(画像はクリックで拡大されます) このカバーは、1955年1月(消印の88年は、韓国暦:檀紀の4288年で西暦1955年に相当)に韓国から日本宛に差し出されたもので、前年の1954年に韓国が発行した“独島(竹島の韓国名)”の紫色の切手が2枚、封筒の右下に貼られています。 日本と韓国との国交正常化交渉は、すでに日本占領中の1951年10月に予備会談がスタートしていましたが、朝鮮戦争の最中で日本を反共の防波堤として育成することを企図していたアメリカは、韓国側の対日賠償請求を押さえ込もうとしていました。このため、国交正常化交渉を進める上で、新たな交渉材料を作り出す必要に迫られた韓国側は、1952年1月、「大韓民国隣接海洋の主権に対する大統領の宣言」を発します。 この宣言は、国防と漁業資源の保全を理由として、当時、韓国沖合に設定されていた“マッカーサー・ライン”よりも日本寄りに“平和線”(日本側では“李承晩ライン”と呼ばれた)を設定。これを韓国の領海として、水域内のすべての天然資源、水産物の利用権を主張したものでした。 その際、韓国側は、1946年にGHQが発した「外郭地域分離覚書」に、竹島を日本の行政区域から分離する旨の記載があることを根拠として、李承晩ラインの内側に竹島を含め、その領有権があると主張。これが、いわゆる竹島問題のルーツとなりました。 韓国側の主張に対して、明治以降、第二次大戦の終結まで一貫して竹島の領有権を主張していた日本側は猛反発。1952年2月からはじまった国交正常化交渉(第1次会談)は、請求権問題(日本側は、韓国内で接収された旧日本資産の補償を強硬に主張していた)や日本の植民地支配についての責任の有無とも絡んで、同年4月には早くも無期延期となりました。 その後、日韓交渉(第2次会談)は1953年4月にようやく再開されたものの、同年6月、韓国側が朝鮮戦争の休戦成立に備える必要から中断。さらに、同年10月の第3次会談では、日本側代表の久保田貫一郎(外務省参与)が「日本としても朝鮮の鉄道や港を造ったり、農地を造成したりした」、「当時、日本が朝鮮に行かなかったら中国かロシアが入っていたかもしれない」などと発言したことから、日韓双方による非難の応酬となり、会談は決裂し、国交正常化交渉は1958年4月まで中断されてしまいます。 日韓両国の対立を懸念した米国大統領のアイゼンハワーは、1954年7月、韓国に対して李承晩ラインの撤回など日本への宥和を求めたのですが、これは逆効果となり、態度を硬化させた韓国側は米国との交渉をも決裂させ、翌8月には対日経済断交措置を発動してしまうといったありさまでした。 今回のカバーに貼られている竹島切手は、こうした状況の中で、1954年9月、あらためて、竹島の領有権と李承晩ラインの正当性を主張するために発行されたものです。 当時、日本側は、竹島切手の貼られた郵便物を韓国に返送することで対抗しようとしたものの、膨大な郵便物の中から竹島切手の張られたものだけを返送するというのは実務上きわめて困難で、実際には、この切手が貼られたまま日本国内で配達された郵便物も少なくありません。したがって、韓国研究者の著作などに時々見られる「日本側は竹島切手の有効性を認めず、この切手が貼られた郵便物を韓国側に返戻した」というような記述は正しくありません。 その後も現在にいたるまで、日本政府は竹島の領有権を主張しつづけていますが、韓国が警備隊を常駐させてこの島を実効支配しているのを黙認してきたのが現実です。 竹島のことが問題になるたびに、僕が常々感じるのは、この問題についての韓国側の主張は理不尽ですが、それを許している責任の一端は日本側の無策にもあるということです。竹島切手にかたちばかりの“抗議”をしながら、実際には、そうした切手が貼られた郵便物を日本国内でも無事に配達しているという日本の郵政の対応は、そうした竹島問題をめぐる日本政府の姿勢をきわめて象徴的に示しているように思えてなりません。 なお、竹島切手の話については、今までいろいろなところで書いてきたのですが、3月に刊行した拙著『これが戦争だ!』(ちくま新書)でも、そのダイジェストを掲載しています。ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。 *イベントの御案内 4月29日(土)14:30から、東京・浅草の都立産業貿易センター6階で開催のスタンプショウ会場にて、最新作『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』の刊行を記念して、ミニ講演と即売サイン会をやります。スタンプショウは入場無料ですので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。 |
2006-04-22 Sat 22:05
今日(4月22日)はアースデイ。「地球に感謝し、美しい地球を守る意識を共有する日」だそうです。というわけで、“緑の地球”(とはいっても、アースデイの趣旨とは全く関係なくって、緑色で地球が印刷されているというだけのことなのですが…)を描く切手の中から、こんな1枚のご紹介です。
画像(クリックで拡大されます)は、1932年7月12日、オタワ会議を記念してカナダで発行された3種セットの切手の1枚(13セント)で、イギリスを象徴する女神ブリタニアを中心に“英連邦”の部分を濃く塗った地球を描くことで“大英帝国”を表現するデザインとなっています。 1929年の世界恐慌で打撃を受けたイギリスは、1931年に金本位制を停止し、本国・自治領・植民地といった“大英帝国”の結びつきを強化し、排他的な貿易ブロックを形成しようとしました。その具体的な話し合いのために、1932年7月21日から8月20日にかけて、カナダのオタワにイギリス本国と自治領・植民地の代表(カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、アイルランドの各自治領とインド、南ローデシアの植民地)が集まり、英連邦内の新たな経済政策が決められたのが、オタワ会議です。 会議の結果結ばれたオタワ協定により、イギリスは、連邦以外の国の製品に対しては相対的に高い関税を賦課し、連邦諸国内の製品の関税は低くするという特恵制度が徹底され、世界経済のブロック化が急速に進展して行きます。この辺の話は、中学・高校の歴史の授業でさんざん聞かされた方も多いでしょう。 ご存じの方も多いかもしれませんが、テーマティク・フィラテリスト(切手や郵便物でストーリーを組み立てた作品を作る人間)としての僕の原点は、“昭和の戦争”のコレクションです。(その概要については、新潮新書の拙著『切手と戦争』をご覧いただけると幸いです) “昭和の戦争”のコレクションでは、その序章にあたる部分では“世界恐慌”を避けては通れません。とはいえ、恐慌そのものに関するマテリアルというのは、なかなかコレといったものがないので、恐慌に対する各国の反応というかたちで恐慌を表現するしかないのですが、そのときに、オタワ会議の切手はそのものズバリの1枚として重宝しています。ただし、『切手と戦争』では、ページ数の関係から、世界恐慌そのものを割愛して、いきなり柳条湖事件から始めたので、この切手も出番がありませんでしたが…。 学生時代、コレクションを作り始めた頃は、1ドルがまだ200円以上していたことに加え、懐具合も非常に寒かったので(現在が冬の旭川並みなら、当時は真冬のアラスカ並み、といったところでしょうか)、僕にとってのこの切手は決して安くはない切手でした。そのくせ、センターの良くない(目打と呼ばれるミシン目に対して、切手の印面が偏っている)切手が多くて、綺麗な状態のものを手に入れるのに苦労したのも、現在となっては懐かしい思い出です。 *イベント告知 4月29日(土)14:30から、東京・浅草の都立産業貿易センター6階で開催のスタンプショウ会場にて、最新作『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』の刊行を記念して、ミニ講演と即売サイン会をやります。スタンプショウは入場無料ですので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。 |
2006-04-21 Fri 22:54
今日(4月21日)は、イギリスのエリザベス女王80歳のお誕生日です。というわけで、今日はエリザベス女王の切手の中から、こんな1枚を選んでみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは1954年1月に香港で発行された5ドルの通常切手です。 英領時代の香港では、返還直前に英国色を一掃した“中性切手”が発行されるまで、通常切手には歴代の国王の肖像が描かれてきましたが、エリザベス女王(香港では“女皇伊利沙伯二世”と書くそうです)の肖像の通常切手は1954年に登場します。なお、前年の1953年に女王の即位を記念した切手が発行されており、こちらが、香港切手としては、女王を描いた最初の事例となります。 1954年に発行された通常切手は、額面が5セントから10ドルまでの14種類。1ドル以上の高額切手は、画像の5ドル切手同様、2色刷となっています。(低額切手はもちろん単色です。念のため) 切手の元になった肖像は、写真家ドロシー・ワイルディングが撮影したもの。ワイルディングは、当時のイギリス本国の通常切手の元になった肖像写真(ただし、香港切手に使われたのとは別のもの)の写真家でもありますので、切手に興味のある人間にはなじみのある名前です。 この切手は、父王であったジョージ6世時代の切手のスタイルをそのまま踏襲しているせいだからなのか、ジョージ6世の切手同様、印面の細かいバラエティがいろいろとあって、切手収集家にとってはいろいろと楽しめる存在です。 1997年の返還のときにあわせて『切手が語る香港の歴史』という本を作ったことがあるのですが、あれから10年経って、手持ちのマテリアルも大分増えてきましたので、来年の返還10周年にあわせて、リニューアルした香港本を作りたいなぁ…と漠然と考えています。そのためには、そろそろ企画書を書いて版元さんに営業をかけていかないといけなませんね。 まぁ、東京・目白の切手の博物館で出したばかりの『研究紀要』には、2004年の香港のFIAP切手展に出品した作品 A History of Hong Kong の全リーフコピーに解説を付けたものを載せましたので、こいつを営業用のツールとして使うことにしましょうか。 |
2006-04-20 Thu 22:53
今日(4月20日)は日本の郵便創業の記念日で、毎年、「切手趣味週間」の記念切手が発行される日です。
今日付けで刊行の『(解説・戦後記念切手Ⅳ)一億総切手狂の時代 昭和元禄切手絵巻 1966-1971』(そういえば、今日からプロフィールの画像を変更しました)でも、切手趣味週間の切手についてはいくつかご紹介していますが、今日はその中から、この1枚をご紹介してみましょう。 この切手は、1969年の「切手趣味週間」に発行されたもので、小林古径の作品「髪」が取り上げられています。 小林古径と彼の作品についての説明は、たとえばこのサイトなんかを見ていただければ、僕がくどくど説明するまでもないので、ここでは、この切手について説明しましょう。 切手趣味週間には毎年、大型の美術切手が発行されるのが敢行となっていますが、1965年から5年間の題材については、1964年の時点で近代日本の名画から5点の候補が選ばれていました。「髪」もそのリストに入っており、そのことは1965年には発表されていました。ところが、当時の感覚では、お堅い郵政がまさか本当に“ヌード切手”を発行するとは誰もが思っていなかったため、「髪」が切手に取り上げられることが発表されると、マスコミ各社はこれを大々的に取り上げ、社会的にも大きな反響を巻き起こします。 たとえば、1969年2月19日付の『毎日新聞』は「成人向き指定切手 趣味週間、古径の「髪」を発売」との見出しでこの切手のことをとりあげ、「ベストセラー疑いなしの美人画切手が売出される」「お役所にしては珍しい『勇断』と評判になりそうだ」「上半身裸体の芸術作品の登場だけに、郵政省部門でも『成人向きに指定しないと…』とか『俗悪なはだかムードと一緒にされては困る』というためらいもあったが、委員が全員一致で推したので発行に踏切ったという。『なんといわれるかこわいような気持です』――これは係の偽らざる心境である」等と紹介しています。 はたして、日本初の“ヌード切手”の人気はすさまじいものがあり、東京中央郵便局の切手普及課が行っている通信販売には注文が殺到。発行日10日前の4月10日には申込みが締め切られるほどでした。このため、切手の発行枚数は当初予定の3000万枚から増刷されて3150万枚になっています。 また、切手発行当日の1969年4月20日には、各地の郵便局で長蛇の列ができ、東京中央局でも、1人5シートの制限販売が行われたものの、発行翌日の21日には在庫が完売となり、翌22日にはそのことを示す掲示が貼りだされるほどでした。 女性の裸なら何も切手で見なくても、と思わなくもないのですが、やっぱり、なんだかんだ言っても、皆さんこういう切手がお好きなようで…。 さて、冒頭でもご紹介した『(解説・戦後記念切手Ⅳ)一億総切手狂の時代 昭和元禄切手絵巻 1966-1971』では、今回の“ヌード切手”に大騒ぎとなった収集家たちの物語をはじめ、昭和元禄と呼ばれた時代の切手について、ありとあらゆる情報を網羅的に採録しています。当時の時代の空気を感じてみたいという方は、是非一度、お手にとってご覧いただけると幸いです。 |
2006-04-19 Wed 23:57
4月28日からのムーミンの国・フィンランド切手展まで、あと10日となりました。というわけで、フィンランドがらみのモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
この葉書は、朝鮮戦争中の1950年にフィンランドから国連事務総長トリグブ・リーに宛てて差し出されたもので、裏面には次のような文面が印刷されています。 (文面を僕なりに訳すと次のような感じです) 国際連合事務総長 トリグブ・リー様 署名人は朝鮮での戦争に関わる全ての人に、次のように訴えます。 ・朝鮮ならびに台湾問題を交渉によって解決する用意がある人々に対して、時間を与えてください。 ・いかなる障害にも負けず、仲介を諦めないで下さい。 ・中華人民共和国に国連の代表権を与えてください。 世界の人々は、戦争ではなく、平和を望んでいます。 第二次大戦中、ソ連軍の侵略と戦ったフィンランドは、ソ連が“戦勝国”となった煽りを受けて、戦後、“敗戦国”として出発したばかりか、ソ連の圧力で、マーシャルプランの受け入れも“辞退”させられます。 このため、冷戦時代のフィンランドは、北大西洋条約機構 (NATO)にもワルシャワ条約機構にも加盟せず、中立を貫く一方で、ソ連の干渉を未然に防ぐために“親ソ”のポーズを取り続けます。こうしたフィンランドの姿勢から、冷戦下のヨーロッパでは、“フィンランド化”(西側諸国の一員としての経済体制を維持しつつも、国家運営がソビエト連邦との関係を優先的に配慮した傾向に傾いた状態)という表現も生まれました。とはいえ、当時のフィンランドにとっては、戦争をも覚悟してソ連との対決姿勢を鮮明にするという選択肢は、あまりに危険な賭けで、到底乗ることはできなかったわけですが…。 今日ご紹介している葉書の文面にも、朝鮮戦争の中国の代表権問題などで東よりの中立というフィンランドの姿勢がにじみでており、こうした主張を訴える葉書を組織的に差し出さざるを得なかった彼らの苦衷は察するに余りあります。 4月28日からのムーミンの国・フィンランド切手展では、この葉書は展示されませんが、会場に並んでいるお洒落なフィンランドの切手の背後に隠された苦悩の戦後史に思いをはせるのも悪くはないような気がします。 |
2006-04-18 Tue 23:17
グレース・ケリーがモナコのレーニエ大公と結婚式を挙げたのは、いまからちょうど50年前の1956年4月18-19日のことでした。というわけで、今日はこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
この切手は、グレース・ケリーとレーニエ大公の結婚を記念してモナコが発行したもので、当時は日本でもかなり話題になりましたから、見たことがあるという方も多いかと思われます。 グレース・ケリーの伝記情報を調べてみると、たいてい、「1956年4月18日に結婚」と書いてあるので、切手上の“4月19日”という日付は間違いなんじゃなかろうかと思ってしまいがちですが、ウェディング・セレモニーは宮殿と大聖堂で2日間にわたって行われており、初日に法律上の結婚式、2日目に宗教上の結婚の儀式が行われました。敬虔な大公からすると、宗教上の儀式が終わってこそ結婚が成立ということで、切手という公式の場での結婚のお披露目は19日という日付になったということなのかもしれません。(それなら、今回の記事は明日に回せばよかったかな) 1950年代前半のモナコは、第二次大戦でヨーロッパの上流階級が没落した煽りをまともに食らってカジノ経営は行き詰まり、破産寸前の状態にあったともいわれています。そのため、リゾートを中心とした総合観光立国への脱皮を目指していたモナコにとって、グレースという格好のイメージ・キャラクターの獲得は願ってもないことでした。実際、グレースの結婚後5年間で、モナコの観光収入はそれまでの2倍に膨れ上がっています。 一方、グレースにしても、際立った美貌の持ち主とはいえ、女優としての演技力という点では、その後もハリウッドのトップ女優の地位を維持し続けることは困難だったでしょうから、女優としての頂点にあるときにレーニエと結婚したことは、客観的に見れば、ベストの選択だったといってよいでしょう。もちろん、結婚というのは当人同士が満足していれば他人がとやかく言うことではないのですが…。 なお、日本でも皇太子明仁親王ご夫妻(当時)の“世紀のご成婚”が行われた際には、日本中がミッチー・ブームに沸いたわけですが、そのとき準備された記念切手のデザイン案の中には、あきらかに、今日ご紹介しているモナコの切手を元ネタにしたと思われるモノも含まれており、この切手が当時の世界に与えたインパクトの大きさがうかがえます。 ところで、日本の“世紀のご成婚”は、グレース・ケリーの結婚から3年後の1959年4月のことです。ということは、3年後には天皇・皇后両陛下も金婚式ということになりますね。それまで、お二人にはお元気でいていただきたいものです。ついでに、その頃には去年(2005年)出した拙著『皇室切手』が文庫化されないかなぁとひそかに期待してしまう内藤でした。 |
2006-04-16 Sun 23:58
昨日から東京・大手町の“ていぱーく(逓信総合博物館)”で開催されている<全日本切手展>(全日展)で井上和幸さんのコレクション「在朝鮮日本局郵便史」が郵政公社総裁賞(ベスト・アワード)を受賞されたとのこと。おめでとうございます。
井上さんのコレクションは、1877年に朝鮮の日本人居留地内に日本の郵便局が設置されてから、1910年の日韓併合に先立って1905年に旧韓国郵政が日本に接収されるまでのプロセスをまとめたもので、朝鮮の近代史にご興味をお持ちの方には、ぜひともご覧いただきたいものです。 展覧会の会期は20日の木曜日までですので(17日の月曜日は休館ですが)、これから見に行ってみようという方は、僕のブログの3月23日の記事と4月13日の記事をお読みいただけると、少しは“予習”していただくうえで役に立つかもしれません。(まぁ、切手にご興味をお持ちの方にとっては、目新しい内容は何もないのですが…) で、今日は、そうした過去の“予習テキスト”の続編を兼ねて、こんな切手をご紹介してみたいと思います。 この切手は、1905年の“日韓通信業務合同”を記念して日本で発行されたものです。 日本にとっての日露戦争の最大の目的は、韓国(1897年に国号を朝鮮から大韓帝国に改称)を勢力圏内に完全に取り込むことにありました。 それゆえ、開戦早々の1904年2月23日、日本軍の威圧の下、日韓議定書が調印され、日本は韓国内の必要な地点をどこでも軍事基地として用いる権利を獲得します。さらに、同年8月22日には、第1次日韓協約が結ばれ、韓国は、日本人の財政・外交顧問を受け入れることとされました。 この日韓協約に基づき、日本から派遣された財政顧問の目賀田種太郎は、韓国における通信事業が毎年10万円を超える赤字を出していることを指摘し、韓国は通信事業を日本に委託すべきと主張します。 韓国(朝鮮)の近代郵便事業は、1884年にいったん発足したものの、折から発生した甲申事変のクーデタによって頓挫し(郵便創業の立役者であった洪英植はクーデタに連座し、処刑された)、再開されたのは1895年7月のことでした。このため、再創業から10年弱の1904年の時点では、まだ相当の初期投資が必要な段階で、赤字が出るのはある程度やむをえないことでもありました。 しかし、日本側は、あくまでも赤字の解消を主張し、韓国の通信事業を日本に委託することを同意させます。当然、韓国側はこれに反発しのですが、1905年4月1日、「韓国通信期間委託ニ関スル取極書」が調印され、5月18日から日本側による韓国側通信機関の接収が開始されました。この“接収”は同年7月1日までに完了し、これにあわせて、“日韓通信業務合同紀念”として、上の画像のような記念切手が発行されたというわけです。 切手には、中央の円形の枠の中に額面を示す“参銭”の文字が大きく入っています。上下の鳩は、平和の象徴というより、この場合は通信の象徴として取り上げられたとみるべきでしょう。円形の枠の左側には、韓国皇室の紋章である李花と日本の国家である桜の枝を、同じく右側には、菊花紋章と李花の枝が、それぞれ、配されています。李下の紋章と菊花紋章は、左右同じ高さに配されており、従来の日本切手のように、“大日本帝国郵便”の表示がないこととあいまって、今回の通信業務“合同”が、日韓対等の立場で行われたものであったことをことさらに強調するものとなっています。 もっとも、日本側がどれほど日韓の“対等”の立場を強調しようとも、この切手が発行される前日の6月30日をもって、韓国切手の売りさばきは停止され、韓国の郵便局も日本側に全て接収されていました。なお、合同前に売りさばかれて、一般の公衆が持っていた韓国切手は、通信業務の合同後も、当面は使用が黙認されていましたが、1909年8月末をもって全て使用が禁止されました。さらに、それから1年後の1910年には、韓国そのものが日本に併合され、地上から消滅してしまうのです。 実は、井上さんには、昨年、全日展と同時期に日韓文化交流基金の助成を得て東京・目白の切手の博物館で開催した「日韓国交正常化40年記念切手展(通称・コーリア切手展)」にコレクションの名品1点を展示していただきました。その結果、昨年の全日展では、目白の博物館に展示されている1品がないことを理由に、彼のコレクションが総裁賞を逃してしまったということがあって、コーリア切手展の企画に関わっていた僕としては、今回、井上コレクションが無事に総裁賞を獲得したことで、なんとなくホッとしたという気分になっています。 僕自身は、この土日は予定が詰まっていて大手町の会場にいけなかったのですが、この際ですから、なんとか木曜日までの間に時間の都合を付けて、井上コレクションを拝みに行ってみようと思っています。もちろん、井上コレクション以外にもいろいろと見ごたえのある展示が並んでいるとうかがっていますので、いろいろと眼福にありつけそうです。 |
2006-04-15 Sat 16:34
今日は4月15日。かの国の“偉大なる首領様”のお誕生日ということで、かの国では“太陽節”という民族最大の祝日に指定されています。となると、『北朝鮮事典』の筆者である僕としては、やっぱり、なんらかの形で首領様の切手を取り上げないわけには行きません。というわけで、今日はあまたある“首領様”の切手の中から、この1枚を持ってきました。
これは、1946年8月15日、ソ連占領下の北朝鮮(この時点では、朝鮮民主主義人民共和国政府は発足していませんので、“北朝鮮”が正式名称です)で発行された解放1周年の記念切手です。 中央に大きく描かれているのは、若き日の金日成です。 ハバロフスク近郊でソ連軍の訓練を受けていた金成柱大尉は、日本敗戦後の1945年9月、ソ連の軍艦プガチョフ号でソ連占領下の北朝鮮にひそかに帰国。同年10月、平壌市北部の箕林里にある公設運動場(現・金日成競技場)で開催された「金日成将軍歓迎平壌市民大会」において、ソ連占領軍司令部の政治委員、ロマネンコから「最も偉大な抗日闘士」としてはじめて一般の北朝鮮市民に紹介されました。 当時、ソ連占領当局の政治司令官だったレベジエフは、大会は、極東ソ連軍の指揮下の88特別旅団・第1大隊長で金日成の変名を使っていた金成柱大尉を、伝説の抗日英雄・キムイルソンとして紹介し、以後、ソ連子飼いの彼を通じて、占領行政をスムースに進めるための手段として企画されたと証言しています。 歓迎大会は、ソ連占領当局の大々的な宣伝や共産主義陣営の各種団体による組織的動員などもあり、最低6万人(一説には、30万人とも40万人ともいわれている)が集まり、運動場は立錐の余地もないほどの群衆で埋め尽くされていました。 開会は午前10時に開始の予定でしたが、実際に始まったのは午前11時過ぎで、中央のひな壇にはソ連第25軍総司令官チスチャコフ大将、先述のレベジエフ少将、民生司令官ロマネンコ少将らソ連軍将校、大会準備委員長の晩植(当時、平安南道人民委員会委員長)や朝鮮共産党幹部などが座っていました。金日成も、当然、ひな壇上にいたのですが、集まった人々は誰も彼のことを知らなかったといわれています。また、舞台には太極旗(旧大韓帝国の国旗で現韓国国旗。当時は、北朝鮮でもこれを国旗として扱っていました)と、戦勝国のソ連・アメリカ・イギリス・中国の国旗が掲げられていました。 歓迎大会の司会者は、前日、西北五道党責任者および熱誠者大会で朝鮮共産党北朝鮮分局責任秘書に選出された金鎔範で、レベジエフ、晩植、金日成の順序で3名が演説しましたが、金日成が登場したとき、観衆は唖然としたとの証言が数多く残されています。そいうのも、伝説の英雄である“金日成将軍”として紹介された人物が、人々の想像していたような白髪の老将軍ではなく、30代(当時、金日成の実年齢は33歳)の若者だったからです。 しかも、彼は軍服や人民服ではなく、背広にネクタイ姿(ソ連軍通訳・姜ミハエル少佐からの借り物といわれています)、ソ連軍の勲章をつけていました。後見役のレベジエフは、ソ連軍の勲章をつけると金日成がソ連の傀儡であることが露骨に判るので、勲章を外すように事前に勧告していたのですが…首領様は他人から指図されるのがお嫌いなようです。 さらに、金日成は、ソ連軍将校がロシア語で作成し、詩人の田東赫が翻訳した演説原稿をたどたどしい朝鮮語で読み上げ、退場するというありさまでした。 このため、金日成の演説が終わると、一部の人々は演壇の周囲に集まり、「偽の金日成だ」と言って騒ぎを起こし、ソ連軍兵士が発砲する騒ぎも起こりましたが、会場全体としては、「金日成将軍万歳」の声がこだまし、大会は終了しています。 今日の切手は、1946年8月15日、解放1周年に際して北朝鮮郵政が発行したものですが、太極旗をバックにした背広姿の金日成が描かれています。おそらく、「金日成将軍歓迎平壌市民大会」の模様を忠実に再現した結果、このような図案になったのでしょう。 しかし、スターリンや毛沢東、ホーチミン、チトーなど、同時代の社会主義諸国の指導者で、軍事指導者としても活躍したはずの人物は、その証として軍服ないしはそれに準じる人民服姿で切手に登場するのが一般的でしたから、背広姿の金日成をほかならぬ“解放一周年”の記念切手に登場させるということは、彼が本来の意味での抗日の英雄であれば、他の社会主義諸国の例と比較して、きわめて不自然です。 歓迎大会の模様を忠実に再現した切手が見る者に不自然な印象を与えるということは、その元になった歓迎大会そのものが不自然なものであったからといってもよいでしょう。そして、この不自然さが、ソ連軍の一大尉を強引に伝説の抗日英雄に祭り上げたことに由来しているのは、あらためて言うまでもありません。 もっとも、そういうことを言い出すと、今日にいたるまで“首領様”の物語の大半は不自然なエピソードで満ち溢れているわけで、身も蓋もありません。まぁ、首領様の切手はこれが最初の1枚なんですが、その後もずっと同じようなことが繰り返されているのを見ると、まさに“三つ子の魂百まで”ということわざを思い出してしまいます。 |
2006-04-14 Fri 16:06
4月28日スタートの<スタンプショウ06>まで、あと2週間となりました。今年は、ムーミン60年にしてフィンランドの切手発行150年ということで、フィンランド大使館のご協力もいただき、“ムーミンの国・フィンランド切手展”を派手にやることになっています。
というわけで、今日からスタンプショウ開幕までの間、その事前の宣伝を兼ねて、僕の手持ちのストックの中からフィンランドがらみのモノを不定期にご紹介していこうかと思います。まずは、この1枚。(画像はクリックで拡大されます) このカバー(封筒)は、幻に終わった1940年のヘルシンキ五輪の宣伝のために作られたものです。 1940年のオリンピックは、当初、東京で開催される予定でしたが、1937年に勃発した日中全面戦争の影響で日本が開催を返上。このため、フィンランドの首都ヘルシンキが代替地に選ばれました。これを受けてフィンランド政府は五輪開催の準備を進め、今日ご紹介しているような宣伝封筒も作られました。 しかし、1939年9月、ドイツとの密約でポーランドを分割したソ連はフィンランドを恫喝して領土の割譲を要求し、同年11月30日にフィンランドに侵攻します。いわゆる蘇芬(ソビエト-フィンランド)戦争です。その余波で、1940年のオリンピックはヘルシンキでの開催も不可能になり、1940年のヘルシンキ大会は、東京大会同様、“幻のオリンピック”となりました。 今日ご紹介しているカバーは、開戦直前、ソ連侵攻の危機が深まっていた1939年11月21日、フィンランド軍の兵士が差し出した軍事郵便に用いられたもので、まさに、“幻のヘルシンキ五輪”を語るのにふさわしいマテリアルではないかと思います。 このカバーは、会場でもなんらかの形で展示する予定ですので、よろしかったら、4月28~30日の<スタンプショウ06>で実物をご覧いただけると幸いです。 *スタンプショウ会期中の29日(土)14:30~、ミニ講演と即売サイン会をやります(くわしくはこちら)ので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。 |
2006-04-13 Thu 23:53
ライブドアの上場が廃止になりました。まぁ、これでただちに同社の株券が無価値になったというわけではないのですが、高値で購入した人たちにすれば、もはや紙屑同然の代物と言っても差し支えないでしょう。
で、切手の世界でも、実際に発行されたものの、何らかの事情で切手としての効力を失い、紙屑同然の存在になってしまったモノは少なからずあるのですが、今日はその中でも、こんな1枚を取り上げてみることにしましょう。 これは、1884年に発行された李氏朝鮮最初の切手のうちの10文切手です。 朝鮮では、改革派官僚であった洪英植を中心に近代郵便創業の準備が進められ、1882年、日本の印刷局に切手の製造が発注されます。切手のデザインは、太極旗(現在の韓国国旗)をモチーフとした雛型をもとに、日本側でデザインを書き起こして作られたものでしたが、日本側の作成した太極文様はかなりデフォルメされており、朝鮮側の用意していた正規のものとは似ても似つかないものでした。 それでも、日本側がつくった5種類の切手の原版は1884年8月9日に完成し、計2万枚が「見本」としてただちに印刷され(5種の注文総数は278万枚)、朝鮮側に納品されています。 こうして、各種の準備が整い、事前の周知・宣伝も行われたところで、同年11月18日(旧暦では10月1日)、ソウル=仁川間で朝鮮の近代郵便が創業。準備されていた5種類の切手のうち、5文(ソウル市内発着の郵便物の基本料金に相当)と10文(朝鮮国内発着の郵便物の基本料金に相当)の2種類の切手が発行されました。 しかし、この計画は、同年12月4日(旧暦では10月17日)に発生した甲申政変により、郵便事業そのものが停止に追い込まれたことですべて頓挫してしまいます。 甲申政変とは、朝鮮の近代化改革をめぐる対立の中で、清朝との宗属関係から独立して国政を革新することを主張する開化派(独立党)が、近代化に抵抗する守旧派(事大党)を打倒して政権を掌握するために起こしたクーデタ事件です。当時の日本は、同じ年に起こった清仏戦争の隙を突いて朝鮮に対する影響力を強めたいとの思惑から、独立党への支援を約束していました。しかし、袁世凱ひきいる清軍は武力介入したため、クーデタはわずか三日で鎮圧されてしまいます。 このクーデタは、約半月前(11月18日)の郵便創業を祝うためのパーティに事大党の政府高官が列席する機会にあわせて実行され、郵征総弁(郵政長官)の洪英植もその首謀者に名を連ねていました。このため、クーデタが失敗し、洪が清軍によって殺されると、朝鮮の郵便事業は、逆賊の行った開化事業として、開業からわずか19日後の12月8日には廃業に追い込まれてしまいます。そして、それに伴い、準備されていた日本製の朝鮮切手は、すべて、郵便料金前納の証紙としての効力を失い、単なる紙屑となりました。 その後、朝鮮の近代郵便は、1895年7月22日(旧暦では6月1日)、日清戦争の戦場となっている中で行われた近代化改革(乙未改革)によって、甲申政変から10年以上が経過した後ようやく再開されました。なお、このとき、再開された朝鮮郵政の切手製造を担当したのは、日本の印刷局ではなく、アメリカの民間会社アンドリュー・B・グラハム紙幣印刷会社(Andrew B. Graham Bank Notes Co.)です。 まぁ、今回ご紹介している切手の場合、郵便料金前納の証紙としては無効の“紙屑”になっても、切手収集家の間では相応の価格で取引されているわけで、その意味では、「捨てる神あれば拾う神あり」の典型といえるのかもしれません。なお、この切手に関する話は、その昔、『外国切手に描かれた日本』(光文社新書)という本の中で書いたことがあるので、よろしかったら、チェックしていただけると幸いです。 そういえば、ライブドアの株券も、厳密には、まだ“紙屑”になったわけではないのですが、ホリエモンの名前が印刷されているということで、株券としての価値とは別に、一種のコレクターズ・アイテムとして人気が出ているとか。もっとも、こちらのほうは、朝鮮最初の切手のように、いまから120年後も人々から見捨てられずに価値を維持できているかどうか、ちょっと疑問ですがね。 |
2006-04-12 Wed 23:58
今月5日、2003年のイラク戦争後初めてバグダッドで開かれた第60回の“ミス・イラク・コンテスト”で、見事グランプリに輝いた女性が、いわゆるイスラム原理主義組織から「不信心」との脅迫を受け、安全上の理由から優勝を辞退していたそうです。
で、優勝した女性の顔写真などは見ていないのですが、イラク風の美人ってどんな感じだろうと思って、イラクの女性を描いた切手を探していたら、こんな1枚が見つかりました。(画像はクリックで拡大されます) この切手は、サダム・フセイン政権末期の2002年秋に4種セットで発行された「バグダードの日」の切手の1枚で、イラクの若い女性とその母親を描いた絵画作品が取り上げられています。切手に描かれている娘さんは、色白でほっそりした体型、目がパッチリとしており、日本人の目で見ても十分に美人さんです。 サダム・フセイン政権下の切手というと、こんな感じの反米バリバリ路線のものや、こんな感じのフセイン・マンセーのノリのものばっかりというイメージが強いかもしれませんが(そうした類の切手については、拙著『反米の世界史』をご覧いただけると幸いです)、実は、今日ご紹介しているような“まともな切手”も少なからず発行されています。 それにしても、この時期のイラクの切手は、オフセンター(目打に対して切手の印面がずれている)の切手が非常に多いので、見栄えの良い切手を探してこようとすると苦労させられます。また、経済封鎖がある程度緩和されてカラー印刷の切手が再び作られるようになったのは良いのですが、印刷能力の回復がまだ道半ばのため、色調が安定していない上に刷り合せの良くないものが多いので、かえって、経済封鎖がきつかった時期の切手につくられた素朴な切手よりも見劣りしてしまうという皮肉な結果になっています。ちなみに、画像の切手はスキャンに失敗してピンボケになったわけではなく、これが元々の状態です。 まぁ、その分、切手のコレクターとしては、さまざまなバラエティを楽しめるわけですし、当時のイラクがおかれていた経済状況をうかがい知ることができるわけで、その意味では貴重な史料といえなくもないのですが、やっぱり、美人さんの顔は綺麗な印刷の切手でじっくりと眺めてみたいものです。 |
2006-04-10 Mon 23:15
今日は婦人参政記念日。いまからちょうど60年前の1946年4月10日、戦後最初の総選挙が行われて、日本の女性が初めて参政権を行使した日だそうです。というわけで、こんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1971年に発行された「婦人参政25年」の記念切手と、切手発行にあわせて使われた特印(記念スタンプ)です。 婦人参政に関する周年記念切手としては、1965年10月に発行された「国民参政75周年」の記念切手 が、婦人参政20周年もあわせて記念するものという性格を持っていましたが、単独の切手としては今回が最初のケースとなります。 切手のデザインは、国会議事堂をバックに投票する女性の姿を描いたものですが、髪型とワンピースのデザインが当時の時代を彷彿とさせます。日本の切手というのは、どういうわけか、現実に生活している人の姿を取り上げる事が非常に少ないため、こういうかたちで時代の風俗が記録されているのは史料的にも意味があるように思います。 なお、この切手の図案に関しては、議事堂中央の柱の影の描き方がおかしいことを小学生が指摘し、話題になりました。 一方、特印は国会の議席図に“婦人週間”(“女性の日”でもある4月10日から16日までの1週間。労働省が1949年に設けたもので、女性の地位向上のための特別行事が全国的に実施される) のマークを配したものです。 さて、この切手を含む封書15円時代の記念・特殊切手についてまとめた『(解説・戦後記念切手Ⅳ)一億総切手狂の時代 昭和元禄切手絵巻 1966-1971』(日本郵趣出版)が刊行となりました。記念切手の“読む事典”として、切手発行の経緯やデザイン、発行された切手の評判まで、この時代の記念・特殊切手のあらゆる情報を網羅的に採録した本ですので、切手収集家の方はもちろん、広く戦後史一般にご興味をお持ちの方にも、是非、ご覧いただけると幸いです。 |
2006-04-09 Sun 22:42
イスラエルの建国をめぐる第一次中東戦争は、1948年5月14日のイスラエル独立宣言を機に発生しますが、すでに、1947年11月の国連でのパレスチナ分割決議案の採択以降、イギリス委任統治領のパレスチナはユダヤ系とアラブ系の内戦状態に突入していました。
こうした状況の下で、1948年4月9日、エルサレム近郊のデイル・ヤーシーン村で、ユダヤ系のテロ組織によって、老人や女性、子供をも含めた村民の虐殺事件(犠牲者は107~120人といわれている)が発生します。いわゆる、デイル・ヤーシーン事件です。 事件の後、身の危険を感じたアラブ系住民約10万人がパレスチナから脱出。国際社会の非難をよそに、ユダヤ側のダレット計画(パレスチナのアラブ社会を破壊してアラブ住民を追放し、パレスチナ全土を制圧してユダヤ人国家創設を既成事実とすることをめざす計画)は大きく前進することになります。 デイル・ヤーシーン事件は、現在なお、アラブ諸国では、シオニスト国家イスラエルの残虐性を象徴する事件として記憶されており、1965年には、反イスラエル宣伝の格好の材料としてアラブ諸国の切手に取り上げられています。 画像(クリックで拡大されます)は左から、シリア、エジプト、イラクが発行したものですが、デイル・ヤーシーンの地図に血塗られた短剣が刺さっている共通のデザインが使われています。同じデザインのイスラエル非難の切手を発行することで、“反イスラエル”という共通の目的の下でのアラブの連帯をアピールする目的があったことは一目瞭然です。 もっとも、切手の元になっているデザインは共通ですが、切手の刷色だとか文字の入れ方、印刷物としての仕上がりのテイストなどは結構、違っています。こういうところからも、一口に“アラブ”とはいっても、それぞれの国にはそれぞれの背景や事情があるのだということが垣間見えるようで、なかなか面白いのではないかと思います。 さて、3月に刊行した拙著『これが戦争だ!』(ちくま新書)では、口絵カラーでこの3種の切手を取り上げているほか、「この土地は我々のものだ!」と題する1章で第一次中東戦争のこともさまざまな切手や郵便物を使って説明しています。ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。 |
2006-04-08 Sat 19:52
4日の記事でも書きましたが、東京・目白の切手の博物館は、今年、開館10周年を迎えます。先日は、その企画展として1階展示室で開催の“まる。”展のことを少しご紹介しましたが、今日(8日)からは、3階特設会場で、ぐっと通好みの特別展示日本普通切手10選がスタートしました。
この展示は、明治、大正、昭和時代に発行された普通切手を10名の専門収集家によるコレクションで紹介するもので、日本の切手の美しさを再発見していただこうというものです。また、会場には、普通切手ではないのですが、逓信総合博物館のご厚意で、「見返り美人」のレイアウト下図ほか、切手趣味週間関連の貴重な資料もショーケース展示されています。 というわけで、趣味週間切手の「見返り美人」について、簡単にまとめてみましょう。 菱川師宣の肉筆浮世絵「見返り美人」は、1948年11月29日から始まった切手趣味週間の特殊切手として取り上げられました。 当初、逓信省(当時の郵便を所管する役所)としては、趣味週間の特殊切手には三角切手の発行を計画していたようですが、この企画は印刷局での目打作業が不可能であるとして早々に撤回されています。 その後、取引高税(一種の消費税のようなものと考えてください)用一万円印紙(横長)の穿孔機が切手用にも使用できることが判明したため、このサイズ(縦長もしくは横長で68ミリ×30ミリ)の切手に適した図案が選ばれ、かねてから要望のあった浮世絵の中から「見返り美人」に白羽の矢が立てられたといわれています。 原画となった「見返り美人」の作者・菱川師宣は、1618年頃、房州・保田で生まれたといわれています。当初、土佐派の絵画を学んだ後、江戸に出て浮世絵画家として活躍。特に、版画による浮世絵というジャンルを確立したことで日本美術史上に大きな足跡を残し、1694年に77歳で亡くなりました。ただし、「見返り美人」は版画ではなく、肉筆画です。 さて、「見返り美人」は、その出来栄えとともに、発行枚数が150万枚と少なかったこともあって、発売早々に売り切れ、趣味週間最終日の12月5日には早くもプレミア付で取引されるほどでした。当時の雑誌『郵趣』には、「見返り美人」について「郵便に用ひるのが惜しい位、もし用ひれば無事に着かないで、途中で剥奪される率が非常に多かつた」との記事が掲載されており、その人気のすさまじさがしのばれます。 こうして「見返り美人」は戦後日本切手を代表する地位を獲得。現在にいたるまで常に高い人気を維持しつづけ、1991年の切手趣味週間や1996年の「郵便切手の歩みシリーズ」など、その後の切手にもたびたび採録されました。 なお、「見返り美人」が発行された当時の状況などについては、戦後記念切手の“読む事典”である<解説・戦後記念切手>シリーズの第1巻『濫造・濫発の時代 1946-1952』(日本郵趣出版)で詳しく説明しておりますので、ご興味をお持ちの方はお読みいただけると幸いです。 *シリーズ最新刊の『一億総切手狂の時代・昭和元禄切手絵巻 1966-1971』についてはこちらをご覧ください。 |
2006-04-07 Fri 23:58
今日(4月7日)は世界保健デーです。世界保健デーに関する切手はいろいろあるのですが、中でも一番強烈なものといえば、やっぱこれでしょう。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1984年4月の世界保健デーにあわせて、イランが発行したものです。切手は、飢えたアフリカの子供の食器には食糧の代わりに爆弾が入っている様子と、豊かな食事をして丸々と太った先進国の子供を対比させており、アフリカでの紛争の犠牲の上に(武器の輸出で利益を得ている)先進諸国は豊かな生活をしている、という寓意になっています。 この切手が発行された当時、イランは対イラク戦争の真っ只中にありました。イラン・イラク戦争は、客観的に見れば、イラクが革命後の混乱に乗じてイランに仕掛けた侵略戦争でしかなかったのですが、イランのイスラム革命が周辺諸国に波及することを恐れた国際社会は、イラン封じ込めのために、一致してイラクを支援します。こうしたことから、既存の国際秩序に対する不満を募らせたイランは、ここに挙げたような切手をはじめとして、プロパガンダ色の強い切手を多数発行し(たとえば、この記事もご覧ください)、国際社会に対する異議申し立てを行ったというわけです。 この時期のイランのプロパガンダ切手はいろいろと興味深いものが多いので、今までにもいろいろなところで手を変え品を変えご紹介しているのですが、先月刊行した拙著『これが戦争だ!』(ちくま新書)でも、「世界は我々の味方だ!」という1章の中でいろいろとご説明しています。ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。 *明日8日(土)の10:15~12:00、東京・目白のカルチャービルにて行われるイベント切手市場にて、できたてホヤホヤの新刊『(解説・戦後記念切手Ⅳ)一億総切手狂の時代 昭和元禄切手絵巻 1966-1971』ならびに『これが戦争だ! 切手で読み解く』(ちくま新書)の即売・サイン会を行います。切手市場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。 |
2006-04-06 Thu 23:52
以前からこのブログでもご案内の通り、4月20日付で、<解説・戦後記念切手>シリーズの第4作として、日本郵趣出版(切手関係の専門出版社です)から『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』を刊行します。本日(6日)、その現物ができあがってきましたので、ご挨拶申し上げます。(画像は表紙カバーです)
<解説・戦後記念切手>は、1946年以降に発行された記念・特殊切手(ただし公園・年賀切手を除く)について、切手発行の経緯やデザイン、当時の人々の評判などの情報を網羅的にまとめた“読む事典”です。2001年の刊行以来、昨年までに刊行した第1~3巻では、1946年12月の「郵便創始75年」から1966年4月の「切手趣味週間」(蝶)までを採録しましたが、今回の第4巻は、それを引き継ぎ、封書基本料金が15円だった時代に発行されたすべての記念切手についてまとめました。 体裁としては個々の記念切手の解説を集めたものというかたちをとっていますが、それぞれの切手についての記述を通じて、1960年代後半から1970年代初頭にいたる“昭和元禄”と呼ばれた時代の諸相を浮かび上がらせるよう、精一杯の努力をしたつもりです。切手収集家の方はもちろん、戦後史に興味をお持ちの方にも関心を持っていただけるのではないかと考えております。 奥付上の刊行日は4月20日ですので、一般書店の店頭に並ぶのはまだ暫く先のことになるかもしれませんが、一部切手商の店頭などでは、早ければ今週末には実物をご覧いただけると思います。実物をお見かけになりましたら、お手にとってご覧いただけると幸いです。 なお、8日(土)の10:15~12:00、東京・目白のカルチャービルにて行われる切手市場会場内にて、本書ならびに3月10日刊行の『これが戦争だ!』(ちくま新書)の即売・サイン会を行います。切手市場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。 |
2006-04-04 Tue 19:39
今日(4日)から、東京・目白の切手の博物館では、開館10周年の記念イベントとして“まる。”展を開催しております。10周年を、“つ離れ”してはじめて0がついたお祝いになぞらえた企画です。
で、今回の展示の目玉が、下の画像の1枚(1点というべきか)です。 この切手は、1852年7月1日、現在はパキスタンの一部になっているシンド州で発行された世界最初の円形切手です。ちなみに、1852年というと、日本では、ペリーの黒船が浦賀に来航する以前のことです。 カラチを中心とするシンド州は、北方のパンジャブ州からアフガン方面に支配を拡大しようとしていたイギリスにとって戦略的な要衝でした。このため、イギリスとしては、インド西海岸の港湾都市であるボンベイ(現ムンバイ)とシンドを結ぶ通信網を確保する必要があり、地方長官のバートル・フレアーは切手を用いた郵便制度を導入します。 最初に用意された切手は、封緘用のシールに型押しされたもので、中央に幅広の矢が描かれています。この矢は東インド会社でシールとして使われていたもので、ハート型に広くなっている部分には3つに分割されてEICの文字が入っています。これは、東インド会社(East India Company)の頭文字です。また、ハートの下には額面の1/2ANNAの文字も見えます。全体は円形の枠で囲まれており、その中には“シンド地方郵便”を意味するSchinde District Dawkの文字が入れられました。(下にその文字等を起こしたギボンズ・カタログの図版を載せています。) この切手は、紙ではなく封緘用のワックスシールに型押しされた切手であるため、封筒に貼るとごわごわするうえ非常にもろいので、利用者からは不評でした。このため、すぐに白紙に型押したものに改められましたが、白紙の切手も封筒に貼ると見づらいことから、さらに青色の用紙に型押しした切手に改められています。その後、1854年10月1日から、ヴィクトリア女王を描く全インド共通の切手が使われるようになったため、シンド州の切手もその役割を終えることになりました。 こうした事情から、このワックスシールの切手は、現在完全な形で残されているのはごく僅かで、まさに“博物館級”の逸品とされています。 実はこのブログに画像をアップしようとしたのですが、通常の切手と違ってスキャナーにかけられないので、今日の画像はデジカメで撮影したものになっています。そのため、文字などはちょっとわかりづらいと思いますので、ご興味をお持ちの方は、是非、東京・目白の切手の博物館までお運びいただき、実物をご覧ください。 このほか、“まる。”展では、世界の円形切手、デザインの中に○があるもの、丸い物体や球体を描いた切手など様々な“まる”にちなむ切手を特集しており、お子様連れの方にも楽しめる内容となっています。 6月29日までの会期中、一人でも多くの方に御来場いただけますよう、スタッフ一同、心よりお待ち申しております。 *イベントの詳細は“まる。”展の文字部分を、博物館へのアクセスなどは切手の博物館の文字部分を、それぞれクリックしてご覧ください。 |
2006-04-03 Mon 23:07
今日(4月3日)は、1911年4月3日に東京都中央区の日本橋が木橋から石橋に架け替えられたことにちなんで、日本橋開通記念日となっているのだそうです。そういえば去年の暮れでしたか、小泉首相の肝煎りで、東京・日本橋の伝統的な景観を取り戻すため、現在橋をかぶさる形で走っている高架の移設を検討する有識者会議が設立されましたが、その後、彼らは何をやってるんでしょうねぇ。
というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1964年8月1日に発行された首都高速開通の記念切手とその特印(記念スタンプ)で、東京オリンピック直前の日本橋付近、具体的には、首都高の日本橋と交互する場所から江戸橋インターチェンジを望んだ風景が描かれています。 切手の原画制作に際して、関係者の証言では小型飛行機により空からも取材し、全区間を通じて最もダイナミックであった江戸橋インターチェンジを題材として選んだとされていますが、実際のデザインは飛行機からの眺めではなく、缶詰で有名な日本橋脇の国分商店(現・K&K国分株式会社)日本橋本社ビル の4階窓から見た景色です。 切手手前に描かれている高速道路は4号分岐線で、万代橋を経て皇居周辺、そして、オリンピック選手村のある代々木方面へいたる四号線に通じています。また、切手奥(視線の方向からすると前方)に横たわっている道路は、右へ伸びるのが1号線で大森方面へ、左へ伸びるのが3号線で本町方面に、それぞれ、つながっています。 また、図案右端の黒い建物が六階建ての野村証券本社ビル、その左側に接しているのが五階建ての三菱倉庫(その西南隣に日本橋郵便局があるが、切手では見えない)。さらにその左側は三階建ての共同ビルです。日本橋は、中央通で橋をくぐって100メートル先の左側に三越百貨店があり、画面の下方には日本橋川も描かれています。 一方、切手発行と同時に用いられた特印も日本橋付近の景色ですが、こちらは、上空から日本橋付近の首都高を見下ろした風景が取り上げられています。もしかすると、飛行機を飛ばして描いたスケッチはこちらのほうに活用されたのかもしれません。 このあたりの事情については、昨年刊行の『切手バブルの時代』で詳しく書きましたので、ご興味をお持ちの方はご覧いただけると幸いです。(なお、その続編の『一億総切手狂の時代』もまもなく刊行ですので、もう暫くお待ちください) |
2006-04-01 Sat 19:08
今日はエイプリル・フールです。というわけで、“騙す”に絡めて、こんなモノをご紹介しましょう。
これは、1943年、アメリカの戦略情報局(OSS、現在のCIAの前身)がつくった偽造切手です。ちなみに、この切手の元になった本物の画像を下に貼り付けておきます。(画像はどちらもクリックで拡大されます) 戦時下において、敵国の経済を混乱させるため、紙幣を偽造することはしばしば見られる現象です。もっとも、切手の場合には、紙幣と比べて一般的にはきわめて少額ですから、偽造切手の製造は、経済的な効果を狙って行われるというよりも、政府の管理能力に対する信頼性を貶めるという社会心理的な効果を狙ったものと考えるのが自然でしょう。 さて、アメリカはドイツ国内を撹乱する目的で、当時、ドイツ国内で流通していたヒトラー切手のニセモノを大量に作り、ドイツ国内にばらまいたわけですが、偽物と本物を比べると、紙や印刷の感じが異なっており、比較的簡単に識別することができます。ただ、これは両者を並べてみたときの話で、切手に関心を持っていない人がいきなり偽物だけを見せられると、案外、騙されてしまうのかもしれません。 さて、3月10日に刊行したばかりの拙著『これが戦争だ』(ちくま新書)では、今回の偽者切手をはじめ、戦時下のいわゆる“謀略切手”の数々をご紹介しています。よろしかったら、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。 |
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