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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 武漢の肺炎 国内で初確認
2020-01-17 Fri 03:45
 中国・武漢で、新型のコロナウイルスによるものとみられる肺炎が相次いでいる問題で、神奈川県に住む中国籍の男性が武漢に帰国後、再入国した際に肺炎の症状を訴え、新型コロナウイルスへの感染が確認されました。国内で感染者が確認されたのは初めてです。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      第142野戦局風景印

 これは、支那事変(日中戦争)下の1941年2月11日、漢口に置かれていた日本の第142野戦局で使用された風景印で、中国大陸の漢口の場所に、時計塔で有名な漢口のランドマーク、江漢関大楼(税関庁舎)と日章旗が描かれています。

 現在の武漢市はかつて武漢三鎮とよばれた武昌漢口漢陽の3地区を統合したもので、地理的には、長江の東岸が武昌、長江支流の漢水(漢江とも)南岸が漢陽、漢水北岸が漢口(現在の行政では江岸区、江漢区、礄口区)という位置関係になります。

 さて、武漢では先月(2019年12月)以降、原因不明の肺炎の患者が相次ぎ、これまでに41人の患者から新型のコロナウイルスが検出され、このうち61歳と69歳の男性計2人が死亡しています。肺炎患者は、漢口地区の江漢区にある華南海鮮城(海鮮卸売市場)の関係者を中心に発生しているため、今年の元日以降、華南海鮮城は閉鎖され、消毒が行われています。また、今回、感染が報告された在日中国人男性は、本人からの報告によれば、華南海鮮城には立ち寄っていないものの、中国において、詳細不明の肺炎患者と濃厚接触の可能性があるとのことです。

 新型コロナウイルスに関するWHOや国立感染症研究所のリスク評価によると、現時点では、同ウイルスによる肺炎は、家族間などの限定的なヒトからヒトへの感染の可能性が否定できない事例が報告されているものの、持続的なヒトからヒトへの感染の明らかな証拠はありません。感染した男性はすでに症状が回復し、15日に退院して現在は自宅で療養していて、今の時点では神奈川県にいる家族や医療関係者などへの感染は確認されていないとのことで、厚生労働省では、この男性の周囲に感染が広がる可能性は低いとみています。

 ただ、問題のウイルスの性質については分かっていないことも多く、ウイルスの性質が変化して、ヒトからヒトに感染しやすくなったり、高い病原性を持つようになったりすることも考えられるため、今後も注意が必要なことには変わりありません。このため、国立感染症研究所で、今後、より早い段階で対応できるよう、武漢から帰国した人が医療機関で肺炎と診断された場合、重症でなくても保健所に報告するよう求めています。

 ちなみに、武漢とその周辺では、昨年10月の時点で156社の日系企業が活動しており、国内の航空会社では、全日空とLCCの春秋航空日本が成田空港から直行便を運航しているほか、外国の航空会社5社が武漢への直行便や経由便を運航しており、成田関西中部、福岡の全国4つの空港に就航しています。

 武漢といえば、昨年6月、世界切手展<CHINA 2019>が開催され、僕もコミッショナー兼審査員として参加してきました。新型コロナウィルスによる肺炎が問題となったのは、切手展終了後の昨年12月以降ですし、切手展の会場は、華南海鮮城のある漢口地区ではなく、漢陽地区にあるので、切手展の関係者がウィルスに感染した可能性はほぼないとみてよいのでしょうが、やはり、気にならないと言えば嘘になりますね。一刻も早く、事態が収まることを祈るばかりです。
 

★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 1月17日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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★★ イベント等のご案内 ★★

 今後の各種イベント・講座等のご案内です。詳細については、イベント名をクリックしてご覧ください。

・よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治
 毎月第1火曜日 15:30~17:00
 2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可)

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 長江クルーズ
2019-06-15 Sat 00:23
 11日から中国・武漢市の武漢国際会展中心(武漢国際会議展覧センター:WICEC)で開催中の世界切手展<CHINA 2019>(以下、武漢展)ですが、昨日(14日)は、その関係者の慰労会として、夜の長江クルーズにご招待いただきました。(下の写真は、船上で友人に取ってもらったものです。また、以下、画像はクリックで拡大されます)

      長江クルーズ

 そこで、そのお礼の意味を込めて、長江から見た武漢の景色を取り上げたマテリアルの中から、切手展会場のある漢陽地区に関連して、こんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      漢陽野戦局風景印

 これは、支那事変(日中戦争)当時、日本軍の漢陽野戦局で使用された風景印で、長江側から見た当時の漢陽地区が描かれています。

 現在の武漢市はかつて武漢三鎮とよばれた武昌漢口・漢陽の3地区を統合したもので、地理的には、長江の東岸が武昌、長江支流の漢水(漢江とも)南岸が漢陽、漢水北岸が漢口(現在の行政では江岸区、江漢区、礄口区)という位置関係です。今回の切手展会場のWICECは、武漢市の中でも漢陽地区にあります。、

 今回のクルーズは、WICEC前の船着き場を出発し、武漢長江二橋まで北上したのち、折り返して戻ってくるというコースで、途中、武漢のランドマークである黄鶴楼や江漢関大楼などを水上から眺めることができました。

 たとえば、下の画像は、クルーズの前半に撮影した黄鶴楼と武漢長江大橋の写真ですが、これを見ると、現在の黄鶴楼が武漢長江大橋の東詰めすぐ近くに位置していることがよくわかります。

      武漢長江大橋と黄鶴楼

 また、水中から見た江漢関大楼(画面中央左の時計塔のある建物)はこんな感じで、近年建設された周囲の高層ビルの中に埋没しながらも、かつて漢口を往来した外国船の船員たちが目にした風景をイメージするうえで、十分、参考になりました。

      水上からの江漢関大楼

 武漢は、黄鶴楼や租界地区以外にも歴史的な重要な場所ですので、いずれどこかで、上の写真なども交えながら“漫郵記”をまとめられれば…と旅先で思っている内藤でした。

 
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 きょうから<CHINA 2019>
2019-06-11 Tue 06:21
 かねてご案内の通り、きょう(11日)から17日まで、中華人民共和国建国70周年を記念して、中国・武漢市の武漢国際会展中心(武漢国際会議展覧センター:WICEC)で、FIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<CHINA 2019>(以下、武漢展)が開催されます。(下の画像は切手展のロゴマーク。以下、画像はクリックで拡大されます)

      世界切手展・CHINA2019 ロゴ

 というわけで、展覧会の成功を祈念し、今回の展覧会のロゴマークにも描かれている黄鶴楼にちなんで、こんなものを持ってきました。

      武昌野戦局

 これは、支那事変(日中戦争)当時、日本軍の武昌野戦局で使用された風景印で、1343年、モンゴル帝国の皇族コンチェク・ブカ(寛徹普化)により造られた仏舎利塔“勝像宝塔”と護衛の日本兵が描かれています。今回の展覧会にも、仏のご加護がありますようにとの意味を込めて、ご紹介しました。

 現在の武漢市はかつて武漢三鎮とよばれた武昌・漢口・漢陽の3地区を統合したもので、地理的には、長江の東岸が武昌、長江支流の漢水(漢江とも)南岸が漢陽、漢水北岸が漢口(現在の行政では江岸区、江漢区、礄口区)という位置関係になります。

 さて、勝像宝塔は、高さ9.36m、座の部分の直径5.68m。五重塔のそれぞれの段を地・水・火・風・空に見立てて“五輪塔”とも呼ばれています。現在は、長江右岸の蛇山頂の黄鶴楼の西門を入ってすぐのところにありますが、かつては蛇山の西端付近にありました。今回ご紹介の風景印で、塔のすぐ後ろに長江が描かれているのはこのためです。ちなみに、現在の場所に移築されたのは、1984年のことでした。

 さて、中国で世界切手展が開かれるのは2009年に北京で開催された<CHINA 2009>以来10年ぶりのことで(アジア展は2016年に南寧で開催されています)、日本からは、以下の作品が出品されており、審査員兼コミッショナーとして内藤が、審査員として佐藤浩一さんと山田廉一さんが参加しています。

 ・永井正保 Australia: Private Printing Period in Victoria 1850-1859
 ・丹羽昭夫 Japan Definitive Issues 1914-1925
 ・須谷伸宏 Japan Definitives: Vocational Series
 ・田畑裕司 Japan Old Koban Series 1876-1879
 ・榎沢祐一 Slovenia 1919-1920, The First Issue
 ・吉田敬 Kingdom of Prussia 1850-1867
 ・山崎文雄 Hawaii, The Bank Note Issues
 ・伊藤純英 Foreign Mail in Nagasaki, Japan 1865-1905
 ・小岩明彦 Indian Campaigns
 ・伊藤文久 Hungarian Inflation 1945-1946
 ・斎亨 Postal Cards of Japan 1873-1874 Cherry Blossom Issue
 ・榎沢祐一 Our Rotating Foot in Cities: Tramway
 ・井上和幸 Tonga Tin Can Mail History 1882-1947
 (以下、文献)
 ・榎沢祐一 『切手コレクションリーフ制作ハンドブック』
 ・正田幸弘 『紙の宝石』
 ・(公財)日本郵趣協会 『日本切手専門カタログ』vol.1-3

 これらの作品(ただし文献を除く)については、昨日午前中に、審査員の佐藤浩一さん、山田廉一さん、ご出品者の伊東純英さんのご協力も得て無事に展示作業を済ませており、すでに審査も始まっております。(下の画像は中国側の地元スタッフとともに、展示作業に汗を流している様子です)

      武漢展示作業

 きょうは午前中、09:00からオープニング・セレモニーが行われます。なお、受賞結果につきましては、公表可能な状況になりましたら、このブログでもご報告しますので、しばらくお待ちください。


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 鉄路節
2019-06-09 Sun 00:41
 きょう(9日)は、1881年6月9日、中国最初の鉄道として河北省に開業した唐胥鉄路の起工式が行われた(あるいは、1887年6月9日、劉銘伝の近代化政策により台湾の基隆=台北間を結ぶ“全台鉄路商務総局鉄道”が起工された)ことにちなむ“鉄路節”です。というわけで、現在滞在中の武漢の鉄道ネタの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      占領華北・京漢火車

 これは、先の大戦中の1944年1月、日本軍占領下の開封から朝鮮半島北部の日本海に面した宣徳(咸鏡南道南部)宛に差し出された葉書で、京漢鉄路で運ばれたことを示す“京漢火車”の消印が押されています。使われている葉書は、中国大陸の日本占領地域で使用されていた半価加刷のものです。また、宛先の宣徳には日本時代に飛行場が開設され、現在でも、北朝鮮の軍用飛行場が置かれています。

 北京と漢口を結ぶ京漢鉄路は、1897年4月、清朝がベルギーからの借款によって着工し、1906年4月、全線開通しました。その後、1928年の北伐完了を受け、中華民国の首都は南京であるとの建前の下、同年6月15日付で“北の首都”を意味する北京は北平へと改称され、これに伴い、鉄道の名称も平漢鉄路に改称されました。

 ところが、1937年7月7日に勃発した支那事変で北平を制圧した日本軍は、この地を旧称の“北京”と呼んだため、平漢線は再び京漢鉄路と呼ばれるようになりました。今回ご紹介の葉書はこの時期のモノなので、消印の表示も“京漢火車”となっています。

 ちなみに、今回ご紹介の葉書には“北支 開封站(駅)”の表示がありますが、京漢鉄路の鄭州駅からは、1910年、東は開封(汴)、西は洛陽に至る汴洛鉄路が開通していますので、この葉書も開封駅のポストに投函された後、鄭州まで運ばれ、そこから京漢鉄路に積み込まれ、北京へ運ばれる途中で消印が押されたものと考えられます。

 その後、1945年の日本の敗戦により、国民政府は北京を再び北平に改称したものの、1949年に成立した中華人民共和国は北京の名称に戻して現在に至っています。これに伴い、鉄道の名称も平漢と京漢の間でめまぐるしく変化することになりました。

 なお、1957年に武漢長江大橋が竣工すると、京漢鉄路は武昌=廣州間を結ぶ粤漢鉄路と接続し、北京西から廣州にいたる京廣鉄路となって現在に至っています。


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 メルボルンに行ってきます!
2017-03-27 Mon 11:55
      呉淞野戦局風景印

 私事で恐縮ですが、オーストラリア・メルボルンで開催されるアジア国際切手展<Melbourne 2012>に出品者として参加するため、きょう(27日)、メルボルンに向けて出発します。

 今回は、現在の僕のメイン・コレクションである A History of Hong Kong (香港の歴史)ではなく、2011年に横浜で開催された世界切手展<PHILANIPPON 2011>に出品した JAPAN AND THE 15YEARS' WAR 1931-1945 を出品します。この作品は、世界展での賞のランクが事実上の頭打ちになったため、2011年の横浜展を最後に事実上の引退扱いとしていたのですが、あれから5年以上が経ち、そろそろ、保管のためのメンテナンスが必要になってきましたので、すべてをダブルリーフに作り替えてアジア展に出品することにしました。したがって、今回は賞のランクにも一喜一憂することなく(もちろん、従来以上の賞をいただけるのなら、それは大変結構なことですが)、気楽に楽しんでくるつもりです。

 なお、作品のタイトルは直訳すると、“日本と15年戦争”ですが、“15年戦争”という用語には、左派・リベラル寄りの政治的スタンスがかなり濃厚に反映されているので、本来なら、別の用語に差し替えたいところです。かといって、満州事変から第二次大戦の終結にいたる“昭和の戦争”を包括的かつ端的に示す英語の表現も他にないのが頭の痛いところで、とりあえずは、英文タイトルでは“15 years' War”の語を用い、邦題が必要な場合には“昭和の戦争と日本”と表記するようにしています。どなたか、適切な用語をご教示いただけると幸いです。

 展覧会の会期は30日から2日までなのですが、作品を搬入しなければなりませんので、現地時間の明朝、メルボルン入りする予定です。なお、せっかくの遠出ですので、展覧会終了と同時に帰ってきてはもったいないので、会期終了後は各地を回って取材し、6日午後に帰国の予定です。

  さて、 冒頭に掲げたのは、日本軍の呉淞上陸作戦を描いた絵葉書に切手を貼り、呉淞野戦局の風景印を押した記念品です。今回の出品作品では、第二次上海事変のリーフで、風景印の印影部分のみをウインドウを開けて展示しています。国際切手展に戦争モノの作品を出品する際には、これまでも、出発のご挨拶として、出品作品の中から「いざ突撃」という雰囲気のマテリアルを持ってきましたので、今回もそれに倣い、実際の展示では表に出ない絵葉書の部分を含めてご紹介してみました。

 6日の帰国までの間、ノートパソコンも持っていきますので、このブログも可能な限り更新していく予定です。ただし、なにぶんにも海外のことですので、無事、メール・ネット環境に接続できるかどうか、不安がないわけではありません。場合によっては、諸般の事情で、記事の更新が遅れたり、記事が書けなかったりする可能性もありますが、ご容赦ください。

 では、いざ出陣! 

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 きょうから杭州G20
2016-09-04 Sun 08:47
 きょう・あす(4・5日)の2日間、中国浙江省杭州市で、主要20か国・地域(G20)首脳会議が開催されます。というわけで、杭州がらみでこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      杭州風景印・カバー  杭州風景印・カバー(裏)

 これは、日中戦争(支那事変)下の1938年7月23日、杭州から大阪宛の軍事郵便で、杭州の日本軍野戦局の風景印が押されているのがミソです。

 杭州は杭州灣(北岸が上海、南岸が寧波と紹興です)西奥の都市で、隋代に建設された大運河(江南河部分)の南端に位置する交通の要衝です。南宋の時代には首都として臨安府と改称され、咸淳年間(1265年-1274年)には人口124万人の世界最大都市(当時)となりました。その後も清代まで江南経済の中心地として繁栄しましたが、アヘン戦争後は開港地の上海にとってかわられ、太平天国の乱で大きな被害を受けました。なお、1895年、日清戦争後の下関条約により、杭州は開港され、日本租界が設置されています。

 支那事変では、日本の中支那方面軍は、当初、南京攻略の後に杭州攻略に着手する予定でしたが、12月7日の大陸命に基づき、方面軍はその一部を割いて杭州を攻略することとし、上海警備に任じていた 第101師団を第10軍司令官の指揮下に入れ、同12日から杭州攻略作戦を開始。同24日、杭州を占領しました。なお、今回ご紹介のカバーにある“中支派遣軍”は、1938年2月14日付で南京攻略戦が終了したことを受けて、上海派遣軍・第10軍の上級司令部であった中支那方面軍を解体し、新たに編制された部隊です。

 風景印に描かれている西湖は、広州市中心部の西にある湖で、湖とそれを囲む三方の丘は、中国を代表する景勝地として、古くから漢詩や絵画の題材となってきました。自然の島である孤山や白堤、蘇堤などの堤が浮かぶほか、霊隠寺、岳廟、六和塔、浄慈寺など自然に調和した建造物も多く、その景観は、日本や韓国の庭園意匠にも絶大な影響を与えています。こうしたことから、2011年には、“杭州西湖の文化的景観”として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されました。


★★★ トークイヴェントのご案内 ★★★

 拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』の刊行を記念して、東京・青山の駐日ブラジル大使館で下記の通り、トークイヴェントを開催いたします。ぜひ、ご参加ください。

 ・日時 2016年9月23日(金)18:00~20:00(17:30受付開始)
 ・会場 駐日ブラジル大使館 セミナー・ルーム
  〒107-8633 東京都港区北青山2丁目11-12 (地図はこちらをご覧ください)
 ・参加費 無料
 ・定員 30名(申込多数の場合は先着順)

  * 9月16日(金)までに、お名前・ご連絡先・ご所属を明記の上、電子メール、ファックス等で下記宛にお申し込みください。(お送りいただいた個人情報は、大使館へ提出する以外の目的には使用しません)
  申込先 えにし書房(担当・塚田)
  〒102-0074 千代田区九段南2-2-7-北の丸ビル3F
  Tel. 03-6261-4369 Fax. 03-6261-4379
  電子メール info★enishishobo.co.jp (スパム防止のため、★の部分を半角@に変えてご送信ください)

 なお、トークヴェベント終了後、20:30より近隣のブラジルレストラン「イグアス」にて懇親会を予定しております。(イグアスの地図はhttp://tabelog.com/tokyo/A1306/A130603/13048055/ をご覧ください) 
 会費は、『リオデジャネイロ歴史紀行』1冊の代金込みで6500円(書籍不要の場合は5000円)の予定です。参加ご希望の方は、トークイベントお申し込みの際に、その旨、お書き添えください。なお、懇親会のみの御参加も歓迎いたします。


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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

       リオデジャネイロ歴史紀行(東京新聞)


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 「支那の夜」の舞台
2014-09-14 Sun 23:22
 “李香蘭”の名で戦前・戦中に人気を集め、戦後も女優、歌手として活躍し、参院議員も務めた山口淑子さん(以下、李香蘭)が、今月7日に亡くなっていたことが明らかになりました。享年94歳。謹んでご冥福をお祈りします。というわけで、きょうは李香蘭の代表作、映画「支那の夜」にちなんでこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      租界回収カバー

 これは、1944年11月、日本占領下の上海からスイス宛の書留便で、同年8月1日発行された“租界回収1周年”の切手2種が2枚ずつ貼られています。

 1842年の開港以来、列強諸国の居留地が作られていた上海では、早くも1845年、英国やフランスが黄埔江(長江の支流)の西岸に租界(外国人が行政・警察機構を握り、中国の主権が及ばない開港地内の地域)を形成。それらは、後に米列強と日本の租界を纏めた共同租界と、フランスのフランス租界に再編されます。今回ご紹介のカバーの切手は、上海市の中での租界の地域を斜線で示したもので、北側の右上から左下への斜線の部分が共同租界、南側の左上から右下への斜線の部分がフランス租界です。

 映画「支那の夜」は、そうした租界のあった時代の上海を舞台に、船員の長谷(長谷川一夫)が、雑踏の中で日本人の中年男と言い争っていた中国娘(李香蘭)を行き掛かり上助けることになったところから物語が始まり、2人の恋愛へと発展していくというもので、1940年に公開されました。

 さて、1941年12月、日本と米英蘭の戦争が始まった時点では、南京を拠点とする親日派の汪兆銘政権は、この戦争には中立を保っていました。しかし、次第に戦況が日本にとって不利になっていく中で、1943年1月9日、日本は“アジア解放の戦争”という大義名分を誇示するため、汪政権に圧力をかけて、米英に対して宣戦布告させました。もちろん、日本側としては、汪政権を太平洋戦争に直接的に参戦させることで、同政権から“同盟国”の日本に対する従来以上の戦争協力を得ていこうという意図があったことはいうまでもありません。

 そして、参戦の代償として、日本は汪政権との間に日華共同宣言を調印し、日本のみならず各国が中国各地に保有していた租界を汪政権に対して返還するとともに、治外法権を撤廃しました。今回ご紹介のカバーの切手は、それから1周年になるのを記念して発行されたものです。

 もっとも、汪政権がどれほど自らの実績としての租界回収を強調しようとも、同政権が日本軍の強い影響下に置かれていることは誰の目にも明白であり、また、日本軍による中国主要都市の占領も続けられていました。このため、一般の中国人の間では、汪政権による米英への宣戦布告や租界の回収などは、ほとんど共感を呼ぶことはないままに終ったといわれています。
   
 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★

 10月から、毎月1回(原則第1火曜日:10月7日、11月4日、1月6日、2月3日、3月3日、3月31日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。(詳細はそれぞれ講座名をクリックしてください)

 ・現代コリア事情 時間は13:00-14:30です。

 ・イスラム世界を知る 時間は15:50-17:00です。

 初回開催は4月1日で、講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『朝鮮戦争』好評発売中! ★★★ 

 お待たせしました。約1年ぶりの新作です!

        朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました!


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 太原の「東亜解放」
2013-11-07 Thu 18:20
 きのう(6日)、中国山西省の省都・太原市にある共産党省委員会の事務所前で、連続して爆発が起き、国営メディアによると1人が死亡、8人が負傷する事件がありました。というわけで、手元に太原に関するものが何かないかと思って探してみたら、こんなモノがありました。(画像はクリックで拡大されます)

       太原・東亜解放

 これは、1942年、日本占領下の太原から秋田県宛に差し出されたカバーで、“東亜解放”の標語印が押されているほか、途中で開封・検閲を受けています。まぁ、かつては東亜解放といえば、欧米列強による植民地支配からアジアを解放するという意味でしたが、現在では、中国共産党の圧政からチベットやウイグル、内蒙古を解放し、共産中国の周辺諸国への侵略を食い止めるという意味で理解する人が大半でしょうから、今回の事件が共産党省委員会への攻撃ということが確認されれば、犯人グループは自らを“東亜解放”のための戦士と位置づけることになるんでしょう。

 さて、いわゆる日中戦争(支那事変)下の日本軍占領地では、1941年まで中華郵政の切手がそのまま使われていました。日中戦争は宣戦布告なくして始まった“事変”であり、日本軍が占領していた地域に関しても、建前としては“中国”(ただし、日本側のいう中国とは、重慶の蒋介石政権ではなく、日本軍が現地に樹立した親日派政権のことですが)の主権下に置かれていることになっていたからです。

 しかし、戦争の長期化とともに、各地域の通貨事情は大きく変容し、中国全土で同じ切手を使い続けることには無理が生じてきました。

 すなわち、日中戦争勃発以前の中国大陸では、中国国民政府の法定通貨である法幣(イギリス・アメリカの支援の下、スターリング・ポンドと実質的にリンクしていました)とは別に、華北では朝鮮銀行券(朝銀券)が、華中では日本銀行券(日銀券)が、それぞれ影響力を持つ外貨として流通していました。当初、日中間の軍事衝突は短期間に終わるものと考えていた日本側は、日銀券や朝銀券を持ち込んで、必要な物資を調達すればよいと考えていましたが、戦争の拡大に伴い、占領地域でそのまま日銀券や朝銀券の流通を継続・拡大すると、日本ならびに朝鮮にそれらの紙幣が還流し、国内にインフレをもたらす懸念が生じます。

 そこで、1938年3月、華北の日本占領地域では中国連合準備銀行(連銀)が樹立され、朝鮮銀行券の代わりに連銀券が流通することになりました。一方、華中では日銀券に代わり、軍票の流通を拡大するという政策が採られます。

 1938年10月以降、日中の戦闘は膠着状態に陥り、戦争は経済戦の側面が大きな比重を占めるようになってきます。その際、法幣に対して、日本側は連銀券と軍票で物資の争奪戦を展開しなければなりませんから、日本側は、必要に応じて、軍票と法幣との交換レートを調整するための“為替介入”を行ったり、繊維製品、薬品、砂糖、穀物、肥料などと軍票との交換に応じて、軍票でも自由にモノが買えるという環境を整えようとしました。

 こうした価値維持工作が一定の成果を挙げ、太平洋戦争の開戦以前、華中・華南の日本軍占領地域では、軍票は曲がりなりにも基軸通貨としての機能を果たしています。しかし、中国大陸全体から見れば、軍票経済圏はきわめて限定された地域でしかありませんでしたから、結果として、日本側は法幣経済圏との交易に頼らざるを得ず、軍票は米英に支えられていた法幣と共存する以外の選択肢はありませんでした。

 ところが、1941年3月、法幣の価値が暴落。南京の汪兆銘政権の中央銀行である中央儲備銀行の発行する儲備銀行券(儲備券)との交換レートで見ると、当初、法幣は儲備券に対して優位を保っていましたが、1941年末には法幣と儲備券はほぼ等価となり、さらに、両者の立場は逆転しています。くわえて、おりからの戦時インフレとあいまって、法幣は急速にその価値を失い、国民政府の支配地域では猛烈なインフレが進行していきました。

 一般には、敵国がハイパー・インフレに見舞われて、敵国通貨の購買力が低下することは好ましいことなのですが、法幣経済圏に包囲され、実質的に法幣とリンクしなければ物資が調達できなかった日本軍の占領地域では、法幣に引きずられて軍票の対外相場が下落し、最終的に日銀券の下落へとつながっていく可能性がありました。

 こうした状況の下でも、郵便に関しては“中華郵政”の名の下に統一的に行われていましたから、従来どおり、法幣と連銀券、儲備券を等価で扱って郵便サービスを提供すれば、日本軍の占領地域は大幅な為替差損を被ることになります。現に、法幣の価値が下がるや否や、法幣で購入した切手を連銀券や儲備券、日本軍の軍票などと交換して差益を得る投機が横行するようになり、深刻な問題となっていました。このため、1941年7月以降、とりあえず、通貨が安定している華北の占領地域に他地域で売られた無加刷の切手が持ち込まれるのを防ぐため、順次、従来からの中華郵政の切手に切手の販売地域を特定するための加刷が行われるようになりました。(いわゆる五省加刷)
 
 その後も、華中・華南ではインフレが進行し、華南では1941年12月1日に、華中では同15日に郵便料金が値上げされましたが(いずれも書状基本料金は8分から倍額の16分になりました)、華北では経済状況が比較的安定しており、郵便料金を値上げする必要がありませんでした。この段階では、依然として華中と華南では中華郵政の無加刷の切手が使われていましたので、従前同様、華北でも中華郵政の切手を流通させるため、1942年6月1日、五省加刷に代わり、地域名は一括して“華北”としたうえで、額面の“半価”を表示した切手が発行されました。今回ご紹介のカバーに貼られている切手も、もともとは8分切手だったものを加刷によって半価の4分切手としたもので、書状料金の8分を収めるために2枚貼られています。

 なお、消印の日付は、月の部分の活字がつぶれていて読みづらいのですが、半価加刷切手の発行は6月1日ですので、3ということはありえませんので、6か8のいづれかでしょう。6ということになれば、発行初日の使用例というオマケがつくので、ちょっと嬉しいのですが…。


 ★★★ ラジオ出演のご案内 ★★★

 11月10日(日)14:00から、TBSラジオで放送の番組「爆笑問題の日曜サンデー」の「サンデーマナブくん」のコーナーに、『年賀状の戦後史』の著者として内藤が出演し、「年賀状」とその歴史についてお話しします。聴取可能な地域の方は、ぜひ、お聞きいただけると幸いです。(番組HPはこちらです)


 ★★★  絵葉書と切手でたどる世界遺産歴史散歩  ★★★

 2014年1月11日・18日・2月8日のそれぞれ13:00-15:00、文京学院大学生涯学習センター(東京都文京区)で、「絵葉書と切手でたどる世界遺産歴史散歩」と題する講座をやります。(1月18日は、切手の博物館で開催のミニペックスの解説)

 新たに富士山が登録されて注目を集めるユネスコの世界遺産。 いずれも一度は訪れたい魅力的な場所ばかりですが、実際に旅するのは容易ではありません。そこで、「小さな外交官」とも呼ばれる切手や絵葉書に取り上げられた風景や文化遺産の100年前、50年前の姿と、講師自身が撮影した最近の様子を見比べながら、ちょっと変わった歴史散歩を楽しんでみませんか? 講座を受けるだけで、世界旅行の気分を満喫できることをお約束します。

 詳細はこちら。皆様の御参加を、心よりお待ちしております。


 ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★   

 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は12月3日(原則第1火曜日)で、以後、1月7日、2月4日、3月4日に開催の予定です。時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ 内藤陽介の最新作 『蘭印戦跡紀行』 好評発売中! ★★★

 『蘭印戦跡紀行』広告

 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。
 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より)

 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。
 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。

 出版元特設ページはこちらです。また、10月17日、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿南店で行われた『蘭印戦跡紀行』の刊行記念トークの模様が、YouTubeにアップされました。よろしかったら、こちらをクリックしてご覧ください。


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 安居楽業 首重治安
2012-09-16 Sun 23:32
 日本政府の尖閣諸島国有化に反対するとして、中国各地で抗議デモが続発している問題で、きょう(16日)はこれまでで最多の90都市でデモが行われ、一部の地域では日本料理店や日本車が破壊されるなど暴徒化するなど、事態は深刻化しています。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       「安居楽業 首重治安」カバー

 これは、日中戦争下の1942年、天津から青島宛(ともに当時は親日政権の支配地域)に差し出されたカバーで、“安居楽業 首重治安”のスローガンの入った標語印が押されています。貼られている切手は、日本軍の占領下で使用地域を限定するために“河北”と加刷された切手です。

 標語印のスローガンのうち、“安居楽業”は『漢書』貨殖伝に登場する単語で、もともとは「現在の環境や状況に心安らかに満足し、自分の仕事を楽しんですること」ないしは「自分の分をわきまえて不満をもたず、心安らかに自分のなすべき仕事をすること」の意味で、そこから転じて、善政が行われていることを意味しています。したがって、後半の“首重治安”と組み合わせると「善政を行う上で最も重要なのは治安である」ということになりましょうか。

 このカバーの宛先である青島を含む山東半島の一部では、当時、日本軍ないしは親日派政権に対する共匪のゲリラ活動なども行われていましたから、そうした反日勢力に与せず、親日派政権による治安の維持に協力するよう、住民に訴える必要があり、こうした消印が使われたというわけです。

 ちなみに、今回ご紹介のカバーの宛先となった青島では、今日の反日デモで、参加者が数万人に膨れ上がり、ジャスコ黄島店を包囲。同店は、午前10時ごろ営業を休止したものの、11時ごろ、暴徒が投石を始めガラスを割って侵入し、店内はめちゃくちゃに破壊したと報告されています。なお、店内には客はおらず、従業員は避難していて無事だったそうです。

 さらに、ジャスコを出た暴徒はまず2キロ先の日系工場を襲撃した後、午後2時頃、さらに2キロ先のパナソニック工場に到着。工場内の最も大きな建物に乱入し、1階に火を放ち、機械類を破壊しました。その後、暴徒は約300メートル先の日系自動車部品工場を襲撃し、破壊・放火などやりたい放題の乱暴狼藉を繰り返したのち、十数分後には別の工場へ向かったと報告されています。

 こんな治安状況では、とうてい、かの地の日系企業にとっては“安居楽業”など夢のまた夢というところでしょう。まぁ、中国の共産党政権がいまさら“善政”を敷くとは考えにくいことでもありますし、対中ビジネスでこれまでの投資に見合うだけの利益を実際に上げている日本企業はほとんどないとさえ言われているわけですから、この際、損切り覚悟で日本企業は中国からの撤退を真剣に考える時期に来ているといえそうですな。

 なお、日中戦争下の中国大陸で使われた各種のスローガン印の類については、先日、電子書籍化された拙著『切手と戦争』でもいろいろとご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 
 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★
   
 10月から、下記の通り、首都圏各地のよみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で8月の韓国取材で仕入れたネタを交えながら、一般向けの教養講座を担当します。詳細につきましては、青色太字をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。(掲載は開催日順)

 T-moneyで歩くソウル歴史散歩 
・よみうりカルチャー荻窪
 10月2日、10月30日、12月4日、1月29日、2月5日、3月5日 13:00-14:30

 * 10月2日は公開講座として、お試し聴講も可能です。
 
・よみうりカルチャー北千住
 10月17日、12月19日、1月16日、2月20日、3月20日 13:00-15:00


 ★★★★ 電子書籍で復活! ★★★★

 歴史の舞台裏で飛び交った切手たち
 そこから浮かび上がる、もうひとつの昭和戦史

         切手と戦争

   『切手と戦争:もうひとつの昭和戦史』
    新潮社・税込630円より好評配信中!
    出版元特設HPはこちらをクリック

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 広州陥落70年
2008-10-21 Tue 13:02
 日中戦争下の1938年10月21日に日本軍が広州を占領してから、今日でちょうど70年です。というわけで、今日はこんなモノをもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 華南占領カバー

 これは、1942年11月19日、日本軍占領下の広州から差し出されたカバーで、“粤區特用”との加刷が施された切手が合計3分貼られています。

 日中戦争の時代、日本軍は中国の各都市を占領しましたが、これらの占領地では、1941年まで中華郵政の切手がそのまま使われていました。日中戦争は宣戦布告なくして始まった“事変”であり、日本軍が占領していた地域に関しても、建前としては“中国”(ただし、日本側のいう中国とは、重慶の蒋介石政権ではなく、日本軍が現地に樹立した親日派政権のことですが)の主権下に置かれていることになっていたからです。

 しかし、戦争の長期化とともに、各地域の通貨事情は大きく変容し、中国全土で同じ切手を使い続けることには無理が生じてきました。

 すなわち、日中戦争勃発以前の中国大陸では、中国国民政府の法定通貨である法幣(イギリス・アメリカの支援の下、スターリング・ポンドと実質的にリンクしていた)とは別に、華北では朝鮮銀行券(朝銀券)が、華中では日本銀行券(日銀券)が、それぞれ影響力を持つ外貨として流通していました。当初、日中間の軍事衝突は短期間に終わるものと考えていた日本側は、日銀券や朝銀券を持ち込んで、必要な物資を調達すればよいと考えていましたが、戦争の拡大に伴い、占領地域でそのまま日銀券や朝銀券の流通を継続・拡大すると、日本ならびに朝鮮にそれらの紙幣が還流し、国内にインフレをもたらす懸念が生じます。

 そこで、1938年3月、華北の日本占領地域では中国連合準備銀行(連銀)が樹立され、朝鮮銀行券の代わりに連銀券が流通することになりました。一方、華中では日銀券に代わり、軍票の流通を拡大するという政策が採られます。

 1938年10月以降、日中の戦闘は膠着状態に陥り、戦争は経済戦の側面が大きな比重を占めるようになってきます。その際、法幣に対して、日本側は連銀券と軍票で物資の争奪戦を展開しなければなりませんから、日本側は、必要に応じて、軍票と法幣との交換レートを調整するための“為替介入”を行ったり、繊維製品、薬品、砂糖、穀物、肥料などと軍票との交換に応じて、軍票でも自由にモノが買えるという環境を整えようとしました。

 こうした価値維持工作が一定の成果を挙げ、太平洋戦争の開戦以前、華中・華南の日本軍占領地域では、軍票は曲がりなりにも基軸通貨としての機能を果たしています。しかし、中国大陸全体から見れば、軍票経済圏はきわめて限定された地域でしかありませんでしたから、結果として、日本側は法幣経済圏との交易に頼らざるを得ず、軍票は米英に支えられていた法幣と共存する以外の選択肢はありませんでした。

 ところが、1941年3月、上海でのテロ事件がきっかけに、法幣の価値は急速に下落。南京の汪兆銘政権の中央銀行である中央儲備銀行の発行する儲備銀行券(儲備券)との交換レートで見ると、当初、法幣は儲備券に対して優位を保っていましたが、1941年末には法幣と儲備券はほぼ等価となり、さらに、両者の立場は逆転しています。くわえて、おりからの戦時インフレとあいまって、法幣は急速にその価値を失い、国民政府の支配地域では猛烈なインフレが進行していきました。

 一般には、敵国がハイパー・インフレに見舞われて、敵国通貨の購買力が低下することは好ましいことなのですが、法幣経済圏に包囲され、実質的に法幣とリンクしなければ物資が調達できなかった日本軍の占領地域では、法幣に引きずられて軍票の対外相場が下落し、最終的に日銀券の下落へとつながっていくことが恐れがありました。

 こうした状況の下でも、郵便に関しては“中華郵政”の名の下に統一的に行われていたから、従来どおり、法幣と連銀券、儲備券を等価で扱って郵便サービスを提供すれば、日本軍の占領地域は大幅な為替差損を被ることになります。現に、法幣の価値が下がるや否や、法幣で購入した切手を連銀券や儲備券、日本軍の軍票などと交換して差益を得る投機が横行するようになり、深刻な問題となっていました。このため、1941年7月以降、日本軍の占領地域では、順次、従来からの中華郵政の切手に切手の販売地域を特定するための加刷が行われるようになったというわけです。

 今回ご紹介のカバーに貼られている切手も、そうした事情から、華南地区限定(より具体的には、広州を中心とした珠江デルタ地帯と汕頭などの沿岸、海南島)のものとして“粤區特用”の加刷が施されたものです。ちなみに、“粤區特用”の加刷切手は1942年6月13日に発行されたものの、加刷の文字が小さく見づらかったため、同年11月10日、あらためて“粤省貼用”と大きな文字で加刷した切手が発行・使用されるようになりました。

 なお、このあたりの事情については、拙著『香港歴史漫郵記』でも、香港と広州との関係から詳しくご説明しておりますので、よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。

 イベントのご案内

 11月1日(土)-3日(月・祝) 全国切手展<JAPEX>

 ことしも、東京・池袋のサンシャインシティ文化会館と目白の切手の博物館の2ヶ所で開催します。今年の目玉は、何といっても“満洲・東北切手展”ですが、トーク関係での僕の出番は、以下のとおりです。

 11月1日(土)
  13:00 “満洲・東北切手展”特別シンポジウム(池袋会場)
  16:00 特別対談「満洲における写真、絵葉書、郵趣」(池袋会場)
 11月2日(日)
  13:00 “戦後日本切手展”ギャラリー・トーク(目白会場)
  15:00 中公新書ラクレ presents 『大統領になりそこなった男たち』刊行記念トーク(池袋会場)
 11月3日(月・祝)
  11:00 “戦後日本切手展”ギャラリー・トーク(目白会場)

 トークそのものの参加費は無料ですが、<JAPEX>への入場料として、両会場共通・3日間有効のチケット(500円)が必要となります。あしからずご了承ください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。


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 アメリカ史に燦然と輝く偉大な「敗者たち」の物語    
 『大統領になりそこなった男たち』 中公新書ラクレ(本体定価760円+税)
 
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 もう一度切手を集めてみたくなったら 
 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。
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 武漢の桜
2006-03-29 Wed 21:35
 中国の武漢大学にある桜の木について「植えたのは旧日本軍。侵略戦争のシンボルだ」と批判する声が急増、中国の大手ウェブサイト「ネットイース(網易)」では「武漢大の桜は中国の恥か」と題する公開討論を始めたそうです。

 というわけで、日本占領時代の武漢大学に関係するものとして、今日はこんなものを持ってきました。

武漢大学

 1937年12月、南京が陥落すると、中国国民政府は重慶への遷都を宣言しますが、その過程で、揚子江中流の都市、漢口が首都機能を担うことになります。このため、1938年8月、日本軍は、国民政府の事実上の首都であった漢口と武昌・漢陽からなる武漢地域の攻略作戦を開始。30万もの兵力を動員し、約2ヶ月後、漢口を陥落させます。作戦は、11月11日に岳州が陥落したところで完了し、以後、日本軍は占領地域を拡大しない方針を固めました。

 今日、ご紹介しているのは、こうした状況の下で設けられた武漢大学野戦郵便局で使用された風景印で、大学の校舎と風景が描かれています。以前、拙著『切手と戦争』でもご紹介したものですが、クリックして画像を拡大していただくと、細部までご覧いただけるものと思います。

 南京から漢口に逃れた蒋介石は、1938年3月29日(そういえば、今日は3月29日ですね)から4月1日まで、武漢大学礼堂で中国国民党臨時全国大会を開催し、そこで“抗戦建国”の基本方針を採択します。これは、「抗戦の目的は日本帝国主義の侵略に抵抗して国家民族の滅亡を回避することにあると同時に、抗戦中の工作をしっかりとこなし、建国という任務を完成させることにある」というもので、以後、抗日戦争の勝利にいたるまで、国民政府の基本方針の一つとなりました。

 このように、“抗戦建国”のゆかりの地であり、中国側の抗日活動の拠点ともなっていた武漢大学を野戦局の風景印の題材として取り上げられたのは、この地が日本軍の掌握するところとなっており、“抗戦建国”がその意味をもはや失っている、ということをアピールする意図があったためとみてよいでしょう。

 まぁ、こうした経緯を考えると武漢大学が“抗日の聖地”となっているのはわからなくもないのですが、だからといって、桜の木には何の罪もないわけで、いまさら“坊主憎けりゃ袈裟まで”のようなことをいわれても、日本人としては当惑するばかりです。こういうとき、日本人同士なら、花見でもしながら酒を酌み交わして腹を割って話すという解決策もあるんでしょうが…でも、その花見じたいが彼らはいやだっていうんですからねぇ。うーん。

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 南京野戦局の風景印
2005-12-13 Tue 13:57
 今日は12月13日。日中戦争中の1937年に日本軍が南京を陥落させた日です。というわけで、こんな葉書を1枚。

 南京風景印

 この葉書は、1938年5月に上海派遣軍の兵士が差し出したもので、南京野戦郵便局の風景印が押されています。

 日中戦争時、日本軍は中国大陸の各地に野戦局を設置しましたが、このうちの上海・杭州・湖州の3ヶ所では1938年4月3日から風景印(各地の風景や名所旧跡などをデザインした消印)を使いはじめました。南京では、今回ご紹介しているタイプのものが1938年4月20日から使用されています。

 消印に描かれているのは、南京の城壁と明孝陵(明の太祖・朱元璋のお墓)の象の石像です。

 当時の風景印の中には、兵士が描かれていたり、戦争で破壊された建物(日本側の戦果を示すためにこういう題材が取り上げられたらしい)が描かれていたりするものも少なくないのですが、この風景印にはそうした要素は全くありません。そのことが、かえって“激戦の後”をものがたっているように感じられるのは、僕だけなのでしょうか。

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 孫文のお墓
2005-09-23 Fri 11:55
 今日はお彼岸の中日。お墓参りの日です。(僕は、今年も仕事に追われていて行きませんでしたが…)

 というわけで、何かお墓がらみの面白いブツはないかと思って引っ張り出してきたのが、↓の絵葉書です。

汪政権

 これは、日中戦争下の1942年、日本軍占領下の南京にあった親日政権、汪兆銘政府が発行したもので、紫金山の国父陵(孫文のお墓)が取り上げられています。

 9月14日の日記 でも簡単に触れましたが、汪兆銘の南京政府は、自分たちこそが中国の正統政府であると主張していました。このため、南京政府としては、(彼らの主張によれば)日本との提携を訴えた国父・孫文の遺志に忠実なのは、日本と戦争をしている蒋介石の重慶政府ではなく、自分たちの方なのだ、ということをしめすために、こうした葉書を発行したというわけです。

 なお、葉書の右側には、汪兆銘の揮毫で「勵行新國民運動 完成中國革命 實現東亞解放」の文字が入っています。ここでいう“新國民運動”とは、一言で言ってしまえば、“日本と協力して東亜解放の戦争を戦うため”のプロパガンダとまとめてしまうことができましょう。“完成中國革命”のフレーズは、孫文が「革命いまだならず」と言い残して亡くなったことを踏まえ、国父陵の写真とともに、自分たちこそが孫文の遺志を継いでいるのだということを示すためのものと理解できます。

 昭和の戦争を題材とした作品を作るとき、汪政権の話は避けて通ることができないものですが、案外、気の利いたマテリアルというのは少ないものです。その意味では、こういう分かりやすいマテリアルは使い勝手がよく、作品構成の上で重宝しています。
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 汪政権の晴天白日旗
2005-09-14 Wed 11:32
 9月10日の日記 で、中国共産党の“解放区”に描かれた晴天白日旗(国民政府の国旗)の話を書いてみたところ、nagoya-jpさんから、日本軍占領地域の汪兆銘政権もこの旗を使っていたのではないか、という書き込みを頂戴しましたので、この点について、若干の補足をしておきたいと思います。

 日中戦争下の南京に樹立された汪兆銘政権は、建前としては、孫文の遺訓を踏み外した蒋介石の重慶政府と袂を分かった国民党の(自称)正統派が作ったものということになっていました。自分たちは、新政府を樹立したのではなく、南京に戻ってきただけなのだ、という意味で“還都”という表現を使ったのもこのためです。当然、国旗と国家も、彼らは、以前の国民政府のものを使う事を主張しました。

 ところが、現実には、重慶政府と南京政府は戦闘を行っているわけで、両者が同じ国旗を掲げてどんぱちやっていると、実際の問題として、敵・見方の区別がつきにくくなります。そこで、南京政府側は、従来の晴天白日旗の上に、「反共・和平・救国(だったと思いますが、間違っていたらごめんなさい)」の文字を書いた三角形の布(着脱可能)をくくりつけて使っていました。実際のイメージは、こんな感じです。

広東の記念印

 この記念スタンプは、1940年10月21日、日本軍の広東占領2周年を記念して使われたもので(正規の郵便印かどうかは、ちょっと怪しいですが…)、当然、ここで掲げられている晴天白日旗は、同年3月に成立した汪政権のもの。上部には三角形の布もしっかり翻ってます。ただし、デザイン上の都合で、三角形の布は実物よりかなり大きな比率で描かれていますし、スローガンも“和平”しか入っていません。ちなみに、広東占領を“広東更生”と言い替えているあたりも、占領政策の一端がうかがえて興味深いものです。

 汪政権にしてみれば、晴天白日旗の上につけられていた三角形の布は、あくまでも、戦闘などの際に重慶側と区別するための便宜的なものでしたので、重慶側と接触する可能性のない儀式などの場合には、三角形の布が取り外されて、晴天白日旗のみが掲げられることもありました。 

 ちなみに、この三角形の布、中国の人々からは“豚の尻尾”との隠語で呼ばれていたそうです。汪政権に対する、一般的な中国人の感情が垣間見えるようなニックネームといってよいでしょう。


 ***テレビ出演の予定***

 明日15日(木)22:50~ NHK教育テレビの「視点論点」に登場の予定です。お題は、今年生誕200年を迎えたアンデルセン。収録は明日の午後に行いますので、現在、最終的に内容を詰めているところです。ご期待ください。
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