2021-01-26 Tue 03:40
きょう(26日)は、1788年1月26日、最初の移民として、囚人を乗せた英艦隊11隻がシドニー・コーブに到着したことにちなむ“オーストラリア・デー”です。というわけで、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』の中から、オーストラリア切手が貼られた郵便物を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦中の1944年12月23日、ソロモン諸島西部、ニュージョージア島のムンダ飛行場(現ムンダ空港)に置かれていたオーストラリア軍の第39軍事郵便所(UNIT POSTAL STATION AC 39)からメルボルン宛に差し出された郵便物です。 ムンダはニュージョージア島南西端に位置する同島最大の居住地で、英国人のノーマン・ホイートリーがココナツ農場として開拓し、第二次大戦の勃発時にはオーストラリア人のレスリー・ギルが所有していました。 1942年11月24日、日本軍はガダルカナル島攻略のための拠点として、ムンダでの滑走路建設工事を開始。工事は、上空から発見されないよう、ケーブルで浮かせたヤシ林で偽装しつつ進められましたが、米軍は12月3日に滑走路を発見。同9日にはB-17爆撃機による爆撃を開始します。しかし、日本側は12月13日には飛行場を完成させ、同月23日に海軍航空隊252空の零戦24機が進出しました。 その後、ムンダ飛行場は連合軍の激しい攻撃を受け、日本側は大きな損害を受けたこともあり、12月29日、残存3機がラバウルにむけて発進したのを最後に航空隊は撤退します。しかし、日本軍がガダルカナルから撤退した後も、ムンダには、中部ソロモン諸島日本軍防備隊の陸軍南東支隊の司令部と海軍陸戦隊の指揮所が置かれていました。 そして、1943年6月30日には米軍がムンダ南西にあるレンドバ島に上陸。さらに7月5日にはニュージョージア島のムンダ東方に上陸し、日本陸軍の南東支隊との間で約1ヶ月にわたる激戦が展開されます。結局、8月4日までに日本軍はムンダ飛行場を放棄し、8日には司令部はコロンバンガラ島に後退。同6日、マッカーサー司令部はムンダの占領を発表しました。 今回ご紹介のカバーは、連合軍によるムンダ占領後、この地に進駐したオーストラリア軍の第23歩兵旅団第7大隊の兵士が差し出したもので、オーストラリアYMCAから提供された封筒を使用し、軍事郵便としての料金は無料ですが、航空料金として3ペンス切手が貼られています。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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