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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 パラグアイ、次期大統領は台湾との国交維持派
2023-05-02 Tue 04:06
 おととい(30日)投開票が行されたパラグアイの大統領選挙で、台湾との国交維持を主張する与党候補のサンティアゴ・ペニャが、野党候補で台湾と断交して中国と国交を結ぶことを主張していた元下院議長のエフライン・アレグレを下して勝利し、パラグアイと台湾の関係は維持されることになりました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      パラグアイ・対中国交50年

 これは、2007年7月8日、パラグアイが発行した“中華民国(台湾)との国交50年”の記念切手で、台北の101と両国の国旗を描いた切手を中央に、左側に台湾の茶器と月琴を取り上げたタブを、、右側にマテ茶で用いられる茶器のグアンパと民族楽器のアルパを取り上げたタを配する構成になっています。

 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。

 * 昨日(1日)、アクセスカウンターが257万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。

★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★

 5月12日(金) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。

 よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00
 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。
 
 武蔵野大学のWeb講座 
 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」と「日本郵便150年の歴史」の2種類の講座をやっています。詳細はこちらをご覧ください。 

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      現代日中関係史2

 2022年11月に刊行された「第1部1945-1972」の続編で、日中国交”正常化”以降の1972年から2022年までの半世紀の、さまざまな思惑が絡まり合う日中関係の諸問題を、切手とともに紐解いていきます。

 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 昭和天皇30年式年祭
2019-01-07 Mon 18:21
 1989年1月7日に昭和天皇が崩御されてから、きょうでちょうど30年です。これにあわせて、皇居では30年式年祭の「皇霊殿の儀」があり、東京都八王子市の武蔵野陵では30年式年祭の「山陵の儀」が行われました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      パラグアイ大統領訪日(晩餐会)

 これは、1972年にパラグアイが発行したアルフレド・ストロエスネル大統領訪日の記念切手のうち、宮中晩餐会で昭和天皇と大統領を取り上げた切手シートです。

 ストロエスネルは、1912年11月3日、パラグアイ南部のエンカルナシオンの生まれで、17歳で陸軍に入り、1932年にボリビアとの間に闘われたチャコ戦争で軍功を立てて一躍有名になりました。1951年に陸軍総司令官に就任。1954年5月に軍事クーデターを起こして実権を掌握し、1954年から1989年まで、通算8期35年間大統領を務めました。

 さて、ストロエスネルは、生年が明治天皇崩御の1912年、誕生日が旧明治節の11月3日ということから、みずからを“明治大帝の生まれ変わり”と信じていました。このため、個人的には大の親日家で、1959年には日本・パラグアイ移住協定に調印し、30年間に8万5000人の日本人移民の受け入れを約束しています。実際にはそこまで多くの移民は集まらなかったものの、日本はパラグアイに対する援助を拡充し、日系移民の社会的な地位も大いに向上しました。

 こうしたこともあって、1972年4月14-20日、ストロエスネルが国賓として日本を訪問した際には、日本側は彼を歓待。昭和天皇は帰国する大統領を空港までお見送りに来られましたが、そのことはストロエスネルを大いに感激させ、今回ご紹介の切手発行につながったといわれています。      

 ちなみに、東西冷戦という国際環境の下で反共の旗幟を鮮明にしたことで、日米をはじめとする西側諸国の支援を得てパラグアイに経済成長をもたらしたストロエスネルでしたが、昭和から平成への御代代わりにあたる1989年、アンドレス・ロドリゲス将軍(後に大統領)のクーデターによって政権の座から追われ、ブラジルに亡命。2006年にブラジリアで亡くなりました。
 

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 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 安倍首相、パラグアイを訪問
2018-12-03 Mon 06:50
 ブエノスアイレスで開かれていた20カ国・地域(G20)首脳会議の出席を終えた安倍首相は、ウルグアイを経て、きょう(日本時間3日午前・現地時間2日午後)、パラグアイを訪問します。日本の首相がパラグアイを公式訪問するのは初めてということなので、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      パラグアイ・日系人のブドウ栽培

 これは、1986年にパラグアイが発行した“日本人移住50周年”の記念切手で、ラ・コルメナ地区での日系人によるブドウ栽培の風景が取り上げられています。

 パラグアイへの日本人の制度的な移民は、1930年、わが国の在アルゼンチン特命全権公使がパラグアイのホセ・パトリシオ・グヒアリ政権から日本人のパラグアイ移住を歓迎するとの感触を得て、「パラグアイ拓殖計画」を日本政府に提出したのが出発点となります。しかし、当時の南米での日本人の移民先は、ペルーとブラジルが主流だったこともあり、1930年の時点では、パラグアイへの移民が真剣に検討されることはありませんでした。

 ところが、1934年、ブラジルのヴァルガス政権が「移民二分制限法」(新規の移民は、すでに定住している当該国人の2%を超えることが出来ないとする制度)を発令。このため、それまで年間2万人だった日本からブラジルへの移民枠は年間2500人にまで制限されます。

 このため、ブラジルに代わる日本人の移民先としてパラグアイが注目されることになり、1935年、パラグアイのアヤラ政権も、日本人100家族に対して入国許可を出しました。

 しかし、1936年2月17日、ラファエル・フランコ大佐のクーデターが発生してアヤラは失脚。権力を掌握したフランコは、「日本人移民の入国許可は前政権が出したものであって、現政権はこれを認めない」として、日本からの移住計画を白紙に戻してしまいます。

 その結果、日本政府としては表だって移民の準備が進められなくなったため、実際には拓務省がパラグアイへの移民準備を進めるものの、名目上は、ブラジル拓殖組合(ブラ拓)の専務理事であった宮坂国人が個人の名義で日本からの移民の入国許可申請の手続きを行い、入植地の購入を行うことになりました。

 宮坂は、1936年3月、首都アスンシオンから東南約130kmの地点にあるラ・コルメナ地区の1万1000ヘクタールの土地を入植地として選定するとともに、ブラ拓内にパラグアイ拓殖部(パラ拓)を設けて、体制を整えて時機をうかがっていましたが、1936年4月30日、パラグアイ政府が大統領令第1026号をもって日本人移民100家族を受け入れる許可を出したことを受けて、同年5月15日にはパラ拓スタッフが、6月にはブラジルからの指導移民が、それぞれ先遣隊としてラ・コルメナに入ります。そして、8月、日本から到着した最初のパラグアイ移民を迎えました。

 ラ・コルメナでのブドウの栽培が始まったのは、日本人の入植から間もない1939年のことで、ニアガラ種の栽培から始めて、スモモ、ミカンなど他の果樹栽培に先立って作付面積が増大。現在はマスカット、巨峰、紅富士、ルビー、加工用のカンピーナスも栽培されているほか、La Colmenita(ラ・コルメニータ)などのワインも醸造されています。

 その後、1941年の日米開戦に伴い、パラグアイは日独伊三国と国交を断絶。これにより、ラ・コルメナ地区への日本人の入植も途絶し、1945年にパラグアイが日本に宣戦布告をすると、ラ・コルメナ移住地は全パラグアイの日本人収容地となり、日本人の移住地以外への外出も制限されるようになりました。

 大戦後も、ラ・コルメナ移住地では1946-47年に大規模な蝗害が発生するなど入植者の苦難は続いたが、移住者は徐々に増加し、移住地も他の地域に拡大。さらに、1954年にクーデターで政権を掌握したアルフレド・ストロエスネルは、1959年に日本・パラグアイ移住協定に調印し、30年間に8万5000人の日本人移民の受け入れを約束。実際にはそこまで多くの移民は集まらなかったものの、日本はパラグアイに対する援助を拡充し、日系移民の社会的な地位も大いに向上しました。


★★ トークイベント・講演のご案内 ★★

 以下のスケジュールで、トークイベント・講演を行いますので、よろしくお願いします。(詳細は、イベント名をクリックしてリンク先の主催者サイト等をご覧ください)

 12月9日(日) 東海郵趣連盟切手展 於・名古屋市市政資料館 
 午前中 「韓国現代史と切手」

 12月16日(日) 武蔵野大学日曜講演会 於・武蔵野大学武蔵野キャンパス
 10:00-11:30 「切手と仏教」 予約不要・聴講無料


★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★

      表紙帯つき 本体2000円+税

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 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

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(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 
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 世界の国々:パラグアイ
2017-02-05 Sun 10:51
 ご報告が遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年2月1日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はパラグアイの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      パラグアイ・日系移民80年

 これは、2016年、日本人移民80周年を記念してパラグアイが発行した切手シートです。

 パラグアイへの日本人の制度的な移民は、1930年、わが国の在アルゼンチン特命全権公使がパラグアイのホセ・パトリシオ・グヒアリ政権から日本人のパラグアイ移住を歓迎するとの感触を得て、「パラグアイ拓殖計画」を日本政府に提出したのが出発点となります。

 当時の日本は経済力に比して人口が過剰で海外への移住が奨励されていましたが、南米に関しては、ペルーとブラジルへの移民が主流だったこともあり、1930年の時点では、パラグアイへの移民が真剣に検討されることはありませんでした。

 ところが、1934年、ブラジルではナショナリズムを強調するヴァルガス政権が「移民二分制限法」(新規の移民は、すでに定住している当該国人の2%を超えることが出来ないとする制度)を発令。このため、それまで年間2万人だった日本からブラジルへの移民枠は年間2500人にまで制限されました。そこで、ブラジルに代わる日本人の移民先として、パラグアイが注目されることになり、1935年、アヤラ政権は、日本人100家族に対して、パラグアイへの入国許可を出します。

 しかし、1936年2月17日、ラファエル・フランコ大佐のクーデターが発生し、アヤラは失脚。権力を掌握したフランコは、「日本人移民の入国許可は前政権が出したものであって、現政権はこれを認めない」として、日本からの移住計画を白紙にすると表明します。

 その結果、日本政府としては表だって準備が進められなくなったため、実際には拓務省がパラグアイへの移民準備を進めるものの、名目上は、ブラジル拓殖組合(ブラ拓)の専務理事であった宮坂国人が個人の名義で日本からの移民の入国許可申請の手続きを行い、入植地の購入を行うことになりました。ちなみに、今回ご紹介のシート左側の人物は、入植地選定のための調査を行った笠松尚一(2代目パラグアイ日本人会連合会会長)です。

 さて、宮坂は、1936年3月、首都アスンシオンから東南約130kmの地点にあるラ・コルメナ地区の1万1000ヘクタールの土地を入植地として選定するとともに、ブラ拓内にパラグアイ拓殖部(パラ拓)を設けて、体制を整え、時季を待つことになります。

 こうした敬意を経て、1936年4月30日、パラグアイ政府が大統領令第1026号をもって日本人移民100家族に対する受入許可を出すと、同年5月15日にはパラ拓スタッフが、6月にはブラジルからの指導移民が、それぞれ先遣隊としてラ・コルメナに入り、8月、日本から到着した最初のパラグアイ移民を迎えました。

 1941年の日米開戦に伴い、パラグアイは日独伊三国と国交を断絶。以後、ラ・コルメナへの入植者も途絶します。さらに、1945年にパラグアイが日本に宣戦布告をすると、ラ・コルメナ移住地は全パラグアイの日本人収容地となり、日本人の移住地以外への外出は制限されました。

 大戦後も、ラ・コルメナ移住地では1946-47年に大規模な蝗害が発生するなど入植者の苦難は続きましたが、移住者は徐々に増加し、移住地も他の地域に拡大していきます。

 1954年にクーデターで政権を掌握したアルフレド・ストロエスネルは、1989年まで35年の長きにわたり、強権的な開発独裁制作を続けましたが、彼は生年が明治天皇崩御の1912年、誕生日が旧明治節の11月3日ということから、みずからを“明治大帝の生まれ変わり”と信じていたことにくわえ、日系農家の生産性が高かったこともあって、親日的な傾向が強い人物でした。このため、ストロエスネル政権は、1959年に日本・パラグアイ移住協定に調印し、30年間に8万5000人の日本人移民の受け入れを約束。実際にはそこまで多くの移民は集まりませんでしたが、日本はパラグアイに対する援助を拡充し、日系移民の社会的な地位も大いに向上することになります。

 ちなみに、日本人移民の入植以前は、パラグアイでは小麦はほぼすべて輸入に頼っていましたが、日本人の農場で小麦が生産されるようになったことで、現在のパラグアイは小麦の輸出国になっています。また、1960年代に日系移民が始めた日本への大豆輸出は、現在ではパラグアイの主要輸出作物の一つに成長しており、2011年の東日本大震災後には「100万丁豆腐プロジェクト」として100万丁分の原料の大豆と製造加工費の日本への支援も行われています。

 さて、『世界の切手コレクション』2月1日号の「世界の国々」では、パラグアイにおける日系移民についての長文コラムに加え、特産品のひまわり、カアクペの聖母、チャコ戦争、フリージア帽を守るライオンの紋章切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、 「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のパラグアイの次は、8日に発売予定の2月15日号でのモルディヴの特集(2回目)になります。こちらについては、発行日の15日以降、このブログでもご紹介する予定です。


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 内親王殿下、パラグアイへ
2016-09-06 Tue 11:30
 秋篠宮家の長女、眞子内親王殿下が、きょう(6日)から16日までの日程で、パラグアイをご訪問(途中、ドイツとブラジルにもお立ち寄り)なさいます。今回のご訪問は、日本人移住80周年にあたり、同国政府から招待されたものということなので、きょうはこの切手です。

      パラグアイ・日系移民50年

 これは、1986年にパラグアイで発行された“日系移民50年”の記念切手で、ラ・コルメナの入植記念碑が取り上げられています。
 
 パラグアイへの日本人の制度的な移民は、1930年、わが国の在アルゼンチン特命全権公使がパラグアイ政府から日本人のパラグアイ移住を歓迎するとの感触を得て、「パラグアイ拓殖計画」を提出したのが出発点となります。

 その後、1934年、ブラジル政府が「移民二分制限法」(新規の移民は、すでに定住している当該国人の2%を超えることが出来ないとする制度)を発令したため、それまで年間2万人だった日本からブラジルへの移民枠が年間2500人まで制限されてしまいます。このため、代替地としてパラグアイへの海外移住の準備が始まり、翌1935年には日本人移民100家族がパラグアイへの入国許可を取得しました。

 ところが、1936年2月17日、ラファエル・フランコ大佐のクーデターが発生し、エウセビオ・アヤラ大統領が失脚。権力を掌握したフランコは「日本人移民の入国許可は前政権が出したものであって、現政権はこれを認めない」としたため、一旦は移住計画は宙に浮いてしまいます。この結果、日本政府としては表だって準備が進められなくなったため、事実上、拓務省が準備を進めるものの、名目上は、ブラジル拓殖組合(ブラ拓)の専務理事であった宮坂国人が個人名義で移民の入国許可の申請や入植地の売買を行い、1936年3月にはラ・コルメナ地区を入植地として選定するとともに、ブラ拓内にパラグアイ拓殖部(パラ拓)を設けて、移住許可が下りるのを末体制が整えられました。

 こうした準備と並行して、両国政府間の交渉も進められ、1936年4月30日大統領令第1026号をもって日本人移民100家族を試験的に受け入れる許可が下ります。これを受けて、同年5月15日にはパラ拓スタッフが、6月にはブラジルからの指導移民が、それぞれ先遣隊としてラ・コルメナに入り、8月、日本から到着した最初のパラグアイ移民を迎えました。今回ご紹介の切手や、内親王殿下をお迎えしての記念式典は、いずれも、ここから起算しての周年記念事業となります。

 ちなみに、日本人移民の入植以前は、パラグアイでは小麦はほぼすべて輸入に頼っていましたが、日本人の農場で小麦が生産されるようになったことで、現在のパラグアイは小麦の輸出国になりました。また、1960年代に日系移民が始めた日本への大豆輸出は、現在ではパラグアイの主要輸出作物の一つに成長しており、2011年の東日本大震災後には「100万丁豆腐プロジェクト」として100万丁分の原料の大豆と製造加工費の日本への支援も行われています。

 国賓を迎えての公式晩餐会では、賓客にちなんだ料理が供されるのが一般的ですが、そうすると、今回は内親王殿下のテーブルに豆腐料理が並ぶのかもしれませんね。


★★★ トークイヴェントのご案内 ★★★

 拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』の刊行を記念して、東京・青山の駐日ブラジル大使館で下記の通り、トークイヴェントを開催いたします。ぜひ、ご参加ください。

 ・日時 2016年9月23日(金)18:00~20:00(17:30受付開始)
 ・会場 駐日ブラジル大使館 セミナー・ルーム
  〒107-8633 東京都港区北青山2丁目11-12 (地図はこちらをご覧ください)
 ・参加費 無料
 ・定員 30名(申込多数の場合は先着順)

  * 9月16日(金)までに、お名前・ご連絡先・ご所属を明記の上、電子メール、ファックス等で下記宛にお申し込みください。(お送りいただいた個人情報は、大使館へ提出する以外の目的には使用しません)
  申込先 えにし書房(担当・塚田)
  〒102-0074 千代田区九段南2-2-7-北の丸ビル3F
  Tel. 03-6261-4369 Fax. 03-6261-4379
  電子メール info★enishishobo.co.jp (スパム防止のため、★の部分を半角@に変えてご送信ください)

 なお、トークヴェベント終了後、20:30より近隣のブラジルレストラン「イグアス」にて懇親会を予定しております。(イグアスの地図はhttp://tabelog.com/tokyo/A1306/A130603/13048055/ をご覧ください) 
 会費は、『リオデジャネイロ歴史紀行』1冊の代金込みで6500円(書籍不要の場合は5000円)の予定です。参加ご希望の方は、トークイベントお申し込みの際に、その旨、お書き添えください。なお、懇親会のみの御参加も歓迎いたします。


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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

       リオデジャネイロ歴史紀行(東京新聞)


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 世界の国々:パラグアイ
2015-03-04 Wed 12:45
 アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2015年3月4日号が、先週刊行されました。僕が担当しているメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回は南米のパラグアイを取り上げています。その記事の中から、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

       ストロエスネル訪日

 これは、1972年のストロエスネル大統領訪日の記念切手で、大統領一行が羽田到着時に撮影された写真がとりあげられています。写真には当時の佐藤栄作首相や皇太子時代の今上陛下のお姿も見えるのがミソです。

  1938年、パラグアイはボリビアとの領土紛争であるチャコ戦争に勝利を収めたものの、戦争による国力の疲弊は大きく、政権は安定しませんでした。また、第二次大戦後の1947年には内戦が勃発し、20万人が国外に亡命するなど、混乱は長引きます。

 こうした状況の中で、1954年5月、チャコ戦争の英雄で陸軍総司令官のアルフレド・ストロエスネルがブラジル軍の支援を受けてクーデターを起こし、フェデリコ・チャベス大統領を追放し、政権を掌握します。

 パラグアイでは、1947年以来、コロラド党の一党独裁体制が続いていましたが、1954年7月、大統領に就任したストロエスネルは、コロラド党と国軍の“2本の柱”として(ストロエスネル政権下では国家予算の6割を軍事費が占めていました)、共産党を非合法化したのに続き、すべての革新団体を禁止。さらに、厳しい報道管制を敷いて独裁体制を確立しました。これに対して、政権初期の1956-57年には反ストロエスネル派によるクーデターの計画もありましたが、失敗。関係者は国外への亡命を余儀なくされます。

 こうして反対派を一掃したストロエスネルは、1958年から1988年まで、5年の任期ごとに8選され、35年にもおよぶ超長期独裁政権を維持しました。

 独裁政権下では、宗教弾圧や汚職、先住民族の虐殺などの人権侵害が横行していたことに加え、第二次大戦時のナチス戦犯容疑者の亡命を受け入れていたこともあって、ストロエスネル政権に対する国際世論の批判も強かったのですが、反共親米の旗幟を鮮明にしていたストロエスネル政権に対しては、日米独など西側諸国からの巨額の援助が注ぎ込まれ、その資金を元に国内のインフラが整備されてパラグアイ経済は急激に成長します。

 こうした状況の下、1972年4月14日から20日まで、ストロエスネルは国賓として日本を訪問します。

 ちなみに、彼は、大の親日家で、生年が明治天皇崩御の1912年、誕生日が旧明治節の11月3日ということから、みずからを“明治大帝の生まれ変わり”と信じていたそうです。こうしたこともあって、昭和天皇は帰国する大統領を空港までお見送りに来られましたが、そのことはストロエスネルを大いに感激させ、今回ご紹介の切手発行につながったというわけです。

 さて、1970年代のラテンアメリカは反共軍事政権が多かったのですが、1980年代も後半になると、次第に民政への移管が進んでいくことになります。

 こうしたなかで、30年以上にも及ぶストロエスネル政権下での腐敗と汚職に対する国民の不満も次第に鬱積。そして、1989年2月、アンドレス・ロドリゲスによる軍事クーデターが発生し、ストロエスネルは失脚してブラジルに追放されました。

 ちなみに、クーデター後、臨時大統領となったロドリゲスは民主化を進め、1993年5月、39年ぶりの文民大統領として、フアン・カルロス・ワスモシが就任しています。

 
 さて、 『世界の切手コレクション』3月4日号の「世界の国々」では、パラグアイ近現代史のうち、主として19世紀とストロエスネル時代にスポットを当てた長文コラムのほか、ドイツ領南西アフリカ時代から1990年の完全独立にいたるまでのナミビア近現代史を中心に、最近は日本でもポピュラーな飲料となったマテ茶や日本人移民、伝統的な刺繍や台湾との関係を示す切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、本日発売の3月11日号では、「世界の国々」はザイール時代のコンゴ民主共和国を特集していますが、こちらについては、来週、このブログでもご紹介する予定です。 


 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★

 毎月1回(原則第1火曜日:3月31日、4月7日、6月2日、7月7日、8月4日、9月1日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。(下の青い文字をクリックしていただくと、よみうりカルチャーのサイトに飛びます)

 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。

 次回開催は3月31日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『日の本切手 美女かるた』 3月25日発売! ★★★ 

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 “日の本”の切手は美女揃い!
  ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え!
 <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。

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 明治大帝の生まれ変わり
2010-06-30 Wed 11:53
 サッカーのW杯の決勝トーナメントで、日本はパラグアイに惜敗しました。残念ですが、まぁ、世界ランキング等を勘案すれば、決勝まで残れたことだけでも十分に満足できる結果ではなかろうかと思います。というわけで、なかなか取り上げる機会のないパラグアイのネタの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ストロエスネル

 これは、1963年に発行された大統領就任の記念切手のマキシマム・カードで、アルフレド・ストロエスネル大統領の肖像の下に任期にあたる1963-1968の年号が入っています。

 ストロエスネルは、1912年11月3日、パラグアイ南部のエンカルナシオンの生まれで、17歳で陸軍に入り、1932年にボリビアとの間に闘われたチャコ戦争で軍功を立てて一躍有名になりました。1951年に陸軍総司令官に就任。1954年5月に軍事クーデターを起こして実権を掌握し、1954年から1989年まで、通算8期35年間大統領を務めました。

 ストロエスネル政権は、典型的な軍人出身の独裁政権でしたが、東西冷戦という国際環境の下で反共の旗幟を鮮明にしていたため、アメリカをはじめとする西側諸国の支援を得ることに成功し、経済の安定化には成功しました。しかし、1989年に、アンドレス・ロドリゲス(後に大統領)のクーデターによって政権の座から追われ、ブラジルに亡命。2006年にブラジリアで亡くなりました。享年93歳。

 さて、ストロエスネルは大の親日家として知られていましたが、生年が明治天皇崩御の1912年、誕生日が旧明治節の11月3日ということから、みずからを“明治大帝の生まれ変わり”と信じていたのだとか。1972年には来日して昭和天皇にも拝謁しているストロエスネルですが、自分よりも年上の“孫”にあったときはどんな気分だったのでしょうかね。

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 2001年のシリーズ第1巻『濫造濫発の時代』から9年。<解説・戦後記念切手>の最終巻となる第7巻は、1985年の「放送大学開学」から1988年の「世界人権宣言40周年」まで、NTT発足や国鉄の分割民営化、青函トンネルならびに瀬戸大橋の開通など、昭和末期の重大な出来事にまつわる記念切手を含め、昭和最後の4年間の全記念・特殊切手を詳細に解説。さらに、巻末には、シリーズ全7巻で掲載の全記念特殊切手の発行データも採録。

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 まさかの友が真の友
2007-01-14 Sun 00:37
 アルゼンチンのイサベル元大統領が1976年2月の反政府派行方不明事件に関与した容疑でスペイン警察に逮捕されました。元大統領は、故フアン・ペロン元大統領の3番目の妻(ちなみに、2番目の妻がエビータことエバ・ペロンです)で副大統領だった1974年に夫の死に伴い世界初の女性大統領に昇格した人物。というわけで、今日は旦那のフアン・ペロンの切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ペロンのパラグアイ訪問

 これは、1955年4月にペロンのパラグアイ訪問を記念してパラグアイが発行した切手を、ペロンの肖像の絵葉書に貼って消印を押したものです。切手に描かれている左側の人物がパラグアイ大統領のアルフレド・ストロエスネル大統領で、右側がペロンです。

 ペロンはブエノスアイレス郊外の出身で、陸軍内で栄達を重ね、1943年5月に副大統領兼国防大臣になります。第二次大戦中のアルゼンチンは中立国でしたが、ペロンは枢軸国寄りだったため、1945年10月には、アメリカが後押しするエドワルド・アバロスによる軍事クーデターで拘束されました。このとき、後に2番目の妻になる元女優のエバ・ペロン(エビータ)が国民にラジオでペロンの釈放を訴えたことでクーデターが失敗し、翌1946年、大統領に就任したことは広く知られているとおりです。

 で、大統領としてのペロンは、労働者の保護や英米企業の国営化などの左翼的な政策を推し進め、労働者層から圧倒的な支持を受け独裁権力を掌握したものの、1952年に国民からカリスマ的な支持を受けていた妻のエバが亡くなると、その3年後の1955年9月には軍事クーデターで大統領の職を追われ、パラグアイ経由でスペインに亡命しています。で、亡命先のスペインで知り合い、再婚したのが、今回逮捕されたイサベラ(当時はクラブ歌手だったそうです)でした。

 その後、ペロンは1973年7月に、前大統領が辞任したことを受け、大統領選挙に出馬して勝利を収め、同年10月に再び大統領に復帰。副大統領にイザベラ・ペロンを就任させたものの、わずか1年後の1974年7月に病死。副大統領であったイザベラが大統領に就任するものの、1976年3月には軍事クーデターで彼女も解任され、1981年まで身柄を拘束されていました。

 さて、今回の切手は1955年のクーデターでペロンが国を追われるわずか5ヶ月前に発行されたものですが、大統領の時代のペロンは、まさか、自分が亡命というかたちでパラグアイを再訪することになるとは夢にも思わなかったでしょう。もっとも、4月の訪問でお互いの友誼を深めていたからこそ、パラグアイもペロンを受け入れるということになったという面もあるのでしょうけれど…。いずれにせよ、「まさかの友が真の友」を地で行くような話ではありますな。

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