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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 トルヒーヨ暗殺60年
2021-05-30 Sun 03:08
 カリブ海のドミニカ共和国の独裁者、ラファエル・トルヒーヨが1961年5月30日に暗殺されてちょうど60年になりました。というわけで、きょうはこの切手です、(画像はクリックで拡大されます)

      ドミニカ共和国・トルヒーヨ

 これは、1935年にドミニカ共和国で発行されたトルヒーヨの肖像切手です。

 1906年、経済危機に陥ったドミニカ共和国は、米国が債務返済を保証する代償として、以後50年にわたり米国が同国の関税徴収を行うとの提案を受け入れ、事実上の米国の保護領となり、1916年以降は米軍の進駐を受け入れていました。

 こうした状況の中で、1891年、首都のサン・クリストバルに生まれたラファエル・レオニダス・トルヒーヨ・モリーナは、米国の創設した国家警察隊に入隊して頭角を現し、1928年、陸軍参謀総長に昇進。軍の権力を背景に、1930年の大統領選挙では不正の限りを尽くして95パーセントの得票で当選を果たしました。

 トルヒーヨは年金制度の導入やインフラ整備などの近代化政策を進め、ドミニカ共和国の経済は急速に発展させて1940年には外債の完済を達成します。しかし、その反面、砂糖、コーヒー、ビール、タバコなど国家のめぼしい産業は全てトルヒーヨ一族が独占的に支配し、トルヒーヨ本人が不正蓄財した個人資産は10億ドルにも及んでいました。また、トルヒーヨに対する個人崇拝も強化され、首都サント・ドミンゴはトルヒーヨ市に改称され、市内のいたるところに彼の銅像が濫立。そして、こうした国家の私物化を批判した者は、官憲による圧力を受けて亡命を余儀なくされるか、さもなくば、国外追放処分を受けていました。

 さらに、1937年、米資本の経営するサトウキビ農場でハイチからの出稼ぎ労働者がストライキを起こすと、トルヒーヨ政権は、これを奇貨として、ドミニカ共和国の“白人化”を宣言し、ハイチ系住民の“掃討作戦”を敢行。1万5000の兵を動員して、ハイチ系住民を多数(犠牲者数については1万7000から3万5000まで諸説あります)虐殺しました。

 これに対して、作家で民族主義者のファン・エミリオ・ボッシュ・ガビノはトルヒーヨ独裁体制を激しく批判し、何度かの投獄体験を経て、1938年、プエルトリコに亡命。その後、キューバに移り、1938年7月、反トルヒーヨ政権の有力組織となるドミニカ革命党を創設しました。

 なお、ドミニカ革命党はキューバのアウテンティコ党と協力関係にあったことから、ボッシュはキューバの1940憲法の起草にも関わったほか、キューバ国内で旺盛な執筆・講演活動を行っていました。この結果、彼はラテンアメリカ諸国からキューバに逃れてきた亡命者たちの間で声望を高め、彼を敬愛していた若きフィデル・カストロは、1947年、トルヒーヨ政権打倒のための義勇軍に加わり、カマグエイ州沖合の島、カヨ・コフィーテスで軍事訓練を受けていました。ただし、バティスタ政権の弾圧により、彼らのドミニカ共和国遠征は実現せず、ボッシュも一時キューバを離れてベネズエラへ逃れ、反トルヒーヨの戦いを継続することになります。

 1952年、トルヒーヨは大統領職を弟のエクトルに譲りますが、その後も政治の実権を握り続け、1956年には、ニューヨークで反体制派知識人、ヘスス・デ・ガリンデス・スアレス(トルヒーヨの悪事を暴露する書籍を刊行後、米国に亡命し、コロンビア大学の講師を務めていました)を誘拐。また、ベネズエラ元大統領のマルコス・ペレスをはじめクーデターで失脚した(元)独裁者の亡命を相次いで受け入れたことから、国際的な非難を浴びていました。

 1960年1月、トルヒーヨは自身に対する暗殺計画が発覚したとして、反対派に対する大弾圧を実行。これに対して、翌2月、ベネズエラがトルヒーヨを“人権に対する野蛮な侵害”として米州機構に告発すると、米州機構は現地に調査団を派遣し、トルヒーヨによる人権侵害の事実を認め、トルヒーヨ非難決議を採択します。

 これに激怒したトルヒーヨは、同年6月、カラカスでベネズエラ大統領、ベタンクールの暗殺を試みたものの、失敗。その後、事件の背後にトルヒーヨがいたことが明らかになると、米州機構はドミニカ共和国との国交を断絶し、経済制裁を発動しました。

 こうした中で、1960年11月25日、反政府活動家のミラバル姉妹(長女パトリア・メルセデス、三女ミネルバ・アルヘンティーナ、四女アントニア・マリア・テレサの3人)がトルヒーヨの手下に虐殺される事件が発生。独裁政権に対する国民の不満は沸点に達し、翌1961年5月30日、CIAの支援を受けたロマン将軍ひきいる将兵7名が海岸沿いの高速道路で首都に向け移動中のトルヒーヨを暗殺し、独裁政権は崩壊しました。

 なお、この辺りの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもいろいろ説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


★ 武蔵野大学の生涯学習講座は開講が再延期となりました ★

 6月5日開講の予定だった下記の講座は、新型コロナウイルス対応の特別措置法に基づく緊急事態宣言の再延長に伴い、開講日(対面授業の初回の日)が7月3日に再延期になりました。詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、今しばらくお待ちください。なお、対面授業の時間割は、土曜日の同じ時間帯で変更はありません。

 13:00~14:30 「日本の郵便150年の歴史 その1 ―“大日本帝国”時代の郵便事情―」
 15:15~16:45 「東京五輪と切手ブームの時代 ―戦後昭和社会史の一断面―」
 対面授業、オンラインのライブ配信、タイム・フリーのウェブ配信の3通りの形式での受講が可能です。お申し込みを含め、詳細については、こちらをクリックしてご覧ください。(現在は旧日程が掲載されておりますので、ご注意ください)

 ご不便をおかけしますが、よろしくお願いします。


★ 放送出演・講演・講座などのご案内★
 
 5月31日(月) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。

 6月2日(水) 20:30~ KAZUYAチャンネルGX
 KAZUYAチャンネルGXに、新作『誰もが知りたいQアノンの正体』の著者として内藤がゲスト出演します。皆様、よろしくお願いします。


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 スペイン前国王が国外逃亡
2020-08-05 Wed 01:42
 スペインのサンチェス首相は、昨日(4日)、裏金疑惑の渦中にあったフアン・カルロス前国王がスペインを出国したことを明らかにしました。国王の出国先については公式の発表はありませんが、複数のスペイン・メディアによると、前国王はポルトガル経由でカリブ海のドミニカ共和国旧英領のドミニカ国とは別の国)に渡航し、当面滞在する見込みだそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ドミニカ共和国・スペイン国王来訪

 これは、1976年、フアン・カルロス1世のドミニカ共和国訪問に際してドミニカ共和国が発行した記念切手で、当時の国王夫妻の肖像が取り上げられています。この切手が発行された当時は、まさか、フアン・カルロスもこんなかたちでドミニカ共和国を再訪することになるとは全く想像していなかったでしょうねぇ。

 フアン・カルロス1世は、1938年、スペイン・ブルボン朝元国王のアルフォンソ13世(1931年の革命でローマに亡命)の4男、バルセロナ伯爵フアン・デ・ボルボーン・イ・バッテンベルグの長男として、ローマで生まれました。
 
 第二次大戦後、イタリアで国民投票により王制が廃止されて国王ウンベルト2世が退位し、共和制に移行したことを受けて、1948年、スペインに帰国。当時のフランコ独裁体制の下、フランコの後継者たるべく帝王教育を受けます。

 1975年11月20日、フランコが亡くなると、フアン・カルロスはフランコの遺言により11月22日、スペイン国王フアン・カルロスとして即位。即位後は、フランコの権威主義体制を受け継がず、他の立憲君主国を模範とした政治の民主化を推し進め、1981年には、国王親政の復活を求めるクーデターに対して断固拒否の姿勢を貫き、以後、国民の絶大な支持を得ていました。

 しかし、2012年にはスペインの経済危機の最中にアフリカのボツワナでゾウ狩りに興じていた際に負傷したことで国民の失望を招いたほか、2013年はクリスティーナ王女と彼女の夫に公金横領疑惑が浮上して、王女自身捜査当局から事情聴取を受けるなどのスキャンダルもあり、その威信は大きく傷つきました。

 そこで、2014年6月、健康上の問題もあって、フアン・カルロスは国民の人気が高いフェリペ皇太子に譲位し、表舞台からは退きます。

 ところが、譲位後、フアン・カルロス本人に関しても、2011年のサウジアラビア高速鉄道建設の入札時に、スペイン企業連合の受注に関与し、サウジの故アブドラ前国王から1億ドル(約105億円)を受け取り、外国口座に隠していた疑惑が浮上。新型コロナウイルスで2万8000人以上のスペイン国民が死亡し、政府の対応も後手に回る中、前国王をめぐる一連のスキャンダルは国民の強い反発を浴びており、今年6月には、検察は前国王に対する捜査開始を発表していました。

 なお、おととい(3日)、スペイン王室が発表した前国王の書簡によると、前国王は「過去の私生活の出来事で、良くない影響が広がった」ことから、息子で現国王のフェリペ6世が「責務を全う」するのを助けるために、スペインを離れる決断を下したとのこと。ただし、前国王の弁護士は3日、前国王は亡命して司法の裁きを逃れようとしているのではなく、検察当局の取り調べには応じ続けるとのコメントを発表しています。


★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 8月7日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。

 
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 ドミニカ共和国独立記念日
2014-02-27 Thu 21:36
 きょう(27日)は、1844年2月27日にドミニカ共和国がハイチから独立したことにちなみ、ドミニカ共和国の独立記念日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックでっ拡大されます)

       ドミニカ共和国・地図(1930)

 これは、1930年にドミニカ共和国で発行された航空切手で、イスパニョーラ島内におけるドミニカ共和国とハイチの地理的な関係が示されています。

 カリブ海のイスパニューラ島は、1697年のライスワイク条約により、島の西側3分の1が仏領サン・ドマングに、残りの東側3分の2がスペイン領サント・ドミンゴとなりました。

 このうち、仏領サン・ドマングでは、フランス革命に乗じて1791年に黒人やムラート勢力が決起してハイチ革命を起こし、英国の支援を得て、1804年にハイチ共和国として独立を宣言しました。しかし、独立に際して、フランスは放棄したプランテーションなどの賠償金を払うようハイチに強要し、その負担はハイチの国家建設を大きく圧迫していました。

 一方、スペイン領サント・ドミンゴは、1795年のバーゼルの和約によりフランスに割譲されましたが、隣接する仏領サン・ドマングでの革命の影響で社会的に混乱し、ナポレオン戦争後の1814年にスペイン支配が復活したときには、すっかり荒廃していました。その後、副総督のホセ・ムニョスが“スパニッシュ・ハイチ”の独立を宣言しましたが、混乱に乗じてハイチが軍事侵攻。旧スペイン領はハイチに併合され、イスパニョーラ島全島がハイチの支配下に置かれました。

 フランスへの賠償金の支払いに悩んでいたハイチは、新たに獲得した旧スペイン領で重税を課すなどしたため、旧スペイン領の住民は反発。1838年にホアン・パブロ・ドゥアルテを中心に結成された秘密結社ラ・トリニタリアにより反ハイチ闘争が展開され、1844年2月27日、ドミニカ共和国として独立を達成しました。

 しかし、その後もハイチとドミニカ共和国の武力衝突は断続的に繰り返されたため、その負担に耐えられなくなったドミニカ共和国政府は、1861年、スペインへの再併合を申し入れ、再びスペイン領となります。しかし、これにはドミニカ共和国の国民の間にも反発が強く、独立戦争を経て、1865年、ドミニカ共和国は再独立を果たしました。ただし、ドミニカ共和国にとって、ハイチの脅威が減じられたわけではなかったため、今度は米国への併合派が台頭。1875年にハイチとドミニカ共和国の間で平和条約が結ばれるまで、ドミニカ共和国の国内でも独立の是非をめぐっては議論が続きました。

 こうした経緯もあって、ドミニカ共和国とハイチの関係は緊張状態が続き、1900年には、ドミニカ共和国の発行した地図の切手に、本来、ハイチ領であるはずのヒンチャとその周辺がドミニカ共和国領として描かれていたことが原因となって、両国の間に武力紛争が発生しています。

 1906年、ドミニカ共和国は、米国が50年にわたりドミニカ共和国の関税徴収を行う代わりに債務返済の保証をするという提案を受け入れ、事実上の米国の保護領となります。一方、ハイチでも、対仏賠償や各国への債務返済が滞り、財政難と混乱が続いていました。こうした中で、第一次世界大戦が勃発すると、混乱に乗じてドイツがイスパニョーラ島を占領する懸念が生じたため、米軍は1915年にはハイチに、1916年にはドミニカ共和国に出兵して全島を占領。両国は米軍支配下で債務を返済し、国家建設を進めることになります。

 米軍は1924年にドミニカ共和国から撤退しますが、米軍の支配下で両国の和解が促進されたこともあり、1929年、ドミニカ共和国とハイチの間で国境についての合意が成立。それを踏まえて、今回ご紹介の航空切手が発行されました。なお、現在のドミニカ共和国とハイチの国境は、1929年の合意を元に、1935年2月27日に補足事項をくわえて、最終的に確定されたものです。

 さて、ことしは、わが国とカリブ共同体(旧英領を中心にカリブの14か国1地域が加盟。ただし、ハイチは加盟国ですが、ドミニカ共和国は加盟していません)の事務レベル協議開始後20年が経過した年であるとともに、ジャマイカならびにトリニダード・トバゴとの国交樹立50周年にもあたることから、“日・カリブ交流年”とされています。8月1-3日、東京・墨田区で開催が予定されている<全日本切手展2014>でも、これにちなみ、特別企画としてカリブ切手展を併催の予定です。今後も、同展の事前プロモーションを兼ね、機会を見つけてカリブ共同体加盟諸国・地域の切手をご紹介していきたいと考えておりますので、よろしくお付き合いください。


 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★   

 4月から、毎月1回(第1火曜日:4月1日、6月3日、7月1日、8月5日、9月2日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。(詳細はそれぞれ講座名をクリックしてください)

 ・朝鮮半島のことを学ぼう 時間は13:00-14:30です。

 ・イスラムを学ぶ 時間は15:50-17:00です。

 初回開催は4月1日で、講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ 文京生涯カレッジ(第13期)のご案内 ★★★

 文京学院大学が一般向け(=どなたでも受講できます)にさまざまな講師を招いて行う通年の教養講座「文京生涯カレッジ」の第13期が4月15日から始まります。僕も、7月15・22日に「バスコ・ダ・ガマのインドを歩く」、9月9日に「ドバイ歴史紀行」のお題で登場します。詳細はこちらですので、よろしかったら、ぜひご覧ください。


 ★★★ 内藤陽介の最新作 『蘭印戦跡紀行』 好評発売中! ★★★

 『蘭印戦跡紀行』広告

 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。
 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より)

 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。
 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。

 出版元特設ページはこちらです。また、10月17日、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿南店で行われた『蘭印戦跡紀行』の刊行記念トークの模様が、YouTubeにアップされました。よろしかったら、こちらをクリックしてご覧ください。


 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★

 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。

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 節電しませう③
2011-03-18 Fri 16:28
 きのう(17日)は、東京電力管内で夕方から予測不能な大規模停電発生の恐れがあると指摘されていましたが、なんとか回避されました。しかし、きょうも、3400万キロワットの供給能力に対して、夕方の予想需要は4000万キロワットとなっており、予測不能な停電が発生する可能性は否定できません。というわけで、きょうは“節電”切手の第3弾です。

        ドミニカ共和国・節電

 これは、1979年にドミニカ共和国で発行された省エネキャンペーンの切手です。

 切手は、コンセントからプラグを抜く絵が大きく描かれていますが、コンセントからは黒い滴が出ています。おそらく、待機電力を減らして節電すれば、結果として、石油の消費を抑えられるという意図が込められているのでしょう。

 きょうは、夕方の電力消費のピークが来る前に、僕もブログの更新を終わらせてパソコンの電源を切り、スキャナーなどとあわせてコンセントから抜くことにします。

 ところで、テレビではCMスポンサーの放送自粛が相次ぎ、その枠に公共広告機構のCMが流れていますが、いっそのこと、自分が提供している番組の時間帯は、金はきちんと払うから、放送そのものを中止したいというスポンサーが出てきませんかねぇ。たとえば「この時間帯は提供スポンサーの(株)XX、OO食品、△△の御意向により、節電のため通常の放送を中止しております」という文字のみを1時間流したら、妙なCMを流すよりもはるかに、その企業に対する好感度が上がると思うんですが、いかがでしょうかねぇ。


  【無錫アジア展のご案内】

 僕が日本コミッショナーを仰せつかっているアジア国際切手展 <China 2011> の作品募集要項が発表になりました。くわしくはこちらをご覧ください。


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 ドミニカ共和国の笹原
2006-07-29 Sat 01:01
 カリブ海に浮かぶドミニカ共和国に日本人が移住してから今日(7月29日)で50周年になるのだそうです。というわけで、こんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

ドミニカ共和国の笹原切手

 この切手は、1958年にドミニカ共和国が発行したオリンピックのメダリストの切手の1枚で、レスリングの笹原正三が取り上げられています。

 笹原は山形県の出身で、1954年に東京で開催された世界選手権で優勝。その後も翌1955年のワルシャワ国際大会、1956年のワールドカップと優勝を重ね、1956年のメルボルン五輪で金メダルを獲得。得意技の“またさき”で世界にその名をとどろかせました。

 オリンピック・メダリストシリーズは、ドミニカ共和国が海外の収集家の需要を見込んで外貨獲得のために発行した切手で、日本人アスリートが取り上げられた最初の外国切手となりました。

 もっとも、当時のドミニカ共和国側の思惑ではジャパン・マネーをあてにしていたというよりも、より広く世界のオリンピック・コレクターをあてにしていたと考えるのが適切なようにも思われます。“所得倍増”がある程度達せられた1964年の東京オリンピックの時でさえ、諸外国で発行された東京オリンピック関連の記念切手は“日本”よりも“オリンピック”を強調するモノのほうが多かったぐらいですから、1950年代の時点では、ジャパン・マネーの力は、ほとんど期待されていなかったと考えるのが自然でしょう。

 ちなみに、日本を題材としたジャポニカ切手が、本格的に、日本人コレクターの懐を狙うようになってくるのは1960年代後半以降のことで、1970年の大阪万博を機に、そうした風潮が一挙に爆発していくことになります。この辺の事情については、拙著『外国切手に描かれた日本』でも解説していますので、ご興味をお持ちの方はご一読いただけると幸いです。

 ところで、『外国切手に描かれた日本』でこの切手を取り上げたときには、単に外貨稼ぎのための切手としか考えていなかったのですが、この時期に日本人メダリストの切手が発行されている背景には、単にそれだけではない事情があるような気がします。

 すなわち、1956年から始まったドミニカ共和国への日本人移民は、もともと、ドミニカ側にしてみれば、隣国ハイチとの国境地帯に、一種の屯田兵的な性格の入植者を集めようという意図の下に始められたものでした。一方、当時の日本政府は、戦後のベビーブームで過剰人口に悩んでおり、国策として海外への移住を奨励していました。この両者の思惑が合致して、日本政府の斡旋により、厳しい選考をクリアした優秀で資金的にも豊かな農民たちが、大規模農業を夢見てドミニカ共和国に渡っていったのです。

 日本政府が示した募集要項には、ドミニカ共和国があたかも“地上の楽園”であるかのごとく謳われていましたが、実際に入植した日本人には約束された分の土地を与えられず、また、与えられた土地も塩だらけ石だらけで耕作に適さず、彼らは苦難の生活を強いられました。(そういえば、北朝鮮への“帰国事業”も似たような状況でしたっけ)

 当然、日本人移民たちは、詐欺まがいの宣伝文句を繰り返してきた日本政府に対して抗議したものの、外務省は全く取り合わず、1961年の政変後も帰国できなかった移民たちは、文字通りの“棄民”として扱われてきました。これに対して、つい最近になってようやく、小泉首相が日本政府として“おわび”を表明したことは記憶に新しいところです。

 こうした事情を考えると、移民問題が表面化しつつあった1958年の時点で、ドミニカ共和国が数多いるオリンピック金メダリストの中から、あえて笹原を選んで切手に取り上げたのは、外貨の獲得ということもさることながら、日本人選手を顕彰する切手を発行することで自国に対する日本のイメージを向上させようとしたという政治的配慮も含まれていたのではないかと思われてなりません。

 2003年に『外国切手に描かれた日本』を出したとき、当初の企画では南米の日系移民のこともいろいろと取り上げる予定だったのですが、時間切れでできませんでした。いつの日か、同書の改訂版を出せる日がきたら、今度は、そうした話題についてもきちんと触れてみたいと思っています。

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 戦争の元になった切手
2006-02-27 Mon 23:27
 今日(2月27日)は、1844年に中米のドミニカ共和国が隣国のハイチから独立した記念日だそうです。というわけで、3月8日付で刊行予定の拙著『これが戦争だ! 切手で読み解く』で取り上げたもののなかから、こんなドミニカ切手をご紹介したいと思います。

ドミニカの地図切手

 この切手は、1900年に発行されたもので、イスパニョラ島の地図が描かれています。なお、現在、この島は東側の3分の2をドミニカが、西側3分の1をハイチが、それぞれ領有しています。

 さて、ハイチからドミニカが独立したという経緯もあって、両国の政府レベルでの関係はあまりよくありません。特に、ハイチのあまりにも過酷な生活を逃れて、ドミニカ側に流入する農民(ドミニカの生活1トンのサトウキビ刈り入れに対して2ドルの賃金というレベルですから、決して楽な生活ではないのですが)が後を絶たず、ハイチにしてみればドミニカは気に入らない存在です。

 さて、仲の悪い隣国同士といえば、領土問題を抱えているのが常なわけで、ドミニカとハイチも例外ではありません。で、ハイチ側がこの切手に対して「ドミニカの主張は認められない!」と騒ぎ出し、両国はこれをきっかけに本格的な戦争に突入してしまいました。

 まぁ、切手が戦争の引き金になった例というのはあまりないのですが、竹島切手の例を持ち出すまでもなく、領土問題を抱えている国が切手をもメディアとして活用し、自国の主張を内外に強くアピールしようとするのは、いまも昔も変わりません。

 3月8日に刊行予定の『これが戦争だ! 切手で読み解く』(まだ、この本単独のページはできてないみたいです)の1章では、「この土地はわれわれのものだ!」と題して、今回の切手を含め、領土問題に関するさまざまなプロパガンダ切手をご紹介しています。早ければ、週末には一部書店の店頭に並ぶかとも思われますので、見かけた方は、是非お手に取ってご覧いただけると幸いです。

 * 明日付の日記では、おそらく、表紙の画像をお見せできるかと思います。
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