2020-07-17 Fri 02:23
おととい(15日)、イラン南部のブシェール(ブーシェフル)にある造船所で原因不明の大規模火災が発生し、建造中の船舶5-7隻が損傷しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1906年6月2日、ブシェールで使用された英領インド切手です。 ブシェールはペルシャ湾岸の港湾都市で、1736年、アフシャール朝のナーディル・シャーの治世下で創建されました。1763年、英国東インド会社はこの地に拠点と交易所を設ける権利を獲得し、18世紀後半には英海軍の基地が置かれました。 1856年11月1日、アングロ=ペルシャ戦争が勃発すると、同年12月9日、英国はブシェールを占領。翌1857年3月4日、アングロ=ペルシャ戦争の講和条約としてパリ条約が結ばれると、英国はブシェールから撤退します。しかし、1864年5月1日にはブシェールに英領インド局が設置され、ここに示すように、英領インド切手が使用されました。 1914年に第一次大戦が勃発すると、英国はペルシャ湾からインド洋への制海権を確保するため、1915年8月8日、ブシェールを占領し、イラン切手に“イギリス占領下ブシェール(BUSHIRE Under British Occupation)”と加刷した切手を発行し、使用しています。なお、第一次大戦以降、ブシェールは初期のインド行き航空路の中継地点となり、多くの飛行機がブシェールを経由しました。ちなみに、ブシェールの英領インド局が閉鎖され、ペルシャ郵政が業務を引き継いだのは、1923年4月1日のことです ところで、ブシェールの郊外にはイラン唯一の原子力発電所がありますが、原発の建設は、パーレビ王政時代の1974年、ドイツ企業により始まりました。この計画は、1979年のイスラム革命で中断を余儀なくされていたところ、1980年にイラン・イラク戦争が勃発すると建設途中の施設も壊滅的な打撃を受け、一時は頓挫します。 1988年、イラン・イラク戦争が停戦となり、戦後復興がある程度進むとともに、1991年の湾岸戦争で仮想敵国のイラクが敗北し、原発建設の障害がなくなると、1995年、イラン政府は中断していた原発建設をロシアの協力を得て再開します。 一方、イランでは、1979年の革命直後から極秘裏に核開発に着手していましたが、1990年代には少量のプルトニウムの抽出に成功したことで、2002年にイランの核開発問題が表面化し、2003年には国際原子力機関(IAEA)定例理事会で、イランに対する非難決議案が全会一致で採択されました。 さらに、2005年に発足した対米強硬派のアフマディネジャド政権は、核開発続行の意思を表面し、2006年4月、核燃料サイクルに適合するウランの精製に成功したと発表。さらに、同年11月には“完全な核燃料サイクル技術を獲得した”との発表も行われました。この間、 7月31日には国連安保理がイランに核開発中止を求める決議1696を賛成14、反対1(カタール)で採択しています。 こうした経緯を経て、2011年、イランの最初の原子力発電所であるブシェール第1原子炉が、主にロシアの国営原子力企業ロスアトムによる援助で完成。同年9月12日、公式に稼働を開始しましたが、現在なお、核開発疑惑が払拭されたわけではないのは周知のとおりです。 さて、イランでは、6月下旬に首都テヘランの軍事施設と診療所で爆発が発生。さらに、今月2日には、中部ナタンズの核施設で、動作試験中だった高性能の遠心分離機などが破壊される原因不明の“事故”が発生し、12-14日には、南部のアルミ工場、化学工場、工業団地などで原因不明の火災や爆発が多発しています。 特に、ナタンズでの火災については、イラン当局が破壊工作とほぼ断定し、国営イラン通信は「もし敵国が、特にシオニスト政権(イスラエル)や米国が、越えてはならないイランの一線をいかなる形であれ越えるならば、新たな状況に立ち向かうイランの戦略は根本的に再考されなければならない」と警告する論説を発表しています。 ただし、今回のブシェールでの火災については、米国ないしはイスラエルによる謀略説のほか、国内の反政府組織による犯行との見方もあり、今後、さまざまな陰謀論が出てくることになりそうです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 7月17日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-05-06 Wed 02:49
2018年に米国のトランプ政権が経済制裁を再開して以降、深刻な物価高騰が続いているイランで、おととい(4日)、通貨単位を1万分の1に切り下げ、現行のイラン・リヤールに代わり、新通貨の“トマーン”を導入する貨幣銀行法改正案が国会で可決されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1885年、ガージャール朝(カージャール朝とも)支配下のイランで、国王ナーセロッディーン・シャー(在位1848-96)の肖像を描く5フラン切手(1882年発行)に、1トマーンの額面と“OFFICIEL”の文字を加刷して発行された切手です。ペルシャ/イランの切手で、トマーンの額面が表示された切手はこれが最初です。 ペルシャの伝統的な通貨単位としてのトマーンはモンゴル語の万を意味する“トゥメン”に由来するもので、1トマーン金貨に対して、その1万分の1の銅銭がディナール(1トマーン=1万ディナール)と設定され、その中間の銀貨として、リヤールやケラーンが設定されていました。 1779年に成立したガージャール朝は、1798年、1トマーンの8分の1、すなわち、1250ディナールに相当する銀貨としてリヤール(旧リヤール)を導入。旧リヤールは1825年まで使用されていましたが、1825年、1トマーンの10分の1、すなわり1000ディナールに相当する銀貨としてケラーンが導入されます。その後、インフレの進行もあって、19世紀後半にはディナールはほとんど使われなくなっており、代わりに、50ディナールに相当する単位としてシャーヒー、4シャーヒーに相当する単位としてアッバーシーが使われるようになります。ちょっと複雑なので、トマーンとの関係で整理しておくと、以下のようになります。 1トマーン=10ケラーン=50アッバーシー=200シャーヒー=1万ディナール 1ケラーン=5アッバーシー=20シャーヒー=1000ディナール 1アッバーシー=4シャーヒー=200ディナール 1シャーヒー=50ディナール ちなみに、1870年にガージャール朝が最初に発行した切手の額面は、1シャーヒー、2シャーヒー、4シャーヒー、8シャーヒーの4種類でした。 ところで、ナーセロッディーン・シャーは欧化政策を進めましたが、その一環として、1881年から一時期、通貨ケラーンに関して、対外的な呼称を“フラン”に変更し、その100分の1(=1/5シャーヒー=10ディナール)を“サンティーム”としています。今回ご紹介の加刷切手の台切手である1882年の切手は、そうした通貨の変更が反映して、5フラン(5ケラーンと等価)と表示されています。 その後、郵便料金の改正により、新額面の切手が必要になったため、1882年に発行された切手に新額面を加刷した切手が発行されましたが、その際、偽加刷切手が出回ることを防ぐため、正規の加刷切手には“OFFICIEL”の文言も加刷されました。英語のOFFICIALに相当する単語(今回ご紹介の切手のOFFICIELはフランス語)が加刷された切手は、官公庁が差し出す郵便物に貼るための公用切手というのが一般的で、今回ご紹介したイランの事例はかなり特殊です。 1925年、ガージャール朝に代わって成立したパフラヴィー朝は、当初、ガージャール朝時代の通貨制度を踏襲しましたが、1932年、ケラーンの名称をリヤールに変更するとともに、トマーンをリヤールに吸収するかたちで実質的に廃止しました。ただし、一般国民の間では、その後も現在に至るまで、10リヤールを意味する語としてトマーンは生き残っていました。 2010年代にインフレが深刻化したイランでは、2016年12月7日にも、イラン中央銀行がデノミの実施と新トマーン貨の導入を提案しましたが、この時は実現しませんでした。しかし、2018年以降のハイパーインフレの進行により、再びデノミ論議が沸き起こり、昨年(2019年)提出された貨幣銀行法の改正案が、今回、国会で通過したというわけです。 なお、イランでは、国会を通過した法案は、イスラム法学者6名と一般法学者6名で構成される“監督者評議会”に送られ、その承認を得なければならないとされています。監督者評議会の中には、現在、一般国民の間では10リヤールを意味する語としてトマーンが定着しており、デノミを実施するにしても“トマーン”の復活は混乱を招くとして慎重論もあるようで、今後、新通貨の名称については、トマーン以外のものに修正される可能性もあるのだとか。ちなみに、監督者評議会が今回の法改正をそのまま承認した場合には、2年程度で新トマーンが導入される予定です。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-11-13 Mon 12:40
イラク北東部、イランとの国境にも近いスレイマニア県を震源として、現地時間12日午後9時20分ごろ(日本時間13日午前3時20分ごろ)、マグニテュード7.3の大地震が発生。震源に近いイラン西部やイラク北部のクルディスタン地域で建物の倒壊などによる死傷者が出ており、なかでも、イラン西部、イラクとの国境に位置するケルマンシャー州では、この記事を書いている時点で少なくとも141人が亡くなったそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第一次大戦中の1917年、オスマン帝国占領下のケルマンシャーで発行された暫定加刷切手です。 イラン西部ケルマンシャー州は米や野菜を産する豊かな農業地帯として古代から人々が定住しており、州都ケルマンシャーの歴史はピーシュダード朝(イラン最初の王朝とされる伝説上の王朝)のタフモレス・ディーヴバンドの時代にまでさかのぼるとされています。都市としての本格的な建設は、西暦4世紀、ササン朝のバフラーム4世の時代に進められ、以後、同王朝の下で何度かペルセポリスに次ぐ副都に指定されて繁栄を極めました。その後、アラブの侵攻により大きな被害を受けましたが、16世紀から18世紀にかけてのサファヴィー朝支配下では都市として復活しています。 第一次大戦中、当時のペルシャを支配者であったカージャール朝は中立を宣言したものの、戦略的な要衝であるがゆえに各国の軍隊が進駐。1915年にはオスマン帝国の侵攻により、ケルマンシャーも同帝国の占領下に置かれました。今回ご紹介の切手は、そうした状況の下で、1917年、12シャーヒーおよび24シャーヒー切手が不足したため、1ケラーン(=20シャーヒー)切手に暫定的に改値加刷を行って発行されたものです。 なお、この切手が発行されて間もなく、ロシアで10月革命が発生したため、ケルマンシャーを含むペルシャ北西部は、ロシア内戦に干渉するための前線基地として、英国がオスマン帝国を駆逐して占領しました。 1979年のイスラム革命後、ケルマンシャーは、地名の“シャー”が忌避され、“バーフタラーン”と改称されましたが、イラン・イラク戦争(ケルマンシャーも国境の都市として大きな被害を受けました)の休戦後、旧称のケルマンシャーに復し、現在に至っています。ちなみに、ケルマンシャー州の現在の人口は約195万2000人、州都ケルマンシャーの人口は約82万3000人です。 今回の地震では、ケルマンシャー州内では、イラクとの国境に近いサルポル・エ・ザハブの被害が特に深刻で、死亡者のうち60人以上が同郡に集中しているそうです。このほか、イラクのクルディスタン地域でも、東部スレイマニア県のダルバンディカン、カラル、アルビル県のコレなどで死者が出ているほか、ダルバンディカンには農業・発電用の利水ダムがあるため、クルド自治政府は余震に備えて住民に避難を呼びかけています。 あらためて、亡くなられた方の御冥福と、被災地の一日も早い復旧・復興をお祈りしております。 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★★ 11月9日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第11回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、大相撲のため1回スキップして、11月30日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 なお、9日放送分につきましては、16日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2011-05-19 Thu 12:16
イラン国営通信によると、きのう(18日)、イラン南西部のブシェール原発が稼働し、近く電力供給が始まるのだそうです。中東での原発稼働はこれが最初のケースです。というわけで、“ブシェール”といえば、やはりこの切手でしょうか。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第一次大戦中の1915年、イギリス占領下のブシェールで発行された加刷切手です。 イラン南西部、ペルシャ湾に面したブシェールには、1856-57年のアングロ=ペルシャ戦争を経て、1864年5月1日に英領インド局が設置され、以後、ペルシャ領内でありながら、英領インド局が活動を展開していました。 第一次大戦が勃発すると、イギリスはペルシャ湾からインド洋への制海権を確保するため、1915年8月8日、ブシェールを占領下に置き、同月15日、今回ご紹介しているような、イラン切手に“イギリス占領下ブシェール(BUSHIRE Under British Occupation)”と加刷した切手を発行し、使用しました。なお、第一次大戦以降、ブシェールは初期のインド行き航空路の中継地点となり、多くの飛行機がブシェールを経由しています。ちなみに、ブシェールの英領インド局が閉鎖され、ペルシャ郵政が業務を引き継いだのは、1923年4月1日のことでした。 さて、ブシェール原発の計画は、パーレビ王政時代の1974年、ドイツ企業により建設が始まりました。しかし、計画は、1979年のイスラム革命で中断を余儀なくされ、1980年からのイラン・イラク戦争で建設途中の施設は壊滅的な打撃を受けます。 イラン・イラク戦争後の戦後復興がある程度進むとともに、1991年の湾岸戦争で仮想敵国のイラクが敗北し、原発建設の障害がなくなると、1995年、イラン政府は中断していた原発建設をロシアの協力を得て再開します。当初、ブシェール原発は1999年に稼働開始の予定でしたが、再三延期され、今回、ようやく稼働開始にこぎつけたというわけです。 ちなみに、先日の福島原発の事故を受けて、イランの宿敵であるイスラエルは原発建設計画の見直しを発表しましたが、イラン政府は、ブシェール原発を「最新の技術で建設されたもので全く問題はない」、「世界一安全な原発の一つ」と強調し、“脱原発”など一顧だにしていないようです。 とはいえ、ブシェール周辺には活断層もありますから、原子炉がチェルノブイリのイメージが抜けないロシア製ということとあわせて、アラブ首長国連邦(UAE)をはじめ近隣諸国は、やはり、気が気じゃないでしょうな。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 切手百撰 昭和戦後 平凡社(本体2000円+税) 視て読んで楽しむ切手図鑑! “あの頃の切手少年たち”には懐かしの、 平成生まれの若者には昭和レトロがカッコいい、 そんな切手100点のモノ語りを関連写真などとともに、オールカラーでご紹介 全国書店・インターネット書店(amazon、boox store、coneco.net、JBOOK、livedoor BOOKS、Yahoo!ブックス、エキサイトブックス、丸善&ジュンク堂、楽天など)で好評発売中! |
| 郵便学者・内藤陽介のブログ |
|