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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 日本、IWCを脱退
2019-06-30 Sun 10:11
 わが国は、本日(30日)付で国際捕鯨委員会(IWC)から脱退しました。これに伴い、あす(1日)、わが国の領海と排他的経済水域(EEZ)内で、31年ぶりに商業捕鯨が再開されます。といわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      国際捕鯨委員会(山口)

 これは、2002年4月25日、ふるさと切手(山口県)として発行された「第54回国際捕鯨委員会(年次総会)」の切手で、開催地下関の風景とシロナガスクジラが描かれています。

 歴史的に鯨肉を食してきた日本と異なり、多くの西洋人にとって、捕鯨とはあくまでも鯨油を採取するための手段でしかなく、鯨油価格の動向こそが最大の関心事でした。それゆえ、ある年代までの“鯨の保護”には、捕鯨産業を維持するために鯨の乱獲を制限すると同時に、鯨油の生産過剰による値崩れを防ぐという意味あいが強く、じっさい、1948年に発足したIWCも、当初は、鯨油価格維持のための国際カルテルという性格が濃厚な組織でした。

 ちなみに、19世紀には主として照明用に用いられていた鯨油は、第二次大戦後は、低温でも凍らず、高温でも粘性を失わない特性を活かして、自動車や飛行機の潤滑油あるいは潜水艦用の不凍液が主たる用途になりました。米国がながらく世界一の捕鯨国であったのも、このためです。

 しかし、1960年前後から、潤滑油や不凍液は化学合成によって安価で高性能の商品がつくられるようになり、西側世界での鯨油価格は暴落。鯨油採取のみを目的とした捕鯨業者は相次いで廃業に追い込まれることになりました。

 一方、1970年代に入ると、いわゆる環境保護運動が社会的な影響力を持つようになってきます。彼らは、鯨類資源の枯渇した状況を“人類による環境破壊のシンボル”として、「鯨を救え」とする運動を展開。このため、彼らの活動が盛んな米国やオーストラリア、ニュージーランドなどでは、国内法で鯨類製品の輸入を禁止する規制が導入されました。ただし、これらの国では鯨肉は食用とされていなかったため、この規制は国内産業になんら影響を及ばすものではなく、あくまでも象徴的なものでした。

 ところが、1972年にストックホルムで開催された国連人間環境会議で、商業捕鯨の10年モラトリアムが提案されたことで、日本の食糧市場がにわかに注目を集めるようになります。それまでのように、日本が鯨肉で国民の蛋白源をまかなえなくなれば、その代わりの蛋白源の市場が経済大国・日本に生まれるからで、この市場は、オーストラリアやニュージーランドの牛肉や羊肉の生産者にとって非常に魅力的なものと映りました。

 かくして、鯨が以前とは全く異なる政治的・経済的な意味を持つようになると、1976年、非捕鯨国はIWCに再加盟します。ただし、この時点では、オーストラリアなど世界有数の畜産国が、捕鯨は残酷だが、牛や羊の屠殺は認められるという荒唐無稽な主張を政府として支持していたわけではありません。

 さらに、こうした状況の下で台頭してきたのが、現在、環境保護を騙り、世界各地で卑劣なテロ行為や詐欺まがいの集金活動を繰り返している環境テロリスト集団として、全世界に悪名をとどろかせているグリーンピースです。

 すなわち、1970年代前半まで、反戦運動を活動の中心に据えていたグリーンピースは“広くさまざまな自然保護問題について行動する組織”へと脱皮すべく、反捕鯨運動に接近。1975年以降、捕鯨船の前にゴムボートを繰り出して捕鯨を妨害するという環境テロを開始します。グリーンピースや彼らに影響を受けた環境NGOの活動はエスカレートし、農水産省や政府関係者に対して、左派系の教員や活動家が児童生徒を動員して「鯨を救え」と題する抗議文書を大量に送り付け、業務を妨害するという戦術が展開されていきます。そして、こうした恫喝に屈したり、あるいは、そのプロパガンダに洗脳される国民の多かった国々は、急速に反捕鯨国として過激化していったわけです。

 なお、反捕鯨国の急先鋒として知られるオーストラリアが執拗なまでに日本による南氷洋の捕鯨に反対する背景には、かの国にとっては、オーストラリア連邦の結成以来、オーストラリアは常に日本を恐れ日本の脅威を取り除くことに最大の関心を払ってきたという事情があった(ある)ことも見逃してはなりません。

 実際に日本が戦争によって壊滅的な打撃を受け、去勢されたといっても過言ではないほどまでに徹底して武装解除された後でさえ、いずれ「優秀な日本人」は復興を果たし、再び自分たちにとって深刻な脅威となるはずだというのが、日本との苛烈な戦争を戦った経験を持つオーストラリア人たちの共通認識でした。大戦中のダーウィン空襲はオーストラリア北西のティモール海を飛び立った日本軍機によるものでしたが、南氷洋捕鯨に出漁する日本船(しかも、旧海軍の元軍艦が使われていました)の航路は、オーストラリア大陸により接近したものとなることは確実です。

 このため、日本の船が自国の近海を通過することに強い恐怖感を覚えたオーストラリアは、1946年の時点で、戦時賠償として日本の捕鯨母船を没収しようという、どう見ても無理な主張を持ち出して、なんとしても日本の捕鯨再開を妨害しようとしています。

 結局、この件に関しては、西側世界の盟主にして、日本占領を実質的に仕切っていた米国が「(日本の捕鯨再開に)反対する国は日本向けに1000万ドルの食糧援助をしてもらいたい」と一喝したことで決着。オーストラリアも矛を収めざるを得ませんでした。  
 ちなみに、日本の南氷洋出漁にあたっては、「敗戦国が負けて1年も経たないのに1万トン以上の大型船を建造するのは早すぎる」との反対意見がオーストラリアやノルウェー、英国、ニュージーランドなどから出されました。なかでも、英国とノルウェーは1951年の平和条約締結まで毎年抗議を行い、オーストラリアは第一次南氷洋捕鯨に出漁した2隻の捕鯨母船を戦時賠償として要求して物理的に日本の捕鯨を妨害しようとさえしています。

 いずれにせよ、反捕鯨国が、環境テロリスト団体とも良好な関係を保ちつつ、IWCを通じて頑なに日本の商業捕鯨に反対してきた背景には、上記のような歴史的背景があったことは十分に留意しておかねばなりますまい。 


★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月13-15日(土-月・祝) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにポーランド切手展が開催されます。全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2019ポスター

 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。


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 お菓子の切手:アイスクリーム・コーンはアメリカの偉大な発明
2019-06-29 Sat 10:56
 大手製菓メーカー(株)ロッテの広報誌『Shall we Lotte(シャル ウィ ロッテ)』が、紙媒体からデジタルに切り替わり、きのう(28日)からこちらで公開が始まりました。これに伴い、僕の連載「小さな世界のお菓子たち」もデジタル版に移動して「お菓子の切手」と改題して再スタートとなりました。その最初の記事では、こんな切手を取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      米国・20世紀(アイス)

 これは、1998年に米国が発行した20世紀シリーズ第1集(1900年代)のうち、“セントルイス万博”を取り上げた1枚で、コーンに入ったアイスクリームを食べる子供が描かれています。

 米国は東部13州が英国から独立して誕生した国ですが、その後、西方へ領土を拡大していく過程で、1803年、財政難に陥っていたフランス政府から“ルイジアナ”の広大な地域を買収します。

 この“ルイジアナ”は、現在のルイジアナ州の地域のみならず、ミシシッピ川流域の広大な地域を占めており、その地名は、この地に最初に入植したフランス人がフランス国王ルイ14世にちなんで命名したものです。また、フランス領ルイジアナの首府とされたのがヌーベル・オルレアン、すなわち、現在のニューオーリンズ(フランス語の“ヌーベル・オルレアン”を英語風に読むとこうなります)です。

 ここから起算して100周年になるのを記念して、1904年、ミズーリ州セントルイスでは、4月30日から12月1日まで万国博覧会が、7月1日から11月23日までセントルイスオリンピックが開催されました。

 さて、万博の会場には、地元で乳製品を販売していたバナー・バター製造所も出店しており、アイスクリームを販売していました。オリンピックの開催期間と重なった夏には、同社のアイスクリームは飛ぶように売れたそうですが、ある日、アイスクリームはまだ残っているのに、それを入れるカップが先になくなってしまったことがありました。そこで、店員のアーネスト・ハムウィは、とっさに、ワッフルを巻いて、その上にアイスクリームをのせて提供しました。

 今でこそ、コーン上にアイスクリームをのせて食べるのはごく普通のことになっていますが、当時としては、香ばしい焼き菓子としっとりしたアイスクリームの組み合わせは画期的で、これを機に、コーンとアイスクリームの組み合わせは急速に普及します。

 ところで、米国では、1998年から、20世紀の歴史的に重要な事件を10年ごとに振り返る切手を組み合わせたシート形式で“20世紀シリーズ”を発行しましたが、そのうち1900年代を取り上げたシート(下の画像)に取り上げられているのが、今回ご紹介の1枚です。

      米国・20世紀シリーズ(1900年代)

 同じシートには、自動車のT型フォードやライト兄弟の飛行機なども収められていますから、アイスクリーム・コーンは、それらに匹敵するほど、後世の我々に多大な影響を与えた偉大な“発明”と米国では理解されているわけです。

 ちなみに、1912年、オレゴン州ポートランドの発明家、フレデリック・ブラックマンがアイスクリーム・コーンを巻くための機械を発明する以前、初期の時代のアイスクリーム用のコーンは、熱く薄いウエハースを手で巻いて作られていたそうです。熱いさなか、汗だくになりながらコーンを作っていた当時の職人さんたちも、仕事終わりには、冷たいアイスクリームで一日の疲れをいやしていたんでしょうね。

 さて、ウェブ版の『Shall we Lotte(シャル ウィ ロッテ)』では、新しい書下ろしの記事と併せて、随時、紙版時代の記事(今回はこちら)も再掲しています。今後も、コンテンツの充実を図っていきたいと思いますので、よろしくお付き合いください。

 * 昨日(28日)の文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」の僕の出番は、無事、終了いたしました。お聞きいただきました皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。なお、次回の出演は8月2日の予定(仮)です。放送日が近づきましたら、また、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いします。


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 ヴェルサイユ条約100年
2019-06-28 Fri 00:41
 第一次大戦の対独講和条約として、1919年6月28日にヴェルサイユ条約が調印されてから、きょうでちょうど100年です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ヴェルサイユ条約調印日葉書

 これは、ヴェルサイユ条約調印日の1919年6月28日、講和会議場内の郵便局から差し出された葉書で、“VERSAILLES CHATEAU/ COMGRESS DE LA PAIX(ヴェルサイユ宮殿 平和会議)”の文字が入った消印が押されています。

 ヴェルサイユ条約は、第一次大戦に関する講和条約のうち、原則としてドイツと各国の間で締結された条約との体裁をとっています。このため、ハプスブルク帝国オスマン帝国など他の中央同盟諸国とはそれぞれ、別の条約が調印されました。

 また、一口に連合国といっても、その内訳は、次のように分けられます。

・主要連合国:米国英国フランスイタリア日本
・協力諸国:ベルギーポルトガルルーマニア
・残り諸国:ボリビア、ブラジル、中国、キューバ、エクアドル、ギリシャ、グァテマラ、ハイチ、ホンジュラス、ヒジャーズ(サウジアラビアの前身)、リベリア、ニカラグァ、パナマ、ペルー、ポーランド、セルビア、クロアチア、スロベニア、シャム(タイ)チェコスロバキアウルグァイ (ただし、中国は調印を拒否)

 このうち、条約の執行能力を有するのは主要連合国と協力諸国とされ、“残り諸国”(原語はThe Restです)はそれを待つことになっていました。日本と中国がともに“戦勝国”でありながら、旧ドイツ租借地の山東半島に関して、大戦中にこの地を占領した日本の権益が、中国の返還要求よりも優先されたのはこのためです。ちなみに、中国の袁世凱政権は大戦中に21ヶ条要求に屈し、すでに日本へのドイツ権益譲渡を認めていましたから、道義的にはともかく、条約上はそれを履行する義務があり、山東問題について講和条約という点から異議申し立てをすることは、国際法上はかなり無理があります。

 条約の調印は、現地時間の6月28日午後3時、ヴェルサイユ宮殿鏡の間でドイツの署名からスタートし、上記のリスト順(原則としてアルファベット順)に行われ、最後の調印国・ウルグアイの調印を受けて、フランス首相のクレマンソーが「これで平和が達成された」と閉会を宣言。フランス国歌ラ・マルセエーズが演奏され、会議は終了しました。

 当時、連合諸国では“世紀のイベント”としてのヴェルサイユ条約調印に合わせて記念切手の発行を計画していましたが、報道されている会議の進行状況から、条約の調印は8月以降になりそうだというのが大方の予想でした。ところが、急遽、6月28日の条約調印となったため、各国ともに対応に追われ、7月以降、バタバタと記念切手が発行されることになりました。ちなみに、日本の記念切手発行は7月1日のことでした。


★★ 6月28日(金) 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★★

 6月28日(金)05:00~  文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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 演説の日
2019-06-27 Thu 01:04
 きょう(27日)は、1874年6月27日に慶應義塾三田演説館で日本初の演説会が行われたことにちなむ“演説の日”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・闘争の100年(第1ハバナ宣言)

 これは、1968年10月にキューバが発行した”闘争の100年”の切手のうち、チェ・ゲバラの肖像(英雄的ゲリラ)と、1960年9月、ハバナの革命広場で群衆を前に第1ハバナ宣言の演説を行うフィデル・カストロを組み合わせたデザインとなっています。革命後のキューバ切手の中では割と有名な1枚で、この切手をデザインしたTシャツなんてのもあります。(下の画像)

      ゲバラ・切手Tシャツ

 1967年10月にゲバラがボリビアで亡くなると、カストロはゲバラの神格化を本格的に進めましたが、その一環として、1968年を“英雄的ゲリラの年”とし、ゲバラの命日にあたる10月8日を“英雄的ゲリラの日”とするとしたうえで、チェの提唱した“新しい人間”のイメージを援用して「キューバは精神的刺激を重視する」と宣言します。時あたかも、1968年は、キューバ独立運動の出発点ともいうべきセスペデスの“ヤラの叫び”から100周年という節目の年にあたっていたことから、キューバ政府は“(セスペデスからゲバラまでの)闘争の100年”を強調し、国民の“革命意識”を喚起しようとしました。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた第1ハバナ宣言は、直接的には、1960年8月コスタリカの首都サンホセで開催された米州機構 OAS外相会議で、中ソ両国のキューバ支援を内政干渉だと非難したサンホセ宣言が採択されたことへの対抗措置として発せられました。

 すなわち、1960年7月5日、米政府はキューバからの砂糖の輸入割当停止を決定しましたが、米国が買い付けを拒否したのと同量の砂糖をソ連が国際価格で買い取ることを申し入れたため、米国側が期待していたような効果は挙げられませんでした。これを受けてキューバ政府は、米国を挑発するかのように、「我が国が侵略されるようなことがあれば、ソ連の好意を受け取る以外の道はなくなるだろう」との声明を発表。

 この声明に激怒した米国は、ついに、実力で革命政権を転覆させることを決意し、8月16日、CIAによるフィデル暗殺計画を実行に移しましたが、この秘密工作は失敗に終わり、同月19日、米国はキューバに対する経済封鎖を発動しました。上述のサンホセ宣言はこの文脈で出されたものです。

 これに対して、カストロは米系資本の工場や農園を次々に接収するとともに、9月2日、革命広場で群衆を前に“第一ハバナ宣言”を発し、キューバは米州における“自由の地”であることを表明し、中国に対して外交関係の樹立を呼びかけました。ちなみに、この光景はキューバ革命史を象徴する名場面の一つとされており、下のような絵葉書も作られています。

      キューバ・絵葉書(第1ハバナ宣言)

 なお、このあたりの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 2026年冬季五輪、ミラノ・コルティナで共催
2019-06-26 Wed 03:59
 国際オリンピック委員会(IOC)は、24日(現地時間)、2026年冬季五輪を、イタリアのミラノとコルテーィナ・ダンペッツォの共同開催とすることを決定しました。イタリアでの五輪開催は、2006年にトリノで開催された冬季大会いらい20年ぶりのことです。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      イタリア・コルティーナ・ダンペッツォ

 これは、1953年にイタリアで発行された観光宣伝の切手のうち、今回、五輪開催地に決まったコルテーィナ・ダンペッツォを取り上げた1枚で、ドロミーティ山麓の風景が取り上げられています。

 コルティーナ・ダンペッツォは、イタリア北部、ヴェネト州ベッルーノ県の基礎自治体(コムーネ)で、ドロミーティ山脈の麓、アンペッツォ地方の中心地となっています。地名は“アンペッツィオ地方のコルティーナ”の意味で、単にコルティーナと呼ばれることもあります。

 第一次大戦以前は、“ティロル伯領”の一部としてハプスブルク帝国の支配下に置かれていましたが、第一次大戦後、ハプスブルク帝国の崩壊に伴い、戦勝国のイタリア領に編入されました。第一次世界大戦中にオーストリアが敷設した軍用軽便鉄道を利用し、1921年にドロミティ鉄道 が開通。以後、リゾート地としての開発が進められ、1927年にはノルディックスキー世界選手権が、1932年にはアルペンスキー世界選手権が開催されています。

 1944年には冬季五輪の開催が予定されていましたが、第二次大戦により1944年の大会は夏冬共に中止。戦後の1956年、あらためて冬季五輪の開催地となりました。ちなみに、この時の大会では、日本の猪谷千春がアルペンスキー男子回転で2位に入賞し、日本のみならずして冬季五輪初のメダリストとなっています。


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 ユギオ
2019-06-25 Tue 11:41
 今年もまた、朝鮮戦争の始まった“ユギオ(韓国語で625の意)”の日がやってきました。というわけで、毎年恒例、朝鮮戦争ネタのなかから、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・赤十字寄附金つきカバー

 これは、朝鮮戦争の休戦後まもない1953年8月1日に発行された赤十字募金の切手のうち、戦場(当時の状況からして、朝鮮戦争をイメージしていると見て間違いないでしょう)で負傷した兵士を支える看護婦を描く切手が貼られたカバーです。切手発行後間もない1953年8月4日に羅州から大邱宛に差し出されたもので、裏面には、このカバーが検閲を受けたことを示す印と、大邱に置かれていた第970軍事局の8月24日および25日の印が押されています。(下に離縁の画像も貼っておきます)

      韓国・赤十字寄附金つきカバー・裏面

 朝鮮半島における赤十字の歴史は、旧大韓帝国政府が1903にジュネーヴ第1並びに第2条約を調印し、1905年に高宗が赤十字の創立を宣言したことに始まります。

 日本統治下では、一国一組織の原則により、朝鮮の赤十字は日本赤十字社に吸収され、その支部扱いとなりましたが、1919年に上海で組織された“大韓民国臨時政府”は独自の赤十字組織を有していたとされています。

 解放後、米軍政時代を経て1948年に大韓民国が正式に発足すると、翌1949年、新たに大韓赤十字社が発足しました。これが現在の韓赤の直接的なルーツですが、国際赤十字から正式な承認は休戦後の1955年5月25日となります。

 なお、朝鮮戦争とその歴史的背景については、拙著『朝鮮戦争』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 スプートニクとガガーリンの闇(19)
2019-06-24 Mon 01:11
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、5月25日、『本のメルマガ』第718号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、ソ連共産党第21回大会について取り上げました。その記事の中から、こんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連共産党21回大会切手つき封筒(ロケット)

 これは、1959年のソ連共産党第21回大会に際してソ連が発行した切手つき封筒で、カシェには、クレムリンから飛び立つロケットのイメージが描かれています。また、印面に押されている記念スタンプには、1958年までにソ連が打ち上げに成功していた3機の人工衛星とロケットが描かれています。

 1958年末に国際地球観測年の期間が終了した直後の1959年1月27日から2月3日にかけて、ソ連共産党第21回大会が開催されました。

 ソ連の共産党大会は原則として5年に1度の開催で、前回の第20回大会は1956年2月に開催され、フルシチョフがスターリン批判演説を行ったことで知られています。したがって、第21回大会は、本来であれば1961年の開催となるはずでしたが、1959年から1965年にかけてのソ連邦国民経済発展7ヵ年計画(以下、7ヵ年計画)に対する承認を得る必要もあって、臨時党大会として1959年の開催となりました。

 党大会では、フルシチョフが「1970年ごろには、ソ連は工業生産でも、人口1人あたりの生産高でも世界第1位となり、資本主義との平和な競争において社会主義が勝利するであろう」と演説し、7ヵ年計画の主要な課題は「共産主義の物質的・技術的土台をつくりだすこと、ソ連邦の経済力と国防力をさらにいっそう強化すること、同時に、国民の増大する物質的、精神的欲求を、ますます完全にみたすこと」とされました。ただし、そうした目標を実現するためには、米国に比べて圧倒的に劣る経済力でありながら、第三次世界大戦を想定して米国と張り合うような、過重な軍事負担を軽減しなければなりません。

 しかし、自国の利益のために米国に妥協し、東側陣営の安全保障をないがしろにしたと見なされれば、社会主義陣営の盟主としてのソ連の国際的な権威は一挙に失墜してしまいます。

 そこで、ソ連は、1957年のスプートニク1号の打ち上げ以降、戦略爆撃機や戦略ミサイルの数においてソ連が米国を凌駕しているのではないかとの西側社会の誤解を最大限に活用し、米ソ両国の軍縮という形式をとって米国により多くの核兵器を削減させることで、自国の軍縮が可能となる状況をつくりだそうとしました。

 こうした国家の意思を反映して、ソ連が発行した党大会の記念切手のうちの1ルーブル切手には、「ソヴィエト人民による宇宙征服」の題目の下、クレムリンを背景に、1958年までにソ連が打ち上げに成功していた3機の人工衛星とロケットが描かれています。今回ご紹介の切手つき封筒も、これと同時に発行されたもので、その趣旨は同じで、1959年の党大会において“宇宙征服”がいかに重要なモチーフとして扱われていたか、その一端をうかがい知ることができます。


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 インパール作戦75年で慰霊式
2019-06-23 Sun 01:34
 第二次大戦中、いわゆるインパール作戦の舞台となったインド北東部マニプール州インパールで、きのう(22日)、攻略作戦に臨んだ日本軍の撤退から75年の戦没者慰霊式典が行われました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      自由インド仮政府高額(緑抜け)

 これは、インパール作戦に参加した自由インド仮政府が、1943年に発行しようとして、果たせなかった“切手”です。本来は、旗の部分が、上からオレンジ・白(虎)・緑のストライプとなっていないといけないのですが、今回ご紹介のマテリアルは緑が抜けてオレンジのみとなっており、しかも、位置がずれているという“エラー”になっています。

 1939年9月、第二次大戦が勃発し、英独が戦争状態に突入すると、インド独立運動の志士で、国民会議派の元議長だったスバース・チャンドラ・ボースは、これを独立運動の好機ととらえて武装闘争の準備を開始。さらに、翌1940年6月、フランスが降伏し、7月にはドイツによる英本土上陸作戦の前哨戦としてバトル・オブ・ブリテンが始まると、ボースはガンディーに対して、反英レジスタンス蜂起のためのキャンペーンを行うよう要求。ガンディーはこれを時期尚早として退けましたが、ボースは大衆デモの煽動と治安妨害の容疑で逮捕されました。

 獄中でのボースは、ハンガーストライキを行い、衰弱のため仮釈放されていた12月にインドを脱出。アフガニスタン経由で、ソ連に亡命しようとしましたが、アフガニスタン駐在のソ連大使がボースの入国を認めなかったため、1941年4月2日、ベルリンに逃れます。

 ベルリンに到着したボースは、4月9日、ドイツ外務省に対して、インドでの独立派の武装蜂起と枢軸国軍によるインド攻撃を提案。ドイツ外務省は情報局内に特別インド班を設置し、1941年11月には“自由インドセンター”を創設。同センターはインドに対する宣伝工作を行うとともに、北アフリカ戦線で捕虜となったインド兵から志願者を募り自由インド軍団(兵力3個大隊、約2000人)を結成しましたが、対英和平の可能性を探っていたヒトラーは、インド独立への支持を明らかにすることは和平交渉の生涯になると考え経ていたため、おおむね、ボースらの独立運動には冷淡でした。

 一方、日英開戦が現実のものとして迫りつつあった1941年9月、日本の陸軍参謀本部はアジア各地のインド人の反英闘争を組織化するため、バンコクで“藤原機関”を結成。同年12月、いわゆる太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発し、日本軍がマレー半島に進攻すると、藤原機関は英軍の中核を占めるインド人兵士への降工作を行い、捕虜となった英印軍将兵の中から志願者を募って、インド国民軍を編制し、マレー半島西岸の街アロースターで投降してきたモーハン・シン大尉がその司令官に就任していました。

 インド国民軍はインド独立を最終目標と掲げ、白人支配からアジアを解放するためことを大義名分として掲げ、1942年8月には4万2000の兵力を擁するまでに成長しましたが、司令官に就任したシンにはその地位に見合った能力がなく、軍内は混乱。このため、インド独立運動の指導者として声望の高かったスバース・チャンドラ・ボースが招聘されることになります。

 こうして、1943年5月、ボースはドイツから日本に渡り、当時の首相・東条英機からインド独立のための支援の約束をとりつけ、シンガポールに乗り込み、同年7月2日、インド国民軍の総司令官に就任。10月21日にはシンガポールで結成された“自由インド仮政府”の首班に就任しました。

 日本政府は、はやくも同月23日、自由インド仮政府を承認。同政府首班としてのボースは、11月5-6日、日本の戦争目的である“アジア解放”を宣伝するために東京で開催された“大東亜会議”にオブザーバーとして招聘され、日本軍の占領下に置かれていたアンダマン・ニコバル諸島を同政府の統治下に置くことが決定されています。

 ところで、自由インド仮政府は、その発足とともに、自らの存在をアピールするための手段として切手を発行することを計画。今回ご紹介のものを含めて切手の製造をドイツに発注しました。しかし、戦況の悪化で、完成品がドイツから仮政府の拠点があったラングーンまで届けらることが困難となり、この切手も発行されないまま終わってしまいました。

 さて、日本占領下のビルマから国境を越えてインドへ進攻しようというプランは、日英開戦後の早い時期から検討されていましたが、1943年11月の大東亜会議でボースがその実施を要請し、首相・東条英機がこれを強く支持したこともあって、1944年3月8日、ビルマとの国境に近いインドの都市インパールの攻略作戦が発動されます。

 日本軍は、インド国民軍とともに、4月29日の天長節までにインパールを攻略することを目標としていましたが、その作戦計画は補給面を軽視するなど杜撰なものでした。このため、日本軍はいったん、インパール近郊のコヒマを占領したものの、ジャングル地帯での作戦は困難を極め、空陸からの英軍の反攻が始まると前線は補給路を断たれて餓死者が大量に発生。最終的に、インパール作戦での日本側の損害は、戦死3万、戦傷4万2000を数え、ガダルカナルの4倍以上の被害を蒙り、惨憺たる結果に終わりました。

 インド国民軍は、その後もイラワジ会戦などで日本軍とともに英軍と戦ったものの敗走を重ねます。さらに、ビルマでは、敗色濃厚となった日本軍の能力を見限ったアウン・サン率いるビルマ国軍が反ファシスト人民解放連盟を組織し、日本軍から離反したため、仮政府とインド国民軍は、日本軍とともにビルマからタイに撤退し、そこで終戦を迎えました。

 日本が降伏すると、ボースは戦後の東西冷戦を見越して、英国の“敵の敵”であるソ連に渡って独立闘争への支援を得ようとしましたが、1945年8月18日、移動中の台湾で飛行機事故により死亡。彼の死により、仮政府は自然消滅状態となり、インド国民軍も英軍に降伏しました。

 戦後、英植民地政府はインド国民軍幹部を英国王に対する反逆罪で裁こうとします。しかし、ガンディー率いるインド国民会議派と一般のインド国民の激しい抗議活動にあい、被告は釈放。現在でも、チャンドラ・ボースをはじめとする仮政府幹部はインド独立の志士として、インド国民の尊敬を集めています。
 

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 夏至
2019-06-22 Sat 00:09
 きょう(22日)は夏至です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      エクアドル・インティラミマスク

 これは、2011年に発行された“エクアドルの輸出品”の切手のうち、毛織物を取り上げた1枚で、右側には冬至(北半球では夏至)の祭礼、インティライミの際に用いられる“インティライミ・マスク”が取り上げられています。

 かつてのインカ帝国の暦は冬至を元日としていましたが、その祝賀行事として行われていたのがインティライミでした。

 インティライミは、先住民族のケチュア語で“太陽の聖なる祭り”を意味する言葉で、もともとは、トウモロコシ、豆類、穀類の収穫の時期にあわせて、太陽の神様インティ・ヤラ と母なる大地パチャ・ママにその年の収穫を感謝し、翌年の豊作を願うもので、最初のインティライミが行われたのは、マチュピチュで有名な皇帝パチャクテク治世下の1412年のことでした。祭礼は9日間にわたって行われ、人々は山の精霊“アヤ・ウマ”に扮したリーダーに率いられ、輪になって踊ります。アヤ・ウマは昼と夜を意味する2つの顔を持ち、1年の12月を意味する12本の角を持つとされ、その姿を表現するために用いられるのが、今回ご紹介の切手に取り上げられた毛織の“インティ・ライミ・マスク”です。

 インカ帝国の支配下では、1535年までインカ皇帝によるインティライミが行われていましたが、それ以降はスペイン人征服者とカトリック教会によって禁止されました。

 しかし、1944年、ペルーでファウスティノ・エスピノーザ・ナヴァロとケチュア族の俳優らによってインティライミが再現され、以後、アンデス山脈の各地でさまざまな祭礼がおこなわれるようになっています。
 

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 習近平国家主席、訪朝
2019-06-21 Fri 01:30
 今月25日の朝鮮戦争開戦記念日を前に、中国の習近平国家主席が、きのう(20日)、国賓として平壌を訪問し、金正恩朝鮮労働党委員長と会談しました。中国の最高指導者の訪朝は、2005年、当時の胡錦濤国家主席以来、14年ぶりのことです。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。

      朝鮮人民軍・軍事郵便(中国寄贈)

 これは、朝鮮戦争中、朝鮮人民軍(北朝鮮軍)の兵士が差し出した軍事郵便です。使われている封筒は、北朝鮮を支援するために中国が派遣した“中国人民赴朝慰問団”が援助物資の一環として北朝鮮側に贈ったもので、北京の天安門の図と、“抗美援朝 保家衛國”のスローガンが入っています。なお、紫色の印には、ハングルで“朝鮮/軍事郵便/人民軍”の文字が入っています。

 1950年6月25日、朝鮮人民軍(北朝鮮軍)の南侵によって始まった朝鮮戦争は、当初、奇襲攻撃の利を活かした朝鮮人民軍が優勢でしたが、同年9月の仁川上陸作戦により形成は逆転。韓国・国連軍は38度線を越えて北進し、北朝鮮は国家壊滅の危機にさらされます。このため、同年10月、中国は「唇滅べば歯寒し」として北朝鮮を支えるための“人民志願軍”を派遣しました。その際、中国国内で盛んに強調されたスローガンが、今回のカバーにもある“抗美援朝(米国に抵抗して朝鮮を支援する)”です。

 ゲリラ戦に秀でていた中国側は人海戦術を展開し、銅鑼を鳴らし、ラッパを吹いて、歓声を上げながら波状攻撃を繰り返して国連軍を包囲分断。中国の参戦を予期していなかった国連軍は総崩れとなり、2週間ほどの間に、38度線以南まで後退し、計3万6000名もの損害が発生しました。さらに、12月31日、中国側は正月攻勢を発動。このため、韓国・国連軍は再び後退を余儀なくされ、翌1951年1月4日にはソウルを放棄し、平沢=丹陽=三陟を結ぶラインまで撤退を余儀なくされました。

 もっとも、作戦区域を急激に拡大したことで中国の補給も伸びきり、1951年2月、国連軍は中国・北朝鮮軍の撃退に成功。以後、攻勢に転じ、3月15日にはソウルの再奪還に成功し、月末までに38度線以南の要地を確保します。

 以後、戦況は38度線を挟んで一進一退の膠着状態に陥りますが、1953年7月27日の休戦協定成立までに、中国・北朝鮮側は、約39万の米軍兵士、66万の韓国軍兵士、2万9000の国連軍兵士を戦場から“抹消”したとされています。

 なお、朝鮮戦争への中国の関与については、拙著『朝鮮戦争』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。
 

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 井岡一翔、日本人初の4階級制覇
2019-06-20 Thu 00:41
 ボクシングの元世界3階級王者(WBCおよびWBAミニマム級、WBAライトフライ級、同フライ級)で、WBO世界スーパーフライ級2位の井岡一翔が、きのう(19日)、同級1位のアストン・パリクテ(フィリピン)を破り、日本人初の世界4階級制覇を達成。さらに、具志堅用高氏を突き放し、国内ボクサー世界戦勝利数15で単独首位となりました。というわけで、きょうはこの切手です。

      第12回国体(ボクシング)

 これは、1957年10月26日に発行された“第12回国民体育大会(以下、国体)”の記念切手のうち、ボクシングを取り上げた1枚です。

 1957年の夏季・秋季の国民体育大会は、10月26日から30日まで、静岡県下の各地で行われました。

 静岡県が国体の誘致に乗り出したのは1950年のことで、その後、県側は、半ば強引ともいえる誘致活動を展開。1953年、1957年の国体開催権を獲得します。

 しかし、他県同様、1950年代半ばの静岡県の財政は慢性的な赤字を抱えて危機的な状況にあり、普通に考えれば、国体開催に伴う巨額の出費に耐えられるような状態ではありませんでした。

 実際、1955年の神奈川国体の収支が、後援会による猛烈な募金活動にもかかわらず、大幅な赤字となっており、これらは、地元の各自治体にとって大きな負担となってのしかかっていました。こうした状況を踏まえ、地方に対する中央の統制を強化しようとしていた自治庁(後の自治省、現総務省)は、国体の地方開催を中止させるべく、動き始めます。

 すなわち、静岡国体の開催経費が、すでに当初の計画において4億5000万円以上となっていたことをとらえ、自治庁は地元の市長に対して国体開催返上を申し入れるよう説得。これを受けて、1956年1月、浜松市長・岩崎豊は、地元を訪れた自治庁長官・太田正孝に静岡国体の返上を申し入れ、その要望が容れられるかたちで、同27日、静岡国体以降、国体の地方開催を中止することが閣議決定されています。

 これに対して、日本体育協会や静岡国体以降の国体開催を予定していた自治体などは、地元選出の国会議員を通じて衆議院地方行政委員会などで抵抗。衆議院議員の星島二郎を座長とし、開催予定地となっていた静岡・富山・熊本・秋田岡山の各県選出の自民党議員と知事、文部省、スポーツ関係者等が集まり、国体の地方開催を推進するための「国体推進協議会」を結成して、自由民主党(1955年11月結党)を通じ、政府に国体の地方開催を呼びかけます。

 これと併行して、静岡県内では、県体育協会会長の斉藤了英(後、大昭和製紙社長・会長)を中心に、開催経費1億円以内という“緊縮国体”の開催実現に向けて各方面への根回しを開始。また、大会復活のための街頭署名も活発に行われ、七万人の署名も集められています。

 巨額の財政赤字を抱える中で、静岡県側が国体の開催に固執したのは、彼らが、今回の国体開催を地域開発の重要な契機ととらえていたためです。すなわち、国体開催にあわせて大規模な公共事業(道路や上下水道などの都市基盤整備)を行うことで、地元経済を活性化し、工業化を推進するだけでなく、その“遺産”により大規模な工場を誘致すれば、最終的に財政赤字からの脱却が可能である、というのが彼らの発想でした。

 同時に、自民党議員にとっては、そうした地元の意向を国政の場において代弁することによって、地元関係者を“集票マシン”として組織化できるというメリットがありました。

 さらに、地元の経済界は、静岡国体の開催を、地元との結びつきを強め、経営を拡大させるための絶好の機会ととらえていました。たとえば、斉藤了英の大昭和製紙の場合、そうした文脈にそって、以前から野球や陸上競技などの企業スポーツに力を入れていましたが、国体の開催決定後には、吉原市立体育館の総工費2400万のうち2000万円を寄附するなど、地元では国体の実質的な冠スポンサーとしてのイメージを定着させることに成功しています。

 こうした関係者たちの思惑は、のちに、高度成長期を通じて“政・官・業”のトライアングルにもとづく利益誘導型の政治システムとして確立されていくことになりますが、静岡国体の開催は、まさに、その走りであったとみなしてよいでしょう。

 結局、静岡国体の開催問題は、1956年5月、9500万円の開催予算案を携え、国体推進競技会の関係者等が太田自治庁長官と面談し、“緊縮国体”ないしは“自粛国体”としての静岡国体の開催を承認させています。こうして、同年9月、静岡国体の開催は正式に決定されました。

 静岡国体以後、地元選出の国会議員を動員して国体の開催を実現し、それを地域開発の手段として活用していくという手法は、国体の基本的なスタイルとして定着していくことになります。その意味では、静岡国体は、国体の歴史を考える上で、きわめて重要な大会であったということができます。

 さて、静岡国体の記念切手発行について、具体的な切手発行の準備か開始されたのは1957年6月26日のことで、このとき、部内関係者の協議により、男子の競技としてはボクシングを、女子の競技としては段違い平行棒もしくは平均台を用いることが決められました。

 このうち、ボクシングの図案に関しては、7月16日付の『朝日新聞』に掲載された写真と、8月3日付の『スポーツニッポン』に掲載された写真の2点のうち、後者を元に長谷部日出男が下図を作成しました。ただし、『スポーツニッポン』の写真は、毎日新聞大阪本社電送のもので、作画資料としては、伝送前のオリジナルが用いられています。なお、原画の制作中、長谷部の身内に不幸があったため、急遽、渡辺三郎がボクシングの原画も担当することになり、8月20日までに、部内手続きを経て原稿が印刷局に渡されました。

 また、当初、今回の切手の印刷に関しては、郵政省では、同時に発行された段違い平行棒の切手とあわせ、2色刷のザンメル凹版で印刷することを希望していました。しかし、これは納期ならびに技術上の問題から不可能であるとして印刷局から断られたため、前年同様、凹版単色刷となっています。


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 無事帰国しました。
2019-06-19 Wed 00:26
      武漢展審査風景

 作日14:00頃、無事、武漢から帰国いたしました。今回の武漢滞在中、ジュリー・アカデミーならびに世界切手展<CHINA 2019>では、、審査員の佐藤浩一さん、山田廉一さん、ご出品者の伊藤純英さん、伊藤文久さん、井上和幸さん、榎沢祐一さん、斎亨さん、須谷伸宏さん、永井正保さん、吉田敬さん(50音順)をはじめ、多くの方々にいろいろとお世話になりました。おかげさまで、コミッショナー兼審査員としての業務を何とかこなすことができただけでなく、いろいろと実りの多い滞在となりました。その成果につきましては、追々、皆様にもご報告して参りますが、まずは、現地滞在中、お世話になった全ての方々に、この場をお借りしてお礼申し上げます。

 冒頭の写真は、今回の切手展の期間中、郵便史部門の審査風景を現地メディアが撮影したものです。武漢では、今春、桜の名所として知られる武漢大学で、“和服(のような服装)”で花見をしようとした男性が警備員に取り押さえられ、暴行された事件がありました。このため、国際展には常に和装で参加することにしている僕としては、事前にプロフィール写真を送強うに求められた際、和装の写真を送ったうえで、先方から「やめてほしい」との申し入れがあれば洋装で参加仕様かとも考えていたのですが、結果的に、和装を止めてほしいという話はありませんでした。実際、和装で会場内を歩いていると、(毎度のことですが)現地の参観者からしきりと写真撮影を求められたほか、今回ご紹介の記事写真にも和装姿が取り上げられるなど、一般の市民感情としては和装に対する反発・反感はほぼなかったように思います。まぁ、これも無事に帰国できた今だからこそ、言えることなのかもしれませんが…。

 さて、肝心の審査の方ですが、いままで、僕はテーマティク部門の審査を担当していましたが、今回は、郵便史部門に“見習い”として参加し、郵便史部門の担当能力もあるとのお墨付きを得て、晴れて、2部門目の審査資格も得ることができました。なお、審査最終日の13日には、下の画像のような参加メダルを頂戴しました。(右側は、焦暁光審査員長からメダルを授与していただいた際の記念写真です)

      武漢展・メダル  武漢展・メダル授与

 メダルに描かれているのは、今回の切手展のマスコットキャラクターの“斌斌(ビンビン)”で、この名前は、もともとは、「形と内容とが調和し、充実しているさま」の意味です。また、斌斌の髪の毛は、武漢市の市の木であるメタセコイアがデザインされています。

 一方、切手展の会期初日に発行された記念切手は、武漢市のランドマークで、今回の切手展のロゴマークにも取り上げられている黄鶴楼を描いた絵画、佚名(明代)の「江漢攬勝図軸」(武漢市博物館所蔵)の一部を描く連刷切手4点を収めたシート形式となっています。

      武漢展・記念切手

 武漢での切手展が終わると、次はいよいよ、7月13-15日に迫った全日本切手展およびポーランド切手展です。こちらの方でも、皆様にはいろいろとお世話になりますが、引き続き、ご指導・ご支援のほどよろしくお願いいたします。

 * 昨晩、アクセスカウンターが206万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。


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 きょう、帰国します
2019-06-18 Tue 00:57
  早いもので、今回の武漢滞在も最終日となりました。11日から開催されていた世界切手展<CHINA 2019>も昨日(18日)で閉幕し、きょうは午前中の便で東京に戻ります。というわけで、無事の帰国を祈ってこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
 
      漢口書信館・黄鶴楼  現在の黄鶴楼

 左は、1894年に漢口書信館が発行した黄鶴楼の切手です。右側には、武漢滞在中に訪れた、現在の黄鶴楼の写真を貼っておきます。

 “江南三大名楼”の一つとして知られる黄鶴楼は武漢市武昌区の楼閣で、その由来については、以下のような伝承があります。

 昔、武昌にあった辛氏の酒屋に、貧しい身なりをした道士が半年ほど毎日通い、ただ酒を飲んでいました。ある日、道士は辛氏酒代の代わりとして、店の壁にみかんの皮で黄色い鶴を描き、去っていきました。この鶴は、 客が手拍子を打ち歌うと、それに合わせて舞ったため、それを見たさに多くの客が集まり、店は大繁盛しました。その後、再び店に道士が現れ、笛を吹くと黄色い鶴が壁を抜け出し、道士はその背にまたがり、白雲に乗って飛び去っていきました。 これにちなんで、辛氏は楼閣を築き、黄鶴楼と命名したとされています。

 中学・高校の漢文の授業で定番となっている崔顥の 「黄鶴楼」の冒頭で「昔人已乗黄鶴去 此地空余黄鶴楼」とあるのは、このエピソードを踏まえたものです。もっとも、僕じしんは、鶴のJALではなく、ANAに乗って黄鶴楼の地を飛び立っていくわけですが…。

 歴史的事実としては、黄鶴楼は、三国時代の223年、呉の孫権によって軍事目的の物見櫓として建築されたとの記録があります。黄鶴楼は焼失と再建を繰り返しましたが、清の同治7年(1868年)に再建された楼閣(同治楼)は、光緒10年(1884年)に焼失しました。今回ご紹介の切手に取り上げられているのは、焼失前の同治楼です。ちなみに、黄鶴楼の中には、黄鶴楼の歴史的な変遷を示す模型の展示もあり、下の画像のような同治楼の模型も展示されていました。たしかに、切手のイメージに近いのは、こちらのほうですね。

      黄鶴楼・同治楼模型

 その後、1904年、湖北巡撫の端方の命令により黄鶴楼の旧蹟地に2階建ての西洋式の火の見櫓が、1907年に奥略楼が建てられましたが、いずれも、1955年に武漢長江大橋の建設のために取り壊されています。今回の切手展のロゴマーク(下の画像)にデザイン化されている現在の楼閣は、同治楼を参考にし、1985年6月に再建されたもので、高さは約51.4m、八角形の最上層の長辺は18mです。

  さて、武漢滞在中は、審査員の佐藤浩一さん、山田廉一さん、ご出品者の伊藤純英さん、伊藤文久さん、井上和幸さん、榎沢祐一さん、斎亨さん、須谷伸宏さん、永井正保さん、吉田敬さん(50音順)をはじめ、多くの方々にいろいろとお世話になりました。おかげさまで、いろいろと実りの多い滞在となりました。その成果につきましては、追々、皆様にもご報告して参りますが、まずは、現地滞在中、お世話になった全ての方々に、この場をお借りしてお礼申し上げます。

 なお、成田到着は本日午後の予定です。内藤の不在によりご不便・ご迷惑をおかけしている皆様におかれましては、今しばらくお待ちくださいますよう、伏してお願い申し上げます。
  

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 <CHINA 2019> 日本人・永井さんがGPI
2019-06-17 Mon 07:42
 6月11日から中国・武漢市の武漢国際会展中心(武漢国際会議展覧センター:WICEC)で開催中の世界切手展<CHINA 20198>は、きのう(16日)、授賞式が行われ、開催国・中国関連以外のコレクションの中で最も優秀な作品に与えられるグランプリ・インターナショナルの候補3作品のうちの1つに挙がっていた永井正保さんのPrivate Printing Period in Victoria 1850-1859が、見事、グランプリを獲得しました。永井さんのグランプリ受賞は、2017年にメルボルンで開かれたアジア国際切手展<Melbourne 2017>のグランプリ・ナショナル(開催国関連のコレクションで最も優秀な作品に与えられる賞)以来、2度目のことです。というわけで、きょうは、永井さんに敬意を表してこの1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      ヴィクトリア・1855(ファーガソン)

 これは、オーストラリア連邦成立以前の1855年に発行されたヴィクトリア植民地の3ペンス切手です。画像は、2017年に開催のオーストラリア切手展(全日本切手展と併催)で、永井さんのコレクションを招待展示させていただいた際に、コレクションの中の1点としてお送りいただいたものを使いました。

  さて、現在のオーストラリア・ヴィクトリア州の地域には、1803年、最初の流刑植民団がメルボルン付近のポート・フィリップ湾に入植しましたが、この時の植民地は7ヶ月で崩壊。その後、20年以上を経て再入植が行われ、ニュー・サウス・ウェールズ流刑植民地政府の管理下に置かれました。その後、1851年には、ニュー・サウス・ウェールズから分離した“ヴィクトリア植民地政府”が成立しますが、これに先立ち、1850年1月1日から、ヴィクトリア植民地は独自の切手発行を開始しました。

 最初の切手は、教会の牧師で凹版彫刻の技術があったトーマス・ハムが製造し、1849年12月29日、英本国のヴィクトリア女王を描く3種の切手“ハーフレングス(半身像の意)”が納品されました。最初の切手の発行枚数は、1ペニーが1380枚、2ペンスが5460枚、3ペンスが2760枚だったと考えられています。その後、1854年には図案はそのままに、印刷所が変更されるなどしたため、ハーフレングスの切手には、さまざまなヴァラエティが生じることになりました。今回の画像の切手は、そのうち、1855年にキャンベル・ファーガソン社で製造された1枚です。
 
 GPIを受賞した永井さんのコレクションは、ハーフレングスをはじめ、ヴィクトリア植民地初期の貴重な切手が網羅された重厚なコレクションで、まさにグランプリに相応しい作品です。日本コミッショナーとして、日本からの出品作品が“世界一”になったことを、本当に嬉しく、また誇りに思います。

 永井さん、素晴らしい作品のご出品をありがとうございました。そして、あらためて、おめでとうございます。

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 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

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 <CHINA 2019>受賞結果速報
2019-06-16 Sun 01:40
      漢口陥落特印

 6月11日から中国・武漢市の武漢国際会展中心(武漢国際会議展覧センター:WICEC)で開催中の世界切手展<CHINA 20198>は、すべての作品の審査が終了し、下記の通り、受賞結果が発表されましたので、速報としてお伝えいたします。速報故、誤記などがありましたら、のちほど訂正いたしますが、まずは、受賞者の皆様、おめでとうございました。

 下記のリストは文献を除く作品を対象としたもので、出品者名は日本語表記(敬称略)、作品名は英文でリスト記載のとおり、カッコ内は点数です。また、特別賞についても、現時点では流動的な要素があるため、このリストでは省略しています。何分にも、速報ゆえ、誤りなどがありましたら、後日訂正いたしますので、ご容赦ください。

 ・永井正保 Australia: Private Printing Period in Victoria 1850-1859 LG (97)、GPIC
 ・丹羽昭夫 Japan Definitive Issues 1914-1925 G (90)
 ・須谷伸宏 Japan Definitives: Vocational Series G (90)
 ・田畑裕司 Japan Old Koban Series 1876-1879 G (90)
 ・榎沢祐一 Slovenia 1919-1920, The First Issue LS (77)
 ・吉田敬 Kingdom of Prussia 1850-1867 G (93)
 ・山崎文雄 Hawaii, The Bank Note Issues LV (89)
 ・伊藤純英 Foreign Mail in Nagasaki, Japan 1865-1905 LV (88)
 ・小岩明彦 Indian Campaigns G (93)
 ・伊藤文久 Hungarian Inflation 1945-1946 G (91)
 ・斎亨 Postal Cards of Japan 1873-1874 Cherry Blossom Issue LV (88)
 ・榎沢祐一 Our Rotating Foot in Cities: Tramway G (91)
 ・井上和幸 Tonga Tin Can Mail History 1882-1947 G (90)

 なお、永井さんの作品は、グランプリ・インターナショナルの候補3作品のうちの1つに挙がっており、16日夜のパルマレスで、発表される投票結果によっては、グランプリを受賞する可能性があります。

 さて、冒頭の画像は、1938年11月3日、支那事変(日中戦争)での漢口陥落を記念して使われた特印で、“東洋平和 長期建設”の文字が入っています。漢口での日本人出品者の皆さんの勝利を祝して持ってきました。

 1938年5月、日本軍は華北と華中の占領地を連結すべく徐州を占領しましたが、中国軍の包囲・捕捉には失敗したほか、中国側が退却に際して黄河南岸の堤防を破壊して大洪水を発生させた結果、かえって、日本軍の前進は食い止められてしまいます。

 そこで、日本側は、蔣介石の中国国民政府を完全に屈服させるための手段として、1938年6月、当時の国民政府の事実上の首都であった漢口と武昌・漢陽からなる武漢地域の攻略作戦の準備を具体的に開始。同年8月下旬、30万もの兵力を動員した武漢攻略戦が開始され、約2ヶ月の戦闘の後、漢口を陥落させます。さらに、11月11日には岳州を陥落させて武漢作戦を完了し、以後、日本側は占領地域を拡大しない方針を固めました。ただし、日本軍による武漢攻略以前の1938年8月初めには国民政府は重慶へと移転し、戦争継続の意思を明らかにしていたため、戦争はいよいよ長期化していくことになりましたが…。


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 長江クルーズ
2019-06-15 Sat 00:23
 11日から中国・武漢市の武漢国際会展中心(武漢国際会議展覧センター:WICEC)で開催中の世界切手展<CHINA 2019>(以下、武漢展)ですが、昨日(14日)は、その関係者の慰労会として、夜の長江クルーズにご招待いただきました。(下の写真は、船上で友人に取ってもらったものです。また、以下、画像はクリックで拡大されます)

      長江クルーズ

 そこで、そのお礼の意味を込めて、長江から見た武漢の景色を取り上げたマテリアルの中から、切手展会場のある漢陽地区に関連して、こんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      漢陽野戦局風景印

 これは、支那事変(日中戦争)当時、日本軍の漢陽野戦局で使用された風景印で、長江側から見た当時の漢陽地区が描かれています。

 現在の武漢市はかつて武漢三鎮とよばれた武昌漢口・漢陽の3地区を統合したもので、地理的には、長江の東岸が武昌、長江支流の漢水(漢江とも)南岸が漢陽、漢水北岸が漢口(現在の行政では江岸区、江漢区、礄口区)という位置関係です。今回の切手展会場のWICECは、武漢市の中でも漢陽地区にあります。、

 今回のクルーズは、WICEC前の船着き場を出発し、武漢長江二橋まで北上したのち、折り返して戻ってくるというコースで、途中、武漢のランドマークである黄鶴楼や江漢関大楼などを水上から眺めることができました。

 たとえば、下の画像は、クルーズの前半に撮影した黄鶴楼と武漢長江大橋の写真ですが、これを見ると、現在の黄鶴楼が武漢長江大橋の東詰めすぐ近くに位置していることがよくわかります。

      武漢長江大橋と黄鶴楼

 また、水中から見た江漢関大楼(画面中央左の時計塔のある建物)はこんな感じで、近年建設された周囲の高層ビルの中に埋没しながらも、かつて漢口を往来した外国船の船員たちが目にした風景をイメージするうえで、十分、参考になりました。

      水上からの江漢関大楼

 武漢は、黄鶴楼や租界地区以外にも歴史的な重要な場所ですので、いずれどこかで、上の写真なども交えながら“漫郵記”をまとめられれば…と旅先で思っている内藤でした。

 
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 ゲバラ誕生日
2019-06-14 Fri 00:27
 きょう(14日)は、1928年6月14日に生まれたチェ・ゲバラの誕生日です。というわけで、ゲバラの生誕周年の記念切手のうち、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・ゲバラ生誕90年(カメラ)

 これは、昨年(2018年)、キューバが発行した“ゲバラ生誕90年”の記念切手のうち、愛用のカメラを手にするゲバラを取り上げた1枚です。

 1954年6月、グアテマラでは、CIAの支援を受けたカルロス・カスティージョ・アルマスにより、当時、ラテンアメリカで最もリベラルといわれたグアテマラのアルベンス政権が崩壊。当時、グアテマラに滞在していたゲバラは、グアテマラ市民に対して、武器を取ってアルマス軍と戦うことを呼びかけましたが、このため、アルマス政権によって“共産主義者”と認定され、当時の恋人で、純然たる共産主義者のイルダ・ガデアともども粛清の対象となります。

 このため、1954年9月、ゲバラはメキシコへの亡命を決意。ひとまず、メキシコシティ中心部、ナポリ街40番地の安アパートに小さな部屋を借りて友人のエル・パトーホとともに共同生活を始め、カメラを借りて、通りすがりの旅行者などを撮影して金銭を得る街頭カメラマンの仕事で糊口をしのいでいました。ちなみに、当時の彼が使っていたカメラは、1954年12月に発売されたばかりのニコンS2です。

 その後、1954年11月、グアテマラを追放されたイルダがメキシコシティに到着。彼女はレフォルマ通りの別の下宿でベネズエラ出身の女流詩人、ルシーラ・ヴェラスケスとルームシェアし、ゲバラとは週に1-2度会うという関係が続きます。

 そうしているうちに、エルネストはアルゼンチンの政府系通信社“ラティーナ通信”のコーディネーター、アルフォンソ・ペレス・ピスカイーノの紹介で報道カメラマンの仕事を得るとともに、大学の聴講生となり、病院でアレルギーの研究を行うことになりました。

 ラティーナ通信のスタッフとしてのゲバラは、1955年の汎米競技大会を取材し、競技中の選手の写真も何枚か撮影しています。この仕事で彼は総額6000ペソを稼ぎ、経済的にも一息つくことができるがはずでした。ところが、突如、アルゼンチン本国からの指令でラティーナ通信は閉鎖されてしまい、エルネストらスタッフに対する給与も約束の半額しか支払われませんでした。

 その後、彼はメキシコでカストロ兄弟と出会い、1956年にはカストロとともにグランマ号でキューバ島に上陸し、バティスタ政権打倒の革命に邁進していくことになるのですが、後に、当時のことを回想して「司令官になる前、僕は写真家だった」との言葉も残しています。

 なお、このあたりの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。
  

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 世界の切手:エスワティニ
2019-06-13 Thu 05:12
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2019年5月8日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はエスワティニ(と一部ギニアビサウ)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      スワジランド・独立加刷

 これは、1968年、現在のエスワティニがスワジランド王国として独立した際に、英領時代の切手に“独立”文字を加刷して発行された記念切手です。

 現在のエスティワニの王家であるドラミニ家の支配体制が確立されたのは1745年のことでした。

 19世紀後半のムスワジ2世の時代、英国によるアフリカ大陸南部への進出が進み、その圧迫を逃れたズールー人やトランスヴァールのアフリカーナー(南アフリカにおけるオランダ系の入植者)がエスティワニの地にまで進出すると、ドラミニ家は彼らに対抗すべく英国に接近しました。

 1890年代には、一時、エスティワニは英国とトランスヴァールによる共同統治を受けましたが、その後、スワジ人の反対を押し切ってトランスヴァールが単独支配下に置きます。こうした事情を反映するかのように、1889年にスワジランドの地で発行された最初の切手は、トランスヴァール切手に“スワジランド”の文字を加刷したものでした。

 (第二次)ボーア戦争が勃発すると、1902年、英国はトランスヴァールを駆逐してスワジランドを英国高等弁務官領としましたが、ドラミニ家の王制は温存します。当時のスワジランド王政は、国王ソブーザ2世(1899年生)が幼少であったため、祖母のラボツィベニ・ムドルリが摂政として国務を代行しており、1921年、ソブーザ2世の成人により国王の親政が開始されました。

 親政の開始後、ソブーザ2世は英国人による土地収奪問題に取り組み、英国王ジョージ5世と直接会談してスワジ人への土地返還を求め、1929年には枢密院に問題を提起。この請願は、保護領法により拒否されましたが、以後、ソブーザ2世は次第に影響力を拡大していくことになります。

 第二次大戦後、英国はソブーザ2世に対して、英国式の立憲君主制の導入を提案したが、国王はこれを拒否。1960年に多くのアフリカ諸国が独立すると、その影響で、スワジランドでも独立に向けた具体的な動きが検討されるようになり、1963年には制憲議会が招集されます。そして、英国王の任命する弁務官の下、行政評議会と立法評議会を設置する態勢が整えられ、高等弁務官領から自治領へとの昇格が決められました。

 これを受けて、1964年には、新憲法の下で総選挙が行われ、国王を党首とする王党派のインボコドボ国民運動が圧勝。さらに、1967年に内政の自治を得て保護領に昇格したのを経て、1968年9月6日、ソブーザ2世を頂く立憲君主国、スワジランド王国の独立が達成されました。

 さて、『世界の切手コレクション』5月8日号の「世界の国々」では、エスワティニ近現代史についての長文コラムのほか、リード・ダンスや同国の柑橘類の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のエスワティニ(と一部ギニアビサウ)の次は、6月5日発売の同12日号でのボツワナ(と一部ルワンダ)、6月12日発売の同19日号でのソロモン諸島の特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。


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 安倍首相、イラン訪問へ
2019-06-12 Wed 02:47
 安倍晋三首相は、きょう(12日)から、イランを訪問し、ハッサン・ロウハーニー大統領、最高指導者アリー・ハーメネイー師と会談します。日本の現職首相によるイラン訪問は1978年以来で、1979年のイラン・イスラム革命以降は初めてのことです。というわけで、こんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      イラン宛FFC(1966)

 これは、1966年4月1日に就航した日本航空のテヘラン経由南回り欧州線のテヘラン宛FFC(初飛行記念カバー)で、裏面には4月3日のテヘランの着印が押されています。当時の日本航空は、この路線を“新シルクロード”と銘打っており、カシェにはそのイメージなのか、富士山を背景に荒波に漕ぎ出す帆掛け船が描かれています。

 さて、 現在のイランの古名にあたる“ペルシャ”は、もともとは“騎馬の者”を意味する“パールス”にちなんだパールサ地方(現代イランのファールス地方)のことで、これがギリシャ語ではペルシスと呼ばれ、中国語では“ファンシー”と呼ばれて波斯の字があてられました。

 文献上の記録としては、唐代の629年に成立した『梁書』(502-557年に存在していた王朝、梁の歴史書)の列伝第四十八諸夷の中に“波斯国”が採りあげられており、これらの記録を通じて、日本にも波斯の情報が伝えられました。

 たとえば、『日本書紀』には、斉明6年(西暦660年)の秋七月の庚子の朔乙卯(旧暦7月16日)の条に「覩貨邏人乾豆波斯達阿、本土に帰らむと欲ひて、送使を求ぎ請して曰さく、『願はくは後に大国に朝らむ。所以に、妻を留めて表とす』とまうす。乃ち数十人と、西海之路に入りぬ。」として、日本にいた乾豆波斯なる人物が、一時帰国する際に、日本に再訪する意思を示すため、妻を日本に残して行ったとの記述があります。

 また、『続日本紀』巻第十二には、天平8(736)年の出来事として、「八月庚午、入唐副使従五位上中臣朝臣名代ら、唐の人三人、波斯一人を率ゐて拝朝す」、「十一月戊寅、天皇、朝に臨みたまふ…唐の人皇甫東朝・波斯人李密翳らに位を授くること差有り」として、8月23日に遣唐副使・従五位上の中臣朝臣名代らが、唐人3人・ペルシャ人1人を率いて、帰国の挨拶のため天皇に拝謁したこと、11月3日にペルシャ人の李密翳らに位階が授けられたこと、が記されています。ただし、ここで取り上げられているペルシャ人の李密翳がムスリム(イスラム教徒)であったか、あるいは、ムスリムによる征服活動を逃れて中国経由で亡命してきたゾロアスター教徒ないしはマニ教徒(もしくはその子孫)であったか、そのあたりは定かではありません。

 さらに、900年頃に成立したと推定される『竹取物語』には、かぐや姫が求婚の条件として阿部右大臣に火中に投じても燃えない「火鼠のかはぎぬ」を求める場面がありますが、この「火鼠のかはぎぬ」は中国の商人がペルシャなどから取り寄せていた石綿で織った布のことと考えられており、唐土・天竺のさらに西に波斯が存在するということは(少なくとも知識人・上流階級の間では)漠然と知られていたことが伺えます。

 ちなみに、国名としては、1935年3月21日、パフラヴィー朝のレザー・シャーが国名をペルシャからイランに変更した後も、なかなか新国名のイランは一般には定着しませんでした。このため、1959年、モハンマド・レザー・シャーはイランとペルシアは代替可能な名称とし、両者の併用を認めましたが、1979年のイスラム革命によって樹立されたイスラム共和国は国名を“イラン”に統一しています。

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 きょうから<CHINA 2019>
2019-06-11 Tue 06:21
 かねてご案内の通り、きょう(11日)から17日まで、中華人民共和国建国70周年を記念して、中国・武漢市の武漢国際会展中心(武漢国際会議展覧センター:WICEC)で、FIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<CHINA 2019>(以下、武漢展)が開催されます。(下の画像は切手展のロゴマーク。以下、画像はクリックで拡大されます)

      世界切手展・CHINA2019 ロゴ

 というわけで、展覧会の成功を祈念し、今回の展覧会のロゴマークにも描かれている黄鶴楼にちなんで、こんなものを持ってきました。

      武昌野戦局

 これは、支那事変(日中戦争)当時、日本軍の武昌野戦局で使用された風景印で、1343年、モンゴル帝国の皇族コンチェク・ブカ(寛徹普化)により造られた仏舎利塔“勝像宝塔”と護衛の日本兵が描かれています。今回の展覧会にも、仏のご加護がありますようにとの意味を込めて、ご紹介しました。

 現在の武漢市はかつて武漢三鎮とよばれた武昌・漢口・漢陽の3地区を統合したもので、地理的には、長江の東岸が武昌、長江支流の漢水(漢江とも)南岸が漢陽、漢水北岸が漢口(現在の行政では江岸区、江漢区、礄口区)という位置関係になります。

 さて、勝像宝塔は、高さ9.36m、座の部分の直径5.68m。五重塔のそれぞれの段を地・水・火・風・空に見立てて“五輪塔”とも呼ばれています。現在は、長江右岸の蛇山頂の黄鶴楼の西門を入ってすぐのところにありますが、かつては蛇山の西端付近にありました。今回ご紹介の風景印で、塔のすぐ後ろに長江が描かれているのはこのためです。ちなみに、現在の場所に移築されたのは、1984年のことでした。

 さて、中国で世界切手展が開かれるのは2009年に北京で開催された<CHINA 2009>以来10年ぶりのことで(アジア展は2016年に南寧で開催されています)、日本からは、以下の作品が出品されており、審査員兼コミッショナーとして内藤が、審査員として佐藤浩一さんと山田廉一さんが参加しています。

 ・永井正保 Australia: Private Printing Period in Victoria 1850-1859
 ・丹羽昭夫 Japan Definitive Issues 1914-1925
 ・須谷伸宏 Japan Definitives: Vocational Series
 ・田畑裕司 Japan Old Koban Series 1876-1879
 ・榎沢祐一 Slovenia 1919-1920, The First Issue
 ・吉田敬 Kingdom of Prussia 1850-1867
 ・山崎文雄 Hawaii, The Bank Note Issues
 ・伊藤純英 Foreign Mail in Nagasaki, Japan 1865-1905
 ・小岩明彦 Indian Campaigns
 ・伊藤文久 Hungarian Inflation 1945-1946
 ・斎亨 Postal Cards of Japan 1873-1874 Cherry Blossom Issue
 ・榎沢祐一 Our Rotating Foot in Cities: Tramway
 ・井上和幸 Tonga Tin Can Mail History 1882-1947
 (以下、文献)
 ・榎沢祐一 『切手コレクションリーフ制作ハンドブック』
 ・正田幸弘 『紙の宝石』
 ・(公財)日本郵趣協会 『日本切手専門カタログ』vol.1-3

 これらの作品(ただし文献を除く)については、昨日午前中に、審査員の佐藤浩一さん、山田廉一さん、ご出品者の伊東純英さんのご協力も得て無事に展示作業を済ませており、すでに審査も始まっております。(下の画像は中国側の地元スタッフとともに、展示作業に汗を流している様子です)

      武漢展示作業

 きょうは午前中、09:00からオープニング・セレモニーが行われます。なお、受賞結果につきましては、公表可能な状況になりましたら、このブログでもご報告しますので、しばらくお待ちください。


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 時の記念日
2019-06-10 Mon 02:10
 きょう(10日)は時の記念日です。というわけで、せっかく武漢滞在中ですので、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      家中解放区・武漢解放(江漢関大楼220)

 これは、国共内戦末期の1949年、中共側の華中解放区で発行された“武漢解放”の記念切手のうち、時計塔で有名な漢口のランドマーク、江漢関大楼(税関庁舎)と行軍する人民解放軍兵士が描かれています。ちなみに、国共内戦で中国人民解放軍が武漢地域を攻略したのは1949年5月16日のことで、同24日には共産党の武漢市人民政府が成立しました。

 さて、1861年の天津条約により、漢口、鎮江、九江が開港地となると、同年11月、英国租界の租界の西南端、長江の沿岸に海関として“江漢関”が設けられました。ここから内陸に延びる歆生路(太平街とも。現江漢路)が、その後の漢口市街地のメインストリートになりました。

今回ご紹介の風景印に取り上げられている江漢関大楼は、その創立60周年の記念事業として1921年11月4日に着工。上海を本拠地としていた設計事務所、スチュワードソン&スペンス(思九生洋行)が設計を担当し、62万2100ドルの建設費用をかけて、1924年1月21日に落成しました。なお、1927年、漢口の英国租界は、蔣介石の国民革命(北伐)軍が漢口に入城した際に廃止され、江漢関大楼も彼らに接収されました。現在の江漢関大楼は博物館として公開されています。


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 鉄路節
2019-06-09 Sun 00:41
 きょう(9日)は、1881年6月9日、中国最初の鉄道として河北省に開業した唐胥鉄路の起工式が行われた(あるいは、1887年6月9日、劉銘伝の近代化政策により台湾の基隆=台北間を結ぶ“全台鉄路商務総局鉄道”が起工された)ことにちなむ“鉄路節”です。というわけで、現在滞在中の武漢の鉄道ネタの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      占領華北・京漢火車

 これは、先の大戦中の1944年1月、日本軍占領下の開封から朝鮮半島北部の日本海に面した宣徳(咸鏡南道南部)宛に差し出された葉書で、京漢鉄路で運ばれたことを示す“京漢火車”の消印が押されています。使われている葉書は、中国大陸の日本占領地域で使用されていた半価加刷のものです。また、宛先の宣徳には日本時代に飛行場が開設され、現在でも、北朝鮮の軍用飛行場が置かれています。

 北京と漢口を結ぶ京漢鉄路は、1897年4月、清朝がベルギーからの借款によって着工し、1906年4月、全線開通しました。その後、1928年の北伐完了を受け、中華民国の首都は南京であるとの建前の下、同年6月15日付で“北の首都”を意味する北京は北平へと改称され、これに伴い、鉄道の名称も平漢鉄路に改称されました。

 ところが、1937年7月7日に勃発した支那事変で北平を制圧した日本軍は、この地を旧称の“北京”と呼んだため、平漢線は再び京漢鉄路と呼ばれるようになりました。今回ご紹介の葉書はこの時期のモノなので、消印の表示も“京漢火車”となっています。

 ちなみに、今回ご紹介の葉書には“北支 開封站(駅)”の表示がありますが、京漢鉄路の鄭州駅からは、1910年、東は開封(汴)、西は洛陽に至る汴洛鉄路が開通していますので、この葉書も開封駅のポストに投函された後、鄭州まで運ばれ、そこから京漢鉄路に積み込まれ、北京へ運ばれる途中で消印が押されたものと考えられます。

 その後、1945年の日本の敗戦により、国民政府は北京を再び北平に改称したものの、1949年に成立した中華人民共和国は北京の名称に戻して現在に至っています。これに伴い、鉄道の名称も平漢と京漢の間でめまぐるしく変化することになりました。

 なお、1957年に武漢長江大橋が竣工すると、京漢鉄路は武昌=廣州間を結ぶ粤漢鉄路と接続し、北京西から廣州にいたる京廣鉄路となって現在に至っています。


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 世界海洋デー
2019-06-08 Sat 03:47
 きょう(8日)は世界海洋デーです。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・ピノス島領有権確定25周年

 これは、1949年にキューバが発行した“ピノス島”の切手で、同島と周辺海域の地図が描かれています。

 ピノス島は、キューバ本島西部南岸のバタバノ湾から南西100キロの地点にあり、ハバナやピノール・デル・リオからほぼ真南に位置しています。バタバノ湾は、キューバ島南西部、フベントゥド島とサパタ半島に囲まれた浅い湾で、多くの小島や岩礁があり、付近は海綿動物の産地として有名です。1514年、コンキスタドールのディエゴ・ベラスケスは、同湾に面したキューバ島南岸、現在のスルヒエドロ・デ・バタバノの近くに居住地を築いたのがスペイン領キューバの原点となりました。

 その湾外にあるピノス島は、島中に松の木が多数あったことが島名の由来で、日系移民の間ではスペイン語名を直訳した“松島”と通称されていました。

 1898年の米西戦争後に結ばれたパリ条約でスペインはキューバの領有権を放棄しましたが、ピノス島はキューバの領土を定めた覚書からその名が脱落していたため、米国とキューバの間で領有権をめぐる対立が発生。このため、1907年、米国最高裁がピノス島は合衆国に属するものではないとの裁定を下したため、米国政府は、それ以上の争いを断念し、1925年に米国とキューバの間で取り交わされた覚書により、島の領有権はキューバのものと確定しています。

 キューバ本島とは異なり、ピノス島の土壌はサトウキビの生育に全く適していないため、スペイン時代から同島には政治犯収容所が設置され、囚人たちは柑橘類の栽培などの労働に従事させられていました。キューバ独立運動の指導者として知られるホセ・マルティモンカダ兵営襲撃事件を起こしたフィデル・カストロらモンカディスタも、この収容所で拘束されていたことがあります。

 ちなみに、ピノス島の政治犯収容所でのカストロについては、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも取り上げておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 武漢に到着しました!
2019-06-07 Fri 02:49
 昨日の記事にも書きましたが、昨晩、日本を出国し、無事、武漢に到着。Wi-Fi接続のセットアップも済ませました。日本からの世界切手展<CHINA 2019>への出品作品につきましては、通関手続きを済ませ、現在、組織委員会が保税倉庫代わりのホテルの1室で保管しております。(下の画像は海関で封をされた作品のスーツケースを運びこむ内藤と、それをチェックするスタッフの女性。以下、画像はクリックで拡大されます)

      武漢展・通関後  武漢展・保税

 というわけで、無事の武漢到着を祝って、現在は武漢市の一部になっている漢口宛のカバーの中から、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      香港から漢口宛・宣伝ラベル 香港から漢口宛・宣伝ラベル裏面

 これは、1940年12月4日、香港から漢口宛のカバーで、裏面には英国の戦時公債の購入を呼び掛けるラベルが貼られているのがミソです。

 1930年代の日中間の対立に際して中国を支援していた英国は、すでに支那事変が勃発する前年の1936年には、マジノ線(フランス・ドイツ国境を中心に構築されたフランスの対ドイツ要塞線)にならって、九龍半島の山岳地形を利用して、新界・葵涌一帶の醉酒灣(ジン・ドリンカーズ・ベイ。現在の葵芳付近)から金山、城門水塘、畢架山、獅子山、大老山を経て西貢で牛尾海に出るまでの18キロを結ぶ醉酒灣防線(ジン・ドリンカーズ・ライン)の建設を開始し、1938年までにこれを完成させていました。醉酒灣防線の西端には地下要塞が、東端にはトーチカが設置され、日本軍が廣州を越えて新界に侵攻してきた場合には、そこで迎撃するというのが彼らのプランです。

 しかし、その一方で、1938年9月以降、日本軍の廣州占領という現実を前に、日本側を不用意に刺激すべきではないと判断した香港政庁は、微温的な対応を迫られることになります。

 すなわち、広州陥落直前の1938年9月、香港政庁は支那事変に関して中立的態度を取ることを宣告。香港の商人が日中両国の船を修理したり、食糧を供給したりすることが実質的に禁止されます。また、抗日組織を煽動する可能性のある集会は許可されず、抗日を宣伝する新聞やパンフレットは検閲の結果、不許可とされました。

 さらに、1939年9月1日、第二次欧州大戦が勃発し、英国がナチス・ドイツに宣戦を布告すると、英領香港は否応無しに、英国の戦争に巻き込まれ、すでに構築されていた醉酒灣防線のほかに、香港島南岸には鉄条網が準備され、灯火管制の演習も繰り返されたほか、白人男性の徴兵も始まりました。

 また、1940年6月には、香港政庁は香港在住のヨーロッパ人の女性と子供をオーストラリアへ避難させるよう住民に命じています。“敵国”(名指しこそないものの、それが日本を意味することは明白でした)から攻撃を受け、香港が戦場となる可能性が高まっていると判断したからです。

 特に、1940年9月、日本軍が北部仏印に進駐し、米国を仮想敵国とする日独伊三国軍事同盟を結ぶと、日本と連合諸国の関係は一挙に悪化し、香港社会の緊張も一挙に高まりました。

 市街地の重要なビルには土嚢が積み上げられ、天星小輪(スター・フェリー)の船着場にはおびただしい数の砲台が並べられ、灯火管制の演習は頻度を増し、街頭の新聞スタンドの売り子は「我々は最後の血の一滴まで香港を守ってみせる」と豪語していました。また、根も葉もない噂に注意しようとの香港政庁のキャンペーンが展開され、それをもじって「不確かな情報は国家を危機に追いやる。代わりに、タイガー・ビールについて話をしよう」という広告がいたるところで見られるようになり、各種の戦時公債・基金の募集もさかんに行われました。今回ご紹介のカバーに貼られたラベルも、そうした状況の下で制作され、使用されたものです。

 ちなみに、日英開戦直前の香港の状況については、拙著『香港歴史漫郵記』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 武漢に行ってきます!
2019-06-06 Thu 00:36
 私事で恐縮ですが、11日から中国・武漢で開催される世界切手展<CHINA 2019>にコミッショナー兼審査員として参加するため、きょう(6日)夕方の飛行機で成田を発ち、武漢に向かいます。というわけで、こんな切手を持っていました。(画像はクリックで拡大されます)

      漢口書信館(1893)

 これは、1893年に発行された漢口書信館の切手で、天秤棒をかついだ茶葉売りが描かれています。作品はスーツケースに入れて持っていくので天秤棒は使わないのですが、現在、武漢市の一部になっている漢口に重い荷物を担いで行くイメージで取り上げてみました。ちなみに、武漢市はかつて武漢三鎮とよばれた武昌・漢口・漢陽の3地区を統合したもので、地理的には、長江の東岸が武昌、長江支流の漢水(漢江とも)南岸が漢陽、漢水北岸が漢口(現在の行政では江岸区、江漢区、礄口区)という位置関係になります。

 1842年、アヘン戦争の講和条約として南京条約が調印され、上海が開港されると、英国はさっそく租界(行政・治安を外国人が掌握し、清朝の主権が及ばない開港地内の地域)を設置します。これに続き、1847年に米国が上海に租界を設置(両者は1863年9月に合併)。さらに、フランスも、1849年、上海に租界を設置しました。

 これらの租界地区で行政機関として設けられていた(上海)工部局は、1863年2月、年50両(のちに30両に値下げ)を出資した外国人商社を対象に、郵便サービスを提供する機関として、いわゆる上海書信館を設置します。さらに、1865年以降は、郵便サービスを未加盟の商社や旅行者などにも拡大。これに伴い、利用者から料金を徴収するため、独自の切手も発行し始めました。その後、上海書信館は、1865年、寧波に分室を設けたのを皮切りに、漢口、福州、羅星塔、汕頭厦門、烟台、九江、宜昌、重慶、蕪湖、牛荘にまで郵便物の取扱を拡大。1893年5月、漢口の分局で、上海からの切手の供給が途絶えたのを機に独自の切手が発行しました。今回ご紹介の切手は、その1枚となります。

 その後、各地の書信館では、漢口に倣い独自の切手を発行するようになりましたが、書信館切手には、外国人相手の商品という面もあったため、ドイツや英国など、当時の最先端の印刷技術を持つ国々に製造が委託され、現地の風景・風俗などを取り上げたローカル色豊かな切手が多いのが特徴です。

 さて、今回の切手展の会期は11日からなのですが、会期前の7-9日に、審査員を対象とした講習会があり、僕もそれに参加することになりましたので、今日の出発となりました、なお、展覧会の会期は6月17日までで、作品をピックアップした後、18日に帰国の予定です。

 旅行中もノートパソコンは持参していますが、現地では、中国当局によるインターネット規制があり、このブログのように、fc2 で作成したサイトには、内容のいかんにかかわらず、ドメイン自体が規制対象となっています。その対策として、イモトのWIFI は手配したのですが、実際に現地で記事がアップできるかどうかは、現時点では不透明です。

 そこで、とりあえず、武漢到着後の明日(7日)から18日に帰国するまでの間は予約投稿しておいた記事を、毎日1本ずつ、公開していく体制を取ることにしました。もちろん、現地での更新が可能であればそうしますが、更新ができなかった場合、受賞結果を含め現地でのレポートは、帰国後のご報告になります。また、かようなお国事情ゆえ、メールの送受信に不具合が生じ、お問い合わせにも対応できないことがあるかもしれませんが、その場合には、あしからず、ご容赦ください。
 

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 世界の切手:パラオ
2019-06-05 Wed 04:18
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2019年5月1日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」は、今回はパラオ(と一部カンボジア)の特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      パラオ・2000ヤードの凝視

 これは、1995年にパラオが発行した“第二次大戦50年”の記念切手のうち、ペリリュー島の戦いに取材した絵画「Marines Call It That 2,000 Yard Stare(海兵隊はそれを“あの2000ヤードの凝視”と呼ぶ 以下、2000ヤードの凝視)」を取り上げた1枚です。

 第一次大戦後、旧ドイツ領ニューギニアのうち赤道以北の南洋群島は、国際連盟規約第22条による委任統治領として日本の支配下に置かれることになりましたが、国際連盟規約では、委任統治領に軍事的な根拠地を構築することが禁止されていたため、当初、パラオ本島(バベルダオブ島)には民生用の小さな飛行場があるだけでした。

 1933年、日本は国際連盟を脱退しましたが、委任統治領としての南洋群島に対する日本の支配は維持され、むしろ、パラオは軍事的な重要拠点のひとつとして整備が進められていきます。

 たとえば、1937年にはパラオ本島飛行場の拡張とペリリュー島に飛行場の新規建設が開始され、1941年の太平洋戦争開戦時点で、ペリリュー島には1200m滑走路2本の飛行場が完成しており、ペリリュー島とカドブス島の間は桟橋で結ばれていました。

 こうした軍事拠点化に伴い、軍人軍属や彼らを相手にビジネスを行う人々、その家族などが移住し、1943年の時点で、パラオの人口は3万3000人(その7割は日本本土、沖縄、日本統治下の朝鮮や台湾などからの移住者)にまで拡大。日本語教育を行う学校も設けられています。

 1941年、大東亜戦争が勃発すると、パラオは日本軍のソロモン、ニューギニア方面の後方兵站基地となったため、1944年3月、連合国はニューギニアのホーランディア攻略作戦に先立ち、パラオに対する空襲を行いました。そこで、同年4月、日本軍は新設の第31軍の下、パラオ防衛体制の強化に乗り出します。

 これに対して、フィリピンの奪還に向けてニューギニア北岸を西進していた連合軍は、ペリリュー島とアンガウル島の飛行場確保を目指して、攻略作戦を開始しました。

 1944年9月15日、米軍はパラオ諸島への侵攻を開始し、第1海兵師団をペリリュー島に上陸させ、数日のうちに飛行場を確保。これに対して、装備において圧倒的に劣っていた日本軍1万1000名は、米軍の打撃を最大にするべく、島の山地(最高約90m)の自然洞窟等に構築した陣地から反撃し、米第1海兵師団に大きな打撃を与え、同師団は10月末に陸軍第81歩兵師団と交代して撤収しました。

 その後、日本軍は11月27日に玉砕し、米軍は掃討作戦の終結を宣言しましたが、日本軍が小島に立てこもって2ヶ月以上にわたり抵抗を続けることができた経験は、日本の島嶼防衛方針に大きな影響を与え、その後の硫黄島沖縄の防衛戦に生かされることになります。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた「2000ヤードの凝視」は、米軍の従軍記者で画家のトム・リーが、ペリリュー島の戦いに参加し、過酷な体験をした海兵隊員の肖像画として制作したもので、『ライフ』誌1945年6月号に発表されました。発表当初、誌面には作品の題名は表示されていませんでしたが、その印象的な画面から、後に“1000(または2000)ヤードの凝視”は、戦場の恐怖によって解離状態になり、感情が麻痺した兵士が持つ、うつろで焦点の定まらない眼差しを指す用語として定着します。なお、おりじなるの作品は、現在、ワシントンD.C.の米陸軍戦史センターの収蔵品です。

 さて、 ペリリュー島の戦いの後、米軍は9月17日にはアンガウル島に上陸し、10月21日までに同島を制圧。この間、10月15日から、米軍は同島の飛行場の使用を開始しています。また、パラオ本島には米軍の上陸はなく爆撃のみでした。

 ペリリューの戦い以後、1945年8月の日本軍降伏まで、米軍による南洋諸島での大規模な軍事行動は起こりませんでした。しかし、米軍によって日本本土との補給線を断たれた孤島では飢餓が蔓延し、多数の餓死者が発生したことは見逃せません。

 なお、大戦後、パラオを含む旧日本委任統治領の南洋群島は、国際連合により米国を施政権者とする信託統治に付され、1994年のパラオ共和国独立まで、米国の支配下に置かれていました。

 さて、、『世界の切手コレクション』5月1日号の「世界の国々」では、ペリリュー島の戦いを中心とした長文コラムのほか、日本・パラオ友好橋、世界遺産ロックアイランドの切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のパラオ(と一部カンボジア)の次は、5月1日発売の同8日号でのエスワティニ(と一部ギニアビサウ)、6月5日発売の同12日号でのボツワナ(と一部ルワンダ)の特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。

 *昨日(4日)の本荘法人会講演会 「切手で読み解く国際政治」は、無事、盛況のうちに終了いたしました。ご参加いただいた皆様、開催の労を取っていただいたスタッフの方々には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。
      

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 豪、ソロモン諸島に188億円支援 
2019-06-04 Tue 03:15
 オーストラリアのモリソン首相は、きのう(3日)、訪問先の南太平洋のソロモン諸島でソガバレ首相と会談し、「太平洋島嶼国の平和的な独立と主権のための支援」を表明。今後10年間で2億5000万豪ドル(約188億円)の経済支援やソロモン諸島首相府の建築補助などを約束しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島・郵便史

 これは、1970年、英領時代のソロモン諸島が発行した“(ガダルカナル島ホニアラの)中央郵便局新庁舎完成”の記念切手で、ソロモン諸島初期の郵便印と現地で使用されていたニュー・サウス・ウェールズの切手が描かれています。

 1893年に英領となったソロモン諸島には、1896年に弁務官としてチャールズ・モリス・ウッドフォードがツラギに派遣されましたが、当初、この地域では近代郵便は実施されておらず、外部との通信は幸便に託され、オーストラリアに持ち込まれた後に、持ち込んだ人が差出人から預かったお金で切手を購入して投函するという形式が取られていました。
 
 このため、ウッドフォードはニューサウスウェールズ切手を持ち込んで欧米系の住民に販売。ニューサウスウェールズ切手を貼った郵便物はツラギに集められた後、一括してシドニー郵便局長宛に送られ、シドニーで消印された後宛先地に届けるという方式が採用されます。

 ウッドフォードは、ソロモン諸島独自の切手発行を目指して、1903年、フィジー駐在のイギリス太平洋地域の高等弁務官ヘンリー・ジャクソンに対して、ニュー・ヘブリデスギルバート&エリスの先例に倣い、フィジー切手に“Solomon Islands”と加刷した切手をソロモン諸島でも使用したいと申し出ましたが、却下されてしまいました。ただし、1906年になると、ツラギでのニューサウスウェールズ切手の販売は停止され(今回ご紹介の切手で、ニューサウスウェールズ切手の下に1896-1906の年号が入っているのはこのためです)、代わりに、切手の左側に描かれているような“BRITISH SOLOMON ISLANDS PAID”の印が使用されるようになります。この印が押された郵便物は、シドニー以遠の料金相当の小切手とともに一括してシドニーに送られ、シドニーでニューサウスウェールズ切手を貼り、宛先地へ届けられるようになりました。

 こうした経緯を経て、翌1907年2月、ウッドフォードはシドニーのW.E.スミス社に切手の製造を委託し、地元のカヌーを描くソロモン諸島最初の切手が発行されています。

 ところで、ソロモン諸島は、1978年の独立後、1983年に中華民国(以下、台湾)と国交を樹立。台湾が外交関係を有する太平洋の国6カ国のうち、同国は面積(2万8450平方キロ)、人口(約60万人)ともに最大の国となってきました。

 ところが、近年、中国が台湾を外交的に追い詰めるべく、ソロモン諸島への進出を急速に拡大。この結果、中国はソロモン諸島の輸出額の6割超を占め、貿易相手国として第1位となりました。こうした背景の下、台湾と断交して中国との国交樹立を求める勢力も伸長し、4月に発足した現在の連立政権の与党議員中にも、半年以内に中国と国交を樹立しなければ不信任案を提出すると圧力をかけている者もあるほどで、ソロモン諸島が外交関係を台湾から中国に切り替えれば、地域でドミノ現象が起きることが懸念されています。

 このため、歴史的に太平洋島嶼国を“縄張り”としてきたオーストラリアは近年の中国の動きに対して敏感になっており、2017年、中国の通信機器大手、華為技術(ファーウェイ)がソロモン諸島に高速インターネットの敷設を提案した際は、直ちに対抗策を提案。1億3700万豪ドル(約103億円)を投じ、パプアニューギニアを含む海底インターネットケーブルを建設しました。今回の経済支援も、こうした過去の経緯を踏まえてのことです。

 さて、ソロモン諸島といえば、日本人にとっては先の大戦中のガダルカナルの戦いのイメージが強いのですが、1568年にスペイン人が上陸して以来の歴史をひも解いてみると、いろいろと興味深いエピソードがあります。いずれそれらをまとめて、いままでとはちょっと違った視点から、複合的に“ガダルカナル”の過去と現在を考える物語を書いてみたいと思っているのですが…。


★★ 本荘法人会講演会 「切手で読み解く国際政治」 ★★

 2019年 6月4日(火) 14:00-15:30
 会場:安楽温泉

 主催は本荘法人会で、入場は無料ですが、事前のお申し込みが必要になります。お問い合わせは、本荘法人会(TEL0184-24-3050)までお願いします。


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 エルサルバドルで新大統領就任
2019-06-03 Mon 02:08
 中米のエルサルバドルで、1日(現地時間)、2月の大統領選に勝利した親米派、ブケレ新大統領の就任式が行われました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      エルサルバドル最初の切手

 これは、1867年に発行されたエルサルバドル最初の切手です。

 現在のエルサルバドルに相当する地域は、1560年以降、グアテマラ総督領としてスペインの植民地支配を受けていましたが、1821年9月15日、グアテマラ総督領で独立戦争が勃発すると、翌16日、アグスティン・デ・イトゥルビデ皇帝の第一次メキシコ帝国に他の中央アメリカ諸国と共に併合されました。その後、1823年、メキシコ帝国の崩壊に伴い旧グアテマラ総督領の五州は中央アメリカ連合州として独立し、1824年には中央アメリカ連邦に加盟したものの、1841年には中米連邦の瓦解にともない“エルサルバドル”として独立しました。

 独立後のエルサルバドル独自の郵便制度は、1851年10月26日に発足し、1857年までに郵便網は全土をカバーするようになりました。この間、1852年にホンデュラスニカラグア、エルサルバドル3国間で郵便交換条約が結ばれています。さらに、1865年、グアテマラとの郵便条約締結により、エルサルバドルとボリビアコロンビアエクアドルペルーベネズエラとの郵便交換も可能となりました。

 エルサルバドル最初の切手はニューヨークのアメリカン・バンクノート社製で、完成品は同年12月17日に納品されました。発行日は1967年1月17日とされていますが、実際に、エルサルバドルで郵便物への切手の貼付が義務付けられたのは、同年3月1日以降のことでした。

 切手は、当時の国章にも描かれていたイサルコ火山と、その周囲に当時のエルサルバドル11州を象徴する11の星を配した図案で、半レアル、1レアル、2レアル、4レアルの4額面は同図案の刷色違いとなっています。


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 2019年 6月4日(火) 14:00-15:30
 会場:安楽温泉

 主催は本荘法人会で、入場は無料ですが、事前のお申し込みが必要になります。お問い合わせは、本荘法人会(TEL0184-24-3050)までお願いします。


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      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
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 サハリンにチェーホフ空港
2019-06-02 Sun 00:12
 ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、おととい(31日・現地時間)、サハリン・ユジノサハリンスクのホムトヴォ空港を、アントン・チェーホフ空港に改称する大統領令に署名しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・チェーホフ生誕80年

 これは、1940年にソ連が発行したチェーホフ生誕80年の記念切手です。

 ロシアの文豪、アントン・チェーホフは1860年生まれ。1884年にモスクワ大学医学部を卒業して医師の資格を得た後、医師と作家の二足のわらじの生活を送っていました。当初、彼は生活費を稼ぐために短篇のユーモア小説を量産していましたが、1886年に老作家ドミートリイ・グリゴローヴィチの忠告を受けて本格的な長篇に取り組み、1887年、初の本格的な長編戯曲『イワーノフ』を発表。その成功により、一躍、文壇の寵児となりました。

 その後、チェーホフは1890年4月から12月まで、サハリン(当時は全島がロシア領)での流刑囚の実態調査のため、モスクワから9000キロの大旅行を行い、サハリンから戻った後、道中の記録や調査の結果を『シベリアの旅』、『サハリン島』として順次発表していきます。この『サハリン島』が作家チェーホフの天気になったとする専門家は多く、今回、ユジノサハリンスクの空港に彼の名前が付けられたのもそうした事情によるものです。

 ちなみに、チェーホフはサハリン行きの途中、ハバロフスクに立ち寄り、帝政ロシア駐屯軍の将校集会所が置かれていた建物の特別室に宿泊しました。その建物は、現在、極東美術館として利用されており、入口のところにはチェーホフがここに宿泊したことを示すレリーフも掲げられています。このあたりの事情については、拙著『ハバロフスク』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 2019年 6月4日(火) 14:00-15:30
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 おかげさまで14周年
2019-06-01 Sat 01:04
 おかげさまで、2005年6月1日にこのブログをスタートさせてから、14年が過ぎました。日頃、このブログを応援していただいている皆様には、あらためて、お礼申し上げます。 というわけで、きょうは額面14のこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ウルグアイ・ドーマ

 これは、1954年にウルグアイが発行した14センテシモ切手で、ドーマを行うガウーチョが描かれています。

 ドーマは、荒馬に乗り、馬が振り落とそうと跳躍する間、どれだけの時間、よい姿勢で、馬の背に乗っていられるかを競い合う競技で、米国のカウボーイのロデオとほぼ同じです。

 ドーマを行う者は、現在でも、伝統的なガウーチョ(ガウチョとも)の紛争をします。ガウーチョは、アルゼンチンやウルグアイなど、パンパやアンデス山脈東部でかつて牧畜に従事していたスペイン人と先住民などとの混血住民のこと。彼の地では、“富と気高さを備えた自由な騎手”にして“洗練されていない無骨者”、すなわち、男らしさの象徴として、現在でも“ガウーチョらしい”という表現は、寛大で、他人のために自己犠牲を惜しまない人に対する褒め言葉とされています。
 
 荒馬を乗りこなすガウーチョのイメージは、スペインからの独立戦争を指揮したシモン・ボリバルの“馬上の革命戦士”というイメージとも結び付き、現在でも、ラテンアメリカでは人気のあるモチーフです。アルゼンチン出身で、ラテンアメリカの革命に殉じたチェ・ゲバラもまた“ガウーチョらしさ”を備えた英雄のイメージで語られることがあります。このあたりについては、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。


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